出てって2017年10月24日 07時55分52秒

 井戸の中を覗いたら中から声が聞こえてきた。
「出てって」
 いやいや、俺は中になんて入ってないし、入るつもりもない。
 不思議に思っていると、真っ暗な井戸の底から異様な熱気が込み上げて来る。
 俺は慌てて後ずさった。なにか得体の知れないものが出てくるような気がしたのだ。
「出てって!」
 引き続き声がする。通告を受けているのは俺ではなく、まだ地下に留まっている何かのようだ。
 その正体は何? 幽霊? それとも妖怪?
 そんな恐ろしいものが出てきたとしても、ちらっと見てみたい衝動に俺は駆られていた。
「出てってよ!」
 繰り返すその退出通告は、予想外に太くて低い声だったから。

(追記11/17:haruさんに朗読していただきました)



500文字の心臓 第158回「出てって」投稿作品

百年と八日目の蝉2017年08月30日 22時14分12秒

「博士、すごい発見をしました!」
「おお、何の発見じゃ?」
「最近、蝉の成虫の寿命がのびているんです。この十年間で、確実に二時間半ほどのびました!」
「おお、すごいぞ。ということは、百年経てば寿命が一日以上のびるということじゃな」
「そうなんです、博士。『蝉の寿命は一週間』という定説が崩れるんです」

 九十年後。
「博士、ついに蝉の成虫の寿命は百年前よりも二十五時間のびました!」
「おお、地道な研究が実を結んだの。これで定説が崩れた、すぐに論文発表じゃ!」
「はい。でも、人間の寿命ののびに比べたら微々たるものですが・・・」



500文字の心臓 第157回「百年と八日目の蝉」投稿作品

アキ缶プリンセス2017年08月28日 23時10分05秒

 日名川第二高校。
 昭和初期の工場跡地に建てられたこの高校は、古びたレンガの塀に囲まれている。
 その高さは三メートルほど。
 工場の機密を守るために、そんな高さにしたのだろうか。現在では高校生の出入りを許さない高い壁となって、ぐるりと学校を取り囲んでいた。
 レンガ塀の南側は県道に面し、校舎の前には立派な正門があった。
 一方、敷地の東、北、西側は、静かな住宅街に面している。
 そんな日名川第二高校には開かずの門があった。
 ――北門。
 レンガの壁に埋め込まれる形でひっそりと佇む北向きの鉄製の扉は、十年前から一度も開かれたことはない。

 北門の隣には、清涼飲料水の自動販売機がある。
 門が開かれていた時代に、二高生をターゲットに設置されたものだろう。しかし門が閉ざされてしまった現在では、住宅街を散歩する人が時たま利用する程度だった。
 ここで注目したいのは、この自売機ではなく、隣の古ぼけたゴミ箱である。
 空に大きく口を開いた、よく公園などに置いてある金属メッシュの円形ゴミ箱。
 そこに捨てられる空き缶の数には、不思議な特徴があった。というのも、隣の自売機で売られる缶よりはるかに多い缶が捨てられるのだ。しかも、自売機で売られていない銘柄も含まれている。
 家庭ゴミが持ち込まれた、と思う方もいるだろう。しかし、増やされる缶はビニール袋に入っているわけでもない。毎日毎日、ちょっとずつ増えているのだ。
 それもそのはず、増える空き缶はレンガ塀の内側から投げ入れられたものだったから。

 ――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ……。
 今日も放課後になると、レンガ塀の内側から空き缶が飛んでくる。
 当然、すべての缶がゴミ箱に入るわけでもなく、標的を外れた空き缶は甲高い音を立ててアスファルトを転がった。
「今日も始まった……」
 その様子を住宅街の影から観察している一人の少女がいた。
 彼女の視線は、転がる缶に向けられている。
「あの人が来る……」
 およそ三分後に訪れるであろう光景に、少女は胸をときめかせる。
 これは、そんな不思議な少女と、ある男子高校生との物語――
 

 ◇
 

「空知、空知、空知っ!」
 日名川第二高校サッカー部室の近く、北門裏ではコールが湧き起こっていた。
 上川空知(かみかわ そらち)。一年生。
 名前を連呼された彼は、空き缶を一つ手にして緊張した面持ちで初夏の夕空を見上げる。
 ――朝のまったりブラック。
 これからその銘柄の空き缶を蹴り上げるのだ。
 ターゲットは、北門と約二メートル離れた電柱との中間地点。そのちょうど裏側にゴミ箱が存在する。
 ――この缶ならできる!
 缶を見つめながら気合を込める空知。ちなみにこの銘柄は、部内では彼だけが飲んでいるブラックコーヒーだ。
「おいおい、早くしろよっ!」
「外すなよな!」
 空知は缶を小さく前に投げると、右足を振りかぶった。
 シューズの甲の部分で優しく缶の縁をミートする。くるくると逆回転がかかった缶は三メートルの高さのレンガ塀の上部に向かって飛んで行く。
「おっ、いいコースだ」
「今日はパーフェクトか!?」
 しかし、部員たちの願いはすぐに落胆に変わる。
 ――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ…………コン。
 塀の向こう側へ消えていった空き缶は、皆の期待に反し甲高い音を響かせた。
「なんだよ、また外したのかよ」
「ほらほら、拾いに行ってこいよ!」
 ちゃんとゴミ箱に入っていれば、カシャリと小さく金属音がするはずだった。実際、今まで缶を蹴った先輩たちは、カシャリと見事にゴミ箱に蹴り入れていた。
「くそっ! 空知、行ってきます!」
「ダッシュだぞ」
 空知は正門に向かって走り出す。北門が開いていれば、門をくぐって一瞬で空き缶を拾うことができるのだが、閉まっている現在は正門を経由してぐるりと大回りしなくてはならない。
 まずは正門までの距離、直線で百五十メートル。正門からは壁沿いに道路を走って北門まで約五百メートルの道のりだ。往復で一キロを超える罰走は、練習後の疲れた体を容赦なく鞭打つ。
「ふふふふ……」
 しかし、今の空知は違っていた。不気味な笑みさえ浮かべている。正門に向かって走りながら。
「うまく外れてくれたぜ……」
 そう、空知はわざとゴミ箱に入れないように空き缶を蹴っていたのだ。
 ある女の子に会うために。

 ――俺たちが蹴った缶を拾いに来る女の子がいるらしい。
 ――その子、むちゃくちゃ可愛いんだって?
 
 そんな噂が部内に広まったのは、つい一ヶ月前のこと。
 情報源は、空知と同じ一年生の直之だった。
『缶を拾いに行く時、ポメラニアンを散歩させている女の子とよくすれ違うんだよね』
 彼もまた、ゴミ箱に缶が入らない罰走常連者だった。
『それがすっごく可愛くって』
 可愛いのは女の子なのかポメラニアンなのかは不明なのだが。
 しかし、決定的だったのは次の彼の証言だった。
『彼女が持ってるビニール袋、犬のウンチ用かと思いきや空き缶が入ってたんだよ。しかも俺たちが蹴った缶だった』
 それ以来、変な噂が広まったのだ。
 可愛い女の子が部員の蹴った缶を拾いに来る――と。
 正体不明のその女の子は、いつしか”空き缶プリンセス”と呼ばれるようになっていた。
 
 下校する生徒たちの脇をすり抜けながら正門の外に出た空知は、右に曲がって県道を西へ走る。陽はすでに沈み、正面に見える山々は真っ赤な空のシルエットとなっていた。
 西回りを選んだのは、東回りよりも三十メートルほど距離が短いという理由からだ。
 レンガ塀に沿って走る空知は角を二回右に曲がる。すると、遠くに北門の自売機が見えてきた。が、残念ながら、噂のプリンセスの姿はない。
「ちぇっ……」
 舌打ちをしながら北門に着いた空知。朝のまったりブラック缶は、ゴミ箱から一メートルくらいの場所に転がっていた。
「今日も会えなかったか……」
 あたりをキョロキョロと見回しながら缶を拾う。が、やはり周囲に人の気配はない。家々の窓に灯がともり始めた住宅街は、夕飯の支度で大忙しのようだ。
 カシャリとゴミ箱に空き缶を捨てた空知は、レンガ塀の内側に向かって声を上げる。
「空知、缶を捨てました!」
 すると塀越しにキャプテンの声が返ってきた。
『よし、行きは三分五秒だ。帰りは三分切るぞ! スタート!』
 ちぇっ、もうスタートかよ。いつもながらに鬼だな、キャプテンは。
 そんな恨み節を噛み殺しながら、空知は走り出す。
 結局、今日もプリンセスには会えなかった。これでは無駄走りと言っても過言ではない。

 その時だ。
 右側の住宅街の路地に、チラリと人影が見えたような気がした。
 その姿は女の子のようだった。

 ――もしかして、あれがプリンセス?
 戻って確かめたい。でも、そうすると三分を大幅にオーバーしてキャプテンに怒られる。
 結局、空知は走り続けることを選択した。
 ――でも、なんで彼女は隠れているんだろう?
 北門周辺が騒がしいから? 走って来るサッカー部員がうっとおしいから?
 いろいろな可能性が空知の頭の中に浮かんでくる。それらが導き出す答えは、いずれもサッカー部員がいなくなるのを待っているということだった。つまり、プリンセスが現れるとしたら、空知が走り去った正に今。
「おおっ、すごいぞ空知。帰りは二分五十五秒だったぞ」
「ありがとうございます、キャプテン! では、失礼します!」
 だから部室に着いた空知は再び走り出す。
 プリンセスに会うために。
 正門を抜けて、レンガ塀沿いに走ること約三分。しかし、自売機の周辺には誰もいなかった。
「なんだよ、またもや無駄足かよ……」
 脱力した空知は、ゴミ箱の縁にお尻を当てて寄りかかる。ゴミ箱にくくり付けられた重りがカタカタと音を立てた。
 見上げる空は、すでに紫色に染まりつつあった。自売機を照らす電柱の街灯に、虫たちがブンブンと飛んでいる。
「本当にプリンセスなんているのか……」
 バカなことをしちまったとぼやきながら、空知はふとゴミ箱の中を覗いた。
「えっ?」
 空知は気付く。
「無い!?」
 あるはずの物が無いのだ。
「そんなバカな、さっき捨てたばかりなのに……」
 一番上にあるはずの朝のまったりブラック缶が消えていた。


 ――やっぱりプリンセスはいるんじゃないのか?
 それが空知の出した結論だった。
 捨てたばかりの朝のまったりブラック缶が忽然と消えた。明らかに、誰かが持ち去ったとしか思えない。業者が回収したのであれば、缶はすべて無くなっているはずだ。
 ――では、いつ?
 それは明らかだ。
 空知がゴミ箱に到着した時、朝のまったりブラック缶はまだアスファルトに転がっていた。
 その缶をゴミ箱に捨てて部室まで三分。その後、ゴミ箱に戻って来るまで三分。つまり、この六分間に空き缶が持ち去られたことになる。
 ――どうしたら会える?
 これが一番の問題だ。
 罰走で空き缶を拾いに行ったら、会うことはできない。
 なぜなら、鬼のキャプテンがタイムを測定しているからだ。缶をゴミ箱に入れた瞬間、部室に向かって走り出さなくてはならない。
 ――この難問さえクリアできれば……。
 プリンセスに会ってみたい。チラリと姿が見えた、あの女の子に。
 空知は自宅のベッドで天井を見上げながら、いつまでも作戦を考えていた。


 ◇


 次の日の朝。
「空知、空知、空知っ!」
 朝練が終わった北門裏は、サッカー部員で盛り上がっていた。
 朝のまったりブラック缶を右手にしっかりと握りしめながら、空知は昨晩考えた作戦を思い出す。
 ――この缶ならできる!
 そして小さく前に投げ、右足を振り抜いた。
 甲の部分で優しくミートした空き缶は、クルクルと逆回転しながらレンガ塀の上部へ向けて飛んでいく。そして塀に当たるか当たらないかスレスレの高さで超えていった。朝の日差しを浴びてキラキラと光りながら。
 緊張の一秒間。
 ――カシャリ。
 缶は見事、ゴミ箱へ。
「よっしゃァァ!」
 ガッツポーズをしながら空知は後ろに下がる。そして、入れ替わりに前に出ようとする直之に、すれ違いざまに一言つぶやいた。

「昨日、プリンセスを見たぜ」
「マジか?」

 これが空知の作戦だった。
 直之だってプリンセスに会いたいはずだ。蹴る直前にこんな風に言われれば、きっと彼は缶を外すだろう。
 しかし、たとえ缶を外せても直之は決して彼女に会えることはない。それは昨日、空知が実証済みだった。
「直之、直之、直之っ!」
 部室前が直之コールに変わる。
 直之は壁の前で、”午後のシャキッとコーヒー”缶を握りしめた。いつもとは違う緊張の面持ちで。
 この緊張の意味がわかるのは空知だけだった。というのも、缶を入れようとする緊張ではないからだ。
 ――どうやったらごく自然に缶を外すことができるか。
 これほど高度で危険な技はない。バレたら、真剣に蹴っている先輩方をバカにする行為とみなされる。
 意を決し、直之が缶を小さく前に投げる。そして右足を振り抜いた。
 クルクルと回りながら、午後のシャキッとコーヒー缶がレンガ塀の上部に向かって飛んでいく。その軌跡を見ながら空知はつぶやいた。ナイス直之、と。
 ――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ……。
 塀を超えた空き缶は、アスファルトに当たって甲高い音を立てた。
「なんだよ、直之ィ~」
「そうだよ、今日は空知も入れたのに」
「スイマセン!」
 先輩たちに謝りながらも、直之はきっと心の中でペロっと舌を出しているのだろう。
「じゃあ、今日の朝練はこれで解散! 直之は缶を拾いに行ってこい。スタート!」
 キャプテンの掛け声と共に、直之は正門に向かって走り出す。
 そして空知も、引き上げる振りをしながら正門に向かって走り出した。

 ――直之に空き缶を拾いに行かせる。
 空知の作戦の第一段階は成功だ。
 もしプリンセスが現れるとしたら、直之が缶を拾って部室に戻る間の数分間だろう。となれば、すぐさま直之を追って北門に向かわなくてはならない。
 正門を抜けた空知は、直之とは逆の左側に曲がる。東回りのルートで北門へ向かうためだ。距離は西回りよりも若干長いが、直之と鉢合わせする心配がない。
 塀に沿って住宅街を走り、二回目の角の前で立ち止まる。レンガ塀に隠れて空知がそっと北門の方を伺うと、缶をゴミ箱に捨てた直之が再び走り出すところだった。
「ナイスタイミング!」
 北門前の通りを向こう側に走って行く直之。その姿がだんだんと小さくなる。そしてレンガ塀の角を左に曲がり、北門前の通りから消えた。
 プリンセスが現れるなら、今だ。
 すると、住宅街の路地から一人の女の子が現れた。制服姿で、キョロキョロと辺りを見回しながら。
「おおっ!」
 やっぱりいたんだ、噂のプリンセスは!
 興奮を抑えながら空知は息をひそめる。レンガ塀を掴む手のひらに、じわりと汗が滲んできた。
 女の子は通りに誰もいないことを確認すると、そそくさとゴミ箱に近づいた。
 白のブラウスに紺の無地のスカート。どうやら彼女も高校生のようだ。きっと登校前なのだろう。
 スカートの腰の部分がちょうどゴミ箱の上部と同じだから、背の高さは百五十センチくらいと推測される。一方、空知の身長は百七十センチだった。
「あれ? あの制服って、どこかで見たことがあるような……」
 空知はその制服に見覚えがあった。
 少なくとも二高の制服ではない。二高の女子のスカートは、濃いグリーンを基調としたチェック柄だ。
「ま、まさかの一高……?」
 日名川第一高校。
 この地域の秀才が通う公立の進学高だ。あの地味なスカートは一高の制服に間違いない。
 その時。「きゃっ!」という小さな悲鳴と同時にガシャリと金属音が響く。ゴミ箱の中の缶に手を伸ばした女の子がバランスを崩し、中に落ちてしまったのだ。
 ゴミ箱に上半身を突っ込んだまま、バタバタともがく女の子。スカートがめくれないよう手で抑えるのに必死で、外に出ることができない。
「おい、おい、おい。命と空き缶とパンツ、どれが一番大事なんだよ!」
 右手で空き缶、左手でスカート。さすがにその状態ではゴミ箱からの脱出は不可能だ。
 思わず空知はレンガ塀の影から飛び出した。
 そして女の子に近寄り、ゴミ箱を重りごと斜めに傾けて彼女を救出する。ビンクの布地がチラリと見えたような気もするけど、それは内緒だ。
「大丈夫か?」
「す、すいません。助けていただき、ありがとうございます」
 ゴミ箱から脱出した女の子が、アスファルトにぺたんと女の子座りしたままお礼を述べた。
 そして空知を見上げたとたん、「あっ!?」と表情を変えた。
「そ、空知くんが、なんで?」
「えっ?」
 驚いたのは空知の方だった。
 大きな二重の瞳に柔らかそうな頬、そして天然パーマがかかったショートの髪が耳元を隠すよう緩やかにカールしている。その容姿は正に空知の好みそのもの。これほどドンピシャな子に、今まで出会ったことはない。
 そんな初対面の女の子に、いきなり名前を呼ばれたのだ。
 すると女の子はいそいそと立ち上がり、「ごめんなさい。失礼します」と住宅街へ駆けて行った。午後のシャキッとコーヒー缶を握りしめながら。
 その後ろ姿を、空知は呆然と眺めるしかなかった。


 その日の授業は、全く集中できなかった。
『そ、空知くんが、なんで?』
 驚いたように空知を見上げる女の子の顔が、何度もフラッシュバックする。
 また会いたくて、その顔が見たくて、勉強なんてする気が起きないのだ。
 しかし、その顔には全く心当たりが無かった。にも関わらず、彼女は空知の名前を知っていた。
 中学校が一緒というわけでもない。それに彼女は空知の通う二高ではなく、一高の制服を着ていた。
「一高の生徒が、俺のことを知っているわけが……」
 いや、あるかも。
 空知は、ある可能性について考え始めていた。


 ◇


「おい、空知。お前ひでぇ奴だな」
 放課後になって部活に行くと、いきなり直之が絡んできた。
 目が笑っていない。空知は小さく身構える。
「抜け駆けしやがって。プリンセスに会うために、今朝は俺を出汁に使っただろ? キャプテンから聞いたぞ」
 皆に気づかれないように正門へ向かったはずなのに。キャプテンにはバレバレだったのかと空知は苦虫を噛み潰す。
「そんでもって、プリンセスはお前の知り合いだったんだって?」
「はっ? 違うよ。誰だよ、そんなこと言ってんのは!?」
「キャプテンだよ。北門越しに聞いたって言ってたぞ、『空知くん』って女の声がするのを」
 まさか、あれを聞かれていたとは!
 正に鬼のキャプテンだと空知は恐怖する。
「俺も驚いたんだよ、見知らぬ女の子に名前を呼ばれてさ」
「ふーん」
 疑いの目で空知を見る直之。
「だから本当だってば。信じてくれよ」
 腕組みをする直之に、空知は目で訴えた。数秒間の沈黙の末、仕方ねえなと直之は表情を崩す。
「それで? どんな感じだった? プリンセス」
 むちゃくちゃ可愛かったよ、と言いたくなる衝動をぐっと堪え、空知は彼女の制服に言及する。
「彼女、一高の制服を着てた」
「えっ……」
 空知の言葉に、直之は絶句した。
「マジかよ、彼女、ウチの生徒じゃなかったのかよ……」
 それはまるで、追い求めていた女性が高嶺の花であるかのように。
 直之はすぐに気を取り戻し、握る拳に力を込めた。
「でも俺はあきらめねえ。プリンセスは正にプリンセスだったんだ。そんな彼女は、俺が蹴った缶を柔らかなその手で回収してくれるんだ」
 空に向かって両手を広げる直之。
 幸せなやつだと空知は呆れる。まあ、彼の蹴った空き缶をプリンセスが回収していったことは紛れもない事実だったわけだが。
「名前を呼ばれたっていうのに、本当に空知はプリンセスのこと知らなかったのか?」
「ああ、見たことがない顔だった」
「それって、空知がプリンセスのことを知らなくても、彼女は空知のことを知っていたってことだろ?」
「まあ、そういうことになるわな」
「もしかしたら、空知って一高でも有名人なんじゃねえの? あいつのせいでさ」
「あいつって……あいつか。やっぱ、そう思うか? 俺もそれしかないって気がしてたんだが……」

 ――二高に通う空知が、一高で有名人となる可能性。
 入学して間もない空知にとってはかなり難しいことだと思われるが、二人には思い当たる節があった。
 上川十勝(かみかわ とかち)。日名川第一高校の一年生。
 空知と瓜二つの、双子の兄の存在だ。
 十勝が一高で双子であることを吹聴していれば、空知はたちまち有名人になれるに違いない。
『実は俺、双子なんだけど』
 それは耳元でささやくだけで、どんな女の子だって興味を持ってくれる魔法の言葉だから。
 ちなみに空知と十勝と直之の三人は、中学校が一緒だった。

「きっと冷やかしに来たんじゃねえの? 十勝から聞いてさ、双子の弟が二高にいるって」
「おい、もう一回言ったら殴るぞ、直之」
 双子であることを言われるのが最も嫌いな空知だった。
 一方、十勝だって同じ気持ちのはず。その十勝が自ら双子であることを言いふらすとは、どうしても空知には思えなかった。
「なんだよ、俺に怒るなよ。もしそうなら、悪いのはプリンセスの方じゃねえかよ」
「…………」
 ゴミ箱の前で出会った彼女。
 あの時の驚きの表情は、冷やかしに来て偶然会えたという驚きだったのか?
 でも、彼女は「なんで?」と言った。冷やかしだったら、もっと別の言葉になるような気もする。
「悪かったよ、双子のこと言ってさ。でも、今朝の借りはきっちり返してもらうぞ。今度は空知が缶を外す番だからな」
「ああ、わかったよ……」

 その日の空知は、部活も集中することができなかった。
『きっと冷やかしに来たんじゃねえの?』
 今度は、直之の言葉がグルグルと頭の中を回って離れなかったからだ。
 空知は全力で否定したかった。あんな可愛い子はそんなことしないって。
 でも考えれば考えるほど、直之の推測が正しく思えてくる。
 授業中、空知も同じことを考えていたが、その時は自分自身で否定した。十勝だって双子であることをあまり他人には知られたくないはず――という自分勝手な推測に基づいて。
 しかし、他人として客観的に状況を見ることができる直之は、空知の懸念をあっさりと肯定してしまったのだ。少なくとも、初対面のプリンセスが空知の顔を知っているということは、彼女が普段から双子の兄、十勝に会っているとしか思えない。
「空知、空知、空知っ!」
 だから、部活後の缶蹴りも身が入らなかった。
 ――冷やかしに来るようなやつには会いたくない。
 適当に蹴った朝のまったりブラック缶は、レンガ塀の向こう側でカーンと甲高い音を立てた。
「おいおい、空知。真面目にやれよ!」
「そうだよ、みんなでパーフェクト狙ってんだからさ」
 先輩方にも、気の無い蹴りであったことはバレバレだ。
「申し訳ありません! 空知、缶を拾いに行ってきます!」
 まあ、これで直之との約束通りになった。
 こんな嫌々な走りをプリンセスは影から見ているのだろうか。
 しかし三分後に北門に着いた空知は、そこで見た光景に驚く。転がったはずの朝のまったりブラック缶が、ゴミ箱の横のアスファルト上に立っていたのだ。
 おまけに、缶には付箋紙が貼ってある。

『今朝のお礼がしたいので、七時に駅前で待ってます』

 薄ピンクの付箋紙には、綺麗な文字でそう書かれていた。


 ◇


 急いで部室に戻った空知は、制服に着替え、駅へと向かう。
 二高から駅までは歩いて十五分。一キロちょっとの道のりだ。まだ六時四十分だから、ゆっくり歩いても余裕がある。
 今頃、直之はレンガ塀の影から北門を観察しているのだろう。が、おそらくプリンセスは現れない。だって、彼女も空知に会うために駅に向かっているはずだから。
 直之に申し訳ないと思いながら、ちょっとした優越感に浸る。プリンセスは直之じゃなくて自分を選んだのだと。
 しかし、それは最初のうちだけだった。
 だんだんと湧き起こってきたのは、ガツンと文句を言ってやろうという決意。双子をバカにするやつは絶対に許せない。空知だって、双子で生まれたくて生まれたわけじゃないし、十勝とそっくりになりたくてなったわけでもない。
 しかし駅が近づくにつれて心臓の高まりを抑えきれなくなると、また別の感情が空知の頭を支配し始めた。
 汗臭くないかとか、髪が砂埃でゴワゴワしてないかとか、もっと丁寧に顔を洗ってくればよかったとか。
「空知くーん、こっちだよ!」
 そんな空知を、プリンセスは手を振って迎えてくれた。とびっきりの笑顔で。
 白のノンスリーブのトップス、紺のキュロットスカート、そして足元の白いサンダル。
 デートの待ち合わせって、空知にそんな経験はなかったが、こんなにもドキドキするものなのかと胸を熱くする。
「今日は来てくれてありがとう。お気に入りのお店があるから、そこに行かない?」
 プリンセスに連れられて入ったのは、駅前のビルの二階にあるお洒落な喫茶店だった。

「今朝は本当にありがとう。不覚にもゴミ箱に落ちてパニクっちゃった。えへへ……」
 向かい合って席に座ると、最初にプリンセスが切り出した。
「君が来てくれなかったら、私、死んでたところだよ~」
 そんなバカなと思いながら、空知はぐっと笑いを堪える。
 確かに彼女は可愛い。冗談を言う姿なんて、ずっと眺めていたくなるほど愛らしい。
 でもそんな色香に騙されてはいけない。双子を冷やかす行為は、決して許しておけないのだ。
「今日は何か奢らせて? ほら、部活で疲れた体にも甘いものがいいって言うでしょ?」
 こんなやつに奢ってもらうわけにはいかないと、空知はついに口火を切った。
「申し訳ないけど、今日はやめておく。俺は君のこと、何も知らないんだけど。それに俺のことは、十勝に聞いたんだろ?」
 つい強い口調になってしまう。
 空知に気圧されて、彼女は表情を曇らせた。
「と、十勝……くん?」
「とぼけなくったっていいよ。俺の双子の兄貴。日名川第一高校の一年生。俺のことは兄貴から聞いたんだよなッ?」
「えっ? う、うん……」
 消えゆくような彼女の声。一瞬、可哀想と思ったが、ここははっきりさせておいた方がいい。
「何で缶を拾ってるのか知らないけど、双子をバカにするんだったら俺は許さない。もし、他の理由があるんだったら、教えてくれないか?」
 しばらく俯いて黙っていた彼女だが、やって来た店員に二人分の飲み物を注文すると、ポツリポツリと話を始めた。
「私ね、北門の近くに住んでるの。名前は日高アキ。日名川第一高校の一年生」
 道理で、と空知は納得する。北門の近くに家があるなら、犬を散歩する姿を直之に目撃されても不思議ではない。
「それでね、パパに命令されてるの。空き缶を拾ってこいって。遺伝子検査をするからって」
「遺伝子検査?」
 聞きなれない単語に、空知は困惑する。
「うちのパパ、遺伝子分析が専門なの。聞いたことない? 日高博士って?」
 日高、日高、日高、と頭の中で復唱して、ようやく空知はある人物に思い当たった。
「日高博士って、ええっ、テレビでよく見るあの日高博士!?」
「うん」と小さくうなづくアキ。
 空知は驚いた。
 日高博士といえば遺伝子捜査の権威で、民放の警察の特別捜査に関する特番や、某国営放送のその手の科学番組には必ずといっていいほど出演している。最近ではコメンテーターとしても引っ張りダコで、週末の情報番組で見かけることも多い。ダンディで、おばさま方にも人気の科学者だ。
 言われてみれば、目の前のアキは目元などが日高博士とそっくりかもしれない。
 いきなり飛び出した有名人の名前に、空知はすっかり恐縮した。
「そ、そ、それで、その日高博士は俺たちの缶を集めて、何をしていらっしゃるんでしょう……?」
 まさか、塀越し缶蹴りという悪事を暴かんとする国家権力の差し金なのか。
 動揺が空知の言葉を震わせる。
 一方、アキの方は顔を真っ赤にして俯いていた。
「そ、そ、それは、とっても恥ずかしいことなんだけど……」
 そして消え入りそうな小さな声でこう言った。
「気になってる人がいたら、遺伝子検査をしたいから、その人が飲んだ空き缶を持ってこいってパパが言うから……」
 そうか、そういうことだったのか。
 キーワードは遺伝子だったんだ。
 空知はやっと理解する。彼女の目的は双子をからかうことではなくて、十勝と同じ遺伝子が欲しかっただけなのだと。
 双子であることを十勝が言いふらすわけがないと思っていた空知は、アキの説明を聞いてすべてが腑に落ちたような気がした。きっと彼女なりに調べたのだろう。十勝に双子の弟がいることや、弟である空知が二高に通っていることを。十勝の中学校時代の同級生に聞けば、簡単に分かることだ。
 そして同時に、彼女に対する熱意がすうっと冷めていくのを感じていた。双子の弟の唾液を分析することによって、兄を遺伝子レベルで品定めしようなんて、この親娘の行動はマニアックすぎて恐ろしい。
「遺伝子検査って、そんなにすごいのか?」
 だから空知はアキの真意について追求するのをやめた。自分に気の無い女の子の気持ちを覗いても意味がない。
「そりゃ、すごいわよ」
 アキは目を輝かせながら喋り出す。
「これはパパの受け売りなんだけどね。空き缶に付いた唾液から遺伝子を抽出すると、その人のいろんなことが推測できるの。瞳や髪や肌の色、顔の形、しみやそばかすの有無までわかっちゃうんだから」
 ほんのちょっとの唾液でそんなことまで判明するとは、なんとも恐ろしい。
 それにしても、さすがは日高博士の娘。遺伝子の話が止まらない。
「それでね、そんな遺伝子情報を利用して、香港のNGOが二〇一五年にすごいことをやったの。なんでも、『この人がポイ捨てをした人です』って、遺伝子情報から割り出した合成顔写真をポスターにして街中に貼ったのよ。ポイ捨てした人、真っ青よね。パパはその上をいく研究をしようとしているみたいなんだけど」
 親も親だけど、アキも本当に遺伝子のことが好きなようだ。
 好きなことを話している女の子は本当に可愛い。
 そんなアキの姿を眺めているだけで、あっという間に一時間が過ぎてしまった。
「ごめんね、私ばっかり喋っちゃって」
「いや、構わないけど」
「こんな私でよければ、また会ってほしいな……」
 今日は遺伝子の話ばかりになってしまった。アキだって、十勝のことをもっと知りたいはずだ。
 でも会うためだけに、メールアドレスやラインを交換するのもなんだか違うような気がした。アキと十勝が付き合い始めたら、それまでのやりとりを見るのが辛くなるのは明らかだったから。
 だから空知は提案する。
「だったら、また空き缶に付箋紙を貼ってよ。朝のまったりブラック缶にさ。部内では俺だけが飲んでるコーヒーだから」
 これなら後腐れもない。
「うん、わかった」
 こうして、空知とアキの不思議な関係が始まった。


 ◇


『七時に狐寝公園で待ってます』
 アキが付箋紙で指定するのは、いつも北門の近くの小さな公園だった。
 空知が着替えて公園に行くと、ポメラニアンを散歩させるアキが待っていた。直之の言葉通り、アキに負けないほど可愛い犬だった。
 住宅街の中にある公園にひぐらしの鳴き声が響く。紫色に染まる空と灯りがともり始めた外灯。隣接する住宅から夕飯の匂いが漂ってくる。
 二人は公園のブランコに並んで座り、四方山話をする。座高も空知の方が二十センチくらい高い。最初にアキが訊いたのは、部活後の缶蹴りについてだった。
「レンガ塀の向こう側から空き缶を投げ入れるなんて、面白いことするよね」
 どうやらアキは、空き缶を投げていると思っているようだ。
「ああ、あれね。あれって投げてるんじゃないんだよ、蹴ってるんだ。だって俺たち、サッカー部だし」
「へえ~、蹴ってるんだぁ……。それって、投げるよりも難しくない?」
「そりゃ難しいよ。でもコツさえ掴めれば、意外と簡単なんだよ」
「と言ってる割には、たくさん外してますけど? 朝のまったりブラック缶」
 いたずらっ娘の笑みを浮かべ、上目遣いで空知の表情をうかがうアキの瞳に、空知はドキッとする。
 いやぁ、それを言われると辛い。アキに会いたくて外したこともあると白状したくなる気持ちを、空知はすんでのところで飲み込んだ。
 次は、空知がアキに、十勝のことを話してあげる番だった。
 一緒にサッカーを始めたこと、小学校では十勝の方が上手かったが、中学校では空知の方がレギュラーだったこと。高校は別々になってしまったが、お互いサッカー部に所属していることなどなど。
 そんな話を、アキは興味深そうに聞いてくれた。
「アキは、兄貴のどんなところが好きになったんだ?」
 するとアキは空を見上げながら答える。一番星がチラチラと輝き始めていた。
「そうね、部活で走ってるところかな」
 アキは、一高サッカー部の練習を見に行っているのだろう。
「額に汗を光らせながら、前を向くあの瞳にキュンとくるの……」
 わずかに頬を赤らめる乙女の横顔に、空知は十勝のことがうらやましくなる。
「それにね、話していてもとても楽しいし」
「俺と話すよりも?」
 そう言ってから、空知はしまったと後悔する。それは、十勝よりも優位に立ちたいという気持ちの裏返しだったから。
 双子を比較しないで欲しいという、空知自身の信念にも矛盾する行為であった。
「うーん、空知くんと話すのと同じくらい楽しいかな」
 そんな空知の気持ちを知っているのか、アキは曖昧な言葉で誤魔化した。
 小悪魔的な笑顔に、空知の心は揺れ始めている。
「それで? いつ告白するんだよ?」
 だから、アキにはさっさと十勝に告白して欲しいと空知は願う。このままでは、本当にアキのことが好きになってしまいそうだ。
「もうちょっと。もうちょっと待って。まだ、パパの分析結果が出ていないから……」
 おいおい、それも遺伝子次第なのか? もし結果が悪かったら告白をやめるのか?
 そもそも告白って、気持ちの問題じゃないのかよ。
 すっかり呆れてしまう空知だった。


 空知がアキと会うようになって、部活後の缶蹴りにある変化が起きていた。
 決定率でいつも最下位を争っていた空知と直之だが、直之の成績がぐっと上がり、一方の空知は缶を外すことが多くなったのだ。
「空知よ。プリンセスに会いたいからって、最近外し過ぎじゃねえの? まあ、俺の方は好調だけどな」
「直之だけには言われたくねぇ。おかしいな、ちゃんと入ってるはずなんだが……」
 そうなのだ。
 絶対これは入った、と確信するコースでも外れる時がある。そして、そういう時は必ず、空き缶に付箋紙が貼ってあった。
 ――もしかして、アキがわざと落としてる?
 そのことを空知が訊いてみようとした日、アキから重大な発表があった。
 二人の不思議な関係が終了するような、重大な発表が。


 ◇


「ここに宣言します! 日高アキは、明日、好きな人に告白します!」
 狐寝公園の滑り台の一番上に立ってアキは宣言する。右手を高々と宙に突き出して。
 ポメラニアンを託された空知は、ついにこの日が来たかと寂しく思う。夕陽に照らされた彼女は、本当に眩しかった。
「私、言っちゃった! ついに、言っちゃったよ!」
 滑り台を滑り降りたアキは、空知の前に駆け寄ると大きく息をした。
「いやいや、まだ言ってないだろ? 本番は明日なんだから」
「でも、これで時計は動き始めたんだよ? もう言ったも同然だよ」
「それより検査の結果はどうだったんだ? 告白に踏み切るってことは、結果は良かったんだよな?」
「うん。バッチリだって」
 アキは空知に向かって親指を立てる。
「そうか、良かったな……」
 そう言いながら空知はアキから目をそらす。複雑な気持ちに包まれながら。
 アキが検査に用いたサンプルは、もともと空知の遺伝子なのだ。それが十勝への告白の足がかりになったと思うと、なんだかやるせない気がした。だから空知は、瞳を輝かせる彼女に向き合っていることができなくなっていた。
「私……怖い……」
「大丈夫だよアキなら。十勝の目を見て告白すれば、絶対成功する」
 自分はアキから目をそらせているのに何を言ってるんだろうと空知は思う。
 彼女の瞳の輝きは、明日にはもう十勝のものになってしまうのだ。
「うん、そうする。それでダメだったら、無理やりチューしちゃう」
「チュう!?」
 驚いて空知はアキを見た。おどけて唇を突き出す彼女の仕草に可笑しくなる。
「せめてもの記念に、遺伝子くらいはもらっておかなきゃね」
 この期に及んで遺伝子を持ち出すとは、どれだけ好きなんだろう。
「それは封印しておいた方がいいぜ。ドン引きされるぞ。いいよ、告白を断ったら俺が十勝を殴ってやる」
「それも封印しておいた方がいいと思うけど?」
 そして二人で笑った。

 その時だった。
「なんだ、公園が騒がしいと思ったらアキだったのか……」
 一人の初老の男性が空知たちに近づいてきた。
 見たことあるような顔――と思ったら、日高博士だ。アキのポメラニアンが嬉しそうに吠え始めた。
 おおおおおおおおっ、テレビで有名なあの日高博士だよ。本物が、動いて、歩いて、しゃべってるよと、得体の知れない興奮が空知の体の中を駆け上がる。
 一方、アキの表情は急に硬くなる。「今日は早く帰ってくるはずじゃなかったのに」と小さくつぶやくと、「じゃあね」と空知に手を振って、ポメラニアンを連れてそそくさと公園の外に向かって歩き出した。
「おいおい、アキ。彼のことを紹介してくれてもいいじゃないか?」
 博士はアキを引き留めようとする。が、彼女はそっけない言葉を返した。
「あっ、彼、中学時代の同級生だから。ちょっとそこで会っただけだし」
 さっきまでとはまるで人が変わった態度。
 なんでそんな嘘を言うのだろうと不思議に思った空知は、博士にちゃんと挨拶をしなくてはと意気込んだ。
「日名川第二高校サッカー部の上川空知と言います。よろしくお願いします!」
 体育会系らしい挨拶。
 それが仇になるとは知らずに。
 空知の挨拶を聞いて、博士の表情がみるみる険しくなる。そして博士はアキを振り返った。彼女は今にも逃げ出しそうに背を向けていた。
「待て、アキ! あれほど二高生には関わるなって言ったのを忘れたのかっ!」
 博士の怒号が公園に響き渡る。
 ビクリとする空知とアキ。博士は、テレビでは決して見せられないような鬼の形相だった。
 そして博士は空知を向く。
「申し訳ないが、君も二高生ならアキには関わらないでくれ」
 その言葉にカチンときた空知は、恐れを知らずに反論した。テレビで見る博士はいつも優しそうだったし、無理難題を言い出す人には思えなかったからだ。
「それはなぜなんですか? 教えて下さい」
 博士の怒りに火を注ぐことになるとは知らずに。
「私に歯向かうのかね? だから嫌なんだよ、二高生は!」
 博士の剣幕にたじろぐ。そんな空知に構わず、博士はまくし立てた。
「君は知らんのか!? 十年前、二高生が私の家にしたことを。ちょうど私がテレビに出演し始めた頃だ。冷やかし半分の連中がわんさか押し寄せて来て、大変な目に逢ったんだ。壁への落書き、ゴミのポイ捨て。それだけだったらまだいい。一番許せなかったのは、就学前だったアキへの嫌がらせだ。声をかけるわ、写真を撮るわ、アキの身に危険を感じなかった日はなかった」
 そんなことがあったとは知らなかった。
「だから北門を閉鎖してもらったんだよ。それでやっと、我が家に平和が訪れた」
 ようやく理解する。北門が閉ざされてしまった理由を。
「復讐と言ったら言葉が悪いがね、アキに集めさせているんだよ、二高生がポイ捨てした空き缶を。ポイ捨てする奴は、根本的にどこかイカれていると私は思う。それを遺伝子レベルで解明したくてね」
 その言葉に空知の頭は真っ白になる。
 ――なんだよ、気になる人の遺伝子を調べてもらってたんじゃなかったのかよ。
 ――ポイ捨てする人間の遺伝子を調べるためだって?
 ――結局アキは、俺たち全員をバカにしてたってことなんじゃないか。
 アキが今にも逃げようとしているのも逆効果だった。そのことを知られたくなかったから、この場を去ろうとしているとしか空知には思えなかった。
 悔しくて、悲しくて、裏切られた気持ちで一杯になって、空知は地面を見ながら握りこぶしに全力を込める。そうしなければ、涙が溢れそうだった。
「アキっ! 昨日検査結果を渡した気になる人の遺伝子って、まさか彼のじゃないだろうな。一高生っていうのは嘘だったのかっ!?」
「ッ…………」
 それは嘘であって嘘ではない。
 アキは言葉を詰まらせた。即座に反論しなかったのは、空知への配慮なのか。
 その反応に彼女の最後の誠実さを見た空知は、腹に力を込めて代弁する。自分に構うことはないとのメッセージを込めて。
「一高生というのは本当です! アキさんは一高生のことが好きなんです。俺はその相談に乗っていただけなんです」
 本当にこれで終わりなんだと、涙を堪えながら。
「そうか、君には一応礼を言っておく。が、お願いだからもうアキには関わらないでくれ。行くぞ、アキ」
 博士に腕を掴まれて、強引に連れて行かれるアキ。
「ごめんね、空知くん。ごめんね……」
 空知は夕暮れの公園に一人残された。


 ◇


 次の日。
 朝練が終わると、いつものように北門裏で缶蹴りが始まる。
 博士にあそこまで言われたんだ、さすがに空知は参加する気が起きなかった。
『おいおい、みんな、聞いてくれ。俺たちが蹴った缶は、ポイ捨て遺伝子の研究材料になってるんだぞ』
 そう言って、缶蹴りをやめさせることも考えた。
 しかし先輩方の真剣な表情を見ていると、なにか違うような気がしてくる。
 空知たちは、決してポイ捨てをしているわけではない。
 飲み終わった缶をゴミ箱に入れようとしているだけなのだ。その方法が普通とは変わっているだけで。
 それに、ゴミ箱から外れてしまった缶は必ず拾いに行っている。ポイ捨て状態は、たったの三分間だけなのだ。
 しかしそんな正義を振りかざしても、受け取る側が悪意を持っているのであれば意味がなかった。振り上げた拳の行き場がない、そんな虚しさを空知は感じていた。
 
 それに今日は、アキが告白を決行する日だ。
 彼女にとって相談役の空知はもう用無しなのだ。
 アキが空知のことを必要としてくれるのであれば、博士と戦う勇気も湧いてきたことだろう。良い大学に入って、博士を見返すことも考えたかもしれない。
 しかし、その役目は今夜から十勝に変わる。しかも十勝は一高生。たったそれだけのことで、十勝は博士から免罪符をもらえるのだ。
 悔しくて、悲しくて、涙が溢れてきた。
 空知が一高を受けることができなかったのは、部活を頑張り過ぎたから。中学のサッカー部でレギュラーだった空知は、いつまでもみんなから必要とされる存在だった。それが楽しくてサッカーを今でも続けている。最後に別れが来ると知りながら、アキの手助けだってしてあげた。しかし、こんな結末を迎えるなんて、思いもしなかった。
 せめて、アキの告白が成功するように祈ろう。
 十勝が告白を断ったらぶん殴ってやるって、彼女と約束したのだから。
 そう決意した空知は、放課後の部活を休んで家で十勝を待つことにした。


 その日、十勝が帰宅したのは夕方の六時前だった。
 すっかり待ちくたびれた空知は、いきなり十勝に食ってかかる。
「おい、兄貴。今日、なんかいいことあったか?」
 単刀直入すぎるような気もしたが。
「いいこと? 特にないけど? まあ、普通かな」
 十勝はいたって平常だ。
 表情にも動揺は見られず、嘘を言っているようには思えない。
 学校でアキに告白されたのであれば、何かしらの反応があるはずだった。
「じゃあ、飯を食ったらどこかに行くのか?」
「いや、今日はずっと家にいるけど? ていうか、何なんだよ、いきなり絡んできて」
 夜に会う約束もないらしい。
 いったいどういうことなんだ? アキは今日、告白するって宣言したのに。
 これじゃあ、十勝のことをぶん殴れないじゃないか!
「だったら、アキから電話とかメールとかラインが来ても、絶対断るんじゃねえぞ」
 わけがわからないという顔をする十勝。
「なんだよ、それ。ていうか誰? アキって……」
「えっ?」
 予想外の返事に空知は言葉を失った。


 ◇


 空知と日高博士が鉢合わせをした夜、アキは自室で泣きながら手紙を書いていた。
 ――せっかく、本当のことを言おうと決心したのに。
 ――せっかく、嘘をついていることを謝ろうと思ったのに。
 決心を実行する前に、空知と会っているところを父親に見られたのは致命的だった。二高生のことを極度に嫌っている父親に。空知を公園に呼び出す日は、父親の帰りが遅くなる日をちゃんと選んでいたというのに。
 もう空知には会わせてもらえない。こんなことになるなら、嘘なんてつくんじゃなかったとアキは深く後悔していた。

『空知くん。私はあなたに謝らなくてはならないことがあります。
 それは嘘をついていたことです。十勝くんが好きという嘘を。
 でも、空知くんだって悪いんだよ。勝手に私が十勝くんのことを想っていると勘違いしちゃうんだから。
 私は最初から、空知くんだけを見ていました。だって、サッカー部の缶蹴りを見ていただけなんだから。
 だから、十勝くんという双子のお兄さんの存在も、全く知りませんでした。
 でも不思議ですね。会ったこともない十勝くんの名前を出すと、あなたへの想いを自然と口にすることができるのです。
 額に汗を光らせながら前を向く瞳が好きって、全部、空知くんのことなんだよ。
 あなたの前でそのことを話す私が、どれだけドキドキしていたか分からないでしょう。
 そんな私の話を、あなたは真剣に聞いてくれた。それだけで十分なんです。
 きっかけは、パパのポイ捨て遺伝子の研究でした。北門で空き缶を集めている時に、走って来る空知くんを見かけたのです。すぐにあなたに興味を抱いた。そして、あなたの遺伝子にも。
 悔いているのは私の心の弱さです。パパに検査をお願いしたあなたの遺伝子について訊かれた時、十勝くんの遺伝子と偽ってしまいました。ちゃんと真実を言うべきだった。パパと向き合って戦うべきだった。でもそれは恐くてできなかった。
 こうなってしまった以上、パパは絶対許してくれません、私が空知くんと一緒にいることを。だからこれで終わりにしましょう。
 初めて会った日のこと覚えていますか? 助けてくれたのは直之さんと思いきや、あなただった。神様がくれたこの一ヶ月間のことを、私は一生忘れません。
 今までありがとう。さようなら』

 この手紙を、レンガ塀を越えて来た朝のまったりブラック缶に入れれば、すべてが終わる。
 そう思うと、どうしようもなく涙が溢れてきた。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……」
 時間をかけて書き上げた手紙を、アキはくしゃくしゃと丸めていた。
 空知のことが諦められない。だって本当に好きだから。
「せっかく、本当のことを言おうと決心して、空知くんに宣言したんじゃない」
 どうせ終わりだったら、約束を実行してから考えよう。
「真実はちゃんと会って話したい。いや、話さなきゃいけないと思う。何日待ち続けたとしても」
 アキは、北門の前で空知を待ち続ける決意を固めていた。


 ◇
 

 空知は思わず、家を飛び出していた。
 さっきの十勝の言葉の意味が分からない。
『ていうか誰? アキって……』
 十勝を追求してみたが、アキという女の子には会ったこともないし、話したこともないという。
 そもそも十勝は、アキという人物の存在自体を知らなかった。知っているのは、日高博士の娘が一高に通っているらしいという情報だけだった。

 これは一体、どういうことなんだ?
 アキは話したこともない十勝に告白しようとしていたのか?
 いや、夜に会う予定もない、連絡先も知らないアキに、十勝が告白されるとは思えない。
 そもそもアキは、十勝との会話が楽しいって言ってたじゃないか。
 それは全くの嘘だったのか? 彼女は誰に告白しようとしているんだ?

 答えを知りたければ北門へ急げ。
 空知の直感がそう叫んでいた。
 時間も六時半。ちょうど空き缶蹴りが行われている頃だ。

 北門が見える路地に着くと、空知は住宅街の影に隠れて様子を伺う。北門の前では、一人の女の子がレンガ塀の上をじっと見つめていた。
 アキだ。
 彼女はやっぱりここにいた。
『直之、直之、直之!』
 北門の向こう側からはコールが聞こえてくる。これから直之が蹴るのだろう。
 コンと小さな音がしたかと思うと、レンガ塀の向こうから空き缶が飛んできた。午後のシャキッとコーヒー缶が、くるくると回りながら。
 が、どう見ても缶はゴミ箱に入りそうもない。
「って、えっ!?」
 その時、アキが驚きの行動をとった。
 午後のシャキッとコーヒー缶をキャッチしたかと思うと、ゴミ箱の中に投げ入れたのだ。
 カシャリと金属音が響く。
『おおっ、入ったぞ!』
『今日は空知がいないからパーフェクトだな』
『やっぱりパーフェクトは気持ちがいい!』
 やっと謎が解けた。
 直之の決定率が上がったのは、アキのおかげだったんだ。
 当のアキは、次の缶に備えてレンガ塀に向かって両手を広げている。手の甲に、薄ピンクの大きな付箋紙を貼ったまま。
 しかし、サッカー部員の声を聞いて、もう空き缶は飛んでこないことを知ったアキはガクっと肩を落とした。
 空知はアキの付箋紙に目を向ける。
 そこには赤いマジックで大きく文字が書かれていた。『空知くん、大好きです』と。

 アキは毎日、そうやって空知を待っていたのだ。
 会いたい日には、わざと缶を落としていたに違いない。空知をこの場所に呼ぶために。朝のまったりブラック缶に付箋紙を貼るために。
 熱いものが空知の胸に込み上げてくる。

「アキっ!」
 空知は思わず叫んでいた。
 そして北門の前に姿を現した。
「空知くんっ!」
 愛しい顔が空知を向く。
 その目には涙が溢れていた。
「ごめんね、昨日は本当にごめんね、空知くん……」
「そんなことよりも、一体どういうことなんだ? 兄貴に聞いたら、アキには会ったこともないって言うからびっくりして」
「本当にごめんなさい。私、十勝くんには会ったことがないの。ずっとあなただけを見ていました」
 アキは涙を拭って、空知のことを見上げる。
「勇気を出して言います。空知くん、私はあなたのことが好きです」
 しっかりと空知の瞳を見つめたまま。
「てっきり俺、アキは十勝のことを……」
 空知はまだ、今の状況を信じられずにいた。
 つい三十分前までは、アキは十勝に告白するものだと思っていた。
 その告白が自分に向けられたものだったとは、まるで夢でも見ているような、タヌキに化かされているような、すぐに手に取って良いものなのかどうか分からなくなってしまったのだ。
 空知は言葉を詰まらせ、北門前を静寂が包み込む。

 ――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ……。

 静寂を破ったのは、アスファルトを転がる空き缶だった。
 ――午後のシャキッとコーヒー。
 あ然と缶を見つめる空知に向けて、レンガ塀の向こう側から檄が飛ぶ。
『男らしくないぞ、空知! うっぷ』
『そうだ! 俺たちのプリンセスを泣かせるな!』
『アキちゃん、立派だったよ!』
 やんややんやと二人に声が掛けられる。
 なんだよ、缶蹴りが終わって解散したんじゃなかったのかと空知が顔をしかめる一方、アキは北門に向くとみんなに声を掛けた。
「ありがとう、直之さんっ! そして皆さん!」
 北門の向こう側で歓声が湧き上がる。
『おおーーーっ!』
『愛してるよっ、プリンセス!』
『アキちゃん、最高っ!』
 しかし空知は疑問で頭が一杯だった。
 アキは転がった缶を見ただけで蹴った人間を言い当てた。
「アキ、なんでこの缶が直之のだって分かったんだ?」
「だって、いつも蹴る前に名前を連呼してるでしょ? それに、銘柄がみんな独特だから、缶を見れば蹴った人が分かっちゃう」
 あはははは、そういうことかと空知は苦笑する。
 すると、声と一緒に、空き缶がレンガ塀を越えて飛んできた。
『じゃあ、これは?』
「これは、ブレブレブレンドだから、誠也さん!」
『今度は?』
「極寒ミルクティーだから、玲二さん!」
『俺は誰だ!?』
「クール甘酒だから、武志さん!」
『これは難しいぞ!』
「この濃厚ストレートは何人かいるけど、缶が回転していないから修平さん!」
『空知、部活サボっただろ?』
「これはスペシャルビターだからキャプテンさん。名前と顔は分からないけど」
 そうか、キャプテンは「キャプテン」としか連呼されないし、一度もゴミ箱を外したことがないから顔も見たことがないってわけか。ていうか、ヤバっ! 明日が恐い。
『おおおおおっ、すべて正解だ!』
『アキちゃん、最高!』
『それでこそ、俺たちのプリンセス!』
 それにしても先輩方はみんな蹴るのが上手い。綺麗な軌跡を描いて、どの缶もゴミ箱の中に吸い込まれていく。
 アキもアキだ。飛んで来る缶を瞬時に見分けるなんて神業に近い。しかも缶の回転まで熟知しているなんて、サッカー部員も真っ青だ。
「空知くんから聞いているかもしれませんけど、みなさんの缶は決してポイ捨て空き缶として扱っていないので、安心してください!」
 レンガ塀の向こう側へ宣言するアキ。その言葉に、空知は自分の耳を疑った。
「それってどういうことなんだ? 博士が本当にそうしてるのか?」
 博士はアキに、ポイ捨て空き缶を拾ってこいと命令していた。強い恨みと悪意を持って。
 だから空知は、今のアキの言葉が信じられなかった。
「だって、これってきちんとゴミ箱に捨てられてるじゃない。そういう正常な缶も取ってきて、比較分析することによって、初めてポイ捨て遺伝子について研究できるのよ。これって科学の基本。もちろんポイ捨て空き缶も拾ってるわ、正門前でね」
 空知は、アキに謝りたい気持ちで一杯になる。
 アキは決して、みんなのことをバカにしていたわけじゃなかったんだ。
 逆に、良い遺伝子のサンプルとして、みんなのことを扱ってくれていた。
「念には念をいれて、ここでは名前と顔が特定できる空き缶も採取していたの。分析結果に問題があっても後で検証できるように。そしてその中に空知くんがいた」
 アキは空知のことを熱く見る。
「空知くんがたくさん外してくれたから、私は空知くんを好きになった」
 褒められているのか、けなされているのかわからない。
「私の想いを断るなら、せめて空知くんの遺伝子をちょうだい?」
 そう言って、アキは静かに目を閉じる。
 空知は動揺する。いやいや、その言葉はこの場面ではヤバいから。
『うわっ、過激!』
『こんな場所でやるのか!?』
『アキちゃんダメだ。君には清らかな体でいて欲しい!』
 ほら、みんな誤解してるじゃないか。
 だから空知は声を上げる。
「空知、退散します! 大切な、大切なこの人と一緒に!」
 そしてアキの手をとって駆け出した。
 アキも一緒に走りながら、満面の笑みを空知に向ける。
「アキ、博士は手強そうだぞ」
「大丈夫、今度は私も戦うから。空知くんと一緒なら決して負けない」
「ああ、俺も頑張る!」
 ぎゅっと握る彼女の手の温もりを感じながら、この笑顔を大切にするために良い大学に入って博士を見返してやろうと空知は誓う。勉強だってアキに教えてもらえばいい。
 空知が博士に認めてもらえる時――。
 それは北門が十数年ぶりに開く日になるんじゃないかと空知は希望を胸に抱くのであった。



 おわり





ライトノベル作法研究所 2017夏企画
テーマ:『ゲート』

永遠凝視者2017年07月03日 20時51分30秒

 サラリーマンが行き交う週明けの駅前に預言者が現れた。
 なんでも、遥か未来のことをピタリと言い当てるそうだ。
「七百兆日後の世界は……」
 なっ、七百兆日といえば、二兆年後じゃないか。
「月曜日です」
 人類が生きていればな。



500文字の心臓 第156回「永遠凝視者」投稿作品

カルナボール2017年05月17日 22時58分22秒

 ほら、よくあるだろ?
 似たような言葉って、言ってるうちにどっちが正しいのかわかんなくなっちゃうってこと。
 例えば、カルボナールとカルナボール。
 試しに交互に十回言ってみな。ほら、もうわからなくなった。
 えっ? どっちも間違ってるって?
「そんな細けぇこと、いちいち気にしてられねえんだよ!」
 俺は強引に飛び越える。登校時間が過ぎて閉ざされてしまった校門を。
 ――その時だった。
 不意に何かが俺に向かって飛んできたのは!

「何ィ!? 卵ォ???」

 直感。そんな感じだったんだ。
 校舎の屋上から投げつけられたと思われるそいつは、すごいスピードで俺に近づいている。が、幸い、その軌道は俺の体には到達しそうもない。すぐ手前の地面に落ちそうだ。
 なーんて楽観視してられるかよ。割れれば黄身がズボンに飛び散るし、なによりも食べ物を粗末にしちゃいけないと死んだ祖母ちゃんが言ってた。
「間に合うかッ!?」
 俺は卵に向かってダイブする。
 野球でセンターとかの外野手がよくやるだろ? グラブを前に投げ出すようにして球をキャッチするあの体勢だ。今の俺もそんな風に精一杯、体と手を前に伸ばしていた。
 重力の勢いを借りて加速してきた白いそいつは、俺の掌になんとか収まる。
 さてここからが本番だ。殻を割らずに勢いを抑えることができるか――その結果次第で、今日一日の運勢が決まってしまうような気がした。しかし――
「げッ、最悪」
 捕球、いや捕卵失敗。
 掌の中でぐしゃりと卵が潰れる感触がする。
 仕方がない。もともと割れやすい存在だ。せめて黄身が飛び散らないようにと俺が掌を閉じようとした瞬間、予期せぬ感覚が俺を襲った。
「なッ!? アチッ、アチチチチィッ!!!」
 掌の中で潰れた卵は、猛烈な熱を発し始めたのだ。
 俺は直ちに起き上がり、卵を地面に叩きつける。
「何だ、何だ? ゴホッ、ゴホッ……」
 地面でシュウシュウと黄色い煙を発し始める卵。煙の量はハンパなく、俺の視界は完全に失われた――

 〇

(なんだよ、あの卵……)
 先ほど起きた不思議な出来事を思い出しながら、俺は先生の後について廊下を歩いていた。
 転入初日、事もあろうに遅刻してしまった俺は、職員室に着くなり教室に向かうことになった。朝のホームルームはとっくに終了し、一時間目も半分くらい経過している。これは後で聞いた話だが、この日の一時間目は偶然にもクラス担任の授業で、俺が到着するまですっと職員室に待たせてしまっていたらしい。
(黄色い煙もわけわかんないし……)
 しきりに時計を気にする先生を横目に、俺は卵のことばかり考えていた。
 だって気になるだろ? 高熱を発したかと思うと、すべて煙になって消えちゃったんだから。信じられないことに、殻も黄身も後には何も残らなかったんだ。
(一体あれは何だったんだ?)
 不思議な卵。
 そんな表現が正しいのかどうかはわからないが、とにかく俺の頭の中はこの卵のことで一杯だった。
 普通、転入生だったら教室に向かう時って色んなことを考えちゃうと思う。「新しいクラスがいい奴ばかりだといいな」とか、「自己紹介で何言おうか?」とか、「ウケ狙いで滑ったらどうしよう?」とか。心臓だってバクバクもんだ。しかし今の俺は、そんな憂いとは無関係の精神状態だった。
 そんなわけで、自己紹介で教壇に上がった俺の挨拶も、名前と卵のことだけになっちゃったんだ。

「俺の名前は日辺理雄(にちべ りお)。校門のところで煙を出す不思議な卵が飛んで来たんだが、誰か教えてくれないか?」

 時が止まるというのは、こういうことを言うのだろう。
 クラスの連中が俺にどんな挨拶を期待していたのかなんてわからないが、予想外の内容だったことはすぐわかった。しかし一瞬で変化したクラスの雰囲気は、「期待はずれ」と呼べるものではなかった。
 ――驚き。
 そいつは、やっちまった的な要素をかなり含んでいた。俺は「何か悪いことをしてしまったのだろうか」と後ろめたい気持ちに囚われる。
 煙を出す卵なんて、変な事を言っちゃったから? 
 もしかしたら、煙を出す卵というのはこの学校のNGワードなのかもしれない。
 そもそも卵を投げた奴が悪いんじゃないか。俺は悪くない。祖母ちゃんの教えに従っただけだ。それにあれは卵じゃなかったし……。
 その時だった。
 ガリガリとドアを引っ掻く音がして、一匹の柴犬が教室に入ってきたのだ。
「あっ、小次郎だ!」
「小次郎が来たぞ、授業が始まるっていうのに……」
 クラスメートの言葉から察して、どうやらその柴犬は「小次郎」と言うらしい。
 茶色でクリクリとした瞳が可愛い小次郎は、教室に入るなりクンクンと辺りの臭いを嗅ぐ。そして俺にターゲットを絞ると一目散にやってきた。
「おー、よしよし!」
 なんだかわからないが、突然の可愛い訪問者に俺は思わず床に片膝をついて鞄を置いた。頭を撫でると、フサフサした毛が気持ちいい。
 しばらく気持ち良さそうに頭を撫でられていた小次郎だが、再びクンクンと鼻を鳴らすと俺の右手に興味を示す。そしていきなりペロペロと掌を舐め始めたのだ。
「あはははは、くすぐったい、くすぐったいよ……」
 背中が猛烈にムズムズする。手を引っ込めると、小次郎は俺の右手を追ってじゃれついてきた。
 たまらなくなった俺が小次郎を抱きしめたその時――
「あなたね、私の卵をキャッチした人は!」
 まるで犯人を見つけたかのような強い口調。
 顔を上げると、小次郎が入ってきたドアのところにキリッと鼻筋の通った一人の美しい女生徒が立っていた。

 教室がざわつく。
 女生徒の登場が原因かと思いきや、必ずしもそうではないらしい。「キャッチしたって本当かよ」という声が聞こえてくるので、彼女の言葉の真偽もざわめきの発生源なのだろう。
 まあ、俺の運動神経なら楽々キャッチだけどな。
 なんだか得意な気分になり、俺は小次郎を抱いたまま立ち上がる。
「ああ、俺だけど」
 女生徒の背の高さは俺と同じくらい。ということは、女子の中でも高い方になるんじゃないだろうか。
 先生もキャッチの事実に驚いたようで、厳しい口調でその女生徒を問い詰め始めた。
「その話は本当か? 月緒」
「申し訳ありませんが、本当です」
 マジかよと教室がさらにざわつく。
 月緒と呼ばれたその女生徒は、唇を結んで悔しそうに目を伏せた。
「月緒、お前は言ったよな、決して生徒の体には当てないと。先生達は皆その言葉を信じて、あの卵の使用を許可してるんだぞ。それを分かってるんだろうな」
「はい。生徒会を代表して、ペナルティーはきちんと受けたいと思います」
 どうやら俺は、美少女を謝らせるほど悪いことをしてしまったらしい。
「だから先生。今は直ちに彼を保健室に連れて行きたいんです。お願いします!」
 彼女は先生に向かって深々と頭を下げた。パサリと軽い音がして彼女のショートヘアが前に垂れる。ピンと伸ばした手先をスカートの横に添えるその姿を見た瞬間、不覚にも俺の心臓はドクッと脈打つ。俺が持ち合わせていないストレートな態度が新鮮だった。
「仕方がない。彼の健康が優先だ、早く連れて行け」
「ありがとうございます!」
 ハキハキとした声と共に礼を解いた彼女は俺の元に駆け寄り、小次郎を抱く俺の左腕を掴んだ。
「ほら、行くよ。保健室に」
 小次郎を抱いたまま、なんだかわけがわからず俺は教室を後にする。
 そういえば俺って、新しいクラスで自分の名前と卵のことしか喋ってねえぞ。
 ドア越しに見える呆気にとられたクラスメートの表情が妙に印象的だった。

 〇

「あれ? どうしたの? カルナちゃん、こんな時間に」
 保健室に着くと、白衣に身をまとった女性が俺達に声をかけてきた。きっと保健の先生だろう。にしてはスタイルはいいし、長い髪をカールさせてるし、明日からの登校がむちゃくちゃ楽しみになっちゃいそうな先生だった。
「先生、彼のことをすぐに診てほしいんです。実は、例の卵を彼に当てちゃって……」
 彼女は俺の手から小次郎を受け取ると、腰で押すようにして俺を先生の元へ突き出した。その大胆な行動に一瞬ドキリとしたが、もっと驚いたのは予想外の腰力の強さだった。これはか弱い女子の腰つきじゃない。
「卵が当たっちゃったことって、今までに一度も無かったじゃない。野球部のエースらしくないわね」
 野球部のエース?
 道理で腰力が強かったわけだ。
 俺は納得すると共に、頭の中に何かモヤモヤが生まれているのに気が付いた。
 野球部。そしてさっき彼女は、教室で「生徒会」って言ってた。
 生徒会で野球部――どこかで聞いたことがある……

『お前が転入する学校の噂を聞いたぞ。友人として忠告しておく。生徒会長には気をつけろ。女子硬式野球部のエースで、彼女に睨まれたらあの学校ではやっていけないらしい。彼女の二つ名は……』

「も、もしかして、鬼の生徒会長ォ!?」
「誰が鬼よ!」
 やべぇ、思わず口に出しちまった。本人の目の前で。
「私にはちゃんと名前があるの、月緒カルナ(つきお かるな)っていう。二度とその名で呼ばないで! そう言う君は? 見かけない顔だけど」
 飛び出た角がしゅるるると引っ込んで助かった。ここは忠誠を誓わねば。
「日辺理雄、二年生、本日付けの転入生であります、会長殿!」
 直立不動の俺に、会長は呆れたような眼差しを向ける。
「やめてよ、そんな呼び方。こそばゆい」
「はっ、会長殿!」
「だから……、もういいわ。とにかく先生、まず彼の目を診ていただけませんか? 卵の粉が目に入っていたら大変なんで」
 深くため息をつきながら、会長は先生の方を向いた。
「わかったわ。面白いわね、彼」
 俺たちのやりとりを見ていた先生は、クスクスと笑いながら椅子に腰掛ける。ん? 先生には好印象?
「じゃあ、私の前の椅子に座って」
 椅子に腰掛けた俺は、ペンライトで両目をジロジロと観察された。
 鬼の会長殿に睨まれるのは嫌だが、美人の先生に診られるのはすごくいい。
「異常は無いみたいね」
 先生は一通り俺の眼の検査をすると、ペンライトを机の上に置く。
「よかったぁ……」
 まるで自分の事のように安堵の溜め息を漏らす会長。
 鬼の目にも涙? いや、そんな表情をしても騙されないぞ。
「次は彼の右手を診ていただけませんか? 火傷をしてると大変なので」
「卵は右手に当たったの?」
 その言葉は俺のキャッチ魂に火を付けた。
「当たったんじゃねえ、キャッチしたんだ」
 そして先生の前に右の掌をかざしてアピールする。
「キャッチした!? カルナちゃんが投げた卵を? あなたが!?」
 どうしてどいつもこいつもそんな反応をするんだ?
 それほどまでに彼女の投げる卵はすごいのか!?
「ああ、ダイビングキャッチだ。食べ物は粗末にしちゃいけねえってのが祖母ちゃんの遺言でな」
「そ、そんな理由で?」
 俺の説明を聞いて先生はケラケラと笑い出す。なんだか祖母ちゃんが笑われたようでちょっと嫌な気持ちだけど、あれが本物の卵だったら先生だって分かってくれるはず。
「一体あの卵は何なんだ? キャッチしたと思ったら猛烈に熱くなるし、その後で煙モクモクだし……」
 俺はその時の様子を思い出しながら右の掌を見つめる。
「その時、君はどうしたの?」
「すぐに卵を地面に叩きつけてやったさ。すげぇ熱かったからな。だから火傷はしてねえ」
 先生は俺の掌に左手を添えると、マジマジと観察し始めた。そして右手で触診を始める。
「賢明な判断ね。痛いところはない?」
「ああ」
 本当は卵が当たったところがちょっとジンジンするんだけど内緒だ。あと、ダイブした時に擦りむいたところが痛い。
「大丈夫そうよ、カルナちゃん」
 そして先生は俺達に言った。
「卵のことは、カルナちゃんに聞いてみて。そしたら二人とも教室に行きなさい。小次郎は先生が預かっておくから」
 なんだか名残惜しいが、俺は再び会長に連れられて教室に戻ることになった。

「あの卵はね……」
 保健室を出ると、歩きながら会長が説明を始める。ついに卵の正体が明らかになると、俺は耳に意識を集中した。
「殻の主成分が生石灰なの」
「聖水結界?」
「せ・い・せっ・か・い!」
 聞いたこともない名前だ。
「酸化カルシウムのことよ。君……えっと、日辺君……だって習ったよね? 二年生なんだから、化学の時間に」
「いや、前の学校ではやらなかった。それと俺の呼び名は理雄でいい」
 化学はずっと寝てたからな。習ったかどうかも分からない。こんな時、転入生って便利。
「じゃあ教えてあげるわ、理雄君。この生石灰が厄介な物質で、肌に触れると炎症を起こすし、目に入ったら失明することだってあるの」
 マジか?
 ていうか、そんな危ないもん投げんなよ。
「何で会長は、人に向けてそんなもん投げてんだ?」
 どうやらこの言葉は地雷だったようだ。会長は顔を真っ赤にして反論する。
「決して人に向けてなんて投げてない! 確実に手前の地面に当ててきたの。だって私は野球部のエースなんだから」
 エースがどれだけ偉いのか分からないが、俺のキャッチが彼女のプライドを深く傷つけたことは明らかだった。
「それ、今朝までの話な」
「ぐっ……」
 会長は黙り込んでしまう。事実は言葉よりも重い。
 ちょっと可哀想になった俺は、質問を微妙に変えてみる。
「もう一回訊くけど、何でそんな危ないものが必要なんだよ?」
「それはね……」
 顔を上げた会長は、話の内容を整理しているような様子だった。
「煙を出すためよ。あの卵の殻には燻蒸剤が混ぜてあって、コーティングされた卵の内側には水が入ってるの。卵が割れると生石灰と水が激しく反応して高温になり煙が出る。ゴキブリ退治に使われるアレと同じ原理よ」
 へえ~、なんだかよく分からないけど、あの煙はゴキブリ退治のアレと同じということだけは分かった。
「理雄君、今朝は遅刻して校門を乗り越えたでしょ?」
 うーん、確か、考え事しながら何かの障害物を乗り越えたような気がする。転入生ってなんかハードル高けぇなって思ってたんだ。ていうか、全部見られてたのかよ。
「だからあの卵は警告。イエローカードよ」
 ええっ!? イエローカードだって??
 煙の色はそういう意味だったんだ……。
「あの煙には、犬の好きな匂いを混ぜてあるの。一度あの煙を浴びたら逃げられないのよ、小次郎の鼻からはね」
 そうか、だから会長が教室に現れる前に小次郎がやって来たのか。会長の出現にクラスがあまり驚かなかったのは、そういうことだったんだ。
「それなのに、わざわざキャッチする生徒が現れるとはね。思い出しても悔しいわ」
 ギリリと拳を握りしめる会長。そして次第にキレ始めた。
「今まで私、絶対に人には当てなかったのに……。どうしてくれんのよ、理雄君のせいよ、始末書出さなきゃいけないじゃない! お祖母ちゃんの遺言が何よ。キャッチなんて、キャッチなんて、余計なことしてくれちゃって……」
 うひぁ、また鬼が現れた! 殴られそうな恐怖を感じて、俺は思わず身構える。
 しかしそこで彼女の様子が一変する。「キャッチ?」と呟いた後、ぱあっと表情が明るくなったのだ。
 それまでの鬼の形相が嘘のよう。理由はさっぱり分からないが、やっぱり女の子は笑顔がいい。
「ねえ、理雄君。今日の放課後空いてる?」
「あ、ああ……」
 瞳をキラキラと輝かせる会長。絶対、裏に何かあると思いつつも、その豹変ぶりに見とれた俺は迂闊にも生返事をしてしまった。
「じゃあ六時に狛犬公園集合ね。絶対来てよ。来なかったらひどい目に遭わすからね」
 捨て台詞を残して彼女は去って行く。
 教室の前に残された俺は唖然としながら、嬉しそうにチェックのスカートを揺らす会長の後ろ姿を眺めていた。
 これってデートの誘い……じゃないよね?

 〇

 教室に戻った俺はヒーローだった。
「すげぇな、あれをキャッチするなんて!」
「カルナが先生に怒られるとこ、初めて見た」
「いやぁ、しゅんとするカルナを見てすうっとしたよ!」
「ざまあ見ろだな、いつも生徒を苛めてるバチが当たったんだ」
 どうやら鬼の生徒会長殿は噂通り嫌われ者らしい。
 ちょうど二時間目が終わったばかりの教室では、俺は桃太郎の称号を得たかのように歓迎された。
 教室に置き忘れていた鞄は、窓際の後方の席に置いてある。どうやらその場所が俺の席らしい。やっとのことで解放された俺は、深いため息と一緒にどっと席に着く。
 すると前の席に座る銀縁メガネの男子生徒が振り返る。
「どんな感じだった? カルナボール。あっ、俺、土佐続樹(とさ つづき)、よろしくな」
 面長で色白。なんだか賢そう。
「カルナボール?」
 カルボナールの間違いじゃないのか? と思ったが、カルボナールでも話は見えてこない。
「お前がキャッチした卵の事だよ。カルナが投げるからカルナボール。皆そう呼んでるぜ」
 へぇ、カルナボールね。そっちの方が覚えやすいかも。
「アレには皆、痛い目に遭ってんだよ。二回食らうと停学だろ?」
 二回……って?
 あっ、そうか、イエローだから二回でレッドか。しかしたった二回で停学ってのも厳しいな。
「屋上から飛んで来るんで、たち悪いし。気付いたらすでに煙の中だし」
 やっぱり卵は屋上から飛んで来たんだ。じゃあ、あの時屋上に会長がいたってこと?
「そしたら小次郎やって来るし、小次郎来たらアウトだし。無邪気にあの犬を撫でられるのも今のうちだぜ」
 ということは、もう一回小次郎が俺のところに来たら停学ってこと?
 そりゃ、ないぜ。俺は転入生で知らなかったんだから。
「ところで、カルナボールをどうやってキャッチしたんだ?」
 続樹は目を輝かせながら訊いてくる。
「どうやってって、ただダイブしただけだけど」
「ダイブって、そりゃ相当な反射神経だぜ。すごいな」
 男子生徒に言われると、本当にすごいような気がする。照れるじゃないか。
「それでどんな感じだった?」
「どんな感じって?」
「カルナボールだよ。あれって中に何が入ってるんだ? まさか、本物の卵ってことはないだろ?」
 あれれ? 何が入ってるんだったけ?
 うーん、教室に来る前に委員長から説明を聞いたような……。
 俺は必死に思い出す。
「なんか、お節介にひや水で激アツって感じ? みたいな。いや、バルサーノだったかも」
 すると続樹は苦笑しながら顎に手を当てて、何かを考え始めた。「やっぱ節介と水の反応か」とか「カーバイトで試してみるか」とか呟いている。上手く伝わったみたいでなんだか嬉しい。ていうかこいつ、カーショップでバイトしてんのか?
「まあ、今回の件でカルナボールの弱点が明らかになったしな。人に当てられないってのは盲点だった。すげぇお手柄だよ」
「いやぁ、それほどでも」
 そのせいで放課後、会長から呼び出しを食らってるんだけど。
「カルナに酷い目に遭わされた連中は皆、一泡吹かせてやりたいと思ってんだよ。俺を含めてな」
「でも、なんでそんな危険な卵の使用を学校側は許してんだ?」
「そりゃ、カルナがこの学校の英雄だからだよ。春の選抜で準優勝できたのも、カルナのおかげだしな」
 へえ、会長のピッチングってそんなにすごいんだ。
 まあ屋上から正確に卵が投げられるんだから、選抜準優勝は当然なのかもしれない。
 まさか放課後になってそのピッチングを目の当たりにすることになるとは、この時は思いもしていなかった……。

 〇

「狛犬公園、狛犬公園っと……」
 俺はスマホの地図を見ながら、会長との待ち合わせ場所に向かって走る。幸い、公園は学校から数百メートルの位置にあった。
「遅いッ! 三分遅刻!!」
 制服姿の会長が、公園の入り口で仁王立ちしていた。
 いやいや、たったの三分だろ?
「これが学校だったらイエローカードだからねっ!」
 おいおい、てことはたったの三分が二回で停学かよ。
 そんなの暴動が起きちまうぜ。てか、すでに起きそうな雰囲気だったよ、続樹の話では。
「とっとと始めるよ! 暗くならないうちに」
 今は五月の半ばだ。あと一時間は明るいと思うけど……。
 ていうか、何を始めるんだよ?
 大きな荷物を背負った会長は、小さな林を抜け芝生の広場まで移動すると、ブツブツと何かを呟きながら歩測で距離を測り始める。
「十八・四四メートル、十八・四四メートル……」
 そして荷物の中からホームベースを取り出した。
 それって……、ま、まさか、ピッチング練習?
 予感は的中。会長は荷物の中からキャッチャーミットを取り出すと、俺に向かって投げる。
「それ使って。マスクとプロテクターは無いけど、理雄君の抜群の運動神経なら必要ないよね」
「お、おう」
 分かってるじゃねえか、俺のこと。
 と強がっていられるのは最初だけだった。肩慣らしのキャッチボールで会長が投げてきたボールは、やけに硬かった。
「ちょ、ちょっと、これ硬球じゃねえか!?」
「当たり前じゃない、硬式野球部なんだから。なに? 卵は捕れても硬球は捕れないって言うの?」
「くっ……」
 まんまとはめられた。今さらできないなんて言えねぇ。
「それで? 俺は会長の球を受けるだけでいいのか?」
 キャッチボールをしながら俺達は会話を続ける。
 実際にボールのやり取りをしてみて実感したが、会長はコントロールがかなりいい。綺麗なオーバースローから繰り出されるボールは、構えたミットめがけて確実に飛んで来る。それに球威だって女子のものとは思えない。屋上から正確に卵を投げられるというのも納得してしまう。
「そうよ。高速シンカーの練習がしたいの」
 校則進化?
 おいおい、こんなところで学校の規則を変えようってのか? 
「そんなの学校でやればいいだろ?」
「無理よ、誰もできないもの」
 ほお、この学校は生徒会長が全権を握ってるのか。
 あの卵の使用が特別に許可されたように、もしかして会長は自由に校則を変えられるとか? 上手く会長に取り入れば、俺の希望も校則に反映されちゃったりして。
「俺も参加させてもらえるのか?」
「そうよ。だから今、こうしてキャッチボールをしてるじゃない」
 やった! 転入初日からツイている。
 さて、どんな風に校則を変えてもらおうかな。まずはやっぱり遅刻の廃止だよな。
 そんなことを考えていると、会長は右手にボールを持ってグルグルと肩を回し始める。
「さあ、肩が温まってきたから本番行くよ。まずはストレート。キャッチャー位置で構えて」
 なんだよ、校則改正するんじゃないのかよ……。
 俺は渋々ホームベースの後ろにしゃがみこむ。
 まあ、とりあえずは、お手並み拝見と行きますか。校則改正はそれからでも遅くない。
 俺がミットを構えると、会長は木の根っこを上手く利用したマウンドの上にすっと立つ。お腹の位置に置いた左手のグローブの中にボールと右手を入れ、深く呼吸を整えた。そしてゆっくりと左足を上げる。
(おっ、おおおっ!)
 紺色のソックスに包まれたキュッと引き締まるふくらはぎ。制服のスカートからは、次第に見事な太ももが露わになっていく。
(も、もうちょっとでパンツが見えちまうぞ……)
 大丈夫穿いてますよ的な高さまで太ももが上がったかと思うと、上半身を前に傾け、テイクバックした右手を高々と宙に突き出す。
(えっ、そのフォームって……)
 上げた太ももを前方に繰り出し、地面に踏み込んだ力が腰の回転を経由して右腕に伝わっていく。その刹那、右手がしなやかな鞭のように唸った。
(まさかのアンダースローォオ!?)
 不意を突かれた俺は、彼女の美しフォームに見とれながらも、これから高速で襲い来るであろう白い存在にゴクリと唾を飲む。
 地面ギリギリの高さから放たれたボールは、公園の草や花を揺らしながら俺に向かって飛んできた。そしてパンと甲高い音と共に、俺はミットでキャッチする。
 いや、ボールからミットに飛び込んで来たと言った方がいい。スピードが速すぎて俺は何も反応できなかったのだ。時速で言えば百キロは出ていたんじゃないだろうか。
「ちょ、ちょっと! 俺を殺す気か!??」
 会長はフンと鼻で笑う。
「何? 私の球が速すぎてビビっちゃった?」
「そ、そんなこと……」
 ゴメンナサイ、ビビりました。
「今のは序の口、次は本番の変化球よ。変なとこ見てるとマジで死ぬからね」
 げっ、太もも見てたのバレバレかよ。
 ていうか変化球なんて来たら冗談抜きで死んでしまう。
「ちょ、ちょ、ちょっとタンマ!! どんな変化球なのか教えろよ。どういう風に変化するのかをよっ!」
「だからさっき言ったじゃない。高速シンカーだって」
 へっ? あれって校則進化じゃなかったのか?
「まあ、聞きなれない用語だったかもしれないから具体的に説明してあげるわ。さっきのストレートとほぼ同じスピードでクッと落ちるからね。じゃあ行くよ」
 そう言いながら会長は左足をゆっくり上げていく。
(えっ、説明それだけ? それだけで捕れっていうの?)
 今度は太ももに見とれてる場合じゃない。キャッチできなくてもミットで体を守らないと、大変なことになってしまう。当たりどころが悪ければ、俺の人生設計がパーだ。
(集中! 集中!)
 会長の右手から繰り出されるボール。なんだかさっきよりも回転していないと思った瞬間、すっとボールが落ちる。俺はかろうじて反応し、パンという音と共にキャッチすることができた。
「凄いじゃない。あの球を捕ることができたのは理緒君が初めてよ。さすがキャッチの天才ね」
 いやぁ、照れるじゃないか……。ていうか、間一髪で生を勝ち取ったという感じだ。額に変な汗が流れてきた。
 でも、「俺が初めて」ってどういうことだ?
 会長にボールを投げ返しながら、俺は疑問をぶつけてみる。
「初めてってどういうことだよ? バッテリーを組むキャッチャーは捕れないのか?」
 すると会長はさらりと言う。
「そうよ。残念ながら女子では捕れる人が誰もいないの。うちの高校、男子野球部は無いしね」
 確かにあの球は女子では難しいかもしれない。
「だったら試合で使えねえじゃねえか。誰も捕れなかったらさ」
「大丈夫よ。秘策があるから」
 秘策? まさかダイリーグボールなんちゃらじゃあるまい?
「あの球はね、ここぞという時にど真ん中に投げるの。そしたらバッターは必ず振ってくれる。そんでもって確実にバットの下に当てるのよ。打球は凡ゴロ、キャッチャーも直接捕らなくていい。一石二鳥の作戦よ」
 んな、アホな。
 でも本当にそんなことができたら勝利にぐっと近づくのは確実だ。
「魔球だな」
「そう、私のウイニングショット。でも一つだけ欠点がある。誰も捕れないから普段の練習ができないの。ちゃんと練習できてたら春の選抜だって優勝できたのに……」
 ええっ? それって……。
 これからもこの練習が続くってこと?
「壁に向かって投げてればいいだろ?」
「いつもやってるわよ。でもね、それじゃダメなの。どれくらい落ちたとか、もう少しスピードがあった方がいいとかそんな情報は得られないの。キャッチャーからのフィードバックがあって、初めて練習になるのよ」
 いやいや、そんな回りくどい理屈じゃなくて、ひとこと「俺が必要」って言ってくれれば手伝ってやらないこともないがな。
「この公園の硬球使用者名簿に理雄君を登録するの、大変だったんだから。特別理由が必要で……」
 おいおい、事後承諾かよ。てか、何て書いたんだ!?
「大事なことだからもう一回言うよ。普段から練習できてたら夏はきっと優勝できると思うんだけどな……。私にとって最後の夏なんだけどな……」
 ずるいよ、そのおねだりは。断る方が鬼みたいじゃねえか。
 太ももが見たいからだけじゃないぞ。
 素直に物が言えない会長の態度が意地らしくなって、俺は柄にもなく放課後の公園で彼女の夢の手助けをすることになった。


 翌日、俺は続樹から、春の選抜の決勝戦の様子を聞いた。
 試合が決まったのは、二対一でリードして迎えた最終回、七回裏のことだったという。
 二アウト満塁フルカウント。一打サヨナラのピンチで、会長が投げたのはあの高速シンカーだった。
 ど真ん中に来たボールをバッターが振る。「凡ゴロでゲームセット」というシナリオだったがわずかに狂いが生じた。ボールが考えていたよりも落ちてしまったのだ。
 結果、バッターは空振り、しかしキャッチャーが取れずにパスボール。振り逃げとなって、三塁ランナーそしてスタートを切っていた二塁ランナーも還ってサヨナラ負け、という結末だったらしい。

『ちゃんと練習できてたら春の選抜だって優勝できたのに……』

 あと一歩のところでスルリと掌からこぼれてしまった優勝。さぞかし悔しかったに違いない。
 でも、だからこそ、キャッチャーがちゃんと捕れるように特訓した方がいいんじゃないのか? その方が優勝へ確実に近づくと思うんだが。
 まあ、それまでは俺も手伝ってやるけど。
 窓際の席から狛犬公園の方角をぼんやり眺めながら、俺はそんなことを考えていた。

 〇

 新しい高校に転入してから一ヶ月が経った。
 放課後の秘密の特訓を続けるうちに、会長のピッチングはかなり気分に左右されることが分かってきた。
 良いことがあった日はシンカーが綺麗に落ちてくれるけど、嫌なことがあった日はコントロール自体が全く定まらない。そんな日は、かなりキャッチャー泣かせの練習になってしまう。
(こりゃ、もう、誰も捕れないぜ)
 俺でさえもミットに当てて地面に落とすのが精一杯の時もあった。
 俺は自分の考えを改めざるを得なくなる。正キャッチャーが捕れるようになる方が早道という考えを。
 きっと部活では、キャッチャーが捕れるように手加減しているのだろう。要するに彼女は、ありのままの彼女を受け止めてくれる存在を欲していたのだ。
 後で話を聞くと、ピッチングが荒れる時は大抵カルナボールを投げた日だったりする。
(会長だって、好きであの卵を投げてるわけじゃないんだな……)
 鬼と言われ、会長だからと責任を押し付けられ、誰にも文句を言えず、俺とのピッチングで憂さをはらす。
 ミットを構える俺には、会長の心情がビシビシと伝わって来た。
 たまには助けてって声を出すことも必要だぜ。学校の嫌われ者を一人で背負うことはないじゃないか。
 だからいつの間にか、俺もカルナボールの仕事を手伝うようになっていた。


 そんなある日、事件は起きた。
 校門周辺を見回りしていた俺たち目がけて、一個の卵が投げ込まれたのだ。
「危ない、会長! ぐげっ」
 反射的にダイブしようとした俺の襟首を、すんでのところで会長が掴む。
「理雄君ってバカ? お祖母ちゃんの遺言か何か知らないけど、学習って言葉を知らないの?」
 会長の判断が正しかった。
 地面に落ちてつぶれたその卵は、ポンと軽い音をたてて爆発したのだ。生温かい突風が俺のズボンを揺らす。
「きゃっ!?」
 会長が恥ずかしそうな声を上げたかと思うと、襟首から手が離される。と同時に、犯人と思われる声が周囲に響いた。
「ほお、水色の水玉模様か……。鬼らしくトラ柄かと思ってたんだけどな」
 会長の身に何が起きたのかと見ると、爆風でスカートがめくれ上がれ、それを必死に押さえているところだった。
(うわっ、見たいけど、近すぎて見られない……)
 おのれ犯人、うらやまし過ぎると声がした方を睨むと、そいつはサングラスにマスク姿で二つ目の卵を投げようとしている。
 会長も即座にカルナボールを投げて応戦した。
「むはははははは! 無駄だ、無駄だよ。体に当てられない卵なんてちっとも怖くない」
 モクモクと立ち上がる黄色い煙の中から犯人の声が聞こえてくる。でも、この声ってどこかで聞いたことがあるような……。
「それにな、いくらイエローカードを食らったって、小次郎が来る前に家に帰って匂いを落とせばセーフなんだよ」
 思い出した、その声は続樹!
「おーい、続樹! 何やってんだよ」
 俺は試しに呼んでみる。すると犯人は律儀に答えてくれた。
「よぉ、理雄。生徒会の犬に成り下がっちまったお前にはわからないだろう、新しい武器(おもちゃ)を手に入れたサイエンティストの気持ちが」
 あいつ、菜園主義者だったのか……。
 ていうか、やっぱり犯人は続樹じゃねえか。俺は会長と顔を見合わせた。
「土佐続樹か。この狼藉、許すまじッ!!!」
 怒ってる、怒ってるぞ鬼の生徒会長殿が!
 その迫力に続樹はうろたえ始めた。
「しょ、しょ、正体がバレたって、俺にはこの映像がある!」
 サングラスの柄の部分に取り付けられたアクションカムを指差しながら、続樹は二つ目の卵を投げた。会長も負けじとカルナボールを投げ返す。
 続樹の爆風卵とカルナボールの煙幕。残念ながら、会長のスカートが舞い上がる方がちょっとだけ早い。
「無駄だ、無駄だ! お前の水玉模様はしっかりと撮らせてもらったぞ。ネットに上げてもらいたくなかったら俺の言うことを聞くんだな!!」
 すると会長が俺に命令する。
「ちょっと何してんのよ! パンツが見られないように私の足元にも卵を投げなさいよ。気が利かないわね」
 そんなこと言ったってしょうがないじゃないか。俺だってパンツ見たいんだから。
「ははははははは、俺の爆風卵はすごいだろ!? カーバイドがこんなにも上手く反応するとはね。カルナボールの構造を参考にさせてもらったよ」
 続樹の言葉に、会長は「ちっ」っと舌打ちしながら呟く。
「アセチレンか……」
 その言葉に戦慄する。
 汗血練……だと!?
 汗と血の滲む練習を、続樹も繰り返してきたというのか。カーショップのバイトで。
 そうこうしているうちに三つ目の卵が飛んできた。俺は少し距離を取って、言われたように会長の足元にカルナボールを投げる。ところが――
「理雄君ってバカァ!? あいつの卵よりも先に煙幕作ってどうすんのよッ!!」
 俺が投げたカルナボールの煙は、続樹の爆風卵でスカートもろとも巻き上げられてしまったのだ。
 でもそのおかげで会長のパンツが見えた。確かに水色の水玉模様のようだった。
「あはははははは、仲間割れか!? 黄色い煙幕が爆風で晴れてパンツが出現なんて、ハリウッド級の映像が撮れたじゃないか!」
 いやいや、それじゃB級映画だぞ。
「あ、あいつ、許さないッ!!!」
 続樹の足元にカルナボールを投げつける会長。怒りに身を任せたこんな時でも、人体に向かって投げないところは尊敬に値する。
 俺は、今度こそちゃんとパンツを隠そうと、カルナボールを握りしめた。
「もうちょっと水玉模様を拝ませていただこうか!」
 四つ目の爆風卵。
 俺はタイミングを計り、爆風の直後にカルナボールを会長の足元に投げつける。
「バカバカバカ!!! 理雄君側に卵を投げてどうすんのよ。犯人から隠すように投げなきゃダメじゃないッ!!!」
「そしたら俺からはパンツが丸見えだが」
「いいわよ、理雄君なら……」
 顔を真っ赤にしながら俺を振り向く会長。その仕草は、すぐに駆け寄って抱きしめてあげたくなるくらい可愛かった。
 そして五つ目の卵が飛んで来る。俺は続樹から会長のパンツを隠すことに成功。そして、すぐ目の前でスローモーションのようにスカートがめくれ上がっていった。なんという役得!
「おおおおおっ! こ、この柄は……」
 そこには衝撃の事実がっ!?
「水玉模様じゃ……ない!???」
「な、なんだって!?」
 しまった! 俺の言葉は続樹の盗撮魂に火を点けてしまったようだ。会長も俺を振り返り、「バカぁ」と顔をゆでダコにしている。
 刹那、続樹は鬼気迫る勢いで俺達に迫って来た。力づくでスカートをめくり上げてパンツを撮影しようというのだろうか。続樹よ、そんなことをしたらもう盗撮とは呼べないぞ!
「逃げるよ、理雄君!」
「ああ」
 俺達は校外に向かって校門を駆け抜けた。

 会長が逃げ込んだのは、いつもの狛犬公園だった。
 木々の間を抜けながらカルナボールを地面に投げつける。煙幕で進路が見えなくなって、続樹もスピードを落とさざるを得なくなった。
 苦し紛れに爆風卵を投げる続樹。会長はカルナボールで応戦する。まるで卵戦争勃発だ。
「いつまでこれを続けるんですか?」 
 たまらず俺が訊くと、会長はニヤリと笑う。
「そろそろ終わるわ。ほら、援軍がやって来た」
 なんだって? 生徒会にそんな頼りになるヤツがいたっけ? と思いながら続樹を振り返ると、彼の周りに何かが集まって来ているのが見えた。
「犬……ですか?」
「そうよ。卵を執拗に投げていたのは、匂いで公園の犬を彼の元に引き寄せるためだったの」
 続樹は十匹くらいの犬に囲まれ、じゃれつく犬達にズボンの裾をペロペロと舐められ始めた。さすがの彼もその状態では身動きが取れなくなる。
「さて、仕上げと行くわよ」
 会長はカルナボールが入ったトートバックを地面に置き、卵を一つ握りしめる。そしてまるでマウンドに立ったかのように、すうっと呼吸を整えた。
 狙うは続樹の足元。ゆっくりと上がる左の太もも。上半身を前に傾けると、テイクバックした右手が宙に高々と上がる。
(ええっ!? そのモーションって……)
 俺の懸念は的中。会長は美しいアンダースローで、続樹に向けて卵を繰り出した。
(ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれよ。その投げ方じゃ卵が続樹の体に当たっちまうじゃねえかよ!!???)
 地面スレスレの位置から放たれた卵は、公園の木々の間を抜け、犬達の間を抜け、続樹の股間に命中する。
「うっッッ……」
 呻り声を一つあげた続樹は、ドサリと林の中に倒れ込む。周囲の犬は、ここぞとばかり彼の股間を舐め始めた。
 その光景を、ニヤリと笑いながら見つめる会長。その姿に俺は、沸々と怒りが込み上げて来た。
「何やってんだよォ、会長! あれ程、あの卵は体に当てないって言っておきながらッ!!」
 俺は初めて会長に会った日のことを思い出していた。屋上から投げられたカルナボールをダイビングキャッチした俺のことを、彼女は心から心配してくれていた。
 たしかに続樹の行為は許されるものではない。しかし彼を成敗するために日頃からの信念を曲げてしまうのであれば、俺はこれから何を信じたらいいのだろう。そう思った瞬間、どうしようもなく目頭が熱くなった。
「会長の事、心から信じてたんだよ。人に何を言われようとも、悪者扱いされようとも、信念を曲げない会長の事を。そんな会長のことが好きだった! だから放課後の特訓にもついて来たんだッ!!」
 今思えば、俺にだって思いをぶちまける存在が必要だったんだと思う。会長だけが感情をため込んでいるという認識は俺の思い上がりだった。
「それを何だよッ!? 悪者だからカルナボールを体に当ててもいいってか!? 会長がやったことは続樹と変わんねぇじゃねえか! 全く幻滅だよッ!!」
 いつの間にか、俺の目には涙が溢れていた。
 その姿を見て会長が呟く。
「ありがとう理雄君。うん、ありがとう……」
 そして真っ直ぐ俺の目を見て真実を打ち明ける。
「大丈夫、私は決して信念を曲げないから。だってさっき投げたのは、本物の卵だもん」
 えっ!? 本物だって??
 俺は倒れたままの続樹を見る。もしあれがカルナボールだったら、彼は煙に包まれて見えないはずだ。
「それに特訓の成果もちゃんと出たみたいだし」
 会長はニコリと笑う。まるで女神のように。
 言われてみれば、確かにバットの下に当たってる。ていうか、本物の卵の方が行為としてはひどいんじゃないの。祖母ちゃんの遺言にも反するし。
「ほら、ぐずぐずしないで彼のアクションカムを回収して、ペロペロされてる恥ずかしい写真を撮ってくるのよっ!」
 なんだよ、涙を流して損した。全く人使いが荒いんだから……。
 ブツブツ文句を言いながら俺が続樹に向かって駆け出した瞬間、背後で「きゃっ!」っと可愛らしい声が響く。振り返ると、いつの間にか集まって来た犬達が、会長のスカートの中に頭を突っ込んでパンツをペロペロと舐めていた。水色の卵柄のパンツを。
 まあ、当然の結果だろう。さっきは散々、パンツを隠そうとカルナボールを投げ込んだんだからな。
 とりあえず俺は訊いてみる。
「会長、俺はどうすればいいんだ?」
「そんなことくらい自分で考えなさいよっ!!!」
 だから俺は、迷わず会長の手を取って二人で公園を後にしたんだ。
 えっ? 生徒会的には続樹のカメラを回収した方が良かったんじゃないかって?
 俺は後悔していない。だってあの時、カルナは俺の手をぎゅっと握り返してくれたんだから。


 了




ライトノベル作法研究所 2017GW企画
テーマ:『不思議な卵』