ぬいぐるみ少女K ― 2012年01月11日 08時13分12秒
「あっ、地震……」
塾帰りのエレベーターの中。隣に立っている見知らぬ女の子がポツリとつぶやいた。
足先の感覚に集中しながら上目づかいにエレベーターの天井を見る。確かにエレベーターは動きながらカタカタと揺れていた。
「……ッ!」
ドンと突き上げるような衝撃を感じて、僕と女の子は咄嗟にエレベーターの手すりにつかまる。地震の揺れは次第に大きくなり、
「きゃっ!」
ガタンという大きな音とともに僕達が乗ったエレベーターは止まってしまった。そして電気が消える。
「げっ、停電」
「暗っ……」
僕、尾瀬開は、女の子と一緒にエレベーターに閉じ込められてしまった――
三月の大震災の影響なのだろうか。九ヶ月経った今でも東京では割と大きな地震が起きている。今回の揺れもすぐに収まったが、停電はそのままだ。
非常灯だけのエレベーターの内部は薄暗くて心細い。いや、薄暗いだけで済めばいい。電源を失ったエレベーターがこのまま落ちてしまわないか、僕はだんだんと心配になってきた。
エレベーターに乗ったのは塾のある五階。そして、エレベーターが動き出してすぐに地震が起きたような気がする。ということは、今僕がいる場所は四階か三階くらいだろう。もしブレーキが効かなくなってエレベーターがこのまま落ちてしまったら、その高さから一階部分のコンクリートに叩き付けられることになる。
マジかよ、勘弁してくれよ……。
僕は祈るような気持ちで天井を見上げる。その時にちらりと横目で見た隣の女の子は、もっと不安そうな顔をしていた。エレベーターの中は、僕と彼女の二人きりだった。
「あっ!」
「おっ」
いきなり電気が点いた。停電が復旧したようだ。
よし、動け!
そう願う僕をよそに、エレベーターはちっとも動く気配がない。
なんだよ、早くしてくれよ……。
思っていたよりも早く電気が復旧してほっとしたのもつかの間、今度は狭い空間に閉じ込められた不安が僕を襲い始めた。そして、それに追い打ちをかけるアナウンスが。
『お客様、ご無事でしょうか? こちらはエレベーターのメンテナンス室です。現在、他のビルでもエレベーターが停止しており、順次点検を行っています。大変申し訳ありませんが、復旧までしばらくお待ち下さい』
おいおい、点検に時間がかかるのはわかるけど、頼むから早くここから出してくれよ……。
僕はつい泣きごとを言いたくなる。
今乗っているエレベーターは、十人くらい乗れば一杯になってしまうくらいのタイプ。現在乗っているのは二人だけで余裕があるとはいえ、狭い空間に閉じ込められているのは気持ちがいいものではない。それに停止時間が長引けば大変なことになりそうだ。二人が横になることなんてできそうもないし、トイレに行きたくなったら最悪だ。
隣の女の子の不安はさらに大きかったようだ。彼女はエレベーターのドアに近づいて前かがみになると、スイッチ類の下のマイクに口を近づけてすごい剣幕で叫び始めた。
「無事じゃないわよ、早く降ろしなさいよ」
いや無事だろ? とりあえずは。早く降ろしてほしいのは賛同するけど。
女の子のやり取りを聞きながら、つい突っ込みを入れたくなる。
「こら、メンテナンス室、なに黙ってんの? 点検より先にやることがあるでしょ! 私病気なんだから。ちょっと、聞こえてんの!? 何か言ったらどうなのよっ!」
つんと突き出した女の子のお尻が叫び声と一緒に震え、そのたびにフレアスカートがひらひらと揺れている。その様子はなかなか魅力的で、ついつい目を奪われてしまうのだが、それよりも僕は女の子の恰好が見事なモノクロであることに気がついた。エレベーターに乗った時は全然気にしていなかったが、彼女のファッションはちょっと不思議だった。
上から黒のキャスケット、黒縁メガネ、黒のコート、黒のフレアスカート、黒のタイツ、黒のブーツ……。
つまり上から下まで見事に黒ずくめ。真っ黒カラスのような女の子が、スカートを揺らしながら怒りに身を任せている。
そしてそんな彼女が手にしていたものに、僕はさらに違和感を覚える。
彼女のコーディネイトにまったく似合わないそれは――純白の猫のぬいぐるみだった。
○
「でも、あれって……」
そのぬいぐるみに見覚えがあった。
猫がすましたように尻尾を立てて座っている恰好。それはよく見かける姿のぬいぐるみだったが、その額に付けられた紋様が独特だったからだ。
――赤い渦巻紋様。
純白の猫に赤の紋様はかなり目立つ。その紋様が目に入らなければ、見覚えがあることに気つかなかっただろう。
それは一週間前のこと。
通学路の途中の歩道で、僕は一匹の猫のぬいぐるみを拾った。純白の額に浮かぶ赤の渦巻紋様がものすごく特徴的なぬいぐるみを。
そのまま捨ててしまっても良かったが、ちょうど目の前に交番があったので僕はぬいぐるみを届けに行ったのだ。
交番に入ると、中では一人の女の子が机に顔を伏せて泣きじゃくっていた。僕は恐る恐る、女の子の対応をしているお巡りさんに声をかけた。
「あのう、今そこで、これを拾ったんですけど……」
僕がぬいぐるみを頭の上に掲げると、女の子の応対をしているお巡りさんが顔を上げてこちらを向いた。
「ああ、落し物ね。ごめんね、今ちょっと取り込んでいるから。申し訳ないけどそこにあるメモに君の名前と連絡先を書いて、置いておいてくれないかな。後で拾得物の登録をしておくから」
僕はカウンターの上に猫のぬいぐるみを置き、メモに書き込むためにボールペンを手に取った。お巡りさんは目の前の女の子にいろいろと質問をしているようだった。
「ねえ、君は何で泣いてるの?」
「ホタルの大切な何かが無くなっちゃったの……」
ふうん、あの子の名前はホタルっていうんだ。
「じゃあ、何を無くしたの?」
「それが何だかわからないの。わからないけど、ものすごく大切なものなの。それを探してほしいの」
変わった子だな。何を無くしたのかわからなければ探しようがないじゃないか。お巡りさんも大変だ。
ん? もしかしたらあの子が無くしたものってこのぬいぐるみ?
ちょうどその時、お巡りさんも同じことを考えていたようだ。こちらを指さしながら、女の子に向かって質問し始めた。
「ねえ君、もしかして無くしたものってあの猫のぬいぐるみ?」
「ふえっ? 猫?」
女の子が振り返り、泣きはらした赤い目をこちらに向けた。そして僕と目が合う。
か、可愛い……。
柔らかそうな頬にカールした茶色の髪がふんわりとかかっている。その濡れた大きな瞳は、一縷の希望に輝きを増していた。
僕の胸がドキンと脈打つ。
涙を隠そうともせず、女の子は猫のぬいぐるみに視線を移す。そして残念そうに顔を曇らせた。
「あのぬいぐるみかもしれないし、あれじゃないかもしれない。わからない、わからないの……」
そして女の子は、再び机に伏して泣き始めた。
なんだ、あの子のぬいぐるみじゃなかったのか。せっかくあの子と知り合いになるチャンスだったのに……。
でもあの子が着てるのはうちの高校の制服だぞ。だったら学校で会えるかもしれない。名前もわかったし。
そんなことを考えながら、メモを書き終えた僕はボールペンを置く。
「じゃあ、ぬいぐるみをここに置いておきますから」
僕は女の子の対応に必死になっているお巡りさんに一声かけ、後ろ髪を引かれるような気持ちで交番を後にした。
○
「なによ、人のぬいぐるみをジロジロ見て。なんか文句あんの?」
はっと気が付くと、僕はエレベーターの中で黒ずくめの女の子に睨まれていた。
そうだ、エレベーターに乗っている時に地震があって、僕達は閉じ込められているんじゃないか。
しかし、目の前の女の子は交番で見た女の子によく似てる。キャスケットで髪はよく見えないが、柔らかそうな頬は瓜二つだ。交番の女の子は眼鏡を掛けていなかったが、目の前の女の子が黒縁眼鏡を外したら案外そっくりかもしれない。
「なに? 今度は私の顔をジロジロ見て。喧嘩でも売ってるつもり?」
でもこの口調はなんだ? 交番の女の子とは完全に別人だぞ。
まあ、ダメで元々だ。僕は思い切って、目の前の女の子に名前を訊いてみることにした。
「間違ってたら申し訳ないんだけど、君の名前は、もしかしてホタル、さん?」
すると女の子の顔がみるみる険しくなる。
やべぇ、間違ってたか? でも反応したってことは、あながち間違いじゃなかったのかもしれないぞ。
まあ、とりあえずは謝っておくか、と僕が口を開こうとしたとたん、
「ぐぇ。げほっ……」
鳩尾に強い衝撃を受ける。見ると、女の子の蹴りが見事に腹部に決まっていた。
「二度とその名前で私を呼ばないで! あんたが誰だか知らないけど」
僕は苦しさのあまりエレベーターの床にうずくまった。
「……なんだよ……、いきなり蹴ることは……、ないじゃんかよ……」
胃液が込み上げてくる。僕はエレベーターの壁に背を付けていたので、蹴りの威力が倍増されてしまったのだ。
「あんたが先に喧嘩を売ってきたんでしょ。なによ、もう一回蹴られたいのっ!?」
そう言いながらファイティングポーズをとる女の子。
ローアングルから眺める女の子の蹴りは一度は味わってみたいシチュエーションだが、今は苦しさのあまりそれどころではない。
ダメだ、この女。完全にキレてやがる。
「ちょ、ちょっと待ってよ……。自己紹介もまだじゃんかよ……。じゃあ君のこと、何て呼べばいいんだよ」
すると女の子は少し考える素振りを見せた後、僕に言い放った。
「私はケイ。堀田蛍。『蛍』と書いてケイ。私ね、自分のことホタルって呼ばれるのが死ぬほど嫌なの。今度呼んだらまた蹴るよ」
やっぱホタルじゃねえか。なにがケイだよ。
しかし不思議だ。交番で会った女の子と目の前の女の子、えっとケイだっけ? この二人の間には共通点があり過ぎる。白猫のぬいぐるみ、蛍という名前、そして柔らかそうな頬――いったいどういうことなんだ?
「僕の名前は……尾瀬開。『尾瀬』と書いて……オセって読むんだ」
まだお腹が苦しかったが、僕はケイを見上げながら右手を差し伸べた。
自己紹介の握手。
そして、体を起こすのを手伝ってほしいというゼスチャーも兼ねていた。
「仕方がないわね。開君だっけ? 今度ホタルって呼んだら承知しないからね」
渋々、右手を差し出すケイ。
「ああ、よろしく」
僕はケイの手を握り、しゃがんだまま軽く二、三回握手をする。そして、起き上がろうと握る手に力を込めて――
「隙あり!」
「ッ!」
僕はケイの体を引き寄せ、左手で猫のぬいぐるみに手を延ばす。
ザマあ見ろ、ぬいぐるみはもらったぜ。
しかし、ザマを見たのは僕の方だった。
「ぐえっ!」
あと少しというところで再び腹部に衝撃を感じる。見ると、鳩尾にケイのブーツがのめり込んでいた。
「あんたバカじゃないの。どこの世界に隙ありって叫びながら攻撃する奴がいるのよ」
僕は苦しさのあまりケイの右手を離し、再びうずくまった。
猫のぬいぐるみを狙ったのには理由があった。
交番の少女とケイとの間にはあまりにも共通点がある。だから、ぬいぐるみを手にしてみたいと思ったのだ。僕は交番の前で、あれによく似た猫のぬいぐるみを拾っている。実際に触ってみれば、あの時のぬいぐるみと同じかどうか分かるかもしれない。
というか、本当はケイに仕返ししてやりたかったんだけど。蹴られたままでは僕の気持ちが収まらない。
しかしどうだろう、このザマは。女の子相手に情けない。
「人のものを盗ろうとした罰よ。そこでうずくまってなさい」
チクショウめ。こうなったら口で勝負するしかない。彼女もなかなか手強そうだが負けるもんか。
僕はケイを見上げながら、不敵な笑みを浮かべた。
「無駄に叫んだと思ってるのか? 僕は見たぞ。『隙あり』と叫んだ時、君がぬいぐるみを左手でしっかりと抱きしめたのを」
するとケイは顔を引きつらせながら、絶対に手放してなるものかと猫のぬいぐるみを体に引き寄せる。
「ほら、今もそうだ。『隙あり』という僕の言葉に、君は無意識のうちに一番大切なものを守ったんだよ。それがどういうことだかわかるか?」
「……ッ」
ケイが身構える。
「それはつまり、そのぬいぐるみが君の弱点ということだ!」
完璧な理論。でも、論理の展開がなんか変な方向に行っちまったけど。自分で言っておきながら、ぬいぐるみが弱点とはどういうことなんだよ?
すると、ケイはすかさず言い返す。
「ふん。それがわかったところでどうなるのよ。エレベーターが動いたら警察を呼ぶよ」
えっ、まさかのビンゴ? ホントにぬいぐるみが弱点ってこと?
僕は驚きながら反論する。
「警察が来ると困るのはケイの方じゃないのか? 僕は一方的に蹴られてるだけだからね。防犯カメラがそれを証明してくれると思うけど」
そう言って僕はエレベーターのスイッチ類の上を見る。そこにあるのは大きめの黒いプラスチックのパネル。あの奥に防犯カメラがあって、エレベーター内の様子が撮影されているはずだ。
「くっ……」
ケイは防犯カメラの方をちらりと見ると、観念したように僕の方を向く。形勢逆転だ。
「よっこらしょっと」
僕がゆっくり立ち上がると、ケイは恐る恐る口を開いた。
「どうしようというの?」
「どうもしないよ。さっきも言っただろ。エレベーターの中の様子は記録されてるんだ。君に手を出したりしたら僕の方が捕まっちゃう」
「じゃあ……」
「そうだな。蹴られた分だけ僕の質問に答えてほしい」
僕には知りたいことが沢山あった。ケイがホタルと呼ばれたくない理由、交番の少女との関係、そして猫のぬいぐるみの秘密。
ケイは少し考えた後、静かにうなずいた。
「わかった……」
僕はまた右手をケイに差し延ばす。
「挨拶のやり直しだ」
「ぬいぐるみを取ったりしないよね?」
「ああ、そんなことはしない。撮影されてるからな」
するとケイはおどおどと右手を差し出した。
「僕は尾瀬開。針葉高校の三年生。開って呼んでほしい。よろしく」
「私はケイ。私も針高の三年よ」
ためらいがちに僕達は握手をした。
○
「じゃあ、最初の質問」
僕が切り出すと、ケイがゴクリと唾を飲み込む。
「ケイはさっき、エレベーターのマイクに向かって言ってたよね、病気だって。それって大丈夫なのか?」
「……」
僕が尋ねるとケイは黙り込んでしまった。
「いや、あの、初対面の人にそんなことを聞くもんじゃないと思うけど、ほら、今僕達ってエレベーターに閉じ込められて一種の非常事態だろ? 何かあったら対処しないといけないのは僕じゃん。だから最初に聞いておこうと思って……」
するとケイは少し考えた後、意を決したように病名を僕に告げた。
「セスよ」
――セス。
最近、若者の中で問題になりつつある現代病だ。
情報収集をスマートフォンに頼り過ぎて、それが無いと何もできなくなる若者が増えている。その中の何割かはセスを発症していると、ニュースかなにかで聞いたことがある。
「じゃあ、ケイはスマホのヘビーユーザーなんだ」
「違うわ。そもそも私、スマホなんて持ってないし。スマホに頼り過ぎの人は、ただのスマホ依存症。セスってのはね、ちゃんとした病気なの」
病気にちゃんとしたものがあるのかどうかなんて知らないが、そんな僕をよそにケイは説明を続ける。
「正式名は、接触性外部記憶症候群。Contact External Storage Symdromeの頭文字を取ってCESS(セス)。触っているものに自分の記憶の一部が移ったと思い込んでしまう病気よ。スマホ依存症の人に同じ症状が見られるから最近話題になってるけど、本当は別の病気。セスの場合はね、スマホに限らず触っているものなら何にでも発症してしまう」
ケイの説明はこんな感じだった。
セスを発症すると、触っているものに記憶が移ったと錯覚してしまい、実際そのように振る舞ってしまう。
例えばスマホの場合。
軽度のセスでは、スマホに自分の記憶の一部が移っていると錯覚してしまい、スマホを忘れた時に物覚えが悪くなったように感じるという。
普通はその程度で済んでしまうのだが、重度になるとスマホから手を離しただけで記憶喪失のような症状が出てしまい、生活に支障が出るらしい。
「私の場合はね、重度のセスなの。それに記憶が移るものはスマホじゃない」
「まさか、じゃあ、それが……」
僕はケイが抱いているぬいぐるみに視線を移した。
「そう、そのまさか。このぬいぐるみは、私の一週間分の記憶なの」
ぬいぐるみに記憶が!?
いや、そんなことがあるわけがない。病気というのだから、そう思い込んでいるだけなのだろう。
でもこれで、ケイがぬいぐるみを手放そうとしなかった理由が判明した。
「これでわかった? だからこのぬいぐるみを奪おうとしないで」
「ああ、わかった。ごめん、病気だって知らなかったんだよ」
「わかってくれたらいいわ。どうせ猫のぬいぐるみを抱いた変な女の子って思っていたんでしょ? だからもう私に関わらないで」
なんだよ、可愛げがねぇなあ……。
エレベーターに女の子と二人きりで閉じ込められたというせっかくのシチュエーションなのに、よりによってどうしてこんな奴なんだよ。
まあ、ぬいぐるみを抱いている時点で変な奴だとは思っていたけど。
「じゃあ、その記憶について聞かせてくれよ」
「なに? 手短にね」
「さっき、ケイは『一週間分の記憶』って言ってたよな。それってどういう意味なんだ?」
「ああ、そのことね」
ケイは面倒くさそうに説明を続ける。
「私の場合はね、困ったことに、記憶が移ってしまうものが一週間くらいで変わってしまう」
えっ、それってどういうこと?
「先週はこのキャスケット、その前の週は髪留めだった。そんな風に、その時に触れているものに記憶が移っちゃう。一週間ごとにね」
そりゃ、面倒くさそうだ。
ざまあみろ、じゃなかった、一応同情しておいてやるぜ。
「でもそれって、記憶が移動する物が一週間ごとに変わるって話だろ? それでその時触っているものに記憶が移ってしまう。だったら『一週間分の記憶』ってのはちょっと違うような気がするんだけど」
「それはね……」
ケイは深くため息をついた。
「例えばね、このぬいぐるみを無くしたとする。そしたら今週分の記憶が無くなっちゃうのよ」
と言われても、まだよくわかんないんだけど……。
「なんかまだわからないって顔してるね。いい? 順番に説明するよ」
「頼むよ」
「まず、このぬいぐるみを無くしたとする。すると、そのとたん私は記憶を無くしてしまう。重度のセスなんだから、それはわかるよね」
「ああ」
まあ、そういう風に思い込むという病気なんだから、そうなっちゃうんだろう。
「それでね、ぬいぐるみがそのまま見つからない場合なんだけど、私がはっと気が付くと翌週になっちゃってて、その時にはもう別の物に記憶は移ってる。正確には、別の物に記憶が移ってくれたから意識を取り戻すことができたって感じなんだけど。そうなっちゃうと、前の週のことをいくら思い出そうとしても全く思い出すことができないのよ」
ふーん、それは難儀だな。
「だから、このぬいぐるみの中には私の今週の記憶が収められている。私にとってはそんな感覚なの」
「なんとなくわかったような気がするよ。ところで、別の物に記憶が移ったのって、どうやったらわかるんだい?」
一週間ごとに記憶が移るものが変わるというのは、なんとなくわかった。もし記憶が移るものが変わらなければ、ずっと記憶を失ったままってことだからな。一種の自己防衛機能なんだろう。でも記憶が移った物が何なのかわからなければ、その防衛機能も意味がない。
「これよ」
ケイがぬいぐるみの額を見ながら言う。
「ほら、この猫の額にあるでしょ。渦巻紋様」
まさか、あの渦巻紋様が記憶のある場所を示すインジケーターなのか!?
「これが記憶の在り処を示す紋様なの。医学的には説明できないことらしいんだけど、この紋様のおかげで助かってるわ」
そりゃ医学では説明できないだろう。記憶が移ったと思い込むことは医学的にも説明できそうだが、記憶が移ったものに刻印する能力があるなんて聞いたことがない。
「ちょうど一週間前だったわ。近くのお店でこのぬいぐるみを見かけて、可愛かったからつい手にしちゃったんだけど、そのとたん、猫の額にこの紋様が浮かび上がった。記憶がぬいぐるみに移った証拠よ。あちゃー、やっちゃったって感じ。仕方が無いから買ったわ」
その猫のぬいぐるみ、最初から赤の渦巻紋様があったわけじゃなかったのか……。
「よりによって純白のぬいぐるみとはね。最悪だわ」
純白だと困ることでもあるのか? まあ、黒ずくめの恰好に似合わないことは明らかだけど。
「私、なんで黒色のものばかり身に着けているかわかる?」
そういう言い方をするということは、ファッションで黒ずくめにしているってことじゃないんだな。
「記憶が移る時ってどれに移るかわからないでしょ? それで記憶が移ったものは一週間身に着けてなくちゃいけない。だから、汚れが目立たないように黒ばかり身に着けているのよ」
「それは大変だな」
「そうよ。以前、靴下に記憶が移ったことがあった。あの時は最悪だったわ。一週間、誰にも会いたくなかった……」
うーん、確かに。一週間目は最悪だろう。お近づきにはなりたくない。
「それに比べて髪留めとか眼鏡の場合は楽なの。触れていればいいんだから、手で持って拭いたりできるし」
間違って机に置いたりすると最悪だけどな。
「でも渦巻紋様が刻印されるんだろ? 眼鏡のレンズに渦巻紋様が現れたらどうするんだよ」
それはコメディだな。ちょっと見てみたい気もするけど。
「大丈夫よ。これって伊達だから」
そう言いながらケイは眼鏡に指を通して、レンズが入っていないことをアピールする。
最初はつんとしていたケイだったが、本当は面白い奴かもしれない。
「はははは、本当だ。ケイは目がいいの?」
「バッチリよ、両目とも二・○ はあるわ」
詐欺だ。これは眼鏡っ子に対する冒涜だ。
「なによ、その不可解だって言いたげな表情は。悪かったね、伊達で」
膨れたケイの顔を見て、僕はさらに可笑しくなった。
○
ケイがやっと表情を崩してくれた。
最初、蹴られた時はどうなるかと思ったが、これで狭いエレベーターの中でもなんとか二人で過ごせそうだ。
それにしても世の中不思議な病気があるもんだ。記憶が触った物に移ってしまうなんて。そして、その物は一週間ごとにコロコロと変わってしまうとは。
「でも、一週間分の記憶が無くなっても、ケイが死んじゃうわけじゃないんだろ?」
何気なく言った僕の言葉にケイは再び表情を硬くする。
「開君。あんた、これだけ話しても私の苦労をちっともわかろうとしてくれないのね」
あちゃー、やっちまった。一言多かったか……。
「開君だって同じ高三よね。受験勉強はどうすんのよ。さっき塾で習ったことはどうなるのよ。記憶を無くしたら一週間分の勉強が無駄になるのよ」
そりゃ嫌だな。受験本番を数ヶ月後にひかえたこの時期に一週間分の記憶を無くすということは致命的だ。
「それに……」
ケイの言葉のトーンが変わった。彼女の様子を見ると、少しうつむき加減で照れている。
「今週の記憶はね、特に無くしたくないの……」
きっと何かいいことがあったんだな。
そして僕の直感は、それが異性関係であることを示していた。
なんだ……。
ケイの秘密を知って彼女に興味が湧きつつあった僕は、ちょっぴり残念に思ってしまう。
「それは、この猫のぬいぐるみに記憶が移った直後だった。私ね、登校中にぬいぐるみを落としちゃったの。はっと気がついた時は交番に居た。なんか私、泣きじゃくっていたみたい……」
えっ、それって……。
「お巡りさんの話だと、ぬいぐるみを届けてくれた人がいたらしい。同じ針葉高校の生徒で、すごい好青年だって話」
もしかして、その好青年って、ぼ、僕のこと?
僕は得体のしれない運命を感じていた。
一週間前に交番で会ったホタル。そして一緒にエレベーターに閉じ込められた目の前のケイ。やっぱり二人は同一人物だったんだ。
「私、その人にお礼を言いたくて。だから名前をメモしたんだけど……」
そう言いながらメモを取り出すケイ。
えっ、アレをメモってきたの?
僕は額に冷や汗が流れるのを感じる。
「あった、あった。開君、この人知ってる? 綾小路桃太郎さん」
いや、それって偽名だから。
もし落とし主が見つからなかった時、ぬいぐるみが僕のところに送られると困るだろ。だから、つい書いてしまった偽名。
素直に本名を書いておけば良かったと、僕は後悔する。
「どんな人なんだろう、綾小路桃太郎さん……」
急に乙女顔になるケイ。
おいおい、そんなに急変するなよ。というか、そんな奴ウチの高校にいるかよ。名前見たらすぐに分かるだろ、偽名だって。
それに――僕は彼の正体を知ってるんだけど。
「ケイ、実は……」
僕が綾小路桃太郎の正体を明かそうと口を開いた時――ガタンという音と共にエレベーターが動き始めた。
「開君、やった! 動いたよ!」
喜びはしゃぐケイ。
「ああ、良かった」
とにかくエレベーターが動き出して良かった。まずはここから出ることが先決だ。正体を明かすのはその後でもいい。
僕はケイと一緒に、エレベーターの階を表す表示が減っていくのを喜びを込めた眼差しで見つめ続けた。
○
エレベーターが一階に着いた。そしてドアが開く。
「やっと出れるよ、開君!」
こちらを振り向くケイ。その笑顔は、僕を蹴った奴とは思えないほど、いや蹴った相手に向けたものとは思えないほど爽やかだった。
「ああ、良かった」
僕が答えたその時――ガタンという衝撃と共にエレベーターが強く揺れた。
「危ない!」
僕はとっさにケイの体を引き寄せる。もしドアが開いたままエレベーターが動き出したら、エレベーターとビルの間に挟まれて危険だ。
一分くらいケイを抱き寄せていただろうか。エレベーターはそれ以上動くこともなく、ドアを開けたまま一階に止まったままだった。
よし、今なら降りれるかも。
「ほら、ケイ、エレベーターから降りるよ」
僕はケイに声を掛ける。が、何も返答はない。
それどころか、ケイは両手で僕にしがみついてきた。
えっ、どうしたんだよ、ケイ?
そこで僕ははっとする。
そうだよ、両手でしがみついたりなんかしたら、猫のぬいぐるみはどうなっちゃうんだよ!?
ケイの両手は僕の背中に回されている。僕は左手を自分の背中に回してケイの手を探る。
も、持ってないぞ、ぬいぐるみを……。
まさかと思い首を伸ばして辺りを見渡す。すると、猫のぬいぐるみはエレベーターの外、一階のフロアに転がっていた。
げっ、ドアが開いた時の衝撃で手放しちゃったんだ……。
「ケイ、ケイ、大丈夫か!?」
僕がケイの顔を覗き込むと、彼女は泣きじゃくっていた。
「お願い、私のこと離さないで。ホタル、怖い……」
えっ、ホタル?
これってどういうことだ? あれほどホタルと呼ばれることを嫌がってたケイが、自分のことをホタルと呼ぶなんて……。
つまり、ケイの病気の話は全部ホントだったんだ。それで、ぬいぐるみを手放した瞬間にケイは記憶を失ってしまったんだ……。
「大丈夫だよ、ケイ。僕が居るから」
僕は、優しくケイに声をかける。すると彼女は泣きはらした目を僕に向け、とてもケイとは思えない甘い声で僕を呼んだ。
「うっ、うっ……。ホタルは……ケイじゃないよ、お兄ちゃん」
ええっ、お、お兄ちゃん!!??
「ホタルのこと……、ちゃんとホタルって呼んで……。お兄ちゃん」
「ああ、ホ、ホタル……」
また蹴られるんじゃないかとドキドキしながら、僕は目の前にいる女の子の名前を呼んだ。
○
「とにかくエレベーターを出よう」
ホタルが泣き止んだのを確認すると、僕は彼女に声をかける。
「えっ、どこに行くの? ホタル怖い……」
ケイとは違ってホタルは極端な怖がりだった。
でも交番で会った時もこんな感じだったな……。
「大丈夫、僕がついているから」
「ホタルの手を離さないでね。絶対だよ、約束だよ」
「わかった。絶対離さないから安心して。約束するから」
「うん」
僕は怖がるホタルの手を取り、ゆっくりとエレベーターの外に誘導する。
彼女はまるで幼子のようだった。まあ、記憶を一気に失ってしまったんだから仕方がないことだろう。正確には、ケイの記憶が一気に封印されてしまったと言うべきかもしれないが。
「ほら、もう大丈夫だよ」
僕達はやっとのことでエレベーターの外に出た。
「ありがとう、お兄ちゃん」
いや、そのお兄ちゃんってのは止めてほしいんだけど。
僕のことを本当にお兄ちゃんだと思っているのだろうか? そもそも彼女には兄がいるのだろうか?
「なにこれ~。ホタル、こんなの嫌」
安心したのもつかの間、今度はホタルがかんしゃくを起こす。今まで普通に被っていたキャスケットをつかむと床に投げつけたのだ。
「これも嫌い」
次は眼鏡。
投げ捨てられた伊達眼鏡がカランカランと音を立てて床を転がっていく。それを目で追いながら、僕はものすごく重要なことを思い出した。
そうだ、ぬいぐるみはどうなった!?
僕はぬいぐるみが転がった場所に視線を移す。
えっ、ない!?
慌てた僕が辺りを見渡すと、猫がぬいぐるみを咥えてビルの外に出て行くところだった。
「待って!!」
僕はホタルの手を離し猫を追おうとする。しかし――
「いやっ、ダメっ!」
ホタルが僕の手にしがみついてきた。そして泣きはらした目で僕に懇願する。
「お願いだから、ホタルの手を離さないで……」
キャスケットと眼鏡を外し、柔らかな頬に軽くカールした茶色の髪がかかるその姿。大きな瞳を濡らしながらじっと僕を見つめている。
か、可愛い……。
交番で会ったあの時の女の子がそこに居た。
○
「わかったよ、ホタル。手は離さないから……」
でも早くぬいぐるみを追わなくちゃ!
僕の心は焦り出す。しかしホタルは一向に動こうとしなかった。
「だから、一緒に行こう! 本当に離さないから」
「ホントにホント? ぜったいだよ、お兄ちゃん」
「ああ、約束するよ」
僕はホタルの顔を見ながら握る手に軽く力を込める。
「うん」
安堵の目で見つめ返してくるホタル。僕の胸がかっと熱くなる。
――もうこの手は離さないから。
ホタルが納得したのを心で感じると、まずキャスケットを拾って自分のバッグに入れ、そして伊達眼鏡を拾いながら二人でビルの外に出た。
ううっ、寒っ!
外は師走の夜の街。大きな地震があった後というのに、東京はすでに平常を取り戻していた。三月の大震災から大きな余震が続いたせいか、エレベーターが止まるほどの揺れにも慣れてしまったのだろう。
ぬいぐるみはどこだ? 猫はどっちに行った!?
僕は歩道に立ってキョロキョロと辺りを見渡した。最悪の場合、このまま見つからない場合だって考えられる。
いや、それはダメだ。ケイの一週間分の記憶が無くなってしまうじゃないか。
一週間分の彼女の努力、そして綾小路桃太郎とのロマンス。それ以上に無くなって欲しくないのは、エレベーターの中での僕との記憶。
「お兄ちゃん、何か探し物?」
僕の必死の形相を見て、ホタルが尋ねてきた。
「ああ、大切なものを無くしちゃったんだ」
「へえ、お兄ちゃんもそうなんだ。ホタルもね、何か大切なものを無くしちゃったような気がするの。でもね、ホタルは大丈夫。だってこうやってお兄ちゃんが手を繋いでくれているから」
そうか、ホタルはぬくもりを求めていたんだ。交番の時だって、誰かがホタルの手を取ってあげなくてはいけなかったんだよ。
するとホタルは僕の右腕に手を回し、ぺったりと体を寄せてくる。
「お兄ちゃんって、あったかい……」
むむむ、何か柔らかいものが腕に当たってるんですけど……。
その感覚のせいで真っ白になりそうな僕の頭は、このままホタルと一緒にいるのもいいんじゃないかと考えを巡らせ始めた。
ホタルとお茶して、それで駅かどこかでバイバイして……。
そこで僕は思い留まる。
ん、駅かどこかでバイバイ? そんなことがホタルにできるだろうか? いや、とてもできるとは思えない。誰かが付き添わないと家にも帰れないだろう。
すると僕が送っていかなくちゃいけないのか? 家はどこなんだろう? スマホは持っていないって言ってたけど、携帯を持っているなら家族や友達の電話番号くらいはわかるかもしれない……。
それに、たとえ無事に家に送って行くことができても、それからホタルはどうなっちゃうんだ? こんな調子なら一歩も外に出ることはできないんじゃないのか? 記憶が他の物に移動してケイに戻るまでは。その間、ホタルは自室で泣き続けるのだろうか?
それは地獄だ。
僕は思いを新たにする。
だから探さなくちゃ。どんなに困難でも、猫のぬいぐるみを。
「ホタル、探すよ!」
「ふえっ? 何を?」
「とても大切なもの」
それを見つけたら、目の前に居るホタルは消えてしまうかもしれないけど。
「どうしても探さなくちゃいけないの? お兄ちゃん」
「ああ、どうしても必要なものなんだ」
今は心を鬼にしよう。
僕はホタルの手を引いて、まずは通りを右に進み始めた。
○
ぬいぐるみはあっけなく見つかった。
十メートルほど先の植え込みの陰に落ちていたのだ。きっと歩行者に追われた猫が植え込みの中に逃げようとして、ぬいぐるみが引っかかってしまったのだろう。
「あった、あったよ!」
僕はホタルの手を引きながらぬいぐるみの方へ向かう。しかしホタルは動こうとしなかった。
「どうしたんだよ、ホタル……」
振り返ると、彼女はうっとりと景色に見とれていた。
「うわぁ……」
クリスマスイルミネーションで飾られた通りの街路樹。歩道に面した各お店では、ツリーやサンタの形が光っている。スピーカーから流されるクリスマスソングに乗って、通りを歩く人々の楽しそうな会話が聞こえてくるのは師走ならではの光景だった。
そうか、ホタルはこんな風景を見るのは初めてなんだな……。
「光ってる……」
いつまで経ってもため息を止めようとしないホタルを見ながら、僕は彼女に不憫さを感じていた。
でも、まずはぬいぐるみを確保しなくっちゃ!
こうしているうちに、またぬいぐるみを見失ってしまうかもしれない。猫が戻ってきて咥えて行ったり、歩行者に蹴られてどこかに行ってしまうことだってあり得る。
僕はホタルを引きずるようにしてぬいぐるみのところまで移動した。
よし、確保!
ぬいぐるみを拾い、額の渦巻紋様を確認しながらチラリとホタルを見る。彼女はいまだ放心中だった。その大きな瞳にキラキラとイルミネーションが反射している。
「綺麗……」
そんなに気に入ったのなら――ホタルとちょっと夜景を見に行ってみるか。
ホタルがケイに戻ってしまうその前に。
僕は彼女に、街の景色を見せてあげたいと思った。
○
「お兄ちゃん、どこへ行くの? ホタル、疲れたよ~」
僕はホタルの手を引いて、小高い丘に続く階段を登る。
「もうちょっとだよ。もっと綺麗な景色が見れるところがあるからさ」
登り切ったところには小さな公園がある。絶景とまではいかないが、遠くに輝く東京の高層ビル群が綺麗に見えるはずだ。
「ほら、あと五段」
「うん、ホタル、頑張る」
公園に着いたら高層ビル街が見えるかな? そしたらホタルも喜んでくれるかな?
ビルといえば、今日ってスカイツリーもライトアップしてるんだったっけ?
と言っても、ホタルにはスカイツリーなんてわからないと思うけど。
「お兄ちゃん、あと一段だよ」
「ああ……」
だからホタルに教えてあげるんだ。あれが日本一新しくて日本一高いタワーなんだって。
ホタルだったらきっと驚いてくれると思う。
「ねえ、お兄ちゃん、何考え事してるの?」
「うん? ああ、うん……」
そしたら『お兄ちゃんすごい!』ってホタルが僕の胸に飛び込んで来たりして。
そんなことになったらいいな。そしたらぎゅっと抱きしめてあげるんだ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんってば……」
「ん、ああ……」
それで、抱きしめてあげている時にこのぬいぐるみをそっと触れさせてあげようか……。
いや、それはダメだ。
ぬいぐるみ触れるとホタルはケイに戻るんだろ? 抱きしめている時にケイに戻ったら、何してんのよって殴られそうだ。
「何よ、お兄ちゃんったら。ホタルのこと無視しちゃって。あれ、お兄ちゃん何か持ってる」
だったら、一緒に夜景を見て、そして最後にそっとホタルにぬいぐるみを渡そう。
小さな声で、さよならってつぶやきながら……。
そしたらホタルともお別れだ。
「まあ、可愛い猫のぬいぐるみ。ちょっとホタルに貸して、いいよね、お・に・い・ちゃん!」
「えっ、何?」
そろそろ公園に着くという頃、僕はホタルに呼ばれて我に返る。
「ホタル、何か言った? ぐえっ……」
突然、腹部に強い衝撃。
前のめりになりながら自分のお腹を見ると、鳩尾にホタルのブーツがのめり込んでいた。
「私のことホタルって呼ばないで、ってあれほど言ったでしょ!」
「……く、苦しい……」
「何よ、その初対面の人を見るような目は。早くエレベーターを出ましょ、って、何? ここどこ? どうなってんの?」
うずくまる僕の目の前に、記憶を取り戻したケイがぬいぐるみを持って仁王立ちしていた。
○
「ちょっと開君、ここどこなのよ?」
ケイはぬいぐるみを握りしめながら辺りを見回す。
くそっ、失敗した……。ホタルが消えてしまった……。
「あれ、どこかで見たことのある風景……って、ここ、小城山じゃない。なんで私、こんなところに居んのよ!?」
僕は泣きたい気持ちに包まれながら、腹痛に耐えて言葉を絞り出す。
「……君が来たいって……」
「私、そんなこと言ってない」
「……ぬいぐるみを手放した時の……君が……」
「えっ?」
ケイが言葉を詰まらせる。
そしてためらいがちに言葉を紡ぎ始めた。
「開君。ホ、ホタルに、会ったの……?」
「……そうだよ……。でも、その名前を言ったら……、また蹴られるじゃんかよ……」
「もう蹴らないから教えて。ホタルが言ったの? ここに来たいって」
「……ホタルが街の景色に見とれていたから、もっとよく見える場所に行きたいかって聞いたんだ。……そしたら、行きたいって言うから……」
ちょっと脚色してしまったが、流れは間違っていない。
「そうよね、ホタルがこの場所を知ってるはずないもんね。安心したわ」
ケイは、自分がこの場所に居るいきさつを知ってほっとしたようだ。
お腹の痛みがだんだんと引いてきた僕は、ゆっくりと立ち上がる。
ああ、これが、あのホタルと同一人物なのかよ。
「それよりも、なんで私、ぬいぐるみを手放しちゃったんだろう。まさか……」
ケイは僕をギロリと睨む。
「い、いや、僕は何もしてない。エレベーターが一階に着いたときに大きく揺れて、それで落としちゃったんだよ」
「ホント?」
「頼むから信じてくれよ」
「エレベーターが一階に着いたところまでしか覚えてないから、そうなのかもしれない。とりあえず信じるわ」
とりあえずは余計だよ。
僕はちょっとムッとする。
「それから先が大変だったんだぜ」
どうせケイはホタルの時の記憶が無いんだ。あることないこと付け加えてしまえ。
「ぬいぐるみを猫が咥えて持っていっちまうし、ホタルは泣き出して動かないし、僕は誰かに蹴られたせいでトイレで吐きまくったし……」
そうだよ、僕を何度も蹴ったことを懺悔しろ。
「嘘よ。猫が咥えて持っていったなんて嘘」
いやあ、そこは本当なんですけど。
というか、僕がトイレで吐いても不思議ではないくらいの勢いで蹴ったってことなんだ。チクショウめ。
「ホタルが泣いて迷惑をかけたところは否定しないんだな。そりゃ、そうだよな。自分のことだもんな」
「……」
この口撃は効いたようだ。さすがのケイも黙ってしまった。
「すげえ大変だったんだぜ。泣きじゃくるホタルを説得するのは。というかホタルも被害者なんじゃないのか? 誰かさんは豊富な知識にぬくぬくと囲まれていて、都合が悪くなるとそれを封印してしまう。突然、見知らぬ世界に放り出されるホタルが可哀想だと思わないのよっ!?」
ああ、言ってしまった……。
ホタルが聞いていたら、お兄ちゃんダメって怒られそうだけど。
ちょっと言い過ぎかと思ったが、ホタルが消えてしまったショックはこれくらいでは晴らせそうもない。
ケイは黙ったままうつむいてしまった。
「ごめんなさい……」
そして小さくすすり泣く声で謝罪を始めた。
あちゃー、女の子を泣かせちまった……。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
うつむきながら謝罪を繰り返すケイ。それは僕に向けられたものだろうか? それともホタルに向けられたものなのだろうか。
暗くてよく見えないが、ケイの目からはきっと涙がこぼれ落ちているのだろう。
涙といえば、ホタルの涙はさっきまで散々見てきた。あれはすごくピュアだった。ただ純粋な恐怖から身を守るために生成された液体という感じ。
でも、今のケイの涙は違う。同じ目から流れる涙なのに。なんだかしょっぱいような、人間味のする涙。そんな感じがした。
「もう、いいよ、ケイ。わかったから」
謝罪を続けるケイに、たまらず僕は声をかける。
「ううん、私が悪かった……」
「僕もちょっと言い過ぎたよ。反省してる。だからもう帰ろ。景色を見てさ」
「いい。こんな顔を見られるのは恥ずかしいから、開君が帰った後で一人で帰る。それにここの景色は見慣れてるし」
泣きはらした顔は、ホタルの時にさんざん見てきたんですけど。
まあそれを言うとケイが気にするから、言わないでおいてやるよ。
しかし、ここの景色は見慣れてるなんて、なんか味気ねえなあ……。
「こんな夜中の公園に女の子を一人置いていけないよ。それよりも、ちょっとだけ景色を見て行こうよ。今日の夜景は特別なんだぜ。ケイの顔は見ないからさ」
「特別って……、クリスマスイルミネーション?」
「まあ、そんなもんだ」
「そう、それなら……」
渋々納得したケイと一緒に、僕は公園の端に向かう。ケイはずっとうつむいたままだった。
「ほら、見てみなよ」
手すりにつかまりながら僕はケイに声を掛ける。するとケイは恐る恐る顔を上げた。
そして――
「えっ!?」
驚きの声を上げる。
「なんで光ってんの? あれって来年の春のオープンじゃなかったの?」
「だから言っただろ、今日は特別なんだって」
東京スカイツリー。
二○ 一二年五月オープン予定の日本一、いや世界一高いタワー。 今晩はオープン前の特別イベントとして、LED電球がその巨大なツリーを照らしていた。
「綺麗……」
濡れた大きな瞳にイルミネーションが反射する。
その姿は、先ほどのホタルと全く同じだった。
「綺麗だな」
本当はホタルとこの景色を見たかったんだけど……。
同じ顔でも中身は違う。僕は、この景色をホタルと同じ顔の女の子と見たかったのではなく、ホタルという人格と見たかったのだと認識する。
――ごめんね、ホタル。この景色を見せてあげられなくて。
僕は感嘆するケイの隣に立って、光るツリーを見ながら違うため息を漏らしていた。
○
「ホタルはね、私の一番嫌いなタイプの女なの」
小城山から駅に向かう間、ケイは身の上を話し始める。
「泣き虫で、男に媚びて、遠慮というものを知らない……」
記憶が無いんだから、それは仕方が無いことなんじゃないかと思うけど。
「だから、私はホタルと呼ばれるのが一番嫌い」
人の腹部を蹴るほどにな。
「でもね、ホタルは私の深層心理じゃないかって、病院の先生が言うの。私は本当はそうなりたいと願っているって……」
いや、全然別人なんですけど……。
「私がこの病気になったのは、一年くらい前だった。お気に入りの鉛筆があってね、それを使うと模試でもいい成績が取れた。ある日、模試にその鉛筆を忘れて行っちゃったんだけど、試験会場でそのことばかり気になって成績は散々だった。それから私は自分に暗示をかけるようになったの。この鉛筆を持っていれば大丈夫だって、この鉛筆に勉強した成果が全部詰まっているって」
ケイの話はこんな風に続く。
鉛筆は使っていればどんどん短くなっていく。とうとうその鉛筆が使えなくなった時、ケイは違うものに暗示をかけなくてはならなくなった。これを持っていれば大丈夫だという強い暗示を。
高校三年になったケイは、受験勉強の焦りもあり、変な方向に思いつめてしまった。その結果、触っているものに記憶が移ったと思い込む症状が出るようになったのだという。
「本当は受験勉強なんてやりたくない。塾だって行きたくないの……」
そんなことがあったんだ……。
ケイだって被害者だった。そんなことは露知らず、さっきはひどいことを言っちゃったな。
僕の心の中には、後悔の念がひたひたと溢れ始めていた。
すると、ケイが思い出したように言う。
「そうだ、私のキャスケットと眼鏡はどこにあるの?」
「ああ、そうだった。僕が持ってるよ」
僕はバッグからキャスケットと眼鏡を取り出す。
「ありがと」
ケイは僕の手からそれらを奪うと、そそくさと身に着けた。
あーあ、元に戻っちゃった……。
僕がケイの姿をまじまじと見ていると、ケイが恥ずかしそうに言う。
「すっごい残念な顔してるよ? お兄ちゃん」
ええっ!?
そ、それって……。
「そんな風に言ってたでしょ? ホタルって」
「あ、ああ……」
さぞかし僕は間抜けな顔をしてただろう。
「病院で見たことあるの、記憶を失った時の私の様子。先生がビデオを撮っててね。私、先生のことお兄ちゃんって呼んでた。開君のこともそう呼んでたでしょ?」
「ああ。ケイには兄貴がいるのか?」
「その逆よ。私、ずっとお兄ちゃんが欲しいって思ってたの。ホタルが男の人をそうやって呼ぶのは、心の奥底の願望が現れている証拠なんだって」
そうだったのか……。鼻の下を伸ばしていた僕がバカだったよ。
「それでホタルはこんなことも言ってたでしょ?」
ケイは意地悪そうな顔をする。ちょっと嫌な予感。
「ねえ、お兄ちゃん、手を繋いでくれる?」
だから、その言い方は止めてくれって。ホタルを思い出しちゃうからさ。って、えっ!?
急に右手に暖かい感触が伝わる。見ると、ケイが僕の手を握っていた。
「開君の手って、暖かい……」
でもホタルとは違い、ケイの手にはためらいが残っていた。
「記憶を取り戻す前は、心がずっとあったたかったような気がするの。開君、ずっとホタルの手を握っててくれたんでしょ?」
「ああ」
肯定の意を込めて、僕はケイの手を繋ぐ右手に力を込める。
すると、ケイの手からすっと力みが抜けていくのを感じた。
小さくて柔らかい手――それはさっきまでずっと握り続けていたホタルの手だった。
「本当にありがとう。ホタルのことを大切にしてくれて」
ケイが握る手に力を込める。僕もそれに応じて、彼女の手をしっかりと握りしめた。
手と手で語り合う。
ホタルの時は一方的に握りしめられてよく分からなかったが、手を握るという行為がこんなにも繊細で、こんなにも豊かな表情を持つことを、僕は知った。
「さっきはゴメン。ひどいことを言っちゃって」
「ううん、こちらこそごめんなさい。何度も蹴っちゃって……」
いいんだよ、という風に僕はケイの手を握る。
ケイは恥ずかしそうにチラリとこちらを見ると、ギュッと手を握り返してくれた。
○
「それじゃ、また学校で」
「ぜったいホタルって呼んじゃダメだからね」
駅に着くと僕達は別れの言葉を交わす。
「学校でさ、綾小路桃太郎君を探すの手伝おうか?」
意地悪そうに僕が訊くと、恥ずかしそうにケイが答えた。
「やだ、まだそんなこと覚えてんの? それはもういいの、忘れて」
嬉しかった。綾小路桃太郎のことよりも、僕のことを優先してくれて。
まあ、今日はもう遅いから、綾小路桃太郎の正体明かしは今度にしよう。
ケイとはこの先もうまくやっていけるような気がした。
そして最後に残ったのは、繋いだ二人の手。
「それじゃ」
「うん」
こんなに名残惜しいのはなぜだろう。
僕はゆっくりとケイの左手を離す。すると――ケイは突然しゃがみこんでしまった。
「おい、どうしたんだよ、ケイ!」
しかし何も返答はない。
「うっ、うっ……」
それどころか、ケイのすすり泣く声が聞こえてくる。
「どうした。お腹でも痛いのか?」
「ここ、どこ? あなたは誰?」
ええっ、それって……?
「ホタル、怖い……」
またホタル!?
見ると彼女はぬいぐるみを持っていなかった。
「おいおい、ぬいぐるみはどうしたんだよ?」
「ぬいぐるみって……何?」
ダメだ。彼女はまた記憶を失ってしまった。
ぬいぐるみはどこだ、と僕は辺りを見渡す。
――あった!
それは二メートルくらい離れたところに転がっていた。
「なんだよ、しゃがんだ時に手放しちゃったのかよ……」
仕方が無いと、僕はぬいぐるみを拾いに行く。
「しょうがないなあ。このぬいぐるみでいいんだよな」
僕は渦巻紋様を確認しようとぬいぐるみの額を見て驚いた。
――えっ、ない!
そのぬいぐるみには、額にあるはずの赤の渦巻紋様が無かったのだ。
「もしかして、これって違うぬいぐるみなのか?」
僕はケイの周りを丁寧に探す。が、ぬいぐるみは今僕が手にしているものしか存在しなかった。もちろん猫が咥えて行ったという光景も見ていない。
「じゃあ、ケイの記憶はどこに行ったんだ?」
もしかして、今身に着けているものに記憶が移ったとか……?
僕は渦巻紋様を探そうと、うずくまる彼女に目を向ける。しかしすぐに、それはありえないということに気がついた。
だって、今身に着けているものに記憶が移ったのだったら、ケイが記憶を失うことはないのだから。
その間にも、彼女は孤独の涙を流し続けていた。
「ホタル、何かを無くしちゃった。大切な、大切な、何かを……」
記憶の在り処がどこにあるのかがわからずに、いや、記憶を失ったことすらわからずに泣き続けるホタル。今の彼女は、先ほどのホタルとも違っていた。僕の隣で、街の風景にため息を漏らしていたホタルとも。
「ごめん、ホタル。僕も、君の記憶が見つからないんだ……」
僕の心が喪失感に占領されていく。
その時――
『ありがとう、ホタルのこと大切にしてくれて』
僕の脳裏にケイの声がよみがえる。
ダメだ、諦めちゃ。ダメだ、ホタルを見捨ちゃ。
今、僕が諦めたら、ケイの言葉を裏切ることになる。それに、彼女と手を繋いだ思い出だって無くなっちゃうじゃないか。
もう一度、よく考えるんだ。最初から。
僕は目をつむって、ケイがホタルに変わるまでのいきさつを思い出していた。
この場所に着いて、別れの挨拶を交わして、繋いだ手を離したとたんにケイがしゃがみこんで、それでぬいぐるみを手放しちゃって……。
ん? もしかして、彼女がしゃがんだ時にはすでに記憶を失っていた?
「ということは……」
もしやと思い、僕はケイと繋いでいた右手を街灯に照らして見る。すると、甲の部分に赤い渦巻紋様が令呪のごとくくっきりと刻まれていた。
「げっ、いつの間にこんなものが!?」
ケイの記憶の在り処が移動した。彼女と手を繋いでいる間に。それはつまり――
ぬいぐるみの時は終わり、僕の時が始まったのだ。
「どうする、どうする?」
僕は戸惑う。
泣きじゃくるホタルをこのまま放っておくわけにはいかない。ホタルをケイに戻すには、僕が手を繋いであげなくてはならないのだ。
しかし、一度手を繋いだら、もう後には戻れない。
彼女の実家、学校、そして塾。二十四時間、彼女と一緒に居ることになるだろう。
これから一週間、それに耐えることができるだろうか?
僕は右手の渦巻紋様を見つめる。
でもこれが僕に現れたってことは、ケイが僕に気を留めてくれたってことなのかな? ぬいぐるみに渦巻紋様が現れた時のように。
それだったら嬉しい。
ケイの深層心理が僕を求めてくれた。もしそうなら彼女の想いに答えてあげたい。手を繋ぐという形で。
『開君の手って、暖かい……』
ケイの声が聞こえるような気がした。
だったら。
勇気を出して踏み出そう、たとえそこにどんな困難が待ち受けようとも。
「ほら、行くぞ、ケイ」
「うっ、うっ……。ホタルは……ケイじゃないよ」
「だから行くぞ! ケイ」
僕は、彼女の濡れた瞳を見つめながら右手を差し伸べた。
了
ライトノベル作法研究所 2011-2012冬祭り企画
テーマ:「終わり」、「始まり」、「終わりと始まり」
お題:なし
塾帰りのエレベーターの中。隣に立っている見知らぬ女の子がポツリとつぶやいた。
足先の感覚に集中しながら上目づかいにエレベーターの天井を見る。確かにエレベーターは動きながらカタカタと揺れていた。
「……ッ!」
ドンと突き上げるような衝撃を感じて、僕と女の子は咄嗟にエレベーターの手すりにつかまる。地震の揺れは次第に大きくなり、
「きゃっ!」
ガタンという大きな音とともに僕達が乗ったエレベーターは止まってしまった。そして電気が消える。
「げっ、停電」
「暗っ……」
僕、尾瀬開は、女の子と一緒にエレベーターに閉じ込められてしまった――
三月の大震災の影響なのだろうか。九ヶ月経った今でも東京では割と大きな地震が起きている。今回の揺れもすぐに収まったが、停電はそのままだ。
非常灯だけのエレベーターの内部は薄暗くて心細い。いや、薄暗いだけで済めばいい。電源を失ったエレベーターがこのまま落ちてしまわないか、僕はだんだんと心配になってきた。
エレベーターに乗ったのは塾のある五階。そして、エレベーターが動き出してすぐに地震が起きたような気がする。ということは、今僕がいる場所は四階か三階くらいだろう。もしブレーキが効かなくなってエレベーターがこのまま落ちてしまったら、その高さから一階部分のコンクリートに叩き付けられることになる。
マジかよ、勘弁してくれよ……。
僕は祈るような気持ちで天井を見上げる。その時にちらりと横目で見た隣の女の子は、もっと不安そうな顔をしていた。エレベーターの中は、僕と彼女の二人きりだった。
「あっ!」
「おっ」
いきなり電気が点いた。停電が復旧したようだ。
よし、動け!
そう願う僕をよそに、エレベーターはちっとも動く気配がない。
なんだよ、早くしてくれよ……。
思っていたよりも早く電気が復旧してほっとしたのもつかの間、今度は狭い空間に閉じ込められた不安が僕を襲い始めた。そして、それに追い打ちをかけるアナウンスが。
『お客様、ご無事でしょうか? こちらはエレベーターのメンテナンス室です。現在、他のビルでもエレベーターが停止しており、順次点検を行っています。大変申し訳ありませんが、復旧までしばらくお待ち下さい』
おいおい、点検に時間がかかるのはわかるけど、頼むから早くここから出してくれよ……。
僕はつい泣きごとを言いたくなる。
今乗っているエレベーターは、十人くらい乗れば一杯になってしまうくらいのタイプ。現在乗っているのは二人だけで余裕があるとはいえ、狭い空間に閉じ込められているのは気持ちがいいものではない。それに停止時間が長引けば大変なことになりそうだ。二人が横になることなんてできそうもないし、トイレに行きたくなったら最悪だ。
隣の女の子の不安はさらに大きかったようだ。彼女はエレベーターのドアに近づいて前かがみになると、スイッチ類の下のマイクに口を近づけてすごい剣幕で叫び始めた。
「無事じゃないわよ、早く降ろしなさいよ」
いや無事だろ? とりあえずは。早く降ろしてほしいのは賛同するけど。
女の子のやり取りを聞きながら、つい突っ込みを入れたくなる。
「こら、メンテナンス室、なに黙ってんの? 点検より先にやることがあるでしょ! 私病気なんだから。ちょっと、聞こえてんの!? 何か言ったらどうなのよっ!」
つんと突き出した女の子のお尻が叫び声と一緒に震え、そのたびにフレアスカートがひらひらと揺れている。その様子はなかなか魅力的で、ついつい目を奪われてしまうのだが、それよりも僕は女の子の恰好が見事なモノクロであることに気がついた。エレベーターに乗った時は全然気にしていなかったが、彼女のファッションはちょっと不思議だった。
上から黒のキャスケット、黒縁メガネ、黒のコート、黒のフレアスカート、黒のタイツ、黒のブーツ……。
つまり上から下まで見事に黒ずくめ。真っ黒カラスのような女の子が、スカートを揺らしながら怒りに身を任せている。
そしてそんな彼女が手にしていたものに、僕はさらに違和感を覚える。
彼女のコーディネイトにまったく似合わないそれは――純白の猫のぬいぐるみだった。
○
「でも、あれって……」
そのぬいぐるみに見覚えがあった。
猫がすましたように尻尾を立てて座っている恰好。それはよく見かける姿のぬいぐるみだったが、その額に付けられた紋様が独特だったからだ。
――赤い渦巻紋様。
純白の猫に赤の紋様はかなり目立つ。その紋様が目に入らなければ、見覚えがあることに気つかなかっただろう。
それは一週間前のこと。
通学路の途中の歩道で、僕は一匹の猫のぬいぐるみを拾った。純白の額に浮かぶ赤の渦巻紋様がものすごく特徴的なぬいぐるみを。
そのまま捨ててしまっても良かったが、ちょうど目の前に交番があったので僕はぬいぐるみを届けに行ったのだ。
交番に入ると、中では一人の女の子が机に顔を伏せて泣きじゃくっていた。僕は恐る恐る、女の子の対応をしているお巡りさんに声をかけた。
「あのう、今そこで、これを拾ったんですけど……」
僕がぬいぐるみを頭の上に掲げると、女の子の応対をしているお巡りさんが顔を上げてこちらを向いた。
「ああ、落し物ね。ごめんね、今ちょっと取り込んでいるから。申し訳ないけどそこにあるメモに君の名前と連絡先を書いて、置いておいてくれないかな。後で拾得物の登録をしておくから」
僕はカウンターの上に猫のぬいぐるみを置き、メモに書き込むためにボールペンを手に取った。お巡りさんは目の前の女の子にいろいろと質問をしているようだった。
「ねえ、君は何で泣いてるの?」
「ホタルの大切な何かが無くなっちゃったの……」
ふうん、あの子の名前はホタルっていうんだ。
「じゃあ、何を無くしたの?」
「それが何だかわからないの。わからないけど、ものすごく大切なものなの。それを探してほしいの」
変わった子だな。何を無くしたのかわからなければ探しようがないじゃないか。お巡りさんも大変だ。
ん? もしかしたらあの子が無くしたものってこのぬいぐるみ?
ちょうどその時、お巡りさんも同じことを考えていたようだ。こちらを指さしながら、女の子に向かって質問し始めた。
「ねえ君、もしかして無くしたものってあの猫のぬいぐるみ?」
「ふえっ? 猫?」
女の子が振り返り、泣きはらした赤い目をこちらに向けた。そして僕と目が合う。
か、可愛い……。
柔らかそうな頬にカールした茶色の髪がふんわりとかかっている。その濡れた大きな瞳は、一縷の希望に輝きを増していた。
僕の胸がドキンと脈打つ。
涙を隠そうともせず、女の子は猫のぬいぐるみに視線を移す。そして残念そうに顔を曇らせた。
「あのぬいぐるみかもしれないし、あれじゃないかもしれない。わからない、わからないの……」
そして女の子は、再び机に伏して泣き始めた。
なんだ、あの子のぬいぐるみじゃなかったのか。せっかくあの子と知り合いになるチャンスだったのに……。
でもあの子が着てるのはうちの高校の制服だぞ。だったら学校で会えるかもしれない。名前もわかったし。
そんなことを考えながら、メモを書き終えた僕はボールペンを置く。
「じゃあ、ぬいぐるみをここに置いておきますから」
僕は女の子の対応に必死になっているお巡りさんに一声かけ、後ろ髪を引かれるような気持ちで交番を後にした。
○
「なによ、人のぬいぐるみをジロジロ見て。なんか文句あんの?」
はっと気が付くと、僕はエレベーターの中で黒ずくめの女の子に睨まれていた。
そうだ、エレベーターに乗っている時に地震があって、僕達は閉じ込められているんじゃないか。
しかし、目の前の女の子は交番で見た女の子によく似てる。キャスケットで髪はよく見えないが、柔らかそうな頬は瓜二つだ。交番の女の子は眼鏡を掛けていなかったが、目の前の女の子が黒縁眼鏡を外したら案外そっくりかもしれない。
「なに? 今度は私の顔をジロジロ見て。喧嘩でも売ってるつもり?」
でもこの口調はなんだ? 交番の女の子とは完全に別人だぞ。
まあ、ダメで元々だ。僕は思い切って、目の前の女の子に名前を訊いてみることにした。
「間違ってたら申し訳ないんだけど、君の名前は、もしかしてホタル、さん?」
すると女の子の顔がみるみる険しくなる。
やべぇ、間違ってたか? でも反応したってことは、あながち間違いじゃなかったのかもしれないぞ。
まあ、とりあえずは謝っておくか、と僕が口を開こうとしたとたん、
「ぐぇ。げほっ……」
鳩尾に強い衝撃を受ける。見ると、女の子の蹴りが見事に腹部に決まっていた。
「二度とその名前で私を呼ばないで! あんたが誰だか知らないけど」
僕は苦しさのあまりエレベーターの床にうずくまった。
「……なんだよ……、いきなり蹴ることは……、ないじゃんかよ……」
胃液が込み上げてくる。僕はエレベーターの壁に背を付けていたので、蹴りの威力が倍増されてしまったのだ。
「あんたが先に喧嘩を売ってきたんでしょ。なによ、もう一回蹴られたいのっ!?」
そう言いながらファイティングポーズをとる女の子。
ローアングルから眺める女の子の蹴りは一度は味わってみたいシチュエーションだが、今は苦しさのあまりそれどころではない。
ダメだ、この女。完全にキレてやがる。
「ちょ、ちょっと待ってよ……。自己紹介もまだじゃんかよ……。じゃあ君のこと、何て呼べばいいんだよ」
すると女の子は少し考える素振りを見せた後、僕に言い放った。
「私はケイ。堀田蛍。『蛍』と書いてケイ。私ね、自分のことホタルって呼ばれるのが死ぬほど嫌なの。今度呼んだらまた蹴るよ」
やっぱホタルじゃねえか。なにがケイだよ。
しかし不思議だ。交番で会った女の子と目の前の女の子、えっとケイだっけ? この二人の間には共通点があり過ぎる。白猫のぬいぐるみ、蛍という名前、そして柔らかそうな頬――いったいどういうことなんだ?
「僕の名前は……尾瀬開。『尾瀬』と書いて……オセって読むんだ」
まだお腹が苦しかったが、僕はケイを見上げながら右手を差し伸べた。
自己紹介の握手。
そして、体を起こすのを手伝ってほしいというゼスチャーも兼ねていた。
「仕方がないわね。開君だっけ? 今度ホタルって呼んだら承知しないからね」
渋々、右手を差し出すケイ。
「ああ、よろしく」
僕はケイの手を握り、しゃがんだまま軽く二、三回握手をする。そして、起き上がろうと握る手に力を込めて――
「隙あり!」
「ッ!」
僕はケイの体を引き寄せ、左手で猫のぬいぐるみに手を延ばす。
ザマあ見ろ、ぬいぐるみはもらったぜ。
しかし、ザマを見たのは僕の方だった。
「ぐえっ!」
あと少しというところで再び腹部に衝撃を感じる。見ると、鳩尾にケイのブーツがのめり込んでいた。
「あんたバカじゃないの。どこの世界に隙ありって叫びながら攻撃する奴がいるのよ」
僕は苦しさのあまりケイの右手を離し、再びうずくまった。
猫のぬいぐるみを狙ったのには理由があった。
交番の少女とケイとの間にはあまりにも共通点がある。だから、ぬいぐるみを手にしてみたいと思ったのだ。僕は交番の前で、あれによく似た猫のぬいぐるみを拾っている。実際に触ってみれば、あの時のぬいぐるみと同じかどうか分かるかもしれない。
というか、本当はケイに仕返ししてやりたかったんだけど。蹴られたままでは僕の気持ちが収まらない。
しかしどうだろう、このザマは。女の子相手に情けない。
「人のものを盗ろうとした罰よ。そこでうずくまってなさい」
チクショウめ。こうなったら口で勝負するしかない。彼女もなかなか手強そうだが負けるもんか。
僕はケイを見上げながら、不敵な笑みを浮かべた。
「無駄に叫んだと思ってるのか? 僕は見たぞ。『隙あり』と叫んだ時、君がぬいぐるみを左手でしっかりと抱きしめたのを」
するとケイは顔を引きつらせながら、絶対に手放してなるものかと猫のぬいぐるみを体に引き寄せる。
「ほら、今もそうだ。『隙あり』という僕の言葉に、君は無意識のうちに一番大切なものを守ったんだよ。それがどういうことだかわかるか?」
「……ッ」
ケイが身構える。
「それはつまり、そのぬいぐるみが君の弱点ということだ!」
完璧な理論。でも、論理の展開がなんか変な方向に行っちまったけど。自分で言っておきながら、ぬいぐるみが弱点とはどういうことなんだよ?
すると、ケイはすかさず言い返す。
「ふん。それがわかったところでどうなるのよ。エレベーターが動いたら警察を呼ぶよ」
えっ、まさかのビンゴ? ホントにぬいぐるみが弱点ってこと?
僕は驚きながら反論する。
「警察が来ると困るのはケイの方じゃないのか? 僕は一方的に蹴られてるだけだからね。防犯カメラがそれを証明してくれると思うけど」
そう言って僕はエレベーターのスイッチ類の上を見る。そこにあるのは大きめの黒いプラスチックのパネル。あの奥に防犯カメラがあって、エレベーター内の様子が撮影されているはずだ。
「くっ……」
ケイは防犯カメラの方をちらりと見ると、観念したように僕の方を向く。形勢逆転だ。
「よっこらしょっと」
僕がゆっくり立ち上がると、ケイは恐る恐る口を開いた。
「どうしようというの?」
「どうもしないよ。さっきも言っただろ。エレベーターの中の様子は記録されてるんだ。君に手を出したりしたら僕の方が捕まっちゃう」
「じゃあ……」
「そうだな。蹴られた分だけ僕の質問に答えてほしい」
僕には知りたいことが沢山あった。ケイがホタルと呼ばれたくない理由、交番の少女との関係、そして猫のぬいぐるみの秘密。
ケイは少し考えた後、静かにうなずいた。
「わかった……」
僕はまた右手をケイに差し延ばす。
「挨拶のやり直しだ」
「ぬいぐるみを取ったりしないよね?」
「ああ、そんなことはしない。撮影されてるからな」
するとケイはおどおどと右手を差し出した。
「僕は尾瀬開。針葉高校の三年生。開って呼んでほしい。よろしく」
「私はケイ。私も針高の三年よ」
ためらいがちに僕達は握手をした。
○
「じゃあ、最初の質問」
僕が切り出すと、ケイがゴクリと唾を飲み込む。
「ケイはさっき、エレベーターのマイクに向かって言ってたよね、病気だって。それって大丈夫なのか?」
「……」
僕が尋ねるとケイは黙り込んでしまった。
「いや、あの、初対面の人にそんなことを聞くもんじゃないと思うけど、ほら、今僕達ってエレベーターに閉じ込められて一種の非常事態だろ? 何かあったら対処しないといけないのは僕じゃん。だから最初に聞いておこうと思って……」
するとケイは少し考えた後、意を決したように病名を僕に告げた。
「セスよ」
――セス。
最近、若者の中で問題になりつつある現代病だ。
情報収集をスマートフォンに頼り過ぎて、それが無いと何もできなくなる若者が増えている。その中の何割かはセスを発症していると、ニュースかなにかで聞いたことがある。
「じゃあ、ケイはスマホのヘビーユーザーなんだ」
「違うわ。そもそも私、スマホなんて持ってないし。スマホに頼り過ぎの人は、ただのスマホ依存症。セスってのはね、ちゃんとした病気なの」
病気にちゃんとしたものがあるのかどうかなんて知らないが、そんな僕をよそにケイは説明を続ける。
「正式名は、接触性外部記憶症候群。Contact External Storage Symdromeの頭文字を取ってCESS(セス)。触っているものに自分の記憶の一部が移ったと思い込んでしまう病気よ。スマホ依存症の人に同じ症状が見られるから最近話題になってるけど、本当は別の病気。セスの場合はね、スマホに限らず触っているものなら何にでも発症してしまう」
ケイの説明はこんな感じだった。
セスを発症すると、触っているものに記憶が移ったと錯覚してしまい、実際そのように振る舞ってしまう。
例えばスマホの場合。
軽度のセスでは、スマホに自分の記憶の一部が移っていると錯覚してしまい、スマホを忘れた時に物覚えが悪くなったように感じるという。
普通はその程度で済んでしまうのだが、重度になるとスマホから手を離しただけで記憶喪失のような症状が出てしまい、生活に支障が出るらしい。
「私の場合はね、重度のセスなの。それに記憶が移るものはスマホじゃない」
「まさか、じゃあ、それが……」
僕はケイが抱いているぬいぐるみに視線を移した。
「そう、そのまさか。このぬいぐるみは、私の一週間分の記憶なの」
ぬいぐるみに記憶が!?
いや、そんなことがあるわけがない。病気というのだから、そう思い込んでいるだけなのだろう。
でもこれで、ケイがぬいぐるみを手放そうとしなかった理由が判明した。
「これでわかった? だからこのぬいぐるみを奪おうとしないで」
「ああ、わかった。ごめん、病気だって知らなかったんだよ」
「わかってくれたらいいわ。どうせ猫のぬいぐるみを抱いた変な女の子って思っていたんでしょ? だからもう私に関わらないで」
なんだよ、可愛げがねぇなあ……。
エレベーターに女の子と二人きりで閉じ込められたというせっかくのシチュエーションなのに、よりによってどうしてこんな奴なんだよ。
まあ、ぬいぐるみを抱いている時点で変な奴だとは思っていたけど。
「じゃあ、その記憶について聞かせてくれよ」
「なに? 手短にね」
「さっき、ケイは『一週間分の記憶』って言ってたよな。それってどういう意味なんだ?」
「ああ、そのことね」
ケイは面倒くさそうに説明を続ける。
「私の場合はね、困ったことに、記憶が移ってしまうものが一週間くらいで変わってしまう」
えっ、それってどういうこと?
「先週はこのキャスケット、その前の週は髪留めだった。そんな風に、その時に触れているものに記憶が移っちゃう。一週間ごとにね」
そりゃ、面倒くさそうだ。
ざまあみろ、じゃなかった、一応同情しておいてやるぜ。
「でもそれって、記憶が移動する物が一週間ごとに変わるって話だろ? それでその時触っているものに記憶が移ってしまう。だったら『一週間分の記憶』ってのはちょっと違うような気がするんだけど」
「それはね……」
ケイは深くため息をついた。
「例えばね、このぬいぐるみを無くしたとする。そしたら今週分の記憶が無くなっちゃうのよ」
と言われても、まだよくわかんないんだけど……。
「なんかまだわからないって顔してるね。いい? 順番に説明するよ」
「頼むよ」
「まず、このぬいぐるみを無くしたとする。すると、そのとたん私は記憶を無くしてしまう。重度のセスなんだから、それはわかるよね」
「ああ」
まあ、そういう風に思い込むという病気なんだから、そうなっちゃうんだろう。
「それでね、ぬいぐるみがそのまま見つからない場合なんだけど、私がはっと気が付くと翌週になっちゃってて、その時にはもう別の物に記憶は移ってる。正確には、別の物に記憶が移ってくれたから意識を取り戻すことができたって感じなんだけど。そうなっちゃうと、前の週のことをいくら思い出そうとしても全く思い出すことができないのよ」
ふーん、それは難儀だな。
「だから、このぬいぐるみの中には私の今週の記憶が収められている。私にとってはそんな感覚なの」
「なんとなくわかったような気がするよ。ところで、別の物に記憶が移ったのって、どうやったらわかるんだい?」
一週間ごとに記憶が移るものが変わるというのは、なんとなくわかった。もし記憶が移るものが変わらなければ、ずっと記憶を失ったままってことだからな。一種の自己防衛機能なんだろう。でも記憶が移った物が何なのかわからなければ、その防衛機能も意味がない。
「これよ」
ケイがぬいぐるみの額を見ながら言う。
「ほら、この猫の額にあるでしょ。渦巻紋様」
まさか、あの渦巻紋様が記憶のある場所を示すインジケーターなのか!?
「これが記憶の在り処を示す紋様なの。医学的には説明できないことらしいんだけど、この紋様のおかげで助かってるわ」
そりゃ医学では説明できないだろう。記憶が移ったと思い込むことは医学的にも説明できそうだが、記憶が移ったものに刻印する能力があるなんて聞いたことがない。
「ちょうど一週間前だったわ。近くのお店でこのぬいぐるみを見かけて、可愛かったからつい手にしちゃったんだけど、そのとたん、猫の額にこの紋様が浮かび上がった。記憶がぬいぐるみに移った証拠よ。あちゃー、やっちゃったって感じ。仕方が無いから買ったわ」
その猫のぬいぐるみ、最初から赤の渦巻紋様があったわけじゃなかったのか……。
「よりによって純白のぬいぐるみとはね。最悪だわ」
純白だと困ることでもあるのか? まあ、黒ずくめの恰好に似合わないことは明らかだけど。
「私、なんで黒色のものばかり身に着けているかわかる?」
そういう言い方をするということは、ファッションで黒ずくめにしているってことじゃないんだな。
「記憶が移る時ってどれに移るかわからないでしょ? それで記憶が移ったものは一週間身に着けてなくちゃいけない。だから、汚れが目立たないように黒ばかり身に着けているのよ」
「それは大変だな」
「そうよ。以前、靴下に記憶が移ったことがあった。あの時は最悪だったわ。一週間、誰にも会いたくなかった……」
うーん、確かに。一週間目は最悪だろう。お近づきにはなりたくない。
「それに比べて髪留めとか眼鏡の場合は楽なの。触れていればいいんだから、手で持って拭いたりできるし」
間違って机に置いたりすると最悪だけどな。
「でも渦巻紋様が刻印されるんだろ? 眼鏡のレンズに渦巻紋様が現れたらどうするんだよ」
それはコメディだな。ちょっと見てみたい気もするけど。
「大丈夫よ。これって伊達だから」
そう言いながらケイは眼鏡に指を通して、レンズが入っていないことをアピールする。
最初はつんとしていたケイだったが、本当は面白い奴かもしれない。
「はははは、本当だ。ケイは目がいいの?」
「バッチリよ、両目とも二・○ はあるわ」
詐欺だ。これは眼鏡っ子に対する冒涜だ。
「なによ、その不可解だって言いたげな表情は。悪かったね、伊達で」
膨れたケイの顔を見て、僕はさらに可笑しくなった。
○
ケイがやっと表情を崩してくれた。
最初、蹴られた時はどうなるかと思ったが、これで狭いエレベーターの中でもなんとか二人で過ごせそうだ。
それにしても世の中不思議な病気があるもんだ。記憶が触った物に移ってしまうなんて。そして、その物は一週間ごとにコロコロと変わってしまうとは。
「でも、一週間分の記憶が無くなっても、ケイが死んじゃうわけじゃないんだろ?」
何気なく言った僕の言葉にケイは再び表情を硬くする。
「開君。あんた、これだけ話しても私の苦労をちっともわかろうとしてくれないのね」
あちゃー、やっちまった。一言多かったか……。
「開君だって同じ高三よね。受験勉強はどうすんのよ。さっき塾で習ったことはどうなるのよ。記憶を無くしたら一週間分の勉強が無駄になるのよ」
そりゃ嫌だな。受験本番を数ヶ月後にひかえたこの時期に一週間分の記憶を無くすということは致命的だ。
「それに……」
ケイの言葉のトーンが変わった。彼女の様子を見ると、少しうつむき加減で照れている。
「今週の記憶はね、特に無くしたくないの……」
きっと何かいいことがあったんだな。
そして僕の直感は、それが異性関係であることを示していた。
なんだ……。
ケイの秘密を知って彼女に興味が湧きつつあった僕は、ちょっぴり残念に思ってしまう。
「それは、この猫のぬいぐるみに記憶が移った直後だった。私ね、登校中にぬいぐるみを落としちゃったの。はっと気がついた時は交番に居た。なんか私、泣きじゃくっていたみたい……」
えっ、それって……。
「お巡りさんの話だと、ぬいぐるみを届けてくれた人がいたらしい。同じ針葉高校の生徒で、すごい好青年だって話」
もしかして、その好青年って、ぼ、僕のこと?
僕は得体のしれない運命を感じていた。
一週間前に交番で会ったホタル。そして一緒にエレベーターに閉じ込められた目の前のケイ。やっぱり二人は同一人物だったんだ。
「私、その人にお礼を言いたくて。だから名前をメモしたんだけど……」
そう言いながらメモを取り出すケイ。
えっ、アレをメモってきたの?
僕は額に冷や汗が流れるのを感じる。
「あった、あった。開君、この人知ってる? 綾小路桃太郎さん」
いや、それって偽名だから。
もし落とし主が見つからなかった時、ぬいぐるみが僕のところに送られると困るだろ。だから、つい書いてしまった偽名。
素直に本名を書いておけば良かったと、僕は後悔する。
「どんな人なんだろう、綾小路桃太郎さん……」
急に乙女顔になるケイ。
おいおい、そんなに急変するなよ。というか、そんな奴ウチの高校にいるかよ。名前見たらすぐに分かるだろ、偽名だって。
それに――僕は彼の正体を知ってるんだけど。
「ケイ、実は……」
僕が綾小路桃太郎の正体を明かそうと口を開いた時――ガタンという音と共にエレベーターが動き始めた。
「開君、やった! 動いたよ!」
喜びはしゃぐケイ。
「ああ、良かった」
とにかくエレベーターが動き出して良かった。まずはここから出ることが先決だ。正体を明かすのはその後でもいい。
僕はケイと一緒に、エレベーターの階を表す表示が減っていくのを喜びを込めた眼差しで見つめ続けた。
○
エレベーターが一階に着いた。そしてドアが開く。
「やっと出れるよ、開君!」
こちらを振り向くケイ。その笑顔は、僕を蹴った奴とは思えないほど、いや蹴った相手に向けたものとは思えないほど爽やかだった。
「ああ、良かった」
僕が答えたその時――ガタンという衝撃と共にエレベーターが強く揺れた。
「危ない!」
僕はとっさにケイの体を引き寄せる。もしドアが開いたままエレベーターが動き出したら、エレベーターとビルの間に挟まれて危険だ。
一分くらいケイを抱き寄せていただろうか。エレベーターはそれ以上動くこともなく、ドアを開けたまま一階に止まったままだった。
よし、今なら降りれるかも。
「ほら、ケイ、エレベーターから降りるよ」
僕はケイに声を掛ける。が、何も返答はない。
それどころか、ケイは両手で僕にしがみついてきた。
えっ、どうしたんだよ、ケイ?
そこで僕ははっとする。
そうだよ、両手でしがみついたりなんかしたら、猫のぬいぐるみはどうなっちゃうんだよ!?
ケイの両手は僕の背中に回されている。僕は左手を自分の背中に回してケイの手を探る。
も、持ってないぞ、ぬいぐるみを……。
まさかと思い首を伸ばして辺りを見渡す。すると、猫のぬいぐるみはエレベーターの外、一階のフロアに転がっていた。
げっ、ドアが開いた時の衝撃で手放しちゃったんだ……。
「ケイ、ケイ、大丈夫か!?」
僕がケイの顔を覗き込むと、彼女は泣きじゃくっていた。
「お願い、私のこと離さないで。ホタル、怖い……」
えっ、ホタル?
これってどういうことだ? あれほどホタルと呼ばれることを嫌がってたケイが、自分のことをホタルと呼ぶなんて……。
つまり、ケイの病気の話は全部ホントだったんだ。それで、ぬいぐるみを手放した瞬間にケイは記憶を失ってしまったんだ……。
「大丈夫だよ、ケイ。僕が居るから」
僕は、優しくケイに声をかける。すると彼女は泣きはらした目を僕に向け、とてもケイとは思えない甘い声で僕を呼んだ。
「うっ、うっ……。ホタルは……ケイじゃないよ、お兄ちゃん」
ええっ、お、お兄ちゃん!!??
「ホタルのこと……、ちゃんとホタルって呼んで……。お兄ちゃん」
「ああ、ホ、ホタル……」
また蹴られるんじゃないかとドキドキしながら、僕は目の前にいる女の子の名前を呼んだ。
○
「とにかくエレベーターを出よう」
ホタルが泣き止んだのを確認すると、僕は彼女に声をかける。
「えっ、どこに行くの? ホタル怖い……」
ケイとは違ってホタルは極端な怖がりだった。
でも交番で会った時もこんな感じだったな……。
「大丈夫、僕がついているから」
「ホタルの手を離さないでね。絶対だよ、約束だよ」
「わかった。絶対離さないから安心して。約束するから」
「うん」
僕は怖がるホタルの手を取り、ゆっくりとエレベーターの外に誘導する。
彼女はまるで幼子のようだった。まあ、記憶を一気に失ってしまったんだから仕方がないことだろう。正確には、ケイの記憶が一気に封印されてしまったと言うべきかもしれないが。
「ほら、もう大丈夫だよ」
僕達はやっとのことでエレベーターの外に出た。
「ありがとう、お兄ちゃん」
いや、そのお兄ちゃんってのは止めてほしいんだけど。
僕のことを本当にお兄ちゃんだと思っているのだろうか? そもそも彼女には兄がいるのだろうか?
「なにこれ~。ホタル、こんなの嫌」
安心したのもつかの間、今度はホタルがかんしゃくを起こす。今まで普通に被っていたキャスケットをつかむと床に投げつけたのだ。
「これも嫌い」
次は眼鏡。
投げ捨てられた伊達眼鏡がカランカランと音を立てて床を転がっていく。それを目で追いながら、僕はものすごく重要なことを思い出した。
そうだ、ぬいぐるみはどうなった!?
僕はぬいぐるみが転がった場所に視線を移す。
えっ、ない!?
慌てた僕が辺りを見渡すと、猫がぬいぐるみを咥えてビルの外に出て行くところだった。
「待って!!」
僕はホタルの手を離し猫を追おうとする。しかし――
「いやっ、ダメっ!」
ホタルが僕の手にしがみついてきた。そして泣きはらした目で僕に懇願する。
「お願いだから、ホタルの手を離さないで……」
キャスケットと眼鏡を外し、柔らかな頬に軽くカールした茶色の髪がかかるその姿。大きな瞳を濡らしながらじっと僕を見つめている。
か、可愛い……。
交番で会ったあの時の女の子がそこに居た。
○
「わかったよ、ホタル。手は離さないから……」
でも早くぬいぐるみを追わなくちゃ!
僕の心は焦り出す。しかしホタルは一向に動こうとしなかった。
「だから、一緒に行こう! 本当に離さないから」
「ホントにホント? ぜったいだよ、お兄ちゃん」
「ああ、約束するよ」
僕はホタルの顔を見ながら握る手に軽く力を込める。
「うん」
安堵の目で見つめ返してくるホタル。僕の胸がかっと熱くなる。
――もうこの手は離さないから。
ホタルが納得したのを心で感じると、まずキャスケットを拾って自分のバッグに入れ、そして伊達眼鏡を拾いながら二人でビルの外に出た。
ううっ、寒っ!
外は師走の夜の街。大きな地震があった後というのに、東京はすでに平常を取り戻していた。三月の大震災から大きな余震が続いたせいか、エレベーターが止まるほどの揺れにも慣れてしまったのだろう。
ぬいぐるみはどこだ? 猫はどっちに行った!?
僕は歩道に立ってキョロキョロと辺りを見渡した。最悪の場合、このまま見つからない場合だって考えられる。
いや、それはダメだ。ケイの一週間分の記憶が無くなってしまうじゃないか。
一週間分の彼女の努力、そして綾小路桃太郎とのロマンス。それ以上に無くなって欲しくないのは、エレベーターの中での僕との記憶。
「お兄ちゃん、何か探し物?」
僕の必死の形相を見て、ホタルが尋ねてきた。
「ああ、大切なものを無くしちゃったんだ」
「へえ、お兄ちゃんもそうなんだ。ホタルもね、何か大切なものを無くしちゃったような気がするの。でもね、ホタルは大丈夫。だってこうやってお兄ちゃんが手を繋いでくれているから」
そうか、ホタルはぬくもりを求めていたんだ。交番の時だって、誰かがホタルの手を取ってあげなくてはいけなかったんだよ。
するとホタルは僕の右腕に手を回し、ぺったりと体を寄せてくる。
「お兄ちゃんって、あったかい……」
むむむ、何か柔らかいものが腕に当たってるんですけど……。
その感覚のせいで真っ白になりそうな僕の頭は、このままホタルと一緒にいるのもいいんじゃないかと考えを巡らせ始めた。
ホタルとお茶して、それで駅かどこかでバイバイして……。
そこで僕は思い留まる。
ん、駅かどこかでバイバイ? そんなことがホタルにできるだろうか? いや、とてもできるとは思えない。誰かが付き添わないと家にも帰れないだろう。
すると僕が送っていかなくちゃいけないのか? 家はどこなんだろう? スマホは持っていないって言ってたけど、携帯を持っているなら家族や友達の電話番号くらいはわかるかもしれない……。
それに、たとえ無事に家に送って行くことができても、それからホタルはどうなっちゃうんだ? こんな調子なら一歩も外に出ることはできないんじゃないのか? 記憶が他の物に移動してケイに戻るまでは。その間、ホタルは自室で泣き続けるのだろうか?
それは地獄だ。
僕は思いを新たにする。
だから探さなくちゃ。どんなに困難でも、猫のぬいぐるみを。
「ホタル、探すよ!」
「ふえっ? 何を?」
「とても大切なもの」
それを見つけたら、目の前に居るホタルは消えてしまうかもしれないけど。
「どうしても探さなくちゃいけないの? お兄ちゃん」
「ああ、どうしても必要なものなんだ」
今は心を鬼にしよう。
僕はホタルの手を引いて、まずは通りを右に進み始めた。
○
ぬいぐるみはあっけなく見つかった。
十メートルほど先の植え込みの陰に落ちていたのだ。きっと歩行者に追われた猫が植え込みの中に逃げようとして、ぬいぐるみが引っかかってしまったのだろう。
「あった、あったよ!」
僕はホタルの手を引きながらぬいぐるみの方へ向かう。しかしホタルは動こうとしなかった。
「どうしたんだよ、ホタル……」
振り返ると、彼女はうっとりと景色に見とれていた。
「うわぁ……」
クリスマスイルミネーションで飾られた通りの街路樹。歩道に面した各お店では、ツリーやサンタの形が光っている。スピーカーから流されるクリスマスソングに乗って、通りを歩く人々の楽しそうな会話が聞こえてくるのは師走ならではの光景だった。
そうか、ホタルはこんな風景を見るのは初めてなんだな……。
「光ってる……」
いつまで経ってもため息を止めようとしないホタルを見ながら、僕は彼女に不憫さを感じていた。
でも、まずはぬいぐるみを確保しなくっちゃ!
こうしているうちに、またぬいぐるみを見失ってしまうかもしれない。猫が戻ってきて咥えて行ったり、歩行者に蹴られてどこかに行ってしまうことだってあり得る。
僕はホタルを引きずるようにしてぬいぐるみのところまで移動した。
よし、確保!
ぬいぐるみを拾い、額の渦巻紋様を確認しながらチラリとホタルを見る。彼女はいまだ放心中だった。その大きな瞳にキラキラとイルミネーションが反射している。
「綺麗……」
そんなに気に入ったのなら――ホタルとちょっと夜景を見に行ってみるか。
ホタルがケイに戻ってしまうその前に。
僕は彼女に、街の景色を見せてあげたいと思った。
○
「お兄ちゃん、どこへ行くの? ホタル、疲れたよ~」
僕はホタルの手を引いて、小高い丘に続く階段を登る。
「もうちょっとだよ。もっと綺麗な景色が見れるところがあるからさ」
登り切ったところには小さな公園がある。絶景とまではいかないが、遠くに輝く東京の高層ビル群が綺麗に見えるはずだ。
「ほら、あと五段」
「うん、ホタル、頑張る」
公園に着いたら高層ビル街が見えるかな? そしたらホタルも喜んでくれるかな?
ビルといえば、今日ってスカイツリーもライトアップしてるんだったっけ?
と言っても、ホタルにはスカイツリーなんてわからないと思うけど。
「お兄ちゃん、あと一段だよ」
「ああ……」
だからホタルに教えてあげるんだ。あれが日本一新しくて日本一高いタワーなんだって。
ホタルだったらきっと驚いてくれると思う。
「ねえ、お兄ちゃん、何考え事してるの?」
「うん? ああ、うん……」
そしたら『お兄ちゃんすごい!』ってホタルが僕の胸に飛び込んで来たりして。
そんなことになったらいいな。そしたらぎゅっと抱きしめてあげるんだ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんってば……」
「ん、ああ……」
それで、抱きしめてあげている時にこのぬいぐるみをそっと触れさせてあげようか……。
いや、それはダメだ。
ぬいぐるみ触れるとホタルはケイに戻るんだろ? 抱きしめている時にケイに戻ったら、何してんのよって殴られそうだ。
「何よ、お兄ちゃんったら。ホタルのこと無視しちゃって。あれ、お兄ちゃん何か持ってる」
だったら、一緒に夜景を見て、そして最後にそっとホタルにぬいぐるみを渡そう。
小さな声で、さよならってつぶやきながら……。
そしたらホタルともお別れだ。
「まあ、可愛い猫のぬいぐるみ。ちょっとホタルに貸して、いいよね、お・に・い・ちゃん!」
「えっ、何?」
そろそろ公園に着くという頃、僕はホタルに呼ばれて我に返る。
「ホタル、何か言った? ぐえっ……」
突然、腹部に強い衝撃。
前のめりになりながら自分のお腹を見ると、鳩尾にホタルのブーツがのめり込んでいた。
「私のことホタルって呼ばないで、ってあれほど言ったでしょ!」
「……く、苦しい……」
「何よ、その初対面の人を見るような目は。早くエレベーターを出ましょ、って、何? ここどこ? どうなってんの?」
うずくまる僕の目の前に、記憶を取り戻したケイがぬいぐるみを持って仁王立ちしていた。
○
「ちょっと開君、ここどこなのよ?」
ケイはぬいぐるみを握りしめながら辺りを見回す。
くそっ、失敗した……。ホタルが消えてしまった……。
「あれ、どこかで見たことのある風景……って、ここ、小城山じゃない。なんで私、こんなところに居んのよ!?」
僕は泣きたい気持ちに包まれながら、腹痛に耐えて言葉を絞り出す。
「……君が来たいって……」
「私、そんなこと言ってない」
「……ぬいぐるみを手放した時の……君が……」
「えっ?」
ケイが言葉を詰まらせる。
そしてためらいがちに言葉を紡ぎ始めた。
「開君。ホ、ホタルに、会ったの……?」
「……そうだよ……。でも、その名前を言ったら……、また蹴られるじゃんかよ……」
「もう蹴らないから教えて。ホタルが言ったの? ここに来たいって」
「……ホタルが街の景色に見とれていたから、もっとよく見える場所に行きたいかって聞いたんだ。……そしたら、行きたいって言うから……」
ちょっと脚色してしまったが、流れは間違っていない。
「そうよね、ホタルがこの場所を知ってるはずないもんね。安心したわ」
ケイは、自分がこの場所に居るいきさつを知ってほっとしたようだ。
お腹の痛みがだんだんと引いてきた僕は、ゆっくりと立ち上がる。
ああ、これが、あのホタルと同一人物なのかよ。
「それよりも、なんで私、ぬいぐるみを手放しちゃったんだろう。まさか……」
ケイは僕をギロリと睨む。
「い、いや、僕は何もしてない。エレベーターが一階に着いたときに大きく揺れて、それで落としちゃったんだよ」
「ホント?」
「頼むから信じてくれよ」
「エレベーターが一階に着いたところまでしか覚えてないから、そうなのかもしれない。とりあえず信じるわ」
とりあえずは余計だよ。
僕はちょっとムッとする。
「それから先が大変だったんだぜ」
どうせケイはホタルの時の記憶が無いんだ。あることないこと付け加えてしまえ。
「ぬいぐるみを猫が咥えて持っていっちまうし、ホタルは泣き出して動かないし、僕は誰かに蹴られたせいでトイレで吐きまくったし……」
そうだよ、僕を何度も蹴ったことを懺悔しろ。
「嘘よ。猫が咥えて持っていったなんて嘘」
いやあ、そこは本当なんですけど。
というか、僕がトイレで吐いても不思議ではないくらいの勢いで蹴ったってことなんだ。チクショウめ。
「ホタルが泣いて迷惑をかけたところは否定しないんだな。そりゃ、そうだよな。自分のことだもんな」
「……」
この口撃は効いたようだ。さすがのケイも黙ってしまった。
「すげえ大変だったんだぜ。泣きじゃくるホタルを説得するのは。というかホタルも被害者なんじゃないのか? 誰かさんは豊富な知識にぬくぬくと囲まれていて、都合が悪くなるとそれを封印してしまう。突然、見知らぬ世界に放り出されるホタルが可哀想だと思わないのよっ!?」
ああ、言ってしまった……。
ホタルが聞いていたら、お兄ちゃんダメって怒られそうだけど。
ちょっと言い過ぎかと思ったが、ホタルが消えてしまったショックはこれくらいでは晴らせそうもない。
ケイは黙ったままうつむいてしまった。
「ごめんなさい……」
そして小さくすすり泣く声で謝罪を始めた。
あちゃー、女の子を泣かせちまった……。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
うつむきながら謝罪を繰り返すケイ。それは僕に向けられたものだろうか? それともホタルに向けられたものなのだろうか。
暗くてよく見えないが、ケイの目からはきっと涙がこぼれ落ちているのだろう。
涙といえば、ホタルの涙はさっきまで散々見てきた。あれはすごくピュアだった。ただ純粋な恐怖から身を守るために生成された液体という感じ。
でも、今のケイの涙は違う。同じ目から流れる涙なのに。なんだかしょっぱいような、人間味のする涙。そんな感じがした。
「もう、いいよ、ケイ。わかったから」
謝罪を続けるケイに、たまらず僕は声をかける。
「ううん、私が悪かった……」
「僕もちょっと言い過ぎたよ。反省してる。だからもう帰ろ。景色を見てさ」
「いい。こんな顔を見られるのは恥ずかしいから、開君が帰った後で一人で帰る。それにここの景色は見慣れてるし」
泣きはらした顔は、ホタルの時にさんざん見てきたんですけど。
まあそれを言うとケイが気にするから、言わないでおいてやるよ。
しかし、ここの景色は見慣れてるなんて、なんか味気ねえなあ……。
「こんな夜中の公園に女の子を一人置いていけないよ。それよりも、ちょっとだけ景色を見て行こうよ。今日の夜景は特別なんだぜ。ケイの顔は見ないからさ」
「特別って……、クリスマスイルミネーション?」
「まあ、そんなもんだ」
「そう、それなら……」
渋々納得したケイと一緒に、僕は公園の端に向かう。ケイはずっとうつむいたままだった。
「ほら、見てみなよ」
手すりにつかまりながら僕はケイに声を掛ける。するとケイは恐る恐る顔を上げた。
そして――
「えっ!?」
驚きの声を上げる。
「なんで光ってんの? あれって来年の春のオープンじゃなかったの?」
「だから言っただろ、今日は特別なんだって」
東京スカイツリー。
二○ 一二年五月オープン予定の日本一、いや世界一高いタワー。 今晩はオープン前の特別イベントとして、LED電球がその巨大なツリーを照らしていた。
「綺麗……」
濡れた大きな瞳にイルミネーションが反射する。
その姿は、先ほどのホタルと全く同じだった。
「綺麗だな」
本当はホタルとこの景色を見たかったんだけど……。
同じ顔でも中身は違う。僕は、この景色をホタルと同じ顔の女の子と見たかったのではなく、ホタルという人格と見たかったのだと認識する。
――ごめんね、ホタル。この景色を見せてあげられなくて。
僕は感嘆するケイの隣に立って、光るツリーを見ながら違うため息を漏らしていた。
○
「ホタルはね、私の一番嫌いなタイプの女なの」
小城山から駅に向かう間、ケイは身の上を話し始める。
「泣き虫で、男に媚びて、遠慮というものを知らない……」
記憶が無いんだから、それは仕方が無いことなんじゃないかと思うけど。
「だから、私はホタルと呼ばれるのが一番嫌い」
人の腹部を蹴るほどにな。
「でもね、ホタルは私の深層心理じゃないかって、病院の先生が言うの。私は本当はそうなりたいと願っているって……」
いや、全然別人なんですけど……。
「私がこの病気になったのは、一年くらい前だった。お気に入りの鉛筆があってね、それを使うと模試でもいい成績が取れた。ある日、模試にその鉛筆を忘れて行っちゃったんだけど、試験会場でそのことばかり気になって成績は散々だった。それから私は自分に暗示をかけるようになったの。この鉛筆を持っていれば大丈夫だって、この鉛筆に勉強した成果が全部詰まっているって」
ケイの話はこんな風に続く。
鉛筆は使っていればどんどん短くなっていく。とうとうその鉛筆が使えなくなった時、ケイは違うものに暗示をかけなくてはならなくなった。これを持っていれば大丈夫だという強い暗示を。
高校三年になったケイは、受験勉強の焦りもあり、変な方向に思いつめてしまった。その結果、触っているものに記憶が移ったと思い込む症状が出るようになったのだという。
「本当は受験勉強なんてやりたくない。塾だって行きたくないの……」
そんなことがあったんだ……。
ケイだって被害者だった。そんなことは露知らず、さっきはひどいことを言っちゃったな。
僕の心の中には、後悔の念がひたひたと溢れ始めていた。
すると、ケイが思い出したように言う。
「そうだ、私のキャスケットと眼鏡はどこにあるの?」
「ああ、そうだった。僕が持ってるよ」
僕はバッグからキャスケットと眼鏡を取り出す。
「ありがと」
ケイは僕の手からそれらを奪うと、そそくさと身に着けた。
あーあ、元に戻っちゃった……。
僕がケイの姿をまじまじと見ていると、ケイが恥ずかしそうに言う。
「すっごい残念な顔してるよ? お兄ちゃん」
ええっ!?
そ、それって……。
「そんな風に言ってたでしょ? ホタルって」
「あ、ああ……」
さぞかし僕は間抜けな顔をしてただろう。
「病院で見たことあるの、記憶を失った時の私の様子。先生がビデオを撮っててね。私、先生のことお兄ちゃんって呼んでた。開君のこともそう呼んでたでしょ?」
「ああ。ケイには兄貴がいるのか?」
「その逆よ。私、ずっとお兄ちゃんが欲しいって思ってたの。ホタルが男の人をそうやって呼ぶのは、心の奥底の願望が現れている証拠なんだって」
そうだったのか……。鼻の下を伸ばしていた僕がバカだったよ。
「それでホタルはこんなことも言ってたでしょ?」
ケイは意地悪そうな顔をする。ちょっと嫌な予感。
「ねえ、お兄ちゃん、手を繋いでくれる?」
だから、その言い方は止めてくれって。ホタルを思い出しちゃうからさ。って、えっ!?
急に右手に暖かい感触が伝わる。見ると、ケイが僕の手を握っていた。
「開君の手って、暖かい……」
でもホタルとは違い、ケイの手にはためらいが残っていた。
「記憶を取り戻す前は、心がずっとあったたかったような気がするの。開君、ずっとホタルの手を握っててくれたんでしょ?」
「ああ」
肯定の意を込めて、僕はケイの手を繋ぐ右手に力を込める。
すると、ケイの手からすっと力みが抜けていくのを感じた。
小さくて柔らかい手――それはさっきまでずっと握り続けていたホタルの手だった。
「本当にありがとう。ホタルのことを大切にしてくれて」
ケイが握る手に力を込める。僕もそれに応じて、彼女の手をしっかりと握りしめた。
手と手で語り合う。
ホタルの時は一方的に握りしめられてよく分からなかったが、手を握るという行為がこんなにも繊細で、こんなにも豊かな表情を持つことを、僕は知った。
「さっきはゴメン。ひどいことを言っちゃって」
「ううん、こちらこそごめんなさい。何度も蹴っちゃって……」
いいんだよ、という風に僕はケイの手を握る。
ケイは恥ずかしそうにチラリとこちらを見ると、ギュッと手を握り返してくれた。
○
「それじゃ、また学校で」
「ぜったいホタルって呼んじゃダメだからね」
駅に着くと僕達は別れの言葉を交わす。
「学校でさ、綾小路桃太郎君を探すの手伝おうか?」
意地悪そうに僕が訊くと、恥ずかしそうにケイが答えた。
「やだ、まだそんなこと覚えてんの? それはもういいの、忘れて」
嬉しかった。綾小路桃太郎のことよりも、僕のことを優先してくれて。
まあ、今日はもう遅いから、綾小路桃太郎の正体明かしは今度にしよう。
ケイとはこの先もうまくやっていけるような気がした。
そして最後に残ったのは、繋いだ二人の手。
「それじゃ」
「うん」
こんなに名残惜しいのはなぜだろう。
僕はゆっくりとケイの左手を離す。すると――ケイは突然しゃがみこんでしまった。
「おい、どうしたんだよ、ケイ!」
しかし何も返答はない。
「うっ、うっ……」
それどころか、ケイのすすり泣く声が聞こえてくる。
「どうした。お腹でも痛いのか?」
「ここ、どこ? あなたは誰?」
ええっ、それって……?
「ホタル、怖い……」
またホタル!?
見ると彼女はぬいぐるみを持っていなかった。
「おいおい、ぬいぐるみはどうしたんだよ?」
「ぬいぐるみって……何?」
ダメだ。彼女はまた記憶を失ってしまった。
ぬいぐるみはどこだ、と僕は辺りを見渡す。
――あった!
それは二メートルくらい離れたところに転がっていた。
「なんだよ、しゃがんだ時に手放しちゃったのかよ……」
仕方が無いと、僕はぬいぐるみを拾いに行く。
「しょうがないなあ。このぬいぐるみでいいんだよな」
僕は渦巻紋様を確認しようとぬいぐるみの額を見て驚いた。
――えっ、ない!
そのぬいぐるみには、額にあるはずの赤の渦巻紋様が無かったのだ。
「もしかして、これって違うぬいぐるみなのか?」
僕はケイの周りを丁寧に探す。が、ぬいぐるみは今僕が手にしているものしか存在しなかった。もちろん猫が咥えて行ったという光景も見ていない。
「じゃあ、ケイの記憶はどこに行ったんだ?」
もしかして、今身に着けているものに記憶が移ったとか……?
僕は渦巻紋様を探そうと、うずくまる彼女に目を向ける。しかしすぐに、それはありえないということに気がついた。
だって、今身に着けているものに記憶が移ったのだったら、ケイが記憶を失うことはないのだから。
その間にも、彼女は孤独の涙を流し続けていた。
「ホタル、何かを無くしちゃった。大切な、大切な、何かを……」
記憶の在り処がどこにあるのかがわからずに、いや、記憶を失ったことすらわからずに泣き続けるホタル。今の彼女は、先ほどのホタルとも違っていた。僕の隣で、街の風景にため息を漏らしていたホタルとも。
「ごめん、ホタル。僕も、君の記憶が見つからないんだ……」
僕の心が喪失感に占領されていく。
その時――
『ありがとう、ホタルのこと大切にしてくれて』
僕の脳裏にケイの声がよみがえる。
ダメだ、諦めちゃ。ダメだ、ホタルを見捨ちゃ。
今、僕が諦めたら、ケイの言葉を裏切ることになる。それに、彼女と手を繋いだ思い出だって無くなっちゃうじゃないか。
もう一度、よく考えるんだ。最初から。
僕は目をつむって、ケイがホタルに変わるまでのいきさつを思い出していた。
この場所に着いて、別れの挨拶を交わして、繋いだ手を離したとたんにケイがしゃがみこんで、それでぬいぐるみを手放しちゃって……。
ん? もしかして、彼女がしゃがんだ時にはすでに記憶を失っていた?
「ということは……」
もしやと思い、僕はケイと繋いでいた右手を街灯に照らして見る。すると、甲の部分に赤い渦巻紋様が令呪のごとくくっきりと刻まれていた。
「げっ、いつの間にこんなものが!?」
ケイの記憶の在り処が移動した。彼女と手を繋いでいる間に。それはつまり――
ぬいぐるみの時は終わり、僕の時が始まったのだ。
「どうする、どうする?」
僕は戸惑う。
泣きじゃくるホタルをこのまま放っておくわけにはいかない。ホタルをケイに戻すには、僕が手を繋いであげなくてはならないのだ。
しかし、一度手を繋いだら、もう後には戻れない。
彼女の実家、学校、そして塾。二十四時間、彼女と一緒に居ることになるだろう。
これから一週間、それに耐えることができるだろうか?
僕は右手の渦巻紋様を見つめる。
でもこれが僕に現れたってことは、ケイが僕に気を留めてくれたってことなのかな? ぬいぐるみに渦巻紋様が現れた時のように。
それだったら嬉しい。
ケイの深層心理が僕を求めてくれた。もしそうなら彼女の想いに答えてあげたい。手を繋ぐという形で。
『開君の手って、暖かい……』
ケイの声が聞こえるような気がした。
だったら。
勇気を出して踏み出そう、たとえそこにどんな困難が待ち受けようとも。
「ほら、行くぞ、ケイ」
「うっ、うっ……。ホタルは……ケイじゃないよ」
「だから行くぞ! ケイ」
僕は、彼女の濡れた瞳を見つめながら右手を差し伸べた。
了
ライトノベル作法研究所 2011-2012冬祭り企画
テーマ:「終わり」、「始まり」、「終わりと始まり」
お題:なし
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