プチ変換2017年01月18日 23時09分24秒

「先生は、チンチンになりました」
 教室に響く可愛らしい声に、教壇に立つ俺はあ然とした。
 ええっ?
 何を言ってるんだ、この子は!? 授業中に。
 もしかしたら聞き間違いかもしれない。俺は早速確かめる。
「引川千絵さん。教科書のさっきのところ、もう一回読んでくれないかな?」
「はい、わかりました」
 小学六年生とは思えないハキハキとした返事。俺を向く真摯な眼差し。
 こんな真面目な子がふざけて教科書を読んでいるとは、とても思えない。
「先生は、チンチンになりました」
 やっぱり……。
 聞き間違いじゃなかった。
 そこで俺はあることを思い出す。
 そっか。
 あれか……。
 ――小さな異能者。
 今日から俺は、そんな小学生たちを教えることになったのだ。

 ◇

 発端は、先月掛かってきた一本の電話だった。
『ねえ、太田クン? 来月から私の代わりに、ちょっと面白いクラスを教えてみない?』
 真夜中に突然。
 眠い目を擦りながら、スマホからの妙に明るい声に耳を傾ける。
 まあ、こんな時間にこんな電話を掛けてくる人物は決まっている。大学時代にお世話になった安藤妙子先輩だ。
「来月からって、そんな急には無理ですよ」
『あれれ? 太田クン、今月で暇になるんじゃないの? 臨採やってるクラスって、前任者が産休明けで帰って来るって聞いたけど』
 臨採というのは、教員の臨時採用のこと。教員免許は持っているが採用試験には通っていない人が就くのがほとんどで、産休などで急に欠員となった穴を埋めるケースが多い。あくまでも臨時の先生なので、産休明けで先生が戻ってきたらお役御免になってしまう。
「どうしてそんなこと知ってるんですか?」
『私を誰だと思ってるの? この業界は狭いのよ。それで? 返事は?』
 矢継ぎ早に俺の回答を求める先輩。いつもながらに勝手なもんだ。どんな子供たちを教えるのかがわからなければ、答えようがないじゃないか。
「ちょっと面白いクラス、ってのが気になりますね。先輩の言う『面白い』が、俺にとって面白かった試しは一回も無いんですけど」
 不躾には嫌味で返す。大学の頃、俺は先輩にいじられてばかりいた。
『あら、本当に面白いクラスよ。太田クンも気に入ると思うんだけどな。ところで私が今、森葉女学園に勤めてるのは知ってるよね?』
 ――私立森葉女学園。
 小・中・高一貫の、お嬢様が通う私立学園だ。どこかのアイドルグループの名前ではない。
「ええ、知ってますよ」
『その初等科の六年三組が、今、私が担当しているクラスなんだけど、少し変わってるのよ』
 森葉女学園には、かなり世間ズレした女の子が通っていると聞いた事がある。その中でも変わっているという言うのだから、相当なものだろう。
 これは注意せねば、と一言一句聞き逃さぬよう先輩の説明に集中する。
「それで、どんな風に変わってるんですか?」
『おっ、乗り気になってきたね』
「そんなわけじゃないですよ。もしかしたら、ってのはありますけどね」
 森葉女学園は私立学校だ。ということは、県の採用試験に合格していない俺でも正規採用してもらえる可能性がある。先輩のクラスがどれだけ変わってるのか分からないが、我慢できる範囲であれば渡りに船かもしれない。
 しかし、続く先輩の言葉に俺は耳を疑った。

『六年三組の子はね、みんな小さな異能者なの』

 異能者? この現実世界に?
 アニメかなにかと勘違いしているんじゃないだろうか。
「い、異能者……ですか?」
『まあ、異能者ってのはちょっと言い過ぎだけど、みんなが小さな特殊能力を持ってるの。例えば、プチ変換とかミニ変換とかね』
 プチ変換? ミニ変換?
 なんだそれ?
 なんでも小さく変換しちゃう能力とか?
『電話じゃ上手く説明できないんだけど、決して超能力じゃないから安心して。実際に人間ができる範囲の習慣というか癖というか、そういうものに近いから』
 こんな説明じゃ、なんだかよくわからない。
『本当にたわいもない微笑ましい能力なのよ。他にも、ナラ変換とかシガ変換って子もいて面白いわよ』
 奈良変換? 滋賀変換?
 おいおい、変換が関西まで及ぶのか? それは大変だぞ? 京都や大阪じゃないところが、小さいというかなんというか……。
「それで先輩のクラスの子、能力の属性はどの子もみんな『変換』なんですか?」
『おっ、属性なんて言葉使っちゃって、興味が湧いてきた?』
「そういうわけじゃないですけど、ちょっと面白そうだなって」
 すると先輩は真面目な声で切り出した。
『これは太田クンにとっても悪い話じゃないと思うの。来月の一月から三ヶ月間、ちゃんとクラスを教えることができたら、四月から正規採用してもいいって理事長も言ってるわ。大丈夫、私だって教えることができたクラスだもん。太田クンなら間違いないわ』
 おおっ、正規採用キター!
 それに初等科の六年生ってことは、どんな能力者であれ三ヶ月間我慢すれば中等科へ上がってしまうってことだ。その後は、正規採用と普通クラスの担任が俺を待っている。
「わかりました。前向きに考えておきます。それで先輩は何で辞めちゃうんですか?」
 俺は核心を突く。すると先輩は急にデレデレ声になった。
『それがね、聞いてよ、できちゃったのよ』
 えっ、できちゃった?
「できちゃったって、巷でよく聞く『できちゃった婚』ってやつですか?」
『そうなのよぉ。飲み屋でなんだか見たことのあるようなイケメンにナンパされて、お持ち帰りされちゃったの。妊娠したこと後で彼に伝えたら、結婚しようってちゃんと言ってくれたのよぉ』
 ええっ、そんなことってあるか!?
 まあ、やり逃げされなかったのは良かったと思うけど。
「その人、ちゃんと仕事してます? 騙されてるんじゃないでしょうね?」
 やっぱり結婚やめた、なんてことになったら俺の就職はパーだ。ここはしっかりと確認せねばならぬ。
『それがね、彼ったらプロ野球の選手だったの。広島の方に本拠地があるチームのレギュラー。道理で見たことのある顔だったわけよ』
 う、嘘だろ?
 ナンパしてきたイケメンがプロ野球選手で、レギュラーってことは今シーズンの優勝メンバー!?
 これが本当だとしたら奇跡としか思えない。
「まさに神ってますね」
『でしょでしょ!? 結婚したら家庭に入ってくれって言われて、来月、広島に引っ越すことになっちゃったの』
 マジか。広島に行くなら森葉女学園は辞めざるを得ない。
『太田クンが六年三組を引き継いでくれたら、こっちも安心して広島へ行けるんだけどなぁ……』
 そんな猫なで声で言われても……。
 本当に勝手なもんだ。
 先輩ののろけ声を聞いていると、無性に背中がむず痒くなる。置いてきぼりになるクラスの子供たちがなんだか可哀想になってきた。
「わかりました。やりますよ。その代わり正規採用の件は理事長に念押ししておいて下さいね」
『サンキュ! さすがは私の後輩。彼の試合のチケット贈るから見に来てね。あっ、あと離任式の祝辞の文面もよろしく。素敵な内容を期待してるから』
 こうして俺は、先輩の代わりに六年三組を受け持つことになった。

 ◇

 六年三組での最初の授業は国語だった。
「先生は、チンチンになりました」
 そしていきなり、この引川千絵の発言。
 俺は教科書を確かめる。
 彼女に音読を頼んだ箇所には、こう書かれていた。

『先生は、プンプンになりました』

 何度目をこすっても、『チンチン』には見えない。
 初めて教えるクラスだ。引川千絵がどんな子なのか、そしてどんな能力を持っているのかわからない。
 が、とりあえず間違いを指摘しておこうと俺は口を開く。
「引川さん、ここは『プン……」
 すると突然、俺の言葉を遮るように一番前の席に座っていた子が手を上げた。
「先生!」
「えっと……」
 この子は誰だろう?
 俺は慌てて教卓に貼ってある座席表を確かめる。
 猫山路美。学級委員長だった。
「なんでしょう? 猫山さん」
 すると猫山路美は立ち上がり、うつむいたままの引川千絵を横目で見ながら俺に訴える。
「千絵ちゃんはプチ変換なんです。仕方がないんです。スルーしなきゃダメなんです」
「プチ変換……?」
 これが先輩の言っていたプチ変換か。
 それは、どんな能力?
 教科書の『プンプン』を『チンチン』と読んでしまうことに関係があるってこと?
 この際だから、学級委員の彼女に聞いてみるのも手かもしれない。
「俺は今日が初めてだから、よく分からないんだ。ちょっと教えてくれないかな」
 すると猫山路美は教室を見渡し、クラスに異論が無いことを確認してから俺を向いた。
「プチ変換っていうのは、文書の『プ』を『チ』って読んじゃう能力のことなんです。だから『プチ変換』って言うんです。千絵ちゃんは、『プンプン』と読んでるつもりでも『チンチン』って言っちゃうんです」
 ま、まさか、そんなことが……。
 俺は思わず言葉を失った。
「それに、千絵ちゃんの苗字は『ヒクカワ』ではありません。『プルカワ』なんです」
 ――引川千絵(ぷるかわ ちえ)。プチ変換。
 こうして俺の、波乱万丈の一日が始まった。

 ◇

 それにしても、なんて不思議な変換能力なんだ。
 プチ変換とは、『プ』を『チ』と読んでしまう能力だった。
 能力の概要を理解した俺は、二時間目からは彼女らを観察する余裕が生まれていた。例えば――

 二時間目、社会。
 ミニ変換、三浦二衣奈(みうら にいな)の場合。
「少子化対策におけるニンシン党の政策は……」
 おいおい、党を挙げて頑張ってるみたいに聞こえるぞ。

 三時間目、歴史。
 ナラ変換、七草来夏(ななくさ らいか)の場合。
「大阪冬の陣で、幸村が造ったサラダ丸は……」
 なんだか可愛いな……。

 四時間目、理科。
 シガ変換、進藤伽藍(しんどう がらん)の場合。
「琵琶湖に雪がガンガンと降ります」
 うわぁ、そのまんまやん!

 確かにこれは、先輩が言うように習慣とか癖のようなイメージに近い。が、初めて目にした語句でも変換されてしまうらしいので、習慣や癖と断定し難く、そういう意味では一種の特殊能力なのだろう。
 それにしても魔法のような力じゃなくて良かった。
 実を言うと、プチ変換っていろんなものを小さくしちゃうんじゃないかとビクビクしていたんだ。
 ほっとしたような、でもやっぱりちゃんと気をつけなきゃいけないような、複雑な気持ちで俺は最初の一日を終えた。

 ◇

『どうだった? 六年三組』
 帰宅すると、早速先輩から電話がかかってきた。
「可愛かったですね、子供たち。スルー力も高いし」
『でしょ? みんなそれぞれの変換能力を持ってるからね。それを分かってるから、変なことを口にしても誰も笑ったりしないしね』
 確かにこれはすごかった。
 もしクラスの中に男の子がいたら、『チンチン』と変換したとたん教室は爆笑に包まれてしまうだろう。そうなったら、もう学校に行きたくなくなるのは間違いない。特殊能力ゆえに私立のお嬢様学校に通わせる親の気持ちがよく分かる。
『それで明日の離任式の祝辞、ちゃんと考えてくれたよね』
 明日は、一月一日付けで学校を離れる先生方のために離任式が行われる。もちろん先輩も見送られる予定だ。
「ええ、ちゃんと書きましたよ。なるべくカタカナを入れないようにして」
『それが賢明だわ。それで、どの子に読んでもらうつもり?』
「やっぱり、学級委員長の猫山路美にしようと思います」
 今日は彼女に助けられた。それに、彼女がクラスの信頼を得ていることも確認することができた。祝辞を読むのは、委員長の猫山路美で決まりだろう。
『そうね。あの子はクラスで一番賢いから適任だわ』
「ですよね。もし引川千絵だったら、『プロ野球』を『チロ野球』って読んじゃいますからね」
 すると先輩は電話の向こうで苦笑する。
『千絵ちゃんならそうね。『チロ野球』って、なんだか犬の野球みたい。ていうか、祝辞に彼のこと書いたの?』
「プロ野球選手くらいはいいでしょ? 先輩だってこの間、記者会見でデレデレだったじゃないですか。あとは明日の祝辞を楽しみにしておいて下さいね」
『何? 内容は秘密? 皆の前であんまり変なことバラさないでよね。彼も後で離任式のビデオ見るって言ってんだから』
「任せて下さい。かの流行語で会場をわかせてみせますよ」
 こうして俺は、満を持して離任式に挑んだのであった。

 ◇

 一月で異動や退職される先生方は三人だった。
 その中の一人、安藤妙子先輩はスーツの胸に花を飾り、体育館のステージに立って子供たちを眺めている。
 児童代表が三人、順番にステージに上がって祝辞を読み上げていく。六年三組の猫山路美の番は最後だった。

「安藤先生、長い間、大変お世話になりました」

 猫山路美の凛とした声が体育館に響く。
 緊張はしていないようだ。俺はほっと一息をつく。
 それにしても、原稿を読んでいるというのにこんなにも声が通るとは素晴らしい。
 彼女ならやってくれるだろう。立派な祝辞が演出できれば、俺の株も上がり、正規採用にぐっと近づくはずだ。
 しかし、続く彼女の言葉に俺は耳を疑った。

「先生のご結婚を一言で表すと、まさに『呻ってる』です」

 ええっ!?
 呻ってる?
 そんなこと、原稿に書いたっけ?

「呻ってる出会いで、先生はプロ野球選手との幸せを手にされ……」

 待てよ、そこは、かの流行語『神ってる』だったはずだ。
 まさか。
 これって……。
 念のため、俺は目の前の引川千絵に小声で確かめる。
「引川さん、ちょっと聞きたいんだけど、猫山さんは何変換だっけ?」
 ――猫山路美(ねこやま ろみ)。
 名前から推測される変換名を、引川千絵は口にした。
「路美ちゃんはネロ変換だよ」
 やはり、そうだよな……。
 このことは織り込み済みで、原稿もネロ変換されない語句を選んで吟味を重ねたんだ。カタカナだって『プロ野球』だけに留めている。
「路美ちゃんは頭いいからねぇ。ほとんどの漢字をカタカナのようにスラスラ読んじゃうんだよ」
 漢字をカタカナのように、だって!?
 ま、まさか、漢字がネロ変換されちゃってるとか!?
 するとステージ上の猫山路美の口から、信じられないような言葉が飛び出した。

「六年三組一同、先生のお幸せを、おポンドりして」

 おポンドりって何だよ。
 確かそこは『お祈り』だったはずだぞ。
 体育館もざわざわとざわつき始めた。さすがに『おポンドり』には、多くの人が違和感を覚えたようだ。
 それにしても、さっきの『神ってる』といい、一体どんな変換が起きているんだ!?
 ――『神ってる』と『お祈り』。
 変換されてしまった言葉を頭の中で並べて、俺は真相に気が付いた。
 そうか、そういうことだったのか!
 これはヤバい! 最後の言葉はもっとヤバい!!
 しかし、時はすでに遅し。
 猫山路美は声量を上げ、笑顔で締め括りの言葉を口にした。

「今日という日を、心からお呪いいたします!」





 おわり



ライトノベル作法研究所 2016-2017冬企画
テーマ:『小さな異能』

君の鼻血は涙の味がする2016年09月14日 07時26分23秒

「僕、吸血鬼なんだ」
 それは五年前。
 中学二年生だった私に、いきなり掛けられた一人の男の子の言葉。
「だから、君の血をもらってもいい?」
 小高い丘の、町が見渡せる気持ちのよい場所なのに。
 ベンチに並んで夕陽を眺めていたところを、なんで? と私は彼を向く。
「…………」
 私を見つめる男の子の表情。
 視線は至って真剣。
 冗談を言っているようには思えない。
 名前は不振石健(ふらずいし けん)くん。
 この間、越してきたばかりのクラスメート。
 目元がキリッと締まって、鼻筋も通ったイケメンだ。
 町のことを教えてほしいって頼まれて、案内しているうちにこの場所にたどり着いた。
「それって……痛いの?」
 やっとのことで私の口から言葉が出てくる。
 痛くないのなら、健くんだったら許していいかも、とちょっぴり思ってしまう。
「あわわわわ、痛くない、痛くないよ」
 顔に似合わず、健くんは慌てふためいた。
「だって、ガブってするんでしょ?」
 私の脳裏に浮かぶ、首筋に歯をたてる吸血鬼の姿。
「そ、そ、そんなことしたら血が出ちゃうじゃないか」
 血が出ちゃうって、血が欲しいんでしょ?
 健くん、本当に吸血鬼?
「ガブってしないで、どうやって……?」
 不思議に思う私を横目に、健くんは立ち上がる。
 そして三歩前に進んでこちらを振り向き、いきなりダンスを踊り始めた。
 ロックミュージシャンのような。
 腰をカクカクさせる仕草を強調して。
 踊り終わった健くんは、息を切らしながら私に問いかける。
「どう? 興奮した?」
 ええっ? 興奮?
 あのカクカクダンスで?
 目をぱちくりさせる私。健くんは焦った表情を見せる。
「おかしいなぁ……。女の子はこんなダンスに興奮するって雑誌に書いてあったのに」
 どこのどんな雑誌なんだか。
 私を興奮させてどうするの?
「それで?」
「そしたら鼻血が出るだろ」
 えっ?
 思わず固まってしまう。
「鼻血だったら、ガブってしなくても済むかなぁって……」
 健くんって、かなりチキンな吸血鬼なのね。
 そんな理由で、ダンスを踊ってたんだ。
 必死に何度も腰を突き出して。
 私に鼻血を出させるために。
「あはははははは!」
 理由が分かると、なんだか可笑しくて、私は笑い出してしまった。
「な、なんだよ、笑うことないじゃないか? こっちは必死だったんだから」
 必死だったから可笑しいんじゃないのよ。
 拗ねた健くんの顔も面白い。
「はははははははは、あー、可笑しい」
 私の笑いは加速した。涙も止まらなくなる。

 その時。
 何かの液体が、つーっと鼻から口にかけて流れてきたような……

「ほら、やっぱり出てきたじゃないか、鼻血」
 忘れてた。
 私、涙を流すと一緒に鼻血も出てくるんだった。
「いただきっ!」
 健くんは私に駆け寄ると、さっと私の顔に口を寄せ、ペロッと私の純血を奪っていく。
 そして満足そうに目を細めた。
「あー、美味しい! これが噂に聞く乙女の生き血か!?」
 あっという間の出来事だった。
「ちょっと涙の味がするけど……」
 なんてことしてくれるのよ。
 恥ずかしくて健くんの顔が見られない。
 ドキドキする胸の鼓動が止まらない。
 世界を赤く照らす夕陽様。どうか私のほおを、真っ赤に染まる私の心を隠して。
 そんな中二の夏。
 忘れもしない五年間の記憶。
 私、折絹真衣(おりきぬ まい)は、健くんに恋をした。

 ◇

 ヴァンパイアウイルス感染症。
 健くんがかかっている病気は、そんな名前だった。
 処女の生き血が無性に欲しくなる病気。
 ウイルスに感染すると身体能力がアップし、健康状態も格段に良くなるという。
 だから普段の生活には何の支障もない。
 問題は、生き血が欲しいという欲求を、時々抑えられなくなること。
 そして欲求に耐えられなくなって女性に噛み付くと、ウイルスが女性の体内に流れ込んでしまう。
 その量は、多くて一回あたり体内のウイルスの三分の一ほど。
 つまり四度目に噛み付いた時、体内のウイルスはすべて放出されてしまう計算になる。
 そして、その後に訪れる死。
 ウイルスをすべて放出してしまうからだろうか。
 生命維持機能をウイルス任せにしてしまった代償と、学者は言う。
 でもその詳細は、まだはっきりとは分かっていない。

 だから健くんは考えた。
 体内のウイルスを放出させずに生き血を味わう方法を。
 ――鼻血。
 これを舐めるだけなら、リスクを犯さずに生き血を楽しむことができる。

 そんな健くんの苦悩なんて知らない私は、丘での一件を両親に打ち明けてしまう。
 当然、驚き慌てる両親。
 私は、とある研究所に連れて行かれる。
 ――ヴァンパイアウイルス研究所。
 広葉大学の付属機関として、当時の日本で唯一ヴァンパイアウイルスについて研究している機関だった。
 そこで血を取ったり、機械で調査したり……。
 詳細な検査に一ヶ月もかかり、その間、私は入院することに。
 ようやく退院した私を待っていたのは、健くんが転校してしまったという悲しい知らせだった。

 健くんに会いたい。
 彼が座っていた教室の席を眺めるたびに心が痛む。
 私の純血を奪っていったあの人に。
 別れの言葉だって、かけてあげることができなかった。
 聞くところによると、健くん家族は夜逃げみたいに町を出て行ったという。
 だから誰も、彼の連絡先はわからない。
 私が両親に話したことで、おおごとになってしまったから?
 町中に、健くんの病気のことがバレてしまったから?
 罪の意識と彼への強い気持ちが二重に私を苦しめる。

 どこに住んでいるのかもわからない健くん。
 この病気の専門家になったら、彼に再会できるかも。
 高校に入った私は、ヴァンパイアウイルスについて勉強した。
 そして、検査でお世話になった広葉大学に進もうと心に誓う。
 将来、ヴァンパイアウイルス研究所に勤めることができれば、健くんに会える確率はぐっと高くなるはずだから。
 彼にひとこと謝りたい。
 そして私の想いを伝えたい。
 こうして、丘での一件から五年が経過した春、私は広葉大学の医学部――ではなくて看護学部に入学したのだった。

 ◇

「テニスサークル、入りませんかぁ~」
「サッカー部、マネージャー募集中でーす!」
 入学式が終わった後の大学ホール前は、新入生とサークルの勧誘でごった返していた。
 色とりどりのユニフォームに身を包む学生達。
 ところ狭しとプラカードが乱立する。
「バンドやりたい人、いませんかぁ~」
 ないない。私、音痴だから。
 勧誘の魔の手を振り払うようにして、私はずんずんと一人歩く。
「オカルトに興味ある人、いませんかぁ~」
 オカルト研究会?
 吸血鬼には興味あるけど、健くんの病気はオカルトじゃないからなぁ……。
「血を吸われてみたい人、いませんかぁ~」
 そうそう、吸血鬼ってこれよ。
 って……!?
 驚いて振り向くと、そこにはプラカードを持ってニコリと私に笑いかけるイケメンの姿。

 健くんっ!!!?

 思わず叫ぶところだった。
 彼が私に向かって変なことを言わなければ。
「おっ、処女の匂いがする。君、俺に血を吸われてみない?」
 なっ……。
 懐かしさよりも心無い言葉への反応が先に出る。
 私は固まった。
「さすがに大学生にもなると、可愛い処女さんが少なくなって困ってたんだ。君は久しぶりの可愛い処女さんだ。どう? 俺と一緒に活動しようよ」
 失礼な!
 どうせ私は処女ですよ。
 だって、それは……。
「健くんだよね。不振石健くん」
 やっと言葉が出た。
 健くんは驚きながらもまゆをしかめる。
「いかにも俺は不振石健だが……。はて? 俺が知ってる可愛い女の子は皆、処女ではなくなったはずなんだが……」
「…………」
 思わず言葉を飲み込んだ。
 懐かしくて、嬉しくて、喋りたいことが沢山あるのに、彼の言葉が心にストップをかける。
 健くんって、そんな軽い男になっちゃったなんて……。
 今まで私が追い求めてきた吸血鬼なのにガブってできないウブな健くんはどこへ行ったの?
 目頭がジーンと熱くなる。
 もう彼のことは忘れよう。
 同じ大学だったことは驚きだけど、もう私のことは忘れちゃってるようだし、軽い男に成り下がっちゃってるし、顔を合わせないようにすれば時が解決してくれるはず。何年かかるか分からないけど……。
「ごめんなさい!」
 涙を見せないよう、私は踵を返し脱兎のごとく走り出した。
 さようなら、健くん。
 私の純血をあげた健くんは、もう地球上から居なくなってしまったんだ。
 そう考えよう。諦めよう。
 会わなければ、顔を見なければ、時間がなんとかしてくれるだろう。
 しかしそれは甘い考えだった。
 看護学部のクラス分けが発表された時、私は現実の残酷さを知ることになった。

 ◇

「また会ったね、可愛いしょじ、うがががががが……」
 クラス分けの同じ部屋に居た健くんは、顔合わせ会が解散になったとたん、私に声を掛けてきた。
 私はすかさず彼の口に手を押し当てる。
 最悪……。
 これでは彼を忘れるどころか、美し思い出までもが汚されてしまう。
「うがががががっ!」
 口を押さえられて暴れる健くん。
 突然、掌に歯の硬い感触を感じて、私は素早く手を引っ込めた。
 危ない、危ない。
 こいつ、吸血鬼だった……。
 中学生の時はあれほどガブってすることを嫌がっていた彼を思い出し、今度は怒りが込み上げてくる。
「健くん、何しようとしてるの!? ちゃんと抗体飲んでて、そういうことしようとしてるんでしょうね!?」
 抗体と聞いて、講義室に残るクラスメートがこちらを向く。
 皆、看護学部の学生なんだから、一応興味はあるのだろう。
 その様子を見た健くんは、急に恐縮しながら私の顔色をうかがう。
「ゴメン。謝るから大声を出さないでくれよ。それに抗体のことも黙ってて欲しいんだが……」

 ヴァンパイアウイルス抗体製剤『クロス』。
 別名、十字架抗体と呼ばれている。
 三年ほど前に開発された、ヴァンパイアウイルスに対する抗体だ。
 これを飲んで数時間以内であれば、ヴァンパイアウイルスは噛まれた女性に流れ込むことはない。
 つまり、健くんは死に至ることもないし、噛まれた女性もウイルスに感染することもない。
 ヴァインパイアウイルス感染者にとっても、社会にとっても、夢の抗体製剤なのだ。
 この『クロス』のおかげで、それまでこそこそと隠れ住んでいたヴァインパイアウイルス感染者は社会権を得ることが可能となった。

「でもさあ、聞いてくれよ」
 なぜだかその後、私と健くんは喫茶店の窓際の席で向かい合っていた。
「クロスを飲んでから生き血を吸ってもな、ぜんぜん気持ちが良くねぇんだよ」
 健くんに手を引かれ、逃げるように講義室を後にした私たち。
 気がつくと、この喫茶店に座っていた。
「クロスの本当の意味を知ってるか? あれは十字架の『クロス』じゃないんだ。ウイルスの流れを閉ざすって意味の『クロース』なんだよ」
 そして健くんは、遠い目をしながら喫茶店の天井を向く。
「なんて表現したらいいんだろうなぁ……、あの感覚。クロスなしで、生き血を吸う素晴らしさ」
 そんなのわかりません。
 私、吸血鬼じゃないから。
「吸血鬼ってさ、血をたくさん吸うと思うだろ? でもそれは違うんだ。血はちょっとで十分なんだよ。肝心なのは放出するウイルスの量。ドクドクと、女の子の体の中に俺のものが流れ込む。くー、あれがたまんねぇ」
 ちょ、ちょっと。
 それってどいうことだかわかってんの!?
「魂の伝授っていうのかな。いや、リビドーの奔流と言った方がいいかもしれん。とにかく最高なんだよ。だから僕と……」
「健くん!」
 思わず私は叫んでいた。
 喫茶店のお客さんたちが皆、私を見る。
 あちゃー、やっちゃった……。
 私は恐縮しながら店内に軽く頭を下げると、再び健くんに向き直った。
「ねえ、本当にウイルスなんて流し込んだの? クロス飲まなきゃダメじゃない。健くん、死んじゃうんだよ、わかってるの?」
 小声を続けるつもりだったが、最後はちょっと涙声になってしまう。
「知ってる」
 真面目な声。
 私は涙を拭う。
「医者は、すでにリミットだって言ってた。だから次が最期」
「それって……」
「いいんだよ、俺は社会の邪魔者なんだから」
 彼の口から投げやりな言葉が漏れる。
 五年前を思い出す。
 夜逃げのように彼は町からいなくなった。
「クロスのおかげでこうして社会に出ることができたけど、実態は何も変わっちゃいねぇ。それにな、もっと悲しいことが俺の目の前で起きている」
 何度も引っ越しをして、何度も転校して、社会から隠れるように生きてきたのだろう。
 いじめられたり、時には迫害されたり……。
 そんな苦労は、私には分からない。
「それはな、俺の前からどんどん処女がいなくなってることだ」
 なっ……。
 それって、女の子の前でする話ぃ!?
「俺は幼女に興味はねえ。君みたいな可愛い処女さんに会うのは本当に久しぶりなんだ。同世代に処女がいなくなるのが怖い。そんな世界に未練はねぇ。君の血が吸えるなら、本当に死んだってい……」
 バチッ!
 彼が言い終わるのと私が彼の頬を叩くのは同時だった。
 やっぱり健くんは最低な男に成り下がってしまったんだ。
 私は立ち上がり、引き止めようとする健くんを無視して喫茶店を飛び出した。
 なにが、処女のいない世界よ。
 処女を減らしているのはあんたじゃない。
 ウイルスを流し込んで、そしてその娘の純潔を奪って……。
 本当に最低な男。

『だから次が最期』

 でもしばらく街を歩いていると、私の頭の中で健くんの言葉がぐるぐると回り始める。
 あの時の瞳が本物の彼なんだという希望を拭い去ることができない。
「まだまだ甘いなぁ……」
 いくら彼が最低な男であっても、そう簡単には忘れられないよ。
 だって初恋の人だったんだから……。

 ◇

「よう、可愛いしょじ、うぐっ……」
 それ以来、大学で会うたびに変な名前で読んでくる健くん。
 だから今度は彼のお腹をグーで殴る。
 最低な男に噛まれないように。
 講義や実習のたびに私にちょっかいを出してくる健くんとのやりとりは、悲しいことに日課になりつつあった。

「今日の講義は、十字架抗体と呼ばれている『クロス』について説明しよう」
 広い階段状の講義室に、教授の声が響く。
 ――ヴァンパイアウイルス概論。
 さすが、この大学の名物講義というだけあって席はほぼ埋まっている。
 それにカッコつけて、わざわざ私の隣に座る最低な男、若干一名。
「なあ、知ってるか? なんでこの大学がヴァンパイアウイルス研究のメッカと呼ばれてるか」
 ちょっと健くん、邪魔しないでよ。
 今、真剣に教授の話を聞いてるんだから。
 あからさまに嫌そうな顔をしても、彼はお構いなし。
「なんでもな、クロスの原液はこの大学にあるらしいんだ」
 そりゃ、世界で初めてクロスの生成に成功した大学なんだから、原液があるのは当たり前じゃない。
「俺が飲んでるクロスってさ、原液を百倍くらいに薄めたやつなんだって」
 そ、それくらい、知ってるわよ。
 濃すぎるのはダメだってことぐらい。
「それでさ、もし俺がクロスの原液を飲んだら……」
 飲んだら……?
 もったいぶる言い方に引っかかり、不覚にも私は健くんを向いてしまった。
 彼はニッと笑いながら、言葉を続ける。
「この病気が完治するらしいんだよ」
 えっ!?
 そんな話、聞いたことが無い。
 高校時代に読み漁ったテキストや論文にも、そんなことは一行も書いてなかった。
「ウソよ」
「ホントだぜ。それが目当てで俺はこの大学にいるんだから」
 えっ?
 ちょっと待って。
 それって……。
 病気を直したいってことじゃない。
 なによ、この間は『死んだっていい』って言ってたくせに。
 ただのカッコつけ?
 それならそうって言ってくれればいいのに……。
 健くんの入学の理由を知って、私は少しほっとする。
 本気で病気を直したいと思っているなら応援したい。
「それって、どこの情報?」
 ただし、病気が治るという情報が本当であるならば。
「とある関係者から聞いた話だ」
 とある関係者?
 怪しいわね。
 偽情報という可能性も考えられる。
 もしそうだったら大変だ。
 だってこれは、健くんの命に関わる問題だから。
「私ね、高校時代、ヴァインパイアウイルスについて一生懸命勉強したの。もちろんクロスについても。でもクロスの原液で病気が治るってどこにも書いてなかった。おかしいじゃない。それで治るんだったら、何で患者は減らないのよ。もしかしたら健くん、その誰かに……」
 その時だった。
 んんん、と教授が咳払いをする。
「ちょっとそこの君。今は講義中ですよ。話したいことがあるなら、ここから出て話してくれませんか」
 講義室中の視線が私に集まる。
「す、すいません」
 また、やっちゃった……。
 とりあえず謝ってみたが、注目を浴びたことには変わりない。
 すぐさまここから出て行きたいが、ほぼ満席状態なので出るにも出られない。人をかき分けて進めば、さらに注目を浴びそうだ。
 だから私は肩を丸めて、じっと動かぬアルマジロのように机に伏せる。
 恥ずかしい……。
 こんな最低男のために、ムキになっちゃって。
 なにやってんのよ、私。
「えっと、どこまで話したかな? そうだ、クロス、つまりヴァンパイアウイルスの最初の抗体は、五年前に軽度の感染者の血液から採取されたもので……」
 教授の講義が再開する。
 どうやら皆の意識は、私から外れたようだ。
 わずかに顔を上げて周囲を見回すと、健くんは何食わぬ顔で講義を聞いていた。
 なに?
 自分は関係ないって態度?
 本当に最低な男。
 講義が終わったらさっきのことについて追求してやるわ。
 そんな私には、一つ気になることがあった。
 ほとんどの学生が再び講義に集中する中、私の右斜め前方からこちらを意識する視線があったのだ。
 ――長い髪を軽く染めた女の人。
 チラチラと頻繁にこちらを向く彼女が例の関係者であることを知るのは、この後のことだった。

 ◇

 ヴァンパイアウイルス概論の講義が終わると、私は健くんを人気のない場所へ連れ出した。
 今は講義が行われていない、三階の小さめの講義室。
「ねえ、教えて。クロスの原液の話」
 そして私は単刀直入に切り出す。
「健くんだって、この大学の看護学部に受かったんだからわかるよね。クロスはヴァンパイアウイルスの働きをブロックするだけ。もし原液を飲んで、すべてのウイルスの機能がブロックされたらどうなるか知ってるの? 死んじゃうんだよ、健くん」
 ヴァンパイアウイルス感染者は、生命維持機能をウイルスに依存してしまっている。
 その機能がすべてカットされてしまったら、あとは死を待つだけなのだ。
「知ってる……」
 健くんはポツリとつぶやくと、私から目をそらし窓の外を向く。
 春の日差しが整った彼の顔を照らす。
 キャンパスの広場を見下ろせる窓。
 休み時間を満喫する学生たちの姿が、彼の瞳に写っていた。
「死んでしまうかもしれないことも。そして、クロスの原液が病気を治療する効果を持つかもしれないという極秘の研究結果があることも……」
 なに?
 その、極秘の研究結果って?
 そういえば健くん、さっきの講義中に『とある関係者』って言ってた。
 きっとその関係者に騙されているんだ。
 極秘の研究の実験台にされようとしてるんだよ。
「私、クロスについても一生懸命勉強した。でも原液にそんな効果があるなんで、どの本にも書いてなかった。健くんは騙されているのよ、その関係者とやらに」
「そうかもしれない」
「そうかもしれないって……?」
 それって、どういうこと?
 騙されていても、自分の命よりも、その研究が大事だってこと?
「前にも言っただろ。俺はもうこの世に未練はないんだ。だから最期に君の血がほしいって頼んだんだよ」
 窓に寄りかかり、私の瞳を見つめる健くん。
 お願いだから、そんな目で見ないで。
 健くんへの気持ちが蘇ってしまうから。
「でも、それは無理なんだろ?」
 ええっ?
 それって私が悪いの?
 だって、だって……。
 健くんが私にウイルスを流し込んだら、死んじゃうんだよ。
 もうリミットに達しちゃってるんだから。
「ほら、やっぱり無理って顔してる。だったら実験に協力して死んだ方が、世の中のためになると思わない?」
「…………」
 何も言葉が出てこない。
 どうして健くんは、誰の血も吸わずに静かに生きていこうって思わないの?
 血を吸いたくなっても、クロスを使えばいいだけじゃない。
 そう言ってあげたいのに、口から出てこない。
 なんで、なんで、なんで?
 私の血が欲しいと言ってくれたことが嬉しかったから?
 健くんにとって特別な女性になりたいと思っているから?
 その時だった、講義室の扉がすっと開いたのは。

「大丈夫よ。決して健は死なせない」
 入ってきたのは一人の女性。
 そう、さっきの講義の時に私のことを最後まで見ていた長髪の女性だった。
「瑠名花……」
 驚きの表情を見せる健くん。
 るなかって、その女性の名前?
 健くんの瞳の真ん中にその女性が映る。
 わずかに緩む彼の表情に、胸の奥がチクリと痛んだ。
「困るのよ、健。そんな見ず知らずの女に、パパの研究のことをペラペラと喋ってもらっては」
 腕組みをしたその女性――瑠名花は、健くんのことをキッと睨みつける。
「ゴメン……」
 すっかり恐縮した健くんは、ただうつむくだけだった。
「それに何? この女。散々お世話してあげた私を捨てて、この女に乗り換えようっていうの?」
「ち、違うよ。そんなことはない……」
 健くん……。
 態度がガラリと変わる健くんの姿を見て、悲しみがじわじわと湧き上がって来る。
 やっぱり、私の血を吸えたら死んでもいいっていうのはウソだったんだ。
 そりゃ、そうよね。
 こんなに綺麗な女性がいるんだから。
 どうせ死ぬなら、私なんかの血を吸うより、この女性に協力して死んだ方がマシだもんね。
 さっき、『パパの研究』って彼女は言ってたけど、その偉い先生の実験台にでもなればいいわ。
「それに、そこのあなた!」
 瑠名花は、今度は私を睨みつける。
「健は私のものなんだから、ちょっかい出さないで」
 ちょ、ちょっと。
 ちょっかい出してくるのは健くんの方なんだから。
 私は必死に忘れようとしてたのに。
「ふーん、あなた、可愛いくせに処女の匂いがするわね。そういうわけか……」
 何よ、そんな勝ち誇った顔をして。
 もしかして、健くんとすでに深い仲になっているとか……。
「言っておくけど、健はあなたに興味があるんじゃなくて、処女の生き血が好きなだけ。それにね、健は次に生き血を吸ったら死んじゃうの。だからね、あなたと健との未来はどこにもない。あきらめなさい」
 ――私と健くんとの未来はどこにもない。
 確かにその通りだ。
 健くんがクロスなしで私の血を吸ったら、彼は死んでしまう。
 健くんと私が男女の関係を結んだら、彼はもう私に見向いてくれなくなるかもしれない。
 残酷な現実がずしりと心を押しつぶす。
 だから私は健くんのことを諦めようと思ったんじゃない!
 あなたに言われなくてもわかってるわよっ!!
 叫びたい気持ちをぐっと我慢しているのに、瑠名花はさらに私の気持ちを逆なでする。
「わかった? どこの馬の骨だかわからない処女さん」
 寄ってたかって私のことを処女、処女って呼ぶなっ!
 私の怒りは爆発した。
「私にもちゃんと名前があります。真衣です。折絹真衣! 健くんとは何でもない。それだけは覚えておいて下さいっ!」
 私はチラリと健くんを見る。
 ちゃんと私の名前が聞こえたよね!?
 私たち、五年前に会ってるんだけど……。
 しかし、健くんは静かにうつむいたままだった。
 本当に忘れちゃってるのね……。
 崖から落とされたような、目の前が真っ暗になるような感覚。
 名前に反応してくれるんじゃないかと淡い期待を持っていた私は、本当にバカだ。
「折絹真衣!?」
 ところが予想外の事態が発生。
 健くんではなく、瑠名花が私の名前に反応したのだ。
「あ、あなたが、あの折絹真衣……なの?」
 どういうこと?
 健くんは無反応なのに、初対面の瑠名花の方が私の名前を知ってるなんて……。
「あはははははは……」
 そして瑠名花は高らかに笑い始める。
「これは面白い。いいじゃない、やれるもんならやってみなさいよ。私が見届けてあげるから。あはははは……」
 そのまま講義室を出て行く瑠名花。
 私はポカンとその場に取り残された。

 ◇

 全くわけがわからない。
 そもそもの話のきっかけは、クロスの原液を用いた秘密の実験についてだった。
 そこに現れた謎の女性、瑠名花。
 どうやら秘密の実験を実行しているのは、瑠名花の父親であるらしい。
 きっとその実験をきっかけに、健くんは瑠名花と仲良くなったのだろう。
 推測できるのはここまで。
 分からないのは、瑠名花がなぜ私の名前を知ってるのか?
 そして、私が折絹真衣であることを知った時の、瑠名花の異常な反応。
 その謎を教えてくれる唯一の存在――健くんは、窓際でうつむいたままだった。

「ねえ健くん、教えて」
 私は講義室の机に寄りかかり、優しく健くんに問いかける。
 なんだかこれは長い話になりそうな予感がした。
「あの女性は誰なの? 何で私の名前を知ってるの?」
 健くんはゆっくりとこちらを向く。
 そしてポツリポツリと語り始めた。
「広葉瑠名花(こうよう るなか)。この大学の理事長の娘だ」
 驚きが私の中を駆け巡る。
 り、理事長の娘!?
 だから、あんなに態度が大きかったんだ……。
「四年前のことだった。世間から逃げるように生活していた俺たち家族に、手を差し伸べてくれたのが理事長だったんだよ」
 ――ヴァンパイアウイルス研究の実験台として協力してほしい。
 ――その見返りに、家族の生活は保証するし、感染者を救う薬も開発してみせる。
 理事長からの提案を受け入れ、健くん家族は大学の近くに住居を移したという。
 そして、実験台として研究所に通う日々が続く。
 その甲斐あって、ついに抗体製剤『クロス』が開発された。
 クロスのおかげで社会権を得た健くんは、広葉大学付属高校に通うことになった。
「ウイルス感染者であることを気にせずに高校に通えると聞いて、俺の心は踊ったさ。だが実際は違ってた。現実はそんなに甘くなかったんだ」
 ヴァンパイアウイルス研究で有名な広葉大学の付属高校ということで、生徒の中にはウイルス感染者が何人もいた。
 だから、学校生活や人間関係で特に困ることはなかった。
 ただし表面的には。
 異性関係において一歩踏み込むと、問題は顕在化する。
「俺だって男だから、女の子のことが好きになる。好きになると声をかけたり、告白したりする。そうすると、どうなると思う?」
 どうなるって?
 無下に断られる……とか?
「突然彼氏を紹介されて、『この人とつき合ってますから』と断られるんだ」
 やっぱり……。
 というか、ダメじゃない。彼氏持ちの女の子に手を出しちゃ。
「それが何回か続いた。あーあ、他に好きな男がいたんだ、と諦めた。でもそのうちに、何かがおかしいってことに気付いた」
 おかしいって?
 何が?
「断りに来る女の子は、必ず彼氏を連れてくるんだ。それっておかしくね? 普通、『好きな人が他にいますから』だろ? 何で、彼氏がいなかったような女の子でさえ、俺が声をかけたとたんに彼氏ができるんだよ」
 彼氏がいなかった女の子に急に彼氏ができたって?
 うーん、確かに……。
「一つ確かめたいんだけど、声をかけた女の子って、その時本当に彼氏はいなかったの?」
「ああ、そう思う。それに、その女の子たちはみんな処女だった。俺ってウイルス感染者だから、血の匂いで処女かどうかわかるんだよ」
 そ、それって……。
 まさか……。
「ある日、変な噂が耳に入ってきたんだ。俺は処女にしか興味を示さないから、処女を失えば災難から逃れられるって。俺に声をかけられたら、それは逆にチャンスだから、気になる人に打ち明ければ告白が成功するって」 
 なっ……。
 そんなことって……。
「ひどいだろ? バカにしてるだろ? こうして俺の周りからだんだんと処女がいなくなっていったんだ」
 健くん自身が処女を減らしているのかと思っていたけど、こういう事情があったなんて。
 私はちょっと健くんに同情する。
「でも、一番許せないのは俺自身なんだ。処女でなくなったとたん、その女の子から興味がすうっと無くなってしまう。処女かどうかなんて、その女の子の人格や性格や優しさとは全く関係のない部分じゃないか。頭ではわかっているのに、体が納得しない。そんな俺自身が、いやこのウイルスが本当に許せない……」
 私に背を向け、再び窓の外を向く健くん。
 窓枠に手を置き、うなだれた肩が小刻みに震えていた。
「そんな中、唯一俺に対する態度が変わらなかったのが、瑠名花だった」
 広葉瑠名花。
 ヴァンパアウイルス研究のメッカと言われる広葉大学理事長の娘。
「瑠名花の最初の印象は、お世話になってる研究所でよく見かける女の子、って感じだった」
 きっと父親の研究の手伝いで研究所に出入りしていたのだろう。
 私は、白衣を来てフラスコを手にする長髪の彼女を連想する。
「彼女は、同じ付属高校の一つ上の学年の先輩だった。そして夜は、俺が通う研究所の手伝いに来ていたんだ。そして俺は、だんだんと彼女に好意を持つようになった」
 殺伐とした学校生活。
 一方、検査に通う研究所では、愛想よくしてくれる美人の助手に会うことができる。
 好意を持つのも、ごく当たり前のような気がした。
「瑠名花は、ヴァンパイアウイルスのことを熟知している。だから、俺のことを拒絶することはなかった。しばらくして、俺たちは付き合うことになったんだ」
 やっぱり二人は付き合っていたんだ……。
 なんだか悲しいけど、ちょっぴりほっとしてしまう。
 健くんを受け入れてくれる人がいたことは、本当に救いだったことだろう。
「しかし、楽しい日々は長く続かなかった。理事長に二人の仲がバレてしまったんだ」
 ああ、健くん……。
 二人の仲は私にとって悲しみの種なのに、応援したくなってしまうのはなぜだろう。
「瑠名花は必死に理事長を説得してくれたよ。『パパは散々、ヴァンパイアウイルス関連事業で儲けているくせに、自分の娘が付き合うことは許さないなんて身勝手過ぎる』と。それでも言うことを聞かない理事長に『それなら私も覚悟がある』と言ってくれたんだ」
 覚悟。
 女にとって覚悟とは、なんなのだろう。
 まさか……。
「ある日、事件は起きた。研究室で二人きりになった時、瑠名花は派手に転んでしまった。そして割れた実験器具で指を怪我してしまったんだ」
 ガチャン!
 当時の様子が、私の頭の中で再生される。
 白衣で床に横たわる瑠名花。健くんは慌てて駆け寄ったことだろう。
「切れた指から流れ出る血。俺が実験用滅菌ガーゼで傷口を抑えようとしたら、瑠名花はニヤリと笑って、その指を俺の口の中に突っ込んだんだ」
 すると健くんは目をつむったまま天井を見上げる。
 まるでその時の感覚を思い出すように。
「素晴らしい瞬間だった。口の中に広がる処女の生き血。そして彼女の血液中にドクドクと流れ込む俺のウイルス。なんとも言えない天に昇るような感覚だった。自分はこのために今まで生きてきた、と思えるほどに。この時、二人は一つになったんだ」
 幸せそうな表情をする健くん。
 いかに素敵な体験であったのかがよくわかる。
 私だって健くんに生き血を舐めてもらった。
 でも、その時健くんは、私にそこまでの表情を見せてはくれなかった。
 瑠名花さんが無性に羨ましくなる。
 好きな男の人のものが体内に流れ込む感覚って、どんな感じなのだろう?
 彼女にとっても幸せの瞬間だったに違いない。
 どうしようもない敗北感が私の中に広がっていく。
「気がつくと俺は瑠名花を抱きしめていた。明らかにこれは瑠名花の策略だったけど、俺は彼女に深く感謝した。その後、クロスを飲まなかった瑠名花はヴァンパイアウイルスに感染し、理事長は俺たち二人を同様に扱わざるを得なくなった」
 女の執念、というのだろうか。
 瑠名花、いや瑠名花さんは本当に健くんのことを愛していたんだ。
 それに比べて、自分は淡い恋心を持っていただけ。
 やっぱり瑠名花さんには敵わない。
「それから何回か俺は瑠名花の血を吸った。いずれも素晴らしい体験だった。そしてウイルス放出量はついにリミットに達してしまう。だけど不思議なもので、もうこれ以上処女の生き血が吸えないと思うと、ますます吸いたくなった」
 バカな健くん。
 大人しく瑠名花さんとの静かな時間を楽しめばいいのに。
 そして血を吸いたくなったらクロスを使えばいいのに。
 でもこれがヴァンパイアウイルスの魔性の力なのだろう。
 子孫を拡散させたいウイルスの本能に、人間の理性が屈していく。
「そこで俺は思い出したんだ。リミットに達していても、クロスを使わなくても、処女の生き血が吸えることを。そんな方法で、俺に生き血の素晴らしさを教えてくれた女の子がいたことを」
 そ、それって……。
 もしかして……。
「瑠名花からもらった合格者名簿にその女の子の名前を見つけた時は、俺は飛び上がって喜んだ。でも、本当にその女の子かどうか、自信がなかったんだよ。俺たちは数日しか会っていなかったのだから」
 そう言いながら健くんは講義室の前へ移動する。
「君が僕のことを覚えていてくれて、本当に嬉しかった。でも、また鼻血を舐めたいなんて、俺の最低なお願いを切り出す勇気が無かった。だって君は、すごく純粋だったから」
 直立不動のまま私を見つめる健くん。
 これから何を始めるつもりなのだろう?
「だからこれを見て、ゆっくり考えてほしい」
 そして突然ダンスを踊り始めた。
 ロックミュージシャンのような。
 腰をカクカクさせる仕草を強調して。
 そう、五年前と同じあのダンスを。
「健くん……」
 覚えていてくれたんだ。
 私のこと……。
 嬉しくて、嬉しくて、思わず涙が出てしまう。
 ダンスも懐かしい。
 五年前はこのダンスを見て大笑いしたんだよね、私。
 昔はぎこちなかったけど、今はすごく上手くなってる。
 相当練習したんだね。
 あの時はごめんね。
 両親に話したりして。
 学校のみんなにバレちゃったりして。
 そして、お別れの言葉が言えなくて。
 次から次へと溢れる涙。
 すると鼻の奥からつうーっとした感覚が……。

 ダメっ!

 心が叫ぶ。
 ここで鼻血を出したらダメ。
 感傷に浸りすぎたらダメ。
 心を鬼にして、冷静になるのよ。
 だって今の健くんには、瑠名花さんという彼女がいるんだから。
 彼女の生き血が吸えないから、私の鼻血を舐めようってどういうこと?
 ただの都合の良い女じゃない。
 私はそんなことをするためにこの大学に来たの?
 そんな女になるために、健くんを探していたの?
 違うでしょ!
 健くんのようなヴァンパイアウイルスに苦しむ人を救うためだよね。
 その過程で、健くんに会えれば嬉しいかなって思ってただけだし。
 そんでもって、その時に健くんがまだ独り身だったら最高だって……。
 もう、彼女がいるんだもん。
 その人は、身命を賭して健くんに尽くしているんだよ。
 だから無理だよ。
 敵わないよ。
 私の五年間は無駄だったんだ。
 健くんに恋して、罪悪感に苛まれて、そして一生懸命探して。
 男の人からの誘いも全部断って、勉強して、ヴァンパイアウイルスに詳しくなって。
 大学で再会して、嬉しくなって、最低の男でも昔のことを忘れてないってどこかで信じて。
「ふざけないでよ!」
 思わず私は叫んでいた。
「私が処女でなかったら、どうしてたのよっ!?」
 五年間、密かに守り続けてきたもの。
 それが粉々に打ち砕かれてしまったような気がした。
 涙がとめどもなく流れてくる。
「好きだった。健くんのことが、本当に好きだった……」
 そして、鼻の奥から口にかけてつうーっと流れる液体の感覚。
「ありがとう。こんな僕のことを覚えていてくれて」
 健くんがそっと近寄ってくる。
「本当に最低だよね。ウイルスに争うことができない最低な男だ」
 私の顔に口を近づけた。
「実はね、鼻血だってウイルスは流れ込むんだよ。傷口があるんだから。だからこれが最期」
 ちょ、ちょっとそれって。
 死んじゃうってことじゃない!?
 健くんは、そんなことはお構いなしにペロリと私の鼻血を舐める。
「うん、美味しい。涙の味も懐かしいなぁ」
 一瞬、恍惚な表情をしたかと思うと、苦しみに顔を歪める健くん。
「ありがとう。さようなら……」
 私を見る悲しそうな眼差し。
 うっすらと涙を浮かべて。
 そして健くんはドサリと床に倒れこんだ。
「健くん! 健くんっ!!?」
 何も返事をしない健くん。
「バカっ! 何でそんなことをしたの? 健くん、健くん……」
 救急隊が到着するまでの間、意識を失った健くんの体にすがりついて、私は泣き続けていた。

 ◇

 それから私は一週間泣き続け、二週目にようやく胃が食べ物を受け付けるようになった。
 人間が水と食料を欲するように、ヴァンパイアウイルスは処女の生き血を欲している。
 健くんは、ウイルスの本能であるその欲求をついに抑えることができなかった。
 もう、そんな悲劇は繰り返していけないんだ。
 私のように悲しむ女性を増やしてはいけないんだ。
 もっと勉強しよう。
 そして私も研究所に通えるようになるんだ。
 健くんが夢見ていた、クロスの原液を使った研究を完成させたい。
 それを使って、世界中のヴァンパイアウイルス感染者を救ってあげたい。
 ベッドの中でそう思い続けることによって、ようやく私は大学に通う気持ちを作ることができた。

 そして健くんが倒れてから一ヶ月後、私はようやくキャンパスに顔を出す。
「真衣さん、久しぶり」
「もう大丈夫?」
 集まってきた友人たちが声をかけてくれる。
 その温かさが心に染みる。
 そして――
「久しぶりだね、可愛い処女さん」
 何度も頭の中で再生していた大好きな声。
 えっ!?
 それって……!?
 驚いて振り返ると、そこには健くんが!
「で、いいんだよな? 瑠名花?」
「ええ、彼女は処女のままよ」
 って、瑠名花さんも!?
「お久しぶりね、真衣さん」
「ど、どうも。で、でも、け、健くんが生きてるなんて……」
 私は動揺を隠せなかった。
「あら、そんなに健に死んでもらいたかったのかしら? 本当に罪深い人ね」
「いやぁ、照れるなぁ……」
 ポリポリと頭をかく健くん。
 健くんが生きていて本当に良かった!
 本当は抱きつきたかったけど、瑠名花さんがいるから遠慮しておく。
「ちょっと話がしたいから、喫茶店はどうかしら?」
「ええ、わかりました」
 そして私は、あの時何が起きていたのかを知る事になった。

「あの時ね、健は賭けに出たのよ」
 瑠名花さんが事の真相を語り出す。
 肝心の健くんは、コーヒーをすすりながら瑠名花さんの隣でニヤニヤとこちらを眺めていた。
「賭けって?」
「クロスの原液を飲んで、ヴァンパイアウイルス感染症が治るかどうかって賭けよ」
 クロスの原液?
 あの時、講義室にそんなものは無かった。
 瑠名花さん、何か勘違いをしているのでは……?
「クロスの原液って、そんなものはあの場所にはありませんでしたけど」
 すると今度は、瑠名花さんが目をぱちくりさせた。
「ええっ? あなた、何を言って……? そうか、あの研究はパパの極秘事項だったのね……」
 急に納得されても困る。
 ちゃんと説明してもらわねば。
「教えて下さい。一体、何が起きていたんですか?」
 すると瑠名花さんはうーんと少し考えた後、重い口を開いた。
「まあ、当事者なんだから特別に教えてあげるわ。真衣さん、五年前にうちの研究所に入院してたことがあったでしょ?」
 五年前って……。
 そうか、健くんに最初に鼻血を舐められた時。
「あの時ね、キーゼルバッハ部位の傷口を通して、健のウイルスがあなたの体に流れ込んでいたの。ごくわずかだけどね」
 ええっ、あの時、何も異常がないって言われてたけど。
 それって嘘だったってこと?
「その時にね、あなたの体の中に強力な抗体が生成されていたの。ヴァンパイアウイルスに対抗できる唯一の抗体。きっといろいろな偶然が重なったのね。ウイルスの量が微量だったり、その他の成分が混ざったりして。だからあなたはウイルスに感染することは無かった。そしてパパは、その強力な抗体を手に入れた」
 だから一ヶ月も入院させられてたのね。
 何度も検査や採血を行っていたのは、そういう理由だったんだ。
「そして抗体に名前をつけた。あなたの名前をとって『クロス』とね。ほら、『マイ』だったら英語的になんの事だかわからないじゃない。だから『真衣(トゥルークロス)』から『クロス』って名付けられたの。もちろん、十字架という意味も込めてね」
 ま、まさか、『クロス』の由来が私の名前だったとは……。
「だからね、あなたの血液はクロスの原液、そのものなの」
 それがすべての真相なんだ。
 ようやくわかった。
 瑠名花さんが私の名前を知っていたことも。
 そして私の名前を聞いた時に「やってみなさいよ」と言ったのかも。
「まさかね、本当に健の病気が治っちゃうとはね。クロスの原液には病気を治す力があることはわかっていた。だけど実験ではほとんど成功してなかったの。ある特殊な成分が必要ってことまでは突き止めたんだけどね……」
 ――ある特殊な成分。
 私にはわかる。
 それが何であるのか。
「病気が完治してからの健は腑抜けよ。誰が処女だか、わかんなくなっちゃったようだし。顔や性格の良い娘がいいですって? 女に一番大切なものは処女だってこと、どうして忘れちゃったのかしら?」
「そんなこと言うなよ、瑠名花」
 今まで黙っていた健くんが口を開く。
「俺はこの間まで世の中に絶望してたけど、今はそうでもないんだ。誰が処女だかわからない世界って、こんなにも素敵だったとはね。みんなが可愛く見える、みんなが魅力的に見える、世の中ハッピーだよ」
 って、そっちなの?
 健くんの世の中の希望って。
「だから最近、健とはちょっと距離を置こうと思ってるの。それよりも真衣さん、どう? 私と付き合わない?」
 つ、つ、付き合うって……?
「ほら、私は健に血を吸われてウイルス感染者になっちゃったでしょ? だから、処女の生き血が欲しくてどうしようもなくなる時があるのよ。そんな時は自分の血を舐めてるんだけど、そろそろ飽きちゃった。真衣さん処女だし、生き血はクロスの原液だし、今度一緒にどう?」
 ど、ど、ど、ど、どうって言われても……。
 な、なんだか瑠名花さんの視線がエロいんですけど。
「あら、付き合ってくれなかったら世界中にバラすわよ。真衣さんの血液はクロスの原液だって。そしたらヴァンパイアウイルス患者がわんさか押し寄せて来るかもね」
「ちょ、ちょっと、やめてくださいよ、瑠名花さーん」
 そんな私たちの様子を見て、健くんもニヤニヤ笑っている。
「世界中にバラすといえば、これからが大変よ。ヴァンパイアウイルスが完治したなんて世界初の症例なんだから、すぐに論文書かなきゃ! 今ならネーチャーにだって載るわ」
 ネ、ネーチャー!?
 世界最高峰の学術雑誌!
 そ、それって、すごいことじゃない!
「二人とも、英語書ける?」
「えっ?」
「いや、さっぱり」
 受験英語くらいなら書けるかもしれないけど……。
「何よ、使えないわね。あなたたちには、クロスの原液を感染者に投与した状況について詳しく書いてもらわなくちゃいけないんだから」
 ええっ!?
 それって、鼻血を舐められたあの状況が世界中にあからさまになるってこと?
 そ、それだけはカンベンして欲しい。
「ネットからの英文コピーはダメだからね。わかってるよね。ちゃんと自分で英語を書かなきゃ、世界からは信用されないんだから」
「だったら英訳のプロを雇えばいいじゃねえか。理事長ならできるだろ?」
「バカね。そんなことしたら、パパに筆頭著者を盗られちゃうじゃない。いい、これはパパを見返すチャンスなの。この研究で、世界中のヴァンパイアウイルス感染者が完治するかもしれないのよ」
 そ、それはすごい。
 もしそうなったら、世界中から賞賛されること間違いなしだ。
 私もいきなりリケジョデビューね。
 マスコミも殺到して、いやん、どうしよう。
「そしたら将来、ノーベル賞だって夢じゃなくなるの。そんな幸運、人生に一度来るかどうかなんだから……」
 ノ、ノーベル賞!?
 いやいや、普通の人には来ません。そんな幸運。
「そいつはスゲえな。ノーベル賞、ストックホルム、北欧美人……」
 動機はいろいろみたいだけど、ノーベル賞に向けて、この三人なら上手くやっていけるような気がした。
 これから充実した毎日が続きそう。
 私の大学生活は始まったばかりなのだから。




 了



ライトノベル作法研究所 2016夏企画
テーマ:『鼻血』

夏のレールを君と探して2016年06月28日 23時11分38秒

 あれは去年の夏休みのことだった。
 一人で遊びに行った祖母の町で、駅舎跡と思われる廃屋を見つけたのは。
 町の片隅にたたずむ、黒ずんだ木製の壁が年代を感じさせる建物。
 ガラス窓の付いた入口の木戸はピタリと閉ざされ、立ち入り禁止の紙が貼ってある。入口ポーチの庇の下には、駅名と思われるプレートが掲げられていた。
「悲遠町駅……?」
 かすれてしまって読みにくかったが、なんとかそう判読できる。
 早速スマホに『悲遠町駅』と入力してみると、沢山の画像がヒットした。その中には、目の前に建つ駅舎の写真もあった。
「やっぱりここって、駅だったんだ……」
 画像の中には、線路跡の写真もあった。レールや枕木が取り去られて、砂利だけの道となった線路跡の写真。
 視線を駅舎に向け、その奥にあると思われる線路跡を探してみたが、残念ながら写真のような光景は広がっていなかった。
 なぜなら、そこは一面、雑草に覆われていたから。それも十センチや二十センチといった可愛いものではない。背丈が一メートルに達しようかというゴツい雑草がびっしりと砂利の上を占拠している。
「レールが残っているなら、雑草を刈ってでも見てみたいって気になるんだけどな……」
 僕はスマホの画像をスクロールする。
 そこに表示される線路跡の写真は、どれもこれも砂利だけの線路跡だった。
 しかし、その中の一つの写真に僕は釘付けになる。

 御影石と思われる美しい石畳の踏切跡。
 そして、その中に残された金属製のレール。

「おおっ!」
 僕はスクロールの手を止め、思わずその画像をタップした。
 リンク先は、悲遠町駅周辺の探索を記したブログだった。『駅から南に少し行った場所で踏切跡を見つけた!』と書かれている。
 僕の心はとたんに色めき始めた。
「ていうか、『少し』ってどれくらいの距離なんだよ!?」
 写真の踏切跡を見てみたい。
 少しというのが、十メートルとか二十メートルくらいの近さであるならば。
「何か、雑草を抜くためのものはないだろうか?」
 軍手とか、そんなものがあればいい。
 草刈鎌があれば最高だが、そこまでは望めないだろう。
 そんな気持ちで駅舎の木戸の窓から中を伺っていると――

「探し物ですか?」

 突然、背後からかけられた透き通る声に、僕は飛び上がりそうになった。


 ############


「ここ、立入禁止って書いてあるでしょ。でも戸は開くんですよ」
 振り返ると、立っていたのは白いワンピースと麦わら帽子の女の子だった。
 僕の前をすり抜け、駅舎の木戸に手をかける。
「よいしょっ! うんしょ!」
 細くて白い指に力を込め、綱引きのように腰を落として一生懸命、戸を開けようとする少女。
 ガタっと音がして、わずかに戸が開く。が、それ以上はびくともしなくなった。
「うーん! うーん!」
 顔を真っ赤にする彼女を見かねた僕は、戸の隙間に指をかけて、少女と同じ綱引きのポーズで加勢する。
 すると、ギギギギギギギとすごい音をたてて戸が開き始めた。
「ほら、開いたでしょ?」
 いやいや、この状態を「開く」とは言わないから――そんな僕のツッコミを、少女の満面の笑みがやんわりと包み込んだ。

 薄暗い駅舎の中に入ると、中は冷んやりとして涼しい。
 かなりの間、使われていなかった年代物の建物のようだ。
「それで探し物は何ですか?」
 少女は麦わら帽子を手に取り、臆することなく僕の瞳を見つめている。不覚にも僕はドギマギしてしまった。
 身長は一五◯センチくらい。年齢も中学生か高校生のようだ。
「え、えっと、軍手かなにかがあればいいなって……」
「ありますよ、軍手」
「えっ?」
「だからありますって、軍手」
 少女は待合所のベンチの前にしゃがみこむと、ベンチの下から埃をかぶった衣装ケースを引っ張り出す。蓋を開けると、中にはいろいろなものが入っていた。
 ――軍手、長靴、帽子、衣類、そしてブランケットなどなど。
 ブランケットの下には、本や雑誌が何冊も入っているように見える。
「はい、軍手」
 少女は衣装ケースの蓋を閉め、元の場所に戻して立ち上がり、僕に軍手を差し出す。
「あ、はい」
 まさか本当に駅舎に軍手があるとは思わなかったので、戸惑いながら僕は受け取った。
「その軍手で、何をやるんです?」
 そう言いながら少女は小さく首を傾げた。
 さらりと肩までの黒髪が揺れる。二重の瞳が放つ光は、僕をとらえて離さない。
「線路跡の雑草を抜こうと思って。ほら、これを見て。この踏切跡を探そうと思うんだ」
 僕は少女にスマホの画面を見せる。
 そこに映し出される踏切跡の写真に、少女は表情を輝かせた。
「あっ、これなら線路跡を辿って少し行くとありますよ」
 少女が口にした『少し』は、本当にすぐそこにあるような気がする。
 よし、それだったら踏切跡が現れるまで雑草を抜いてみよう!
 僕は決意を込めて、少女から受け取った軍手を手にはめた。


 #############


「いざ出陣!」
 気合を込めて、そびえる雑草の前に立つ。
 雑草は、そのほとんどがセイタカアワダチソウだった。背は高いが、下の方は葉が少ないので、少しかき分けると上から線路跡の砂利が見える。これならば、セイタカアワダチソウを抜いていくだけで線路跡が露わになるだろう。
 見上げると、太陽はほぼ真上にあった。ギラギラとまばゆい熱光線が辺り一面に降り注がれている。僕はハンカチ代わりにしていたバンダナをポケットから取り出し、頭に被せて後ろで結んだ。
「うっ……」
 一メートルは軽く超えるセイタカアワダチソウに手をかける。簡単に抜けるかと思ったら、意外と力が必要だった。
「っとぉ!」
 抜いた雑草の根から砂利を落とし、横に投げる。こうして僕は一本一本、雑草を抜いていった。
 すると――
「ん!? んんっ、んんっ!!??」
 何やら変な声がする。
 不思議に思って振り向くと、軍手をした少女が雑草と格闘していた。
 先ほどと同じく綱引きのポーズで力んでいる。が、雑草はなかなか抜けてくれない。
「あはははは……」
 その様子が可笑しかったので、思わず声を出してしまった。
「笑わないで下さいよ。私だって真剣なんですから……」
 ぷうっとほおを膨らませる少女。
 彼女はいつの間にか長靴を履いていた。
「こんな暑い中、手伝ってくれなくてもいいよ。僕の勝手な探し物なんだからさ」
「こんな暑い中だから、お手伝いするんじゃないですか?」
 麦わら帽子に手を添えて、少女はニコリと微笑む。
 自分もあんな帽子を、ばあちゃんちから持って来れば良かったと後悔する。
「だったら、抜いた雑草を線路脇に運んでくれないかな。後で線路跡の写真も撮りたいから」
 もし踏切跡が現れたら、ぜひあの駅舎をバックにして写真を撮りたい。そのためには、踏切跡と駅舎との間の雑草も引っこ抜いておいた方がいい。
「わかりました。見栄えが良くなるよう綺麗に並べておきますね」
 こうして僕と少女との共同作業が始まった。


 ##############


「痛っ!?」
 作業が順調に進みかけていた時、僕は腕に痛みを感じた。
 見るとその部分が真っ赤に腫れていて痒い。どうやら蚊に刺されてしまったようだ。
 そもそもこんな雑草天国に、Tシャツ、ハーフパンツ、サンダル姿で挑んでいること自体が間違いだった。
「これ、虫除けにすごく効きますよ」
 不意に掛けられた言葉と共に、腕にシュッと何かが吹きかけられる。
 冷んやりとした感覚と、辺りに漂うミントの香り。
「ペパーミント?」
「いえ、ハッカです」
「あ、ああ、ハッカね……」
 どっちも同じだったような気がするが、すうっとして気持ちいいので少女の言う通りにしておく。
「よく塗り込んで下さいね。首元や脚にもかけてあげますから」
 少女は背伸びをしながら、僕の首筋にシュッとハッカをスプレーしてくれた。嬉しいやら恥ずかしいやらで、なんだかこそばゆい。
 僕の脚にもハッカがスプレーされると、今度は少女は自分の体にもスプレーする。
 首筋、両腕、そしてワンピースのスカートの中にもシュッ、シュッ、シュッと。
「いやあ、ハッカはすうっとして気持ちイイですね~」
 ハッカの香りに目を細める少女。
 何か見てはいけない光景を目の当たりにしたような気もするけど。
「蚊も寄り付かなくなって、一石二鳥です」
 それにしても、ハッカが虫除けに効くなんて知らなかった。今度、友達にも教えてあげようっと。


 ###############


 一時間も作業を続けただろうか。
 線路跡も、五十メートルは露わになったような気がする。が、踏切跡は見つからない。
「暑い……」
 夏の日差しは確実に僕の体力を奪っていた。
 もう限界だ、休憩して、水分補給をしなくては……。
 そう思った時、少女が小さく叫んだ。
「あっ、あれっ! あそこじゃないですか!?」
 彼女が指差す方を見ると、十メートルくらい前方に雑草の生えていない広い領域があった。
 写真で見た踏切跡は、確か立派な石畳でできていた。それならば、その場所には雑草は生えないはず。
 思わず僕は、雑草を掻き分けながら駆け出していた。
「あった!」
 やはり、雑草の生えていない場所は踏切跡だったのだ。
「レールもちゃんと付いている!」
 錆びて赤茶けてしまっているけど、石畳に埋め込まれた細長い金属は、明らかに鉄道のレールだった。
「良かったですね」
 遅れて少女がやってくる。
「でも、この踏切って……」
 少女はいきなりしゃがみ込み、石畳に手をついた。
「なんだか見覚えがあるんです」
 懐かしむように、何度も何度も目の前の石畳を撫でる少女。やがて彼女の口から嗚咽が漏れ始める。
「お父さん……」
 ポタポタと落ちる彼女の涙が、石畳を点々と黒く染めていった。


 #################///#


「ごめんなさい、取り乱してしまって……」
 少女が落ち着くと、僕たちは踏切跡の周りの草取りを再開する。
「五年前の今日、悲遠町線廃止の日のことだったんです」
 彼女の言葉に、静かに耳を傾けながら。
「お父さんが、列車に乗って家を出て行ってしまって……。知らない女の人と一緒に……」
 それは少女の辛い記憶だった。
 こんな可愛い娘がいるのに出て行ってしまうなんて、なんて酷い男の人なんだろうと、僕は怒りを込めて雑草を引き抜く。
「でも、でもね、この踏切を通り過ぎる時、お父さん、私を見つけてくれたんです」
 この踏切は彼女の思い出の場所だったんだ……。
 僕がこんな探し物をしなければ彼女に辛い思いをさせずに済んだのではと、少し後悔する。
「それでお父さん、窓から約束してくれたんです。『必ずユキに会いに来る!』って」
 彼女は立ち上がり、列車を見上げるような格好で父親の言葉を口にする。
 僕の目の前を、五年前の列車がこのレールの上を通り過ぎていく。駅を出発したばかりのゆっくりとした速度で、ゴトン、ゴトンと石畳の踏切を揺らしながら。
 彼女の瞳の輝きで僕は察知した。この父親の言葉に、彼女がどれだけ支えられてきたのかを。
「だからね、毎年、廃線の日になると私、駅舎で待ってるんです。お父さんが帰って来るんじゃないかって……」
 彼女は父親に会えたのだろうか?
 いや、会えないからこうして今年もここに居るのだろう。
 でも会える可能性があるだけましじゃないか。
 彼女にこんなことを言っても仕方がないことはわかっているけど、強い衝動に駆られて僕は思わず口にしていた。
「僕も……、僕もね、母さんを亡くしたんだ、小さい頃」
「えっ?」
「僕の父さんは忙しくて、夏休みもどこにも連れて行ってくれない。だから一人で、ばあちゃんちに遊びに来てるんだ」
 ちょっと卑怯な感じもしたけど、彼女とならこの悲しみや苦しみを分かち合えるような気がした。
 彼女から漂う初対面ではないような懐かしさも、僕の口を軽くしてくれた原因かもしれない。
「ごめんね、私ばかり不幸な風に語っちゃって」
「いやいや、こちらこそゴメン。だからお互い前を向こうよ、ユキさん……だっけ?」
「うん、ありがとう。あなたの名前……は?」
「直也っていうんだ。母さんが付けてくれた」
「素敵な名前! 実はね、直也くんってどこかお父さんに似てるの。最初、駅舎で見かけた時、お父さんが帰ってきたんじゃないかってドキドキしちゃったんだから。こんなに若いはずないのにね」
 えへへと照れ笑いするユキはとても可愛い。
「きっと今年の神様は、お父さんの代わりに直也くんに会わせてくれたんだわ。ちゃんと感謝しなくちゃね。来年はお父さんに会えるといいな……」
「そうなるといいね。いや、絶対そうなるよ!」
 僕たちは踏切跡の周りの雑草を引き抜き、駅舎をバックに踏切跡の写真を撮った後、バイバイと手を振ってサヨナラをした。


 #################///###


「ばあちゃん、ご飯できてる!?」
 祖母宅に着くなり、僕はサンダルを脱ぎ捨てた。麦茶のポットを抱えて縁側に座り、夕涼みしながら直接口の中に流し込む。裏山ではカナカナカナとひぐらしが鳴き始めていた。
「なんだい、行儀が悪いね」
 文句を言いながら、ばあちゃんは居間のちゃぶ台に晩飯を運んでいる。
 僕は思わず、廃線跡について聞いてみた。
「ねえ、ばあちゃん。悲遠町線って五年前まで走ってたんだって?」
 ユキの父親が出て行った日。
 それはちょうど五年前の今日だったという。
 するとばあちゃんから意外な返事が返ってきた。
「バカ言うんじゃないよ、それは三十年前の話だよ」

 えっ!???

「それにこの家じゃ、三十年前の話は禁句だよ。お前のじいちゃんは女を作って出て行きよってな。まだ小学生だった由起子がわんわん泣いて、踏切から動こうとしなくて大変だったわい」
 えっ、えっ……ええっ?
 訳がわからない。
 ユキの言葉が正しいのか、それともばあちゃんが正しいのか?
 思わず脳裏にユキの笑顔が浮かぶ。
「まさか!?」
 僕は思わず仏壇を振り返った。
「そういうこと……なのか?」
 そこには、ニコリと笑うユキにどことなく似た母さんの遺影が飾られていた。
「由起子が死んだ時も、ついに顔を見せんかった。そんな薄情者じゃ」
 じいちゃんは行方不明って聞いていたけど、そんな真相があったなんて。
 結局母さんは、廃線の日以来じいちゃんには会えなかったんだ……


 #################///####


 翌日、駅舎にユキの姿はなかった。
 おそらく、一年後の廃線の日にまた現れるのだろう。
 そして今年も夏がやってきた。
 僕はドキドキしながらあの駅舎に向かっている。麦わら帽子をかぶり、手には軍手とハッカスプレーを握りしめて。



 了



ライトノベル作法研究所 2016ぷち夏企画
テーマ:『夏』

カグライブ!~三人の転入生~2016年05月07日 07時09分09秒

「おおーーーっ!!!」
 七月一日。初夏の竹丘学園、二年J組の教室は歓声に包まれた。
 朝のホームルームで担任の田中先生が連れてきたのは、三人の女生徒だった。
 ――二年生で唯一の工科クラス、J組。
 八割が男子という飢えた狼たちの前に、転入生として女生徒が三人も並んだのだ。教室が色めかないわけがない。
 しかも、三人ともなかなかのルックスを有している。
 僕、笠岩調(かさいわ しらべ)はクラス委員長として、ドキドキしながら三人の様子を眺めていた。

「じゃあ、端から一人ずつ自己紹介してもらおうか」
 先生の太い声が教室に響く。
 すると、教室の入口に一番近い亜麻色のショートボブの女生徒が、僕たちに背を向け、黒板に名前を書き始めた。

『犬塚かぐや』

「かぐや?」
「平仮名かよ……」
 なんて古風な名前なんだと騒つく教室。僕は彼女の後ろ姿を凝視する。
 真新しい夏服のスカートをすでにかなり短くしているし、髪も染めているとしか思えない。
 名前を書き終わってスカートの裾をひるがえしながら振り返った彼女の挨拶も、容姿と同様ぜんぜん古風じゃなかった。
「うち、いぬづか、かぐやっていうんや」
 関西弁?
「出身は奈良県やけど、みなさんよろしくなー」
 目はクリッとして、鼻も丸っこく人懐っこそうな印象だ。見た目は軽いが、意外と面白いやつかもしれん。
 犬塚さんがペコリとお辞儀をすると、今度は隣の黒長髪で眼鏡の女生徒が黒板を向いて名前を書き始めた。

『瀬礼根かぐや』

「ええっ、またかぐや!?」
「こっちも平仮名だぞ」
「名字はなんて読むんだよ!?」
 どよめく教室に動じることなく、美しい姿勢のまま瀬礼根さんは名前を書く。身長は三人の中で一番高い。字もすごく綺麗だった。
「私は、せれね、かぐやといいます」
 振り返って、深々とお辞儀をする瀬礼根さん。名字はせれねって読むのか。
「よろしくお願いいたします」
 なかなか礼儀正しい人らしい。さっきの犬塚さんよりも、かぐやって感じがする。眼鏡の奥の切れ長の瞳は、ちょっとキツそうだけど。
 そして三人目の女生徒。
 身長は一番低く、髪も肩にかかるくらいの黒髪だが、前髪が長くて表情がよく見えない。神秘的な感じもするけど、チョークを持つ手は震えている。案の定、黒板に字を書こうとしたらチョークを落としてしまった。
「頑張れ!」
 誰かが掛けた言葉にビクリとする女生徒。黒髪を揺らしながらチョークを拾って、やっとのことで名前を書き始めた。

『藤野かぐや』

「マジかよ……」
「三人ともかぐや!?」
「そんなことってあるかよ」
 教室のざわつきはなかなか収まりそうもない。藤野さんは、恐る恐るこちらを向いた。
「ふじの、かぐや……」
 消えてしまいそうな声でひとこと名前を告げると、そのまま顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。前髪の隙間からチラリと見えた二重の瞳は、なかなか印象的だったけど。

「みんなもビックリしただろ? 三人とも同じ名前で」
 三人の挨拶が終わると、先生が興奮気味に切り出した。
「今まで何人も転入生を受け入れてきたけど、こんなことは初めてだ」
 そりゃ、そうだろう。
 しかも、三人とも平仮名の『かぐや』だなんて、その確率は天文学的数値に違いない。
「本当は、名前の所以なんかも紹介して欲しかったんだけど、藤野が緊張しているようだからまた今度にしようか?」
 先生は、うつむいたままの藤野さんを見る。
 すると、犬塚さんがさっと手を挙げた。
「うち、簡単やで。実家が家具屋さかいな」
 んな、アホな。
 実家が家具屋だからって、まんまじゃないか!?
 いきなり教室が笑いに包まれる。クラスメートの心をぐっと掴んだ彼女は、さらに畳み掛けた。
「みんなも知ってるやろ? 犬塚家具やで。家の人にも宣伝してや」
 おお、犬塚家具なら知ってるぞ。それって有名じゃないか。
 教室の笑いがざわつきに変わると、隣の瀬礼根さんが手を上げる。彼女の透き通る声が教室に響き渡った。
「私の両親は宇宙工学者で、名前の由来は月周回衛星『かぐや』です!」
 ほお、こちらはエリート科学者の血筋だな。
「かぐやの最大の功績は、月の凸凹を正確に測量したことなんです」
 瀬礼根さんは犬塚さんに負けじと、かぐやの宣伝を始めた。
 そしてクラスの興味は、最後の藤野さんに集中する。
 うつむいたままの彼女は、赤い顔をさらに真っ赤にしながら、必死に声を絞りだそうとしていた。
「わ、わ、わた、わた、わたしは……」
 限界だった。
 藤野さんはいきなり走り出し、教室を飛び出してしまった。

 ◇

 その後、先生が藤野さんを探しに行ったりして大変だったけど、なんとか一日の授業が終了する。
 そして放課後。
 クラス委員長の僕は、なぜだか理事長室に呼ばれていた。
「失礼します。笠岩です」
「おお、入りたまえ」
 理事長室に入ると、ゆったりとした三人がけの応接ソファーが二脚対面しており、すでに五名の人物が座っていた。
 真ん中に白髪の理事長、左隣に担任の田中先生だ。
 向かい合って座っているのが、犬塚さん、瀬礼根さん、藤野さん、つまり三人のかぐや。
「こっちじゃ、こっち」
 生徒側に腰かけようと椅子を探していると、理事長が右横の空いているソファーを指差す。
「気にせんでええ、ここに座りたまえ」
 理事長に言われたら仕方がない。
 僕は恐縮しながら、理事長の右隣に腰掛けた。齢七十くらいに見えるが、語気に衰えは感じない。
 すると田中先生が切り出した。
「今日は理事長から、君たち四名に直々にお話があるそうだ」
 理事長は改まってゴホンと咳払いする。
「君たちに集まってもらったのは他でもない。一つお願いがあるんじゃ」
 お願い?
 一介のクラス委員長と今日転入したばかりの三人の女生徒に、何をお願いしようというのだろう。
「とあるライブに出てほしい」
 ライブ?
 それって、唄を歌ったり踊ったりするスクールなんとかってやつ?
 女子三人は見栄えすると思うけど、僕は役に立たないぞ、きっと。
「実は、幼馴染の松池工科高校の会長と言い争いになっての、もう君たち四人をエントリーしてしまったんじゃ」
 なんだって!? 僕たちには事後承諾ってことか?
 冗談じゃない、クラス委員長だからって僕を巻き込まないでくれ。
「それで理事長、それはどんなライブなんですか?」
 田中先生が訊くと、理事長は鼻息を荒らげた。

「カグライブじゃ!」

 三人のかぐやの表情がはっと変わる。
 田中先生も息を飲んでいた。
 って何? カグライブって何?
「そこで優勝できなければ、君たちが通っている場所は無くなると思ってくれ」
 ま、まさかの負ければ終わり宣言!?
 僕たちは真っ青になって顔を見合わせた。

「無茶苦茶や。カグライブの全国大会は、すごいレベルなんやで!」
 思わず犬塚さんが叫んでいた。
 カグライブがなんなのかわからないが、相当無茶なクエストらしい。
 すると理事長は、僕らの反応を楽しむように付け加える。
「なにも全国大会とは言っとらんよ。県南大会で松池工科を倒して優勝してもらえばええ」
 なんだよ、全国大会じゃないのかよ。
 犬塚さんもガクっときたのだろう。いきなり溜飲を下げていた。
 しかし今度は、瀬礼根さんが理事長に噛み付く。
「県南大会と言えど、先ほどおっしゃられた松池工科や梅野実業など、この地区には強豪校が揃っています。私たちは今日転入したばかりなのに、いきなり廃校だなんて、それってあんまりです」
 そうだ、そうだ!
 僕だって廃校は嫌だ。転入したばかりの彼女たちにとってはなおさらだろう。そもそも廃校になったら、通うところが無くなっちゃうじゃないか!
 理事長はニヤニヤ笑ったまま、さらに言葉を付け加える。
「だから廃校とは言っとらんよ。君たちの工科クラスが無くなるだけじゃ。カグライブの地区予選すら突破できないんじゃ、そんな工科クラスはいらんじゃろ?」
「…………」
 するとみんな黙り込んでしまった。
 カグライブがなんなのかわからないが、理事長の言うことは至極正論であるらしい。
 というか、ちっちゃい! ちっちゃいよ。
 全国大会で優勝できなければ廃校、なんてドラマチックな展開かと思ったら、県南大会で隣の高校に勝てなければ工科クラスが無くなるだけだって?
 まあ、僕は工科でも普通科でも、どっちだっていいんだけど。
「でも、大丈夫!」
 予想以上に意気消沈してしまった場を危惧したのだろうか。理事長がいきなり声を張り上げた。
「わしは、カグライブのために三人のかぐやを召喚した」
 召喚……って?
 つまり理事長が、目の前の三人を呼び寄せたってこと?
「犬塚さん、瀬礼根さん、藤野さん。この三人は、わしが全国を回ってスカウトした逸材じゃ。それぞれ家具作りに特化した特殊能力を持っておる。彼女たちが転入したからには、優勝は間違いなしじゃ!」
 すかさず田中先生が質問する。
「あの、理事長。クラスを監督する者として質問してもよろしいですか?」
「おお、なんじゃ?」
「この三人の特殊能力とは一体?」
 僕も気になるところだ。
 理事長もその質問を待っていたのだろう。自分の目のつけどころを自慢するかのごとく、鼻高々に説明を始めた。
「まずは犬塚さんじゃ。彼女は有名家具販売店のご令嬢で、人脈もあり、材料の調達にも顔が効く。そして家具作りは幼少の頃からの手練れじゃ。この業界で、これ以上の若手人材はおらん」
 その説明を聞いて、彼女はまんざらでもないという表情をする。
 まあ、これは納得だ。犬塚家具といえば日本を代表する大手だから、その後継者が仲間であるのは心強い。
「そして瀬礼根さん。彼女の目測は誠に正確じゃ。一ミリの誤差もない。これは家具作りに相当のアドバンテージとなる。そうだ、ちょうどいい。その実力を皆さんに見せてあげるのじゃ!」
 理事長がそう言うと、瀬礼根さんは「わかりました」と静かに返事をする。
 そして、こちらの様子を窺いながら、手探りで右隣の犬塚さんの膝上に手を伸ばし――ピラッと彼女のスカートをめくった。
「ちょっ、ちょっとなにするん!?」
 慌ててスカートを抑える犬塚さん。
 み、見えてしまった。健康的な張りのある太ももと、スカートの深遠に潜むピンク色の布地が……。
 で、でも、しょうがないぞ。だって、あんなに短いスカートでゆったりとしたソファーに座ってるんだから。
「理事長、顕著な隆起を観測しました」
 怒れる犬塚さんに気を向けることもなく、静かに報告する瀬礼根さん。
 りゅ、隆起って……まさか!?
「ほお。やはり観測できたか。その変化量を報告するんじゃ」
「わかりました。変化量は理事長ゼロミリ、田中先生一ミリ、笠岩君十ミリです」
 そ、そ、それって……。
 そりゃ、見ちゃったよ。でも見ちゃったら、そうなるのは当然じゃないか。健康的な男子なら。
 でも、こんなのヒドい。みんなの前で値を示してあからさまにするなんて、教育者がすることじゃない。
 唯一の救いは、犬塚さんと藤野さんが状況をあまり理解していないことだった。犬塚さんはまだ瀬礼根さんを睨みつけてブツブツ文句を言ってるし、藤野さんに至っては瀬礼根さんの影で何も見えなかったようで、不思議そうに首をかしげている。
「どうじゃ? 正確じゃろ? 笠岩君」
「…………」
 お願いだから僕に振らないでくれ!
 ていうか、瀬礼根さんも何見てんだよ!?
 僕は恥ずかしくて何も言うことができなくなり、黙ってうつむいた。顔もきっと真っ赤になっているだろう。
「ほっほっほぉ、黙り込むってことは正解じゃな。若い、若いのぉ」
 ていうか、あんなシーンを見せつけられたのに、ほとんど隆起しない理事長や田中先生の方がヤバいんじゃないの? 正しい教育者――なのかもしれないけど、男としては終わってるよ!
 顔を上げることができない僕をよそに、理事長は話を続ける。
「そして最後の藤野さん。彼女は、秘密のかぐや属性を持っておる」
 秘密のかぐや属性?
 なんだよそれ。というか、もうどうでもいいよ。
「しかし彼女は、その特殊能力を自分自身で引き出すことができない。それができるのは、笠岩君、ただ一人なんじゃよ」
 頼むから僕はほっといてくれ……って、えっ? 僕がただ一人の存在!?
 いや、ダメだ、ダメダメ! どう考えたって釣り文句じゃないか。
 だって彼女と僕は、今日初めて会ったばかりなんだぞ。そもそも肝心の僕が何もわかっていない。
 そろりそろりと顔を上げると、藤野さんも僕と同じようにうつむき加減で顔を赤らめていた。前髪が邪魔で、表情は相変わらずよくわからない。
「だからこの四人が揃って、笠岩君が藤野さんを覚醒させれば、絶対勝てるはずなんじゃよ」
 なんだか僕たちは、理事長の個人的な道楽に利用されているような気がする。
 それよりも僕には大きな疑問があった。
「あの、一つ質問してもいいですか?」
 僕は顔を上げて理事長に尋ねる。
「なんじゃ? 笠岩君」
 その質問が場を凍らせてしまうことを知らずに。
「カグライブって、何ですか?」

 ◇

「あんた、ホンマにカグライブ知らんの? 工科クラスの委員長やのに」
 一時間後、街の喫茶店で僕は犬塚さんに説教されていた。
「私も呆れましたわ。委員長というのにカグライブを知らないなんて!」
 今度は瀬礼根さんが畳み掛ける。
 頼むから僕をいじめないでくれよ。本当に知らなかったんだから。喫茶店のお客さんも、こちらの騒ぎを見てるじゃないか。
 戦略会議と称してこの喫茶店にたどり着いた僕たち四人は、店の中ですでに浮いた存在になっていた。
「ふん! ふん!」
 すると藤野さんが鼻息を荒らげながらスマホの画面をこちらに向ける。
 そこには、カグライブのホームページが表示されていた。

 なになに……。
 カグライブは、家具作りの技術とスピードを競うコンテストです。
 だって!?

「全国から、家具作りを学ぶ高校生が出場するんやで」
「今年の課題は、椅子って聞いてますわ」
「んんんんん!」
 藤野さんが示すページには、今年のカグライブのルールが記されている。

 各校で用意した材料を用いて、制限時間内に椅子を一脚、製作していただきます。
 制限時間は二時間、メンバー構成は一チーム四人です。
 三組の審査員によって順位を決定します。そのうち一組はゲスト審査員です。

 ほお、こんな面白そうなコンテストがあったのか。
 まあ、僕は授業中ずっと寝てたし、実技は適当だったし、くじ引きで決められたクラス委員長だからなぁ……。
「うちらの役割は簡単やね。うちが人脈を利用して、最高の材料を調達する」
 犬塚さんが提案すると、瀬礼根さんが続いた。
「そして、私が得意の目測能力を生かして、材料の切断を行う」
 すると全員の視線が藤野さんに集まった。
 注目されて彼女はまた下を向いてしまう。
「問題は、藤野さんがどないな能力を持ってるかや」
「それが分かれば、作戦が立てられるのですが……」
 そして二人は今度は僕をジト目で見た。
 理事長が僕のことを、『藤野さんの特殊能力を引き出せる唯一の存在』と歯の浮く言葉で持ち上げたからだ。
「こんな委員長が、私たちの切り札を覚醒させる鍵とは、なんとも頼りないものですね……」
 すいませんね、頼りない委員長で。
「そういや、カサイワ君の苗字って、どないな字を書くんや?」
 犬塚さんが突然訊いてくる。
 僕は不思議に思いながらも、丁寧に説明した。
「笠地蔵の『笠』に、岩石の『岩』だけど……?」
「それって……」
「ん? んんんんんん!?」
「そやな、うちもなんか聞いたことがあるような気ぃするんよ」
 三人がそれぞれ反応した。
 それってどういうことなんだ?
 すると、藤野さんがスマホのメモに手書きで文字を書いて二人に見せる。
「おお、これや!」
「そうですね。きっと笠岩君の下の名前はこれに違いありません」
 ええっ!? 
 それってどういうこと?
 三人が僕の名前を予想して、その結果がピタリ合ってるってこと!?
 おののく僕に藤野さんがスマホを示す。

 そこには、正に僕の名前――『調』が表示されていた。

「な、なんで、三人とも僕の名前がわかったんだよっ!?」
 これは驚きなんてものじゃない。
 驚愕、そのものだ。
 しかし三人はケロッとした顔で、軽やかに声を合わせた。

「「「だって私たち、かぐやですから!」」」

 おいおい、藤野さん、しゃべれるじゃん。
 犬塚さんも、関西弁じゃないし……。

 ◇

 喫茶店を出た僕たちは、本屋に向かっていた。
「笠岩君、竹取物語って読んだことないんか?」
 そう問い詰められた僕はすぐに馬脚を露わし、それならばすぐに本を買って勉強しようということになったからだ。
 さすがに僕だって竹取物語は知っている。
「昔々、おじいさんが山に竹を取りに行きました、ってやつだろ?」
「ちゃう! それは童話や。笠岩君、ほんまに高校生?」
 どうせ僕は、ぐーたら高校生ですよ。
「『今は昔竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹をとりつつ、萬の事につかひけり』が正解ですよ」
 いやいや、そんな古臭いのって読めないから。
「んん! んんんん!」
 藤野さんが『常識』という文字をスマホで僕に見せる。
 そんなことしなくても、さっきみたいに普通にしゃべってくれていいから。
 そして本屋に着くと、原文と現代訳が並記されている本を買った。いや、買わされたと言った方がいい。
 明日までに読んで来い、読めば『調』の謎が解ける、という脅しに近い激励と共に。

 風呂に入り、夕食を食べ終わった僕は、早速机に向かって本を開く。
 物語は、まずおじいさんが光る竹を見つけ、その中から女の子が出てくるところまでは童話と一緒だった。が、その後がなかなか現実的であることを知る。
 かぐや姫がとても美しいので沢山の男が言い寄ってきたが、あまりの姫のツンツンぶりに男どもはみんな離れていき、ついに五人だけになってしまう。
 ――さて、このストーカー五人衆をどう追っ払おうか?
 かぐや姫が選んだ作戦は、無理難題をふっかけること。
 彼女は五人それぞれに、仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝、火鼠の皮衣、龍の頸の五色の玉、燕の子安貝、つまりおよそ手に入りそうもない宝を持ってきたらヨメになってやると、条件を提示したのだ。
「まるで、身長一八◯センチ以上とか、年収一千万以上とか、帝都大卒とか、そんなことを言われてるみたいだな……」
 今も昔も変わらないと、僕はしみじみとした気持ちになる。
 それから、この五人がたどる道は悲劇だった。
 一人目は、近場で調達したことがバレて恥をかき、二人目は金にものを言わせて本物そっくりの模造品を作ったが、偽造業者が押しかけてバレる。三人目は大金はたいて聖地から宝を取り寄せるが、悪徳業者に偽物をつかまされ、四人目は無茶しすぎてギブアップ。五人目に至っては、宝を取ろうとして事故死してしまったのだ。
「うわー、嫌だ、こんな人生……」
 僕も将来、ものすごく美しい女性に恋してしまったら、こんな風になってしまうのだろうか?
 来たるべく自分の未来と重ね合わせながら物語を読み進めていくうちに、ついに太刀打ちできない存在が現れた。
 帝――つまり天皇だ。
 天皇は歌を介してかぐや姫の心をつかんでいくが、ついに最後の時がやってくる。
 ――月に帰らなくてはならない。
 かぐや姫は突然、こう宣言したのだ。
「まあ、ポリン星やちょるちょるランドに帰るって宣言されるよりはマシだけど」
 その宣言を聞いて驚いた天皇。姫を月に返してなるものかと軍隊を出動させる。が、姫はついに月人に奪われてしまった。人間としての最後の瞬間、姫が天皇に遺したものが不死の薬だった。
 ――姫が居なくなったのであれば、不死の薬も必要ない。
「いやいや、僕ならすぐに飲んじゃうけど……」
 もったいないと思うことなく、天皇は不死の薬の処分をある人物に託す。それが、調岩笠(つきのいはかさ)だった。
「おおっ!?」
 やっと出て来たよ。『調』という名前が。
 調岩笠は不死の薬を駿河の山で燃やし、その山は「ふじの山」と呼ばれることとなったという。

 これが竹取物語の大まかなストーリーだ。
 確かに出てきた。『調』の文字を持つ人物が。
「ていうか、『調岩笠』なんて、僕の名前『笠岩調』と同じじゃないか……」
 漢字の並びが逆というだけで。
 もしかして両親は、この人物にちなんで僕の名前を付けたのだろうか?
 子供の頃の記憶が、脳裏に蘇る。

『探求心を持ち続けるようにって、『調』という名前を付けたんだぞ』
『音楽や言葉の『しらべ』という意味もあるの。優雅に生きてほしいな』

 なんだかちょっと悲しくなる。
 両親の言葉も嘘ではないだろう。でも、真っ先に『調岩笠』という人物名が浮かんだのだとしたら、どんなに素晴らしい名前の意味も後付けに聞こえてしまう。
 ――もしかしたら自分の名前は竹取物語に由来していたのかもしれない。
 その疑惑で僕の心は一杯になり、もう何も考えられなくなった。そしてそのままベッドに潜り込む。
 この時、もっと冷静であれば……。
 僕は、藤野さんとの重要な接点に気づけたはずだったのだが、それが判明したのは後になってからだった。

 ◇

 翌日の放課後。
 僕たち四人は、また同じ喫茶店に集合した。
「笠岩君、宿題やってきたん?」
 犬塚さんがクリクリとした瞳を輝かせながら僕に尋ねる。
「ちゃんとやってきたよ。答えは、調岩笠だろ? 不死の薬を燃やしちゃった犯人」
 すると瀬礼根さんと藤野さんが噛み付いて来る。
「犯人、というのはちょっと言い過ぎだと思います。だって帝の言う通りにしただけなんですから」
「んんんんんっ!」
 藤野さんがスマホに二次元美少年キャラを表示して、怒りの表情を見せる。
 どうやら調岩笠という人物は、漫画やネットの世界ではかなりの人気者らしい。
「うちはな、理事長が昨日、なんであないなこと言わはったんか不思議なんよ。だって、かぐや姫と調岩笠は、直接会うたことがないんや。せやのに、調岩笠と名前が似ている笠岩君が、かぐや姫の潜在能力を引き出すことができるやなんて何か変やろ?」
 確かに犬塚さんの言う通りだ。
 会ったことのない物同士、どうやって干渉するのだろう。
 二人の関係が竹取物語に書かれていれば、特殊能力についても何か記されているかもしれないのだが……。
「せやからな、うちは思うんや。これは語呂合わせやないかって。調岩笠はフジに行った。藤野さんの名字もフジや。だから、同じフジを持つ藤原氏が謎を解くヒントやないかってな」
 ――藤原氏。
 竹取物語は、成立年、作者ともに未詳だ。しかし昨日買った本の解説によると、その背景には藤原氏の繁栄と衰退が大きく関与しているということだった。
 その証拠に、藤原氏の誰かが登場人物のモデルになっているという。それは……うーん、誰だったかな……?
 僕は必死に記憶を探り、一人の人物の名前を思い出した。
「藤原不比等!」
「正解や。笠岩君、よう勉強しとるやん」
 すると、すかさず瀬礼根さんが補足する。
「藤原不比等は、二番目に姫を諦めた車持皇子のモデルと言われています。車持皇子は、蓬莱の玉の枝とそっくりの模造品を業者に作らせて、あわや姫を手に入れんとするところまで行ったのですが、最後に未払金をよこせと業者が押しかけてバレちゃったんです。でも言い換えれば、五人の男たちの中では一番成功した人と言えるわけですね」
「そうなんや。もしかしたら理事長は、その能力のことを言わはったんやないかと、うちは思うとってな……」
 その能力って……。
 ――正確な模造技術。
 二時間で勝負をつけるカグライブでは、長期の耐久性は必要ない。極端な言い方をすれば、見栄えが良く、審査員を満足させる耐久力さえあれば、模造品でも構わないのだ。
「確かに、一流品そっくりに模造できれば、松池工科に勝てるかもしれませんね」
「問題は、藤野さんの能力がどないなレベルかなんや」
 僕たちは藤野さんを見る。
 彼女も僕たちがどんなことを考えているか理解しているのだろう。
 顔を真っ赤にしながら、何か言おうとしていた。
「わ、わ、わた、わた、わたしは」
 そして爆発した。
「偽物作りじゃないっ!」
 前髪を振り乱しながら立ち上がり、必死に僕らに訴えようとする。
 その瞳には、涙が浮かんでいた。
「えっ!?」
 不覚にも、僕は魅せられてしまった。
 チラリと見えた、藤野さんの、二重で、涙袋もぷっくりとした、艶やかな瞳に。
 他の二人もそれぞれ思うところがあったのだろう。
 気がつくと、三人が同時にバラバラの言葉を発していた。

「しゃべれるやん!」
「隆起しました」
「綺麗だ……」

 彼女の瞳の美しさに、つい言葉が漏れてしまった。
 ――綺麗だ。
 こんなに瑞々しい瞳を持っているのだから、前髪で隠さなくてもいいのに。
 僕は本気でそう思ったのだ。
 もっと見たい、彼女の瞳を。
 そして、僕の言葉に反応した藤野さんと目が合ってしまう。
 その瞬間――熱いものが胸を貫いた。
 恥ずかしくなって、僕は思わず目を逸らす。藤野さんも席に座り下を向いてしまった。
「すごい、どんどん隆起しています! 二十ミリ、三十ミリ……」
 一方隣では、瀬礼根さんが興奮気味に観測結果を報告していた。
 頼むからいい加減なことは言わないでくれよ! 今の僕はそんなことにはなってない。
 怒りを込めて瀬礼根さんを向くと、彼女は僕を見ていなかった。目を丸くする彼女の視線は、藤野さんの胸に注がれていたのだ。
「ええっ!?」
 僕は自分の目を疑った。
 だって藤野さんの制服のブラウスは、胸の部分がはちきれんばかりに膨らんでいたから。
「こ、これは……」
 Dカップ、いやEカップは超えているだろう。喫茶店に来た時はBカップくらいだと思っていたのに。
「ちょ、ちょっと藤野さん。どうしたんや、そのおっぱい」
 犬塚さんも目を丸くする。
 犬塚さんの胸も結構大きい方だと思うが、今の藤野さんはそのサイズを軽く凌駕していた。
「わ、わたし……、感情が乱れると胸が異常に大きくなっちゃうんです。だから、誰とも話さないように、目を合わせないようにしてたのに……。だって、だって、かぐや姫の恋は……」
 藤野さんは言葉を詰まらせる。
 やっとわかった。藤野さんが前髪を長くして、言葉数も少ない理由が。
「これはまるで山体膨張や……」
 息を飲む犬塚さん。すると瀬礼根さんが驚愕の事実を付け加える。
「サイズだけじゃないです。温度もどんどん上昇しています」
 それって、どういうこと!?
「六十度、七十度、は、八十度ォ!?」
 そんなバカな。
 人間の体温は高熱時でも四十度ちょっとだぞ。その二倍の温度に達するなんて、どういうことなんだ?
「これや!」
 藤野さんの異常な胸を見て、犬塚さんが叫んでいた。

「カグライブの作戦、思いついたで!」
 三人の視線が犬塚さんに集中する。
「異常に大きうなったり熱うなるこのおっぱいが、藤野さんの特殊能力や。それは間違いないやろ。なぜかはわからへんけど」
 確かにこの胸は異常だ。温度については触ったわけじゃないから、瀬礼根さんの観測値を信じるしかないけど。
「そこでうちはひらめいた。このおっぱいを利用して、材料を曲げればええんや!」
 おお、その手があったか!
 八十度まで温度が上がるのであれば、木材を曲げることもできるかもしれない。
「それはいい案ですね」
 瀬礼根さんも賛同する。
 彼女の観測が功を奏したのだ。悪い気はしていないだろう。
「うちが材料を調達して、瀬礼根さんが切断する。そして藤野さんが曲げて、みんなで組み立てる。完璧やないか」
 でも藤野さんはそれでいいのだろうか?
 チラリと見ると、彼女はまだ下を向いたままだった。胸は残念ながら、元のサイズに戻りつつあった。

「ところで、今回のゲスト審査員って誰なんでしょう?」
 藤野さんが下を向いたままなので、瀬礼根さんと犬塚さんはカグライブについて話を進めていた。
「うち知ってる。なんでも、お笑いの『春の日踊り(はるのひおどり)』らしいで」
「春の日踊りって、テレビで北欧製の椅子を壊してしまった、あの二人組?」
 おお、その話なら僕も知ってる。
 なんでも、視聴者プレゼントの椅子を番組放映中に乱暴に扱って壊してしまったらしい。その様子が動画サイトで話題になった。
「そうなんや。せやから今回のカグライブは、デザイン性や見た目の綺麗さよりも、とにかく丈夫な椅子を作るんが勝負の鍵になるんやないかって、もっぱらの噂なんや」
 さすがは犬塚さん。家具業界の情報には敏感らしい。
「だったら、素材選びが重要になりますね?」
 瀬礼根さんが藤野さんを見る。
 藤野さんの眉間がピクリと動いた。彼女も『素材』という単語には敏感に反応したようだ。
「強くて、丈夫で、熱で加工できて、うちらが扱い慣れてる素材って何やろな……」
 犬塚さんも藤野さんを見た。
 藤野さんはがばっと顔を上げ、スマホに何か文字を描き始める。
「やはりそれですよね」
「うちもそれ一択や」
 三人の意見が一致したと思いきや、藤野さんがビシっとスマホの画面をこちらに向ける。
 そこには一文字、『竹』と書かれていた。

「そやな。うちら、かぐややもんな」
「その通りですわ」
「みんな……」

 やっと藤野さんが笑ってくれた。

 ◇

 次の日から、カグライブに向けての特訓が始まった。地区予選まで、僕たちに残された時間は二週間しかない。
 放課後になると僕たちは木工室に集まり、椅子のデザインについて検討を始める。
「ちょっと不細工やけど、まずは基本形を作ってみーへんか?」
 犬塚さんがスケッチブックに描いたのは、ごく普通の竹製の椅子だった。骨組みの部分を丸竹で組み立て、お尻が乗る『座』と背もたれの『背板』を編んだ竹で細工するタイプだ。
「まずはヒゴ作りや。瀬礼根さん、幅二センチに竹を割ってや」
「わかりました」
 すると瀬礼根さんが用意された竹を持ち、竹割り包丁を使って器用に割っていく。
「すげぇ!」
 僕が驚いたのは、その幅が二センチでほぼ均一だったのだ。瀬礼根さんの高い目測能力の成せる技だった。
「次は藤野さん、一ミリで剥いでや」
 今度は藤野さんが瀬礼根さんが割った竹を持ち、先端に竹割り包丁を入れていく。すると、竹が薄く綺麗に剥がれていった。
「おおっ!」
 どんどんと薄さ一ミリのヒゴが生産されていく。
 最後は犬塚さんが、藤野さんが剥いだヒゴを器用に編み始めた。
「四ツ目編みって言うんやで」
 その作業スピードの速いこと、美しいこと。
 さすがは家具屋の跡継ぎ。理事長の言う職人芸とはこのことかと、僕はため息を漏らす。
 いや、犬塚さんだけじゃない。三人とも素人とは思えない。
「どうしてみんな、竹を扱うのがこんなにも上手いんだ!?」
 驚愕する僕に、三人は軽やかに声を合わせる。

「「「だって私たち、かぐやですから!」」」

 聞くだけ野暮だった。

「あかん、時間かかり過ぎや」
 座の部分を編み上げた犬塚さんが絶望を込めて叫んだ。
 僕から見たら、ものすごいスピードで作業が進行しているように感じたが、時計を見るとすでに一時間が経っていた。
 カグライブは二時間で椅子を完成させなければならない。
「作業はこれだけやないんや。背板も編んで、さらに骨組みも組み立てんとあかんのやで。そんなの無理や!」
 サジを投げる犬塚さん。
 他の二人も、うーんと考え込んでいた。
 僕は見ているだけだったが、この作業はあまり効率が良いようには見えなかった。
 まず、竹を編む犬塚さんの負担が大き過ぎる。かと言って、他の二人が編んだらスピードが上がるようには感じられない。
 そもそも、藤野さんの胸熱能力が活かされていないじゃないか。
 だから僕は提案する。みんなの椅子作りを見ながら考え付いたアイディアを。
「ねえ、こういう椅子はどう? 竹を太めに沢山割って、それを半円型に曲げて、両端を中央で束ねるんだよ」
 僕は犬塚さんからスケッチブックを受け取り、何本もの竹で構成されるリンゴのような球形を描く。
 三人はそのスケッチを覗きこみ、「おー」と低い声を上げた。
 背もたれがなく腰かけるだけの椅子だが、球形に束ねることで強度は増すはずだし、ゲスト審査委員『春の日踊り』のハードな審査にも耐えられるだろう。
「笠岩君にしては、ナイスアイディアやね」
「藤野さんの竹曲げ能力も発揮できますし」
「…………」
 藤野さんは無言のまま「本当にあれをやるの?」という顔をしていた。

 ◇

 次の日の特訓から、竹曲げの練習が始まった。
 まず瀬礼根さんが幅五センチの割竹を作り、犬塚さんが面取りをする。
 その間、藤野さんは湾曲した鉄板を抱いて胸を加熱していた。
 胸に直接竹を当てるのではなく、熱くなった鉄板に押し当てて竹を曲げようという作戦だ。これなら彼女だって外見的には恥ずかしくないし、竹を一様に曲げることもできる。
 肝心の熱源だが、それは僕の視線だった。
 ――藤野さんの瞳を見つめること。
 それが僕の役割。なんという役得だ。
 だって、綺麗な藤野さんの瞳をずっと見ていられるのだから。チラ見じゃなくて、正々堂々と。
 時折、藤野さんと目が合ってしまう。照れて下を向いてしまう彼女の仕草がとっても可愛い。
 勢いよく曲がっていく竹と一緒に、僕の心もキュンキュン鳴っていた。

 しかしそれは最初のうちだけだった。
 見つめ見つめられることに、だんだんとお互いが慣れてしまう。
 カグライブ地区予選を明日に控えた帰り道、僕は瀬礼根さんに呼び止められた。
「ねえ、笠岩君。ちょっと話があるのですが……」
 夕暮れの公園のベンチに二人で並んで座る。
 瀬礼根さんはかなり深刻な表情をしていた。
「藤野さんの発熱効率がかなり落ちています。笠岩君も気づいていると思いますけど」
 確かにそれは僕も気にしていた。
 練習開始日はぐいぐい曲がっていた竹だが、今日の練習ではなかなか曲がらなかった。なんとか二時間で椅子を完成させることができたが、これ以上曲がらなくなると制限時間に間に合わなくなってしまう。
「いざという時は、竹の本数を減らすしかないんじゃない?」
 しかしこの案は最終手段だ。竹の本数を減らすと強度が下がり、特別審査員に壊されてしまう恐れがある。
「それよりも、やっぱり根本的なところを対策した方がいいと私は思うのですが」
 ということは……。
 藤野さんの発熱効率を上げるってこと?
 それってどうやればいいんだろう。ただ見つめるだけでは、もう限界のような気がする。
「それにですね、藤野さんの能力ってあんなものじゃないと思うのです。それを笠岩君にも意識してもらった方がいいと思います。私も明日までに対策を考えてみます」
「わかった……」
 返事をしてみたものの、とっさには何も思い浮かばない。
 でも、藤野さんの能力があんなものじゃないとはどういうことなのだろう?
 もしかして、もっと胸が大きくなる可能性があるってこと?
 あれ以上膨張して、下着やブラウスが破れてしまったらどうするんだよ。
 僕はついエッチなことを想像してしまい――
「ただし、今みたいな隆起は無しの方向でお願いします」
 瀬礼根さんに釘を刺されてしまった。
 彼女はメガネを光らせながら僕の下半身を観察している。
 そ、それって……。
 恥ずかしさのあまり、顔がかあっと赤くなる。そして乙女のように足をぎゅっと閉じて、瀬礼根さんの耳元に口を寄せ、小声でお願いした。
(ちょ、ちょっと……、隆起観測はやめてくれよ。それに、このことは誰にも話さないでよね。お願いだから)
 すると瀬礼根さんはニヤリと笑いながら、わかったと小さく首を縦に振る。
「そういえば理事長室での隆起量のことですが、笠岩君は何も気にすることはありませんよ」
 気にすることはないってどういうこと?
 パンチラで隆起するのは健全な若者の証拠ですって、同い年の女の子に言われても全然慰めにはならないし、さらに気になっちゃうんだけど。
「あの時、理事長と田中先生はすでにマックス隆起中だったんです。犬塚さんがソファーに腰掛けた瞬間から隆起が始まり、その量は二人とも三十ミリに達していました」
 って、そっちかい。

 ◇

 家に帰った僕は、机に向かって考える。
 明日の本番では、どのような対策をとったらいいのだろうか……と。
『藤野さんの能力ってあんなものじゃないと思うのです』
 僕の頭の中には、瀬礼根さんの言葉がグルグルと回っていた。
 もしかして、藤野さんの潜在能力を十分に引き出すことができていないってこと?
 理事長の言葉を借りるなら、僕の努力が足りないことが原因ということだ。
 ――藤野さんのかぐや属性とは一体?
 肝心のこの課題が、まだ解けていなかった。
 それを明らかにできれば、対策も判明するだろう。
 僕はノートを広げ、今までわかっている事実を書き出してみる。

 名前は藤野かぐや。
 鍵となる人物は調岩笠。不死の薬を富士山で焼く。
 感情が乱れると胸が膨張して熱くなる。

 その時。
『これはまるで山体膨張や……』
 犬塚さんの言葉が脳裏に蘇ってきた。
「それって、もしや……」
 僕はスマホを取り出し夢中で検索を始める。ノートに記したこれらのキーワードを用いて。
 すると出てきたのだ。僕の知らないかぐや姫の神話が。
「そうか、これだったのか!」
 ついにわかった。藤野さんのかぐや属性が。
「すべてを解く鍵は神話にあったんだ……」
 しかしこの真実は彼女にとって重すぎるんじゃないかと、僕は心の中に留め置くことにしたのであった。

 ◇

「いよいよ、今年のカグライブの開幕です!」
 ドライアイスによるスモークの中から、一人の司会者がステージ上に現れる。
 舞台は県立体育館。僕たちは舞台袖で紹介されるのを待っていた。
「ついに本番やな」
「この日が来ましたね」
「…………」
 緊張でガタガタ震える僕をよそに、三人のかぐやは意外と落ち着いているようだった。
「まずは昨年優勝の松池工科高校です!」
 会場の拍手と同時に、ステージが再びスモークで真っ白になる。
「使用する材料は樫。キャッチフレーズは『とにかく丈夫だ、どんと来い!』です」
 スモークが晴れてくると、舞台上に屈強そうな男子高校生が四人現れた。
「か、樫やて……」
 司会者の説明を聞いて犬塚さんが驚きの表情を見せる。
「樫は、木材の中でも特に堅いんや。それでガチな椅子を作って、ゲスト審査員に他校の椅子を壊させるという作戦やな」
 僕も、樫が硬いということくらいはわかる。
 加工するのも大変だろう。道理でマッチョな男子高校生を揃えたというわけだ。
「続きまして、竹丘学園です!」
「さあ、うちらの番やで」
 犬塚さんの掛け声に合わせて、僕らは真っ白に煙るステージに駆け出した。
「使用する材料は竹。キャッチフレーズは『かぐやの竹のしなやかさ』です」
 こうして僕たちの戦いが始まった。

 紹介が終わると、ステージからアリーナへ降りて作業エリアへ向かう。
 アリーナは高校ごとに作業エリアが分けられており、すでに材料と作業台、そして工具がセットされていた。
 僕たちは自校のエリアに入り、おのおの配置につく。目の前の床には、犬塚さんが調達した最高級の真竹の乾燥材が並べられている。
 最後の高校紹介は梅野実業だった。
「使用する材料は紙。キャッチフレーズは『あら不思議、意外と強い紙の椅子』です」
 見ると、男子二人、女子二人の構成だ。
 梅野実業の作業エリアには、大きくて丈夫そうな紙が何枚も置かれている。きっとこの紙を四人で折っていき、最終的に椅子を完成させるのだろう。確かにそれはライブ向きだ。パフォーマンスで観客に魅せることによって、高得点を狙う作戦のように思われる。
「各校、用意はいいですか?」
 梅野実業がステージを降りて持ち場に着くと、司会者が全体を見回す。
「さあ、これから二時間の家具作りライブが始まります。カグライブ、スタァァァトォォォォ!」
 イキのよい合図と共に、各校、生徒が動き出した。

 まず僕たちは、練習通りの担当作業に専念する。
 瀬礼根さんが竹を割り、犬塚さんが面取りをする。藤野さんは鉄板を抱えて椅子に座り、僕は彼女の前に座って瞳を見続けた。
 しかしここでトラブル発生。
 僕がいくら見つめても、藤野さんがうつむいたままで顔を上げてくれないのだ。これでは瞳を見ることができない。
 いきなり懸念していた事態が発生した。
 このままでは鉄板の温度は上がらないし、温度が上がらなければ竹を曲げることもできない。
「仕方がありません」
 瀬礼根さんは竹割りの手を止め、材料置場から何かを持ってくる。
 それは一冊のスケッチブックだった。
 そしてスケッチブックを藤野さんからは見えない位置に立てかけ、竹割りをしながら一枚ずつめくっていく。
「笠岩君、これを読んで下さい」
 一枚目には『綺麗だ』と書かれていた。
「綺麗だ」
「ダメだす。もっと感情を込めて」
「綺麗だよ」
「もう一歩です。名前も一緒に」
「藤野さん、綺麗だよ」
 なんという茶番なんだ、と思いながら僕は『綺麗』を連発する。
 すると藤野さんの顔がなんだか少し赤くなったような気がした。
「笠岩君、効果がありました。少し温度が上昇しています。さあ、どんどんいきますよ」
 そう言いながら瀬礼根さんがスケッチブックをめくる。そこには『魅力的だ』と書かれていた。
 きっとあのスケッチブックには、褒め言葉がずらりと並んでいるのだろう。
 それを言わされている僕も情けないが、素直に反応して温度を上げてしまう藤野さんも単純すぎる。でも今のところ、これに代わる打開策は見当たらない。
 僕はやむなく、瀬礼根さんと誉め殺し作戦を実行した。
「ずっと気になっていた」
「君に会えて良かった」
「君は運命の人だ」
 不思議なもので、口に出しているうちにそんな気持ちになってくる。
 もしかしたら自分も知らないうちに、そう思い始めていたからかもしれないが。
「好きだ」
「誰にも渡したくない」
「愛してる」
 いやいや、これはやり過ぎだ。
 僕が口にするのをためらっていると、瀬礼根さんのメガネがキラリと光った。口元もなんだか『隆起』と動いているように見える。
 ――おいおいズルいぞ。バラさないって約束したじゃないか。
 僕は瀬礼根さんを睨みながら、スケッチブックの言葉を口にした。無理やりとはいえ、一度発してしまうと感覚が麻痺してしまう。それはまるで催眠術にかかったかのように。
 胸の温度は順調に上がっているようだ。
 藤野さんは真っ赤な顔でうつむきながら、鉄板に竹を当てて曲げている。
「まだちょっと温度が足りないようです」
 悪魔のような声で瀬礼根さんが状況を報告したかと思うと、究極のフレーズがスケッチブックに現れた。

『結婚しよう』

 おいおい、いくら何でもこれはアウトだろ?
 尻込みする僕に、瀬礼根さんは「早く! 温度が下がっちゃいます」と催促する。
「今までの言葉は嘘だったんですか? この言葉もその延長ですよ」
 決して嘘じゃない!
 将来、そういう気持ちになるかもしれない、いや、なったらいいなぁという希望を込めて。
 ――だったら。
 もう何が何だかわからない。破れかぶれだと僕がその言葉を口にした時――

 バチッ!

 ガタンと鉄板が落ちる大きな音とほぼ同時に、僕は藤野さんにほおを叩かれていた。
 走り出そうとする藤野さん。
 とっさに僕は、その手を掴んでいた。
 ――今は決して彼女を離しちゃダメなんだ!
 心がそう叫んでいた。
「ゴメン」
 だから僕は、危険を承知で藤野さんを抱きしめる。
 彼女の胸が当たる腹部が猛烈に熱い。こんな時のために耐熱Tシャツを着ているが、制服のワイシャツが焦げ始めていた。
 でもこんなに熱くしたのは、僕の行き過ぎた言葉なんだ。
 彼女は小さな肩を震わせていた。
 もう何を言っても弁解にはならないだろう。せめてこの熱に耐えて、自分の言葉に責任を持ちたいと覚悟を決める。
「いい加減な言葉で、私の心を弄ばないで! かぐやは結婚できないの。月に帰っちゃうんだから」
 藤野さんの心は、竹取物語に囚われている。
 彼女が前髪で瞳を隠している真の理由は、これだったんだ。自分のことを誰かが好きにならないよう、チャームポイントをひたすら隠し続けてきた。
「確かに言い過ぎた。心から謝る。でも君を想う気持ちは嘘じゃない」
「えっ?」
 戸惑いを見せる藤野さん。胸の熱も少し和らいだような気がする。
 だから僕は、昨日判明した真実を彼女に伝える。
「藤野さんは月に帰ったりしないよ。君は富士山の神、つまり火山神なんだ。そして運命の人と富士山で一緒に暮らすんだよ」
 ――富士山周辺に伝わる、かぐや姫の神話。
 竹から生まれたお姫様は月に帰ることはなく、夫と共に火山神として富士山に降臨する。
 藤野さんの胸が膨張したり熱くなったりするのは、火山神だったからなんだ。
 そして理事長が調岩笠にこだわったのも、富士山に関わりがあることが理由に違いない。
 真実を知った藤野さんは、はっと僕を見る。が、また下を向いてしまった。
「でも、でも……笠岩君は昨日、瀬礼根さんと二人で公園にいた」
 それって……。
 昨日の帰り道、瀬礼根さんと公園で打ち合わせをしていたのを見られてたんだ。
「そして……キスしてた……」
 えっ? キス?
 そんなことしてないけど……。
 ん? 待てよ。そうか、あの時か。隆起について、耳元でバラさないでと頼んだ時。
 僕は瀬礼根さんとキスしていない。それに僕が好きな人は瀬礼根さんじゃない。だからきちんと藤野さんに伝えよう。
「僕は今、君に誓う。瀬礼根さんとはキスしていない。彼女の耳元で、僕の秘密をバラさないでとお願いしただけだ」
 そして大きく息を吸った。
「僕が本当に好きな女の子は、藤野さんだ!」
 言ってしまった。
 さっきも同じようなことを何回も言ったけど、言葉の重みが違う。
 これは僕の本心。
 心の底からの叫びなんだ。
 その証拠に、僕はこんなにも藤野さんのことが愛おしい。
 だから僕は、しっかりと彼女を抱きしめる。
 すると、やっとのことで藤野さんが僕を見つめ返してくれた。
「私も……笠岩君のことが……好き」
「いよっ、ご両人!」
「熱いよ、焼けるよ!!」
 観客席からヤジと歓声が湧き起こる。
 急に恥ずかしくなってお互いに体を離す。周囲を見回してみると、瀬礼根さんが『これもパフォーマンスです』と書かれたスケッチブックを観客に向けて掲げていた。

 それからの僕たちは順調だった。
 藤野さんが次から次へと竹を曲げていく。どうやら自分の正体に気づいた彼女は、胸の大きさや温度を自在にコントロールできるようになったようだ。
「これでもう優勝はうちらのもんや」
 犬塚さんがそう確信した――その時。
 白いスモークが突然足元から湧き上がり、僕たちの視界を奪っていったのだ。
「誰や、ドライアイスをまいたんは!」
 その量は尋常ではなかった。僕たちの作業エリアだけでなく、アリーナ全体がスモークに包まれてしまったのだ。
 スモークで作業を邪魔しようとしたのだろうか? それとも、藤野さんが熱源であることを察知したライバル校が、温度を下げようと画策したのだろうか?
 いずれにせよ、やりすぎだった。
 僕はなんだか頭がぼおっとしてくる。
「まずいです。二酸化炭素濃度が三パーセントを超えました。笠岩君に中毒症状が出ています!」
 ドライアイスは二酸化炭素の固形物。瀬礼根さんがその濃度上昇を刻々と報告する。
「笠岩君、早くこの場から逃げて!」
 藤野さんが悲壮な顔で訴える。
 でも僕だけ逃げるなんてこと、できるわけないじゃないか。みんなで勝ち抜こうと決めたんだから。
「うちらは大丈夫やから、笠岩君はホンマに逃げた方がええで」
「笠岩君、知ってます? 竹の中の二酸化炭素濃度は六パーセントに達する時もあるんですよ」
「本当に逃げて、笠岩君! 私はあなたを失いたくない」
 藤野さんにそう懇願されたら従うしかない。
 踵を返す僕に向かって、三人は軽やかに声を合わせた。

「「「私たちは大丈夫。だって、かぐやですから!」」」

 君たち本当に竹の中に住んでたん?

 ◇

 結局、カグライブ県南大会は、他二校が二酸化炭素中毒のためにリタイアし、唯一椅子を完成させた竹丘学園の優勝となった。
 これで僕たちの工科クラス、二年J組も安泰だ。
 さらに嬉しいことに、試合が終わった後、藤野さんは前髪を切ってくれた。胸を自在にコントロールできるようになって、瞳を隠す必要が無くなったのだ。髪もポニーテールにして、藤野さんは雰囲気が劇的に明るくなった。
 ――結構可愛いじゃん!
 瞳の美しさに魅せられた生徒が続出し、藤野さんはたちまちクラスの、いや学園の人気者になる。
「笠岩君、一緒に帰ろう!」
「ああ」
 そんなライバルたちの目の前で、僕は藤野さんと手を繋いで下校するのだ。これほど優越感に浸れることはない。
「夏休みになったら、一度、富士市に行ってみたいんだけど」
 歩きながら僕は提案する。
 竹丘学園はカグライブ県大会を突破し、ついに全国大会に出場することになった。僕はもっと詳しく、藤野さんの能力について知りたいと思っていた。
「今まで黙ってて申し訳ないんだけど、富士市にはおばあちゃんの家があるの」
「なんだよ、早くそれを言ってくれよ~」
 えへへと笑う藤野さんはさらに可愛い。
 僕は彼女のためにも、絶対にカグライブ全国大会で優勝しようと心に誓うのであった。

 了



ライトノベル作法研究所 2016GW企画
テーマ:『神話のキャラクター』

くるりのアクセル2016年01月18日 07時38分09秒

 月丘くるり(つきおか くるり)は愛犬アクセルと大の仲良しでした。
「アクセル、いくよっ!」
 くるりの手から赤いポリウレタン製のディスクが放たれます。
「ワン、ワンッ!」
 夕暮れの緑野公園を舞う赤い円盤。それを追って疾走する茶色のトイプードルは、ディスクの下に追いつくと勢いよくジャンプしました。
「それっ、右! そして左っ!!」
 アクセルには不思議な癖がありました。右回りにジャンプしたかと思うと、ブルブルっと左回りに体を回転させながらディスクを咥えるのです。
「あはははは、アクセルは本当に器用だよね」
 ディスクを咥えてくるりの元へ届けるアクセル。そんな愛犬を、くるりはわしゃわしゃと豪快に撫でまわします。アクセルも嬉しそうに、くるりの柔らかなほっぺをペロペロと舐めるのでした。
「ちょ、ちょっと。くすぐったいよ、アクセル」
 芝生に片膝をついたくるりと、両足で立ち上がって嬉しそうに尻尾を振るアクセルが向き合う姿は、見ているこちらの心も温かくしてくれるのでした。
「ほら、亮太もやってみなよ」
 くるりは僕の方を向くと、ディスクを差し出します。いきなりの提案に僕は慌ててしまいました。
「む、無理だよ。僕、運動苦手だし、それにもう薄暗いよ……」
 そうです。僕はこの公園で二人の様子を見ているのが好きなのです。
「簡単だよ、亮太。こうやって投げるだけなんだから」
 そう言ってくるりは立ち上がり、ディスクをまた夕暮れの空に放ちます。
 勢いよくダッシュするアクセルは、今回もまた右回りにジャンプして、左回りでディスクを咥えるのでした。
「本当にアクセルって面白いよね。最近ね、私もあのジャンプを練習してるの」
 くるりが大きく息を吸ったかと思うと、左足を大きく振りかぶり前に蹴り上げます。その勢いを利用して、右足のバネで高くジャンプ! 右回り気味に最高地点に達したくるりは、今度はすごい勢いで左回りに回転し始めました。傘のように広がるスカートが綺麗です。二回転は回ったでしょうか。彼女は膝を折り曲げながら見事に着地しました。
「す、すごいよ、くるり」
「でしょ!?」
 ドヤ顔で彼女は僕を見上げます。二重の大きな瞳が僕をとらえて一瞬ドキリとしました。
 それにしても空中で回転方向を変えるなんて、まるでディスクをキャッチする時のアクセルのようです。僕と違って、くるりは本当に運動神経抜群なのでした。
 アクセルもディスクを咥えたまま、嬉しそうにくるりに近寄って来ました。
「最近はね、三回転も練習してるの。将来の夢は世界一のダンサーだしね」
 くるりが必死に頑張っているのは僕も知っていました。
 何回も転びながら、最初は一回転だったジャンプが二回転、三回転に進歩する様は、見ている方も嬉しくなりました。それよりもなによりも、高く跳んだ空中で逆回転を始めるその姿が美しかったのです。
 それにしても小学生のうちから将来のことを考えているなんて、僕とは大違いな幼馴染なのでした。

 その時でした。

「グルルルル……」
 アクセルが咥えていたディスクを離し、低く唸り始めます。
「えっ!?」
「っ……!?」
 僕たちは言葉を失います。いつの間にか近寄って来た白い大きな犬がこちらを睨みつけていたのです。首輪はしていません。どうやら野良犬のようです。
「くるり、逃げよう!」
 危険を直感した僕は、くるりの手を握ると家に向かって走り出そうとしました。
「ダメッ! アクセルを置いて行けないっ!」
 振り向くと、アクセルは野良犬に向かってグルルルと唸り続けています。
 くるりは僕の手を振りほどき、アクセルに向かって叫びます。
「アクセル、駄目よ。こっちにいらっしゃい!」
 両手を広げるくるりの必死の叫びも、アクセルには届いていません。
 そうこうしているうちに、野良犬は次第にアクセルとの距離を縮めていました。
「こうなったら……」
「ダメだよ、くるり!」
 くるりがアクセルを抱きかかえようと近寄った瞬間、野良犬がアクセルに襲いかかりました。
「キャン、キャン……」
 公園に響く甲高いアクセルの鳴き声。野良犬は、アクセルの左後ろ脚に噛み付いたのです。アクセルを抱きかかえようとしていたくるりは、野良犬の迫力に圧倒され、その勢いで芝生の上に尻もちをついてしまいました。
「グルルルル……」
 野良犬は、今度はくるりの方を向いて威嚇を始めます。恐ろしさでくるりは腰が抜けたようになってしまって動けません。
「くるり、今行くから!」
 僕が駆け出そうとしたその時でした。アクセルが野良犬の前に立ち塞がったのは。
 噛まれた左脚をかばうようにしながら、必死で両脚で立っています。そしてディスクをキャッチする時のように、右脚でジャンプしながら左前足で野良犬にジャブを繰り出しました。
「ああっ!」
 野良犬はアクセルの攻撃をすんでのところでかわします。
 しかしここからが圧巻でした。
 アクセルは空中で左回りに回転を変えると、今度は右前足を繰り出したのです。
「キャンッ!?」
 今度は野良犬が悲鳴を上げる番でした。
 アクセルの右前足は野良犬の鼻先を見事に引っ掻いたのです。最初の空振りが野良犬を油断させたのでしょう。鼻先を削られた野良犬は、一目散にその場から逃げて行きました。
「アクセルッ!!」
 ドサリと地面に落ちたアクセルに向かって、腰の抜けたくるりが地面を這いながら近寄ります。
「大丈夫!? アクセル! アクセルッ!」
「くーん……」
 くるりの手がアクセルに届いた瞬間の、振り絞ったようなアクセルの安堵の声が今でも僕には忘れられません。
 それは僕が聞いたアクセルの最期の声となりました。
 左脚に重症を負ったアクセルは、翌朝くるりに見守られながら息を引き取ったのでした。

 ◇

「ええい、何で上手く跳べないんだろう……」
 それから一年が経ち、僕たちは中学一年生になりました。
 くるりは相変わらず緑野公園でダンスの練習をしています。
「去年はもっと綺麗に回れたのに……」
 ――右回りにジャンプして、空中で左回りに回転する。
 アクセルが僕たちに遺してくれたジャンプを、くるりは毎日のように練習しています。
 くるりはこの一年で身長が十センチも伸びました。成長と共に変わりつつあるジャンプの感覚の違いに戸惑っているのでしょう。僕にとっては、三回転までは完璧に跳べているように見えるのですが。
「もう、止めようよ。暗くなってきたし……」
「亮太は先に帰ったら? 私はまだ続けるから」
 ――世界一のダンサーになって、アクセルが生きた証を残したい。
 それが、くるりの口癖でした。
 いずれは四回転。そして、さらにその先の世界へ。
 くるりの野望は果てしなく広がっています。
「オー、ワンダフル!!」
 その時でした。怪しげな声が公園に響いたのは。
 振り向くと、車道からぽっちゃりとした外国のおじさんがこちらを見ています。
「ユア、ジャンプ、オモシロイ」
 片言の日本語を混ぜながら、こちらに近づいてきました。なんだか危ない感じがします。
「クロックワイズ、アンド、アンチクロックワイズ。ユーアー、パーフェクト!」
 黒くワイ? 何を言っているのかさっぱり分かりません。怪しさ倍増です。
「アナタ、セカイイチ、ナレマス!」
「ホント!?」
 思わずくるりが反応しました。何でこんな時だけ日本語なのでしょう?
 しかしそれが運命の出会いとなったのです。
「ワタシ、オライアン・ブーサー、イイマス。ジャンプ、コーチ、シテマス」
 ジャンプのコーチって、そんな職業が世の中にあるのでしょうか?
「私、本当に世界一になれるんですか!? ジャンプの指導をしてくれるんですかっ!?」
 嗚呼、すでにくるりは『世界一』という単語しか頭の中に入っていません。
 でも、その時のキラキラと輝く彼女の瞳は、僕の心を強く惹きつけました。くるりは本当に世界一のダンサーになりたいんだと、その意気込みが心の底まで届いた瞬間でした。
 それからそのおじさんは、毎日毎日公園にやって来ました。そしてくるりのジャンプを見学して帰ります。
 ある時は、くるりの両親とおじさんが話をしていたこともありました。そしてとうとう、くるりはおじさんの元でジャンプの特訓をすることになりました。
 驚くことに、ジャンプのコーチという職業が本当にあったのです。一つ残念なのは、オライアンコーチが教えてくれたのは純粋なダンスではなかったこと。その代わり、くるりのジャンプを世界一に近づけるという言葉に嘘はありませんでした。

 ◇

「私、なんでこんな所でジャンプしてんだろ?」
 これは、中学三年生になったくるりの口癖です。
 ――右回りに跳んで左回りに回転できれば世界一になれる。
 オライアンコーチのこの言葉は嘘ではありませんでした。
 ただし、それはダンスというステージの上の話ではなく、冷たく凍った氷の上の話だったのです。
 コーチが指導するアイススケート場に通い始めたくるりは、物珍しさもあって最初は夢中でフィギュアスケートに取り組んでいました。
 しかし実力がついて周囲から注目されるようになると、時々ふと昔の夢を思い出すようになりました。
 私の夢は、世界一のダンサーになることだったのではないか――と。

 くるりの武器は、ルッツジャンプです。
 ルッツは、右回りのような感じで跳んで、逆回転の左回りに着氷しなくてはなりません。
 その特異性から、後ろ向きで跳ぶジャンプの中では最も難しいジャンプと言われています。
 くるりは、一人だけ次元の違うルッツを披露することができました。なぜなら、本当に右回りで跳んでいたからです。そして何よりも人々を魅了したのは、他の選手よりも二倍ほど高い最高到達点から繰り出される逆回転。いつしかくるりは、『世界一美しいルッツを跳ぶ少女』と呼ばれるようになっていました。
 それが大きなプレッシャーになっていたのでしょう。
「私の夢は、世界一のダンサーになることなんだから……」
 大きな大会になるほど、そんなことをつぶやいて現実逃避することが多くなりました。

「くるり、今日のためにいいものを作ってきたんだ」
 だから僕は、とっておきの秘密兵器を披露します。
 それを見たくるりは、瞳をまん丸にしました。
「まあ、可愛いっ!」
 それは犬耳でした。
 アニメのような柴犬タイプではなく、トイプードルのアクセルと同じくぺたんと寝たタイプの犬耳です。
「でも、何? このワイヤー長すぎだよ、亮太」
 左右の犬耳を繋ぐカチューシャのような黒いワイヤーは、顎の近くまで伸びています。耳のところもT字になっていて、こめかみの近くでがっちりと固定するタイプなのです。
 僕は必死に説得を始めました。
「演技中に衣装の一部が落ちたら一点の減点じゃないか。だから顔全体を使って支えておかないとダメなんだよ。くるりの演技は一番最後だから、髪を下ろせばワイヤーを隠すことができるだろ?」
 フィギュアスケートは規律の厳しいスポーツです。
 女の子は髪を後ろでまとめるように指導されます。なぜかというと、リンクに髪の毛が落ちると次の選手の演技の邪魔になってしまうからです。
 しかし今日のくるりは最終滑走。後に滑る選手は誰もいません。
 僕は、肩に届かないくらいの高さで切り揃えたくるりのサラサラした黒髪が大好きでした。ジャンプの時に、はらりと広がる様も魅力的です。さらに犬耳が加われば、破壊力アップは間違いありません。
「今日のフリーの曲は犬がテーマだろ? だったら犬耳があった方が、さらに曲にマッチするんじゃないかって思ったんだよ」
「亮太、ありがとう。うん、これ、すっごくいいよ!」
 今日の舞台は、全日本フィギュアスケートジュニア選手権。
 つまり、ジュニア世代の全国大会です。
 前日のショートプログラムで圧巻のルッツを披露したくるりは、前年度の優勝者を押しのけて、いきなりトップに立ったのでした。注目されるその重圧が、フリーの演技を控えたくるりを押し潰そうとしています。
「でも亮太。犬耳はとっても嬉しいんだけど、私、もう帰りたい……」
 僕は必死にくるりを鼓舞します。
「ほら、ここまで来たんだから、この犬耳を着けて頑張ろうよ。それに女子のフリーの後半はテレビで生中継されるし、上位に入って強化選手になれれば、いろんな世界大会に出場できるんだから」
「世界?」
 ピクリとくるりの眉間が動きました。どうやら地雷、いや、ヤル気スイッチを押してしまったようです。
「それって世界一になれるってこと?」
「ああ、その可能性があるってことだよ。それに、テレビ中継をダンス関係者も見てるかもしれないしね」
「やる。私やるわ!」
 世界、そしてダンスという言葉に対しては、とっても単純なくるりなのでした。

 ◇

『さあ、いよいよ最終グループの登場です』
 僕は観客席に戻ると、テレビ中継の音声をイヤホンで聞きながらくるりを見守ります。
 トイプードルをイメージさせるブラウンを基調とした衣装の上にパーカーを羽織り、くるりは練習のためリンクへ飛び出して行きました。パーカーの袖から見える手袋の肉球と、スカートの上の部分のモコモコ尻尾が可愛らしいです。髪はまだ頭の上で結んだままで、犬耳は付けていません。
『六分間練習が始まりましたね。解説の八木池さん、今回の注目選手は誰でしょう?』
『やはり、月丘くるり選手でしょう。昨年まで無名だったのに、いきなり出てきましたからね。ショートプログラムで披露したルッツは、一人だけ次元が違っていました』
『そうですね。昨日は、トリプルルッツのコンビネーションを演技後半に決めてきました。審査委員全員が満点をつける出来栄えで、それだけで十四ポイントも獲得しています。去年の優勝者、新田双葉(にった ふたば)選手に五ポイント差をつけて、現在トップです』
 ふふふ、テレビの中継でもくるりが注目されてるじゃないか。
 僕は一人観客席でほくそ笑みます。
 リンク上でウォーミングアップ中のくるりを見ると、ジャンプの体勢に入ろうとしているところでした。
「ほら、皆に見せつけてやれ。世界一のルッツを!」
 僕のつぶやきに従うかのごとく、くるりは左足一本に体重を乗せ、後ろ向きに加速します。髪をまとめ、凛としたうなじで風を切る姿もまた魅力的でした。そして深く体を沈ませたかと思うと右足のトゥで勢いよく氷を蹴り、右回り気味にジャンプしました。
「そして左回り!!」
 最高到達地点に達したくるりは、今度は回転を左回りに変え、勢いよく三回転します。
「おおっ!」
 観客席から歓声が上がります。中には立ち上がる人も見えました。まだ練習だというのに。
 それだけ、くるりのルッツは見る人の心を捉えてしまうのです。そう、僕をはじめとして。
『すごいですね、月丘選手のトリプルルッツは!』
『本当にすごいです。あの体勢から逆回転ができるなんて、何回見ても不思議です。腹斜筋が相当強いんだと思いますよ』
 小学生の頃からくるりの努力を見てきた僕は、ちっとも不思議とは思いません。
 これも、愛犬アクセルのおかげなのでしょう。
 ――世界一のダンサーになって、アクセルが生きた証を残したい。
 その想いを胸に抱き、くるりは必死に練習を積み重ねてきました。緑野公園で何回も何回も転びながらジャンプを繰り返してきた成果が、今ここに世界一のルッツとして表現されているのです。
『ルッツはエッジエラーを取られてしまう選手が多く、難しいジャンプと言われていますよね』
『そうですね。普通の選手は最初から左回りに跳ぶので、エラーになってしまうことが多いのです』
 日本のエース、政田蒼(まさだ あお)選手もその一人です。
 彼女はルッツがとても苦手で、先日のグランプリシリーズ中国杯では、ショートプログラムでもフリーでも上手くルッツを跳ぶことができませんでした。今年は豊かな演技力が光っているだけに、これは非常に惜しまれます。
『しかし、月丘選手の場合はそれはありえませんね』
『そうですね。彼女は完璧に右回りにジャンプしているので、エッジエラーになることはありません。というか、正直言ってあれは逆回転トゥループの踏み切りですよ。どうやったらあそこから左回りに着氷できるのか、本当に理解できません』
 いい加減にくるりのジャンプを認めてくれよ八木池解説員、と僕が放送席の方を向いたその時でした。

「キャッ!」

 悲鳴にも似たくるりの叫び声がリンクから響いてきます。驚いて振り向くと、信じられない事が起きていました。
 くるりともう一人の選手が氷の上に横たわっていたのです。
 くるりは膝を手で押さえながら痛みで顔を歪めています。どうやら、二人は練習中にぶつかったようでした。
『おっと、練習中にアクシデントが起きた模様です。二人の選手がぶつかって、月丘選手がリンクに横たわったままです』
『どうやら、左膝を痛めてしまったようですね。演技ができるかどうか心配です』
 ――すぐにリンクに駆けつけて、くるりに声をかけてあげたい。
 はやる気持ちを押し込めるように、僕は観客席の手すりをギリギリと握りしめました。
 僕はスケートが滑れません。運動が苦手な僕は、知識や応援で彼女を支えるしか術がなかったのです。
「大丈夫か!? くるりっ!」
 僕の叫び声にチラリとこちらを見たくるりは、苦笑いを浮かべながら小さく親指を立てます。
 そしてゆっくりと立ち上がり、左足を庇うようにしながら右足だけで滑走。リンクサイドに上がると、コーチに抱きかかえられるようにして控室へと消えてしまったのでした。
「せめて犬耳を着けてくれれば、話を聞いてあげられるのに……」
 そして僕は、この日のために用意した秘密兵器の無線機を、ぎゅっと握りしめたのでした。

 ◇

 くるりの怪我を心配する僕の気持ちをよそに、競技は予定通り進行していきます。
 一人、また一人、最終グループの選手がリンクに出て行き、フリーの演技を終えてリンクサイドに戻って来ます。そのたびに拍手や歓声が上がるのですが、僕の頭の中には全く入って来ません。僕はただただ、くるりのことが心配だったのです。 
 ついに、くるりの一つ前の選手の演技が始まりました。そしてようやく、くるりがコーチと一緒にリンクサイドに姿を現したのです。
 ベージュのタイツの左膝の部分がいつもよりも膨らんでいます。中はテーピングで固められているのでしょう。
 幸いなことに、くるりは髪の毛を下ろして犬耳を着けていました。僕はここぞとばかり、無線機に向かって話しかけます。
「くるり、聞こえるか?」
 すると、リンクサイドのくるりは驚いたようにキョロキョロし始めました。
「えっ? 亮太? なんで亮太の声が聞こえるの?」
「犬耳が無線機になってるんだよ」
 犬耳を固定するカチューシャのワイヤーは、骨伝導イヤホンとマイクになっているのです。ワイヤーが耳や顎の方まで伸びているのはそのためでした。
「ところでくるり、左膝の具合はどう?」
「わかんない」
「わかんないってどういうことだよ?」
「わかんないってことは、わかんないってことだよ。もう痛みは無いけど、滑ってみないとわかんない」
 くるりはかなりイライラしているようでした。
「それでコーチは何て言ってるんだ?」
 僕は、オライアンコーチがどういう判断をしているのかが気になります。
「コーチは最初、棄権しようと言ってたの。でも、私が『出たい』ってわがまま言ったら、痛みが出るならすぐに演技を止めるという条件で出れることになったの」
 ――今はヒロインになろうとするべき時じゃない。自分の体がまず第一だ。
 これは後で聞いた、その時のオライアンコーチの言葉です。彼は本当にくるりの体のことを心配してくれていたのです。
 しかしそれが、彼女のイライラの原因の一つでもありました。
 予期せぬアクシデント、棄権を望むコーチ、そして目の前にあるテレビ中継という世界へ飛び出すチャンス。
 それらがグチャグチャとくるりの頭の中で渦巻いて、わけがわからなくなっているのでしょう。
「わかった。じゃあ、演技が最後まで続けられるよう、僕が声で導いてあげるよ」
「ホント? 亮太のこと、信じてもいい?」
「ああ。僕は、くるりのファン第一号だしね」
 これだけは自信があります。そして、これは誰にも譲れません。
「わかった。亮太の言葉に従って演技する。頼んだよ」
 第一号としての地位を確実なものにするためには、くるりをちゃんと演技の最後まで導いてあげなければいけません。フリーの演技が近づく彼女と同じく、僕も緊張で身震いするのでした。
 そうこうしているうちに、前の選手の演技の終了を会場の拍手が教えてくれます。その選手がリンクサイドに上がるのと入れ替えで、くるりがリンクに飛び出していきました。
「どう? 左膝の様子は?」
 最初は長めに滑走していたくるりは、徐々にステップやスピンを試しながら答えます。
「ステップやスピンは問題無さそう。ジャンプは……まだやってないけどちょっと恐い……」
 テーピングでガチガチに固定しているので、やはり違和感があるのでしょう。
 しょうがないので、ジャンプについては演技をしながら様子を見ることにしました。

「二十四番、月丘くるりさん、緑野クラブ」

 くるりの名前のアナウンスが、スケートリンクに響き渡ります。
 こうして、後に伝説と語られる彼女のフリーの演技が幕を開けたのでした。

 ◇

『さあ、いよいよ月丘くるり選手の登場です』
『髪を下ろして、可愛らしい犬耳を着けていますね。衣装も袖があるタイプで、手袋には肉球が付いています。でも、先ほどの衝突が心配です。何も影響がないといいんですが』
『練習中の衝突といえば、昨年のグランプリシリーズ中国杯での結城羽人(ゆうき はねと)選手が思い起こされますね』
『そうですね。あの時の結城選手は、まともにフリーの演技ができませんでした』
 左耳のイヤホンからは、くるりを心配するテレビ中継の声が聞こえます。
 僕はそんな心配を吹き飛ばすかのように、リンクの中央に立ったくるりを鼓舞するのです。
「いくぞ、くるり!」
「うん!」
 右耳のイヤホンからは、いつものような彼女の明るい声が返ってきました。
 数秒の静寂の後、会場のスピーカーからピアノのなめらかな旋律が流れてきます。
 ――ショパン作曲、ワルツ第六番変ニ長調作品六十四の一。
 一般に『子犬のワルツ』として知られている名曲です。くるりの衣装は、この曲に合わせたものだったのです。
 後ろ向きに滑走を始めたくるりは、曲に合わせて緩急をつけたステップを繰り出します。どうやら通常の演技に、膝の怪我の影響はなさそうです。
 問題はジャンプでした。
「最初は予定通り、トリプルフリップをやってみようか」
「わかった」
 フリップは、ルッツの妹のようなジャンプです。
 ルッツと同じく、左足に体重を乗せて滑走し、右足のトゥでリンクを強く蹴って跳び上がります。
 両者の違いは、『ひねくれた姉』と『素直な妹』と例えるとよいでしょう。
 ルッツは右回りの感じで跳び上がり逆の左回りに着氷するジャンプであるのに対し、フリップは最初から左回りに跳び上がるとても素直なジャンプなのです。
 ――フリップが跳べれば、ルッツも跳べるはず。
 これが僕の考えでした。
 左膝への負担は、どちらも似たようなものと思われます。
 ――実は、怪我は大したことないんじゃないだろうか。
 いつものようにステップを繰り出すくるりの姿を見た僕は、そんな幻想を抱いてしまっていたのです。しかし次の瞬間、僕は自分の考えの甘さを痛感することになりました。
「あっ!」
 くるりは小さく声をあげると、フリップの回転を失速させてしまったのです。
『ああっ、トリプルフリップがシングルフリップになってしまいました』
『そうですね。やっぱり、膝が痛むのでしょうか?』
 僕は思わずくるりに声をかけます。
「どうした? 膝が痛むか?」
 すると予想に反し、ケロっとした声が返ってきました。
「痛くはないんだけど、左膝に全然力が入らない……」
 僕は愕然としました。
 これではルッツは跳べません。
 くるりの最大の武器でポイント源でもあるルッツを、僕たちは封印しなくてはならなくなったのです。

 ◇

「次はトリプルループだ」
「わかった」
 くるりは小さく返事をしました。
 僕は必死に考えます。
 左膝に力が入らないくるりが、どんなジャンプなら跳ぶことができるのだろうか、と。
 ――ループ。
 これが、その答えでした。
 なぜなら、ループは唯一、右足しか使わないジャンプだからです。

 フィギュアスケートのシングル競技では、六種類のジャンプが採点対象となります。
 ――トゥループ、サルコウ、ループ、フリップ、ルッツ、アクセル。
 基礎点が低い順、つまり跳びやすい順番に並べると、こんな感じになります。
 その中でもループは、右足一本で跳び上がり、右足で着氷します。
 逆に、左足一本で跳び上がるのがサルコウとアクセルです。この二つのジャンプは、左膝に力が入らない今のくるりには跳べません。
 そして先ほどのジャンプで、フリップとルッツも無理だということがわかりました。
 すでにくるりは、手詰まりの状態だったのです。

 そんな僕の心配をよそに、くるりは右足一本で後ろ向きに滑走を始め、ジャンプの体勢になりました。
 そして右足で氷を蹴って跳び上がります。
『トリプルループ』
『これは高いですね!』
 くるりのジャンプの特徴は、その最高到達点の高さにあります。
 いすれは四回転もできてしまうんじゃないかと思わせるほど、高く跳ぶことができるのです。
 軽々とトリプルループを決めてしまったくるりは、「じゃあ、次は何?」と膝のアクシデントを感じさせないような明るい声で聞いてくるのでした。
「トリプルループ、ダブルループ、ダブルループのコンビネーションで行くぞ!」
「わかった」
 右足でしか跳べないくるりが、右足だけでくるくると合計七回転のジャンプを氷上に繰り広げます。子犬のワルツに合わせたその可愛らしい演技に、会場は拍手で湧き上がりました。
 気をよくしたくるりは、息を切らしながら高揚した声で僕に尋ねます。
「亮太、次は何を跳べばいい?」
「……」
 思わず僕は言葉を詰まらせてしまいました。
 そして、ぎゅっと拳を握りしめ、低い声で事実を伝えるのです。
「ごめん、もうくるりには跳べるジャンプがないんだ」
 僕は彼女に、最後通告をしなければなりませんでした。

 ◇

「えっ?」
 くるりは一瞬、戸惑います。
 そして明るい声で、僕に提案するのです。
「ループなら私、何回でも跳べるよ。残りのジャンプは全部トリプルループでいいじゃん。会場も喜んでくれてるし」
「それでもいいけど、得点はもらえないぜ」
「ええっ!?」
 悲しいことに、それが今のフィギュアスケートのルールなのです。
「得点がもらえないって、どういうこと? 私の優勝も無しってこと?」
「ああ、優勝はもう諦めた方がいい。これ以上、何を跳んでも大きな点は入らない」
 ――ザヤックルール。
 フィギュアスケートのジャンプには、そんなルールがあります。
 三回目以降は無得点になるという、恐怖のルールが。
 八十年代に活躍したアメリカのエレイン・ザヤック選手が、同じようなジャンプばかりで優勝してしまったことから作られたルールなので、そう呼ばれています。昨シーズンからは二回転以上のジャンプすべてに適用されることになり、MHK杯での上村菜佳子(かみむら なかこ)選手の悲劇を生みました。
 くるりは、同じジャンプを跳び過ぎました。
 トリプルループを二回、ダブルループを二回です。
 次に跳んだら三回目で、それはすべて無得点になってしまうのです。
 かと言って、今の左膝の状態では他のジャンプを跳ぶこともできません。
「亮太、なんか手を考えてよ!」
 くるりの悲痛な叫びが聞こえてきます。
「一つだけ点を加える方法がある」
「おっ、それは?」
「残りのジャンプを、全部シングルループにするんだ」
 シングルループなら、何回跳んでもザヤックルールには抵触しません。もらえる点数はほんのわずかですが。
「…………」
 スピンに入ったくるりは黙り込んでしまいました。
 彼女の沈黙は、僕にとって最大の苦痛です。が、どうすることもできません。
 そしてスピンが解けた勢いのまま、彼女はすごい剣幕で僕に怒鳴り返してきたのです。
「亮太、私にケンカ売ってるでしょ。そんなことしたら会場はドン引きじゃない」
 くるりの言う通りです。観客のほとんどは、くるりのトリプルジャンプを楽しみにしているのです。この後の四回のジャンプがすべてシングルループだったら、会場が沈黙することは間違いありません。
 だから僕は、苦肉の策を披露します。
「じゃあ、これはどうだ? なんちゃってトゥループ」
「なんちゃってトゥループ? なにそれ?」
「ループの時に、左足のトゥでガリっと氷を削ってトゥループに見せかけるんだよ」
「…………」
 トゥループは、右足に体重を乗せて滑走し、左足のトゥで勢いよく氷を蹴って跳び上がるジャンプです。しかし左膝に力が入らないくるりは、左足のトゥで踏み切ることができません。
 ――でも、強靭な脚力と抜群の運動神経を持つ彼女なら。
 右足一本で跳ぶループをトゥループに見せかけることができるんじゃないかと、僕は思ったのです。
「まあいいわ、試してみる。トリプルは無理そうだからダブルで行くよ」
「じゃあ、二連続のコンビネーションで頼む」
「わかった」
 くるりが後ろ向きに加速していきます。そして右足に体重を乗せて、踏み切りの時にガリっと派手な音を響かせました。
『ダブルトゥループ、ダブルトゥループのコンビネーションです』
『…………』
『八木池解説員、どうしました?』
『あれって、トゥループ……ですかね?』
 僕は感心します。さすがは八木池解説員、鋭いと。
『月丘選手、やっぱり左膝を痛めているんじゃないでしょうか? 今まで跳んだジャンプは、ほとんど右足しか使っていないような気がするんですが』
『もしそうならどうなりますか? 八木池さん』
『チェックメイトですね。彼女にはもう、加点できるジャンプはありません』

 ◇

 くるりが演技を始めて、そろそろ二分になろうとしています。
 曲が変わり、雰囲気がガラリと明るくなりました。
 ――アーサー・プライヤー作曲、口笛吹きと子犬。
 軽快な口笛のリズムに乗って、くるりが楽しそうにステップを踏みます。
 思わず会場から手拍子が始まりました。
「ねえ、亮太。もう何を跳んでも無得点なんだよね?」
「ああ」
「それに優勝も、もう無理なんだよね?」
「おそらく」
「じゃあ、あとは何を跳んでもいいってことだよね!?」
 思わず僕はリンク上のくるりを見ます。
 それはそれは本当に楽しそうな笑顔でした。
「なんか吹っ切れたよ。逆に楽しくなってきちゃった」
 なんということでしょう。彼女はこの逆境を楽しみ始めていたのです。
 会場の手拍子も、そんな心境の変化に反応してのことなのでしょう。
「しっかり見ててよ亮太。次のジャンプは、私のダンスアピールなんだから」
 くるりは一体、何を跳ぼうというのでしょうか?
 左膝に力が入らないその状態で。
 くるりは後ろ向きに滑走し、勢いを増していきます。
 そして一度左足に体重を乗せたかと思うと、続いて右足に体重を乗せ、足をハの字にしたまま勢いよく右回り気味に跳び上がりました。
 ――えっ、逆回りのサルコウ?
 しかしここからが圧巻でした。
 最高到達点に達したくるりは、今度は左回りに回転し始めたのです。
 そう、得意のルッツと同じように。
 そして三回転した後に、右足で見事に着氷しました。
「おおーーっ!」
 観客からは歓声が湧き起こります。拍手をする人の半数くらいは、立ち上がっていたでしょうか。
『月丘選手のあのジャンプは……ルッツ、じゃないですよね? 八木池さん』
『あれはウォーレイです。右足踏み切り、右足着氷のカウンター系ジャンプです。しかもトリプル。私、長いこと解説員をしていますが、こんなウォーレイは初めて見ました。しかも、ものすごく美しい……』
 なんと、あの八木池解説員も絶賛です。このジャンプを目の当たりにした観客の多くも、きっと同じような印象を抱いたことでしょう。
 くるりのファン一号であることを、僕が誇りに思った瞬間でした。
『じゃあ、すごく点数は高いんじゃないんですか?』
『残念ながらウォーレイは無得点なんです。加点対象のジャンプではありませんから』
 そんなことよりも観客のこの反応がすべてじゃないか、と僕は思います。
 だから無線機に向かって、思わず叫んでいました。
「やってくれたな、くるり! ていうか、いつ練習してたんだよ、こんなジャンプ」
「えへへ、すごいでしょ? やっと観客席も盛り上がって来たしね。ガンガン行くよ!」
 どうやらくるりは根っからのダンサーのようです。
「次はどうする?」
「またこれをやってみようかな。今度はコンビネーションで。ルッツの代わりと言っちゃなんだけどね」
 その時でした。
 テレビの解説から気になるコメントが僕の耳に飛び込んできたのです。
『月丘選手のジャンプはあと二回。予定では、ルッツとルッツのコンビネーションになっていますが』
『これは私の勝手な予想なのですが、今の月丘選手の膝の状態ではルッツが跳べないんじゃないでしょうか? それにもし予定通りに跳べたとしても、大変なことになってしまいますよ』
『えっ、それは一体どういうことでしょう?』
『だって彼女、まだアクセルを跳んでませんから』
 ――アクセルを跳んでない?
 確かにくるりはアクセルを跳んでいません。だって左足が使えないのですから、仕方がありません。
 でも、八木池解説員が言っているのはそういうことじゃなさそうです。何か、僕が気づいていない落とし穴があるような気がするのです。
 僕は必死に考えます。そして、「予定通りに跳べたとしても大変なことになる」というフレーズで、あることに思い当たりました。
 ――そうか、そういうことか。
 僕は無線機を握りしめます。
「くるり、申し訳ないが、シングルループを一回跳んでくれないか?」
「ええっ? 何で? せっかく盛り上がってるのに」
 シングルループという単語は、くるりの中では会場を白けさせる代名詞となっているようです。
「まだアクセルを跳んでないだろ? するとどうなるか分かってるのか?」
「わかんないけど」
「フリーでは、アクセルを必ず一回は入れなきゃダメなんだよ。もし入れなかった場合は、最後の加点ジャンプが無効になる」
「すると?」
「なんちゃってトゥループのコンビネーションが無効に、もしなんちゃってが認められなかった場合は、その前のトリプルループのコンビネーションが無効になっちゃうんだよ。そうなったら優勝どころか、十位以下は確実だぜ」
「やだよ、そんなの」
「だったらシングルループを跳ぶんだ。そうすれば、そのシングルループが無効になるだけで済む。その後は何を跳んでもいいからさ」
「わかったわ……」
 くるりはやっとのことで、僕の指示を受け入れてくれたのでした。

 ◇

『ああっ、予定していたトリプルルッツがシングルになってしまいました!』
 アナウンサーの落胆する声に連鎖するかのごとく、会場もため息に包まれます。それはまるで、シュートを外した直後のサッカースタジアムのようでした。
『いやいや、あれはループです。助走からすでに右足で滑走していましたよ』
『と言いますと?』
『やはり左膝が良くないのでしょう。最後のジャンプも、残念ながらルッツは跳ばないんじゃないでしょうか』
『すると、点数はかなり低くなってしまいますね』
『そうですね。月丘選手は、得点が一・一倍になる演技後半に得意のルッツを跳んで好成績を収めてきました。それが跳べないとなると、二十点は失ってしまうことになるでしょう』
『となると優勝は厳しいですね』
『そうですね。でも月丘選手の強靭な体力には、目を見張るものがあります。普通、ルッツのコンビネーションは体力のある最初に跳ぶのですが、それをラストに持って来れるなんて信じられないスタミナです。まだ中学三年生ですから、早く怪我を直して来年も活躍してほしいですね』
 テレビ中継からは、すでに終わった感が漂っています。
 会場からも手拍子は聞こえなくなり、リンクではくるりのシャーという滑走音と『口笛吹きと子犬』が寒々と響いているのです。
 ――なんだよ、これが僕たちの望んだ風景だったのか?
 くるりは、点数にならなくてもいいから観客が喜んでくれるジャンプを跳びたいと言っていました。
 シングルループを跳ぶ前は、会場も手拍子に包まれていて最高の雰囲気だったのです。
 それにも関わらず、僕は目先の点数のことばかり考えてシングルループを提案しました。半ば強制的に。
 その結果がこの状況です。
 ――僕は本当に、くるりのことを考えていたのだろうか?
 僕は深く反省します。
 そして彼女に申し訳なく感じていました。
 こんなことになるなら、好きなジャンプを跳ばせてあげればよかった――と。
 優勝できないのであれば、順位なんてどうでもよかったのではないか――と。
 ――でも、怪我がひどくならずに済んでよかった。
 それだけが僕を救ってくれる事実でした。
 だから祈ります。
 最後に何を跳んでもいいけど、怪我だけは悪化させないでほしいと。
 そしてあわよくばそれが、悔いの残らないジャンプになりますようにと。



 ◇ ◇ ◇



 シングルループを跳んだ後のくるりの頭の中には、亮太のある言葉が鳴り響いていました。
 ――アクセル。
 それは、私にダンスの喜びを教えてくれた愛犬の名前でした。
 そしてダンスを練習しながら、見る人を楽しませる嬉しさを私は学んだのです。
 たった一人の観客から始まった私のジャンプは、こんなにも多くの人を楽しませるまでに成長しました。
 だから私は思います。
 跳ばなきゃいけないジャンプなら、跳べばいいんじゃないかと。
 アクセルは前向きの左足踏み切りで、左回りに回るジャンプです。でも、今の私の膝の状態では跳ぶことができません。
 ――だったら右足踏み切りで回ればいいんじゃないの?
 私ははっとしました。
 これはまさに、小学生の頃から練習していたジャンプそのものだったからです。
 ――氷上ではやったことはないけど、今ならできるような気がする。
 このジャンプには高さが必要です。
 なぜなら、他のジャンプよりも半回転多く回らなくてはならないからです。
 だから私は、リンクを斜めに広く使うことを思いつきました。
 リンクの角に到達した私は、対角線の角に向かって加速します。
「おい、何をするんだ、くるり! 無茶はやめろ!!」
 亮太が何かを叫んでいるような気がしましたが、それを私は力に変えていきます。
 ――観客第一号くんだって、心配して見てくれてるんだから。
 それにこれは、天国のアクセルに届けるジャンプです。
 私たちを守ってくれた愛犬。左脚に重傷を負いながら、アクセルは跳びました。私だって負けてなんていられません。
 ――アクセル、そして亮太。私跳ぶからしっかり見ててね。
 最高速度に達した私は、前向きのまま左足を振りかぶり、前へ左足を大きく蹴り出しました。そしてその勢いを利用して、右回り気味に高くジャンプします。
 風景がスローモーションのように流れていきます。それはもう観客席に手が届くような、そんな感じがするくらい私は高く跳んでいたのです。そして――

「行っけぇぇぇぇぇーーーーっ!! 回れぇぇぇぇぇーーーーーっ!!!!」

 私は渾身の力を込めて、左回転に体を回しました。
 気がつくと、私は無事に右足で着氷していたのです。



 ◇ ◇ ◇



「おおおおおおーーーーーーっ!!!!」
 割れんばかりの歓声とは、このことを言うのでしょう。
 くるりのラストジャンプに、会場は総立ちになりました。
『月丘選手が最後に決めたのは、な、なんとトリプルアクセル!』
 テレビのアナウンサーも絶叫しています。
 しかも、くるりが跳んだのは、ただのトリプルアクセルではありませんでした。
 高く、遠くに、そして途中から逆回転するカウンター系のアクセルだったのです。
『こんなジャンプ、見たことがありません……』
 さすがの八木池解説員も、しばらく言葉を失っていました。
『でも……』
『なんでしょう? 八木池さん』
『残念ながらこのジャンプは無得点ですね』
『ええっ? だって前向きに跳んで三回転半してましたよね? それってトリプルアクセルじゃないんですか?』
『アクセルは左足踏み切りです。でも月丘選手が跳んだのは右足踏み切りでした。これでは競技的にアクセルとは認められないのです』
 もう、僕には解説員の言葉なんて、どうでもよく感じてきました。
 点数なんてどうでもいいんです。
 見たもの、感じたものがすべてなんだと、僕の心が訴えていました。
 その証拠に、いつの間にか僕は涙を流していました。それは熱く、次々と僕の頬を照らします。
 左足が使えないくるりは、持てる力のすべてを発揮しました。
 そして最後に跳んだアクセルは、小学生の時に僕たちを助けてくれた愛犬アクセルに瓜二つだったのです。
「亮太! 見てた!? 私、跳べたよっ!!」
 演技を終え、歓声に包まれながらリンクの真ん中に向かうくるりから高揚した声が聞こえてきます。
「ああ、見てた……よ……」
 僕はもう涙が止まりません。
「なに? 亮太、泣いてるの?」
「だって……、くるりのジャンプはアクセルにそっくりだったから……」
「ありがとう亮太。私、アクセルが生きた証を残せたかな?」
「うん……、うん……」
 これ以上、僕は言葉を続けることができませんでした。
 くるりは観客席にお辞儀をしながら、スタンディングオベーションに答えます。その時の充実した笑顔が今でも忘れられません。
 だってそれは、天国のアクセルに捧げるとびきりの笑顔でした。

 ◇

 結局くるりは四位で、全日本フィギュアスケートジュニア選手権を終えました。
 運よく『なんちゃってトゥループ』は認められたものの、ウォーレイ以降のジャンプはすべて無得点。トップから二十点も差をつけられてしまったのです。
 意外だったのは、テレビ中継を見ていた人からの反応でした。
『何で彼女が四位なの?』
『オレの中では、くるりが優勝だぜ』
 放送終了直後から、そんなつぶやきがネット上に飛び交うようになりました。
 電波の向こう側でも、くるりのジャンプは多くの人の心を魅了していたのです。
 特に僕を驚かせたのは、動画サイトに投稿されたラストのアクセルジャンプの映像でした。再生回数はあっという間に百万回を超え、世界中から絶賛のコメントが書き込まれました。
 そして、誰も見たことがないそのジャンプを、人々は特別な名前で呼んだのです。
 ――くるりのアクセル。
 くるりと愛犬アクセルの名前は、敬意を持って世界中を駆け巡りました。

 それからというもの、くるりは世界中から引っ張りダコでした。
 いろんな大会のエキシビッションに呼ばれて、『くるりのアクセル』を披露します。だって、得点が入らないジャンプは、競技中には決して見ることができないのですから。
 ――だったら、正式なジャンプにしてしまえばいいんじゃないの?
 自然発生したこの提案に世界中が共感しました。
 こうして七番目のジャンプ、『くるり』が誕生したのです。
 そして『くるり』が採用された最初の冬季オリンピックで、彼女は僕に向かって相変らずの減らず口を叩きます。
「亮太、いつになったら私は世界一のダンサーになれるのよ? 早く責任取ってよね!」
 首から金メダルをぶら下げながらそんなことをさらりと言ってのけるお姫様に、僕はそろそろ責任を取らなきゃと指輪を握りしめるのでした。

 おしまい。



ライトノベル作法研究所 2015-2016冬企画
テーマ:『〇〇と美少女』