十月は君の寸角形2016年11月17日 05時49分49秒

 受験は、高三の夏休みが勝負を分ける。
 耳にタコができるくらい聞かされた言葉を、噛み切れずにいつまでも口の中に残っている肉のように苦々しく感じながら、僕は自室からぼんやり朝の空を眺めていた。
 飲み込みたいのに、飲み込めない。
 いや、飲み込んだら負けじゃないかと思うくらいの根拠のない抵抗感に、僕はもどかしく夏休みの初日を迎えている。
「あちぃ……」
 今日も外気温は三十度を超えるだろう。
 図書館は涼しいけど、あのギスギスした雰囲気と圧迫感が耐えられない。
 だから僕は、近所にできたばかりのショッピングモールを目指すことにした。

「いっちばーん!」
 ショッピングモールの三階にある広いフードコート。開店時間とほぼ同時だったから一番乗りである。
 とりあえず荷物を置いて、ファーストフード店でコーヒーを買って来る。窓際に広がるカウンター席の端っこが、今日の僕の特等席だ。
「意外といい席だな……」
 窓からは僕の住む街が見渡せる。採光には工夫がされていて、直射日光が当たることもない。
 今日はこの場所に夕方まで粘ろうという魂胆だ。フードコートに面するお店で飲み物を買っていれば文句は言われまい。昼食だってここで調達するつもりだし。
「それにしても広くて気持ちイイ!」
 僕は小さくノビをすると、両手を広げてカウンターにうつ伏せになった。そして木目調の真新しいプラスティックのカウンターに頬ずりする。図書館なんかよりも、こちらの方がずっといい。
「夏休みの初日に、いいとこ見つけちゃったぞ……」
 家族でここに来る時は、いつも休日。だから混雑しているというイメージしかなかった。
 でも平日の午前中は、なんて閑散としているのだろう。まるでこの場所は自分のためにあるようだ。
 早速僕は、教科書と参考書やノートを広げ、カウンターを贅沢に使いながら問題集を解き始めた。

「ふわぁぁぁぁ……」
 勉強に集中していると、いつの間にか夕方になっていた。
 僕は両手を広げて派手にノビをする。声も少し漏れてしまった。図書館でここまでやると目立ってしまうだろう。
 それにしても、こんなに勉強がはかどったのは久しぶりだ。
 懸念していた昼食タイムも、そんなには混雑しなかった。おかげで、ずっと教科書と参考書を広げたままで特等席を独り占めすることができた。
 唯一の問題は、食費やコーヒー代がかかることだ。
「でも、これだけ勉強が進むのだから……」
 親を説得できる自信はある。
 それに、塾や予備校に通うよりは安上がりのはず。この勉強法で僕の成績が上がれば、の話だが。
「だったら明日からも頑張らなくちゃ!」
 僕は、夏休み中はずっとここで勉強を続ける決意を固めていた。

 △

 こうして始めた夏休みのフードコート受験勉強も、あっという間に一ヶ月が過ぎる。
 親にも納得してもらい、毎日千円札を渡してくれるようになった。
 さすがに休日やお盆の時期は混雑してしまい、図書館に行かざるを得なかった。が、お盆が過ぎると、再び平日の閑散としたカウンターが戻って来た。
 やはりこの場所は、僕にとって天国だ。
 疲れた時は両手を広げて派手にノビができる。
 眠くなったらすぐにコーヒーが買える。
 問題を解く時だって、身振り手振りで考えても誰にも文句は言われない。まあ、これは受験本番では使えないけど。
 成績も着実に上がって――いるような気がしてる。だって、この間受けた模試なんか、夏休み前よりも軽快に問題を解くことができたから。
「あと十日か……」
 唯一残念なことは、順風満帆な僕のフードコート受験勉強が夏休みの終焉と共に終わりを迎えようとしていることだ。
 夏休みが終わったら高校の授業が始まる。平日にこの場所に来ることは不可能だ。
「放課後だけでも来てみるか」
 学校からここに直行すれば、夕飯まで二、三時間は勉強できるだろう。
 それもなんだか楽しそうだと、コーヒーを買うために僕は席を立つ。しかしこれが、小さな事件の始まりだった。
 コーヒーを片手にカウンター席に戻った僕は、広げたままにしていたノートを見てあ然とした。

『三角比なんてクソくらえ!』

 白いはずのページの真ん中には、マジックで描かれた攻撃的な丸っこい文字が躍っていた。
「誰っ!?」
 すかさず僕は周りを見回す。
 長いカウンター席には、僕と同じように参考書を広げている人達が五人くらい。しかし彼等彼女等は、いずれも勉強に集中していた。
 家族用のテーブル席にも、ポツリポツリと十人くらいが参考書を広げていた。が、勉強に夢中でこちらを見向きもしない。
 すると、近くのテーブル席に座る子供連れのお母さん達の一人と目が合った。コーヒー片手に、席に座ろうともせずキョロキョロしている僕を不審に思ったのだろう。
 ――あの、お母さん達が犯人?
 いやいや、それはないだろう。
 この落書きをするためには、僕が解いている問題が三角比であることを知る必要がある。うちの母親なんてこの間、「サイン、コサインって昔やったわね」と遠い目をしていた。広げた問題集の内容から判別できるとは思えない。
 そもそも、あそこにいるお母さん達が、わざわざこんな落書きをする理由はないだろう。
「となると……」
 三角比の存在を身近に感じている者の仕業。
 手っ取り早く言えば、犯人は僕と同じ高校生だろう。
「でも、動機が分からない」
 三角比の勉強を止めろ、という警告なのか? それとも単なる嫌がらせ? まさかの三角比反対派……とか!?
 すぐには結論が出そうもなかったので、心を落ち着かせるために席に腰かける。
 とりあえず数学の参考書を閉じておけば、どこからか見ているかもしれない三角比反対派の溜飲を下げることはできるだろう。
「三角比が原因じゃないとしたら、顔見知りの犯行か?」
 もしかしたら、このフードコートの中に同じ高校の生徒がいるのかもしれない。そうだとしたら、そいつは僕のことを知っているやつだ。きっと、最近調子付いてる僕の邪魔をしようと企んでいるに違いない。
 僕はもう一度、周囲を見回した。が、知っている顔は見当たらない。
「ちぇっ、全く誰だよ、こんなことするのは……」
 結局その日は、勉強に集中することはできなかった。

 その夜、ベッドに横になって僕は考える。
『三角比なんてクソくらえ!』
 席を離れている間に、そんなことを勝手に書かれたことがショックだった。
 誰かに自分の行動を見られているという恐怖もある。
 が、それ以上に僕には許せないことがあった。
 それは――三角比への冒涜。なぜなら僕は三角比が大好きだから。
 サインカーブのあの曲率がたまらない。綺麗な山と美しい谷を交互に描き出すサインカーブこそが、世界で最も美しい曲線と言えるのではないだろうか。
 僕はまだ直接見たことはないが、女性の胸の双丘もきっとサインカーブになっているに違いない。自然の美しさの根底には共通の法則があると信じている。
 だから僕は、勉強に行き詰った時には必ず、あの美しいカーブを思い描くことにしていた。
 目を閉じる。
 目の前に浮かぶ山と谷。
 ゼロから始まる曲線を、掌でなぞるように追えばすうっと心が落ち着いていく。パイ、二パイ、そして三パイで双丘の完成だ。
 僕はこの儀式を、勉強を始める前や行き詰った時に必ず行うことにしていた。そうすることによって、それまでの雑念がリセットされて集中力が蘇る。
「こんな美しいものに対して『クソくらえ』だなんて、許せない!」
 必ず犯人を捕まえて、とっちめてやる!
 僕は復讐を心に誓いながら、犯人を突き止める作戦を考え始めた。

 △

 次の日。早速僕は、一晩考えた作戦を実行する。
 これはかなり勇気のいる作戦だ。なぜなら、席を離れる時にスマホをテーブルの上に置いていくのだから。
 もちろんそのままでは盗まれてしまうので、教科書と参考書の下に隠しておく。そしてカメラの部分だけを覗かせ、録画機能を作動させたままにしておくのだ。
 午前中は何も起こらなかった。が、午後三時過ぎになって動きがあった。
 トイレで席を離れた時の録画に、僕の参考書を覗き込む見知らぬ顔が写っていたのだ。
「こいつか、犯人は……」
 女の子だった。
 キョロキョロと辺りを見回しながら参考書に近づき、内容をさっと確認して立ち去っていく。
 落書きはされなかったので、犯人である確証は得られなかったが。
「ふん、お生憎様だな。三角比じゃなくて」
 この時の参考書は英語だった。
 再び落書きされたら心が折れそうだったので、三角比のページは開かないように気を付けていた。
「それにしても、ゴツい男じゃなくて良かった……」
 僕はほっと溜息をつく。
 もしこれが目つきの鋭いガチムチ男だったら最悪だ。このフードコートから即刻撤退していたことだろう。
 まあ、丸っこい字から判断して、女の子らしいことは予想してたけど。
「割と可愛いらしい女の子じゃないか……」
 見かけない顔だから、同じ高校の生徒ではないだろう。
 フードコートで見掛けたらすぐ分かるよう、僕は何度も何度もその子の映像を眺めていた。

 次の日から僕は、フードコートにその女の子を探し始めた。
 が、どこにも見つけることはできない。
 しかし僕が席を離れると、不思議なことに一日に二、三回は参考書を覗き込みにやってくるのだ。スマホの動画がそれを物語っていた。
 そして僕は、あることに気がついた。
 数学、理科、英語、社会、国語。
 広げている参考書が変わると、女の子の表情があからさまに変化する。
 数学や理科では険しい表情になり、英語では眉間にシワを寄せる。そして社会や国語では口元を緩ませ、可愛らしい笑顔を見せる時もあった。
 その姿を見て僕は確信した。落書きの犯人は、間違いなくこの女の子――だと。
 もし、広げているページが三角比であれば、鬼の形相でマジックを握りしめることだろう。
 それならば先制攻撃と、僕は復習の意を込めて、あるイタズラを実行することにした。

 △

 夏休みもあと三日を残すばかりとなった月曜日のこと。
 午後三時すぎのトイレから戻って来ると、案の定、あの女の子が僕の特等席の前に仁王立ちしていた。
 そして戻って来た僕をギッと睨みつける。
「ちょ、ちょっと! 何、これっ!?」
 ノートを指差す女の子。その腕はプルプルと震えていた。
「これって盗撮じゃない! 盗撮は犯罪よっ!」
 実は、彼女が写っている動画からほっこりとした表情の彼女の顔写真を切り取って、ノートに貼りつけておいたのだ。『三角比、大好き!』という素敵なセリフを付け足して。
 ――やっぱり、三角比嫌いはアタリだったか。
 あまりにも予想通りの反応に可笑しくなった僕は、天井を見上げながらとぼけてみる。
「えっと、別に盗撮してたわけじゃないんだけど……。ただこの天井を観察してたんだけどなぁ。そしたら写っちゃった人がいるみたい。偶然にしてはありえない角度だけどね」
「キミね、女の子を観察することを盗撮って言うのよ。これは私を観察してたとしか思えない」
 彼女も引き下がらない。
 でも、頭に血が上っている時がチャンスだ。今の彼女なら簡単にボロを出すだろう。
「君が僕のノートに落書きなんかするから、仕方なくやったんじゃないか」
「仕方なくってなによ。キミが三角比なんか勉強してるからいけないんじゃない。あれはその報いよ、って、あっ……」
 彼女も気付いたのだろう。
 自分が落書きの犯人であると自白してしまったことを。
 でもよかった。僕に個人的な恨みがあるわけではなくて。彼女は純粋な三角比反対派だった。
「まあ、座りなよ。僕も悪かったよ、こんなことをして」
 そう言いながら僕はカウンター席に座る。
「私だって……ごめんなさい……」
 煮え切らない表情のまま、彼女も渋々、僕のとなりの席に腰掛けた。
「いや、でも、やっぱりキミの方が悪い。なによ、毎日毎日掌をヒラヒラさせて。あれって、すっごく目障りなの。気が散るの。やめて欲しいの」
 えっ、やっぱり個人的な恨み?
 あれを毎日観察されていたとは恥ずかしい。
「それで、何をやってるんだろうとキミの席を見に行ったら、私の嫌いな三角比じゃない。三角比なんて、地球上から無くなっちゃえばいいんだわ。というか、教えて。全然わからないの。困ってるの。ピンチなの。お願いします」
 挙げ句の果てに、涙目で懇願されてしまった。

「私ね、県立大学の日本文化学科を目指してるの。でも最近になって、センター試験も受けなきゃいけないことが判明してパニクってんのよ。それには数学があるの。三角比とか勉強しなくちゃいけないの。ヤバいの」
 ていうか、県立大学受けるならセンター試験は必至じゃないか。
 それが今頃判明しただなんて、そっちの方がヤバい。
「サイン三十度って何なの、あれ? 全く理解できないんだけど」
「えっ、サイン三十度って、二分の一だろ?」
「キミも先生と同じこと言うのね。あっちの人間ね。だから日本はダメになっちゃったのね」
 いやいや、日本はまだまだ捨てたもんじゃないと思うけど。
 というか、僕の答えと日本の未来を一緒にしないでくれ。
「誰も教えてくれないから恥を忍んで聞こうと思うんだけど、ちゃんと教えてくれる? バカにしない?」
「あ、ああ……」
 一体どんな質問をされるのか、恐怖しながら僕は返事をした。
 彼女の中に隠されたサイン三十度の秘密が今、明かされる。
「ねえ、なんで……二分の一なの? 〇・五じゃダメなの?」
 ええっ、そこ? 疑問点ってそこなの?
 僕はぷっと笑いたくなるのをこらえるのに必死だった。
「あー、今笑ったでしょ? 絶対、笑ったよね」
 プクッと頬を膨らませた彼女は可愛らしい。
 二重の瞳、ぷっくりとした涙袋。
 白状すると、最初に動画を見た時から気になっていた。が、目の前の彼女は、動画なんかよりもはるかに魅力的だった。
「そう、〇・五でいいんだよ。先生達が間違っている。それを僕が証明してあげるよ」
 僕はいつの間にか、自分の立場を先生側ではなく彼女側に置きたいと考えていた。

「サインとコサインの値って、テスト会場でも簡単に求めることができるんだ」
 そう言いながら、僕は筆入れから小さめの定規を取り出した。
「こんな風に、問題用紙の角に、長さ一センチの線を描くだけでいいんだよ」
 僕はノートの右下の隅に定規をあてて、角に小さな三角形ができるようにシャーペンで長さ一センチの線を引いた。
 ノートの右下隅に、寝そべったような小さな直角三角形が出来上がる。
 女の子は隣の席から身を乗り出して、僕の手元を凝視する。彼女の肩くらいまでストレートヘアがはらりと落ちて、Tシャツから出た僕の右腕にかかってくすぐったい。
「僕が描いた線とノートの下端との角度はだいたい三十度だろ? そうすると、この小さな三角形の縦の長さがサイン三十度の値になるんだよ。ほら、これを使って測ってごらん」
 僕は女の子に定規を渡し、ノートを彼女の方に差し出す。
 彼女はノートの端に定規を当て、目を凝らしながら縦の長さを測り始めた。綺麗な黒髪からいい香りがする。
「五ミリ……かな」
 そう答えながら、彼女がいきなりこちらを振り向く。不意に目が合って、ドキッとしてしまった。
「えっ、あっ……そう、ご、五ミリで正解。ってことは、何センチ?」
「〇・五センチ?」
「正解。だから、サイン三十度は〇・五でいいんだよ」
「へぇ~」
 溜め息を漏らしながら、女の子はノートの隅の三角形を見る。
 こんな簡単なことで三角比が求まるなんて、という驚きが瞳の輝きから見て取れる。
「じゃあ、コサイン三十度は?」
「今度は横の長さを測ってごらん?」
「横ってこの部分?」
 女の子はノートに顔を近づけて、必死に長さを測り始めた。
「えっと、八ミリ……くらいかな?」
「そう。だから、コサイン三十度は〇・八くらいなんだ」
「へぇ~。じゃあ、どんな角度でも、すぐにサインとコサインの値が出るの?」
「そうだよ。サイン二十度でもコサイン八十度でも、あっという間だよ」
 僕の言葉に女の子はさらに瞳を輝かせる。
「すごいすごい。これで試験は完璧……って、こんな適当な値で大丈夫なわけ?」
 女の子は、この必殺技の欠点を的確に指摘した。
 確かにこの方法では、おおよその値しか求めることはできない。しかも、かなりアバウト。
「きっと大丈夫だよ。だって君が受けるのはセンター試験だろ?」
「ええ、そうだけど……」
「だったら解答用紙は?」
「マークシート!!」
 それならば、必ずしもピッタリな値を求める必要はない。正確な選択肢を選ぶことができればいいのだから。
「でもね、でも……」
 まだ何か不満があるのだろうか?
 一瞬輝いた女の子の瞳がにわかに曇る。
「小っちゃい、小っちゃいよ、こんなミニミニ三角形! ちょっと待ってて、今いい物持って来るからっ!!」
 そう言って、女の子はフードコートの端っこに向かって走り出した。
 Tシャツとキュロットスカート。黒いストレートヘアを揺らしながら駆けていく女の子の後ろ姿を、何か大切なものが離れて行くような感覚で僕は眺めていた。

 あんな場所にいたのかよ、と思ってしまうほど遠くの席まで行くと、女の子は荷物の中から何かを手にして戻って来る。
 それは筆入れと問題集だった。
「さっきの三角形、この曲尺でもいいんだよね?」
 息を切らしながら、女の子は筆入れから何かを取り出した。
「カネジャク?」
 聞きなれない言葉に、僕は彼女が取り出したものを凝視する。
 それは、プラスティックでできた長さ十センチくらいのL字型の定規だった。
「一の長さの線が引ければいいんだよね?」
 彼女は先ほどの席に座り、僕のノートの隅に斜めの線を引く。
 ――ええっ、これってどういうこと!?
 その三角形は、僕が描いた一センチの三角形よりもはるかに大きかった。そう、三倍くらい。
「どう?」
 女の子は鼻息を荒くしながら僕の方を向く。
 どうって言われても、デカいという言葉しかない。
「これ、一センチじゃないよね?」
 どう見ても三センチくらいはある。
「そうよ。だってセンチじゃないもの」
「じゃあ、インチ?」
「バカね。日本文化学科を目指してる私が、そんなメリケングッズを使うわけないでしょ?」
 バ、バカって……。
 ちょっとムッとしてしまった僕だが、日本文化と言われて思い当たるものがあった。彼女が線を引いたL型の定規は、大工がよく使っているものとそっくりだ。
「インチじゃないとしたら、これは……?」
「一寸よ」
 寸!? 寸って尺貫法の寸だろ? それって、いったい何時代の話だよ。
「一寸って……何センチだったっけ?」
「三・〇三センチよ」
 即答だった。
「そんなことも知らないの?」
 ささやかな逆襲付きで。
「そしてこの定規は二・五寸曲尺」
 その言葉を聞いて僕は反撃に転じる。
「カネジャクって、その定規は金属製じゃないじゃん。プラスティック製だろ?」
 すると彼女は呆れた顔をする。
「何言ってんの? 『曲がる尺』って書いて、カネジャクって読むのよ。キミは数学には詳しそうだけど、何も知らないのね」
「ぐっ……」
 僕は言い返す言葉を失っていた。
 そんな僕をよそに、彼女は大きな三角形の縦の長さを測り始める。
「ほお、確かに〇・五寸だわ。サイン三十度は〇・五ってことね」
 しかし、まさか寸を使うとは思わなかった。確かにこれなら、センチよりも正確に長さを求めることができる。
「ああ、そうだよ……」
 小さな敗北感で心を満たしながら、僕は静かに頷いた。
「それで、コサイン三十度は、っと……」
 彼女は続いて横の長さを測り始める。そして表情を曇らせた。
「〇・八七寸じゃない。キミはさっき嘘を言ったわね」
「嘘って、〇・八センチって測ったのは君じゃないか」
「あれは小っちゃすぎてよく分からなかったのよ」
 ぶすっと頬を膨らませながら、彼女は問題集を広げ始めた。
「えっと、問題集のコサイン三十度の答えは……」
 彼女の表情はだんだんと暗くなっていく。
「二分の、二分の……」
 その先が読めないらしい。
「ルート三」
「そうそう、ルート三よ。分かってるわよ。ちょっと忘れてただけよ。ってそれ、何だったっけ?」
 せっかく助け舟を出してあげたのに、ズッコケそうになる。
 だからちょっと意地悪してみることにした。
「人並みに奢れや」
「なっ!?」
「だから、人並みに奢れや!」
 一瞬言葉を失った彼女だが、すぐに顔を真っ赤にして反論する。
「ちょ、ちょっと、いきなり何言い出すの? そりゃ、サインやコサインを教えてくれて感謝してるわよ。奢ってあげたい気持ちにもなったわよ。でも盗撮やコラ写真の件はどうなるの? 差引すると、どうみても私の方が奢ってもらう方だと思うんだけど。試しにこの周辺の女の子に聞いてみてもいいわ。きっと同じ答えをすると思うから」
 この人に口では敵わないなと思いながら、僕は種明かしをする。
「悪かった。ちょっと落ち着いて。『人並みに奢れや』ってのは、ルート三の覚え方だよ。一・七三二〇五〇八だから」
「えっ……」
 彼女は、恥ずかしさで表情をさらに赤くする。
「君に奢ってあげてもいいけど、代わりに他の数学裏ワザってのはどう?」
 もっと君と話してみたいから。
 受験を共に戦う仲間も欲しかった。このフードコートを愛する彼女なら、共感する部分も多いだろう。
「ほ、ホント!?」
 ぱっと輝く彼女の瞳を見て、僕はこの選択肢で良かったと実感する。
 それから夕方まで、僕は彼女に数学を教えてあげ、裏ワザをまとめた冊子を作ってあげることで話が盛り上がる。
「じゃあね! 裏ワザ冊子、よろしくね」
「ああ、期待しててよ」
 曲尺が入った筆入れを抱いて去っていく彼女の後姿を、僕はいつまでも見送っていた。

 △

 それからの僕は、勉強に疲れると一服代わりに裏ワザ冊子作りに打ち込んだ。
 時にはあまりにも没頭してしまい、受験勉強との時間配分が逆転してしまうこともあった。
 ――輝く彼女の瞳を、もう一度見たい。
 その一心は、僕をどこまでも突き動かす力を持っていた。
 しかしあの日から、彼女は僕の前に姿を現すことはなかった。フードコートを見回してみても、彼女の面影を見つけることはできなかった。

 夏休みが終わると、フードコート受験勉強は放課後の限られた時間だけになってしまう。
 ――あの時の約束、忘れられちゃったんじゃないだろうか。
 そんな不安が心を支配する日は、勉強が全く手につかなかった。
 ずっと彼女の動画を眺めている時もあった。
 それでも、このフードコートに来ることだけは続けていた。だってここは、彼女と出会える唯一の場所だから。
 この期に及んで、僕は彼女の名前すら聞いていなかったことに気付く。どこの高校に通っているのかも分からない。
 ――何で姿を現してくれないんだよ……。
 夏休みに急上昇した僕の成績は、九月になって下降に転じてしまった。

 十月になると、僕は約束の冊子作りを止めた。
 他人の受験勉強のために自分が犠牲になるのはあまりにも悲し過ぎる。
「夏休みの宿題、ついに受け取ってもらえなかったな……」
 こうなることは二人の運命だったんだ。
 自分に言い聞かせる言葉とは裏腹に、僕はいつまで経っても約束の冊子をバッグの中に入れ続けていた。

 △

 十月も終わりを迎え、三十一日になった。
 先週末に文化祭があったので、月曜日の今日はその代休だ。僕は二ヶ月ぶりに、午前中からフードコートに向かう。
「いっちばーん!」
 この感覚は本当に久しぶりだ。
 ファーストフード店でコーヒーを買って、いつもの特等席に腰かける。黄色く染まる街路樹が朝陽に輝く。街はすでに冬支度を始めていた。
 この場所に通い始めて、すでに三か月が経った。この特等席は、もう自分のもののように感じていた。
「本当にここの環境は自分向きだな」
 疲れた時は両手を広げて派手にノビができる。
 眠くなったらすぐにコーヒーが買える。
 問題を解く時だって、身振り手振りで考えても誰にも文句は言われ――ちゃったんだよな。あの時、あの女の子に。落書きという形で。
 僕は彼女の面影を思い出していた。
 あれから一度も彼女には会っていない。
 おそらくここには来ていないんじゃないかと思う。
「それなら、久しぶりにやってみるか」
 僕は目を閉じ、掌に意識を集中させる。
 しばらく封印していたサインカーブの儀式。パイ、二パイ、そして三パイで心の中に完璧な双丘が完成した。
「ふふふ、また落書きされちゃったりして……」
 そうなったらいいなと思う。
 しかし、トイレや買い物から戻って来ても、ノートは真っ白のままだった。

「ふわぁぁぁぁ……」
 秋の日はつるべ落とし。午後三時を過ぎると、たちまち空が重くなってくる。
 僕は特大のノビをすると、トイレで席を離れた。
 今日は久しぶりに勉強がはかどった。やはりサインカーブの儀式の力は絶大だ。
 そしてカウンターに戻って来た僕は目を丸くする。
 ノートの真ん中に、あの時のような落書きが躍っていたのだ。それは、ぎこちない三角形と丸っこい『寸』の文字。
「えっ!?」
 振り返ると、「久しぶりね」と温かそうなセーターに身を包んだ彼女が立っていた。

「今日はね、キミにお礼を言いたくてここに来たの」
 懐かしい顔に、今までこらえて来た感情が溢れ出そうになる。
 言いたいことも一杯。聞きたいことだって一杯。
 それを考えるだけで、ドキドキと胸の鼓動が高鳴り出してきた。
 そうだ、彼女に夏休みの宿題を渡さなくっちゃ!
 僕は、裏ワザ冊子が入ったバッグをチラリと見る。
「私ね、数学ってずっと難しいものだと思っていたけど、キミのおかげでかなり前向きになれたの。それがきっかけで、いろいろなことにチャレンジしてみたんだけど……」
 良かったぁ。僕が教えた裏ワザが功を奏したんだ。
 だったらこの冊子があれば、もっと彼女の役に立つに違いない。
 やっと夏休みの宿題が完成したんだ。ぜひ君に受け取って欲しいと言おうとした時、彼女は満面の笑みで僕にこう告げた。
「そしたらね、受かったのよっ。無理だと思ってた法慶大学の日本文化学科の推薦入試に! もう数学なんて勉強しなくていいのっ!!」




 了



闘掌’16秋
テーマ:『秋』
サブテーマ:『夏休みの宿題』

あたたかさ、やわらかさ、しずけさ2016年11月03日 22時11分12秒

ここは私立早熟中学校。高校を超えたレベルまで教えてくれると噂の超進学校だ。
その早熟中学校で昨年発生した小さな事件は、とある理科の授業参観が発端だった。
『ヤング率が高くなればなるほど、硬くなる』
教師が発したこの説明に、教室の後ろに陣取る生徒の保護者達はざわついた。
「まあ、こんなところまで教えるの?」と、予想以上に大人びた授業内容に顔を赤らめる保護者もいたという。
そして決定的だったのが、次の説明だった。
『弾性係数は根本的に、熱くなればなるほど下がり、柔らかくなる』
「えっ、男性係数?」と、一時は騒然とした教室だったが、保護者の険しい表情と共に静寂に包まれたのであった。

後日、中学校には「大人びた授業を否定はしないが、間違ったことは教えないでほしい」というクレームが相次いだという。



500文字の心臓 第151回「あたたかさ、やわらかさ、しずけさ」投稿作品

夢の樹2016年09月22日 23時18分23秒

 大国主神が各地の地主神を呼んで、日頃の労いをすることになった。
「皆の者、日々の平穏への尽力、ご苦労である。褒美として願い事を一人一つ叶えて使わす」
 ざわつく地主神たち。ここぞとばかり願い事を考え始めた。
「ただし、条件がある」
 場は一瞬で静寂に包まれる。
「三人の願いが一致した場合のみ、叶えることとしたい」
 流石の大国主神といえども、一人一人の願いを聞いてはいられない。
 すると老人、若者、女性の三人組が手を挙げた。
「わしら、名前の漢字の『木』を『樹』に変えて欲しいんじゃ」
「それはなぜだ?」
「だって『木』より『樹』の方がお洒落じゃん」
「例えば『夏木』よりも『夏樹』の方が味があるわ」
「『樹』に変えてもらうのが、昔からの夢だったんじゃ」
 大国主神は少し考えた後、首を大きく縦に振った。
「わかった。ではお前たちの名前を言ってみよ」
「俺、六本木」
「私は乃木坂よ」
「わしは木更津じゃ」



500文字の心臓 第150回「夢の樹」投稿作品

君の鼻血は涙の味がする2016年09月14日 07時26分23秒

「僕、吸血鬼なんだ」
 それは五年前。
 中学二年生だった私に、いきなり掛けられた一人の男の子の言葉。
「だから、君の血をもらってもいい?」
 小高い丘の、町が見渡せる気持ちのよい場所なのに。
 ベンチに並んで夕陽を眺めていたところを、なんで? と私は彼を向く。
「…………」
 私を見つめる男の子の表情。
 視線は至って真剣。
 冗談を言っているようには思えない。
 名前は不振石健(ふらずいし けん)くん。
 この間、越してきたばかりのクラスメート。
 目元がキリッと締まって、鼻筋も通ったイケメンだ。
 町のことを教えてほしいって頼まれて、案内しているうちにこの場所にたどり着いた。
「それって……痛いの?」
 やっとのことで私の口から言葉が出てくる。
 痛くないのなら、健くんだったら許していいかも、とちょっぴり思ってしまう。
「あわわわわ、痛くない、痛くないよ」
 顔に似合わず、健くんは慌てふためいた。
「だって、ガブってするんでしょ?」
 私の脳裏に浮かぶ、首筋に歯をたてる吸血鬼の姿。
「そ、そ、そんなことしたら血が出ちゃうじゃないか」
 血が出ちゃうって、血が欲しいんでしょ?
 健くん、本当に吸血鬼?
「ガブってしないで、どうやって……?」
 不思議に思う私を横目に、健くんは立ち上がる。
 そして三歩前に進んでこちらを振り向き、いきなりダンスを踊り始めた。
 ロックミュージシャンのような。
 腰をカクカクさせる仕草を強調して。
 踊り終わった健くんは、息を切らしながら私に問いかける。
「どう? 興奮した?」
 ええっ? 興奮?
 あのカクカクダンスで?
 目をぱちくりさせる私。健くんは焦った表情を見せる。
「おかしいなぁ……。女の子はこんなダンスに興奮するって雑誌に書いてあったのに」
 どこのどんな雑誌なんだか。
 私を興奮させてどうするの?
「それで?」
「そしたら鼻血が出るだろ」
 えっ?
 思わず固まってしまう。
「鼻血だったら、ガブってしなくても済むかなぁって……」
 健くんって、かなりチキンな吸血鬼なのね。
 そんな理由で、ダンスを踊ってたんだ。
 必死に何度も腰を突き出して。
 私に鼻血を出させるために。
「あはははははは!」
 理由が分かると、なんだか可笑しくて、私は笑い出してしまった。
「な、なんだよ、笑うことないじゃないか? こっちは必死だったんだから」
 必死だったから可笑しいんじゃないのよ。
 拗ねた健くんの顔も面白い。
「はははははははは、あー、可笑しい」
 私の笑いは加速した。涙も止まらなくなる。

 その時。
 何かの液体が、つーっと鼻から口にかけて流れてきたような……

「ほら、やっぱり出てきたじゃないか、鼻血」
 忘れてた。
 私、涙を流すと一緒に鼻血も出てくるんだった。
「いただきっ!」
 健くんは私に駆け寄ると、さっと私の顔に口を寄せ、ペロッと私の純血を奪っていく。
 そして満足そうに目を細めた。
「あー、美味しい! これが噂に聞く乙女の生き血か!?」
 あっという間の出来事だった。
「ちょっと涙の味がするけど……」
 なんてことしてくれるのよ。
 恥ずかしくて健くんの顔が見られない。
 ドキドキする胸の鼓動が止まらない。
 世界を赤く照らす夕陽様。どうか私のほおを、真っ赤に染まる私の心を隠して。
 そんな中二の夏。
 忘れもしない五年間の記憶。
 私、折絹真衣(おりきぬ まい)は、健くんに恋をした。

 ◇

 ヴァンパイアウイルス感染症。
 健くんがかかっている病気は、そんな名前だった。
 処女の生き血が無性に欲しくなる病気。
 ウイルスに感染すると身体能力がアップし、健康状態も格段に良くなるという。
 だから普段の生活には何の支障もない。
 問題は、生き血が欲しいという欲求を、時々抑えられなくなること。
 そして欲求に耐えられなくなって女性に噛み付くと、ウイルスが女性の体内に流れ込んでしまう。
 その量は、多くて一回あたり体内のウイルスの三分の一ほど。
 つまり四度目に噛み付いた時、体内のウイルスはすべて放出されてしまう計算になる。
 そして、その後に訪れる死。
 ウイルスをすべて放出してしまうからだろうか。
 生命維持機能をウイルス任せにしてしまった代償と、学者は言う。
 でもその詳細は、まだはっきりとは分かっていない。

 だから健くんは考えた。
 体内のウイルスを放出させずに生き血を味わう方法を。
 ――鼻血。
 これを舐めるだけなら、リスクを犯さずに生き血を楽しむことができる。

 そんな健くんの苦悩なんて知らない私は、丘での一件を両親に打ち明けてしまう。
 当然、驚き慌てる両親。
 私は、とある研究所に連れて行かれる。
 ――ヴァンパイアウイルス研究所。
 広葉大学の付属機関として、当時の日本で唯一ヴァンパイアウイルスについて研究している機関だった。
 そこで血を取ったり、機械で調査したり……。
 詳細な検査に一ヶ月もかかり、その間、私は入院することに。
 ようやく退院した私を待っていたのは、健くんが転校してしまったという悲しい知らせだった。

 健くんに会いたい。
 彼が座っていた教室の席を眺めるたびに心が痛む。
 私の純血を奪っていったあの人に。
 別れの言葉だって、かけてあげることができなかった。
 聞くところによると、健くん家族は夜逃げみたいに町を出て行ったという。
 だから誰も、彼の連絡先はわからない。
 私が両親に話したことで、おおごとになってしまったから?
 町中に、健くんの病気のことがバレてしまったから?
 罪の意識と彼への強い気持ちが二重に私を苦しめる。

 どこに住んでいるのかもわからない健くん。
 この病気の専門家になったら、彼に再会できるかも。
 高校に入った私は、ヴァンパイアウイルスについて勉強した。
 そして、検査でお世話になった広葉大学に進もうと心に誓う。
 将来、ヴァンパイアウイルス研究所に勤めることができれば、健くんに会える確率はぐっと高くなるはずだから。
 彼にひとこと謝りたい。
 そして私の想いを伝えたい。
 こうして、丘での一件から五年が経過した春、私は広葉大学の医学部――ではなくて看護学部に入学したのだった。

 ◇

「テニスサークル、入りませんかぁ~」
「サッカー部、マネージャー募集中でーす!」
 入学式が終わった後の大学ホール前は、新入生とサークルの勧誘でごった返していた。
 色とりどりのユニフォームに身を包む学生達。
 ところ狭しとプラカードが乱立する。
「バンドやりたい人、いませんかぁ~」
 ないない。私、音痴だから。
 勧誘の魔の手を振り払うようにして、私はずんずんと一人歩く。
「オカルトに興味ある人、いませんかぁ~」
 オカルト研究会?
 吸血鬼には興味あるけど、健くんの病気はオカルトじゃないからなぁ……。
「血を吸われてみたい人、いませんかぁ~」
 そうそう、吸血鬼ってこれよ。
 って……!?
 驚いて振り向くと、そこにはプラカードを持ってニコリと私に笑いかけるイケメンの姿。

 健くんっ!!!?

 思わず叫ぶところだった。
 彼が私に向かって変なことを言わなければ。
「おっ、処女の匂いがする。君、俺に血を吸われてみない?」
 なっ……。
 懐かしさよりも心無い言葉への反応が先に出る。
 私は固まった。
「さすがに大学生にもなると、可愛い処女さんが少なくなって困ってたんだ。君は久しぶりの可愛い処女さんだ。どう? 俺と一緒に活動しようよ」
 失礼な!
 どうせ私は処女ですよ。
 だって、それは……。
「健くんだよね。不振石健くん」
 やっと言葉が出た。
 健くんは驚きながらもまゆをしかめる。
「いかにも俺は不振石健だが……。はて? 俺が知ってる可愛い女の子は皆、処女ではなくなったはずなんだが……」
「…………」
 思わず言葉を飲み込んだ。
 懐かしくて、嬉しくて、喋りたいことが沢山あるのに、彼の言葉が心にストップをかける。
 健くんって、そんな軽い男になっちゃったなんて……。
 今まで私が追い求めてきた吸血鬼なのにガブってできないウブな健くんはどこへ行ったの?
 目頭がジーンと熱くなる。
 もう彼のことは忘れよう。
 同じ大学だったことは驚きだけど、もう私のことは忘れちゃってるようだし、軽い男に成り下がっちゃってるし、顔を合わせないようにすれば時が解決してくれるはず。何年かかるか分からないけど……。
「ごめんなさい!」
 涙を見せないよう、私は踵を返し脱兎のごとく走り出した。
 さようなら、健くん。
 私の純血をあげた健くんは、もう地球上から居なくなってしまったんだ。
 そう考えよう。諦めよう。
 会わなければ、顔を見なければ、時間がなんとかしてくれるだろう。
 しかしそれは甘い考えだった。
 看護学部のクラス分けが発表された時、私は現実の残酷さを知ることになった。

 ◇

「また会ったね、可愛いしょじ、うがががががが……」
 クラス分けの同じ部屋に居た健くんは、顔合わせ会が解散になったとたん、私に声を掛けてきた。
 私はすかさず彼の口に手を押し当てる。
 最悪……。
 これでは彼を忘れるどころか、美し思い出までもが汚されてしまう。
「うがががががっ!」
 口を押さえられて暴れる健くん。
 突然、掌に歯の硬い感触を感じて、私は素早く手を引っ込めた。
 危ない、危ない。
 こいつ、吸血鬼だった……。
 中学生の時はあれほどガブってすることを嫌がっていた彼を思い出し、今度は怒りが込み上げてくる。
「健くん、何しようとしてるの!? ちゃんと抗体飲んでて、そういうことしようとしてるんでしょうね!?」
 抗体と聞いて、講義室に残るクラスメートがこちらを向く。
 皆、看護学部の学生なんだから、一応興味はあるのだろう。
 その様子を見た健くんは、急に恐縮しながら私の顔色をうかがう。
「ゴメン。謝るから大声を出さないでくれよ。それに抗体のことも黙ってて欲しいんだが……」

 ヴァンパイアウイルス抗体製剤『クロス』。
 別名、十字架抗体と呼ばれている。
 三年ほど前に開発された、ヴァンパイアウイルスに対する抗体だ。
 これを飲んで数時間以内であれば、ヴァンパイアウイルスは噛まれた女性に流れ込むことはない。
 つまり、健くんは死に至ることもないし、噛まれた女性もウイルスに感染することもない。
 ヴァインパイアウイルス感染者にとっても、社会にとっても、夢の抗体製剤なのだ。
 この『クロス』のおかげで、それまでこそこそと隠れ住んでいたヴァインパイアウイルス感染者は社会権を得ることが可能となった。

「でもさあ、聞いてくれよ」
 なぜだかその後、私と健くんは喫茶店の窓際の席で向かい合っていた。
「クロスを飲んでから生き血を吸ってもな、ぜんぜん気持ちが良くねぇんだよ」
 健くんに手を引かれ、逃げるように講義室を後にした私たち。
 気がつくと、この喫茶店に座っていた。
「クロスの本当の意味を知ってるか? あれは十字架の『クロス』じゃないんだ。ウイルスの流れを閉ざすって意味の『クロース』なんだよ」
 そして健くんは、遠い目をしながら喫茶店の天井を向く。
「なんて表現したらいいんだろうなぁ……、あの感覚。クロスなしで、生き血を吸う素晴らしさ」
 そんなのわかりません。
 私、吸血鬼じゃないから。
「吸血鬼ってさ、血をたくさん吸うと思うだろ? でもそれは違うんだ。血はちょっとで十分なんだよ。肝心なのは放出するウイルスの量。ドクドクと、女の子の体の中に俺のものが流れ込む。くー、あれがたまんねぇ」
 ちょ、ちょっと。
 それってどいうことだかわかってんの!?
「魂の伝授っていうのかな。いや、リビドーの奔流と言った方がいいかもしれん。とにかく最高なんだよ。だから僕と……」
「健くん!」
 思わず私は叫んでいた。
 喫茶店のお客さんたちが皆、私を見る。
 あちゃー、やっちゃった……。
 私は恐縮しながら店内に軽く頭を下げると、再び健くんに向き直った。
「ねえ、本当にウイルスなんて流し込んだの? クロス飲まなきゃダメじゃない。健くん、死んじゃうんだよ、わかってるの?」
 小声を続けるつもりだったが、最後はちょっと涙声になってしまう。
「知ってる」
 真面目な声。
 私は涙を拭う。
「医者は、すでにリミットだって言ってた。だから次が最期」
「それって……」
「いいんだよ、俺は社会の邪魔者なんだから」
 彼の口から投げやりな言葉が漏れる。
 五年前を思い出す。
 夜逃げのように彼は町からいなくなった。
「クロスのおかげでこうして社会に出ることができたけど、実態は何も変わっちゃいねぇ。それにな、もっと悲しいことが俺の目の前で起きている」
 何度も引っ越しをして、何度も転校して、社会から隠れるように生きてきたのだろう。
 いじめられたり、時には迫害されたり……。
 そんな苦労は、私には分からない。
「それはな、俺の前からどんどん処女がいなくなってることだ」
 なっ……。
 それって、女の子の前でする話ぃ!?
「俺は幼女に興味はねえ。君みたいな可愛い処女さんに会うのは本当に久しぶりなんだ。同世代に処女がいなくなるのが怖い。そんな世界に未練はねぇ。君の血が吸えるなら、本当に死んだってい……」
 バチッ!
 彼が言い終わるのと私が彼の頬を叩くのは同時だった。
 やっぱり健くんは最低な男に成り下がってしまったんだ。
 私は立ち上がり、引き止めようとする健くんを無視して喫茶店を飛び出した。
 なにが、処女のいない世界よ。
 処女を減らしているのはあんたじゃない。
 ウイルスを流し込んで、そしてその娘の純潔を奪って……。
 本当に最低な男。

『だから次が最期』

 でもしばらく街を歩いていると、私の頭の中で健くんの言葉がぐるぐると回り始める。
 あの時の瞳が本物の彼なんだという希望を拭い去ることができない。
「まだまだ甘いなぁ……」
 いくら彼が最低な男であっても、そう簡単には忘れられないよ。
 だって初恋の人だったんだから……。

 ◇

「よう、可愛いしょじ、うぐっ……」
 それ以来、大学で会うたびに変な名前で読んでくる健くん。
 だから今度は彼のお腹をグーで殴る。
 最低な男に噛まれないように。
 講義や実習のたびに私にちょっかいを出してくる健くんとのやりとりは、悲しいことに日課になりつつあった。

「今日の講義は、十字架抗体と呼ばれている『クロス』について説明しよう」
 広い階段状の講義室に、教授の声が響く。
 ――ヴァンパイアウイルス概論。
 さすが、この大学の名物講義というだけあって席はほぼ埋まっている。
 それにカッコつけて、わざわざ私の隣に座る最低な男、若干一名。
「なあ、知ってるか? なんでこの大学がヴァンパイアウイルス研究のメッカと呼ばれてるか」
 ちょっと健くん、邪魔しないでよ。
 今、真剣に教授の話を聞いてるんだから。
 あからさまに嫌そうな顔をしても、彼はお構いなし。
「なんでもな、クロスの原液はこの大学にあるらしいんだ」
 そりゃ、世界で初めてクロスの生成に成功した大学なんだから、原液があるのは当たり前じゃない。
「俺が飲んでるクロスってさ、原液を百倍くらいに薄めたやつなんだって」
 そ、それくらい、知ってるわよ。
 濃すぎるのはダメだってことぐらい。
「それでさ、もし俺がクロスの原液を飲んだら……」
 飲んだら……?
 もったいぶる言い方に引っかかり、不覚にも私は健くんを向いてしまった。
 彼はニッと笑いながら、言葉を続ける。
「この病気が完治するらしいんだよ」
 えっ!?
 そんな話、聞いたことが無い。
 高校時代に読み漁ったテキストや論文にも、そんなことは一行も書いてなかった。
「ウソよ」
「ホントだぜ。それが目当てで俺はこの大学にいるんだから」
 えっ?
 ちょっと待って。
 それって……。
 病気を直したいってことじゃない。
 なによ、この間は『死んだっていい』って言ってたくせに。
 ただのカッコつけ?
 それならそうって言ってくれればいいのに……。
 健くんの入学の理由を知って、私は少しほっとする。
 本気で病気を直したいと思っているなら応援したい。
「それって、どこの情報?」
 ただし、病気が治るという情報が本当であるならば。
「とある関係者から聞いた話だ」
 とある関係者?
 怪しいわね。
 偽情報という可能性も考えられる。
 もしそうだったら大変だ。
 だってこれは、健くんの命に関わる問題だから。
「私ね、高校時代、ヴァインパイアウイルスについて一生懸命勉強したの。もちろんクロスについても。でもクロスの原液で病気が治るってどこにも書いてなかった。おかしいじゃない。それで治るんだったら、何で患者は減らないのよ。もしかしたら健くん、その誰かに……」
 その時だった。
 んんん、と教授が咳払いをする。
「ちょっとそこの君。今は講義中ですよ。話したいことがあるなら、ここから出て話してくれませんか」
 講義室中の視線が私に集まる。
「す、すいません」
 また、やっちゃった……。
 とりあえず謝ってみたが、注目を浴びたことには変わりない。
 すぐさまここから出て行きたいが、ほぼ満席状態なので出るにも出られない。人をかき分けて進めば、さらに注目を浴びそうだ。
 だから私は肩を丸めて、じっと動かぬアルマジロのように机に伏せる。
 恥ずかしい……。
 こんな最低男のために、ムキになっちゃって。
 なにやってんのよ、私。
「えっと、どこまで話したかな? そうだ、クロス、つまりヴァンパイアウイルスの最初の抗体は、五年前に軽度の感染者の血液から採取されたもので……」
 教授の講義が再開する。
 どうやら皆の意識は、私から外れたようだ。
 わずかに顔を上げて周囲を見回すと、健くんは何食わぬ顔で講義を聞いていた。
 なに?
 自分は関係ないって態度?
 本当に最低な男。
 講義が終わったらさっきのことについて追求してやるわ。
 そんな私には、一つ気になることがあった。
 ほとんどの学生が再び講義に集中する中、私の右斜め前方からこちらを意識する視線があったのだ。
 ――長い髪を軽く染めた女の人。
 チラチラと頻繁にこちらを向く彼女が例の関係者であることを知るのは、この後のことだった。

 ◇

 ヴァンパイアウイルス概論の講義が終わると、私は健くんを人気のない場所へ連れ出した。
 今は講義が行われていない、三階の小さめの講義室。
「ねえ、教えて。クロスの原液の話」
 そして私は単刀直入に切り出す。
「健くんだって、この大学の看護学部に受かったんだからわかるよね。クロスはヴァンパイアウイルスの働きをブロックするだけ。もし原液を飲んで、すべてのウイルスの機能がブロックされたらどうなるか知ってるの? 死んじゃうんだよ、健くん」
 ヴァンパイアウイルス感染者は、生命維持機能をウイルスに依存してしまっている。
 その機能がすべてカットされてしまったら、あとは死を待つだけなのだ。
「知ってる……」
 健くんはポツリとつぶやくと、私から目をそらし窓の外を向く。
 春の日差しが整った彼の顔を照らす。
 キャンパスの広場を見下ろせる窓。
 休み時間を満喫する学生たちの姿が、彼の瞳に写っていた。
「死んでしまうかもしれないことも。そして、クロスの原液が病気を治療する効果を持つかもしれないという極秘の研究結果があることも……」
 なに?
 その、極秘の研究結果って?
 そういえば健くん、さっきの講義中に『とある関係者』って言ってた。
 きっとその関係者に騙されているんだ。
 極秘の研究の実験台にされようとしてるんだよ。
「私、クロスについても一生懸命勉強した。でも原液にそんな効果があるなんで、どの本にも書いてなかった。健くんは騙されているのよ、その関係者とやらに」
「そうかもしれない」
「そうかもしれないって……?」
 それって、どういうこと?
 騙されていても、自分の命よりも、その研究が大事だってこと?
「前にも言っただろ。俺はもうこの世に未練はないんだ。だから最期に君の血がほしいって頼んだんだよ」
 窓に寄りかかり、私の瞳を見つめる健くん。
 お願いだから、そんな目で見ないで。
 健くんへの気持ちが蘇ってしまうから。
「でも、それは無理なんだろ?」
 ええっ?
 それって私が悪いの?
 だって、だって……。
 健くんが私にウイルスを流し込んだら、死んじゃうんだよ。
 もうリミットに達しちゃってるんだから。
「ほら、やっぱり無理って顔してる。だったら実験に協力して死んだ方が、世の中のためになると思わない?」
「…………」
 何も言葉が出てこない。
 どうして健くんは、誰の血も吸わずに静かに生きていこうって思わないの?
 血を吸いたくなっても、クロスを使えばいいだけじゃない。
 そう言ってあげたいのに、口から出てこない。
 なんで、なんで、なんで?
 私の血が欲しいと言ってくれたことが嬉しかったから?
 健くんにとって特別な女性になりたいと思っているから?
 その時だった、講義室の扉がすっと開いたのは。

「大丈夫よ。決して健は死なせない」
 入ってきたのは一人の女性。
 そう、さっきの講義の時に私のことを最後まで見ていた長髪の女性だった。
「瑠名花……」
 驚きの表情を見せる健くん。
 るなかって、その女性の名前?
 健くんの瞳の真ん中にその女性が映る。
 わずかに緩む彼の表情に、胸の奥がチクリと痛んだ。
「困るのよ、健。そんな見ず知らずの女に、パパの研究のことをペラペラと喋ってもらっては」
 腕組みをしたその女性――瑠名花は、健くんのことをキッと睨みつける。
「ゴメン……」
 すっかり恐縮した健くんは、ただうつむくだけだった。
「それに何? この女。散々お世話してあげた私を捨てて、この女に乗り換えようっていうの?」
「ち、違うよ。そんなことはない……」
 健くん……。
 態度がガラリと変わる健くんの姿を見て、悲しみがじわじわと湧き上がって来る。
 やっぱり、私の血を吸えたら死んでもいいっていうのはウソだったんだ。
 そりゃ、そうよね。
 こんなに綺麗な女性がいるんだから。
 どうせ死ぬなら、私なんかの血を吸うより、この女性に協力して死んだ方がマシだもんね。
 さっき、『パパの研究』って彼女は言ってたけど、その偉い先生の実験台にでもなればいいわ。
「それに、そこのあなた!」
 瑠名花は、今度は私を睨みつける。
「健は私のものなんだから、ちょっかい出さないで」
 ちょ、ちょっと。
 ちょっかい出してくるのは健くんの方なんだから。
 私は必死に忘れようとしてたのに。
「ふーん、あなた、可愛いくせに処女の匂いがするわね。そういうわけか……」
 何よ、そんな勝ち誇った顔をして。
 もしかして、健くんとすでに深い仲になっているとか……。
「言っておくけど、健はあなたに興味があるんじゃなくて、処女の生き血が好きなだけ。それにね、健は次に生き血を吸ったら死んじゃうの。だからね、あなたと健との未来はどこにもない。あきらめなさい」
 ――私と健くんとの未来はどこにもない。
 確かにその通りだ。
 健くんがクロスなしで私の血を吸ったら、彼は死んでしまう。
 健くんと私が男女の関係を結んだら、彼はもう私に見向いてくれなくなるかもしれない。
 残酷な現実がずしりと心を押しつぶす。
 だから私は健くんのことを諦めようと思ったんじゃない!
 あなたに言われなくてもわかってるわよっ!!
 叫びたい気持ちをぐっと我慢しているのに、瑠名花はさらに私の気持ちを逆なでする。
「わかった? どこの馬の骨だかわからない処女さん」
 寄ってたかって私のことを処女、処女って呼ぶなっ!
 私の怒りは爆発した。
「私にもちゃんと名前があります。真衣です。折絹真衣! 健くんとは何でもない。それだけは覚えておいて下さいっ!」
 私はチラリと健くんを見る。
 ちゃんと私の名前が聞こえたよね!?
 私たち、五年前に会ってるんだけど……。
 しかし、健くんは静かにうつむいたままだった。
 本当に忘れちゃってるのね……。
 崖から落とされたような、目の前が真っ暗になるような感覚。
 名前に反応してくれるんじゃないかと淡い期待を持っていた私は、本当にバカだ。
「折絹真衣!?」
 ところが予想外の事態が発生。
 健くんではなく、瑠名花が私の名前に反応したのだ。
「あ、あなたが、あの折絹真衣……なの?」
 どういうこと?
 健くんは無反応なのに、初対面の瑠名花の方が私の名前を知ってるなんて……。
「あはははははは……」
 そして瑠名花は高らかに笑い始める。
「これは面白い。いいじゃない、やれるもんならやってみなさいよ。私が見届けてあげるから。あはははは……」
 そのまま講義室を出て行く瑠名花。
 私はポカンとその場に取り残された。

 ◇

 全くわけがわからない。
 そもそもの話のきっかけは、クロスの原液を用いた秘密の実験についてだった。
 そこに現れた謎の女性、瑠名花。
 どうやら秘密の実験を実行しているのは、瑠名花の父親であるらしい。
 きっとその実験をきっかけに、健くんは瑠名花と仲良くなったのだろう。
 推測できるのはここまで。
 分からないのは、瑠名花がなぜ私の名前を知ってるのか?
 そして、私が折絹真衣であることを知った時の、瑠名花の異常な反応。
 その謎を教えてくれる唯一の存在――健くんは、窓際でうつむいたままだった。

「ねえ健くん、教えて」
 私は講義室の机に寄りかかり、優しく健くんに問いかける。
 なんだかこれは長い話になりそうな予感がした。
「あの女性は誰なの? 何で私の名前を知ってるの?」
 健くんはゆっくりとこちらを向く。
 そしてポツリポツリと語り始めた。
「広葉瑠名花(こうよう るなか)。この大学の理事長の娘だ」
 驚きが私の中を駆け巡る。
 り、理事長の娘!?
 だから、あんなに態度が大きかったんだ……。
「四年前のことだった。世間から逃げるように生活していた俺たち家族に、手を差し伸べてくれたのが理事長だったんだよ」
 ――ヴァンパイアウイルス研究の実験台として協力してほしい。
 ――その見返りに、家族の生活は保証するし、感染者を救う薬も開発してみせる。
 理事長からの提案を受け入れ、健くん家族は大学の近くに住居を移したという。
 そして、実験台として研究所に通う日々が続く。
 その甲斐あって、ついに抗体製剤『クロス』が開発された。
 クロスのおかげで社会権を得た健くんは、広葉大学付属高校に通うことになった。
「ウイルス感染者であることを気にせずに高校に通えると聞いて、俺の心は踊ったさ。だが実際は違ってた。現実はそんなに甘くなかったんだ」
 ヴァンパイアウイルス研究で有名な広葉大学の付属高校ということで、生徒の中にはウイルス感染者が何人もいた。
 だから、学校生活や人間関係で特に困ることはなかった。
 ただし表面的には。
 異性関係において一歩踏み込むと、問題は顕在化する。
「俺だって男だから、女の子のことが好きになる。好きになると声をかけたり、告白したりする。そうすると、どうなると思う?」
 どうなるって?
 無下に断られる……とか?
「突然彼氏を紹介されて、『この人とつき合ってますから』と断られるんだ」
 やっぱり……。
 というか、ダメじゃない。彼氏持ちの女の子に手を出しちゃ。
「それが何回か続いた。あーあ、他に好きな男がいたんだ、と諦めた。でもそのうちに、何かがおかしいってことに気付いた」
 おかしいって?
 何が?
「断りに来る女の子は、必ず彼氏を連れてくるんだ。それっておかしくね? 普通、『好きな人が他にいますから』だろ? 何で、彼氏がいなかったような女の子でさえ、俺が声をかけたとたんに彼氏ができるんだよ」
 彼氏がいなかった女の子に急に彼氏ができたって?
 うーん、確かに……。
「一つ確かめたいんだけど、声をかけた女の子って、その時本当に彼氏はいなかったの?」
「ああ、そう思う。それに、その女の子たちはみんな処女だった。俺ってウイルス感染者だから、血の匂いで処女かどうかわかるんだよ」
 そ、それって……。
 まさか……。
「ある日、変な噂が耳に入ってきたんだ。俺は処女にしか興味を示さないから、処女を失えば災難から逃れられるって。俺に声をかけられたら、それは逆にチャンスだから、気になる人に打ち明ければ告白が成功するって」 
 なっ……。
 そんなことって……。
「ひどいだろ? バカにしてるだろ? こうして俺の周りからだんだんと処女がいなくなっていったんだ」
 健くん自身が処女を減らしているのかと思っていたけど、こういう事情があったなんて。
 私はちょっと健くんに同情する。
「でも、一番許せないのは俺自身なんだ。処女でなくなったとたん、その女の子から興味がすうっと無くなってしまう。処女かどうかなんて、その女の子の人格や性格や優しさとは全く関係のない部分じゃないか。頭ではわかっているのに、体が納得しない。そんな俺自身が、いやこのウイルスが本当に許せない……」
 私に背を向け、再び窓の外を向く健くん。
 窓枠に手を置き、うなだれた肩が小刻みに震えていた。
「そんな中、唯一俺に対する態度が変わらなかったのが、瑠名花だった」
 広葉瑠名花。
 ヴァンパアウイルス研究のメッカと言われる広葉大学理事長の娘。
「瑠名花の最初の印象は、お世話になってる研究所でよく見かける女の子、って感じだった」
 きっと父親の研究の手伝いで研究所に出入りしていたのだろう。
 私は、白衣を来てフラスコを手にする長髪の彼女を連想する。
「彼女は、同じ付属高校の一つ上の学年の先輩だった。そして夜は、俺が通う研究所の手伝いに来ていたんだ。そして俺は、だんだんと彼女に好意を持つようになった」
 殺伐とした学校生活。
 一方、検査に通う研究所では、愛想よくしてくれる美人の助手に会うことができる。
 好意を持つのも、ごく当たり前のような気がした。
「瑠名花は、ヴァンパイアウイルスのことを熟知している。だから、俺のことを拒絶することはなかった。しばらくして、俺たちは付き合うことになったんだ」
 やっぱり二人は付き合っていたんだ……。
 なんだか悲しいけど、ちょっぴりほっとしてしまう。
 健くんを受け入れてくれる人がいたことは、本当に救いだったことだろう。
「しかし、楽しい日々は長く続かなかった。理事長に二人の仲がバレてしまったんだ」
 ああ、健くん……。
 二人の仲は私にとって悲しみの種なのに、応援したくなってしまうのはなぜだろう。
「瑠名花は必死に理事長を説得してくれたよ。『パパは散々、ヴァンパイアウイルス関連事業で儲けているくせに、自分の娘が付き合うことは許さないなんて身勝手過ぎる』と。それでも言うことを聞かない理事長に『それなら私も覚悟がある』と言ってくれたんだ」
 覚悟。
 女にとって覚悟とは、なんなのだろう。
 まさか……。
「ある日、事件は起きた。研究室で二人きりになった時、瑠名花は派手に転んでしまった。そして割れた実験器具で指を怪我してしまったんだ」
 ガチャン!
 当時の様子が、私の頭の中で再生される。
 白衣で床に横たわる瑠名花。健くんは慌てて駆け寄ったことだろう。
「切れた指から流れ出る血。俺が実験用滅菌ガーゼで傷口を抑えようとしたら、瑠名花はニヤリと笑って、その指を俺の口の中に突っ込んだんだ」
 すると健くんは目をつむったまま天井を見上げる。
 まるでその時の感覚を思い出すように。
「素晴らしい瞬間だった。口の中に広がる処女の生き血。そして彼女の血液中にドクドクと流れ込む俺のウイルス。なんとも言えない天に昇るような感覚だった。自分はこのために今まで生きてきた、と思えるほどに。この時、二人は一つになったんだ」
 幸せそうな表情をする健くん。
 いかに素敵な体験であったのかがよくわかる。
 私だって健くんに生き血を舐めてもらった。
 でも、その時健くんは、私にそこまでの表情を見せてはくれなかった。
 瑠名花さんが無性に羨ましくなる。
 好きな男の人のものが体内に流れ込む感覚って、どんな感じなのだろう?
 彼女にとっても幸せの瞬間だったに違いない。
 どうしようもない敗北感が私の中に広がっていく。
「気がつくと俺は瑠名花を抱きしめていた。明らかにこれは瑠名花の策略だったけど、俺は彼女に深く感謝した。その後、クロスを飲まなかった瑠名花はヴァンパイアウイルスに感染し、理事長は俺たち二人を同様に扱わざるを得なくなった」
 女の執念、というのだろうか。
 瑠名花、いや瑠名花さんは本当に健くんのことを愛していたんだ。
 それに比べて、自分は淡い恋心を持っていただけ。
 やっぱり瑠名花さんには敵わない。
「それから何回か俺は瑠名花の血を吸った。いずれも素晴らしい体験だった。そしてウイルス放出量はついにリミットに達してしまう。だけど不思議なもので、もうこれ以上処女の生き血が吸えないと思うと、ますます吸いたくなった」
 バカな健くん。
 大人しく瑠名花さんとの静かな時間を楽しめばいいのに。
 そして血を吸いたくなったらクロスを使えばいいのに。
 でもこれがヴァンパイアウイルスの魔性の力なのだろう。
 子孫を拡散させたいウイルスの本能に、人間の理性が屈していく。
「そこで俺は思い出したんだ。リミットに達していても、クロスを使わなくても、処女の生き血が吸えることを。そんな方法で、俺に生き血の素晴らしさを教えてくれた女の子がいたことを」
 そ、それって……。
 もしかして……。
「瑠名花からもらった合格者名簿にその女の子の名前を見つけた時は、俺は飛び上がって喜んだ。でも、本当にその女の子かどうか、自信がなかったんだよ。俺たちは数日しか会っていなかったのだから」
 そう言いながら健くんは講義室の前へ移動する。
「君が僕のことを覚えていてくれて、本当に嬉しかった。でも、また鼻血を舐めたいなんて、俺の最低なお願いを切り出す勇気が無かった。だって君は、すごく純粋だったから」
 直立不動のまま私を見つめる健くん。
 これから何を始めるつもりなのだろう?
「だからこれを見て、ゆっくり考えてほしい」
 そして突然ダンスを踊り始めた。
 ロックミュージシャンのような。
 腰をカクカクさせる仕草を強調して。
 そう、五年前と同じあのダンスを。
「健くん……」
 覚えていてくれたんだ。
 私のこと……。
 嬉しくて、嬉しくて、思わず涙が出てしまう。
 ダンスも懐かしい。
 五年前はこのダンスを見て大笑いしたんだよね、私。
 昔はぎこちなかったけど、今はすごく上手くなってる。
 相当練習したんだね。
 あの時はごめんね。
 両親に話したりして。
 学校のみんなにバレちゃったりして。
 そして、お別れの言葉が言えなくて。
 次から次へと溢れる涙。
 すると鼻の奥からつうーっとした感覚が……。

 ダメっ!

 心が叫ぶ。
 ここで鼻血を出したらダメ。
 感傷に浸りすぎたらダメ。
 心を鬼にして、冷静になるのよ。
 だって今の健くんには、瑠名花さんという彼女がいるんだから。
 彼女の生き血が吸えないから、私の鼻血を舐めようってどういうこと?
 ただの都合の良い女じゃない。
 私はそんなことをするためにこの大学に来たの?
 そんな女になるために、健くんを探していたの?
 違うでしょ!
 健くんのようなヴァンパイアウイルスに苦しむ人を救うためだよね。
 その過程で、健くんに会えれば嬉しいかなって思ってただけだし。
 そんでもって、その時に健くんがまだ独り身だったら最高だって……。
 もう、彼女がいるんだもん。
 その人は、身命を賭して健くんに尽くしているんだよ。
 だから無理だよ。
 敵わないよ。
 私の五年間は無駄だったんだ。
 健くんに恋して、罪悪感に苛まれて、そして一生懸命探して。
 男の人からの誘いも全部断って、勉強して、ヴァンパイアウイルスに詳しくなって。
 大学で再会して、嬉しくなって、最低の男でも昔のことを忘れてないってどこかで信じて。
「ふざけないでよ!」
 思わず私は叫んでいた。
「私が処女でなかったら、どうしてたのよっ!?」
 五年間、密かに守り続けてきたもの。
 それが粉々に打ち砕かれてしまったような気がした。
 涙がとめどもなく流れてくる。
「好きだった。健くんのことが、本当に好きだった……」
 そして、鼻の奥から口にかけてつうーっと流れる液体の感覚。
「ありがとう。こんな僕のことを覚えていてくれて」
 健くんがそっと近寄ってくる。
「本当に最低だよね。ウイルスに争うことができない最低な男だ」
 私の顔に口を近づけた。
「実はね、鼻血だってウイルスは流れ込むんだよ。傷口があるんだから。だからこれが最期」
 ちょ、ちょっとそれって。
 死んじゃうってことじゃない!?
 健くんは、そんなことはお構いなしにペロリと私の鼻血を舐める。
「うん、美味しい。涙の味も懐かしいなぁ」
 一瞬、恍惚な表情をしたかと思うと、苦しみに顔を歪める健くん。
「ありがとう。さようなら……」
 私を見る悲しそうな眼差し。
 うっすらと涙を浮かべて。
 そして健くんはドサリと床に倒れこんだ。
「健くん! 健くんっ!!?」
 何も返事をしない健くん。
「バカっ! 何でそんなことをしたの? 健くん、健くん……」
 救急隊が到着するまでの間、意識を失った健くんの体にすがりついて、私は泣き続けていた。

 ◇

 それから私は一週間泣き続け、二週目にようやく胃が食べ物を受け付けるようになった。
 人間が水と食料を欲するように、ヴァンパイアウイルスは処女の生き血を欲している。
 健くんは、ウイルスの本能であるその欲求をついに抑えることができなかった。
 もう、そんな悲劇は繰り返していけないんだ。
 私のように悲しむ女性を増やしてはいけないんだ。
 もっと勉強しよう。
 そして私も研究所に通えるようになるんだ。
 健くんが夢見ていた、クロスの原液を使った研究を完成させたい。
 それを使って、世界中のヴァンパイアウイルス感染者を救ってあげたい。
 ベッドの中でそう思い続けることによって、ようやく私は大学に通う気持ちを作ることができた。

 そして健くんが倒れてから一ヶ月後、私はようやくキャンパスに顔を出す。
「真衣さん、久しぶり」
「もう大丈夫?」
 集まってきた友人たちが声をかけてくれる。
 その温かさが心に染みる。
 そして――
「久しぶりだね、可愛い処女さん」
 何度も頭の中で再生していた大好きな声。
 えっ!?
 それって……!?
 驚いて振り返ると、そこには健くんが!
「で、いいんだよな? 瑠名花?」
「ええ、彼女は処女のままよ」
 って、瑠名花さんも!?
「お久しぶりね、真衣さん」
「ど、どうも。で、でも、け、健くんが生きてるなんて……」
 私は動揺を隠せなかった。
「あら、そんなに健に死んでもらいたかったのかしら? 本当に罪深い人ね」
「いやぁ、照れるなぁ……」
 ポリポリと頭をかく健くん。
 健くんが生きていて本当に良かった!
 本当は抱きつきたかったけど、瑠名花さんがいるから遠慮しておく。
「ちょっと話がしたいから、喫茶店はどうかしら?」
「ええ、わかりました」
 そして私は、あの時何が起きていたのかを知る事になった。

「あの時ね、健は賭けに出たのよ」
 瑠名花さんが事の真相を語り出す。
 肝心の健くんは、コーヒーをすすりながら瑠名花さんの隣でニヤニヤとこちらを眺めていた。
「賭けって?」
「クロスの原液を飲んで、ヴァンパイアウイルス感染症が治るかどうかって賭けよ」
 クロスの原液?
 あの時、講義室にそんなものは無かった。
 瑠名花さん、何か勘違いをしているのでは……?
「クロスの原液って、そんなものはあの場所にはありませんでしたけど」
 すると今度は、瑠名花さんが目をぱちくりさせた。
「ええっ? あなた、何を言って……? そうか、あの研究はパパの極秘事項だったのね……」
 急に納得されても困る。
 ちゃんと説明してもらわねば。
「教えて下さい。一体、何が起きていたんですか?」
 すると瑠名花さんはうーんと少し考えた後、重い口を開いた。
「まあ、当事者なんだから特別に教えてあげるわ。真衣さん、五年前にうちの研究所に入院してたことがあったでしょ?」
 五年前って……。
 そうか、健くんに最初に鼻血を舐められた時。
「あの時ね、キーゼルバッハ部位の傷口を通して、健のウイルスがあなたの体に流れ込んでいたの。ごくわずかだけどね」
 ええっ、あの時、何も異常がないって言われてたけど。
 それって嘘だったってこと?
「その時にね、あなたの体の中に強力な抗体が生成されていたの。ヴァンパイアウイルスに対抗できる唯一の抗体。きっといろいろな偶然が重なったのね。ウイルスの量が微量だったり、その他の成分が混ざったりして。だからあなたはウイルスに感染することは無かった。そしてパパは、その強力な抗体を手に入れた」
 だから一ヶ月も入院させられてたのね。
 何度も検査や採血を行っていたのは、そういう理由だったんだ。
「そして抗体に名前をつけた。あなたの名前をとって『クロス』とね。ほら、『マイ』だったら英語的になんの事だかわからないじゃない。だから『真衣(トゥルークロス)』から『クロス』って名付けられたの。もちろん、十字架という意味も込めてね」
 ま、まさか、『クロス』の由来が私の名前だったとは……。
「だからね、あなたの血液はクロスの原液、そのものなの」
 それがすべての真相なんだ。
 ようやくわかった。
 瑠名花さんが私の名前を知っていたことも。
 そして私の名前を聞いた時に「やってみなさいよ」と言ったのかも。
「まさかね、本当に健の病気が治っちゃうとはね。クロスの原液には病気を治す力があることはわかっていた。だけど実験ではほとんど成功してなかったの。ある特殊な成分が必要ってことまでは突き止めたんだけどね……」
 ――ある特殊な成分。
 私にはわかる。
 それが何であるのか。
「病気が完治してからの健は腑抜けよ。誰が処女だか、わかんなくなっちゃったようだし。顔や性格の良い娘がいいですって? 女に一番大切なものは処女だってこと、どうして忘れちゃったのかしら?」
「そんなこと言うなよ、瑠名花」
 今まで黙っていた健くんが口を開く。
「俺はこの間まで世の中に絶望してたけど、今はそうでもないんだ。誰が処女だかわからない世界って、こんなにも素敵だったとはね。みんなが可愛く見える、みんなが魅力的に見える、世の中ハッピーだよ」
 って、そっちなの?
 健くんの世の中の希望って。
「だから最近、健とはちょっと距離を置こうと思ってるの。それよりも真衣さん、どう? 私と付き合わない?」
 つ、つ、付き合うって……?
「ほら、私は健に血を吸われてウイルス感染者になっちゃったでしょ? だから、処女の生き血が欲しくてどうしようもなくなる時があるのよ。そんな時は自分の血を舐めてるんだけど、そろそろ飽きちゃった。真衣さん処女だし、生き血はクロスの原液だし、今度一緒にどう?」
 ど、ど、ど、ど、どうって言われても……。
 な、なんだか瑠名花さんの視線がエロいんですけど。
「あら、付き合ってくれなかったら世界中にバラすわよ。真衣さんの血液はクロスの原液だって。そしたらヴァンパイアウイルス患者がわんさか押し寄せて来るかもね」
「ちょ、ちょっと、やめてくださいよ、瑠名花さーん」
 そんな私たちの様子を見て、健くんもニヤニヤ笑っている。
「世界中にバラすといえば、これからが大変よ。ヴァンパイアウイルスが完治したなんて世界初の症例なんだから、すぐに論文書かなきゃ! 今ならネーチャーにだって載るわ」
 ネ、ネーチャー!?
 世界最高峰の学術雑誌!
 そ、それって、すごいことじゃない!
「二人とも、英語書ける?」
「えっ?」
「いや、さっぱり」
 受験英語くらいなら書けるかもしれないけど……。
「何よ、使えないわね。あなたたちには、クロスの原液を感染者に投与した状況について詳しく書いてもらわなくちゃいけないんだから」
 ええっ!?
 それって、鼻血を舐められたあの状況が世界中にあからさまになるってこと?
 そ、それだけはカンベンして欲しい。
「ネットからの英文コピーはダメだからね。わかってるよね。ちゃんと自分で英語を書かなきゃ、世界からは信用されないんだから」
「だったら英訳のプロを雇えばいいじゃねえか。理事長ならできるだろ?」
「バカね。そんなことしたら、パパに筆頭著者を盗られちゃうじゃない。いい、これはパパを見返すチャンスなの。この研究で、世界中のヴァンパイアウイルス感染者が完治するかもしれないのよ」
 そ、それはすごい。
 もしそうなったら、世界中から賞賛されること間違いなしだ。
 私もいきなりリケジョデビューね。
 マスコミも殺到して、いやん、どうしよう。
「そしたら将来、ノーベル賞だって夢じゃなくなるの。そんな幸運、人生に一度来るかどうかなんだから……」
 ノ、ノーベル賞!?
 いやいや、普通の人には来ません。そんな幸運。
「そいつはスゲえな。ノーベル賞、ストックホルム、北欧美人……」
 動機はいろいろみたいだけど、ノーベル賞に向けて、この三人なら上手くやっていけるような気がした。
 これから充実した毎日が続きそう。
 私の大学生活は始まったばかりなのだから。




 了



ライトノベル作法研究所 2016夏企画
テーマ:『鼻血』

ロココのココロ2016年07月28日 20時47分23秒

「これは?」
「あいてません」
「じゃあ、これ?」
「左」
「これ?」
「左」
「次は分かる?」
「うーん……」
 視力検査は苦手だ。
 だんだんと小さくなるマーク。矢継ぎ早に質問する検査官。
 そのプレッシャーが私を押しつぶそうとする。
「下……ですか?」
 最後のマークを、私は適当に答えてしまった。
「次は反対の目で。これは?」
「左」
「じゃあ、これ?」
「左」
「これは?」
「あいてません……」
 やっとのことで検査から解放され、ほっとする私の耳にクラスメートの話声が飛び込んでくる。
「ねえ、今日の視力検査、平仮名の『の』が混ざって無かった?」
「ええっ、そんなのあったっけ?」
「ほら、最後の視力二・〇のやつ」
「そこまで見えるの、あんただけよ」
 それって……?
 私が適当に答えた一番下のやつ?
 確かめようと視力検査場を向いてみるが、離れたこの場所からは確かめることなんてできる訳が無い。
「あいてません、左、左、えっと、えっと、次は……」
 あんなに嫌だった視力検査の声につい耳を傾けてしまうのは、なんとも不思議な気持ちだった。



500文字の心臓 第149回「ロココのココロ」投稿作品