2017年02月07日 07時46分55秒

 父が死ぬまでの数年間、私たち姉妹は洞窟の中で暮らしていました。悪い人に見つかると殺されるからと言い聞かされて、世間から隠れて生活していたのです。
 ざばん、ざばんと絶えず波の音が聞こえてきます。外に出ることが許されない私たちにとって、この波音と洞窟の入口からわずかに見える青空だけが、世界の変化を教えてくれる窓でした。
 とりわけ楽しみにしていたのが夜です。空の青もしくは雲しか見えない昼間とは違って、晴れた夜には星明かりが洞窟の奥まで届きます。私たちは、目に映る限られた星々を結んで勝手に名前を付けていました。
「お姉ちゃん、また『P』が見える季節になったよ」
「ホントだ。またあれが食べれるね」
 夜の長さが一番長くなると、Pの形をした星座が現れます。すると父は、私たちにお餅を持って来てくれたのです。だから私たちは、夜空にPが現れるのを楽しみにしていました。
 ある朝、父は冷たくなっていました。私たちは、ようやく洞窟から出ることができたのです。
 今でも正月の夜に北斗七星を見上げると、姉と見た星空を思い出します。



500文字の心臓 第153回「P」投稿作品

プチ変換2017年01月18日 23時09分24秒

「先生は、チンチンになりました」
 教室に響く可愛らしい声に、教壇に立つ俺はあ然とした。
 ええっ?
 何を言ってるんだ、この子は!? 授業中に。
 もしかしたら聞き間違いかもしれない。俺は早速確かめる。
「引川千絵さん。教科書のさっきのところ、もう一回読んでくれないかな?」
「はい、わかりました」
 小学六年生とは思えないハキハキとした返事。俺を向く真摯な眼差し。
 こんな真面目な子がふざけて教科書を読んでいるとは、とても思えない。
「先生は、チンチンになりました」
 やっぱり……。
 聞き間違いじゃなかった。
 そこで俺はあることを思い出す。
 そっか。
 あれか……。
 ――小さな異能者。
 今日から俺は、そんな小学生たちを教えることになったのだ。

 ◇

 発端は、先月掛かってきた一本の電話だった。
『ねえ、太田クン? 来月から私の代わりに、ちょっと面白いクラスを教えてみない?』
 真夜中に突然。
 眠い目を擦りながら、スマホからの妙に明るい声に耳を傾ける。
 まあ、こんな時間にこんな電話を掛けてくる人物は決まっている。大学時代にお世話になった安藤妙子先輩だ。
「来月からって、そんな急には無理ですよ」
『あれれ? 太田クン、今月で暇になるんじゃないの? 臨採やってるクラスって、前任者が産休明けで帰って来るって聞いたけど』
 臨採というのは、教員の臨時採用のこと。教員免許は持っているが採用試験には通っていない人が就くのがほとんどで、産休などで急に欠員となった穴を埋めるケースが多い。あくまでも臨時の先生なので、産休明けで先生が戻ってきたらお役御免になってしまう。
「どうしてそんなこと知ってるんですか?」
『私を誰だと思ってるの? この業界は狭いのよ。それで? 返事は?』
 矢継ぎ早に俺の回答を求める先輩。いつもながらに勝手なもんだ。どんな子供たちを教えるのかがわからなければ、答えようがないじゃないか。
「ちょっと面白いクラス、ってのが気になりますね。先輩の言う『面白い』が、俺にとって面白かった試しは一回も無いんですけど」
 不躾には嫌味で返す。大学の頃、俺は先輩にいじられてばかりいた。
『あら、本当に面白いクラスよ。太田クンも気に入ると思うんだけどな。ところで私が今、森葉女学園に勤めてるのは知ってるよね?』
 ――私立森葉女学園。
 小・中・高一貫の、お嬢様が通う私立学園だ。どこかのアイドルグループの名前ではない。
「ええ、知ってますよ」
『その初等科の六年三組が、今、私が担当しているクラスなんだけど、少し変わってるのよ』
 森葉女学園には、かなり世間ズレした女の子が通っていると聞いた事がある。その中でも変わっているという言うのだから、相当なものだろう。
 これは注意せねば、と一言一句聞き逃さぬよう先輩の説明に集中する。
「それで、どんな風に変わってるんですか?」
『おっ、乗り気になってきたね』
「そんなわけじゃないですよ。もしかしたら、ってのはありますけどね」
 森葉女学園は私立学校だ。ということは、県の採用試験に合格していない俺でも正規採用してもらえる可能性がある。先輩のクラスがどれだけ変わってるのか分からないが、我慢できる範囲であれば渡りに船かもしれない。
 しかし、続く先輩の言葉に俺は耳を疑った。

『六年三組の子はね、みんな小さな異能者なの』

 異能者? この現実世界に?
 アニメかなにかと勘違いしているんじゃないだろうか。
「い、異能者……ですか?」
『まあ、異能者ってのはちょっと言い過ぎだけど、みんなが小さな特殊能力を持ってるの。例えば、プチ変換とかミニ変換とかね』
 プチ変換? ミニ変換?
 なんだそれ?
 なんでも小さく変換しちゃう能力とか?
『電話じゃ上手く説明できないんだけど、決して超能力じゃないから安心して。実際に人間ができる範囲の習慣というか癖というか、そういうものに近いから』
 こんな説明じゃ、なんだかよくわからない。
『本当にたわいもない微笑ましい能力なのよ。他にも、ナラ変換とかシガ変換って子もいて面白いわよ』
 奈良変換? 滋賀変換?
 おいおい、変換が関西まで及ぶのか? それは大変だぞ? 京都や大阪じゃないところが、小さいというかなんというか……。
「それで先輩のクラスの子、能力の属性はどの子もみんな『変換』なんですか?」
『おっ、属性なんて言葉使っちゃって、興味が湧いてきた?』
「そういうわけじゃないですけど、ちょっと面白そうだなって」
 すると先輩は真面目な声で切り出した。
『これは太田クンにとっても悪い話じゃないと思うの。来月の一月から三ヶ月間、ちゃんとクラスを教えることができたら、四月から正規採用してもいいって理事長も言ってるわ。大丈夫、私だって教えることができたクラスだもん。太田クンなら間違いないわ』
 おおっ、正規採用キター!
 それに初等科の六年生ってことは、どんな能力者であれ三ヶ月間我慢すれば中等科へ上がってしまうってことだ。その後は、正規採用と普通クラスの担任が俺を待っている。
「わかりました。前向きに考えておきます。それで先輩は何で辞めちゃうんですか?」
 俺は核心を突く。すると先輩は急にデレデレ声になった。
『それがね、聞いてよ、できちゃったのよ』
 えっ、できちゃった?
「できちゃったって、巷でよく聞く『できちゃった婚』ってやつですか?」
『そうなのよぉ。飲み屋でなんだか見たことのあるようなイケメンにナンパされて、お持ち帰りされちゃったの。妊娠したこと後で彼に伝えたら、結婚しようってちゃんと言ってくれたのよぉ』
 ええっ、そんなことってあるか!?
 まあ、やり逃げされなかったのは良かったと思うけど。
「その人、ちゃんと仕事してます? 騙されてるんじゃないでしょうね?」
 やっぱり結婚やめた、なんてことになったら俺の就職はパーだ。ここはしっかりと確認せねばならぬ。
『それがね、彼ったらプロ野球の選手だったの。広島の方に本拠地があるチームのレギュラー。道理で見たことのある顔だったわけよ』
 う、嘘だろ?
 ナンパしてきたイケメンがプロ野球選手で、レギュラーってことは今シーズンの優勝メンバー!?
 これが本当だとしたら奇跡としか思えない。
「まさに神ってますね」
『でしょでしょ!? 結婚したら家庭に入ってくれって言われて、来月、広島に引っ越すことになっちゃったの』
 マジか。広島に行くなら森葉女学園は辞めざるを得ない。
『太田クンが六年三組を引き継いでくれたら、こっちも安心して広島へ行けるんだけどなぁ……』
 そんな猫なで声で言われても……。
 本当に勝手なもんだ。
 先輩ののろけ声を聞いていると、無性に背中がむず痒くなる。置いてきぼりになるクラスの子供たちがなんだか可哀想になってきた。
「わかりました。やりますよ。その代わり正規採用の件は理事長に念押ししておいて下さいね」
『サンキュ! さすがは私の後輩。彼の試合のチケット贈るから見に来てね。あっ、あと離任式の祝辞の文面もよろしく。素敵な内容を期待してるから』
 こうして俺は、先輩の代わりに六年三組を受け持つことになった。

 ◇

 六年三組での最初の授業は国語だった。
「先生は、チンチンになりました」
 そしていきなり、この引川千絵の発言。
 俺は教科書を確かめる。
 彼女に音読を頼んだ箇所には、こう書かれていた。

『先生は、プンプンになりました』

 何度目をこすっても、『チンチン』には見えない。
 初めて教えるクラスだ。引川千絵がどんな子なのか、そしてどんな能力を持っているのかわからない。
 が、とりあえず間違いを指摘しておこうと俺は口を開く。
「引川さん、ここは『プン……」
 すると突然、俺の言葉を遮るように一番前の席に座っていた子が手を上げた。
「先生!」
「えっと……」
 この子は誰だろう?
 俺は慌てて教卓に貼ってある座席表を確かめる。
 猫山路美。学級委員長だった。
「なんでしょう? 猫山さん」
 すると猫山路美は立ち上がり、うつむいたままの引川千絵を横目で見ながら俺に訴える。
「千絵ちゃんはプチ変換なんです。仕方がないんです。スルーしなきゃダメなんです」
「プチ変換……?」
 これが先輩の言っていたプチ変換か。
 それは、どんな能力?
 教科書の『プンプン』を『チンチン』と読んでしまうことに関係があるってこと?
 この際だから、学級委員の彼女に聞いてみるのも手かもしれない。
「俺は今日が初めてだから、よく分からないんだ。ちょっと教えてくれないかな」
 すると猫山路美は教室を見渡し、クラスに異論が無いことを確認してから俺を向いた。
「プチ変換っていうのは、文書の『プ』を『チ』って読んじゃう能力のことなんです。だから『プチ変換』って言うんです。千絵ちゃんは、『プンプン』と読んでるつもりでも『チンチン』って言っちゃうんです」
 ま、まさか、そんなことが……。
 俺は思わず言葉を失った。
「それに、千絵ちゃんの苗字は『ヒクカワ』ではありません。『プルカワ』なんです」
 ――引川千絵(ぷるかわ ちえ)。プチ変換。
 こうして俺の、波乱万丈の一日が始まった。

 ◇

 それにしても、なんて不思議な変換能力なんだ。
 プチ変換とは、『プ』を『チ』と読んでしまう能力だった。
 能力の概要を理解した俺は、二時間目からは彼女らを観察する余裕が生まれていた。例えば――

 二時間目、社会。
 ミニ変換、三浦二衣奈(みうら にいな)の場合。
「少子化対策におけるニンシン党の政策は……」
 おいおい、党を挙げて頑張ってるみたいに聞こえるぞ。

 三時間目、歴史。
 ナラ変換、七草来夏(ななくさ らいか)の場合。
「大阪冬の陣で、幸村が造ったサラダ丸は……」
 なんだか可愛いな……。

 四時間目、理科。
 シガ変換、進藤伽藍(しんどう がらん)の場合。
「琵琶湖に雪がガンガンと降ります」
 うわぁ、そのまんまやん!

 確かにこれは、先輩が言うように習慣とか癖のようなイメージに近い。が、初めて目にした語句でも変換されてしまうらしいので、習慣や癖と断定し難く、そういう意味では一種の特殊能力なのだろう。
 それにしても魔法のような力じゃなくて良かった。
 実を言うと、プチ変換っていろんなものを小さくしちゃうんじゃないかとビクビクしていたんだ。
 ほっとしたような、でもやっぱりちゃんと気をつけなきゃいけないような、複雑な気持ちで俺は最初の一日を終えた。

 ◇

『どうだった? 六年三組』
 帰宅すると、早速先輩から電話がかかってきた。
「可愛かったですね、子供たち。スルー力も高いし」
『でしょ? みんなそれぞれの変換能力を持ってるからね。それを分かってるから、変なことを口にしても誰も笑ったりしないしね』
 確かにこれはすごかった。
 もしクラスの中に男の子がいたら、『チンチン』と変換したとたん教室は爆笑に包まれてしまうだろう。そうなったら、もう学校に行きたくなくなるのは間違いない。特殊能力ゆえに私立のお嬢様学校に通わせる親の気持ちがよく分かる。
『それで明日の離任式の祝辞、ちゃんと考えてくれたよね』
 明日は、一月一日付けで学校を離れる先生方のために離任式が行われる。もちろん先輩も見送られる予定だ。
「ええ、ちゃんと書きましたよ。なるべくカタカナを入れないようにして」
『それが賢明だわ。それで、どの子に読んでもらうつもり?』
「やっぱり、学級委員長の猫山路美にしようと思います」
 今日は彼女に助けられた。それに、彼女がクラスの信頼を得ていることも確認することができた。祝辞を読むのは、委員長の猫山路美で決まりだろう。
『そうね。あの子はクラスで一番賢いから適任だわ』
「ですよね。もし引川千絵だったら、『プロ野球』を『チロ野球』って読んじゃいますからね」
 すると先輩は電話の向こうで苦笑する。
『千絵ちゃんならそうね。『チロ野球』って、なんだか犬の野球みたい。ていうか、祝辞に彼のこと書いたの?』
「プロ野球選手くらいはいいでしょ? 先輩だってこの間、記者会見でデレデレだったじゃないですか。あとは明日の祝辞を楽しみにしておいて下さいね」
『何? 内容は秘密? 皆の前であんまり変なことバラさないでよね。彼も後で離任式のビデオ見るって言ってんだから』
「任せて下さい。かの流行語で会場をわかせてみせますよ」
 こうして俺は、満を持して離任式に挑んだのであった。

 ◇

 一月で異動や退職される先生方は三人だった。
 その中の一人、安藤妙子先輩はスーツの胸に花を飾り、体育館のステージに立って子供たちを眺めている。
 児童代表が三人、順番にステージに上がって祝辞を読み上げていく。六年三組の猫山路美の番は最後だった。

「安藤先生、長い間、大変お世話になりました」

 猫山路美の凛とした声が体育館に響く。
 緊張はしていないようだ。俺はほっと一息をつく。
 それにしても、原稿を読んでいるというのにこんなにも声が通るとは素晴らしい。
 彼女ならやってくれるだろう。立派な祝辞が演出できれば、俺の株も上がり、正規採用にぐっと近づくはずだ。
 しかし、続く彼女の言葉に俺は耳を疑った。

「先生のご結婚を一言で表すと、まさに『呻ってる』です」

 ええっ!?
 呻ってる?
 そんなこと、原稿に書いたっけ?

「呻ってる出会いで、先生はプロ野球選手との幸せを手にされ……」

 待てよ、そこは、かの流行語『神ってる』だったはずだ。
 まさか。
 これって……。
 念のため、俺は目の前の引川千絵に小声で確かめる。
「引川さん、ちょっと聞きたいんだけど、猫山さんは何変換だっけ?」
 ――猫山路美(ねこやま ろみ)。
 名前から推測される変換名を、引川千絵は口にした。
「路美ちゃんはネロ変換だよ」
 やはり、そうだよな……。
 このことは織り込み済みで、原稿もネロ変換されない語句を選んで吟味を重ねたんだ。カタカナだって『プロ野球』だけに留めている。
「路美ちゃんは頭いいからねぇ。ほとんどの漢字をカタカナのようにスラスラ読んじゃうんだよ」
 漢字をカタカナのように、だって!?
 ま、まさか、漢字がネロ変換されちゃってるとか!?
 するとステージ上の猫山路美の口から、信じられないような言葉が飛び出した。

「六年三組一同、先生のお幸せを、おポンドりして」

 おポンドりって何だよ。
 確かそこは『お祈り』だったはずだぞ。
 体育館もざわざわとざわつき始めた。さすがに『おポンドり』には、多くの人が違和感を覚えたようだ。
 それにしても、さっきの『神ってる』といい、一体どんな変換が起きているんだ!?
 ――『神ってる』と『お祈り』。
 変換されてしまった言葉を頭の中で並べて、俺は真相に気が付いた。
 そうか、そういうことだったのか!
 これはヤバい! 最後の言葉はもっとヤバい!!
 しかし、時はすでに遅し。
 猫山路美は声量を上げ、笑顔で締め括りの言葉を口にした。

「今日という日を、心からお呪いいたします!」





 おわり



ライトノベル作法研究所 2016-2017冬企画
テーマ:『小さな異能』

テレフォン・コール2016年12月18日 23時31分57秒

 意思の疎通が脳内チップを介した無線通信で行われるようになった時代。声帯は言葉を発することを止め、鼓膜は自然音を知覚するだけの器官となった。
(ねえ、カオリ。百年前には、電話という機械があったそうだよ)
(へぇ〜。それって何をする機械?)
(遠い場所から操作して、人の鼓膜を震わす機械……らしい)
(鼓膜を震わすって?)
(こうだよ)
 シンジはカオリの耳元で「ワン」と犬の鳴き真似をする。
(くすぐったいよ。それに、こんなところで恥ずかしいよ)
(いいじゃないか、好きなんだから)
(もう、シンジったら)
 カオリもシンジの耳元で「ニャー」と鳴いた。
(昔の人は、こんな素敵なことをなんで遠くからやってたんだろうね)
(きっとロマンチストだったのよ)
(カオリ。今度僕は、この電話機を作ってみようと思うんだ)
(じゃあ、完成したら最初に私で試してみて)
(犬語がいい? それとも猫語?)
(うーん、そうね。最近ようやく解明されたアレがいいわ)
 こうして百年ぶりのテレフォンコールはキリン語に決まった。



500文字の心臓 第152回「テレフォン・コール」投稿作品

十月は君の寸角形2016年11月17日 05時49分49秒

 受験は、高三の夏休みが勝負を分ける。
 耳にタコができるくらい聞かされた言葉を、噛み切れずにいつまでも口の中に残っている肉のように苦々しく感じながら、僕は自室からぼんやり朝の空を眺めていた。
 飲み込みたいのに、飲み込めない。
 いや、飲み込んだら負けじゃないかと思うくらいの根拠のない抵抗感に、僕はもどかしく夏休みの初日を迎えている。
「あちぃ……」
 今日も外気温は三十度を超えるだろう。
 図書館は涼しいけど、あのギスギスした雰囲気と圧迫感が耐えられない。
 だから僕は、近所にできたばかりのショッピングモールを目指すことにした。

「いっちばーん!」
 ショッピングモールの三階にある広いフードコート。開店時間とほぼ同時だったから一番乗りである。
 とりあえず荷物を置いて、ファーストフード店でコーヒーを買って来る。窓際に広がるカウンター席の端っこが、今日の僕の特等席だ。
「意外といい席だな……」
 窓からは僕の住む街が見渡せる。採光には工夫がされていて、直射日光が当たることもない。
 今日はこの場所に夕方まで粘ろうという魂胆だ。フードコートに面するお店で飲み物を買っていれば文句は言われまい。昼食だってここで調達するつもりだし。
「それにしても広くて気持ちイイ!」
 僕は小さくノビをすると、両手を広げてカウンターにうつ伏せになった。そして木目調の真新しいプラスティックのカウンターに頬ずりする。図書館なんかよりも、こちらの方がずっといい。
「夏休みの初日に、いいとこ見つけちゃったぞ……」
 家族でここに来る時は、いつも休日。だから混雑しているというイメージしかなかった。
 でも平日の午前中は、なんて閑散としているのだろう。まるでこの場所は自分のためにあるようだ。
 早速僕は、教科書と参考書やノートを広げ、カウンターを贅沢に使いながら問題集を解き始めた。

「ふわぁぁぁぁ……」
 勉強に集中していると、いつの間にか夕方になっていた。
 僕は両手を広げて派手にノビをする。声も少し漏れてしまった。図書館でここまでやると目立ってしまうだろう。
 それにしても、こんなに勉強がはかどったのは久しぶりだ。
 懸念していた昼食タイムも、そんなには混雑しなかった。おかげで、ずっと教科書と参考書を広げたままで特等席を独り占めすることができた。
 唯一の問題は、食費やコーヒー代がかかることだ。
「でも、これだけ勉強が進むのだから……」
 親を説得できる自信はある。
 それに、塾や予備校に通うよりは安上がりのはず。この勉強法で僕の成績が上がれば、の話だが。
「だったら明日からも頑張らなくちゃ!」
 僕は、夏休み中はずっとここで勉強を続ける決意を固めていた。

 △

 こうして始めた夏休みのフードコート受験勉強も、あっという間に一ヶ月が過ぎる。
 親にも納得してもらい、毎日千円札を渡してくれるようになった。
 さすがに休日やお盆の時期は混雑してしまい、図書館に行かざるを得なかった。が、お盆が過ぎると、再び平日の閑散としたカウンターが戻って来た。
 やはりこの場所は、僕にとって天国だ。
 疲れた時は両手を広げて派手にノビができる。
 眠くなったらすぐにコーヒーが買える。
 問題を解く時だって、身振り手振りで考えても誰にも文句は言われない。まあ、これは受験本番では使えないけど。
 成績も着実に上がって――いるような気がしてる。だって、この間受けた模試なんか、夏休み前よりも軽快に問題を解くことができたから。
「あと十日か……」
 唯一残念なことは、順風満帆な僕のフードコート受験勉強が夏休みの終焉と共に終わりを迎えようとしていることだ。
 夏休みが終わったら高校の授業が始まる。平日にこの場所に来ることは不可能だ。
「放課後だけでも来てみるか」
 学校からここに直行すれば、夕飯まで二、三時間は勉強できるだろう。
 それもなんだか楽しそうだと、コーヒーを買うために僕は席を立つ。しかしこれが、小さな事件の始まりだった。
 コーヒーを片手にカウンター席に戻った僕は、広げたままにしていたノートを見てあ然とした。

『三角比なんてクソくらえ!』

 白いはずのページの真ん中には、マジックで描かれた攻撃的な丸っこい文字が躍っていた。
「誰っ!?」
 すかさず僕は周りを見回す。
 長いカウンター席には、僕と同じように参考書を広げている人達が五人くらい。しかし彼等彼女等は、いずれも勉強に集中していた。
 家族用のテーブル席にも、ポツリポツリと十人くらいが参考書を広げていた。が、勉強に夢中でこちらを見向きもしない。
 すると、近くのテーブル席に座る子供連れのお母さん達の一人と目が合った。コーヒー片手に、席に座ろうともせずキョロキョロしている僕を不審に思ったのだろう。
 ――あの、お母さん達が犯人?
 いやいや、それはないだろう。
 この落書きをするためには、僕が解いている問題が三角比であることを知る必要がある。うちの母親なんてこの間、「サイン、コサインって昔やったわね」と遠い目をしていた。広げた問題集の内容から判別できるとは思えない。
 そもそも、あそこにいるお母さん達が、わざわざこんな落書きをする理由はないだろう。
「となると……」
 三角比の存在を身近に感じている者の仕業。
 手っ取り早く言えば、犯人は僕と同じ高校生だろう。
「でも、動機が分からない」
 三角比の勉強を止めろ、という警告なのか? それとも単なる嫌がらせ? まさかの三角比反対派……とか!?
 すぐには結論が出そうもなかったので、心を落ち着かせるために席に腰かける。
 とりあえず数学の参考書を閉じておけば、どこからか見ているかもしれない三角比反対派の溜飲を下げることはできるだろう。
「三角比が原因じゃないとしたら、顔見知りの犯行か?」
 もしかしたら、このフードコートの中に同じ高校の生徒がいるのかもしれない。そうだとしたら、そいつは僕のことを知っているやつだ。きっと、最近調子付いてる僕の邪魔をしようと企んでいるに違いない。
 僕はもう一度、周囲を見回した。が、知っている顔は見当たらない。
「ちぇっ、全く誰だよ、こんなことするのは……」
 結局その日は、勉強に集中することはできなかった。

 その夜、ベッドに横になって僕は考える。
『三角比なんてクソくらえ!』
 席を離れている間に、そんなことを勝手に書かれたことがショックだった。
 誰かに自分の行動を見られているという恐怖もある。
 が、それ以上に僕には許せないことがあった。
 それは――三角比への冒涜。なぜなら僕は三角比が大好きだから。
 サインカーブのあの曲率がたまらない。綺麗な山と美しい谷を交互に描き出すサインカーブこそが、世界で最も美しい曲線と言えるのではないだろうか。
 僕はまだ直接見たことはないが、女性の胸の双丘もきっとサインカーブになっているに違いない。自然の美しさの根底には共通の法則があると信じている。
 だから僕は、勉強に行き詰った時には必ず、あの美しいカーブを思い描くことにしていた。
 目を閉じる。
 目の前に浮かぶ山と谷。
 ゼロから始まる曲線を、掌でなぞるように追えばすうっと心が落ち着いていく。パイ、二パイ、そして三パイで双丘の完成だ。
 僕はこの儀式を、勉強を始める前や行き詰った時に必ず行うことにしていた。そうすることによって、それまでの雑念がリセットされて集中力が蘇る。
「こんな美しいものに対して『クソくらえ』だなんて、許せない!」
 必ず犯人を捕まえて、とっちめてやる!
 僕は復讐を心に誓いながら、犯人を突き止める作戦を考え始めた。

 △

 次の日。早速僕は、一晩考えた作戦を実行する。
 これはかなり勇気のいる作戦だ。なぜなら、席を離れる時にスマホをテーブルの上に置いていくのだから。
 もちろんそのままでは盗まれてしまうので、教科書と参考書の下に隠しておく。そしてカメラの部分だけを覗かせ、録画機能を作動させたままにしておくのだ。
 午前中は何も起こらなかった。が、午後三時過ぎになって動きがあった。
 トイレで席を離れた時の録画に、僕の参考書を覗き込む見知らぬ顔が写っていたのだ。
「こいつか、犯人は……」
 女の子だった。
 キョロキョロと辺りを見回しながら参考書に近づき、内容をさっと確認して立ち去っていく。
 落書きはされなかったので、犯人である確証は得られなかったが。
「ふん、お生憎様だな。三角比じゃなくて」
 この時の参考書は英語だった。
 再び落書きされたら心が折れそうだったので、三角比のページは開かないように気を付けていた。
「それにしても、ゴツい男じゃなくて良かった……」
 僕はほっと溜息をつく。
 もしこれが目つきの鋭いガチムチ男だったら最悪だ。このフードコートから即刻撤退していたことだろう。
 まあ、丸っこい字から判断して、女の子らしいことは予想してたけど。
「割と可愛いらしい女の子じゃないか……」
 見かけない顔だから、同じ高校の生徒ではないだろう。
 フードコートで見掛けたらすぐ分かるよう、僕は何度も何度もその子の映像を眺めていた。

 次の日から僕は、フードコートにその女の子を探し始めた。
 が、どこにも見つけることはできない。
 しかし僕が席を離れると、不思議なことに一日に二、三回は参考書を覗き込みにやってくるのだ。スマホの動画がそれを物語っていた。
 そして僕は、あることに気がついた。
 数学、理科、英語、社会、国語。
 広げている参考書が変わると、女の子の表情があからさまに変化する。
 数学や理科では険しい表情になり、英語では眉間にシワを寄せる。そして社会や国語では口元を緩ませ、可愛らしい笑顔を見せる時もあった。
 その姿を見て僕は確信した。落書きの犯人は、間違いなくこの女の子――だと。
 もし、広げているページが三角比であれば、鬼の形相でマジックを握りしめることだろう。
 それならば先制攻撃と、僕は復習の意を込めて、あるイタズラを実行することにした。

 △

 夏休みもあと三日を残すばかりとなった月曜日のこと。
 午後三時すぎのトイレから戻って来ると、案の定、あの女の子が僕の特等席の前に仁王立ちしていた。
 そして戻って来た僕をギッと睨みつける。
「ちょ、ちょっと! 何、これっ!?」
 ノートを指差す女の子。その腕はプルプルと震えていた。
「これって盗撮じゃない! 盗撮は犯罪よっ!」
 実は、彼女が写っている動画からほっこりとした表情の彼女の顔写真を切り取って、ノートに貼りつけておいたのだ。『三角比、大好き!』という素敵なセリフを付け足して。
 ――やっぱり、三角比嫌いはアタリだったか。
 あまりにも予想通りの反応に可笑しくなった僕は、天井を見上げながらとぼけてみる。
「えっと、別に盗撮してたわけじゃないんだけど……。ただこの天井を観察してたんだけどなぁ。そしたら写っちゃった人がいるみたい。偶然にしてはありえない角度だけどね」
「キミね、女の子を観察することを盗撮って言うのよ。これは私を観察してたとしか思えない」
 彼女も引き下がらない。
 でも、頭に血が上っている時がチャンスだ。今の彼女なら簡単にボロを出すだろう。
「君が僕のノートに落書きなんかするから、仕方なくやったんじゃないか」
「仕方なくってなによ。キミが三角比なんか勉強してるからいけないんじゃない。あれはその報いよ、って、あっ……」
 彼女も気付いたのだろう。
 自分が落書きの犯人であると自白してしまったことを。
 でもよかった。僕に個人的な恨みがあるわけではなくて。彼女は純粋な三角比反対派だった。
「まあ、座りなよ。僕も悪かったよ、こんなことをして」
 そう言いながら僕はカウンター席に座る。
「私だって……ごめんなさい……」
 煮え切らない表情のまま、彼女も渋々、僕のとなりの席に腰掛けた。
「いや、でも、やっぱりキミの方が悪い。なによ、毎日毎日掌をヒラヒラさせて。あれって、すっごく目障りなの。気が散るの。やめて欲しいの」
 えっ、やっぱり個人的な恨み?
 あれを毎日観察されていたとは恥ずかしい。
「それで、何をやってるんだろうとキミの席を見に行ったら、私の嫌いな三角比じゃない。三角比なんて、地球上から無くなっちゃえばいいんだわ。というか、教えて。全然わからないの。困ってるの。ピンチなの。お願いします」
 挙げ句の果てに、涙目で懇願されてしまった。

「私ね、県立大学の日本文化学科を目指してるの。でも最近になって、センター試験も受けなきゃいけないことが判明してパニクってんのよ。それには数学があるの。三角比とか勉強しなくちゃいけないの。ヤバいの」
 ていうか、県立大学受けるならセンター試験は必至じゃないか。
 それが今頃判明しただなんて、そっちの方がヤバい。
「サイン三十度って何なの、あれ? 全く理解できないんだけど」
「えっ、サイン三十度って、二分の一だろ?」
「キミも先生と同じこと言うのね。あっちの人間ね。だから日本はダメになっちゃったのね」
 いやいや、日本はまだまだ捨てたもんじゃないと思うけど。
 というか、僕の答えと日本の未来を一緒にしないでくれ。
「誰も教えてくれないから恥を忍んで聞こうと思うんだけど、ちゃんと教えてくれる? バカにしない?」
「あ、ああ……」
 一体どんな質問をされるのか、恐怖しながら僕は返事をした。
 彼女の中に隠されたサイン三十度の秘密が今、明かされる。
「ねえ、なんで……二分の一なの? 〇・五じゃダメなの?」
 ええっ、そこ? 疑問点ってそこなの?
 僕はぷっと笑いたくなるのをこらえるのに必死だった。
「あー、今笑ったでしょ? 絶対、笑ったよね」
 プクッと頬を膨らませた彼女は可愛らしい。
 二重の瞳、ぷっくりとした涙袋。
 白状すると、最初に動画を見た時から気になっていた。が、目の前の彼女は、動画なんかよりもはるかに魅力的だった。
「そう、〇・五でいいんだよ。先生達が間違っている。それを僕が証明してあげるよ」
 僕はいつの間にか、自分の立場を先生側ではなく彼女側に置きたいと考えていた。

「サインとコサインの値って、テスト会場でも簡単に求めることができるんだ」
 そう言いながら、僕は筆入れから小さめの定規を取り出した。
「こんな風に、問題用紙の角に、長さ一センチの線を描くだけでいいんだよ」
 僕はノートの右下の隅に定規をあてて、角に小さな三角形ができるようにシャーペンで長さ一センチの線を引いた。
 ノートの右下隅に、寝そべったような小さな直角三角形が出来上がる。
 女の子は隣の席から身を乗り出して、僕の手元を凝視する。彼女の肩くらいまでストレートヘアがはらりと落ちて、Tシャツから出た僕の右腕にかかってくすぐったい。
「僕が描いた線とノートの下端との角度はだいたい三十度だろ? そうすると、この小さな三角形の縦の長さがサイン三十度の値になるんだよ。ほら、これを使って測ってごらん」
 僕は女の子に定規を渡し、ノートを彼女の方に差し出す。
 彼女はノートの端に定規を当て、目を凝らしながら縦の長さを測り始めた。綺麗な黒髪からいい香りがする。
「五ミリ……かな」
 そう答えながら、彼女がいきなりこちらを振り向く。不意に目が合って、ドキッとしてしまった。
「えっ、あっ……そう、ご、五ミリで正解。ってことは、何センチ?」
「〇・五センチ?」
「正解。だから、サイン三十度は〇・五でいいんだよ」
「へぇ~」
 溜め息を漏らしながら、女の子はノートの隅の三角形を見る。
 こんな簡単なことで三角比が求まるなんて、という驚きが瞳の輝きから見て取れる。
「じゃあ、コサイン三十度は?」
「今度は横の長さを測ってごらん?」
「横ってこの部分?」
 女の子はノートに顔を近づけて、必死に長さを測り始めた。
「えっと、八ミリ……くらいかな?」
「そう。だから、コサイン三十度は〇・八くらいなんだ」
「へぇ~。じゃあ、どんな角度でも、すぐにサインとコサインの値が出るの?」
「そうだよ。サイン二十度でもコサイン八十度でも、あっという間だよ」
 僕の言葉に女の子はさらに瞳を輝かせる。
「すごいすごい。これで試験は完璧……って、こんな適当な値で大丈夫なわけ?」
 女の子は、この必殺技の欠点を的確に指摘した。
 確かにこの方法では、おおよその値しか求めることはできない。しかも、かなりアバウト。
「きっと大丈夫だよ。だって君が受けるのはセンター試験だろ?」
「ええ、そうだけど……」
「だったら解答用紙は?」
「マークシート!!」
 それならば、必ずしもピッタリな値を求める必要はない。正確な選択肢を選ぶことができればいいのだから。
「でもね、でも……」
 まだ何か不満があるのだろうか?
 一瞬輝いた女の子の瞳がにわかに曇る。
「小っちゃい、小っちゃいよ、こんなミニミニ三角形! ちょっと待ってて、今いい物持って来るからっ!!」
 そう言って、女の子はフードコートの端っこに向かって走り出した。
 Tシャツとキュロットスカート。黒いストレートヘアを揺らしながら駆けていく女の子の後ろ姿を、何か大切なものが離れて行くような感覚で僕は眺めていた。

 あんな場所にいたのかよ、と思ってしまうほど遠くの席まで行くと、女の子は荷物の中から何かを手にして戻って来る。
 それは筆入れと問題集だった。
「さっきの三角形、この曲尺でもいいんだよね?」
 息を切らしながら、女の子は筆入れから何かを取り出した。
「カネジャク?」
 聞きなれない言葉に、僕は彼女が取り出したものを凝視する。
 それは、プラスティックでできた長さ十センチくらいのL字型の定規だった。
「一の長さの線が引ければいいんだよね?」
 彼女は先ほどの席に座り、僕のノートの隅に斜めの線を引く。
 ――ええっ、これってどういうこと!?
 その三角形は、僕が描いた一センチの三角形よりもはるかに大きかった。そう、三倍くらい。
「どう?」
 女の子は鼻息を荒くしながら僕の方を向く。
 どうって言われても、デカいという言葉しかない。
「これ、一センチじゃないよね?」
 どう見ても三センチくらいはある。
「そうよ。だってセンチじゃないもの」
「じゃあ、インチ?」
「バカね。日本文化学科を目指してる私が、そんなメリケングッズを使うわけないでしょ?」
 バ、バカって……。
 ちょっとムッとしてしまった僕だが、日本文化と言われて思い当たるものがあった。彼女が線を引いたL型の定規は、大工がよく使っているものとそっくりだ。
「インチじゃないとしたら、これは……?」
「一寸よ」
 寸!? 寸って尺貫法の寸だろ? それって、いったい何時代の話だよ。
「一寸って……何センチだったっけ?」
「三・〇三センチよ」
 即答だった。
「そんなことも知らないの?」
 ささやかな逆襲付きで。
「そしてこの定規は二・五寸曲尺」
 その言葉を聞いて僕は反撃に転じる。
「カネジャクって、その定規は金属製じゃないじゃん。プラスティック製だろ?」
 すると彼女は呆れた顔をする。
「何言ってんの? 『曲がる尺』って書いて、カネジャクって読むのよ。キミは数学には詳しそうだけど、何も知らないのね」
「ぐっ……」
 僕は言い返す言葉を失っていた。
 そんな僕をよそに、彼女は大きな三角形の縦の長さを測り始める。
「ほお、確かに〇・五寸だわ。サイン三十度は〇・五ってことね」
 しかし、まさか寸を使うとは思わなかった。確かにこれなら、センチよりも正確に長さを求めることができる。
「ああ、そうだよ……」
 小さな敗北感で心を満たしながら、僕は静かに頷いた。
「それで、コサイン三十度は、っと……」
 彼女は続いて横の長さを測り始める。そして表情を曇らせた。
「〇・八七寸じゃない。キミはさっき嘘を言ったわね」
「嘘って、〇・八センチって測ったのは君じゃないか」
「あれは小っちゃすぎてよく分からなかったのよ」
 ぶすっと頬を膨らませながら、彼女は問題集を広げ始めた。
「えっと、問題集のコサイン三十度の答えは……」
 彼女の表情はだんだんと暗くなっていく。
「二分の、二分の……」
 その先が読めないらしい。
「ルート三」
「そうそう、ルート三よ。分かってるわよ。ちょっと忘れてただけよ。ってそれ、何だったっけ?」
 せっかく助け舟を出してあげたのに、ズッコケそうになる。
 だからちょっと意地悪してみることにした。
「人並みに奢れや」
「なっ!?」
「だから、人並みに奢れや!」
 一瞬言葉を失った彼女だが、すぐに顔を真っ赤にして反論する。
「ちょ、ちょっと、いきなり何言い出すの? そりゃ、サインやコサインを教えてくれて感謝してるわよ。奢ってあげたい気持ちにもなったわよ。でも盗撮やコラ写真の件はどうなるの? 差引すると、どうみても私の方が奢ってもらう方だと思うんだけど。試しにこの周辺の女の子に聞いてみてもいいわ。きっと同じ答えをすると思うから」
 この人に口では敵わないなと思いながら、僕は種明かしをする。
「悪かった。ちょっと落ち着いて。『人並みに奢れや』ってのは、ルート三の覚え方だよ。一・七三二〇五〇八だから」
「えっ……」
 彼女は、恥ずかしさで表情をさらに赤くする。
「君に奢ってあげてもいいけど、代わりに他の数学裏ワザってのはどう?」
 もっと君と話してみたいから。
 受験を共に戦う仲間も欲しかった。このフードコートを愛する彼女なら、共感する部分も多いだろう。
「ほ、ホント!?」
 ぱっと輝く彼女の瞳を見て、僕はこの選択肢で良かったと実感する。
 それから夕方まで、僕は彼女に数学を教えてあげ、裏ワザをまとめた冊子を作ってあげることで話が盛り上がる。
「じゃあね! 裏ワザ冊子、よろしくね」
「ああ、期待しててよ」
 曲尺が入った筆入れを抱いて去っていく彼女の後姿を、僕はいつまでも見送っていた。

 △

 それからの僕は、勉強に疲れると一服代わりに裏ワザ冊子作りに打ち込んだ。
 時にはあまりにも没頭してしまい、受験勉強との時間配分が逆転してしまうこともあった。
 ――輝く彼女の瞳を、もう一度見たい。
 その一心は、僕をどこまでも突き動かす力を持っていた。
 しかしあの日から、彼女は僕の前に姿を現すことはなかった。フードコートを見回してみても、彼女の面影を見つけることはできなかった。

 夏休みが終わると、フードコート受験勉強は放課後の限られた時間だけになってしまう。
 ――あの時の約束、忘れられちゃったんじゃないだろうか。
 そんな不安が心を支配する日は、勉強が全く手につかなかった。
 ずっと彼女の動画を眺めている時もあった。
 それでも、このフードコートに来ることだけは続けていた。だってここは、彼女と出会える唯一の場所だから。
 この期に及んで、僕は彼女の名前すら聞いていなかったことに気付く。どこの高校に通っているのかも分からない。
 ――何で姿を現してくれないんだよ……。
 夏休みに急上昇した僕の成績は、九月になって下降に転じてしまった。

 十月になると、僕は約束の冊子作りを止めた。
 他人の受験勉強のために自分が犠牲になるのはあまりにも悲し過ぎる。
「夏休みの宿題、ついに受け取ってもらえなかったな……」
 こうなることは二人の運命だったんだ。
 自分に言い聞かせる言葉とは裏腹に、僕はいつまで経っても約束の冊子をバッグの中に入れ続けていた。

 △

 十月も終わりを迎え、三十一日になった。
 先週末に文化祭があったので、月曜日の今日はその代休だ。僕は二ヶ月ぶりに、午前中からフードコートに向かう。
「いっちばーん!」
 この感覚は本当に久しぶりだ。
 ファーストフード店でコーヒーを買って、いつもの特等席に腰かける。黄色く染まる街路樹が朝陽に輝く。街はすでに冬支度を始めていた。
 この場所に通い始めて、すでに三か月が経った。この特等席は、もう自分のもののように感じていた。
「本当にここの環境は自分向きだな」
 疲れた時は両手を広げて派手にノビができる。
 眠くなったらすぐにコーヒーが買える。
 問題を解く時だって、身振り手振りで考えても誰にも文句は言われ――ちゃったんだよな。あの時、あの女の子に。落書きという形で。
 僕は彼女の面影を思い出していた。
 あれから一度も彼女には会っていない。
 おそらくここには来ていないんじゃないかと思う。
「それなら、久しぶりにやってみるか」
 僕は目を閉じ、掌に意識を集中させる。
 しばらく封印していたサインカーブの儀式。パイ、二パイ、そして三パイで心の中に完璧な双丘が完成した。
「ふふふ、また落書きされちゃったりして……」
 そうなったらいいなと思う。
 しかし、トイレや買い物から戻って来ても、ノートは真っ白のままだった。

「ふわぁぁぁぁ……」
 秋の日はつるべ落とし。午後三時を過ぎると、たちまち空が重くなってくる。
 僕は特大のノビをすると、トイレで席を離れた。
 今日は久しぶりに勉強がはかどった。やはりサインカーブの儀式の力は絶大だ。
 そしてカウンターに戻って来た僕は目を丸くする。
 ノートの真ん中に、あの時のような落書きが躍っていたのだ。それは、ぎこちない三角形と丸っこい『寸』の文字。
「えっ!?」
 振り返ると、「久しぶりね」と温かそうなセーターに身を包んだ彼女が立っていた。

「今日はね、キミにお礼を言いたくてここに来たの」
 懐かしい顔に、今までこらえて来た感情が溢れ出そうになる。
 言いたいことも一杯。聞きたいことだって一杯。
 それを考えるだけで、ドキドキと胸の鼓動が高鳴り出してきた。
 そうだ、彼女に夏休みの宿題を渡さなくっちゃ!
 僕は、裏ワザ冊子が入ったバッグをチラリと見る。
「私ね、数学ってずっと難しいものだと思っていたけど、キミのおかげでかなり前向きになれたの。それがきっかけで、いろいろなことにチャレンジしてみたんだけど……」
 良かったぁ。僕が教えた裏ワザが功を奏したんだ。
 だったらこの冊子があれば、もっと彼女の役に立つに違いない。
 やっと夏休みの宿題が完成したんだ。ぜひ君に受け取って欲しいと言おうとした時、彼女は満面の笑みで僕にこう告げた。
「そしたらね、受かったのよっ。無理だと思ってた法慶大学の日本文化学科の推薦入試に! もう数学なんて勉強しなくていいのっ!!」




 了



闘掌’16秋
テーマ:『秋』
サブテーマ:『夏休みの宿題』

あたたかさ、やわらかさ、しずけさ2016年11月03日 22時11分12秒

ここは私立早熟中学校。高校を超えたレベルまで教えてくれると噂の超進学校だ。
その早熟中学校で昨年発生した小さな事件は、とある理科の授業参観が発端だった。
『ヤング率が高くなればなるほど、硬くなる』
教師が発したこの説明に、教室の後ろに陣取る生徒の保護者達はざわついた。
「まあ、こんなところまで教えるの?」と、予想以上に大人びた授業内容に顔を赤らめる保護者もいたという。
そして決定的だったのが、次の説明だった。
『弾性係数は根本的に、熱くなればなるほど下がり、柔らかくなる』
「えっ、男性係数?」と、一時は騒然とした教室だったが、保護者の険しい表情と共に静寂に包まれたのであった。

後日、中学校には「大人びた授業を否定はしないが、間違ったことは教えないでほしい」というクレームが相次いだという。



500文字の心臓 第151回「あたたかさ、やわらかさ、しずけさ」投稿作品