飛田LITEサプライズ2023年09月01日 03時09分00秒

「へいピッチャー、デッドボール厳禁やぞ!」
「女性に優しくな!」
 青空眩しい五月の日曜日の球場にヤジが飛び交う。
 社会人軟式野球、第一回市長杯選手権大会の初戦。
 左バッターボックスには、私の親友であり貴重な女性メンバーでもある高橋四音(たかはし しおん)が立っていた。
「絶対顔に当てんなよ~」
「うちの綺麗所だからな!」
 それにしても四音は何を着ても似合う。我チームのユニフォームは上下がアイボリーのごくシンプルなものだが、それですら小柄でポニーテール姿の彼女の可愛らしさを引き立てている。ピチっとした太もももなかなかセクシーだ。
 そしてそのユニフォームの左胸と帽子には、軽金属部品メーカーである我社『飛田LITEサプライ』のロゴが縫い付けられていた。
 一方の相手チームは相庭製薬。上下が空色のユニフォームに身を包んでいる。
 そのピッチャーが第一球目の投球動作に入った。両手を大きく振りかぶり、左足を高く上げ、右腕をホームベースに向かって勢いよく降り下ろす。
 彼の指から放たれた軟式ボール。社会人の草野球にしては速く、コントロールもなかなかいい。シュルシュルと音をたてるボールは小柄な四音の前を通り過ぎ、パンと小気味良い音と共にキャッチャーミットに収まった。
「ストライッ!」
 球審のコール。と同時に、四音は我々が陣取る三塁側ベンチを向く。これならイケる――と口角を上げながら。
 さすがは野球経験者。このチーム作りも彼女と一緒にやり遂げた。
 だから私は確信する。我々の作戦はきっと成功すると、四音と目が合った瞬間に。
 私たちはなんとしてでもこの試合に勝たなくてはならないのだ。
 こうして社長の鶴の一声で結成した軟式野球チーム、飛田LITEサプライズの攻撃が幕を開けた。


 〇 〇 〇


 それは半年前のことだった。
 社長秘書の私、来雲土羽希(らいうんど うき)は突然社長の命を受けることになったのだ。
「羽希ちゃん、ちょっとお願いがあるんだが」
 これはヤバい――と私のアンテナが危険を察知する。
 社長が私のことを名前で呼ぶ時はいつも訳アリ案件だ。すぐにこの場から逃げねばならぬ。
「すいません社長。私、急ぎの用事が……」
 が、社長はその隙すら与えぬ勢いで用件を口にした。
「今の市長、春になったら新しく軟式野球大会を始めるらしいんだが、それに出場するメンバーを集めて欲しい。チームを出してくれってしつこく頼まれちゃってさ」
 つまり私に社内軟式野球チームを作れと、そうおっしゃってるわけですね。
「申し訳ありませんが、社長。私にはちょっと荷が重すぎるかと。野球の「や」の字もやったことがありませんので」
 野球チーム作りなんてめんどくせー、というのが本音。
 それにこの件には絶対裏がある。少なくとも、市長のメンツを保って差し上げるという社長から市長への「貸し」に加担せよということだ。もしかしたら、大会の盛り上がりに乗じて市民球場の新設という話が上がるというシナリオが組まれているのかもしれない。そしたら我社が優先的に部品供給を――って、それじゃ社長と思考が同じじゃない。下手したら犯罪になっちゃうし、そこまでリスクを負うメリットもない……はず。
「そうだ、軽金属加工課の高橋四音くん。彼女は野球経験者だったよね?」
 げっ、なんかそうだったような気がする。
 最近は自転車ばかり乗ってるみたいだけど、元々スポーツを続けていたというのは聞いていた。
「確か履歴書に書いてあった。大学の頃、女子硬式野球部だったって」
 ちっ、そういうことだけはちゃんと覚えてるのね。
「確か君とも仲が良かったよね? 彼女と一緒にメンバー集めをすればいいじゃないか。まあ、君に断られたら直接四音くんに頼むだけだけど」
 今ここで社長の依頼を断っても、私抜きでこのプロジェクトは実行されるということだ。
 四音が絡むというのであれば私も一枚噛みたい。そして美味しいところだけをいただきたい。
「社長。お言葉ですが、四音と私が社員を誘ってもメンバーは集まらないと思いますよ」
 無い知恵を絞りながら、私は必死に言葉を紡ぎ始める。
「野球チームのメンバーに選ばれてしまうと、試合で週末がつぶれることになりますよね? 練習だってしなくちゃいけないです。仕事で疲れている若者が、わざわざ休暇をつぶして参加するでしょうか?」
 そうだ、その通りだ!
 自分の中のもう一人の私が叫んでいた。
「少なくとも、仕事の一環として扱っていただけないでしょうか? もしくは一勝につきいくらという風に特別ボーナスを出してもらえるとか?」
 すると社長はうーんと唸りながら考え始めた。
 その様子で私は確信する。きっと社長は、ボランティアで喜んで野球に参加する社員がいると思ってたんだ。甘い甘いよ、今の若者はそれじゃ動かない。昭和の社畜じゃあるまいし。
「仕事の一環というのは無理だな。「これ仕事だから」って野球をやられたら、他の社員に示しがつかない」
 まあ、そういう風に不満を口にする人もいるよね。特に四十過ぎの昭和の人なら。あいつら野球やって遊んでるのに給料もらえるのはズルいと、ネチネチと非難するに違いない。
 そう言う人こそ野球チームに参加して欲しいんだけど、メンバーがおじさんばかりになっちゃうのは嫌だ。私がチーム作りするならばの話だけど。
「しょうがない、勝利数に応じて特別ボーナスを出そう。私のポケットマネーで」
 そうこなくっちゃ!
 しかし直後、社長はとんでもない数字を口にしたのだ。
「一勝につき一人一万円というのはどうだ?」
 いやいやいやいや、それはあり得ない。
 休暇を削って、必死に練習して、試合にも出てそれっぽっち?
 一万円じゃ旅行なんてどこにも行けないし、服だってファストファッションになってしまう。
 その時の私はよほど渋い表情をしてしまったのだろう。社長は慌てて前言を撤回した。
「わかったわかった、一勝につき一人三万円は?」
 感情を表情に出してしまうのは秘書として失格と思いながらも、私は表情を崩さない。
「社長。いいですか? 春まで半年しかないんですよ? 正に急造チームなんです。そのチームが二勝以上できると思いますか? 二勝以上できるならその金額でもギリ飲めると思います。でも、最初の試合に勝てるかどうかも分からない、つまり頑張っても三万円しかもらえないかもしれないという状況でやる気が出ると思いますか?」
 思わず熱弁してしまった。柄にもなく。
 しかしそれが効いたのか、社長はやっと折れてくれたのだ。
「しょうがないなぁ。羽希くんには笑って欲しいから一人五万円にするよ。それ以上は出せん。それでやってくれるかね?」
 それならば――。
 私は社長に向かって、いつもの秘書スマイルを披露した。
 

 〇 〇 〇


「というわけなのよ。四音、引き受けてくれる?」
「うん、まあ、羽希の頼みなら……」
 その日の就業後、私は四音を食事に誘う。
 事情を打ち明けると、渋々ながらも彼女は私の頼みを聞き入れてくれた。
「やっぱ土日が潰れるのは嫌?」
「それもあるけど、ご褒美が勝利ボーナスだけっていうのもね。しかもたったの五万でしょ?」
「だよね。五万じゃ近場の貧乏旅行しか行けないもんね。でもね、これでも私は粘ったのよ。だって最初は一万だったんだから」
「マジで? ケチやなぁ、あの社長」
「なんとか二勝できればいいんだけど……」
 二勝できればボーナスは十万円に膨らむ。そうなれば、もう少しマシな旅行に行くことができる。
「んなことできるわけないじゃん。そもそもの話、うちの会社でメンバーなんて集まるのかしら?」
「そこを四音の魅力でなんとか」
 私は四音に向かって両手を合わせた。すると彼女は私の顔を覗き込む。
「もしさ、私を含めて八人しかメンバーが集まらなかったらどうすんの?」
 一体どうするんだろうね……。
 完全に他人事の顔をしている私のことを見透かした四音は、ニヤリと口角を上げた。
「そん時は試合に出るんだよね、羽希も」
「えっ?」
 そんなことは考えてもいなかった。
 社内トップクラスの可愛らしさを誇る四音が誘えば、メンバーなんてちょちょいのちょいで集まると思ってたから。
 でも、もし八人しか集まらなかったら――。
 間違いなく社長は私にも出場しろと言うだろう。
「なに? それは考えてなかったの? 人には出ろって言っておきながら」
「い、いや、四音が誘えばその、あの……」
「私は一緒に出たいな、羽希と一緒に。それにね……」
 そう言いながら彼女は視線を下げる。ニヤニヤしながら、私の胸のところまで。
「ぜひ見てみたいの」
 やっぱそう来たか。
 私の胸のサイズはFカップ。いわゆる巨乳ってやつだ。だから運動も苦手で、走るのも嫌なのだ。
 野球のユニフォームなんて着た日には……。
「ぱっつんぱっつんの羽希のユニフォーム姿」
「嫌よ。そもそも女性用のユニフォームってあるの? 男性用だったら四音が言うように胸のボタンが閉まらないよ」
「スポーツブラつければ収まりがよくなるけどね。私の場合はだけど」
 四音の胸のサイズはCカップ。それくらいだったら問題はないのにな。
「それつけてもダメなのよ。服選びはいつも困っちゃう」
「贅沢な悩みね。でも、男を集めるにはもってこいじゃない。ぱっつんぱっつんの羽希が勧誘したら一発でメンバーが集まるよ」
 そういう考え方もあるのか。
 なんて納得してる場合じゃない。そんなのは絶対嫌だ。
 それに勧誘するってことは社内でユニフォーム姿になるってことだよね。それって何のコスプレ? 変なオタクしか集まらないんじゃないの?
「そもそも社長が全部揃えてくれるんだよね? ユニフォームとか道具とかって」
「そうするって言ってたけど」
「じゃあさ、最初に私と羽希のユニフォームを揃えてもらえるよう社長に頼んでよ。そしたらチームへの加入を考えてあげるよ」
「そんなぁ……」
「じゃあ、やんない」
 四音は悪戯っ子の表情をする。それも可愛らしいんだけど、さ。
「分かったよ。社長に二人のユニフォームをおねだりするからさぁ……、会社でユニフォーム姿にならなくてもいいよね?」
「ダメ。それじゃメンバー集まんない」
「カンベンしてよ……」
 いつの間にか私がメンバーを勧誘する話になってない?
 これって何? ミイラ取りがミイラになるってやつ?
 いや、ミイラ取りを依頼した私がミイラ取りになるってやつだわ。
 こうして私たちは、ユニフォーム姿でメンバーの勧誘をすることになってしまったんだ。
 アイボリーの上下のユニフォームの胸に、飛田LITEサプライのロゴを縫い付けて。
 それにしても、野球のユニフォームってこんなにもストレッチ性が高いなんて知らなかった。胸のボタンは閉められないかと思ってたけど、なんとか収まってくれたし。
 四音のユニフォーム姿もかなり破壊力があったなぁ……。彼女、普段から自転車で足腰を鍛えていたからね。勧誘に行くと、ぱっつんぱっつんの四音の太ももか私の胸に視線が集中しているのがよくわかる。全く男ってやつは!
 そのお陰なのか、九人のメンバーはあっという間に集めることができた。


 〇 〇 〇


「大変だよ、羽希!」
 四音が秘書室に飛び込んできたのは、最初のミーティングの直後だった。
 自己紹介までは私も会場にいたんだけど、話し合いがポジション決めになると私は会場を出て秘書室に戻ってきていたのだ。だって九人集まったんだから、私は試合に出る必要はない。
「どうしたの四音? ポジション争いで喧嘩にでもなったの?」
「喧嘩になる以前の話だよ。集まったメンバーって、実は全員が内野を守れない人たちばかりだったんだよ」
「?????」
 それってどういうこと?
 野球のことあまり知らないからよくわかんない。
 内野を守れない人ってまさかの内野恐怖症ってやつ? きっと子供の頃に受けた千本ノックがトラウマになってるんだ、可哀そうに……。
 思わず同情しそうになっていると、四音がツッコミを入れてきた。
「なにウルウルしてんのよ。スポ根の話じゃないから」
「じゃあ何でなの? 内野を守れないって?」
 すると四音はふうっとため息をついた。
「羽希って、ホントに野球を知らないんだね」
「そうだって最初から言ってるじゃん」
「内野が守れないっていうのはね……」
 その理由は!?

「全員左利きだったんだよ」
「…………」

 ポカンとする私に対して、四音は再び深いため息をついた。
「そこから説明しなくちゃいけないのか……」
「そうよ。何でなのか教えて。何で左利きだったら内野が守れないの?」
「それはね」
 こうして私は、四音から野球のレクチャーを受けることになった。

「そもそもの話、羽希はプロ野球とか観てるの?」
「ぜんぜん」
「そうだよね……」
 何度も落胆する四音が可哀そうになってきたから、私は慌てて補足する。
「でもね、ほら、WBCってやつは観てたよ。ショーヘイ君大好きだから。打ったら、一塁、二塁、三塁って反時計回りに走るんでしょ? そしてホームに戻ってきたら一点。それくらいは知ってるよ」
「まあ、それだけ知ってたら十分か……」
 四音は私を向いておもむろに説明を始める。
「内野の守備なんだけど、一塁を守る人がファースト、一塁と二塁の間を守る人がセカンド、三塁を守る人をサードというの」
「うんうん」
 それくらいだったら私も分かる。
「そして二塁と三塁の間を守る人をショートストップといって、略してショート。なぜショートストップというのかについては所説あるんだけどね」
「ほお」
 すると四音は身振り手振りを加え始めた。
「じゃあ次は、打者がボールを打つところを連想してみて。そのボールをサードやショートやセカンドが捕球するところを」
 瞳もちょっと輝いてきた。本当に彼女は野球が好きなんだ。
「まず打者がゴロを打った。それを守備の選手が体の正面で捕る。ここまではいいよね?」
「うん」
「そしたらサード、ショート、セカンドの選手はどっちに投げる? 右側? 左側?」
 うーん、どっちなんだろう?
 一塁側に投げるわけだから――
「右側?」
「いやいやいやいや、それはテレビの画面での話でしょ? 選手になった気持ちで考えてみてよ」
 選手の気持ちか……。
 打者が打って、自分は選手でゴロの球を捕って、一塁はえっと、左にあるから――
「左側か」
「そう。左側に投げるの」
「そっか、右利きの選手ならそのまま左側へ投げられる」
「その通りよ。でも左利きの選手は、一度体の向きを変えないと強い球は投げられない。このコンマ数秒の遅れが致命的になっちゃうから、左利きの人は内野を守れない」
 ほおほお、そういうことだったのね。
 やっとその理由が分かったような気がする。
「キャッチャーもね、左利きの人がやりにくいポジションなの」
「キャッチャーも?」
 ええっ、それってどういうこと?
 キャッチャーから見たら一塁は右側じゃん。そしたら左利きの方が有利なんじゃないの?
「理由は二つあって、その一つはけん制球」
「けん制球って?」
「ランナーが盗塁した時に投げる球よ。走られたらすぐ二塁に投げなきゃいけない」
 なんかそんなシーンあるね。ショーヘイ君はいつもセーフだけど。
「その時、左利きだと右バッターが邪魔になっちゃう。大抵の場合、右バッターの方が多いからね。左利きのキャッチャーは、それだけで不利になっちゃうの」
 へえ、そういうものなんだ。かなりデリケートな話なのね。
「もう一つはホームでのクロスプレー」
「クロスプレーって?」
「ランナーが点を入れようとしてホームに帰ってくる時、それをアウトにしようとするプレーよ」
 あれってクロスプレーっていうんだ。なんか迫力のあるシーンだよね。怪我しないでよとドキドキしちゃう。
「右利きのキャッチャーなら左手で捕球するから、そのままランナーにタッチできるの。こんな風にね」
 四音は身振りを添えてくれた。左手でボールを捕ってランナーにタッチするという身振りを。
 これなら分かりやすい。
「スムーズでしょ? でも左利きは違う。こんな風に右手で捕球するから、ランナーにタッチしにくい」
「ほうほう、確かに」
「このコンマ数秒の遅れが致命的なのよね。これでセーフになっちゃったら試合に勝つことも難しくなっちゃう。だから左利きの選手は内野を守れないのよ」
 やっと分かったような気がする。
 でもそれって、プロの話じゃないの?
「ねえ、四音。今度開催される市長杯選手権って、そんなにレベルの高い大会なの?」
「いや、そんなことはないと思う。今回が第一回だから、詳しくは分からないけど」
「じゃあ、別に左利きだっていいんじゃないの? 内野を守る人が全員」
「そ、そりゃ、そうかもしれない、けどさ……」
 きっと経験者の四音は、ちゃんとした野球がやりたいのだろう。私の意見に言葉を濁してしまうところがその証拠なんだと思う。
 でも私たちは所詮寄せ集めなのよ。半分くらいは私のおっぱい目当てで集まったのかもしれないんだから。
「守りで不利な分、打てばいいんじゃない?」
「簡単に言ってくれちゃってさ。それができれば苦労しないって。いいよね、羽希は試合に出ないんだから」
 と言いながら、四音ははっとした顔をする。
「そっか、苦労しない、か……」
 彼女は何かを思いついたようだ。みるみる表情が明るくなってくる。
「最小限の動作で最大限の効果を発揮するようになればいいんだわ」
 声まで生き生きしてきた。もしかしてそれって私のおかげ?
「ねえ、羽希。このチームは私が好きにしてもいいんだよね?」
「うん、いいよ。社長もそう言ってたし」
「むふふふふ、なんか面白い作戦を思いつきそうなんだよね。ちょっと考えてみるわ」
 キラキラと少女のように瞳を輝かせる四音。
 その時、彼女が考えている作戦を私は想像することさえできなかった。


 〇 〇 〇


 三月になると、大会の開催が正式に発表される。
 ――第一回、社会人軟式野球市長杯選手権大会。
 同時に出場チームのエントリーが始まった。
「ねえ、四音。チーム名ってどうする?」
 チームやメンバー登録などの事務仕事はすべて私の役目だ。試合に出ない分、別のところで貢献しないとみんなに恨まれそうだし。
「単純に『飛田LITEサプライズ』でいいんじゃない? 帽子と胸に会社名が書いてあるんだからさ」
 そうなのだ。
 経費節約なのか、我がチームのユニフォームは背番号付きのアイボリーのユニフォームをそのまま使っており、胸の部分に会社のロゴを貼り付けただけの超シンプルだったりする。
「そうよね。チーム名……飛田LITEサプライズ……と」
 この書類を出せばもう後には引けない。勝って五万円を獲得するか、負けて恥をさらすかだ。
 まあ、社長としては市長に恩を売りたいだけだから、出場するだけでいいと思うんだけど。
「うちのチーム、二勝以上できると思う?」
「無理だね。今考えてる作戦も一試合限定だし。でも羽希が試合に出てくれたら、奇跡が起きるかもよ」
 えっ、それって……?
 私の秘めたる才能が
「羽希の揺れるおっぱい見たさにメンバーが奮起すると思うから」
 そっちかよ。
 まあ、そんな感じじゃないかと思ってたけど。
「というのは冗談で、試合当日は必ずユニフォームで来てよね。羽希のユニフォーム姿が目当てで参加するメンバーもいるんだから。メンバーが揃わなくて不戦敗ってなったら最悪よ」
「ええっ? 本当にユニフォームで来なくちゃダメ?」
 勧誘の時、すごく恥ずかしかったんだから……。
「ダメよ。三塁コーチャーとかやってもらうかもしれないから、マジな話ユニフォームは必至よ」
「三流紅茶? 何、それ」
「相手チームのサードやピッチャーの集中力を逸らす役目よ。そのおっぱいでね」
 すると四音は急に真面目な顔になった。
「それにね、羽希用のユニフォームは特別製なの。金属繊維を織り込んであって胸をしっかりとホールドするから、今までのユニフォームよりも着心地が格段に良くなったと思う。試合には絶対それ着て来てね!」
 まあ、それなら着てもいいかもしれない。胸をしっかりホールドしてくれるなら。
 こうして私も、ユニフォーム姿で試合に参加することになったんだ。


 〇 〇 〇


 五月の晴れた日曜日。
 いよいよ飛田LITEサプライズのお披露目だ。
 トーナメントは四月から始まっていたが、会場となる球場が少ないことと五十チーム以上の参加があったため我がチームの初戦は五月になってしまった。
 相手チームは相庭製薬。上下が水色のユニフォームに身を包んでいる。
「さあ、勝って五万円をゲットするわよ!」
 円陣の中心でチームにカツを入れる四音。そしてメンバーは守備位置に散っていった。
 ピッチャーは鈴木投一(すずき とういち)。中学校まで野球をやっていたようでそれなりの球速を投げる。もちろん左利きだ。
 それにしても四音が考えた策って、本当に上手くいくのかしら? 概要は私も聞いているけど。ガンガン打たれてボロ負けするんじゃないかと不安になってくる。
 ベンチで一人っきりになると、そんなネガティブな場面ばかり連想してしまう。周囲にメンバーがいないことが、こんなに心細いものとは思わなかった。
 バッターボックスに相手の一番バッターが立った。いよいよプレイボールだ。
 投一が大きく振りかぶり、第一球を投げる。低めの速球がバッターの前を通り過ぎ、パンと気持ちの良い音とともにキャッチャーのミットに収まった。
「ストライッ!」
 球審のコールに私は少しほっとする。少なくともガンガン打たれるという感じではなかったから。
 第二球。今度は少し遅めの投球。これは変化球というのだろうか? バッターがバットを振って、ゴンという金属バットに軟球が当たる鈍い音がした。
 ボテボテの内野ゴロ。セカンドを守る四音が打球に向かってダッシュする。
 これはなかなか微妙なタイミングだ。打球の勢いがなさ過ぎて、四音が捕球するのに時間がかかってしまった。その間に打者は一塁まであとわずかの距離に到達している。
 間に合うか!?
 息を飲んだ次の瞬間、私は目を見開いた。四音の必殺技が炸裂したから。
 利き手の左手で直接打球を掴んだ彼女は、そのまま左手を外側に振りぬいたのだ。素早くテニスのバックハンドのような振りで。
 ノールックで投じたその球は、すごいスピードでファーストミットに収まった。
「ヒズアウッ!」
 塁審のコールに球場がどよめく。
 そりゃ、そうよね。あんなプレーを見せつけられたんだから。
 ――必殺フリスビー投法。
 これが四音が考え出した作戦だった。
 内野手として左利きが不利なのは、テニスのフォアハンドと同じ振りで一塁に投げようとするから。この考え方を変えればすべては解決する。つまり、バックハンドの振りで投げることができればよいということ。
 そのためにこの数か月間、内野手は筋トレに励むことになった。特に前腕筋、深指屈筋、浅指屈筋、広背筋、腹斜筋の筋トレを重点的に。
 さらにノールックで一塁に投げられるよう特訓を重ねた。フリスビー投法を行う際、一塁側を向いてしまうと体が開いて送球の勢いが落ちてしまうから。体が前を向いたまま腕を振りぬいた方が、速い送球を生み出すことができる。
 その成果を今、四音が見せつけてくれたのだ。
「いいぞ、四音くん!」
 観客席から社長の声がする。社長も満足してくれてほっとする。今のところは、だが。
 バッターボックスに二番バッターが立つ。
 一球目の直球はバットを振らずにストライク。二球目は遅い球を振ってくれて空振り。
 なんかいいんじゃないの、投一くん。と思っていたら、ゴンと鈍い音がする。三球目を打たれてしまったのだ。
「でも、サードゴロだ。正五行け!」
 サードの渡辺正五(わたなべ しょうご)が三塁ベースの近くで打球をキャッチする。そしてフリスビー投法が炸裂――と思いきや、なんとも山なりの送球になってしまった。
「セーフ!」
 これでは一塁には間に合わない。
 これが左利きのデメリットか? 単に正五の筋トレが足りなかっただけなのか? そもそもフリスビー投法で三塁から一塁まで投げるのは無理なのか?
 どちらにせよ、相手チームに弱点を見せてしまったことは確実だ。
 ワンアウト、ランナー一塁。
 打つ気満々の三番バッターは、投一の初球の速球を振りぬいた。パンという音と共に速い打球が三塁線に飛んでいく。
「さあ正五、名誉挽回よ!」
 横っ飛びで打球をキャッチした正五は、起き上がりながらフリスビー投法で二塁に送球する。今度は低くて速い送球だ。そしてそれをキャッチした四音は、同じくフリスビー投法で一塁に送球。
「ヒズアウッ!」
 フリスビー送球の見事な連携プレー。これは爽快だ。観客席からも歓声が湧き起こる。
 これがダブルプレーというやつなのだろう。間近で見るのは初めてだ。
 それにしてもめちゃくちゃ気持ちがイイ。私は立ち上がり、拍手でベンチに戻るメンバーを出迎えた。
「すごい、すごいよ」
 私は四音とハイタッチする。
「でしょ? あの連携プレー、結構練習したんだから」
「美しかったし、見応えあったよ!」
 我々は一回表を無失点で乗り切ることに成功した。


 〇 〇 〇


 一回の裏。我がチームの攻撃の番だ。
 一番バッターは四音。一球目を見送った彼女は、直後にベンチに視線を送る。
 これならイケる――と。
 二球目。遅めのボールを彼女はバットに当てた。一塁に走りながらバントの恰好で。
 コンという軽い音と共に前に転がるボール。ホームベースと一塁のちょうど中間辺りだ。
 これは上手い! 慌ててピッチャーがボールに近づき、掴んだ時には四音は一塁を駆け抜けていた。
「ナイス、四音さん!」
「さすがは監督」
 ベンチからの声に四音は高々と親指を立てる。ベンチも彼女に続けとイケイケムードになってきた。
 二番バッターはサードの正五。
 四音とは異なり、ブンブンとバットを振っている。
 おっ、打つ気満々ね。これは面白そうと思いきや――。
 一球目は空振り。二球目も遅めのボールを空振ってしまった。
 あーあ、ツーストライクになっちゃった。でも当たれば飛びそうだよと期待していると、正五は予想外の行動に出る。なんと三球目をバントしたのだ。ボールはまたもやホームと一塁のちょうど中間くらいに転がった。
 不意を突かれたピッチャーが打球を捕りに行くけど時はすでに遅し。正五は一塁、四音は二塁に到達していた。
 ノーアウト一塁二塁。これはチャンスだ。
 三番バッターはピッチャーの投一。またもやブンブンとバットを振っている。
 これが当たれば一点じゃないの、と思いきや、彼も正五と同じく連続空振りしていきなりツーストライクに追い込まれてしまった。
 ちょっと何やってんのよ投一。今度はちゃんとバットに当てるのよ、とドキドキしていると、投一も予想外の行動に出る。またもやバントをしたのだ。打球は前の二人と同じく、ホームと一塁のちょうど中間に転がった。
 これもまた見事。ピッチャーがボールを捕った時は、ランナーは一塁を駆け抜けてノーアウト満塁となった。
 四番バッターは山田捕二(やまだ ほうじ)。彼もブンブンとバットを振っている。
 さすがに今度は長打してくれるだろう、四番だしと思いきや、やっぱりツーストライクに追い込まれる。
 なに? このデジャビュ―は。
 まさか、次に起こる展開は――と思った通り、捕二はバントをした。しかも、ホームと一塁の中間地点に正確に。
 四音がホームベースを踏んで一点先制! ベンチにいる選手は全員がハイタッチで四音を出迎えた。
「すごいよ四音。みんなが同じところにバントできるなんて、相当練習したんでしょ?」
 しかし、彼女から帰ってきたのは意外な返事だった。
「全然」
「全然って、そんなことないでしょ? みんな同じところにバントしてたよ。ものすごく絶妙な場所に。しかも追い込まれてから」
「みんな左利きで左バッターだからね。一塁に走りながのセーフティバントが一番確実に塁に出れる方法なの」
「へえ、そうなんだ」
「それにね、あれにはちゃんとした理由があるのよ。大きな声では言えないけどね」
 そして四音は、耳打ちするように小声で種明かしをしてくれたんだ。

「あれはね、バットに仕掛けがあるの」
 ええっ、バットに?
 そんな風には見えないけど。
「内臓された二台のカメラで投球の軌道と速度、そして相手選手の守備位置を計測しててね、インパクトの瞬間にAIが表面の形状と反発係数を変化させて相手が最も捕りにくい場所にボールを転がすことができるの。バント専用、瞬時形態最適化AI搭載バット、略してバントくんって呼んでるんだけどね」
「なにそれ。そんなことができるの?」
「そんなことって何よ。羽希が秘書やってるのは何の会社? うちらは軽金属加工のプロなの忘れてるでしょ」
 そうだった、そうだった。うちの会社は飛田LITEサプライだった。
「でもこの作戦には弱点があるの。バントしかしないと気づかれたら相手チームも対策してくるでしょ? だから最初の二球はブンブン振ってもらって、長打があるぞって思わせる」
 みんなが豪快に空振りするのには、理由があったんだ。
「まあ、本当に当たって長打になればそれに越したことはないんだけどね。急造チームだとそうは上手くいかないよね」
 その通りだよ。あれが当たればいいのにってずっと思ってたんだから。
「でもね、ツーストライクになるといいことが一つあるの」
「それって?」
「相手チームは、バントはしてこないと思ってしまう」
「ええっ、そうなの? 何で?」
「それはね、スリーバントってルールがあるからよ。ツーストライクに追い込まれてからのバントは、失敗すると即アウトになっちゃうの。ほら、バントってボールを当てやすいから無限にファールできちゃうでしょ?」
「へえ、そんなルールがあるんだ……」
「だから守備側は、ツーストライクになった時点でバントの可能性を低く想定してしまう。でもバントくんを使うと、追い込まれてからも確実にフェアゾーンの最適解にボールを転がすことができるの」
 四音はバッターボックスに目を向ける。そこではショートの山本六太(やまもと ろくた)が打席に立っていた。
「でもそれでセーフになるのは最初のうちだけ。だんだんと手の内が分かれば対策されちゃう」
 続いて彼女は相手の守備位置に視線を移す。確かに相手チームの守備位置が変わっている。ファーストとサードはかなり前に出ていて、外野も極端に前で守っていた。
「ホントだ。あれじゃバントしてもすぐにボールを捕られちゃう」
「そうなの。だからね、この虎の子の一点を大事にしなくちゃいけないの」
 六太は一球目でバットを思いっきり振る。当たれば外野の守備を軽く越えられると思えるくらい。が、当たらない。
「あれが当たればねぇ……」
「そう簡単にはいかないのよ。羽希もバッターボックスに立ってみればわかるわ」
「嫌よ、そんなの。怖いもん」
「でも相手チームも相当怖いと思うよ。別の意味でね」
「だよね、あれが当たったら即失点だもんね」
「面白いでしょ、野球って。羽希もやる気になった?」
「いや、全然」
 六太は二球目も強振する。が、やっぱり当たらない。
「てことは、次はバント?」
「になっちゃうよねぇ~」
 相手選手もぐっと守備位置を前進させた。もうバレバレじゃん。
 それにも関わらず六太はバントを強行。同時にダッシュしていたファーストが捕ってホームに送ってアウト。さらにキャッチャーはカバーに入ったセカンドに投げて、バッターもアウトになってしまった。
 ツーアウト二塁三塁。しかしまだまだチャンスは続いている。
 次のバッターはファーストの田中三郎(たなか さぶろう)。
 彼も最初はブンブンとバットを振るがやっぱり当たらない。そしてその後のバントではホームでのクロスプレーでスリーアウトになってしまった。
「こんな風に対策されちゃうと打つ手がないのよ」
「バットを振って、ボールに当てることができればいいのにね……」
 私と四音は頭を抱えるのであった。


 〇 〇 〇


 その後、試合は一対〇でサプライズがリードしたまま膠着状態になってしまう。
 バントしか攻撃方法がないサプライズは、塁にランナーを貯めることができてもホームを踏むことができない。相庭製薬の極端な前進守備によって。
 一方の相庭製薬も、サプライズの投一を打ち崩すことができなかった。ランナーを一塁に出せても、二塁や三塁でアウトにされてしまう。左利きの守備がこんなところに活かされるとは、誰も予想していなかっただろう。
 しかし最終回の七回表。相庭製薬は投一の攻略に成功する。疲れで球威が衰えたところに三連打を浴びせて二点を奪ったのだ。
 七回の裏。サプライズの攻撃。スコアは一対二。
 この回に点を入れなければ、我がチームは負けてしまう。
 ちなみに同点になった場合は、延長戦を行うのではなく、同じ守備同士のじゃんけん大会で勝敗を決めることになっている。
「みんな、この回で逆転して五万円ゲットしようよ!」
 四音がメンバーにカツを入れるが、みんなは死んだ魚のような目をしている。普段から運動をしていないためか肩で息をしているメンバーもいた。
 打順は四音からだ。
 六回までと同様にバントで一塁に出る。
 続く正五、投一の二人もバントで出塁してノーアウト満塁。
 ここまでは相庭製薬もやらせてくれるのだ。しかしここから極端な前進守備でことごとくホームでアウトにされてしまう。
 この回も例外ではなかった。バットを振り回しても当たらない捕二は、ツーストライクからバント。ホームで四音が、一塁で捕二がアウトになって、ツーアウト二塁三塁になってしまう。
 絶体絶命。ああ、五万円は夢と散るのか、と諦めたその時、ベンチに戻ってきた四音が動いた。球審に予想外の代打を告げたのだ。
「代打、来雲土羽希、よろしくお願いします!」
 えっ、私?
 それってどういうこと?
 ポカンとする私のところに、四音がバントくんを持ってやってくる。
「いい羽希、私たちはもうあなたに賭けるしかないの。これ持ってバッターボックスに立って、一塁まで全力疾走してほしい」
「む、無理だよ。私野球なんてやったことないし、バットだって持ったこともないんだから」
「大丈夫。このバットは我社の技術を込めた最高傑作だから。今までのバント成功率は百パーセントだったよね。今は守備位置のバグでやられてるけど」
「そ、そうだけど……」
「これ持ってバントの恰好して、バッターボックスに立ってるだけでいいから。怖かったら目をつむっててもいいから」
「えー…………」
 嫌がる私に、他のメンバーも声を掛けてくれる。
「羽希さん、お願いします!」
「最後に僕たち見たいんです、羽希さんが全力疾走するところを!」
「みんな…………」
 思わず涙が溢れて来そうになった。
 こんなにも疲れているというのに、それほどまでに私のおっぱいが揺れるところを見たいのかよ。
「わかった、私やるわ」
 こうなったらヤケクソだ。
「ありがとう、羽希」
 私は四音からバントくんを受け取り、右バッターボックスに立った。

 生まれて初めて立つバッターボックス。
 球審に挨拶をして、土のグラウンドに白線で囲まれた長方形の聖地に足を踏み入れる。私の心臓はバクバクだ。
 バントくんを胸に抱えてフィールドを向く。ピッチャーそして広大なフィールドに散らばる選手たちがみんな私に注目している。それは相手選手だけじゃない。三塁の正五も二塁の投一も私に熱い視線を届けてくれていた。チラリと観客席を見ると、みんなが息を飲んで私を見つめている。
 そうか、ここは舞台なんだ。
 主役だけが立つことを許されたステージ。
 いや違う、ここに立つ者すべてが主役になれる特別な場所なんだ。ここでの振る舞い一つで物語のゆくえが決まってしまうことすらある。正に今がその時。
 こんな重要な役を私が演じてしまっていいのだろうか。
 メンバー集めと事務作業にしか貢献してこなかったおっぱいだけが取柄の私が。
 そんな雑念は一瞬で吹き飛ばされる。ピッチャーが一球目を投じたのだ。
 ものすごいスピードで私に近づいてくる白球。驚きで私はのけ反った。
 ちょ、ちょ、ちょっと、なに今の。当たったら死ぬよ、こんなの絶対無理だよ。
 思わず涙がこぼれて来る。代打なんて引き受けるんじゃなかったと。
 同時に私は、先ほどまでの考えを改めていた。主役になれる舞台なんてそんな生やさしいものじゃなかった。ここは生きるか死ぬかを問う場所だ。四音や他のメンバーは、こんなに怖いものと対峙してたんだ。私にそれができるか、全く自信がない……。
「羽希さん、頑張って!」
「大丈夫、軟球だから当たっても死にませんよ!」
「羽希ならできる。みんなを信じろ! 私を信じろ!」
 背後のベンチから次々とメンバーの声が飛んでくる。
 みんな勝手なこと言っちゃって。
 でもそれが嬉しくて心強い。この場所に立って、初めて私はメンバーの一員になれたような気がした。
 それならば――やるしかない!
 静かに目を閉じて、私はバットを構えた。バントの恰好で。
 視覚が失われるとその他の感覚が研ぎ澄まされていく。
 四音の話によると、このバットには目が付いているという。迫りくるボールや相手の守備位置を絶えず捕捉している二つのカメラという目が。今はそれを信じるしかない。四音がこのバットに組み込んでくれた我社の最新のテクノロジーと共に。
 応援やヤジを意識から消し去ると、キャッチャーの息遣いが聞こえてくる。そしてシュルシュルと近づいて来る軟球の音。
 すると奇跡が起きた。バットが自然に動き出したのだ。私の意に反して。
 ええっ、なにこれ?
 驚いて目を開けると、ピッチャーからの投球がバットに当たるところだった。コンという小気味良い音を立てて宙に弾かれたボールは、きれいな弾道を描いて二塁と三塁の間に飛んでいく。そして超前進守備のレフトの頭上を越えた。
「走れ! 羽希ィ!!」
「羽希さん、一塁ですよ!」
 えっ、一塁に走るの?
 見ると、六太がピョンピョンと飛び跳ねながら手招きしている。一塁コーチャーボックスで私に向かって「こっちこっち!」と叫びながら。
 私はバントくんを地面に置くと、一塁に向かって走り始めた。
 全力疾走なんて何年ぶりだろう、と思う間もなく息が切れ始めてしまう。
 苦しい、まだ走らなきゃいけないの? あとどれだけ? 一塁はまだなの!?
「羽希ィ、死ぬ気で走って! 一塁でセーフになんなきゃ五万は手に入らないよ!」
「そうですよ、五万円ですよ」
 そうだ、五万円だ。この走りに五万円がかかっているんだ!
 私は最後の力をふり絞り、一塁ベースが見えたとたんヘッドスライディングした。
 後から聞いた話では、すでに三塁の正五も二塁の投一もホームインしており、相手チームは最後の希望にかけて一塁に送球したらしい。そしてファーストが捕球するのと私が一塁ベースを抱き抱えるのはほぼ同時だったのだ。
 球場全体が静まる。
 すべての人の意識が、球審のコールに集中した。
「セーフ!」
 そ、それって……。
 やった、やったよ! セーフだよ!!
「羽希さん、やりましたよ! 僕たち勝ったんです!」
 興奮しながら一塁コーチャーの六太が手を差し伸べてくれる。
 私はユニフォームの胸を土で茶色に染めながら体を起こした。
 振り向くとメンバー全員が私のもとに駆け寄ってくる。嬉しくて涙がこぼれてくる。私は四音に強く抱きしめられた。
「すごいよ羽希! 三対二で逆転サヨナラ勝ちよ!」
「そうなの? 本当に私たち勝ったの?」
「そうよ、これで五万円ゲットだよ」
 私は他のメンバーと一緒にホームベース前に並び、相手チームに挨拶をする。
 グラウンド整備が終わってベンチを片づけていると、社長がベンチに来てくれた。
「みんな、よくやってくれた。いい試合だったよ」
「社長、五万円の約束、忘れてないですよね?」
 私が訊くと、社長は呆れた表情をする。
「いきなりそれか? まあ、君たちにとっては重要なことだからね。ああ、もちろんだとも。次も勝ったら十万円だからさらに頑張ってほしい」
 すると四音が驚く行動に出たのだ。
「すいません社長。私と羽希は今日の疲れを取るためにこれから一泊の温泉旅行に行ってきますので、失礼を承知で申し上げますが、今この場で二人分十万円と明日の有給休暇をいただけないでしょうか?」
 ちょ、ちょっと四音。何言ってんのよ、そんなの初めて聞いたけど。
 困惑する私をよそに、社長は私たちを労ってくれる
「二人は大活躍してくれたから特別に許そう。ゆっくり休んでくるといい」
 そう言いながら財布の中から十万円を取り出してくれたのだ。
「ありがとうございます、社長!」
 四音に合わせて私もお辞儀をする。
「じゃあ、いくよ! これから温泉に」
「四音っていつも唐突なんだから……」
 こうして私と四音は、その日のうちに温泉に行くことになったんだ。


 〇 〇 〇


 二時間後。
 私と四音は、温泉地に向かう特急列車に揺られていた。
 試合終了後、自宅マンションに戻った私は軽くシャワーを浴びて化粧をし直し、荷物を持ってすぐ駅に向かう。
 駅で四音は私に謝罪した。
「急に予約を取ったから近場の温泉しか空いてなかったけど、食事は豪華にしといたから許してね」
 そんなことよりも私は四音に訊きたいことが山ほどあった。座席についた私は、早速彼女に質問する。
「いろいろと訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「だよね」
「まず、私の打席の時のことなんだけど……」
 あれは不思議な体験だった。
 私は目をつむってバントの恰好をしただけだったのに……。
 あの時、一体何が起きたのだろう?
「ああ、あれね。バットが勝手に動いたでしょ?」
 そうなのだ。
 あの時、私は何もしなかったのにバットが勝手に動いてボールを弾き返したのだ。レフトの頭を越えるように。
「バントくんのオートパイロット機能なのよ。略しておっぱい機能ね」
「おっぱい機能って……」
 オートパイロットって自動運転のことだよね。それをおっぱい機能って略したらいろいろなところからクレームが来るんじゃないの?
「あら、関係ないことはないのよ。羽希にユニフォームを渡す時に言ったよね、金属繊維が織り込まれてるって」
「うん。最初ごわごわしてるかなって思ったんだけど、胸がしっかりとホールドされて結構良かったよ」
「あれはね、おっぱいをホールドしていただけじゃないの」
「えっ、そうなの?」
「バントの構えをした時にバットを包み込むような磁場を形成して、バントくんを動かしていたのよ。バントくんからの情報、つまり投球と守備位置に関する情報をAIが処理して、最適な反発係数とスイング軌道を計算して瞬間的にバットを動かすことができるの」
 マジか、そんな機能まで備えていたとは!?
「それでね、男があのユニフォームを着ても上手く磁場を形成できないのよ。バットの上側の磁場が作れなくてね。バントくんのオートパイロット機能を使うためには、Fカップ以上のおっぱいが必要なの」
 それでなのか、私が代打に立たされたのは。
 ようやくその理由が分かった。
「作戦名は『必殺、おっぱいでバットコントロール、球よ白き飛翔体を成せ』よ」
 確かにおっぱいでバットをコントロールしていたみたいだから何も言えないんだけど、後半は『白き飛翔体となれ』が正解なんじゃね?
 ていうか、このシステムってまずいんじゃないの? 負けたチームが知ったらカンカンになって怒るんじゃないのかな? まあ、それまでのバントだって同じなんだけど。
「からくりはわかったけど、相手チームにバレたらどうすんの?」
「もちろん反則負けだよね。だからこうして急いで温泉旅行に来てるんじゃない。反則負けになったらあの社長のことだから五万円すらもらえないわよ」
 まあ、そうだよね。
 ホテルや特急などの予約は全部四音にやってもらった。四音は最初からこれを計画していたに違いない。
「それにね、たとえ反則負けにならなくても次は勝てないわよ。バントとおっぱいだけで勝てるのは初戦だけだから」
 それはそうだろう。試合の情報が伝われば、次の相手は最初からバントを警戒してくるに違いない。
「だから今夜はとことん楽しもうよ! 豪華な夕食と広々とした露天風呂が私たちを待ってるよ!」
「楽しみだね! ホテルとかの手配に感謝するわ」
「羽希のおかげで勝てたんだから当たり前よ。それと露天風呂ではその勝利のおっぱいを存分に拝ませてもらうから」
「ええっ、そんな……」
 まあ四音は試合の準備で大変みたいだったし。
 ずっと寝不足っぽい感じがしていたのは、こんなにすごいシステムを構築していたからだったんだ……。
 今夜くらいは温泉でゆっくりして、勝利の美酒に酔おうと誓う私たちなのでした。
 
 


 おわり



ミチル企画 2023夏企画
お題:『サプライズ』

うさぎの戸締り2023年05月18日 21時33分50秒

注意:この作品は新海誠監督作品(特に『すずめの戸締り』)の内容に触れています


「裕樹ィ、行くよ!」
 窓の外から小百合の声が聞こえてくる。
 慌てて窓を開け階下を見ると、私服姿の彼女が少しイライラしながらこちらを見上げていた。
「ちょっと待ってて! 今行くから」
「早く、早くぅ~」
 一秒たりとも待てないという表情。
 それはそうだろう、ずっと行きたかった場所に行けるのだから。
 よく晴れた三月の日曜日はお出かけにはうってつけ。玄関を開けると、小百合は腕組みをしてお待ちかねだった。
 白のクルーネックTシャツにデニムのジャケットを羽織り、カーキ色のキュロットに白ソックスとローファーは正に行動派スタイル。幼馴染の小百合らしい。
「ていうか、その恰好……」
「そうよ、今日はすずめになるんだから」
 そう、お出かけの目的は新海誠監督の映画『すずめの戸締り』の聖地巡礼。一緒にお茶の水に行くのだ。

 新宿駅で東京駅行きの中央線に乗り換える。四ツ谷駅を過ぎると次が御茶ノ水駅だ。
 電車の扉に身を預け、春の日差しを浴びる外堀の水面を眺める小百合。窓に写る彼女の姿に僕は見とれていた。
 長いまつ毛、輝く瞳、そしてすっきりとしたフェイスライン。
 僕たちは中学を卒業し、もうすぐ高校に入学する。小百合ならすぐに彼氏ができてしまうに違いない。
 幼馴染という立場でこうしてお出かけできるのはこれが最後なんじゃないかと、僕は彼女の姿を目に焼き付けていた。

 御茶ノ水駅のホームに下りて階段を登り、御茶ノ水橋口の改札を出ると小百合が「おおっ!」と声を上げた。興奮しながら辺りをキョロキョロしている。
「裕樹。ここだよ、赤いオープンカーが停まってたところは!」
 だからそんなに興奮するなって。この先体力が持たないだろ?
 ていうか、めちゃくちゃ恥ずかしいから。スマホでそんなにバチバチ写真を撮ってたら完全に田舎者だから。
「どこなの? 赤いオープンカーは! どこなの~」
 たまらず僕は小百合の手を引いて駅から離れることにした。
 お茶の水橋の真ん中付近まで来ると、手を繋いでいることが急に恥ずかしくなる。
「えっ、もう離しちゃうの? もうちょっと手を繋いでても良かったのに……」
 そ、それって……。
「だって草太さん、すずめと手を繋いでこの橋を渡りたかったと思うの」
 なんだよ、そういうことかよ……。
 ドキドキして損した。すずめのコスプレしてるからって僕を出汁にするな。ちょっと嬉しかったけど。
「それよりも裕樹、ほら、あれ……」
 小百合が指差す方を見る。
 その方向にはアーチ状の白い大きな橋が見えた。
「おおっ、あの橋って!?」
「そう、あの橋よ」
 映画の重要なシーンに登場する橋。僕が絶対に行きたいと思っていた場所。
「聖橋じゃないか!」
 興奮気味に走り出そうとした僕を、今度は小百合が引き留める。
「ちょ、ちょっと待ってよ。あの美しいアーチをここから写真に撮っておきたいの」
 ここは橋の上だから隣りの橋、聖橋の全体がよく見える。小百合が言うことももっともだった。
 スマホで写真を撮りながら、彼女はぽつりぽつりと語り始める。
「あの橋はね、関東大震災の復興の象徴なんだって。だから年齢はもう九十歳を超えてるんだよ」
 へぇ、それはすごいな。
「土木遺産に指定されてるんだから」
 映画に使われたのはそういう理由からなのかな?
 白く美しいアーチを僕も写真に収める。
 それから僕たちは聖橋に向かって神田川沿いを歩く。橋のたもとの湯島聖堂にお参りしてから聖橋に上がった。湯島聖堂は映画には出て来ないけど、小百合曰く、聖橋の名前の由来になった場所らしい。
「ついに来たぞ、聖橋!」
 聖橋はとても気持ちの良い場所だった。
 ビル群に挟まれて深い谷の底を流れる神田川。その流れが注ぐ秋葉原のビル群を、割と高い場所から眺めることができる。
 橋の上から神田川を見下ろすと、川を渡る鉄道橋とトンネルが見えた。
「あれ? あのトンネル、見覚えがある!」
 僕の興奮は収まらない。
「丸ノ内線のトンネルだよ。ていうか、見覚えあるどころじゃないよ、あそこは最も重要な聖地じゃない」
 そうだ、映画では、あの丸ノ内線のトンネルから災いが出てきたんだ。
 僕は慌ててスマホを取り出し、写真を撮り始めた。
 すると並んで欄干に体を預ける小百合が、ニヤニヤしながら僕の顔を覗き込んで来る。
「裕樹だって写真撮りまくってるじゃん」
 いやいや、あのトンネルだよ。写真撮るなって言う方が間違っている。
「というか裕樹、何であのトンネルから災いが出て来るか知ってる?」
「えっ?」
 僕は固まってしまった。
 それって監督が考えた設定だからじゃないのか?
 それとも何か理由があるのか?
「この地域はね、江戸城から見て鬼門にあたるの。鬼門っていうのはね、北西の方角のことなんだけど、鬼が来るって言われてる」
 だから災いがやって来る?
「裕樹は丑寅(うしとら)って言葉、聞いたことある?」
 うしおととら、なら聞いたことあるけど。昔のアニメでそんなのがあったような……。
 すると小百合は、ぶつぶつと何かを唱え始めた。
「子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)」
「それって十二支?」
「そう。江戸時代はね、それで方角や時刻も表していたんだよ」
「へぇ~」
「十二だからちょうど時計の文字盤代わりになるの。時計の12の位置が子、1の位置が丑という風に」
 それってなんか聞いたことがある。丑三つ時(うしみつどき)っていうのもその一種だったような。
「方角として使った場合は北が子になって、東に当たるのが卯。そして鬼門の北東は、丑と寅の間になるから二つをくっつけて丑寅」
 それで丑寅なのか。丑と寅のミックスというわけだ。
「そんでね、鬼門と逆の方角にあたる動物が、鬼から街を守るって言われてる」
 ということは……何だ?
 僕は子、丑、寅、卯と指を折り始める。が、どれが街を守る動物なのか全然イメージできない。
 しびれを切らした小百合は、スマホを僕にかざした。そこには十二支が時計の文字盤のように配置された図が表示されていた。これならよく分かる。
「鬼門が丑寅だから、その反対側は……未と申?」
「そう。でもね、ヒツジには角があるでしょ? だから鬼と同類と見られている」
「ということは守護神はサル一択か」
「そうなの。場所によっては北東側の門に猿の像を配置しているところもあるみたい。守護神としてね。でも……」
 小百合はスマホを引っ込めて僕の瞳を凝視する。
 これから言うことに対して、同意して欲しいという強い眼差しで。
「猿が守護神って微妙じゃない? 猿だよ、サル。それよりも兎の方が圧倒的にいいのに!」
「えっ?」
 どう反応していいのか困ってしまう。僕にとっては猿も兎もどっちもどっち。
 ていうか猿に謝れ。鬼から街を守っている有り難い猿様に。
「兎がいいって、どういうこと?」
「そういう世界になればいいのに、ってこと」
 いやいや鬼門が北東のままならそれは無理だろ。
 もしかして、鬼門の方角が変わればいいって言いたいのか?
「兎が守護神ってことはね、鬼門の方角は西になるの。そっちの方が鬼門っぽいし、それに街を守る置物が全部兎だったら可愛くていいじゃない!」
 そんな理由?
 守護神だったらトラとかドラゴンの方がよくね?
「あの映画だって、『すずめ』じゃなくて『うさぎの戸締り』になってたかもしれないのにな……」
 そう言いながら両手を広げて欄干に背中を預ける小百合。
「えっ?」
 刹那、バランスを崩して川側にのけぞる恰好になってしまった。
「危ないっ!!」
 落ちる——と思った僕は慌てて小百合の足を掴む。が時は遅し。僕は彼女と一緒に神田川に落下してしまった——


 ◇


 目を覚ますとそこは知らない天井、ではなく自分の部屋の天井だった。
 時計を見ると朝の九時。と同時に、窓の外から小百合の声がする。
「裕樹ィ、行くよ!」
 やべぇ、来ちまった。
 僕は慌てて窓から首を出す。
「ゴメン、小百合。今起きたばかりだから家で待ってて!」
 彼女の家は歩いてすぐの所にある。これから準備すると十分以上はかかるだろう。だから家で待ってもらった方がいい。
「なによ、九時って言ったの裕樹じゃない」
「だから謝ってるじゃん。ゴメン、本当にゴメン」
 手を合わせる僕に対し、ムッとしながら踵を返し家に向かう小百合。服装もデニムのジャケットにカーキ色のキュロットだった。
 というか、さっきのは一体なんだったんだ?
 夢にしてはやたらリアルだったけど。
 しかし今はゆっくり考えている時間はない。すぐに行くって小百合に言っちゃったんだし。
 僕は服に着替えて、慌てて家を飛び出した。

「裕樹、今日は楽しみだねぇ~」
 二人は新海アニメの大ファン。今までも何回か聖地巡礼に行っている。
 しかし『すずめの戸締り』は初めてだ。だって高校受験があったから。
 志望校にそれぞれ合格し、晴れて聖地巡礼に行ける春がやってきた。
「なのに寝坊しちゃって。今日は私が行きたいところに行かせてもらうからね」
 まあ仕方がない。
 変な夢を見ていたから遅れた、なんて言うわけにはいかないし。
 それよりも驚くことが起きた。小百合がいきなり僕の手を握ってきたのだ。
「早く、早く!」
 そして駅に向かって走り出す。
 なんだか嬉しいような、でも近所の人に見られたら恥ずかしいような、複雑な気持ちで僕は駅へと走る。

 新宿駅で中央線に乗り換えて、電車が四ツ谷駅に着くと小百合が言った。
「ほら、降りるよ」
「えっ、ここで?」
 まだ四谷だよ?
 お茶の水まで行って『すずめの戸締り』の聖地巡礼するんじゃないのか?
「だって聖地巡礼でしょ?」
「まあ、そうだけど……」
 四谷もまた新海アニメの聖地だったりする。特に映画『君の名は。』の。
 きっと小百合は、そちらの聖地も巡りたくなったに違いない。
 そう解釈した僕は彼女に続いて駅のホームに降りる。今日は遅刻してしまったので、言うことを聞かなくちゃいけないし。
 改札を出て四谷見附橋を目にした小百合は、興奮気味に叫び始めた。
「ここだよ、ここ!」
 まあ、そうだよね。『君の名は。』で瀧くんが奥寺先輩と待ち合わせしてたのあの橋だし。
 しかし小百合は、写真を撮りながら驚くことを言い始めたのだ。
「どこなの? 赤いオープンカーは! どこなの~」
 ええっ、それってどういうこと?
 瀧くんって赤いオープンカーに乗ってたっけ? 赤いオープンカーは『すずめの戸締り』の芹澤じゃないのか? 声優はどちらも同じだけど。
 さらに小百合は橋の欄干に体を預け、眼下の丸ノ内線に向かって指をさした。
「ほら、見て! あの丸ノ内線のトンネルから災いが出てきたんだよ!」
 さっきから何を言ってるんだ、小百合は!?
 赤いオープンカーも災いも出て来るわけないじゃないか。あれはお茶の水だろ? ここは四谷だぜ。
 そりゃ、同じ丸ノ内線のトンネルだから地下で繋がってるかもしれないけどさ、出口が違いすぎる。
 だから僕は小百合に訊いてみた。
「そんなシーン、あったっけ? あのトンネルから災いが出て来るシーンって」
「何言ってんの?」
 僕を向く彼女は目を丸くした。信じられないという表情で。
「あんなに重要なシーンなのに。裕樹は寝てたの? もしかしてまだ観てないとか?」
「そんなことないよ、ちゃんと観たよ、『すずめの戸締り』だろ?」
 その言葉を聞いた彼女は、さらに目を丸くした。
「今何て言った?」
「『すずめの戸締り』だけど?」
 すると小百合は突然ケラケラと笑い出したんだ。
「すずめ? すずめって何よ。トリが扉閉めてどうすんのよ。『うさぎの戸締り』でしょ? 間違って何か別の映画観たんじゃない?」
 うさぎ!?
 今度は僕が目を丸くする番だ。
 僕だって新海アニメの大ファンなんだから、映画を間違えるわけないだろ?
「僕が観たのは、災いの扉を閉めるために草太とすずめが冒険する映画だよ」
「だから、うさぎだって言ってるの。その他は合ってるけど……」
 その他は合ってる?
 それってどういうことだ?
 ま、まさか——
「入れ替わってる?」
「なによ、いきなり。『君の名は。』のセリフ言ってんのよ?」
 そこは間違ってないんだ。
「違うよ。入れ替わってると言ったのは、鬼門の方角だよ。ねえ、小百合教えて。鬼門の方角ってどっち?」
「どっちって西に決まってるじゃない。だから扉を閉めるのはヒロインのうさぎなのよ。兎は鬼門の守護神なんだから」
 やっぱりそういうことか。
 鬼門の方角が入れ替わっているんだ。
 ということは、ということは——僕はパラレルワールドに来ちゃったってこと? 聖橋から落ちた時に、鬼門の方角が入れ替わってしまった世界へ。
 スマホを取り出し「鬼門」について調べてみる。すると小百合の言う通り「西」と書かれていた。
「ほら、私の言った通りでしょ? 江戸城にとって西側のこの四谷が鬼門なの。だからこの場所から災いが出てきた」
 鬼門の方角が西なら、そういうことになるだろう。
 しかし僕にはにわかに信じられなかった。
「本当に兎が守護神なのか?」
 だって可愛すぎるだろ?
「本当よ。ほら、これを見て!」
「えっ、桃太郎?」
 小百合がスマホに表示させたのは、昔話『桃太郎』の絵本の表紙。
 中央の桃太郎は僕が知っている姿だったが、家来が決定的に異なっていた。
「桃太郎の家来はね、鬼門の守護神なの。だって鬼を退治しに行くんだもん。でも家来が兎だけでは戦力不足だから、その前後の干支も連れている」
 それはトラとドラゴン。
 これは強そうだ。これなら勝てる、鬼でも魔王でもどんと来いだ。
「ていうか、裕樹はどう思ってたのよ、鬼門の方角って」
「北東だと思ってたけど」
 最近、というか今日教えてもらったんだけどな、元の世界の小百合に。
 すると彼女はぷっと噴き出した。
「北東? じゃあ桃太郎の家来はサルとヒツジとトリになっちゃうじゃない。いや、ヒツジは鬼の仲間だから……まさかのイヌ!?」
 ああ、そうだよ。桃太郎の家来はサルとトリとイヌだよ。
「そんなんで勝てるわけないじゃない。ペットと一緒に鬼退治とかバカなの、その桃太郎」
 僕も不思議に思ってたんだよね、子供の頃からずっと。
 よく考えたら、そのメンバーで勝てるはずがない。きび団子というチートアイテムでドーピングしたってさ。
「そんなに笑うなよ。鬼門が北東の世界だって、どこかにあるかもしれないだろ?」
「パラレルワールドにね。そんな世界、行きたくもないけど」
 ぶっちゃけ僕も、鬼門は西でいいような気がしてきた。
 だったら小百合が言う『うさぎの戸締り』に乗ってやろうじゃないか。まだ観てないけどさ。
 とりあえず丸ノ内線のトンネルの写真を、と欄干から身を乗り出した瞬間、僕はバランスを崩してしまう。心ここにあらずがいけなかったらしい。
「危ない、裕樹!」
 僕にしがみつく小百合。が時遅し。二人の重心はずるずると欄干から外側に移動する。
「手を放せ! 小百合」
「いや、裕樹と離れたくない!」
「今なら小百合は助かる」
「裕樹と一緒がいい。高校も一緒が良かった——」
 僕の想いもむなしく、二人は四谷見附橋から落ちてしまった。


 ◇


 目を覚ますと、そこは僕の部屋のベッドだった。
 時計を見ると時刻は朝の八時五十分。あと十分したら小百合がやってくる。
 急いで準備しないとまた彼女を怒らせてしまう。
「裕樹ィ、行くよ!」
 ちょうど着替え終わったところで小百合の声がした。

 デニムのジャケットにカーキ色のキュロット。
 玄関を開けて目に入る小百合の姿は、やはり『すずめ』コーデだ。
 いや、もしかしたら『うさぎ』コーデなのか?
 僕はさりげなく、この世界のルールを探る。
「ねえ、小百合。今日はどこから行く?」
 この質問なら間接的にこの世界の真相を探ることができる。答えがお茶の水なら鬼門の方角は北東、四谷なら西だ。
「そうねぇ、やっぱお茶の水じゃない?」
「だよね!」
 おおっ、この世界は元の世界と同じだ。
 鬼門の方角は北東、桃太郎の家来はサルとトリとイヌ。
「おっ、裕樹も乗り気ね?」
「もちろんだよ、受験でずっと行けなかったんだから」
「そうね、やっと行けるんだよね……」
 小百合は俯く。少し悲しげな表情で。
「裕樹は新海アニメが好き?」
 いきなり何を言い出すんだろう、小百合は。
 あれほど新海アニメについて二人で語り合ってきたというのに。
「好きだよ。だからこうして聖地巡礼するし、してきたんじゃないか?」
 他の作品も一緒に行ったよね。『君の名は。』も『天気の子』も、中学生になってから。
「私も好き。でもこんな女の子、変じゃない? 今まで中学生だったから許されていたような気がするの」
 そんなことないよ。変と言うやつがいたらぶっ飛ばしてやる、と鼻息を荒くしそうになってふと思う。
 そっか、小百合は心配しているんだ。高校デビューを。
 四月から僕たちは別々の学校に通う。幼馴染としてこれは初めてのことだった。
「大丈夫だよ。高校にも絶対いるよ、新海アニメファンが」
「そうだよね、変じゃないよね。高校にもいるよね、私みたいな女の子が」
 顔を上げる小百合。
 僕に救いを求めるその瞳にドキリとする。
 四谷見附橋から落ちた時、小百合は「離れたくない」と言ってくれた。
 あの世界は、本当にパラレルワールドだったのだろうか?
 小百合が望む「守護神が兎」となった世界。それは、もしかしたら、彼女の心の世界への旅だったのかもしれない。
「ねえ、裕樹」
「ん?」
 本当は言いたい。
 やっぱり小百合は変だ。僕じゃなきゃ相手はできないんだ。だから高校に行っても男子には近づかない方がいいって。
 そんな想いが爆発しそうになる。
「新海監督ってまたアニメ作るよね?」
「ああ、二年半後にね、きっと」
 新海監督は三年ごとに新作を発表している。
 ということは、次の作品が封切になるのは二年半後だろう。
「そしたらまた、一緒に聖地巡礼してくれる?」
「もちろんだよ」
「でもその時、私たち大学受験中だよ」
「そんなの関係ない。気になるなら受験が終わってから行けばいい、今回のように」
 小百合と一緒なら、どこにでも行ってやるさ。
 そう言おうとして僕は気付く。これは彼女の願いなんだ——と。
 最新作の聖地巡礼は今日行ってしまうから、次のきっかけは二年半後になってしまうんだ。
 こんなに先の希望に必死に手を伸ばそうとしている小百合。その想いに気付いた瞬間、涙が出そうになってきた。彼女がこんなに頑張っているのに僕は何してるんだよ。しっかりしなくちゃダメじゃないか。
 だから思い切って提案する。
「それよりもさ、まだ行ってない新海アニメの聖地が沢山あるじゃん」
「それって?」
「例えば宮崎とか種子島とか津軽半島とか?」
 さすがに宇宙とかアガルタは言わないでおいた。
「行こうよ! 僕は小百合と一緒に行きたいんだ」
「えっ?」
 小百合はぽっと顔を赤らめる。
「高校生には遠すぎるよ。お泊りになっちゃう……」
「あっ……」
 何言ってるんだ僕は。
 ああ今の発言を取り消したい。本当に行きたいのは確かなんだけど、状況を考え無さ過ぎた。
 二人で顔を真っ赤にして、しばらくの間俯きながら駅までの道を歩く。
 すると小百合がぽつりと言った。
「でも、飛騨高山なら……」
 そっか、そうだよ。
 飛騨高山という聖地があったじゃないか!
「三葉のように?」
「そう、三葉のように」
 映画『君の名は。』では、高校生の三葉が飛騨から東京を日帰りする。
 だから僕たちだって高校生になれば出来るんだ。その行動自体がまさに聖地巡礼。
「じゃあ、夏休みに行こうよ!」
「うん、私バイトしてお金を貯める」
「僕だって貯めるよ。楽しみだね、飛騨高山」
 そう言いながら、勇気を出して僕は小百合に手を差し出した。
 この先二人がずっと手を繋いでいられるように。
「うん、楽しみ!」
 小百合の柔らかな手。
 もうこの手を離したくない。たとえまた橋から落ちることになったとしても。
「そうだ、神津島にも行ってみようよ」
「それって、お泊り?」
「いやいやいやいや、そうじゃないと思うよ、きっと……」
 この春、僕たちは新しい世界を歩き出したんだ。



 おわり



ミチル企画 2023GW企画
お題:『春』『旅』『うさぎ』

俺の特殊能力2023年01月19日 22時46分37秒

「紗紀美さんの特殊能力はね……」
「そ、それは?」
 学級委員長がゴクリと唾を飲み込みながら、教室の隅で彼の言葉に耳を傾けている。
「クラスメートを納得させるオーラを纏うことかな」
「おおっ、紗紀美にピッタリだよ。それで私は?」
「知佳さんはね……」
 今度は図書委員が興味津々の眼差しを彼に向けていた。
「頭の中に行間の声が自然と響くでしょ?」
 彼の名前は言亜輝(ことあ てる)。
 最近女子生徒に人気のクラスメートだ。
「すごい、すごいよ! 輝君に言われると、なんかそんな特殊能力を持ってるような気になっちゃうよ」
 そりゃそうだろ。
 学級委員長に図書委員。
 彼女たちは自分自身の得手不得手と向き合ってその委員を選択したに違いない。委員名から推測されるその過程を、ちょっと中二病っぽく言い当ててるだけじゃねえか。
 ていうか、行間の声が響くってなんだよ。
「ほら、多拓君もこっちに来たら?」
 ヤバい、彼女たちに見つかっちまった。
「お、俺はいいよ」
「そんなこと言わないで、多拓君も輝君に調べてもらいなよ」
「そうだよ、すごいよピッタリだよ」
 だからそういうのは信じないんだって。
 拒み続ける俺に向かって輝は腕を組み、目を閉じて意識を集中させていた。そしておもむろに口を開く。
「君の特殊能力はね……」
「俺は平凡な男子高校生だよ。じゃあな、バイバイ!」
 慌てて俺は放課後の教室を後にした。

 その日以来、彼の言葉の続きが気になってしょうがない。
 俺の特殊能力って……何?
 いやいや、そんなのあるわけない。彼の診断なんて中二病のまやかしに決まってるじゃないか。
 しかし後日、俺は偶然耳にしてしまったんだ。輝が俺の特殊能力について他のクラスメートと話しているところを。
『多拓君の能力って何だと思う?』
『彼の特殊能力はね……』
 それは何だ?
『怪しいものを見定める魔眼だと思うんだ』
 くっくっくっ、やはりな。
 思わず俺はほくそ笑んでいた。



ミチル企画 2022-23冬企画
テーマ:『中二病』

小鬼の秘密2023年01月19日 22時42分42秒

えっ? 鬼隠村の様子を教えてくれって?
かんべんしてくれよ、あの光景だけは思い出したくねぇんだ。
来週、鬼隠村で作業する?
だからぜひって、仕事なら仕方ねぇな、話してやるよ。
俺もひどい目にあったのは作業中だったからな。

まずな、鬼隠村に着くと役場の担当者が言うんだよ。
「この村には、秘めたる場所に小鬼が隠れてます」って。
だからその場所はどこかって訊いたんだ。そしたら「秘めたる場所です。それ以上は分かりません」って言うんだよ。それって無責任だと思わねぇか? 発注者なのによ。
仕方がねぇから俺達は山の現場で黙々と作業してたんだ。重機を使ってな。

ある日のこと、平べったい岩をどかさなきゃいけない事態が生じたんだ。
嫌な予感がしたんだよ、そん時。正に秘めたる場所だからな。
ほら、もう予想がつくだろ? 俺達が重機を使って岩をひっくり返したら、いたんだよ小鬼が。
ああ、思い出したくもねぇ。それはそれは本当に密だったんだ……



500文字の心臓 第189回「小鬼の秘密」投稿作品

お楽しみ貯金2022年09月01日 21時48分10秒

 明日は待ちに待った遠足です。
 だから、しっかりと眠らなくてはなりません。
 でも……それなのに……ちっとも眠くならないのです。
 夜の八時にはおふとんの中に入ったというのに……。
 目がぱっちりしてしまって、明日の楽しいことばかり考えてしまいます。

 行き先は、地元のアニマルパークです。
 小学四年生は、いつもそこに行くことになっているんだそうです。
 パパとママと何回も行っているところだけど、明日は特別。だって学校の友だちもいっしょなんだから。
 ああ、もう! なんで眠くならないの!?
 
 その時です。
 小さなささやきが聞こえたのは。

「いいこと、教えてあげよっか?」

 暗やみの中で。
 パタパタという変な音とともに。

 だれ?
 声がするなんてありえません。
 だって子供部屋には、私しかいないのだから。

 ビックリした私は上半身を起こし、暗い部屋を見回します。
 すると、羽ばたきながら宙に浮いている存在が私の目の前に近づいて来ました。
 
 ちょ、ちょっと、これって大きな虫!?
 こわくなって逃げようとすると、その存在から声が聞こえたのでした。

「みらくちゃん。こんばんわ!」

 な、なんで私の名前を知ってるの?
 私が動きを止めると、その存在は私の顔をのぞきこみます。

「そんなにおどろかなくてもいいよ。何もしないから」
「ホントに? 何も……しない?」

 何もしないという言葉を聞いて、ようやく私は声を出すことができたのです。

「ボクの名前はね、むうまっていうんだ。みらくちゃんの味方だよ」

 味方と聞いて、ちょっと安心しました。
 暗さに目がなれてきたせいもあって、むうまのことをじっくり見れるようになってきます。

 大きさは両手でつつみこめるくらい。
 コウモリのような羽根をパタパタさせて、黒い毛におおわれた体が宙に浮いています。
 ぱっちりとしたお目目がかわいらしくて、思わず頭をなでてあげたくなってしまいました。

「いいことってなに? 私、今、ぜんぜん眠れなくて困ってるの」
「それはね、理由があるんだ」

 理由?
 でもそれがわかれば眠れるかもしれません。

「みらくちゃんは、明日の遠足のこと考えてるんだよね?」
「うん」

 パパやママとじゃなくて、友だちと行くアニマルパーク。
 ろこちゃんといっしょに、ヤギをなでてみたい。
 こるちゃんとニンジンをウサギにあげてみたい。
 あいちゃんにおさるのボスを教えてあげたい。
 その時みんながどんな顔をするのか、楽しみで仕方がないのです。

 するとむうまは、にやにやする私の顔をながめながら言いました。

「ほら、頭の中がお楽しみでいっぱいになった」

 そうです、きっとこれなのです。
 お楽しみが頭の中でいっぱいにふくらんで、眠れなくなってしまっているのです。

「だったらどうすればいいの? 楽しいことがどんどんあふれちゃって消えてくれないの」
「あふれるくらいのお楽しみは、貯金しちゃえばいいんだよ」
「貯金?」
「そう、お楽しみ貯金」

 へえ、と思います。
 お楽しみを貯金するなんて、なんだかふしぎなことなのです。

「お楽しみを貯金すると、どうなるの?」
「頭がすっきりして、ぐっすり眠れるよ」

 それはすばらしい。
 でも……ちょっとだけ気になることがありました。

「貯金したお楽しみは? どうなっちゃうの?」
「ボクが預かっててあげる」

 それなら安心です。
 まるでお金の貯金のようなのです。
 お金の場合は、貯金しているだけで少しずつふえていくってパパとママが言っていました。

「じゃあ、貯金している間、お楽しみはふえていくんだよね?」

 すると、むうまは目をふせました。
 そして申し訳なさそうに説明を始めます。

「ごめん、みらくちゃん。預けたお楽しみはふえないんだ。それどころか、だんだんへっていってしまう。だってみらくちゃんのお楽しみは、ボクのごはんになっちゃうから」

 なんということでしょう。
 いいことばかりではなかったのです。
 そういえばパパもママも、そんなことを言っていたような気がします。うまい話に気をつけろと。
 私は思わずまゆを細めてしまいました。

「でもね、みらくちゃん、よく考えてみて」

 むうまは必死です。
 何としてでもお楽しみ貯金をすすめようとしています。

「みらくちゃんの頭の中で、お楽しみはどんどんあふれているんだよね?」
「うん。そうだけど……」
「じゃあ、すごくいっぱい貯金できるよね」
「そうかも……」
「それをボクがちょっとずつ食べても問題ないと思わない?」
「…………」
「みらくちゃんはすっきりと眠れる、ボクはごはんが食べられる、いいことだらけだよ」

 むうまにだまされてはいけない。
 私は注意しながら、むうまの言葉に耳をかたむけます。
 でも言われるとおり、どんどんあふれてくるお楽しみはかなりじゃまなのです。
 お楽しみがあふれて来なければ、すっきりして眠れるような気がしました。

「それにお楽しみを貯金しても、明日の遠足での楽しいことはなくならない。そうだよね?」

 むうまの言うことももっともです。
 本当に楽しいことは、明日の遠足で起きること。今の私の頭の中にあふれていることではありません。
 するとむうまは、とどめの言葉を口にしました。

「みらくちゃんから預かったお楽しみは、とっても役に立つんだよ。さっきも言ったように、まずはボクのごはんになる。そして悲しんでいる子供たちに、貸してあげることもできるんだ。楽しい夢があれば、泣いてる子もぐっすり眠ることができる。もちろんみらくちゃんが悲しかったりつらかったりする時は、お楽しみを返してあげるよ」

 悲しんでいる子供たちの役に立つ?
 今のあふれるようなお楽しみが?
 私は思いうかべてみます。悲しい時、つらい時、泣きたい時、友だちといっしょに動物にふれあっている夢を見ることができれば、ちょっとの間はいやなことを忘れられるような気がしました。

「世界中の子供たちの役に立つの?」
「そうだよ、ボクなら世界中の子供たちにお楽しみを貸してあげることができる。それがお楽しみ貯金だからね」

 世界の中には、戦争をしている国もあるそうです。
 テレビのニュースで、子供たちが泣いているシーンを見ることがあります。
 そんな子供たちがちょっとでもいやなことを忘れるきっかけになってくれればいい。
 それにむうまは、私が悲しんでいる時は、お楽しみを返してくれると言っていました。

「じゃあ、お楽しみを貯金する」
「ありがとう、みらくちゃん!」

 むうまにとびっきりの笑顔がはじけます。
 くるっと宙返りしたむうまは、私に言いました。

「じゃあ、ボクの後に続いて言って。『私、みらくは、お楽しみ貯金をします』って」
「わかったわ」

 ――私、みらくは、お楽しみ貯金をします。

 こうして小学四年生の私は、お楽しみを食べるむうまと「お楽しみ貯金」の契約を交わしたのでした。



 ◇



「ちょ、ちょっと貴弘先輩! この議事録も私が作成するんですか?」

 とあるメーカーの商品開発部に就職した私は、今日も議事録を作成せよと命ずる先輩の言葉に愕然とする。
 大学の工学部で身に着けた知識や技能がすぐ役立てられると期待を膨らませて入った職場だが、現実は厳しかった。というのも、任される仕事は会議のセッティングや議事録とか報告書の作成という下働きばかり。

「ほら、議事録を作成すれば仕事の内容がよく分かるだろ?」

 今年の三月まで下っ端だったという貴弘先輩は、待ってましたと言わんばかりの上から目線を行使する。
 私もそろそろ我慢の限界と、思わず反論していた。

「分かるだろって、もう十分わかってます。先月も今月もこればっかやってるんですよ。いい加減、私にだって」
「議事録作成は新人の仕事なんだ。お前の他に誰がやるんだ?」
「それは……」

 言い返せなかった。
 コロナ渦で採用を絞っている中、この部署での新人は私一人だけだったから。
 でも……ものには限度ってものがある。会議の議事録が完成しないうちにまた次の会議が開かれ、作らなきゃいけない議事録がどんどん積み上がっていく。音声記録を聞くのはもううんざりだ。

「でも、少しくらいは先輩方も分担してくれたっていいんじゃないでしょうか?」

 すると貴弘先輩は私のことを一瞥すると、役員部屋の方の壁に視線を移しながら他人事のように言い放った。

「俺もそう思っていた。入社した頃は。でも上司はちっとも聞き入れてくれなかった。だから諦めてくれ、そういう体質なんだよ、この会社は」

 そういう体質?
 それを変えたいと思って私は言ってるのに。
 口火を切って旧態依然な体質を変えたいという意気込みを、先輩は見せてはくれないのだろうか?
 再びこちらを向いた先輩は、不服そうに唇を咥える私にふっと小さく笑った。

「来年は二人も採用するそうじゃないか。だったらたった一年の辛抱だよ。俺なんて三年もこれやってたんだから……」

 自虐を込めた先輩の微笑み。
 やっと開放されたという安堵を、私に向かって無防備にさらけ出している。
 ダメだ、下働きを手伝おうなんて意志は一ミリも感じられない。
 と同時に、今まで新人が背負ってきた下働きの過酷さを改めて突きつけられる。
 コロナ禍で、私が入社する前二年間の新規採用を会社は見送った。不幸にもそのつけを払わされることになってしまった先輩。その苦労はわかるんだけど、納得はできない。
 そんな負の連鎖は、自分のところで立ち切ることはできないのだろうか――。

「わかりました。でも……」
「でも?」
「来年の議事録作成は、新人と私で分担しようと思います」

 先輩のことを軽く睨みつける。
 しかたねえな、そこまで言うなら手伝ってやるよ――と先輩が重い腰を上げてくれることを期待しながら。
 が、そんな奇跡は起こることもなく、「ふん、勝手にすれば」と先輩は自分の仕事に戻ってしまった。

 ここまで言っても改心してくれないの?
 悲しくて悔しくて涙が出そうだ。
 結局、議事録作成は深夜までかかり、終電間際の電車で帰宅する。
 アパートの鍵を開け、シャワーを浴びてビールをあおったら、後は寝るだけだった。

「今日のことは納得いかない……」

 疲れているのに、意識は不満で研ぎ澄まされている。
 でも私には特技があった。こんな時のためのとっておきの特技が。
 目を閉じれば、すぐに楽しいことを思い出すことができる。

 ――大学時代、卒業記念に女友達だけで計画した温泉旅行。

 あれはワクワクしたなぁ……。
 楽しい気持ちに包まれた私は、一瞬で眠りに落ちた。


 ◇


「おい、みらく。名古屋工場から議事録の修正依頼が来てるぞ」

 今日も貴弘先輩から文句を言われながらの業務が始まる。
 コロナ禍でリモート会議が普及し、打合せのための各工場への出張が無くなった。本社に居ながら、しかも複数の工場と会議ができるのはありがたいが、工場も採用を絞っているため結局後処理を行うのは本社勤務の新人、つまり私なのだ。

「はいはい、わかりました……」

 なによ、先輩が答えてくれたっていいのに。
 私はぶつぶつと独り言をいいながら、名古屋工場からのメールを確認する。
 修正依頼について先輩が知っているってことは、先輩にもメールが届いているということ。少なくともカーボンコピーで。
 だったら先輩も関係者として認識されてる証拠じゃないの。依頼に回答してくれても何も問題はないはず。
 不満を心に溜めながらメールの内容を確認した私は、あ然とした。

『議事録の「一ヶ月」というところですが、こんなことは言ってないので修正をお願いします』

 いやいや、言ったよね。名古屋工場のあなた。一ヵ月間で試作品を造れるって。
 録音データだってちゃんとあるんだから、しらばっくれないでよ。
 先週、残業しながら何回も聞いたから記憶にもちゃんと残っている。
 証拠として問題部分の録音を切り取って、メール添付で送ってやろうかと思ったが、念のため先輩に対処を訊いてみた。

「どうしましょう? この修正依頼」

 すると貴弘先輩はキーバードを打つ手を止めることなく、さらりと言ったのだ。

「彼の言うとおり、削除してあげたら?」
「なっ……」

 いやいや、それはあり得ない。
 彼が「一ヵ月でできる」って言ったから、会議が先に進んだんだよ。
 それを無いことにしちゃったら、その後の展開はどうなっちゃうのよ。ていうか、予定が大幅に遅れちゃった時に誰が責任取るの?

「なんで言われる通り、削除しなくちゃいけないんですか?」

 私はまたもや言い返していた。
 流石の先輩もキーボードを打つ手を止め、向かいの席から私に視線を向けて言う。

「だって技術屋がへそを曲げたら面倒くさいじゃん」

 技術屋?
 私だって技術屋の端くれなんですけど。工学部卒だし。
 しかもすでにへそを曲げてるんですけど。

「嫌われたら名古屋関連の仕事がこの先回らなくなるよ」

 嗚呼、もう嫌だ。
 新人って、こんなにも自分を殺して働かなくちゃいけないの!?

 結局、先輩に押し切られる形となり、議事録を名古屋工場の言う通りに修正する。
 仕事が回らなくなるリスクを散々並び立てられた上で「名古屋がへそ曲げたら、お前が責任取って試作品を作るのかよ」なんて言われたら、従わざるを得ないじゃない。
 あー、納得いかない。もう飲まなきゃやってられない。
 夜遅く家に着いた私は、早速ビールで喉を潤した。酔わないととても正気を保つことができそうにない。

「技術屋だったら自分の発言に責任を持てよ、バーロー!」

 名古屋工場から私に何の謝罪も感謝もないし、貴弘先輩の態度だっていじめやパワハラに近い。
 なんだかムカムカして目がぱっちりしてしまう。
 そんな時はいつもの特技にお世話になるしかない。

 ――大学のサークル合宿前夜に感じたワクワクとドキドキ。

 サークルメンバーで行く高原ドライブ、そして夜の飲み会は本当に楽しみだった。
 星を観に行こうと気になる人から誘われちゃったらどうしよう、なんて期待しちゃったり。
 楽しい気持ちに包まれた私は、一瞬で眠りに落ちた。


 ◇


 一ヶ月後、恐れていた事態が起きる。
 名古屋工場担当の試作品が完成しなかったのだ。
 早速、次の段階を担当することになっていた熊本工場から問合せのメールがやってきた。

『一ヶ月経っても名古屋工場から試作品が届かないので、本社の方でご確認いただけませんか?』

 ほらみろ、言わんこっちゃない。
 向かいの貴弘先輩を軽く睨むと、彼もなんとも渋い顔をしていた。
 先輩と相談した結果、結局私が熊本工場に電話をかけることに。

「申し訳ありませんが、本社の担当は最終段階なので、それまでの間は工場同士で連絡を取り合っていただければ……」

 まさに他人事で、非常に無責任な応対だ。
 自分だって真摯に対応したい。が、名古屋工場の指示に従って議事録を修正してしまった手前、そこは突かれたくないし、なんとかうやむやに事を進めたい。

 しかし、というかやっぱりというか、これがいけなかった。
 試作品の完成が遅れているのはまるで本社が悪いかのごとく、反論されてしまったのだ。

『何言ってるんですか? 工場同士でやりとりしてたら喧嘩になっちゃいますよ? ここは本社にちゃんと調整してもらわなくては』

 まあ、そうだよね。
 熊本工場が言うことはもっともだ。

『それにあなたも会議で聞いてましたよね? 名古屋工場が「一ヶ月で試作品を完成させる」って言ってたのを』

 ぐわぁ、やっぱりそうきたか。
 ええい、こうなったら破れかぶれだ。
 追い詰められた私は、徹底的に白を切ることにした。

「えっと、そうでしたっけ? 今、議事録で確認しますが……って、そんな記述はありませんが」

 うわっ、なんという自作自演の三文芝居。
 もしかしたらバレバレじゃないかと脂汗が垂れてきた。

『いやいや、ちゃんと言ってたよ。音声データあるんでしょ? それでちゃんと確認してよ』
「申し訳ありません。あの時バタバタしてて録音してなくてメモしか残ってないんです」
『ホント? まったくしょうがないなぁ……』

 自分のことが嫌になる。
 議事録の一部分を他人の言いなりになって削除しただけで、こんなことになるなんて。

「本当に申し訳ありません。名古屋工場へは、こちらから連絡しておきますので」
『頼んだよ? ウチだってやってるのはこの件だけじゃないんだから。予定詰まってるのを無理やり空けて待ってるんだから』
「本当に本当に申し訳ありません。早く試作品を送るよう、名古屋にはちゃんと言っておきます」

 電話を切りながら、深く重い溜息をつく。
 本当は名古屋工場の担当者を罵倒してこのうっぷんを晴らしたい。が、議事録改ざんに加担してしまった手前、そんなに強く言うことはできないのだ。

「んなああああああああっ、まったく、もう!!」

 向かいの貴弘先輩は知らんぷり。
 もともとこいつが「言う通りにすれば」なんて言わなきゃよかったんだ。
 どんなに先輩を睨みつけてやっても、何の効果も得られないことは今までの経験からよく分かっている。
 結局私は、やり場のない怒りを自分の中に溜めることしかできなかった。
 
 その夜は胃がムカムカしてどうしようもなかった。
 だから、いつもの特技を発揮する。

 ――大学入学式前夜に包まれた不安と期待の入り混じったあのドキドキ感。

 受験勉強を頑張ってやっと合格を掴んだ念願の大学。広いキャンパスに美しい建物群は、私に大きな希望を抱かせてくれた。
 楽しい気持ちに包まれた私は、一瞬で眠りに落ち――る寸前で私はふと思う。


 この楽しい気持ちって、時間を遡ってない?


 ◇


 思い起こせば、楽しい気持ちに助けられた時期は以前にもあった。
 大学受験の時だ。
 模試で思うように解答できなかった時、合格判定がC以下だった時、大きな不安が私を襲う。
 そんな眠れなさそうな夜を救ってくれたのが、昔感じた楽しい気持ちだった。

「もしかして……お楽しみ貯金!?」

 小学四年生の時に、頭の中のむうまと交わした契約。
 あれは自分が考えた物語だったが、いつの間にか本当のことになってしまったのかもしれない。

 受験勉強の頃は、お楽しみ貯金のことを思い出すこともなかったし、当然仕組みについても考えたことはなかった。
 不安な夜を乗り越えるための一種の自己防衛反応なんだと勝手に思っていた。
 が、社会の仕組みをある程度理解している今ならわかる。これは間違いなく、お楽しみ貯金の効果だ。

 楽しい思いが溢れ出て眠れない時は、それを貯金する。
 そして逆に、辛くて眠れそうもない時は、過去の楽しい思いで眠りにつく。

 そういえば私は、小学四年生の時以来、ドキドキワクワクして眠れなかった事は一度もなかった。

「大学受験で苦しんでいた時も、出てくる楽しい思いは時間を遡っていたような……」

 初めて飛行機に乗る高校の修学旅行の前夜のワクワク。
 文化祭のステージに上がる緊張と失敗の恐れでドキドキしたあの夜。
 男子からラブレターをもらい、一生懸命返事を書いた夜。
 憧れの高校に合格して、どんな人達に出会うのかとワクワクしたあの夜。
 新幹線に乗って友達と宿泊できる中学の修学旅行の前夜。

 詳しくは覚えてないけど、なんかそんな順番だったような気もする。
 そうであれば、確かに時間を遡っている。
 もしかしたら、お楽しみ貯金のメカニズムと関係しているのだろうか?

「それって、箱の中にお楽しみを溜めていくイメージなのかな?」

 私は連想する。お楽しみを溜める箱について。
 楽しい思いが溢れ出て眠れない時は、その思いを箱の中に溜めていく。
 そして次に楽しい思いが溢れ出た時は、最初の思いの上に乗せていく。
 きっとそんな感じなのだろう。
 箱に溜まったお楽しみを引き出す時は、上から順に取り出していくことになる。
 だから連続で必要になった時は、時間を遡るようにお楽しみが出てくるのだ。

「じゃあ、もし貯金が無くなってしまったら?」

 つまり箱が空になってしまうということだ。
 箱の中にはもうお楽しみは残っていない……。

 恐くなった私は、ブルブルと頭を振る。
 そんなことを考えるのはやめよう。
 まだ私は、大学生になった時のお楽しみしか使っていない。
 だったらまだ大丈夫。問題ないはず。

 しかしこの時の私は、大事なことにまだ気づいていなかった。


 ◇


 名古屋工場からの試作品は、なかなか完成しなかった。
 熊本工場からは矢のような催促が飛んできて、毎日のように私の胃はキリキリと痛む。
 と同時に、私は後悔の念に苛まれていた。

 何であの時、議事録改ざんに加担してしまったんだろう。
 議事録にちゃんと「一ヶ月で」と明記しておけば、名古屋工場が謝れば済む話になっていたのに……。

 両工場の関係はどんどんと悪化していく。
 こんな感じだと、たとえ試作品が素晴らしい形で仕上がったとしても、この製品開発プロジェクトは頓挫してしまいかねない。
 そしてその責任は、本社が負うことになるのだ。
 さすがに新人に私は、そんなには責められないと思うのだが……。

 胃が痛む夜はアルコールで気持ちを誤魔化すことができず、楽しい思いが無ければとても眠れそうになかった。
 そしてその夜に出て来たお楽しみを見て、私は驚いた。

 ――小学校の修学旅行の前夜、友だちと初めて宿泊するドキドキワクワク。

「えっ、これってどういうこと?」

 先週見たお楽しみは、大学の入学式前夜だった。
 が今日はいきなり、小学校の修学旅行前夜に飛んでしまったのだ。

 私の中学、高校時代には、お楽しみは無かったのだろうか?
 いや、そんなことはない。大学受験で苦しんでいた時、中学・高校の時のお楽しみに助けられていた。
 だから中学・高校時代も、お楽しみが溢れ出る夜があったはずなのだ。

 と、そこで私は大事なことに気づく。
 中学・高校時代のお楽しみは、大学受験の時に使われてしまったんじゃないか――と。

 お楽しみ貯金の箱を連想すれば、理解するのは簡単なことだ。古いものから溜め、新しいものから取り出し、取り出したお楽しみは無くなる箱を。
 私は大学受験の時に、高校や中学の時のお楽しみをすでに取り出している。
 だから箱の中にはすでに、その時のお楽しみは無くなっていたのだ。
 となると、箱の中に残っているのは、もう小学生の時のお楽しみしかない。

「マジで? お楽しみ貯金、もうすぐ底をついちゃうじゃん……」

 早く新しいお楽しみを溜めなくちゃ!
 そう焦っても仕事は上手くいかず、お楽しみを消費するだけの日々が続いてしまう。

 そして私はついに一番古いお楽しみ、つまり小学四年生の時のアニマルパーク遠足前夜の楽しい思いも消費してしまったのだ。


 ◇


 四月になって、私の職場に新人が入ってきた。
 男性一名、女性一名の計二人。
 女性の方は見覚えのある感じだった。

「彼女、もしかして、というかやっぱり……」

 彼女も彼女で私の顔を見てはっとしている。だから間違いない。
 人事情報が解禁となった日、新人名簿を見ていた私は気づいたんだ。うちの部署に入る女性社員の名前が、小学校の時の同級生と同姓同名だったことに。だから今日の顔合わせをとても楽しみにしていた。
 自己紹介と挨拶が終わると、彼女は私のところに駆け寄って来る。

「も、もしかして、みらくちゃん!?」
「そうだよ。久しぶりだね、ろこちゃん! 八年ぶり?」

 彼女はやっぱり、小学校から中学校にかけての同級生だったのだ。
 ろこちゃんは周囲の微妙な雰囲気を察して、申し訳なさそうに声のトーンを下げる。

「ごめんね、みらくちゃん。じゃなくて、ここではみらく先輩だね。ほら、私、大学受験に失敗しちゃったから一浪して……」

 そんなことはどうでもいいの。
 後輩として知り合いが入ってくるなんて、なんてラッキーなんだろう。
 ここでは後輩でも、ろこちゃんはろこちゃんだよ。下働きの仕事なんて一方的に押し付けたりなんてしない。二人でやれば仕事の辛さも半減だし。

 その日の夜は、久しぶりに楽しい気持ちになれた。だって、これからずっとろこちゃんと一緒に仕事ができるんだもん。

 しかし、次の日出社した私は厳しい現実を目の当たりにする。
 どこを探しても、ろこちゃんが座るはずの席が見当たらないのだ。
 それってどういうこと? やっぱり私が下働きを続けなきゃいけないってこと?

 その時の私は、今にも涙をこぼしそうな悲壮な顔をしていたのだろう。
 心配した貴弘先輩が声をかけてくれた。

「おい、どうしたんだよ、みらく」
「ろこちゃんの、ろこちゃんの席がないんです……」

 すると先輩はあからさまに怪訝な顔をする。

「何言ってんだ? ろこって誰だよ?」
「新人のろこちゃんですよ。昨日、自己紹介してたじゃないですか。四月に入社した新人として……」
「おいおい、お前大丈夫か?」

 思わず先輩が立ち上がる。
 そして衝撃的な事実を言い放ったのだ。

「今はまだ八月だぜ? それほどまで新人が欲しい気持ちは分かるが、頼むから希望と現実をごっちゃにしないでくれ」

 えっ? まだ八月?
 いやいや、そんなことはない。だって昨日はここで、ろこちゃんはちゃんと自己紹介してた――と思いながら部屋を見回すと、壁に貼られたカレンダーは八月になっている。
 目をこすりながら自分のパソコンの画面を見ても、日付は八月だ。

 いったいどういうこと?
 知り合いが入社して、せっかく久しぶりに楽しい思いに包まれたというのに。

 ――楽しい思い。

 その言葉ではっとする。
 まさか、これは……お楽しみ貯金!?
 ろこちゃんが入社したというのは、夢の中の出来事だったってこと?

 その日は仕事が全く手に付かないまま、退社時間を迎えることとなった。


 ◇


 夜、アパートに戻ると私はじっくり考える。
 これは一体どういうことなのか――と。

 ――先週、小学四年生の時のお楽しみで眠りについた。
 これはちゃんと覚えている。
 ――お楽しみ貯金は、もう空かもしれない。
 これも理解している。
 ――それなのに、新しいお楽しみを夢で見た。
 ろこちゃんが入社するというお楽しみ。昨晩見たと思われる夢は、そんな内容だった。これは明らかに未来の出来事だ。
 ――新たに夢に出てくるお楽しみは一体どこから?
 ということは……未来から!?
 そう考えて私ははっとした。

「ま、まさか、これって……借金!?」

 お楽しみをお金に置き換えて考えれば簡単なこと。
 もし私が口座に残金がないのにキャッシュカードを使ったとすると、足りないお金は銀行から借りることになる。
 同様に、お楽しみがないのに夢でお楽しみを見たということは、お楽しみをどこからか借りたということだ。

「そういえば、むうまもそんなこと言ってたっけ……」

 私は思い出す。
 小学校四年生の時に考えた物語を。

『ボクなら世界中の子供たちにお楽しみを貸してあげることができる』

 あの時は小学生だったし、何も考えずに『貸す』という言葉を使った。
 ただ単純に、悲しんでいる世界中の子供たちにお楽しみが広まるといいなぁと思っていた。
 
 ――お楽しみを借りる。

 それってどういうことなのだろう?
 お金を借りると、後で返さなくてはならない。
 だったら借りたお楽しみも、返さなくてはいけないことになる。

「なんで、そんなところまで本当のことになっちゃったの……?」

 眠るのが恐い。
 眠る時に夢に出るお楽しみが恐い。
 しかし眠れないと思えば思うほど、無情にも私は楽しい思いに包まれていくのだった。

 ――結婚式前夜の幸せと不安が入り混じったフワフワとした複雑な夢見心地。

 いやいや、私は男の人と付き合ったことなんてないのに!
 心の叫びとは裏腹に、洪水のように押し寄せる幸福感に包まれて私はあっという間に眠りに落ちた。


 ◇


 秋になって試作品が完成しても、名古屋工場と熊本工場との関係は改善されず、遺恨を残すこととなった。
 両者の間に入って調整を行わなくてはならなくなるたび、私の胃はキリリと痛み出す。
 その間にも毎日のように議事録を作成せねばならず、名古屋工場の件の二の舞にならぬようにと精神を擦り減らす日々が続く。
 すると夜には決まって、新しいお楽しみが枕元にやって来るのだ。頼んでもいないのに。

 お楽しみの中で私は結婚し、娘が生まれた。
 幼稚園の学芸会で娘は主役を演じ、小学校の運動会での激走、そして中学の部活では決勝戦まで勝ち残る。
 ドキドキとワクワクは、どんどんと未知の時間を進んでいく。

 そうか、そういうことなんだ。
 これって、私の将来のお楽しみを前借りしてるんだ。

 そう思ったとたん、お楽しみの借金に抵抗するのがバカらしくなった。
 自分自身のお楽しみなんだから、つけを払うのも自分。だったら素直に楽しめばいいんじゃないかと。
 
 そんな境地に至った私は、だんだんと現実とお楽しみの区別がつかなくなってくる。
 その弊害は、仕事にも現れることになってしまった。

 ある時は、

「先輩、今度娘の大学でサークル発表会があるんです」
「みらくちゃん子供がいたの? しかも大学生って何歳の時の子!?」

 またある時は、

「今度、娘が結婚するんです」
「ええっ、学生結婚!?」

 そして、

「孫が生まれるんですよ、男か女か楽しみですよね~」
「はやっ!」

 挙句の果てには、

「私今度、米寿を迎えるんです。うふふふふ……」
「…………」

 私は思う。
 これって予知夢なんじゃないか、と。
 そして、自分はいつまで生きられるんだろうか、と。
 死んでしまったら、お楽しみはもう二度と体験することはできない。
 つまり、お楽しみの前借りだって無限ではないのだ。
 前借りすら尽きてしまったら、この先私はどうなってしまうのだろう?

 そう考えた途端、とてつもない恐怖に襲われた。
 今まで味わったこともないような、深く暗い恐怖に。
 お楽しみの中の自分は、すでに米寿を迎えている。最期の時は確実に目の前に近づいていた。
 ――もう後はない!
 そう思った私は、なりふり構わず行動を起こしていた。

「先輩! 私、熊本に行ってきます。熊本工場で担当者とちゃんと会って、話をしたいんです」

 怒られるんじゃないかと思った。こんな忙しい時に熊本に行くなんてやめてくれと。
 でもそれを恐れていたら前に進めない。
 私にはもう、お楽しみは残されていないんだ。
 前進するしか、道は残されていないんだ。

 意外にも先輩は、あっさりと了承してくれた。

「ああ、熊本に行って、顔を突き合わせてわだかまりを解いて来るといい」

 そして信じられないような提案までしてくれたんだ。

「打合せが上手くいったら、引き続き一週間の休暇を命ずる」
「ええっ、それって……?」
「たまにはゆっくりして来いってことだよ。最近のお前、なんかすごく変だよ。恐いんだよ。しばらく会いたくないよ」

 おおおおおお、もしかして一週間も休んでいいってこと?
 信じられない、あの貴弘先輩からそんな提案が出てくるなんて。
 頑張って行動してみて本当に良かった。

 でも休暇を楽しむためには、まず熊本工場との打ち合わせを成功させなければならない。
 熊本工場の人って会うとどんな感じなんだろう? リモートでは普通っぽかったけど。
 顔を合わせたらネチネチと嫌味を言われるんだろうか?
 いやいや、そんなネガティブなこと考えてもしょうがない。当たって砕けろだ。それに今以上に険悪な関係にはならないような気もしていた。

 この困難を乗り越えたら、一週間の休暇が私を待っている。
 はたして熊本ってどんなところ?
 知ってるのは熊本城とか阿蘇くらいだけど。
 きっと食べ物も美味しいんだろうな。そして温泉!
 うわぁ、楽しみだなぁ。とってもワクワクする。

 その日の夜、私は本当に久しぶりにお楽しみを貯金することができたんだ。


 ◇


 熊本空港に降り立った私は、早速タクシーで熊本工場に向かう。
 台地上に建てられた工場は、建物が一部新築されている感じだった。

「先の大地震でうちも被害を受けまして、ここは建て替えたんですよ」

 担当者の説明を聞きながら工場見学を兼ねて敷地内を歩く。
 青い空に白い雲。遠くには熊本の街並みも見ることができる。労働環境としては申し分のない立地だった。
 建物の中に入ると、早速本題の製品開発の打ち合わせが始まった。

「いろいろと不手際があって皆さんにご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
「いえいえ、こちらこそ見えない部分が多くて、戸惑ってしまっただけですから……」

 こちらが最初に頭を下げた影響なのか、みなさん丁寧な物腰で話してみてもとてもいい人たちだった。
 きっと、ネット会議やメール打ち合わせだけに頼ってしまったのがいけなかったのだろう。
 顔色や息遣いを細かく感じられないから、つい失礼な発言をしてしまう。
 残業続きの荒れたテンションで出したメールは、相手の心も荒れさせてしまう。
 そんな積み重ねがすれ違いを生み、感情のしこりを増幅させてしまったに違いない。
 会って話せば良かったのだ。お互い人間、感情の生き物なんだから。
 ――なんでもっと早く、熊本に来なかったのだろう。
 私は深く後悔した。

「今回、熊本に来て本当に良かったです。今後もよろしくお願いします」
「こちらこそ。このプロジェクトが成功するのを期待してますよ」

 打ち合わせは大成功だった。
 そして熊本市内に向かうタクシーの中で、私はこれから一週間のプランを思い起こす。
 熊本城に阿蘇に、それからそれから……。あっ、くまモングッズも買わなくちゃ。
 お楽しみがどんどん溢れ出てきて、私はぐっすり眠ることができたんだ。


 ◇


 二日目は熊本城を見学した。加藤清正が築城したと言われる堅牢な要塞で、西南戦争時も籠城した政府軍が耐え抜いたというのも納得できる。数年前の震災でも、当時の石垣はほとんど被災しなかったというし。
 お昼は熊本ラーメン。夜は玉名温泉で馬刺しやだご汁を堪能。初めて食べたからしれんこんも刺激的だった。

 三日目は田原坂古戦場を見学した後、天草へ。移動はほとんどタクシーだ。
 海が見える温泉に宿泊し、伊勢海老や高級寿司を楽しむ。お金はかかるけど四月からほとんど使っていなかったからこの際ケチらないって決めたんだ。

 四日目は人吉。鰻の蒲焼にぎょうざ、それに温泉だってある。それよりも楽しみだったのは大好きなアニメの聖地巡りかな。あの風景を目の当たりにできると思うと心からワクワクした。

 五日目は通潤橋を経由していよいよ阿蘇へ。草千里や湧水群を見て内牧温泉に泊まる。名水そば、そして赤牛丼は美味しかったなぁ。

 毎日がワクワクドキドキの連続で、どんどんお楽しみが貯金されていく。
 そして六日目。満を持して阿蘇外輪山の大観峰を訪問した。その景色に思わず息を飲む。
 それはまさに、ザ阿蘇と言わんばかりの人生で初めて目の当たりにする雄大な景色だった。

「カルデラって、本当にカルデラだったんだ……」

 語彙が崩壊してしまうほどヤバい。
 ちっぽけな自分に対し、自然が「ちっぽけなままでいいんだよ」と語りかけてくる。

 自分の背後には、広大な高原が広がっている。
 しかし目の前には、巨大な凹地が空に向けて大きな口を開けているのだ。
 地球の穴? 超巨人の足跡? とにかく今までの自分の価値観をすべてひっくり返すような眺めだった。

 あー、この眺めを楽しみながらここで一日中ゴロゴロしていたい。
 そう思いながら草地に腰を下した瞬間――私は一人の人物の後ろ姿に目を奪われた。

 ――背が高く優しいあの人。

 えっ、なんであの人がこんな場所にいるの?
 私の夢の中には、もう出てこなくなってしまったのに……。
 横顔がちらりと見えると、疑いは確信に変わった。

 ――間違いない、あの人だ。

 そう、それは夢のお楽しみの中で結婚し、老後を共に過ごした最愛の人だった。
 他人の空似の可能性も捨てきれない、と思いながらも私は立ち上がる。
 こんなところに居るはずがないと頭が否定しても、足は一歩踏み出していた。
 声を掛けても迷惑がられると分かっていても、私は彼に向かって歩みを進める。

 ――あの人が生きて歩いている。

 喜寿を迎えたあたりだろうか。あの人は、お楽しみの中に登場しなくなっていた。
 だからどこに行ってしまったのかと、ずっと心配になっていた。
 一歩一歩彼に近づくにつれて、涙がこぼれてくる。
 お楽しみの中には悲しいことは出て来ない。だって、それはお楽しみじゃないから。
 きっと彼は死んでしまったのだろう。私が喜寿を迎える前に。
 彼が生き返ったような気がして、無性に愛おしくて、心が爆発しそうになった。
 彼にとって私は全く知らない人なのに……。

 気がつくと私は、背後から彼に抱きついていた。
 この匂い。間違いない。
 この人だ、私の愛した人なんだ……。

「あ、あのう……」

 困惑した顔で、彼が私を振り向く。
 はっと我に返った私は、顔を真っ赤にしながら体を離した。

「ご、ごめんなさい! 夢に出てくる愛する人にあなたがそっくりだったから……」

 首を深く垂れて、真摯に謝罪する。
 間違ったことは言ってない。お楽しみは私の夢の中の出来事だ。
 顔を上げた私は、真実である証を提示するように彼の瞳を見つめ続けた。

「そうだったんですか……」

 信じてくれたかどうかは分からないが、彼は二コリと笑ってくれた。
 嗚呼、この素敵な笑顔。
 何度もキスを交わしたこの唇。
 何度も抱きしめてくれたこの腕。
 本当はすぐにでも彼の胸の中に飛び込みたい。
 でも今の彼は、私とは何の関わり合いもないのだ。

「あのう、えっと……」

 私はどうしたらいいのだろう?
 選択肢は二つ。自己紹介するか、しないかだ。

 自己紹介しなければ、抱きついてしまったこともうやむやにしてもらえるかもしれない。
 でもそれで終わったら絶対後悔する。だってこの人は、運命の人なんだから。
 なんとか彼に私のことを知ってもらえる方法はないものだろうか? 言葉だけの自己紹介ではなく、もっと記憶に残る何かを。
 強い焦りでパニック寸前の私は、ポケットの中に硬い紙があることに気がついた。

「これを受け取ってもらえると……」

 もう破れかぶれだ。
 私はダメ元で、ポケットに入っていた名刺を差し出した。
 そもそもこの熊本行きは出張だった。そのことを感謝する。

「みらく……さん? いいお名前ですね」

 その声に心が震える。
 あの人がまた私の名前を呼んでくれた。
 自分のすべてを委ねたくなるような甘い響き。それを聞けただけで涙が溢れそうになってきた。

「それじゃ、さようなら……」

 涙を見せぬよう、私は踵を返して大観峰のレストハウスに向かって走り出す。
 もう二度と会えないと思っていた人。
 でも、こんな素晴らしい場所で再会することができた。
 あの人にとっては初対面なんだけど。

「神様、本当にありがとうございます」

 私は待たせていたタクシーに飛び乗ると、そのまま熊本空港に向かう。
 本当は思いっきり後ろ髪を引かれているけど、これ以上は逆効果のような気がしていたから。
 だからあとは運を天に任せよう。何も連絡がなかったらそれまでということ。なんて納得することは不可能に近いが、これ以上できることも思いつかない。
 空港には予定よりかなり早く着いてしまったけど、もう熊本には未練はない。
 早い便に変更してもらい、私が乗る飛行機は東京に向かって熊本を後にした。


 ◇


 熊本出張から帰った私に、貴弘先輩は厳しいことを言わなくなった。
 仕事は相変わらず下働きばかりだが、自分のペースでやれるようになって精神的な負担はかなり軽くなった。
 熊本工場の態度も軟化する。残業はまだ多いが、眠れぬ夜は各段に少なくなった。

 そして嬉しいことに、あの人から会社のアドレス宛てにメールが届いた。
 大観峰での出来事が忘れられない。だからまた会いませんか、と。

 私はどうしたらいいのか、分からなかった。
 出会った時は感情が高ぶっていたが、東京に戻って冷静になるともう少し考えた方がいいような気もしていた。
 幸いメールをもらったことで彼の連絡先も判明している。焦って行動を起こす必要もない。

 あの人との楽しい思いは、お楽しみの中で沢山経験している。が、あの人にとっては、私は初対面の女性に過ぎないのだ。
 あの人と会うと、自分の思いが暴走してしまって逆に嫌われてしまうんじゃないだろうか。
 それならばいっそ、いい思いを持ったままもう会わない方がいいのかもしれない。 

 それに、私が見続けたお楽しみは予知夢なんてものではなく、ただの幻だったとも考えられる。
 夢の中で見続けた男性と、偶然にも熊本で会った。
 ただそれだけのことかもしれないのだ。
 もしかしたら、お楽しみで見た素敵な結婚生活は訪れないのかもしれない。
 結婚できたとしても、途中で離婚してしまうのかもしれない。
 彼の連絡先という安心材料を手に入れたことで、逆に私は前に進めなくなってしまい、メールだけのやり取りで踏みとどまっていた。
 
 しかし四月になって驚くことが起きた。
 新入社員として、ろこちゃんが入社してきたのだ。

「やっぱり、あのお楽しみは予知夢だったんだ!」

 そう思うと、居ても立っても居られなくなった。
 あの人に会いたい気持ちが溢れて、眠れなくなりそうだった。
 そんな時でもすっきり眠れる自分が、嫌いになった。

『東京で会いませんか?』

 私は勇気をふり絞り、あの人にメールを送信する。
 それからはトントン拍子で事は進んでいく。それは正に、かつて夢で見たお楽しみのように。
 デートを重ね、結婚の約束を交わす。これもお楽しみで見た通りだった。
 結婚するとすぐに娘が生まれた。その時私は「また会えたね」と思わず呟いてしまったことは内緒なのだけれど。

 今の私は、お楽しみで見た通りの人生を送っている。
 だから、ドキドキワクワクは半分以下になってしまって、それはちょっと残念だ。
 きっと、お楽しみを借りた時の利子を返してるってことなんだろう。借りた分、ドキドキワクワクをむうまに食べられてしまった。そう考えれば納得できないこともない。

 映画だって、二回目に観た時に新たな発見をすることがある。
 まさに私の人生はそんな感じだった。
 子育ても同じだ。結末を知っているから冷静になって対処することができる。まるで自分の子育てを背後から観察している存在のように。
 それってもしかしたら、おばあちゃんの視線なのかも? そう思うと、いろいろと試してみたくなる気持ちを抑えきれなくなるのだ。

 ドキドキワクワクは激減した半面、そこに到る背景を知っているからすべてのことに素直に感謝することができる。沢山の楽しみを与えてくれた人たちの努力に対して、労いを抱き続けることができる。そんな心穏やかな人生も悪くないかもと、私は思い始めていた。
 私は今、お楽しみの中を生きているのだから。














 ◇


「ねえ、ママ。眠れなくて困ってるの……」

 パジャマ姿の娘がリビングにやって来た。
 明日は小学校の遠足で、地元のアニマルパークに行くことになっている。きっとお楽しみが溢れて出てしまっているのだろう。

「じゃあ、ママが絵本を読んであげる」
「ホント!? 子供部屋で待ってる」

 私は小学校の頃に書いた作文を手にして、娘のベッドの枕元の椅子に座る。そして書かれた私の物語を言葉として紡ぎ始めた。
 

『明日は待ちに待った遠足です。
 だから、しっかりと眠らなくてはなりません。
 でも……それなのに……ちっとも眠くならないのです。
 夜の八時にはおふとんの中に入ったというのに……。
 目がぱっちりしてしまって、明日の楽しいことばかり考えてしまいます』


「へえ、それってなんか私みたい」
「そうね、そんな女の子って、世界中にいるのかもね」

 かつての私もそうだった。
 そして今の娘も。
 私は二人の物語を続ける。


『だったらどうすればいいの? 楽しいことがどんどんあふれちゃって消えてくれないの』
『あふれるくらいのお楽しみは、貯金しちゃえばいいんだよ』
『貯金?』
『そう、お楽しみ貯金』
『お楽しみを貯金すると、どうなるの?』
『頭がすっきりして、ぐっすり眠れるよ』


「ねえ、ママ。私もお楽しみ貯金してみたい。どうしたらいいの?」
「じゃあね、ママにお楽しみを話してみて。そしたらそれを貯金してあげる」
「わかった。えっとね、明日はお友達とヤギさんをなでて、ウサギさんにニンジンをあげるの。それでね、それでサル山に行って……」

 一通りお楽しみを話した娘は、スヤスヤと寝息を立て始めた。
 ――予想通りで良かった。
 お楽しみ貯金の話が娘には効かない可能性もあった。でもそれが取り越し苦労だったことを知って、私はほっと胸をなでおろす。

 これで娘の頭の中には、お楽しみ貯金という自己暗示の概念が形成された。
 あとは自動的に機能してくれることだろう。
 ――自己暗示によって脳内ドーパミン分泌量を自由にコントロールできる力。
 これは私の家系に伝わる能力だったのだ。娘の反応を見て、私は確信する。

 何度も私のことを救ってくれたこの能力。
 だから娘の人生も、きっと救ってくれるだろう。

 寝息を立てる娘の髪をなでながら、私はひとこと呟いた。
 ようこそ、お楽しみ貯金の世界へ――と。




 おわり



ミチル企画 2022夏企画
テーマ:『喜』『怒』『哀』『楽』(使用したのは『楽』)