Fの魔法、正の代償 ― 2015年12月26日 10時10分27秒
「Fって何だ……?」
雄介は授業中、ずっと考えていた。
京香が古文の教科書に書いていた記号の意味を。
フール? ファール? まさか腑抜けのF?
一つ前の時間は古文だった。
『け、け、ける、ける、けれ、けよ……』
五月の陽気に、古文の呪文がすうっと溶けていく。
涅槃の境地に達したところで、俗世から自分を呼ぶ声が……。
はっと目を開けると、恐い顔をした先生が机の前に立っていた。
立たされながら教室の失笑を見回すと、一人だけ教科書を見ている奴がいる。
こんな時でも勉強かよ。優等生は違うぜ……。
しかしそれは勘違いだった。
京香は教科書に何かを書き込むと、ニヤリとこちらを見た。
京香の席は、俺の二つ隣の窓際だ。
成績優秀、容姿は……まあまあかな。
だから今まで気に留めていなかったが、あれ以来意識してしまう。
確かあれは『F』見えた。
また何か書かれるんじゃないかと思うと、つい彼女を見てしまう。
窓からの風を受けてサラサラとそよぐ長い髪。
セーラー服のリボン辺りのなだらかな膨らみ。
今が盛りと芽吹く若葉よりも、授業に集中する瞳が美しい。
『古文の教科書に書いてたFって何だよ?』
以前なら何でもなかった質問が、俺の口を重くする。
「な~に~? あんた京香に気があんの?」
ホームルームが終わると留美が後ろの席から小突いてきた。中学校からの腐れ縁だ。
「べ、別に……」
「そう、ならいいんだけど。ちょっと気になることを聞いたから」
「何だよ。教えろよ」
「これって私から聞いたこと秘密だよ? あの子達のグループって、あんたで賭けしてんのよ」
「えっ?」
「古文の時間ね、あんたが何回居眠りするかって賭けてんの」
じゃあ、『F』って何だ……?
「京香の観察によるとね、あんたの古文の居眠りはいつも三回だって話だよ」
三回、三回……。
そっか、あれは『F』ではなくて『正』の字の途中だったのか……。
明日の五時間目は古文だ。
襲い来る睡魔とそれを狩る小悪魔。
全滅してしまいそうな睡魔を応援したくなるのは、魔法にかかった自分を認めたくないからだろう。
◇
「五回?」
雄介は授業中ずっと考えていた。
京香が数学の教科書に書いていた回数を。
俺は五回も居眠りしてないぞ!?
一つ前の時間は数学だった。
『サイン、コサイン、タンジェント……』
三角関数の呪文が心の中をごちゃごちゃにかき乱す。
京香に話しかけてみたい。でも『F』の一件が心にバリアを張り巡らせて、行動に移せない。
だからわざと寝たふりをして、彼女の気を引こうとした。
先生に立たされながらチラリと京香を見ると、彼女は教科書に『正』の字を完成させていた。
「おい、京香達のグループ、今度は何の賭けしてる?」
ホームルームが終わると後の席の留美に訊ねる。
「知らないわよ、そんなこと」
なぜかふて腐れる留美。
そのアンテナには、まだ何も捉えられていないようだ。
一ヶ月前、俺の居眠り回数の賭けを教えてくれたのは彼女だった。
「京香のやつ、数学の教科書に『正』って書いてたんだぜ。まだ居眠りは二回だったのに」
「正の字を使って計算してたんじゃないの?」
「高校生がそんなことするかよ。真面目に答えろよ」
「そんなに気になるなら自分で聞けばいいじゃない」
「ゴメン謝る。なあ、頼みがあるんだけど……」
「なによ」
「数学の時間、俺が何を五回やってるか見ててほしいんだ」
嫌がる留美をパフェを驕ることでなんとか説き伏せた。
一週間後の調査結果。
「そうね、居眠りが平均二回、肩のフケが三個、ペンで耳かっぽじるのが四回」
「お前、何見てんだよ」
「細かく調査しろって言ったの、あんたじゃない」
やさぐれる留美を横目に考える。
やはり居眠りではなかったんだ。では五回とは?
「一つだけ……」
「えっ?」
「一つだけあったよ、五回……」
「本当か、それは?」
「あんたが京香を見てた回数」
留美は俺から目をそらして京香の机の方を向いた。
主の居ない放課後の窓際の席は、キラキラと梅雨間の夕日を反射させていた。
ん? でも、待てよ。
俺が京香を見た回数だって?
そんなこと京香が数えているはずないじゃないか。
だってそうなら目が合うだろ?
「なあ……」
振り返るといつも微笑んでくれた留美の姿は、もうどこにも無かった。
共幻文庫 短編小説コンテスト 第10回「秘密」投稿作品
雄介は授業中、ずっと考えていた。
京香が古文の教科書に書いていた記号の意味を。
フール? ファール? まさか腑抜けのF?
一つ前の時間は古文だった。
『け、け、ける、ける、けれ、けよ……』
五月の陽気に、古文の呪文がすうっと溶けていく。
涅槃の境地に達したところで、俗世から自分を呼ぶ声が……。
はっと目を開けると、恐い顔をした先生が机の前に立っていた。
立たされながら教室の失笑を見回すと、一人だけ教科書を見ている奴がいる。
こんな時でも勉強かよ。優等生は違うぜ……。
しかしそれは勘違いだった。
京香は教科書に何かを書き込むと、ニヤリとこちらを見た。
京香の席は、俺の二つ隣の窓際だ。
成績優秀、容姿は……まあまあかな。
だから今まで気に留めていなかったが、あれ以来意識してしまう。
確かあれは『F』見えた。
また何か書かれるんじゃないかと思うと、つい彼女を見てしまう。
窓からの風を受けてサラサラとそよぐ長い髪。
セーラー服のリボン辺りのなだらかな膨らみ。
今が盛りと芽吹く若葉よりも、授業に集中する瞳が美しい。
『古文の教科書に書いてたFって何だよ?』
以前なら何でもなかった質問が、俺の口を重くする。
「な~に~? あんた京香に気があんの?」
ホームルームが終わると留美が後ろの席から小突いてきた。中学校からの腐れ縁だ。
「べ、別に……」
「そう、ならいいんだけど。ちょっと気になることを聞いたから」
「何だよ。教えろよ」
「これって私から聞いたこと秘密だよ? あの子達のグループって、あんたで賭けしてんのよ」
「えっ?」
「古文の時間ね、あんたが何回居眠りするかって賭けてんの」
じゃあ、『F』って何だ……?
「京香の観察によるとね、あんたの古文の居眠りはいつも三回だって話だよ」
三回、三回……。
そっか、あれは『F』ではなくて『正』の字の途中だったのか……。
明日の五時間目は古文だ。
襲い来る睡魔とそれを狩る小悪魔。
全滅してしまいそうな睡魔を応援したくなるのは、魔法にかかった自分を認めたくないからだろう。
◇
「五回?」
雄介は授業中ずっと考えていた。
京香が数学の教科書に書いていた回数を。
俺は五回も居眠りしてないぞ!?
一つ前の時間は数学だった。
『サイン、コサイン、タンジェント……』
三角関数の呪文が心の中をごちゃごちゃにかき乱す。
京香に話しかけてみたい。でも『F』の一件が心にバリアを張り巡らせて、行動に移せない。
だからわざと寝たふりをして、彼女の気を引こうとした。
先生に立たされながらチラリと京香を見ると、彼女は教科書に『正』の字を完成させていた。
「おい、京香達のグループ、今度は何の賭けしてる?」
ホームルームが終わると後の席の留美に訊ねる。
「知らないわよ、そんなこと」
なぜかふて腐れる留美。
そのアンテナには、まだ何も捉えられていないようだ。
一ヶ月前、俺の居眠り回数の賭けを教えてくれたのは彼女だった。
「京香のやつ、数学の教科書に『正』って書いてたんだぜ。まだ居眠りは二回だったのに」
「正の字を使って計算してたんじゃないの?」
「高校生がそんなことするかよ。真面目に答えろよ」
「そんなに気になるなら自分で聞けばいいじゃない」
「ゴメン謝る。なあ、頼みがあるんだけど……」
「なによ」
「数学の時間、俺が何を五回やってるか見ててほしいんだ」
嫌がる留美をパフェを驕ることでなんとか説き伏せた。
一週間後の調査結果。
「そうね、居眠りが平均二回、肩のフケが三個、ペンで耳かっぽじるのが四回」
「お前、何見てんだよ」
「細かく調査しろって言ったの、あんたじゃない」
やさぐれる留美を横目に考える。
やはり居眠りではなかったんだ。では五回とは?
「一つだけ……」
「えっ?」
「一つだけあったよ、五回……」
「本当か、それは?」
「あんたが京香を見てた回数」
留美は俺から目をそらして京香の机の方を向いた。
主の居ない放課後の窓際の席は、キラキラと梅雨間の夕日を反射させていた。
ん? でも、待てよ。
俺が京香を見た回数だって?
そんなこと京香が数えているはずないじゃないか。
だってそうなら目が合うだろ?
「なあ……」
振り返るといつも微笑んでくれた留美の姿は、もうどこにも無かった。
共幻文庫 短編小説コンテスト 第10回「秘密」投稿作品
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