2010年07月01日 20時00分02秒

「ねえ、『天』にしようよ、子供の名前……」
 病室を去ろうとした純平を、妻の香苗が呼び止めた。純平が振り返ると、ベッドから身を起こして香苗は少し寂しそうにしている。
「『天』って、男でも女でもか?」
「そうよ、女の子でも『天』。てんちゃんって可愛いじゃない、音の響きが」
「それで、名前の意味は?」
「へへへ。内緒」
「内緒ってお前……」
「明日の手術がうまくいったら教えてあげる」
「わかったよ。『天』か……、確かに響きは悪くないな」
「ねっ、そうでしょ」
 香苗がやっと笑ってくれた。手術が相当不安だったのだろう。それもそのはず、明日は癌の手術なのだから。
 香苗の妊娠が判明したのは、ちょうど四ヶ月前だった。そしてその検査の際に、右の乳房にしこりがあることがわかった。検査の結果、初期の乳癌だった。
 出産と乳癌――どちらへの対応を優先するかと聞かれた時、香苗は迷わず出産を選択した。
『せっかく私達に授かった命なんだから、優先させるのは当たり前じゃない』
 彼女の頭の中には、子供を堕胎して癌治療を優先させるという選択肢は無かった。
 しかし、癌を全く放置するわけにもいかない。お腹の子供の状態が落ち着いてきたら、右の乳房切除の手術を受けることになった。それが今回の手術である。
 乳房切除手術は全身麻酔を伴う。麻酔と言っても百パーセント安全というわけではない。十万件に一人くらいは死亡例があるという。それにお腹の子供にも全く影響が無いとは言い切れないのだ。
 だから香苗には拠り所が必要だった。それがお腹の子供――いわば、一緒に手術を乗り越える戦友だ。しかしその戦友にはまだ名前が無い。これでは呼びかけることも、励まし合うこともできない。香苗には、早急に子供の名前が必要だった。
「てんちゃ~ん、ママは明日の手術、頑張りまちゅからね、あなたも頑張ってくだちゃいね……」
 お腹の子供に呼びかける香苗。元気が出てきたようでなによりだ。
「じゃあ、明日頑張れよ」
「うん、わかった。また明日ね……」
 もうすぐ消灯時間だ。手を振る香苗に安心した純平は、一人病室を後にした。

 翌日。手術は無事に成功した。お腹の子供にも問題は無いという。
「てんちゃーん、てんちゃーん……」
 手術室から病室に戻った香苗は、麻酔で朦朧とする意識の中、子供の名前を呟き続けている。純平は香苗の手を握り締めながら、本当は自分の名前を呼んでほしかったと小さな命に嫉妬を感じていた。
 夕方になると、香苗への麻酔の影響はほとんど無くなっていた。そこで純平は、気になっていたことを香苗に聞いてみた。
「それで、『天』の名前の意味なんだが……」
「教えてほしい?」
 ベッドに横になったまま純平の目を見つめる香苗。苦行を終えた後の僧侶のようなさっぱりとした顔も、また素敵だった。
「別にいいけど……」
 純平が拗ねると、香苗が無邪気に笑う。
「冗談よ、冗談。名前の由来はね、私達二人で頑張って授かった命だから『天』なの」
 香苗は顔を少し赤くしながら言葉を続ける。
「ほら、『天』という字は、『二人』という漢字を組み合わせるとできるでしょ……」
 いや、『二』と『人』を組み合わせたら『夫』なんじゃないか? と突っ込もうとして、純平は口を閉じた。癌の告知を受けてから沈みがちだった香苗が、こんなにも明るくなった。手術が成功したこともあると思うが、子供に『天』という名前を付けたことが大きな転機になっている。そんな香苗の心の拠り所を壊したくなかった。
 それに、純平には『二人』そして『夫』という文字に心当たりがあった。二人目の夫――それは純平自身の事だった。
 香苗には離婚歴がある。前の夫の暴力が原因だ。それでも離婚するまでは、香苗は必死に努力しようとした。夫に嫌われないように、夫に尽くすように心がけた。逆にそのことが香苗を追い詰め、最後は心が折れた。男性恐怖症に陥った香苗を救ったのは純平だった。
「どうしたの、純平?」
 香苗の声で純平は我に返る。
「そうか、『二人』という漢字を組み合わせて『天』か。よく考えたな」
 慌ててフォローしながら、どこか上の空であることを気付かれていないか純平は心配する。
「へへへ。てんちゃ~ん、パパもいい名前って言ってくれまちたよ~」
 お腹をさすりながら素直に喜ぶ香苗。ほっとした純平は、少し後ろめたい気持ちを残して病室を後にした。
 病院を出た純平の髪にそよぐ夜風は心地よかったが、足取りは重かった。自宅に着くと、誰も居ないマンションの部屋は暗く静まり返っている。香苗と結婚してからこんなことは初めてだった。一人でご飯を食べて、一人で風呂に入って、一人で寝る。布団の中で考えるのは、『天』の名前の由来だった。
「『二人』の漢字を組み合わせると……、か……」
 純平の頭の中には、どうしても『天』という文字が浮かんでこなかった。その代わりに現れるのは『夫』の文字だ。これは、『天』という名前を心が受け入れていないからなのだからだろうか。しかしそれはなぜだろう……
 考えた末に純平が到達したのは、香苗が選択した癌治療の方針に対する不満だった。香苗には癌治療に専念してほしい。しかしそれには堕胎手術が必要だった。消えてしまうかもしれない『天』という小さな命。その名前に愛着を持たない方が悲しみが少なくて済むと、知らず知らずに心にブレーキをかけていた。

 香苗が退院して二週間後。癌手術で切除した部分の検査結果が出た。
 それは思わしいものではなかった。幸い、リンパ節などへの転移は見つからなかったが、予想以上に癌の広がりが大きかったという。取り残した癌細胞があるかもしれないからすぐにでもホルモン療法を受けた方が良い、と主治医は勧めた。しかしその場合、お腹の子供は諦めなくてはならない。もう妊娠してから五ヶ月になる。堕胎手術を行うにはギリギリのタイミングだ。
「絶対イヤ。てんちゃんは誰にも殺させない」
 香苗は聞く耳を持たず、自宅に戻った二人は口論となった。
「だって、病院の先生もすぐにホルモン療法を行った方がいいと言っていただろ?」
「この子を産んで、それから左の乳房でおっぱいをあげて、その後でやる」
 ホルモン療法とは、女性ホルモンを絶つ癌の治療方法だ。一般に乳癌の多くは、女性ホルモンを餌にして成長する。香苗の場合もこのようなタイプの癌だった。ホルモン療法では薬で女性ホルモンの分泌を抑え、癌細胞を兵糧攻めにするのだ。
 一方、出産は女性ホルモンを大量に分泌する行為である。つまり出産を優先させるということは、その間はホルモン療法ができず癌治療が遅れることになる。もし手術で取り残した癌細胞があった場合、出産の間に癌は香苗の体を蝕んでいくかもしれない。
「聞き分けの無い奴だな。お前の体のことを大切に思うから言ってるんだろ。子供は癌治療の後でもいいじゃないか。それに、てんちゃん、てんちゃんと言うのも止めろ。『二人』という漢字を組み合わせたら『天』じゃなくて『夫』じゃないかよ!」
 純平が声を荒げると、香苗は身をすくめた。ダメだ、これでは前の夫と同じだ。
「ゴメンね、ゴメンね……」
 ついに香苗は泣き出してしまった。

 しばらくして香苗が落ち着くと、彼女はぽつりぽつりと胸の内を話し始めた。
「私ね、純平に救われたの。だから感謝してる」
 純平が香苗と知り合った頃、彼女は男性の顔をまともに見れない状態だった。
「あなたは私の話を一つ一つ聞いてくれたよね。そしてちゃんと目を見てくれた」
 純平は香苗の目を見ることに重点を置いた。言葉ではダメだ、前の夫と同じになってしまう。前の夫の失敗は、ちゃんと目を見て話さなかった事だ。純平はそこに、凍りついた香苗の心を溶かす糸口があると信じた。
「そして目と目を通じて、あなたの気持ちが私の中に流れ込んできた。この人とならうまくやれると思ったの」
 そして二人は結婚した。
「セックスも正常位ばかりでゴメンね。でもね、私はあなたの目を見ながらしたかったの。初めてセックスが気持ちいいと思った。そして、てんちゃんがお腹の中にできた……」
 香苗は立ち上がり、紙とペンを持って戻ってきた。そして、純平と向き合うようにテーブルに座る。
「ねえ、『二』という漢字を書いてみて」
 言われる通り、純平は紙に『二』と書いた。  すると、香苗が反対側から『人』と書いて二つの文字を組み合わせる。それをくるりと半回転させると――そこには美しい『天』の字が完成していた。
「そう、あなたの言う通り、『二人』を組み合わせても『夫』になってしまう。それはね、夫婦が向き合っていないからなの。そして私は最初の結婚に失敗した。しかしあなたは教えてくれた、夫婦でちゃんと向き合うってことを。そして授かった初めての子供。だから『天』なの」
「香苗……」
 純平は香苗を抱きしめたい気持ちで一杯になる。
「あっ、動いた!」
 その時、香苗の声が響く。どうやら胎動を感じたようだ。
「ほら、てんちゃんが動いたよ。てんちゃんが……」
 香苗の喜ぶ姿に、てんちゃんの顔が早く見たいと純平は強く思った。



ショートストーリーファイトクラブ 第15回「天」投稿作品

同窓会2010年07月02日 21時41分21秒

『博と孝へ。元気? 今夜はどう?』
 高校の同級生だった稔から、孝と俺宛に携帯メールが届く。
『OK。博は?』
 すぐに孝から返事が来た。二人が乗り気なら俺も参加しなくてはなるまい。
『大丈夫。じゃあ二十四時からでいい? 場所は稔が決めてくれ』
 俺は稔と孝にメールを打つ。
『了解。いい場所選ぶから楽しみにしとけよ』と稔。
『OK。頼んだぞ、稔』と孝。
 さあ、今夜は久しぶりの同窓会だ。参加者は稔と孝と俺の三人。妻や子供達を早く寝かさないといけない。

 二○一五年。テレビは壁掛けタイプが主流となった。地デジの利用は伸び悩み、ほとんどの人がネットでテレビを見る時代。ネット接続会社は、制作会社が作成した番組を提供するだけにとどまらず、新たなコンテンツやサービスを次々と開発していた。
 そんな中、登場したのが月影ネットの「同窓会」というサービスだ。世界のどこかの窓から撮影された映像をただ流すだけのサービスだが、静かなブームを呼んでいる。壁掛けテレビで見るその映像はまさにそこに窓があるかのような錯覚を覚え、その体験を複数の人々で共有できることから「同窓会」と呼ばれている。「パリのカフェ」、「長距離鉄道」、「高層ビルの夜景」などが人気で、同じ景色を眺めている人達同士でチャットやツイッターを楽しむのが流行となっている。
 そう、俺達三人も、この「同窓会」サービスを楽しんでいるのだった。

「よし、みんな寝たな……」
 二十四時前になると、妻も子供もみんな寝てしまった。  俺は壁掛けテレビを付けると、チャンネルを月影ネットに合わせる。そして同時にパソコンも起動して、いつものチャットに入った。稔と孝はすでにチャットに参加していて俺を待っていた。
『孝:おい、博。遅いぞ』
『博:悪い。稔、今日はどこにするんだ?』
『稔:今日はな、桜ヶ丘女学院テニス部だぜ。有料チャンネルNo.315でよろしく』
 「同窓会」サービスはそのほとんどが無料だが、一部のコンテンツは有料となっている。俺たちがいつも見ている「女子校テニス部」のコーナーは、二時間百円のサービスだ。
 俺は早速、テレビを月影ネット有料No.315に合わせる。有料についての確認が表示され、俺はそれを了承した。すると、女子高生がテニスをしている風景が、窓から見ているように映し出された。俺達は酒を飲みながら、どの娘がかわいいだのとチャットを楽しむのだ。
『稔:おっ、練習試合が始まるぞ』
『孝:本当だ。ポニーテールと眼鏡っ子の対決だ』
『博:じゃあ、賭けようぜ。俺はポニーテール』
『稔:なんだよ、ポーテールの方が強そうじゃんかよ』
『孝:俺、眼鏡っ子』
『博:はははは。それにしても俺達ってやってることが高校時代と変わんねえな』
『稔:みんな、おっさんになっちまったけどな』
 そんな風にわいわいやっていると、三人でバカをやっていた高校の時を思い出す。それが俺達の密かな楽しみだった。


 そんなある日、月影ネットから三人にメールが届いた。
『平素から弊社の同窓会の有料サービス「女子校テニス部」をご利用いただきありがとうございます。そのお礼といたしまして、今週末土曜日の二十四時から一時間限定の特別メニューをNo.794にて無料で提供したいと思います。どうぞこの機会を逃さずにお楽しみ下さい』
 すぐに稔から携帯メールが来た。
『おい、博と孝。メール見たかよ』
『見た見た。週末が楽しみだな』と孝。
『じゃあ、土曜は二十四時から同窓会な』
 俺もメールで返事をした。

「よし、みんな寝たな……」
 いつものように家族の就寝を確認して、俺はテレビを付ける。今日は月影ネットから特別メニューが提供される日だ。チャットからも稔と孝の興奮が伝わってくる。
『稔:楽しみだな』
『孝:どこのテニス部なんだろう』
『博:さあ。でも特別メニューなんだから期待できそうだぞ』
 二十四時を過ぎるとテレビの画面が切り替わり、女子高生がテニスをしている映像が流れ始める。
『稔:おお、すごい!』
『孝:ブ、ブルマーだ!』
『博:こいつはレアものだぞ』
『稔:この映像、なんか古くないか?』
『孝:でも、女の子は可愛いぞ』
『博:俺、今試合をやってる娘が好みだな』
『稔:なんか見た事のある風景なんだけど……』
『孝:俺は、右側で球拾いをしてる娘がいいと思うぞ』
『博:そうかぁ? あれ、孝のかみさんに似てるんじゃねえのか』
『稔:なんか嫌な予感がするぞ……』
『孝:そういう博も同じだぜ。試合をやってる娘は博のかみさんそっくりだぞ』
『博:ええ? 試合の娘の方が若くて可愛いぞ』
『稔:ちょっとマズイ。かみさんに見つかったかも。あっ』
『孝:こっちもだ。博も気をつfghjkl』
『博:どうした、みんな。大丈夫か?』
 背後に人の気配を感じて振り向くと、妻がにやにやしながら立っていた。
「どう? あんた達がいつも見ている女子高生より、私達の方がずっと魅力的でしょ?」
 そう言って、妻はテニス部が映し出された壁掛けテレビの方を見る。
 えっ? 私達って――どういうことだ?
「あんた、まだわかんないの。幸せな人ねえ。あんたは今、私達の高校時代の映像を見てんのよ」
 なんだって!? どうりで見たことのある風景だったわけだ。
 高校時代の俺達三人は、毎日テニス部を窓から眺めながらわいわいやっていた。そして、その中から気に入った女の子にそれぞれアタックして、それがきっかけで三人は結婚したんだっけ。
 そっか、これは妻達に仕組まれた罠だったんだ……
「それにしても、顧問の先生が沢山ビデオを撮ってくれていて良かったわ。こんなところで役に立つとはね。ブルマー姿ってレアものらしくて、結構高く売れたのよ。あんた達が夜な夜な女子高生を見てなければ、売るなんてこと思いつきもしなかったんだけどね」
 げっ、バレてたんじゃん。きっと他の奴らも、同じように妻達にとっちめられているに違いない。
「そうそう、来週からは有料だからよろしくね。人気が出れば、お小遣いを貰えるそうなの。楽しみだわ」
 やはり妻達の方が上手だった。でもいっか。好きになった人の若い頃の姿を見ながら酒を楽しむのも悪くない。なんだか本当の同窓会みたいだし……

謎の段ボール管理室長2010年07月04日 22時45分10秒

「ねえねえ、茜ちゃん、知ってる?」
「なんですか、室長?」
「ある人が犬に猫じゃらしをあげました。さあ、猫はどう感じたでしょう?」
「さあ?」
 また始まったよ、いつもの室長のアレが……
「ぶっぶー。答えは、猫ジェラシー、なんちゃって~」
 げっ、またオヤジギャグだよ。っていうか、私、答えなんて言ってないんだけど。

 私が段ボール管理室に配属されたのは一週間前のこと。そこで、この変な室長に出会うわけなんだけど、その出会いまでの間にもいろいろな困難が待ち受けていたというわけ。
『オマエ ワ ライゲツ カラ ダンボールカンリシツ キンム ダ』
 発端はこの不審なメール。後で、差出人は室長だったことが分かるんだけど、最初は戸惑ったよ。ブラックメールかと思っちゃう書き方だったしね。
 でも私はめげなかった。早速、返事を書いてやったわ。
『あんた誰? それに段ボール管理室ってどこよ?』
 するとすぐに返事が来たの。
『バショ ワ ジュウサンカイ。ダレカ ワ クレバ ワカル』
 あまりにも怪しいから、友人の舞にもメールしてみたんだけど……
『えっ、そこって、栄光の十三階段ボール管理室じゃない。我が社の重役は皆、過去に一度はそこに配属されてるって話よ』
 それなら行くっきゃない。
 早速、私は庶務課を出ると、エレベーターに向かった。
「えっ!?」
 驚いたね。我が社のエレベーターは十二階までしかないことを初めて知ったわ。でもこんなことで負ける私じゃない。とりあえず十二階まで行ってみると……
『段ボール管理室はこちら』
 上りの階段にそんな張り紙があったのよ。まあ、階段に上りも下りもないんだけどさ。
「マジ。階段?」
 私はちょっと憂鬱だったね。だって十三階勤務になったら、毎日この階段を登らなくちゃいけないじゃない。
 でもそこは栄光の十三階勤務。もっと気持ちをポジティブに保たなきゃ。きっと私は試されてるのよ。最近体脂肪が気になっていたから、ダイエットと思えばいいじゃない。
 そうやって折角前向きになったというのに、階段を登りきったところにある重い鉄の扉を開けて、私はまたくじけそうになった。
 炎天下の屋上――その陽炎の中に、一軒のプレハブ小屋がゆらゆらと揺れている。
「あれが、段ボール管理室?」
 猛暑の中、私は屋上に一歩踏み出した。じわりと額に浮き出てくる汗。これでは一日に何度もお化粧を直さなくてはならないじゃないの。もう、やけくそだわ。
 やっとのことでプレハブにたどり着くと、ドアのプレートに『段ボール管理室』と書かれていた。
「どうぞ」
 ノックをすると声がする。意外と若そうな印象の声。
「失礼します。庶務課の鈴木茜です」
「来たかね。私が君にメールを出したここの室長だ」
 プレハブに入るとそこはガンガンにクーラーが効いていた。砂漠の中のオアシスって、きっとこんな感じなのね。所狭しと並んだアングルラックには、びっしりと段ボールが収納されている。入り口の近くにわずかな事務スペースがあり、声はその衝立の向こう側から聞こえてきた。
「来月から来れるかね」
「はい、分かりました」
 もしクーラーが無かったら一瞬で断わろうかと思っていたんだけど、地獄のような暑さを味わってすっかり弱気になっていたのね。まるでそこが天国のように思えてしまったの。
「よろしい。あと、私には決して近寄ってはならん。衝立を超えてこちらを覗いてもいかん。もしそれが守れなければ次の昇進は無いと思え」
 なんだか怪しさ千パーセントって感じだったけど、キャリアパスのためならしょうがない。こうして、この変な室長との仕事の付き合いが始まったの。

 仕事の内容は簡単だったわ。一言でいうと段ボールの在庫管理。必要な部署に発送して、足りなくなると注文する。段ボールの出し入れは専門の人がやってくれるから、私はほとんど動かなくていいの。屋上に出なくてもいい。唯一、在庫チェックで棚の段ボールを数えなくちゃいけないのが大変だったけど。
 そんな時に、室長がアレが出たのよ。アレが……
 そう、それは、私が脚立に乗って、棚の上の方にある段ボールを数えていた時のこと。
「きゃっ!」
「どうした、茜ちゃん」
「私、脚立に乗るのが苦手で……」
「じゃあ、茜ちゃんはでんでん虫だね」
「へっ?」
 何を言われているのかさっぱり分からなかったわ。でもこれが室長の得意技の始まりだったの。
「脚立無理~。なんちゃて」
 そんなこと言ってる暇があったらお前がやれよ、と私が唖然としてたら、室長のやつ、追い討ちをかけてきたわ。
「あれ、今の面白くなかった? 『かたつむり』と『脚立無理』をかけてみたんだけど」
 いや、わかってますって。オヤジギャグでしょ。
「すごい、室長ってなかなかセンスありますね」
 私も若かったのね。今より数日間だけど。栄光の職場と聞いてなかったら、私だってこんなこと言ってなかったわよ。

 昨日だって室長のアレが炸裂したの。
 商品発送課に光男ってすげぇ神経質なやつがいるんだけど、段ボールのサイズが数ミリ小さいとかなんとかうるさく言われた時に、室長が私にこう指示したのよ。
「そいつの課長に、そのドアのところにある酒を持っていけ」
 私は指示通り、そのお酒を持って行ったわ。
「ほお、梅酒だね。なかなか高級そうじゃないか。用件は君の室長から聞いている。分かったよ、光男君には言っておくから」
 室長にしては中々気が利いた対処をするもんだと思っていたら、彼、何て言ったと思う?
「やっぱ買収するなら梅酒だよね。なんちゃって~」
 ここまで来ると凄いよね、オヤジギャグも。ちょっとウザイけど尊敬しちゃう。

 でも室長っていったいどんな人なんだろう? 一週間も一緒に勤務しているのに、まだ一度もその姿を見たことがない。
 そこで私は、こっそり衝立の向こうを覗いてみることにしたの。すると――あれ? 誰もいない。
「ははははは。覗いちゃダメだって言ってるだろ。風とともに去りぬ、なんちゃって~」
 段ボール棚の奥から室長の声が響いてくる。
 ええい、こうなったら勝負だ。彼が姿を見せるまで、追いかけてやるんだから……



「どうだい、最近の鈴木茜は?」
「ちょっと病状が進んできたので屋上勤務にしたのですが、なかなか上手くやっているようですよ」
「今度はどんな人格が出てきたのかね?」
「そうですね、今までの舞という同僚に加えて、室長というキャラクターを創り上げたようです」
「ほほお、それはどんなキャラクターなのか知ってるかね?」
「どうやら、オヤジギャグが得意な人格らしくて……」



即興三語小説 第62回投稿作品
▲お題:「栄光の十三階段」「憂鬱だ」「体脂肪」
▲縛り:「ギャグ」「うざい奴を脇役に一人登場させる(任意)」
▲任意お題:「猛暑」「風とともに去りぬ」「ブラックメイル」「解離性同一性障害」「猫じゃらし」「かたつむり」「梅酒」

2010年07月14日 22時23分05秒

 街を歩いていた岡野健治は、突然、強い揺れに襲われた。
 ――地震だ。しかも大きい。
 とても立っていられず、健治は歩道に膝をついて四つん這いになる。すると、前方からゴゴゴゴゴという地鳴りと「助けてくれ!」という男の人の叫び声がした。揺れに耐えながら前を見ると、アスファルトから男の人の手だけが地表に飛び出している。どうやらその人は、道に開いた穴に落ちてしまったらしい。辛うじて片手一本で地面を掴んでいるのだが、今にも力尽きそうだ。
「まずい、このままでは落ちてしまう」
 健治は這うようにして穴のところに行き、彼の手を掴もうと手を伸ばした。しかし――
「ああああぁぁぁぁ……」
 健治が掴んだのは彼の上着の袖だった。彼の手はするりと上着をすり抜けてしまい、体は穴に落ちてしまった。健治は穴の中を見ようとしたが、揺れている状況では自分も落ちてしまいそうだ。仕方なく、揺れがおさまるまで健治は地面に這いつくばってじっと我慢した。
 揺れがおさまり健治が立ち上がると、目の前に深い穴が広がっていた。直径は二メートルぐらいだろうか。中は暗くて深さが全く分からない。
「大丈夫ですかーーっ!!?」
 健治は穴の前に跪くと、暗闇に向かって思いっきり叫んだ。しかし返事は何も聞こえない。
 残されたのは、健治が掴んだ男の人の上着だけだった……

 健治が警察と消防に連絡をすると、警察官とレスキュー隊がやってきた。
「僕が手を掴むのが間に合わなくて……」
「その男の人はどんな方でしたか?」
 警察官は健治に状況を質問し、レスキュー隊は穴に梯子を下ろそうとする。
「揺れが強くて、彼の手しか見れなかったんです。そういえば、手の甲に大きな十字の痣がありました」
 それ以上は健治から情報が得られないと警察は判断し、今度は男の唯一の遺留品である上着を調べ始めた。すると胸のポケットから、名刺入れが出てきた。
「名前は……『宋宋 寛』というのか……。変わった名前だな」
 あの男の人は、寛という名前だったんだ。なんとか無事であってほしい。
 そんな健治の願いとは裏腹に、レスキュー隊の梯子はいつになっても底には着かなかった。

 そうこうしているうちに、穴の周りには野次馬が集まってきた。しばらくするとマスコミもやって来て、救助の様子にカメラを向ける。一方、目の前のビルには大型モニターがあり、地震の被害状況を伝えるテレビ番組が流されていた。幸い、揺れによる被害はほとんどなかったようだ。マスコミが到着してから、大型モニターには穴とレスキュー隊の映像が映し出されるようになった。今回の地震の被害者は、今のところ、健治の目の前で行方不明者になった寛という男の人だけらしい。
『本日、午後一時頃に発生した地震によって、』
 午後三時から始まったお昼のワイドショーでも、穴のことが取り上げられていた。ニュースを読んでいるのは、若くて可愛いキャスターだ。
『なんと街の中心部の歩道の真ん中に、』
 穴と救助の様子がモニターに大きく映し出される。
『とつぜん、ウ八が開き……』
 えっ、ウ八? ウ八って……何?

 その頃のテレビ局では――
「お、おい! 誰だ、ニュースの原稿書いたのは?」
「はい、僕ですが」
「今ニュース読んでるキャスターって、この間『旧中山道』を『一日中、山道』って読んだ奴だろ?」
「そうです。だから今回はちゃんと縦書きで原稿を書いたんですよ」
「ちょっと下書き見せてみろ――バカヤロー、縦に長すぎるんだよ、お前の字は!」
「すいません、生まれつきなもんで」
「悠長に謝ってる場合じゃねえぞ。ストップ、ストッープ! 今すぐニュース止めさせろ!!」

『ウ八におちた方のおなまえは、ウ木ウ木ウ……』


安物買いの銭失い2010年07月17日 23時57分20秒

「さあさあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい!」
 市場は今日も賑わっているようだ。
「今日はマイホームも安いよ。大出血サービスだ!」
 何だって? マイホームが安いって? 借り暮らしの俺は激安マイホームという文字に弱い。
 今借りている家が手狭になってきたので、新しい家を探していたところだ。
「おい、オヤジ。激安マイホームって値段はどれくらいなんだ?」
「五円でどうだ?」
 えっ、五円! そいつは安い。
「本当にちゃんとした家なんだろうな。オヤジを疑うわけじゃないけど、大事なことなので一応聞いておくぞ」
「実は輸入物なんだ。だから安いんだが、強度とかはしっかりしてるぜ。見てみるか?」
「ああ」
 オヤジは俺を裏庭に連れて行く。すると良さそうなマイホームが3つ並んでいた。確かに物は良さそうだ。
「決めた。こいつをくれ」
 俺は右端の家を選ぶと、店のオヤジに五円を払った。

「それにしても、イカリング五個で家が買えるとは……」
 いい買い物をしたと、俺は上機嫌でマイホームを抱えて家族のもとに帰る。
「おーい、息子よ。マイホームを買ってきたぞ。ほら、最近狭くなったって言っていただろ」
「わー、パパ、ありがとう」
 子供の喜ぶ顔はいつ見てもいいもんだ。
 息子は早速、今使っている家を出て、俺が買って来た家に入る。
「パパ。この家ってなんか臭い! ヤダよ、こんな家」
 息子の叫びを聞きつけて妻もやってきた。
「あんた、これってカタツムリの殻じゃない。また騙されたのね、情けないわ」
 ちくしょー、あのオヤジ、騙しやがって!
 我々ヤドカリにとって、カタツムリの殻はヌメヌメしていて苦手なんだ……



一時間で書く即興三語小説
▲お題:「大事なことなので」「借り暮らし」「大出血」