くるりのアクセル2016年01月18日 07時38分09秒

 月丘くるり(つきおか くるり)は愛犬アクセルと大の仲良しでした。
「アクセル、いくよっ!」
 くるりの手から赤いポリウレタン製のディスクが放たれます。
「ワン、ワンッ!」
 夕暮れの緑野公園を舞う赤い円盤。それを追って疾走する茶色のトイプードルは、ディスクの下に追いつくと勢いよくジャンプしました。
「それっ、右! そして左っ!!」
 アクセルには不思議な癖がありました。右回りにジャンプしたかと思うと、ブルブルっと左回りに体を回転させながらディスクを咥えるのです。
「あはははは、アクセルは本当に器用だよね」
 ディスクを咥えてくるりの元へ届けるアクセル。そんな愛犬を、くるりはわしゃわしゃと豪快に撫でまわします。アクセルも嬉しそうに、くるりの柔らかなほっぺをペロペロと舐めるのでした。
「ちょ、ちょっと。くすぐったいよ、アクセル」
 芝生に片膝をついたくるりと、両足で立ち上がって嬉しそうに尻尾を振るアクセルが向き合う姿は、見ているこちらの心も温かくしてくれるのでした。
「ほら、亮太もやってみなよ」
 くるりは僕の方を向くと、ディスクを差し出します。いきなりの提案に僕は慌ててしまいました。
「む、無理だよ。僕、運動苦手だし、それにもう薄暗いよ……」
 そうです。僕はこの公園で二人の様子を見ているのが好きなのです。
「簡単だよ、亮太。こうやって投げるだけなんだから」
 そう言ってくるりは立ち上がり、ディスクをまた夕暮れの空に放ちます。
 勢いよくダッシュするアクセルは、今回もまた右回りにジャンプして、左回りでディスクを咥えるのでした。
「本当にアクセルって面白いよね。最近ね、私もあのジャンプを練習してるの」
 くるりが大きく息を吸ったかと思うと、左足を大きく振りかぶり前に蹴り上げます。その勢いを利用して、右足のバネで高くジャンプ! 右回り気味に最高地点に達したくるりは、今度はすごい勢いで左回りに回転し始めました。傘のように広がるスカートが綺麗です。二回転は回ったでしょうか。彼女は膝を折り曲げながら見事に着地しました。
「す、すごいよ、くるり」
「でしょ!?」
 ドヤ顔で彼女は僕を見上げます。二重の大きな瞳が僕をとらえて一瞬ドキリとしました。
 それにしても空中で回転方向を変えるなんて、まるでディスクをキャッチする時のアクセルのようです。僕と違って、くるりは本当に運動神経抜群なのでした。
 アクセルもディスクを咥えたまま、嬉しそうにくるりに近寄って来ました。
「最近はね、三回転も練習してるの。将来の夢は世界一のダンサーだしね」
 くるりが必死に頑張っているのは僕も知っていました。
 何回も転びながら、最初は一回転だったジャンプが二回転、三回転に進歩する様は、見ている方も嬉しくなりました。それよりもなによりも、高く跳んだ空中で逆回転を始めるその姿が美しかったのです。
 それにしても小学生のうちから将来のことを考えているなんて、僕とは大違いな幼馴染なのでした。

 その時でした。

「グルルルル……」
 アクセルが咥えていたディスクを離し、低く唸り始めます。
「えっ!?」
「っ……!?」
 僕たちは言葉を失います。いつの間にか近寄って来た白い大きな犬がこちらを睨みつけていたのです。首輪はしていません。どうやら野良犬のようです。
「くるり、逃げよう!」
 危険を直感した僕は、くるりの手を握ると家に向かって走り出そうとしました。
「ダメッ! アクセルを置いて行けないっ!」
 振り向くと、アクセルは野良犬に向かってグルルルと唸り続けています。
 くるりは僕の手を振りほどき、アクセルに向かって叫びます。
「アクセル、駄目よ。こっちにいらっしゃい!」
 両手を広げるくるりの必死の叫びも、アクセルには届いていません。
 そうこうしているうちに、野良犬は次第にアクセルとの距離を縮めていました。
「こうなったら……」
「ダメだよ、くるり!」
 くるりがアクセルを抱きかかえようと近寄った瞬間、野良犬がアクセルに襲いかかりました。
「キャン、キャン……」
 公園に響く甲高いアクセルの鳴き声。野良犬は、アクセルの左後ろ脚に噛み付いたのです。アクセルを抱きかかえようとしていたくるりは、野良犬の迫力に圧倒され、その勢いで芝生の上に尻もちをついてしまいました。
「グルルルル……」
 野良犬は、今度はくるりの方を向いて威嚇を始めます。恐ろしさでくるりは腰が抜けたようになってしまって動けません。
「くるり、今行くから!」
 僕が駆け出そうとしたその時でした。アクセルが野良犬の前に立ち塞がったのは。
 噛まれた左脚をかばうようにしながら、必死で両脚で立っています。そしてディスクをキャッチする時のように、右脚でジャンプしながら左前足で野良犬にジャブを繰り出しました。
「ああっ!」
 野良犬はアクセルの攻撃をすんでのところでかわします。
 しかしここからが圧巻でした。
 アクセルは空中で左回りに回転を変えると、今度は右前足を繰り出したのです。
「キャンッ!?」
 今度は野良犬が悲鳴を上げる番でした。
 アクセルの右前足は野良犬の鼻先を見事に引っ掻いたのです。最初の空振りが野良犬を油断させたのでしょう。鼻先を削られた野良犬は、一目散にその場から逃げて行きました。
「アクセルッ!!」
 ドサリと地面に落ちたアクセルに向かって、腰の抜けたくるりが地面を這いながら近寄ります。
「大丈夫!? アクセル! アクセルッ!」
「くーん……」
 くるりの手がアクセルに届いた瞬間の、振り絞ったようなアクセルの安堵の声が今でも僕には忘れられません。
 それは僕が聞いたアクセルの最期の声となりました。
 左脚に重症を負ったアクセルは、翌朝くるりに見守られながら息を引き取ったのでした。

 ◇

「ええい、何で上手く跳べないんだろう……」
 それから一年が経ち、僕たちは中学一年生になりました。
 くるりは相変わらず緑野公園でダンスの練習をしています。
「去年はもっと綺麗に回れたのに……」
 ――右回りにジャンプして、空中で左回りに回転する。
 アクセルが僕たちに遺してくれたジャンプを、くるりは毎日のように練習しています。
 くるりはこの一年で身長が十センチも伸びました。成長と共に変わりつつあるジャンプの感覚の違いに戸惑っているのでしょう。僕にとっては、三回転までは完璧に跳べているように見えるのですが。
「もう、止めようよ。暗くなってきたし……」
「亮太は先に帰ったら? 私はまだ続けるから」
 ――世界一のダンサーになって、アクセルが生きた証を残したい。
 それが、くるりの口癖でした。
 いずれは四回転。そして、さらにその先の世界へ。
 くるりの野望は果てしなく広がっています。
「オー、ワンダフル!!」
 その時でした。怪しげな声が公園に響いたのは。
 振り向くと、車道からぽっちゃりとした外国のおじさんがこちらを見ています。
「ユア、ジャンプ、オモシロイ」
 片言の日本語を混ぜながら、こちらに近づいてきました。なんだか危ない感じがします。
「クロックワイズ、アンド、アンチクロックワイズ。ユーアー、パーフェクト!」
 黒くワイ? 何を言っているのかさっぱり分かりません。怪しさ倍増です。
「アナタ、セカイイチ、ナレマス!」
「ホント!?」
 思わずくるりが反応しました。何でこんな時だけ日本語なのでしょう?
 しかしそれが運命の出会いとなったのです。
「ワタシ、オライアン・ブーサー、イイマス。ジャンプ、コーチ、シテマス」
 ジャンプのコーチって、そんな職業が世の中にあるのでしょうか?
「私、本当に世界一になれるんですか!? ジャンプの指導をしてくれるんですかっ!?」
 嗚呼、すでにくるりは『世界一』という単語しか頭の中に入っていません。
 でも、その時のキラキラと輝く彼女の瞳は、僕の心を強く惹きつけました。くるりは本当に世界一のダンサーになりたいんだと、その意気込みが心の底まで届いた瞬間でした。
 それからそのおじさんは、毎日毎日公園にやって来ました。そしてくるりのジャンプを見学して帰ります。
 ある時は、くるりの両親とおじさんが話をしていたこともありました。そしてとうとう、くるりはおじさんの元でジャンプの特訓をすることになりました。
 驚くことに、ジャンプのコーチという職業が本当にあったのです。一つ残念なのは、オライアンコーチが教えてくれたのは純粋なダンスではなかったこと。その代わり、くるりのジャンプを世界一に近づけるという言葉に嘘はありませんでした。

 ◇

「私、なんでこんな所でジャンプしてんだろ?」
 これは、中学三年生になったくるりの口癖です。
 ――右回りに跳んで左回りに回転できれば世界一になれる。
 オライアンコーチのこの言葉は嘘ではありませんでした。
 ただし、それはダンスというステージの上の話ではなく、冷たく凍った氷の上の話だったのです。
 コーチが指導するアイススケート場に通い始めたくるりは、物珍しさもあって最初は夢中でフィギュアスケートに取り組んでいました。
 しかし実力がついて周囲から注目されるようになると、時々ふと昔の夢を思い出すようになりました。
 私の夢は、世界一のダンサーになることだったのではないか――と。

 くるりの武器は、ルッツジャンプです。
 ルッツは、右回りのような感じで跳んで、逆回転の左回りに着氷しなくてはなりません。
 その特異性から、後ろ向きで跳ぶジャンプの中では最も難しいジャンプと言われています。
 くるりは、一人だけ次元の違うルッツを披露することができました。なぜなら、本当に右回りで跳んでいたからです。そして何よりも人々を魅了したのは、他の選手よりも二倍ほど高い最高到達点から繰り出される逆回転。いつしかくるりは、『世界一美しいルッツを跳ぶ少女』と呼ばれるようになっていました。
 それが大きなプレッシャーになっていたのでしょう。
「私の夢は、世界一のダンサーになることなんだから……」
 大きな大会になるほど、そんなことをつぶやいて現実逃避することが多くなりました。

「くるり、今日のためにいいものを作ってきたんだ」
 だから僕は、とっておきの秘密兵器を披露します。
 それを見たくるりは、瞳をまん丸にしました。
「まあ、可愛いっ!」
 それは犬耳でした。
 アニメのような柴犬タイプではなく、トイプードルのアクセルと同じくぺたんと寝たタイプの犬耳です。
「でも、何? このワイヤー長すぎだよ、亮太」
 左右の犬耳を繋ぐカチューシャのような黒いワイヤーは、顎の近くまで伸びています。耳のところもT字になっていて、こめかみの近くでがっちりと固定するタイプなのです。
 僕は必死に説得を始めました。
「演技中に衣装の一部が落ちたら一点の減点じゃないか。だから顔全体を使って支えておかないとダメなんだよ。くるりの演技は一番最後だから、髪を下ろせばワイヤーを隠すことができるだろ?」
 フィギュアスケートは規律の厳しいスポーツです。
 女の子は髪を後ろでまとめるように指導されます。なぜかというと、リンクに髪の毛が落ちると次の選手の演技の邪魔になってしまうからです。
 しかし今日のくるりは最終滑走。後に滑る選手は誰もいません。
 僕は、肩に届かないくらいの高さで切り揃えたくるりのサラサラした黒髪が大好きでした。ジャンプの時に、はらりと広がる様も魅力的です。さらに犬耳が加われば、破壊力アップは間違いありません。
「今日のフリーの曲は犬がテーマだろ? だったら犬耳があった方が、さらに曲にマッチするんじゃないかって思ったんだよ」
「亮太、ありがとう。うん、これ、すっごくいいよ!」
 今日の舞台は、全日本フィギュアスケートジュニア選手権。
 つまり、ジュニア世代の全国大会です。
 前日のショートプログラムで圧巻のルッツを披露したくるりは、前年度の優勝者を押しのけて、いきなりトップに立ったのでした。注目されるその重圧が、フリーの演技を控えたくるりを押し潰そうとしています。
「でも亮太。犬耳はとっても嬉しいんだけど、私、もう帰りたい……」
 僕は必死にくるりを鼓舞します。
「ほら、ここまで来たんだから、この犬耳を着けて頑張ろうよ。それに女子のフリーの後半はテレビで生中継されるし、上位に入って強化選手になれれば、いろんな世界大会に出場できるんだから」
「世界?」
 ピクリとくるりの眉間が動きました。どうやら地雷、いや、ヤル気スイッチを押してしまったようです。
「それって世界一になれるってこと?」
「ああ、その可能性があるってことだよ。それに、テレビ中継をダンス関係者も見てるかもしれないしね」
「やる。私やるわ!」
 世界、そしてダンスという言葉に対しては、とっても単純なくるりなのでした。

 ◇

『さあ、いよいよ最終グループの登場です』
 僕は観客席に戻ると、テレビ中継の音声をイヤホンで聞きながらくるりを見守ります。
 トイプードルをイメージさせるブラウンを基調とした衣装の上にパーカーを羽織り、くるりは練習のためリンクへ飛び出して行きました。パーカーの袖から見える手袋の肉球と、スカートの上の部分のモコモコ尻尾が可愛らしいです。髪はまだ頭の上で結んだままで、犬耳は付けていません。
『六分間練習が始まりましたね。解説の八木池さん、今回の注目選手は誰でしょう?』
『やはり、月丘くるり選手でしょう。昨年まで無名だったのに、いきなり出てきましたからね。ショートプログラムで披露したルッツは、一人だけ次元が違っていました』
『そうですね。昨日は、トリプルルッツのコンビネーションを演技後半に決めてきました。審査委員全員が満点をつける出来栄えで、それだけで十四ポイントも獲得しています。去年の優勝者、新田双葉(にった ふたば)選手に五ポイント差をつけて、現在トップです』
 ふふふ、テレビの中継でもくるりが注目されてるじゃないか。
 僕は一人観客席でほくそ笑みます。
 リンク上でウォーミングアップ中のくるりを見ると、ジャンプの体勢に入ろうとしているところでした。
「ほら、皆に見せつけてやれ。世界一のルッツを!」
 僕のつぶやきに従うかのごとく、くるりは左足一本に体重を乗せ、後ろ向きに加速します。髪をまとめ、凛としたうなじで風を切る姿もまた魅力的でした。そして深く体を沈ませたかと思うと右足のトゥで勢いよく氷を蹴り、右回り気味にジャンプしました。
「そして左回り!!」
 最高到達地点に達したくるりは、今度は回転を左回りに変え、勢いよく三回転します。
「おおっ!」
 観客席から歓声が上がります。中には立ち上がる人も見えました。まだ練習だというのに。
 それだけ、くるりのルッツは見る人の心を捉えてしまうのです。そう、僕をはじめとして。
『すごいですね、月丘選手のトリプルルッツは!』
『本当にすごいです。あの体勢から逆回転ができるなんて、何回見ても不思議です。腹斜筋が相当強いんだと思いますよ』
 小学生の頃からくるりの努力を見てきた僕は、ちっとも不思議とは思いません。
 これも、愛犬アクセルのおかげなのでしょう。
 ――世界一のダンサーになって、アクセルが生きた証を残したい。
 その想いを胸に抱き、くるりは必死に練習を積み重ねてきました。緑野公園で何回も何回も転びながらジャンプを繰り返してきた成果が、今ここに世界一のルッツとして表現されているのです。
『ルッツはエッジエラーを取られてしまう選手が多く、難しいジャンプと言われていますよね』
『そうですね。普通の選手は最初から左回りに跳ぶので、エラーになってしまうことが多いのです』
 日本のエース、政田蒼(まさだ あお)選手もその一人です。
 彼女はルッツがとても苦手で、先日のグランプリシリーズ中国杯では、ショートプログラムでもフリーでも上手くルッツを跳ぶことができませんでした。今年は豊かな演技力が光っているだけに、これは非常に惜しまれます。
『しかし、月丘選手の場合はそれはありえませんね』
『そうですね。彼女は完璧に右回りにジャンプしているので、エッジエラーになることはありません。というか、正直言ってあれは逆回転トゥループの踏み切りですよ。どうやったらあそこから左回りに着氷できるのか、本当に理解できません』
 いい加減にくるりのジャンプを認めてくれよ八木池解説員、と僕が放送席の方を向いたその時でした。

「キャッ!」

 悲鳴にも似たくるりの叫び声がリンクから響いてきます。驚いて振り向くと、信じられない事が起きていました。
 くるりともう一人の選手が氷の上に横たわっていたのです。
 くるりは膝を手で押さえながら痛みで顔を歪めています。どうやら、二人は練習中にぶつかったようでした。
『おっと、練習中にアクシデントが起きた模様です。二人の選手がぶつかって、月丘選手がリンクに横たわったままです』
『どうやら、左膝を痛めてしまったようですね。演技ができるかどうか心配です』
 ――すぐにリンクに駆けつけて、くるりに声をかけてあげたい。
 はやる気持ちを押し込めるように、僕は観客席の手すりをギリギリと握りしめました。
 僕はスケートが滑れません。運動が苦手な僕は、知識や応援で彼女を支えるしか術がなかったのです。
「大丈夫か!? くるりっ!」
 僕の叫び声にチラリとこちらを見たくるりは、苦笑いを浮かべながら小さく親指を立てます。
 そしてゆっくりと立ち上がり、左足を庇うようにしながら右足だけで滑走。リンクサイドに上がると、コーチに抱きかかえられるようにして控室へと消えてしまったのでした。
「せめて犬耳を着けてくれれば、話を聞いてあげられるのに……」
 そして僕は、この日のために用意した秘密兵器の無線機を、ぎゅっと握りしめたのでした。

 ◇

 くるりの怪我を心配する僕の気持ちをよそに、競技は予定通り進行していきます。
 一人、また一人、最終グループの選手がリンクに出て行き、フリーの演技を終えてリンクサイドに戻って来ます。そのたびに拍手や歓声が上がるのですが、僕の頭の中には全く入って来ません。僕はただただ、くるりのことが心配だったのです。 
 ついに、くるりの一つ前の選手の演技が始まりました。そしてようやく、くるりがコーチと一緒にリンクサイドに姿を現したのです。
 ベージュのタイツの左膝の部分がいつもよりも膨らんでいます。中はテーピングで固められているのでしょう。
 幸いなことに、くるりは髪の毛を下ろして犬耳を着けていました。僕はここぞとばかり、無線機に向かって話しかけます。
「くるり、聞こえるか?」
 すると、リンクサイドのくるりは驚いたようにキョロキョロし始めました。
「えっ? 亮太? なんで亮太の声が聞こえるの?」
「犬耳が無線機になってるんだよ」
 犬耳を固定するカチューシャのワイヤーは、骨伝導イヤホンとマイクになっているのです。ワイヤーが耳や顎の方まで伸びているのはそのためでした。
「ところでくるり、左膝の具合はどう?」
「わかんない」
「わかんないってどういうことだよ?」
「わかんないってことは、わかんないってことだよ。もう痛みは無いけど、滑ってみないとわかんない」
 くるりはかなりイライラしているようでした。
「それでコーチは何て言ってるんだ?」
 僕は、オライアンコーチがどういう判断をしているのかが気になります。
「コーチは最初、棄権しようと言ってたの。でも、私が『出たい』ってわがまま言ったら、痛みが出るならすぐに演技を止めるという条件で出れることになったの」
 ――今はヒロインになろうとするべき時じゃない。自分の体がまず第一だ。
 これは後で聞いた、その時のオライアンコーチの言葉です。彼は本当にくるりの体のことを心配してくれていたのです。
 しかしそれが、彼女のイライラの原因の一つでもありました。
 予期せぬアクシデント、棄権を望むコーチ、そして目の前にあるテレビ中継という世界へ飛び出すチャンス。
 それらがグチャグチャとくるりの頭の中で渦巻いて、わけがわからなくなっているのでしょう。
「わかった。じゃあ、演技が最後まで続けられるよう、僕が声で導いてあげるよ」
「ホント? 亮太のこと、信じてもいい?」
「ああ。僕は、くるりのファン第一号だしね」
 これだけは自信があります。そして、これは誰にも譲れません。
「わかった。亮太の言葉に従って演技する。頼んだよ」
 第一号としての地位を確実なものにするためには、くるりをちゃんと演技の最後まで導いてあげなければいけません。フリーの演技が近づく彼女と同じく、僕も緊張で身震いするのでした。
 そうこうしているうちに、前の選手の演技の終了を会場の拍手が教えてくれます。その選手がリンクサイドに上がるのと入れ替えで、くるりがリンクに飛び出していきました。
「どう? 左膝の様子は?」
 最初は長めに滑走していたくるりは、徐々にステップやスピンを試しながら答えます。
「ステップやスピンは問題無さそう。ジャンプは……まだやってないけどちょっと恐い……」
 テーピングでガチガチに固定しているので、やはり違和感があるのでしょう。
 しょうがないので、ジャンプについては演技をしながら様子を見ることにしました。

「二十四番、月丘くるりさん、緑野クラブ」

 くるりの名前のアナウンスが、スケートリンクに響き渡ります。
 こうして、後に伝説と語られる彼女のフリーの演技が幕を開けたのでした。

 ◇

『さあ、いよいよ月丘くるり選手の登場です』
『髪を下ろして、可愛らしい犬耳を着けていますね。衣装も袖があるタイプで、手袋には肉球が付いています。でも、先ほどの衝突が心配です。何も影響がないといいんですが』
『練習中の衝突といえば、昨年のグランプリシリーズ中国杯での結城羽人(ゆうき はねと)選手が思い起こされますね』
『そうですね。あの時の結城選手は、まともにフリーの演技ができませんでした』
 左耳のイヤホンからは、くるりを心配するテレビ中継の声が聞こえます。
 僕はそんな心配を吹き飛ばすかのように、リンクの中央に立ったくるりを鼓舞するのです。
「いくぞ、くるり!」
「うん!」
 右耳のイヤホンからは、いつものような彼女の明るい声が返ってきました。
 数秒の静寂の後、会場のスピーカーからピアノのなめらかな旋律が流れてきます。
 ――ショパン作曲、ワルツ第六番変ニ長調作品六十四の一。
 一般に『子犬のワルツ』として知られている名曲です。くるりの衣装は、この曲に合わせたものだったのです。
 後ろ向きに滑走を始めたくるりは、曲に合わせて緩急をつけたステップを繰り出します。どうやら通常の演技に、膝の怪我の影響はなさそうです。
 問題はジャンプでした。
「最初は予定通り、トリプルフリップをやってみようか」
「わかった」
 フリップは、ルッツの妹のようなジャンプです。
 ルッツと同じく、左足に体重を乗せて滑走し、右足のトゥでリンクを強く蹴って跳び上がります。
 両者の違いは、『ひねくれた姉』と『素直な妹』と例えるとよいでしょう。
 ルッツは右回りの感じで跳び上がり逆の左回りに着氷するジャンプであるのに対し、フリップは最初から左回りに跳び上がるとても素直なジャンプなのです。
 ――フリップが跳べれば、ルッツも跳べるはず。
 これが僕の考えでした。
 左膝への負担は、どちらも似たようなものと思われます。
 ――実は、怪我は大したことないんじゃないだろうか。
 いつものようにステップを繰り出すくるりの姿を見た僕は、そんな幻想を抱いてしまっていたのです。しかし次の瞬間、僕は自分の考えの甘さを痛感することになりました。
「あっ!」
 くるりは小さく声をあげると、フリップの回転を失速させてしまったのです。
『ああっ、トリプルフリップがシングルフリップになってしまいました』
『そうですね。やっぱり、膝が痛むのでしょうか?』
 僕は思わずくるりに声をかけます。
「どうした? 膝が痛むか?」
 すると予想に反し、ケロっとした声が返ってきました。
「痛くはないんだけど、左膝に全然力が入らない……」
 僕は愕然としました。
 これではルッツは跳べません。
 くるりの最大の武器でポイント源でもあるルッツを、僕たちは封印しなくてはならなくなったのです。

 ◇

「次はトリプルループだ」
「わかった」
 くるりは小さく返事をしました。
 僕は必死に考えます。
 左膝に力が入らないくるりが、どんなジャンプなら跳ぶことができるのだろうか、と。
 ――ループ。
 これが、その答えでした。
 なぜなら、ループは唯一、右足しか使わないジャンプだからです。

 フィギュアスケートのシングル競技では、六種類のジャンプが採点対象となります。
 ――トゥループ、サルコウ、ループ、フリップ、ルッツ、アクセル。
 基礎点が低い順、つまり跳びやすい順番に並べると、こんな感じになります。
 その中でもループは、右足一本で跳び上がり、右足で着氷します。
 逆に、左足一本で跳び上がるのがサルコウとアクセルです。この二つのジャンプは、左膝に力が入らない今のくるりには跳べません。
 そして先ほどのジャンプで、フリップとルッツも無理だということがわかりました。
 すでにくるりは、手詰まりの状態だったのです。

 そんな僕の心配をよそに、くるりは右足一本で後ろ向きに滑走を始め、ジャンプの体勢になりました。
 そして右足で氷を蹴って跳び上がります。
『トリプルループ』
『これは高いですね!』
 くるりのジャンプの特徴は、その最高到達点の高さにあります。
 いすれは四回転もできてしまうんじゃないかと思わせるほど、高く跳ぶことができるのです。
 軽々とトリプルループを決めてしまったくるりは、「じゃあ、次は何?」と膝のアクシデントを感じさせないような明るい声で聞いてくるのでした。
「トリプルループ、ダブルループ、ダブルループのコンビネーションで行くぞ!」
「わかった」
 右足でしか跳べないくるりが、右足だけでくるくると合計七回転のジャンプを氷上に繰り広げます。子犬のワルツに合わせたその可愛らしい演技に、会場は拍手で湧き上がりました。
 気をよくしたくるりは、息を切らしながら高揚した声で僕に尋ねます。
「亮太、次は何を跳べばいい?」
「……」
 思わず僕は言葉を詰まらせてしまいました。
 そして、ぎゅっと拳を握りしめ、低い声で事実を伝えるのです。
「ごめん、もうくるりには跳べるジャンプがないんだ」
 僕は彼女に、最後通告をしなければなりませんでした。

 ◇

「えっ?」
 くるりは一瞬、戸惑います。
 そして明るい声で、僕に提案するのです。
「ループなら私、何回でも跳べるよ。残りのジャンプは全部トリプルループでいいじゃん。会場も喜んでくれてるし」
「それでもいいけど、得点はもらえないぜ」
「ええっ!?」
 悲しいことに、それが今のフィギュアスケートのルールなのです。
「得点がもらえないって、どういうこと? 私の優勝も無しってこと?」
「ああ、優勝はもう諦めた方がいい。これ以上、何を跳んでも大きな点は入らない」
 ――ザヤックルール。
 フィギュアスケートのジャンプには、そんなルールがあります。
 三回目以降は無得点になるという、恐怖のルールが。
 八十年代に活躍したアメリカのエレイン・ザヤック選手が、同じようなジャンプばかりで優勝してしまったことから作られたルールなので、そう呼ばれています。昨シーズンからは二回転以上のジャンプすべてに適用されることになり、MHK杯での上村菜佳子(かみむら なかこ)選手の悲劇を生みました。
 くるりは、同じジャンプを跳び過ぎました。
 トリプルループを二回、ダブルループを二回です。
 次に跳んだら三回目で、それはすべて無得点になってしまうのです。
 かと言って、今の左膝の状態では他のジャンプを跳ぶこともできません。
「亮太、なんか手を考えてよ!」
 くるりの悲痛な叫びが聞こえてきます。
「一つだけ点を加える方法がある」
「おっ、それは?」
「残りのジャンプを、全部シングルループにするんだ」
 シングルループなら、何回跳んでもザヤックルールには抵触しません。もらえる点数はほんのわずかですが。
「…………」
 スピンに入ったくるりは黙り込んでしまいました。
 彼女の沈黙は、僕にとって最大の苦痛です。が、どうすることもできません。
 そしてスピンが解けた勢いのまま、彼女はすごい剣幕で僕に怒鳴り返してきたのです。
「亮太、私にケンカ売ってるでしょ。そんなことしたら会場はドン引きじゃない」
 くるりの言う通りです。観客のほとんどは、くるりのトリプルジャンプを楽しみにしているのです。この後の四回のジャンプがすべてシングルループだったら、会場が沈黙することは間違いありません。
 だから僕は、苦肉の策を披露します。
「じゃあ、これはどうだ? なんちゃってトゥループ」
「なんちゃってトゥループ? なにそれ?」
「ループの時に、左足のトゥでガリっと氷を削ってトゥループに見せかけるんだよ」
「…………」
 トゥループは、右足に体重を乗せて滑走し、左足のトゥで勢いよく氷を蹴って跳び上がるジャンプです。しかし左膝に力が入らないくるりは、左足のトゥで踏み切ることができません。
 ――でも、強靭な脚力と抜群の運動神経を持つ彼女なら。
 右足一本で跳ぶループをトゥループに見せかけることができるんじゃないかと、僕は思ったのです。
「まあいいわ、試してみる。トリプルは無理そうだからダブルで行くよ」
「じゃあ、二連続のコンビネーションで頼む」
「わかった」
 くるりが後ろ向きに加速していきます。そして右足に体重を乗せて、踏み切りの時にガリっと派手な音を響かせました。
『ダブルトゥループ、ダブルトゥループのコンビネーションです』
『…………』
『八木池解説員、どうしました?』
『あれって、トゥループ……ですかね?』
 僕は感心します。さすがは八木池解説員、鋭いと。
『月丘選手、やっぱり左膝を痛めているんじゃないでしょうか? 今まで跳んだジャンプは、ほとんど右足しか使っていないような気がするんですが』
『もしそうならどうなりますか? 八木池さん』
『チェックメイトですね。彼女にはもう、加点できるジャンプはありません』

 ◇

 くるりが演技を始めて、そろそろ二分になろうとしています。
 曲が変わり、雰囲気がガラリと明るくなりました。
 ――アーサー・プライヤー作曲、口笛吹きと子犬。
 軽快な口笛のリズムに乗って、くるりが楽しそうにステップを踏みます。
 思わず会場から手拍子が始まりました。
「ねえ、亮太。もう何を跳んでも無得点なんだよね?」
「ああ」
「それに優勝も、もう無理なんだよね?」
「おそらく」
「じゃあ、あとは何を跳んでもいいってことだよね!?」
 思わず僕はリンク上のくるりを見ます。
 それはそれは本当に楽しそうな笑顔でした。
「なんか吹っ切れたよ。逆に楽しくなってきちゃった」
 なんということでしょう。彼女はこの逆境を楽しみ始めていたのです。
 会場の手拍子も、そんな心境の変化に反応してのことなのでしょう。
「しっかり見ててよ亮太。次のジャンプは、私のダンスアピールなんだから」
 くるりは一体、何を跳ぼうというのでしょうか?
 左膝に力が入らないその状態で。
 くるりは後ろ向きに滑走し、勢いを増していきます。
 そして一度左足に体重を乗せたかと思うと、続いて右足に体重を乗せ、足をハの字にしたまま勢いよく右回り気味に跳び上がりました。
 ――えっ、逆回りのサルコウ?
 しかしここからが圧巻でした。
 最高到達点に達したくるりは、今度は左回りに回転し始めたのです。
 そう、得意のルッツと同じように。
 そして三回転した後に、右足で見事に着氷しました。
「おおーーっ!」
 観客からは歓声が湧き起こります。拍手をする人の半数くらいは、立ち上がっていたでしょうか。
『月丘選手のあのジャンプは……ルッツ、じゃないですよね? 八木池さん』
『あれはウォーレイです。右足踏み切り、右足着氷のカウンター系ジャンプです。しかもトリプル。私、長いこと解説員をしていますが、こんなウォーレイは初めて見ました。しかも、ものすごく美しい……』
 なんと、あの八木池解説員も絶賛です。このジャンプを目の当たりにした観客の多くも、きっと同じような印象を抱いたことでしょう。
 くるりのファン一号であることを、僕が誇りに思った瞬間でした。
『じゃあ、すごく点数は高いんじゃないんですか?』
『残念ながらウォーレイは無得点なんです。加点対象のジャンプではありませんから』
 そんなことよりも観客のこの反応がすべてじゃないか、と僕は思います。
 だから無線機に向かって、思わず叫んでいました。
「やってくれたな、くるり! ていうか、いつ練習してたんだよ、こんなジャンプ」
「えへへ、すごいでしょ? やっと観客席も盛り上がって来たしね。ガンガン行くよ!」
 どうやらくるりは根っからのダンサーのようです。
「次はどうする?」
「またこれをやってみようかな。今度はコンビネーションで。ルッツの代わりと言っちゃなんだけどね」
 その時でした。
 テレビの解説から気になるコメントが僕の耳に飛び込んできたのです。
『月丘選手のジャンプはあと二回。予定では、ルッツとルッツのコンビネーションになっていますが』
『これは私の勝手な予想なのですが、今の月丘選手の膝の状態ではルッツが跳べないんじゃないでしょうか? それにもし予定通りに跳べたとしても、大変なことになってしまいますよ』
『えっ、それは一体どういうことでしょう?』
『だって彼女、まだアクセルを跳んでませんから』
 ――アクセルを跳んでない?
 確かにくるりはアクセルを跳んでいません。だって左足が使えないのですから、仕方がありません。
 でも、八木池解説員が言っているのはそういうことじゃなさそうです。何か、僕が気づいていない落とし穴があるような気がするのです。
 僕は必死に考えます。そして、「予定通りに跳べたとしても大変なことになる」というフレーズで、あることに思い当たりました。
 ――そうか、そういうことか。
 僕は無線機を握りしめます。
「くるり、申し訳ないが、シングルループを一回跳んでくれないか?」
「ええっ? 何で? せっかく盛り上がってるのに」
 シングルループという単語は、くるりの中では会場を白けさせる代名詞となっているようです。
「まだアクセルを跳んでないだろ? するとどうなるか分かってるのか?」
「わかんないけど」
「フリーでは、アクセルを必ず一回は入れなきゃダメなんだよ。もし入れなかった場合は、最後の加点ジャンプが無効になる」
「すると?」
「なんちゃってトゥループのコンビネーションが無効に、もしなんちゃってが認められなかった場合は、その前のトリプルループのコンビネーションが無効になっちゃうんだよ。そうなったら優勝どころか、十位以下は確実だぜ」
「やだよ、そんなの」
「だったらシングルループを跳ぶんだ。そうすれば、そのシングルループが無効になるだけで済む。その後は何を跳んでもいいからさ」
「わかったわ……」
 くるりはやっとのことで、僕の指示を受け入れてくれたのでした。

 ◇

『ああっ、予定していたトリプルルッツがシングルになってしまいました!』
 アナウンサーの落胆する声に連鎖するかのごとく、会場もため息に包まれます。それはまるで、シュートを外した直後のサッカースタジアムのようでした。
『いやいや、あれはループです。助走からすでに右足で滑走していましたよ』
『と言いますと?』
『やはり左膝が良くないのでしょう。最後のジャンプも、残念ながらルッツは跳ばないんじゃないでしょうか』
『すると、点数はかなり低くなってしまいますね』
『そうですね。月丘選手は、得点が一・一倍になる演技後半に得意のルッツを跳んで好成績を収めてきました。それが跳べないとなると、二十点は失ってしまうことになるでしょう』
『となると優勝は厳しいですね』
『そうですね。でも月丘選手の強靭な体力には、目を見張るものがあります。普通、ルッツのコンビネーションは体力のある最初に跳ぶのですが、それをラストに持って来れるなんて信じられないスタミナです。まだ中学三年生ですから、早く怪我を直して来年も活躍してほしいですね』
 テレビ中継からは、すでに終わった感が漂っています。
 会場からも手拍子は聞こえなくなり、リンクではくるりのシャーという滑走音と『口笛吹きと子犬』が寒々と響いているのです。
 ――なんだよ、これが僕たちの望んだ風景だったのか?
 くるりは、点数にならなくてもいいから観客が喜んでくれるジャンプを跳びたいと言っていました。
 シングルループを跳ぶ前は、会場も手拍子に包まれていて最高の雰囲気だったのです。
 それにも関わらず、僕は目先の点数のことばかり考えてシングルループを提案しました。半ば強制的に。
 その結果がこの状況です。
 ――僕は本当に、くるりのことを考えていたのだろうか?
 僕は深く反省します。
 そして彼女に申し訳なく感じていました。
 こんなことになるなら、好きなジャンプを跳ばせてあげればよかった――と。
 優勝できないのであれば、順位なんてどうでもよかったのではないか――と。
 ――でも、怪我がひどくならずに済んでよかった。
 それだけが僕を救ってくれる事実でした。
 だから祈ります。
 最後に何を跳んでもいいけど、怪我だけは悪化させないでほしいと。
 そしてあわよくばそれが、悔いの残らないジャンプになりますようにと。



 ◇ ◇ ◇



 シングルループを跳んだ後のくるりの頭の中には、亮太のある言葉が鳴り響いていました。
 ――アクセル。
 それは、私にダンスの喜びを教えてくれた愛犬の名前でした。
 そしてダンスを練習しながら、見る人を楽しませる嬉しさを私は学んだのです。
 たった一人の観客から始まった私のジャンプは、こんなにも多くの人を楽しませるまでに成長しました。
 だから私は思います。
 跳ばなきゃいけないジャンプなら、跳べばいいんじゃないかと。
 アクセルは前向きの左足踏み切りで、左回りに回るジャンプです。でも、今の私の膝の状態では跳ぶことができません。
 ――だったら右足踏み切りで回ればいいんじゃないの?
 私ははっとしました。
 これはまさに、小学生の頃から練習していたジャンプそのものだったからです。
 ――氷上ではやったことはないけど、今ならできるような気がする。
 このジャンプには高さが必要です。
 なぜなら、他のジャンプよりも半回転多く回らなくてはならないからです。
 だから私は、リンクを斜めに広く使うことを思いつきました。
 リンクの角に到達した私は、対角線の角に向かって加速します。
「おい、何をするんだ、くるり! 無茶はやめろ!!」
 亮太が何かを叫んでいるような気がしましたが、それを私は力に変えていきます。
 ――観客第一号くんだって、心配して見てくれてるんだから。
 それにこれは、天国のアクセルに届けるジャンプです。
 私たちを守ってくれた愛犬。左脚に重傷を負いながら、アクセルは跳びました。私だって負けてなんていられません。
 ――アクセル、そして亮太。私跳ぶからしっかり見ててね。
 最高速度に達した私は、前向きのまま左足を振りかぶり、前へ左足を大きく蹴り出しました。そしてその勢いを利用して、右回り気味に高くジャンプします。
 風景がスローモーションのように流れていきます。それはもう観客席に手が届くような、そんな感じがするくらい私は高く跳んでいたのです。そして――

「行っけぇぇぇぇぇーーーーっ!! 回れぇぇぇぇぇーーーーーっ!!!!」

 私は渾身の力を込めて、左回転に体を回しました。
 気がつくと、私は無事に右足で着氷していたのです。



 ◇ ◇ ◇



「おおおおおおーーーーーーっ!!!!」
 割れんばかりの歓声とは、このことを言うのでしょう。
 くるりのラストジャンプに、会場は総立ちになりました。
『月丘選手が最後に決めたのは、な、なんとトリプルアクセル!』
 テレビのアナウンサーも絶叫しています。
 しかも、くるりが跳んだのは、ただのトリプルアクセルではありませんでした。
 高く、遠くに、そして途中から逆回転するカウンター系のアクセルだったのです。
『こんなジャンプ、見たことがありません……』
 さすがの八木池解説員も、しばらく言葉を失っていました。
『でも……』
『なんでしょう? 八木池さん』
『残念ながらこのジャンプは無得点ですね』
『ええっ? だって前向きに跳んで三回転半してましたよね? それってトリプルアクセルじゃないんですか?』
『アクセルは左足踏み切りです。でも月丘選手が跳んだのは右足踏み切りでした。これでは競技的にアクセルとは認められないのです』
 もう、僕には解説員の言葉なんて、どうでもよく感じてきました。
 点数なんてどうでもいいんです。
 見たもの、感じたものがすべてなんだと、僕の心が訴えていました。
 その証拠に、いつの間にか僕は涙を流していました。それは熱く、次々と僕の頬を照らします。
 左足が使えないくるりは、持てる力のすべてを発揮しました。
 そして最後に跳んだアクセルは、小学生の時に僕たちを助けてくれた愛犬アクセルに瓜二つだったのです。
「亮太! 見てた!? 私、跳べたよっ!!」
 演技を終え、歓声に包まれながらリンクの真ん中に向かうくるりから高揚した声が聞こえてきます。
「ああ、見てた……よ……」
 僕はもう涙が止まりません。
「なに? 亮太、泣いてるの?」
「だって……、くるりのジャンプはアクセルにそっくりだったから……」
「ありがとう亮太。私、アクセルが生きた証を残せたかな?」
「うん……、うん……」
 これ以上、僕は言葉を続けることができませんでした。
 くるりは観客席にお辞儀をしながら、スタンディングオベーションに答えます。その時の充実した笑顔が今でも忘れられません。
 だってそれは、天国のアクセルに捧げるとびきりの笑顔でした。

 ◇

 結局くるりは四位で、全日本フィギュアスケートジュニア選手権を終えました。
 運よく『なんちゃってトゥループ』は認められたものの、ウォーレイ以降のジャンプはすべて無得点。トップから二十点も差をつけられてしまったのです。
 意外だったのは、テレビ中継を見ていた人からの反応でした。
『何で彼女が四位なの?』
『オレの中では、くるりが優勝だぜ』
 放送終了直後から、そんなつぶやきがネット上に飛び交うようになりました。
 電波の向こう側でも、くるりのジャンプは多くの人の心を魅了していたのです。
 特に僕を驚かせたのは、動画サイトに投稿されたラストのアクセルジャンプの映像でした。再生回数はあっという間に百万回を超え、世界中から絶賛のコメントが書き込まれました。
 そして、誰も見たことがないそのジャンプを、人々は特別な名前で呼んだのです。
 ――くるりのアクセル。
 くるりと愛犬アクセルの名前は、敬意を持って世界中を駆け巡りました。

 それからというもの、くるりは世界中から引っ張りダコでした。
 いろんな大会のエキシビッションに呼ばれて、『くるりのアクセル』を披露します。だって、得点が入らないジャンプは、競技中には決して見ることができないのですから。
 ――だったら、正式なジャンプにしてしまえばいいんじゃないの?
 自然発生したこの提案に世界中が共感しました。
 こうして七番目のジャンプ、『くるり』が誕生したのです。
 そして『くるり』が採用された最初の冬季オリンピックで、彼女は僕に向かって相変らずの減らず口を叩きます。
「亮太、いつになったら私は世界一のダンサーになれるのよ? 早く責任取ってよね!」
 首から金メダルをぶら下げながらそんなことをさらりと言ってのけるお姫様に、僕はそろそろ責任を取らなきゃと指輪を握りしめるのでした。

 おしまい。



ライトノベル作法研究所 2015-2016冬企画
テーマ:『〇〇と美少女』

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