アキ缶プリンセス2017年08月28日 23時10分05秒

 日名川第二高校。
 昭和初期の工場跡地に建てられたこの高校は、古びたレンガの塀に囲まれている。
 その高さは三メートルほど。
 工場の機密を守るために、そんな高さにしたのだろうか。現在では高校生の出入りを許さない高い壁となって、ぐるりと学校を取り囲んでいた。
 レンガ塀の南側は県道に面し、校舎の前には立派な正門があった。
 一方、敷地の東、北、西側は、静かな住宅街に面している。
 そんな日名川第二高校には開かずの門があった。
 ――北門。
 レンガの壁に埋め込まれる形でひっそりと佇む北向きの鉄製の扉は、十年前から一度も開かれたことはない。

 北門の隣には、清涼飲料水の自動販売機がある。
 門が開かれていた時代に、二高生をターゲットに設置されたものだろう。しかし門が閉ざされてしまった現在では、住宅街を散歩する人が時たま利用する程度だった。
 ここで注目したいのは、この自売機ではなく、隣の古ぼけたゴミ箱である。
 空に大きく口を開いた、よく公園などに置いてある金属メッシュの円形ゴミ箱。
 そこに捨てられる空き缶の数には、不思議な特徴があった。というのも、隣の自売機で売られる缶よりはるかに多い缶が捨てられるのだ。しかも、自売機で売られていない銘柄も含まれている。
 家庭ゴミが持ち込まれた、と思う方もいるだろう。しかし、増やされる缶はビニール袋に入っているわけでもない。毎日毎日、ちょっとずつ増えているのだ。
 それもそのはず、増える空き缶はレンガ塀の内側から投げ入れられたものだったから。

 ――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ……。
 今日も放課後になると、レンガ塀の内側から空き缶が飛んでくる。
 当然、すべての缶がゴミ箱に入るわけでもなく、標的を外れた空き缶は甲高い音を立ててアスファルトを転がった。
「今日も始まった……」
 その様子を住宅街の影から観察している一人の少女がいた。
 彼女の視線は、転がる缶に向けられている。
「あの人が来る……」
 およそ三分後に訪れるであろう光景に、少女は胸をときめかせる。
 これは、そんな不思議な少女と、ある男子高校生との物語――
 

 ◇
 

「空知、空知、空知っ!」
 日名川第二高校サッカー部室の近く、北門裏ではコールが湧き起こっていた。
 上川空知(かみかわ そらち)。一年生。
 名前を連呼された彼は、空き缶を一つ手にして緊張した面持ちで初夏の夕空を見上げる。
 ――朝のまったりブラック。
 これからその銘柄の空き缶を蹴り上げるのだ。
 ターゲットは、北門と約二メートル離れた電柱との中間地点。そのちょうど裏側にゴミ箱が存在する。
 ――この缶ならできる!
 缶を見つめながら気合を込める空知。ちなみにこの銘柄は、部内では彼だけが飲んでいるブラックコーヒーだ。
「おいおい、早くしろよっ!」
「外すなよな!」
 空知は缶を小さく前に投げると、右足を振りかぶった。
 シューズの甲の部分で優しく缶の縁をミートする。くるくると逆回転がかかった缶は三メートルの高さのレンガ塀の上部に向かって飛んで行く。
「おっ、いいコースだ」
「今日はパーフェクトか!?」
 しかし、部員たちの願いはすぐに落胆に変わる。
 ――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ…………コン。
 塀の向こう側へ消えていった空き缶は、皆の期待に反し甲高い音を響かせた。
「なんだよ、また外したのかよ」
「ほらほら、拾いに行ってこいよ!」
 ちゃんとゴミ箱に入っていれば、カシャリと小さく金属音がするはずだった。実際、今まで缶を蹴った先輩たちは、カシャリと見事にゴミ箱に蹴り入れていた。
「くそっ! 空知、行ってきます!」
「ダッシュだぞ」
 空知は正門に向かって走り出す。北門が開いていれば、門をくぐって一瞬で空き缶を拾うことができるのだが、閉まっている現在は正門を経由してぐるりと大回りしなくてはならない。
 まずは正門までの距離、直線で百五十メートル。正門からは壁沿いに道路を走って北門まで約五百メートルの道のりだ。往復で一キロを超える罰走は、練習後の疲れた体を容赦なく鞭打つ。
「ふふふふ……」
 しかし、今の空知は違っていた。不気味な笑みさえ浮かべている。正門に向かって走りながら。
「うまく外れてくれたぜ……」
 そう、空知はわざとゴミ箱に入れないように空き缶を蹴っていたのだ。
 ある女の子に会うために。

 ――俺たちが蹴った缶を拾いに来る女の子がいるらしい。
 ――その子、むちゃくちゃ可愛いんだって?
 
 そんな噂が部内に広まったのは、つい一ヶ月前のこと。
 情報源は、空知と同じ一年生の直之だった。
『缶を拾いに行く時、ポメラニアンを散歩させている女の子とよくすれ違うんだよね』
 彼もまた、ゴミ箱に缶が入らない罰走常連者だった。
『それがすっごく可愛くって』
 可愛いのは女の子なのかポメラニアンなのかは不明なのだが。
 しかし、決定的だったのは次の彼の証言だった。
『彼女が持ってるビニール袋、犬のウンチ用かと思いきや空き缶が入ってたんだよ。しかも俺たちが蹴った缶だった』
 それ以来、変な噂が広まったのだ。
 可愛い女の子が部員の蹴った缶を拾いに来る――と。
 正体不明のその女の子は、いつしか”空き缶プリンセス”と呼ばれるようになっていた。
 
 下校する生徒たちの脇をすり抜けながら正門の外に出た空知は、右に曲がって県道を西へ走る。陽はすでに沈み、正面に見える山々は真っ赤な空のシルエットとなっていた。
 西回りを選んだのは、東回りよりも三十メートルほど距離が短いという理由からだ。
 レンガ塀に沿って走る空知は角を二回右に曲がる。すると、遠くに北門の自売機が見えてきた。が、残念ながら、噂のプリンセスの姿はない。
「ちぇっ……」
 舌打ちをしながら北門に着いた空知。朝のまったりブラック缶は、ゴミ箱から一メートルくらいの場所に転がっていた。
「今日も会えなかったか……」
 あたりをキョロキョロと見回しながら缶を拾う。が、やはり周囲に人の気配はない。家々の窓に灯がともり始めた住宅街は、夕飯の支度で大忙しのようだ。
 カシャリとゴミ箱に空き缶を捨てた空知は、レンガ塀の内側に向かって声を上げる。
「空知、缶を捨てました!」
 すると塀越しにキャプテンの声が返ってきた。
『よし、行きは三分五秒だ。帰りは三分切るぞ! スタート!』
 ちぇっ、もうスタートかよ。いつもながらに鬼だな、キャプテンは。
 そんな恨み節を噛み殺しながら、空知は走り出す。
 結局、今日もプリンセスには会えなかった。これでは無駄走りと言っても過言ではない。

 その時だ。
 右側の住宅街の路地に、チラリと人影が見えたような気がした。
 その姿は女の子のようだった。

 ――もしかして、あれがプリンセス?
 戻って確かめたい。でも、そうすると三分を大幅にオーバーしてキャプテンに怒られる。
 結局、空知は走り続けることを選択した。
 ――でも、なんで彼女は隠れているんだろう?
 北門周辺が騒がしいから? 走って来るサッカー部員がうっとおしいから?
 いろいろな可能性が空知の頭の中に浮かんでくる。それらが導き出す答えは、いずれもサッカー部員がいなくなるのを待っているということだった。つまり、プリンセスが現れるとしたら、空知が走り去った正に今。
「おおっ、すごいぞ空知。帰りは二分五十五秒だったぞ」
「ありがとうございます、キャプテン! では、失礼します!」
 だから部室に着いた空知は再び走り出す。
 プリンセスに会うために。
 正門を抜けて、レンガ塀沿いに走ること約三分。しかし、自売機の周辺には誰もいなかった。
「なんだよ、またもや無駄足かよ……」
 脱力した空知は、ゴミ箱の縁にお尻を当てて寄りかかる。ゴミ箱にくくり付けられた重りがカタカタと音を立てた。
 見上げる空は、すでに紫色に染まりつつあった。自売機を照らす電柱の街灯に、虫たちがブンブンと飛んでいる。
「本当にプリンセスなんているのか……」
 バカなことをしちまったとぼやきながら、空知はふとゴミ箱の中を覗いた。
「えっ?」
 空知は気付く。
「無い!?」
 あるはずの物が無いのだ。
「そんなバカな、さっき捨てたばかりなのに……」
 一番上にあるはずの朝のまったりブラック缶が消えていた。


 ――やっぱりプリンセスはいるんじゃないのか?
 それが空知の出した結論だった。
 捨てたばかりの朝のまったりブラック缶が忽然と消えた。明らかに、誰かが持ち去ったとしか思えない。業者が回収したのであれば、缶はすべて無くなっているはずだ。
 ――では、いつ?
 それは明らかだ。
 空知がゴミ箱に到着した時、朝のまったりブラック缶はまだアスファルトに転がっていた。
 その缶をゴミ箱に捨てて部室まで三分。その後、ゴミ箱に戻って来るまで三分。つまり、この六分間に空き缶が持ち去られたことになる。
 ――どうしたら会える?
 これが一番の問題だ。
 罰走で空き缶を拾いに行ったら、会うことはできない。
 なぜなら、鬼のキャプテンがタイムを測定しているからだ。缶をゴミ箱に入れた瞬間、部室に向かって走り出さなくてはならない。
 ――この難問さえクリアできれば……。
 プリンセスに会ってみたい。チラリと姿が見えた、あの女の子に。
 空知は自宅のベッドで天井を見上げながら、いつまでも作戦を考えていた。


 ◇


 次の日の朝。
「空知、空知、空知っ!」
 朝練が終わった北門裏は、サッカー部員で盛り上がっていた。
 朝のまったりブラック缶を右手にしっかりと握りしめながら、空知は昨晩考えた作戦を思い出す。
 ――この缶ならできる!
 そして小さく前に投げ、右足を振り抜いた。
 甲の部分で優しくミートした空き缶は、クルクルと逆回転しながらレンガ塀の上部へ向けて飛んでいく。そして塀に当たるか当たらないかスレスレの高さで超えていった。朝の日差しを浴びてキラキラと光りながら。
 緊張の一秒間。
 ――カシャリ。
 缶は見事、ゴミ箱へ。
「よっしゃァァ!」
 ガッツポーズをしながら空知は後ろに下がる。そして、入れ替わりに前に出ようとする直之に、すれ違いざまに一言つぶやいた。

「昨日、プリンセスを見たぜ」
「マジか?」

 これが空知の作戦だった。
 直之だってプリンセスに会いたいはずだ。蹴る直前にこんな風に言われれば、きっと彼は缶を外すだろう。
 しかし、たとえ缶を外せても直之は決して彼女に会えることはない。それは昨日、空知が実証済みだった。
「直之、直之、直之っ!」
 部室前が直之コールに変わる。
 直之は壁の前で、”午後のシャキッとコーヒー”缶を握りしめた。いつもとは違う緊張の面持ちで。
 この緊張の意味がわかるのは空知だけだった。というのも、缶を入れようとする緊張ではないからだ。
 ――どうやったらごく自然に缶を外すことができるか。
 これほど高度で危険な技はない。バレたら、真剣に蹴っている先輩方をバカにする行為とみなされる。
 意を決し、直之が缶を小さく前に投げる。そして右足を振り抜いた。
 クルクルと回りながら、午後のシャキッとコーヒー缶がレンガ塀の上部に向かって飛んでいく。その軌跡を見ながら空知はつぶやいた。ナイス直之、と。
 ――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ……。
 塀を超えた空き缶は、アスファルトに当たって甲高い音を立てた。
「なんだよ、直之ィ~」
「そうだよ、今日は空知も入れたのに」
「スイマセン!」
 先輩たちに謝りながらも、直之はきっと心の中でペロっと舌を出しているのだろう。
「じゃあ、今日の朝練はこれで解散! 直之は缶を拾いに行ってこい。スタート!」
 キャプテンの掛け声と共に、直之は正門に向かって走り出す。
 そして空知も、引き上げる振りをしながら正門に向かって走り出した。

 ――直之に空き缶を拾いに行かせる。
 空知の作戦の第一段階は成功だ。
 もしプリンセスが現れるとしたら、直之が缶を拾って部室に戻る間の数分間だろう。となれば、すぐさま直之を追って北門に向かわなくてはならない。
 正門を抜けた空知は、直之とは逆の左側に曲がる。東回りのルートで北門へ向かうためだ。距離は西回りよりも若干長いが、直之と鉢合わせする心配がない。
 塀に沿って住宅街を走り、二回目の角の前で立ち止まる。レンガ塀に隠れて空知がそっと北門の方を伺うと、缶をゴミ箱に捨てた直之が再び走り出すところだった。
「ナイスタイミング!」
 北門前の通りを向こう側に走って行く直之。その姿がだんだんと小さくなる。そしてレンガ塀の角を左に曲がり、北門前の通りから消えた。
 プリンセスが現れるなら、今だ。
 すると、住宅街の路地から一人の女の子が現れた。制服姿で、キョロキョロと辺りを見回しながら。
「おおっ!」
 やっぱりいたんだ、噂のプリンセスは!
 興奮を抑えながら空知は息をひそめる。レンガ塀を掴む手のひらに、じわりと汗が滲んできた。
 女の子は通りに誰もいないことを確認すると、そそくさとゴミ箱に近づいた。
 白のブラウスに紺の無地のスカート。どうやら彼女も高校生のようだ。きっと登校前なのだろう。
 スカートの腰の部分がちょうどゴミ箱の上部と同じだから、背の高さは百五十センチくらいと推測される。一方、空知の身長は百七十センチだった。
「あれ? あの制服って、どこかで見たことがあるような……」
 空知はその制服に見覚えがあった。
 少なくとも二高の制服ではない。二高の女子のスカートは、濃いグリーンを基調としたチェック柄だ。
「ま、まさかの一高……?」
 日名川第一高校。
 この地域の秀才が通う公立の進学高だ。あの地味なスカートは一高の制服に間違いない。
 その時。「きゃっ!」という小さな悲鳴と同時にガシャリと金属音が響く。ゴミ箱の中の缶に手を伸ばした女の子がバランスを崩し、中に落ちてしまったのだ。
 ゴミ箱に上半身を突っ込んだまま、バタバタともがく女の子。スカートがめくれないよう手で抑えるのに必死で、外に出ることができない。
「おい、おい、おい。命と空き缶とパンツ、どれが一番大事なんだよ!」
 右手で空き缶、左手でスカート。さすがにその状態ではゴミ箱からの脱出は不可能だ。
 思わず空知はレンガ塀の影から飛び出した。
 そして女の子に近寄り、ゴミ箱を重りごと斜めに傾けて彼女を救出する。ビンクの布地がチラリと見えたような気もするけど、それは内緒だ。
「大丈夫か?」
「す、すいません。助けていただき、ありがとうございます」
 ゴミ箱から脱出した女の子が、アスファルトにぺたんと女の子座りしたままお礼を述べた。
 そして空知を見上げたとたん、「あっ!?」と表情を変えた。
「そ、空知くんが、なんで?」
「えっ?」
 驚いたのは空知の方だった。
 大きな二重の瞳に柔らかそうな頬、そして天然パーマがかかったショートの髪が耳元を隠すよう緩やかにカールしている。その容姿は正に空知の好みそのもの。これほどドンピシャな子に、今まで出会ったことはない。
 そんな初対面の女の子に、いきなり名前を呼ばれたのだ。
 すると女の子はいそいそと立ち上がり、「ごめんなさい。失礼します」と住宅街へ駆けて行った。午後のシャキッとコーヒー缶を握りしめながら。
 その後ろ姿を、空知は呆然と眺めるしかなかった。


 その日の授業は、全く集中できなかった。
『そ、空知くんが、なんで?』
 驚いたように空知を見上げる女の子の顔が、何度もフラッシュバックする。
 また会いたくて、その顔が見たくて、勉強なんてする気が起きないのだ。
 しかし、その顔には全く心当たりが無かった。にも関わらず、彼女は空知の名前を知っていた。
 中学校が一緒というわけでもない。それに彼女は空知の通う二高ではなく、一高の制服を着ていた。
「一高の生徒が、俺のことを知っているわけが……」
 いや、あるかも。
 空知は、ある可能性について考え始めていた。


 ◇


「おい、空知。お前ひでぇ奴だな」
 放課後になって部活に行くと、いきなり直之が絡んできた。
 目が笑っていない。空知は小さく身構える。
「抜け駆けしやがって。プリンセスに会うために、今朝は俺を出汁に使っただろ? キャプテンから聞いたぞ」
 皆に気づかれないように正門へ向かったはずなのに。キャプテンにはバレバレだったのかと空知は苦虫を噛み潰す。
「そんでもって、プリンセスはお前の知り合いだったんだって?」
「はっ? 違うよ。誰だよ、そんなこと言ってんのは!?」
「キャプテンだよ。北門越しに聞いたって言ってたぞ、『空知くん』って女の声がするのを」
 まさか、あれを聞かれていたとは!
 正に鬼のキャプテンだと空知は恐怖する。
「俺も驚いたんだよ、見知らぬ女の子に名前を呼ばれてさ」
「ふーん」
 疑いの目で空知を見る直之。
「だから本当だってば。信じてくれよ」
 腕組みをする直之に、空知は目で訴えた。数秒間の沈黙の末、仕方ねえなと直之は表情を崩す。
「それで? どんな感じだった? プリンセス」
 むちゃくちゃ可愛かったよ、と言いたくなる衝動をぐっと堪え、空知は彼女の制服に言及する。
「彼女、一高の制服を着てた」
「えっ……」
 空知の言葉に、直之は絶句した。
「マジかよ、彼女、ウチの生徒じゃなかったのかよ……」
 それはまるで、追い求めていた女性が高嶺の花であるかのように。
 直之はすぐに気を取り戻し、握る拳に力を込めた。
「でも俺はあきらめねえ。プリンセスは正にプリンセスだったんだ。そんな彼女は、俺が蹴った缶を柔らかなその手で回収してくれるんだ」
 空に向かって両手を広げる直之。
 幸せなやつだと空知は呆れる。まあ、彼の蹴った空き缶をプリンセスが回収していったことは紛れもない事実だったわけだが。
「名前を呼ばれたっていうのに、本当に空知はプリンセスのこと知らなかったのか?」
「ああ、見たことがない顔だった」
「それって、空知がプリンセスのことを知らなくても、彼女は空知のことを知っていたってことだろ?」
「まあ、そういうことになるわな」
「もしかしたら、空知って一高でも有名人なんじゃねえの? あいつのせいでさ」
「あいつって……あいつか。やっぱ、そう思うか? 俺もそれしかないって気がしてたんだが……」

 ――二高に通う空知が、一高で有名人となる可能性。
 入学して間もない空知にとってはかなり難しいことだと思われるが、二人には思い当たる節があった。
 上川十勝(かみかわ とかち)。日名川第一高校の一年生。
 空知と瓜二つの、双子の兄の存在だ。
 十勝が一高で双子であることを吹聴していれば、空知はたちまち有名人になれるに違いない。
『実は俺、双子なんだけど』
 それは耳元でささやくだけで、どんな女の子だって興味を持ってくれる魔法の言葉だから。
 ちなみに空知と十勝と直之の三人は、中学校が一緒だった。

「きっと冷やかしに来たんじゃねえの? 十勝から聞いてさ、双子の弟が二高にいるって」
「おい、もう一回言ったら殴るぞ、直之」
 双子であることを言われるのが最も嫌いな空知だった。
 一方、十勝だって同じ気持ちのはず。その十勝が自ら双子であることを言いふらすとは、どうしても空知には思えなかった。
「なんだよ、俺に怒るなよ。もしそうなら、悪いのはプリンセスの方じゃねえかよ」
「…………」
 ゴミ箱の前で出会った彼女。
 あの時の驚きの表情は、冷やかしに来て偶然会えたという驚きだったのか?
 でも、彼女は「なんで?」と言った。冷やかしだったら、もっと別の言葉になるような気もする。
「悪かったよ、双子のこと言ってさ。でも、今朝の借りはきっちり返してもらうぞ。今度は空知が缶を外す番だからな」
「ああ、わかったよ……」

 その日の空知は、部活も集中することができなかった。
『きっと冷やかしに来たんじゃねえの?』
 今度は、直之の言葉がグルグルと頭の中を回って離れなかったからだ。
 空知は全力で否定したかった。あんな可愛い子はそんなことしないって。
 でも考えれば考えるほど、直之の推測が正しく思えてくる。
 授業中、空知も同じことを考えていたが、その時は自分自身で否定した。十勝だって双子であることをあまり他人には知られたくないはず――という自分勝手な推測に基づいて。
 しかし、他人として客観的に状況を見ることができる直之は、空知の懸念をあっさりと肯定してしまったのだ。少なくとも、初対面のプリンセスが空知の顔を知っているということは、彼女が普段から双子の兄、十勝に会っているとしか思えない。
「空知、空知、空知っ!」
 だから、部活後の缶蹴りも身が入らなかった。
 ――冷やかしに来るようなやつには会いたくない。
 適当に蹴った朝のまったりブラック缶は、レンガ塀の向こう側でカーンと甲高い音を立てた。
「おいおい、空知。真面目にやれよ!」
「そうだよ、みんなでパーフェクト狙ってんだからさ」
 先輩方にも、気の無い蹴りであったことはバレバレだ。
「申し訳ありません! 空知、缶を拾いに行ってきます!」
 まあ、これで直之との約束通りになった。
 こんな嫌々な走りをプリンセスは影から見ているのだろうか。
 しかし三分後に北門に着いた空知は、そこで見た光景に驚く。転がったはずの朝のまったりブラック缶が、ゴミ箱の横のアスファルト上に立っていたのだ。
 おまけに、缶には付箋紙が貼ってある。

『今朝のお礼がしたいので、七時に駅前で待ってます』

 薄ピンクの付箋紙には、綺麗な文字でそう書かれていた。


 ◇


 急いで部室に戻った空知は、制服に着替え、駅へと向かう。
 二高から駅までは歩いて十五分。一キロちょっとの道のりだ。まだ六時四十分だから、ゆっくり歩いても余裕がある。
 今頃、直之はレンガ塀の影から北門を観察しているのだろう。が、おそらくプリンセスは現れない。だって、彼女も空知に会うために駅に向かっているはずだから。
 直之に申し訳ないと思いながら、ちょっとした優越感に浸る。プリンセスは直之じゃなくて自分を選んだのだと。
 しかし、それは最初のうちだけだった。
 だんだんと湧き起こってきたのは、ガツンと文句を言ってやろうという決意。双子をバカにするやつは絶対に許せない。空知だって、双子で生まれたくて生まれたわけじゃないし、十勝とそっくりになりたくてなったわけでもない。
 しかし駅が近づくにつれて心臓の高まりを抑えきれなくなると、また別の感情が空知の頭を支配し始めた。
 汗臭くないかとか、髪が砂埃でゴワゴワしてないかとか、もっと丁寧に顔を洗ってくればよかったとか。
「空知くーん、こっちだよ!」
 そんな空知を、プリンセスは手を振って迎えてくれた。とびっきりの笑顔で。
 白のノンスリーブのトップス、紺のキュロットスカート、そして足元の白いサンダル。
 デートの待ち合わせって、空知にそんな経験はなかったが、こんなにもドキドキするものなのかと胸を熱くする。
「今日は来てくれてありがとう。お気に入りのお店があるから、そこに行かない?」
 プリンセスに連れられて入ったのは、駅前のビルの二階にあるお洒落な喫茶店だった。

「今朝は本当にありがとう。不覚にもゴミ箱に落ちてパニクっちゃった。えへへ……」
 向かい合って席に座ると、最初にプリンセスが切り出した。
「君が来てくれなかったら、私、死んでたところだよ~」
 そんなバカなと思いながら、空知はぐっと笑いを堪える。
 確かに彼女は可愛い。冗談を言う姿なんて、ずっと眺めていたくなるほど愛らしい。
 でもそんな色香に騙されてはいけない。双子を冷やかす行為は、決して許しておけないのだ。
「今日は何か奢らせて? ほら、部活で疲れた体にも甘いものがいいって言うでしょ?」
 こんなやつに奢ってもらうわけにはいかないと、空知はついに口火を切った。
「申し訳ないけど、今日はやめておく。俺は君のこと、何も知らないんだけど。それに俺のことは、十勝に聞いたんだろ?」
 つい強い口調になってしまう。
 空知に気圧されて、彼女は表情を曇らせた。
「と、十勝……くん?」
「とぼけなくったっていいよ。俺の双子の兄貴。日名川第一高校の一年生。俺のことは兄貴から聞いたんだよなッ?」
「えっ? う、うん……」
 消えゆくような彼女の声。一瞬、可哀想と思ったが、ここははっきりさせておいた方がいい。
「何で缶を拾ってるのか知らないけど、双子をバカにするんだったら俺は許さない。もし、他の理由があるんだったら、教えてくれないか?」
 しばらく俯いて黙っていた彼女だが、やって来た店員に二人分の飲み物を注文すると、ポツリポツリと話を始めた。
「私ね、北門の近くに住んでるの。名前は日高アキ。日名川第一高校の一年生」
 道理で、と空知は納得する。北門の近くに家があるなら、犬を散歩する姿を直之に目撃されても不思議ではない。
「それでね、パパに命令されてるの。空き缶を拾ってこいって。遺伝子検査をするからって」
「遺伝子検査?」
 聞きなれない単語に、空知は困惑する。
「うちのパパ、遺伝子分析が専門なの。聞いたことない? 日高博士って?」
 日高、日高、日高、と頭の中で復唱して、ようやく空知はある人物に思い当たった。
「日高博士って、ええっ、テレビでよく見るあの日高博士!?」
「うん」と小さくうなづくアキ。
 空知は驚いた。
 日高博士といえば遺伝子捜査の権威で、民放の警察の特別捜査に関する特番や、某国営放送のその手の科学番組には必ずといっていいほど出演している。最近ではコメンテーターとしても引っ張りダコで、週末の情報番組で見かけることも多い。ダンディで、おばさま方にも人気の科学者だ。
 言われてみれば、目の前のアキは目元などが日高博士とそっくりかもしれない。
 いきなり飛び出した有名人の名前に、空知はすっかり恐縮した。
「そ、そ、それで、その日高博士は俺たちの缶を集めて、何をしていらっしゃるんでしょう……?」
 まさか、塀越し缶蹴りという悪事を暴かんとする国家権力の差し金なのか。
 動揺が空知の言葉を震わせる。
 一方、アキの方は顔を真っ赤にして俯いていた。
「そ、そ、それは、とっても恥ずかしいことなんだけど……」
 そして消え入りそうな小さな声でこう言った。
「気になってる人がいたら、遺伝子検査をしたいから、その人が飲んだ空き缶を持ってこいってパパが言うから……」
 そうか、そういうことだったのか。
 キーワードは遺伝子だったんだ。
 空知はやっと理解する。彼女の目的は双子をからかうことではなくて、十勝と同じ遺伝子が欲しかっただけなのだと。
 双子であることを十勝が言いふらすわけがないと思っていた空知は、アキの説明を聞いてすべてが腑に落ちたような気がした。きっと彼女なりに調べたのだろう。十勝に双子の弟がいることや、弟である空知が二高に通っていることを。十勝の中学校時代の同級生に聞けば、簡単に分かることだ。
 そして同時に、彼女に対する熱意がすうっと冷めていくのを感じていた。双子の弟の唾液を分析することによって、兄を遺伝子レベルで品定めしようなんて、この親娘の行動はマニアックすぎて恐ろしい。
「遺伝子検査って、そんなにすごいのか?」
 だから空知はアキの真意について追求するのをやめた。自分に気の無い女の子の気持ちを覗いても意味がない。
「そりゃ、すごいわよ」
 アキは目を輝かせながら喋り出す。
「これはパパの受け売りなんだけどね。空き缶に付いた唾液から遺伝子を抽出すると、その人のいろんなことが推測できるの。瞳や髪や肌の色、顔の形、しみやそばかすの有無までわかっちゃうんだから」
 ほんのちょっとの唾液でそんなことまで判明するとは、なんとも恐ろしい。
 それにしても、さすがは日高博士の娘。遺伝子の話が止まらない。
「それでね、そんな遺伝子情報を利用して、香港のNGOが二〇一五年にすごいことをやったの。なんでも、『この人がポイ捨てをした人です』って、遺伝子情報から割り出した合成顔写真をポスターにして街中に貼ったのよ。ポイ捨てした人、真っ青よね。パパはその上をいく研究をしようとしているみたいなんだけど」
 親も親だけど、アキも本当に遺伝子のことが好きなようだ。
 好きなことを話している女の子は本当に可愛い。
 そんなアキの姿を眺めているだけで、あっという間に一時間が過ぎてしまった。
「ごめんね、私ばっかり喋っちゃって」
「いや、構わないけど」
「こんな私でよければ、また会ってほしいな……」
 今日は遺伝子の話ばかりになってしまった。アキだって、十勝のことをもっと知りたいはずだ。
 でも会うためだけに、メールアドレスやラインを交換するのもなんだか違うような気がした。アキと十勝が付き合い始めたら、それまでのやりとりを見るのが辛くなるのは明らかだったから。
 だから空知は提案する。
「だったら、また空き缶に付箋紙を貼ってよ。朝のまったりブラック缶にさ。部内では俺だけが飲んでるコーヒーだから」
 これなら後腐れもない。
「うん、わかった」
 こうして、空知とアキの不思議な関係が始まった。


 ◇


『七時に狐寝公園で待ってます』
 アキが付箋紙で指定するのは、いつも北門の近くの小さな公園だった。
 空知が着替えて公園に行くと、ポメラニアンを散歩させるアキが待っていた。直之の言葉通り、アキに負けないほど可愛い犬だった。
 住宅街の中にある公園にひぐらしの鳴き声が響く。紫色に染まる空と灯りがともり始めた外灯。隣接する住宅から夕飯の匂いが漂ってくる。
 二人は公園のブランコに並んで座り、四方山話をする。座高も空知の方が二十センチくらい高い。最初にアキが訊いたのは、部活後の缶蹴りについてだった。
「レンガ塀の向こう側から空き缶を投げ入れるなんて、面白いことするよね」
 どうやらアキは、空き缶を投げていると思っているようだ。
「ああ、あれね。あれって投げてるんじゃないんだよ、蹴ってるんだ。だって俺たち、サッカー部だし」
「へえ~、蹴ってるんだぁ……。それって、投げるよりも難しくない?」
「そりゃ難しいよ。でもコツさえ掴めれば、意外と簡単なんだよ」
「と言ってる割には、たくさん外してますけど? 朝のまったりブラック缶」
 いたずらっ娘の笑みを浮かべ、上目遣いで空知の表情をうかがうアキの瞳に、空知はドキッとする。
 いやぁ、それを言われると辛い。アキに会いたくて外したこともあると白状したくなる気持ちを、空知はすんでのところで飲み込んだ。
 次は、空知がアキに、十勝のことを話してあげる番だった。
 一緒にサッカーを始めたこと、小学校では十勝の方が上手かったが、中学校では空知の方がレギュラーだったこと。高校は別々になってしまったが、お互いサッカー部に所属していることなどなど。
 そんな話を、アキは興味深そうに聞いてくれた。
「アキは、兄貴のどんなところが好きになったんだ?」
 するとアキは空を見上げながら答える。一番星がチラチラと輝き始めていた。
「そうね、部活で走ってるところかな」
 アキは、一高サッカー部の練習を見に行っているのだろう。
「額に汗を光らせながら、前を向くあの瞳にキュンとくるの……」
 わずかに頬を赤らめる乙女の横顔に、空知は十勝のことがうらやましくなる。
「それにね、話していてもとても楽しいし」
「俺と話すよりも?」
 そう言ってから、空知はしまったと後悔する。それは、十勝よりも優位に立ちたいという気持ちの裏返しだったから。
 双子を比較しないで欲しいという、空知自身の信念にも矛盾する行為であった。
「うーん、空知くんと話すのと同じくらい楽しいかな」
 そんな空知の気持ちを知っているのか、アキは曖昧な言葉で誤魔化した。
 小悪魔的な笑顔に、空知の心は揺れ始めている。
「それで? いつ告白するんだよ?」
 だから、アキにはさっさと十勝に告白して欲しいと空知は願う。このままでは、本当にアキのことが好きになってしまいそうだ。
「もうちょっと。もうちょっと待って。まだ、パパの分析結果が出ていないから……」
 おいおい、それも遺伝子次第なのか? もし結果が悪かったら告白をやめるのか?
 そもそも告白って、気持ちの問題じゃないのかよ。
 すっかり呆れてしまう空知だった。


 空知がアキと会うようになって、部活後の缶蹴りにある変化が起きていた。
 決定率でいつも最下位を争っていた空知と直之だが、直之の成績がぐっと上がり、一方の空知は缶を外すことが多くなったのだ。
「空知よ。プリンセスに会いたいからって、最近外し過ぎじゃねえの? まあ、俺の方は好調だけどな」
「直之だけには言われたくねぇ。おかしいな、ちゃんと入ってるはずなんだが……」
 そうなのだ。
 絶対これは入った、と確信するコースでも外れる時がある。そして、そういう時は必ず、空き缶に付箋紙が貼ってあった。
 ――もしかして、アキがわざと落としてる?
 そのことを空知が訊いてみようとした日、アキから重大な発表があった。
 二人の不思議な関係が終了するような、重大な発表が。


 ◇


「ここに宣言します! 日高アキは、明日、好きな人に告白します!」
 狐寝公園の滑り台の一番上に立ってアキは宣言する。右手を高々と宙に突き出して。
 ポメラニアンを託された空知は、ついにこの日が来たかと寂しく思う。夕陽に照らされた彼女は、本当に眩しかった。
「私、言っちゃった! ついに、言っちゃったよ!」
 滑り台を滑り降りたアキは、空知の前に駆け寄ると大きく息をした。
「いやいや、まだ言ってないだろ? 本番は明日なんだから」
「でも、これで時計は動き始めたんだよ? もう言ったも同然だよ」
「それより検査の結果はどうだったんだ? 告白に踏み切るってことは、結果は良かったんだよな?」
「うん。バッチリだって」
 アキは空知に向かって親指を立てる。
「そうか、良かったな……」
 そう言いながら空知はアキから目をそらす。複雑な気持ちに包まれながら。
 アキが検査に用いたサンプルは、もともと空知の遺伝子なのだ。それが十勝への告白の足がかりになったと思うと、なんだかやるせない気がした。だから空知は、瞳を輝かせる彼女に向き合っていることができなくなっていた。
「私……怖い……」
「大丈夫だよアキなら。十勝の目を見て告白すれば、絶対成功する」
 自分はアキから目をそらせているのに何を言ってるんだろうと空知は思う。
 彼女の瞳の輝きは、明日にはもう十勝のものになってしまうのだ。
「うん、そうする。それでダメだったら、無理やりチューしちゃう」
「チュう!?」
 驚いて空知はアキを見た。おどけて唇を突き出す彼女の仕草に可笑しくなる。
「せめてもの記念に、遺伝子くらいはもらっておかなきゃね」
 この期に及んで遺伝子を持ち出すとは、どれだけ好きなんだろう。
「それは封印しておいた方がいいぜ。ドン引きされるぞ。いいよ、告白を断ったら俺が十勝を殴ってやる」
「それも封印しておいた方がいいと思うけど?」
 そして二人で笑った。

 その時だった。
「なんだ、公園が騒がしいと思ったらアキだったのか……」
 一人の初老の男性が空知たちに近づいてきた。
 見たことあるような顔――と思ったら、日高博士だ。アキのポメラニアンが嬉しそうに吠え始めた。
 おおおおおおおおっ、テレビで有名なあの日高博士だよ。本物が、動いて、歩いて、しゃべってるよと、得体の知れない興奮が空知の体の中を駆け上がる。
 一方、アキの表情は急に硬くなる。「今日は早く帰ってくるはずじゃなかったのに」と小さくつぶやくと、「じゃあね」と空知に手を振って、ポメラニアンを連れてそそくさと公園の外に向かって歩き出した。
「おいおい、アキ。彼のことを紹介してくれてもいいじゃないか?」
 博士はアキを引き留めようとする。が、彼女はそっけない言葉を返した。
「あっ、彼、中学時代の同級生だから。ちょっとそこで会っただけだし」
 さっきまでとはまるで人が変わった態度。
 なんでそんな嘘を言うのだろうと不思議に思った空知は、博士にちゃんと挨拶をしなくてはと意気込んだ。
「日名川第二高校サッカー部の上川空知と言います。よろしくお願いします!」
 体育会系らしい挨拶。
 それが仇になるとは知らずに。
 空知の挨拶を聞いて、博士の表情がみるみる険しくなる。そして博士はアキを振り返った。彼女は今にも逃げ出しそうに背を向けていた。
「待て、アキ! あれほど二高生には関わるなって言ったのを忘れたのかっ!」
 博士の怒号が公園に響き渡る。
 ビクリとする空知とアキ。博士は、テレビでは決して見せられないような鬼の形相だった。
 そして博士は空知を向く。
「申し訳ないが、君も二高生ならアキには関わらないでくれ」
 その言葉にカチンときた空知は、恐れを知らずに反論した。テレビで見る博士はいつも優しそうだったし、無理難題を言い出す人には思えなかったからだ。
「それはなぜなんですか? 教えて下さい」
 博士の怒りに火を注ぐことになるとは知らずに。
「私に歯向かうのかね? だから嫌なんだよ、二高生は!」
 博士の剣幕にたじろぐ。そんな空知に構わず、博士はまくし立てた。
「君は知らんのか!? 十年前、二高生が私の家にしたことを。ちょうど私がテレビに出演し始めた頃だ。冷やかし半分の連中がわんさか押し寄せて来て、大変な目に逢ったんだ。壁への落書き、ゴミのポイ捨て。それだけだったらまだいい。一番許せなかったのは、就学前だったアキへの嫌がらせだ。声をかけるわ、写真を撮るわ、アキの身に危険を感じなかった日はなかった」
 そんなことがあったとは知らなかった。
「だから北門を閉鎖してもらったんだよ。それでやっと、我が家に平和が訪れた」
 ようやく理解する。北門が閉ざされてしまった理由を。
「復讐と言ったら言葉が悪いがね、アキに集めさせているんだよ、二高生がポイ捨てした空き缶を。ポイ捨てする奴は、根本的にどこかイカれていると私は思う。それを遺伝子レベルで解明したくてね」
 その言葉に空知の頭は真っ白になる。
 ――なんだよ、気になる人の遺伝子を調べてもらってたんじゃなかったのかよ。
 ――ポイ捨てする人間の遺伝子を調べるためだって?
 ――結局アキは、俺たち全員をバカにしてたってことなんじゃないか。
 アキが今にも逃げようとしているのも逆効果だった。そのことを知られたくなかったから、この場を去ろうとしているとしか空知には思えなかった。
 悔しくて、悲しくて、裏切られた気持ちで一杯になって、空知は地面を見ながら握りこぶしに全力を込める。そうしなければ、涙が溢れそうだった。
「アキっ! 昨日検査結果を渡した気になる人の遺伝子って、まさか彼のじゃないだろうな。一高生っていうのは嘘だったのかっ!?」
「ッ…………」
 それは嘘であって嘘ではない。
 アキは言葉を詰まらせた。即座に反論しなかったのは、空知への配慮なのか。
 その反応に彼女の最後の誠実さを見た空知は、腹に力を込めて代弁する。自分に構うことはないとのメッセージを込めて。
「一高生というのは本当です! アキさんは一高生のことが好きなんです。俺はその相談に乗っていただけなんです」
 本当にこれで終わりなんだと、涙を堪えながら。
「そうか、君には一応礼を言っておく。が、お願いだからもうアキには関わらないでくれ。行くぞ、アキ」
 博士に腕を掴まれて、強引に連れて行かれるアキ。
「ごめんね、空知くん。ごめんね……」
 空知は夕暮れの公園に一人残された。


 ◇


 次の日。
 朝練が終わると、いつものように北門裏で缶蹴りが始まる。
 博士にあそこまで言われたんだ、さすがに空知は参加する気が起きなかった。
『おいおい、みんな、聞いてくれ。俺たちが蹴った缶は、ポイ捨て遺伝子の研究材料になってるんだぞ』
 そう言って、缶蹴りをやめさせることも考えた。
 しかし先輩方の真剣な表情を見ていると、なにか違うような気がしてくる。
 空知たちは、決してポイ捨てをしているわけではない。
 飲み終わった缶をゴミ箱に入れようとしているだけなのだ。その方法が普通とは変わっているだけで。
 それに、ゴミ箱から外れてしまった缶は必ず拾いに行っている。ポイ捨て状態は、たったの三分間だけなのだ。
 しかしそんな正義を振りかざしても、受け取る側が悪意を持っているのであれば意味がなかった。振り上げた拳の行き場がない、そんな虚しさを空知は感じていた。
 
 それに今日は、アキが告白を決行する日だ。
 彼女にとって相談役の空知はもう用無しなのだ。
 アキが空知のことを必要としてくれるのであれば、博士と戦う勇気も湧いてきたことだろう。良い大学に入って、博士を見返すことも考えたかもしれない。
 しかし、その役目は今夜から十勝に変わる。しかも十勝は一高生。たったそれだけのことで、十勝は博士から免罪符をもらえるのだ。
 悔しくて、悲しくて、涙が溢れてきた。
 空知が一高を受けることができなかったのは、部活を頑張り過ぎたから。中学のサッカー部でレギュラーだった空知は、いつまでもみんなから必要とされる存在だった。それが楽しくてサッカーを今でも続けている。最後に別れが来ると知りながら、アキの手助けだってしてあげた。しかし、こんな結末を迎えるなんて、思いもしなかった。
 せめて、アキの告白が成功するように祈ろう。
 十勝が告白を断ったらぶん殴ってやるって、彼女と約束したのだから。
 そう決意した空知は、放課後の部活を休んで家で十勝を待つことにした。


 その日、十勝が帰宅したのは夕方の六時前だった。
 すっかり待ちくたびれた空知は、いきなり十勝に食ってかかる。
「おい、兄貴。今日、なんかいいことあったか?」
 単刀直入すぎるような気もしたが。
「いいこと? 特にないけど? まあ、普通かな」
 十勝はいたって平常だ。
 表情にも動揺は見られず、嘘を言っているようには思えない。
 学校でアキに告白されたのであれば、何かしらの反応があるはずだった。
「じゃあ、飯を食ったらどこかに行くのか?」
「いや、今日はずっと家にいるけど? ていうか、何なんだよ、いきなり絡んできて」
 夜に会う約束もないらしい。
 いったいどういうことなんだ? アキは今日、告白するって宣言したのに。
 これじゃあ、十勝のことをぶん殴れないじゃないか!
「だったら、アキから電話とかメールとかラインが来ても、絶対断るんじゃねえぞ」
 わけがわからないという顔をする十勝。
「なんだよ、それ。ていうか誰? アキって……」
「えっ?」
 予想外の返事に空知は言葉を失った。


 ◇


 空知と日高博士が鉢合わせをした夜、アキは自室で泣きながら手紙を書いていた。
 ――せっかく、本当のことを言おうと決心したのに。
 ――せっかく、嘘をついていることを謝ろうと思ったのに。
 決心を実行する前に、空知と会っているところを父親に見られたのは致命的だった。二高生のことを極度に嫌っている父親に。空知を公園に呼び出す日は、父親の帰りが遅くなる日をちゃんと選んでいたというのに。
 もう空知には会わせてもらえない。こんなことになるなら、嘘なんてつくんじゃなかったとアキは深く後悔していた。

『空知くん。私はあなたに謝らなくてはならないことがあります。
 それは嘘をついていたことです。十勝くんが好きという嘘を。
 でも、空知くんだって悪いんだよ。勝手に私が十勝くんのことを想っていると勘違いしちゃうんだから。
 私は最初から、空知くんだけを見ていました。だって、サッカー部の缶蹴りを見ていただけなんだから。
 だから、十勝くんという双子のお兄さんの存在も、全く知りませんでした。
 でも不思議ですね。会ったこともない十勝くんの名前を出すと、あなたへの想いを自然と口にすることができるのです。
 額に汗を光らせながら前を向く瞳が好きって、全部、空知くんのことなんだよ。
 あなたの前でそのことを話す私が、どれだけドキドキしていたか分からないでしょう。
 そんな私の話を、あなたは真剣に聞いてくれた。それだけで十分なんです。
 きっかけは、パパのポイ捨て遺伝子の研究でした。北門で空き缶を集めている時に、走って来る空知くんを見かけたのです。すぐにあなたに興味を抱いた。そして、あなたの遺伝子にも。
 悔いているのは私の心の弱さです。パパに検査をお願いしたあなたの遺伝子について訊かれた時、十勝くんの遺伝子と偽ってしまいました。ちゃんと真実を言うべきだった。パパと向き合って戦うべきだった。でもそれは恐くてできなかった。
 こうなってしまった以上、パパは絶対許してくれません、私が空知くんと一緒にいることを。だからこれで終わりにしましょう。
 初めて会った日のこと覚えていますか? 助けてくれたのは直之さんと思いきや、あなただった。神様がくれたこの一ヶ月間のことを、私は一生忘れません。
 今までありがとう。さようなら』

 この手紙を、レンガ塀を越えて来た朝のまったりブラック缶に入れれば、すべてが終わる。
 そう思うと、どうしようもなく涙が溢れてきた。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……」
 時間をかけて書き上げた手紙を、アキはくしゃくしゃと丸めていた。
 空知のことが諦められない。だって本当に好きだから。
「せっかく、本当のことを言おうと決心して、空知くんに宣言したんじゃない」
 どうせ終わりだったら、約束を実行してから考えよう。
「真実はちゃんと会って話したい。いや、話さなきゃいけないと思う。何日待ち続けたとしても」
 アキは、北門の前で空知を待ち続ける決意を固めていた。


 ◇
 

 空知は思わず、家を飛び出していた。
 さっきの十勝の言葉の意味が分からない。
『ていうか誰? アキって……』
 十勝を追求してみたが、アキという女の子には会ったこともないし、話したこともないという。
 そもそも十勝は、アキという人物の存在自体を知らなかった。知っているのは、日高博士の娘が一高に通っているらしいという情報だけだった。

 これは一体、どういうことなんだ?
 アキは話したこともない十勝に告白しようとしていたのか?
 いや、夜に会う予定もない、連絡先も知らないアキに、十勝が告白されるとは思えない。
 そもそもアキは、十勝との会話が楽しいって言ってたじゃないか。
 それは全くの嘘だったのか? 彼女は誰に告白しようとしているんだ?

 答えを知りたければ北門へ急げ。
 空知の直感がそう叫んでいた。
 時間も六時半。ちょうど空き缶蹴りが行われている頃だ。

 北門が見える路地に着くと、空知は住宅街の影に隠れて様子を伺う。北門の前では、一人の女の子がレンガ塀の上をじっと見つめていた。
 アキだ。
 彼女はやっぱりここにいた。
『直之、直之、直之!』
 北門の向こう側からはコールが聞こえてくる。これから直之が蹴るのだろう。
 コンと小さな音がしたかと思うと、レンガ塀の向こうから空き缶が飛んできた。午後のシャキッとコーヒー缶が、くるくると回りながら。
 が、どう見ても缶はゴミ箱に入りそうもない。
「って、えっ!?」
 その時、アキが驚きの行動をとった。
 午後のシャキッとコーヒー缶をキャッチしたかと思うと、ゴミ箱の中に投げ入れたのだ。
 カシャリと金属音が響く。
『おおっ、入ったぞ!』
『今日は空知がいないからパーフェクトだな』
『やっぱりパーフェクトは気持ちがいい!』
 やっと謎が解けた。
 直之の決定率が上がったのは、アキのおかげだったんだ。
 当のアキは、次の缶に備えてレンガ塀に向かって両手を広げている。手の甲に、薄ピンクの大きな付箋紙を貼ったまま。
 しかし、サッカー部員の声を聞いて、もう空き缶は飛んでこないことを知ったアキはガクっと肩を落とした。
 空知はアキの付箋紙に目を向ける。
 そこには赤いマジックで大きく文字が書かれていた。『空知くん、大好きです』と。

 アキは毎日、そうやって空知を待っていたのだ。
 会いたい日には、わざと缶を落としていたに違いない。空知をこの場所に呼ぶために。朝のまったりブラック缶に付箋紙を貼るために。
 熱いものが空知の胸に込み上げてくる。

「アキっ!」
 空知は思わず叫んでいた。
 そして北門の前に姿を現した。
「空知くんっ!」
 愛しい顔が空知を向く。
 その目には涙が溢れていた。
「ごめんね、昨日は本当にごめんね、空知くん……」
「そんなことよりも、一体どういうことなんだ? 兄貴に聞いたら、アキには会ったこともないって言うからびっくりして」
「本当にごめんなさい。私、十勝くんには会ったことがないの。ずっとあなただけを見ていました」
 アキは涙を拭って、空知のことを見上げる。
「勇気を出して言います。空知くん、私はあなたのことが好きです」
 しっかりと空知の瞳を見つめたまま。
「てっきり俺、アキは十勝のことを……」
 空知はまだ、今の状況を信じられずにいた。
 つい三十分前までは、アキは十勝に告白するものだと思っていた。
 その告白が自分に向けられたものだったとは、まるで夢でも見ているような、タヌキに化かされているような、すぐに手に取って良いものなのかどうか分からなくなってしまったのだ。
 空知は言葉を詰まらせ、北門前を静寂が包み込む。

 ――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ……。

 静寂を破ったのは、アスファルトを転がる空き缶だった。
 ――午後のシャキッとコーヒー。
 あ然と缶を見つめる空知に向けて、レンガ塀の向こう側から檄が飛ぶ。
『男らしくないぞ、空知! うっぷ』
『そうだ! 俺たちのプリンセスを泣かせるな!』
『アキちゃん、立派だったよ!』
 やんややんやと二人に声が掛けられる。
 なんだよ、缶蹴りが終わって解散したんじゃなかったのかと空知が顔をしかめる一方、アキは北門に向くとみんなに声を掛けた。
「ありがとう、直之さんっ! そして皆さん!」
 北門の向こう側で歓声が湧き上がる。
『おおーーーっ!』
『愛してるよっ、プリンセス!』
『アキちゃん、最高っ!』
 しかし空知は疑問で頭が一杯だった。
 アキは転がった缶を見ただけで蹴った人間を言い当てた。
「アキ、なんでこの缶が直之のだって分かったんだ?」
「だって、いつも蹴る前に名前を連呼してるでしょ? それに、銘柄がみんな独特だから、缶を見れば蹴った人が分かっちゃう」
 あはははは、そういうことかと空知は苦笑する。
 すると、声と一緒に、空き缶がレンガ塀を越えて飛んできた。
『じゃあ、これは?』
「これは、ブレブレブレンドだから、誠也さん!」
『今度は?』
「極寒ミルクティーだから、玲二さん!」
『俺は誰だ!?』
「クール甘酒だから、武志さん!」
『これは難しいぞ!』
「この濃厚ストレートは何人かいるけど、缶が回転していないから修平さん!」
『空知、部活サボっただろ?』
「これはスペシャルビターだからキャプテンさん。名前と顔は分からないけど」
 そうか、キャプテンは「キャプテン」としか連呼されないし、一度もゴミ箱を外したことがないから顔も見たことがないってわけか。ていうか、ヤバっ! 明日が恐い。
『おおおおおっ、すべて正解だ!』
『アキちゃん、最高!』
『それでこそ、俺たちのプリンセス!』
 それにしても先輩方はみんな蹴るのが上手い。綺麗な軌跡を描いて、どの缶もゴミ箱の中に吸い込まれていく。
 アキもアキだ。飛んで来る缶を瞬時に見分けるなんて神業に近い。しかも缶の回転まで熟知しているなんて、サッカー部員も真っ青だ。
「空知くんから聞いているかもしれませんけど、みなさんの缶は決してポイ捨て空き缶として扱っていないので、安心してください!」
 レンガ塀の向こう側へ宣言するアキ。その言葉に、空知は自分の耳を疑った。
「それってどういうことなんだ? 博士が本当にそうしてるのか?」
 博士はアキに、ポイ捨て空き缶を拾ってこいと命令していた。強い恨みと悪意を持って。
 だから空知は、今のアキの言葉が信じられなかった。
「だって、これってきちんとゴミ箱に捨てられてるじゃない。そういう正常な缶も取ってきて、比較分析することによって、初めてポイ捨て遺伝子について研究できるのよ。これって科学の基本。もちろんポイ捨て空き缶も拾ってるわ、正門前でね」
 空知は、アキに謝りたい気持ちで一杯になる。
 アキは決して、みんなのことをバカにしていたわけじゃなかったんだ。
 逆に、良い遺伝子のサンプルとして、みんなのことを扱ってくれていた。
「念には念をいれて、ここでは名前と顔が特定できる空き缶も採取していたの。分析結果に問題があっても後で検証できるように。そしてその中に空知くんがいた」
 アキは空知のことを熱く見る。
「空知くんがたくさん外してくれたから、私は空知くんを好きになった」
 褒められているのか、けなされているのかわからない。
「私の想いを断るなら、せめて空知くんの遺伝子をちょうだい?」
 そう言って、アキは静かに目を閉じる。
 空知は動揺する。いやいや、その言葉はこの場面ではヤバいから。
『うわっ、過激!』
『こんな場所でやるのか!?』
『アキちゃんダメだ。君には清らかな体でいて欲しい!』
 ほら、みんな誤解してるじゃないか。
 だから空知は声を上げる。
「空知、退散します! 大切な、大切なこの人と一緒に!」
 そしてアキの手をとって駆け出した。
 アキも一緒に走りながら、満面の笑みを空知に向ける。
「アキ、博士は手強そうだぞ」
「大丈夫、今度は私も戦うから。空知くんと一緒なら決して負けない」
「ああ、俺も頑張る!」
 ぎゅっと握る彼女の手の温もりを感じながら、この笑顔を大切にするために良い大学に入って博士を見返してやろうと空知は誓う。勉強だってアキに教えてもらえばいい。
 空知が博士に認めてもらえる時――。
 それは北門が十数年ぶりに開く日になるんじゃないかと空知は希望を胸に抱くのであった。



 おわり





ライトノベル作法研究所 2017夏企画
テーマ:『ゲート』

カルナボール2017年05月17日 22時58分22秒

 ほら、よくあるだろ?
 似たような言葉って、言ってるうちにどっちが正しいのかわかんなくなっちゃうってこと。
 例えば、カルボナールとカルナボール。
 試しに交互に十回言ってみな。ほら、もうわからなくなった。
 えっ? どっちも間違ってるって?
「そんな細けぇこと、いちいち気にしてられねえんだよ!」
 俺は強引に飛び越える。登校時間が過ぎて閉ざされてしまった校門を。
 ――その時だった。
 不意に何かが俺に向かって飛んできたのは!

「何ィ!? 卵ォ???」

 直感。そんな感じだったんだ。
 校舎の屋上から投げつけられたと思われるそいつは、すごいスピードで俺に近づいている。が、幸い、その軌道は俺の体には到達しそうもない。すぐ手前の地面に落ちそうだ。
 なーんて楽観視してられるかよ。割れれば黄身がズボンに飛び散るし、なによりも食べ物を粗末にしちゃいけないと死んだ祖母ちゃんが言ってた。
「間に合うかッ!?」
 俺は卵に向かってダイブする。
 野球でセンターとかの外野手がよくやるだろ? グラブを前に投げ出すようにして球をキャッチするあの体勢だ。今の俺もそんな風に精一杯、体と手を前に伸ばしていた。
 重力の勢いを借りて加速してきた白いそいつは、俺の掌になんとか収まる。
 さてここからが本番だ。殻を割らずに勢いを抑えることができるか――その結果次第で、今日一日の運勢が決まってしまうような気がした。しかし――
「げッ、最悪」
 捕球、いや捕卵失敗。
 掌の中でぐしゃりと卵が潰れる感触がする。
 仕方がない。もともと割れやすい存在だ。せめて黄身が飛び散らないようにと俺が掌を閉じようとした瞬間、予期せぬ感覚が俺を襲った。
「なッ!? アチッ、アチチチチィッ!!!」
 掌の中で潰れた卵は、猛烈な熱を発し始めたのだ。
 俺は直ちに起き上がり、卵を地面に叩きつける。
「何だ、何だ? ゴホッ、ゴホッ……」
 地面でシュウシュウと黄色い煙を発し始める卵。煙の量はハンパなく、俺の視界は完全に失われた――

 〇

(なんだよ、あの卵……)
 先ほど起きた不思議な出来事を思い出しながら、俺は先生の後について廊下を歩いていた。
 転入初日、事もあろうに遅刻してしまった俺は、職員室に着くなり教室に向かうことになった。朝のホームルームはとっくに終了し、一時間目も半分くらい経過している。これは後で聞いた話だが、この日の一時間目は偶然にもクラス担任の授業で、俺が到着するまですっと職員室に待たせてしまっていたらしい。
(黄色い煙もわけわかんないし……)
 しきりに時計を気にする先生を横目に、俺は卵のことばかり考えていた。
 だって気になるだろ? 高熱を発したかと思うと、すべて煙になって消えちゃったんだから。信じられないことに、殻も黄身も後には何も残らなかったんだ。
(一体あれは何だったんだ?)
 不思議な卵。
 そんな表現が正しいのかどうかはわからないが、とにかく俺の頭の中はこの卵のことで一杯だった。
 普通、転入生だったら教室に向かう時って色んなことを考えちゃうと思う。「新しいクラスがいい奴ばかりだといいな」とか、「自己紹介で何言おうか?」とか、「ウケ狙いで滑ったらどうしよう?」とか。心臓だってバクバクもんだ。しかし今の俺は、そんな憂いとは無関係の精神状態だった。
 そんなわけで、自己紹介で教壇に上がった俺の挨拶も、名前と卵のことだけになっちゃったんだ。

「俺の名前は日辺理雄(にちべ りお)。校門のところで煙を出す不思議な卵が飛んで来たんだが、誰か教えてくれないか?」

 時が止まるというのは、こういうことを言うのだろう。
 クラスの連中が俺にどんな挨拶を期待していたのかなんてわからないが、予想外の内容だったことはすぐわかった。しかし一瞬で変化したクラスの雰囲気は、「期待はずれ」と呼べるものではなかった。
 ――驚き。
 そいつは、やっちまった的な要素をかなり含んでいた。俺は「何か悪いことをしてしまったのだろうか」と後ろめたい気持ちに囚われる。
 煙を出す卵なんて、変な事を言っちゃったから? 
 もしかしたら、煙を出す卵というのはこの学校のNGワードなのかもしれない。
 そもそも卵を投げた奴が悪いんじゃないか。俺は悪くない。祖母ちゃんの教えに従っただけだ。それにあれは卵じゃなかったし……。
 その時だった。
 ガリガリとドアを引っ掻く音がして、一匹の柴犬が教室に入ってきたのだ。
「あっ、小次郎だ!」
「小次郎が来たぞ、授業が始まるっていうのに……」
 クラスメートの言葉から察して、どうやらその柴犬は「小次郎」と言うらしい。
 茶色でクリクリとした瞳が可愛い小次郎は、教室に入るなりクンクンと辺りの臭いを嗅ぐ。そして俺にターゲットを絞ると一目散にやってきた。
「おー、よしよし!」
 なんだかわからないが、突然の可愛い訪問者に俺は思わず床に片膝をついて鞄を置いた。頭を撫でると、フサフサした毛が気持ちいい。
 しばらく気持ち良さそうに頭を撫でられていた小次郎だが、再びクンクンと鼻を鳴らすと俺の右手に興味を示す。そしていきなりペロペロと掌を舐め始めたのだ。
「あはははは、くすぐったい、くすぐったいよ……」
 背中が猛烈にムズムズする。手を引っ込めると、小次郎は俺の右手を追ってじゃれついてきた。
 たまらなくなった俺が小次郎を抱きしめたその時――
「あなたね、私の卵をキャッチした人は!」
 まるで犯人を見つけたかのような強い口調。
 顔を上げると、小次郎が入ってきたドアのところにキリッと鼻筋の通った一人の美しい女生徒が立っていた。

 教室がざわつく。
 女生徒の登場が原因かと思いきや、必ずしもそうではないらしい。「キャッチしたって本当かよ」という声が聞こえてくるので、彼女の言葉の真偽もざわめきの発生源なのだろう。
 まあ、俺の運動神経なら楽々キャッチだけどな。
 なんだか得意な気分になり、俺は小次郎を抱いたまま立ち上がる。
「ああ、俺だけど」
 女生徒の背の高さは俺と同じくらい。ということは、女子の中でも高い方になるんじゃないだろうか。
 先生もキャッチの事実に驚いたようで、厳しい口調でその女生徒を問い詰め始めた。
「その話は本当か? 月緒」
「申し訳ありませんが、本当です」
 マジかよと教室がさらにざわつく。
 月緒と呼ばれたその女生徒は、唇を結んで悔しそうに目を伏せた。
「月緒、お前は言ったよな、決して生徒の体には当てないと。先生達は皆その言葉を信じて、あの卵の使用を許可してるんだぞ。それを分かってるんだろうな」
「はい。生徒会を代表して、ペナルティーはきちんと受けたいと思います」
 どうやら俺は、美少女を謝らせるほど悪いことをしてしまったらしい。
「だから先生。今は直ちに彼を保健室に連れて行きたいんです。お願いします!」
 彼女は先生に向かって深々と頭を下げた。パサリと軽い音がして彼女のショートヘアが前に垂れる。ピンと伸ばした手先をスカートの横に添えるその姿を見た瞬間、不覚にも俺の心臓はドクッと脈打つ。俺が持ち合わせていないストレートな態度が新鮮だった。
「仕方がない。彼の健康が優先だ、早く連れて行け」
「ありがとうございます!」
 ハキハキとした声と共に礼を解いた彼女は俺の元に駆け寄り、小次郎を抱く俺の左腕を掴んだ。
「ほら、行くよ。保健室に」
 小次郎を抱いたまま、なんだかわけがわからず俺は教室を後にする。
 そういえば俺って、新しいクラスで自分の名前と卵のことしか喋ってねえぞ。
 ドア越しに見える呆気にとられたクラスメートの表情が妙に印象的だった。

 〇

「あれ? どうしたの? カルナちゃん、こんな時間に」
 保健室に着くと、白衣に身をまとった女性が俺達に声をかけてきた。きっと保健の先生だろう。にしてはスタイルはいいし、長い髪をカールさせてるし、明日からの登校がむちゃくちゃ楽しみになっちゃいそうな先生だった。
「先生、彼のことをすぐに診てほしいんです。実は、例の卵を彼に当てちゃって……」
 彼女は俺の手から小次郎を受け取ると、腰で押すようにして俺を先生の元へ突き出した。その大胆な行動に一瞬ドキリとしたが、もっと驚いたのは予想外の腰力の強さだった。これはか弱い女子の腰つきじゃない。
「卵が当たっちゃったことって、今までに一度も無かったじゃない。野球部のエースらしくないわね」
 野球部のエース?
 道理で腰力が強かったわけだ。
 俺は納得すると共に、頭の中に何かモヤモヤが生まれているのに気が付いた。
 野球部。そしてさっき彼女は、教室で「生徒会」って言ってた。
 生徒会で野球部――どこかで聞いたことがある……

『お前が転入する学校の噂を聞いたぞ。友人として忠告しておく。生徒会長には気をつけろ。女子硬式野球部のエースで、彼女に睨まれたらあの学校ではやっていけないらしい。彼女の二つ名は……』

「も、もしかして、鬼の生徒会長ォ!?」
「誰が鬼よ!」
 やべぇ、思わず口に出しちまった。本人の目の前で。
「私にはちゃんと名前があるの、月緒カルナ(つきお かるな)っていう。二度とその名で呼ばないで! そう言う君は? 見かけない顔だけど」
 飛び出た角がしゅるるると引っ込んで助かった。ここは忠誠を誓わねば。
「日辺理雄、二年生、本日付けの転入生であります、会長殿!」
 直立不動の俺に、会長は呆れたような眼差しを向ける。
「やめてよ、そんな呼び方。こそばゆい」
「はっ、会長殿!」
「だから……、もういいわ。とにかく先生、まず彼の目を診ていただけませんか? 卵の粉が目に入っていたら大変なんで」
 深くため息をつきながら、会長は先生の方を向いた。
「わかったわ。面白いわね、彼」
 俺たちのやりとりを見ていた先生は、クスクスと笑いながら椅子に腰掛ける。ん? 先生には好印象?
「じゃあ、私の前の椅子に座って」
 椅子に腰掛けた俺は、ペンライトで両目をジロジロと観察された。
 鬼の会長殿に睨まれるのは嫌だが、美人の先生に診られるのはすごくいい。
「異常は無いみたいね」
 先生は一通り俺の眼の検査をすると、ペンライトを机の上に置く。
「よかったぁ……」
 まるで自分の事のように安堵の溜め息を漏らす会長。
 鬼の目にも涙? いや、そんな表情をしても騙されないぞ。
「次は彼の右手を診ていただけませんか? 火傷をしてると大変なので」
「卵は右手に当たったの?」
 その言葉は俺のキャッチ魂に火を付けた。
「当たったんじゃねえ、キャッチしたんだ」
 そして先生の前に右の掌をかざしてアピールする。
「キャッチした!? カルナちゃんが投げた卵を? あなたが!?」
 どうしてどいつもこいつもそんな反応をするんだ?
 それほどまでに彼女の投げる卵はすごいのか!?
「ああ、ダイビングキャッチだ。食べ物は粗末にしちゃいけねえってのが祖母ちゃんの遺言でな」
「そ、そんな理由で?」
 俺の説明を聞いて先生はケラケラと笑い出す。なんだか祖母ちゃんが笑われたようでちょっと嫌な気持ちだけど、あれが本物の卵だったら先生だって分かってくれるはず。
「一体あの卵は何なんだ? キャッチしたと思ったら猛烈に熱くなるし、その後で煙モクモクだし……」
 俺はその時の様子を思い出しながら右の掌を見つめる。
「その時、君はどうしたの?」
「すぐに卵を地面に叩きつけてやったさ。すげぇ熱かったからな。だから火傷はしてねえ」
 先生は俺の掌に左手を添えると、マジマジと観察し始めた。そして右手で触診を始める。
「賢明な判断ね。痛いところはない?」
「ああ」
 本当は卵が当たったところがちょっとジンジンするんだけど内緒だ。あと、ダイブした時に擦りむいたところが痛い。
「大丈夫そうよ、カルナちゃん」
 そして先生は俺達に言った。
「卵のことは、カルナちゃんに聞いてみて。そしたら二人とも教室に行きなさい。小次郎は先生が預かっておくから」
 なんだか名残惜しいが、俺は再び会長に連れられて教室に戻ることになった。

「あの卵はね……」
 保健室を出ると、歩きながら会長が説明を始める。ついに卵の正体が明らかになると、俺は耳に意識を集中した。
「殻の主成分が生石灰なの」
「聖水結界?」
「せ・い・せっ・か・い!」
 聞いたこともない名前だ。
「酸化カルシウムのことよ。君……えっと、日辺君……だって習ったよね? 二年生なんだから、化学の時間に」
「いや、前の学校ではやらなかった。それと俺の呼び名は理雄でいい」
 化学はずっと寝てたからな。習ったかどうかも分からない。こんな時、転入生って便利。
「じゃあ教えてあげるわ、理雄君。この生石灰が厄介な物質で、肌に触れると炎症を起こすし、目に入ったら失明することだってあるの」
 マジか?
 ていうか、そんな危ないもん投げんなよ。
「何で会長は、人に向けてそんなもん投げてんだ?」
 どうやらこの言葉は地雷だったようだ。会長は顔を真っ赤にして反論する。
「決して人に向けてなんて投げてない! 確実に手前の地面に当ててきたの。だって私は野球部のエースなんだから」
 エースがどれだけ偉いのか分からないが、俺のキャッチが彼女のプライドを深く傷つけたことは明らかだった。
「それ、今朝までの話な」
「ぐっ……」
 会長は黙り込んでしまう。事実は言葉よりも重い。
 ちょっと可哀想になった俺は、質問を微妙に変えてみる。
「もう一回訊くけど、何でそんな危ないものが必要なんだよ?」
「それはね……」
 顔を上げた会長は、話の内容を整理しているような様子だった。
「煙を出すためよ。あの卵の殻には燻蒸剤が混ぜてあって、コーティングされた卵の内側には水が入ってるの。卵が割れると生石灰と水が激しく反応して高温になり煙が出る。ゴキブリ退治に使われるアレと同じ原理よ」
 へえ~、なんだかよく分からないけど、あの煙はゴキブリ退治のアレと同じということだけは分かった。
「理雄君、今朝は遅刻して校門を乗り越えたでしょ?」
 うーん、確か、考え事しながら何かの障害物を乗り越えたような気がする。転入生ってなんかハードル高けぇなって思ってたんだ。ていうか、全部見られてたのかよ。
「だからあの卵は警告。イエローカードよ」
 ええっ!? イエローカードだって??
 煙の色はそういう意味だったんだ……。
「あの煙には、犬の好きな匂いを混ぜてあるの。一度あの煙を浴びたら逃げられないのよ、小次郎の鼻からはね」
 そうか、だから会長が教室に現れる前に小次郎がやって来たのか。会長の出現にクラスがあまり驚かなかったのは、そういうことだったんだ。
「それなのに、わざわざキャッチする生徒が現れるとはね。思い出しても悔しいわ」
 ギリリと拳を握りしめる会長。そして次第にキレ始めた。
「今まで私、絶対に人には当てなかったのに……。どうしてくれんのよ、理雄君のせいよ、始末書出さなきゃいけないじゃない! お祖母ちゃんの遺言が何よ。キャッチなんて、キャッチなんて、余計なことしてくれちゃって……」
 うひぁ、また鬼が現れた! 殴られそうな恐怖を感じて、俺は思わず身構える。
 しかしそこで彼女の様子が一変する。「キャッチ?」と呟いた後、ぱあっと表情が明るくなったのだ。
 それまでの鬼の形相が嘘のよう。理由はさっぱり分からないが、やっぱり女の子は笑顔がいい。
「ねえ、理雄君。今日の放課後空いてる?」
「あ、ああ……」
 瞳をキラキラと輝かせる会長。絶対、裏に何かあると思いつつも、その豹変ぶりに見とれた俺は迂闊にも生返事をしてしまった。
「じゃあ六時に狛犬公園集合ね。絶対来てよ。来なかったらひどい目に遭わすからね」
 捨て台詞を残して彼女は去って行く。
 教室の前に残された俺は唖然としながら、嬉しそうにチェックのスカートを揺らす会長の後ろ姿を眺めていた。
 これってデートの誘い……じゃないよね?

 〇

 教室に戻った俺はヒーローだった。
「すげぇな、あれをキャッチするなんて!」
「カルナが先生に怒られるとこ、初めて見た」
「いやぁ、しゅんとするカルナを見てすうっとしたよ!」
「ざまあ見ろだな、いつも生徒を苛めてるバチが当たったんだ」
 どうやら鬼の生徒会長殿は噂通り嫌われ者らしい。
 ちょうど二時間目が終わったばかりの教室では、俺は桃太郎の称号を得たかのように歓迎された。
 教室に置き忘れていた鞄は、窓際の後方の席に置いてある。どうやらその場所が俺の席らしい。やっとのことで解放された俺は、深いため息と一緒にどっと席に着く。
 すると前の席に座る銀縁メガネの男子生徒が振り返る。
「どんな感じだった? カルナボール。あっ、俺、土佐続樹(とさ つづき)、よろしくな」
 面長で色白。なんだか賢そう。
「カルナボール?」
 カルボナールの間違いじゃないのか? と思ったが、カルボナールでも話は見えてこない。
「お前がキャッチした卵の事だよ。カルナが投げるからカルナボール。皆そう呼んでるぜ」
 へぇ、カルナボールね。そっちの方が覚えやすいかも。
「アレには皆、痛い目に遭ってんだよ。二回食らうと停学だろ?」
 二回……って?
 あっ、そうか、イエローだから二回でレッドか。しかしたった二回で停学ってのも厳しいな。
「屋上から飛んで来るんで、たち悪いし。気付いたらすでに煙の中だし」
 やっぱり卵は屋上から飛んで来たんだ。じゃあ、あの時屋上に会長がいたってこと?
「そしたら小次郎やって来るし、小次郎来たらアウトだし。無邪気にあの犬を撫でられるのも今のうちだぜ」
 ということは、もう一回小次郎が俺のところに来たら停学ってこと?
 そりゃ、ないぜ。俺は転入生で知らなかったんだから。
「ところで、カルナボールをどうやってキャッチしたんだ?」
 続樹は目を輝かせながら訊いてくる。
「どうやってって、ただダイブしただけだけど」
「ダイブって、そりゃ相当な反射神経だぜ。すごいな」
 男子生徒に言われると、本当にすごいような気がする。照れるじゃないか。
「それでどんな感じだった?」
「どんな感じって?」
「カルナボールだよ。あれって中に何が入ってるんだ? まさか、本物の卵ってことはないだろ?」
 あれれ? 何が入ってるんだったけ?
 うーん、教室に来る前に委員長から説明を聞いたような……。
 俺は必死に思い出す。
「なんか、お節介にひや水で激アツって感じ? みたいな。いや、バルサーノだったかも」
 すると続樹は苦笑しながら顎に手を当てて、何かを考え始めた。「やっぱ節介と水の反応か」とか「カーバイトで試してみるか」とか呟いている。上手く伝わったみたいでなんだか嬉しい。ていうかこいつ、カーショップでバイトしてんのか?
「まあ、今回の件でカルナボールの弱点が明らかになったしな。人に当てられないってのは盲点だった。すげぇお手柄だよ」
「いやぁ、それほどでも」
 そのせいで放課後、会長から呼び出しを食らってるんだけど。
「カルナに酷い目に遭わされた連中は皆、一泡吹かせてやりたいと思ってんだよ。俺を含めてな」
「でも、なんでそんな危険な卵の使用を学校側は許してんだ?」
「そりゃ、カルナがこの学校の英雄だからだよ。春の選抜で準優勝できたのも、カルナのおかげだしな」
 へえ、会長のピッチングってそんなにすごいんだ。
 まあ屋上から正確に卵が投げられるんだから、選抜準優勝は当然なのかもしれない。
 まさか放課後になってそのピッチングを目の当たりにすることになるとは、この時は思いもしていなかった……。

 〇

「狛犬公園、狛犬公園っと……」
 俺はスマホの地図を見ながら、会長との待ち合わせ場所に向かって走る。幸い、公園は学校から数百メートルの位置にあった。
「遅いッ! 三分遅刻!!」
 制服姿の会長が、公園の入り口で仁王立ちしていた。
 いやいや、たったの三分だろ?
「これが学校だったらイエローカードだからねっ!」
 おいおい、てことはたったの三分が二回で停学かよ。
 そんなの暴動が起きちまうぜ。てか、すでに起きそうな雰囲気だったよ、続樹の話では。
「とっとと始めるよ! 暗くならないうちに」
 今は五月の半ばだ。あと一時間は明るいと思うけど……。
 ていうか、何を始めるんだよ?
 大きな荷物を背負った会長は、小さな林を抜け芝生の広場まで移動すると、ブツブツと何かを呟きながら歩測で距離を測り始める。
「十八・四四メートル、十八・四四メートル……」
 そして荷物の中からホームベースを取り出した。
 それって……、ま、まさか、ピッチング練習?
 予感は的中。会長は荷物の中からキャッチャーミットを取り出すと、俺に向かって投げる。
「それ使って。マスクとプロテクターは無いけど、理雄君の抜群の運動神経なら必要ないよね」
「お、おう」
 分かってるじゃねえか、俺のこと。
 と強がっていられるのは最初だけだった。肩慣らしのキャッチボールで会長が投げてきたボールは、やけに硬かった。
「ちょ、ちょっと、これ硬球じゃねえか!?」
「当たり前じゃない、硬式野球部なんだから。なに? 卵は捕れても硬球は捕れないって言うの?」
「くっ……」
 まんまとはめられた。今さらできないなんて言えねぇ。
「それで? 俺は会長の球を受けるだけでいいのか?」
 キャッチボールをしながら俺達は会話を続ける。
 実際にボールのやり取りをしてみて実感したが、会長はコントロールがかなりいい。綺麗なオーバースローから繰り出されるボールは、構えたミットめがけて確実に飛んで来る。それに球威だって女子のものとは思えない。屋上から正確に卵を投げられるというのも納得してしまう。
「そうよ。高速シンカーの練習がしたいの」
 校則進化?
 おいおい、こんなところで学校の規則を変えようってのか? 
「そんなの学校でやればいいだろ?」
「無理よ、誰もできないもの」
 ほお、この学校は生徒会長が全権を握ってるのか。
 あの卵の使用が特別に許可されたように、もしかして会長は自由に校則を変えられるとか? 上手く会長に取り入れば、俺の希望も校則に反映されちゃったりして。
「俺も参加させてもらえるのか?」
「そうよ。だから今、こうしてキャッチボールをしてるじゃない」
 やった! 転入初日からツイている。
 さて、どんな風に校則を変えてもらおうかな。まずはやっぱり遅刻の廃止だよな。
 そんなことを考えていると、会長は右手にボールを持ってグルグルと肩を回し始める。
「さあ、肩が温まってきたから本番行くよ。まずはストレート。キャッチャー位置で構えて」
 なんだよ、校則改正するんじゃないのかよ……。
 俺は渋々ホームベースの後ろにしゃがみこむ。
 まあ、とりあえずは、お手並み拝見と行きますか。校則改正はそれからでも遅くない。
 俺がミットを構えると、会長は木の根っこを上手く利用したマウンドの上にすっと立つ。お腹の位置に置いた左手のグローブの中にボールと右手を入れ、深く呼吸を整えた。そしてゆっくりと左足を上げる。
(おっ、おおおっ!)
 紺色のソックスに包まれたキュッと引き締まるふくらはぎ。制服のスカートからは、次第に見事な太ももが露わになっていく。
(も、もうちょっとでパンツが見えちまうぞ……)
 大丈夫穿いてますよ的な高さまで太ももが上がったかと思うと、上半身を前に傾け、テイクバックした右手を高々と宙に突き出す。
(えっ、そのフォームって……)
 上げた太ももを前方に繰り出し、地面に踏み込んだ力が腰の回転を経由して右腕に伝わっていく。その刹那、右手がしなやかな鞭のように唸った。
(まさかのアンダースローォオ!?)
 不意を突かれた俺は、彼女の美しフォームに見とれながらも、これから高速で襲い来るであろう白い存在にゴクリと唾を飲む。
 地面ギリギリの高さから放たれたボールは、公園の草や花を揺らしながら俺に向かって飛んできた。そしてパンと甲高い音と共に、俺はミットでキャッチする。
 いや、ボールからミットに飛び込んで来たと言った方がいい。スピードが速すぎて俺は何も反応できなかったのだ。時速で言えば百キロは出ていたんじゃないだろうか。
「ちょ、ちょっと! 俺を殺す気か!??」
 会長はフンと鼻で笑う。
「何? 私の球が速すぎてビビっちゃった?」
「そ、そんなこと……」
 ゴメンナサイ、ビビりました。
「今のは序の口、次は本番の変化球よ。変なとこ見てるとマジで死ぬからね」
 げっ、太もも見てたのバレバレかよ。
 ていうか変化球なんて来たら冗談抜きで死んでしまう。
「ちょ、ちょ、ちょっとタンマ!! どんな変化球なのか教えろよ。どういう風に変化するのかをよっ!」
「だからさっき言ったじゃない。高速シンカーだって」
 へっ? あれって校則進化じゃなかったのか?
「まあ、聞きなれない用語だったかもしれないから具体的に説明してあげるわ。さっきのストレートとほぼ同じスピードでクッと落ちるからね。じゃあ行くよ」
 そう言いながら会長は左足をゆっくり上げていく。
(えっ、説明それだけ? それだけで捕れっていうの?)
 今度は太ももに見とれてる場合じゃない。キャッチできなくてもミットで体を守らないと、大変なことになってしまう。当たりどころが悪ければ、俺の人生設計がパーだ。
(集中! 集中!)
 会長の右手から繰り出されるボール。なんだかさっきよりも回転していないと思った瞬間、すっとボールが落ちる。俺はかろうじて反応し、パンという音と共にキャッチすることができた。
「凄いじゃない。あの球を捕ることができたのは理緒君が初めてよ。さすがキャッチの天才ね」
 いやぁ、照れるじゃないか……。ていうか、間一髪で生を勝ち取ったという感じだ。額に変な汗が流れてきた。
 でも、「俺が初めて」ってどういうことだ?
 会長にボールを投げ返しながら、俺は疑問をぶつけてみる。
「初めてってどういうことだよ? バッテリーを組むキャッチャーは捕れないのか?」
 すると会長はさらりと言う。
「そうよ。残念ながら女子では捕れる人が誰もいないの。うちの高校、男子野球部は無いしね」
 確かにあの球は女子では難しいかもしれない。
「だったら試合で使えねえじゃねえか。誰も捕れなかったらさ」
「大丈夫よ。秘策があるから」
 秘策? まさかダイリーグボールなんちゃらじゃあるまい?
「あの球はね、ここぞという時にど真ん中に投げるの。そしたらバッターは必ず振ってくれる。そんでもって確実にバットの下に当てるのよ。打球は凡ゴロ、キャッチャーも直接捕らなくていい。一石二鳥の作戦よ」
 んな、アホな。
 でも本当にそんなことができたら勝利にぐっと近づくのは確実だ。
「魔球だな」
「そう、私のウイニングショット。でも一つだけ欠点がある。誰も捕れないから普段の練習ができないの。ちゃんと練習できてたら春の選抜だって優勝できたのに……」
 ええっ? それって……。
 これからもこの練習が続くってこと?
「壁に向かって投げてればいいだろ?」
「いつもやってるわよ。でもね、それじゃダメなの。どれくらい落ちたとか、もう少しスピードがあった方がいいとかそんな情報は得られないの。キャッチャーからのフィードバックがあって、初めて練習になるのよ」
 いやいや、そんな回りくどい理屈じゃなくて、ひとこと「俺が必要」って言ってくれれば手伝ってやらないこともないがな。
「この公園の硬球使用者名簿に理雄君を登録するの、大変だったんだから。特別理由が必要で……」
 おいおい、事後承諾かよ。てか、何て書いたんだ!?
「大事なことだからもう一回言うよ。普段から練習できてたら夏はきっと優勝できると思うんだけどな……。私にとって最後の夏なんだけどな……」
 ずるいよ、そのおねだりは。断る方が鬼みたいじゃねえか。
 太ももが見たいからだけじゃないぞ。
 素直に物が言えない会長の態度が意地らしくなって、俺は柄にもなく放課後の公園で彼女の夢の手助けをすることになった。


 翌日、俺は続樹から、春の選抜の決勝戦の様子を聞いた。
 試合が決まったのは、二対一でリードして迎えた最終回、七回裏のことだったという。
 二アウト満塁フルカウント。一打サヨナラのピンチで、会長が投げたのはあの高速シンカーだった。
 ど真ん中に来たボールをバッターが振る。「凡ゴロでゲームセット」というシナリオだったがわずかに狂いが生じた。ボールが考えていたよりも落ちてしまったのだ。
 結果、バッターは空振り、しかしキャッチャーが取れずにパスボール。振り逃げとなって、三塁ランナーそしてスタートを切っていた二塁ランナーも還ってサヨナラ負け、という結末だったらしい。

『ちゃんと練習できてたら春の選抜だって優勝できたのに……』

 あと一歩のところでスルリと掌からこぼれてしまった優勝。さぞかし悔しかったに違いない。
 でも、だからこそ、キャッチャーがちゃんと捕れるように特訓した方がいいんじゃないのか? その方が優勝へ確実に近づくと思うんだが。
 まあ、それまでは俺も手伝ってやるけど。
 窓際の席から狛犬公園の方角をぼんやり眺めながら、俺はそんなことを考えていた。

 〇

 新しい高校に転入してから一ヶ月が経った。
 放課後の秘密の特訓を続けるうちに、会長のピッチングはかなり気分に左右されることが分かってきた。
 良いことがあった日はシンカーが綺麗に落ちてくれるけど、嫌なことがあった日はコントロール自体が全く定まらない。そんな日は、かなりキャッチャー泣かせの練習になってしまう。
(こりゃ、もう、誰も捕れないぜ)
 俺でさえもミットに当てて地面に落とすのが精一杯の時もあった。
 俺は自分の考えを改めざるを得なくなる。正キャッチャーが捕れるようになる方が早道という考えを。
 きっと部活では、キャッチャーが捕れるように手加減しているのだろう。要するに彼女は、ありのままの彼女を受け止めてくれる存在を欲していたのだ。
 後で話を聞くと、ピッチングが荒れる時は大抵カルナボールを投げた日だったりする。
(会長だって、好きであの卵を投げてるわけじゃないんだな……)
 鬼と言われ、会長だからと責任を押し付けられ、誰にも文句を言えず、俺とのピッチングで憂さをはらす。
 ミットを構える俺には、会長の心情がビシビシと伝わって来た。
 たまには助けてって声を出すことも必要だぜ。学校の嫌われ者を一人で背負うことはないじゃないか。
 だからいつの間にか、俺もカルナボールの仕事を手伝うようになっていた。


 そんなある日、事件は起きた。
 校門周辺を見回りしていた俺たち目がけて、一個の卵が投げ込まれたのだ。
「危ない、会長! ぐげっ」
 反射的にダイブしようとした俺の襟首を、すんでのところで会長が掴む。
「理雄君ってバカ? お祖母ちゃんの遺言か何か知らないけど、学習って言葉を知らないの?」
 会長の判断が正しかった。
 地面に落ちてつぶれたその卵は、ポンと軽い音をたてて爆発したのだ。生温かい突風が俺のズボンを揺らす。
「きゃっ!?」
 会長が恥ずかしそうな声を上げたかと思うと、襟首から手が離される。と同時に、犯人と思われる声が周囲に響いた。
「ほお、水色の水玉模様か……。鬼らしくトラ柄かと思ってたんだけどな」
 会長の身に何が起きたのかと見ると、爆風でスカートがめくれ上がれ、それを必死に押さえているところだった。
(うわっ、見たいけど、近すぎて見られない……)
 おのれ犯人、うらやまし過ぎると声がした方を睨むと、そいつはサングラスにマスク姿で二つ目の卵を投げようとしている。
 会長も即座にカルナボールを投げて応戦した。
「むはははははは! 無駄だ、無駄だよ。体に当てられない卵なんてちっとも怖くない」
 モクモクと立ち上がる黄色い煙の中から犯人の声が聞こえてくる。でも、この声ってどこかで聞いたことがあるような……。
「それにな、いくらイエローカードを食らったって、小次郎が来る前に家に帰って匂いを落とせばセーフなんだよ」
 思い出した、その声は続樹!
「おーい、続樹! 何やってんだよ」
 俺は試しに呼んでみる。すると犯人は律儀に答えてくれた。
「よぉ、理雄。生徒会の犬に成り下がっちまったお前にはわからないだろう、新しい武器(おもちゃ)を手に入れたサイエンティストの気持ちが」
 あいつ、菜園主義者だったのか……。
 ていうか、やっぱり犯人は続樹じゃねえか。俺は会長と顔を見合わせた。
「土佐続樹か。この狼藉、許すまじッ!!!」
 怒ってる、怒ってるぞ鬼の生徒会長殿が!
 その迫力に続樹はうろたえ始めた。
「しょ、しょ、正体がバレたって、俺にはこの映像がある!」
 サングラスの柄の部分に取り付けられたアクションカムを指差しながら、続樹は二つ目の卵を投げた。会長も負けじとカルナボールを投げ返す。
 続樹の爆風卵とカルナボールの煙幕。残念ながら、会長のスカートが舞い上がる方がちょっとだけ早い。
「無駄だ、無駄だ! お前の水玉模様はしっかりと撮らせてもらったぞ。ネットに上げてもらいたくなかったら俺の言うことを聞くんだな!!」
 すると会長が俺に命令する。
「ちょっと何してんのよ! パンツが見られないように私の足元にも卵を投げなさいよ。気が利かないわね」
 そんなこと言ったってしょうがないじゃないか。俺だってパンツ見たいんだから。
「ははははははは、俺の爆風卵はすごいだろ!? カーバイドがこんなにも上手く反応するとはね。カルナボールの構造を参考にさせてもらったよ」
 続樹の言葉に、会長は「ちっ」っと舌打ちしながら呟く。
「アセチレンか……」
 その言葉に戦慄する。
 汗血練……だと!?
 汗と血の滲む練習を、続樹も繰り返してきたというのか。カーショップのバイトで。
 そうこうしているうちに三つ目の卵が飛んできた。俺は少し距離を取って、言われたように会長の足元にカルナボールを投げる。ところが――
「理雄君ってバカァ!? あいつの卵よりも先に煙幕作ってどうすんのよッ!!」
 俺が投げたカルナボールの煙は、続樹の爆風卵でスカートもろとも巻き上げられてしまったのだ。
 でもそのおかげで会長のパンツが見えた。確かに水色の水玉模様のようだった。
「あはははははは、仲間割れか!? 黄色い煙幕が爆風で晴れてパンツが出現なんて、ハリウッド級の映像が撮れたじゃないか!」
 いやいや、それじゃB級映画だぞ。
「あ、あいつ、許さないッ!!!」
 続樹の足元にカルナボールを投げつける会長。怒りに身を任せたこんな時でも、人体に向かって投げないところは尊敬に値する。
 俺は、今度こそちゃんとパンツを隠そうと、カルナボールを握りしめた。
「もうちょっと水玉模様を拝ませていただこうか!」
 四つ目の爆風卵。
 俺はタイミングを計り、爆風の直後にカルナボールを会長の足元に投げつける。
「バカバカバカ!!! 理雄君側に卵を投げてどうすんのよ。犯人から隠すように投げなきゃダメじゃないッ!!!」
「そしたら俺からはパンツが丸見えだが」
「いいわよ、理雄君なら……」
 顔を真っ赤にしながら俺を振り向く会長。その仕草は、すぐに駆け寄って抱きしめてあげたくなるくらい可愛かった。
 そして五つ目の卵が飛んで来る。俺は続樹から会長のパンツを隠すことに成功。そして、すぐ目の前でスローモーションのようにスカートがめくれ上がっていった。なんという役得!
「おおおおおっ! こ、この柄は……」
 そこには衝撃の事実がっ!?
「水玉模様じゃ……ない!???」
「な、なんだって!?」
 しまった! 俺の言葉は続樹の盗撮魂に火を点けてしまったようだ。会長も俺を振り返り、「バカぁ」と顔をゆでダコにしている。
 刹那、続樹は鬼気迫る勢いで俺達に迫って来た。力づくでスカートをめくり上げてパンツを撮影しようというのだろうか。続樹よ、そんなことをしたらもう盗撮とは呼べないぞ!
「逃げるよ、理雄君!」
「ああ」
 俺達は校外に向かって校門を駆け抜けた。

 会長が逃げ込んだのは、いつもの狛犬公園だった。
 木々の間を抜けながらカルナボールを地面に投げつける。煙幕で進路が見えなくなって、続樹もスピードを落とさざるを得なくなった。
 苦し紛れに爆風卵を投げる続樹。会長はカルナボールで応戦する。まるで卵戦争勃発だ。
「いつまでこれを続けるんですか?」 
 たまらず俺が訊くと、会長はニヤリと笑う。
「そろそろ終わるわ。ほら、援軍がやって来た」
 なんだって? 生徒会にそんな頼りになるヤツがいたっけ? と思いながら続樹を振り返ると、彼の周りに何かが集まって来ているのが見えた。
「犬……ですか?」
「そうよ。卵を執拗に投げていたのは、匂いで公園の犬を彼の元に引き寄せるためだったの」
 続樹は十匹くらいの犬に囲まれ、じゃれつく犬達にズボンの裾をペロペロと舐められ始めた。さすがの彼もその状態では身動きが取れなくなる。
「さて、仕上げと行くわよ」
 会長はカルナボールが入ったトートバックを地面に置き、卵を一つ握りしめる。そしてまるでマウンドに立ったかのように、すうっと呼吸を整えた。
 狙うは続樹の足元。ゆっくりと上がる左の太もも。上半身を前に傾けると、テイクバックした右手が宙に高々と上がる。
(ええっ!? そのモーションって……)
 俺の懸念は的中。会長は美しいアンダースローで、続樹に向けて卵を繰り出した。
(ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれよ。その投げ方じゃ卵が続樹の体に当たっちまうじゃねえかよ!!???)
 地面スレスレの位置から放たれた卵は、公園の木々の間を抜け、犬達の間を抜け、続樹の股間に命中する。
「うっッッ……」
 呻り声を一つあげた続樹は、ドサリと林の中に倒れ込む。周囲の犬は、ここぞとばかり彼の股間を舐め始めた。
 その光景を、ニヤリと笑いながら見つめる会長。その姿に俺は、沸々と怒りが込み上げて来た。
「何やってんだよォ、会長! あれ程、あの卵は体に当てないって言っておきながらッ!!」
 俺は初めて会長に会った日のことを思い出していた。屋上から投げられたカルナボールをダイビングキャッチした俺のことを、彼女は心から心配してくれていた。
 たしかに続樹の行為は許されるものではない。しかし彼を成敗するために日頃からの信念を曲げてしまうのであれば、俺はこれから何を信じたらいいのだろう。そう思った瞬間、どうしようもなく目頭が熱くなった。
「会長の事、心から信じてたんだよ。人に何を言われようとも、悪者扱いされようとも、信念を曲げない会長の事を。そんな会長のことが好きだった! だから放課後の特訓にもついて来たんだッ!!」
 今思えば、俺にだって思いをぶちまける存在が必要だったんだと思う。会長だけが感情をため込んでいるという認識は俺の思い上がりだった。
「それを何だよッ!? 悪者だからカルナボールを体に当ててもいいってか!? 会長がやったことは続樹と変わんねぇじゃねえか! 全く幻滅だよッ!!」
 いつの間にか、俺の目には涙が溢れていた。
 その姿を見て会長が呟く。
「ありがとう理雄君。うん、ありがとう……」
 そして真っ直ぐ俺の目を見て真実を打ち明ける。
「大丈夫、私は決して信念を曲げないから。だってさっき投げたのは、本物の卵だもん」
 えっ!? 本物だって??
 俺は倒れたままの続樹を見る。もしあれがカルナボールだったら、彼は煙に包まれて見えないはずだ。
「それに特訓の成果もちゃんと出たみたいだし」
 会長はニコリと笑う。まるで女神のように。
 言われてみれば、確かにバットの下に当たってる。ていうか、本物の卵の方が行為としてはひどいんじゃないの。祖母ちゃんの遺言にも反するし。
「ほら、ぐずぐずしないで彼のアクションカムを回収して、ペロペロされてる恥ずかしい写真を撮ってくるのよっ!」
 なんだよ、涙を流して損した。全く人使いが荒いんだから……。
 ブツブツ文句を言いながら俺が続樹に向かって駆け出した瞬間、背後で「きゃっ!」っと可愛らしい声が響く。振り返ると、いつの間にか集まって来た犬達が、会長のスカートの中に頭を突っ込んでパンツをペロペロと舐めていた。水色の卵柄のパンツを。
 まあ、当然の結果だろう。さっきは散々、パンツを隠そうとカルナボールを投げ込んだんだからな。
 とりあえず俺は訊いてみる。
「会長、俺はどうすればいいんだ?」
「そんなことくらい自分で考えなさいよっ!!!」
 だから俺は、迷わず会長の手を取って二人で公園を後にしたんだ。
 えっ? 生徒会的には続樹のカメラを回収した方が良かったんじゃないかって?
 俺は後悔していない。だってあの時、カルナは俺の手をぎゅっと握り返してくれたんだから。


 了




ライトノベル作法研究所 2017GW企画
テーマ:『不思議な卵』

プチ変換2017年01月18日 23時09分24秒

「先生は、チンチンになりました」
 教室に響く可愛らしい声に、教壇に立つ俺はあ然とした。
 ええっ?
 何を言ってるんだ、この子は!? 授業中に。
 もしかしたら聞き間違いかもしれない。俺は早速確かめる。
「引川千絵さん。教科書のさっきのところ、もう一回読んでくれないかな?」
「はい、わかりました」
 小学六年生とは思えないハキハキとした返事。俺を向く真摯な眼差し。
 こんな真面目な子がふざけて教科書を読んでいるとは、とても思えない。
「先生は、チンチンになりました」
 やっぱり……。
 聞き間違いじゃなかった。
 そこで俺はあることを思い出す。
 そっか。
 あれか……。
 ――小さな異能者。
 今日から俺は、そんな小学生たちを教えることになったのだ。

 ◇

 発端は、先月掛かってきた一本の電話だった。
『ねえ、太田クン? 来月から私の代わりに、ちょっと面白いクラスを教えてみない?』
 真夜中に突然。
 眠い目を擦りながら、スマホからの妙に明るい声に耳を傾ける。
 まあ、こんな時間にこんな電話を掛けてくる人物は決まっている。大学時代にお世話になった安藤妙子先輩だ。
「来月からって、そんな急には無理ですよ」
『あれれ? 太田クン、今月で暇になるんじゃないの? 臨採やってるクラスって、前任者が産休明けで帰って来るって聞いたけど』
 臨採というのは、教員の臨時採用のこと。教員免許は持っているが採用試験には通っていない人が就くのがほとんどで、産休などで急に欠員となった穴を埋めるケースが多い。あくまでも臨時の先生なので、産休明けで先生が戻ってきたらお役御免になってしまう。
「どうしてそんなこと知ってるんですか?」
『私を誰だと思ってるの? この業界は狭いのよ。それで? 返事は?』
 矢継ぎ早に俺の回答を求める先輩。いつもながらに勝手なもんだ。どんな子供たちを教えるのかがわからなければ、答えようがないじゃないか。
「ちょっと面白いクラス、ってのが気になりますね。先輩の言う『面白い』が、俺にとって面白かった試しは一回も無いんですけど」
 不躾には嫌味で返す。大学の頃、俺は先輩にいじられてばかりいた。
『あら、本当に面白いクラスよ。太田クンも気に入ると思うんだけどな。ところで私が今、森葉女学園に勤めてるのは知ってるよね?』
 ――私立森葉女学園。
 小・中・高一貫の、お嬢様が通う私立学園だ。どこかのアイドルグループの名前ではない。
「ええ、知ってますよ」
『その初等科の六年三組が、今、私が担当しているクラスなんだけど、少し変わってるのよ』
 森葉女学園には、かなり世間ズレした女の子が通っていると聞いた事がある。その中でも変わっているという言うのだから、相当なものだろう。
 これは注意せねば、と一言一句聞き逃さぬよう先輩の説明に集中する。
「それで、どんな風に変わってるんですか?」
『おっ、乗り気になってきたね』
「そんなわけじゃないですよ。もしかしたら、ってのはありますけどね」
 森葉女学園は私立学校だ。ということは、県の採用試験に合格していない俺でも正規採用してもらえる可能性がある。先輩のクラスがどれだけ変わってるのか分からないが、我慢できる範囲であれば渡りに船かもしれない。
 しかし、続く先輩の言葉に俺は耳を疑った。

『六年三組の子はね、みんな小さな異能者なの』

 異能者? この現実世界に?
 アニメかなにかと勘違いしているんじゃないだろうか。
「い、異能者……ですか?」
『まあ、異能者ってのはちょっと言い過ぎだけど、みんなが小さな特殊能力を持ってるの。例えば、プチ変換とかミニ変換とかね』
 プチ変換? ミニ変換?
 なんだそれ?
 なんでも小さく変換しちゃう能力とか?
『電話じゃ上手く説明できないんだけど、決して超能力じゃないから安心して。実際に人間ができる範囲の習慣というか癖というか、そういうものに近いから』
 こんな説明じゃ、なんだかよくわからない。
『本当にたわいもない微笑ましい能力なのよ。他にも、ナラ変換とかシガ変換って子もいて面白いわよ』
 奈良変換? 滋賀変換?
 おいおい、変換が関西まで及ぶのか? それは大変だぞ? 京都や大阪じゃないところが、小さいというかなんというか……。
「それで先輩のクラスの子、能力の属性はどの子もみんな『変換』なんですか?」
『おっ、属性なんて言葉使っちゃって、興味が湧いてきた?』
「そういうわけじゃないですけど、ちょっと面白そうだなって」
 すると先輩は真面目な声で切り出した。
『これは太田クンにとっても悪い話じゃないと思うの。来月の一月から三ヶ月間、ちゃんとクラスを教えることができたら、四月から正規採用してもいいって理事長も言ってるわ。大丈夫、私だって教えることができたクラスだもん。太田クンなら間違いないわ』
 おおっ、正規採用キター!
 それに初等科の六年生ってことは、どんな能力者であれ三ヶ月間我慢すれば中等科へ上がってしまうってことだ。その後は、正規採用と普通クラスの担任が俺を待っている。
「わかりました。前向きに考えておきます。それで先輩は何で辞めちゃうんですか?」
 俺は核心を突く。すると先輩は急にデレデレ声になった。
『それがね、聞いてよ、できちゃったのよ』
 えっ、できちゃった?
「できちゃったって、巷でよく聞く『できちゃった婚』ってやつですか?」
『そうなのよぉ。飲み屋でなんだか見たことのあるようなイケメンにナンパされて、お持ち帰りされちゃったの。妊娠したこと後で彼に伝えたら、結婚しようってちゃんと言ってくれたのよぉ』
 ええっ、そんなことってあるか!?
 まあ、やり逃げされなかったのは良かったと思うけど。
「その人、ちゃんと仕事してます? 騙されてるんじゃないでしょうね?」
 やっぱり結婚やめた、なんてことになったら俺の就職はパーだ。ここはしっかりと確認せねばならぬ。
『それがね、彼ったらプロ野球の選手だったの。広島の方に本拠地があるチームのレギュラー。道理で見たことのある顔だったわけよ』
 う、嘘だろ?
 ナンパしてきたイケメンがプロ野球選手で、レギュラーってことは今シーズンの優勝メンバー!?
 これが本当だとしたら奇跡としか思えない。
「まさに神ってますね」
『でしょでしょ!? 結婚したら家庭に入ってくれって言われて、来月、広島に引っ越すことになっちゃったの』
 マジか。広島に行くなら森葉女学園は辞めざるを得ない。
『太田クンが六年三組を引き継いでくれたら、こっちも安心して広島へ行けるんだけどなぁ……』
 そんな猫なで声で言われても……。
 本当に勝手なもんだ。
 先輩ののろけ声を聞いていると、無性に背中がむず痒くなる。置いてきぼりになるクラスの子供たちがなんだか可哀想になってきた。
「わかりました。やりますよ。その代わり正規採用の件は理事長に念押ししておいて下さいね」
『サンキュ! さすがは私の後輩。彼の試合のチケット贈るから見に来てね。あっ、あと離任式の祝辞の文面もよろしく。素敵な内容を期待してるから』
 こうして俺は、先輩の代わりに六年三組を受け持つことになった。

 ◇

 六年三組での最初の授業は国語だった。
「先生は、チンチンになりました」
 そしていきなり、この引川千絵の発言。
 俺は教科書を確かめる。
 彼女に音読を頼んだ箇所には、こう書かれていた。

『先生は、プンプンになりました』

 何度目をこすっても、『チンチン』には見えない。
 初めて教えるクラスだ。引川千絵がどんな子なのか、そしてどんな能力を持っているのかわからない。
 が、とりあえず間違いを指摘しておこうと俺は口を開く。
「引川さん、ここは『プン……」
 すると突然、俺の言葉を遮るように一番前の席に座っていた子が手を上げた。
「先生!」
「えっと……」
 この子は誰だろう?
 俺は慌てて教卓に貼ってある座席表を確かめる。
 猫山路美。学級委員長だった。
「なんでしょう? 猫山さん」
 すると猫山路美は立ち上がり、うつむいたままの引川千絵を横目で見ながら俺に訴える。
「千絵ちゃんはプチ変換なんです。仕方がないんです。スルーしなきゃダメなんです」
「プチ変換……?」
 これが先輩の言っていたプチ変換か。
 それは、どんな能力?
 教科書の『プンプン』を『チンチン』と読んでしまうことに関係があるってこと?
 この際だから、学級委員の彼女に聞いてみるのも手かもしれない。
「俺は今日が初めてだから、よく分からないんだ。ちょっと教えてくれないかな」
 すると猫山路美は教室を見渡し、クラスに異論が無いことを確認してから俺を向いた。
「プチ変換っていうのは、文書の『プ』を『チ』って読んじゃう能力のことなんです。だから『プチ変換』って言うんです。千絵ちゃんは、『プンプン』と読んでるつもりでも『チンチン』って言っちゃうんです」
 ま、まさか、そんなことが……。
 俺は思わず言葉を失った。
「それに、千絵ちゃんの苗字は『ヒクカワ』ではありません。『プルカワ』なんです」
 ――引川千絵(ぷるかわ ちえ)。プチ変換。
 こうして俺の、波乱万丈の一日が始まった。

 ◇

 それにしても、なんて不思議な変換能力なんだ。
 プチ変換とは、『プ』を『チ』と読んでしまう能力だった。
 能力の概要を理解した俺は、二時間目からは彼女らを観察する余裕が生まれていた。例えば――

 二時間目、社会。
 ミニ変換、三浦二衣奈(みうら にいな)の場合。
「少子化対策におけるニンシン党の政策は……」
 おいおい、党を挙げて頑張ってるみたいに聞こえるぞ。

 三時間目、歴史。
 ナラ変換、七草来夏(ななくさ らいか)の場合。
「大阪冬の陣で、幸村が造ったサラダ丸は……」
 なんだか可愛いな……。

 四時間目、理科。
 シガ変換、進藤伽藍(しんどう がらん)の場合。
「琵琶湖に雪がガンガンと降ります」
 うわぁ、そのまんまやん!

 確かにこれは、先輩が言うように習慣とか癖のようなイメージに近い。が、初めて目にした語句でも変換されてしまうらしいので、習慣や癖と断定し難く、そういう意味では一種の特殊能力なのだろう。
 それにしても魔法のような力じゃなくて良かった。
 実を言うと、プチ変換っていろんなものを小さくしちゃうんじゃないかとビクビクしていたんだ。
 ほっとしたような、でもやっぱりちゃんと気をつけなきゃいけないような、複雑な気持ちで俺は最初の一日を終えた。

 ◇

『どうだった? 六年三組』
 帰宅すると、早速先輩から電話がかかってきた。
「可愛かったですね、子供たち。スルー力も高いし」
『でしょ? みんなそれぞれの変換能力を持ってるからね。それを分かってるから、変なことを口にしても誰も笑ったりしないしね』
 確かにこれはすごかった。
 もしクラスの中に男の子がいたら、『チンチン』と変換したとたん教室は爆笑に包まれてしまうだろう。そうなったら、もう学校に行きたくなくなるのは間違いない。特殊能力ゆえに私立のお嬢様学校に通わせる親の気持ちがよく分かる。
『それで明日の離任式の祝辞、ちゃんと考えてくれたよね』
 明日は、一月一日付けで学校を離れる先生方のために離任式が行われる。もちろん先輩も見送られる予定だ。
「ええ、ちゃんと書きましたよ。なるべくカタカナを入れないようにして」
『それが賢明だわ。それで、どの子に読んでもらうつもり?』
「やっぱり、学級委員長の猫山路美にしようと思います」
 今日は彼女に助けられた。それに、彼女がクラスの信頼を得ていることも確認することができた。祝辞を読むのは、委員長の猫山路美で決まりだろう。
『そうね。あの子はクラスで一番賢いから適任だわ』
「ですよね。もし引川千絵だったら、『プロ野球』を『チロ野球』って読んじゃいますからね」
 すると先輩は電話の向こうで苦笑する。
『千絵ちゃんならそうね。『チロ野球』って、なんだか犬の野球みたい。ていうか、祝辞に彼のこと書いたの?』
「プロ野球選手くらいはいいでしょ? 先輩だってこの間、記者会見でデレデレだったじゃないですか。あとは明日の祝辞を楽しみにしておいて下さいね」
『何? 内容は秘密? 皆の前であんまり変なことバラさないでよね。彼も後で離任式のビデオ見るって言ってんだから』
「任せて下さい。かの流行語で会場をわかせてみせますよ」
 こうして俺は、満を持して離任式に挑んだのであった。

 ◇

 一月で異動や退職される先生方は三人だった。
 その中の一人、安藤妙子先輩はスーツの胸に花を飾り、体育館のステージに立って子供たちを眺めている。
 児童代表が三人、順番にステージに上がって祝辞を読み上げていく。六年三組の猫山路美の番は最後だった。

「安藤先生、長い間、大変お世話になりました」

 猫山路美の凛とした声が体育館に響く。
 緊張はしていないようだ。俺はほっと一息をつく。
 それにしても、原稿を読んでいるというのにこんなにも声が通るとは素晴らしい。
 彼女ならやってくれるだろう。立派な祝辞が演出できれば、俺の株も上がり、正規採用にぐっと近づくはずだ。
 しかし、続く彼女の言葉に俺は耳を疑った。

「先生のご結婚を一言で表すと、まさに『呻ってる』です」

 ええっ!?
 呻ってる?
 そんなこと、原稿に書いたっけ?

「呻ってる出会いで、先生はプロ野球選手との幸せを手にされ……」

 待てよ、そこは、かの流行語『神ってる』だったはずだ。
 まさか。
 これって……。
 念のため、俺は目の前の引川千絵に小声で確かめる。
「引川さん、ちょっと聞きたいんだけど、猫山さんは何変換だっけ?」
 ――猫山路美(ねこやま ろみ)。
 名前から推測される変換名を、引川千絵は口にした。
「路美ちゃんはネロ変換だよ」
 やはり、そうだよな……。
 このことは織り込み済みで、原稿もネロ変換されない語句を選んで吟味を重ねたんだ。カタカナだって『プロ野球』だけに留めている。
「路美ちゃんは頭いいからねぇ。ほとんどの漢字をカタカナのようにスラスラ読んじゃうんだよ」
 漢字をカタカナのように、だって!?
 ま、まさか、漢字がネロ変換されちゃってるとか!?
 するとステージ上の猫山路美の口から、信じられないような言葉が飛び出した。

「六年三組一同、先生のお幸せを、おポンドりして」

 おポンドりって何だよ。
 確かそこは『お祈り』だったはずだぞ。
 体育館もざわざわとざわつき始めた。さすがに『おポンドり』には、多くの人が違和感を覚えたようだ。
 それにしても、さっきの『神ってる』といい、一体どんな変換が起きているんだ!?
 ――『神ってる』と『お祈り』。
 変換されてしまった言葉を頭の中で並べて、俺は真相に気が付いた。
 そうか、そういうことだったのか!
 これはヤバい! 最後の言葉はもっとヤバい!!
 しかし、時はすでに遅し。
 猫山路美は声量を上げ、笑顔で締め括りの言葉を口にした。

「今日という日を、心からお呪いいたします!」





 おわり



ライトノベル作法研究所 2016-2017冬企画
テーマ:『小さな異能』

十月は君の寸角形2016年11月17日 05時49分49秒

 受験は、高三の夏休みが勝負を分ける。
 耳にタコができるくらい聞かされた言葉を、噛み切れずにいつまでも口の中に残っている肉のように苦々しく感じながら、僕は自室からぼんやり朝の空を眺めていた。
 飲み込みたいのに、飲み込めない。
 いや、飲み込んだら負けじゃないかと思うくらいの根拠のない抵抗感に、僕はもどかしく夏休みの初日を迎えている。
「あちぃ……」
 今日も外気温は三十度を超えるだろう。
 図書館は涼しいけど、あのギスギスした雰囲気と圧迫感が耐えられない。
 だから僕は、近所にできたばかりのショッピングモールを目指すことにした。

「いっちばーん!」
 ショッピングモールの三階にある広いフードコート。開店時間とほぼ同時だったから一番乗りである。
 とりあえず荷物を置いて、ファーストフード店でコーヒーを買って来る。窓際に広がるカウンター席の端っこが、今日の僕の特等席だ。
「意外といい席だな……」
 窓からは僕の住む街が見渡せる。採光には工夫がされていて、直射日光が当たることもない。
 今日はこの場所に夕方まで粘ろうという魂胆だ。フードコートに面するお店で飲み物を買っていれば文句は言われまい。昼食だってここで調達するつもりだし。
「それにしても広くて気持ちイイ!」
 僕は小さくノビをすると、両手を広げてカウンターにうつ伏せになった。そして木目調の真新しいプラスティックのカウンターに頬ずりする。図書館なんかよりも、こちらの方がずっといい。
「夏休みの初日に、いいとこ見つけちゃったぞ……」
 家族でここに来る時は、いつも休日。だから混雑しているというイメージしかなかった。
 でも平日の午前中は、なんて閑散としているのだろう。まるでこの場所は自分のためにあるようだ。
 早速僕は、教科書と参考書やノートを広げ、カウンターを贅沢に使いながら問題集を解き始めた。

「ふわぁぁぁぁ……」
 勉強に集中していると、いつの間にか夕方になっていた。
 僕は両手を広げて派手にノビをする。声も少し漏れてしまった。図書館でここまでやると目立ってしまうだろう。
 それにしても、こんなに勉強がはかどったのは久しぶりだ。
 懸念していた昼食タイムも、そんなには混雑しなかった。おかげで、ずっと教科書と参考書を広げたままで特等席を独り占めすることができた。
 唯一の問題は、食費やコーヒー代がかかることだ。
「でも、これだけ勉強が進むのだから……」
 親を説得できる自信はある。
 それに、塾や予備校に通うよりは安上がりのはず。この勉強法で僕の成績が上がれば、の話だが。
「だったら明日からも頑張らなくちゃ!」
 僕は、夏休み中はずっとここで勉強を続ける決意を固めていた。

 △

 こうして始めた夏休みのフードコート受験勉強も、あっという間に一ヶ月が過ぎる。
 親にも納得してもらい、毎日千円札を渡してくれるようになった。
 さすがに休日やお盆の時期は混雑してしまい、図書館に行かざるを得なかった。が、お盆が過ぎると、再び平日の閑散としたカウンターが戻って来た。
 やはりこの場所は、僕にとって天国だ。
 疲れた時は両手を広げて派手にノビができる。
 眠くなったらすぐにコーヒーが買える。
 問題を解く時だって、身振り手振りで考えても誰にも文句は言われない。まあ、これは受験本番では使えないけど。
 成績も着実に上がって――いるような気がしてる。だって、この間受けた模試なんか、夏休み前よりも軽快に問題を解くことができたから。
「あと十日か……」
 唯一残念なことは、順風満帆な僕のフードコート受験勉強が夏休みの終焉と共に終わりを迎えようとしていることだ。
 夏休みが終わったら高校の授業が始まる。平日にこの場所に来ることは不可能だ。
「放課後だけでも来てみるか」
 学校からここに直行すれば、夕飯まで二、三時間は勉強できるだろう。
 それもなんだか楽しそうだと、コーヒーを買うために僕は席を立つ。しかしこれが、小さな事件の始まりだった。
 コーヒーを片手にカウンター席に戻った僕は、広げたままにしていたノートを見てあ然とした。

『三角比なんてクソくらえ!』

 白いはずのページの真ん中には、マジックで描かれた攻撃的な丸っこい文字が躍っていた。
「誰っ!?」
 すかさず僕は周りを見回す。
 長いカウンター席には、僕と同じように参考書を広げている人達が五人くらい。しかし彼等彼女等は、いずれも勉強に集中していた。
 家族用のテーブル席にも、ポツリポツリと十人くらいが参考書を広げていた。が、勉強に夢中でこちらを見向きもしない。
 すると、近くのテーブル席に座る子供連れのお母さん達の一人と目が合った。コーヒー片手に、席に座ろうともせずキョロキョロしている僕を不審に思ったのだろう。
 ――あの、お母さん達が犯人?
 いやいや、それはないだろう。
 この落書きをするためには、僕が解いている問題が三角比であることを知る必要がある。うちの母親なんてこの間、「サイン、コサインって昔やったわね」と遠い目をしていた。広げた問題集の内容から判別できるとは思えない。
 そもそも、あそこにいるお母さん達が、わざわざこんな落書きをする理由はないだろう。
「となると……」
 三角比の存在を身近に感じている者の仕業。
 手っ取り早く言えば、犯人は僕と同じ高校生だろう。
「でも、動機が分からない」
 三角比の勉強を止めろ、という警告なのか? それとも単なる嫌がらせ? まさかの三角比反対派……とか!?
 すぐには結論が出そうもなかったので、心を落ち着かせるために席に腰かける。
 とりあえず数学の参考書を閉じておけば、どこからか見ているかもしれない三角比反対派の溜飲を下げることはできるだろう。
「三角比が原因じゃないとしたら、顔見知りの犯行か?」
 もしかしたら、このフードコートの中に同じ高校の生徒がいるのかもしれない。そうだとしたら、そいつは僕のことを知っているやつだ。きっと、最近調子付いてる僕の邪魔をしようと企んでいるに違いない。
 僕はもう一度、周囲を見回した。が、知っている顔は見当たらない。
「ちぇっ、全く誰だよ、こんなことするのは……」
 結局その日は、勉強に集中することはできなかった。

 その夜、ベッドに横になって僕は考える。
『三角比なんてクソくらえ!』
 席を離れている間に、そんなことを勝手に書かれたことがショックだった。
 誰かに自分の行動を見られているという恐怖もある。
 が、それ以上に僕には許せないことがあった。
 それは――三角比への冒涜。なぜなら僕は三角比が大好きだから。
 サインカーブのあの曲率がたまらない。綺麗な山と美しい谷を交互に描き出すサインカーブこそが、世界で最も美しい曲線と言えるのではないだろうか。
 僕はまだ直接見たことはないが、女性の胸の双丘もきっとサインカーブになっているに違いない。自然の美しさの根底には共通の法則があると信じている。
 だから僕は、勉強に行き詰った時には必ず、あの美しいカーブを思い描くことにしていた。
 目を閉じる。
 目の前に浮かぶ山と谷。
 ゼロから始まる曲線を、掌でなぞるように追えばすうっと心が落ち着いていく。パイ、二パイ、そして三パイで双丘の完成だ。
 僕はこの儀式を、勉強を始める前や行き詰った時に必ず行うことにしていた。そうすることによって、それまでの雑念がリセットされて集中力が蘇る。
「こんな美しいものに対して『クソくらえ』だなんて、許せない!」
 必ず犯人を捕まえて、とっちめてやる!
 僕は復讐を心に誓いながら、犯人を突き止める作戦を考え始めた。

 △

 次の日。早速僕は、一晩考えた作戦を実行する。
 これはかなり勇気のいる作戦だ。なぜなら、席を離れる時にスマホをテーブルの上に置いていくのだから。
 もちろんそのままでは盗まれてしまうので、教科書と参考書の下に隠しておく。そしてカメラの部分だけを覗かせ、録画機能を作動させたままにしておくのだ。
 午前中は何も起こらなかった。が、午後三時過ぎになって動きがあった。
 トイレで席を離れた時の録画に、僕の参考書を覗き込む見知らぬ顔が写っていたのだ。
「こいつか、犯人は……」
 女の子だった。
 キョロキョロと辺りを見回しながら参考書に近づき、内容をさっと確認して立ち去っていく。
 落書きはされなかったので、犯人である確証は得られなかったが。
「ふん、お生憎様だな。三角比じゃなくて」
 この時の参考書は英語だった。
 再び落書きされたら心が折れそうだったので、三角比のページは開かないように気を付けていた。
「それにしても、ゴツい男じゃなくて良かった……」
 僕はほっと溜息をつく。
 もしこれが目つきの鋭いガチムチ男だったら最悪だ。このフードコートから即刻撤退していたことだろう。
 まあ、丸っこい字から判断して、女の子らしいことは予想してたけど。
「割と可愛いらしい女の子じゃないか……」
 見かけない顔だから、同じ高校の生徒ではないだろう。
 フードコートで見掛けたらすぐ分かるよう、僕は何度も何度もその子の映像を眺めていた。

 次の日から僕は、フードコートにその女の子を探し始めた。
 が、どこにも見つけることはできない。
 しかし僕が席を離れると、不思議なことに一日に二、三回は参考書を覗き込みにやってくるのだ。スマホの動画がそれを物語っていた。
 そして僕は、あることに気がついた。
 数学、理科、英語、社会、国語。
 広げている参考書が変わると、女の子の表情があからさまに変化する。
 数学や理科では険しい表情になり、英語では眉間にシワを寄せる。そして社会や国語では口元を緩ませ、可愛らしい笑顔を見せる時もあった。
 その姿を見て僕は確信した。落書きの犯人は、間違いなくこの女の子――だと。
 もし、広げているページが三角比であれば、鬼の形相でマジックを握りしめることだろう。
 それならば先制攻撃と、僕は復習の意を込めて、あるイタズラを実行することにした。

 △

 夏休みもあと三日を残すばかりとなった月曜日のこと。
 午後三時すぎのトイレから戻って来ると、案の定、あの女の子が僕の特等席の前に仁王立ちしていた。
 そして戻って来た僕をギッと睨みつける。
「ちょ、ちょっと! 何、これっ!?」
 ノートを指差す女の子。その腕はプルプルと震えていた。
「これって盗撮じゃない! 盗撮は犯罪よっ!」
 実は、彼女が写っている動画からほっこりとした表情の彼女の顔写真を切り取って、ノートに貼りつけておいたのだ。『三角比、大好き!』という素敵なセリフを付け足して。
 ――やっぱり、三角比嫌いはアタリだったか。
 あまりにも予想通りの反応に可笑しくなった僕は、天井を見上げながらとぼけてみる。
「えっと、別に盗撮してたわけじゃないんだけど……。ただこの天井を観察してたんだけどなぁ。そしたら写っちゃった人がいるみたい。偶然にしてはありえない角度だけどね」
「キミね、女の子を観察することを盗撮って言うのよ。これは私を観察してたとしか思えない」
 彼女も引き下がらない。
 でも、頭に血が上っている時がチャンスだ。今の彼女なら簡単にボロを出すだろう。
「君が僕のノートに落書きなんかするから、仕方なくやったんじゃないか」
「仕方なくってなによ。キミが三角比なんか勉強してるからいけないんじゃない。あれはその報いよ、って、あっ……」
 彼女も気付いたのだろう。
 自分が落書きの犯人であると自白してしまったことを。
 でもよかった。僕に個人的な恨みがあるわけではなくて。彼女は純粋な三角比反対派だった。
「まあ、座りなよ。僕も悪かったよ、こんなことをして」
 そう言いながら僕はカウンター席に座る。
「私だって……ごめんなさい……」
 煮え切らない表情のまま、彼女も渋々、僕のとなりの席に腰掛けた。
「いや、でも、やっぱりキミの方が悪い。なによ、毎日毎日掌をヒラヒラさせて。あれって、すっごく目障りなの。気が散るの。やめて欲しいの」
 えっ、やっぱり個人的な恨み?
 あれを毎日観察されていたとは恥ずかしい。
「それで、何をやってるんだろうとキミの席を見に行ったら、私の嫌いな三角比じゃない。三角比なんて、地球上から無くなっちゃえばいいんだわ。というか、教えて。全然わからないの。困ってるの。ピンチなの。お願いします」
 挙げ句の果てに、涙目で懇願されてしまった。

「私ね、県立大学の日本文化学科を目指してるの。でも最近になって、センター試験も受けなきゃいけないことが判明してパニクってんのよ。それには数学があるの。三角比とか勉強しなくちゃいけないの。ヤバいの」
 ていうか、県立大学受けるならセンター試験は必至じゃないか。
 それが今頃判明しただなんて、そっちの方がヤバい。
「サイン三十度って何なの、あれ? 全く理解できないんだけど」
「えっ、サイン三十度って、二分の一だろ?」
「キミも先生と同じこと言うのね。あっちの人間ね。だから日本はダメになっちゃったのね」
 いやいや、日本はまだまだ捨てたもんじゃないと思うけど。
 というか、僕の答えと日本の未来を一緒にしないでくれ。
「誰も教えてくれないから恥を忍んで聞こうと思うんだけど、ちゃんと教えてくれる? バカにしない?」
「あ、ああ……」
 一体どんな質問をされるのか、恐怖しながら僕は返事をした。
 彼女の中に隠されたサイン三十度の秘密が今、明かされる。
「ねえ、なんで……二分の一なの? 〇・五じゃダメなの?」
 ええっ、そこ? 疑問点ってそこなの?
 僕はぷっと笑いたくなるのをこらえるのに必死だった。
「あー、今笑ったでしょ? 絶対、笑ったよね」
 プクッと頬を膨らませた彼女は可愛らしい。
 二重の瞳、ぷっくりとした涙袋。
 白状すると、最初に動画を見た時から気になっていた。が、目の前の彼女は、動画なんかよりもはるかに魅力的だった。
「そう、〇・五でいいんだよ。先生達が間違っている。それを僕が証明してあげるよ」
 僕はいつの間にか、自分の立場を先生側ではなく彼女側に置きたいと考えていた。

「サインとコサインの値って、テスト会場でも簡単に求めることができるんだ」
 そう言いながら、僕は筆入れから小さめの定規を取り出した。
「こんな風に、問題用紙の角に、長さ一センチの線を描くだけでいいんだよ」
 僕はノートの右下の隅に定規をあてて、角に小さな三角形ができるようにシャーペンで長さ一センチの線を引いた。
 ノートの右下隅に、寝そべったような小さな直角三角形が出来上がる。
 女の子は隣の席から身を乗り出して、僕の手元を凝視する。彼女の肩くらいまでストレートヘアがはらりと落ちて、Tシャツから出た僕の右腕にかかってくすぐったい。
「僕が描いた線とノートの下端との角度はだいたい三十度だろ? そうすると、この小さな三角形の縦の長さがサイン三十度の値になるんだよ。ほら、これを使って測ってごらん」
 僕は女の子に定規を渡し、ノートを彼女の方に差し出す。
 彼女はノートの端に定規を当て、目を凝らしながら縦の長さを測り始めた。綺麗な黒髪からいい香りがする。
「五ミリ……かな」
 そう答えながら、彼女がいきなりこちらを振り向く。不意に目が合って、ドキッとしてしまった。
「えっ、あっ……そう、ご、五ミリで正解。ってことは、何センチ?」
「〇・五センチ?」
「正解。だから、サイン三十度は〇・五でいいんだよ」
「へぇ~」
 溜め息を漏らしながら、女の子はノートの隅の三角形を見る。
 こんな簡単なことで三角比が求まるなんて、という驚きが瞳の輝きから見て取れる。
「じゃあ、コサイン三十度は?」
「今度は横の長さを測ってごらん?」
「横ってこの部分?」
 女の子はノートに顔を近づけて、必死に長さを測り始めた。
「えっと、八ミリ……くらいかな?」
「そう。だから、コサイン三十度は〇・八くらいなんだ」
「へぇ~。じゃあ、どんな角度でも、すぐにサインとコサインの値が出るの?」
「そうだよ。サイン二十度でもコサイン八十度でも、あっという間だよ」
 僕の言葉に女の子はさらに瞳を輝かせる。
「すごいすごい。これで試験は完璧……って、こんな適当な値で大丈夫なわけ?」
 女の子は、この必殺技の欠点を的確に指摘した。
 確かにこの方法では、おおよその値しか求めることはできない。しかも、かなりアバウト。
「きっと大丈夫だよ。だって君が受けるのはセンター試験だろ?」
「ええ、そうだけど……」
「だったら解答用紙は?」
「マークシート!!」
 それならば、必ずしもピッタリな値を求める必要はない。正確な選択肢を選ぶことができればいいのだから。
「でもね、でも……」
 まだ何か不満があるのだろうか?
 一瞬輝いた女の子の瞳がにわかに曇る。
「小っちゃい、小っちゃいよ、こんなミニミニ三角形! ちょっと待ってて、今いい物持って来るからっ!!」
 そう言って、女の子はフードコートの端っこに向かって走り出した。
 Tシャツとキュロットスカート。黒いストレートヘアを揺らしながら駆けていく女の子の後ろ姿を、何か大切なものが離れて行くような感覚で僕は眺めていた。

 あんな場所にいたのかよ、と思ってしまうほど遠くの席まで行くと、女の子は荷物の中から何かを手にして戻って来る。
 それは筆入れと問題集だった。
「さっきの三角形、この曲尺でもいいんだよね?」
 息を切らしながら、女の子は筆入れから何かを取り出した。
「カネジャク?」
 聞きなれない言葉に、僕は彼女が取り出したものを凝視する。
 それは、プラスティックでできた長さ十センチくらいのL字型の定規だった。
「一の長さの線が引ければいいんだよね?」
 彼女は先ほどの席に座り、僕のノートの隅に斜めの線を引く。
 ――ええっ、これってどういうこと!?
 その三角形は、僕が描いた一センチの三角形よりもはるかに大きかった。そう、三倍くらい。
「どう?」
 女の子は鼻息を荒くしながら僕の方を向く。
 どうって言われても、デカいという言葉しかない。
「これ、一センチじゃないよね?」
 どう見ても三センチくらいはある。
「そうよ。だってセンチじゃないもの」
「じゃあ、インチ?」
「バカね。日本文化学科を目指してる私が、そんなメリケングッズを使うわけないでしょ?」
 バ、バカって……。
 ちょっとムッとしてしまった僕だが、日本文化と言われて思い当たるものがあった。彼女が線を引いたL型の定規は、大工がよく使っているものとそっくりだ。
「インチじゃないとしたら、これは……?」
「一寸よ」
 寸!? 寸って尺貫法の寸だろ? それって、いったい何時代の話だよ。
「一寸って……何センチだったっけ?」
「三・〇三センチよ」
 即答だった。
「そんなことも知らないの?」
 ささやかな逆襲付きで。
「そしてこの定規は二・五寸曲尺」
 その言葉を聞いて僕は反撃に転じる。
「カネジャクって、その定規は金属製じゃないじゃん。プラスティック製だろ?」
 すると彼女は呆れた顔をする。
「何言ってんの? 『曲がる尺』って書いて、カネジャクって読むのよ。キミは数学には詳しそうだけど、何も知らないのね」
「ぐっ……」
 僕は言い返す言葉を失っていた。
 そんな僕をよそに、彼女は大きな三角形の縦の長さを測り始める。
「ほお、確かに〇・五寸だわ。サイン三十度は〇・五ってことね」
 しかし、まさか寸を使うとは思わなかった。確かにこれなら、センチよりも正確に長さを求めることができる。
「ああ、そうだよ……」
 小さな敗北感で心を満たしながら、僕は静かに頷いた。
「それで、コサイン三十度は、っと……」
 彼女は続いて横の長さを測り始める。そして表情を曇らせた。
「〇・八七寸じゃない。キミはさっき嘘を言ったわね」
「嘘って、〇・八センチって測ったのは君じゃないか」
「あれは小っちゃすぎてよく分からなかったのよ」
 ぶすっと頬を膨らませながら、彼女は問題集を広げ始めた。
「えっと、問題集のコサイン三十度の答えは……」
 彼女の表情はだんだんと暗くなっていく。
「二分の、二分の……」
 その先が読めないらしい。
「ルート三」
「そうそう、ルート三よ。分かってるわよ。ちょっと忘れてただけよ。ってそれ、何だったっけ?」
 せっかく助け舟を出してあげたのに、ズッコケそうになる。
 だからちょっと意地悪してみることにした。
「人並みに奢れや」
「なっ!?」
「だから、人並みに奢れや!」
 一瞬言葉を失った彼女だが、すぐに顔を真っ赤にして反論する。
「ちょ、ちょっと、いきなり何言い出すの? そりゃ、サインやコサインを教えてくれて感謝してるわよ。奢ってあげたい気持ちにもなったわよ。でも盗撮やコラ写真の件はどうなるの? 差引すると、どうみても私の方が奢ってもらう方だと思うんだけど。試しにこの周辺の女の子に聞いてみてもいいわ。きっと同じ答えをすると思うから」
 この人に口では敵わないなと思いながら、僕は種明かしをする。
「悪かった。ちょっと落ち着いて。『人並みに奢れや』ってのは、ルート三の覚え方だよ。一・七三二〇五〇八だから」
「えっ……」
 彼女は、恥ずかしさで表情をさらに赤くする。
「君に奢ってあげてもいいけど、代わりに他の数学裏ワザってのはどう?」
 もっと君と話してみたいから。
 受験を共に戦う仲間も欲しかった。このフードコートを愛する彼女なら、共感する部分も多いだろう。
「ほ、ホント!?」
 ぱっと輝く彼女の瞳を見て、僕はこの選択肢で良かったと実感する。
 それから夕方まで、僕は彼女に数学を教えてあげ、裏ワザをまとめた冊子を作ってあげることで話が盛り上がる。
「じゃあね! 裏ワザ冊子、よろしくね」
「ああ、期待しててよ」
 曲尺が入った筆入れを抱いて去っていく彼女の後姿を、僕はいつまでも見送っていた。

 △

 それからの僕は、勉強に疲れると一服代わりに裏ワザ冊子作りに打ち込んだ。
 時にはあまりにも没頭してしまい、受験勉強との時間配分が逆転してしまうこともあった。
 ――輝く彼女の瞳を、もう一度見たい。
 その一心は、僕をどこまでも突き動かす力を持っていた。
 しかしあの日から、彼女は僕の前に姿を現すことはなかった。フードコートを見回してみても、彼女の面影を見つけることはできなかった。

 夏休みが終わると、フードコート受験勉強は放課後の限られた時間だけになってしまう。
 ――あの時の約束、忘れられちゃったんじゃないだろうか。
 そんな不安が心を支配する日は、勉強が全く手につかなかった。
 ずっと彼女の動画を眺めている時もあった。
 それでも、このフードコートに来ることだけは続けていた。だってここは、彼女と出会える唯一の場所だから。
 この期に及んで、僕は彼女の名前すら聞いていなかったことに気付く。どこの高校に通っているのかも分からない。
 ――何で姿を現してくれないんだよ……。
 夏休みに急上昇した僕の成績は、九月になって下降に転じてしまった。

 十月になると、僕は約束の冊子作りを止めた。
 他人の受験勉強のために自分が犠牲になるのはあまりにも悲し過ぎる。
「夏休みの宿題、ついに受け取ってもらえなかったな……」
 こうなることは二人の運命だったんだ。
 自分に言い聞かせる言葉とは裏腹に、僕はいつまで経っても約束の冊子をバッグの中に入れ続けていた。

 △

 十月も終わりを迎え、三十一日になった。
 先週末に文化祭があったので、月曜日の今日はその代休だ。僕は二ヶ月ぶりに、午前中からフードコートに向かう。
「いっちばーん!」
 この感覚は本当に久しぶりだ。
 ファーストフード店でコーヒーを買って、いつもの特等席に腰かける。黄色く染まる街路樹が朝陽に輝く。街はすでに冬支度を始めていた。
 この場所に通い始めて、すでに三か月が経った。この特等席は、もう自分のもののように感じていた。
「本当にここの環境は自分向きだな」
 疲れた時は両手を広げて派手にノビができる。
 眠くなったらすぐにコーヒーが買える。
 問題を解く時だって、身振り手振りで考えても誰にも文句は言われ――ちゃったんだよな。あの時、あの女の子に。落書きという形で。
 僕は彼女の面影を思い出していた。
 あれから一度も彼女には会っていない。
 おそらくここには来ていないんじゃないかと思う。
「それなら、久しぶりにやってみるか」
 僕は目を閉じ、掌に意識を集中させる。
 しばらく封印していたサインカーブの儀式。パイ、二パイ、そして三パイで心の中に完璧な双丘が完成した。
「ふふふ、また落書きされちゃったりして……」
 そうなったらいいなと思う。
 しかし、トイレや買い物から戻って来ても、ノートは真っ白のままだった。

「ふわぁぁぁぁ……」
 秋の日はつるべ落とし。午後三時を過ぎると、たちまち空が重くなってくる。
 僕は特大のノビをすると、トイレで席を離れた。
 今日は久しぶりに勉強がはかどった。やはりサインカーブの儀式の力は絶大だ。
 そしてカウンターに戻って来た僕は目を丸くする。
 ノートの真ん中に、あの時のような落書きが躍っていたのだ。それは、ぎこちない三角形と丸っこい『寸』の文字。
「えっ!?」
 振り返ると、「久しぶりね」と温かそうなセーターに身を包んだ彼女が立っていた。

「今日はね、キミにお礼を言いたくてここに来たの」
 懐かしい顔に、今までこらえて来た感情が溢れ出そうになる。
 言いたいことも一杯。聞きたいことだって一杯。
 それを考えるだけで、ドキドキと胸の鼓動が高鳴り出してきた。
 そうだ、彼女に夏休みの宿題を渡さなくっちゃ!
 僕は、裏ワザ冊子が入ったバッグをチラリと見る。
「私ね、数学ってずっと難しいものだと思っていたけど、キミのおかげでかなり前向きになれたの。それがきっかけで、いろいろなことにチャレンジしてみたんだけど……」
 良かったぁ。僕が教えた裏ワザが功を奏したんだ。
 だったらこの冊子があれば、もっと彼女の役に立つに違いない。
 やっと夏休みの宿題が完成したんだ。ぜひ君に受け取って欲しいと言おうとした時、彼女は満面の笑みで僕にこう告げた。
「そしたらね、受かったのよっ。無理だと思ってた法慶大学の日本文化学科の推薦入試に! もう数学なんて勉強しなくていいのっ!!」




 了



闘掌’16秋
テーマ:『秋』
サブテーマ:『夏休みの宿題』

君の鼻血は涙の味がする2016年09月14日 07時26分23秒

「僕、吸血鬼なんだ」
 それは五年前。
 中学二年生だった私に、いきなり掛けられた一人の男の子の言葉。
「だから、君の血をもらってもいい?」
 小高い丘の、町が見渡せる気持ちのよい場所なのに。
 ベンチに並んで夕陽を眺めていたところを、なんで? と私は彼を向く。
「…………」
 私を見つめる男の子の表情。
 視線は至って真剣。
 冗談を言っているようには思えない。
 名前は不振石健(ふらずいし けん)くん。
 この間、越してきたばかりのクラスメート。
 目元がキリッと締まって、鼻筋も通ったイケメンだ。
 町のことを教えてほしいって頼まれて、案内しているうちにこの場所にたどり着いた。
「それって……痛いの?」
 やっとのことで私の口から言葉が出てくる。
 痛くないのなら、健くんだったら許していいかも、とちょっぴり思ってしまう。
「あわわわわ、痛くない、痛くないよ」
 顔に似合わず、健くんは慌てふためいた。
「だって、ガブってするんでしょ?」
 私の脳裏に浮かぶ、首筋に歯をたてる吸血鬼の姿。
「そ、そ、そんなことしたら血が出ちゃうじゃないか」
 血が出ちゃうって、血が欲しいんでしょ?
 健くん、本当に吸血鬼?
「ガブってしないで、どうやって……?」
 不思議に思う私を横目に、健くんは立ち上がる。
 そして三歩前に進んでこちらを振り向き、いきなりダンスを踊り始めた。
 ロックミュージシャンのような。
 腰をカクカクさせる仕草を強調して。
 踊り終わった健くんは、息を切らしながら私に問いかける。
「どう? 興奮した?」
 ええっ? 興奮?
 あのカクカクダンスで?
 目をぱちくりさせる私。健くんは焦った表情を見せる。
「おかしいなぁ……。女の子はこんなダンスに興奮するって雑誌に書いてあったのに」
 どこのどんな雑誌なんだか。
 私を興奮させてどうするの?
「それで?」
「そしたら鼻血が出るだろ」
 えっ?
 思わず固まってしまう。
「鼻血だったら、ガブってしなくても済むかなぁって……」
 健くんって、かなりチキンな吸血鬼なのね。
 そんな理由で、ダンスを踊ってたんだ。
 必死に何度も腰を突き出して。
 私に鼻血を出させるために。
「あはははははは!」
 理由が分かると、なんだか可笑しくて、私は笑い出してしまった。
「な、なんだよ、笑うことないじゃないか? こっちは必死だったんだから」
 必死だったから可笑しいんじゃないのよ。
 拗ねた健くんの顔も面白い。
「はははははははは、あー、可笑しい」
 私の笑いは加速した。涙も止まらなくなる。

 その時。
 何かの液体が、つーっと鼻から口にかけて流れてきたような……

「ほら、やっぱり出てきたじゃないか、鼻血」
 忘れてた。
 私、涙を流すと一緒に鼻血も出てくるんだった。
「いただきっ!」
 健くんは私に駆け寄ると、さっと私の顔に口を寄せ、ペロッと私の純血を奪っていく。
 そして満足そうに目を細めた。
「あー、美味しい! これが噂に聞く乙女の生き血か!?」
 あっという間の出来事だった。
「ちょっと涙の味がするけど……」
 なんてことしてくれるのよ。
 恥ずかしくて健くんの顔が見られない。
 ドキドキする胸の鼓動が止まらない。
 世界を赤く照らす夕陽様。どうか私のほおを、真っ赤に染まる私の心を隠して。
 そんな中二の夏。
 忘れもしない五年間の記憶。
 私、折絹真衣(おりきぬ まい)は、健くんに恋をした。

 ◇

 ヴァンパイアウイルス感染症。
 健くんがかかっている病気は、そんな名前だった。
 処女の生き血が無性に欲しくなる病気。
 ウイルスに感染すると身体能力がアップし、健康状態も格段に良くなるという。
 だから普段の生活には何の支障もない。
 問題は、生き血が欲しいという欲求を、時々抑えられなくなること。
 そして欲求に耐えられなくなって女性に噛み付くと、ウイルスが女性の体内に流れ込んでしまう。
 その量は、多くて一回あたり体内のウイルスの三分の一ほど。
 つまり四度目に噛み付いた時、体内のウイルスはすべて放出されてしまう計算になる。
 そして、その後に訪れる死。
 ウイルスをすべて放出してしまうからだろうか。
 生命維持機能をウイルス任せにしてしまった代償と、学者は言う。
 でもその詳細は、まだはっきりとは分かっていない。

 だから健くんは考えた。
 体内のウイルスを放出させずに生き血を味わう方法を。
 ――鼻血。
 これを舐めるだけなら、リスクを犯さずに生き血を楽しむことができる。

 そんな健くんの苦悩なんて知らない私は、丘での一件を両親に打ち明けてしまう。
 当然、驚き慌てる両親。
 私は、とある研究所に連れて行かれる。
 ――ヴァンパイアウイルス研究所。
 広葉大学の付属機関として、当時の日本で唯一ヴァンパイアウイルスについて研究している機関だった。
 そこで血を取ったり、機械で調査したり……。
 詳細な検査に一ヶ月もかかり、その間、私は入院することに。
 ようやく退院した私を待っていたのは、健くんが転校してしまったという悲しい知らせだった。

 健くんに会いたい。
 彼が座っていた教室の席を眺めるたびに心が痛む。
 私の純血を奪っていったあの人に。
 別れの言葉だって、かけてあげることができなかった。
 聞くところによると、健くん家族は夜逃げみたいに町を出て行ったという。
 だから誰も、彼の連絡先はわからない。
 私が両親に話したことで、おおごとになってしまったから?
 町中に、健くんの病気のことがバレてしまったから?
 罪の意識と彼への強い気持ちが二重に私を苦しめる。

 どこに住んでいるのかもわからない健くん。
 この病気の専門家になったら、彼に再会できるかも。
 高校に入った私は、ヴァンパイアウイルスについて勉強した。
 そして、検査でお世話になった広葉大学に進もうと心に誓う。
 将来、ヴァンパイアウイルス研究所に勤めることができれば、健くんに会える確率はぐっと高くなるはずだから。
 彼にひとこと謝りたい。
 そして私の想いを伝えたい。
 こうして、丘での一件から五年が経過した春、私は広葉大学の医学部――ではなくて看護学部に入学したのだった。

 ◇

「テニスサークル、入りませんかぁ~」
「サッカー部、マネージャー募集中でーす!」
 入学式が終わった後の大学ホール前は、新入生とサークルの勧誘でごった返していた。
 色とりどりのユニフォームに身を包む学生達。
 ところ狭しとプラカードが乱立する。
「バンドやりたい人、いませんかぁ~」
 ないない。私、音痴だから。
 勧誘の魔の手を振り払うようにして、私はずんずんと一人歩く。
「オカルトに興味ある人、いませんかぁ~」
 オカルト研究会?
 吸血鬼には興味あるけど、健くんの病気はオカルトじゃないからなぁ……。
「血を吸われてみたい人、いませんかぁ~」
 そうそう、吸血鬼ってこれよ。
 って……!?
 驚いて振り向くと、そこにはプラカードを持ってニコリと私に笑いかけるイケメンの姿。

 健くんっ!!!?

 思わず叫ぶところだった。
 彼が私に向かって変なことを言わなければ。
「おっ、処女の匂いがする。君、俺に血を吸われてみない?」
 なっ……。
 懐かしさよりも心無い言葉への反応が先に出る。
 私は固まった。
「さすがに大学生にもなると、可愛い処女さんが少なくなって困ってたんだ。君は久しぶりの可愛い処女さんだ。どう? 俺と一緒に活動しようよ」
 失礼な!
 どうせ私は処女ですよ。
 だって、それは……。
「健くんだよね。不振石健くん」
 やっと言葉が出た。
 健くんは驚きながらもまゆをしかめる。
「いかにも俺は不振石健だが……。はて? 俺が知ってる可愛い女の子は皆、処女ではなくなったはずなんだが……」
「…………」
 思わず言葉を飲み込んだ。
 懐かしくて、嬉しくて、喋りたいことが沢山あるのに、彼の言葉が心にストップをかける。
 健くんって、そんな軽い男になっちゃったなんて……。
 今まで私が追い求めてきた吸血鬼なのにガブってできないウブな健くんはどこへ行ったの?
 目頭がジーンと熱くなる。
 もう彼のことは忘れよう。
 同じ大学だったことは驚きだけど、もう私のことは忘れちゃってるようだし、軽い男に成り下がっちゃってるし、顔を合わせないようにすれば時が解決してくれるはず。何年かかるか分からないけど……。
「ごめんなさい!」
 涙を見せないよう、私は踵を返し脱兎のごとく走り出した。
 さようなら、健くん。
 私の純血をあげた健くんは、もう地球上から居なくなってしまったんだ。
 そう考えよう。諦めよう。
 会わなければ、顔を見なければ、時間がなんとかしてくれるだろう。
 しかしそれは甘い考えだった。
 看護学部のクラス分けが発表された時、私は現実の残酷さを知ることになった。

 ◇

「また会ったね、可愛いしょじ、うがががががが……」
 クラス分けの同じ部屋に居た健くんは、顔合わせ会が解散になったとたん、私に声を掛けてきた。
 私はすかさず彼の口に手を押し当てる。
 最悪……。
 これでは彼を忘れるどころか、美し思い出までもが汚されてしまう。
「うがががががっ!」
 口を押さえられて暴れる健くん。
 突然、掌に歯の硬い感触を感じて、私は素早く手を引っ込めた。
 危ない、危ない。
 こいつ、吸血鬼だった……。
 中学生の時はあれほどガブってすることを嫌がっていた彼を思い出し、今度は怒りが込み上げてくる。
「健くん、何しようとしてるの!? ちゃんと抗体飲んでて、そういうことしようとしてるんでしょうね!?」
 抗体と聞いて、講義室に残るクラスメートがこちらを向く。
 皆、看護学部の学生なんだから、一応興味はあるのだろう。
 その様子を見た健くんは、急に恐縮しながら私の顔色をうかがう。
「ゴメン。謝るから大声を出さないでくれよ。それに抗体のことも黙ってて欲しいんだが……」

 ヴァンパイアウイルス抗体製剤『クロス』。
 別名、十字架抗体と呼ばれている。
 三年ほど前に開発された、ヴァンパイアウイルスに対する抗体だ。
 これを飲んで数時間以内であれば、ヴァンパイアウイルスは噛まれた女性に流れ込むことはない。
 つまり、健くんは死に至ることもないし、噛まれた女性もウイルスに感染することもない。
 ヴァインパイアウイルス感染者にとっても、社会にとっても、夢の抗体製剤なのだ。
 この『クロス』のおかげで、それまでこそこそと隠れ住んでいたヴァインパイアウイルス感染者は社会権を得ることが可能となった。

「でもさあ、聞いてくれよ」
 なぜだかその後、私と健くんは喫茶店の窓際の席で向かい合っていた。
「クロスを飲んでから生き血を吸ってもな、ぜんぜん気持ちが良くねぇんだよ」
 健くんに手を引かれ、逃げるように講義室を後にした私たち。
 気がつくと、この喫茶店に座っていた。
「クロスの本当の意味を知ってるか? あれは十字架の『クロス』じゃないんだ。ウイルスの流れを閉ざすって意味の『クロース』なんだよ」
 そして健くんは、遠い目をしながら喫茶店の天井を向く。
「なんて表現したらいいんだろうなぁ……、あの感覚。クロスなしで、生き血を吸う素晴らしさ」
 そんなのわかりません。
 私、吸血鬼じゃないから。
「吸血鬼ってさ、血をたくさん吸うと思うだろ? でもそれは違うんだ。血はちょっとで十分なんだよ。肝心なのは放出するウイルスの量。ドクドクと、女の子の体の中に俺のものが流れ込む。くー、あれがたまんねぇ」
 ちょ、ちょっと。
 それってどいうことだかわかってんの!?
「魂の伝授っていうのかな。いや、リビドーの奔流と言った方がいいかもしれん。とにかく最高なんだよ。だから僕と……」
「健くん!」
 思わず私は叫んでいた。
 喫茶店のお客さんたちが皆、私を見る。
 あちゃー、やっちゃった……。
 私は恐縮しながら店内に軽く頭を下げると、再び健くんに向き直った。
「ねえ、本当にウイルスなんて流し込んだの? クロス飲まなきゃダメじゃない。健くん、死んじゃうんだよ、わかってるの?」
 小声を続けるつもりだったが、最後はちょっと涙声になってしまう。
「知ってる」
 真面目な声。
 私は涙を拭う。
「医者は、すでにリミットだって言ってた。だから次が最期」
「それって……」
「いいんだよ、俺は社会の邪魔者なんだから」
 彼の口から投げやりな言葉が漏れる。
 五年前を思い出す。
 夜逃げのように彼は町からいなくなった。
「クロスのおかげでこうして社会に出ることができたけど、実態は何も変わっちゃいねぇ。それにな、もっと悲しいことが俺の目の前で起きている」
 何度も引っ越しをして、何度も転校して、社会から隠れるように生きてきたのだろう。
 いじめられたり、時には迫害されたり……。
 そんな苦労は、私には分からない。
「それはな、俺の前からどんどん処女がいなくなってることだ」
 なっ……。
 それって、女の子の前でする話ぃ!?
「俺は幼女に興味はねえ。君みたいな可愛い処女さんに会うのは本当に久しぶりなんだ。同世代に処女がいなくなるのが怖い。そんな世界に未練はねぇ。君の血が吸えるなら、本当に死んだってい……」
 バチッ!
 彼が言い終わるのと私が彼の頬を叩くのは同時だった。
 やっぱり健くんは最低な男に成り下がってしまったんだ。
 私は立ち上がり、引き止めようとする健くんを無視して喫茶店を飛び出した。
 なにが、処女のいない世界よ。
 処女を減らしているのはあんたじゃない。
 ウイルスを流し込んで、そしてその娘の純潔を奪って……。
 本当に最低な男。

『だから次が最期』

 でもしばらく街を歩いていると、私の頭の中で健くんの言葉がぐるぐると回り始める。
 あの時の瞳が本物の彼なんだという希望を拭い去ることができない。
「まだまだ甘いなぁ……」
 いくら彼が最低な男であっても、そう簡単には忘れられないよ。
 だって初恋の人だったんだから……。

 ◇

「よう、可愛いしょじ、うぐっ……」
 それ以来、大学で会うたびに変な名前で読んでくる健くん。
 だから今度は彼のお腹をグーで殴る。
 最低な男に噛まれないように。
 講義や実習のたびに私にちょっかいを出してくる健くんとのやりとりは、悲しいことに日課になりつつあった。

「今日の講義は、十字架抗体と呼ばれている『クロス』について説明しよう」
 広い階段状の講義室に、教授の声が響く。
 ――ヴァンパイアウイルス概論。
 さすが、この大学の名物講義というだけあって席はほぼ埋まっている。
 それにカッコつけて、わざわざ私の隣に座る最低な男、若干一名。
「なあ、知ってるか? なんでこの大学がヴァンパイアウイルス研究のメッカと呼ばれてるか」
 ちょっと健くん、邪魔しないでよ。
 今、真剣に教授の話を聞いてるんだから。
 あからさまに嫌そうな顔をしても、彼はお構いなし。
「なんでもな、クロスの原液はこの大学にあるらしいんだ」
 そりゃ、世界で初めてクロスの生成に成功した大学なんだから、原液があるのは当たり前じゃない。
「俺が飲んでるクロスってさ、原液を百倍くらいに薄めたやつなんだって」
 そ、それくらい、知ってるわよ。
 濃すぎるのはダメだってことぐらい。
「それでさ、もし俺がクロスの原液を飲んだら……」
 飲んだら……?
 もったいぶる言い方に引っかかり、不覚にも私は健くんを向いてしまった。
 彼はニッと笑いながら、言葉を続ける。
「この病気が完治するらしいんだよ」
 えっ!?
 そんな話、聞いたことが無い。
 高校時代に読み漁ったテキストや論文にも、そんなことは一行も書いてなかった。
「ウソよ」
「ホントだぜ。それが目当てで俺はこの大学にいるんだから」
 えっ?
 ちょっと待って。
 それって……。
 病気を直したいってことじゃない。
 なによ、この間は『死んだっていい』って言ってたくせに。
 ただのカッコつけ?
 それならそうって言ってくれればいいのに……。
 健くんの入学の理由を知って、私は少しほっとする。
 本気で病気を直したいと思っているなら応援したい。
「それって、どこの情報?」
 ただし、病気が治るという情報が本当であるならば。
「とある関係者から聞いた話だ」
 とある関係者?
 怪しいわね。
 偽情報という可能性も考えられる。
 もしそうだったら大変だ。
 だってこれは、健くんの命に関わる問題だから。
「私ね、高校時代、ヴァインパイアウイルスについて一生懸命勉強したの。もちろんクロスについても。でもクロスの原液で病気が治るってどこにも書いてなかった。おかしいじゃない。それで治るんだったら、何で患者は減らないのよ。もしかしたら健くん、その誰かに……」
 その時だった。
 んんん、と教授が咳払いをする。
「ちょっとそこの君。今は講義中ですよ。話したいことがあるなら、ここから出て話してくれませんか」
 講義室中の視線が私に集まる。
「す、すいません」
 また、やっちゃった……。
 とりあえず謝ってみたが、注目を浴びたことには変わりない。
 すぐさまここから出て行きたいが、ほぼ満席状態なので出るにも出られない。人をかき分けて進めば、さらに注目を浴びそうだ。
 だから私は肩を丸めて、じっと動かぬアルマジロのように机に伏せる。
 恥ずかしい……。
 こんな最低男のために、ムキになっちゃって。
 なにやってんのよ、私。
「えっと、どこまで話したかな? そうだ、クロス、つまりヴァンパイアウイルスの最初の抗体は、五年前に軽度の感染者の血液から採取されたもので……」
 教授の講義が再開する。
 どうやら皆の意識は、私から外れたようだ。
 わずかに顔を上げて周囲を見回すと、健くんは何食わぬ顔で講義を聞いていた。
 なに?
 自分は関係ないって態度?
 本当に最低な男。
 講義が終わったらさっきのことについて追求してやるわ。
 そんな私には、一つ気になることがあった。
 ほとんどの学生が再び講義に集中する中、私の右斜め前方からこちらを意識する視線があったのだ。
 ――長い髪を軽く染めた女の人。
 チラチラと頻繁にこちらを向く彼女が例の関係者であることを知るのは、この後のことだった。

 ◇

 ヴァンパイアウイルス概論の講義が終わると、私は健くんを人気のない場所へ連れ出した。
 今は講義が行われていない、三階の小さめの講義室。
「ねえ、教えて。クロスの原液の話」
 そして私は単刀直入に切り出す。
「健くんだって、この大学の看護学部に受かったんだからわかるよね。クロスはヴァンパイアウイルスの働きをブロックするだけ。もし原液を飲んで、すべてのウイルスの機能がブロックされたらどうなるか知ってるの? 死んじゃうんだよ、健くん」
 ヴァンパイアウイルス感染者は、生命維持機能をウイルスに依存してしまっている。
 その機能がすべてカットされてしまったら、あとは死を待つだけなのだ。
「知ってる……」
 健くんはポツリとつぶやくと、私から目をそらし窓の外を向く。
 春の日差しが整った彼の顔を照らす。
 キャンパスの広場を見下ろせる窓。
 休み時間を満喫する学生たちの姿が、彼の瞳に写っていた。
「死んでしまうかもしれないことも。そして、クロスの原液が病気を治療する効果を持つかもしれないという極秘の研究結果があることも……」
 なに?
 その、極秘の研究結果って?
 そういえば健くん、さっきの講義中に『とある関係者』って言ってた。
 きっとその関係者に騙されているんだ。
 極秘の研究の実験台にされようとしてるんだよ。
「私、クロスについても一生懸命勉強した。でも原液にそんな効果があるなんで、どの本にも書いてなかった。健くんは騙されているのよ、その関係者とやらに」
「そうかもしれない」
「そうかもしれないって……?」
 それって、どういうこと?
 騙されていても、自分の命よりも、その研究が大事だってこと?
「前にも言っただろ。俺はもうこの世に未練はないんだ。だから最期に君の血がほしいって頼んだんだよ」
 窓に寄りかかり、私の瞳を見つめる健くん。
 お願いだから、そんな目で見ないで。
 健くんへの気持ちが蘇ってしまうから。
「でも、それは無理なんだろ?」
 ええっ?
 それって私が悪いの?
 だって、だって……。
 健くんが私にウイルスを流し込んだら、死んじゃうんだよ。
 もうリミットに達しちゃってるんだから。
「ほら、やっぱり無理って顔してる。だったら実験に協力して死んだ方が、世の中のためになると思わない?」
「…………」
 何も言葉が出てこない。
 どうして健くんは、誰の血も吸わずに静かに生きていこうって思わないの?
 血を吸いたくなっても、クロスを使えばいいだけじゃない。
 そう言ってあげたいのに、口から出てこない。
 なんで、なんで、なんで?
 私の血が欲しいと言ってくれたことが嬉しかったから?
 健くんにとって特別な女性になりたいと思っているから?
 その時だった、講義室の扉がすっと開いたのは。

「大丈夫よ。決して健は死なせない」
 入ってきたのは一人の女性。
 そう、さっきの講義の時に私のことを最後まで見ていた長髪の女性だった。
「瑠名花……」
 驚きの表情を見せる健くん。
 るなかって、その女性の名前?
 健くんの瞳の真ん中にその女性が映る。
 わずかに緩む彼の表情に、胸の奥がチクリと痛んだ。
「困るのよ、健。そんな見ず知らずの女に、パパの研究のことをペラペラと喋ってもらっては」
 腕組みをしたその女性――瑠名花は、健くんのことをキッと睨みつける。
「ゴメン……」
 すっかり恐縮した健くんは、ただうつむくだけだった。
「それに何? この女。散々お世話してあげた私を捨てて、この女に乗り換えようっていうの?」
「ち、違うよ。そんなことはない……」
 健くん……。
 態度がガラリと変わる健くんの姿を見て、悲しみがじわじわと湧き上がって来る。
 やっぱり、私の血を吸えたら死んでもいいっていうのはウソだったんだ。
 そりゃ、そうよね。
 こんなに綺麗な女性がいるんだから。
 どうせ死ぬなら、私なんかの血を吸うより、この女性に協力して死んだ方がマシだもんね。
 さっき、『パパの研究』って彼女は言ってたけど、その偉い先生の実験台にでもなればいいわ。
「それに、そこのあなた!」
 瑠名花は、今度は私を睨みつける。
「健は私のものなんだから、ちょっかい出さないで」
 ちょ、ちょっと。
 ちょっかい出してくるのは健くんの方なんだから。
 私は必死に忘れようとしてたのに。
「ふーん、あなた、可愛いくせに処女の匂いがするわね。そういうわけか……」
 何よ、そんな勝ち誇った顔をして。
 もしかして、健くんとすでに深い仲になっているとか……。
「言っておくけど、健はあなたに興味があるんじゃなくて、処女の生き血が好きなだけ。それにね、健は次に生き血を吸ったら死んじゃうの。だからね、あなたと健との未来はどこにもない。あきらめなさい」
 ――私と健くんとの未来はどこにもない。
 確かにその通りだ。
 健くんがクロスなしで私の血を吸ったら、彼は死んでしまう。
 健くんと私が男女の関係を結んだら、彼はもう私に見向いてくれなくなるかもしれない。
 残酷な現実がずしりと心を押しつぶす。
 だから私は健くんのことを諦めようと思ったんじゃない!
 あなたに言われなくてもわかってるわよっ!!
 叫びたい気持ちをぐっと我慢しているのに、瑠名花はさらに私の気持ちを逆なでする。
「わかった? どこの馬の骨だかわからない処女さん」
 寄ってたかって私のことを処女、処女って呼ぶなっ!
 私の怒りは爆発した。
「私にもちゃんと名前があります。真衣です。折絹真衣! 健くんとは何でもない。それだけは覚えておいて下さいっ!」
 私はチラリと健くんを見る。
 ちゃんと私の名前が聞こえたよね!?
 私たち、五年前に会ってるんだけど……。
 しかし、健くんは静かにうつむいたままだった。
 本当に忘れちゃってるのね……。
 崖から落とされたような、目の前が真っ暗になるような感覚。
 名前に反応してくれるんじゃないかと淡い期待を持っていた私は、本当にバカだ。
「折絹真衣!?」
 ところが予想外の事態が発生。
 健くんではなく、瑠名花が私の名前に反応したのだ。
「あ、あなたが、あの折絹真衣……なの?」
 どういうこと?
 健くんは無反応なのに、初対面の瑠名花の方が私の名前を知ってるなんて……。
「あはははははは……」
 そして瑠名花は高らかに笑い始める。
「これは面白い。いいじゃない、やれるもんならやってみなさいよ。私が見届けてあげるから。あはははは……」
 そのまま講義室を出て行く瑠名花。
 私はポカンとその場に取り残された。

 ◇

 全くわけがわからない。
 そもそもの話のきっかけは、クロスの原液を用いた秘密の実験についてだった。
 そこに現れた謎の女性、瑠名花。
 どうやら秘密の実験を実行しているのは、瑠名花の父親であるらしい。
 きっとその実験をきっかけに、健くんは瑠名花と仲良くなったのだろう。
 推測できるのはここまで。
 分からないのは、瑠名花がなぜ私の名前を知ってるのか?
 そして、私が折絹真衣であることを知った時の、瑠名花の異常な反応。
 その謎を教えてくれる唯一の存在――健くんは、窓際でうつむいたままだった。

「ねえ健くん、教えて」
 私は講義室の机に寄りかかり、優しく健くんに問いかける。
 なんだかこれは長い話になりそうな予感がした。
「あの女性は誰なの? 何で私の名前を知ってるの?」
 健くんはゆっくりとこちらを向く。
 そしてポツリポツリと語り始めた。
「広葉瑠名花(こうよう るなか)。この大学の理事長の娘だ」
 驚きが私の中を駆け巡る。
 り、理事長の娘!?
 だから、あんなに態度が大きかったんだ……。
「四年前のことだった。世間から逃げるように生活していた俺たち家族に、手を差し伸べてくれたのが理事長だったんだよ」
 ――ヴァンパイアウイルス研究の実験台として協力してほしい。
 ――その見返りに、家族の生活は保証するし、感染者を救う薬も開発してみせる。
 理事長からの提案を受け入れ、健くん家族は大学の近くに住居を移したという。
 そして、実験台として研究所に通う日々が続く。
 その甲斐あって、ついに抗体製剤『クロス』が開発された。
 クロスのおかげで社会権を得た健くんは、広葉大学付属高校に通うことになった。
「ウイルス感染者であることを気にせずに高校に通えると聞いて、俺の心は踊ったさ。だが実際は違ってた。現実はそんなに甘くなかったんだ」
 ヴァンパイアウイルス研究で有名な広葉大学の付属高校ということで、生徒の中にはウイルス感染者が何人もいた。
 だから、学校生活や人間関係で特に困ることはなかった。
 ただし表面的には。
 異性関係において一歩踏み込むと、問題は顕在化する。
「俺だって男だから、女の子のことが好きになる。好きになると声をかけたり、告白したりする。そうすると、どうなると思う?」
 どうなるって?
 無下に断られる……とか?
「突然彼氏を紹介されて、『この人とつき合ってますから』と断られるんだ」
 やっぱり……。
 というか、ダメじゃない。彼氏持ちの女の子に手を出しちゃ。
「それが何回か続いた。あーあ、他に好きな男がいたんだ、と諦めた。でもそのうちに、何かがおかしいってことに気付いた」
 おかしいって?
 何が?
「断りに来る女の子は、必ず彼氏を連れてくるんだ。それっておかしくね? 普通、『好きな人が他にいますから』だろ? 何で、彼氏がいなかったような女の子でさえ、俺が声をかけたとたんに彼氏ができるんだよ」
 彼氏がいなかった女の子に急に彼氏ができたって?
 うーん、確かに……。
「一つ確かめたいんだけど、声をかけた女の子って、その時本当に彼氏はいなかったの?」
「ああ、そう思う。それに、その女の子たちはみんな処女だった。俺ってウイルス感染者だから、血の匂いで処女かどうかわかるんだよ」
 そ、それって……。
 まさか……。
「ある日、変な噂が耳に入ってきたんだ。俺は処女にしか興味を示さないから、処女を失えば災難から逃れられるって。俺に声をかけられたら、それは逆にチャンスだから、気になる人に打ち明ければ告白が成功するって」 
 なっ……。
 そんなことって……。
「ひどいだろ? バカにしてるだろ? こうして俺の周りからだんだんと処女がいなくなっていったんだ」
 健くん自身が処女を減らしているのかと思っていたけど、こういう事情があったなんて。
 私はちょっと健くんに同情する。
「でも、一番許せないのは俺自身なんだ。処女でなくなったとたん、その女の子から興味がすうっと無くなってしまう。処女かどうかなんて、その女の子の人格や性格や優しさとは全く関係のない部分じゃないか。頭ではわかっているのに、体が納得しない。そんな俺自身が、いやこのウイルスが本当に許せない……」
 私に背を向け、再び窓の外を向く健くん。
 窓枠に手を置き、うなだれた肩が小刻みに震えていた。
「そんな中、唯一俺に対する態度が変わらなかったのが、瑠名花だった」
 広葉瑠名花。
 ヴァンパアウイルス研究のメッカと言われる広葉大学理事長の娘。
「瑠名花の最初の印象は、お世話になってる研究所でよく見かける女の子、って感じだった」
 きっと父親の研究の手伝いで研究所に出入りしていたのだろう。
 私は、白衣を来てフラスコを手にする長髪の彼女を連想する。
「彼女は、同じ付属高校の一つ上の学年の先輩だった。そして夜は、俺が通う研究所の手伝いに来ていたんだ。そして俺は、だんだんと彼女に好意を持つようになった」
 殺伐とした学校生活。
 一方、検査に通う研究所では、愛想よくしてくれる美人の助手に会うことができる。
 好意を持つのも、ごく当たり前のような気がした。
「瑠名花は、ヴァンパイアウイルスのことを熟知している。だから、俺のことを拒絶することはなかった。しばらくして、俺たちは付き合うことになったんだ」
 やっぱり二人は付き合っていたんだ……。
 なんだか悲しいけど、ちょっぴりほっとしてしまう。
 健くんを受け入れてくれる人がいたことは、本当に救いだったことだろう。
「しかし、楽しい日々は長く続かなかった。理事長に二人の仲がバレてしまったんだ」
 ああ、健くん……。
 二人の仲は私にとって悲しみの種なのに、応援したくなってしまうのはなぜだろう。
「瑠名花は必死に理事長を説得してくれたよ。『パパは散々、ヴァンパイアウイルス関連事業で儲けているくせに、自分の娘が付き合うことは許さないなんて身勝手過ぎる』と。それでも言うことを聞かない理事長に『それなら私も覚悟がある』と言ってくれたんだ」
 覚悟。
 女にとって覚悟とは、なんなのだろう。
 まさか……。
「ある日、事件は起きた。研究室で二人きりになった時、瑠名花は派手に転んでしまった。そして割れた実験器具で指を怪我してしまったんだ」
 ガチャン!
 当時の様子が、私の頭の中で再生される。
 白衣で床に横たわる瑠名花。健くんは慌てて駆け寄ったことだろう。
「切れた指から流れ出る血。俺が実験用滅菌ガーゼで傷口を抑えようとしたら、瑠名花はニヤリと笑って、その指を俺の口の中に突っ込んだんだ」
 すると健くんは目をつむったまま天井を見上げる。
 まるでその時の感覚を思い出すように。
「素晴らしい瞬間だった。口の中に広がる処女の生き血。そして彼女の血液中にドクドクと流れ込む俺のウイルス。なんとも言えない天に昇るような感覚だった。自分はこのために今まで生きてきた、と思えるほどに。この時、二人は一つになったんだ」
 幸せそうな表情をする健くん。
 いかに素敵な体験であったのかがよくわかる。
 私だって健くんに生き血を舐めてもらった。
 でも、その時健くんは、私にそこまでの表情を見せてはくれなかった。
 瑠名花さんが無性に羨ましくなる。
 好きな男の人のものが体内に流れ込む感覚って、どんな感じなのだろう?
 彼女にとっても幸せの瞬間だったに違いない。
 どうしようもない敗北感が私の中に広がっていく。
「気がつくと俺は瑠名花を抱きしめていた。明らかにこれは瑠名花の策略だったけど、俺は彼女に深く感謝した。その後、クロスを飲まなかった瑠名花はヴァンパイアウイルスに感染し、理事長は俺たち二人を同様に扱わざるを得なくなった」
 女の執念、というのだろうか。
 瑠名花、いや瑠名花さんは本当に健くんのことを愛していたんだ。
 それに比べて、自分は淡い恋心を持っていただけ。
 やっぱり瑠名花さんには敵わない。
「それから何回か俺は瑠名花の血を吸った。いずれも素晴らしい体験だった。そしてウイルス放出量はついにリミットに達してしまう。だけど不思議なもので、もうこれ以上処女の生き血が吸えないと思うと、ますます吸いたくなった」
 バカな健くん。
 大人しく瑠名花さんとの静かな時間を楽しめばいいのに。
 そして血を吸いたくなったらクロスを使えばいいのに。
 でもこれがヴァンパイアウイルスの魔性の力なのだろう。
 子孫を拡散させたいウイルスの本能に、人間の理性が屈していく。
「そこで俺は思い出したんだ。リミットに達していても、クロスを使わなくても、処女の生き血が吸えることを。そんな方法で、俺に生き血の素晴らしさを教えてくれた女の子がいたことを」
 そ、それって……。
 もしかして……。
「瑠名花からもらった合格者名簿にその女の子の名前を見つけた時は、俺は飛び上がって喜んだ。でも、本当にその女の子かどうか、自信がなかったんだよ。俺たちは数日しか会っていなかったのだから」
 そう言いながら健くんは講義室の前へ移動する。
「君が僕のことを覚えていてくれて、本当に嬉しかった。でも、また鼻血を舐めたいなんて、俺の最低なお願いを切り出す勇気が無かった。だって君は、すごく純粋だったから」
 直立不動のまま私を見つめる健くん。
 これから何を始めるつもりなのだろう?
「だからこれを見て、ゆっくり考えてほしい」
 そして突然ダンスを踊り始めた。
 ロックミュージシャンのような。
 腰をカクカクさせる仕草を強調して。
 そう、五年前と同じあのダンスを。
「健くん……」
 覚えていてくれたんだ。
 私のこと……。
 嬉しくて、嬉しくて、思わず涙が出てしまう。
 ダンスも懐かしい。
 五年前はこのダンスを見て大笑いしたんだよね、私。
 昔はぎこちなかったけど、今はすごく上手くなってる。
 相当練習したんだね。
 あの時はごめんね。
 両親に話したりして。
 学校のみんなにバレちゃったりして。
 そして、お別れの言葉が言えなくて。
 次から次へと溢れる涙。
 すると鼻の奥からつうーっとした感覚が……。

 ダメっ!

 心が叫ぶ。
 ここで鼻血を出したらダメ。
 感傷に浸りすぎたらダメ。
 心を鬼にして、冷静になるのよ。
 だって今の健くんには、瑠名花さんという彼女がいるんだから。
 彼女の生き血が吸えないから、私の鼻血を舐めようってどういうこと?
 ただの都合の良い女じゃない。
 私はそんなことをするためにこの大学に来たの?
 そんな女になるために、健くんを探していたの?
 違うでしょ!
 健くんのようなヴァンパイアウイルスに苦しむ人を救うためだよね。
 その過程で、健くんに会えれば嬉しいかなって思ってただけだし。
 そんでもって、その時に健くんがまだ独り身だったら最高だって……。
 もう、彼女がいるんだもん。
 その人は、身命を賭して健くんに尽くしているんだよ。
 だから無理だよ。
 敵わないよ。
 私の五年間は無駄だったんだ。
 健くんに恋して、罪悪感に苛まれて、そして一生懸命探して。
 男の人からの誘いも全部断って、勉強して、ヴァンパイアウイルスに詳しくなって。
 大学で再会して、嬉しくなって、最低の男でも昔のことを忘れてないってどこかで信じて。
「ふざけないでよ!」
 思わず私は叫んでいた。
「私が処女でなかったら、どうしてたのよっ!?」
 五年間、密かに守り続けてきたもの。
 それが粉々に打ち砕かれてしまったような気がした。
 涙がとめどもなく流れてくる。
「好きだった。健くんのことが、本当に好きだった……」
 そして、鼻の奥から口にかけてつうーっと流れる液体の感覚。
「ありがとう。こんな僕のことを覚えていてくれて」
 健くんがそっと近寄ってくる。
「本当に最低だよね。ウイルスに争うことができない最低な男だ」
 私の顔に口を近づけた。
「実はね、鼻血だってウイルスは流れ込むんだよ。傷口があるんだから。だからこれが最期」
 ちょ、ちょっとそれって。
 死んじゃうってことじゃない!?
 健くんは、そんなことはお構いなしにペロリと私の鼻血を舐める。
「うん、美味しい。涙の味も懐かしいなぁ」
 一瞬、恍惚な表情をしたかと思うと、苦しみに顔を歪める健くん。
「ありがとう。さようなら……」
 私を見る悲しそうな眼差し。
 うっすらと涙を浮かべて。
 そして健くんはドサリと床に倒れこんだ。
「健くん! 健くんっ!!?」
 何も返事をしない健くん。
「バカっ! 何でそんなことをしたの? 健くん、健くん……」
 救急隊が到着するまでの間、意識を失った健くんの体にすがりついて、私は泣き続けていた。

 ◇

 それから私は一週間泣き続け、二週目にようやく胃が食べ物を受け付けるようになった。
 人間が水と食料を欲するように、ヴァンパイアウイルスは処女の生き血を欲している。
 健くんは、ウイルスの本能であるその欲求をついに抑えることができなかった。
 もう、そんな悲劇は繰り返していけないんだ。
 私のように悲しむ女性を増やしてはいけないんだ。
 もっと勉強しよう。
 そして私も研究所に通えるようになるんだ。
 健くんが夢見ていた、クロスの原液を使った研究を完成させたい。
 それを使って、世界中のヴァンパイアウイルス感染者を救ってあげたい。
 ベッドの中でそう思い続けることによって、ようやく私は大学に通う気持ちを作ることができた。

 そして健くんが倒れてから一ヶ月後、私はようやくキャンパスに顔を出す。
「真衣さん、久しぶり」
「もう大丈夫?」
 集まってきた友人たちが声をかけてくれる。
 その温かさが心に染みる。
 そして――
「久しぶりだね、可愛い処女さん」
 何度も頭の中で再生していた大好きな声。
 えっ!?
 それって……!?
 驚いて振り返ると、そこには健くんが!
「で、いいんだよな? 瑠名花?」
「ええ、彼女は処女のままよ」
 って、瑠名花さんも!?
「お久しぶりね、真衣さん」
「ど、どうも。で、でも、け、健くんが生きてるなんて……」
 私は動揺を隠せなかった。
「あら、そんなに健に死んでもらいたかったのかしら? 本当に罪深い人ね」
「いやぁ、照れるなぁ……」
 ポリポリと頭をかく健くん。
 健くんが生きていて本当に良かった!
 本当は抱きつきたかったけど、瑠名花さんがいるから遠慮しておく。
「ちょっと話がしたいから、喫茶店はどうかしら?」
「ええ、わかりました」
 そして私は、あの時何が起きていたのかを知る事になった。

「あの時ね、健は賭けに出たのよ」
 瑠名花さんが事の真相を語り出す。
 肝心の健くんは、コーヒーをすすりながら瑠名花さんの隣でニヤニヤとこちらを眺めていた。
「賭けって?」
「クロスの原液を飲んで、ヴァンパイアウイルス感染症が治るかどうかって賭けよ」
 クロスの原液?
 あの時、講義室にそんなものは無かった。
 瑠名花さん、何か勘違いをしているのでは……?
「クロスの原液って、そんなものはあの場所にはありませんでしたけど」
 すると今度は、瑠名花さんが目をぱちくりさせた。
「ええっ? あなた、何を言って……? そうか、あの研究はパパの極秘事項だったのね……」
 急に納得されても困る。
 ちゃんと説明してもらわねば。
「教えて下さい。一体、何が起きていたんですか?」
 すると瑠名花さんはうーんと少し考えた後、重い口を開いた。
「まあ、当事者なんだから特別に教えてあげるわ。真衣さん、五年前にうちの研究所に入院してたことがあったでしょ?」
 五年前って……。
 そうか、健くんに最初に鼻血を舐められた時。
「あの時ね、キーゼルバッハ部位の傷口を通して、健のウイルスがあなたの体に流れ込んでいたの。ごくわずかだけどね」
 ええっ、あの時、何も異常がないって言われてたけど。
 それって嘘だったってこと?
「その時にね、あなたの体の中に強力な抗体が生成されていたの。ヴァンパイアウイルスに対抗できる唯一の抗体。きっといろいろな偶然が重なったのね。ウイルスの量が微量だったり、その他の成分が混ざったりして。だからあなたはウイルスに感染することは無かった。そしてパパは、その強力な抗体を手に入れた」
 だから一ヶ月も入院させられてたのね。
 何度も検査や採血を行っていたのは、そういう理由だったんだ。
「そして抗体に名前をつけた。あなたの名前をとって『クロス』とね。ほら、『マイ』だったら英語的になんの事だかわからないじゃない。だから『真衣(トゥルークロス)』から『クロス』って名付けられたの。もちろん、十字架という意味も込めてね」
 ま、まさか、『クロス』の由来が私の名前だったとは……。
「だからね、あなたの血液はクロスの原液、そのものなの」
 それがすべての真相なんだ。
 ようやくわかった。
 瑠名花さんが私の名前を知っていたことも。
 そして私の名前を聞いた時に「やってみなさいよ」と言ったのかも。
「まさかね、本当に健の病気が治っちゃうとはね。クロスの原液には病気を治す力があることはわかっていた。だけど実験ではほとんど成功してなかったの。ある特殊な成分が必要ってことまでは突き止めたんだけどね……」
 ――ある特殊な成分。
 私にはわかる。
 それが何であるのか。
「病気が完治してからの健は腑抜けよ。誰が処女だか、わかんなくなっちゃったようだし。顔や性格の良い娘がいいですって? 女に一番大切なものは処女だってこと、どうして忘れちゃったのかしら?」
「そんなこと言うなよ、瑠名花」
 今まで黙っていた健くんが口を開く。
「俺はこの間まで世の中に絶望してたけど、今はそうでもないんだ。誰が処女だかわからない世界って、こんなにも素敵だったとはね。みんなが可愛く見える、みんなが魅力的に見える、世の中ハッピーだよ」
 って、そっちなの?
 健くんの世の中の希望って。
「だから最近、健とはちょっと距離を置こうと思ってるの。それよりも真衣さん、どう? 私と付き合わない?」
 つ、つ、付き合うって……?
「ほら、私は健に血を吸われてウイルス感染者になっちゃったでしょ? だから、処女の生き血が欲しくてどうしようもなくなる時があるのよ。そんな時は自分の血を舐めてるんだけど、そろそろ飽きちゃった。真衣さん処女だし、生き血はクロスの原液だし、今度一緒にどう?」
 ど、ど、ど、ど、どうって言われても……。
 な、なんだか瑠名花さんの視線がエロいんですけど。
「あら、付き合ってくれなかったら世界中にバラすわよ。真衣さんの血液はクロスの原液だって。そしたらヴァンパイアウイルス患者がわんさか押し寄せて来るかもね」
「ちょ、ちょっと、やめてくださいよ、瑠名花さーん」
 そんな私たちの様子を見て、健くんもニヤニヤ笑っている。
「世界中にバラすといえば、これからが大変よ。ヴァンパイアウイルスが完治したなんて世界初の症例なんだから、すぐに論文書かなきゃ! 今ならネーチャーにだって載るわ」
 ネ、ネーチャー!?
 世界最高峰の学術雑誌!
 そ、それって、すごいことじゃない!
「二人とも、英語書ける?」
「えっ?」
「いや、さっぱり」
 受験英語くらいなら書けるかもしれないけど……。
「何よ、使えないわね。あなたたちには、クロスの原液を感染者に投与した状況について詳しく書いてもらわなくちゃいけないんだから」
 ええっ!?
 それって、鼻血を舐められたあの状況が世界中にあからさまになるってこと?
 そ、それだけはカンベンして欲しい。
「ネットからの英文コピーはダメだからね。わかってるよね。ちゃんと自分で英語を書かなきゃ、世界からは信用されないんだから」
「だったら英訳のプロを雇えばいいじゃねえか。理事長ならできるだろ?」
「バカね。そんなことしたら、パパに筆頭著者を盗られちゃうじゃない。いい、これはパパを見返すチャンスなの。この研究で、世界中のヴァンパイアウイルス感染者が完治するかもしれないのよ」
 そ、それはすごい。
 もしそうなったら、世界中から賞賛されること間違いなしだ。
 私もいきなりリケジョデビューね。
 マスコミも殺到して、いやん、どうしよう。
「そしたら将来、ノーベル賞だって夢じゃなくなるの。そんな幸運、人生に一度来るかどうかなんだから……」
 ノ、ノーベル賞!?
 いやいや、普通の人には来ません。そんな幸運。
「そいつはスゲえな。ノーベル賞、ストックホルム、北欧美人……」
 動機はいろいろみたいだけど、ノーベル賞に向けて、この三人なら上手くやっていけるような気がした。
 これから充実した毎日が続きそう。
 私の大学生活は始まったばかりなのだから。




 了



ライトノベル作法研究所 2016夏企画
テーマ:『鼻血』