夏にあらわる少女2021年08月25日 19時03分35秒

第一話 夏にあらわる少女

 私の名前は大津菜摘(おおつ なつみ)。
 向葉高校という県立女子高に通う二年生。
 兄弟は一人、大学一年生の兄貴がいる。
 アコースティックギターをじゃんじゃか鳴らしてオリジナル曲を歌うのが趣味で、高校生の頃はそんな姿を動画にしてネットにアップしてたり。
 そんな兄貴もこの春に大学生になり、親に買ってもらったパソコンにすっかり夢中になってギターを弾かなくなってしまった。今までうるさいほど兄貴の部屋から歌が聞こえてきてたというのに。
 と思ったら、なんだか変な歌声が壁越しに聞こえてくる。

『夏になれば、君がひょっこり顔を出す〜』

 私にはおなじみのフレーズ、兄貴の代表曲(自称)『夏にあらわる少女』のサビの部分だ。
 が、声が全然違う。兄貴の声よりはるかにイケボって感じ?
 それにちょっと機械的な感じもするし……。
 てことは、まさか、これって……ボーカロイド!?
 私は慌ててスマホで兄貴の動画チャンネルを覗いてみる。

 ――ヤマモはボカロPになりました!

 マジか!?
 どこかで頭でも打ったのか?
 ちなみに『ヤマモ』というのは兄貴のハンドルネーム。本名の大津山想(おおつ やまも)から来ている、ってそのまま名前をカタカナにしただけなんだけどね。
 もう一つ解説しておくと、『ボカロP』というのは音声合成技術を用いたアプリケーション(ボーカロイド)を使って曲をプロデュース(P)する人たちのことだ。
 それにしてもボカロPになったというのは本当で本気みたい。
 その証拠に、今まで三十曲くらい投稿されていたオリジナル曲の弾き語り動画が、きれいさっぱり削除されていた。

 ――これから週一でアップしていくよ!

 いやいや、そんなに頑張んなくてもいいって。
 現在、視聴できるのは『夏にあらわる少女』の一曲のみ。
 今後は、今までのオリジナル曲をすべてボカロバージョンにして、毎週のようにアップしていくということなんだろう。そりゃまたご苦労なことで。
 試しに私は『夏にあらわる少女』を再生してみる。
 ボカロPなんて一朝一夕になれるはずがない。どんなにダサい編曲になったのか笑ってやろう、と思いながら広告をスキップさせ耳を澄ませていると――
「ええっ!?」
 流れてきたイントロに私は驚いた。
 今までのは昭和のバラードを彷彿とさせていたのに!
 アコースティックギターのみだったイントロは、ドラムが小粋にテンポを刻みキーボードがキャッチーなメロディを繰り返すアップテンポに変わっていたのだ。
「こ、これって、本当に『夏にあらわる少女』!?」
 あまりの変化に思わず動揺しちゃったよ。
 イントロが終わるとボーカロイドが歌詞を奏で始める。男性を基調とした声だ。
 それにしても意外とこの曲調に合っている。歌い方も想像していたより自然で、素人が調教したとは思えない。

「夏になれば、君がひょっこり顔を出す〜」

 気がつくと私は、サビの部分を一緒に歌っていた。
「やるじゃん、兄貴!」
 これって意外と人気が出るかもよ?
 来週から順にアップされる曲も楽しみになってくる。
 それならば再生回数もこまめにチェックしておかなくちゃ。だって広告収入に直結する数字だからね。親にチクると脅して、ちょっとだけ分け前をもらっちゃったりして。
 そもそも親に買ってもらったパソコンで小遣い稼ぎってズルくない? 金が入るならパソコン代も払ってことだよね。まあ、ボーカロイドはバイト代で買ったのかもしれないけど。

 しかしその二ヶ月後、まさか兄貴の曲が自分のクラスで流れることになるとは、この時の私は思ってもみなかった。





第二話 風をおこす少女

 私の名前は東野風香(ひがしの ふうか)。
 県立向葉高校ってとこに通ってる高二の女子高生なんだけど、二ヶ月くらい前に面白いものを見つけたんだ。
 それはヤマモというボカロPの動画チャンネル。
 アップされてる曲はまだ十曲くらいで、歌詞がちょっと古臭いんだけど曲調がアップテンポで歌いやすい。そして妙に頭に残るんだよね、不思議なんだけど。
 特に気に入っているが『夏にあらわる少女』。
 いやいや、タイトルからして古臭いよね。
 でもね、気がつくとサビのところを口ずさんでる。

『夏になれば、君がひょっこり顔を出す〜』

 これって他人に聞かれたら恥ずかしくない?
 でもやっぱり、気がつくと口から出ちゃってる。
 私の感性がおかしいのかな? それとも実は隠れた名曲だったりする?
 それを調べてみたくなって、私はこっそりクラスで流してみることにしたんだ。

 今ね、クラスでは学園祭の準備の真っ盛り。
 一ヶ月後の七月初旬の開催を目指して、有志が放課後に残ってコツコツと装飾を造ってる。
 その時にね、BGMとしてさりげなく流してみるの。
 ヤマモの曲ばかりにしちゃうとファンだって疑われちゃうから、それはやめておく。他のボカロPの曲も混ぜて、ヤマモ率は二十パーセントくらいにしておくの。もちろん他のボカロPの曲は、有名ではない当たり障りのないものを選んでおいた。

 そして私はこっそり作戦を実行する。
 それがきっかけで大変なことが起こるとは知らずに……





第三話 火がついた少女

 私の名前は南田朱莉(みなみだ あかり)。県立向葉高校の二年生。
 今日は学校ですごいことがあった。
 だって運命の曲に出会っちゃったんだもん。
 その曲は、放課後に学園祭の準備をしてた時に流れてきたんだ。

『夏になると、君がひょっこり顔を出す〜』

 うわっ、ダサって思ったよ。最初はね。
 でも不思議なの。何度もこのサビのフレーズを聴いていると、つい口ずさみたくなってくる。
 きっとアップテンポな曲調が合ってるんだよ。歌詞も何気に覚えやすい。
 だから私は、この曲を持ってきた子に尋ねてみたんだ。

「風香ちゃん、この曲、なんていうの?」
 私が声を掛けたのは南野風香っていうクラスメート。
 吹奏楽部で確かフルートを吹いてるって言ってたっけ。
 すると彼女は一瞬ビクッとした後、必死に冷静さを保とうとしながら私を振り返った。
「え、えっと、い、今私のスマホから流れているこの曲……のこと?」
「そうだけど? 他に曲なんて流れてないじゃん」
 しばらく机の上で音楽を奏でるスマホを見つめていた彼女は、もじもじしながら打ち明けたんだ。
「えっとね、この曲ね、『夏にあらわる少女』っていうの。ヤマモっていうボカロPの」

 うわっ、ダッサって思ったよ。今日二回目。
 夏にあらわるだよ、あらわる。
 でもなんかこの歌詞にぴったりの曲名だと思ったんだ。

「ねえ、朱莉ちゃん? もしかしてこの曲、気に入っちゃった?」
「えっ? い、いや……」
 突然、質問を返されて不覚にも私は言葉を詰まらせる。
 クラスのみんなの前でこんなダサい曲を「気に入った」なんて、そんなホントのこと口が裂けても言えそうにない。
 何か、自分を正当化させる理由を見つけなくては……。

「ほ、ほら、私たちが小学生の頃の紅白で、少林辛子って演歌歌手が初目ニクの千木桜を歌ってたことがあったじゃない。それの逆バージョンのような感じがして、なんか面白いなって……」

 ちゃんと理由になっていたかどうかは分からないけど、風香ちゃんは私の表情を伺いながらふーんと鼻を鳴らした。
「それって、どういうこと? 初目ニクが少林辛子の持ち歌を歌ってるような感じってこと?」
「そうそう、それ!」
 少林辛子がどんな曲を歌ってたかなんて知らないけどね。
「だから私もちょっと聴いてみたくなっちゃって……」
「へぇ……」
 すると風香ちゃんは私の耳元でそっとささやいたんだ。
「実はね、私もこの曲気に入ってるの。だからクラスの反応を見てみたかったんだけど、やっぱり隠れた名曲かもしれないよね?」
 そう言われてなんだか嬉しくなっちゃった。自分の感性はやっぱり正しかったんじゃないかって。この曲が気になったのは自分だけではなかった。
 私はちょっと照れながら、「かもね」と小さく相槌を打つ。

 よし、覚えたぞ。
 ヤマモPの『夏にあらわる少女』。
 家に着いた私は自室に閉じこもり、早速スマホで『ヤマモP』を検索してみる。
 出てきた動画チャンネルには、十曲くらいが投稿されている。それらを順に聴きながら、私は再び衝撃を受けたのだ。
「どの曲もなんかダサいけど、歌いやすくてイイ!」

 ――だったらやるしかない!

 実はね、私、歌ってみた動画を載せてるチャンネルを持ってるんだ。
 合唱部で鍛えられてて歌声にはちょっと自信があるから。
 だからヤマモPの曲を歌って、私の『ホムラチャンネル』に動画をアップしてみた。
 だって、ヤマモPのチャンネルには「イラストやイメージ動画、みんなの歌声も大歓迎!」って書いてあるんだもん。

 こうして私は一日一曲ずつ、『ホムラチャンネル』に歌ってみた動画を投稿していく。
 ヤマモチャンネルのボーカルオフバージョンを自室で流し、それに合わせて歌っている動画を自分で撮影して。
 ちょと恥ずかしいから、顔は分からないようにしているけどね。
 そんな行動が、一人のヤマモPのファンの怒りを買ってしまうとは知らずに……





第四話 水をかける少女

 私の名前は西川瑞希(にしかわ みずき)。県立向葉高校の二年生。
 最近、私を怒らせているものがある。
 それは、大好きなヤマモチャンネルに毎日のように投稿されるコメントだ。
 コメントの書き込みは、一週間前から始まった。
 最初のコメントはこんな内容だった。
 
『ヤマモPさんの『夏にあらわる少女』を歌ってみました。もしよかったら聴きに来て下さい』

 ご丁寧にリンクが貼ってある。
 なになに? ホムラチャンネルだって?
 そんなの絶対見に行ってやるもんかと思ったよ、最初は。
 でも、ヤマモさんが「歌ってもらえて嬉しいです」とか「素敵な歌声ですね」とか丁寧に返信してるんだもん。どうしても気になっちゃう。
 挙句の果てにはヤマモさん、『ホムラさんが歌った『夏にあらわる少女』にハモってみた』なんて動画を投稿しちゃった。
 これにはさすがに困惑したよ。
 二つの矛盾した思いが、私の頭の中でグルグルと回り出したから。
 ――久しぶりにヤマモさんの歌声が聴ける。でも、ホムラってやつの歌声は聴きたくない。
 散々迷った挙句、ついに私はその動画を再生したんだ。だってヤマモさんの歌声が聴きたくてしょうがなかったんだもん。ヤマモさんがボカロPになってから昔の動画はすべて削除されちゃって、彼の歌声が聴けなくなってもう二か月が過ぎようとしている。
 
『夏になると、君がひょっこり顔を出す〜』

 おおおおおお、ヤマモさんが歌ってる。ヤマモさんの歌声だよぉ!
 ハモリの部分だけなのは残念だけど。
 それにしても鬱陶しいのは、サビの部分を楽しそうに歌うホムラって女の歌声。
 彼女の歌を邪魔しないようヤマモさんが遠慮がちにハモっているのも、なんだか釈然としない。元々はヤマモさんの曲でしょ?
「ヤマモさん、優しすぎだよ……」
 でもこの時、私はピンと来たんだ。
 この女の声って……どこかで聞いたことが……ある。
「ま、まさか!?」
 私の脳裏に蘇ってきたのは、あるクラスメートの声だった。
 ――南田朱莉(みなみだ あかり)。
 それは一週間くらい前のことだった。
 風香が学園祭の準備にあわせて『夏にあらわる少女』を放課後の教室で流してた時、サビのフレーズに合わせて口ずさんでる子がいたっけ。
 その声にそっくりだ。
 ヤマモさんの曲を流すという風香の行為にもびっくりしたけど、まさか歌い始める人が出現するなんて予想外で二度びっくりした。だから彼女の歌声を覚えていたんだ。名前も確か南田朱莉だったと思う。あまりしゃべったことはないけど。
「ならば、行動あるのみね」
 ホムラの正体が南田朱莉であることを確信した私は、早速行動に移すことにした。

「ねえ、菜摘。ちょっとお願いがあるんだけど、お昼は一緒に中庭で食べない?」
 翌日、私は一人のクラスメートを昼休みに誘う。
 彼女の名前は大津菜摘。中学から一緒の親友だ。
「どうしたの、瑞希? 教室じゃ話せないこと?」
 神妙を装う私の表情から事情を察してくれる菜摘。さすがは我が友。
「うん。まあ、ちょっとね……」
「なんか訳アリみたいね。分かったわ」
 こうして昼休みになると、私は中庭で彼女に悩みを打ち明けた。
「実はね、話したいことってヤマモさんのことなんだ」
 菜摘はただのクラスメートじゃない。だって彼女は――
「えっ? 相談って兄貴のことなの?」
 ヤマモさんの実の妹なんだから。

 中学校入学に合わせて隣の県から引っ越してきた私に、最初に声を掛けてくれたのが菜摘だった。
 ほら、中学校って小学校からの同窓生が沢山いるから、クラスで孤独を味わうことってあまりないじゃない? 普通は。
 だけど私は一人ぼっち。小学生の同窓生は誰もいない。
 だから菜摘が声を掛けてくれた時は、本当に嬉しかった。そして二人はすぐに仲良くなり、何でも話せる間柄になる。
「実はね、三年生に兄貴がいるの」
 菜摘にお兄さんがいることも、すぐに教えてもらった。
 私は一人っ子だったから、とてもうらやましく感じたのを覚えている。
「兄貴のやつ、高校に行ったら急にギター弾き始めちゃってさ」
 中二になっても同じクラスだったから、ヤマモさんが歌い始めたこともリアルタイムで聞いていたんだ。
「自分で作った曲をネットに投稿してんの。将来はこれでメシを食うんだって、笑っちゃうよね」
 でも、それってすごいじゃない?
 だって自分で曲を作って、それをギターで歌って動画サイトに投稿してるんだよ。
 興味を持った私は、菜摘にチャンネル名を教えてもらったんだ。
 ――ヤマモチャンネル。
 しかし中学生の私には、それを視聴する手段がなかった。
 私は知恵を絞り、母にお願いして父のタブレットを借りる。宿題の調べものに使うからと嘘ついて。
 部屋に籠り、慣れないタブレットを必死に操作する。あの時はすごくドキドキしたなぁ。やっとのことでチャンネルにたどり着くと、投稿されているのは一曲だけだった。タイトルは『夏にあらわる少女』。
 なんか今っぽくないなぁと思ったんだけど、動画を再生してみてビビビって来たんだ。
「この声、なんかいい……」
 これって一目惚れ、いや一耳惚れ?
 この時、私は心に誓う。
 ――私がファン一号になってあげる。
 コメントを投稿するのは、恥ずかしくてできなかったけど。
 それからは、ヤマモチャンネルを視聴するが私の楽しみになったんだ。
 月に一曲くらいという投稿のペースも、私には有り難かった。だって親から毎日のようにタブレットを借りることは不可能だったから。
 高校受験の時は、菜摘に「一緒に勉強しよう」と持ちかけて彼女の家にお邪魔したことも何回かあった。もちろん勉強が主目的だが、ヤマモさんの声を聴きたいという下心もあった。でもその時にはっきりと認識したんだ。普段の声と歌声は全く別物なんだって。私が好きなのはヤマモさんの歌声なのだ――と。
 菜摘と一緒に県立向葉高校に合格し、スマホを買ってもらった時は嬉しかったなぁ。これで毎日ヤマモチャンネルを視聴することができる。その頃には投稿されている曲は十五曲くらいに増えていた。
 どれもこれも大好きな曲だ。だって素敵な歌声が聴けるんだもん。
 それなのに……。
 私達が高二になって、ヤマモさんが大学に入ったと思ったら、いきなりボカロPになっちゃって。
 そんでもって、今までの動画を全部消しちゃうなんてあんまりじゃない?
 私はヤマモさんの歌声が聴きたいのに。
 水を構成する水素と酸素のように、私の生活とは切っても切り離せない存在になっているというのに。
 ボカロが歌う『夏にあらわる少女』なんて、本当の『夏にあらわる少女』じゃないんだよ。

「ねえ、菜摘。一週間くらい前にさ、風香が放課後の教室で流してたじゃない。ボカロ版の『夏にあらわる少女』を」
 中庭で弁当を食べながら、私は菜摘に事のいきさつを話し始める。
「ああ、そんなことあったね。あれはドキッとしたよ、まさか兄貴の曲が教室で流れるなんて思いもしなかったから」
「私も。心臓が止まるかと思った」
「それにしても世の中には物好きもいるよね、あの『夏にあらわる少女』をBGMに使うなんてさ」
「いやいや菜摘、『夏にあらわる少女』は名曲だよ。ボカロ版なんかよりも、ヤマモさんの歌声の方が一億倍イイけどね」
 鼻息を荒くする私に、やれやれという顔をする菜摘。
「そんで? 風香があの曲を流したことと兄貴となんか関係あるの?」
「風香のこととはあんまり関係ないんだけど、あの出来事をきっかけにヤマモチャンネルに変なコメントが書き込まれるようになったの」
「変なコメント?」
「まあ、一種のファンコメントなんだけどね」
 すると菜摘は、すべてを把握したと言わんばかりの笑みを浮かべた。
「瑞希は兄貴の曲にぞっこんだからなぁ。きっと兄貴がそのコメントに鼻の下をだらしなく伸ばしちゃって、激しく嫉妬しちゃったんでしょ?」
 びっくりしたよ。言い方は悪いが、まさにその通りだったから。
「まいったなぁ、菜摘には何でもお見通しってわけね。ところで菜摘はそのコメント、見てないの?」
「ゴメン。兄貴のチャンネルで見てるのは、再生数と投稿されてる曲数だけなんだ。コメントなんて全く興味なし。そんで? どんなことが書かれてんの?」

 私は菜摘に説明する。
 ヤマモPの曲を勝手に歌って、それを自身のチャンネルに投稿している女がいること。
 その女のコメントにヤマモさんが丁寧に返答していて、あまりいい気がしないこと。
 そしてその女の正体は、歌声から推測するに同じクラスの南田朱莉かもしれないこと。

「朱莉か……。あの子ならやりそうね、だって合唱部だもん」
「へえ、彼女って合唱部だったんだ」
「そうよ。それで? 本人に直接言うのもアレだから私に何かしろと?」
「分かってるのなら話が早いわ。ヤマモさんにお願いして欲しいの。新曲を投稿するのをしばらく止めて欲しいって」
「ふーん。火を消すなら元からって作戦ね。ていうか、そんなに嫌なの?」
「嫌、嫌、すんごく嫌。だからこの通り。一生のお願いだから……」
 私は菜摘の前で手を合わせる。真剣に彼女の目を見つめながら。
「わかったわ……」
 根負けした菜摘は、しぶしぶ承知してくれた。

 菜摘にお願いした甲斐があったのか、今週のヤマモチャンネルには新曲が投稿されなかった。
 新規投稿がなければ、当然ホムラからコメントが寄せられることもない。
「ふん。ざまぁみろだ」
 私は一人ほくそ笑む。
 ヤマモさんも普通の人で良かった。だって、得体のしれないホムラという女からのコメントよりも、可愛い妹からのお願いを優先してくれたってことだから。
 が、ほっとしたのも束の間、ホムラは予想もしない行動に出たのだ。

『今度は『夏にあらわる少女』をピアノの音色でしっとり歌ってみました。聴きに来て下さいね』

 なに? 新曲を歌えないなら旧作を蹂躙しようって魂胆?
 それにピアノでしっとりってどういうこと? あの曲は元々ギターでしっとり歌われていた曲なんだよ。ホムラみたいなにわかファンがオリジナルに近づけるはずがない。
 当然、私は無視していた。が、事態はすぐに無視できない展開に発展する。というのも以前と同様に、ヤマモさんが彼女のコメントに反応してしまったのだ。

『ホムラさんが歌うしっとり版『夏にあらわる少女』にハモってみました』

「不覚だった……」
 私は作戦の失敗を痛感する。
 菜摘には「新曲の投稿停止」しかお願いしていなかった。旧作を狙い撃ちしたホムラの戦略には全く無力だったのだ。
 そして前回と同じく激しく逡巡した後、私はそのしっとり版ハモリ動画を聴いてしまう。

「これって……、昔の『夏にあらわる少女』と同じだ……」

 ホムラのピアノの弾き語りに合わせて、ヤマモさんが素敵な歌声を優しく重ねている。
 ボカロ版『夏にあらわる少女』しか知らない人が聴けば、味わいのある素敵なアレンジと感じるだろう。
 でも、これが本当の『夏にあらわる少女』なのだ。
 ギター弾き語り版は、古臭くもあったがゆっくりと心に響く豊かさがあった。
 不覚にも私は、ポロポロと涙をこぼしてしまう。
 懐かしい弾き語り版に再び出会えた嬉しさ半分、見知らぬ女に大好きな『夏にあらわる少女』を乗っ取られたような悔しさ半分。
 いや、半分じゃない、この涙の九割が悔しさだ。
 この時私は実感する。
 ホムラの動画に許せる部分があったのは、それがボカロバージョンだったからということに。
 ――ふん、にわかファンめ。昔はすべてギター弾き語りだったの、知らないんだから。
 そんな風に見下せる余裕が、私の怒りを沸騰前のレベルで留めてくれていた。
 しかしこのしっとり版は許せない。
 これ以上、彼女の暴挙を許してはいけない。私の心の中の大切な部分に、土足で踏み込んで来るような厚かましい行為を。
 だから私は放課後の教室で、ついに南田朱莉に掴みかかっていた。

「ちょ、ちょっと西川さん、どうしたの?」
 嫌がる表情の奥に、自分は悪くないのに何でこんなことをされなくちゃいけないのと開き直る南田朱莉の瞳。私の怒りは爆発した。
「あなたがホムラなんでしょ!?」
 彼女の表情がさっと変わる。まるで血の気が失せたように。
 刹那、不敵な笑みを浮かべたかと思うと挑戦的な言葉を吐いてきた。
「だったら何? 私、なんにも悪いことしてないんだけど」
 ついに正体を明かしたわね。
 そのふてぶてしさが害悪だってこと、思い知らせてやるんだから。
「ヤマモさんは迷惑してんの。あんたの行為やコメントに」
 すると彼女は即座に言い返してきた。
「あなたこそちゃんとコメント見てる? ヤマモPは歓迎してくれてるのよ。その証拠にハモってみた動画まで作ってくれるんだから。私のために、ね」
 確かに南田朱莉の言う通りかもしれない。
 冷静に状況を客観視している人なら、多くが彼女の肩を持つシーンだろう。
 だけど、最後のひとことが私にとって地雷だった。
 ――私のために。
 勝ち誇ったような南田朱莉の瞳。私のことをまるで負け犬のように見下す言葉が許せなかった。
 彼女はさらに畳みかける。
「それに何で西川さんがヤマモPの気持ちを知ってんの? 「ヤマモさん」なんて親しみを込めて呼んじゃってるけど、あなただって赤の他人でしょ!?」
 赤の他人だって?
 私は中学生の頃からヤマモさんの曲を知っている。親から借りたタブレットでドキドキしながら曲を聴いた日々。そんな想い出を踏みつけられたような気がした私は、ついに口走ってしまう。クラスメートが残る教室で。
「聞いたのよ、菜摘に!」
 皆の注目が菜摘に集まる。その時の彼女の表情が忘れられない。
 真っ赤な顔で、黙ってと言わんばかりに人差し指を口の前にかざす彼女の必死の形相を。
 でも走り出した私は止まることができなかった。
「菜摘はヤマモさんの妹なんだから!」
「えっ……?」
 ざわざわと放課後の教室は驚きに包まれた。





第五話 土にいのる少女

 私の名前は北山晶子(きたやま あきこ)。県立向葉高校の二年生。
 今日の放課後、教室で大変なことがあった。
 西川瑞希さんと南田朱莉さんが言い争いになっちゃって、最後に瑞希さんが叫んだの。
「菜摘はヤマモさんの妹なんだから!」と。

 ヤマモさん。
 彼が作った名曲『夏にあらわる少女』。
 最近の教室では不思議なことが起きている。
 数週間くらい前に、東野風香さんがこの曲を教室で流して。
 今日は、西川瑞希さんと南田朱莉さんが言い争いになって。
 そしたら、南田朱莉さんがホムラさんだってことが明らかになった。ホムラチャンネルで『夏にあらわる少女』の見事なピアノ弾き語り動画を披露していた女性は、実はクラスメートだったのだ。
 そして究極の驚きは、大津菜摘さんがヤマモさんの妹という事実。

 私は『夏にあらわる少女』を知っている。
 だって、お兄ちゃんの大好きな曲だから。
『夏になると、君がひょっこり顔を出す〜』
 いつもこのフレーズを口ずさんでいたお兄ちゃん。
 優しくて山が大好きだったお兄ちゃん。
 そんな想いが溢れそうになって、私はとっさに行動していたんだ。
「大津菜摘さん! あなたがヤマモさんの妹さんというのは、本当のことなのでしょうか!?」
 西川瑞希さんと南田朱莉さんの言い争いを遮るように。
 気が付くと、私は大津菜摘さんの席の前に立っていた。
「バレちゃったらしょうがないわね。その話はホントよ。大津山想は私の兄貴」
 席に座る菜摘さんは、組んだ両手の上に顎を乗せたまま私のことを見上げた。
「だったらお願いがあります!」
 私は中腰になって彼女の両手を握る。
「ヤマモさんにお願いして欲しいのです。私と一緒に山に登って、『夏にあらわる少女』を歌って欲しいって」
 すると菜摘さんは目をパチパチさせた。
「ちょ、ちょっと、話がよく見えないんだけど。山に? 一緒に登る? それを兄貴に頼んで欲しいってこと?」
「そうです。一生のお願いです!」
 私は菜摘さんの瞳を見つめる視線に心を込める。
 根負けした彼女は、小さく微笑んでくれた。
「わかったわ……。でも、なんで? 理由が分からなくちゃ、兄貴を説得できない」
 彼女の疑問は当たり前だろう。私は丁寧に説明する必要がある。
「それはですね――」
 私はゆっくりと、事のいきさつを語り始めた。

「去年の夏のことなんです。私のお兄ちゃんは、登山で訪れた山で行方不明になってしまって……」
 その瞬間、ざわついていた教室が急に静かになる。
 行方不明――そんな物騒な言葉に、多くの人が聞き耳を立て始めた。
 でも私は話を止めない。それどころか多くのクラスメートに聞いてもらいたいと思っている。
 だってヤマモさんのことで、皆が言い争い合って欲しくないから。
「今でもお兄ちゃんは家に戻って来ません。家族はもう諦めました。だったらせめて、一周忌となる今年の夏に、消息を絶った山でお兄ちゃんの好きだった『夏にあらわる少女』を聴かせてあげたいのです」
 私はクラスメート全員に聞こえるよう、声のトーンを少し上げた。

「そのきっかけを作ってくれたのは東野風香さんでした」
 私は姿勢を正し、風香さんを向く。
「私のお兄ちゃんはヤマモさんの『夏にあらわる少女』が大好きで、いつもサビの部分を口ずさんでいました。だからこの曲が教室で流れた時、お兄ちゃんのことを思い出して私、泣きそうになったんです」
 風香さんはうっすらと目に涙を溜めている。
 私もちょっと泣いちゃいそうだけど、去年散々泣いたからさすがに涙は出て来ない。
「その時気づきました。お兄ちゃんのことを強く思い出させてくれるのは、この曲なんだと」

 次に私は南田朱莉さんを向く。
「朱莉さん、私はびっくりしました。ホムラさんが朱莉さんだったなんて知らなかったから」
 朱莉さんは私と目を合わせようとはせず、首を垂れていた。
「私、ホムラさんの『夏にあらわる少女』のピアノ弾き語りに感動したんです。あれは素晴らしかった。ボカロPになったヤマモさんには悪いんですけど、『夏にあらわる少女』は肉声でゆっくり歌うのが一番心に響くと気づいたんです」
 はっとした表情で顔を上げてくれた朱莉さん。彼女も感極まった瞳をしている。
「一周忌となる今年の夏は、私たち家族や親戚だけで山に登って、ヤマモチャンネルの『夏にあらわる少女』を流そうと考えていました。でも、それじゃダメなんだって、お兄ちゃんの魂に届けてあげたいのは肉声の『夏にあらわる少女』なんだって。それを教えてくれたのが朱莉さんだったんです」

 最後に私は西川瑞希さんを向いた。
「でも私にはヤマモさんと連絡を取る手段がない。ヤマモチャンネルにコメントを投稿しようかと思ったんですけど、こんな重い話を受けてもらえるかどうか自信がなかった。そんな時瑞希さんが、菜摘さんのことを教えてくれた」
 瑞希さんは苦虫を嚙み潰したような、それでいて少しほっとしたような複雑な表情をしている。
 きっと、菜摘さんの秘密をクラスにばらしてしまったことを後悔していたのだろう。
「皆さんはヤマモさんの『夏にあらわる少女』が好きなんです。だから喧嘩をして欲しくない。お兄ちゃんだって同じことを言うと思います。この曲は、楽しい時に歌う曲なんだって」

 私はクラスに向けて訴える。
 もし他に『夏にあらわる少女』が気に入った人がいるなら、一緒に山に登って歌って欲しいと。
 たとえヤマモさんが一緒に登ってくれなくても、皆が歌ってくれるならきっとお兄ちゃんも喜んでくれるんじゃないかと。
 その願いが皆の心に届いたのか、夏休みに入ったすぐの平日に、有志で慰霊の登山を行うことになったのだ。





最終話 夏にうたう青年

 俺の名前は大津山想(おおつ やまも)。
 地元の向葉大学に通う一年生だ。
 今、俺たちは特急列車に揺られて長野県に向かっている。二泊三日で山に登るために。
 えっ? さすがは『山想』の名にふさわしい行動だって?
 いやいや俺はボカロPで、決して登山愛好家なんかじゃない。
 山に登ることになったのは、二週間前に妹に懇願されたからだ。

「ねえ、兄貴。夏休みになったら私と一緒に山に登ってくれない?」
 風呂上りの髪を乾かしながら、妹の菜摘がさらりと言った。
 菜摘は県立女子高に通う二年生。艶やかなパジャマ姿が最近めっきり色っぽくなった。
 ていうか登山? 完全インドア派の菜摘がいきなり何を言い出すんだ?
「なに、その鳩が豆鉄砲喰らったような顔は。頼まれたのよ、北山晶子ってクラスメートに」
「まだ話がよく見えないんだが」
「いいから。兄貴は私と一緒に登るの。晶子の他にもJKが三人も来るのよ。悪い話じゃないでしょ?」
 それだったら……。
 いやいや誤解しないでくれ。そんな軽い理由で引き受けたわけではない。
 妹の話を詳しく聞くと、俺が行かざるを得ない理由があったからだ。

 北山晶子という妹のクラスメート。彼女の兄は、昨年の夏に山で行方不明になってしまったという。
 彼が好きだったのは、俺の代表曲『夏にあらわる少女』。
 一周忌となる今年の夏に、彼が消息を絶った山で歌って欲しいということらしい。

 俺は最近ボカロPになったばかりだが、その原曲は高校時代にギター弾き語りで動画サイトに投稿していた。晶子さんの兄は、きっとその頃にファンになってくれたのだろう。
 なんでも彼は、普段から『夏にあらわる少女』を口ずさんでくれていたという。嬉しい限りだ。
 そういえば最近は、ホムラって女の子が俺の動画サイトにコメントを寄せてくれていたっけ。なかなか歌の上手い子で、俺の曲の歌ってみた動画を沢山投稿してくれていた。

「そうそう、兄貴。明日からの登山なんだけど、ホムラって子も来るわよ。彼女、実はクラスメートだったの」

 マジか!?
 それはすごい楽しみだ。
 俺が作った曲を歌ってくれているホムラさんに会えるなんて!
 なんだかドキドキしてきた。ネットで知り合った人と会うのは初めてだから。
「彼女と山でハモれたら最高だろうな……」
 俺は新調したザックや登山用の着替えをベッドの横に置き、眠れない夜を悶々としていた。


「ふあああぁぁぁ……」
「ちょっと兄貴、しゃんとしてよ。みんな兄貴に会うのを楽しみにしてるんだからさ」
 ザックを担ぎ、妹と一緒に駅に向かう。
 妹はハイカットのトレッキングシューズ、黒地のレギンスにカーキ色のキュロットを重ね穿きし、上は薄ピンクのパーカーを羽織っている。正に山ガールという出で立ちだ。
 妹のクラスメートとは駅で集合し、電車とバスを乗り継いで登山口まで行くことになっている。山麓で一泊し、明日はいよいよ登山だ。登頂後は山頂近くの山小屋に一泊し、三日目は夜遅くに帰宅する。
 駅に近づくと、それぞれ山ガールの恰好をした四人の女子高生が俺たちを待っていた。
「これが兄貴のヤマモです」
 ぶっきらぼうな妹の紹介に合わせて、俺は軽く頭を下げた。
「初めましてヤマモです。ボカロPやってます」
 顔を上げて四人の女の子を見渡す。その中の、特に色白の子に俺の心は激しく奪われた。
 ――うわっ、可愛い!
 まるで夏が導いてくれた奇跡のように。
 こんな感覚に捕らわれるのは小学生の時以来だった。
 しかもその色白の子は、感極まった表情で俺に近づいて来る。
「今日は本当にありがとうございます。私のお兄ちゃんのために来てくださって!」
 深く頭を下げてお辞儀をする色白の女の子。帽子から長く伸びる綺麗な黒髪が揺れている。
 ということは――この子が依頼主?
「彼女が依頼主の北山晶子さんよ」
 妹の菜摘が補足してくれた。
 ていうか妹も意地悪なやつだなぁ。こんなに可愛い子の依頼なら、二つ返事で引き受けてやったのに。彼女のお兄さんがどんな人だったかは分からないけど、彼女に満足してもらえる登山になればこちらも嬉しい。
 すると、晶子さんの隣にいたショートヘアの女の子が、待ち切れないという様子で声を掛けてきた。
「ヤマモさん、初めまして。私がホムラです」
 ハキハキとした声で。活動的な感じが伝わってくる。
 声の感じも確かにホムラさんだ。『夏にあらわる少女』のピアノ弾き語り版は本当に素晴らしかった。
「こちらこそ初めまして。ホムラさんとはなんだか初めてって感じがしませんね」
 挨拶しながら少し照れてしまう。
 ネットの世界にはオフ会というものがあるそうだが、そこでの出会いってこんな感じなのだろうか?
「彼女は南田朱莉さん。なんだかすでに親しそうだから説明は必要なさそうね。そしてこちらが東野風香さん」
 長身の女の子がペコリと挨拶をする。
「初めまして。私、吹奏楽部なんでフルート持ってきました」
 風香さんは彼女自身のザックを見た。そこには黒色の細長いケースが括りつけられている。
 あれってフルートなのか……。細長いからてっきりストックだと思ってた。
「そしてこちらが瑞希。私と中高一緒で家にも何回も遊びに来ているから、兄貴も会ったことあるんじゃない?」
 一番おとなしそうな女の子が軽く頭を下げた。
 言われてみれば、見たことのある顔かもしれない。
 ちょっと不機嫌な感じなのが気になるが……。

 こうして俺たち一行は特急列車に乗り込んだ。
 夏休みに入ったばかりの平日だから、自由席はガラガラだ。
 俺の隣にはホムラこと朱莉さんが陣取り、俺の曲についていろいろと話しかけてきた。
 彼女が言うには、ボカロ曲の中では俺の曲は特に歌いやすいんだそうだ。
 まあ、それは当たり前だろう。すべての曲は俺のギター弾き語りが元になってるんだから。
 歌詞も純粋で心に響くって? 聞こえはいいが、単純で語彙に乏しいって言われてるような気もする。高校生の頃の俺を殴ってやりたい。
 俺たちが楽しそうに会話すればするほど、隣の方から厳しい視線が向けられているような? 妹の隣に座っているのは瑞希さん……だっけ?
 それよりも俺は、最初に心を惹きつけられた晶子さんのことが気になっていた。
 だって、一目ぼれに近い感覚だったから。
 いや、小学生の頃に似たようなことがあった。
 俺の代表曲『夏にあらわる少女』は、実はその時の体験を歌ったものなのだ。

 小学生の頃、俺には奈角誠(なつの まこと)という親友がいた。
 が、小学生四年生になる時に、隣の県に引っ越してしまったのだ。
 夏になると、向葉市にある母方の実家に遊びにやってくる誠。俺は彼が戻ってくると、必ず遊びに行っていた。
 誠とはドロンコになって散々遊んだなぁ……。
 蝉取り、探検、魚釣り。汗まみれになった後、誠のばあちゃんが用意してくれる冷えたスイカに食らいつくのが楽しみだったんだ。
 その時にひょっこり顔を出す彼の妹。
 色白で、麦わら帽子がとても似合っていた。
 すごく可愛くて、俺は一目ぼれしてしまったんだ。
 ――夏にしか会えない女の子。
 しょうちゃんと呼ばれていた彼の妹が、『夏にあらわる少女』のモデルになっている。
 中学生になってからは誠には会えていない。高校に入学した頃はSNSでのやり取りがあったけど、大学受験で忙しくなってからはご無沙汰している。彼は今、元気にしているのだろうか?
 しょうちゃんだってもう高校生だと思うけど、今はどこにいるんだろう……。

 列車が長野県の駅に着くと、俺たちはバスに乗り換える。
 終点でバスを降りてしばらく林道を歩くと、今日の宿の山小屋が見えてきた。
 山小屋だから寝るのは皆一緒で、大部屋にごろ寝だ。風呂も入れないのが一般的な山小屋だが、林道に面した宿ということで水道やプロパンガスの設備があり、風呂に入ることができた。
 俺たちは早速風呂に入り、十八時に夕食を取る。十九時前のニュースで明日の天気を確認すると、幸い明日も快晴との予報だった。
 平日だから少ないとはいえ、大部屋には他の登山客もいる。いろいろとメンバー内で話してみたいこともあったが、俺たちはおとなしく寝ることにした。
 明日は朝早いし、山にも登らなくてはならない。
 いつもよりずいぶん早いが、二十一時には皆眠りに就いていた。

 二日目。
 肌寒さで目が覚める。
 それもそのはず、麓と言えども山小屋の標高はすでに千メートルを越えていた。玄関の温度計で確認すると、外気温は十五度しかない。連日三十度を越えている向葉市とは大違いだ。
 六時に朝食となり、食後にお昼のおにぎりを受け取る。
 さあ、これから登山開始だ。
 準備を済ませたメンバーが山小屋の前に揃うと、依頼主の晶子さんが説明を始めた。
「まず目指すのは、百名山の宇増路(うましろ)岳です。標高二千五百メートルで、コースタイムは四時間です。さあ、頑張って登りましょう!」
 うへっ、四時間だって!?
 現在、午前七時。ということは、宇増路岳に着いた時はすでに午後なのか……。
 それにしても晶子さんは可愛い。
 俺たち一行は道案内の晶子さんを先頭に、俺が最後尾で登山を開始した。日頃の運動不足がたたって結構つらかったが、ちらちらと見える先頭の晶子さんの横顔が励みになってなんとかついていくことができた。
 三十分登って五分休む、というルーティーンを何回も繰り返して、ようやく俺たちは宇増路岳の頂きに立つ。
「やっと着いたぁ~」
「すごい、めっちゃ眺めいい!」
「疲れが吹き飛ぶぅ~」
 そこは絶景が広がる世界だった。
 さすがは百名山。その名は伊達じゃない。
 俺たちは広い山頂に散らばる岩々にそれぞれ腰かけ、ゆっくりと眺めを楽しみながらお昼を食べる。
 食べ終わってお弁当を片づけていると、晶子さんが驚くべき事実を告げた。
「さて、これから二時間ほど稜線を歩いて山小屋まで行きます」
 えっ、ここが今日の最終地点じゃないの?
 近くに山小屋の屋根も見えているのに……。
 周囲を見回すと、妹をはじめ他の女の子たちも騙されたと言わんばかりの顔をしていた。
「みなさん、大丈夫ですよ。稜線歩きは眺めが良くて気持ちいいですから」
 歩いてみて分かったが、その言葉は半分本当で半分ウソだった。
 確かに稜線歩きは、天空の歩道を進んでいるような浮遊感を味わえて気持ちいい。宇増路岳から離れるにつれて登山者も減っていき、天空の世界を独占しているような気分になれる。眼下に広がる景色も、今までの疲れを忘れさせてくれた。
 が、意外とアップダウンがあって、地味に足にダメージを加えてくる。
 目的の狐火山荘に着いた時には、晶子さん以外は皆、膝に両手をついていた。
「親父さん、お世話になります!」
 晶子さんは山小屋に着くなり、扉を開けて大きな声で挨拶をする。
 すると山小屋の主人と思われる髭面で中年くらいの筋肉質の男性が、入口からぬうっと顔を出した。
「おお、しょうちゃん久しぶり。今日のお客はしょうちゃんたちだけだから、ゆっくりしていきな」
 親父さんは俺たちを見回しながら挨拶をすると、すぐに中に引っ込んだ。
 というか、しょうちゃん……って?
 今、確かに山小屋の親父さんは、晶子さんに向かって「しょうちゃん」と呼んでいた。
 気になった俺は、晶子さんに尋ねる。
「晶子さん、しょうちゃんって?」
「えっ? ああ、ここの親父さんには昨年大変お世話になって、それ以来親しくさせてもらってるんです。兄はこの山小屋を最後に消息を絶ってしまったので……」
「い、いや、そうじゃなくて、何で晶子さんが「しょうちゃん」って呼ばれてるのかって」
「ああ、そっちですか。ほら、晶子の「晶」って水晶の「晶」でしょ? だから母や親戚からは「しょうちゃん」って呼ばれてるんです。兄の捜索で皆で登って来た時に、親父さんにそれを聞かれてしまって……」
 ということは、もしかしたらもしかして……。
 一つの可能性に至った俺は、ある名前を呼んでいた。
「もしかして、奈角のしょうちゃん?」
 すると晶子さんは目を丸くした。
「何でその名前を知ってるんですか!? 懐かしいですね。奈角は父方の苗字です。私の高校入学と同時に両親が離婚して、母方の北山姓になりましたけど。今は母と一緒に祖父母の家に住んでます」
 そうか、そうだったのか……。
 やっとすべてが分かった。
 晶子さんを見たときに、強く心を惹かれた理由が。
 彼女は、俺が小学校の頃に一目ぼれした夏の間だけ会える少女その人だったのだ。
 つまり、晶子さんは『夏にあらわる少女』のモデルそのもの。
「じゃあ、行方不明になったのは誠なんだね。小学校の頃、俺と誠は親友だったんだよ」
 はっとした表情に変わる晶子さん。
 彼女も、夏の縁側で一緒にスイカを食べたことを思い出したに違いない。
「あの時のお兄ちゃんの友達が、ヤマモさんだったんですね……」
 晶子さんはボロボロと涙をこぼしていた。

 夕食を食べ終わり小屋の外に出ると、綺麗な夕焼け空が広がっていた。
 所々に尖ったピークを持つ山並みが周囲を囲み、森の木々に覆われる深い谷は漆黒の闇に包まれようとしている。
 人工的な明かりが一つも目に入らない自然そのものの風景に、皆が息を飲んでいた。
 ――きっと誠の魂もこの美しい景色を眺めているに違い。
 今がレクイエムのその時と、晶子さんは山小屋の主人に許可を申し出た。
「親父さん、ちょっとうるさくしますけど、いいですか?」
「いいよいいよ。今のところ宿泊客はしょうちゃんたちだけだから。ガンガンやっちゃって」
 それなら遠慮はいらないと、まず風香さんがフルートに唇を当てた。
 美しいフルートの音色が、『夏にあらわる少女』のイントロを奏で始める。ホムラさんのピアノ弾き語り版を参考にして、新たにアレンジしたイントロだ。
 そして俺の歌い出し。俺は大きく息を吸い、お腹に力を、息に心を込めて声を絞り出す。
 誠よ、どうして行方不明なんかになっちまったんだ? こんな綺麗な妹さんを残して。
 彼と遊んだ楽しかった日々が、走馬灯のように脳裏に蘇ってくる。
『夏になると、君がひょっこり顔を出す〜』
 サビの部分になると、俺は涙を堪えられなくなってしまった。
 菜摘と瑞希さん、そして晶子さんが主旋律に歌声を重ね、俺のかすれ声を包み込んでくれる。
 さらに朱莉さんのハモりが、この歌を美しく装飾してくれた。
 みんなありがとう。最高のハーモニーだよ。だからこの歌はきっと誠に届く。
 だって、誠が大好きで、いつも口ずさんでくれていた曲だから。
 誠と一緒にスイカを食べた妹のことが忘れられずに作った歌だから。
 その時だった。
 突然、山小屋の親父さんが血相を変えて外に飛び出して来たのだ。
 その歌について詳しく教えてくれ――と。

 翌日。
 朝食が終わると、俺たち一行は山小屋の親父さんの後について山道を歩いていた。地図には載っていない、山小屋の従業員しか知らない秘密の道を。
「親父さん、どれくらい歩くんですか?」
 晶子さんが訊くと、彼は「こんなの平坦道だよ」と言わんばかりの顔で答える。
「あと十分くらいかな。この道はね、万年雪の下に繋がってるんだ」
 山小屋の前には狐火池という小さな池がある。
 普段の生活用水はその水を使っているらしいが、著しい渇水や水質悪化に備えて雪解け水を確保できるよう、秘密のルートが小屋の裏側から繋がっているという。
 俺たちは今、その道を歩いていた。
「昨日の歌とその万年雪が、何か関係あるんですか?」
「まあいいから、ついてきな。現地を見てもらったら分かる」
 それ以降、親父さんは黙ってしまった。山男は無口無愛想を体現するかのように。
 道はいくつかの谷と尾根をトラバースし、いつのまにか目の前には大きな万年雪が広がっていた。
「あちこちで水が流れてるだろ?」
 親父さんが言う通り、辺りには色々な場所でちょろちょろと水が流れている。
「夏になるとな、ここは雪が溶けて岩肌が露わになるんだ。ほら、そこを見てみな」
 親父さんが指さす岩肌には、何か文字が刻まれていた。
 それは俺たちにはおなじみのフレーズ。

『夏になると、君がひょっこり顔を出す』

 晶子さんをはじめ、皆が息を飲む。
 すると親父さんが語り出した。
「昨日はびっくりしたよ。しょうちゃんたちがいきなり、ここに彫られた言葉を歌い始めるんだから」
 いやいや、びっくりしてるのは俺たちですよ。
 昨日歌ったフレーズがここに刻まれているというのは、一体どういうことなんだろう。
「これはな、今年ここに来て初めて発見したんだ」
 秋になると雪に覆われてしまう岩壁。ということは、この文字は昨年の夏に刻まれたということになる。
 ということは――
「昨晩、いろんな可能性を考えてみたんだが、しょうちゃんのお兄さんに何か深刻なトラブルが生じて、なんとかここまでたどり着いたんじゃないのかな? でもここはルートから外れていて普段は誰も来ない。だから力尽きる前にこのメッセージを残した……」
 普段から口ずさんでいたフレーズ。
 叫んでも誰も助けに来てくれない絶望感の中で、誠にとって勇気を与えてくれた言葉だったのかもしれない。
 だって、歌のモデルがしょうちゃんであることを、誠にだけは伝えていたのだから。
 俺がギターの弾き語りを始めた時、最初にこの歌を聴いてもらったのが誠だったのだから。
 このフレーズは俺たちだけが分かる秘密のメッセージ。もし彫り上げた後に偶然救助されたとしても、恥ずかしい思いをすることはない。そこに誠の生への執念をひしひしと感じてしまう。
「お兄ちゃん……」
 ボロボロと涙をこぼすしょうちゃん。
 他のみんなも泣いている。そう言う俺も涙が止まらなくなった。
 それでも誠のために歌ってやろうと、俺は一つ大きく息を吸った。



 了



ミチル企画 2021夏企画
テーマ:『夏×火風水土』

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