島と大地の境界2010年08月25日 19時43分10秒

「あれ、あいつ、あんなところで何やってんのよ?」
 漁協の隣の郵便ポストの前で、手を合わせている変な奴がいる。あれは――幼馴染みの祐哉じゃない。ポストにぺこぺこお辞儀をする格好があまりに可笑しかったので、私はそろりそろりと彼の背後に近づいた。
「よっ! 祐哉。なんか願い事?」
「わわわ、び、びっくりした。な、七海か……。驚かせんなよ、全く」
「驚いたのはこっちよ。あんた、神社とポストの区別もつかなくなったの? 同じ赤色だからってポストに拝んでもご利益ないわよ。それとも、ははーん、何かの懸賞に応募したとか?」
「えっ、ま、まあ、そんなとこだよ。お前には関係ねえじゃねえか」
 必死に隠すところが何か怪しい。祐哉の顔が紅潮して見えるのは、夕陽のせいだけじゃないよね。
「ほおー。当たったら私にも見せてよね、使わせてよね、分けれるもんなら半分頂戴ね。って、何に応募したのよ?」
「お前って……、相変わらずだな」
 ウミネコがミャー、ミャーと鳴きながら頭上を飛んでいく。
 ずるい、ずるいよ、祐哉。困った時はいつも自分のせいじゃなく、幼馴染ってことを持ち出すんだから。その諦めを込めた笑顔に私は弱いの。
 なにか照れ隠しをしたかった私は、強引に話題を変えてみる。
「そうだ、祐哉。あんた受験どうすんの?」
 先月高校三年生になったばかりの私達は、そろそろ進路を決めてもいい頃だ。進路によっては受験勉強も必要となってくる。
「受験か……」
 不意を突かれて動揺するに違いないと思っていたのに、祐哉は予想外に落ち着いている。アタフタするところをからかってやろうと思ったのに、ちぇっ、つまんない。
「七海、俺は」
 祐哉が口を開いたその時――
 突然、私達は突き上げるような強い揺れに襲われた。地震だ。かなり大きい。
「危ない! 七海」
 私達は重なるように地面に倒れ込む。地震は一ヶ月前から頻繁に起きていたけど、これは今まで体験したこともないくらい大きい。
 激しく揺れる地面はゴゴゴゴと地鳴りをあげ、ガタガタと揺れる漁協の看板は今にも落ちてきそうだ。電線はびゅんびゅんと唸りをあげ、ウミネコもギャーギャーと騒ぎ出す。
 まるでどこにも逃げ場がない。そんな錯覚を覚えた私は、軽いパニックに陥っていた。
「祐哉、助けて! どこに居るの、祐哉!」
 無我夢中で手や腕を動かす私。暴れて何処かに行ってしまおうとする私の体は、太い腕でしっかりと押さえつけられた。
「七海! 大丈夫、大丈夫だから……」
 背中から祐哉にしっかりと抱きしめられて、私は何とか正気を保てたみたい。彼の体温が私の背中を通して心に伝わってくる。
「お父さん助けて、お母さん助けて……」
 地震の揺れが収まるまで、私は祐哉の腕の中で祈りを捧げることしかできなかった。

 私達が住んでいる荷倉島は火山島だ。
 一ヶ月前から火山活動が活発になっていて、小さな地震が頻繁に起きていた。そして一週間前からは、いよいよ山頂からの噴火が始まった。でもね、その噴火の規模は小さくて、テレビではこのまま終息してしまうんじゃないかと言っていたのに……
「今の揺れはヤバい」
 地震の揺れが収まると、祐哉がポツリと呟いた。彼はしきりに山頂の方を気にしている。
「ヤバいって、どういうこと……?」
 私もようやく口が利けるくらいに落ち着いてきた。
「もし一回でも大きな地震が起きたら、それが引き金となって大噴火を起こすんじゃないかと、昨日オヤジが言ってた」
「だ、大噴火って、困るじゃない、そんなの。何とかしてよ、祐哉」
「何とかって、何とかできたら誰かがとっくにやってるよ。俺達は逃げるしかないんだ」
 その時、ゴゴゴという耳鳴りがしたかと思うと、山頂の方から爆発音のようなものが聞こえてきた。見ると、山頂から黒い雲がもくもくと発生し、それはあっという間に増殖して夕焼けの空を隠すように広がっている。
「まずい、噴火だ」
 祐哉は私の手を引いてどこかに連れて行こうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どこに行くのよ?」
「港に決まってんだろ、逃げるんだよ、この島から」
「ま、待ってよ。家にはお母さんがいるのよ。それに荷物や着替えも取りに帰らなきゃダメじゃない」
 すると祐哉が私のことをギロリと睨む。
「馬鹿なこと言ってんじゃねえ。そんな暇はねえんだよ。すぐに港に行って島から出なくちゃ、助からねえかもしれねえんだぞ」
「手を離してよ! あんた私の保護者にでもなったつもり? お母さん達を置いて行けるわけないじゃない、馬鹿じゃないの?」
「この手は絶対離さない。今、手を離してお前が死んじまったら俺は一生後悔する。お前の家族や俺の家族がたとえ死んじまっても、お前だけはぜってぇ守る」
 そして握る手を強めながら私のことをキッと見つめる祐哉。彼のこんなに真剣な眼差しは初めてだ。胸の奥がキュンとした。
 その時――私の携帯電話が鳴った。この着メロはお母さんからだ。
「ちょっと、手を離してよ。お母さんからなんだから」
 祐哉はためらいがちに握る手を弛める。
「あ、もしもし、お母さん?」
『七海、今どこに居るの? 無事なの?』
「私は無事よ。今、漁協のところに居る」
『じゃあ、そのまま港に行きなさい。全島避難の命令が出たの。お母さんもお父さんも港にすぐ行くから、そこで合流よ』
「わかった……」
 私が携帯を閉じると、祐哉が話しかけてくる。
「おばさん、何だって?」
「すぐに港に行きなさいって」
「ほら、そうだろ。俺達も行くぞ」
 私は祐哉に手を引かれて港へ向かう。後ろ髪を引かれるように自宅の方を振り返ると、暮れかかった空はすでに火山灰で真っ黒に染められていた。

 港の待合室に着くと、続々と島民が集まってきた。と言っても小さな島だから、全島民が集まっても千人くらいなんだけど。十五分くらいするとお母さんも荷物を背負ってやってきた。
「お父さんは?」
「工務店の車で名波社長と一緒に来るって」
 私のお父さんは、祐哉のお父さんが経営する工務店で働いている。つまり名波社長というのは、祐哉のお父さんのことだ。だから私と祐哉は本当の兄妹のように育てられた。ガチガチの幼馴染というわけ。
「七海、着替えも持ってきたわよ」
 お母さんが荷物を指差す。学校帰りの制服姿のままで来ちゃったから、着替えが欲しいなあって思っていたんだ。
「ありがとう、お母さん!」
「祐ちゃんもありがとね、七海を守ってくれて」
「いえ、おばさんも無事で安心しました」
 祐哉が照れ笑いする。おい、祐哉、先程までの剣幕はどこに行った?
 一方的に祐哉に怒鳴られた私は、ちょっと腹が立った。
「ねえねえ、お母さん。こいつさっき酷いこと言ってたのよ。お母さんが死んじゃってもいいなんてさ」
「バカヤロー。そんなこと言ってねーだろ。取り消せよ」
「やだよ。べーぇだ」
「あらあらまた喧嘩? いいのよ、私が死んじゃっても七海を守ってくれるんだったら」
 祐哉が、ほらって顔をする。なんて憎たらしい。
「お父さん達も着いたわよ」
 お母さんの声で駐車場を見ると、名波社長が運転するワゴン車から従業員達が降りてくるところだった。あっ、お父さんだ。祐哉のお母さんもいる。社長は最後に大きなスーツケースを車から下ろした。きっと、工務店の重要書類なんかも入っているのだろう。
 ボォーーーッ
 沖を見ると、避難のための大型船もやって来た。どうやら、近くを通っている定期船が臨時に寄ってくれたみたい。
 私達はお互いの無事を確かめ合いながら船に向かう。待合室を出ると、むわっと硫黄の匂いが鼻をついた。黒く降り積もる火山灰は、いやな匂いを辺り一面に撒き散らしていた。
 船に乗った島民は皆、噴火から逃れられたことにほっとする。そして私を含めた多くの人達が、二、三日でまた島に帰れると考えていた。まさかこの避難が二年近くに及ぶとは――この時は誰も予想していなかった。



「荷倉高校から来ました山村七海です。よろしくお願いします」
 私は一人、教壇に立って転入の挨拶をする。
 ここは藤ヶ谷高校の三年C組。本土にある高校だ。私の名前を聞いて、教室がちょっとざわついた。
 ――山村だってよ
 ――あいつ、黒いな
 ――なに? あの娘のセーラー服
 おいおい、全部聞こえてるんだけど。苗字が山村で何が悪いのよ。島育ちだから色黒だけど健康な証拠よ。制服だってオーソドックスで可愛いでしょ? 荷倉高校のだけど……
「ちょっと静かに! ニュースで皆はすでに知っていると思うけど、山村が住んでいた荷倉島は火山噴火のために全島民がこちらに避難してるんだ」
 担任の安藤先生が私のことを紹介する。
「帰島が許可されたら山村は島に戻ってしまうけど、現在のところまだ目処は立っていないらしい。まあ、短い間だと思うけど、みんな仲良くしてやってくれ」
 そうよ、きっと短い間だけだけど、よろしくね。
 本当は二、三日で帰れるかと思ってたんだけど、なんでも有毒の火山ガスが噴出し始めたということで、私達の帰島は後延ばしになっている。最初は避難してきた船で寝泊りしてたんだけど、火山ガスの噴出がなかなか収まらないことが分かった時点で、私達は一時的に本土に住むことになった。とは言っても、何もすることが無いままぼおっとしているわけにもいられない。名波社長は知り合いの工務店で話をつけてきて、工務店の従業員はそこで働かせてもらえることになった。そして私は、その近くの藤ヶ谷高校に通うことに。
「席は――確か片瀬の隣だったな。おーい、片瀬。手を上げてくれ」
 すると、髪をポニーテールにしている色白の女子生徒が手を上げた。よかった、変な男子生徒じゃなくて。
 私は片瀬さんの隣の空いている席に座る。
「よろしく、片瀬さん」
 小声で挨拶をすると、片瀬さんも小声で返してきた。
「こちらこそ、山村さん。私、成美っていうの。似たような名前同士ね、よろしく」
「ええ」
 良かった、気さくな人みたいで。まずは私はほっとした。

「ねえねえ、山村さん。すごいね、よく生きて脱出できたね、あの島から」
 休み時間になると、片瀬さんが話しかけてきた。
 よく生きてって、誰も死んじゃいないんだけど……
「私ねえ、海岸から見てたのよ、あの大噴火。私の家って海に近くてね、学校から帰ったらテレビでやってたからすぐ海岸に行ったの。暮れていく空に噴火の赤い灯がチラチラと映って、すごく綺麗だったわ。あっ、ごめんね。山村さんは大変だったのにね」
 藤ヶ谷市は海に面した市だ。名波工務店の従業員とその家族が住んでいるアパートも、海から歩いて三分くらいのところにある。
「いえ、気にしてないから」
 それにしても、本土の人達にとって荷倉島の噴火は、本当に対岸の火事だったんだ……
 だからと言って、片瀬さんに島からの脱出がいかに大変だったかということを力説する気も起きなかった。世界が終わるかと思うようなあの激しい揺れと、すべてを真っ暗に包む火山灰の恐怖。そんなことを今さら思い出したくもないし、口で言ったって伝わりっこない。ただ、海を渡ったこの世界では、同じ噴火でも捉え方がこんなにも違うことにちょっとショックを受けた。
「山村さんのクラスメートはどうしちゃったの? みんな、この学校に転入してきたの?」
「クラスメートって言ったって、十人しかいないんだけどね。他のみんなは、山の方の原木市に避難しちゃったの。ほら、そっちの方に空きの多い県営住宅があるっていうから。私は父の仕事の関係でこっちに来たんだけど」
 だから私は、ほとんどのクラスメートとは違う学校に転入することになってしまった。ただ一人を除いて……
「じゃあ、この学校に来ているのは山村さん一人?」
「いや、もう一人いるんだけど。名波祐哉ってやつ」
 そういえば祐哉のやつ、どのクラスになったんだろう? 同じくこの学校に転入しているはずなんだけど。
 そう思うとなぜか無性に祐哉に会いたくなった。
「ねえねえ、名波君ってどんな人?」
「私と同じ色黒でワイルドなやつ」
 そう、島育ちの私達はみんな色黒だ。だって海に育てられたようなものだから。
 荷倉島には同学年の子供達は十人くらいしかいなくて、小学校から高校までずっと同じクラスだったんだよね。もちろん、祐哉ともずっと一緒。よく考えたら、あいつと違うクラスになったのは初めてだわ。まあ、来年高校を卒業したらお互い別々の道を進むわけだから、それが一年くらい早まっただけなんだけどさ。でも、でも……、なんだろうこの気持ち。あいつが同じ教室に居ないだけで、こんなに不安になってしまうなんて。
「へえ、会ってみたいな、名波君。潮の香りがしたりして」
 潮の香りか……、いいこと言うなあ。成美って、意外といいやつ?
「今度、片瀬さんに紹介してあげようか。祐哉のこと」
 おい、おい、私よ、いきなり何て事を言い出すんだ?
 会いたいのは自分じゃないの。
 片瀬さんって、色白だし、ポニーテールも似合っているし、どことなく天然っぽいし、祐哉の好みのど真ん中じゃないのさ? 自分で墓穴を掘ってどうすんのよ。
「やった。楽しみにしてるわ、よろしくね」
 でもさ、片瀬さんを祐哉に紹介すれば、その時私は堂々と祐哉に会える。
 祐哉が片瀬さんを好きになっちゃったら――まあ、その時はその時だわ。私だって、祐哉の彼氏になりたいってわけじゃなくて、今はとりあえず会って安心したいだけなんだし。別に会いに行ったっていいんだけど、違うクラスなのにわざわざ会いに行くと学校で噂になったりして、それはそれで面倒臭いしね。
 あーあ、祐哉と同じクラスになってれば、こんなに悩まなくても済んだのに……
 転入初日は、そんな何だか分からないもやもやした気持ちに包まれたまま過ぎていった。

 転入翌日。私達転入生の噂はまたたく間に広がっていた。とは言っても、主に祐哉についてなんだけど。
 ――ねえ、F組に来た転校生、なかなかカッコイイらしいよ
 ――えっホント? じゃあ休み時間に見に行ってみようよ
 えっへん、それはね、私の幼馴染なの。お話したいなら、まずは私の許可を取りなさいよね。今なら一回百円で取り次いであげるわよ。
 なんて、教室中に言って回りたいくらい鼻高々だったけど、男子の間では私の噂もされているようだった。
 ――山村って、本当に黒いよな
 ――あの島から来たんだろ。ってことはアレが使えるのか?
 おい、アレって何だよ、アレって。黒いのは悪かったわね。健康な証拠でしょ。
「ねえねえ山村さん、昨日話してた名波君、結構噂になってるよ」
 休み時間になると、片瀬さんが話しかけてきた。
「ワイルドでどうのこうのって話でしょ。男は色が黒いのが良くって、なんで女はダメなのさ」
「そんなことないよ、山村さんもボーイッシュで可愛いよ」
「ありがとう。ボーイッシュついでに言うけど、山村さんって呼ばれるとなんか背中がこそばゆいのよね。七海って名前で呼んでほしいんだけど、いい?」
「じゃあ、私の事も成美って呼んでね、七海」
「オーケー、成美」
 私達はがしっと握手を交わした。
「ところで成美、友情が芽生えた証として教えてほしいんだけど」
「なに? 七海」
「男子が私のことをひそひそと噂しているみたいなんだけど、何て噂してるか知ってる?」
 すると成美からさっと笑顔が消えた。
「さ、さあ、よくわからないけど……」
 成美は何かを隠している。ということは、何て噂をしているのか知っているということだ。
「私、聞いちゃったのよね。私が何かを使えるかのような噂を」
「き、きっと聞き間違いよ。島についての都市伝説か何かじゃない?」
 都市伝説か……。成美、あなたって嘘がつけない性格ね。まあ、都市伝説だったら私には関係ないかも。そんな話、島では聞いたことも無いから。
「わかった、ちょっと安心したわ」
 本当は安心してないんだけどさ、面倒臭いからいいわ。
「ところで成美に祐哉を紹介してあげる話だけど、放課後でいい?」
 そうそう、成美を出汁にして、祐哉に会いに行かなくちゃ。噂については祐哉に聞いてみればいい。たとえ祐哉が知らなくても、成美と三人で話していれば彼女の口からポロリと出てくるかもしれないしね。
「ホント? じゃあ、よろしく、七海」
 私の企みとは裏腹に、成美は楽しそうだった。

 放課後になると、私は成美を連れて3年F組の教室へ向かう。私達C組の教室は二階で、F組の教室は三階だった。廊下のつきあたりの階段を上っていくと、偶然にも階上に祐哉の後姿が見えてきた。あれは荷倉高校の制服だから間違いない。どうやら廊下の隅で、他の男子生徒と話しているようだ。
 ラッキー、わざわざF組の教室を覗きに行かなくても済みそうだわ。
だって、転入生の分際で違うクラスを覗くのって、かなり勇気がいるもんね。
 そう思ったら、島に居た頃のように祐哉に何か悪戯をしたくなった。後ろから目隠しは――学校じゃちょっとヤバ過ぎるからやめておいて、大声は一緒に話している人に迷惑だし。じゃあ、今日は膝カックンで許してやるか……
 私はまず、成美に向かって人差し指を口の前に立てて「静かに」のゼスチャーをすると、そろりそろりと背後から祐哉に近づいた。祐哉達の会話が聞こえてくる。
「お前と一緒に島から転校してきた女がいんじゃん」
「ああ、山村七海ね」
 おっ、私の噂か? 祐哉、ちゃんとフォローたのむぞよ。
「なんか変な噂を聞いたんだけど、あの島出身の女って、呪いとか超能力が使えるって本当か?」
 の、呪い……!? えっ、私って、そんな風に見られてたの?
 ガツンと頭を殴られたようなショックで体が硬直する。成美が言ってた都市伝説ってこのことだったのね。
「はははは。呪いって、そんなもの使えるようには見えねえけどな。ずっと同じクラスだったけど」
 祐哉、なに笑ってんのよ。違うってはっきり言ってよ。お願い、全力で否定してよ!
 根も葉もない噂とそれに反論しない祐哉に、私の心は砕けそうだった。あれ、あれあれ、涙も出てきちゃったじゃない……
「な、七海?」
 祐哉と話していた男子生徒が私に気付き、同時に祐哉もこちらを振り向く。
 まずい、祐哉に泣き顔を見られた。  私はきびすを返し、成美の脇をすり抜けて一目散に走る。ごめん、成美。今日は許して。
「七海! 待てよ、おい」
 祐哉の声が遠くで聞こえる。なんで噴火の時のように命がけで私を守ってくれなかったのよ。もう何を信じたらいいのかわからない。
 私は鞄も持たずに靴を履いて校外に飛び出した。

 気がつくと、私は海岸に座っていた。
 水平線の向こうにうっすらと荷倉島が見える。こんなに遠くからでも、山頂から白い煙が出ているのがわかるなんて知らなかった。こうして見ると優雅な風景なんだけど、あれは有毒な亜硫酸ガスを含む火山ガスなんだ。
「チキショー、なんでガスなんて出てんのよ」
 もう涙は出なかった。ただ、あの火山ガスが憎かった。私の日常を奪った噴火が憎かった。
 噴火さえなければ、高校三年間を皆で笑って過ごせたのに……
 それにしても、祐哉ってなんてひどいやつだ。幼馴染の私が変な噂を立てられているというのに、笑いながら会話を続けるなんて。「守ってやる」と言った噴火の時のあの言葉は嘘だったの?
 噴火に対する私の怒りは、いつしか祐哉に向けられていた。
 その時――どさり、と私の隣に何かが置かれる。私の鞄だ。振り向くと、祐哉がそこに立っていた。
「忘れ物」
 ポツリとただそれだけ言うと、祐哉は私の鞄を挟んでその向こう側に座る。
「ここに座っていいなんて、誰に許可をもらったのよ」
 私の憎まれ口に、祐哉が反応する。
「なんだ、元気そうじゃん」
 なによ、私が泣いていると思ってたの? ふざけんじゃないよ、誰のせいだと思ってんのよ。
「そんなこと言う前に、何か私に言うことがあるんじゃない?」
 今度は反応せず、祐哉は黙って海を見ている。その視線の先には、荷倉島が静かにたたずんでいた。
 なんだよ、今度はダンマリかよ。
 こうなったら根競べと、私も海の方を向く。海の上に浮かんだ夕陽が、その姿を横長に変えている。
 五分が三十分くらいに感じられた頃、再び祐哉が口を開いた。
「なあ、七海。この場所と荷倉島との間には何があると思う?」
 なに、祐哉のやつ、いきなりセンチメンタルになっちゃって。私はまだ怒ってんだからね。
「海に決まってんじゃない。バカじゃないの」
 そうよ、ここと荷倉島との間には海があるの。ただそれだけ。
「海か……。なあ、俺達が島でいつも見てた海って、こんなに冷たかったか?」
 えっ? 祐哉……
 あんたがこんな悲しそうな声を出すのは、初めて聞いたわ。
 私達は海に囲まれて育った。海と共に、海に育てられて、ここまで大きくなった。そりゃ、海だって荒れる時はある。しかし、それに見合うに十分な恵みを私達に与えてくれた。そしてなにより私は、海の向こうに広がる大地に希望を持っていた。
「暖かった。いつも希望に光っていた」
 ポツリと私が呟く。
 きっと祐哉も同じ気持ちなんだろう。海が冷たかったら、私達はこんなに色黒にはなってない。
「そうだよな、海はこんなに冷たくはなかったよな。だからさ、俺は思うんだよ。この場所と荷倉島との間にあるのは海じゃなくて、なにか目に見えない境界なんじゃないかって。なあ、そう思わないか?」
 境界か……
 確かに、ここは荷倉島とは違う。何かが決定的に違う。境界に隔てられた世界に来たと言われれば、そのような気もする。
「ここに転入してから、皆が噴火のことを聞いてくるんだよ。だから俺は必死に説明したんだ。地震の揺れの恐ろしさや火山灰が迫ってくる恐怖を。皆はちゃんと聞いてくれた。荷倉島のことを真剣に考えてくれているんだと思った。だけど違ったんだよ。ここにいる人達は、俺達を映画か何かの世界からやって来たとしか思っていないんだ」
 そういえば私も、噴火のことを成美に聞かれたんだっけ。彼女は、島民の脱出劇だけに興味を持っているようだった。
「そう思ったら、なんか俺、すごく孤独を感じちゃってさ。その時なんだよ、七海のことを教えてほしいってクラスメートに言われんだ」
 それが廊下で話していた男子生徒ってわけね。
「なんか七海に興味がありそうだったから、コイツを出汁にすれば七海に会いに行けるって思ってたらさ、あんな事になっちまって。ゴメン、本当にゴメン」
 はははは、なんだ、祐哉も私と同じことを考えていたんだ。なんかもう怒る気なくなっちゃったわ。
 でもさ、祐哉。あの時のあんたは島に居る時とは違ってた。
 なんか、私との関係よりも、そのクラスメートとの関係を壊したくないって感じだったじゃない。
 祐哉、何を恐れているの? 私を守ると誓った言葉は嘘だったの?
 彼が言う境界って、ここと荷倉島の間だけじゃなくて、祐哉と私との間にも入り込んできているんじゃないの?
「綺麗ね……」
 私の中からドロドロとした感情が涙と一緒に出てきそうになったから、とっさに夕陽を見ているふりをした。
「綺麗だな」
 祐哉も呟く。
 きっと、あいつが見ているものと私が見ているものは、同じ夕陽であっても同じ色じゃない。
 これが私達のすれ違いの始まりだった。



 藤ヶ谷高校に来て一ヶ月ちょっとが経ち、ついに待ちに待った日がやって来た。
 六月一日。つまり衣替えの日。
 なんで待ち遠しかったかと言うとね、今日から藤ヶ谷高校の制服を着ることができるからなの。ほら、私って今まで荷倉高校のセーラー服で通ってたでしょ。すぐに帰島できると思っていたから今まで我慢していたんだけど、当分島には帰れそうもなくなって、ついにお父さんが藤ヶ谷高校の制服を買ってくれたのよ。藤ヶ谷高校の夏服って可愛いの。白のブラウスにチェック柄のスカート、そして同じチェック柄のリボンがなかなか良いんだから。嬉しくって嬉しくって、朝の四時に目が覚めちゃった。
 なんかやること無くって、結局私は海に来てしまった。夜明け前の水平線に浮かぶ荷倉島は、今日も静かに火山ガスを吐き続けている。
 そういえば、転入直後はいろいろとあったな……
 ここに座ると、色々なことを思い出してしまう。変な噂をたてられたり、祐哉と少し疎遠になったり。
 でも、噂が根も葉もない都市伝説で良かった。一週間ほどすると綺麗さっぱり無くなっちゃたしね。そりゃそうよ、私が呪いを使える魔女なら、それこそ噂をしている奴から呪ってやるんだから。
 それに、この場所で祐哉と話していて、あいつの悩みも分かったし。  きっと私は祐哉に甘えたかったのね。一人でクラスに転入して心細かったのを、誰かに聞いてもらいたかっただけだったんだわ。そして祐哉も同じだったんだ。あいつ、私の隣でメソメソしやがって。あいつは泣いてないって言うけど、心の中ではざんざん降りだったに違いないわ。だから、こっちがしっかりしなくちゃって変な元気が出ちゃったじゃないの。まったくバカ祐哉のやつ……
「なんだ、お前も居たのか」
 突然、後ろから話しかけられて私は心臓が止まりそうになる。
 誰? えっ、祐哉?
 海を見ながらあいつの事を考えていたから、ちょっと顔が赤くなっているかもしれない。
「なんであんたがここに……」
「おっ、夏服、似合ってんじゃん」
 おい、人の話しは最後まで聞けって。それにまた、とってつけたようなセリフを吐きやがって。ちょっと嬉しいけどさ。
「俺も今日から藤ヶ谷高校の制服なんだよ。それで嬉しくなっちまってさ」
 あんたも? と思いながら祐哉の方を振り向き、私はぷっと噴き出した。
「なによ、それ。今までと同じじゃない」
 祐哉はYシャツに学生ズボン姿で、昨日も同じ格好だった。
「同じとは何だよ、同じとは。周囲がみんなブレザーの中、俺は一人詰襟だったんだぞ。確かに最近、上着は着てなかったけどな。あー、今日から俺は精神的に開放されるんだよ。わかる? この気持ち」
「ああ、わかった、わかったよ。そりゃ、おめでとさん」
 私はわざとおどけてみせる。こうやって二人で語り合えるのも、きっとあと十ヶ月だ。
「そういえば、祐哉。あんた、受験どうすんの?」
 そう、十ヶ月後には、私達は別々の道を歩むことになる。
 祐哉はすぐには答えず、私の隣に腰掛けてまっすぐに荷倉島の方を向いた。
 水平線から顔を出したばかりの朝陽が、島と水面をキラキラと照らしている。
「島に戻ろうと思う」
「えっ、島?」
 驚きながら私も荷倉島を見る。ほら、火口からはまだあんなにモクモクと火山ガスが出続けてるじゃないの。十ヶ月後にあれが出なくなっているとは、とても思えないんだけど。
「卒業する頃に帰島できるかどうかなんてわからないじゃない?」
「それがな、帰島許可が出なくても、島に帰れる方法はあるんだ」
 ええっ、どうやって? まさかあんた、漁船か何かでこっそり島に戻るつもり?
「オヤジが言ってたんだけどな、あと数ヶ月したら島で工事が始まるんだそうだ。なんでも、降り積もった火山灰で土石流が起きてて、島の道路は寸断されてるんだとよ。それを直しとかないと、ガスが収まっても皆が島に戻れねえだろ?」
 そりゃそうだけどさ。危険とかはないの?
「工事が始まったら、オヤジは島に戻るって言ってる。工務店の従業員も何人かは一緒に行くそうだ。島に置いてある重機も動かしてないと錆ついちまうしな。それで高校を卒業したら、俺も島に戻ってオヤジのところで働く」
 祐哉、あんた、そんなこと考えてたんだ……
「島での工事なんて初めて聞いたわ。お父さん、そんなこと一言もいってなかったし。なんか心配」
「ああ、心配はいらないぜ。お前ん家のおじさんは、こっちに残って今の仕事を続けるって言ってるそうだ」
「バカ。あんた達のことが心配って言ってるんでしょ。寝てる時に噴火やガスが来たらどうすんのよ?」
 そうだよ、朝がきたら冷たくなってた、なんて洒落にもならないでしょ。
「火山活動はかなり静かになったって話だぜ。ガスは相変わらず出てるから、ガス対策を施した部屋で寝るんだそうだ。寝てる間にガスにまかれて死ぬのは嫌だからな」
 へえ、私の知らぬ間に、そんな計画が進行していたのね……
 皆、帰島に向けて頑張っているんだ。私ものんきに高校生活をやってる場合じゃないかもね。それにしても、祐哉がちゃんと進路を考えているとは驚きだわ。
「そういうお前はどうすんだよ?」
 祐哉がこちらを向く。ちょっと清々しい顔をしているのがなんか悔しい。
「こっちの短大に進むわ。以前から言ってるようにね」
 そう、私は島を出ることが夢だった。そのことは、祐哉にも荷倉高校に入学した時から話している。
「やっぱり、こっちに進学するのか?」
「そうよ、それが私の夢だから」
「そうか……」
 一瞬悲しそうな顔をした祐哉は、また島の方を向く。
 祐哉には悪いけど、私はこちらの短大に進学する。でもその後は、何か島の役に立てる仕事をするのも良いかもしれない。祐哉の話を聞いているうちに、そんな考えが生まれたことに私自信、驚きを感じていた。



 再び春が訪れ、私達は藤ヶ谷高校で卒業式を迎えた。
 それぞれの進路はどうなったかと言うと――私は運よく、成美と一緒に県立短期大学の介護福祉科に合格した。
 祐哉は前に言っていたように、名波工務店の従業員として荷倉島で働くことに。
「じゃあな、七海。元気で頑張れよ」
「ええ、祐哉。あんたも頑張りなさいよ。私が島に戻った時に、道路がボロボロだったら承知しないからね」
「はははは。『祐哉道』って名前が付くくらい綺麗な道を用意して待ってるぜ」
 それでね、その後なんだけど、驚きの出来事があったんだ。
「ねえ七海、ちょっといい? 一つお願いがあるんだけど」
 それは、神妙な面持ちの成美に声をかけられたところから始まった。
「あのね、祐哉君の第二ボタン、私が貰いに行ってもいいかな? 迷惑じゃない?」
「いいに決まってんじゃない。何で私に聞くのよ」
「だって、だって……。祐哉君は七海のことが好きなんじゃ」
「バカなこと言ってないで、とっとと貰ってきなさいよ。ほら、ぐずぐずしてると他の女子に取られちゃうよ」
 成美は一旦祐哉の方を見てから、また私の方に向き直る。
「もう一度確認するけど、本当にいいのね?」
 こんな真剣な表情の成美を見るのは初めてだ。
 私も一呼吸置き、成美の目を見ながら返事をした。
「いいよ」
「私、行ってくる」
 それからどうなったかって?
 面白そうだから成美の後をつけて行ったわよ。
 木の陰で見てたんだけど、二人ともガチガチになっちゃって、見ているこっちがドキドキしたわ。祐哉なんて、緊張して第二ボタンがなかなか取れなくて、何だかすごく初々しかった。
 ちょっぴり悲しい気もしたけど……
 まあ、幼馴染なんてこんなものよ。もし、祐哉が私のことを好きだったとしても、彼氏彼女の関係になることなんて考えられないもの。きっと私と祐哉の関係って、結婚するかしないかの二者択一なのね。その中間が無いっていうか、そんな感じ。
 それに四月から新しい生活が始まるんだもの。短大に行ったら、素敵な男性との出会いがあるかもしれないしね。そしたら成美を思いっきり悔しがらせてやるんだ。島での仕事が忙しくて毎日会えない祐哉なんかに告白したことをさ。
 だから、とりあえずあいつとはお別れ。バイバイ、祐哉……



 私達が短大に入ってから半年ちょっと経った秋のある日、私は成美に呼び出された。
 ということで今、海辺のレストランで成美を待っている。水平線の向こうに見える荷倉島は、相変わらず火山ガスを吐き出している。
 あの島で祐哉は今頃、何をしているんだろう。
 そんなことを思っていたら――
「あれ、七海、もう来てたの?」
 成美が時間通りやって来た。実は私、三十分も早く来ちゃってたんだ。
「ここって島が良く見えるから好きなんだよね。先に食べちゃってるけど、ゴメンね」
 成美はウエイトレスに私と同じペペロンチーノを注文する。そして私の方を向くと、一息置いて切り出した。
「七海、あなた、年が明けたらどうすんの?」
 えっ、どうするって、どういうこと?
「初詣に行くと思うけど……? もしかして近くに良い神社ができたとか?」
「なにバカなこと言ってんのよ。本当に七海は何も知らないのね。ほっとしたような、ほっとけないような……」
「なになに? 何かあるの?」
 もしかして就活のことなのかな? この不景気では早めの活動が必要なのはわかっているけど、まだ一年生じゃない。それに私達が目指している介護の職は、まだまだ売り手市場のような気もする。待遇にこだわらなければの話だけど。
 すると成美の口から驚きの言葉が飛び出した。
「帰島できるかもしれないのよ、来年早々に」
「ええっ、マジ!? それ誰に聞いたの。というか、何であんたがそんなこと知ってんのよ」
「祐哉から聞いたんだけど……」
 そうか、祐哉か。そうだよね、二人は付き合ってんだもんね。
 高校の卒業式の後で成美が告白してから、しばらくは初々しく付き合っていた二人も、今は名前を呼び捨てにするくらいに進展している。とは言っても、会えるのは祐哉がこっちにやって来る週末だけなんだけどね。私もたまに、二人のデートにお邪魔させてもらっちゃったりしている。
「祐哉のやつ、何で私には教えてくれないのさ」
「なんか先週決まったばかりらしいよ。今度、三人で会う時に詳しく教えてくれるんじゃない?」
 そうか、ついに帰島が実現するのか……
 祐哉はすでに島に居るからいいとして、他のクラスメートはどうするんだろう。まあ、大学に行ったり、こっちで就職しちゃった奴はすぐに戻るのは無理だよね。
「それでね、彼の話によるとね、島では今、帰島の準備を始めたところなんだって。道路とか橋は祐哉達が全部修復したらしいんだけど、役場とかってずっとほったらかしだったでしょ。まずは、それを片付けなきゃいけなくて大変らしいよ。警察とか消防などの公共機関も機能してないと、住民は帰れないしね」
「あと、電気や水道もね」と私が付け加える。
 こりゃ大変だわ。帰島なんて、知事が『じゃあ、帰島を許可します』と一言いえば簡単に実現するのかと思っていたけど、考えが甘かったわ。すでに一年半ももぬけの空だったんだから、それなりの作業が必要なのね。
「それで今、祐哉は何やってんの?」
「今は土石流対策として、砂防ダムの工事をやってるみたい」
 ほお、祐哉も頑張ってるみたいじゃない。私も負けられないわ。
「それでね、ここからが本題なんだけど……」
 成美が姿勢を正す。なにやら真剣な話らしい。私もいそいそと椅子に座り直した。
「私達、来年は短大を卒業するわけだけど、介護福祉士の資格を取って就職する予定でしょ」
 そうだ、私は高齢者が多い荷倉島の役に立てればと思い、短大の介護福祉科に進学したんだ。
「それでね、私、来年の荷倉村の介護福祉士の募集に応募しようと思うの。あなたならその意味がわかるよね」
 えっ、成美が荷倉島に!?
 私はガツンと頭を殴られたような衝撃に、言葉を失った。
 成美を見ると、真剣に私の目を見つめている。彼女がこんな目をするのは、高校の卒業式以来だ。
 ――成美、あんた、本気なのね
 荷倉島は小さな島だ。それは私が一番良く知っている。だから、もし来年に介護福祉士の募集があるとすれば定員は一名だろう。しかも、その募集が毎年あるとはとても思えない。
 つまり、もし成美が来年、荷倉村の介護福祉士の募集に合格したら――私は、当分の間、介護福祉士としては島に戻れないということになる。
 そう、これは、成美から私に向けての宣戦布告だ。
「なんで? 荷倉村は私に受けさせてよ」
 そうよ、島のお年寄りを救うという私の野望を邪魔する気?
「そもそも成美、本当に募集があるの?」
「来年、募集があるらしいことは彼から聞いた。帰島がネックだったみたいだから、それが実現すれば募集する確率はかなり高いらしい」
「じゃあさ、荷倉村は私が応募して、成美はこっちに就職すればいいじゃない。それで祐哉との話がまとまりそうになったら、結婚しちゃって島に来れば。そうすれば、また三人で楽しくやれるじゃない」
「駄目! それじゃ、駄目なの。島に居るあなたに、私、勝てる自信が無い」
 成美が声を荒らげる。
 いや、勝つとか負けるとか、そんなこと考えてないから。
「だってほら、成美と祐哉って上手くいってるじゃない。大丈夫よ、祐哉を盗ったりなんかしないからさ」
「あなたはね、ただ居るだけで祐哉の精神的な支柱になっちゃうの。そんなオオカミの巣の中に愛する人を置き去りにして、私、仕事なんてできない」
 オオカミだなんて、あんまりだよ、成美ィ。
「それに私達、最近はうまくいってないのよ……」
 成美は私から視線を外し、窓の外を見る。暮れて行く景色に荷倉島はシルエットになりつつあった。
「荷倉島――見るのは久しぶりだわ」
 今度は成美はしみじみと語り出す。
「付き合い始めてからは、もう祐哉に夢中だったわ。彼も私のことを愛してくれた。でもね、私が荷倉島での就職の相談をしたら、彼の口数が少なくなっちゃって。島が見えるレストランに入ると、ずっと島を見てるのよ。だからね、最近は島が見えるスポットは避けていたの」
 祐哉がデート中に島を見ている理由って何だろう。すでに島で働いてるんだから、帰島したいってわけじゃないしね。まさか、仕事でポカをやってそれが気になってるとか?
「島を見ている時の彼って、島に居てほしい誰かの姿を見ているような、そんな雰囲気なの」
 祐哉、あんたってバカね。こんな可愛い彼女がいるというのに。
「それでこの間、喧嘩になっちゃったんだ。そしたら彼、何て言ったと思う?」
「さあ」
「『七海には一度振られたからもういいんだ』だってさ。昔、手紙を出して、返事が返ってこないから振られたと思っているらしいのよ」
 えっ、手紙? そんなのもらったことあったっけ?
「それって、まだ七海に気があるってことじゃない。あなたの返事を今でも待ってるってことじゃない。それって私をバカにしてるよね。でもね、あなたが島に戻らないのなら、いや、あなたを島に戻れなくしてしまえば、私は彼を完全に振り向かせる自信はある。彼と一緒に島で働いて、一緒に笑って、一緒に海を眺めるの。そしてそんな日々が彼とあなたが島で過ごした十七年を超えた時――私は初めてあなたに勝ったと言える」
「成美……」
「だから七海には真剣に考えてほしい。今なら私もやり直せる。だってまだ半年ちょっとしか付き合っていないんだもん。彼と別れるのはつらいけど、七海がどうしても島に戻るって言うのなら私は諦める。だって、七海は大切な友達だもん。戻りたいって言う友達を押しのけてまで、島に行きたいとは思わない。それならそれで、私はこっちに就職して、こっちでいい人を見つけるわ……」
 成美は泣いていた。
 これはなんて重い宿題なんだろう。
 島のために島で働きたいという希望は変わらないけど、成美との友情は失いたくない。そして、祐哉。私はあいつのことを、どう考えているのだろう。
 レストランを出た私の頭の中では、そんな思いがぐるぐると回っていた。
 ねえ、三人で楽しくやっていける選択肢はないの? 誰かが何かを諦めるという選択肢しか残されてないの?
 いつまでもそんな甘い考えを持ったままでは誰も納得させることができないと、成美に責められているような気がした。



 成美からの宿題が解けずにうじうじと悩んでいた十二月のある日、私宛に手紙が届いた。封筒の差出人を見ると――荷倉島郵便局になっている。
「お母さん、何、この手紙?」
「知らないわよ。島からだから、祐ちゃんからじゃないの?」
 祐哉から――じゃないよね。だって『荷倉島郵便局』って書いてあるもん。あいつからだったら、ちゃんと名前が書いてあると思うんだけど。
「ねえ、もう島から郵便が送れるようになったの?」
「手紙が来たんだからそうじゃないの? 役場の人達は、一足先に島に住んでるって話よ」
 どうやら荷倉島では年明けの帰島に向けて、着々と準備が進んでいるようだ。きっと、郵便局の人達も必死に準備しているに違いない。
 私は自分の部屋に戻り手紙の封を開けた。
「うわっ、何だ、この匂い」
 硫黄臭くて粉っぽい何かが部屋に漂う。これは――火山灰だ。そしてその匂いを嗅いだ瞬間、私の脳裏に大噴火の光景が蘇った。
 揺れる大地、唸りをあげる山頂、そして降り注ぐ火山灰から傘のように私を守ってくれたあいつ。
「祐哉……」
 いつの間にか、私の目からはポロポロと涙がこぼれていた。
 私は今、あいつの傍にいる権利を失おうとしている。
 もし成美が島に就職したら――島での私の居場所は無くなってしまうんだ。
 別にあいつと付き合いたいわけじゃない。あいつとデートしたいわけでもない。ただ、あいつの傍に居たいだけなのに。
 あいつの相手が成美だったら、それが出来ると思っていたのに……
 甘すぎる自分の考えにつくづく嫌気が差す。成美は自分の進路をあれほど真剣に考えているのに、それをさぼっていた自分にはバチが当たったんだ。今さら、祐哉の傍に居られなくなるのが嫌だなんて、そんなことを成美に言えるわけがない。
「祐哉、苦しいよ……」
 あいつに相談できたらどんなに楽なのに。でも、そんなこと出来ないし、それでは意味がない。これは、私自身で答えを見つけなくてはいけない宿題なんだから。
 涙を拭って封筒の中を見ると、一枚の紙と一通の手紙が入っていた。  紙には郵便局からのメッセージが書かれている。
『大変遅くなりましたが、避難直前に島の郵便ポストに投函された手紙を配達いたします。荷倉島郵便局』
 そして、火山灰で煤ぼけた一通の手紙。
 差出人は、名波祐哉だった。
「あの噴火からずっと、島のポストに置いてきぼりだったのね」
 私はその手紙をそっと胸に抱きしめた。

「七海、どこに行くの? もうすぐご飯よ」
「ちょっとそこまで行って来る」
 祐哉からの手紙を見つけた私は、居ても立ってもいられなくなって家を飛び出した。
 ――この手紙は島が見える場所で開けようよ
 なにか、そう言われているような気がした。
 だから私は海に向かって走る。手紙を抱いた胸がドキドキと高鳴っている。
 海岸に出ると、ちょうど夕陽が水平線に沈もうとしていた。荷倉島の火山ガスも夕陽を浴びてオレンジ色に光っている。
 私はいつもの場所に座ると、荷倉島の方を向いて、ゆっくりと手紙の封を開けた。そこに書かれていたのは――

『俺は七海が居るこの島が好きだ。祐哉』

 えっ、たったこれだけ? あはっ、あいつらしいや。
 こんな内容じゃ、私が好きなんだか島が好きなんだか分かんないじゃない。
 でもわかるよ、祐哉の気持ち。私も同じだもん。
 もし、祐哉が本土に残ってこっちで仕事をしてたら、きっとこんな気持ちになんてなってなかったと思う。
 きっと祐哉も同じ。私と祐哉が本土で働いていたら、あいつは私に構わず成美だけを見ていたと思う。
 でも島に戻ったら違う。島に居る祐哉には、島に居る私が一番お似合いなんだ。やっぱりここと島との間には境界があるんだよ。私は島に戻りたい。島に居るあいつの傍に居たい。私もあいつが居るあの島が大好きだ。
 私はなんてバカなんだろう。こんな簡単なことに今まで気付かなかったなんて。
 ゴメン、成美。お願いだから私を島に行かせて。だって、祐哉の傍に居たいという気持ちは本物だから。あなたが島に行きたいという気持ちよりも絶対強いと、今なら自信を持って言えるから。
 それにしても祐哉もバカだね。私が島を出たがっていたからって、こんな手紙を出すなんて。そういえばあいつ、大噴火の日にポストの前でぺこぺこお辞儀してたっけ? そうか、この手紙はあの時の手紙だったんだ。
「ありがとう、祐哉……」
 私は島に向かって一言お礼をいうと、再び手紙を胸に抱いて静かに立ち上がる。振り返ると夕陽が空を茜色に染めていた。



「へえ、こんな場所があったんだ、荷倉島に」
 海からの潮風が気持ちの良い小さな谷間に、私と祐哉は二人で腰掛けていた。
「作業をしている時に見つけたんだ。他の奴らには内緒だぜ」
「わかった。こんないい場所、誰にも教えられないわ」
 確かにこの場所は秘密の場所だ。祐哉に連れられて海岸に沿って歩き、入り江を幾つも越えてやっと辿り着いた。
「七海に教えてあげたくて、ずっとずっと待ってたんだぜ」
「ごめん、遅くなっちゃって……」
 それは、私が島に戻ることを決意したあの十二月のこと。私は成美に頼んで、祐哉と三人で話し合う機会を作ってもらった。私が自分の気持ちを正直に打ち明けると、祐哉はちょっと複雑な顔で沈黙した。
『もう遅いんだよ、七海。俺は成美に決めたんだ』と言われるかと思っていた私は、少しほっとした。でも彼の沈黙は、成美にとっては決定打だった。結局彼女は、荷倉村に就職することを諦めた。
『ごめんね、成美。私も就職が確定するまでは、祐哉には決して会わないから』
『そんなのって同情されてるみたいで惨めじゃない。やめてよ』
『私やめない。この誓いは守るわ。だって中途半端は嫌いだから。祐哉も協力して』
『ああ、わかった』
『祐哉、その間に他の女にでも手を出したりしたら、私達二人が決して許さないんだからね。そうでしょ、成美』
『当たり前じゃない。そんなことしたら、私と七海がボコボコにしてやるんだから……』
 泣きじゃくる成美を見ていたら、私も涙が止まらなくなった。最後は三人で固い握手を交わし、しばしの別れを誓った。
 それから私は必死に勉強した。もし荷倉村の採用に落ちたら、介護福祉士の試験に落ちたら、それこそ成美に申し訳が立たないから。たぶん人生で一番勉強したんじゃないのかな。その甲斐あって、私は国家試験に合格し、荷倉村に介護福祉士として採用されることになった。

 祐哉に会えなかった一年と数ヶ月の間に、私の気持ちにも変化があった。
 彼の傍に居たいという気持ちは、『しばらく会えない』という障壁に出会って恋に変わった。『幼馴染』から一生脱皮できないんじゃないかと思っていた私は、ただただ自分自身に驚いた。会いたくて切なくて、何も手につかない時もあった。そんな時は、祐哉からのあの手紙を持って海に出掛けることにした。海辺に座って島を見ながら短いあの手紙を読むと、不思議と心が落ち着いた。
「だって、私はまだ島に戻る資格を得ていないから……」
 ほら、この手紙にも書いてあるじゃない。あいつが好きなのは、島に居る私なんだ。私はまだそれさえも手に入れていない。そう思うことで、自分に檄を飛ばした。
 それにしても人の気持ちって不思議なものね。祐哉が成美と付き合っていた時は、なんとも思わなかったのに。今だったら嫉妬に心乱れて、いつかの都市伝説のように本当に呪いを身に付けていたかも。成美が私を島に戻らせたくなかった気持ちも、今ならよくわかる。
 だから晴れて就職が決まり、私の乗った船が荷倉島に着いた時、私は人目もはばからずに祐哉の胸に飛び込んだ。生まれて初めて、祐哉に抱きしめられたいと思った。そして彼も、しっかりと私を受け止めてくれた。

「この場所って、密かに『風の谷』って呼んでるんだぜ」
「確かに、風が気持ちいいね」
 海から吹く風が絶えず谷を駆け上がり、山頂からの火山ガスはここには到達しないという。その証拠に、この谷の周囲の森は山頂付近の死の森とは異なり、青々と生命の息吹を謳歌させていた。
 そして海に目を向けると、水平線の向こうには私が昨日まで居た本土が見える。
「ねえ、祐哉。この島とあの大地との間には何があると思う?」
 私はやっとのことでその境界を乗り越えた。幼馴染という殻を破りながら。
「そうだな……、昔付き合っていた彼女への未練かな」
 えっ、な、何!?
「このバカ祐哉っ!」
 あんたがそんなことを言えるのは、私がちゃんと隣に居るからなの。それがわかったら、二度とそんなこと言うんじゃないわよ。
「あはははは。やっと元の七海に戻った。港に迎えに行った時からなんかデレデレしちゃって、すごく気持ち悪かったんだよね。これでやっと言えるよ。お帰り、七海」
 そして祐哉はぎゅっと私の手を握る。
「た、ただいま……」
 昔と変わらない海と風と太陽が、私達を祝福してくれていた。



ライトノベル作法研究所 2010夏企画
お題:「境界」「天才」「都市伝説」「手紙」「夜明け」「傘」「水平線」 の中から三つ以上を選び使用する

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