おしょうゆさんと私 ― 2018年01月22日 21時55分56秒
1.プロローグ
『この刺身、美味いやろ?』
突然声がした、夕飯中に。
どこからともなく、耳元で。
『わいのおかげやで』
誰!?
初めて聞く声。男の人の声。家族のものじゃない。
食卓を見回すと、お父さんもお母さんも弟も夢中になって刺身を食べている。
『どこ見とるんや。目の前や、目の前。それに出し過ぎや』
ええっ、目の前!?
テーブルの刺身に視線を戻すと、手にした醤油ボトルからポタポタと黒い液体が落ち続けている。
私は慌ててボトルをテーブルに置いた。
ていうか、ま、まさか、醤油がしゃべった!?
驚きの表情を浮かべる私に、お父さんが反応した。
「おおっ、沙希もビックリしたか?」
えっ? お父さんにも同じ声が聞こえてる……とか?
「そうだろう、そうだろう、今日の刺身は驚くほど美味いだろ?」
なんだ、そっちのこと?
私がビックリしたのは刺身じゃなくて声の方だから。
「魚が新鮮ってこともある。だが、しかし、今日の主役は魚じゃないんだ。それが分かったんだよな、沙希にも」
ヤバい、違いが分かるアピール出ちゃったよ。
面倒くさいなぁ、スイッチが入ったお父さんの説明って長いんだから……。
勘弁してほしい私のことはそっちのけで、お父さんは私の目の前にある醤油ボトルを指差した。
「ジャジャーン、今日の主役はこのボトル。醤油の本場、和歌山県湯浅町の醸造元から特別に取り寄せた、最高級たまり醤油の密封ボトルだ!」
『せや!』
謎の声が合いの手を入れた。
それはやめて、お父さん、調子に乗っちゃうから。
しかしお父さんは浮かない様子。
「おいおい、なんでみんな反応しない。湯浅醤油だぞ、日本の醤油発祥の地なんだぞ」
『せやせや、湯浅醤油は日本一やで!』
だからお父さんを煽らないでよ。って、えっ? その声ってお父さんには聞こえてない?
もしかして、聞こえてるのは私だけ?
その証拠に、すっかり意気消沈してしまったお父さんは、醤油を指差す手を悲しそうに引っ込めた。
「それって、値段はいくらだったの?」
トドメを刺すお母さんの言葉。
「い、い、いくらって、ま、まあ、この刺身の味に似合う値段だけど……」
「私にはちっとも違いが分かりませんけど」
お母さんそれ言っちゃダメだって。
私にはちゃんと違いが分かったよ。だって醤油を垂らすたびに、変な声が耳元でするもん。
「沙希。ご飯が終わったらこの醤油、あんたの部屋に持って行ってちょうだい。お父さんが早く忘れてしまうように」
鬼だよ、お母さん。
そんな険悪な雰囲気をよそに、弟は黙々と刺身を食べていた。
夕食が終わって自室に戻ると、私は醤油ボトルを机の上に置く。
椅子に座って姿勢を正すと、声の主へのコンタクトを開始した。
「こんにちは」
が、挨拶をしても反応がない……。
「こんばんわ」
夜だからこっちの挨拶の方がいいんじゃないかと思ったが、これも反応なし。
おかしいなぁ、さっきは耳元で声がしたのに。
私はマジマジと醤油ボトルを眺める。
そこには「生醤油」の文字の下に、赤い字で説明が書かれていた。
――醤油一滴一滴が新鮮な新型密封ボトルです。
確かお父さんもそんなことを言ってたような……。
その時、私は閃いた。
「もしかして、密封ボトルだから密閉されちゃってて、私の声が聞こえない――とか!?」
それならば醤油を出してみればいい。
私は左手の掌を上に向け、右手に持った密封ボトルから醤油を一滴、掌に垂らしてみた。
ぷうんと漂う、醤油のいい香り。
高級醤油だからなのか、密封ボトルだからなのかは分からないが、こんなに素敵な香りは今までの醤油で味わったことはない。
『ええ香りやろ?』
待ち望んだ声が私の耳元をくすぐった。
2.おしょうゆさん
「ねえ、おしょうゆさん」
『なんや、沙希ちゃん』
すっかり仲良くなった私達は、すぐに名前で呼び合う仲になった。
えっ? おしょうゆさんって安易なネーミングだって?
仕方ないじゃない。最初に思いついたのがこれだったんだから。「黒光りさん」や「発酵大豆汁」とか「Oh! SHOW YOUさん」という案もあったけど、それらよりはマシだと思わない?
おしょうゆさんと話す時、私は買い込んだクラッカーを一枚取り出し、その上に醤油を一滴垂らす。
ぷぅんと醤油のいい香り。
私はおしょうゆさんについて、いろいろと聞いてみた。
「おしょうゆさんは、冷蔵庫に入れとかなくてもいいの?」
『平気やで。なんせ、自慢の密封ボトルやからな』
詳しく話を聞くと、空気が入りにくい密封ボトルだから常温でも大丈夫らしい。
普通の醤油がダメになってしまうのは、空気に触れて酸化したり、空気中の微生物によって変質してしまうからだという。
しかしこの密封ボトルは、空気に触れないように一滴一滴が新鮮な状態で出てくるから、冷蔵庫に入れる必要もないし、醸造時の香りが保たれている。
「でも、おしょうゆさん、空気は人間にとって必要なものじゃないの?」
『空気は必要なもんやけど、悪さをする時もあるんや』
「それは醤油の話でしょ?」
『人間にかて空気は悪さをするで。例えば、沙希ちゃんは仲良い子とは何でも話せるやろ?』
「うん」
『でも学校の教室の中では、本音で話せなくなるってことってあるやん。他の人にどない思われるかって気になってな。それが空気の悪い面や』
「…………」
まるで和尚さんのようなことを言うおしょうゆさんだった。
『しっかし、ここはめっちゃ乾燥しとるな』
「おしょうゆさんがいたところって、もっとジメジメしてたの?」
『ちゃうちゃう、海の香りや。湯浅はな、潮の香りに包まれた町なんや』
湯浅? 確かお父さんもそんなこと言ってたなぁ。醤油の本場とかなんとか。
私は湯浅という町を、スマホのマップで検索してみた。
すると出てきた、紀伊半島の左側に。おしょうゆさんの言う通り、たしかに海に面している。
『この海から醤油は日本中に広まったんや。小豆島や龍野、銚子や野田っちゅうところにな』
どうやら、湯浅という町は本当に醤油発祥の地らしい。
お父さんに言ったら喜んじゃいそうだから黙っておく。
3.悪魔のささやき
ある日、学校で嫌な事が起き始めた。
教室の後ろにある掃除用具入れに、生徒を閉じ込めるというイジメが流行り始めたのだ。
――止めてあげてよ!
声を大にして言いたい。
でもそうすると、今度は自分がターゲットにされてしまう。
だから、私を含めてクラスメートは皆、見て見ぬふりをした。この間おしょうゆさんが言ってた通りだ。空気の悪い面だった。
何もできない自分が悔しい。おしょうゆさんに返す言葉がない。
ん? おしょうゆさん? そうよ、おしょうゆさんだって、密閉空間に閉じ込められているじゃない。
おしょうゆさんに相談したら、なにかいい解決策を教えてくれるかも?
だから私は、次の日からおしょうゆさんをカバンの中に入れて登校することにした。
例のイジメが始まると、私は机の上にちょっと醤油を垂らす。
『どうしたんや、沙希ちゃん』
「クラスメートがいじめられてるの。どうしたらいい?」
『せやな……』
しばらく間が空いてから、おしょうゆさんが行動を開始した。
『ちょいと、閉じ込められている子の耳元でささやいてくるで』
「そんなことできるの?」
『大丈夫。心に傷を負っている子は、わいの声が聞こえるんや。聞こえんかったら、密室が好きっちゅうことやな』
それはそれで、救いが無いような気もするけど。
『ほな、言ってくるで』
おしょうゆさんの行動は、すぐに効果があったようだ。
というのも、数分後に解放されたイジメられっ子はニヤリと口元を結ぶと、怒りを込めてイジメっ子の耳元で何かをささやいた。
みるみる青ざめるイジメっ子。大きな衝撃を受けていることは明らかだ。
「ねえ、おしょうゆさん、何てささやいたの」
『あのイジメっ子はな、気持ち良くなりたいところに、ちょいと醤油を垂らす癖があるんや』
変な性癖だった。
「なんで、おしょうゆさんにそんなことが分かるの?」
『醤油ネットワークやな。日本にはどの家にも醤油があるさかい、このネットワークは最強やで』
恐るべし醤油ネットワーク。
次の日も、別のイジメられっ子が別のイジメっ子を撃退した。おしょうゆさんのささやきには、相当な破壊力が秘められているようだ。
「ねえ、今度は何てささやいたの?」
『今日のイジメっ子はな、醤という字を「将に酉」やなくて、「将に西」って書いとったんや』
いやいや、自分も「将に西」って書いてたわ。
「それも醤油ネットワーク情報?」
『せや。醤の字の恨みは晴らさせてもらったで』
一体どんなネットワークなのよ。ていうか私もヤバい?
4.おしょうゆさんとの別れ
どんなことにも別れはつきもの。いよいよ私はおしょうゆさんとお別れする時がやってきた。
『沙希ちゃん、わいはもうダメや』
「ダメって、醤油はまだ四分の一も残ってるじゃない」
『密封ボトルと言ってもな、ほんのちょっとずつやけど空気が入ってきとるんや』
「それって……」
『だんだんと香りが失われるってことや。わいの正体は醤油の香りやさかい』
いやだ、いやだ、いやだ。
おしょうゆさんとお別れなんてしたくない。
私は無い知恵を絞って、解決策を考えた。
「そうだ、醤油の香りを補充すればいいんじゃない?」
『それは無理やで、沙希ちゃん』
「なんで? おしょうゆさんは醤油の香りなんでしょ? だったら香りを足せばいいんじゃない!」
『そん時に空気が入るんや。醸造場に行けば可能やもしれへんけど……』
「そうよ、醸造場に行けじゃいいじゃない!」
『その香りは、もはやわいではなく、わいの仲間っちゅうことやな』
そんな……。
私は頭を抱えた。他に良いアイディアなんて思い浮かばない。
『お父はんに新しい密封ボトルを買うてもらえばええやんか。わいの仲間も捨てたもんやないで。すぐに沙希ちゃんと仲良うなること間違いなしや』
それじゃ、ダメなんだ。私は、おしょうゆさんとずっと一緒にいたいんだから……。
『それよりも沙希ちゃんにお願いがあんねん。最期に潮の香りを嗅ぎたいんやけど』
だから最期って言わないで!
「潮の香りって、海のこと?」
それならば、おしょうゆさんの最期の望みを叶えるためには、一緒に海に行かなくてはならない。
海? 海、海に行く? 私が!?
それがトリガーだった。海に行く光景を想像して私は固まった。
――黒い水、冷たい空、巨大な波。
記憶の片隅に封印されていたイメージが解放され、私に押し寄せる。
「い、いや、嫌っ! 海には行きたくない、それだけはやめて! お願いだからカンベンして……」
これが私の心の傷だった。
5.花火平岬にて
「花火平ぁ~、花火平ぁ~」
電車が駅に着くと、私はおしょうゆさんが入ったデイパックを背負う。これから岬にある灯台に向かうのだ。
――花火平岬。
先端に灯台がある、海からせり上がる岸壁が有名な観光地。
『なんでも、打ち上げ花火が平らに見えるくらい標高が高いっちゅう噂やで』
「それも醤油ネットワーク情報?」
『せやな』
それほどまでに標高が高いのなら安全だ。私は、おしょうゆさんと一緒に海に行こうと決意した。
「あれはね、七年前だった……」
灯台への道を歩きながら、私はおしょうゆさんに話しかける。
「大きな津波がこの地域を襲って、従姉妹の麻里さんが行方不明になっちゃったの……」
麻里さんは何処に行ってしまったんだろう? あの日、彼女の身に何が起きたんだろう?
それを想像するたびに、テレビで見た津波の映像が私の心に襲い掛かる。
――黒い水、冷たい空、巨大な波。
きっとあの中に飲み込まれてしまったんだ。その恐怖は、まるで自分の身に起きた出来事のように心に刻みつけられた。
海は危ない、海に近づいちゃダメだ、海を見に行ったら大変なことになる。
「あの日以来、私は海に近づくことができなくなった……」
七年経った今でも、その恐怖は消えていない。むしろ七年目だからこそ、その事実は重く私の身に迫りつつあった。
「麻里さんはね、私よりも七つ年上だったの」
何でも知ってる優しいお姉さん。その年の差は、永遠に縮まることはないと思っていた。
「今年、私は麻里さんと同じ年になる。そう思うと、いたたまれなくなって……」
あの時、麻里さんが何もできなかったとは思いたくない。でも同じ年になった私に何ができるかと問われても、何も答えることができない。
願いは一つ。津波の被害を軽減したい。
麻里さんだって、そう願っていることは明らかなのに。
「ねえ、おしょうゆさん。「稲むらの火」って話、知ってる? 火を起こして津波から人々を救ったという人の話」
『濱口梧陵やな』
「そう、濱口梧陵。醤油に関係ないのによく知ってるね、おしょうゆさん。それも醤油ネットワーク情報?」
『関係ないことなんてないで。梧陵はんは、湯浅の醤油商人の子や』
「えっ、そうなの?」
まさか津波と醤油が、こんな風に繋がるとは思わなかった。
『それに梧陵はんはな、子供の頃、この地域に住んどったんやで』
「ええっ!?」
私は何か不思議な縁を感じていた。
「私ね、七年前のことを思い出すたびにいつも考えるの。濱口梧陵が生きていたら、もっと多くの人が助かったんじゃないかって。濱口梧陵のことをもっと早く知っていたら、私は麻里さんを助けられたんじゃないかって」
自分の心を押しつぶしていたのは、そんな自責の念だった。
『沙希ちゃん、人間はそないに完璧やおまへんで。たとえ梧陵はんが生きとったって、結果は変わらんかったと思う』
「何でそんなこと言えるの? 濱口梧陵は藁に火をつけて、人々を津波から救ったのよ」
『それはフィクションや。本当の梧陵はんはな、不覚にも津波にさらわれてしもうたんやで』
「ええっ!?」
そんなこと初めて聞いた。
「嘘。そんなの嘘よ」
『梧陵はんかて人の子、湯浅の子。不意打ちくらって津波にさらわれてしもうた梧陵はんは、海の中で必死に陸を探したんや。しかし夜で辺りは真っ暗。当時は江戸時代やから、今みたいに街の光もあらへんし。だから運よく陸に上がれた梧陵はんは、すぐに藁に火をつけたんや。海に流された人々に陸の位置を教えるためにな』
ま、まさかそれが真相だったなんて……。
自分の中で神格化されていた濱口梧陵のイメージが崩れ去った瞬間だった。
『「稲むらの火」は、この話をもとにして作られたフィクションや。でもな、梧陵はんが偉いのはここからなんやで。二度と同じ悲劇を繰り返さんようにと、私財を投じて堤防を建設したんや』
そんなことがあったとは……。
そうか、濱口梧陵も私も同じなんだ。
あの時に何もできなかったことを後悔するんじゃなくて、これから何ができるのかを考えなきゃいけないんだ……。
『おおっ、海の香りや。懐かしい潮の子守歌や』
気がつくと目の前に白い灯台が迫っていた。岸壁に打ちつける波の音もかすかに聞こえてくる。
『おおきに、ホンマにありがとな、沙希ちゃん。わいはそろそろお別れや……』
「おしょうゆさん、もうちょっと待って。灯台まで連れて行ってあげるから」
『沙希ちゃんは今、七年前の悲しみを乗り越えようとしとる。せやから、もう大丈夫やと思うで』
「そんなこと言わないで。ほら、もうちょっとで海を見せてあげられるから」
『ほな、さいなら……』
「海だ! 海が見えた! おしょうゆさん、海だよ!!」
おしょうゆさんの返事は、これ以上私の耳に届くことはなかった。
6.エピローグ
あれから三か月後。
私はお父さんに連れられて湯浅町を訪れていた。
――醤油の醸造場が建ち並ぶ北町通り、そして醤油を運び出していた内港の大仙堀。
確かに湯浅は醤油と潮の香りに包まれた町だった。
お父さんは懲りもせず、高級たまり醤油の密封ボトルを買っている。
私もちょっと左の掌に醤油を垂らして、味見させてもらう。
ぷうんと漂う醤油のいい香り。
でも、耳元には何も聞こえてこなかった。
『もう大丈夫やと思うで』
おしょうゆさんの最後の言葉が脳裏に蘇る。
本当にそうなのだろうか?
いまだに海を見に行くのは恐い。でも、津波にさらわれた濱口梧陵がその恐怖に負けずに頑張ったエピソードを思い出すと、負けてはいられないと思えるようになった。
お父さんにお願いして、湯浅町の隣の広川町も訪問した。そこは、濱口梧陵が藁に火をつけて村人を誘導した場所だ。
記念館である「稲むらの火の館」や、震災後に濱口梧陵が私財を投じて建設した広村堤防も見に行った。
堤防の上に立って考える。
私には一体、何ができるのだろうか――と。
その小さな一歩として、私はおしょうゆさんとのエピソードを書いてみることにした。
津波で悲しむ人が一人でも少なくなりますように、と願いを込めて。
おわり
ライトノベル作法研究所 2017‐2018冬企画
テーマ:『密室』
『この刺身、美味いやろ?』
突然声がした、夕飯中に。
どこからともなく、耳元で。
『わいのおかげやで』
誰!?
初めて聞く声。男の人の声。家族のものじゃない。
食卓を見回すと、お父さんもお母さんも弟も夢中になって刺身を食べている。
『どこ見とるんや。目の前や、目の前。それに出し過ぎや』
ええっ、目の前!?
テーブルの刺身に視線を戻すと、手にした醤油ボトルからポタポタと黒い液体が落ち続けている。
私は慌ててボトルをテーブルに置いた。
ていうか、ま、まさか、醤油がしゃべった!?
驚きの表情を浮かべる私に、お父さんが反応した。
「おおっ、沙希もビックリしたか?」
えっ? お父さんにも同じ声が聞こえてる……とか?
「そうだろう、そうだろう、今日の刺身は驚くほど美味いだろ?」
なんだ、そっちのこと?
私がビックリしたのは刺身じゃなくて声の方だから。
「魚が新鮮ってこともある。だが、しかし、今日の主役は魚じゃないんだ。それが分かったんだよな、沙希にも」
ヤバい、違いが分かるアピール出ちゃったよ。
面倒くさいなぁ、スイッチが入ったお父さんの説明って長いんだから……。
勘弁してほしい私のことはそっちのけで、お父さんは私の目の前にある醤油ボトルを指差した。
「ジャジャーン、今日の主役はこのボトル。醤油の本場、和歌山県湯浅町の醸造元から特別に取り寄せた、最高級たまり醤油の密封ボトルだ!」
『せや!』
謎の声が合いの手を入れた。
それはやめて、お父さん、調子に乗っちゃうから。
しかしお父さんは浮かない様子。
「おいおい、なんでみんな反応しない。湯浅醤油だぞ、日本の醤油発祥の地なんだぞ」
『せやせや、湯浅醤油は日本一やで!』
だからお父さんを煽らないでよ。って、えっ? その声ってお父さんには聞こえてない?
もしかして、聞こえてるのは私だけ?
その証拠に、すっかり意気消沈してしまったお父さんは、醤油を指差す手を悲しそうに引っ込めた。
「それって、値段はいくらだったの?」
トドメを刺すお母さんの言葉。
「い、い、いくらって、ま、まあ、この刺身の味に似合う値段だけど……」
「私にはちっとも違いが分かりませんけど」
お母さんそれ言っちゃダメだって。
私にはちゃんと違いが分かったよ。だって醤油を垂らすたびに、変な声が耳元でするもん。
「沙希。ご飯が終わったらこの醤油、あんたの部屋に持って行ってちょうだい。お父さんが早く忘れてしまうように」
鬼だよ、お母さん。
そんな険悪な雰囲気をよそに、弟は黙々と刺身を食べていた。
夕食が終わって自室に戻ると、私は醤油ボトルを机の上に置く。
椅子に座って姿勢を正すと、声の主へのコンタクトを開始した。
「こんにちは」
が、挨拶をしても反応がない……。
「こんばんわ」
夜だからこっちの挨拶の方がいいんじゃないかと思ったが、これも反応なし。
おかしいなぁ、さっきは耳元で声がしたのに。
私はマジマジと醤油ボトルを眺める。
そこには「生醤油」の文字の下に、赤い字で説明が書かれていた。
――醤油一滴一滴が新鮮な新型密封ボトルです。
確かお父さんもそんなことを言ってたような……。
その時、私は閃いた。
「もしかして、密封ボトルだから密閉されちゃってて、私の声が聞こえない――とか!?」
それならば醤油を出してみればいい。
私は左手の掌を上に向け、右手に持った密封ボトルから醤油を一滴、掌に垂らしてみた。
ぷうんと漂う、醤油のいい香り。
高級醤油だからなのか、密封ボトルだからなのかは分からないが、こんなに素敵な香りは今までの醤油で味わったことはない。
『ええ香りやろ?』
待ち望んだ声が私の耳元をくすぐった。
2.おしょうゆさん
「ねえ、おしょうゆさん」
『なんや、沙希ちゃん』
すっかり仲良くなった私達は、すぐに名前で呼び合う仲になった。
えっ? おしょうゆさんって安易なネーミングだって?
仕方ないじゃない。最初に思いついたのがこれだったんだから。「黒光りさん」や「発酵大豆汁」とか「Oh! SHOW YOUさん」という案もあったけど、それらよりはマシだと思わない?
おしょうゆさんと話す時、私は買い込んだクラッカーを一枚取り出し、その上に醤油を一滴垂らす。
ぷぅんと醤油のいい香り。
私はおしょうゆさんについて、いろいろと聞いてみた。
「おしょうゆさんは、冷蔵庫に入れとかなくてもいいの?」
『平気やで。なんせ、自慢の密封ボトルやからな』
詳しく話を聞くと、空気が入りにくい密封ボトルだから常温でも大丈夫らしい。
普通の醤油がダメになってしまうのは、空気に触れて酸化したり、空気中の微生物によって変質してしまうからだという。
しかしこの密封ボトルは、空気に触れないように一滴一滴が新鮮な状態で出てくるから、冷蔵庫に入れる必要もないし、醸造時の香りが保たれている。
「でも、おしょうゆさん、空気は人間にとって必要なものじゃないの?」
『空気は必要なもんやけど、悪さをする時もあるんや』
「それは醤油の話でしょ?」
『人間にかて空気は悪さをするで。例えば、沙希ちゃんは仲良い子とは何でも話せるやろ?』
「うん」
『でも学校の教室の中では、本音で話せなくなるってことってあるやん。他の人にどない思われるかって気になってな。それが空気の悪い面や』
「…………」
まるで和尚さんのようなことを言うおしょうゆさんだった。
『しっかし、ここはめっちゃ乾燥しとるな』
「おしょうゆさんがいたところって、もっとジメジメしてたの?」
『ちゃうちゃう、海の香りや。湯浅はな、潮の香りに包まれた町なんや』
湯浅? 確かお父さんもそんなこと言ってたなぁ。醤油の本場とかなんとか。
私は湯浅という町を、スマホのマップで検索してみた。
すると出てきた、紀伊半島の左側に。おしょうゆさんの言う通り、たしかに海に面している。
『この海から醤油は日本中に広まったんや。小豆島や龍野、銚子や野田っちゅうところにな』
どうやら、湯浅という町は本当に醤油発祥の地らしい。
お父さんに言ったら喜んじゃいそうだから黙っておく。
3.悪魔のささやき
ある日、学校で嫌な事が起き始めた。
教室の後ろにある掃除用具入れに、生徒を閉じ込めるというイジメが流行り始めたのだ。
――止めてあげてよ!
声を大にして言いたい。
でもそうすると、今度は自分がターゲットにされてしまう。
だから、私を含めてクラスメートは皆、見て見ぬふりをした。この間おしょうゆさんが言ってた通りだ。空気の悪い面だった。
何もできない自分が悔しい。おしょうゆさんに返す言葉がない。
ん? おしょうゆさん? そうよ、おしょうゆさんだって、密閉空間に閉じ込められているじゃない。
おしょうゆさんに相談したら、なにかいい解決策を教えてくれるかも?
だから私は、次の日からおしょうゆさんをカバンの中に入れて登校することにした。
例のイジメが始まると、私は机の上にちょっと醤油を垂らす。
『どうしたんや、沙希ちゃん』
「クラスメートがいじめられてるの。どうしたらいい?」
『せやな……』
しばらく間が空いてから、おしょうゆさんが行動を開始した。
『ちょいと、閉じ込められている子の耳元でささやいてくるで』
「そんなことできるの?」
『大丈夫。心に傷を負っている子は、わいの声が聞こえるんや。聞こえんかったら、密室が好きっちゅうことやな』
それはそれで、救いが無いような気もするけど。
『ほな、言ってくるで』
おしょうゆさんの行動は、すぐに効果があったようだ。
というのも、数分後に解放されたイジメられっ子はニヤリと口元を結ぶと、怒りを込めてイジメっ子の耳元で何かをささやいた。
みるみる青ざめるイジメっ子。大きな衝撃を受けていることは明らかだ。
「ねえ、おしょうゆさん、何てささやいたの」
『あのイジメっ子はな、気持ち良くなりたいところに、ちょいと醤油を垂らす癖があるんや』
変な性癖だった。
「なんで、おしょうゆさんにそんなことが分かるの?」
『醤油ネットワークやな。日本にはどの家にも醤油があるさかい、このネットワークは最強やで』
恐るべし醤油ネットワーク。
次の日も、別のイジメられっ子が別のイジメっ子を撃退した。おしょうゆさんのささやきには、相当な破壊力が秘められているようだ。
「ねえ、今度は何てささやいたの?」
『今日のイジメっ子はな、醤という字を「将に酉」やなくて、「将に西」って書いとったんや』
いやいや、自分も「将に西」って書いてたわ。
「それも醤油ネットワーク情報?」
『せや。醤の字の恨みは晴らさせてもらったで』
一体どんなネットワークなのよ。ていうか私もヤバい?
4.おしょうゆさんとの別れ
どんなことにも別れはつきもの。いよいよ私はおしょうゆさんとお別れする時がやってきた。
『沙希ちゃん、わいはもうダメや』
「ダメって、醤油はまだ四分の一も残ってるじゃない」
『密封ボトルと言ってもな、ほんのちょっとずつやけど空気が入ってきとるんや』
「それって……」
『だんだんと香りが失われるってことや。わいの正体は醤油の香りやさかい』
いやだ、いやだ、いやだ。
おしょうゆさんとお別れなんてしたくない。
私は無い知恵を絞って、解決策を考えた。
「そうだ、醤油の香りを補充すればいいんじゃない?」
『それは無理やで、沙希ちゃん』
「なんで? おしょうゆさんは醤油の香りなんでしょ? だったら香りを足せばいいんじゃない!」
『そん時に空気が入るんや。醸造場に行けば可能やもしれへんけど……』
「そうよ、醸造場に行けじゃいいじゃない!」
『その香りは、もはやわいではなく、わいの仲間っちゅうことやな』
そんな……。
私は頭を抱えた。他に良いアイディアなんて思い浮かばない。
『お父はんに新しい密封ボトルを買うてもらえばええやんか。わいの仲間も捨てたもんやないで。すぐに沙希ちゃんと仲良うなること間違いなしや』
それじゃ、ダメなんだ。私は、おしょうゆさんとずっと一緒にいたいんだから……。
『それよりも沙希ちゃんにお願いがあんねん。最期に潮の香りを嗅ぎたいんやけど』
だから最期って言わないで!
「潮の香りって、海のこと?」
それならば、おしょうゆさんの最期の望みを叶えるためには、一緒に海に行かなくてはならない。
海? 海、海に行く? 私が!?
それがトリガーだった。海に行く光景を想像して私は固まった。
――黒い水、冷たい空、巨大な波。
記憶の片隅に封印されていたイメージが解放され、私に押し寄せる。
「い、いや、嫌っ! 海には行きたくない、それだけはやめて! お願いだからカンベンして……」
これが私の心の傷だった。
5.花火平岬にて
「花火平ぁ~、花火平ぁ~」
電車が駅に着くと、私はおしょうゆさんが入ったデイパックを背負う。これから岬にある灯台に向かうのだ。
――花火平岬。
先端に灯台がある、海からせり上がる岸壁が有名な観光地。
『なんでも、打ち上げ花火が平らに見えるくらい標高が高いっちゅう噂やで』
「それも醤油ネットワーク情報?」
『せやな』
それほどまでに標高が高いのなら安全だ。私は、おしょうゆさんと一緒に海に行こうと決意した。
「あれはね、七年前だった……」
灯台への道を歩きながら、私はおしょうゆさんに話しかける。
「大きな津波がこの地域を襲って、従姉妹の麻里さんが行方不明になっちゃったの……」
麻里さんは何処に行ってしまったんだろう? あの日、彼女の身に何が起きたんだろう?
それを想像するたびに、テレビで見た津波の映像が私の心に襲い掛かる。
――黒い水、冷たい空、巨大な波。
きっとあの中に飲み込まれてしまったんだ。その恐怖は、まるで自分の身に起きた出来事のように心に刻みつけられた。
海は危ない、海に近づいちゃダメだ、海を見に行ったら大変なことになる。
「あの日以来、私は海に近づくことができなくなった……」
七年経った今でも、その恐怖は消えていない。むしろ七年目だからこそ、その事実は重く私の身に迫りつつあった。
「麻里さんはね、私よりも七つ年上だったの」
何でも知ってる優しいお姉さん。その年の差は、永遠に縮まることはないと思っていた。
「今年、私は麻里さんと同じ年になる。そう思うと、いたたまれなくなって……」
あの時、麻里さんが何もできなかったとは思いたくない。でも同じ年になった私に何ができるかと問われても、何も答えることができない。
願いは一つ。津波の被害を軽減したい。
麻里さんだって、そう願っていることは明らかなのに。
「ねえ、おしょうゆさん。「稲むらの火」って話、知ってる? 火を起こして津波から人々を救ったという人の話」
『濱口梧陵やな』
「そう、濱口梧陵。醤油に関係ないのによく知ってるね、おしょうゆさん。それも醤油ネットワーク情報?」
『関係ないことなんてないで。梧陵はんは、湯浅の醤油商人の子や』
「えっ、そうなの?」
まさか津波と醤油が、こんな風に繋がるとは思わなかった。
『それに梧陵はんはな、子供の頃、この地域に住んどったんやで』
「ええっ!?」
私は何か不思議な縁を感じていた。
「私ね、七年前のことを思い出すたびにいつも考えるの。濱口梧陵が生きていたら、もっと多くの人が助かったんじゃないかって。濱口梧陵のことをもっと早く知っていたら、私は麻里さんを助けられたんじゃないかって」
自分の心を押しつぶしていたのは、そんな自責の念だった。
『沙希ちゃん、人間はそないに完璧やおまへんで。たとえ梧陵はんが生きとったって、結果は変わらんかったと思う』
「何でそんなこと言えるの? 濱口梧陵は藁に火をつけて、人々を津波から救ったのよ」
『それはフィクションや。本当の梧陵はんはな、不覚にも津波にさらわれてしもうたんやで』
「ええっ!?」
そんなこと初めて聞いた。
「嘘。そんなの嘘よ」
『梧陵はんかて人の子、湯浅の子。不意打ちくらって津波にさらわれてしもうた梧陵はんは、海の中で必死に陸を探したんや。しかし夜で辺りは真っ暗。当時は江戸時代やから、今みたいに街の光もあらへんし。だから運よく陸に上がれた梧陵はんは、すぐに藁に火をつけたんや。海に流された人々に陸の位置を教えるためにな』
ま、まさかそれが真相だったなんて……。
自分の中で神格化されていた濱口梧陵のイメージが崩れ去った瞬間だった。
『「稲むらの火」は、この話をもとにして作られたフィクションや。でもな、梧陵はんが偉いのはここからなんやで。二度と同じ悲劇を繰り返さんようにと、私財を投じて堤防を建設したんや』
そんなことがあったとは……。
そうか、濱口梧陵も私も同じなんだ。
あの時に何もできなかったことを後悔するんじゃなくて、これから何ができるのかを考えなきゃいけないんだ……。
『おおっ、海の香りや。懐かしい潮の子守歌や』
気がつくと目の前に白い灯台が迫っていた。岸壁に打ちつける波の音もかすかに聞こえてくる。
『おおきに、ホンマにありがとな、沙希ちゃん。わいはそろそろお別れや……』
「おしょうゆさん、もうちょっと待って。灯台まで連れて行ってあげるから」
『沙希ちゃんは今、七年前の悲しみを乗り越えようとしとる。せやから、もう大丈夫やと思うで』
「そんなこと言わないで。ほら、もうちょっとで海を見せてあげられるから」
『ほな、さいなら……』
「海だ! 海が見えた! おしょうゆさん、海だよ!!」
おしょうゆさんの返事は、これ以上私の耳に届くことはなかった。
6.エピローグ
あれから三か月後。
私はお父さんに連れられて湯浅町を訪れていた。
――醤油の醸造場が建ち並ぶ北町通り、そして醤油を運び出していた内港の大仙堀。
確かに湯浅は醤油と潮の香りに包まれた町だった。
お父さんは懲りもせず、高級たまり醤油の密封ボトルを買っている。
私もちょっと左の掌に醤油を垂らして、味見させてもらう。
ぷうんと漂う醤油のいい香り。
でも、耳元には何も聞こえてこなかった。
『もう大丈夫やと思うで』
おしょうゆさんの最後の言葉が脳裏に蘇る。
本当にそうなのだろうか?
いまだに海を見に行くのは恐い。でも、津波にさらわれた濱口梧陵がその恐怖に負けずに頑張ったエピソードを思い出すと、負けてはいられないと思えるようになった。
お父さんにお願いして、湯浅町の隣の広川町も訪問した。そこは、濱口梧陵が藁に火をつけて村人を誘導した場所だ。
記念館である「稲むらの火の館」や、震災後に濱口梧陵が私財を投じて建設した広村堤防も見に行った。
堤防の上に立って考える。
私には一体、何ができるのだろうか――と。
その小さな一歩として、私はおしょうゆさんとのエピソードを書いてみることにした。
津波で悲しむ人が一人でも少なくなりますように、と願いを込めて。
おわり
ライトノベル作法研究所 2017‐2018冬企画
テーマ:『密室』
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://tsutomyu.asablo.jp/blog/2018/01/22/8774756/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。