夢の樹2016年09月22日 23時18分23秒

 大国主神が各地の地主神を呼んで、日頃の労いをすることになった。
「皆の者、日々の平穏への尽力、ご苦労である。褒美として願い事を一人一つ叶えて使わす」
 ざわつく地主神たち。ここぞとばかり願い事を考え始めた。
「ただし、条件がある」
 場は一瞬で静寂に包まれる。
「三人の願いが一致した場合のみ、叶えることとしたい」
 流石の大国主神といえども、一人一人の願いを聞いてはいられない。
 すると老人、若者、女性の三人組が手を挙げた。
「わしら、名前の漢字の『木』を『樹』に変えて欲しいんじゃ」
「それはなぜだ?」
「だって『木』より『樹』の方がお洒落じゃん」
「例えば『夏木』よりも『夏樹』の方が味があるわ」
「『樹』に変えてもらうのが、昔からの夢だったんじゃ」
 大国主神は少し考えた後、首を大きく縦に振った。
「わかった。ではお前たちの名前を言ってみよ」
「俺、六本木」
「私は乃木坂よ」
「わしは木更津じゃ」



500文字の心臓 第150回「夢の樹」投稿作品

君の鼻血は涙の味がする2016年09月14日 07時26分23秒

「僕、吸血鬼なんだ」
 それは五年前。
 中学二年生だった私に、いきなり掛けられた一人の男の子の言葉。
「だから、君の血をもらってもいい?」
 小高い丘の、町が見渡せる気持ちのよい場所なのに。
 ベンチに並んで夕陽を眺めていたところを、なんで? と私は彼を向く。
「…………」
 私を見つめる男の子の表情。
 視線は至って真剣。
 冗談を言っているようには思えない。
 名前は不振石健(ふらずいし けん)くん。
 この間、越してきたばかりのクラスメート。
 目元がキリッと締まって、鼻筋も通ったイケメンだ。
 町のことを教えてほしいって頼まれて、案内しているうちにこの場所にたどり着いた。
「それって……痛いの?」
 やっとのことで私の口から言葉が出てくる。
 痛くないのなら、健くんだったら許していいかも、とちょっぴり思ってしまう。
「あわわわわ、痛くない、痛くないよ」
 顔に似合わず、健くんは慌てふためいた。
「だって、ガブってするんでしょ?」
 私の脳裏に浮かぶ、首筋に歯をたてる吸血鬼の姿。
「そ、そ、そんなことしたら血が出ちゃうじゃないか」
 血が出ちゃうって、血が欲しいんでしょ?
 健くん、本当に吸血鬼?
「ガブってしないで、どうやって……?」
 不思議に思う私を横目に、健くんは立ち上がる。
 そして三歩前に進んでこちらを振り向き、いきなりダンスを踊り始めた。
 ロックミュージシャンのような。
 腰をカクカクさせる仕草を強調して。
 踊り終わった健くんは、息を切らしながら私に問いかける。
「どう? 興奮した?」
 ええっ? 興奮?
 あのカクカクダンスで?
 目をぱちくりさせる私。健くんは焦った表情を見せる。
「おかしいなぁ……。女の子はこんなダンスに興奮するって雑誌に書いてあったのに」
 どこのどんな雑誌なんだか。
 私を興奮させてどうするの?
「それで?」
「そしたら鼻血が出るだろ」
 えっ?
 思わず固まってしまう。
「鼻血だったら、ガブってしなくても済むかなぁって……」
 健くんって、かなりチキンな吸血鬼なのね。
 そんな理由で、ダンスを踊ってたんだ。
 必死に何度も腰を突き出して。
 私に鼻血を出させるために。
「あはははははは!」
 理由が分かると、なんだか可笑しくて、私は笑い出してしまった。
「な、なんだよ、笑うことないじゃないか? こっちは必死だったんだから」
 必死だったから可笑しいんじゃないのよ。
 拗ねた健くんの顔も面白い。
「はははははははは、あー、可笑しい」
 私の笑いは加速した。涙も止まらなくなる。

 その時。
 何かの液体が、つーっと鼻から口にかけて流れてきたような……

「ほら、やっぱり出てきたじゃないか、鼻血」
 忘れてた。
 私、涙を流すと一緒に鼻血も出てくるんだった。
「いただきっ!」
 健くんは私に駆け寄ると、さっと私の顔に口を寄せ、ペロッと私の純血を奪っていく。
 そして満足そうに目を細めた。
「あー、美味しい! これが噂に聞く乙女の生き血か!?」
 あっという間の出来事だった。
「ちょっと涙の味がするけど……」
 なんてことしてくれるのよ。
 恥ずかしくて健くんの顔が見られない。
 ドキドキする胸の鼓動が止まらない。
 世界を赤く照らす夕陽様。どうか私のほおを、真っ赤に染まる私の心を隠して。
 そんな中二の夏。
 忘れもしない五年間の記憶。
 私、折絹真衣(おりきぬ まい)は、健くんに恋をした。

 ◇

 ヴァンパイアウイルス感染症。
 健くんがかかっている病気は、そんな名前だった。
 処女の生き血が無性に欲しくなる病気。
 ウイルスに感染すると身体能力がアップし、健康状態も格段に良くなるという。
 だから普段の生活には何の支障もない。
 問題は、生き血が欲しいという欲求を、時々抑えられなくなること。
 そして欲求に耐えられなくなって女性に噛み付くと、ウイルスが女性の体内に流れ込んでしまう。
 その量は、多くて一回あたり体内のウイルスの三分の一ほど。
 つまり四度目に噛み付いた時、体内のウイルスはすべて放出されてしまう計算になる。
 そして、その後に訪れる死。
 ウイルスをすべて放出してしまうからだろうか。
 生命維持機能をウイルス任せにしてしまった代償と、学者は言う。
 でもその詳細は、まだはっきりとは分かっていない。

 だから健くんは考えた。
 体内のウイルスを放出させずに生き血を味わう方法を。
 ――鼻血。
 これを舐めるだけなら、リスクを犯さずに生き血を楽しむことができる。

 そんな健くんの苦悩なんて知らない私は、丘での一件を両親に打ち明けてしまう。
 当然、驚き慌てる両親。
 私は、とある研究所に連れて行かれる。
 ――ヴァンパイアウイルス研究所。
 広葉大学の付属機関として、当時の日本で唯一ヴァンパイアウイルスについて研究している機関だった。
 そこで血を取ったり、機械で調査したり……。
 詳細な検査に一ヶ月もかかり、その間、私は入院することに。
 ようやく退院した私を待っていたのは、健くんが転校してしまったという悲しい知らせだった。

 健くんに会いたい。
 彼が座っていた教室の席を眺めるたびに心が痛む。
 私の純血を奪っていったあの人に。
 別れの言葉だって、かけてあげることができなかった。
 聞くところによると、健くん家族は夜逃げみたいに町を出て行ったという。
 だから誰も、彼の連絡先はわからない。
 私が両親に話したことで、おおごとになってしまったから?
 町中に、健くんの病気のことがバレてしまったから?
 罪の意識と彼への強い気持ちが二重に私を苦しめる。

 どこに住んでいるのかもわからない健くん。
 この病気の専門家になったら、彼に再会できるかも。
 高校に入った私は、ヴァンパイアウイルスについて勉強した。
 そして、検査でお世話になった広葉大学に進もうと心に誓う。
 将来、ヴァンパイアウイルス研究所に勤めることができれば、健くんに会える確率はぐっと高くなるはずだから。
 彼にひとこと謝りたい。
 そして私の想いを伝えたい。
 こうして、丘での一件から五年が経過した春、私は広葉大学の医学部――ではなくて看護学部に入学したのだった。

 ◇

「テニスサークル、入りませんかぁ~」
「サッカー部、マネージャー募集中でーす!」
 入学式が終わった後の大学ホール前は、新入生とサークルの勧誘でごった返していた。
 色とりどりのユニフォームに身を包む学生達。
 ところ狭しとプラカードが乱立する。
「バンドやりたい人、いませんかぁ~」
 ないない。私、音痴だから。
 勧誘の魔の手を振り払うようにして、私はずんずんと一人歩く。
「オカルトに興味ある人、いませんかぁ~」
 オカルト研究会?
 吸血鬼には興味あるけど、健くんの病気はオカルトじゃないからなぁ……。
「血を吸われてみたい人、いませんかぁ~」
 そうそう、吸血鬼ってこれよ。
 って……!?
 驚いて振り向くと、そこにはプラカードを持ってニコリと私に笑いかけるイケメンの姿。

 健くんっ!!!?

 思わず叫ぶところだった。
 彼が私に向かって変なことを言わなければ。
「おっ、処女の匂いがする。君、俺に血を吸われてみない?」
 なっ……。
 懐かしさよりも心無い言葉への反応が先に出る。
 私は固まった。
「さすがに大学生にもなると、可愛い処女さんが少なくなって困ってたんだ。君は久しぶりの可愛い処女さんだ。どう? 俺と一緒に活動しようよ」
 失礼な!
 どうせ私は処女ですよ。
 だって、それは……。
「健くんだよね。不振石健くん」
 やっと言葉が出た。
 健くんは驚きながらもまゆをしかめる。
「いかにも俺は不振石健だが……。はて? 俺が知ってる可愛い女の子は皆、処女ではなくなったはずなんだが……」
「…………」
 思わず言葉を飲み込んだ。
 懐かしくて、嬉しくて、喋りたいことが沢山あるのに、彼の言葉が心にストップをかける。
 健くんって、そんな軽い男になっちゃったなんて……。
 今まで私が追い求めてきた吸血鬼なのにガブってできないウブな健くんはどこへ行ったの?
 目頭がジーンと熱くなる。
 もう彼のことは忘れよう。
 同じ大学だったことは驚きだけど、もう私のことは忘れちゃってるようだし、軽い男に成り下がっちゃってるし、顔を合わせないようにすれば時が解決してくれるはず。何年かかるか分からないけど……。
「ごめんなさい!」
 涙を見せないよう、私は踵を返し脱兎のごとく走り出した。
 さようなら、健くん。
 私の純血をあげた健くんは、もう地球上から居なくなってしまったんだ。
 そう考えよう。諦めよう。
 会わなければ、顔を見なければ、時間がなんとかしてくれるだろう。
 しかしそれは甘い考えだった。
 看護学部のクラス分けが発表された時、私は現実の残酷さを知ることになった。

 ◇

「また会ったね、可愛いしょじ、うがががががが……」
 クラス分けの同じ部屋に居た健くんは、顔合わせ会が解散になったとたん、私に声を掛けてきた。
 私はすかさず彼の口に手を押し当てる。
 最悪……。
 これでは彼を忘れるどころか、美し思い出までもが汚されてしまう。
「うがががががっ!」
 口を押さえられて暴れる健くん。
 突然、掌に歯の硬い感触を感じて、私は素早く手を引っ込めた。
 危ない、危ない。
 こいつ、吸血鬼だった……。
 中学生の時はあれほどガブってすることを嫌がっていた彼を思い出し、今度は怒りが込み上げてくる。
「健くん、何しようとしてるの!? ちゃんと抗体飲んでて、そういうことしようとしてるんでしょうね!?」
 抗体と聞いて、講義室に残るクラスメートがこちらを向く。
 皆、看護学部の学生なんだから、一応興味はあるのだろう。
 その様子を見た健くんは、急に恐縮しながら私の顔色をうかがう。
「ゴメン。謝るから大声を出さないでくれよ。それに抗体のことも黙ってて欲しいんだが……」

 ヴァンパイアウイルス抗体製剤『クロス』。
 別名、十字架抗体と呼ばれている。
 三年ほど前に開発された、ヴァンパイアウイルスに対する抗体だ。
 これを飲んで数時間以内であれば、ヴァンパイアウイルスは噛まれた女性に流れ込むことはない。
 つまり、健くんは死に至ることもないし、噛まれた女性もウイルスに感染することもない。
 ヴァインパイアウイルス感染者にとっても、社会にとっても、夢の抗体製剤なのだ。
 この『クロス』のおかげで、それまでこそこそと隠れ住んでいたヴァインパイアウイルス感染者は社会権を得ることが可能となった。

「でもさあ、聞いてくれよ」
 なぜだかその後、私と健くんは喫茶店の窓際の席で向かい合っていた。
「クロスを飲んでから生き血を吸ってもな、ぜんぜん気持ちが良くねぇんだよ」
 健くんに手を引かれ、逃げるように講義室を後にした私たち。
 気がつくと、この喫茶店に座っていた。
「クロスの本当の意味を知ってるか? あれは十字架の『クロス』じゃないんだ。ウイルスの流れを閉ざすって意味の『クロース』なんだよ」
 そして健くんは、遠い目をしながら喫茶店の天井を向く。
「なんて表現したらいいんだろうなぁ……、あの感覚。クロスなしで、生き血を吸う素晴らしさ」
 そんなのわかりません。
 私、吸血鬼じゃないから。
「吸血鬼ってさ、血をたくさん吸うと思うだろ? でもそれは違うんだ。血はちょっとで十分なんだよ。肝心なのは放出するウイルスの量。ドクドクと、女の子の体の中に俺のものが流れ込む。くー、あれがたまんねぇ」
 ちょ、ちょっと。
 それってどいうことだかわかってんの!?
「魂の伝授っていうのかな。いや、リビドーの奔流と言った方がいいかもしれん。とにかく最高なんだよ。だから僕と……」
「健くん!」
 思わず私は叫んでいた。
 喫茶店のお客さんたちが皆、私を見る。
 あちゃー、やっちゃった……。
 私は恐縮しながら店内に軽く頭を下げると、再び健くんに向き直った。
「ねえ、本当にウイルスなんて流し込んだの? クロス飲まなきゃダメじゃない。健くん、死んじゃうんだよ、わかってるの?」
 小声を続けるつもりだったが、最後はちょっと涙声になってしまう。
「知ってる」
 真面目な声。
 私は涙を拭う。
「医者は、すでにリミットだって言ってた。だから次が最期」
「それって……」
「いいんだよ、俺は社会の邪魔者なんだから」
 彼の口から投げやりな言葉が漏れる。
 五年前を思い出す。
 夜逃げのように彼は町からいなくなった。
「クロスのおかげでこうして社会に出ることができたけど、実態は何も変わっちゃいねぇ。それにな、もっと悲しいことが俺の目の前で起きている」
 何度も引っ越しをして、何度も転校して、社会から隠れるように生きてきたのだろう。
 いじめられたり、時には迫害されたり……。
 そんな苦労は、私には分からない。
「それはな、俺の前からどんどん処女がいなくなってることだ」
 なっ……。
 それって、女の子の前でする話ぃ!?
「俺は幼女に興味はねえ。君みたいな可愛い処女さんに会うのは本当に久しぶりなんだ。同世代に処女がいなくなるのが怖い。そんな世界に未練はねぇ。君の血が吸えるなら、本当に死んだってい……」
 バチッ!
 彼が言い終わるのと私が彼の頬を叩くのは同時だった。
 やっぱり健くんは最低な男に成り下がってしまったんだ。
 私は立ち上がり、引き止めようとする健くんを無視して喫茶店を飛び出した。
 なにが、処女のいない世界よ。
 処女を減らしているのはあんたじゃない。
 ウイルスを流し込んで、そしてその娘の純潔を奪って……。
 本当に最低な男。

『だから次が最期』

 でもしばらく街を歩いていると、私の頭の中で健くんの言葉がぐるぐると回り始める。
 あの時の瞳が本物の彼なんだという希望を拭い去ることができない。
「まだまだ甘いなぁ……」
 いくら彼が最低な男であっても、そう簡単には忘れられないよ。
 だって初恋の人だったんだから……。

 ◇

「よう、可愛いしょじ、うぐっ……」
 それ以来、大学で会うたびに変な名前で読んでくる健くん。
 だから今度は彼のお腹をグーで殴る。
 最低な男に噛まれないように。
 講義や実習のたびに私にちょっかいを出してくる健くんとのやりとりは、悲しいことに日課になりつつあった。

「今日の講義は、十字架抗体と呼ばれている『クロス』について説明しよう」
 広い階段状の講義室に、教授の声が響く。
 ――ヴァンパイアウイルス概論。
 さすが、この大学の名物講義というだけあって席はほぼ埋まっている。
 それにカッコつけて、わざわざ私の隣に座る最低な男、若干一名。
「なあ、知ってるか? なんでこの大学がヴァンパイアウイルス研究のメッカと呼ばれてるか」
 ちょっと健くん、邪魔しないでよ。
 今、真剣に教授の話を聞いてるんだから。
 あからさまに嫌そうな顔をしても、彼はお構いなし。
「なんでもな、クロスの原液はこの大学にあるらしいんだ」
 そりゃ、世界で初めてクロスの生成に成功した大学なんだから、原液があるのは当たり前じゃない。
「俺が飲んでるクロスってさ、原液を百倍くらいに薄めたやつなんだって」
 そ、それくらい、知ってるわよ。
 濃すぎるのはダメだってことぐらい。
「それでさ、もし俺がクロスの原液を飲んだら……」
 飲んだら……?
 もったいぶる言い方に引っかかり、不覚にも私は健くんを向いてしまった。
 彼はニッと笑いながら、言葉を続ける。
「この病気が完治するらしいんだよ」
 えっ!?
 そんな話、聞いたことが無い。
 高校時代に読み漁ったテキストや論文にも、そんなことは一行も書いてなかった。
「ウソよ」
「ホントだぜ。それが目当てで俺はこの大学にいるんだから」
 えっ?
 ちょっと待って。
 それって……。
 病気を直したいってことじゃない。
 なによ、この間は『死んだっていい』って言ってたくせに。
 ただのカッコつけ?
 それならそうって言ってくれればいいのに……。
 健くんの入学の理由を知って、私は少しほっとする。
 本気で病気を直したいと思っているなら応援したい。
「それって、どこの情報?」
 ただし、病気が治るという情報が本当であるならば。
「とある関係者から聞いた話だ」
 とある関係者?
 怪しいわね。
 偽情報という可能性も考えられる。
 もしそうだったら大変だ。
 だってこれは、健くんの命に関わる問題だから。
「私ね、高校時代、ヴァインパイアウイルスについて一生懸命勉強したの。もちろんクロスについても。でもクロスの原液で病気が治るってどこにも書いてなかった。おかしいじゃない。それで治るんだったら、何で患者は減らないのよ。もしかしたら健くん、その誰かに……」
 その時だった。
 んんん、と教授が咳払いをする。
「ちょっとそこの君。今は講義中ですよ。話したいことがあるなら、ここから出て話してくれませんか」
 講義室中の視線が私に集まる。
「す、すいません」
 また、やっちゃった……。
 とりあえず謝ってみたが、注目を浴びたことには変わりない。
 すぐさまここから出て行きたいが、ほぼ満席状態なので出るにも出られない。人をかき分けて進めば、さらに注目を浴びそうだ。
 だから私は肩を丸めて、じっと動かぬアルマジロのように机に伏せる。
 恥ずかしい……。
 こんな最低男のために、ムキになっちゃって。
 なにやってんのよ、私。
「えっと、どこまで話したかな? そうだ、クロス、つまりヴァンパイアウイルスの最初の抗体は、五年前に軽度の感染者の血液から採取されたもので……」
 教授の講義が再開する。
 どうやら皆の意識は、私から外れたようだ。
 わずかに顔を上げて周囲を見回すと、健くんは何食わぬ顔で講義を聞いていた。
 なに?
 自分は関係ないって態度?
 本当に最低な男。
 講義が終わったらさっきのことについて追求してやるわ。
 そんな私には、一つ気になることがあった。
 ほとんどの学生が再び講義に集中する中、私の右斜め前方からこちらを意識する視線があったのだ。
 ――長い髪を軽く染めた女の人。
 チラチラと頻繁にこちらを向く彼女が例の関係者であることを知るのは、この後のことだった。

 ◇

 ヴァンパイアウイルス概論の講義が終わると、私は健くんを人気のない場所へ連れ出した。
 今は講義が行われていない、三階の小さめの講義室。
「ねえ、教えて。クロスの原液の話」
 そして私は単刀直入に切り出す。
「健くんだって、この大学の看護学部に受かったんだからわかるよね。クロスはヴァンパイアウイルスの働きをブロックするだけ。もし原液を飲んで、すべてのウイルスの機能がブロックされたらどうなるか知ってるの? 死んじゃうんだよ、健くん」
 ヴァンパイアウイルス感染者は、生命維持機能をウイルスに依存してしまっている。
 その機能がすべてカットされてしまったら、あとは死を待つだけなのだ。
「知ってる……」
 健くんはポツリとつぶやくと、私から目をそらし窓の外を向く。
 春の日差しが整った彼の顔を照らす。
 キャンパスの広場を見下ろせる窓。
 休み時間を満喫する学生たちの姿が、彼の瞳に写っていた。
「死んでしまうかもしれないことも。そして、クロスの原液が病気を治療する効果を持つかもしれないという極秘の研究結果があることも……」
 なに?
 その、極秘の研究結果って?
 そういえば健くん、さっきの講義中に『とある関係者』って言ってた。
 きっとその関係者に騙されているんだ。
 極秘の研究の実験台にされようとしてるんだよ。
「私、クロスについても一生懸命勉強した。でも原液にそんな効果があるなんで、どの本にも書いてなかった。健くんは騙されているのよ、その関係者とやらに」
「そうかもしれない」
「そうかもしれないって……?」
 それって、どういうこと?
 騙されていても、自分の命よりも、その研究が大事だってこと?
「前にも言っただろ。俺はもうこの世に未練はないんだ。だから最期に君の血がほしいって頼んだんだよ」
 窓に寄りかかり、私の瞳を見つめる健くん。
 お願いだから、そんな目で見ないで。
 健くんへの気持ちが蘇ってしまうから。
「でも、それは無理なんだろ?」
 ええっ?
 それって私が悪いの?
 だって、だって……。
 健くんが私にウイルスを流し込んだら、死んじゃうんだよ。
 もうリミットに達しちゃってるんだから。
「ほら、やっぱり無理って顔してる。だったら実験に協力して死んだ方が、世の中のためになると思わない?」
「…………」
 何も言葉が出てこない。
 どうして健くんは、誰の血も吸わずに静かに生きていこうって思わないの?
 血を吸いたくなっても、クロスを使えばいいだけじゃない。
 そう言ってあげたいのに、口から出てこない。
 なんで、なんで、なんで?
 私の血が欲しいと言ってくれたことが嬉しかったから?
 健くんにとって特別な女性になりたいと思っているから?
 その時だった、講義室の扉がすっと開いたのは。

「大丈夫よ。決して健は死なせない」
 入ってきたのは一人の女性。
 そう、さっきの講義の時に私のことを最後まで見ていた長髪の女性だった。
「瑠名花……」
 驚きの表情を見せる健くん。
 るなかって、その女性の名前?
 健くんの瞳の真ん中にその女性が映る。
 わずかに緩む彼の表情に、胸の奥がチクリと痛んだ。
「困るのよ、健。そんな見ず知らずの女に、パパの研究のことをペラペラと喋ってもらっては」
 腕組みをしたその女性――瑠名花は、健くんのことをキッと睨みつける。
「ゴメン……」
 すっかり恐縮した健くんは、ただうつむくだけだった。
「それに何? この女。散々お世話してあげた私を捨てて、この女に乗り換えようっていうの?」
「ち、違うよ。そんなことはない……」
 健くん……。
 態度がガラリと変わる健くんの姿を見て、悲しみがじわじわと湧き上がって来る。
 やっぱり、私の血を吸えたら死んでもいいっていうのはウソだったんだ。
 そりゃ、そうよね。
 こんなに綺麗な女性がいるんだから。
 どうせ死ぬなら、私なんかの血を吸うより、この女性に協力して死んだ方がマシだもんね。
 さっき、『パパの研究』って彼女は言ってたけど、その偉い先生の実験台にでもなればいいわ。
「それに、そこのあなた!」
 瑠名花は、今度は私を睨みつける。
「健は私のものなんだから、ちょっかい出さないで」
 ちょ、ちょっと。
 ちょっかい出してくるのは健くんの方なんだから。
 私は必死に忘れようとしてたのに。
「ふーん、あなた、可愛いくせに処女の匂いがするわね。そういうわけか……」
 何よ、そんな勝ち誇った顔をして。
 もしかして、健くんとすでに深い仲になっているとか……。
「言っておくけど、健はあなたに興味があるんじゃなくて、処女の生き血が好きなだけ。それにね、健は次に生き血を吸ったら死んじゃうの。だからね、あなたと健との未来はどこにもない。あきらめなさい」
 ――私と健くんとの未来はどこにもない。
 確かにその通りだ。
 健くんがクロスなしで私の血を吸ったら、彼は死んでしまう。
 健くんと私が男女の関係を結んだら、彼はもう私に見向いてくれなくなるかもしれない。
 残酷な現実がずしりと心を押しつぶす。
 だから私は健くんのことを諦めようと思ったんじゃない!
 あなたに言われなくてもわかってるわよっ!!
 叫びたい気持ちをぐっと我慢しているのに、瑠名花はさらに私の気持ちを逆なでする。
「わかった? どこの馬の骨だかわからない処女さん」
 寄ってたかって私のことを処女、処女って呼ぶなっ!
 私の怒りは爆発した。
「私にもちゃんと名前があります。真衣です。折絹真衣! 健くんとは何でもない。それだけは覚えておいて下さいっ!」
 私はチラリと健くんを見る。
 ちゃんと私の名前が聞こえたよね!?
 私たち、五年前に会ってるんだけど……。
 しかし、健くんは静かにうつむいたままだった。
 本当に忘れちゃってるのね……。
 崖から落とされたような、目の前が真っ暗になるような感覚。
 名前に反応してくれるんじゃないかと淡い期待を持っていた私は、本当にバカだ。
「折絹真衣!?」
 ところが予想外の事態が発生。
 健くんではなく、瑠名花が私の名前に反応したのだ。
「あ、あなたが、あの折絹真衣……なの?」
 どういうこと?
 健くんは無反応なのに、初対面の瑠名花の方が私の名前を知ってるなんて……。
「あはははははは……」
 そして瑠名花は高らかに笑い始める。
「これは面白い。いいじゃない、やれるもんならやってみなさいよ。私が見届けてあげるから。あはははは……」
 そのまま講義室を出て行く瑠名花。
 私はポカンとその場に取り残された。

 ◇

 全くわけがわからない。
 そもそもの話のきっかけは、クロスの原液を用いた秘密の実験についてだった。
 そこに現れた謎の女性、瑠名花。
 どうやら秘密の実験を実行しているのは、瑠名花の父親であるらしい。
 きっとその実験をきっかけに、健くんは瑠名花と仲良くなったのだろう。
 推測できるのはここまで。
 分からないのは、瑠名花がなぜ私の名前を知ってるのか?
 そして、私が折絹真衣であることを知った時の、瑠名花の異常な反応。
 その謎を教えてくれる唯一の存在――健くんは、窓際でうつむいたままだった。

「ねえ健くん、教えて」
 私は講義室の机に寄りかかり、優しく健くんに問いかける。
 なんだかこれは長い話になりそうな予感がした。
「あの女性は誰なの? 何で私の名前を知ってるの?」
 健くんはゆっくりとこちらを向く。
 そしてポツリポツリと語り始めた。
「広葉瑠名花(こうよう るなか)。この大学の理事長の娘だ」
 驚きが私の中を駆け巡る。
 り、理事長の娘!?
 だから、あんなに態度が大きかったんだ……。
「四年前のことだった。世間から逃げるように生活していた俺たち家族に、手を差し伸べてくれたのが理事長だったんだよ」
 ――ヴァンパイアウイルス研究の実験台として協力してほしい。
 ――その見返りに、家族の生活は保証するし、感染者を救う薬も開発してみせる。
 理事長からの提案を受け入れ、健くん家族は大学の近くに住居を移したという。
 そして、実験台として研究所に通う日々が続く。
 その甲斐あって、ついに抗体製剤『クロス』が開発された。
 クロスのおかげで社会権を得た健くんは、広葉大学付属高校に通うことになった。
「ウイルス感染者であることを気にせずに高校に通えると聞いて、俺の心は踊ったさ。だが実際は違ってた。現実はそんなに甘くなかったんだ」
 ヴァンパイアウイルス研究で有名な広葉大学の付属高校ということで、生徒の中にはウイルス感染者が何人もいた。
 だから、学校生活や人間関係で特に困ることはなかった。
 ただし表面的には。
 異性関係において一歩踏み込むと、問題は顕在化する。
「俺だって男だから、女の子のことが好きになる。好きになると声をかけたり、告白したりする。そうすると、どうなると思う?」
 どうなるって?
 無下に断られる……とか?
「突然彼氏を紹介されて、『この人とつき合ってますから』と断られるんだ」
 やっぱり……。
 というか、ダメじゃない。彼氏持ちの女の子に手を出しちゃ。
「それが何回か続いた。あーあ、他に好きな男がいたんだ、と諦めた。でもそのうちに、何かがおかしいってことに気付いた」
 おかしいって?
 何が?
「断りに来る女の子は、必ず彼氏を連れてくるんだ。それっておかしくね? 普通、『好きな人が他にいますから』だろ? 何で、彼氏がいなかったような女の子でさえ、俺が声をかけたとたんに彼氏ができるんだよ」
 彼氏がいなかった女の子に急に彼氏ができたって?
 うーん、確かに……。
「一つ確かめたいんだけど、声をかけた女の子って、その時本当に彼氏はいなかったの?」
「ああ、そう思う。それに、その女の子たちはみんな処女だった。俺ってウイルス感染者だから、血の匂いで処女かどうかわかるんだよ」
 そ、それって……。
 まさか……。
「ある日、変な噂が耳に入ってきたんだ。俺は処女にしか興味を示さないから、処女を失えば災難から逃れられるって。俺に声をかけられたら、それは逆にチャンスだから、気になる人に打ち明ければ告白が成功するって」 
 なっ……。
 そんなことって……。
「ひどいだろ? バカにしてるだろ? こうして俺の周りからだんだんと処女がいなくなっていったんだ」
 健くん自身が処女を減らしているのかと思っていたけど、こういう事情があったなんて。
 私はちょっと健くんに同情する。
「でも、一番許せないのは俺自身なんだ。処女でなくなったとたん、その女の子から興味がすうっと無くなってしまう。処女かどうかなんて、その女の子の人格や性格や優しさとは全く関係のない部分じゃないか。頭ではわかっているのに、体が納得しない。そんな俺自身が、いやこのウイルスが本当に許せない……」
 私に背を向け、再び窓の外を向く健くん。
 窓枠に手を置き、うなだれた肩が小刻みに震えていた。
「そんな中、唯一俺に対する態度が変わらなかったのが、瑠名花だった」
 広葉瑠名花。
 ヴァンパアウイルス研究のメッカと言われる広葉大学理事長の娘。
「瑠名花の最初の印象は、お世話になってる研究所でよく見かける女の子、って感じだった」
 きっと父親の研究の手伝いで研究所に出入りしていたのだろう。
 私は、白衣を来てフラスコを手にする長髪の彼女を連想する。
「彼女は、同じ付属高校の一つ上の学年の先輩だった。そして夜は、俺が通う研究所の手伝いに来ていたんだ。そして俺は、だんだんと彼女に好意を持つようになった」
 殺伐とした学校生活。
 一方、検査に通う研究所では、愛想よくしてくれる美人の助手に会うことができる。
 好意を持つのも、ごく当たり前のような気がした。
「瑠名花は、ヴァンパイアウイルスのことを熟知している。だから、俺のことを拒絶することはなかった。しばらくして、俺たちは付き合うことになったんだ」
 やっぱり二人は付き合っていたんだ……。
 なんだか悲しいけど、ちょっぴりほっとしてしまう。
 健くんを受け入れてくれる人がいたことは、本当に救いだったことだろう。
「しかし、楽しい日々は長く続かなかった。理事長に二人の仲がバレてしまったんだ」
 ああ、健くん……。
 二人の仲は私にとって悲しみの種なのに、応援したくなってしまうのはなぜだろう。
「瑠名花は必死に理事長を説得してくれたよ。『パパは散々、ヴァンパイアウイルス関連事業で儲けているくせに、自分の娘が付き合うことは許さないなんて身勝手過ぎる』と。それでも言うことを聞かない理事長に『それなら私も覚悟がある』と言ってくれたんだ」
 覚悟。
 女にとって覚悟とは、なんなのだろう。
 まさか……。
「ある日、事件は起きた。研究室で二人きりになった時、瑠名花は派手に転んでしまった。そして割れた実験器具で指を怪我してしまったんだ」
 ガチャン!
 当時の様子が、私の頭の中で再生される。
 白衣で床に横たわる瑠名花。健くんは慌てて駆け寄ったことだろう。
「切れた指から流れ出る血。俺が実験用滅菌ガーゼで傷口を抑えようとしたら、瑠名花はニヤリと笑って、その指を俺の口の中に突っ込んだんだ」
 すると健くんは目をつむったまま天井を見上げる。
 まるでその時の感覚を思い出すように。
「素晴らしい瞬間だった。口の中に広がる処女の生き血。そして彼女の血液中にドクドクと流れ込む俺のウイルス。なんとも言えない天に昇るような感覚だった。自分はこのために今まで生きてきた、と思えるほどに。この時、二人は一つになったんだ」
 幸せそうな表情をする健くん。
 いかに素敵な体験であったのかがよくわかる。
 私だって健くんに生き血を舐めてもらった。
 でも、その時健くんは、私にそこまでの表情を見せてはくれなかった。
 瑠名花さんが無性に羨ましくなる。
 好きな男の人のものが体内に流れ込む感覚って、どんな感じなのだろう?
 彼女にとっても幸せの瞬間だったに違いない。
 どうしようもない敗北感が私の中に広がっていく。
「気がつくと俺は瑠名花を抱きしめていた。明らかにこれは瑠名花の策略だったけど、俺は彼女に深く感謝した。その後、クロスを飲まなかった瑠名花はヴァンパイアウイルスに感染し、理事長は俺たち二人を同様に扱わざるを得なくなった」
 女の執念、というのだろうか。
 瑠名花、いや瑠名花さんは本当に健くんのことを愛していたんだ。
 それに比べて、自分は淡い恋心を持っていただけ。
 やっぱり瑠名花さんには敵わない。
「それから何回か俺は瑠名花の血を吸った。いずれも素晴らしい体験だった。そしてウイルス放出量はついにリミットに達してしまう。だけど不思議なもので、もうこれ以上処女の生き血が吸えないと思うと、ますます吸いたくなった」
 バカな健くん。
 大人しく瑠名花さんとの静かな時間を楽しめばいいのに。
 そして血を吸いたくなったらクロスを使えばいいのに。
 でもこれがヴァンパイアウイルスの魔性の力なのだろう。
 子孫を拡散させたいウイルスの本能に、人間の理性が屈していく。
「そこで俺は思い出したんだ。リミットに達していても、クロスを使わなくても、処女の生き血が吸えることを。そんな方法で、俺に生き血の素晴らしさを教えてくれた女の子がいたことを」
 そ、それって……。
 もしかして……。
「瑠名花からもらった合格者名簿にその女の子の名前を見つけた時は、俺は飛び上がって喜んだ。でも、本当にその女の子かどうか、自信がなかったんだよ。俺たちは数日しか会っていなかったのだから」
 そう言いながら健くんは講義室の前へ移動する。
「君が僕のことを覚えていてくれて、本当に嬉しかった。でも、また鼻血を舐めたいなんて、俺の最低なお願いを切り出す勇気が無かった。だって君は、すごく純粋だったから」
 直立不動のまま私を見つめる健くん。
 これから何を始めるつもりなのだろう?
「だからこれを見て、ゆっくり考えてほしい」
 そして突然ダンスを踊り始めた。
 ロックミュージシャンのような。
 腰をカクカクさせる仕草を強調して。
 そう、五年前と同じあのダンスを。
「健くん……」
 覚えていてくれたんだ。
 私のこと……。
 嬉しくて、嬉しくて、思わず涙が出てしまう。
 ダンスも懐かしい。
 五年前はこのダンスを見て大笑いしたんだよね、私。
 昔はぎこちなかったけど、今はすごく上手くなってる。
 相当練習したんだね。
 あの時はごめんね。
 両親に話したりして。
 学校のみんなにバレちゃったりして。
 そして、お別れの言葉が言えなくて。
 次から次へと溢れる涙。
 すると鼻の奥からつうーっとした感覚が……。

 ダメっ!

 心が叫ぶ。
 ここで鼻血を出したらダメ。
 感傷に浸りすぎたらダメ。
 心を鬼にして、冷静になるのよ。
 だって今の健くんには、瑠名花さんという彼女がいるんだから。
 彼女の生き血が吸えないから、私の鼻血を舐めようってどういうこと?
 ただの都合の良い女じゃない。
 私はそんなことをするためにこの大学に来たの?
 そんな女になるために、健くんを探していたの?
 違うでしょ!
 健くんのようなヴァンパイアウイルスに苦しむ人を救うためだよね。
 その過程で、健くんに会えれば嬉しいかなって思ってただけだし。
 そんでもって、その時に健くんがまだ独り身だったら最高だって……。
 もう、彼女がいるんだもん。
 その人は、身命を賭して健くんに尽くしているんだよ。
 だから無理だよ。
 敵わないよ。
 私の五年間は無駄だったんだ。
 健くんに恋して、罪悪感に苛まれて、そして一生懸命探して。
 男の人からの誘いも全部断って、勉強して、ヴァンパイアウイルスに詳しくなって。
 大学で再会して、嬉しくなって、最低の男でも昔のことを忘れてないってどこかで信じて。
「ふざけないでよ!」
 思わず私は叫んでいた。
「私が処女でなかったら、どうしてたのよっ!?」
 五年間、密かに守り続けてきたもの。
 それが粉々に打ち砕かれてしまったような気がした。
 涙がとめどもなく流れてくる。
「好きだった。健くんのことが、本当に好きだった……」
 そして、鼻の奥から口にかけてつうーっと流れる液体の感覚。
「ありがとう。こんな僕のことを覚えていてくれて」
 健くんがそっと近寄ってくる。
「本当に最低だよね。ウイルスに争うことができない最低な男だ」
 私の顔に口を近づけた。
「実はね、鼻血だってウイルスは流れ込むんだよ。傷口があるんだから。だからこれが最期」
 ちょ、ちょっとそれって。
 死んじゃうってことじゃない!?
 健くんは、そんなことはお構いなしにペロリと私の鼻血を舐める。
「うん、美味しい。涙の味も懐かしいなぁ」
 一瞬、恍惚な表情をしたかと思うと、苦しみに顔を歪める健くん。
「ありがとう。さようなら……」
 私を見る悲しそうな眼差し。
 うっすらと涙を浮かべて。
 そして健くんはドサリと床に倒れこんだ。
「健くん! 健くんっ!!?」
 何も返事をしない健くん。
「バカっ! 何でそんなことをしたの? 健くん、健くん……」
 救急隊が到着するまでの間、意識を失った健くんの体にすがりついて、私は泣き続けていた。

 ◇

 それから私は一週間泣き続け、二週目にようやく胃が食べ物を受け付けるようになった。
 人間が水と食料を欲するように、ヴァンパイアウイルスは処女の生き血を欲している。
 健くんは、ウイルスの本能であるその欲求をついに抑えることができなかった。
 もう、そんな悲劇は繰り返していけないんだ。
 私のように悲しむ女性を増やしてはいけないんだ。
 もっと勉強しよう。
 そして私も研究所に通えるようになるんだ。
 健くんが夢見ていた、クロスの原液を使った研究を完成させたい。
 それを使って、世界中のヴァンパイアウイルス感染者を救ってあげたい。
 ベッドの中でそう思い続けることによって、ようやく私は大学に通う気持ちを作ることができた。

 そして健くんが倒れてから一ヶ月後、私はようやくキャンパスに顔を出す。
「真衣さん、久しぶり」
「もう大丈夫?」
 集まってきた友人たちが声をかけてくれる。
 その温かさが心に染みる。
 そして――
「久しぶりだね、可愛い処女さん」
 何度も頭の中で再生していた大好きな声。
 えっ!?
 それって……!?
 驚いて振り返ると、そこには健くんが!
「で、いいんだよな? 瑠名花?」
「ええ、彼女は処女のままよ」
 って、瑠名花さんも!?
「お久しぶりね、真衣さん」
「ど、どうも。で、でも、け、健くんが生きてるなんて……」
 私は動揺を隠せなかった。
「あら、そんなに健に死んでもらいたかったのかしら? 本当に罪深い人ね」
「いやぁ、照れるなぁ……」
 ポリポリと頭をかく健くん。
 健くんが生きていて本当に良かった!
 本当は抱きつきたかったけど、瑠名花さんがいるから遠慮しておく。
「ちょっと話がしたいから、喫茶店はどうかしら?」
「ええ、わかりました」
 そして私は、あの時何が起きていたのかを知る事になった。

「あの時ね、健は賭けに出たのよ」
 瑠名花さんが事の真相を語り出す。
 肝心の健くんは、コーヒーをすすりながら瑠名花さんの隣でニヤニヤとこちらを眺めていた。
「賭けって?」
「クロスの原液を飲んで、ヴァンパイアウイルス感染症が治るかどうかって賭けよ」
 クロスの原液?
 あの時、講義室にそんなものは無かった。
 瑠名花さん、何か勘違いをしているのでは……?
「クロスの原液って、そんなものはあの場所にはありませんでしたけど」
 すると今度は、瑠名花さんが目をぱちくりさせた。
「ええっ? あなた、何を言って……? そうか、あの研究はパパの極秘事項だったのね……」
 急に納得されても困る。
 ちゃんと説明してもらわねば。
「教えて下さい。一体、何が起きていたんですか?」
 すると瑠名花さんはうーんと少し考えた後、重い口を開いた。
「まあ、当事者なんだから特別に教えてあげるわ。真衣さん、五年前にうちの研究所に入院してたことがあったでしょ?」
 五年前って……。
 そうか、健くんに最初に鼻血を舐められた時。
「あの時ね、キーゼルバッハ部位の傷口を通して、健のウイルスがあなたの体に流れ込んでいたの。ごくわずかだけどね」
 ええっ、あの時、何も異常がないって言われてたけど。
 それって嘘だったってこと?
「その時にね、あなたの体の中に強力な抗体が生成されていたの。ヴァンパイアウイルスに対抗できる唯一の抗体。きっといろいろな偶然が重なったのね。ウイルスの量が微量だったり、その他の成分が混ざったりして。だからあなたはウイルスに感染することは無かった。そしてパパは、その強力な抗体を手に入れた」
 だから一ヶ月も入院させられてたのね。
 何度も検査や採血を行っていたのは、そういう理由だったんだ。
「そして抗体に名前をつけた。あなたの名前をとって『クロス』とね。ほら、『マイ』だったら英語的になんの事だかわからないじゃない。だから『真衣(トゥルークロス)』から『クロス』って名付けられたの。もちろん、十字架という意味も込めてね」
 ま、まさか、『クロス』の由来が私の名前だったとは……。
「だからね、あなたの血液はクロスの原液、そのものなの」
 それがすべての真相なんだ。
 ようやくわかった。
 瑠名花さんが私の名前を知っていたことも。
 そして私の名前を聞いた時に「やってみなさいよ」と言ったのかも。
「まさかね、本当に健の病気が治っちゃうとはね。クロスの原液には病気を治す力があることはわかっていた。だけど実験ではほとんど成功してなかったの。ある特殊な成分が必要ってことまでは突き止めたんだけどね……」
 ――ある特殊な成分。
 私にはわかる。
 それが何であるのか。
「病気が完治してからの健は腑抜けよ。誰が処女だか、わかんなくなっちゃったようだし。顔や性格の良い娘がいいですって? 女に一番大切なものは処女だってこと、どうして忘れちゃったのかしら?」
「そんなこと言うなよ、瑠名花」
 今まで黙っていた健くんが口を開く。
「俺はこの間まで世の中に絶望してたけど、今はそうでもないんだ。誰が処女だかわからない世界って、こんなにも素敵だったとはね。みんなが可愛く見える、みんなが魅力的に見える、世の中ハッピーだよ」
 って、そっちなの?
 健くんの世の中の希望って。
「だから最近、健とはちょっと距離を置こうと思ってるの。それよりも真衣さん、どう? 私と付き合わない?」
 つ、つ、付き合うって……?
「ほら、私は健に血を吸われてウイルス感染者になっちゃったでしょ? だから、処女の生き血が欲しくてどうしようもなくなる時があるのよ。そんな時は自分の血を舐めてるんだけど、そろそろ飽きちゃった。真衣さん処女だし、生き血はクロスの原液だし、今度一緒にどう?」
 ど、ど、ど、ど、どうって言われても……。
 な、なんだか瑠名花さんの視線がエロいんですけど。
「あら、付き合ってくれなかったら世界中にバラすわよ。真衣さんの血液はクロスの原液だって。そしたらヴァンパイアウイルス患者がわんさか押し寄せて来るかもね」
「ちょ、ちょっと、やめてくださいよ、瑠名花さーん」
 そんな私たちの様子を見て、健くんもニヤニヤ笑っている。
「世界中にバラすといえば、これからが大変よ。ヴァンパイアウイルスが完治したなんて世界初の症例なんだから、すぐに論文書かなきゃ! 今ならネーチャーにだって載るわ」
 ネ、ネーチャー!?
 世界最高峰の学術雑誌!
 そ、それって、すごいことじゃない!
「二人とも、英語書ける?」
「えっ?」
「いや、さっぱり」
 受験英語くらいなら書けるかもしれないけど……。
「何よ、使えないわね。あなたたちには、クロスの原液を感染者に投与した状況について詳しく書いてもらわなくちゃいけないんだから」
 ええっ!?
 それって、鼻血を舐められたあの状況が世界中にあからさまになるってこと?
 そ、それだけはカンベンして欲しい。
「ネットからの英文コピーはダメだからね。わかってるよね。ちゃんと自分で英語を書かなきゃ、世界からは信用されないんだから」
「だったら英訳のプロを雇えばいいじゃねえか。理事長ならできるだろ?」
「バカね。そんなことしたら、パパに筆頭著者を盗られちゃうじゃない。いい、これはパパを見返すチャンスなの。この研究で、世界中のヴァンパイアウイルス感染者が完治するかもしれないのよ」
 そ、それはすごい。
 もしそうなったら、世界中から賞賛されること間違いなしだ。
 私もいきなりリケジョデビューね。
 マスコミも殺到して、いやん、どうしよう。
「そしたら将来、ノーベル賞だって夢じゃなくなるの。そんな幸運、人生に一度来るかどうかなんだから……」
 ノ、ノーベル賞!?
 いやいや、普通の人には来ません。そんな幸運。
「そいつはスゲえな。ノーベル賞、ストックホルム、北欧美人……」
 動機はいろいろみたいだけど、ノーベル賞に向けて、この三人なら上手くやっていけるような気がした。
 これから充実した毎日が続きそう。
 私の大学生活は始まったばかりなのだから。




 了



ライトノベル作法研究所 2016夏企画
テーマ:『鼻血』

ロココのココロ2016年07月28日 20時47分23秒

「これは?」
「あいてません」
「じゃあ、これ?」
「左」
「これ?」
「左」
「次は分かる?」
「うーん……」
 視力検査は苦手だ。
 だんだんと小さくなるマーク。矢継ぎ早に質問する検査官。
 そのプレッシャーが私を押しつぶそうとする。
「下……ですか?」
 最後のマークを、私は適当に答えてしまった。
「次は反対の目で。これは?」
「左」
「じゃあ、これ?」
「左」
「これは?」
「あいてません……」
 やっとのことで検査から解放され、ほっとする私の耳にクラスメートの話声が飛び込んでくる。
「ねえ、今日の視力検査、平仮名の『の』が混ざって無かった?」
「ええっ、そんなのあったっけ?」
「ほら、最後の視力二・〇のやつ」
「そこまで見えるの、あんただけよ」
 それって……?
 私が適当に答えた一番下のやつ?
 確かめようと視力検査場を向いてみるが、離れたこの場所からは確かめることなんてできる訳が無い。
「あいてません、左、左、えっと、えっと、次は……」
 あんなに嫌だった視力検査の声につい耳を傾けてしまうのは、なんとも不思議な気持ちだった。



500文字の心臓 第149回「ロココのココロ」投稿作品

夏のレールを君と探して2016年06月28日 23時11分38秒

 あれは去年の夏休みのことだった。
 一人で遊びに行った祖母の町で、駅舎跡と思われる廃屋を見つけたのは。
 町の片隅にたたずむ、黒ずんだ木製の壁が年代を感じさせる建物。
 ガラス窓の付いた入口の木戸はピタリと閉ざされ、立ち入り禁止の紙が貼ってある。入口ポーチの庇の下には、駅名と思われるプレートが掲げられていた。
「悲遠町駅……?」
 かすれてしまって読みにくかったが、なんとかそう判読できる。
 早速スマホに『悲遠町駅』と入力してみると、沢山の画像がヒットした。その中には、目の前に建つ駅舎の写真もあった。
「やっぱりここって、駅だったんだ……」
 画像の中には、線路跡の写真もあった。レールや枕木が取り去られて、砂利だけの道となった線路跡の写真。
 視線を駅舎に向け、その奥にあると思われる線路跡を探してみたが、残念ながら写真のような光景は広がっていなかった。
 なぜなら、そこは一面、雑草に覆われていたから。それも十センチや二十センチといった可愛いものではない。背丈が一メートルに達しようかというゴツい雑草がびっしりと砂利の上を占拠している。
「レールが残っているなら、雑草を刈ってでも見てみたいって気になるんだけどな……」
 僕はスマホの画像をスクロールする。
 そこに表示される線路跡の写真は、どれもこれも砂利だけの線路跡だった。
 しかし、その中の一つの写真に僕は釘付けになる。

 御影石と思われる美しい石畳の踏切跡。
 そして、その中に残された金属製のレール。

「おおっ!」
 僕はスクロールの手を止め、思わずその画像をタップした。
 リンク先は、悲遠町駅周辺の探索を記したブログだった。『駅から南に少し行った場所で踏切跡を見つけた!』と書かれている。
 僕の心はとたんに色めき始めた。
「ていうか、『少し』ってどれくらいの距離なんだよ!?」
 写真の踏切跡を見てみたい。
 少しというのが、十メートルとか二十メートルくらいの近さであるならば。
「何か、雑草を抜くためのものはないだろうか?」
 軍手とか、そんなものがあればいい。
 草刈鎌があれば最高だが、そこまでは望めないだろう。
 そんな気持ちで駅舎の木戸の窓から中を伺っていると――

「探し物ですか?」

 突然、背後からかけられた透き通る声に、僕は飛び上がりそうになった。


 ############


「ここ、立入禁止って書いてあるでしょ。でも戸は開くんですよ」
 振り返ると、立っていたのは白いワンピースと麦わら帽子の女の子だった。
 僕の前をすり抜け、駅舎の木戸に手をかける。
「よいしょっ! うんしょ!」
 細くて白い指に力を込め、綱引きのように腰を落として一生懸命、戸を開けようとする少女。
 ガタっと音がして、わずかに戸が開く。が、それ以上はびくともしなくなった。
「うーん! うーん!」
 顔を真っ赤にする彼女を見かねた僕は、戸の隙間に指をかけて、少女と同じ綱引きのポーズで加勢する。
 すると、ギギギギギギギとすごい音をたてて戸が開き始めた。
「ほら、開いたでしょ?」
 いやいや、この状態を「開く」とは言わないから――そんな僕のツッコミを、少女の満面の笑みがやんわりと包み込んだ。

 薄暗い駅舎の中に入ると、中は冷んやりとして涼しい。
 かなりの間、使われていなかった年代物の建物のようだ。
「それで探し物は何ですか?」
 少女は麦わら帽子を手に取り、臆することなく僕の瞳を見つめている。不覚にも僕はドギマギしてしまった。
 身長は一五◯センチくらい。年齢も中学生か高校生のようだ。
「え、えっと、軍手かなにかがあればいいなって……」
「ありますよ、軍手」
「えっ?」
「だからありますって、軍手」
 少女は待合所のベンチの前にしゃがみこむと、ベンチの下から埃をかぶった衣装ケースを引っ張り出す。蓋を開けると、中にはいろいろなものが入っていた。
 ――軍手、長靴、帽子、衣類、そしてブランケットなどなど。
 ブランケットの下には、本や雑誌が何冊も入っているように見える。
「はい、軍手」
 少女は衣装ケースの蓋を閉め、元の場所に戻して立ち上がり、僕に軍手を差し出す。
「あ、はい」
 まさか本当に駅舎に軍手があるとは思わなかったので、戸惑いながら僕は受け取った。
「その軍手で、何をやるんです?」
 そう言いながら少女は小さく首を傾げた。
 さらりと肩までの黒髪が揺れる。二重の瞳が放つ光は、僕をとらえて離さない。
「線路跡の雑草を抜こうと思って。ほら、これを見て。この踏切跡を探そうと思うんだ」
 僕は少女にスマホの画面を見せる。
 そこに映し出される踏切跡の写真に、少女は表情を輝かせた。
「あっ、これなら線路跡を辿って少し行くとありますよ」
 少女が口にした『少し』は、本当にすぐそこにあるような気がする。
 よし、それだったら踏切跡が現れるまで雑草を抜いてみよう!
 僕は決意を込めて、少女から受け取った軍手を手にはめた。


 #############


「いざ出陣!」
 気合を込めて、そびえる雑草の前に立つ。
 雑草は、そのほとんどがセイタカアワダチソウだった。背は高いが、下の方は葉が少ないので、少しかき分けると上から線路跡の砂利が見える。これならば、セイタカアワダチソウを抜いていくだけで線路跡が露わになるだろう。
 見上げると、太陽はほぼ真上にあった。ギラギラとまばゆい熱光線が辺り一面に降り注がれている。僕はハンカチ代わりにしていたバンダナをポケットから取り出し、頭に被せて後ろで結んだ。
「うっ……」
 一メートルは軽く超えるセイタカアワダチソウに手をかける。簡単に抜けるかと思ったら、意外と力が必要だった。
「っとぉ!」
 抜いた雑草の根から砂利を落とし、横に投げる。こうして僕は一本一本、雑草を抜いていった。
 すると――
「ん!? んんっ、んんっ!!??」
 何やら変な声がする。
 不思議に思って振り向くと、軍手をした少女が雑草と格闘していた。
 先ほどと同じく綱引きのポーズで力んでいる。が、雑草はなかなか抜けてくれない。
「あはははは……」
 その様子が可笑しかったので、思わず声を出してしまった。
「笑わないで下さいよ。私だって真剣なんですから……」
 ぷうっとほおを膨らませる少女。
 彼女はいつの間にか長靴を履いていた。
「こんな暑い中、手伝ってくれなくてもいいよ。僕の勝手な探し物なんだからさ」
「こんな暑い中だから、お手伝いするんじゃないですか?」
 麦わら帽子に手を添えて、少女はニコリと微笑む。
 自分もあんな帽子を、ばあちゃんちから持って来れば良かったと後悔する。
「だったら、抜いた雑草を線路脇に運んでくれないかな。後で線路跡の写真も撮りたいから」
 もし踏切跡が現れたら、ぜひあの駅舎をバックにして写真を撮りたい。そのためには、踏切跡と駅舎との間の雑草も引っこ抜いておいた方がいい。
「わかりました。見栄えが良くなるよう綺麗に並べておきますね」
 こうして僕と少女との共同作業が始まった。


 ##############


「痛っ!?」
 作業が順調に進みかけていた時、僕は腕に痛みを感じた。
 見るとその部分が真っ赤に腫れていて痒い。どうやら蚊に刺されてしまったようだ。
 そもそもこんな雑草天国に、Tシャツ、ハーフパンツ、サンダル姿で挑んでいること自体が間違いだった。
「これ、虫除けにすごく効きますよ」
 不意に掛けられた言葉と共に、腕にシュッと何かが吹きかけられる。
 冷んやりとした感覚と、辺りに漂うミントの香り。
「ペパーミント?」
「いえ、ハッカです」
「あ、ああ、ハッカね……」
 どっちも同じだったような気がするが、すうっとして気持ちいいので少女の言う通りにしておく。
「よく塗り込んで下さいね。首元や脚にもかけてあげますから」
 少女は背伸びをしながら、僕の首筋にシュッとハッカをスプレーしてくれた。嬉しいやら恥ずかしいやらで、なんだかこそばゆい。
 僕の脚にもハッカがスプレーされると、今度は少女は自分の体にもスプレーする。
 首筋、両腕、そしてワンピースのスカートの中にもシュッ、シュッ、シュッと。
「いやあ、ハッカはすうっとして気持ちイイですね~」
 ハッカの香りに目を細める少女。
 何か見てはいけない光景を目の当たりにしたような気もするけど。
「蚊も寄り付かなくなって、一石二鳥です」
 それにしても、ハッカが虫除けに効くなんて知らなかった。今度、友達にも教えてあげようっと。


 ###############


 一時間も作業を続けただろうか。
 線路跡も、五十メートルは露わになったような気がする。が、踏切跡は見つからない。
「暑い……」
 夏の日差しは確実に僕の体力を奪っていた。
 もう限界だ、休憩して、水分補給をしなくては……。
 そう思った時、少女が小さく叫んだ。
「あっ、あれっ! あそこじゃないですか!?」
 彼女が指差す方を見ると、十メートルくらい前方に雑草の生えていない広い領域があった。
 写真で見た踏切跡は、確か立派な石畳でできていた。それならば、その場所には雑草は生えないはず。
 思わず僕は、雑草を掻き分けながら駆け出していた。
「あった!」
 やはり、雑草の生えていない場所は踏切跡だったのだ。
「レールもちゃんと付いている!」
 錆びて赤茶けてしまっているけど、石畳に埋め込まれた細長い金属は、明らかに鉄道のレールだった。
「良かったですね」
 遅れて少女がやってくる。
「でも、この踏切って……」
 少女はいきなりしゃがみ込み、石畳に手をついた。
「なんだか見覚えがあるんです」
 懐かしむように、何度も何度も目の前の石畳を撫でる少女。やがて彼女の口から嗚咽が漏れ始める。
「お父さん……」
 ポタポタと落ちる彼女の涙が、石畳を点々と黒く染めていった。


 #################///#


「ごめんなさい、取り乱してしまって……」
 少女が落ち着くと、僕たちは踏切跡の周りの草取りを再開する。
「五年前の今日、悲遠町線廃止の日のことだったんです」
 彼女の言葉に、静かに耳を傾けながら。
「お父さんが、列車に乗って家を出て行ってしまって……。知らない女の人と一緒に……」
 それは少女の辛い記憶だった。
 こんな可愛い娘がいるのに出て行ってしまうなんて、なんて酷い男の人なんだろうと、僕は怒りを込めて雑草を引き抜く。
「でも、でもね、この踏切を通り過ぎる時、お父さん、私を見つけてくれたんです」
 この踏切は彼女の思い出の場所だったんだ……。
 僕がこんな探し物をしなければ彼女に辛い思いをさせずに済んだのではと、少し後悔する。
「それでお父さん、窓から約束してくれたんです。『必ずユキに会いに来る!』って」
 彼女は立ち上がり、列車を見上げるような格好で父親の言葉を口にする。
 僕の目の前を、五年前の列車がこのレールの上を通り過ぎていく。駅を出発したばかりのゆっくりとした速度で、ゴトン、ゴトンと石畳の踏切を揺らしながら。
 彼女の瞳の輝きで僕は察知した。この父親の言葉に、彼女がどれだけ支えられてきたのかを。
「だからね、毎年、廃線の日になると私、駅舎で待ってるんです。お父さんが帰って来るんじゃないかって……」
 彼女は父親に会えたのだろうか?
 いや、会えないからこうして今年もここに居るのだろう。
 でも会える可能性があるだけましじゃないか。
 彼女にこんなことを言っても仕方がないことはわかっているけど、強い衝動に駆られて僕は思わず口にしていた。
「僕も……、僕もね、母さんを亡くしたんだ、小さい頃」
「えっ?」
「僕の父さんは忙しくて、夏休みもどこにも連れて行ってくれない。だから一人で、ばあちゃんちに遊びに来てるんだ」
 ちょっと卑怯な感じもしたけど、彼女とならこの悲しみや苦しみを分かち合えるような気がした。
 彼女から漂う初対面ではないような懐かしさも、僕の口を軽くしてくれた原因かもしれない。
「ごめんね、私ばかり不幸な風に語っちゃって」
「いやいや、こちらこそゴメン。だからお互い前を向こうよ、ユキさん……だっけ?」
「うん、ありがとう。あなたの名前……は?」
「直也っていうんだ。母さんが付けてくれた」
「素敵な名前! 実はね、直也くんってどこかお父さんに似てるの。最初、駅舎で見かけた時、お父さんが帰ってきたんじゃないかってドキドキしちゃったんだから。こんなに若いはずないのにね」
 えへへと照れ笑いするユキはとても可愛い。
「きっと今年の神様は、お父さんの代わりに直也くんに会わせてくれたんだわ。ちゃんと感謝しなくちゃね。来年はお父さんに会えるといいな……」
「そうなるといいね。いや、絶対そうなるよ!」
 僕たちは踏切跡の周りの雑草を引き抜き、駅舎をバックに踏切跡の写真を撮った後、バイバイと手を振ってサヨナラをした。


 #################///###


「ばあちゃん、ご飯できてる!?」
 祖母宅に着くなり、僕はサンダルを脱ぎ捨てた。麦茶のポットを抱えて縁側に座り、夕涼みしながら直接口の中に流し込む。裏山ではカナカナカナとひぐらしが鳴き始めていた。
「なんだい、行儀が悪いね」
 文句を言いながら、ばあちゃんは居間のちゃぶ台に晩飯を運んでいる。
 僕は思わず、廃線跡について聞いてみた。
「ねえ、ばあちゃん。悲遠町線って五年前まで走ってたんだって?」
 ユキの父親が出て行った日。
 それはちょうど五年前の今日だったという。
 するとばあちゃんから意外な返事が返ってきた。
「バカ言うんじゃないよ、それは三十年前の話だよ」

 えっ!???

「それにこの家じゃ、三十年前の話は禁句だよ。お前のじいちゃんは女を作って出て行きよってな。まだ小学生だった由起子がわんわん泣いて、踏切から動こうとしなくて大変だったわい」
 えっ、えっ……ええっ?
 訳がわからない。
 ユキの言葉が正しいのか、それともばあちゃんが正しいのか?
 思わず脳裏にユキの笑顔が浮かぶ。
「まさか!?」
 僕は思わず仏壇を振り返った。
「そういうこと……なのか?」
 そこには、ニコリと笑うユキにどことなく似た母さんの遺影が飾られていた。
「由起子が死んだ時も、ついに顔を見せんかった。そんな薄情者じゃ」
 じいちゃんは行方不明って聞いていたけど、そんな真相があったなんて。
 結局母さんは、廃線の日以来じいちゃんには会えなかったんだ……


 #################///####


 翌日、駅舎にユキの姿はなかった。
 おそらく、一年後の廃線の日にまた現れるのだろう。
 そして今年も夏がやってきた。
 僕はドキドキしながらあの駅舎に向かっている。麦わら帽子をかぶり、手には軍手とハッカスプレーを握りしめて。



 了



ライトノベル作法研究所 2016ぷち夏企画
テーマ:『夏』

麦茶がない2016年06月17日 06時21分46秒

 職場に着いてレジに立つ。売り場を見渡すと、棚からニョキっと頭を出している商品があることに気がついた。
 コンビニの棚の高さはおよそ百四十センチ。しかし、その商品だけは高さ百八十センチに達している。
「なんだ、あれ?」
 売り場に行ってみると、それは麦茶だった。
「店長、お早うございます。それ、長くて目立ちますよね。新商品らしいですけど」
 バイトの珠代クンが俺に挨拶をする。
「本当は緑茶パックと一緒に並べたいのですが、長すぎて一番上の棚に置くしかなくて……」
 彼女も困っているようだ。俺は麦茶を一つ手に取った。
「なになに、賞味期限は……二◯二六年だって?」
 なんて長いんだ。
 でも、いくら賞味期限が長くたって、それまでには売れてしまうだろう。商品の入れ替わりが激しいコンビニのことだから、すぐに小さなパッケージに取って代わるに違いない。
 しかし麦茶のパッケージは、一年経っても長いままだった。
『ねえ、店長、知ってます? 麦茶って平安時代から飲まれていたんだそうですよ』
 ニョキっと棚から頭を出すそいつらを眺めるたびに、あの頃の珠代クンの言葉を思い出す。



500文字の心臓 第148回「麦茶がない」投稿作品