下弦の月に誘われて ― 2014年01月18日 23時28分31秒
月面に『虹の入り江』と呼ばれる場所があることをご存じだろうか。
ちょうど、月のうさぎのしっぽの辺りに位置する半円状の平原で、月観測を趣味とする僕が最も気に入っている場所である。
時は、二〇一三年十二月二十六日の午前二時。
むっくりと寝床から起き上がった僕は、玄関に用意しておいた愛用の口径八〇ミリ屈折天体望遠鏡を抱えてアパートを飛び出し、近所の公園に繰り出した。
「確か今晩は、下弦の月だったよな……」
下弦の月とは、左半分が丸い半月のこと。午前○ 時に東の空から昇り始め、夜明けごろに天頂に達する。午前二時であれば、高層ビルの上あたりにぽっかりと浮かんでいるはずだった。
しかし。
「ええっ、何でぇぇぇぇぇっっ!?」
東の夜空を見上げた僕の目に飛び込んできたのは、下弦ではなく上弦の月だった――
「マ、マジで……」
僕は絶句した。
月は上弦、つまり右半分が丸い半月だったのだ。今晩の月は、左半分が丸い下弦の月のはずなのに……。
「これじゃ、虹の入り江が見えないよ!」
お目当ての虹の入り江は、上弦の月の時には見ることはできない。影の部分になってしまうからだ。
「というか、これってあり得ない……」
へなへなと僕はその場に座り込む。
こんなことは天文学上、いや物理学上あり得なかった。というのも、今見えている月は太陽に向いていない面が光っている。
「あちゃー、気付いちゃいましたねェ」
突然、甲高い声がする。その方向を見ると、小さな影が珍しそうに僕のことを見つめていた。
それは一人の少女。
「君は……」
彼女の姿は異様だった。
黒い網タイツに黒いハイレグのレオタード。バニーガールそっくりの格好だが、お尻に付けられた黒いしっぽは長く、その先端は矢印型になっていた。
「そんなにじっと見ないで下さいッ、恥ずかしいですゥ」
少女はペッタンコの胸を隠すように、くるりと反転する。すると、深く切れ込みの入ったレオタードの背中が露わになった。
そこで存在を主張するものは――背骨の脇から生えている二枚の黒い羽根。
「コスプレ少女?」
「何を言ってるのですかッ!」
突然、しっぽがうなりをあげて僕の方に伸びてくる。
「危ねえっ!」
すんでのところで、僕は矢印型の攻撃を避けた。
「こんなに自在に動くしっぽがコスプレだと言うのですかァ? あなたの目はフシアナですゥ」
だったら何なんだよ。
もしかして、この少女はあのベタな生物だというのか?
「まさか……」
「そうなのです。そのまさかの悪魔さんなのですゥ」
舌足らずの声で宣言しながら、黒づくめの少女は僕に向かってこんにちわをした。
あはははは、悪魔だって?
それに午前二時に上弦の月だなんて、ありえねえことだらけだ。
すっかり可笑しくなった僕は、自分に対して言い聞かせる。
「そうか、これは夢なんだ」
すると少女が反論した。
「違います。これは夢なんかじゃありませんョ」
だったら何なんだよ。
「ここは、悪魔の地下帝国です。それにあそこに見えるのは月ではありません。未練判定機なのですゥ」
未練判定機?
なんだよ、それは?
しかし、続く少女の言葉はさらに衝撃的だった。
「あなたはもう、死んでいるのですョ」
僕が死んでいるって?
何を言っているんだ、この悪魔は。
いやいや、悪魔なんて認めちゃいけない。どう見ても、ただのツルペタコスプレ少女じゃないか。
「ちょっと、そこのあなた。聞こえてますョ」
少女はぷうっと頬を膨らませる。
「僕が死んでいるって、どういうことなんだよ?」
「あなたはもう、死んでいるんですョ。正確にはガス漏れが原因で瀕死状態になっちゃってて、もうじき逝くところなんですけど、魂はもう地下帝国まで来ちゃいましたからねェ。あとは天国に逝くか、地獄に逝くか選ぶだけですョ」
なんだよ、それは。
僕はこんなにピンピンしてるのに。
まあ、どうせ夢なんだから試しに訊いてみよう。
「それで僕は天国に行くのか? それとも地獄に行くのか?」
すると、少女はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりにペッタンコの胸を張って得意顔になる。
「じゃじゃーん、あれを見て下さい」
月を指さす少女。
そういえば、あの月のことを未練判定機って呼んでいたっけ、さっき彼女は。
「あの半月が普通に見えた人は天国、逆側が光って見えた人は地獄に逝けちゃうのですゥ」
ええっ!?
今、逆側が光って見えてるってことは、僕は地獄行きなのか?
「ここのお日様は、天国の象徴なんですョ。つまり、お日様側が光る月が見える人は天国に導かれてるってことで、逆側が光って見えちゃう人は現世に未練ありまくりなのですゥ」
未練ありまくりって何なんだよ。未練があるから地獄行きなのか?
でも僕にそんなものあったっけ?
うーん、来年のクリスマスまでに彼女をつくって一緒に過ごしたかったって未練はあるけど。
あっけにとられる僕に、少女は呼びかける。
「でも大丈夫ですョ」
それは慈悲深い声で。
「あなたは半月の間違いに気付きました。だから、チャンスをあげちゃうのですゥ」
チャンスだって? それは地獄に行かなくて済むのか?
「普通の人は、半月の形なんて気にしないのですゥ。だから、自然に天国か地獄に逝っちゃうんですけど、たまに気が付く人がいるのですゥ。そう、あなたみたいに。だからこうして私が呼ばれて、未練を解決してあげちゃうのですゥ」
少女は瞳を輝かせた。
「ほらほら、どんどんお姉さんに相談しちゃって下さいョ」
少女と一緒にベンチに腰かけると、彼女は僕を見上げながらそう言った。
――こんなにちっこいのにお姉さんかよ。
一緒に並ぶと、身長の差は歴然だった。少女の背丈は小学生くらいしかない。僕は半分笑いながら答える。
「未練? うーん、思いつかないなあ……」
だって、死んでるって実感が無いんだから、未練なんて思いつくわけがない。
彼女が欲しいって言ったって、好きな人のあてがあるわけでもないし、この少女を……って、それは犯罪に近いんじゃないのか?
「遠慮しなくていいのですョ」
そんなこと言われたって、わからないものはわからないんだけど……。
僕が困っていると、不意に右手の甲に温もりを感じる。見ると、少女の左手が上に添えられていた。
――えっ、ホントに彼女になってくれるとか……?
それはダメだよと少女に言おうと向くと、彼女は目をつむって重ねた左手に意識を集中させていた。
そして目を開ける。
「仕方がないので、あなたの最近の行動をスキャンしましたョ。これからあなたの未練を当ててみせますゥ」
なんだよ、スキンシップじゃなくてスキャンだったのかよ。
ていうか、スキャンって……何?
あ然とする僕をよそに、少女は勝手に推理を始める。
「あなたはサークルの仲間と、初日の出を見に行く約束をしましたねェ?」
初日の出?
そういえば、天文サークルの仲間で行くって話になっていたような……。
「あ、ああ」
「問題はその後の三社参りです。鷲宮神社と白川八幡神社は外せないとして、もう一か所を艮神社にするか御袖天満宮にするかで揉めましたね? きっとそれが心残りの原因ですョ」
ええっ? 何、その三社参りって?
というか、全然知らない神社ばかりなんですけど……。
「いや」
僕は一言で否定してやった。
「巫女姿のヒロインって萌えますよねェ~、って、えっ、違うんですか? まあ、そんなこともありますョ。これはほんの小手調べですゥ」
少女はめげない。そして新たな推理を展開する。
「えっとですねェ、未練の原因は、ライトノベルのクライマックスについてですねェ?」
何だよ、そのラノベのタイトルって?
「泣きラノベとして有名な『弁当屋K子』。一流の弁当屋を目指すK子が実家を離れるところが泣けるか、生き別れとなった母親と五十年ぶりに再会するところが泣けるか、それが大問題ですよねェ。いわゆる、弁Kの泣き所ですゥ」
弁慶の泣き所?
それって読んでて泣くところか? ていうか五十年ぶりって、ラノベじゃなくて人生ドラマじゃね?
そもそも、そんなラノベ知らないんだけど……。
「それが気になって、現世に未練を残しちゃったんですねェ?」
「それも違う」
「うッ……」
間髪入れずに僕が否定したものだから、さすがの少女もひるんだ。
だが諦めずに僕に挑んでくる。
「では、狩りですかァ?」
月明かりに八重歯をキラリと輝かせながら。
「狩りには強い武器が必要ですよねェ」
おいおい、なんだか物騒な話になってきたぞ。
「パーティを組む時に、太刀『天上天下天地無双刀』を選ぶか、ボウガン『天上天下唯我独尊砲』を選ぶかで揉めたんじゃないですかァ?」
いや、さっぱりわかんないんだけど……。
というか、なんでこいつはこんな話ばかりしてるんだ?
「全然、話が見えないんだけど。どうして君はさっきから、ラノベとかゲームのような話ばかりしてるんだよ?」
逆に訊いてやった。
すると少女は唇を尖らす。
「私は『君』じゃありませんッ。お姉さんと呼ばなきゃ、教えてあげませんですゥ」
全く扱いにくい悪魔さんだこと。
でも、少女がすねたままでは話が前に進まない。
「なんでこんなことばかり聞くのか、教えて、お姉さん」
言ってやったよ、どうせこれは夢なんだから。
すると少女はニコリと笑って僕に言う。なんて単純なやつ。
「だってあなた、二次元戦士ですよねェ?」
ええっ、二次元戦士ィ?
「誰が?」
「あなたですョ。だって昨晩、『二次元、二次元』って何回もつぶやいていたじゃないですかァ」
いや、二次元なんて言ってないけど……。
「そんなこと言ってないぞ」
「しらばっくれても無駄ですョ。証拠を思念で送っちゃいますからァ」
少女が再び目をつむると、僕の頭の中で何かがこだまする。それは、昨晩僕が寝る間際に発したつぶやきだった。
『今夜は虹の入り江を見るぞ、弦月だし。二時に起きなきゃ、玄関の望遠鏡も忘れずに……。虹の入り江、弦月、二時、玄関……、虹、弦、二時、玄……、zzzzz……』
だはっ、それで二次元かよ。
全く、マスコミのような言葉尻だけを捉えるようなことすんじゃねえ!
僕はすっかり呆れ果てたが、そのおかげで自分のやりたかったことを思い出した。
「そうだよ、虹の入り江だよ!」
「虹の? 入り江……ですかァ?」
少女は首をかしげる。
「僕は虹の入り江が見たかったんだよ。それが未練だ」
少女に向かって僕は高々と宣言した。
「素敵な名前ですねェ、あなたが見たいという場所はァ」
うっとりとした声で少女が相槌を打つ。
確かに、虹の入り江というのはロマンチックな名前だ。
「それで、その入り江はどこにあるのですか? クリスマス諸島ですか? それとも祝福の海?」
あはははは、彼女は虹の入り江が地球上にあると思っているらしい。
まあ、初めて聞いた人ならそう思うのは当たり前かもしれないけど。
僕は笑いをこらえながら訊いてみる。
「だってここは悪魔の地下帝国なんだろ? そんな場所、見れるはずがないじゃないか」
すると少女は、ちっちっと指を振って反論した。
「地下帝国を甘く見ちゃいけませんョ。地上とそっくりに造ってありますからねェ。私のこの翼でひとっ飛びですゥ」
バサバサと翼を広げる少女。
その黒い翼で僕を運んでくれるってことなのか?
それもなんか夢らしくて楽しそうだ。
「さあさあ、虹の入り江がどこにあるのか教えて下さいよォ。とっとと見に行って、未練を解消して、そのまま地獄に逝きましョ!」
そうだな……って、ええっ!?
少女とフライトを楽しむのもいいかなって思っていた僕は、彼女の言葉に引っかかる。
『未練を解消して、そのまま地獄に逝きましョ!』
最後の地獄に行くって、どういうことなんだよ?
未練が解消されれば、地獄に行かなくてもよくなるんじゃないのか?
嬉しそうにはしゃぐ少女を見ながら、僕の心の中には疑念が湧き起こっていた。
――悪魔は魂を地獄に導く使者。
そうだよ。悪魔が魂を天国に導くなんて、なんだかおかしいって思ってたんだ。彼女の行動には、きっと何か企みがあるに違いない。
僕は、なるべく未練を解消しないようにと考えを巡らせ始めた。
「でも残念ながら、虹の入り江は地球上には無いんだ」
作戦を練りながら、僕は虹の入り江のありかについて答える。その言葉に、少女は目をパチクリさせた。
「えっ、地球上にあるんじゃないんですかァ? では惑星アガルタですか? まさかのイカスンデル? 一体どこにあるんですかァ?」
矢継ぎ早の質問に、僕はよくぞ聞いてくれましたと得意顔で月を指さした。
「ほら、あそこだよ」
月を見上げる少女。
「えっ、未練判定機?」
「違うよ、月だよ」
「月……、ですか……」
少女はあごに手を当てて、考え込んでしまった。
――地下帝国には月は無い。
それが僕の作戦だった。
僕の未練を解消するには、現世に戻って月を観察するしか方法は無いのだ。
「ちょっと本部と連絡をとりますから、待ってて下さいィ」
少女は目をつむって、今度はもごもごと口を動かし始めた。きっとそうやって、本部と通信しているのだろう。
――ほらほら、僕を現世に戻すしかないぞ。
期待を込めて少女を見ていると、彼女はパチっと目を開ける。
「大丈夫です。未練判定機は現実の月とそっくりに造ってあるそうですョ。ほらほら、そこの望遠鏡で見ちゃってくださいョ」
ふふふ、やはりそうきたか。
「ごめん、ダメなんだよ。虹の入り江は、あの月の光っていない方にあるんだ。だから反対側を光らせてくれないと見えないんだよ」
「へえ、そうなんですか。でも簡単ですョ。本部に連絡して、反対側を光らせてもらうように頼んであげますからァ」
そう言って、少女は再び目を閉じた。
――よし、引っかかった!
僕がガッツポーズをとろうとした時、
「あわわわわ、それはダメですよォ。そんなことしたら、正しい形の月になっちゃって、あなたは天国逝きが決定しちゃうじゃないですかァ。あなたを地獄に連れて行けなくなったら本部に怒られちゃいますゥ」
少女はあわてて目を開いた。
ちぇっ、失敗したか……。
ていうか、やっぱり僕を地獄に連れて行こうとしてたんじゃないかよ。
「だったら僕を現実世界に戻すしかないよ。あそこでは月は下弦で、虹の入り江も見えるはずなんだから」
僕は当初の作戦に切り替えた。
「そんなに虹の入り江が見たいんですかァ?」
少女は疑いの眼差しで僕を見上げる。
「本当は、月の観察よりも彼女が欲しいんじゃないんですかァ?」
ペッタンコの胸を強調するようにのけぞりながら。
――おっと、敵も作戦を変えてきたな。
予想外の色仕掛け。でも僕は幼女フェチじゃないし……。
それに、少女が僕に本物の恋心を抱いてくれるとは、とても思えなかった。だってこれは、彼女にとってはただの仕事なんだから。
「今は、ものすごく虹の入り江が見たいんだよ」
僕は自分の望みを強調する。
「それは何故ですかァ? 私には魅力がありませんかァ?」
残念ながらね。もう少し大きくなったら相手をしてあげるけど……。
少女の努力が意地らしくなった僕は、虹の入り江が見たい理由をちゃんと教えてあげる。
「虹の入り江にはね、今、月探査機が着陸しているんだよ」
「月探査機ィ?」
「そう、虹の入り江を走りながら調査を行っているんだ」
「へえ……」
少女は僕の話に聞き入りながら月、じゃなかった未練判定機を見上げた。
「でも、そんな小さなもの、その望遠鏡じゃ見えないでしョ?」
そう、探査機自体は見えない。小さすぎて。
「それがさ、見えるんだよ。探査機の通った跡が」
まるでナスカの地上絵のように。
「面白いことに、探査機の通った跡がだんだんと文字のような形になってきているんだよ。僕はそれが完成するのを見たいんだ」
僕は十日前からずっとその様子を見ていた。虹の入り江に線のようなものが浮かび上がり、だんだんと形を成していく様子を。それはすごく楽しかった。
僕の熱意は少女にも伝わったようだ。
「それなら私も」
少女は立ち上がる。
「見てみたいですゥ!」
再び瞳を輝かせながら。
こうして僕は現世に戻ってきた。そして公園で望遠鏡を組み立てている。
「まだですかァ?」
僕をせかす可愛いコスプレ少女に月を見せるために。
「ほら、見えるようになったよ。この黒い半円状のところが虹の入り江だよ」
「見せて下さいィ!」
少女はかぶりつくように望遠鏡の接眼レンズに目を当てた。
「えっ?」
そして小さく驚きの声を上げる。
「入り江って名前なのに、水が無いじゃないですかァ?」
あはははは、そうか、彼女は月を見るのは初めてなんだ。
頭にはてなマークを浮かべている様子は何とも愛らしい。だから僕は、丁寧に説明してあげる。
「月には海や川はないんだよ。だって、液体状の水はほとんど存在しないんだから。でも望遠鏡で見ると、黒く平らな所と白く凸凹している所があるのがわかるだろ? いつしか人々は、黒く平らに見えるところを『月の海』と呼ぶようになったんだ」
すると少女は望遠鏡をのぞきながら、不満を漏らし始めた。
「おかしいですゥ、水がないのに海だなんて。インチキです、詐欺ですゥ。それにここに見えているのは入り江じゃなくて、ただの平原ですゥ」
ぶつぶつと文句を言う少女に、僕は可笑しくなる。
少女の言い分はもっともだ。僕も子供の頃は、彼女と同じ疑問にもどかしさを感じていた。
「ほら、視野の左の方を見て。何か文字のようなものが見えるだろ?」
「えっ、どこですか?」
少女はしばらく瞳をさまよわせ、
「あった、あった! ありましたァ!!」
歓喜の声を上げた。
「すごいですゥ。なんだか『虹』という文字が出来上がりそうな感じですねェ」
「そうそう、それだよ探査機の跡は。でも二、三日前からその先が進まなくて、どうしちゃったのかと心配してるんだ。探査機が壊れちゃったのかな?」
僕がため息をつくと、少女は望遠鏡から目を離し、えへんとペッタンコの胸を張った。
「私が行ってきますョ」
えええっ、月に?
「そして文字を完成させて来ますゥ」
そう言いながら背中の翼を羽ばたき始めた。
「あなたはここで待ってて下さいョ」
「ちょ……」
呆然とする僕を置いて、少女は月に向かって飛んで行った。
「あーあ、行っちゃった……」
公園に残された僕は、一人月を見上げる。が、いつまで経っても少女が戻る気配はない。
「今までの出来事は、いったい何だったのだろう……?」
仕方が無いので、僕は望遠鏡を抱えてアパートに戻ることにした。
部屋に着いた僕は、驚くべき光景を目にする。
「臭ッ!」
ドアを開けるなり、充満するガスに包まれたのだ。
布団の中では、もう一人の僕が意識を失っていた。
「少女が言っていたことは本当だったんだ!」
僕は慌ててガスを止め、救急車を呼んで窓を開ける。
救急隊員が到着してもう一人の僕が一命を取りとめると、意識がだんだんと遠のいていった。
――そうか、死の危険が去ったから、魂は元に戻るのか。
少女は無事に月に着いたのかな?
さよならを言えずじまいだったけど。
最後にもう一度会いたかったと残念に感じながら、僕の意識はプツリと途絶えた。
一週間後、僕は病院で意識を取り戻した。
さらに三週間後、すっかり元気になった僕は病院を退院する。
アパートに戻った僕は、早速望遠鏡を抱えていつもの公園に出かけた。
「やっぱりあの少女は居ないか……」
誰も居ない夜の公園は、とても寂しかった。
僕は一命を取りとめたため、悪魔は魂を地獄に連れて行くことができなくなった。だから、少女が公園に来る理由はどこにも無い。
あくまでもあの少女が悪魔だったら、という話だが。
「結局、彼女の企みは分からなかったな……」
少女がどうやって僕の魂を地獄に連れて行こうとしていたのか。彼女に会えなくなってしまった今、それは謎のままだ。
「彼女、本部に怒られちゃったのかな?」
でもあれは少女が悪い。
ターゲットをほったらかしにして月に飛んで行っちゃうなんて、悪魔失格もいいところだ。
「そこが可愛いところなんだけど」
ドジでツルペタのコスプレ少女。
彼女と過ごした公園の夜のひと時は、知らない間に僕の心に深く刻まれていた。
東の空には、ぽつりと下弦の月が浮かんでいる。
「月も正常だし……」
僕は一人で望遠鏡を組み立て、月面の虹の入り江に視野を合わせる。文字がちゃんと完成しているか、確かめるために。
「おおっ、完成してるっ!」
僕の目に飛び込んで来たのは、『虹』という文字。
「あははは、あいつ、本当に探査機を修理して、文字を完成させたんだな。って、えっ?」
よく見ると、その横に新たな文字が添えられていた。
「虹……原?」
それは『虹原』という二文字。
これは少女の仕業なのだろうか? もしそうだとすると、入り江という名前に不満を持っていた彼女らしい。
「ていうか、あいつこそ二次元戦士じゃねえか」
虹原は『にじげん』とも読める。
やっぱり彼女は悪魔なんかじゃなくて、ただのコスプレ少女だったんだよ。そう思うと、なんだか目の前がにじんでくる。
「ごめんな、一緒に地獄に行ってあげられなくて」
『いいえ、これで良かったのですゥ。だから謝らないで下さいなのですゥ』
月から少女の声が聞こえるような、そんな気がした。
「僕の身に何かあったら、またあの少女がやって来るのかな?」
その時のために、もっと希望を持って生きようと思う。現世に強い未練があれば、可愛い悪魔がやって来るはずだから。
「とりあえず、三社参りに行ってみるか……」
年始は文字通り寝正月だった。少女が言っていた神社を探すのも、面白いかもしれない。
僕は月を見上げながら、彼女の笑顔を思い浮かべていた。
了
*本作品はフィクションです。実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。
ライトノベル作法研究所 2013-2014冬祭り企画
テーマ:なし
お題:「半月」、「少女」、「悪魔」、「背骨」、「こんにちわ」、「地下帝国」、「逝く」、「お日様」、「初日の出」、「三社参り」、「巫女」、「弁慶の泣き所」、「現実」、「恋心」、「謝らないで」
(固有名詞で、「天上天下唯我独尊」、「クリスマス」、「祝福」)
ちょうど、月のうさぎのしっぽの辺りに位置する半円状の平原で、月観測を趣味とする僕が最も気に入っている場所である。
時は、二〇一三年十二月二十六日の午前二時。
むっくりと寝床から起き上がった僕は、玄関に用意しておいた愛用の口径八〇ミリ屈折天体望遠鏡を抱えてアパートを飛び出し、近所の公園に繰り出した。
「確か今晩は、下弦の月だったよな……」
下弦の月とは、左半分が丸い半月のこと。午前○ 時に東の空から昇り始め、夜明けごろに天頂に達する。午前二時であれば、高層ビルの上あたりにぽっかりと浮かんでいるはずだった。
しかし。
「ええっ、何でぇぇぇぇぇっっ!?」
東の夜空を見上げた僕の目に飛び込んできたのは、下弦ではなく上弦の月だった――
「マ、マジで……」
僕は絶句した。
月は上弦、つまり右半分が丸い半月だったのだ。今晩の月は、左半分が丸い下弦の月のはずなのに……。
「これじゃ、虹の入り江が見えないよ!」
お目当ての虹の入り江は、上弦の月の時には見ることはできない。影の部分になってしまうからだ。
「というか、これってあり得ない……」
へなへなと僕はその場に座り込む。
こんなことは天文学上、いや物理学上あり得なかった。というのも、今見えている月は太陽に向いていない面が光っている。
「あちゃー、気付いちゃいましたねェ」
突然、甲高い声がする。その方向を見ると、小さな影が珍しそうに僕のことを見つめていた。
それは一人の少女。
「君は……」
彼女の姿は異様だった。
黒い網タイツに黒いハイレグのレオタード。バニーガールそっくりの格好だが、お尻に付けられた黒いしっぽは長く、その先端は矢印型になっていた。
「そんなにじっと見ないで下さいッ、恥ずかしいですゥ」
少女はペッタンコの胸を隠すように、くるりと反転する。すると、深く切れ込みの入ったレオタードの背中が露わになった。
そこで存在を主張するものは――背骨の脇から生えている二枚の黒い羽根。
「コスプレ少女?」
「何を言ってるのですかッ!」
突然、しっぽがうなりをあげて僕の方に伸びてくる。
「危ねえっ!」
すんでのところで、僕は矢印型の攻撃を避けた。
「こんなに自在に動くしっぽがコスプレだと言うのですかァ? あなたの目はフシアナですゥ」
だったら何なんだよ。
もしかして、この少女はあのベタな生物だというのか?
「まさか……」
「そうなのです。そのまさかの悪魔さんなのですゥ」
舌足らずの声で宣言しながら、黒づくめの少女は僕に向かってこんにちわをした。
あはははは、悪魔だって?
それに午前二時に上弦の月だなんて、ありえねえことだらけだ。
すっかり可笑しくなった僕は、自分に対して言い聞かせる。
「そうか、これは夢なんだ」
すると少女が反論した。
「違います。これは夢なんかじゃありませんョ」
だったら何なんだよ。
「ここは、悪魔の地下帝国です。それにあそこに見えるのは月ではありません。未練判定機なのですゥ」
未練判定機?
なんだよ、それは?
しかし、続く少女の言葉はさらに衝撃的だった。
「あなたはもう、死んでいるのですョ」
僕が死んでいるって?
何を言っているんだ、この悪魔は。
いやいや、悪魔なんて認めちゃいけない。どう見ても、ただのツルペタコスプレ少女じゃないか。
「ちょっと、そこのあなた。聞こえてますョ」
少女はぷうっと頬を膨らませる。
「僕が死んでいるって、どういうことなんだよ?」
「あなたはもう、死んでいるんですョ。正確にはガス漏れが原因で瀕死状態になっちゃってて、もうじき逝くところなんですけど、魂はもう地下帝国まで来ちゃいましたからねェ。あとは天国に逝くか、地獄に逝くか選ぶだけですョ」
なんだよ、それは。
僕はこんなにピンピンしてるのに。
まあ、どうせ夢なんだから試しに訊いてみよう。
「それで僕は天国に行くのか? それとも地獄に行くのか?」
すると、少女はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりにペッタンコの胸を張って得意顔になる。
「じゃじゃーん、あれを見て下さい」
月を指さす少女。
そういえば、あの月のことを未練判定機って呼んでいたっけ、さっき彼女は。
「あの半月が普通に見えた人は天国、逆側が光って見えた人は地獄に逝けちゃうのですゥ」
ええっ!?
今、逆側が光って見えてるってことは、僕は地獄行きなのか?
「ここのお日様は、天国の象徴なんですョ。つまり、お日様側が光る月が見える人は天国に導かれてるってことで、逆側が光って見えちゃう人は現世に未練ありまくりなのですゥ」
未練ありまくりって何なんだよ。未練があるから地獄行きなのか?
でも僕にそんなものあったっけ?
うーん、来年のクリスマスまでに彼女をつくって一緒に過ごしたかったって未練はあるけど。
あっけにとられる僕に、少女は呼びかける。
「でも大丈夫ですョ」
それは慈悲深い声で。
「あなたは半月の間違いに気付きました。だから、チャンスをあげちゃうのですゥ」
チャンスだって? それは地獄に行かなくて済むのか?
「普通の人は、半月の形なんて気にしないのですゥ。だから、自然に天国か地獄に逝っちゃうんですけど、たまに気が付く人がいるのですゥ。そう、あなたみたいに。だからこうして私が呼ばれて、未練を解決してあげちゃうのですゥ」
少女は瞳を輝かせた。
「ほらほら、どんどんお姉さんに相談しちゃって下さいョ」
少女と一緒にベンチに腰かけると、彼女は僕を見上げながらそう言った。
――こんなにちっこいのにお姉さんかよ。
一緒に並ぶと、身長の差は歴然だった。少女の背丈は小学生くらいしかない。僕は半分笑いながら答える。
「未練? うーん、思いつかないなあ……」
だって、死んでるって実感が無いんだから、未練なんて思いつくわけがない。
彼女が欲しいって言ったって、好きな人のあてがあるわけでもないし、この少女を……って、それは犯罪に近いんじゃないのか?
「遠慮しなくていいのですョ」
そんなこと言われたって、わからないものはわからないんだけど……。
僕が困っていると、不意に右手の甲に温もりを感じる。見ると、少女の左手が上に添えられていた。
――えっ、ホントに彼女になってくれるとか……?
それはダメだよと少女に言おうと向くと、彼女は目をつむって重ねた左手に意識を集中させていた。
そして目を開ける。
「仕方がないので、あなたの最近の行動をスキャンしましたョ。これからあなたの未練を当ててみせますゥ」
なんだよ、スキンシップじゃなくてスキャンだったのかよ。
ていうか、スキャンって……何?
あ然とする僕をよそに、少女は勝手に推理を始める。
「あなたはサークルの仲間と、初日の出を見に行く約束をしましたねェ?」
初日の出?
そういえば、天文サークルの仲間で行くって話になっていたような……。
「あ、ああ」
「問題はその後の三社参りです。鷲宮神社と白川八幡神社は外せないとして、もう一か所を艮神社にするか御袖天満宮にするかで揉めましたね? きっとそれが心残りの原因ですョ」
ええっ? 何、その三社参りって?
というか、全然知らない神社ばかりなんですけど……。
「いや」
僕は一言で否定してやった。
「巫女姿のヒロインって萌えますよねェ~、って、えっ、違うんですか? まあ、そんなこともありますョ。これはほんの小手調べですゥ」
少女はめげない。そして新たな推理を展開する。
「えっとですねェ、未練の原因は、ライトノベルのクライマックスについてですねェ?」
何だよ、そのラノベのタイトルって?
「泣きラノベとして有名な『弁当屋K子』。一流の弁当屋を目指すK子が実家を離れるところが泣けるか、生き別れとなった母親と五十年ぶりに再会するところが泣けるか、それが大問題ですよねェ。いわゆる、弁Kの泣き所ですゥ」
弁慶の泣き所?
それって読んでて泣くところか? ていうか五十年ぶりって、ラノベじゃなくて人生ドラマじゃね?
そもそも、そんなラノベ知らないんだけど……。
「それが気になって、現世に未練を残しちゃったんですねェ?」
「それも違う」
「うッ……」
間髪入れずに僕が否定したものだから、さすがの少女もひるんだ。
だが諦めずに僕に挑んでくる。
「では、狩りですかァ?」
月明かりに八重歯をキラリと輝かせながら。
「狩りには強い武器が必要ですよねェ」
おいおい、なんだか物騒な話になってきたぞ。
「パーティを組む時に、太刀『天上天下天地無双刀』を選ぶか、ボウガン『天上天下唯我独尊砲』を選ぶかで揉めたんじゃないですかァ?」
いや、さっぱりわかんないんだけど……。
というか、なんでこいつはこんな話ばかりしてるんだ?
「全然、話が見えないんだけど。どうして君はさっきから、ラノベとかゲームのような話ばかりしてるんだよ?」
逆に訊いてやった。
すると少女は唇を尖らす。
「私は『君』じゃありませんッ。お姉さんと呼ばなきゃ、教えてあげませんですゥ」
全く扱いにくい悪魔さんだこと。
でも、少女がすねたままでは話が前に進まない。
「なんでこんなことばかり聞くのか、教えて、お姉さん」
言ってやったよ、どうせこれは夢なんだから。
すると少女はニコリと笑って僕に言う。なんて単純なやつ。
「だってあなた、二次元戦士ですよねェ?」
ええっ、二次元戦士ィ?
「誰が?」
「あなたですョ。だって昨晩、『二次元、二次元』って何回もつぶやいていたじゃないですかァ」
いや、二次元なんて言ってないけど……。
「そんなこと言ってないぞ」
「しらばっくれても無駄ですョ。証拠を思念で送っちゃいますからァ」
少女が再び目をつむると、僕の頭の中で何かがこだまする。それは、昨晩僕が寝る間際に発したつぶやきだった。
『今夜は虹の入り江を見るぞ、弦月だし。二時に起きなきゃ、玄関の望遠鏡も忘れずに……。虹の入り江、弦月、二時、玄関……、虹、弦、二時、玄……、zzzzz……』
だはっ、それで二次元かよ。
全く、マスコミのような言葉尻だけを捉えるようなことすんじゃねえ!
僕はすっかり呆れ果てたが、そのおかげで自分のやりたかったことを思い出した。
「そうだよ、虹の入り江だよ!」
「虹の? 入り江……ですかァ?」
少女は首をかしげる。
「僕は虹の入り江が見たかったんだよ。それが未練だ」
少女に向かって僕は高々と宣言した。
「素敵な名前ですねェ、あなたが見たいという場所はァ」
うっとりとした声で少女が相槌を打つ。
確かに、虹の入り江というのはロマンチックな名前だ。
「それで、その入り江はどこにあるのですか? クリスマス諸島ですか? それとも祝福の海?」
あはははは、彼女は虹の入り江が地球上にあると思っているらしい。
まあ、初めて聞いた人ならそう思うのは当たり前かもしれないけど。
僕は笑いをこらえながら訊いてみる。
「だってここは悪魔の地下帝国なんだろ? そんな場所、見れるはずがないじゃないか」
すると少女は、ちっちっと指を振って反論した。
「地下帝国を甘く見ちゃいけませんョ。地上とそっくりに造ってありますからねェ。私のこの翼でひとっ飛びですゥ」
バサバサと翼を広げる少女。
その黒い翼で僕を運んでくれるってことなのか?
それもなんか夢らしくて楽しそうだ。
「さあさあ、虹の入り江がどこにあるのか教えて下さいよォ。とっとと見に行って、未練を解消して、そのまま地獄に逝きましョ!」
そうだな……って、ええっ!?
少女とフライトを楽しむのもいいかなって思っていた僕は、彼女の言葉に引っかかる。
『未練を解消して、そのまま地獄に逝きましョ!』
最後の地獄に行くって、どういうことなんだよ?
未練が解消されれば、地獄に行かなくてもよくなるんじゃないのか?
嬉しそうにはしゃぐ少女を見ながら、僕の心の中には疑念が湧き起こっていた。
――悪魔は魂を地獄に導く使者。
そうだよ。悪魔が魂を天国に導くなんて、なんだかおかしいって思ってたんだ。彼女の行動には、きっと何か企みがあるに違いない。
僕は、なるべく未練を解消しないようにと考えを巡らせ始めた。
「でも残念ながら、虹の入り江は地球上には無いんだ」
作戦を練りながら、僕は虹の入り江のありかについて答える。その言葉に、少女は目をパチクリさせた。
「えっ、地球上にあるんじゃないんですかァ? では惑星アガルタですか? まさかのイカスンデル? 一体どこにあるんですかァ?」
矢継ぎ早の質問に、僕はよくぞ聞いてくれましたと得意顔で月を指さした。
「ほら、あそこだよ」
月を見上げる少女。
「えっ、未練判定機?」
「違うよ、月だよ」
「月……、ですか……」
少女はあごに手を当てて、考え込んでしまった。
――地下帝国には月は無い。
それが僕の作戦だった。
僕の未練を解消するには、現世に戻って月を観察するしか方法は無いのだ。
「ちょっと本部と連絡をとりますから、待ってて下さいィ」
少女は目をつむって、今度はもごもごと口を動かし始めた。きっとそうやって、本部と通信しているのだろう。
――ほらほら、僕を現世に戻すしかないぞ。
期待を込めて少女を見ていると、彼女はパチっと目を開ける。
「大丈夫です。未練判定機は現実の月とそっくりに造ってあるそうですョ。ほらほら、そこの望遠鏡で見ちゃってくださいョ」
ふふふ、やはりそうきたか。
「ごめん、ダメなんだよ。虹の入り江は、あの月の光っていない方にあるんだ。だから反対側を光らせてくれないと見えないんだよ」
「へえ、そうなんですか。でも簡単ですョ。本部に連絡して、反対側を光らせてもらうように頼んであげますからァ」
そう言って、少女は再び目を閉じた。
――よし、引っかかった!
僕がガッツポーズをとろうとした時、
「あわわわわ、それはダメですよォ。そんなことしたら、正しい形の月になっちゃって、あなたは天国逝きが決定しちゃうじゃないですかァ。あなたを地獄に連れて行けなくなったら本部に怒られちゃいますゥ」
少女はあわてて目を開いた。
ちぇっ、失敗したか……。
ていうか、やっぱり僕を地獄に連れて行こうとしてたんじゃないかよ。
「だったら僕を現実世界に戻すしかないよ。あそこでは月は下弦で、虹の入り江も見えるはずなんだから」
僕は当初の作戦に切り替えた。
「そんなに虹の入り江が見たいんですかァ?」
少女は疑いの眼差しで僕を見上げる。
「本当は、月の観察よりも彼女が欲しいんじゃないんですかァ?」
ペッタンコの胸を強調するようにのけぞりながら。
――おっと、敵も作戦を変えてきたな。
予想外の色仕掛け。でも僕は幼女フェチじゃないし……。
それに、少女が僕に本物の恋心を抱いてくれるとは、とても思えなかった。だってこれは、彼女にとってはただの仕事なんだから。
「今は、ものすごく虹の入り江が見たいんだよ」
僕は自分の望みを強調する。
「それは何故ですかァ? 私には魅力がありませんかァ?」
残念ながらね。もう少し大きくなったら相手をしてあげるけど……。
少女の努力が意地らしくなった僕は、虹の入り江が見たい理由をちゃんと教えてあげる。
「虹の入り江にはね、今、月探査機が着陸しているんだよ」
「月探査機ィ?」
「そう、虹の入り江を走りながら調査を行っているんだ」
「へえ……」
少女は僕の話に聞き入りながら月、じゃなかった未練判定機を見上げた。
「でも、そんな小さなもの、その望遠鏡じゃ見えないでしョ?」
そう、探査機自体は見えない。小さすぎて。
「それがさ、見えるんだよ。探査機の通った跡が」
まるでナスカの地上絵のように。
「面白いことに、探査機の通った跡がだんだんと文字のような形になってきているんだよ。僕はそれが完成するのを見たいんだ」
僕は十日前からずっとその様子を見ていた。虹の入り江に線のようなものが浮かび上がり、だんだんと形を成していく様子を。それはすごく楽しかった。
僕の熱意は少女にも伝わったようだ。
「それなら私も」
少女は立ち上がる。
「見てみたいですゥ!」
再び瞳を輝かせながら。
こうして僕は現世に戻ってきた。そして公園で望遠鏡を組み立てている。
「まだですかァ?」
僕をせかす可愛いコスプレ少女に月を見せるために。
「ほら、見えるようになったよ。この黒い半円状のところが虹の入り江だよ」
「見せて下さいィ!」
少女はかぶりつくように望遠鏡の接眼レンズに目を当てた。
「えっ?」
そして小さく驚きの声を上げる。
「入り江って名前なのに、水が無いじゃないですかァ?」
あはははは、そうか、彼女は月を見るのは初めてなんだ。
頭にはてなマークを浮かべている様子は何とも愛らしい。だから僕は、丁寧に説明してあげる。
「月には海や川はないんだよ。だって、液体状の水はほとんど存在しないんだから。でも望遠鏡で見ると、黒く平らな所と白く凸凹している所があるのがわかるだろ? いつしか人々は、黒く平らに見えるところを『月の海』と呼ぶようになったんだ」
すると少女は望遠鏡をのぞきながら、不満を漏らし始めた。
「おかしいですゥ、水がないのに海だなんて。インチキです、詐欺ですゥ。それにここに見えているのは入り江じゃなくて、ただの平原ですゥ」
ぶつぶつと文句を言う少女に、僕は可笑しくなる。
少女の言い分はもっともだ。僕も子供の頃は、彼女と同じ疑問にもどかしさを感じていた。
「ほら、視野の左の方を見て。何か文字のようなものが見えるだろ?」
「えっ、どこですか?」
少女はしばらく瞳をさまよわせ、
「あった、あった! ありましたァ!!」
歓喜の声を上げた。
「すごいですゥ。なんだか『虹』という文字が出来上がりそうな感じですねェ」
「そうそう、それだよ探査機の跡は。でも二、三日前からその先が進まなくて、どうしちゃったのかと心配してるんだ。探査機が壊れちゃったのかな?」
僕がため息をつくと、少女は望遠鏡から目を離し、えへんとペッタンコの胸を張った。
「私が行ってきますョ」
えええっ、月に?
「そして文字を完成させて来ますゥ」
そう言いながら背中の翼を羽ばたき始めた。
「あなたはここで待ってて下さいョ」
「ちょ……」
呆然とする僕を置いて、少女は月に向かって飛んで行った。
「あーあ、行っちゃった……」
公園に残された僕は、一人月を見上げる。が、いつまで経っても少女が戻る気配はない。
「今までの出来事は、いったい何だったのだろう……?」
仕方が無いので、僕は望遠鏡を抱えてアパートに戻ることにした。
部屋に着いた僕は、驚くべき光景を目にする。
「臭ッ!」
ドアを開けるなり、充満するガスに包まれたのだ。
布団の中では、もう一人の僕が意識を失っていた。
「少女が言っていたことは本当だったんだ!」
僕は慌ててガスを止め、救急車を呼んで窓を開ける。
救急隊員が到着してもう一人の僕が一命を取りとめると、意識がだんだんと遠のいていった。
――そうか、死の危険が去ったから、魂は元に戻るのか。
少女は無事に月に着いたのかな?
さよならを言えずじまいだったけど。
最後にもう一度会いたかったと残念に感じながら、僕の意識はプツリと途絶えた。
一週間後、僕は病院で意識を取り戻した。
さらに三週間後、すっかり元気になった僕は病院を退院する。
アパートに戻った僕は、早速望遠鏡を抱えていつもの公園に出かけた。
「やっぱりあの少女は居ないか……」
誰も居ない夜の公園は、とても寂しかった。
僕は一命を取りとめたため、悪魔は魂を地獄に連れて行くことができなくなった。だから、少女が公園に来る理由はどこにも無い。
あくまでもあの少女が悪魔だったら、という話だが。
「結局、彼女の企みは分からなかったな……」
少女がどうやって僕の魂を地獄に連れて行こうとしていたのか。彼女に会えなくなってしまった今、それは謎のままだ。
「彼女、本部に怒られちゃったのかな?」
でもあれは少女が悪い。
ターゲットをほったらかしにして月に飛んで行っちゃうなんて、悪魔失格もいいところだ。
「そこが可愛いところなんだけど」
ドジでツルペタのコスプレ少女。
彼女と過ごした公園の夜のひと時は、知らない間に僕の心に深く刻まれていた。
東の空には、ぽつりと下弦の月が浮かんでいる。
「月も正常だし……」
僕は一人で望遠鏡を組み立て、月面の虹の入り江に視野を合わせる。文字がちゃんと完成しているか、確かめるために。
「おおっ、完成してるっ!」
僕の目に飛び込んで来たのは、『虹』という文字。
「あははは、あいつ、本当に探査機を修理して、文字を完成させたんだな。って、えっ?」
よく見ると、その横に新たな文字が添えられていた。
「虹……原?」
それは『虹原』という二文字。
これは少女の仕業なのだろうか? もしそうだとすると、入り江という名前に不満を持っていた彼女らしい。
「ていうか、あいつこそ二次元戦士じゃねえか」
虹原は『にじげん』とも読める。
やっぱり彼女は悪魔なんかじゃなくて、ただのコスプレ少女だったんだよ。そう思うと、なんだか目の前がにじんでくる。
「ごめんな、一緒に地獄に行ってあげられなくて」
『いいえ、これで良かったのですゥ。だから謝らないで下さいなのですゥ』
月から少女の声が聞こえるような、そんな気がした。
「僕の身に何かあったら、またあの少女がやって来るのかな?」
その時のために、もっと希望を持って生きようと思う。現世に強い未練があれば、可愛い悪魔がやって来るはずだから。
「とりあえず、三社参りに行ってみるか……」
年始は文字通り寝正月だった。少女が言っていた神社を探すのも、面白いかもしれない。
僕は月を見上げながら、彼女の笑顔を思い浮かべていた。
了
*本作品はフィクションです。実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。
ライトノベル作法研究所 2013-2014冬祭り企画
テーマ:なし
お題:「半月」、「少女」、「悪魔」、「背骨」、「こんにちわ」、「地下帝国」、「逝く」、「お日様」、「初日の出」、「三社参り」、「巫女」、「弁慶の泣き所」、「現実」、「恋心」、「謝らないで」
(固有名詞で、「天上天下唯我独尊」、「クリスマス」、「祝福」)
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