今こそ〇〇キャンプ!2021年05月21日 06時58分30秒

1.今こそ〇〇キャンプ

『凛太朗、ゴールデンウィークの前半、空けといて』
 そんな命令調のラインが届いたのは、四月も終盤になってからだった。
 送り主は角尾穂花(すみび ほのか)。小学校から高校まで一緒の腐れ縁だ。
 大学が別々になって、しばらく話す機会も無いまま「あいつ元気にやってるかな」とふと思った矢先のこと。天災は忘れた頃にやってくる。
『前半っていつだよ?』
 本当は「めんどくせぇ」って返したかったんだけどさ。
 大学も三年生になって、キャンパスライフを謳歌してるからそんな暇はねぇと叫びたいところだけど、コロナの影響で全く予定は入ってない。「いつだよ?」と訊いた時点で、すでに彼女に屈していたような気もする。
 ていうか、ゴールデンウィークって四月二十九日からだよな。それって――
『三日後からに決まってるじゃない』
 マジか。
 相変わらず容赦ねえ。

 俺に対しては遠慮なく物を言う穂花。
 まあ、小学校から一緒なんだから当たり前なのかもしれないが。
 容姿は――うん、可愛い方だ。幼馴染の俺が思いっきり下方修正して言うんだから、どんな感じかは察してくれ。
 高校卒業時の背は一六〇センチくらい、髪はショートでぽっちゃり型、顔の特徴は瞳がでかいことかな。
 大学デビューに成功して垢抜けたという噂も聞いているが、ホントかどうかは不明。月に一度くらい朝に見かけるが、化粧が日に日に上手くなっているから噂はホントなんだろう。
 そんな穂花が俺のスケジュールを押さえようというのだから、不覚にもちょっと期待してしまう自分がいる。

『で、何すんの?』
 デートのお誘いか?
 はたまた勉学に関する悩みとか?
 しかし穂花から返ってきたのは意外な用事だった。
『キャンプよ。キャンプ』
 ええっ、キャンプ?
 そういえばあいつ、地域文化なんとかってフィールド系の学科に進んだって親父さんが言ってたっけ。
 それとは別に、最近女子高生が一人でキャンプするアニメが流行ってるとかどうとか聞いたことがあるけど、まさかそのブームに乗っかろうってわけじゃねえだろうな。
『なんでキャンプ?』
 すると彼女は、驚きの理由を打ち明けた。
『買ったのよ。キャンプ用の山林をパパが』
 ええっ、山林を? 健介さんが?
 マジか!?
 それっていくらするんだよ。
『一人でキャンプする芸能人の動画ってあるじゃない』
 そういえば、そんな動画があるというのは聞いたことがある。
 自分で山林を購入して……って、それかよ。
『その動画にパパがはまって、買っちゃったのよ』
 うほっ、それは剛気なことで。
 値段は一千万? まさかの二千万?
『金持ちやな』
『それが意外と安いのよ。一千坪で五十万くらいらしい。都心から車で二時間もかかるけど』
 五十万!?
 山林ってそんなに安いのか?
『都市計画とやらで宅地に転用できないから安いってパパが言ってた。キャンプなら問題ないけどね』
 
 ――噂に聞くプライベートキャンプ。
 俺は想像する。
 他のキャンパーは誰もいない、ゴールデンウィークの静かな里山。
 焚き火をしても文句は言われないし、ハンモックだって吊るし放題。
 夜になると木々の間から降り注ぐ星の光を浴びながら、パチパチという焚火の音とドリップコーヒーの味と香りを楽しむ。そして鳥のさえずりで目覚めるテントの朝。
 それは俺が思い描いていた理想のキャンプスタイルだった。

『それってどこ? そこでキャンプするってこと? ていうか俺が行ってもいいの?』
 こんなに矢継ぎ早に訊いたらめっちゃ乗り気なのがバレバレじゃんと思いながら、俺は穂花の親父さんの顔を思い浮かべる。
 髭を生やしているけど、いつもニコニコしてる角尾健介(すみび けんすけ)さん。
 俺がキャンプに行ってもいいかどうかは当然、山林の持ち主である健介さんの許しが必要となるだろう。
 まあ、家も隣だし、子供の頃から家族同然だし、会ったらいつもちゃんと挨拶してるし、断られる要素を頭の中で数えてみたが何も見当たらない。
『さっきから車で二時間くらいのところでキャンプするって言ってるじゃん』
 というと北関東か?
 千葉や茨城という可能性もあるが。
『パパがね、凛太朗と行ってくればって提案してくれたの。どう? 空いてる?』
 それなら安心だ。土地所有者の承諾済みってことだから。
 俺の想像の中の焚き火の向こう側に、炎に照らされる穂花の顔が浮かび上がってきた。
 しゃべるとうるさい幼馴染だが、静かな森で黙ってコーヒーを楽しむなら理想の相手かもしれない。
『わかった。行くよ』
『サンキュ。道具はこっちで用意するから凛太朗は着替えだけ持って来てね』

 幼馴染と二人でキャンプ。
 しかもゴールデンウィークなのに周囲に誰もいないスペシャルな環境。
 そんな自由に満ちた土地で、自然に包まれた優雅な時間を満喫する。
 ――今こそプライベートキャンプ!
 心の中のもう一人の自分が叫び出しそうなのを堪え、三日後に味わうであろうさわやかな空気を想像して深呼吸する。
 そんな自分を殴ってやりたくなるような事態が起こるとは、この時の俺、巻羽凛太朗(まきわ りんたろう)は予想すらしていなかった。


2.今こそ〇〇カリ

 そして訪れた四月二十九日。ゴールデンウィークの初日である。
「おはようございます、おじさん、おばさん。ちょっと凛太朗を借りていきますね」
 俺んちの朝の玄関に、元気な穂花の声が響く。
 そんな彼女はばっちりノーメイク。しかも黒のタートルネックにサロペットデニムという完全牧場スタイルで、靴はハイカットのトレッキングシューズ、そしてベージュのニットカーディガンを羽織っている。高校卒業時とあまり変わらねえじゃねぇか。おい、大学デビューはどこ行った。
 まあ、メイクとキャンプというものはお互い最も離れた場所に位置するような気もする。女子が一人でキャンプする物語の主人公が高校生なのも、きっとそういうことなのだろう。
 俺はジーンズにアウトドアっぽい襟シャツとパーカーという出で立ちでスニーカーに足を通し、着替えが入ったバッグ一つを肩に掛けて穂花と一緒に玄関を出た。そして隣の家に向かって挨拶する。
「おはようございます、健介さん。今日はよろしくお願いします」
 健介さんはちょうど、車に荷物を積み込んでいるところだった。
 ていうか、何? この荷物の量。
 健介さん自慢のRV車は、後ろのスペースに荷物がぎっしり積まれていたのだ。
 ――まさか健介さんも一緒に?
 プライベートキャンプ場まで送ってくれるというからかなりの高待遇と喜んでいたのだが、そんなオチが用意されていたのかもしれない。
 ――まあ、誘ってもらってる立場としては贅沢言えないよな。
 ちょっとドキドキが減っちまったと残念に思いながら荷物の積み込みを手伝う。そして車の後部座席に乗り込んだ。

 角尾家と巻羽家に手を振って意気揚々と出発したRV車は、健介さんが運転し、穂花が助手席、俺が後部座席に座る。
 我が町を出るとすぐに高速道路に乗り、荷物が一杯で重そうな車体を健介さんがアクセル全開で加速させた。最初からずっと気になっているが、何だろう、この荷物の量は。俺の隣の後部座席にも、人が乗る余裕がないほど荷物が積まれていた。
 ――てっきり穂花と二人きりだと思っていたのに……。
 でもまあ、それは仕方がないことかもしれない。
 幼馴染で家も隣とはいえ、俺たちは若い男女。父親としては娘が心配でたまらないだろう。
 穂花と二人で焚き火を囲む脳内風景に、健介さんの髭面が加わる。俺なんてよりも、キャンプにマッチしそうな風貌をしているのが羨ましい。
 ――男同士で酒を酌み交わすのも悪くないかもな。
 そう自分に言い聞かせながら、とりあえず俺は訊いてみた。
「キャンプするのに、こんなに荷物が必要なんですか?」
 すると健介さんは驚くべき計画を打ち明ける。
「ああ、この荷物ね。だってこれは五泊分の荷物だからね」
 五泊分!?
 おいおい、そんなこと聞いてないぞ。
 たしか穂花は、二十九日から三泊って言ってたはず。
 すると穂花が補足してくれる。
「パパとママがね、ゴールデンウィーク後半の五月二日から同じ場所でキャンプするの。その荷物もあるのよ。私がそれに参加するかどうかは決めかねてるけど」
 そういうことなのか。
 まあ、そうだよな。もともとキャンプするために山林を買ったんだから、そこで他人だけが楽しむということはあり得ない。
 俺たちがキャンプする三泊分と、健介さんたちの二泊分。どうりで大荷物になるわけだ。
「だから申し訳ないんだけど、五月二日は家まで送ってあげられないんだ。最寄りの駅までになるけどいいかな?」
 健介さんが恐縮しながら、ミラー越しにチラリと視線を向ける。
 いやいやいやいや、そんなの全然構いませんって。
 穂花から帰りの電車賃を用意しとけって言われてたから、それは想定内。
 行きも送ってくれて、しかもプライベートキャンプ場という理想のシチュエーションを貸してくれるだけでも感謝しなくちゃ。
 それよりも穂花と二人っきりというドキドキシチュエーションの方が気になっていた俺は、「問題ないっスよ」とにこやかに恐縮した。

 車はずっと高速道路を走っていた。
 次第に周囲に森林が広がっていき、トンネルもいくつかくぐるようになってくる。
 そして出発から二時間後、インターを降りた車はやがて砂利道を走り始める。いよいよRV車の本領発揮だ。しばらくすると砂利道はわだちがえぐれた山道となり、車と一緒にガタガタと荷物が左右に揺れ始めた。その激しい揺れが十分くらい続いたところで車は停車する。道は行き止まりになっていた。
 こりゃ、人里からかなり来たぞ。
 土地が安いのもうなづける。その証拠に、スマホを見ると見事に圏外だった。
 まいったなと思いながら車を降りると、そこは雑木林が広がるなだらかな丘に挟まれた谷のような場所だった。伸びをすると空気が気持ちいい。名前の知らない鳥の泣き声が木々に反射していた。
「この一帯はうちの土地だから自由に使ってもらっていい。詳細は穂花に聞いてくれ。それでは荷物を降ろすぞ」
 そう言いながら、健介さんは焦るように車から荷物を降ろし始めた。まるで次の用事が迫っているかのように。
 俺はもっと詳しくこの場所についての説明を聞いてみたかったが、せっせと荷物を降ろす健介さんを放っておくわけにもいかない。三泊もするんだから、周囲を探索する時間はたっぷりあるし、健介さんに言われたように詳しくは穂花に聞けばいい。
 俺と穂花が手伝うと、すぐに車は空になった。
 すると健介さんは慌てて車に乗り込む。
「じゃあ、五月二日に来るから。凛太朗くん、穂花のことをよろしく」
 車を切り返した健介さんは、そんな台詞を残して走り去ってしまった。

 ――なんであんなに慌てて行ってしまったんだろう?
 疑問で頭を一杯にしながら、去りゆく車のテールランプを見送る。
 その答えは、すぐに穂花が示してくれた。
「さあ、やるわよ!」
 元気な声で、何かの始動を宣言したのだ。
 振り返ると、いつの間にか穂花は皮手袋に長靴と作業上着を着用し、ゴーグルとマスク姿になっている。そしてひときわ大きな荷物のジッパーを開けると、あるものを取り出した。
「今こそ草刈り。ファイト!」
 それは、エンジン付きの草刈機。
 言われてみて初めて認識したが、行き止まりの道の先に広がっていたのは草ぼうぼうの荒地だった。


3.今こそ〇〇ハラ

 やられた!
 最初からこれが目的だったんだ。
 どうりでうまい話ばかりだと思ったんだよ。着替えだけ持参すれば理想のプライベートキャンプが味わえるなんて。
 でもちょっと考えれば分かること。春になれば山林なんて草ぼうぼうになるに決まってるじゃないか。
 穂花が俺を誘い、健介さんが土地を使わせてくれる理由。それは角尾家のファミリーキャンプのお膳立てに汗を流して貢献せよという意味に違いない。
「ほらほら、早く作業しなくちゃ、夜になっちゃうわよ」
 そう言いながら、穂花は草刈機に燃料を注入している。それは農家のおじさんたちがよく使っている先端の金属製の歯がグルグルと回るタイプの草刈機だった。
 ――でも待てよ。これは草刈機を体験するチャンスかも?
 子供の頃、あれを使ってみたかったことを思い出す。
 やらされるんじゃない。自分からやるんだ。
 発想を転換せよ。ポジティブシンキングから物事は発展する。
「仕方ねえな、この草刈機、どうやって使うんだ?」
 俺なりに頑張った提案だった。心を前向きにして、快適なキャンプを過ごそうと協力的な態度を演出したつもりだった。が、その提案は穂花によって一蹴されたのだ。

「あんた、刈払機取扱作業者の資格、持ってんの?」

 なぬ? カリハライキトリアツカイサギョウシャノシカク?
 なんだそりゃ?
「この草刈機で業務するための資格よ」
 おいおい、それ使うのって資格がいるのかよ。
「ここみたいに自分の土地で使う分にはいらないんだけどね。結構危ない機械だから、使い方の講習も兼ねて資格を取ることが推奨されてるの」
 マジか。
 危ない機械ということは認めるが。
「そういう穂花は持ってんのかよ?」
「もちろん持ってるわ。ていうか、これを使うためにプライベートキャンプに来てるんだから」
 これを使うために?
 瞳をランランと輝かせながら語る穂花。
 いやいや、意味わからん。草刈りと言えば小学校の時から苦行の代表だろ?
 しかしその後の彼女の様子で理由が判明する。
 リコイルスターターを引っ張ってエンジンをかけ、暖気運転を始めた穂花は、「私から十五メートル以内には近づかないで」と俺に警告する。そして鼻歌混じりで草刈機のエンジンをブンブンとふかし、ギュィィィィンという切断音に合わせて叫び声を上げ始めたのだ。
「ったく、余計なこと言いやがって、あのデブ!」
 ええっ? 何だって?
 確かに高校卒業時から俺の体重は増えたが、女子にデブと言われるほどじゃないと思っている。
「教授だからってすべてのゼミ生が従うと思ってんじゃねえ」
 なんだよ、ゼミの話かよ。
 ていうか悪態ついてる相手は教授なのか?
「女だから一人ではフィールドに行けないって?」
 穂花は昔から野外が好きだからな。
 地域文化なんとかのゼミで教授になんか言われたんだろう。
「バカ言ってんじゃないよ。女だってな、フィールド調査はできんだよ」
 ヤバいよ、ヤバい。
 こりゃ、相当ストレスがたまってるわ。
「オラオラオラオラオララララァァァァァ!」
 こんな姿、絶対あいつの彼氏には見せられないぞ。いるかどうかは知らんけど。
 キャンプの相手が俺で本当に良かったよ。
 俺があっけにとられていると、その間に草刈は一段落する。
「ふぅ、すっきりした。やっぱ今こそウサハラだよね」
 満足そうに一息つく穂花。
 なんかそれって言葉の使い方、間違ってない? ただのウサ晴らしなのに、ウサギ使って人を困らせてるみたいに聞こえるから。
 テニスコート一面分くらいの草刈りを終えてた彼女は、満面の笑顔で草刈機のエンジンを止めたのだった。


4.今こそ〇〇ベッド

「じゃあ、刈った草をこの辺りに集めて」
 草刈機を地面に置いた穂花は、平地の真ん中あたりを指さしながら俺に命令する。
 俺は長靴やらが入ったプラスティックケースから軍手を取り出すと、草を鷲掴みにして運び始めた。草刈りをしてもらったんだから、これくらいはやらなくちゃという思いが俺を動かしている。
 久しぶりに至近距離で触れ合う自然。足を運ぶたびに草の匂いがする。うん、見事な雑草だ。
「集めてキャンプファイヤーでもやるのかよ」
 平地の真ん中に草を積み上げながら俺は訊いてみた。
「違うわ。ベッドにするの」
 ベッド?
 干し草じゃあるまいし、こんなものベッドになるのか?
 疑問に思いながらも俺は刈り取られた草をどんどん積み上げていく。
 一方穂花はその草を正方形に並べ始めた。俺がすべての草を集め終わった頃には、二か所に草の正方形が出来上がっていた。
「じゃあ、テントを張るわよ。この上に」
 そうか、ベッドというのはそういうことだったのか。
 確かにこの上にテントを張れば、ある程度ふかふか感を味わえるかもしれない。
「ていうか、二か所?」
 何気なく俺が訊くと、穂花はぽっと頬を赤らめた。
「当り前じゃない。あんたと同じテントで寝たら、何されるかわかんないし……」
 ちょっとうつむき加減に。
 それを聞いて、俺も急に恥ずかしくなる。
 不満げに「二か所?」と訊いた時点で、一つのテントで寝る気満々だったことを明かしているようなもんじゃねぇか。
「何もしねえよ」
 慌てて吐いた捨て台詞が何の効果も上げないほど、すごく気まずい。
 俺たちは必死にテントを組み立てるフリをして、早く時間が経過しないか、そればかり考えていた。

 テントの組み立ては、いい時間稼ぎになった。
 初めての経験だったので、骨組みをどうやって繋げたらいいのか、インナーをどうやって骨組みに固定すればいいのか考えているうちに、先程の気まずさを忘れることができた。
 お互い、それぞれのテントを組み立てる。
 ドーム型になったテントを雑草の上に置き、フライシートを張ってペグで地面に固定する。こうして二張のテントが完成した。
「どれどれ、寝心地はどんな感じだ?」
 早速中に入って寝転んでみる。テントの中は、大人が大の字になって寝られるくらいの広さがあった。
 ――今こそ雑草ベッド!
 と叫んでみたかったが、思ったよりはふかふかではない。それどころか、ゴツゴツした部分が背中に当たってしまう場所もある。寝る場所を選べば問題は無さそうだが。
 難しいもんだと入口から顔を出すと、穂花も納得いかないという表情で隣のテントから顔を出している。俺はなんだか可笑しくなった。

 就寝用のテントが完成したら、今度は荷物用のテントを二人で組み立てる。健介さんの車一杯に積まれていた荷物を入れておくテントだ。
 それは就寝用とは違い、背の高い大きなテントだった。広さは二畳分くらいもある。
「ここはトイレも兼ねてるからね」
 そう言いながら、穂花は段ボール型簡易トイレを組み立てた。形は洋式で、凝固剤を使って汚物を瞬時に固めてしまうタイプのトイレだった。
「あんたは外でやりなさい。どこでも自由に使っていいから」
 いやいや、俺も大はここでやらせてもらうぞ。小は知らんけど。
 簡易トイレをテントの奥に設置し、その横にどんどんと荷物を積み上げていく。
 プラスティックケースのような透明で中身が分かるものはいいが、大きな袋に入っているものは中身がわからず気になった。
 特に気になったのは一番大きな袋。一抱えほどもある。
 持ち上げてみると結構重い。十キロは超えているだろう。パイプやらの突起が体に当たって運びにくい。
「これは何だ?」
「ああ、それは折り畳み自転車よ」
 折り畳み自転車?
 一体何に使うんだ?
「町に出る時使うの。非常時の買い出しとか、お風呂に入りたい時とか」
 そっか、お風呂か。
 そんなこと考えもしなかった。
 言われてみれば結構重要なことじゃねえか。これから三泊もするんだから、その間お風呂に入れなかったら体は臭くなるし、髪もバキバキだろう。
「町にはね、日帰り温泉もあるのよ。あんたはそこの小川の水浴びで十分だけどね」
 なぬ、温泉!? そんなものが近くにあるのか。
 ていうか、穂花もいちいち突っかかるやつだな。ゴールデンウィークのこんな時期に小川で水浴びができるわけねえだろ? 夏なら快適かもしれんけど。
 それより俺は温泉という言葉に強く惹かれていた。プライベートキャンプに温泉が加わったら最強じゃねえか。それに町に出ればスマホも使えるだろう。
「自転車、後で俺も使わせてもらうからな」
 俺はベーっと穂花に向かって舌を出した。


5.今こそ〇〇水

「じゃあ、お昼ご飯の準備をしよっか」
 荷物の収納が終わると穂花が昼飯の提案する。腕時計を見ると、すでに十三時を過ぎていた。
 車に乗ってる時間が長かったからなぁ……。
 ここに来てからの労働が充実していたせいか、ギュウとお腹も鳴っている。
 元のカーディガン姿に着替えた穂花は、荷物テントに入ると中から二つのものを取り出して来た。ポリタンクと、何かが入った薄汚れたトートバッグだ。
「まずは水汲みか?」
「そんなところよ」
 トートバッグからは長い木製の柄が顔をのぞかせている。きっと柄杓だろう。これから川に行って水を汲むに違いない。
 すると穂花は予想外の行動に出た。小川の方ではなく、丘の方へ向かって歩き始めたのだ。
「ちょ、ちょっと。小川に行くんじゃないの?」
「まあ、黙ってついてきなさい」
 穂花は、丘の山際に沿って続く小道を進んでいく。周囲に雑草が茂り、かろうじて踏み跡が見えるくらいの道だ。一分くらい歩いただろうか。正面に高さ三メートルくらいの小さな崖が見えてきた。
「目的地はあそこよ」
 崖は岩肌が露になっていて、土の縞々模様が見えていた。これは地層と言うのだろう。
 それよりも驚いたのは、二メートルくらいの高さにあるその地層から水が流れ落ちていたのだ。水量は蛇口を少しひねったくらいの細さだったが、その下にポリタンクを置いておけば三十分もしないうちに水は一杯になるだろう。
「すごいでしょ!」
 自慢げに穂花が胸を張る。
「これって湧き水か?」
「そうよ。これでご飯を炊いたりコーヒーを淹れたらめっちゃ旨いんだから」
「本当か!?」
 おおおお、それは大歓迎だ。
 というか、湧き水があるなんて理想のプライベートキャンプ場じゃね?
「小川の水だって綺麗だからそこそこ美味しいと思うけど、こっちの方が絶対いいでしょ?」
 そりゃそうだ。
 小川から水を汲んだら、葉っぱとかプランクトンとかいろいろ入ってそうだしな。
 俺は湧き水に近づくと、手を伸ばして落ちてくる水流に触ってみる。
 冷たい。まさに湧き水だ。
 そして掌で水をすくって口に含んだ。
 うん、美味いぞ、これ。水道水とは全然違う。
 ――今こそ自然湧水!
 これから三泊分の食事とコーヒーが、俺はめちゃくちゃ楽しみになっていた。


6.今こそ〇〇燃料

 穂花がポリタンクを湧き水の下に置くと、ババババババと水がポリタンクを叩く音が周囲に響く。湧き出し口から距離があるので、さすがにすべての水がタンクの口から中に入るというわけにもいかなかった。どうやら漏斗は用意してないらしい。
「じゃあ、待っている間、凛太朗はこれをやってて」
 そう言いながら穂花は、地面に置いたトートバッグから飛び出している木の柄を掴んだ。
 取り出したのは柄杓――じゃなくて、小型のツルハシ。
「わかった。これで水を汲むよ、ってツルハシやないかい」
 てっきり柄杓だと思い込んでいた俺は、早速ボケてみる。
 しかし穂花の反応は冷たかった。
「誰がこれで水を汲めと言ったの? あんたがやるのはアレ」
 彼女が指示したのは小さな崖の端。そこには地表から五十センチくらいの高さに、真っ黒な地層が顔を出していた。
「あの黒い地層を掘って、このトートバッグに入れて来るのよ」
 なんだよ、せっかくボケてやったんだから、優しくツッコんでくれたっていいじゃないか。
 全く人使いが荒いんだからと、不満を露わにしながらツルハシを受け取り、トートバッグを持って崖に近づく。そして彼女が指示した黒い地層に目を向けた。
 ――なんだこれ、上下の地層とはちょっと違うぞ。
 二十センチくらいの幅の真っ黒な帯。よく見ると黒光りしている。
 触ってみると、石よりも軽そうな黒い塊が数センチくらいの大きさでボロりと崩れてくる。上下の岩ほど硬そうな感じはしない。
 まてよ、これって普通の岩とは違うんじゃないのか?
 もしかして、これは……。
「おーい、穂花。これって石炭か?」
「そうよ。お見事ね」
 マジか。
 石炭って……燃える石のあの石炭だろ? 蒸気機関車の映像とかでよく見るけど、実際に見たり触ったりするのは始めてだ。
 現れたものがあまりにも予想外だったので、頭が状況を受け入れるのに時間がかかっている。
 しかしここはすげぇ。
 山林が自分たちのものというだけでもすごいのに、湧き水はあるし石炭も採れる。先程妄想した湧き水で炊いたホカホカご飯に、ジュウジュウと石炭に肉汁が滴る焼き肉が加わった。
「よし、掘るぞ!」
 俺は意気揚々と、石炭層に夢中でツルハシを打ちつけたのだ。 

 トートバッグを石炭で一杯にして戻ると、ポリタンクも湧き水で一杯になっていた。
「じゃあ、戻りましょ。悪いけどポリタンクをお願いできるかしら」
 また命令されるかと思ったら、予想外のお願いベースで俺は戸惑う。まあ、なんだかんだ言っても、こき使われることには変わらないんだけどさ。
 俺はトートバッグを地面に置くと、代りにポリタンクを持ち上げた。
「げっ、重っ!」
 ポリタンクの容量は十リットル。つまり十キロの重さが右腕一本にかかっているから当然だ。
 この状態でテントまで戻るのはかなり辛い。着くまでに腰がやられてしまいそうだ。
「片腕だけで持ってるから辛いのよ。ほら、これを左手に持ってみて」
 穂花が石炭が入ったトートバッグを俺の左手に差し出した。
 水に加えて石炭まで持たせるなんて鬼だな、と思いながらトートバッグを掴むと――あれ? 全体の重さは増したのに、ちょっと楽になったような……。
「バランスが重要なの。右手と左手でそれぞれ同じくらいの重さのものを持つようにすると歩きやすいから」
 ていうか、都合よく俺を使ってません?
 結局、ほぼすべての荷物を持たされてるじゃん。
 まあ、このために俺はここに連れて来られたわけだから仕方ないんだけどさ。
 ツルハシだけ持った穂花が、鼻歌混じりで俺の前をスキップし始めた。

「すごいでしょ? この場所。私が見つけたのよ」
 前を歩く穂花が自慢げに振り返る。
 確かにすごい。
 これって地域文化なんとかのフィールドワークの賜物なのだろうか?
「この地域に石炭が出るのは分かっていた。近くの町には昔、大きな炭鉱があったしね」
 ほお、やっぱり調査の賜物なんだ。
 なんだかんだ教授に文句を言っても、ゼミ活動が役立ってんじゃねえか。
「地元の博物館に行っていろいろと教えてもらったの。この付近の山には小さな石炭層が広がってるって。亜瀝青炭で質も低いから地元では無視されてるけど、キャンプするならこれで十分じゃない?」
「ああ、そうだな」
 十分どころか最高だよ。
 まだ燃えるところを見てないから断言はできないけど、ちゃんと燃えるなら盛大な拍手を送りたい。
 だってキャンプに必要な水と燃料がその場所で、しかもタダで手に入るんだよ。動画なんかでうっかり広めたら、たちまち全国から人が押し寄せちゃって、この周辺はプライベートキャンパーの聖地になってしまうに違いない。
 それにしても、こんな使える資源が地元では無視されてるなんて、なんてもったいない。
 まあ、もっと大きな炭鉱があってそこでたくさんの石炭が採れたのなら、あんな二十センチの石炭層なんて屁みたいなものかもしれないけどね。
 ――今こそ自家燃料。
 そんな言葉が俺の頭に浮かび上がる。現代のプライベートキャンプがその価値を再発見させたんだ。
「去年の今ごろからこの周辺をいろいろ歩いて、石炭層があって湧き水もあるこの場所を見つけたの」
 すごいよ穂花。見直したぞ。
 地域文化なんとかに進んだ成果が表れてるじゃないか。
 俺は最初、この土地は健介さんが選んで買ったんだと思っていた。
 が、実際は穂花が買わせてたんだな。
 まあ、可愛い娘のためだし、最高のプライベートキャンプができるなら俺が親でも買っちゃうかも。値段もかなり安いし。
 
 すると突然、ガサガサという音が横の草むらの中から聞こえてきた。
 何か野生動物がいるのだろう。
 距離は約十メートル。一方、動物はこちらに気付くことなく草むらを物色している。
 音の感じから予想するに、そんなに大きな動物ではない。猫くらい、もしかしたら鳥かもしれない。
 ちょうどいい。休憩だ。いい加減疲れたよ、水と石炭の両方持ってるんだから。
 俺はポリタンクとトートバッグを地面に置くと、スマホを取り出し、そろりそろりと草むらの中に入る。もう少し近づけば写真を撮れるだろう。
「ちょ、ちょっと凛太朗。やめておきなよ」
「大丈夫だよ。あの大きさならウサギかタヌキじゃないの?」
 それだったら撮るしかない!
 俺はスマホを目の前で構え、録画を開始しながらさらに近づく。
「待ってよ、凛太朗。私を一人にしないでよ」
 ツルハシをぎゅっと握りしめた穂花が俺の背後にくっついた。
 彼女はこの場所を詳しく知ってるようだったけど、やっぱり女の子なんだなと俺は思う。
 小学生の頃、家の近くを一緒に探検したことを思い出した。ガサゴソしている木の枝が気になって、一緒に塀に登ってどんな動物なのか見に行ってたっけ。
「それに、たとえ可愛い動物が撮れても、SNSには上げられないわよ」
 ここに着いた時にスマホを確認したら圏外だった。
 そのことを穂花は言いたいのだろう。
「あの丘をちょっと登れば電波は入るんだけどね」
 それなら問題はない。
 いい動画が撮れたら、ちょっと丘を登ってポチっとすればいいだけじゃないか。
 俺はさらに近づく。そろりそろりと、ガサゴソする草むらに向かって。オドオドする穂花も俺の背中にぴったりくっついて――とその時、予想外の出来事が起きた。
「あっ!」
「きゃぁ!」
 ふっと体が浮いたと思ったとたん、いきなり周囲が暗転したのだ。


7.今こそ〇〇バル

 ん? 無重力!?
 そんな感覚に、昔の記憶がフラッシュバックする。
 昔、穂花と一緒にこんな体験をしたことが……。

 刹那、お尻に強い痛みを感じる。
「いたたたた……」
 お尻をさすりながら周囲を見回そうとしたが、土ぼこりがすごくて目が開けられない。ようやく目が開けられるようになっても、今度は暗くて周囲がよく見えない。
 地べたに座ったまま頭上を見上げると、はるか遠く上方にぽっかりと空が見える。どうやら俺たちは深い穴に落ちたようだ。
「ちょっと、何なのよ、これ」
 隣には穂花。ゴホゴホと土ぼこりにむせながら同じくお尻をさすっている。
 落ちる時に彼女がぎゅっと右手で俺のことを掴んでくれたおかげで、二人の体は回転することなくお互い一緒にお尻で着地したようだ。頭を打たなくて本当に良かった。
「怪我はないか?」
 俺はスマホのライトをつけて、穂花を照らす。
 彼女は左手でツルハシを掴んだまま座り込んでいた。これが体に刺さらなかったのも不幸中の幸いだろう。
「大丈夫。お尻はめっちゃ痛いけど、その他はどこも打ったり挫いたりしてないみたい」
 俺たちは立ち上がってお互いの無事を確かめる。
 そこは立って歩けるくらいの洞窟で、両手を広げられるくらいの幅があった。洞窟の途中に地表と繋がる穴が開いて、そこに落ちたらしい。そのことを示すように、俺たちが尻もちをついた場所には五十センチくらいの高さで土が堆積している。それがクッションになったというのも、二人が怪我をしなかった要因かもしれない。
 ライトで照らしながらぐるりと見回すと、洞窟は両側に続いている。そしてわずかに傾斜していた。

「やっぱ圏外だな」
 俺はスマホの電波を確認する。
 当然のことだが、洞窟の中も地表と同じく圏外だった。
「さて、どうするか……」
 とりあえず、俺はスマホのライトを切って機内モードに切り替えた。どうなるか全く分からない状況では電池を無駄遣いしない方が得策だろう。
 とにかく怪我をしなくて本当に良かった。
 おかげで次にどうするかを考えることができる。
「外に出れそうもない?」
 穂花の問いに、俺は頭上を見上げる。
 穴の入口まで四メートルくらいはある感じだ。俺の肩の上に穂花が乗っても、外に出れそうにはない。
 同じく穴を見上げる穂花。不安そうな表情を穴から差し込む光が照らしていた。

 というか、さっきのフラッシュバックは何だったのだろう。
 俺は昔、穂花と一緒に無重力体験をしたことがある。
 が、こんな風に穴に落ちたことは一度もない。
 あの記憶は一体……何だ?

「このツルハシを上手く使って出れないの?」
 ぼおっと出口を見上げていた俺は、穂花の言葉で我に返った。
 彼女の言う通り、俺たちにはツルハシがある。
 穴の壁に上手く窪みを作って足場を確保していけば、もしかしたら壁を登れるかもしれない。
「ちょっと試してみる。少し離れてて」
 穂花が距離を取ったことを確認すると、俺は洞窟の壁に向けてツルハシを打ちつける。
 するとツルハシはぐさりと壁に突き刺さり、周囲の岩と一緒にボロボロと崩れてしまった。
 これは危ない。やり過ぎると、さらに天井が崩れてしまうかもしれないし、足場となるような穴を加工しようとしても大きめの崩れやすい穴が開くだけだろう。
「すぐには無理そうだな……」
 俺は、そう呟くのがやっとだった。

「三日後にはパパが来るから、そん時に助けてもらおうよ」
 途方に暮れる俺を見かねて穂花がぽつりと呟く。
 実は俺もそれを考えていた。
 俺たちが置かれた状況は、それほどまで悲観するものではないのだ。誰も来ない場所で遭難したわけじゃなく、三日後には確実に健介さんたちがやって来るのだから。
 俺たちが落ちた穴の近くには、ポリタンクと石炭が不自然に置き去られている。だから場所もすぐに特定してくれるだろう。
 三日後の救出を当てにするなら、無理に脱出を測って事態を悪くすることはない。穴が崩れて致命的な怪我をしたら元も子もないからだ。それまでの期間を耐え抜くことを考えた方がよい。
 ――今こそサバイバルか……。
 とりあえず必要なのは水と食料、そして適度な温度だ。
 たとえすべてが得られなくても、この場所なら三日間じっとしていれば乗り切れないこともなさそうだ。洞窟だから雨風も凌げそうだし。
 が、ひもじくて寒くて退屈な時間が続くのは間違いない。ゴールデンウィークとはいえ、まだ四月。この場所は暖かい都心ではなく、車で二時間も離れた田舎の山林なのだから。
「せめて水があればいいのにね」
 穂花は自分のスマホを取り出し、ライトで洞窟の壁を照らし始めた。
「ほら、地上には湧き水があったじゃない。だったら地下にあっても不思議じゃないと思うんだけど……」
 それは盲点だった。
 もし洞窟の壁から水が湧いていたら、それは飲める可能性がある。
「じゃあ探検してみようぜ」
「うん」
 こうして俺たちは洞窟の中を探検することになった。

 まずは傾斜の上方に伸びる洞窟に進んでみる。
 俺がスマホで洞窟内を照らし、穂花と離れないようにして一歩一歩慎重に進む。
 照らされる洞窟の壁にはツルハシで削ったような筋模様が見える。どうやらこの洞窟は自然にできたものではなく、人力で掘られたもののようだ。
 壁面には一メートルを超える幅の黒い地層も見える。黒光りする部分もあるから石炭層だろう。となれば、この洞窟は昔の炭鉱だったのかもしれない。その証拠に石炭層の傾きと洞窟の傾斜はほぼ同じだった。
 それならば、どこかに出口があるはずだ。そこに辿り着くことができれば俺たちはここから脱出できる。しかし――
「行き止まりだ」
 五メートルくらい進んだところで、洞窟は崩れた土砂によって閉ざされていたのだ。

 次は傾斜の下方に進んでみる。
 が、落下地点から二メートルくらい進んだところで俺たちは歩みを止めた。ぴちゃぴちゃと足音がし始めたからだ。
「水だ!」
 照らすと前方に水面が見えた。洞窟の先は水没して行き止まりだった。
「これが飲めるといいんだが……」
 でも洞窟内に水があることが分かった。これは大きな一歩だ。たとえこの水が飲用に適していなくても、水があるということは大きな希望になる。
「飲めるかどうかは、水の温度で予想できるわ。常温だったら雨水が溜まっただけかもしれないけど、冷たかったら湧き水の可能性がある」
 さすがは地域文化なんとかゼミ。
 まあ、湧き水や石炭があるキャンプサイトを見つけるだけでもすごいんだけどさ。
 俺たちはタイミングを合わせたように、同時にしゃがんで水に手をつける。そして驚きの言葉を上げたのだった。


8.今こそ〇〇食

「あったかい!」
「これ、温泉だ!!」

 驚いた。
 まさか洞窟の中に温かい水が溜まっているとは。
 周囲の壁から温泉が湧き出ている様子は無かったから、この水溜まりの中でお湯が湧いているのだろう。それならば、もしかしたら飲めるかもしれない。
 たとえ飲めなくても、足をつければ暖を取ることができる。
 サバイバルに必要な水と温度が確保できることが分かって、俺はほっと一息ついた。

 ひとまず俺たちは、落ちてきた穴の下に戻る。
 差し込む光に照らされる穂花の表情も、安堵に満ちていた。
「あとは食料、か……。じゃあ、今こそ出番ね」
 そう言いながら、穂花はニットのカーディガンを脱ぎ始めた。
 おいおい、何を始めようというんだ?
 ていうか、なぜ脱いだ?
 まさか「私を召し上がれ」なんてバカなことを言うわけじゃねぇだろうな。
 驚いた俺は、思わずスマホのライトで穂花を照らす。カーディガンを脱いだ彼女の上半身は、黒のハイネックがメリハリのある女性らしい体のラインを露わにしていた。
 ――こいつ、いつの間にこんなに成長したんだ!?
 存在を主張する胸が、サロペットデニムの胸ポケットの部分を押し上げている。
 俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
「ちょ、ちょっとじろじろ見ないでよ。照らすのもやめて。温泉に入るわけじゃないんだから」
 恥ずかしそうに穂花は、脱いだカーディガンを胸の前で抱く。
「このニットを解くのよ」
「解いてどうするんだ?」
 とりあえず訊いてみる。
 穂花が何をしたいのか、全くわからなかった。
「食べるのよ」
 えっ? 食べる?
 このカーディガンを??
「このニットはカゼイン繊維でできているの。つまり百パーセントのミルク由来」
 カゼイン繊維? ミルク由来? そんなものが食べられるのか?
 穂花は歯を使って、カーディガンの袖口を解いていく。
 すると袖口から編む前の毛糸がだんだんと伸びていった。
「これを短くちぎってあの温泉につけてから口に含めば、水分も取れるし、空腹を満すことはできなくても癒すことはできるんじゃないかな」
 その説明で、やっと俺は理解した。
 これはすごい。このカーディガンは正にサバイバル用の服じゃないか。
 ――今こそ繊維食!?
 贅沢は言ってられない。
 でもこれで俺たちは、この場所で三日間を乗り越えられるような気がした。

 その時。
 頭上でガサガサという草の音がする。
 と同時に、何かが穴の中に落ちて来たのだ。


9.今こそ〇〇作戦

「危ない!」
 とっさに穂花を庇う。
 落ちて来たものが頭に当たらぬよう、彼女を洞窟の壁に体で押し付けた。
「痛ぇ!」
 そいつは俺の背中に当たると洞窟内に転がった。
 そして俺たちの周りをぐるぐると回り始めたのだ。
「きゃあ、何、これ?」
 大きさは猫くらいの小動物。
 目を凝らすと小さな豚のような格好をしていて、茶色とアイボリーの縞々模様が見える。
「イノシシの子供だ」
 そう、それは可愛らしいウリ坊だった。
 ブヒブヒと豚のような鳴き声を発しながら、洞窟の上の方へ消えて行く。
「むふふふ、バカなやつめ。そっちは行き止まりだ」
 まあ、この洞窟はどっちに行っても行き止まりなんだけど。
 俺はツルハシを手にする。
「こいつの一撃で仕留めれば、食えるかもよ?」
 すると穂花が必死に俺のことを止めた。
「やめようよ。たとえ殺すことができても、火もナイフも無いから食べれないよ」
 まあ、火とナイフがあっても俺には解体なんてできないが。
「それに匂いを嗅ぎつけて母親がやってくるよ。そんなのが落ちてき来たら、私たち終わりだよ」
 確かにそれはカンベンだ。
 巨体の母イノシシが落ちてきたら、このツルハシで戦える自信は俺にはない。
「じゃあ、どうすればいいんだよ?」
 穂花はすこし考えた後に提案する。
「あの穴から外に投げ返せばいいんじゃない?」
 投げ返す?
 あのウリ坊を?
 もしかしたらあいつは、俺たちが穴に落ちる直前に草むらでガサゴソしてたやつじゃないのか?
 だったらあいつは俺たちを窮地に陥れた張本人、いや張本猪なんだぞ。
 そんなやつをタダで帰してやれるほど、俺はお人よしじゃない。

 ん? タダでは帰さない?
 そうか、その手があったか!?
 その時俺は、すごいアイディアを思いついたのだ。

「穂花、お前のスマホでメール送信予約の設定をしてくれないか?」
「えっ、私のスマホで?」
「そうだ。健介さんにSOSメールを送るんだよ。一時間に一回の頻度で、これから三日間」
「そんなことしたってここは圏外なんだけど」
「だからあいつを使うんだ。ここは圏外でも、丘の上なら電波が通じるんだろ?」
 はっとした表情をする穂花。
 俺の作戦をようやく理解したようだ。
「俺はこれからこのカーディガンを解いて、できるだけ長い毛糸を作る。それを使って、穂花のスマホをあのウリ坊に結び付けて、外に放り投げるんだ」
 きっとウリ坊は、母親を探して丘の上に上がるだろう。
 その時がチャンス。一時間に一回の発信にしておけば電池の消耗も少ないし、きっと健介さんにメールが届く。
 ――今こそ猪メール大作戦!
 これは俺たちの明日を賭けた戦いだ。この洞窟で縮こまったまま寒さに震える夜を迎えるか、それとも足を伸ばして焚き火の前でうたた寝できるかは、この作戦の成否に掛かっている。
「わかった。でも何で私のスマホなの?」
「だってお前のスマホじゃなきゃ、メールが届いても健介さんに信じてもらえないだろ?」
 俺のスマホで俺の両親にメールを送るという手もある。
 でも俺の両親はこの場所を知らないので、結局健介さんに連絡を取ることになるのだ。それなら穂花のスマホから直接メールを送った方がいい。
「そういうことね。ちょっと時間をちょうだい」
「ああ、俺もこのカーディガンを解くのに時間がかかりそうだしな」
 こうして俺たちは必死に作業を始めた。
 ウリ坊を探すイノシシの母親がここに落ちて来る前に。
 解いた毛糸の長さが二メートルくらいに達した俺は、今度はウリ坊を捕獲しようと格闘する。が、これが難しかった。ちょろちょろと逃げ回って、素直には捕まってくれないのだ。
「捕まえた!」
「できた、設定!」
 やっとのことで捕獲に成功したと同時に、穂花もスマホのメール予約発信設定を完了した。


10.今こそ〇〇ドーム

 捕獲したウリ坊を穂花に押さえてもらい、毛糸で彼女のスマホをウリ坊の背中に固定する。手順はこんな感じだった。
 まず液晶画面を下にしてスマホをウリ坊の背中に押し付ける。そして解いた毛糸を使って、ウリ坊の胴体や首をスマホと一緒にぐるぐる巻きにしたのだ。この時、背面に貼り付けられていたスマホリングが役に立った。リングに何回も毛糸を通しておいたからしっかりと固定されてるし、糸が切れない限りスマホが落ちることはないだろう。
「じゃあ、穴に向かって投げるぞ」
 俺は立ち上がり、ウリ坊を胸の前でしっかりと抱いた。
 すでに俺たちに慣れつつあるウリ坊は、大人しく俺の胸に抱かれている。それどころか、人懐こい可愛らしい視線を俺に向け始めていた。
 ――おいおい、そんなつぶらな瞳で見つめられたら投げにくいじゃねえか。
 目を閉じて心を鬼にする。
 すべてはお前にかかっているのだ。明日と明後日の俺たちが快適に過ごせるかどうかが。
 俺は一つ深呼吸すると、目を開けてぐっと深くしゃがみこみ、「行けーっ!」と掛け声と供にウリ坊を投げ上げた。
 クルクルと横ロールするウリ坊は、なんとか穴の外に飛んで行く。そしてガサっと草の音がしたかと思うと、ガサガサと草をかき分ける音が遠ざかって行った。どうやら無事に地上に降り立ったようだ。
「あとは運を天に任せるだけだな……」
 穂花を向いて呟くと、彼女は「そうね」と静かにうなづいた。

「ゼミの先輩方はみんないい人なんだけど、教授がね……」
 ウリ坊を投げ上げてから六時間が経過した。
 もう二十時だ。洞窟の中は真っ暗。穴の入口からは、ぼやっとした淡い光が差し込んでいた。きっと月が出ているのだろう。
 俺たちは洞窟の壁に背を預けて座り、この二年間についての話をする。別々にキャンパスライフを過ごしていた、お互いが知らない時間について。こういうのは焚火を挟んでコーヒーの香りと供に味わいたかったのだが、こんな状況だから仕方がない。
 話しに夢中になっていると時間が経つのを忘れることができた。お腹が空いてくれば、毛糸をツルハシの汚れていない刃の根元の部分で短く切って、温泉に付けてから口に含む。十分くらいくちゃくちゃしていると柔らかくなって、飲み込むことができた。
 トイレに行きたくなった時のために、上側の洞窟の行き止まりに穴を掘って簡易トイレを作っている。朝以降はほとんど何も食べていないので、大に行きたくならないのが救いだった。
「そろそろ横になろうぜ」
「そうね……」
 さすがに六時間も話していると疲れてくる。
 俺たちは堆積する土砂の柔らかい場所を選んで横になった。この際、服が汚れるなんて気にしている場合じゃない。できるだけ体力を温存することが大切だ。
「ウリ坊ちゃん、ちゃんとスマホを運んでくれてるかしら……」
 SOSメールが健介さんに届けば、その二時間後には来てくれるはず。
 誰も来てくれないのは、穂花のスマホが圏外のままであることを示していた。
 ――頼むから丘の上に運んでくれ、ウリ坊ちゃん!
 仰向けになり、わずかに明るい出口の穴を見つめながら俺は祈っていた。

 それから一時間。
 眠れずに俺は、今日起きたことを思い出していた。
 ここに着いて、草刈りして、テントを張って、水と石炭を採りに行って……。
 そこまでは最高の体験だったのに、今はこうして穂花と土まみれになって洞窟で横になっている。
 何でこうなった? 何を間違えた? 俺が草むらに行かなければ良かったのか?
 でも地下にこんな洞窟があるのなら、いずれは誰かが落ちてしまうような気がする。そういう意味では、俺は見事に角尾家のファミリーキャンプのお膳立てをしたのだ。数ヶ月いや数年という長い目で見た時の貢献度はでかいに違いない。
 出口からの淡い光のおかげで、全くの暗闇ではなくうっすらと周囲が見える。それは心強く、有難かった。
 ぼんやりと出口を見上げていて思い起こすのは、ここに落ちた時の無重力感のフラッシュバック。
 あれは一体なんだったんだろう……。
 それとウリ坊が落ちて来た時もデジャヴュを感じた。
 薄らとした記憶だが、俺は昔、迫る危険から穂花を守れなかったことがある。
 だからもう一度同じことが起きたら、今度は絶対穂花のことを守るんだって小学生の俺は心に刻みつけたんだ。その記憶が、ウリ坊が落てきた時の映像と結びついて離れない。俺の二十年の人生の中で、頭上からイノシシが落てきたのは今回が始めてだというのに。
 唯一言えるのは、小学生の頃の後悔と決意によって、ウリ坊から彼女を守ろうと自然に体が動いたことだけだった。

 そんなことを考えていると穂花がそろりと上半身を起こす。そして俺の様子を伺い始めた。俺は慌てて寝たフリをする。
「やっぱ寝られないわ」
 そう小さく呟いた穂花は、上半身を起こしたままゴソゴソと何かをしている。薄目を開けてみると、彼女はサロペットデニムの胸ポケットの中を漁っていた。
「今こそね、これを使うのは……」
 そして取り出したのは、四センチ角くらいの正方形の薄いビニールのパッケージ。中に入っているものの形が、リング状に浮き出ている。
 それって、まさか……コンドーム!?
 穂花はコンドームを握りしめると立ち上がり、そそくさと温泉の方へ歩いて行ってしまった。

 一体、何をしようとしてるんだろう? あいつは。
 コンドームを使って男女がやることと言えば、アレしかないじゃないか。
 ――今こそコンドーム。
 いやいや、今回は副題を復唱しなくていいから。使おうとしているのは穂花なんだし、いや待てよ、いざとなれば使うのは俺なのか?
 それにしても穂花はコンドームを持ってどこに行ったんだろう?
 まさか、温泉に行って身を清めているとか。
 それだったら俺も清めたい。だって俺にとっては初体験なんだから。
 なかなか戻って来ない穂花のことを考えると、股間がムズムズしてくる。一人で悶々としているうちに彼女はあるものを持って戻ってきた。

 それは、水で膨らんだコンドーム。
 きっと温泉を中に入れて来たのだろう。

「あー、これでやっと寝られるわ」
 何をするのかと薄目で観察していると、どうやら頭の下に敷いているようだ。
「枕かよ」
 ドキドキしていた自分がバカらしくなって、思わずツッコんでしまった。
「なに? 起きてたの?」
「ああ。そいつで何をするのかって思ってな」
「ふーん。もしかし凛太朗、期待しちゃった?」
「バ、バカ言うんじゃないよ。おまえなんかに童貞捧げるくらいなら風俗行った方がマシだよ」
 ホントは思いっきり期待してたけど。
 照れ隠しの言葉が思いのほか強くなってしまい、今度は後悔で頭の中が一杯になった。
「ひどい。最低。可愛い幼馴染に向かってそんなこと言う? 私だってこんなところで初体験を迎えるなんてまっぴらだわ」
 穂花を怒らせて申し訳ないと思うと同時に、その後の彼女の言葉が気になってしまう。
 ――こんなところで初体験?
 この言葉を信じるとしたら、たとえ穂花に彼氏がいてもまだ深い関係には至っていないのだろう。
 可笑しくなった俺は、静かに笑い始めた。
「お互い、清い体なんだな」
「そうよ、小学生の頃のまま」
 俺は寝返りを打って穂花を向く。
 彼女はコンドーム水枕に頭を乗せたまま、こちらを向いていた。
 というか、頭を乗せても破れないなんてすごいじゃないか。
「結構破れないんだな、それ」
「すごいでしょ。でも素敵な男性なら、黙って腕枕してくれるんじゃないのかな? そしたらこんなもの必要ないんだけどな」
「悪かったな、素敵な男性じゃなくて」
 ホントにこいつは一言多い。
 ていうか、腕枕なんて思いつきもしなかった。恋愛経験の少なさが悔やまれる。
「こんなところで腕枕なんてしたら、腕がクラッシュ症候群になっちまう」
「それを言うなら橈骨神経麻痺でしょ?」
 ああ言えばこう言う。
 穂花のそんなところは小学校の頃から全く変わらない。
「水枕、気持ちいいのか?」
「めっちゃ快適よ。あんたも使ってみる? まだあるから」
「いや、いいよ。俺は枕が無くても寝られるから」
 まだ持ってるのかよ。
 お前の胸ポケットは四次元なのか?
「コンドームって意外と色々なことに使えるのよ。コンパクトだし、こんな風に水を入れることもできるし、ペロの散歩の時もうんちを持ち帰れるし、いざとなれば買ったものを入れることだってできるんだから」
 百歩譲って最初の三つは認めよう。が、最後のは納得いかねえ。だってコンドームをエコバッグ代わりにするんだよ。そんなの見たことねえよ。女子大生がそんなことするものなら、一発でSNSに上げられて大バズりになっちまう。
 不覚にも俺は、穂花がアイスやペットボトルをコンドームにツッコんで家に持ち帰る姿を想像してしまった。
「だからね、いつもメガビッグサイズを買うことにしてるの。残念ながら凛太朗には使えないわね」
 カチンと来た。
 だから言い返してしまう。
「こう見えても俺だって成長してるんだぜ」
 穂花の胸みたいに――とは言わなかったが。
「無理しなくていいのよ。あんたのちんちんなんて小学生の頃からたっぷり見てるんだから。こんな大きいのをはめたって、すぽって抜けちゃうじゃない」
 言ってくれるじゃないの。こいつ、大人の男ってものを知らないな。
 それなら俺の本気を見せてやる――と、ここでアピールするわけにもいかないし。
「まあ、そうだな。俺のちんちんあの頃のまんまだし、ブカブカで残念だよ」
 言い争ってもしょうがないので俺はゴロリと仰向けになる。
「私の体も、小学生の頃のまんまだよ」
 穂花も仰向けになって腹部をなで始めた。
 なに? その意味深な行動は?
 それよりも俺は、なだらかに盛り上がる双丘の方が気になってしまう。小学生の頃は見事にぺったんこだったぞ。いつの間にか俺たちは、大人ってものになっちまったんだ。
 すると「きゃっ」と穂花が可愛らしい声を出した。
「破れちゃった……」
 彼女の頭を見ると、破裂したコンドームの水で髪をびっしょり濡らしている。
 ふん、ざまあ見ろ。俺のちんちんバカにした罰だ。


11.今こそ〇〇浴

 しばらくすると、隣で横になる穂花がカタカタと震え始めた。
 見ると、乾ききらないままの上半身を丸めて縮こまっている。
「ねえ、凛太朗。なんだか寒くなってきちゃった……」
 ったく、コンドームを水枕なんかにするからこうなるんだよ。
 それとも、もし俺が恋人だったら、黙って抱きしめてあげるシーンなのだろうか……。
 いやいや穂花はただの幼馴染。大切な存在という点は一緒だが。
 一応、コンドームが敗れた直後に穂花は服を絞って乾かしたようだが、こんなところで完全に乾くはずもない。反対側を向かされていた俺には、どうやって乾かしたのかもわからんが。
「だったら温泉に入って来いよ。体が冷えたままにしてると体力が持たないぞ。あと二日もあるんだから」
「ふん、冷たいのね。きっと朝にはパパが助けに来てくれて、凛太朗のこと叱ってもらうんだから。メールにもちゃんと書いておいたし」
 いやいや服を濡らした穂花が悪い。
 それとも抱擁してあげない俺が悪いのか?
 こんな気持ちになるのも、コンドームの件で妙な雰囲気になってしまったのがいけないのだ。あれだけ自分を貫いてきた穂花が、なんだか急にかまってちゃんになっちまって面倒くさい。
 それに俺は間違ったことは言ってない。
 穂花を温めてやってもいいが、そうすると俺も濡れてしまう。温泉という確実に暖を取れる手段があるのだから、それを使って体温を回復するのが合理的と誰もが言うだろう。
 ていうか、健介さん宛てのメールには一体なにが書かれてるんだ?
「私、温泉に入ってくる……」
「ああ、ゆっくりと温まってくるんだぞ。何かあったらすぐに呼んでくれ」

 穂花が行ってしまうと、俺は仰向けになって一人考える。
 さっきのは、あまりに冷たい態度だったのだろうか――と。
 俺はあいつの恋人なんかじゃない。もしあいつに彼氏がいるなら、抱きしめるなんてやってはいけない行為じゃないか。
 そもそも俺は、あいつに好意を持っているのだろうか?
 いやいや、そんなことはありえない。好きとか愛してるとか、そんな言葉をあいつの笑顔に重ねたことは一度も無かった。今までも、そして今この時も。
 小学校からずっと一緒の女の子。中学校、高校と、いつも必ず傍にいた。
 そうだよ、あいつは俺の生活の一部なんだ。見ている世界の背景なんだ。好きとか愛してるとかじゃなくて、いなくなったら困る存在なんだよ
 そんなことを考えていたら、ゴゴゴゴという地鳴りが聞こえてきた。
 背中を地面につけていたから感じやすかったこともあるだろう。
 脳が「地震」と判断する前に、俺の体は動いていた。

 あの時、俺は、穂花のことを守れなかった。
 それなら、今こそ――

「ちょ、ちょっと何すんのよ!」
 暗闇の中、俺は靴のまま温泉に入り手探りで穂花の腕を掴む。
 そして思いっきり体を引き寄せ、入口の穴の下まで慌てて駆け戻った。
「地震だ!」
 俺は叫ぶと、穂花の頭を守るよう右腕で彼女の頭を覆い、左腕でしっかりと抱きしめた。
 そこでやっと、彼女も地面の振動に気が付いた。
 ボロボロと洞窟の壁の一部が崩れる。温泉がある方の洞窟からは、暗闇の中でゴオッっと地面を揺るがすような不気味が音がする。
 ――頼むから早くおさまってくれ!
 後から考えると揺れは十秒くらいだったのかもしれない。が、俺には数分のも長さに感じられた。もし落盤が起きればただで済むとは思えないのだから。出口が見えるこの場所が、唯一地表と繋がる希望だった。
 揺れがおさまっても俺は、しばらくの間穂花を抱きしめていた。
「あのぅ、凛太朗? 私、素っ裸なんだけど……」
 やがてぽつりと穂花が呟く。
 言われてみて初めて認識する。なにか柔らかいものが俺の腹部から胸部にかけて押し付けられていることを。
 でも、そんなことよりもっと大事なことに俺は気付いたんだ。
 今俺の腕の中には――決して失ってはいけない存在があることに。
「穂花が無事で良かった。もし洞窟が崩れたらって思ったら自然に体が動いてた。穂花がいなくなった世界を想像しただけで、胸が張り裂けそうになったんだ……」
 どんなにののしられてもいい。スケベと軽蔑されてもいい。
 これが俺の本当の気持ちなんだから。
「それにやっと思い出した。木の上の猫のこと」

 あれは小学二年生の時のこと。
 葉が茂る木の枝の中で何かがガサゴソしているが気になった俺は、嫌がる穂花と一緒に塀に登って近くで見ようとした。
 その正体は猫だった。
 飛びかかってきた猫に驚いた俺たちは、二人一緒に塀から落ちて地面に尻もちを着くことになったんだ。
 そんな俺たちの上に落下して来る猫。
 俺は猫を振り払って穂花を守るべきだった。
 が、その時俺が取ったのは、自分だけ逃げようとする最低の行動だった。
 立ち上がろうと俺は地面に手を着く。その時、不運が起きた。俺の手は、穂花のお腹の上に着地した猫のしっぽを強く地面に押し付ける形になってしまったのだ。びっくりした猫が穂花のことを思いっきり引っ掻く。尻もちを着いて露わになった彼女のおへそあたりを。
「ギャー」
 穂花の悲鳴と、止まらない泣き声が脳裏に蘇る。
 悲劇はそれだけでは終わらなかった。穂花は猫ひっかき病にかかってしまい、一週間熱にうなされることになった。
 空席が続く穂花の机を見つめながら、俺は深く後悔に苛まれる。
 ――穂花が死んじゃったらどうしよう……。
 俺のせいだ。自分だけ逃げようとしたからこんなことになったんだ。
 なんて最低な人間なんだ。熱にうなされるのは自分であるべきなんだ。
 そして心に誓ったんだ。
 ――これからは穂花のことを守ってあげなくちゃ。
 彼女の身に降りかかる危険から、俺が体を張って守ってやる――と。

「やっと思い出したのね。バカ……」
 穂花が上目遣いで俺を見る。
「草むらの中で何かがガサゴソしてた時から、なんか嫌な予感がしてたのよ」
 だから俺が写真を撮ろうとした時、穂花は不安がっていたのか。
 その態度に気づいた時、俺は察するべきだったのかもしれない。
「まるで、あの時と一緒じゃない」
 うん、確かに一緒だ。
 二人で無重力感を味わったのも、動物が落ちてきたことも。
「でもあの時と違うのは、私を守ってくれたこと。今もそうだけど、ウリ坊が落ちて来た時も嬉しかった。凛太朗も成長したのね。ありがとう……」
 最後のお礼はうつむき加減に。
 穂花からお礼を言われるなんて滅多にないんだから、ちゃんと目を見て言って欲しかったかも。
 すると穂花は左手を上げ、彼女の頭に添えた俺の右手を掴む。そして彼女のお腹をさするようにと掴んだ手を誘導した。
「ほら、あの時の傷。まだミミズ腫れが残ってる」
 右手から伝わる穂花の柔らかいお腹は、少しデコボコしていた。
 小学生の頃から変わらない、俺だけが知っている彼女の秘密。
「これのせいで私はビキニが着れないんだからね。責任取るって、あの時言ったよね?」
 ええっ? そんなこと言ったっけ?
 穂花を守ると心の底から誓ったけど。
 もし言ったとしても、小学二年の責任と大学三年の責任はかなり違うような気がしないでもないが……。
 でもそれもいいかかなと思う。穂花を一生守るということは、結局同じことなのだから。
「ああ……」
 俺は穂花をぎゅっと抱きしめる。
 彼女も俺の胸に抱かれたまま、体を預けてくれた。

「ちょっと寒くなってきたから、また温泉に入りたいんだけど……」
 一分くらいすると穂花が耳元でささやく。
 柔らかい彼女の体。抱きしめていると不思議と心が温かくなる。この時が永遠に続けばいいと思うくらいに。
 そんな気持ちに浸っていたから、もしかしたら三分くらいは抱きしめていたのかもしれない。
「ゴメン、穂花。もう揺れは収まったみたいだから、風邪を引く前にまた温泉につかった方がいいな」
「うん、そうする……」
 俺たちは名残惜しそうに体を離す。
 薄明りにぼんやりと浮かび上がる穂花の体はとても美しかった。そして彼女は温泉の方へ駆けて行く。
「あれ? あれれ?」
 しかし暗闇の中から聞こえてきたのは穂花の戸惑う声。
「温泉がないの。今、服を着るから、そしたらライトを付けて来てみて」
 彼女の合図で俺が温泉に行ってみると、さっきまであった水面が無くなっている。そしてその先には、今まで水没していた洞窟の先が露わになっていた。


12.今こそ〇〇心

 まるで、何かのアドベンチャーゲームみたいだ。地震が起きて、水没していた洞窟の先が現れるなんて。
 もしゲームだったら、主人公は何をする?
 答えは決まってる。今、行動を起こさない手はない。
「穂花、この洞窟の先へ進んでみないか?」
 後で思い起こせば、男ってなんて勝手な生き物なんだと思う。
 心の半分が大切なもので満たされた。すると、残りの半分が相反するものを要求する。
 ――今こそ冒険心!
 心の男の子の部分がそう叫んでいた。
「ねえ、凛太朗。やめようよ、また地震が来るかもしれないし」
 冷静に考えれば穂花の意見の方が正しいのは明らかだ。が、この時の俺はすっかり変な高揚感に捕らわれてしまっていた。
 ――彼女の手を握っていれば、俺はなんでもできる。
 一体どこからこんな得体の知れない自信が湧いて来たのだろう。
 一度ツルハシを取りに戻った俺は、ツルハシを穂花に渡す。
「大丈夫。俺たちなら行ける」
 そう宣言すると左手で彼女の手を握り、右手でスマホライトを掲げて洞窟の先へ進み始めた。

 十メートルくらい進むと、洞窟をふさぐように土砂が溜まっていた。
 土砂の上面と洞窟の天井との間には隙間があり、水が流れたような跡が見える。きっと地震が起きる前はこの場所は塞がれていて、土砂が水を堰き止めていたのだろう。その証拠に、土砂の窪みにはまだ温泉が残っていた。
 地震の揺れで土砂がゆるみ、一番弱いところが壊れて水が流れ出たに違いない。そういえば揺れている時にこちらの洞窟からゴオッとすごい音がしたけど、あれは水が流れ出る音だったんだ。
「ここを掘るぞ」
 俺はがむしゃらにツルハシを使って堆積する土砂を掘る。すると隙間の向こう側に、洞窟の暗闇が続いているのが見えた。
「穂花もちょっと掘るといい」
 労働せよという意味ではない。もし彼女の体が冷えてしまっているなら、適度な運動で温まった方が良いと考えたからだ。
 こうして二十分くらい交代で掘っていると、人がしゃがんで通れるくらいの隙間を作ることができた。
 この隙間を通り抜けると、もう土砂が溜まっている場所はなかった。水が流れた跡を追うように、俺たちは傾斜する洞窟を下方に向けて歩く。そして五百メートルくらい進んだところで、洞窟の先に出口らしきものが見えてきたのだ。


13.今こそ〇〇!

「穂花、あれ、出口じゃないか?」
「ホント!?」
 彼女の手をぎゅっと握る。
 そこから二人は駆け足になった。洞窟の出口は、キャンプ地に行く時に通った砂利道に面していたのだ。
「やった!」
「脱出できた!」
 ツルハシを放り投げ、俺たちは手を取り合って喜ぶ。
 月明かりが穂花のとびっきりの笑顔を照らす。遠くには町の光も見えた。俺たちは助かったのだ。
 ふと穂花を見ると、彼女が着ているカーディガンは半袖になっていた。それもそのはず、散々解いて食べたり、ウリ坊にスマホをくくり付けたりしたんだから。それは俺たちの勝利を象徴するニットのベストだった。
 感極まった俺は穂花を抱きしめる。彼女も素直に体を預けてくれた。
 ――二人だから頑張れた。穂花だから守りたかった。
 体が離れると二人は見つめ合う。
 まさか、こんな日が訪れるとは思わなかった。
 心を揺さぶるくらいに穂花のことを愛おしく感じるなんて。
 するとゆっくりと穂花が目を閉じた。
 ――今こそ!
 意を決した俺が彼女に唇を近づけたその時――見慣れたRV車のヘッドライトが、俺たちのことを照らしたのだ。

「大丈夫か? 穂花! 凛太朗くん!」
 RV車は俺たちの前で停まると、運転手が慌てて下りてきた。健介さんだ。
「大丈夫よ、パパ!」
 穂花が健介さんの胸に飛び込む。
「ありがとうございます、健介さん」
 俺は深々と頭を下げた。
 穂花のメールは、無事に健介さんに届いたのだ。

 それから二人は健介さんの車に乗ってキャンプ地に戻り、テントで服を着替えた。
 着替え終わると町の日帰り温泉に向けて出発する。幸いそこは深夜まで営業している施設だった。
 車の中では、助手席の穂花が一部始終を健介さんに話している。身振り手振りを添えて楽しそうに。
 楽しかった――と訊かれたら、どう答えたらいいのだろう?
 少なくとも確実に言えるのはお互い必死だったということ。決して後悔しないように目の前の出来事に向き合ってきた。そして俺は、小学生の頃の決意を思い出すことができた。
 町の灯りが近くなってスマホの機内モードを解除すると、ピコーンとメールの受信音が鳴る。見ると新規メールが四件、いずれも穂花からだった。
 俺はメールを開く。

『パパへ。
 湧き水に行く途中に開いた穴に落ちて出られなくなりました。
 助けて下さい。穴の場所はポリタンクが目印です。
 凛太朗も一緒です。
 パパ、ママ、今まで本当にありがとう。
 もしものことがあっても、それは好きな人と一緒の幸せな最期でした。
 穂花』

 おいおい、穂花よ。こんなメールを健介さんに送ってたのかよ。
 わざわざ俺にCCしてるって、一種の告白じゃねえか。
 だからキスしようとしている俺たちを見ても、健介さんは何も言わなかったんだ。
 俺は何度も何度もメールを読み返す。
 あの時、俺たちは必死だった。母イノシシがやって来るんじゃないかとビクビクしてた。そしてウリ坊に一縷の望みを託したんだ。ある意味、限界状態だったと言えるだろう。そんの状況下で穂花が嘘を書くとは思えない。
 ありがとう穂花。幸せと言ってくれて俺もすごく嬉しいよ。

 ていうか、これから一時間おきにこのメールが届くのかよ。
 恥ずかしくって悶え死にそう。
 頼むからウリ坊ちゃん、早く圏外へ逃げてくれ〜

 温泉でゆっくりと温まり夕食をとった俺たちは、キャンプ地に戻ってテントで眠る。
 俺は健介さんと同じテントだったけど、疲れていたから眠りはあっという間に訪れた。
 三人で二泊して、予定を一日切り上げて五月一日に帰宅した。角尾家の三人は、予定通り五月二日からプライベートキャンプに出かけたみたいだけど。
 穂花のスマホは結局あきらめることになった。探しに行くこともできたがイノシシの巣にある可能性が高く、わざわざ危険を犯すこともない。幸いデータはほぼ無事だったという。クラウドと同期していたのが功を奏したようだ。
 ウリ坊が運んだ穂花のスマホ。この三日間、あの丘から六十通の想いを届けてくれた。
 それは俺の一生の宝物だ。

 ゴールデンウィークが終わると、俺たちは月に二、三回の頻度でデートを重ねる。
 そこで穂花から聞く健介さんの行動に驚いた。なんでも毎週のようにキャンプ地に通い、洞窟を補強して梯子を設置し、湧き出る温泉を溜める湯船を作っているという。ゆくゆくは洞窟にレールを敷いてトロッコを走らせるとか。いやいやもうそこは、あなたの土地じゃないでしょ!?

 そして夏が来た。
『七月にファミリーキャンプをするんだけど、その前って空いてる?』
 穂花からラインがやって来る。
 付き合い始めて、俺に対する遠慮がさらに無くなった。あからさまに下準備を手伝えと言っている。
 ならば受けて立とう。この間取得した刈払機取扱作業者の資格を活かすのは今こそ!
『それっていつだよ?』
 あの日洞窟の中で抱きしめた穂花の嬉しそうな顔を思い浮かべながら、俺は訊くのであった。



 おわり



ミチル企画 2021GW企画
テーマ:『今こそ』

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