冬のいず ― 2019年01月18日 07時47分14秒
木等暦(きられき)高校には一つの伝説があった。
――中庭の大きな楠の下に静かに佇む白い大理石の椅子。
この椅子に座って百冊目の本を読み終えた時、三つの願いが叶うという。
「ぴったりじゃん、その伝説、読書好きの私に!」
入学式の日に伝説の噂を聞いた倉科来栖(くらしな くるす)は、これから始まる高校生活に胸を踊らせる。
が、彼女は知らなかったのだ。
大理石の椅子に座ることができるのは、校内でたった一名であることを。
毎年一月に行われる校内読書感想文コンテストの優勝者。
その人のみが、大理石の椅子に腰掛けて読書することができる。
「一月ってなによ。そんなの一年生には無理じゃん……」
入学して一週間。
中庭の椅子の伝説について調べ尽くした来栖は、大理石の椅子に腰掛けるための条件を知って落胆した。四月に入学したばかりの新入生にとって、コンテストは遥か先、九ヶ月後の出来事なのだ。それまでの間、一年生は誰一人として中庭の大理石の椅子に座ることはできない。
「どうりで、いつも同じ人だったのね。あの椅子に座っているのは……」
長い黒髪、メガネの似合う上級生。
教室の窓から昼休みの中庭を眺める来栖の瞳は、本を読む彼女の姿を羨望を込めて映し出していた。
「あーあ、私もあの椅子に座って本を読みたいなぁ……」
文学少女なら誰もが抱く(と来栖は思っている)願望。来栖はへこたれない。
昼休みの中庭を眺め、椅子への憧れを強くするたびに、読書感想文コンテスト優勝への想いを募らせていった。それを支えているのは、文学少女には珍しく超ポジティブな思考。
「もしかしたら、逆にチャンスかもよ……」
例えば、コンテストが五月にあったとしよう。
それならば新入生も参加できる。が、四月に入学したばかりの一年生にとっては準備期間がわずかしかない。
これでは圧倒的に不利だ。上級生が勝利するのは間違いない。
でも、九ヶ月後だったらどうだろう?
一年生にも十分な準備時間が与えられるし、受験で忙しい三年生はほとんど参加しないはず。となると、そこで繰り広げられるのは一年生と二年生のガチバトル。一年生にだって勝機は十分ある。
「それなら、今、私がやるべき事は……」
来栖はスマホを取り出して、ネット検索を開始した。
キーワードは『小説』と『感想文』。
今のうちに感想文スキルを上げようというのが、彼女の魂胆だった。
しかし、検索に引っかかるのは「楽して読書感想文を書く方法」とか「歴代の読書感想文コンテスト優勝作品」とか、そんなサイトばかり。
「ダメダメ、こんな月並みな感想では。もっともっと、審査員の教師や全校生徒の心を鋭くえぐるような、尖った感想を書けるようにならなくちゃ!」
校内コンテストで優勝するためなら、これくらいは当たり前だろう。人と同じ感想文では皆の目には止まらない。
ちなみに木等暦高校の読書感想文コンテストは、五人の審査員による投票(一人分の持ち点は百点)と約千人の全校生徒の投票(一人一点)によって決まる。生徒による投票率が一、二割に留まっている現状では、優勝者は実質、審査員の投票によって決まると言っても良いだろう。
そこで来栖は付け加えた。検索ワードに『鋭い感想』や『厳しい感想』といった内容を。
すると、とあるサイトが彼女の目に止まったのだ。
「こ、これは!?」
――チミル企画。
可愛らしい感じの名前。その響きについ惹かれてしまう。
なんでも小説の競作サイトで、いろいろな人から感想が寄せられるところらしい。
しかし、サイトの評価についての検索結果には、恐るべき名前の由来が記してあった。
――厳しい感想がウリ。生半可な作品を投稿すると血を見るので、そう呼ばれている。
「血を見るからチミルって、一体どんな感想が寄せられてるのよ……」
逆にすっかり興味を持ってしまった来栖は、その年の冬に行われたイベントのサイトを覗いてみる。そこには『ちっちゃな異能』というテーマで投稿された作品が並び、作品に寄せられた感想の数が表示されていた。
「どれどれ……」
リンクをクリックすると作品が表示される。そして来栖は寄せられた感想に目を通して驚いた。
そこには本当に辛辣な感想が並んでいたのだ。
『冒頭が冗長でつまらない。これでは読者が最後まで読んでくれない』
『中盤の展開がなんか変。主人公の気持ちを考えると、こんな展開にはならないはず』
『ラストが納得いかない。作者はこの作品を通して何が言いたいのか』
「うわぁ、これってマジ……?」
それは来栖にとって驚愕の光景だった。
なぜなら、読書感想文についての彼女の概念を根底から覆すものだったから。
――読書感想文とは、作品リスペクトの上に構築されるもの。
中学校までの国語の授業を通して、来栖はそう理解していた。授業で扱われている文学作品だって、「主人公の気持ちは?」とか「作者が目的としていることは?」と聞かれることはあっても、「この作品のダメなところは?」という問いはなかった。先生もそんな指摘はしないし、作品批評に対する答えも教えてくれない。
「でも、こういう視点が重要かも……」
さすがに、読書感想文コンテストの本番で作品をディスるのは不適切だろう。
しかし、著名な文学作品とて時代の波についていくのは難しいはず。その時代に合わなくなった部分を、高校生というフレッシュな視点で指摘してみればいいのだ。このチミル企画のように。
その指摘が皆をハッとさせるものであれば、かなりポイントを稼げるに違いない。逆に、今の時代にも通用する部分があれば、それはきっと人間の本質を突いた部分であり、作品を書いた作者の意図を浮き彫りにできる可能性がある。
「なんか燃えるわね。よっしゃ、このサイトで感想書きを鍛えてみるか」
来栖は早速、チミル企画のゴールデンウィーク祭りに参加してみることにした。
チミル企画のイベントは、年に三回行われていた。
――ゴールデンウィーク祭り、お盆祭り、年末年始祭り。
イベントの度に寄せられる作品のテーマが異なり、しかも力作揃いで純粋に作品を楽しむこともできる。
そして驚いたのが、寄せられる感想の質の高さだ。
確かに、「血見る企画」と異名をとるだけあって、辛辣な言葉から始まる感想は多い。しかし、その主張の根拠となる部分が、どの感想にも丁寧に書かれているのだ。これは作品をしっかりと読み込まないとできないことだった。
「すごい、すごい……」
ゴールデンウィーク祭りでは、二、三の作品にちょこっと感想を書いただけの来栖だったが、お盆祭りでは作品をじっくりと読み込んでみようと決意した。
お盆祭りが始まると、来栖は感想が集まりだした作品からじっくりと読んでみることにした。感想が多い作品ほど、感想の書き方の勉強になるからだ。
そして寄せられてくる感想を読んで、来栖は不思議な共感を覚える。
「あれ? この人の感想、私が感じたことと一緒だ」
作品を読んでいる時に覚えた違和感。来栖はそれをなんとなく感じただけであったが、別の人からは解説が付け加えられていたのだ。そこには違和感の原因について、丁寧な分析結果が記してある。
「そうか。だからあの部分、私も違和感を覚えたんだ……」
これは非常に勉強になる。
違和感は、ぼやっと抱くだけではダメなんだ。
肩透かしを食らった部分は、それなりの理由が存在しているんだ。
それをちゃんと文字にすることができれば!
感じたことをしっかりと表現できれば、読書感想文コンテストの優勝はぐっと私に近づくはず!
そしてそのやり方は、このチミル企画の感想にぎっしりと詰まっている。
来栖は宝の山を見つけたような気がした。そして作品を次々を読み込んでいく。作品をちゃんと読まなければ、他の感想人と意見を共有することはできない。
来栖は感想も書いてみた。
自分が抱いた感動や違和感と向き合って。
なぜそんな感情が生まれたのか、自分なりの分析を行いながら。
ある時は、他の方の感想を参考にしながら。ある時は、他の方の感想とは違う部分を意識しながら。
――他の方とは違った感想。
これは読書感想文コンテストにおいて重要な部分だ。他の生徒と同じ感想文を書いていては優勝できないことは明白だから。
優勝するためには、自分独自の感想を持つことも必要なのだ。それが鋭利な刃物になるか、鈍器になるかは書き方次第。鋭利な刃物にする方法は、チミル企画が教えてくれる。
こうして感想を書いているうちに、来栖はあることに気がついた。
それは、寄せられる感想が、ある一つのマナーに沿って書かれていること。
――作品はディスるが、作者はディスらない。
このマナーは、来栖が思い描いていた理想的な読書感想文のイメージとピタリ一致していた。
ゴールデンウィーク祭り、お盆祭り、年末年始祭り。
チミル企画のイベントで着々と感想書きの技術を磨いた来栖は、一月に開始される校内読書感想文コンテストに参加する。そして先生方による審査員部門で一位(二三五点)、そして校内投票においても一位(三七点)を獲得し、見事総合優勝を果たしたのであった。
◇
『冬のイズ』
「あー、やっと、やっと百冊目を読み終わったわ!」
私は手にしていた本を制服の膝の上に置くと、大理石の椅子に座ったまま楠の木漏れ日に向かって両手を高く突き上げ、込み上げる充実感を満喫するように大きく伸びをした。
――三つの願いが叶うという、中庭の椅子伝説。
馬鹿げた噂と一蹴する友人が多い中、私は愚直にも高校生活をその伝説に捧げてきた。
一年生の時は読書感想文の特訓、そして一月の校内読書感想文コンテストで見事優勝を果たす。
しかし、大理石の椅子に座る権利を得てからが大変だった。
『中庭の大理石の椅子に座って百冊目の本を読み終わった時、三つの願いが叶う』
私が持っている情報は、たったそれだけだったから。これではあまりにも少なすぎる。
読む本って、ハードカバーオンリーってことはないよね?
通学の電車や自宅で続きを読んじゃダメなの?
同人誌は? ネット小説は?? 漫画は???
知りたいことが沢山あった。でもその真相を知っているのは、歴代の校内読書感想文コンテストの優勝者だけ。
「あのう、先輩。三つの願いを叶えるための条件について、詳しく教えて欲しいんですけど……」
「あら? あなたはそんなことの為に、読書感想文コンテストに応募したのかしら?」
ニヤリと含み笑いを隠しつつ、誰も私に詳細を教えようとしない。
あれって絶対知ってる顔だ――と確信するものの、知らないと言い張る先輩方に詰め寄るわけにもいかない。
仕方がないので、私はなるべく薄い文庫本を百冊選び、通学や自宅で続きを読むことはせず、大理石の椅子だけで読破することを決意した。
しかしここから私は、新たな問題に直面する。
仮にも私は校内読書感想文コンテストの優勝者。全生徒から注目される、大理石の椅子に座る資格を得た文学少女なのだ。
校内のインテリジェンスを象徴する楠の下の椅子のお姫様が、薄い文庫本をペラペラと高速でめくっていては格好がつかないというもの。
だから私は、ハードカバーを読んでいるように見せることができる薄い文庫本用の便利グッズを(泣きたいほど高価だったけど)購入した。そして大理石の椅子に姿勢良く座り、そよ風に誘われるようにページをめくって、見かけだけは優雅な文学少女を装うことにした。
問題はこれだけではなかった。
冬の寒さ、夏の暑さ、そして雨や風。特に、冷えた大理石に座る厳しさは想像を絶するものがある。
だから、冬の間の読書は天気の良い昼休みだけにして、春になって暖かくなると放課後も中庭の椅子に座って本を読むことにした。もちろん部活なんてやっている余裕はない。
こうして私が百冊目を読み終わったのは、秋も十月の半ばを過ぎた頃だった。
『おめでとう、ござまイス!』
出てきた、出てきた、なんか出てきたよ。
予想とちょっと違っていたのでさすがの私も驚いたが、盛大な伸びの途中だったこともあり気にしないふりをして声に耳だけ傾ける。
『あれ? 驚かないんイスか?』
「疲れちゃったのよ。中庭の椅子で百冊の本って、どんだけハードル高いんだか」
声の主が現れた、ということは、私の百冊チャレンジが成功したという証拠だ。
私はついに勝ったのだ。清楚な文学少女を装い、部活を楽しむこともせず、高校生活を賭けた一か八かの挑戦に。
「それに私は驚かないわ。だって今まで読んだ本のほとんどが、こんな展開だったもの」
そう、私はずっとライトノベルを読んでいた。しかも精霊が登場するファンタジー系。
その中に出てくる願いは大抵三つで、なんとかの精霊が出てきて順番に一つずつ叶えてくれる。だから私は、百冊目の本を読み終わった時に、どんな精霊が登場するのだろうと期待を込めて心の準備を整えていた。
『つまらなイス。もっと驚いて欲しイス』
「ていうかあんた、実体はないの?」
キョロキョロと私は声のする方に首を向ける。しかし、猫っぽい容姿をしているとか、天使っぽく羽ばたいているとか、そんな精霊の姿はどこにも見当たらなかった。
『「あんた」って、そんな言い方はなイスよ、校内一の大精霊「イス」様に向かって』
校内一? 大精霊にしてはなんかスケールちっちゃくない?
それに名前が「イス」ってのも、ずいぶん安価なネーミングね。
でも、ここで大精霊様のご機嫌を損ねるとすべてが台無しになってしまう可能性がある。それはヤバい。
「大変申し訳御座いませんでした。大精霊イス殿」
椅子から立ち上がった私は、ゆっくりと回れ右をして椅子に向き直る。両手でスカートの裾をつまむと、静々と厳かに椅子の前に跪いた。精霊の名前や言葉づかいから判断して、椅子の精霊に違いない。
「どうか、私めの願いを叶えて下さいまし」
深々と頭を下げると、椅子の方から声がする。
『うむ、分かったイス。キミの願いは聞き入れたイス。ではこれから残りの二つの願いを叶えるために、魔王退治に出陣するのイス!』
ええっ、魔王退治? それに一つ目の願いなんて言ったっけ?
もしかして、「願いを叶えて下さい」と言ったのが一つ目としてカウントされたとか? そんなことで願いを消費されるのは納得がいかない!
これは詐欺だ。消費者省に訴えてやる。精霊が出てきたところからやり直せ!!
私が顔を真っ赤にすると、声の主がクスクスと笑い出した。
『やっと驚いてくれたイス。嬉しイス、魔王退治なんて嘘イス』
なんだって!?
魔王退治のところを疑わなかったとは、なんたる失態。ただのラノベの読みすぎじゃん。
それにしても大精霊らしからぬ嘘発言に、私はカチンとくる。
「文学少女をなめとんか。今すぐゲロ吐いて大理石に胃液ブチまけたろか!?」
『ごめんなさイス、ごめんなさイス。謝るから胃液だけはやめて、溶けちゃイスから……」
あら、私としたことがはしたない。
でもこれで、声の主が大理石の椅子であることが判明した。大理石の敵は胃液とラノベにも書いてあった。
というか、校内一を語るにしては意外とチキンな大精霊じゃないのよ。
一気に親近感が増してしまった私は、椅子に向かって優しく語りかける。
「こちらもごめんなさい。私、こういう体験は初めてなの。あなた、この大理石の椅子の精霊さんよね?」
『そうイス。名前も「イス」って言うイス。よろしくお願イス』
まあ、ありがちな展開ね。
というか、テンプレートそのままかしら。
「こちらこそよろしく、イス。それで早速一つ目のお願いなんだけど……」
『ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってイス』
願いを切り出す私にイスが待ったをかける。
まさか、その前に魔王退治なんて言い出すんじゃあるまい。
『もっとよく考えて欲しイス。もし願い事が一つだけだったら、どうするんイスか? それに胃液はやめてくれイス』
口に指を突っ込んでゲロ準備していた私をイスが諭す。
「でも三つなんでしょ?」
そういう伝説って聞いているんだから、今更違うとは言わせない。
それにさっき、二つ以上あるようなこと言ってたよね。
『まあ、そうなんイスけど……』
「じゃあいいじゃない。早速一つ目を叶えてよ」
『えっと、願い事には制限があるんイス。まずそれを説明しなイスと……』
制限か……。
まあ、これは当たり前かも。
最初に「願いは無限に」という願いを叶えてもらったら、あとはやりたい放題だもんね。
「それはどんな制限?」
『校内限定でイス』
校内限定? なんてちっぽけな。
「じゃあ、世界平和を願おうとしていた私はどうなるの?」
嘘だけど。
『校内平和なら可能でイス。ふむふむ、最初の願いは「校内平和」――でイスね』
「ちょちょ、ちょっと待てやコラっ!」
『だから胃液はダメでイス!』
危ないところだった。
最初の願いが校内平和になったら、一生後悔し続けるところだった。
「まあ、校内限定が仕様ってことなら仕方ないわね。でも問題ないわ。私の願いは、二年四組の首藤蹴斗(しゅとう しゅうと)君に振り向いてもらうことだから」
首藤蹴斗君。
サッカー部のエースストライカーだ。
長身のイケメンで、元スペイン代表のフェルナンドウとかいう人とそっくり。
私は今回の三つの願いを駆使して、彼といい仲になりたいと考えていた。
『残念ながら、その願いはダメでイス。実はもう一つ制限がありまイスて、叶えられる願いは椅子に関することだけなんイス』
「マジ?」
ここに来てまさかの椅子縛り。
だったら早く言ってよ。願いが椅子に関することだけって知っていたら、こんな風に青春を無駄にすることはなかったかもしれない。
呆れた私は、完全に脱力した。
「他に制限はないの? この際だから全部言っちゃってよ」
『法律や常識の範囲内ってのはありまイスけど、基本的には「校内限定」と「椅子関連」の二つイス』
「椅子縛りってあんた変態? 初めて聞いたわ」
少なくとも、今まで読んだラノベにそんな記述はない。
『椅子の精霊でイスから』
「じゃあ、蹴斗君のことはどうするのよ?」
『それは自分で考えて欲しイス』
「全く使えない精霊様ね……」
私は大理石の椅子に手を当て、椅子が鎮座する中庭の芝生を見ながら考える。
思えば私はずっと、椅子の前に跪いたままだった。
「椅子に関連した願いで、蹴斗君を振り向かせる内容とは……」
そんな願いってあるのだろうか……?
その時、私は思い出した。
この椅子に座る資格を持っている校内で唯一の生徒は、誰なのかということを。
「蹴斗君が毎日、この大理石の椅子のことを見てくれますように。ってのは?」
別に、最初から蹴斗君に自分を好きになってもらおうとは思わない。
まずは私のことを気にかけてくれればいいのだ。
それならば、この大理石の椅子を毎日見てくれればいい。そこに座る資格を持っているのは校内で私だけなのだから。蹴斗君がこの椅子を見る。それはイコール、私のことを見てくれることになる。
『大丈夫でイスよ。一つ目の願いはそれでいイスか?』
「いいっス!」
我ながらのナイスアイディアにイスと同じような口調になってしまったが、こうして私は一つ目の願いをイスに託したのであった。
◯
「あー、ドキドキする……」
次の日、私の心臓は朝から高鳴りっぱなしだった。
――今日は蹴斗君が私のことを見てくれる。
正確には「大理石の椅子を」だけど。
イスがちゃんと願いを叶えてくれているのかという点も疑問だけど、そんなことを気にしている余裕は私にはなかった。
「枝毛が目立たないといいけどなぁ……」
昨日は学校帰りに新しいシャンプー、コンディショナー、トリートメントを買ってきた。なるべく髪がサラサラに見える高級なやつを。そしてお風呂では念入りに、自慢のセミロングの黒髪の手入れを行ったのだ。
蹴斗君の二年四組の教室は二階にある。そこから中庭を見下ろすと、楠の脇から私の後頭部が見える位置関係だ。だから髪の印象が最も重要になる。
朝は時間をかけてブラッシング。やっとのことで風にそよぐナチュラルヘアが完成した。そして新しく買った本を手に私は家を出る。もちろんハードカバーの文学少女っぽいやつだ。
本選びも大変だった。
まずは見た目重視。大理石の椅子に座った時に一番見栄えがする本を選ぶ。カバーは白を基調としたシンプルなもの、カバーを外した時の本の様子も確認した。中身はほとんど確認しなかったけど、たまには変わった本を読んでみるのも面白い。
一瞬、英語の本なんてオシャレかなと思ったけど、二階から英文が見えて「なに、このインテリぶった女」とドン引きされると逆効果だ。あくまでも蹴斗君は椅子を見てくれるのであって、私に興味があるのではない。
昼休みになると、私の緊張はマックスに達していた。
いつもの中庭での読書なのに、心臓のドキドキが止まらない。校舎からの生徒の視線なんて今までは全然気にならなかったのに。
大理石の椅子の前に立つと、力を込めて椅子を押して少しだけ向きを変える。二年四組の教室から私の右側の顔がチラリと見えるシチュエーションにするためだ。どちらかというと、私は右側の表情に自信があった。
そしてクッションを敷いて、ゆっくりと椅子に腰掛ける。
姿勢を正し、制服のスカートの膝の上に昨日買った白い本を置く。両手で本を持ち、最初のページをめくった――が、内容は全く頭の中に入ってこなかった。
頭の中は、余計な思考がグルグルと勝手に回り始めている。
右側の顔が見えるようにしたんだから、髪を結んできた方がよかったんじゃないの?
いやいや、昨晩は念入りに髪の手入れをしたんだから、結ばないのが正解でしょ?
どちらにせよ昨日までとは全然違う私なんだから、それを分かってくれるといいな……。
するとイスの声が聞こえてきた。
『ほら、蹴斗君が見てるイス』
えっ、どれどれ? と校舎を見上げたいのをぐっとこらえる。
もし蹴斗君と目が合ったらどうすんのよ。
それこそパニックだし、変な表情をして自意識過剰と思われたらマイナスだし……。
私は必死に平静を装い、小声でイスに語りかける。
「まだ見てる?」
『うーん、また弁当を食べ始めちゃったみたイス』
ということは、窓際の席で弁当を食べてるってことなのかな?
そもそも席が窓際なのかもしれないし。まあ、そんなことはどうでもいい。授業中に私がこの椅子に座ることはないのだし、昼休みに蹴斗君が窓際にいるという事実だけが重要なんだ。
そこで私はふと思いつく。
明日からこの椅子でお弁当を食べればいいんじゃないか――と。
昨日までの私は、百冊の本を読破するため必死になっていた。三時間目と四時間目の間に早弁して、昼休みのすべての時間を読書に費やしていた。
でももう、そんな努力はしなくてもよい。すでに百冊を読み終わって、精霊イスが登場したのだから。
もし、教室から見下ろして美味しそうなおかずがチラリと見えたら、蹴斗君はもっと私に興味を抱いてくれるかも。
ところで蹴斗君はどんなおかずが好きなんだろう?
サッカー部で男の子だから、やっぱミートボール?
だったら美味しそうなミートボールが入ったお弁当を作って来ようかな?
でも、女の子のお弁当にミートボールばっかってのもヤバいから、やっぱミートボールは一個? それよりもサッカーボールおむすびってのもいいんじゃない? 海苔を上手く切ってサッカーボールみたくして。そしたらいつの間にか蹴斗君が隣にやって来て、「それ、俺にも分けてくれよ」って言ってくれたりして……。
暴走する妄想に、思わずニンマリしてしまう。
しかし、その時イスに掛けられた言葉で、私は一瞬で素に戻った。
『素敵イス、その表情。蹴斗君もチラリと見て、ほっこりしてたイス』
マジ?
見られた?
妄想に浸るこの表情を。
『ボクと出会った女の子たちはみんな、そんな感じだったイス。気になる異性に対して、いろんな表情を作ってたイス』
イスに出会った女の子というと、校内読書感想文コンテストで優勝した先輩方だ。
なんだ、みんな百冊の本を読破して、イスに願いを叶えてもらってんじゃないの。
『クスリと笑顔を見せたい女の子は、ライトノベルが多かったイス。中には、シェイクスピアのカバーでごんぎつねを読んでた女の子もいたイス。あれは素敵な涙だったイス』
ごんぎつねはヤバいわ。
あんなピュアな涙を見せられたら男子はイチコロかもね。
ていうか、涙を流すなら別にシェイクスピアでもよくね?
「先輩方はみんな頑張っていたのね」
『そうイス。今のキミのようにイス』
今の自分のように?
昨日までの自分はただ百冊を読むことばかりに夢中で、他の努力は全然して来なかったような気もする。
「それで、先輩方の想いは叶ったのかしら?』
『叶った人もイスるし、叶わなかった人もイスる』
「それって当たり前じゃない」
『そうでイス。一つ確実に言えるのは、どの女の子も素敵になったイス』
先輩方の願いも、みんな恋だったのかな?
恋が女性を綺麗にする、って昔から言われているけど、ようやく私もそれが分かったような気がする。椅子の伝説の願いが叶えば簡単に恋が手に入る――なんて軽率だった。人生、そんなに甘くない。
『気をつけなきゃいけないのは、イスがイズになることでイス』
「イスがイズ?」
『そう、心理学的な戒めで、こんな言葉があるのイス』
すると頭の中でエコーのように、イスの言葉が広がっていく。
『イスがイズに変わる時、恋に冬が訪れる』
「なに、その言葉?」
『キミの心がイズにとらわれてしまった時、詳しく解説してあげるイス』
私の心がイズにとらわれる?
なにそれ? イスがイズに変身するんじゃなくて? そもそもイズというのが、何のことなんだかわからないんだけど。
それにその時ってもう手遅れなんじゃないの? 恋に冬が訪れちゃってるんだから。
不満そうな顔をする私に、イスが忠告した。
『ほらほらそんな表情をしちゃダメでイス。蹴斗君が見てるイス』
ずるいよ、イス。
それに、本当に今、蹴斗君が見てるのかしら?
さすがにもうお弁当は食べ終わってるんじゃない?
校舎を振り返ることができないもどかしさに私は一人悶絶する。
仕方がないので一つ息を吸って呼吸を整え、読書(のふり)に戻ることにした。
翌日から私は、いろいろな事を試してみた。
髪を結んでみたり、結ばなかったり。
結ぶ時はポニーテールにしたり、三つ編みにしてみたり。
お弁当にミートボールを入れたり、サッカーおむすびにしてみたり。
そして一ヶ月後。
ついに私の夢が叶う瞬間がやってきた。
中庭でお弁当を食べる私のところに蹴斗君がやってきて、いきなり告げたのだ。
「初対面なのに突然勝手なこと言ってゴメン。そのサッカーおむすび、今度の日曜日の試合の後に食べてみたいんだ。いいかな?」
◯
「どうしよう、どうしよう。イス、どうしよう!」
日曜日の午前九時。
私は中庭の大理石の椅子に座って逡巡していた。
「試合は校庭で十時からでしょ? それを観に行った方がいいかな? それとも、約束の一時までここで待っていた方がいいかな?」
椅子の横には保冷バッグが置いてある。
蹴斗君のために、サッカーおむすびを大量に作ってきたのだ。
『何言ってるのイス。試合の後にお弁当を食べたいってことは、応援して欲しいって意味イス』
「やっぱそうかな、やっぱそうよね。でも私、サッカーの試合って観るの初めてなの。危なくない? それにルール分からなくても大丈夫?」
『だから、サッカーのルールブックを読んだらって言ったんイス。なのに格好つけて、ごんぎつねなんて読んでるからいけないんイス。自業自得でイス』
「だって、蹴斗君に私のピュアな涙をアピールしたかったんだもん……」
久しぶりに読んだごんぎつねはヤバかった。ごん、やっぱあんたは神だよ。
『約束の時間までまだ四時間もあるんイス。ずっとここで待ってるんイスか?』
それもなんだか時間がもったいない。
なんで応援に来なかったの、と聞かれる事態もやっぱり避けたい。
「じゃあ、応援に行ってくる」
『だったら、椅子の下に落ちている大理石のかけらを持っていくといイス。持っていれば、ボクとお話できるのイス』
私は言われる通り椅子の下を覗き込む。すると五センチくらいの白い大理石のかけらが落ちていた。
「ふーん、これね」
私は拾ったかけらを目の前にかざす。純白のかけらは、黒曜石のように先が尖っていた。
『そうでイス』
この声は、かけらの方から聞こえたような気がした。
私はお弁当を大理石の椅子の上に置き、大理石のかけらを持って校庭に向かう。この場所は楠の木陰になっているから、お弁当を校庭に持って行くよりは衛生面でも良いだろう。
校庭に着くと、選手たちがユニフォームごとに分かれて練習を始めていた。相手チームもすでに到着しているようだ。
蹴斗君は……、あっ、いたいた。
彼は長身だからすぐ分かる。
ゴール前の列の先頭にいる蹴斗君は、ボールを味方にパスし、小さく折り返されたボールを思いっきりゴールに蹴り込む。
「ナイス、シュート!」
私は小さく声を上げる。が、その声はすぐに黄色い声援に打ち消されてしまった。
「キャーッ、蹴斗君!」
「今日もゴール決めてね!」
見れば、十人くらいの女生徒がベンチ裏に陣取っていて、シュート練習を見学していた。その光景を目にした私は、ここに来たことを強く後悔する。
――オシャレな髪型で制服のスカートも短めの可愛らしい女子たち。
蹴斗君がシュートを放つ度に、スカートを揺らしながら飛び跳ねている。
あんな可愛らしい子たちに私が敵うわけないじゃない。
私のスカートは長め。だって短いスカートで椅子に座ったら下着が見えちゃうから。私のスカート丈は、大理石の椅子に姿勢良く座った時、膝小僧がちょうど隠れるくらいに調整していた。
所詮、私は座ってなんぼの文学少女。立ち姿ではあの子たちには歯が立たないし、今のこの状況に至っては場違い感半端ない。
だから私は、校庭の隅で隠れるようにして試合を見学することにした。
『ねえ、もっと近くで試合を観なくていイスか?』
「いいのよ、イス。ここが私のボジションなんだから」
それは嘘だった。
本当は、早くこの場から去りたい、早く私が居るべき中庭の椅子に戻りたい、そんな気持ちで一杯だった。
でもここに居なければ、蹴斗君の活躍を観ることができない。私は試合後の蹴斗君との会話のためだけに、仕方なく校庭の隅に立っていた。
幸い、蹴斗君は試合でとても目立っていた。私もつい試合に夢中になる。チームは彼にボールを集める。だからボールを触る回数も多く、誰よりも多くのシュートを放っていた。
「惜しい!」
「次頑張って、蹴斗君!」
彼がシュートを打つ度に、女子たちの声援が飛び交う。
不幸なことに、男子とは音域の異なるその黄色い音の波は、サッカー部員の掛け声にかき消されることなく私の耳にも届くのだ。
声援に対し、蹴斗君も手を上げて応えている。
そんな光景を目にするたびに、私はだんだんと不安になってきた。
『ほら、こちらも大きな声で応援しなくちゃでイス』
そしたら蹴斗君は私にも手を振ってくれるかな?
いやいや、この場で決してそんなことをするわけにはいかない。
「バカね、イス。そんなことしたらあの子たちに見られて、「なに、あのダサい女。ライバルのつもり? 応援する資格あるのかしら」って思われるのがオチよ」
それは恐い。それが回避できるなら、蹴斗君が私に手を振ってくれなくてもいい。
「蹴斗君、試合が終わったら本当に中庭に来てくれるのかしら?」
『そう言ってたでイスから、そうなんじゃなイスか』
「お願いだから、いい加減なこと言わないでよ!」
私はついイスに八つ当たりする。
『ボクだってちゃんと聞いたイス、彼の言葉を。そんなに疑うなら、二つ目の願いにしたらいイズら。蹴斗君が試合後に中庭の椅子のところに来ますようにって、そう願えばいイス』
確かにそうすれば、蹴斗君は確実に来てくれるだろう、試合の後、中庭へ。
でも蹴斗君はちゃんと私に告げたのだ。その時間にサッカーおむすびを食べに来ると。迷惑じゃないならお願いすると頭を下げて。そんな大事なこと、私が聞き間違えるはずがない。
それに、ここで二つ目のお願いを使うということは、彼の言葉を疑うということだ。好きな人の言葉を疑うなんて、私はそんなことをしたくない。
いやいや、もっと最悪なケースも考えられる。もし蹴斗君が試合後あの女子たちに誘われて、急に彼女たちと一緒にお昼を食べたくなってしまった時だ。彼は自分の意思に反し、二つ目のお願いによって中庭に来ざるを得なくなる。そんな状況で、美味しくおむすびを食べられるはずがない。
そうこう考えているうちにも、黄色い声援が容赦なく私の耳に飛んでくる。その声の力は、ぐるぐると私の思考を闇の底へと落とし込んでいった。
「ダメだ、ダメだ、こんなことじゃ。なにか素敵なシーンを、蹴斗君と私だけの特別なシーンを思い浮かべなくちゃ」
魔がさす、というのはこういうことを言うのだろう。
目を閉じて私が思い浮かべたのは、こんなシーンだった。
――白い病室、青い空。窓際に座って本を読む私の前で、蹴斗君がゆっくりと目を覚ます。
このシーンに、あの女子たちは似合わない。
私だからこそ、スカートが長くて姿勢の良い文学少女の私だから絵になる。
そして蹴斗君は私に恋をする。本を読みながら、静かに寄り添う私に。
『すごく良イズら、そのイメージ。ボクを握る手からビンビンと伝わってくるのが心地よイズらよ』
イスも賛同してくれた。やっぱり私って、こういうシーンの方が似合うんだ。
『どうするでイズら? そのイメージを二つ目の願いにしちゃえイズら』
「でも、どうやって?」
『キーワードを病室にすればいイズら。そうなることを願えばいイズらよ』
ええっ、それって……?
蹴斗君が怪我するってこと?
『大丈夫、気にすることはなイズら。サッカーに怪我は付き物なんでイズら』
「それはそうだけど……」
私は迷っていた。
願いは想いを叶えるもの。なのに人に不幸をもたらしても良いものだろうか。
その時だった。
グランドが割れんばかりに湧き上がったのは。
見ると蹴斗君がガッツポーズをしながらベンチの方へ走っている。
「ナイスシュート!」
「やったね、蹴斗君!」
「もう一点、お願いっ!」
女子たちの声援から判断して、どうやら蹴斗君がシュートを決めたようだ。
そしてベンチからグラウンドに戻る蹴斗君は、嬉しそうに飛び跳ねる女子たちに手を振った。
その光景に、私は自分の愚かさ悔いる。
彼女たちは見ていたのに、私は見ていなかった。
彼がシュートを決めるシーンを。
私は何のためにここに居たの? もし試合後に彼が中庭に来てくれたとしても、私は何を話せばいいの?
もう何がなんだかわからない。これからどんな選択をしても最悪の結果しか見えない。いっそのこと彼がこのグラウンドから消え去ってしまえばいい。
だから私は決意した。
「イス、お願いって椅子に関することだったら何でもいいんだよね?」
『何でもいイズら。ここは校内だから、制限は椅子だけになるんでイズら』
「じゃあ、今から二つ目のお願いをするわ」
私は唱える。試合再開の笛の音と同時に。
「蹴斗君が車椅子に乗ることになりますように」
『わかったでイズら』
イスが答えると私は目をつむる。
その瞬間は見たくない。たとえ私が望んだことだとしても。
なんて卑怯な女なんだろう。でも、こうするしかなかった。蹴斗君が試合後に中庭に来てくれても、来てくれなくても、私に訪れるのは地獄しかなかったから。
私の選択がさらなる地獄を招くとは、この時は思ってもみなかった。
「痛い、痛いっ!」
その時はあっけなくやってきた。
恐る恐る目を開けると、グランドの真ん中で蹴斗君が右足首を抑えてのたうち回っている。
『相手選手とヘディング争いで接触したでイズら。無理な体勢で足を着いたから、ありゃアキレス腱をやったに違いなイズら』
苦痛に顔を歪める蹴斗君。
その表情を見て、私は自分がしたことの愚かさに青ざめた。
『いイズらか、行かなくて。看病するチャンスでイズら』
そんなことできるわけがない。
あの怪我は私が願って起きたもの。
それはまるで、後ろからナイフで刺しておいて「大丈夫?」と声を掛けるようなものじゃない。
どうして私はあんなことを願ってしまったんだろう?
病室で涼しい顔をして寄り添うことができるなんて、どうして連想してしまったんだろう?
後悔が、後から後から押し寄せてくる。
ただ立ち尽くす私を、手の中のイスがイラついた口調で罵った。
『なんだ、自分の願いに責任持てないなんて情けなイズら。あーあ、オレ様の力が一つ無駄になったでイズら』
「うるさい、黙ってイス!」
やり場のない怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになった私は、大理石のかけらを地面に叩きつける。
そのかけらを見て私は驚いた。
「なに? これ……」
白いはずの大理石が、黒曜石のように真っ黒になっていた。
◯
それから一ヶ月近く、私は中庭の大理石の椅子には近寄らなかった。
蹴斗君に姿を見られたくなかったし、イスとも話したくなかった。
あの日、救急車で運ばれた蹴斗君はアキレス腱の縫合手術を行い、しばらく車椅子生活を送っていたという。その後、松葉杖を使って通学し、一ヶ月後にはなんとか歩けるようになったとクラスメートから聞いた。
そして学校が冬休みに入ったある日、私は久しぶりに中庭の大理石の椅子に座った。
イスに最後のお願いをするために。
「ねえ、イス。最後に教えて?」
すると耳に懐かしい声が響く。
『最後なのでイスか?』
それは試合の日に私を罵った声ではなく、以前と同じ穏やかな精霊イスの声だった。
「そうよ。今日が最後。別に今日じゃなくてもいいんだけど、ほら、年が明けたらすぐに読書感想文コンテストが始まるでしょ。私、優勝するつもりはないから、ここに座れるのもあとわずか。だから、最後のお願いをしようと思ってるの」
三つ目の願いを叶えた時、精霊は消えてしまう。
今まで読んだラノベがそう教えてくれた。
まあ、イスの場合、この大理石の椅子の精霊だから存在が消えるというわけではなく、私がイスの声を聞けなくなるというだけだと思うけど。
『毎度のことでイスが、ちょっぴり悲しイスね』
「私もよ」
しばらくの間、沈黙が漂う。
ほんの数ヶ月の間だったけど、イスと出会っていろいろなことがあった。
最初のお願いで蹴斗君がこの椅子を見るようになって、突然声をかけられ、そんでもって試合での大怪我。
後悔ばかりのラストだったけど、これを糧にして私という人間が成長できたら良いと思う。
「それでね、イスとお別れする前に、以前言ってたことを教えてほしいの」
『それってなんイスか?』
「ほら、言ってたじゃない。イスとイズがなんとかって」
『ああ、あれでイスね』
すると頭の中にいつかの言葉がエコーする。
『イスがイズに変わる時、恋に冬が訪れる』
「そうそう、それそれ」
『ちょっと説明が長くなるけど、いイスか?』
「いいよ。最後だもん」
私は楠を見上げると、大理石のイスの背もたれにゆっくりと体を預けた。
『あの言葉のイスとイズは、アルファベットで書くんでイス』
あれってアルファベットだったのね。
どうりでいくら考えてもわからないはずだ。
『イスはISU、そしてイズはIZUなんでイス』
私は声に従い、木漏れ日に向かって指を動かし文字をイメージする。
――ISUとIZU。
『この二つの言葉で、共通する文字はどれでイスか?』
「IとUね」
『そう、IとU(YOU)でイス。つまり「私」と「あなた」ってことなんでイス』
へえ~。
そういう意味が隠されていたんだ。
これは盲点だった。
『昔、ヨーロッパのある心理学者が、等号付き不等号の≦と≧を用いて、心の中の重要度を表したんイス。ほら、欧米では等号付き不等号の等号部分は、日本みたいに二重線じゃなくて一本線なんでイスからね』
私は再び宙に向かって指を動かし、等号付き不等号を描いてみる。
――≦と≧。
何回も描いてみるうちに、それらはそれぞれアルファベットの「S」と「Z」に見えてくる。
「そうか! イス(ISU)はI≦U、イズ(IZU)はI≧Uってことなのね!」
『そうでイス。イスは「あなたが大事」、イズは「私が大事」って意味なんでイス』
ようやく分かった。イスとイズの意味が。
最初、私は蹴斗君のことばかり考えていた。
彼の好きな文学少女はどんな感じだろうとか、どんなおかずが好きなんだろうとか。
しかし試合の時の私は逆だった。
蹴斗君の痛みよりも、自分の都合を優先した。
恋に冬が訪れるのも当たり前だ。
私が犯した失敗。
それを誰かに罰して欲しいと願い続けてきた、あの日から。感想という鋭利な刃物で切り裂かれるように。
私はそんな場所を知っている。
だから私は、この一ヶ月という月日に全力を注いだ。イスに出会ってからのストーリーを文字にすることに。
「私ね、書いてみたの。イスと私の物語を」
『知ってるでイス』
「それでね、チミル企画ってところに投稿しようと思うの」
さぞかし辛辣な感想が寄せられるだろう。
でもそれでいいのだ。私はそれだけのことをしたのだから。
『その先を言っちゃうのでイスか?』
「うん。だって、もう、お別れだから」
思えばイスは、一年前、私がこの椅子に座るようになってからずっと私のことを見ていてくれたのかもしれない。
暑い日も寒い日も、風の強い日も雨の日も。
そう考えるとなんだか涙が出てきた。
でも今日という日が良いのだ。イスに大切なことを教えてもらった今日という日が。
「私忘れない。イスとイズの話」
『そう言ってくれると嬉しイス』
「そして弱い心に負けそうになったら、必ずあの日のことを思い出すの」
イスがイズになった日。
自分の都合のために、人を犠牲にしたあの日。
「本当はイスに止めて欲しかったんだけどなぁ。私の心がイズに染まりそうになった時」
普通のラノベだったらストップをかけてくれるところだろう。「本当にいいの?」って精霊に。
でもあの時、イスも一緒にイズになっていた。それどころか、悪の道へと煽っていた部分もあるんじゃないかと思う。
『無理でイス。だって、ボクとキミの心は一体でイスから。あの時も、そしてこれからも』
「うん、それを聞いて安心した。薄々感じていたけど、初めからそういうことだったのね。これで心残りなく最後のお願いを言うことができるわ」
私は深呼吸する。
そして瞳を閉じ、大理石の椅子の手触りを確認しながら三つ目の願いを口にした。
「蹴斗君が、イスと私の物語を読んでくれますように」
競作企画
2018年12月30日 21時51分57秒 公開
■この作品の著作権は競作企画さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
◆テーマ:冬のイズ
◆キャッチコピー:イスがイズに変わる時、恋に冬が訪れる
◆作者コメント:運営の皆様、このような機会を設けていただき感謝いたします。
最後まで読んでくれてありがとう。これが本当の私なんです。
2018年12月31日 20時34分52秒 ゴンザレス
「冬のイズ」を読了しましたので、感想を記します。
途中までは興味深く読んでいたのですが、唐突に終わってしまった印象です。
もっと良いラストがあったんじゃないでしょうか。残念です。
そう感じたのは、おそらく作品の持つイメージがハッピーエンドを連<続きを読む>
2019年1月1日 14時54分29秒 さくら
あけましておめでとうございます。
主人公がドキドキしているところが、なんか可愛かったんですが、イスとのお別れはどうなったんでしょうか?
なんかモヤモヤします。もうちょっと説明が欲しかったと思い<続きを読む>
2019年1月4日 21時44分31秒 猪次郎
なんか、かったるかった。展開もテンプレだし。
イスの語り口もウザい。
もうちょっと工夫が欲しかったです。
どのように改稿したら良いかというと、一つの案としてイスの口調を普<続きを読む>
2019年1月10日 22時36分33秒 首藤蹴斗
冬のイズ、読まさせていただきました。
今でもサッカーおむすび、食べたいです。
明日の昼休みに、中庭に行ってみます。
◇
昼休み、大理石の椅子に座った来栖は、膝の上に本を置く。
今日は一月にしては天気がよく、風もないので最高の読書日和だ。それは同時に、最高のお弁当日和だったりする。
一応、来栖は蹴斗のためにサッカーおむすびを作ってきた。別に無駄になってもよいという奉仕の気持ちで。
「あー、今日は本当にいい天気ね」
楠の木漏れ日を見上げながら、大きく伸びをする来栖。
なんとも清々しい気分。こんなにも平穏な気持ちでこの椅子に座るのはいつぶりだろう。
昨晩、「首藤蹴斗」を名乗る人物が、チミル企画に投稿した来栖の作品にコメントを寄せてくれた。もし彼が本物の蹴斗だったら、これから中庭に訪れるはずだ。
もし、一緒におむすびを食べることができたらハッピーな展開。しかし、逆に作品を書いたことを咎められる可能性だってある。彼が怪我をしたことについて、ファンの女子に罵られるという最悪のパターンだって考えておかなくてはならない。さらに、あのコメント自体が嘘で、別の誰かのいたずらだったということだってあり得る。
いずれにせよ、何かを期待したり恐れたりすることは無駄なのだ。
来栖はできることをやった。
嬉しいことも、恥ずかしいことも、すべてを作品としてさらけ出した。
あとは運を天に任せるしかない。
「イス。今の私の気持ちって、イスでもイズでもないよね?」
大理石の椅子の精霊に教えてもらったISUとIZUの話。
今の来栖の気持ちを記号にすれば、I=Uと表現されるかもしれない。
そんなことを尋ねてみても、答えてくれる精霊はもう登場することはないのだ。三つ目の願い事を告げてしまったのだから。
「こんにちは、倉科さん」
不意に声を掛けられ振り向くと、そこには杖をつく蹴斗が立っていた。
「あわわわ、首藤君。今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ、勝手なお願いをしてゴメン」
いざ蹴斗を目の前にすると、来栖の心はあっけなく揺れ動く。
イスでもイズでもどちらでもないなんて、イスが聞いたら笑われそうなくらい。
「ちょっ、ちょっと待って。ここにはこの大理石の椅子しかないんだけど、えっと、どうしよう……」
「大丈夫だよ。ほら、この杖は椅子にもなるから」
そう言いながら蹴斗は杖を変形させる。簡易的な椅子に。道理で杖がごつくて、ヘンテコな形をしていたわけだ。
「便利な杖ね。じゃあ、今お弁当を準備するから待って……」
向かい合って椅子に座ると、来栖はお弁当を膝の上に広げた。サッカーおむすびが露わになると蹴斗が声を上げる。
「これだよ、これ。二階からこのおむすびがチラチラ見えて、気になっていたんだ。いい? いただいても」
「もちろん」
どうやら蹴斗は、文句を言いに来たようではなさそうだ。
来栖はほっと胸をなでおろす。
「うんうん。形もいいけど、味もいいね。もう一つもらってもいい?」
「どうぞどうぞ。もっと沢山食べてもいいよ」
美味しそうにおむすびを頬張る彼の表情を見ていると、これからもずっと作ってあげたいという気持ちが溢れてくる。
これが「イス」ってことなのかな?
来栖はイスとイズの話を思い出して切に願う。この気持ちがイズに変わりませんようにと。
「あの小説、興味深かった。この椅子と読書感想文が結びついているなんて知らなかったから。だけど……」
蹴斗の表情が曇る。
やはりいいことばかりではない。
でもこれは想定されたこと。イスの気持ちを忘れなければいいと、来栖は蹴斗の瞳を見る。
「俺の怪我のこと、あんな風に書かれると迷惑かな。正々堂々と戦ってる俺たちに失礼だぜ」
「うん、わかった。ごめんね……」
「だから怪我に関して君は悪くない。それだけ、言いたかったんだ」
「うん。ありがとう……」
すると蹴斗は照れたように楠を見上げる。
「あー、ホントに今日はいい天気だな」
なにか一仕事やり終えたかのように。
もしかしたら蹴斗も緊張していたのかもしれない。それを証明するかのごとく、木漏れ日は笑顔に変わる彼の表情を照らし出していた。
「というか、あのサイトの感想ってすごいね。みんな言いたいことズバズバ書いてて、びっくりしたよ」
「あのサイトってチミル企画?」
「あれ、チミル企画っていうのか。確かに血見るって感じだよね」
「ホント、ホント。私の作品の感想もすごいもん」
そう言って二人で笑い合う。
「でもね、今回作品を投稿してみてわかったことがあるの」
「それは?」
「どんな辛辣な感想にもちゃんと理由があるし、それにね、たった一つの感想によって救われることもあるんだってこと」
蹴斗は書いてくれた。
来栖の作品にコメントを。
それがどれだけ来栖の心の支えになったかわからない。
蹴斗だって、どれだけ勇気が必要だったかわからない。
「まあ、俺も気になったからな。というか、君はすごいね。その辛辣な感想をまとめて、読書感想文コンテストに応募しちゃうんだから」
そう、来栖はある作戦を実行していた。
チミル企画に投稿した彼女の作品『冬のイズ』に寄せられた感想を、校内読書感想文コンテストにまとめて提出していたのだ。「さあ、これが私の小説に寄せられた感想です」と煽り文句を付けて。
確かにそれは感想文。自分で書いたものではないけれど。
他人が書いた文章でコンテストに参加するというのは常識的に問題のある行為であったが、感想を含めて著者が著作権を有するというチミル企画の盲点を突いた来栖の奇策であった。
コンテスト用感想文の提出日は、新年が始まって最初の登校日の一月八日。
生徒閲覧のために感想文が校内に即日掲示されると、来栖の作品は発想の斬新さゆえに注目を浴びる。他の生徒の感想文は、他人が執筆した小説に生徒自身が感想を書いたものだったが、来栖のところだけ、生徒自身が執筆した小説に寄せられた感想文が掲示されているのだから。
「おいおい、こんな辛辣な感想が寄せられるって、一体どんな小説を書いたんだよ!?」
チミル企画の『冬のイズ』は、あっという間に校内で噂になる。当然、当事者の蹴斗の耳にも届くこととなった。
「まさに俺たち、公開処刑状態だよ。どんな重要な試合にだって緊張したことがなかった俺がこのザマだ」
簡易的な椅子に座っているためなのか、蹴斗の足は小刻みにカタカタと震えていた。
周囲を見渡すと、校舎の窓という窓から生徒が顔を出して中庭の二人の様子を伺っている。
「あら、私は全然平気よ」
だって来栖は、楠の下の大理石の椅子のお姫様なのだから。
暑い日も寒い日も、雨の日も風の日もずっと生徒の目に晒されてきた。この場所は、来栖のホームグラウンドなのだ。
ここでなら校内のどんな女子にも勝てる。来栖には確かな自信があった。
「お弁当も食べたし、小説の話もできた。後は君がこれを受け取ってくれたら、俺はすぐに立ち去ろうと思う」
そう言いながら蹴斗は、ポケットの中から白いかけらを取り出す。
それはあの日、来栖が地面に投げつけた大理石のかけらだった。
「それって……」
「見つけたんだ。君が試合を観ていた場所で」
ええっ!?
一瞬驚いた来栖だったが、かけらを差し出す蹴斗の笑顔で理解する。あの日、試合に出ていた蹴斗は、ちゃんと来栖のことを見ていてくれたのだと。
嬉しくて、嬉しくて、思わず涙が頬をつたってきた。
「おいおい、彼女振られたぜ」
「やっぱりダメだったのね……」
「なんとかしてやれよ、蹴斗!」
ざわつき始める校舎。
「まいったな……」
立ち上がり、ポリポリと頭をかく蹴斗は来栖に語りかける。大理石を受け取り、涙を流しながら石を見つめる彼女に。
「嬉しかったんだ。試合を観に来てくれて。だって君は、本にしか興味がない人だと思ってたから」
来栖は言いたかった。本にしか興味がないわけではない。蹴斗に興味があったから本を読んでいたのだ<と。
でもそれは『冬のイズ』に書いたし、蹴斗もそのことを読んでくれている。
「まずは友達からでいいか?」
蹴斗は恥ずかしそうに手を差し伸べる。涙を拭い、顔を上げる来栖に向かって。
「うん!」
来栖は両手でその手を握り返した。
「蹴斗君の手って温かい……」
すると冬の昼休みの中庭は、盛大な歓声(ちょっと悲鳴)に包まれたのであった。
ライトノベル作法研究所 2018―2019冬企画
テーマ:『冬の〇〇』
――中庭の大きな楠の下に静かに佇む白い大理石の椅子。
この椅子に座って百冊目の本を読み終えた時、三つの願いが叶うという。
「ぴったりじゃん、その伝説、読書好きの私に!」
入学式の日に伝説の噂を聞いた倉科来栖(くらしな くるす)は、これから始まる高校生活に胸を踊らせる。
が、彼女は知らなかったのだ。
大理石の椅子に座ることができるのは、校内でたった一名であることを。
毎年一月に行われる校内読書感想文コンテストの優勝者。
その人のみが、大理石の椅子に腰掛けて読書することができる。
「一月ってなによ。そんなの一年生には無理じゃん……」
入学して一週間。
中庭の椅子の伝説について調べ尽くした来栖は、大理石の椅子に腰掛けるための条件を知って落胆した。四月に入学したばかりの新入生にとって、コンテストは遥か先、九ヶ月後の出来事なのだ。それまでの間、一年生は誰一人として中庭の大理石の椅子に座ることはできない。
「どうりで、いつも同じ人だったのね。あの椅子に座っているのは……」
長い黒髪、メガネの似合う上級生。
教室の窓から昼休みの中庭を眺める来栖の瞳は、本を読む彼女の姿を羨望を込めて映し出していた。
「あーあ、私もあの椅子に座って本を読みたいなぁ……」
文学少女なら誰もが抱く(と来栖は思っている)願望。来栖はへこたれない。
昼休みの中庭を眺め、椅子への憧れを強くするたびに、読書感想文コンテスト優勝への想いを募らせていった。それを支えているのは、文学少女には珍しく超ポジティブな思考。
「もしかしたら、逆にチャンスかもよ……」
例えば、コンテストが五月にあったとしよう。
それならば新入生も参加できる。が、四月に入学したばかりの一年生にとっては準備期間がわずかしかない。
これでは圧倒的に不利だ。上級生が勝利するのは間違いない。
でも、九ヶ月後だったらどうだろう?
一年生にも十分な準備時間が与えられるし、受験で忙しい三年生はほとんど参加しないはず。となると、そこで繰り広げられるのは一年生と二年生のガチバトル。一年生にだって勝機は十分ある。
「それなら、今、私がやるべき事は……」
来栖はスマホを取り出して、ネット検索を開始した。
キーワードは『小説』と『感想文』。
今のうちに感想文スキルを上げようというのが、彼女の魂胆だった。
しかし、検索に引っかかるのは「楽して読書感想文を書く方法」とか「歴代の読書感想文コンテスト優勝作品」とか、そんなサイトばかり。
「ダメダメ、こんな月並みな感想では。もっともっと、審査員の教師や全校生徒の心を鋭くえぐるような、尖った感想を書けるようにならなくちゃ!」
校内コンテストで優勝するためなら、これくらいは当たり前だろう。人と同じ感想文では皆の目には止まらない。
ちなみに木等暦高校の読書感想文コンテストは、五人の審査員による投票(一人分の持ち点は百点)と約千人の全校生徒の投票(一人一点)によって決まる。生徒による投票率が一、二割に留まっている現状では、優勝者は実質、審査員の投票によって決まると言っても良いだろう。
そこで来栖は付け加えた。検索ワードに『鋭い感想』や『厳しい感想』といった内容を。
すると、とあるサイトが彼女の目に止まったのだ。
「こ、これは!?」
――チミル企画。
可愛らしい感じの名前。その響きについ惹かれてしまう。
なんでも小説の競作サイトで、いろいろな人から感想が寄せられるところらしい。
しかし、サイトの評価についての検索結果には、恐るべき名前の由来が記してあった。
――厳しい感想がウリ。生半可な作品を投稿すると血を見るので、そう呼ばれている。
「血を見るからチミルって、一体どんな感想が寄せられてるのよ……」
逆にすっかり興味を持ってしまった来栖は、その年の冬に行われたイベントのサイトを覗いてみる。そこには『ちっちゃな異能』というテーマで投稿された作品が並び、作品に寄せられた感想の数が表示されていた。
「どれどれ……」
リンクをクリックすると作品が表示される。そして来栖は寄せられた感想に目を通して驚いた。
そこには本当に辛辣な感想が並んでいたのだ。
『冒頭が冗長でつまらない。これでは読者が最後まで読んでくれない』
『中盤の展開がなんか変。主人公の気持ちを考えると、こんな展開にはならないはず』
『ラストが納得いかない。作者はこの作品を通して何が言いたいのか』
「うわぁ、これってマジ……?」
それは来栖にとって驚愕の光景だった。
なぜなら、読書感想文についての彼女の概念を根底から覆すものだったから。
――読書感想文とは、作品リスペクトの上に構築されるもの。
中学校までの国語の授業を通して、来栖はそう理解していた。授業で扱われている文学作品だって、「主人公の気持ちは?」とか「作者が目的としていることは?」と聞かれることはあっても、「この作品のダメなところは?」という問いはなかった。先生もそんな指摘はしないし、作品批評に対する答えも教えてくれない。
「でも、こういう視点が重要かも……」
さすがに、読書感想文コンテストの本番で作品をディスるのは不適切だろう。
しかし、著名な文学作品とて時代の波についていくのは難しいはず。その時代に合わなくなった部分を、高校生というフレッシュな視点で指摘してみればいいのだ。このチミル企画のように。
その指摘が皆をハッとさせるものであれば、かなりポイントを稼げるに違いない。逆に、今の時代にも通用する部分があれば、それはきっと人間の本質を突いた部分であり、作品を書いた作者の意図を浮き彫りにできる可能性がある。
「なんか燃えるわね。よっしゃ、このサイトで感想書きを鍛えてみるか」
来栖は早速、チミル企画のゴールデンウィーク祭りに参加してみることにした。
チミル企画のイベントは、年に三回行われていた。
――ゴールデンウィーク祭り、お盆祭り、年末年始祭り。
イベントの度に寄せられる作品のテーマが異なり、しかも力作揃いで純粋に作品を楽しむこともできる。
そして驚いたのが、寄せられる感想の質の高さだ。
確かに、「血見る企画」と異名をとるだけあって、辛辣な言葉から始まる感想は多い。しかし、その主張の根拠となる部分が、どの感想にも丁寧に書かれているのだ。これは作品をしっかりと読み込まないとできないことだった。
「すごい、すごい……」
ゴールデンウィーク祭りでは、二、三の作品にちょこっと感想を書いただけの来栖だったが、お盆祭りでは作品をじっくりと読み込んでみようと決意した。
お盆祭りが始まると、来栖は感想が集まりだした作品からじっくりと読んでみることにした。感想が多い作品ほど、感想の書き方の勉強になるからだ。
そして寄せられてくる感想を読んで、来栖は不思議な共感を覚える。
「あれ? この人の感想、私が感じたことと一緒だ」
作品を読んでいる時に覚えた違和感。来栖はそれをなんとなく感じただけであったが、別の人からは解説が付け加えられていたのだ。そこには違和感の原因について、丁寧な分析結果が記してある。
「そうか。だからあの部分、私も違和感を覚えたんだ……」
これは非常に勉強になる。
違和感は、ぼやっと抱くだけではダメなんだ。
肩透かしを食らった部分は、それなりの理由が存在しているんだ。
それをちゃんと文字にすることができれば!
感じたことをしっかりと表現できれば、読書感想文コンテストの優勝はぐっと私に近づくはず!
そしてそのやり方は、このチミル企画の感想にぎっしりと詰まっている。
来栖は宝の山を見つけたような気がした。そして作品を次々を読み込んでいく。作品をちゃんと読まなければ、他の感想人と意見を共有することはできない。
来栖は感想も書いてみた。
自分が抱いた感動や違和感と向き合って。
なぜそんな感情が生まれたのか、自分なりの分析を行いながら。
ある時は、他の方の感想を参考にしながら。ある時は、他の方の感想とは違う部分を意識しながら。
――他の方とは違った感想。
これは読書感想文コンテストにおいて重要な部分だ。他の生徒と同じ感想文を書いていては優勝できないことは明白だから。
優勝するためには、自分独自の感想を持つことも必要なのだ。それが鋭利な刃物になるか、鈍器になるかは書き方次第。鋭利な刃物にする方法は、チミル企画が教えてくれる。
こうして感想を書いているうちに、来栖はあることに気がついた。
それは、寄せられる感想が、ある一つのマナーに沿って書かれていること。
――作品はディスるが、作者はディスらない。
このマナーは、来栖が思い描いていた理想的な読書感想文のイメージとピタリ一致していた。
ゴールデンウィーク祭り、お盆祭り、年末年始祭り。
チミル企画のイベントで着々と感想書きの技術を磨いた来栖は、一月に開始される校内読書感想文コンテストに参加する。そして先生方による審査員部門で一位(二三五点)、そして校内投票においても一位(三七点)を獲得し、見事総合優勝を果たしたのであった。
◇
『冬のイズ』
「あー、やっと、やっと百冊目を読み終わったわ!」
私は手にしていた本を制服の膝の上に置くと、大理石の椅子に座ったまま楠の木漏れ日に向かって両手を高く突き上げ、込み上げる充実感を満喫するように大きく伸びをした。
――三つの願いが叶うという、中庭の椅子伝説。
馬鹿げた噂と一蹴する友人が多い中、私は愚直にも高校生活をその伝説に捧げてきた。
一年生の時は読書感想文の特訓、そして一月の校内読書感想文コンテストで見事優勝を果たす。
しかし、大理石の椅子に座る権利を得てからが大変だった。
『中庭の大理石の椅子に座って百冊目の本を読み終わった時、三つの願いが叶う』
私が持っている情報は、たったそれだけだったから。これではあまりにも少なすぎる。
読む本って、ハードカバーオンリーってことはないよね?
通学の電車や自宅で続きを読んじゃダメなの?
同人誌は? ネット小説は?? 漫画は???
知りたいことが沢山あった。でもその真相を知っているのは、歴代の校内読書感想文コンテストの優勝者だけ。
「あのう、先輩。三つの願いを叶えるための条件について、詳しく教えて欲しいんですけど……」
「あら? あなたはそんなことの為に、読書感想文コンテストに応募したのかしら?」
ニヤリと含み笑いを隠しつつ、誰も私に詳細を教えようとしない。
あれって絶対知ってる顔だ――と確信するものの、知らないと言い張る先輩方に詰め寄るわけにもいかない。
仕方がないので、私はなるべく薄い文庫本を百冊選び、通学や自宅で続きを読むことはせず、大理石の椅子だけで読破することを決意した。
しかしここから私は、新たな問題に直面する。
仮にも私は校内読書感想文コンテストの優勝者。全生徒から注目される、大理石の椅子に座る資格を得た文学少女なのだ。
校内のインテリジェンスを象徴する楠の下の椅子のお姫様が、薄い文庫本をペラペラと高速でめくっていては格好がつかないというもの。
だから私は、ハードカバーを読んでいるように見せることができる薄い文庫本用の便利グッズを(泣きたいほど高価だったけど)購入した。そして大理石の椅子に姿勢良く座り、そよ風に誘われるようにページをめくって、見かけだけは優雅な文学少女を装うことにした。
問題はこれだけではなかった。
冬の寒さ、夏の暑さ、そして雨や風。特に、冷えた大理石に座る厳しさは想像を絶するものがある。
だから、冬の間の読書は天気の良い昼休みだけにして、春になって暖かくなると放課後も中庭の椅子に座って本を読むことにした。もちろん部活なんてやっている余裕はない。
こうして私が百冊目を読み終わったのは、秋も十月の半ばを過ぎた頃だった。
『おめでとう、ござまイス!』
出てきた、出てきた、なんか出てきたよ。
予想とちょっと違っていたのでさすがの私も驚いたが、盛大な伸びの途中だったこともあり気にしないふりをして声に耳だけ傾ける。
『あれ? 驚かないんイスか?』
「疲れちゃったのよ。中庭の椅子で百冊の本って、どんだけハードル高いんだか」
声の主が現れた、ということは、私の百冊チャレンジが成功したという証拠だ。
私はついに勝ったのだ。清楚な文学少女を装い、部活を楽しむこともせず、高校生活を賭けた一か八かの挑戦に。
「それに私は驚かないわ。だって今まで読んだ本のほとんどが、こんな展開だったもの」
そう、私はずっとライトノベルを読んでいた。しかも精霊が登場するファンタジー系。
その中に出てくる願いは大抵三つで、なんとかの精霊が出てきて順番に一つずつ叶えてくれる。だから私は、百冊目の本を読み終わった時に、どんな精霊が登場するのだろうと期待を込めて心の準備を整えていた。
『つまらなイス。もっと驚いて欲しイス』
「ていうかあんた、実体はないの?」
キョロキョロと私は声のする方に首を向ける。しかし、猫っぽい容姿をしているとか、天使っぽく羽ばたいているとか、そんな精霊の姿はどこにも見当たらなかった。
『「あんた」って、そんな言い方はなイスよ、校内一の大精霊「イス」様に向かって』
校内一? 大精霊にしてはなんかスケールちっちゃくない?
それに名前が「イス」ってのも、ずいぶん安価なネーミングね。
でも、ここで大精霊様のご機嫌を損ねるとすべてが台無しになってしまう可能性がある。それはヤバい。
「大変申し訳御座いませんでした。大精霊イス殿」
椅子から立ち上がった私は、ゆっくりと回れ右をして椅子に向き直る。両手でスカートの裾をつまむと、静々と厳かに椅子の前に跪いた。精霊の名前や言葉づかいから判断して、椅子の精霊に違いない。
「どうか、私めの願いを叶えて下さいまし」
深々と頭を下げると、椅子の方から声がする。
『うむ、分かったイス。キミの願いは聞き入れたイス。ではこれから残りの二つの願いを叶えるために、魔王退治に出陣するのイス!』
ええっ、魔王退治? それに一つ目の願いなんて言ったっけ?
もしかして、「願いを叶えて下さい」と言ったのが一つ目としてカウントされたとか? そんなことで願いを消費されるのは納得がいかない!
これは詐欺だ。消費者省に訴えてやる。精霊が出てきたところからやり直せ!!
私が顔を真っ赤にすると、声の主がクスクスと笑い出した。
『やっと驚いてくれたイス。嬉しイス、魔王退治なんて嘘イス』
なんだって!?
魔王退治のところを疑わなかったとは、なんたる失態。ただのラノベの読みすぎじゃん。
それにしても大精霊らしからぬ嘘発言に、私はカチンとくる。
「文学少女をなめとんか。今すぐゲロ吐いて大理石に胃液ブチまけたろか!?」
『ごめんなさイス、ごめんなさイス。謝るから胃液だけはやめて、溶けちゃイスから……」
あら、私としたことがはしたない。
でもこれで、声の主が大理石の椅子であることが判明した。大理石の敵は胃液とラノベにも書いてあった。
というか、校内一を語るにしては意外とチキンな大精霊じゃないのよ。
一気に親近感が増してしまった私は、椅子に向かって優しく語りかける。
「こちらもごめんなさい。私、こういう体験は初めてなの。あなた、この大理石の椅子の精霊さんよね?」
『そうイス。名前も「イス」って言うイス。よろしくお願イス』
まあ、ありがちな展開ね。
というか、テンプレートそのままかしら。
「こちらこそよろしく、イス。それで早速一つ目のお願いなんだけど……」
『ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってイス』
願いを切り出す私にイスが待ったをかける。
まさか、その前に魔王退治なんて言い出すんじゃあるまい。
『もっとよく考えて欲しイス。もし願い事が一つだけだったら、どうするんイスか? それに胃液はやめてくれイス』
口に指を突っ込んでゲロ準備していた私をイスが諭す。
「でも三つなんでしょ?」
そういう伝説って聞いているんだから、今更違うとは言わせない。
それにさっき、二つ以上あるようなこと言ってたよね。
『まあ、そうなんイスけど……』
「じゃあいいじゃない。早速一つ目を叶えてよ」
『えっと、願い事には制限があるんイス。まずそれを説明しなイスと……』
制限か……。
まあ、これは当たり前かも。
最初に「願いは無限に」という願いを叶えてもらったら、あとはやりたい放題だもんね。
「それはどんな制限?」
『校内限定でイス』
校内限定? なんてちっぽけな。
「じゃあ、世界平和を願おうとしていた私はどうなるの?」
嘘だけど。
『校内平和なら可能でイス。ふむふむ、最初の願いは「校内平和」――でイスね』
「ちょちょ、ちょっと待てやコラっ!」
『だから胃液はダメでイス!』
危ないところだった。
最初の願いが校内平和になったら、一生後悔し続けるところだった。
「まあ、校内限定が仕様ってことなら仕方ないわね。でも問題ないわ。私の願いは、二年四組の首藤蹴斗(しゅとう しゅうと)君に振り向いてもらうことだから」
首藤蹴斗君。
サッカー部のエースストライカーだ。
長身のイケメンで、元スペイン代表のフェルナンドウとかいう人とそっくり。
私は今回の三つの願いを駆使して、彼といい仲になりたいと考えていた。
『残念ながら、その願いはダメでイス。実はもう一つ制限がありまイスて、叶えられる願いは椅子に関することだけなんイス』
「マジ?」
ここに来てまさかの椅子縛り。
だったら早く言ってよ。願いが椅子に関することだけって知っていたら、こんな風に青春を無駄にすることはなかったかもしれない。
呆れた私は、完全に脱力した。
「他に制限はないの? この際だから全部言っちゃってよ」
『法律や常識の範囲内ってのはありまイスけど、基本的には「校内限定」と「椅子関連」の二つイス』
「椅子縛りってあんた変態? 初めて聞いたわ」
少なくとも、今まで読んだラノベにそんな記述はない。
『椅子の精霊でイスから』
「じゃあ、蹴斗君のことはどうするのよ?」
『それは自分で考えて欲しイス』
「全く使えない精霊様ね……」
私は大理石の椅子に手を当て、椅子が鎮座する中庭の芝生を見ながら考える。
思えば私はずっと、椅子の前に跪いたままだった。
「椅子に関連した願いで、蹴斗君を振り向かせる内容とは……」
そんな願いってあるのだろうか……?
その時、私は思い出した。
この椅子に座る資格を持っている校内で唯一の生徒は、誰なのかということを。
「蹴斗君が毎日、この大理石の椅子のことを見てくれますように。ってのは?」
別に、最初から蹴斗君に自分を好きになってもらおうとは思わない。
まずは私のことを気にかけてくれればいいのだ。
それならば、この大理石の椅子を毎日見てくれればいい。そこに座る資格を持っているのは校内で私だけなのだから。蹴斗君がこの椅子を見る。それはイコール、私のことを見てくれることになる。
『大丈夫でイスよ。一つ目の願いはそれでいイスか?』
「いいっス!」
我ながらのナイスアイディアにイスと同じような口調になってしまったが、こうして私は一つ目の願いをイスに託したのであった。
◯
「あー、ドキドキする……」
次の日、私の心臓は朝から高鳴りっぱなしだった。
――今日は蹴斗君が私のことを見てくれる。
正確には「大理石の椅子を」だけど。
イスがちゃんと願いを叶えてくれているのかという点も疑問だけど、そんなことを気にしている余裕は私にはなかった。
「枝毛が目立たないといいけどなぁ……」
昨日は学校帰りに新しいシャンプー、コンディショナー、トリートメントを買ってきた。なるべく髪がサラサラに見える高級なやつを。そしてお風呂では念入りに、自慢のセミロングの黒髪の手入れを行ったのだ。
蹴斗君の二年四組の教室は二階にある。そこから中庭を見下ろすと、楠の脇から私の後頭部が見える位置関係だ。だから髪の印象が最も重要になる。
朝は時間をかけてブラッシング。やっとのことで風にそよぐナチュラルヘアが完成した。そして新しく買った本を手に私は家を出る。もちろんハードカバーの文学少女っぽいやつだ。
本選びも大変だった。
まずは見た目重視。大理石の椅子に座った時に一番見栄えがする本を選ぶ。カバーは白を基調としたシンプルなもの、カバーを外した時の本の様子も確認した。中身はほとんど確認しなかったけど、たまには変わった本を読んでみるのも面白い。
一瞬、英語の本なんてオシャレかなと思ったけど、二階から英文が見えて「なに、このインテリぶった女」とドン引きされると逆効果だ。あくまでも蹴斗君は椅子を見てくれるのであって、私に興味があるのではない。
昼休みになると、私の緊張はマックスに達していた。
いつもの中庭での読書なのに、心臓のドキドキが止まらない。校舎からの生徒の視線なんて今までは全然気にならなかったのに。
大理石の椅子の前に立つと、力を込めて椅子を押して少しだけ向きを変える。二年四組の教室から私の右側の顔がチラリと見えるシチュエーションにするためだ。どちらかというと、私は右側の表情に自信があった。
そしてクッションを敷いて、ゆっくりと椅子に腰掛ける。
姿勢を正し、制服のスカートの膝の上に昨日買った白い本を置く。両手で本を持ち、最初のページをめくった――が、内容は全く頭の中に入ってこなかった。
頭の中は、余計な思考がグルグルと勝手に回り始めている。
右側の顔が見えるようにしたんだから、髪を結んできた方がよかったんじゃないの?
いやいや、昨晩は念入りに髪の手入れをしたんだから、結ばないのが正解でしょ?
どちらにせよ昨日までとは全然違う私なんだから、それを分かってくれるといいな……。
するとイスの声が聞こえてきた。
『ほら、蹴斗君が見てるイス』
えっ、どれどれ? と校舎を見上げたいのをぐっとこらえる。
もし蹴斗君と目が合ったらどうすんのよ。
それこそパニックだし、変な表情をして自意識過剰と思われたらマイナスだし……。
私は必死に平静を装い、小声でイスに語りかける。
「まだ見てる?」
『うーん、また弁当を食べ始めちゃったみたイス』
ということは、窓際の席で弁当を食べてるってことなのかな?
そもそも席が窓際なのかもしれないし。まあ、そんなことはどうでもいい。授業中に私がこの椅子に座ることはないのだし、昼休みに蹴斗君が窓際にいるという事実だけが重要なんだ。
そこで私はふと思いつく。
明日からこの椅子でお弁当を食べればいいんじゃないか――と。
昨日までの私は、百冊の本を読破するため必死になっていた。三時間目と四時間目の間に早弁して、昼休みのすべての時間を読書に費やしていた。
でももう、そんな努力はしなくてもよい。すでに百冊を読み終わって、精霊イスが登場したのだから。
もし、教室から見下ろして美味しそうなおかずがチラリと見えたら、蹴斗君はもっと私に興味を抱いてくれるかも。
ところで蹴斗君はどんなおかずが好きなんだろう?
サッカー部で男の子だから、やっぱミートボール?
だったら美味しそうなミートボールが入ったお弁当を作って来ようかな?
でも、女の子のお弁当にミートボールばっかってのもヤバいから、やっぱミートボールは一個? それよりもサッカーボールおむすびってのもいいんじゃない? 海苔を上手く切ってサッカーボールみたくして。そしたらいつの間にか蹴斗君が隣にやって来て、「それ、俺にも分けてくれよ」って言ってくれたりして……。
暴走する妄想に、思わずニンマリしてしまう。
しかし、その時イスに掛けられた言葉で、私は一瞬で素に戻った。
『素敵イス、その表情。蹴斗君もチラリと見て、ほっこりしてたイス』
マジ?
見られた?
妄想に浸るこの表情を。
『ボクと出会った女の子たちはみんな、そんな感じだったイス。気になる異性に対して、いろんな表情を作ってたイス』
イスに出会った女の子というと、校内読書感想文コンテストで優勝した先輩方だ。
なんだ、みんな百冊の本を読破して、イスに願いを叶えてもらってんじゃないの。
『クスリと笑顔を見せたい女の子は、ライトノベルが多かったイス。中には、シェイクスピアのカバーでごんぎつねを読んでた女の子もいたイス。あれは素敵な涙だったイス』
ごんぎつねはヤバいわ。
あんなピュアな涙を見せられたら男子はイチコロかもね。
ていうか、涙を流すなら別にシェイクスピアでもよくね?
「先輩方はみんな頑張っていたのね」
『そうイス。今のキミのようにイス』
今の自分のように?
昨日までの自分はただ百冊を読むことばかりに夢中で、他の努力は全然して来なかったような気もする。
「それで、先輩方の想いは叶ったのかしら?』
『叶った人もイスるし、叶わなかった人もイスる』
「それって当たり前じゃない」
『そうでイス。一つ確実に言えるのは、どの女の子も素敵になったイス』
先輩方の願いも、みんな恋だったのかな?
恋が女性を綺麗にする、って昔から言われているけど、ようやく私もそれが分かったような気がする。椅子の伝説の願いが叶えば簡単に恋が手に入る――なんて軽率だった。人生、そんなに甘くない。
『気をつけなきゃいけないのは、イスがイズになることでイス』
「イスがイズ?」
『そう、心理学的な戒めで、こんな言葉があるのイス』
すると頭の中でエコーのように、イスの言葉が広がっていく。
『イスがイズに変わる時、恋に冬が訪れる』
「なに、その言葉?」
『キミの心がイズにとらわれてしまった時、詳しく解説してあげるイス』
私の心がイズにとらわれる?
なにそれ? イスがイズに変身するんじゃなくて? そもそもイズというのが、何のことなんだかわからないんだけど。
それにその時ってもう手遅れなんじゃないの? 恋に冬が訪れちゃってるんだから。
不満そうな顔をする私に、イスが忠告した。
『ほらほらそんな表情をしちゃダメでイス。蹴斗君が見てるイス』
ずるいよ、イス。
それに、本当に今、蹴斗君が見てるのかしら?
さすがにもうお弁当は食べ終わってるんじゃない?
校舎を振り返ることができないもどかしさに私は一人悶絶する。
仕方がないので一つ息を吸って呼吸を整え、読書(のふり)に戻ることにした。
翌日から私は、いろいろな事を試してみた。
髪を結んでみたり、結ばなかったり。
結ぶ時はポニーテールにしたり、三つ編みにしてみたり。
お弁当にミートボールを入れたり、サッカーおむすびにしてみたり。
そして一ヶ月後。
ついに私の夢が叶う瞬間がやってきた。
中庭でお弁当を食べる私のところに蹴斗君がやってきて、いきなり告げたのだ。
「初対面なのに突然勝手なこと言ってゴメン。そのサッカーおむすび、今度の日曜日の試合の後に食べてみたいんだ。いいかな?」
◯
「どうしよう、どうしよう。イス、どうしよう!」
日曜日の午前九時。
私は中庭の大理石の椅子に座って逡巡していた。
「試合は校庭で十時からでしょ? それを観に行った方がいいかな? それとも、約束の一時までここで待っていた方がいいかな?」
椅子の横には保冷バッグが置いてある。
蹴斗君のために、サッカーおむすびを大量に作ってきたのだ。
『何言ってるのイス。試合の後にお弁当を食べたいってことは、応援して欲しいって意味イス』
「やっぱそうかな、やっぱそうよね。でも私、サッカーの試合って観るの初めてなの。危なくない? それにルール分からなくても大丈夫?」
『だから、サッカーのルールブックを読んだらって言ったんイス。なのに格好つけて、ごんぎつねなんて読んでるからいけないんイス。自業自得でイス』
「だって、蹴斗君に私のピュアな涙をアピールしたかったんだもん……」
久しぶりに読んだごんぎつねはヤバかった。ごん、やっぱあんたは神だよ。
『約束の時間までまだ四時間もあるんイス。ずっとここで待ってるんイスか?』
それもなんだか時間がもったいない。
なんで応援に来なかったの、と聞かれる事態もやっぱり避けたい。
「じゃあ、応援に行ってくる」
『だったら、椅子の下に落ちている大理石のかけらを持っていくといイス。持っていれば、ボクとお話できるのイス』
私は言われる通り椅子の下を覗き込む。すると五センチくらいの白い大理石のかけらが落ちていた。
「ふーん、これね」
私は拾ったかけらを目の前にかざす。純白のかけらは、黒曜石のように先が尖っていた。
『そうでイス』
この声は、かけらの方から聞こえたような気がした。
私はお弁当を大理石の椅子の上に置き、大理石のかけらを持って校庭に向かう。この場所は楠の木陰になっているから、お弁当を校庭に持って行くよりは衛生面でも良いだろう。
校庭に着くと、選手たちがユニフォームごとに分かれて練習を始めていた。相手チームもすでに到着しているようだ。
蹴斗君は……、あっ、いたいた。
彼は長身だからすぐ分かる。
ゴール前の列の先頭にいる蹴斗君は、ボールを味方にパスし、小さく折り返されたボールを思いっきりゴールに蹴り込む。
「ナイス、シュート!」
私は小さく声を上げる。が、その声はすぐに黄色い声援に打ち消されてしまった。
「キャーッ、蹴斗君!」
「今日もゴール決めてね!」
見れば、十人くらいの女生徒がベンチ裏に陣取っていて、シュート練習を見学していた。その光景を目にした私は、ここに来たことを強く後悔する。
――オシャレな髪型で制服のスカートも短めの可愛らしい女子たち。
蹴斗君がシュートを放つ度に、スカートを揺らしながら飛び跳ねている。
あんな可愛らしい子たちに私が敵うわけないじゃない。
私のスカートは長め。だって短いスカートで椅子に座ったら下着が見えちゃうから。私のスカート丈は、大理石の椅子に姿勢良く座った時、膝小僧がちょうど隠れるくらいに調整していた。
所詮、私は座ってなんぼの文学少女。立ち姿ではあの子たちには歯が立たないし、今のこの状況に至っては場違い感半端ない。
だから私は、校庭の隅で隠れるようにして試合を見学することにした。
『ねえ、もっと近くで試合を観なくていイスか?』
「いいのよ、イス。ここが私のボジションなんだから」
それは嘘だった。
本当は、早くこの場から去りたい、早く私が居るべき中庭の椅子に戻りたい、そんな気持ちで一杯だった。
でもここに居なければ、蹴斗君の活躍を観ることができない。私は試合後の蹴斗君との会話のためだけに、仕方なく校庭の隅に立っていた。
幸い、蹴斗君は試合でとても目立っていた。私もつい試合に夢中になる。チームは彼にボールを集める。だからボールを触る回数も多く、誰よりも多くのシュートを放っていた。
「惜しい!」
「次頑張って、蹴斗君!」
彼がシュートを打つ度に、女子たちの声援が飛び交う。
不幸なことに、男子とは音域の異なるその黄色い音の波は、サッカー部員の掛け声にかき消されることなく私の耳にも届くのだ。
声援に対し、蹴斗君も手を上げて応えている。
そんな光景を目にするたびに、私はだんだんと不安になってきた。
『ほら、こちらも大きな声で応援しなくちゃでイス』
そしたら蹴斗君は私にも手を振ってくれるかな?
いやいや、この場で決してそんなことをするわけにはいかない。
「バカね、イス。そんなことしたらあの子たちに見られて、「なに、あのダサい女。ライバルのつもり? 応援する資格あるのかしら」って思われるのがオチよ」
それは恐い。それが回避できるなら、蹴斗君が私に手を振ってくれなくてもいい。
「蹴斗君、試合が終わったら本当に中庭に来てくれるのかしら?」
『そう言ってたでイスから、そうなんじゃなイスか』
「お願いだから、いい加減なこと言わないでよ!」
私はついイスに八つ当たりする。
『ボクだってちゃんと聞いたイス、彼の言葉を。そんなに疑うなら、二つ目の願いにしたらいイズら。蹴斗君が試合後に中庭の椅子のところに来ますようにって、そう願えばいイス』
確かにそうすれば、蹴斗君は確実に来てくれるだろう、試合の後、中庭へ。
でも蹴斗君はちゃんと私に告げたのだ。その時間にサッカーおむすびを食べに来ると。迷惑じゃないならお願いすると頭を下げて。そんな大事なこと、私が聞き間違えるはずがない。
それに、ここで二つ目のお願いを使うということは、彼の言葉を疑うということだ。好きな人の言葉を疑うなんて、私はそんなことをしたくない。
いやいや、もっと最悪なケースも考えられる。もし蹴斗君が試合後あの女子たちに誘われて、急に彼女たちと一緒にお昼を食べたくなってしまった時だ。彼は自分の意思に反し、二つ目のお願いによって中庭に来ざるを得なくなる。そんな状況で、美味しくおむすびを食べられるはずがない。
そうこう考えているうちにも、黄色い声援が容赦なく私の耳に飛んでくる。その声の力は、ぐるぐると私の思考を闇の底へと落とし込んでいった。
「ダメだ、ダメだ、こんなことじゃ。なにか素敵なシーンを、蹴斗君と私だけの特別なシーンを思い浮かべなくちゃ」
魔がさす、というのはこういうことを言うのだろう。
目を閉じて私が思い浮かべたのは、こんなシーンだった。
――白い病室、青い空。窓際に座って本を読む私の前で、蹴斗君がゆっくりと目を覚ます。
このシーンに、あの女子たちは似合わない。
私だからこそ、スカートが長くて姿勢の良い文学少女の私だから絵になる。
そして蹴斗君は私に恋をする。本を読みながら、静かに寄り添う私に。
『すごく良イズら、そのイメージ。ボクを握る手からビンビンと伝わってくるのが心地よイズらよ』
イスも賛同してくれた。やっぱり私って、こういうシーンの方が似合うんだ。
『どうするでイズら? そのイメージを二つ目の願いにしちゃえイズら』
「でも、どうやって?」
『キーワードを病室にすればいイズら。そうなることを願えばいイズらよ』
ええっ、それって……?
蹴斗君が怪我するってこと?
『大丈夫、気にすることはなイズら。サッカーに怪我は付き物なんでイズら』
「それはそうだけど……」
私は迷っていた。
願いは想いを叶えるもの。なのに人に不幸をもたらしても良いものだろうか。
その時だった。
グランドが割れんばかりに湧き上がったのは。
見ると蹴斗君がガッツポーズをしながらベンチの方へ走っている。
「ナイスシュート!」
「やったね、蹴斗君!」
「もう一点、お願いっ!」
女子たちの声援から判断して、どうやら蹴斗君がシュートを決めたようだ。
そしてベンチからグラウンドに戻る蹴斗君は、嬉しそうに飛び跳ねる女子たちに手を振った。
その光景に、私は自分の愚かさ悔いる。
彼女たちは見ていたのに、私は見ていなかった。
彼がシュートを決めるシーンを。
私は何のためにここに居たの? もし試合後に彼が中庭に来てくれたとしても、私は何を話せばいいの?
もう何がなんだかわからない。これからどんな選択をしても最悪の結果しか見えない。いっそのこと彼がこのグラウンドから消え去ってしまえばいい。
だから私は決意した。
「イス、お願いって椅子に関することだったら何でもいいんだよね?」
『何でもいイズら。ここは校内だから、制限は椅子だけになるんでイズら』
「じゃあ、今から二つ目のお願いをするわ」
私は唱える。試合再開の笛の音と同時に。
「蹴斗君が車椅子に乗ることになりますように」
『わかったでイズら』
イスが答えると私は目をつむる。
その瞬間は見たくない。たとえ私が望んだことだとしても。
なんて卑怯な女なんだろう。でも、こうするしかなかった。蹴斗君が試合後に中庭に来てくれても、来てくれなくても、私に訪れるのは地獄しかなかったから。
私の選択がさらなる地獄を招くとは、この時は思ってもみなかった。
「痛い、痛いっ!」
その時はあっけなくやってきた。
恐る恐る目を開けると、グランドの真ん中で蹴斗君が右足首を抑えてのたうち回っている。
『相手選手とヘディング争いで接触したでイズら。無理な体勢で足を着いたから、ありゃアキレス腱をやったに違いなイズら』
苦痛に顔を歪める蹴斗君。
その表情を見て、私は自分がしたことの愚かさに青ざめた。
『いイズらか、行かなくて。看病するチャンスでイズら』
そんなことできるわけがない。
あの怪我は私が願って起きたもの。
それはまるで、後ろからナイフで刺しておいて「大丈夫?」と声を掛けるようなものじゃない。
どうして私はあんなことを願ってしまったんだろう?
病室で涼しい顔をして寄り添うことができるなんて、どうして連想してしまったんだろう?
後悔が、後から後から押し寄せてくる。
ただ立ち尽くす私を、手の中のイスがイラついた口調で罵った。
『なんだ、自分の願いに責任持てないなんて情けなイズら。あーあ、オレ様の力が一つ無駄になったでイズら』
「うるさい、黙ってイス!」
やり場のない怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになった私は、大理石のかけらを地面に叩きつける。
そのかけらを見て私は驚いた。
「なに? これ……」
白いはずの大理石が、黒曜石のように真っ黒になっていた。
◯
それから一ヶ月近く、私は中庭の大理石の椅子には近寄らなかった。
蹴斗君に姿を見られたくなかったし、イスとも話したくなかった。
あの日、救急車で運ばれた蹴斗君はアキレス腱の縫合手術を行い、しばらく車椅子生活を送っていたという。その後、松葉杖を使って通学し、一ヶ月後にはなんとか歩けるようになったとクラスメートから聞いた。
そして学校が冬休みに入ったある日、私は久しぶりに中庭の大理石の椅子に座った。
イスに最後のお願いをするために。
「ねえ、イス。最後に教えて?」
すると耳に懐かしい声が響く。
『最後なのでイスか?』
それは試合の日に私を罵った声ではなく、以前と同じ穏やかな精霊イスの声だった。
「そうよ。今日が最後。別に今日じゃなくてもいいんだけど、ほら、年が明けたらすぐに読書感想文コンテストが始まるでしょ。私、優勝するつもりはないから、ここに座れるのもあとわずか。だから、最後のお願いをしようと思ってるの」
三つ目の願いを叶えた時、精霊は消えてしまう。
今まで読んだラノベがそう教えてくれた。
まあ、イスの場合、この大理石の椅子の精霊だから存在が消えるというわけではなく、私がイスの声を聞けなくなるというだけだと思うけど。
『毎度のことでイスが、ちょっぴり悲しイスね』
「私もよ」
しばらくの間、沈黙が漂う。
ほんの数ヶ月の間だったけど、イスと出会っていろいろなことがあった。
最初のお願いで蹴斗君がこの椅子を見るようになって、突然声をかけられ、そんでもって試合での大怪我。
後悔ばかりのラストだったけど、これを糧にして私という人間が成長できたら良いと思う。
「それでね、イスとお別れする前に、以前言ってたことを教えてほしいの」
『それってなんイスか?』
「ほら、言ってたじゃない。イスとイズがなんとかって」
『ああ、あれでイスね』
すると頭の中にいつかの言葉がエコーする。
『イスがイズに変わる時、恋に冬が訪れる』
「そうそう、それそれ」
『ちょっと説明が長くなるけど、いイスか?』
「いいよ。最後だもん」
私は楠を見上げると、大理石のイスの背もたれにゆっくりと体を預けた。
『あの言葉のイスとイズは、アルファベットで書くんでイス』
あれってアルファベットだったのね。
どうりでいくら考えてもわからないはずだ。
『イスはISU、そしてイズはIZUなんでイス』
私は声に従い、木漏れ日に向かって指を動かし文字をイメージする。
――ISUとIZU。
『この二つの言葉で、共通する文字はどれでイスか?』
「IとUね」
『そう、IとU(YOU)でイス。つまり「私」と「あなた」ってことなんでイス』
へえ~。
そういう意味が隠されていたんだ。
これは盲点だった。
『昔、ヨーロッパのある心理学者が、等号付き不等号の≦と≧を用いて、心の中の重要度を表したんイス。ほら、欧米では等号付き不等号の等号部分は、日本みたいに二重線じゃなくて一本線なんでイスからね』
私は再び宙に向かって指を動かし、等号付き不等号を描いてみる。
――≦と≧。
何回も描いてみるうちに、それらはそれぞれアルファベットの「S」と「Z」に見えてくる。
「そうか! イス(ISU)はI≦U、イズ(IZU)はI≧Uってことなのね!」
『そうでイス。イスは「あなたが大事」、イズは「私が大事」って意味なんでイス』
ようやく分かった。イスとイズの意味が。
最初、私は蹴斗君のことばかり考えていた。
彼の好きな文学少女はどんな感じだろうとか、どんなおかずが好きなんだろうとか。
しかし試合の時の私は逆だった。
蹴斗君の痛みよりも、自分の都合を優先した。
恋に冬が訪れるのも当たり前だ。
私が犯した失敗。
それを誰かに罰して欲しいと願い続けてきた、あの日から。感想という鋭利な刃物で切り裂かれるように。
私はそんな場所を知っている。
だから私は、この一ヶ月という月日に全力を注いだ。イスに出会ってからのストーリーを文字にすることに。
「私ね、書いてみたの。イスと私の物語を」
『知ってるでイス』
「それでね、チミル企画ってところに投稿しようと思うの」
さぞかし辛辣な感想が寄せられるだろう。
でもそれでいいのだ。私はそれだけのことをしたのだから。
『その先を言っちゃうのでイスか?』
「うん。だって、もう、お別れだから」
思えばイスは、一年前、私がこの椅子に座るようになってからずっと私のことを見ていてくれたのかもしれない。
暑い日も寒い日も、風の強い日も雨の日も。
そう考えるとなんだか涙が出てきた。
でも今日という日が良いのだ。イスに大切なことを教えてもらった今日という日が。
「私忘れない。イスとイズの話」
『そう言ってくれると嬉しイス』
「そして弱い心に負けそうになったら、必ずあの日のことを思い出すの」
イスがイズになった日。
自分の都合のために、人を犠牲にしたあの日。
「本当はイスに止めて欲しかったんだけどなぁ。私の心がイズに染まりそうになった時」
普通のラノベだったらストップをかけてくれるところだろう。「本当にいいの?」って精霊に。
でもあの時、イスも一緒にイズになっていた。それどころか、悪の道へと煽っていた部分もあるんじゃないかと思う。
『無理でイス。だって、ボクとキミの心は一体でイスから。あの時も、そしてこれからも』
「うん、それを聞いて安心した。薄々感じていたけど、初めからそういうことだったのね。これで心残りなく最後のお願いを言うことができるわ」
私は深呼吸する。
そして瞳を閉じ、大理石の椅子の手触りを確認しながら三つ目の願いを口にした。
「蹴斗君が、イスと私の物語を読んでくれますように」
競作企画
2018年12月30日 21時51分57秒 公開
■この作品の著作権は競作企画さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
◆テーマ:冬のイズ
◆キャッチコピー:イスがイズに変わる時、恋に冬が訪れる
◆作者コメント:運営の皆様、このような機会を設けていただき感謝いたします。
最後まで読んでくれてありがとう。これが本当の私なんです。
2018年12月31日 20時34分52秒 ゴンザレス
「冬のイズ」を読了しましたので、感想を記します。
途中までは興味深く読んでいたのですが、唐突に終わってしまった印象です。
もっと良いラストがあったんじゃないでしょうか。残念です。
そう感じたのは、おそらく作品の持つイメージがハッピーエンドを連<続きを読む>
2019年1月1日 14時54分29秒 さくら
あけましておめでとうございます。
主人公がドキドキしているところが、なんか可愛かったんですが、イスとのお別れはどうなったんでしょうか?
なんかモヤモヤします。もうちょっと説明が欲しかったと思い<続きを読む>
2019年1月4日 21時44分31秒 猪次郎
なんか、かったるかった。展開もテンプレだし。
イスの語り口もウザい。
もうちょっと工夫が欲しかったです。
どのように改稿したら良いかというと、一つの案としてイスの口調を普<続きを読む>
2019年1月10日 22時36分33秒 首藤蹴斗
冬のイズ、読まさせていただきました。
今でもサッカーおむすび、食べたいです。
明日の昼休みに、中庭に行ってみます。
◇
昼休み、大理石の椅子に座った来栖は、膝の上に本を置く。
今日は一月にしては天気がよく、風もないので最高の読書日和だ。それは同時に、最高のお弁当日和だったりする。
一応、来栖は蹴斗のためにサッカーおむすびを作ってきた。別に無駄になってもよいという奉仕の気持ちで。
「あー、今日は本当にいい天気ね」
楠の木漏れ日を見上げながら、大きく伸びをする来栖。
なんとも清々しい気分。こんなにも平穏な気持ちでこの椅子に座るのはいつぶりだろう。
昨晩、「首藤蹴斗」を名乗る人物が、チミル企画に投稿した来栖の作品にコメントを寄せてくれた。もし彼が本物の蹴斗だったら、これから中庭に訪れるはずだ。
もし、一緒におむすびを食べることができたらハッピーな展開。しかし、逆に作品を書いたことを咎められる可能性だってある。彼が怪我をしたことについて、ファンの女子に罵られるという最悪のパターンだって考えておかなくてはならない。さらに、あのコメント自体が嘘で、別の誰かのいたずらだったということだってあり得る。
いずれにせよ、何かを期待したり恐れたりすることは無駄なのだ。
来栖はできることをやった。
嬉しいことも、恥ずかしいことも、すべてを作品としてさらけ出した。
あとは運を天に任せるしかない。
「イス。今の私の気持ちって、イスでもイズでもないよね?」
大理石の椅子の精霊に教えてもらったISUとIZUの話。
今の来栖の気持ちを記号にすれば、I=Uと表現されるかもしれない。
そんなことを尋ねてみても、答えてくれる精霊はもう登場することはないのだ。三つ目の願い事を告げてしまったのだから。
「こんにちは、倉科さん」
不意に声を掛けられ振り向くと、そこには杖をつく蹴斗が立っていた。
「あわわわ、首藤君。今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ、勝手なお願いをしてゴメン」
いざ蹴斗を目の前にすると、来栖の心はあっけなく揺れ動く。
イスでもイズでもどちらでもないなんて、イスが聞いたら笑われそうなくらい。
「ちょっ、ちょっと待って。ここにはこの大理石の椅子しかないんだけど、えっと、どうしよう……」
「大丈夫だよ。ほら、この杖は椅子にもなるから」
そう言いながら蹴斗は杖を変形させる。簡易的な椅子に。道理で杖がごつくて、ヘンテコな形をしていたわけだ。
「便利な杖ね。じゃあ、今お弁当を準備するから待って……」
向かい合って椅子に座ると、来栖はお弁当を膝の上に広げた。サッカーおむすびが露わになると蹴斗が声を上げる。
「これだよ、これ。二階からこのおむすびがチラチラ見えて、気になっていたんだ。いい? いただいても」
「もちろん」
どうやら蹴斗は、文句を言いに来たようではなさそうだ。
来栖はほっと胸をなでおろす。
「うんうん。形もいいけど、味もいいね。もう一つもらってもいい?」
「どうぞどうぞ。もっと沢山食べてもいいよ」
美味しそうにおむすびを頬張る彼の表情を見ていると、これからもずっと作ってあげたいという気持ちが溢れてくる。
これが「イス」ってことなのかな?
来栖はイスとイズの話を思い出して切に願う。この気持ちがイズに変わりませんようにと。
「あの小説、興味深かった。この椅子と読書感想文が結びついているなんて知らなかったから。だけど……」
蹴斗の表情が曇る。
やはりいいことばかりではない。
でもこれは想定されたこと。イスの気持ちを忘れなければいいと、来栖は蹴斗の瞳を見る。
「俺の怪我のこと、あんな風に書かれると迷惑かな。正々堂々と戦ってる俺たちに失礼だぜ」
「うん、わかった。ごめんね……」
「だから怪我に関して君は悪くない。それだけ、言いたかったんだ」
「うん。ありがとう……」
すると蹴斗は照れたように楠を見上げる。
「あー、ホントに今日はいい天気だな」
なにか一仕事やり終えたかのように。
もしかしたら蹴斗も緊張していたのかもしれない。それを証明するかのごとく、木漏れ日は笑顔に変わる彼の表情を照らし出していた。
「というか、あのサイトの感想ってすごいね。みんな言いたいことズバズバ書いてて、びっくりしたよ」
「あのサイトってチミル企画?」
「あれ、チミル企画っていうのか。確かに血見るって感じだよね」
「ホント、ホント。私の作品の感想もすごいもん」
そう言って二人で笑い合う。
「でもね、今回作品を投稿してみてわかったことがあるの」
「それは?」
「どんな辛辣な感想にもちゃんと理由があるし、それにね、たった一つの感想によって救われることもあるんだってこと」
蹴斗は書いてくれた。
来栖の作品にコメントを。
それがどれだけ来栖の心の支えになったかわからない。
蹴斗だって、どれだけ勇気が必要だったかわからない。
「まあ、俺も気になったからな。というか、君はすごいね。その辛辣な感想をまとめて、読書感想文コンテストに応募しちゃうんだから」
そう、来栖はある作戦を実行していた。
チミル企画に投稿した彼女の作品『冬のイズ』に寄せられた感想を、校内読書感想文コンテストにまとめて提出していたのだ。「さあ、これが私の小説に寄せられた感想です」と煽り文句を付けて。
確かにそれは感想文。自分で書いたものではないけれど。
他人が書いた文章でコンテストに参加するというのは常識的に問題のある行為であったが、感想を含めて著者が著作権を有するというチミル企画の盲点を突いた来栖の奇策であった。
コンテスト用感想文の提出日は、新年が始まって最初の登校日の一月八日。
生徒閲覧のために感想文が校内に即日掲示されると、来栖の作品は発想の斬新さゆえに注目を浴びる。他の生徒の感想文は、他人が執筆した小説に生徒自身が感想を書いたものだったが、来栖のところだけ、生徒自身が執筆した小説に寄せられた感想文が掲示されているのだから。
「おいおい、こんな辛辣な感想が寄せられるって、一体どんな小説を書いたんだよ!?」
チミル企画の『冬のイズ』は、あっという間に校内で噂になる。当然、当事者の蹴斗の耳にも届くこととなった。
「まさに俺たち、公開処刑状態だよ。どんな重要な試合にだって緊張したことがなかった俺がこのザマだ」
簡易的な椅子に座っているためなのか、蹴斗の足は小刻みにカタカタと震えていた。
周囲を見渡すと、校舎の窓という窓から生徒が顔を出して中庭の二人の様子を伺っている。
「あら、私は全然平気よ」
だって来栖は、楠の下の大理石の椅子のお姫様なのだから。
暑い日も寒い日も、雨の日も風の日もずっと生徒の目に晒されてきた。この場所は、来栖のホームグラウンドなのだ。
ここでなら校内のどんな女子にも勝てる。来栖には確かな自信があった。
「お弁当も食べたし、小説の話もできた。後は君がこれを受け取ってくれたら、俺はすぐに立ち去ろうと思う」
そう言いながら蹴斗は、ポケットの中から白いかけらを取り出す。
それはあの日、来栖が地面に投げつけた大理石のかけらだった。
「それって……」
「見つけたんだ。君が試合を観ていた場所で」
ええっ!?
一瞬驚いた来栖だったが、かけらを差し出す蹴斗の笑顔で理解する。あの日、試合に出ていた蹴斗は、ちゃんと来栖のことを見ていてくれたのだと。
嬉しくて、嬉しくて、思わず涙が頬をつたってきた。
「おいおい、彼女振られたぜ」
「やっぱりダメだったのね……」
「なんとかしてやれよ、蹴斗!」
ざわつき始める校舎。
「まいったな……」
立ち上がり、ポリポリと頭をかく蹴斗は来栖に語りかける。大理石を受け取り、涙を流しながら石を見つめる彼女に。
「嬉しかったんだ。試合を観に来てくれて。だって君は、本にしか興味がない人だと思ってたから」
来栖は言いたかった。本にしか興味がないわけではない。蹴斗に興味があったから本を読んでいたのだ<と。
でもそれは『冬のイズ』に書いたし、蹴斗もそのことを読んでくれている。
「まずは友達からでいいか?」
蹴斗は恥ずかしそうに手を差し伸べる。涙を拭い、顔を上げる来栖に向かって。
「うん!」
来栖は両手でその手を握り返した。
「蹴斗君の手って温かい……」
すると冬の昼休みの中庭は、盛大な歓声(ちょっと悲鳴)に包まれたのであった。
ライトノベル作法研究所 2018―2019冬企画
テーマ:『冬の〇〇』
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