飛田LITEサプライズ ― 2023年09月01日 03時09分00秒
「へいピッチャー、デッドボール厳禁やぞ!」
「女性に優しくな!」
青空眩しい五月の日曜日の球場にヤジが飛び交う。
社会人軟式野球、第一回市長杯選手権大会の初戦。
左バッターボックスには、私の親友であり貴重な女性メンバーでもある高橋四音(たかはし しおん)が立っていた。
「絶対顔に当てんなよ~」
「うちの綺麗所だからな!」
それにしても四音は何を着ても似合う。我チームのユニフォームは上下がアイボリーのごくシンプルなものだが、それですら小柄でポニーテール姿の彼女の可愛らしさを引き立てている。ピチっとした太もももなかなかセクシーだ。
そしてそのユニフォームの左胸と帽子には、軽金属部品メーカーである我社『飛田LITEサプライ』のロゴが縫い付けられていた。
一方の相手チームは相庭製薬。上下が空色のユニフォームに身を包んでいる。
そのピッチャーが第一球目の投球動作に入った。両手を大きく振りかぶり、左足を高く上げ、右腕をホームベースに向かって勢いよく降り下ろす。
彼の指から放たれた軟式ボール。社会人の草野球にしては速く、コントロールもなかなかいい。シュルシュルと音をたてるボールは小柄な四音の前を通り過ぎ、パンと小気味良い音と共にキャッチャーミットに収まった。
「ストライッ!」
球審のコール。と同時に、四音は我々が陣取る三塁側ベンチを向く。これならイケる――と口角を上げながら。
さすがは野球経験者。このチーム作りも彼女と一緒にやり遂げた。
だから私は確信する。我々の作戦はきっと成功すると、四音と目が合った瞬間に。
私たちはなんとしてでもこの試合に勝たなくてはならないのだ。
こうして社長の鶴の一声で結成した軟式野球チーム、飛田LITEサプライズの攻撃が幕を開けた。
〇 〇 〇
それは半年前のことだった。
社長秘書の私、来雲土羽希(らいうんど うき)は突然社長の命を受けることになったのだ。
「羽希ちゃん、ちょっとお願いがあるんだが」
これはヤバい――と私のアンテナが危険を察知する。
社長が私のことを名前で呼ぶ時はいつも訳アリ案件だ。すぐにこの場から逃げねばならぬ。
「すいません社長。私、急ぎの用事が……」
が、社長はその隙すら与えぬ勢いで用件を口にした。
「今の市長、春になったら新しく軟式野球大会を始めるらしいんだが、それに出場するメンバーを集めて欲しい。チームを出してくれってしつこく頼まれちゃってさ」
つまり私に社内軟式野球チームを作れと、そうおっしゃってるわけですね。
「申し訳ありませんが、社長。私にはちょっと荷が重すぎるかと。野球の「や」の字もやったことがありませんので」
野球チーム作りなんてめんどくせー、というのが本音。
それにこの件には絶対裏がある。少なくとも、市長のメンツを保って差し上げるという社長から市長への「貸し」に加担せよということだ。もしかしたら、大会の盛り上がりに乗じて市民球場の新設という話が上がるというシナリオが組まれているのかもしれない。そしたら我社が優先的に部品供給を――って、それじゃ社長と思考が同じじゃない。下手したら犯罪になっちゃうし、そこまでリスクを負うメリットもない……はず。
「そうだ、軽金属加工課の高橋四音くん。彼女は野球経験者だったよね?」
げっ、なんかそうだったような気がする。
最近は自転車ばかり乗ってるみたいだけど、元々スポーツを続けていたというのは聞いていた。
「確か履歴書に書いてあった。大学の頃、女子硬式野球部だったって」
ちっ、そういうことだけはちゃんと覚えてるのね。
「確か君とも仲が良かったよね? 彼女と一緒にメンバー集めをすればいいじゃないか。まあ、君に断られたら直接四音くんに頼むだけだけど」
今ここで社長の依頼を断っても、私抜きでこのプロジェクトは実行されるということだ。
四音が絡むというのであれば私も一枚噛みたい。そして美味しいところだけをいただきたい。
「社長。お言葉ですが、四音と私が社員を誘ってもメンバーは集まらないと思いますよ」
無い知恵を絞りながら、私は必死に言葉を紡ぎ始める。
「野球チームのメンバーに選ばれてしまうと、試合で週末がつぶれることになりますよね? 練習だってしなくちゃいけないです。仕事で疲れている若者が、わざわざ休暇をつぶして参加するでしょうか?」
そうだ、その通りだ!
自分の中のもう一人の私が叫んでいた。
「少なくとも、仕事の一環として扱っていただけないでしょうか? もしくは一勝につきいくらという風に特別ボーナスを出してもらえるとか?」
すると社長はうーんと唸りながら考え始めた。
その様子で私は確信する。きっと社長は、ボランティアで喜んで野球に参加する社員がいると思ってたんだ。甘い甘いよ、今の若者はそれじゃ動かない。昭和の社畜じゃあるまいし。
「仕事の一環というのは無理だな。「これ仕事だから」って野球をやられたら、他の社員に示しがつかない」
まあ、そういう風に不満を口にする人もいるよね。特に四十過ぎの昭和の人なら。あいつら野球やって遊んでるのに給料もらえるのはズルいと、ネチネチと非難するに違いない。
そう言う人こそ野球チームに参加して欲しいんだけど、メンバーがおじさんばかりになっちゃうのは嫌だ。私がチーム作りするならばの話だけど。
「しょうがない、勝利数に応じて特別ボーナスを出そう。私のポケットマネーで」
そうこなくっちゃ!
しかし直後、社長はとんでもない数字を口にしたのだ。
「一勝につき一人一万円というのはどうだ?」
いやいやいやいや、それはあり得ない。
休暇を削って、必死に練習して、試合にも出てそれっぽっち?
一万円じゃ旅行なんてどこにも行けないし、服だってファストファッションになってしまう。
その時の私はよほど渋い表情をしてしまったのだろう。社長は慌てて前言を撤回した。
「わかったわかった、一勝につき一人三万円は?」
感情を表情に出してしまうのは秘書として失格と思いながらも、私は表情を崩さない。
「社長。いいですか? 春まで半年しかないんですよ? 正に急造チームなんです。そのチームが二勝以上できると思いますか? 二勝以上できるならその金額でもギリ飲めると思います。でも、最初の試合に勝てるかどうかも分からない、つまり頑張っても三万円しかもらえないかもしれないという状況でやる気が出ると思いますか?」
思わず熱弁してしまった。柄にもなく。
しかしそれが効いたのか、社長はやっと折れてくれたのだ。
「しょうがないなぁ。羽希くんには笑って欲しいから一人五万円にするよ。それ以上は出せん。それでやってくれるかね?」
それならば――。
私は社長に向かって、いつもの秘書スマイルを披露した。
〇 〇 〇
「というわけなのよ。四音、引き受けてくれる?」
「うん、まあ、羽希の頼みなら……」
その日の就業後、私は四音を食事に誘う。
事情を打ち明けると、渋々ながらも彼女は私の頼みを聞き入れてくれた。
「やっぱ土日が潰れるのは嫌?」
「それもあるけど、ご褒美が勝利ボーナスだけっていうのもね。しかもたったの五万でしょ?」
「だよね。五万じゃ近場の貧乏旅行しか行けないもんね。でもね、これでも私は粘ったのよ。だって最初は一万だったんだから」
「マジで? ケチやなぁ、あの社長」
「なんとか二勝できればいいんだけど……」
二勝できればボーナスは十万円に膨らむ。そうなれば、もう少しマシな旅行に行くことができる。
「んなことできるわけないじゃん。そもそもの話、うちの会社でメンバーなんて集まるのかしら?」
「そこを四音の魅力でなんとか」
私は四音に向かって両手を合わせた。すると彼女は私の顔を覗き込む。
「もしさ、私を含めて八人しかメンバーが集まらなかったらどうすんの?」
一体どうするんだろうね……。
完全に他人事の顔をしている私のことを見透かした四音は、ニヤリと口角を上げた。
「そん時は試合に出るんだよね、羽希も」
「えっ?」
そんなことは考えてもいなかった。
社内トップクラスの可愛らしさを誇る四音が誘えば、メンバーなんてちょちょいのちょいで集まると思ってたから。
でも、もし八人しか集まらなかったら――。
間違いなく社長は私にも出場しろと言うだろう。
「なに? それは考えてなかったの? 人には出ろって言っておきながら」
「い、いや、四音が誘えばその、あの……」
「私は一緒に出たいな、羽希と一緒に。それにね……」
そう言いながら彼女は視線を下げる。ニヤニヤしながら、私の胸のところまで。
「ぜひ見てみたいの」
やっぱそう来たか。
私の胸のサイズはFカップ。いわゆる巨乳ってやつだ。だから運動も苦手で、走るのも嫌なのだ。
野球のユニフォームなんて着た日には……。
「ぱっつんぱっつんの羽希のユニフォーム姿」
「嫌よ。そもそも女性用のユニフォームってあるの? 男性用だったら四音が言うように胸のボタンが閉まらないよ」
「スポーツブラつければ収まりがよくなるけどね。私の場合はだけど」
四音の胸のサイズはCカップ。それくらいだったら問題はないのにな。
「それつけてもダメなのよ。服選びはいつも困っちゃう」
「贅沢な悩みね。でも、男を集めるにはもってこいじゃない。ぱっつんぱっつんの羽希が勧誘したら一発でメンバーが集まるよ」
そういう考え方もあるのか。
なんて納得してる場合じゃない。そんなのは絶対嫌だ。
それに勧誘するってことは社内でユニフォーム姿になるってことだよね。それって何のコスプレ? 変なオタクしか集まらないんじゃないの?
「そもそも社長が全部揃えてくれるんだよね? ユニフォームとか道具とかって」
「そうするって言ってたけど」
「じゃあさ、最初に私と羽希のユニフォームを揃えてもらえるよう社長に頼んでよ。そしたらチームへの加入を考えてあげるよ」
「そんなぁ……」
「じゃあ、やんない」
四音は悪戯っ子の表情をする。それも可愛らしいんだけど、さ。
「分かったよ。社長に二人のユニフォームをおねだりするからさぁ……、会社でユニフォーム姿にならなくてもいいよね?」
「ダメ。それじゃメンバー集まんない」
「カンベンしてよ……」
いつの間にか私がメンバーを勧誘する話になってない?
これって何? ミイラ取りがミイラになるってやつ?
いや、ミイラ取りを依頼した私がミイラ取りになるってやつだわ。
こうして私たちは、ユニフォーム姿でメンバーの勧誘をすることになってしまったんだ。
アイボリーの上下のユニフォームの胸に、飛田LITEサプライのロゴを縫い付けて。
それにしても、野球のユニフォームってこんなにもストレッチ性が高いなんて知らなかった。胸のボタンは閉められないかと思ってたけど、なんとか収まってくれたし。
四音のユニフォーム姿もかなり破壊力があったなぁ……。彼女、普段から自転車で足腰を鍛えていたからね。勧誘に行くと、ぱっつんぱっつんの四音の太ももか私の胸に視線が集中しているのがよくわかる。全く男ってやつは!
そのお陰なのか、九人のメンバーはあっという間に集めることができた。
〇 〇 〇
「大変だよ、羽希!」
四音が秘書室に飛び込んできたのは、最初のミーティングの直後だった。
自己紹介までは私も会場にいたんだけど、話し合いがポジション決めになると私は会場を出て秘書室に戻ってきていたのだ。だって九人集まったんだから、私は試合に出る必要はない。
「どうしたの四音? ポジション争いで喧嘩にでもなったの?」
「喧嘩になる以前の話だよ。集まったメンバーって、実は全員が内野を守れない人たちばかりだったんだよ」
「?????」
それってどういうこと?
野球のことあまり知らないからよくわかんない。
内野を守れない人ってまさかの内野恐怖症ってやつ? きっと子供の頃に受けた千本ノックがトラウマになってるんだ、可哀そうに……。
思わず同情しそうになっていると、四音がツッコミを入れてきた。
「なにウルウルしてんのよ。スポ根の話じゃないから」
「じゃあ何でなの? 内野を守れないって?」
すると四音はふうっとため息をついた。
「羽希って、ホントに野球を知らないんだね」
「そうだって最初から言ってるじゃん」
「内野が守れないっていうのはね……」
その理由は!?
「全員左利きだったんだよ」
「…………」
ポカンとする私に対して、四音は再び深いため息をついた。
「そこから説明しなくちゃいけないのか……」
「そうよ。何でなのか教えて。何で左利きだったら内野が守れないの?」
「それはね」
こうして私は、四音から野球のレクチャーを受けることになった。
「そもそもの話、羽希はプロ野球とか観てるの?」
「ぜんぜん」
「そうだよね……」
何度も落胆する四音が可哀そうになってきたから、私は慌てて補足する。
「でもね、ほら、WBCってやつは観てたよ。ショーヘイ君大好きだから。打ったら、一塁、二塁、三塁って反時計回りに走るんでしょ? そしてホームに戻ってきたら一点。それくらいは知ってるよ」
「まあ、それだけ知ってたら十分か……」
四音は私を向いておもむろに説明を始める。
「内野の守備なんだけど、一塁を守る人がファースト、一塁と二塁の間を守る人がセカンド、三塁を守る人をサードというの」
「うんうん」
それくらいだったら私も分かる。
「そして二塁と三塁の間を守る人をショートストップといって、略してショート。なぜショートストップというのかについては所説あるんだけどね」
「ほお」
すると四音は身振り手振りを加え始めた。
「じゃあ次は、打者がボールを打つところを連想してみて。そのボールをサードやショートやセカンドが捕球するところを」
瞳もちょっと輝いてきた。本当に彼女は野球が好きなんだ。
「まず打者がゴロを打った。それを守備の選手が体の正面で捕る。ここまではいいよね?」
「うん」
「そしたらサード、ショート、セカンドの選手はどっちに投げる? 右側? 左側?」
うーん、どっちなんだろう?
一塁側に投げるわけだから――
「右側?」
「いやいやいやいや、それはテレビの画面での話でしょ? 選手になった気持ちで考えてみてよ」
選手の気持ちか……。
打者が打って、自分は選手でゴロの球を捕って、一塁はえっと、左にあるから――
「左側か」
「そう。左側に投げるの」
「そっか、右利きの選手ならそのまま左側へ投げられる」
「その通りよ。でも左利きの選手は、一度体の向きを変えないと強い球は投げられない。このコンマ数秒の遅れが致命的になっちゃうから、左利きの人は内野を守れない」
ほおほお、そういうことだったのね。
やっとその理由が分かったような気がする。
「キャッチャーもね、左利きの人がやりにくいポジションなの」
「キャッチャーも?」
ええっ、それってどういうこと?
キャッチャーから見たら一塁は右側じゃん。そしたら左利きの方が有利なんじゃないの?
「理由は二つあって、その一つはけん制球」
「けん制球って?」
「ランナーが盗塁した時に投げる球よ。走られたらすぐ二塁に投げなきゃいけない」
なんかそんなシーンあるね。ショーヘイ君はいつもセーフだけど。
「その時、左利きだと右バッターが邪魔になっちゃう。大抵の場合、右バッターの方が多いからね。左利きのキャッチャーは、それだけで不利になっちゃうの」
へえ、そういうものなんだ。かなりデリケートな話なのね。
「もう一つはホームでのクロスプレー」
「クロスプレーって?」
「ランナーが点を入れようとしてホームに帰ってくる時、それをアウトにしようとするプレーよ」
あれってクロスプレーっていうんだ。なんか迫力のあるシーンだよね。怪我しないでよとドキドキしちゃう。
「右利きのキャッチャーなら左手で捕球するから、そのままランナーにタッチできるの。こんな風にね」
四音は身振りを添えてくれた。左手でボールを捕ってランナーにタッチするという身振りを。
これなら分かりやすい。
「スムーズでしょ? でも左利きは違う。こんな風に右手で捕球するから、ランナーにタッチしにくい」
「ほうほう、確かに」
「このコンマ数秒の遅れが致命的なのよね。これでセーフになっちゃったら試合に勝つことも難しくなっちゃう。だから左利きの選手は内野を守れないのよ」
やっと分かったような気がする。
でもそれって、プロの話じゃないの?
「ねえ、四音。今度開催される市長杯選手権って、そんなにレベルの高い大会なの?」
「いや、そんなことはないと思う。今回が第一回だから、詳しくは分からないけど」
「じゃあ、別に左利きだっていいんじゃないの? 内野を守る人が全員」
「そ、そりゃ、そうかもしれない、けどさ……」
きっと経験者の四音は、ちゃんとした野球がやりたいのだろう。私の意見に言葉を濁してしまうところがその証拠なんだと思う。
でも私たちは所詮寄せ集めなのよ。半分くらいは私のおっぱい目当てで集まったのかもしれないんだから。
「守りで不利な分、打てばいいんじゃない?」
「簡単に言ってくれちゃってさ。それができれば苦労しないって。いいよね、羽希は試合に出ないんだから」
と言いながら、四音ははっとした顔をする。
「そっか、苦労しない、か……」
彼女は何かを思いついたようだ。みるみる表情が明るくなってくる。
「最小限の動作で最大限の効果を発揮するようになればいいんだわ」
声まで生き生きしてきた。もしかしてそれって私のおかげ?
「ねえ、羽希。このチームは私が好きにしてもいいんだよね?」
「うん、いいよ。社長もそう言ってたし」
「むふふふふ、なんか面白い作戦を思いつきそうなんだよね。ちょっと考えてみるわ」
キラキラと少女のように瞳を輝かせる四音。
その時、彼女が考えている作戦を私は想像することさえできなかった。
〇 〇 〇
三月になると、大会の開催が正式に発表される。
――第一回、社会人軟式野球市長杯選手権大会。
同時に出場チームのエントリーが始まった。
「ねえ、四音。チーム名ってどうする?」
チームやメンバー登録などの事務仕事はすべて私の役目だ。試合に出ない分、別のところで貢献しないとみんなに恨まれそうだし。
「単純に『飛田LITEサプライズ』でいいんじゃない? 帽子と胸に会社名が書いてあるんだからさ」
そうなのだ。
経費節約なのか、我がチームのユニフォームは背番号付きのアイボリーのユニフォームをそのまま使っており、胸の部分に会社のロゴを貼り付けただけの超シンプルだったりする。
「そうよね。チーム名……飛田LITEサプライズ……と」
この書類を出せばもう後には引けない。勝って五万円を獲得するか、負けて恥をさらすかだ。
まあ、社長としては市長に恩を売りたいだけだから、出場するだけでいいと思うんだけど。
「うちのチーム、二勝以上できると思う?」
「無理だね。今考えてる作戦も一試合限定だし。でも羽希が試合に出てくれたら、奇跡が起きるかもよ」
えっ、それって……?
私の秘めたる才能が
「羽希の揺れるおっぱい見たさにメンバーが奮起すると思うから」
そっちかよ。
まあ、そんな感じじゃないかと思ってたけど。
「というのは冗談で、試合当日は必ずユニフォームで来てよね。羽希のユニフォーム姿が目当てで参加するメンバーもいるんだから。メンバーが揃わなくて不戦敗ってなったら最悪よ」
「ええっ? 本当にユニフォームで来なくちゃダメ?」
勧誘の時、すごく恥ずかしかったんだから……。
「ダメよ。三塁コーチャーとかやってもらうかもしれないから、マジな話ユニフォームは必至よ」
「三流紅茶? 何、それ」
「相手チームのサードやピッチャーの集中力を逸らす役目よ。そのおっぱいでね」
すると四音は急に真面目な顔になった。
「それにね、羽希用のユニフォームは特別製なの。金属繊維を織り込んであって胸をしっかりとホールドするから、今までのユニフォームよりも着心地が格段に良くなったと思う。試合には絶対それ着て来てね!」
まあ、それなら着てもいいかもしれない。胸をしっかりホールドしてくれるなら。
こうして私も、ユニフォーム姿で試合に参加することになったんだ。
〇 〇 〇
五月の晴れた日曜日。
いよいよ飛田LITEサプライズのお披露目だ。
トーナメントは四月から始まっていたが、会場となる球場が少ないことと五十チーム以上の参加があったため我がチームの初戦は五月になってしまった。
相手チームは相庭製薬。上下が水色のユニフォームに身を包んでいる。
「さあ、勝って五万円をゲットするわよ!」
円陣の中心でチームにカツを入れる四音。そしてメンバーは守備位置に散っていった。
ピッチャーは鈴木投一(すずき とういち)。中学校まで野球をやっていたようでそれなりの球速を投げる。もちろん左利きだ。
それにしても四音が考えた策って、本当に上手くいくのかしら? 概要は私も聞いているけど。ガンガン打たれてボロ負けするんじゃないかと不安になってくる。
ベンチで一人っきりになると、そんなネガティブな場面ばかり連想してしまう。周囲にメンバーがいないことが、こんなに心細いものとは思わなかった。
バッターボックスに相手の一番バッターが立った。いよいよプレイボールだ。
投一が大きく振りかぶり、第一球を投げる。低めの速球がバッターの前を通り過ぎ、パンと気持ちの良い音とともにキャッチャーのミットに収まった。
「ストライッ!」
球審のコールに私は少しほっとする。少なくともガンガン打たれるという感じではなかったから。
第二球。今度は少し遅めの投球。これは変化球というのだろうか? バッターがバットを振って、ゴンという金属バットに軟球が当たる鈍い音がした。
ボテボテの内野ゴロ。セカンドを守る四音が打球に向かってダッシュする。
これはなかなか微妙なタイミングだ。打球の勢いがなさ過ぎて、四音が捕球するのに時間がかかってしまった。その間に打者は一塁まであとわずかの距離に到達している。
間に合うか!?
息を飲んだ次の瞬間、私は目を見開いた。四音の必殺技が炸裂したから。
利き手の左手で直接打球を掴んだ彼女は、そのまま左手を外側に振りぬいたのだ。素早くテニスのバックハンドのような振りで。
ノールックで投じたその球は、すごいスピードでファーストミットに収まった。
「ヒズアウッ!」
塁審のコールに球場がどよめく。
そりゃ、そうよね。あんなプレーを見せつけられたんだから。
――必殺フリスビー投法。
これが四音が考え出した作戦だった。
内野手として左利きが不利なのは、テニスのフォアハンドと同じ振りで一塁に投げようとするから。この考え方を変えればすべては解決する。つまり、バックハンドの振りで投げることができればよいということ。
そのためにこの数か月間、内野手は筋トレに励むことになった。特に前腕筋、深指屈筋、浅指屈筋、広背筋、腹斜筋の筋トレを重点的に。
さらにノールックで一塁に投げられるよう特訓を重ねた。フリスビー投法を行う際、一塁側を向いてしまうと体が開いて送球の勢いが落ちてしまうから。体が前を向いたまま腕を振りぬいた方が、速い送球を生み出すことができる。
その成果を今、四音が見せつけてくれたのだ。
「いいぞ、四音くん!」
観客席から社長の声がする。社長も満足してくれてほっとする。今のところは、だが。
バッターボックスに二番バッターが立つ。
一球目の直球はバットを振らずにストライク。二球目は遅い球を振ってくれて空振り。
なんかいいんじゃないの、投一くん。と思っていたら、ゴンと鈍い音がする。三球目を打たれてしまったのだ。
「でも、サードゴロだ。正五行け!」
サードの渡辺正五(わたなべ しょうご)が三塁ベースの近くで打球をキャッチする。そしてフリスビー投法が炸裂――と思いきや、なんとも山なりの送球になってしまった。
「セーフ!」
これでは一塁には間に合わない。
これが左利きのデメリットか? 単に正五の筋トレが足りなかっただけなのか? そもそもフリスビー投法で三塁から一塁まで投げるのは無理なのか?
どちらにせよ、相手チームに弱点を見せてしまったことは確実だ。
ワンアウト、ランナー一塁。
打つ気満々の三番バッターは、投一の初球の速球を振りぬいた。パンという音と共に速い打球が三塁線に飛んでいく。
「さあ正五、名誉挽回よ!」
横っ飛びで打球をキャッチした正五は、起き上がりながらフリスビー投法で二塁に送球する。今度は低くて速い送球だ。そしてそれをキャッチした四音は、同じくフリスビー投法で一塁に送球。
「ヒズアウッ!」
フリスビー送球の見事な連携プレー。これは爽快だ。観客席からも歓声が湧き起こる。
これがダブルプレーというやつなのだろう。間近で見るのは初めてだ。
それにしてもめちゃくちゃ気持ちがイイ。私は立ち上がり、拍手でベンチに戻るメンバーを出迎えた。
「すごい、すごいよ」
私は四音とハイタッチする。
「でしょ? あの連携プレー、結構練習したんだから」
「美しかったし、見応えあったよ!」
我々は一回表を無失点で乗り切ることに成功した。
〇 〇 〇
一回の裏。我がチームの攻撃の番だ。
一番バッターは四音。一球目を見送った彼女は、直後にベンチに視線を送る。
これならイケる――と。
二球目。遅めのボールを彼女はバットに当てた。一塁に走りながらバントの恰好で。
コンという軽い音と共に前に転がるボール。ホームベースと一塁のちょうど中間辺りだ。
これは上手い! 慌ててピッチャーがボールに近づき、掴んだ時には四音は一塁を駆け抜けていた。
「ナイス、四音さん!」
「さすがは監督」
ベンチからの声に四音は高々と親指を立てる。ベンチも彼女に続けとイケイケムードになってきた。
二番バッターはサードの正五。
四音とは異なり、ブンブンとバットを振っている。
おっ、打つ気満々ね。これは面白そうと思いきや――。
一球目は空振り。二球目も遅めのボールを空振ってしまった。
あーあ、ツーストライクになっちゃった。でも当たれば飛びそうだよと期待していると、正五は予想外の行動に出る。なんと三球目をバントしたのだ。ボールはまたもやホームと一塁のちょうど中間くらいに転がった。
不意を突かれたピッチャーが打球を捕りに行くけど時はすでに遅し。正五は一塁、四音は二塁に到達していた。
ノーアウト一塁二塁。これはチャンスだ。
三番バッターはピッチャーの投一。またもやブンブンとバットを振っている。
これが当たれば一点じゃないの、と思いきや、彼も正五と同じく連続空振りしていきなりツーストライクに追い込まれてしまった。
ちょっと何やってんのよ投一。今度はちゃんとバットに当てるのよ、とドキドキしていると、投一も予想外の行動に出る。またもやバントをしたのだ。打球は前の二人と同じく、ホームと一塁のちょうど中間に転がった。
これもまた見事。ピッチャーがボールを捕った時は、ランナーは一塁を駆け抜けてノーアウト満塁となった。
四番バッターは山田捕二(やまだ ほうじ)。彼もブンブンとバットを振っている。
さすがに今度は長打してくれるだろう、四番だしと思いきや、やっぱりツーストライクに追い込まれる。
なに? このデジャビュ―は。
まさか、次に起こる展開は――と思った通り、捕二はバントをした。しかも、ホームと一塁の中間地点に正確に。
四音がホームベースを踏んで一点先制! ベンチにいる選手は全員がハイタッチで四音を出迎えた。
「すごいよ四音。みんなが同じところにバントできるなんて、相当練習したんでしょ?」
しかし、彼女から帰ってきたのは意外な返事だった。
「全然」
「全然って、そんなことないでしょ? みんな同じところにバントしてたよ。ものすごく絶妙な場所に。しかも追い込まれてから」
「みんな左利きで左バッターだからね。一塁に走りながのセーフティバントが一番確実に塁に出れる方法なの」
「へえ、そうなんだ」
「それにね、あれにはちゃんとした理由があるのよ。大きな声では言えないけどね」
そして四音は、耳打ちするように小声で種明かしをしてくれたんだ。
「あれはね、バットに仕掛けがあるの」
ええっ、バットに?
そんな風には見えないけど。
「内臓された二台のカメラで投球の軌道と速度、そして相手選手の守備位置を計測しててね、インパクトの瞬間にAIが表面の形状と反発係数を変化させて相手が最も捕りにくい場所にボールを転がすことができるの。バント専用、瞬時形態最適化AI搭載バット、略してバントくんって呼んでるんだけどね」
「なにそれ。そんなことができるの?」
「そんなことって何よ。羽希が秘書やってるのは何の会社? うちらは軽金属加工のプロなの忘れてるでしょ」
そうだった、そうだった。うちの会社は飛田LITEサプライだった。
「でもこの作戦には弱点があるの。バントしかしないと気づかれたら相手チームも対策してくるでしょ? だから最初の二球はブンブン振ってもらって、長打があるぞって思わせる」
みんなが豪快に空振りするのには、理由があったんだ。
「まあ、本当に当たって長打になればそれに越したことはないんだけどね。急造チームだとそうは上手くいかないよね」
その通りだよ。あれが当たればいいのにってずっと思ってたんだから。
「でもね、ツーストライクになるといいことが一つあるの」
「それって?」
「相手チームは、バントはしてこないと思ってしまう」
「ええっ、そうなの? 何で?」
「それはね、スリーバントってルールがあるからよ。ツーストライクに追い込まれてからのバントは、失敗すると即アウトになっちゃうの。ほら、バントってボールを当てやすいから無限にファールできちゃうでしょ?」
「へえ、そんなルールがあるんだ……」
「だから守備側は、ツーストライクになった時点でバントの可能性を低く想定してしまう。でもバントくんを使うと、追い込まれてからも確実にフェアゾーンの最適解にボールを転がすことができるの」
四音はバッターボックスに目を向ける。そこではショートの山本六太(やまもと ろくた)が打席に立っていた。
「でもそれでセーフになるのは最初のうちだけ。だんだんと手の内が分かれば対策されちゃう」
続いて彼女は相手の守備位置に視線を移す。確かに相手チームの守備位置が変わっている。ファーストとサードはかなり前に出ていて、外野も極端に前で守っていた。
「ホントだ。あれじゃバントしてもすぐにボールを捕られちゃう」
「そうなの。だからね、この虎の子の一点を大事にしなくちゃいけないの」
六太は一球目でバットを思いっきり振る。当たれば外野の守備を軽く越えられると思えるくらい。が、当たらない。
「あれが当たればねぇ……」
「そう簡単にはいかないのよ。羽希もバッターボックスに立ってみればわかるわ」
「嫌よ、そんなの。怖いもん」
「でも相手チームも相当怖いと思うよ。別の意味でね」
「だよね、あれが当たったら即失点だもんね」
「面白いでしょ、野球って。羽希もやる気になった?」
「いや、全然」
六太は二球目も強振する。が、やっぱり当たらない。
「てことは、次はバント?」
「になっちゃうよねぇ~」
相手選手もぐっと守備位置を前進させた。もうバレバレじゃん。
それにも関わらず六太はバントを強行。同時にダッシュしていたファーストが捕ってホームに送ってアウト。さらにキャッチャーはカバーに入ったセカンドに投げて、バッターもアウトになってしまった。
ツーアウト二塁三塁。しかしまだまだチャンスは続いている。
次のバッターはファーストの田中三郎(たなか さぶろう)。
彼も最初はブンブンとバットを振るがやっぱり当たらない。そしてその後のバントではホームでのクロスプレーでスリーアウトになってしまった。
「こんな風に対策されちゃうと打つ手がないのよ」
「バットを振って、ボールに当てることができればいいのにね……」
私と四音は頭を抱えるのであった。
〇 〇 〇
その後、試合は一対〇でサプライズがリードしたまま膠着状態になってしまう。
バントしか攻撃方法がないサプライズは、塁にランナーを貯めることができてもホームを踏むことができない。相庭製薬の極端な前進守備によって。
一方の相庭製薬も、サプライズの投一を打ち崩すことができなかった。ランナーを一塁に出せても、二塁や三塁でアウトにされてしまう。左利きの守備がこんなところに活かされるとは、誰も予想していなかっただろう。
しかし最終回の七回表。相庭製薬は投一の攻略に成功する。疲れで球威が衰えたところに三連打を浴びせて二点を奪ったのだ。
七回の裏。サプライズの攻撃。スコアは一対二。
この回に点を入れなければ、我がチームは負けてしまう。
ちなみに同点になった場合は、延長戦を行うのではなく、同じ守備同士のじゃんけん大会で勝敗を決めることになっている。
「みんな、この回で逆転して五万円ゲットしようよ!」
四音がメンバーにカツを入れるが、みんなは死んだ魚のような目をしている。普段から運動をしていないためか肩で息をしているメンバーもいた。
打順は四音からだ。
六回までと同様にバントで一塁に出る。
続く正五、投一の二人もバントで出塁してノーアウト満塁。
ここまでは相庭製薬もやらせてくれるのだ。しかしここから極端な前進守備でことごとくホームでアウトにされてしまう。
この回も例外ではなかった。バットを振り回しても当たらない捕二は、ツーストライクからバント。ホームで四音が、一塁で捕二がアウトになって、ツーアウト二塁三塁になってしまう。
絶体絶命。ああ、五万円は夢と散るのか、と諦めたその時、ベンチに戻ってきた四音が動いた。球審に予想外の代打を告げたのだ。
「代打、来雲土羽希、よろしくお願いします!」
えっ、私?
それってどういうこと?
ポカンとする私のところに、四音がバントくんを持ってやってくる。
「いい羽希、私たちはもうあなたに賭けるしかないの。これ持ってバッターボックスに立って、一塁まで全力疾走してほしい」
「む、無理だよ。私野球なんてやったことないし、バットだって持ったこともないんだから」
「大丈夫。このバットは我社の技術を込めた最高傑作だから。今までのバント成功率は百パーセントだったよね。今は守備位置のバグでやられてるけど」
「そ、そうだけど……」
「これ持ってバントの恰好して、バッターボックスに立ってるだけでいいから。怖かったら目をつむっててもいいから」
「えー…………」
嫌がる私に、他のメンバーも声を掛けてくれる。
「羽希さん、お願いします!」
「最後に僕たち見たいんです、羽希さんが全力疾走するところを!」
「みんな…………」
思わず涙が溢れて来そうになった。
こんなにも疲れているというのに、それほどまでに私のおっぱいが揺れるところを見たいのかよ。
「わかった、私やるわ」
こうなったらヤケクソだ。
「ありがとう、羽希」
私は四音からバントくんを受け取り、右バッターボックスに立った。
生まれて初めて立つバッターボックス。
球審に挨拶をして、土のグラウンドに白線で囲まれた長方形の聖地に足を踏み入れる。私の心臓はバクバクだ。
バントくんを胸に抱えてフィールドを向く。ピッチャーそして広大なフィールドに散らばる選手たちがみんな私に注目している。それは相手選手だけじゃない。三塁の正五も二塁の投一も私に熱い視線を届けてくれていた。チラリと観客席を見ると、みんなが息を飲んで私を見つめている。
そうか、ここは舞台なんだ。
主役だけが立つことを許されたステージ。
いや違う、ここに立つ者すべてが主役になれる特別な場所なんだ。ここでの振る舞い一つで物語のゆくえが決まってしまうことすらある。正に今がその時。
こんな重要な役を私が演じてしまっていいのだろうか。
メンバー集めと事務作業にしか貢献してこなかったおっぱいだけが取柄の私が。
そんな雑念は一瞬で吹き飛ばされる。ピッチャーが一球目を投じたのだ。
ものすごいスピードで私に近づいてくる白球。驚きで私はのけ反った。
ちょ、ちょ、ちょっと、なに今の。当たったら死ぬよ、こんなの絶対無理だよ。
思わず涙がこぼれて来る。代打なんて引き受けるんじゃなかったと。
同時に私は、先ほどまでの考えを改めていた。主役になれる舞台なんてそんな生やさしいものじゃなかった。ここは生きるか死ぬかを問う場所だ。四音や他のメンバーは、こんなに怖いものと対峙してたんだ。私にそれができるか、全く自信がない……。
「羽希さん、頑張って!」
「大丈夫、軟球だから当たっても死にませんよ!」
「羽希ならできる。みんなを信じろ! 私を信じろ!」
背後のベンチから次々とメンバーの声が飛んでくる。
みんな勝手なこと言っちゃって。
でもそれが嬉しくて心強い。この場所に立って、初めて私はメンバーの一員になれたような気がした。
それならば――やるしかない!
静かに目を閉じて、私はバットを構えた。バントの恰好で。
視覚が失われるとその他の感覚が研ぎ澄まされていく。
四音の話によると、このバットには目が付いているという。迫りくるボールや相手の守備位置を絶えず捕捉している二つのカメラという目が。今はそれを信じるしかない。四音がこのバットに組み込んでくれた我社の最新のテクノロジーと共に。
応援やヤジを意識から消し去ると、キャッチャーの息遣いが聞こえてくる。そしてシュルシュルと近づいて来る軟球の音。
すると奇跡が起きた。バットが自然に動き出したのだ。私の意に反して。
ええっ、なにこれ?
驚いて目を開けると、ピッチャーからの投球がバットに当たるところだった。コンという小気味良い音を立てて宙に弾かれたボールは、きれいな弾道を描いて二塁と三塁の間に飛んでいく。そして超前進守備のレフトの頭上を越えた。
「走れ! 羽希ィ!!」
「羽希さん、一塁ですよ!」
えっ、一塁に走るの?
見ると、六太がピョンピョンと飛び跳ねながら手招きしている。一塁コーチャーボックスで私に向かって「こっちこっち!」と叫びながら。
私はバントくんを地面に置くと、一塁に向かって走り始めた。
全力疾走なんて何年ぶりだろう、と思う間もなく息が切れ始めてしまう。
苦しい、まだ走らなきゃいけないの? あとどれだけ? 一塁はまだなの!?
「羽希ィ、死ぬ気で走って! 一塁でセーフになんなきゃ五万は手に入らないよ!」
「そうですよ、五万円ですよ」
そうだ、五万円だ。この走りに五万円がかかっているんだ!
私は最後の力をふり絞り、一塁ベースが見えたとたんヘッドスライディングした。
後から聞いた話では、すでに三塁の正五も二塁の投一もホームインしており、相手チームは最後の希望にかけて一塁に送球したらしい。そしてファーストが捕球するのと私が一塁ベースを抱き抱えるのはほぼ同時だったのだ。
球場全体が静まる。
すべての人の意識が、球審のコールに集中した。
「セーフ!」
そ、それって……。
やった、やったよ! セーフだよ!!
「羽希さん、やりましたよ! 僕たち勝ったんです!」
興奮しながら一塁コーチャーの六太が手を差し伸べてくれる。
私はユニフォームの胸を土で茶色に染めながら体を起こした。
振り向くとメンバー全員が私のもとに駆け寄ってくる。嬉しくて涙がこぼれてくる。私は四音に強く抱きしめられた。
「すごいよ羽希! 三対二で逆転サヨナラ勝ちよ!」
「そうなの? 本当に私たち勝ったの?」
「そうよ、これで五万円ゲットだよ」
私は他のメンバーと一緒にホームベース前に並び、相手チームに挨拶をする。
グラウンド整備が終わってベンチを片づけていると、社長がベンチに来てくれた。
「みんな、よくやってくれた。いい試合だったよ」
「社長、五万円の約束、忘れてないですよね?」
私が訊くと、社長は呆れた表情をする。
「いきなりそれか? まあ、君たちにとっては重要なことだからね。ああ、もちろんだとも。次も勝ったら十万円だからさらに頑張ってほしい」
すると四音が驚く行動に出たのだ。
「すいません社長。私と羽希は今日の疲れを取るためにこれから一泊の温泉旅行に行ってきますので、失礼を承知で申し上げますが、今この場で二人分十万円と明日の有給休暇をいただけないでしょうか?」
ちょ、ちょっと四音。何言ってんのよ、そんなの初めて聞いたけど。
困惑する私をよそに、社長は私たちを労ってくれる
「二人は大活躍してくれたから特別に許そう。ゆっくり休んでくるといい」
そう言いながら財布の中から十万円を取り出してくれたのだ。
「ありがとうございます、社長!」
四音に合わせて私もお辞儀をする。
「じゃあ、いくよ! これから温泉に」
「四音っていつも唐突なんだから……」
こうして私と四音は、その日のうちに温泉に行くことになったんだ。
〇 〇 〇
二時間後。
私と四音は、温泉地に向かう特急列車に揺られていた。
試合終了後、自宅マンションに戻った私は軽くシャワーを浴びて化粧をし直し、荷物を持ってすぐ駅に向かう。
駅で四音は私に謝罪した。
「急に予約を取ったから近場の温泉しか空いてなかったけど、食事は豪華にしといたから許してね」
そんなことよりも私は四音に訊きたいことが山ほどあった。座席についた私は、早速彼女に質問する。
「いろいろと訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「だよね」
「まず、私の打席の時のことなんだけど……」
あれは不思議な体験だった。
私は目をつむってバントの恰好をしただけだったのに……。
あの時、一体何が起きたのだろう?
「ああ、あれね。バットが勝手に動いたでしょ?」
そうなのだ。
あの時、私は何もしなかったのにバットが勝手に動いてボールを弾き返したのだ。レフトの頭を越えるように。
「バントくんのオートパイロット機能なのよ。略しておっぱい機能ね」
「おっぱい機能って……」
オートパイロットって自動運転のことだよね。それをおっぱい機能って略したらいろいろなところからクレームが来るんじゃないの?
「あら、関係ないことはないのよ。羽希にユニフォームを渡す時に言ったよね、金属繊維が織り込まれてるって」
「うん。最初ごわごわしてるかなって思ったんだけど、胸がしっかりとホールドされて結構良かったよ」
「あれはね、おっぱいをホールドしていただけじゃないの」
「えっ、そうなの?」
「バントの構えをした時にバットを包み込むような磁場を形成して、バントくんを動かしていたのよ。バントくんからの情報、つまり投球と守備位置に関する情報をAIが処理して、最適な反発係数とスイング軌道を計算して瞬間的にバットを動かすことができるの」
マジか、そんな機能まで備えていたとは!?
「それでね、男があのユニフォームを着ても上手く磁場を形成できないのよ。バットの上側の磁場が作れなくてね。バントくんのオートパイロット機能を使うためには、Fカップ以上のおっぱいが必要なの」
それでなのか、私が代打に立たされたのは。
ようやくその理由が分かった。
「作戦名は『必殺、おっぱいでバットコントロール、球よ白き飛翔体を成せ』よ」
確かにおっぱいでバットをコントロールしていたみたいだから何も言えないんだけど、後半は『白き飛翔体となれ』が正解なんじゃね?
ていうか、このシステムってまずいんじゃないの? 負けたチームが知ったらカンカンになって怒るんじゃないのかな? まあ、それまでのバントだって同じなんだけど。
「からくりはわかったけど、相手チームにバレたらどうすんの?」
「もちろん反則負けだよね。だからこうして急いで温泉旅行に来てるんじゃない。反則負けになったらあの社長のことだから五万円すらもらえないわよ」
まあ、そうだよね。
ホテルや特急などの予約は全部四音にやってもらった。四音は最初からこれを計画していたに違いない。
「それにね、たとえ反則負けにならなくても次は勝てないわよ。バントとおっぱいだけで勝てるのは初戦だけだから」
それはそうだろう。試合の情報が伝われば、次の相手は最初からバントを警戒してくるに違いない。
「だから今夜はとことん楽しもうよ! 豪華な夕食と広々とした露天風呂が私たちを待ってるよ!」
「楽しみだね! ホテルとかの手配に感謝するわ」
「羽希のおかげで勝てたんだから当たり前よ。それと露天風呂ではその勝利のおっぱいを存分に拝ませてもらうから」
「ええっ、そんな……」
まあ四音は試合の準備で大変みたいだったし。
ずっと寝不足っぽい感じがしていたのは、こんなにすごいシステムを構築していたからだったんだ……。
今夜くらいは温泉でゆっくりして、勝利の美酒に酔おうと誓う私たちなのでした。
おわり
ミチル企画 2023夏企画
お題:『サプライズ』
「女性に優しくな!」
青空眩しい五月の日曜日の球場にヤジが飛び交う。
社会人軟式野球、第一回市長杯選手権大会の初戦。
左バッターボックスには、私の親友であり貴重な女性メンバーでもある高橋四音(たかはし しおん)が立っていた。
「絶対顔に当てんなよ~」
「うちの綺麗所だからな!」
それにしても四音は何を着ても似合う。我チームのユニフォームは上下がアイボリーのごくシンプルなものだが、それですら小柄でポニーテール姿の彼女の可愛らしさを引き立てている。ピチっとした太もももなかなかセクシーだ。
そしてそのユニフォームの左胸と帽子には、軽金属部品メーカーである我社『飛田LITEサプライ』のロゴが縫い付けられていた。
一方の相手チームは相庭製薬。上下が空色のユニフォームに身を包んでいる。
そのピッチャーが第一球目の投球動作に入った。両手を大きく振りかぶり、左足を高く上げ、右腕をホームベースに向かって勢いよく降り下ろす。
彼の指から放たれた軟式ボール。社会人の草野球にしては速く、コントロールもなかなかいい。シュルシュルと音をたてるボールは小柄な四音の前を通り過ぎ、パンと小気味良い音と共にキャッチャーミットに収まった。
「ストライッ!」
球審のコール。と同時に、四音は我々が陣取る三塁側ベンチを向く。これならイケる――と口角を上げながら。
さすがは野球経験者。このチーム作りも彼女と一緒にやり遂げた。
だから私は確信する。我々の作戦はきっと成功すると、四音と目が合った瞬間に。
私たちはなんとしてでもこの試合に勝たなくてはならないのだ。
こうして社長の鶴の一声で結成した軟式野球チーム、飛田LITEサプライズの攻撃が幕を開けた。
〇 〇 〇
それは半年前のことだった。
社長秘書の私、来雲土羽希(らいうんど うき)は突然社長の命を受けることになったのだ。
「羽希ちゃん、ちょっとお願いがあるんだが」
これはヤバい――と私のアンテナが危険を察知する。
社長が私のことを名前で呼ぶ時はいつも訳アリ案件だ。すぐにこの場から逃げねばならぬ。
「すいません社長。私、急ぎの用事が……」
が、社長はその隙すら与えぬ勢いで用件を口にした。
「今の市長、春になったら新しく軟式野球大会を始めるらしいんだが、それに出場するメンバーを集めて欲しい。チームを出してくれってしつこく頼まれちゃってさ」
つまり私に社内軟式野球チームを作れと、そうおっしゃってるわけですね。
「申し訳ありませんが、社長。私にはちょっと荷が重すぎるかと。野球の「や」の字もやったことがありませんので」
野球チーム作りなんてめんどくせー、というのが本音。
それにこの件には絶対裏がある。少なくとも、市長のメンツを保って差し上げるという社長から市長への「貸し」に加担せよということだ。もしかしたら、大会の盛り上がりに乗じて市民球場の新設という話が上がるというシナリオが組まれているのかもしれない。そしたら我社が優先的に部品供給を――って、それじゃ社長と思考が同じじゃない。下手したら犯罪になっちゃうし、そこまでリスクを負うメリットもない……はず。
「そうだ、軽金属加工課の高橋四音くん。彼女は野球経験者だったよね?」
げっ、なんかそうだったような気がする。
最近は自転車ばかり乗ってるみたいだけど、元々スポーツを続けていたというのは聞いていた。
「確か履歴書に書いてあった。大学の頃、女子硬式野球部だったって」
ちっ、そういうことだけはちゃんと覚えてるのね。
「確か君とも仲が良かったよね? 彼女と一緒にメンバー集めをすればいいじゃないか。まあ、君に断られたら直接四音くんに頼むだけだけど」
今ここで社長の依頼を断っても、私抜きでこのプロジェクトは実行されるということだ。
四音が絡むというのであれば私も一枚噛みたい。そして美味しいところだけをいただきたい。
「社長。お言葉ですが、四音と私が社員を誘ってもメンバーは集まらないと思いますよ」
無い知恵を絞りながら、私は必死に言葉を紡ぎ始める。
「野球チームのメンバーに選ばれてしまうと、試合で週末がつぶれることになりますよね? 練習だってしなくちゃいけないです。仕事で疲れている若者が、わざわざ休暇をつぶして参加するでしょうか?」
そうだ、その通りだ!
自分の中のもう一人の私が叫んでいた。
「少なくとも、仕事の一環として扱っていただけないでしょうか? もしくは一勝につきいくらという風に特別ボーナスを出してもらえるとか?」
すると社長はうーんと唸りながら考え始めた。
その様子で私は確信する。きっと社長は、ボランティアで喜んで野球に参加する社員がいると思ってたんだ。甘い甘いよ、今の若者はそれじゃ動かない。昭和の社畜じゃあるまいし。
「仕事の一環というのは無理だな。「これ仕事だから」って野球をやられたら、他の社員に示しがつかない」
まあ、そういう風に不満を口にする人もいるよね。特に四十過ぎの昭和の人なら。あいつら野球やって遊んでるのに給料もらえるのはズルいと、ネチネチと非難するに違いない。
そう言う人こそ野球チームに参加して欲しいんだけど、メンバーがおじさんばかりになっちゃうのは嫌だ。私がチーム作りするならばの話だけど。
「しょうがない、勝利数に応じて特別ボーナスを出そう。私のポケットマネーで」
そうこなくっちゃ!
しかし直後、社長はとんでもない数字を口にしたのだ。
「一勝につき一人一万円というのはどうだ?」
いやいやいやいや、それはあり得ない。
休暇を削って、必死に練習して、試合にも出てそれっぽっち?
一万円じゃ旅行なんてどこにも行けないし、服だってファストファッションになってしまう。
その時の私はよほど渋い表情をしてしまったのだろう。社長は慌てて前言を撤回した。
「わかったわかった、一勝につき一人三万円は?」
感情を表情に出してしまうのは秘書として失格と思いながらも、私は表情を崩さない。
「社長。いいですか? 春まで半年しかないんですよ? 正に急造チームなんです。そのチームが二勝以上できると思いますか? 二勝以上できるならその金額でもギリ飲めると思います。でも、最初の試合に勝てるかどうかも分からない、つまり頑張っても三万円しかもらえないかもしれないという状況でやる気が出ると思いますか?」
思わず熱弁してしまった。柄にもなく。
しかしそれが効いたのか、社長はやっと折れてくれたのだ。
「しょうがないなぁ。羽希くんには笑って欲しいから一人五万円にするよ。それ以上は出せん。それでやってくれるかね?」
それならば――。
私は社長に向かって、いつもの秘書スマイルを披露した。
〇 〇 〇
「というわけなのよ。四音、引き受けてくれる?」
「うん、まあ、羽希の頼みなら……」
その日の就業後、私は四音を食事に誘う。
事情を打ち明けると、渋々ながらも彼女は私の頼みを聞き入れてくれた。
「やっぱ土日が潰れるのは嫌?」
「それもあるけど、ご褒美が勝利ボーナスだけっていうのもね。しかもたったの五万でしょ?」
「だよね。五万じゃ近場の貧乏旅行しか行けないもんね。でもね、これでも私は粘ったのよ。だって最初は一万だったんだから」
「マジで? ケチやなぁ、あの社長」
「なんとか二勝できればいいんだけど……」
二勝できればボーナスは十万円に膨らむ。そうなれば、もう少しマシな旅行に行くことができる。
「んなことできるわけないじゃん。そもそもの話、うちの会社でメンバーなんて集まるのかしら?」
「そこを四音の魅力でなんとか」
私は四音に向かって両手を合わせた。すると彼女は私の顔を覗き込む。
「もしさ、私を含めて八人しかメンバーが集まらなかったらどうすんの?」
一体どうするんだろうね……。
完全に他人事の顔をしている私のことを見透かした四音は、ニヤリと口角を上げた。
「そん時は試合に出るんだよね、羽希も」
「えっ?」
そんなことは考えてもいなかった。
社内トップクラスの可愛らしさを誇る四音が誘えば、メンバーなんてちょちょいのちょいで集まると思ってたから。
でも、もし八人しか集まらなかったら――。
間違いなく社長は私にも出場しろと言うだろう。
「なに? それは考えてなかったの? 人には出ろって言っておきながら」
「い、いや、四音が誘えばその、あの……」
「私は一緒に出たいな、羽希と一緒に。それにね……」
そう言いながら彼女は視線を下げる。ニヤニヤしながら、私の胸のところまで。
「ぜひ見てみたいの」
やっぱそう来たか。
私の胸のサイズはFカップ。いわゆる巨乳ってやつだ。だから運動も苦手で、走るのも嫌なのだ。
野球のユニフォームなんて着た日には……。
「ぱっつんぱっつんの羽希のユニフォーム姿」
「嫌よ。そもそも女性用のユニフォームってあるの? 男性用だったら四音が言うように胸のボタンが閉まらないよ」
「スポーツブラつければ収まりがよくなるけどね。私の場合はだけど」
四音の胸のサイズはCカップ。それくらいだったら問題はないのにな。
「それつけてもダメなのよ。服選びはいつも困っちゃう」
「贅沢な悩みね。でも、男を集めるにはもってこいじゃない。ぱっつんぱっつんの羽希が勧誘したら一発でメンバーが集まるよ」
そういう考え方もあるのか。
なんて納得してる場合じゃない。そんなのは絶対嫌だ。
それに勧誘するってことは社内でユニフォーム姿になるってことだよね。それって何のコスプレ? 変なオタクしか集まらないんじゃないの?
「そもそも社長が全部揃えてくれるんだよね? ユニフォームとか道具とかって」
「そうするって言ってたけど」
「じゃあさ、最初に私と羽希のユニフォームを揃えてもらえるよう社長に頼んでよ。そしたらチームへの加入を考えてあげるよ」
「そんなぁ……」
「じゃあ、やんない」
四音は悪戯っ子の表情をする。それも可愛らしいんだけど、さ。
「分かったよ。社長に二人のユニフォームをおねだりするからさぁ……、会社でユニフォーム姿にならなくてもいいよね?」
「ダメ。それじゃメンバー集まんない」
「カンベンしてよ……」
いつの間にか私がメンバーを勧誘する話になってない?
これって何? ミイラ取りがミイラになるってやつ?
いや、ミイラ取りを依頼した私がミイラ取りになるってやつだわ。
こうして私たちは、ユニフォーム姿でメンバーの勧誘をすることになってしまったんだ。
アイボリーの上下のユニフォームの胸に、飛田LITEサプライのロゴを縫い付けて。
それにしても、野球のユニフォームってこんなにもストレッチ性が高いなんて知らなかった。胸のボタンは閉められないかと思ってたけど、なんとか収まってくれたし。
四音のユニフォーム姿もかなり破壊力があったなぁ……。彼女、普段から自転車で足腰を鍛えていたからね。勧誘に行くと、ぱっつんぱっつんの四音の太ももか私の胸に視線が集中しているのがよくわかる。全く男ってやつは!
そのお陰なのか、九人のメンバーはあっという間に集めることができた。
〇 〇 〇
「大変だよ、羽希!」
四音が秘書室に飛び込んできたのは、最初のミーティングの直後だった。
自己紹介までは私も会場にいたんだけど、話し合いがポジション決めになると私は会場を出て秘書室に戻ってきていたのだ。だって九人集まったんだから、私は試合に出る必要はない。
「どうしたの四音? ポジション争いで喧嘩にでもなったの?」
「喧嘩になる以前の話だよ。集まったメンバーって、実は全員が内野を守れない人たちばかりだったんだよ」
「?????」
それってどういうこと?
野球のことあまり知らないからよくわかんない。
内野を守れない人ってまさかの内野恐怖症ってやつ? きっと子供の頃に受けた千本ノックがトラウマになってるんだ、可哀そうに……。
思わず同情しそうになっていると、四音がツッコミを入れてきた。
「なにウルウルしてんのよ。スポ根の話じゃないから」
「じゃあ何でなの? 内野を守れないって?」
すると四音はふうっとため息をついた。
「羽希って、ホントに野球を知らないんだね」
「そうだって最初から言ってるじゃん」
「内野が守れないっていうのはね……」
その理由は!?
「全員左利きだったんだよ」
「…………」
ポカンとする私に対して、四音は再び深いため息をついた。
「そこから説明しなくちゃいけないのか……」
「そうよ。何でなのか教えて。何で左利きだったら内野が守れないの?」
「それはね」
こうして私は、四音から野球のレクチャーを受けることになった。
「そもそもの話、羽希はプロ野球とか観てるの?」
「ぜんぜん」
「そうだよね……」
何度も落胆する四音が可哀そうになってきたから、私は慌てて補足する。
「でもね、ほら、WBCってやつは観てたよ。ショーヘイ君大好きだから。打ったら、一塁、二塁、三塁って反時計回りに走るんでしょ? そしてホームに戻ってきたら一点。それくらいは知ってるよ」
「まあ、それだけ知ってたら十分か……」
四音は私を向いておもむろに説明を始める。
「内野の守備なんだけど、一塁を守る人がファースト、一塁と二塁の間を守る人がセカンド、三塁を守る人をサードというの」
「うんうん」
それくらいだったら私も分かる。
「そして二塁と三塁の間を守る人をショートストップといって、略してショート。なぜショートストップというのかについては所説あるんだけどね」
「ほお」
すると四音は身振り手振りを加え始めた。
「じゃあ次は、打者がボールを打つところを連想してみて。そのボールをサードやショートやセカンドが捕球するところを」
瞳もちょっと輝いてきた。本当に彼女は野球が好きなんだ。
「まず打者がゴロを打った。それを守備の選手が体の正面で捕る。ここまではいいよね?」
「うん」
「そしたらサード、ショート、セカンドの選手はどっちに投げる? 右側? 左側?」
うーん、どっちなんだろう?
一塁側に投げるわけだから――
「右側?」
「いやいやいやいや、それはテレビの画面での話でしょ? 選手になった気持ちで考えてみてよ」
選手の気持ちか……。
打者が打って、自分は選手でゴロの球を捕って、一塁はえっと、左にあるから――
「左側か」
「そう。左側に投げるの」
「そっか、右利きの選手ならそのまま左側へ投げられる」
「その通りよ。でも左利きの選手は、一度体の向きを変えないと強い球は投げられない。このコンマ数秒の遅れが致命的になっちゃうから、左利きの人は内野を守れない」
ほおほお、そういうことだったのね。
やっとその理由が分かったような気がする。
「キャッチャーもね、左利きの人がやりにくいポジションなの」
「キャッチャーも?」
ええっ、それってどういうこと?
キャッチャーから見たら一塁は右側じゃん。そしたら左利きの方が有利なんじゃないの?
「理由は二つあって、その一つはけん制球」
「けん制球って?」
「ランナーが盗塁した時に投げる球よ。走られたらすぐ二塁に投げなきゃいけない」
なんかそんなシーンあるね。ショーヘイ君はいつもセーフだけど。
「その時、左利きだと右バッターが邪魔になっちゃう。大抵の場合、右バッターの方が多いからね。左利きのキャッチャーは、それだけで不利になっちゃうの」
へえ、そういうものなんだ。かなりデリケートな話なのね。
「もう一つはホームでのクロスプレー」
「クロスプレーって?」
「ランナーが点を入れようとしてホームに帰ってくる時、それをアウトにしようとするプレーよ」
あれってクロスプレーっていうんだ。なんか迫力のあるシーンだよね。怪我しないでよとドキドキしちゃう。
「右利きのキャッチャーなら左手で捕球するから、そのままランナーにタッチできるの。こんな風にね」
四音は身振りを添えてくれた。左手でボールを捕ってランナーにタッチするという身振りを。
これなら分かりやすい。
「スムーズでしょ? でも左利きは違う。こんな風に右手で捕球するから、ランナーにタッチしにくい」
「ほうほう、確かに」
「このコンマ数秒の遅れが致命的なのよね。これでセーフになっちゃったら試合に勝つことも難しくなっちゃう。だから左利きの選手は内野を守れないのよ」
やっと分かったような気がする。
でもそれって、プロの話じゃないの?
「ねえ、四音。今度開催される市長杯選手権って、そんなにレベルの高い大会なの?」
「いや、そんなことはないと思う。今回が第一回だから、詳しくは分からないけど」
「じゃあ、別に左利きだっていいんじゃないの? 内野を守る人が全員」
「そ、そりゃ、そうかもしれない、けどさ……」
きっと経験者の四音は、ちゃんとした野球がやりたいのだろう。私の意見に言葉を濁してしまうところがその証拠なんだと思う。
でも私たちは所詮寄せ集めなのよ。半分くらいは私のおっぱい目当てで集まったのかもしれないんだから。
「守りで不利な分、打てばいいんじゃない?」
「簡単に言ってくれちゃってさ。それができれば苦労しないって。いいよね、羽希は試合に出ないんだから」
と言いながら、四音ははっとした顔をする。
「そっか、苦労しない、か……」
彼女は何かを思いついたようだ。みるみる表情が明るくなってくる。
「最小限の動作で最大限の効果を発揮するようになればいいんだわ」
声まで生き生きしてきた。もしかしてそれって私のおかげ?
「ねえ、羽希。このチームは私が好きにしてもいいんだよね?」
「うん、いいよ。社長もそう言ってたし」
「むふふふふ、なんか面白い作戦を思いつきそうなんだよね。ちょっと考えてみるわ」
キラキラと少女のように瞳を輝かせる四音。
その時、彼女が考えている作戦を私は想像することさえできなかった。
〇 〇 〇
三月になると、大会の開催が正式に発表される。
――第一回、社会人軟式野球市長杯選手権大会。
同時に出場チームのエントリーが始まった。
「ねえ、四音。チーム名ってどうする?」
チームやメンバー登録などの事務仕事はすべて私の役目だ。試合に出ない分、別のところで貢献しないとみんなに恨まれそうだし。
「単純に『飛田LITEサプライズ』でいいんじゃない? 帽子と胸に会社名が書いてあるんだからさ」
そうなのだ。
経費節約なのか、我がチームのユニフォームは背番号付きのアイボリーのユニフォームをそのまま使っており、胸の部分に会社のロゴを貼り付けただけの超シンプルだったりする。
「そうよね。チーム名……飛田LITEサプライズ……と」
この書類を出せばもう後には引けない。勝って五万円を獲得するか、負けて恥をさらすかだ。
まあ、社長としては市長に恩を売りたいだけだから、出場するだけでいいと思うんだけど。
「うちのチーム、二勝以上できると思う?」
「無理だね。今考えてる作戦も一試合限定だし。でも羽希が試合に出てくれたら、奇跡が起きるかもよ」
えっ、それって……?
私の秘めたる才能が
「羽希の揺れるおっぱい見たさにメンバーが奮起すると思うから」
そっちかよ。
まあ、そんな感じじゃないかと思ってたけど。
「というのは冗談で、試合当日は必ずユニフォームで来てよね。羽希のユニフォーム姿が目当てで参加するメンバーもいるんだから。メンバーが揃わなくて不戦敗ってなったら最悪よ」
「ええっ? 本当にユニフォームで来なくちゃダメ?」
勧誘の時、すごく恥ずかしかったんだから……。
「ダメよ。三塁コーチャーとかやってもらうかもしれないから、マジな話ユニフォームは必至よ」
「三流紅茶? 何、それ」
「相手チームのサードやピッチャーの集中力を逸らす役目よ。そのおっぱいでね」
すると四音は急に真面目な顔になった。
「それにね、羽希用のユニフォームは特別製なの。金属繊維を織り込んであって胸をしっかりとホールドするから、今までのユニフォームよりも着心地が格段に良くなったと思う。試合には絶対それ着て来てね!」
まあ、それなら着てもいいかもしれない。胸をしっかりホールドしてくれるなら。
こうして私も、ユニフォーム姿で試合に参加することになったんだ。
〇 〇 〇
五月の晴れた日曜日。
いよいよ飛田LITEサプライズのお披露目だ。
トーナメントは四月から始まっていたが、会場となる球場が少ないことと五十チーム以上の参加があったため我がチームの初戦は五月になってしまった。
相手チームは相庭製薬。上下が水色のユニフォームに身を包んでいる。
「さあ、勝って五万円をゲットするわよ!」
円陣の中心でチームにカツを入れる四音。そしてメンバーは守備位置に散っていった。
ピッチャーは鈴木投一(すずき とういち)。中学校まで野球をやっていたようでそれなりの球速を投げる。もちろん左利きだ。
それにしても四音が考えた策って、本当に上手くいくのかしら? 概要は私も聞いているけど。ガンガン打たれてボロ負けするんじゃないかと不安になってくる。
ベンチで一人っきりになると、そんなネガティブな場面ばかり連想してしまう。周囲にメンバーがいないことが、こんなに心細いものとは思わなかった。
バッターボックスに相手の一番バッターが立った。いよいよプレイボールだ。
投一が大きく振りかぶり、第一球を投げる。低めの速球がバッターの前を通り過ぎ、パンと気持ちの良い音とともにキャッチャーのミットに収まった。
「ストライッ!」
球審のコールに私は少しほっとする。少なくともガンガン打たれるという感じではなかったから。
第二球。今度は少し遅めの投球。これは変化球というのだろうか? バッターがバットを振って、ゴンという金属バットに軟球が当たる鈍い音がした。
ボテボテの内野ゴロ。セカンドを守る四音が打球に向かってダッシュする。
これはなかなか微妙なタイミングだ。打球の勢いがなさ過ぎて、四音が捕球するのに時間がかかってしまった。その間に打者は一塁まであとわずかの距離に到達している。
間に合うか!?
息を飲んだ次の瞬間、私は目を見開いた。四音の必殺技が炸裂したから。
利き手の左手で直接打球を掴んだ彼女は、そのまま左手を外側に振りぬいたのだ。素早くテニスのバックハンドのような振りで。
ノールックで投じたその球は、すごいスピードでファーストミットに収まった。
「ヒズアウッ!」
塁審のコールに球場がどよめく。
そりゃ、そうよね。あんなプレーを見せつけられたんだから。
――必殺フリスビー投法。
これが四音が考え出した作戦だった。
内野手として左利きが不利なのは、テニスのフォアハンドと同じ振りで一塁に投げようとするから。この考え方を変えればすべては解決する。つまり、バックハンドの振りで投げることができればよいということ。
そのためにこの数か月間、内野手は筋トレに励むことになった。特に前腕筋、深指屈筋、浅指屈筋、広背筋、腹斜筋の筋トレを重点的に。
さらにノールックで一塁に投げられるよう特訓を重ねた。フリスビー投法を行う際、一塁側を向いてしまうと体が開いて送球の勢いが落ちてしまうから。体が前を向いたまま腕を振りぬいた方が、速い送球を生み出すことができる。
その成果を今、四音が見せつけてくれたのだ。
「いいぞ、四音くん!」
観客席から社長の声がする。社長も満足してくれてほっとする。今のところは、だが。
バッターボックスに二番バッターが立つ。
一球目の直球はバットを振らずにストライク。二球目は遅い球を振ってくれて空振り。
なんかいいんじゃないの、投一くん。と思っていたら、ゴンと鈍い音がする。三球目を打たれてしまったのだ。
「でも、サードゴロだ。正五行け!」
サードの渡辺正五(わたなべ しょうご)が三塁ベースの近くで打球をキャッチする。そしてフリスビー投法が炸裂――と思いきや、なんとも山なりの送球になってしまった。
「セーフ!」
これでは一塁には間に合わない。
これが左利きのデメリットか? 単に正五の筋トレが足りなかっただけなのか? そもそもフリスビー投法で三塁から一塁まで投げるのは無理なのか?
どちらにせよ、相手チームに弱点を見せてしまったことは確実だ。
ワンアウト、ランナー一塁。
打つ気満々の三番バッターは、投一の初球の速球を振りぬいた。パンという音と共に速い打球が三塁線に飛んでいく。
「さあ正五、名誉挽回よ!」
横っ飛びで打球をキャッチした正五は、起き上がりながらフリスビー投法で二塁に送球する。今度は低くて速い送球だ。そしてそれをキャッチした四音は、同じくフリスビー投法で一塁に送球。
「ヒズアウッ!」
フリスビー送球の見事な連携プレー。これは爽快だ。観客席からも歓声が湧き起こる。
これがダブルプレーというやつなのだろう。間近で見るのは初めてだ。
それにしてもめちゃくちゃ気持ちがイイ。私は立ち上がり、拍手でベンチに戻るメンバーを出迎えた。
「すごい、すごいよ」
私は四音とハイタッチする。
「でしょ? あの連携プレー、結構練習したんだから」
「美しかったし、見応えあったよ!」
我々は一回表を無失点で乗り切ることに成功した。
〇 〇 〇
一回の裏。我がチームの攻撃の番だ。
一番バッターは四音。一球目を見送った彼女は、直後にベンチに視線を送る。
これならイケる――と。
二球目。遅めのボールを彼女はバットに当てた。一塁に走りながらバントの恰好で。
コンという軽い音と共に前に転がるボール。ホームベースと一塁のちょうど中間辺りだ。
これは上手い! 慌ててピッチャーがボールに近づき、掴んだ時には四音は一塁を駆け抜けていた。
「ナイス、四音さん!」
「さすがは監督」
ベンチからの声に四音は高々と親指を立てる。ベンチも彼女に続けとイケイケムードになってきた。
二番バッターはサードの正五。
四音とは異なり、ブンブンとバットを振っている。
おっ、打つ気満々ね。これは面白そうと思いきや――。
一球目は空振り。二球目も遅めのボールを空振ってしまった。
あーあ、ツーストライクになっちゃった。でも当たれば飛びそうだよと期待していると、正五は予想外の行動に出る。なんと三球目をバントしたのだ。ボールはまたもやホームと一塁のちょうど中間くらいに転がった。
不意を突かれたピッチャーが打球を捕りに行くけど時はすでに遅し。正五は一塁、四音は二塁に到達していた。
ノーアウト一塁二塁。これはチャンスだ。
三番バッターはピッチャーの投一。またもやブンブンとバットを振っている。
これが当たれば一点じゃないの、と思いきや、彼も正五と同じく連続空振りしていきなりツーストライクに追い込まれてしまった。
ちょっと何やってんのよ投一。今度はちゃんとバットに当てるのよ、とドキドキしていると、投一も予想外の行動に出る。またもやバントをしたのだ。打球は前の二人と同じく、ホームと一塁のちょうど中間に転がった。
これもまた見事。ピッチャーがボールを捕った時は、ランナーは一塁を駆け抜けてノーアウト満塁となった。
四番バッターは山田捕二(やまだ ほうじ)。彼もブンブンとバットを振っている。
さすがに今度は長打してくれるだろう、四番だしと思いきや、やっぱりツーストライクに追い込まれる。
なに? このデジャビュ―は。
まさか、次に起こる展開は――と思った通り、捕二はバントをした。しかも、ホームと一塁の中間地点に正確に。
四音がホームベースを踏んで一点先制! ベンチにいる選手は全員がハイタッチで四音を出迎えた。
「すごいよ四音。みんなが同じところにバントできるなんて、相当練習したんでしょ?」
しかし、彼女から帰ってきたのは意外な返事だった。
「全然」
「全然って、そんなことないでしょ? みんな同じところにバントしてたよ。ものすごく絶妙な場所に。しかも追い込まれてから」
「みんな左利きで左バッターだからね。一塁に走りながのセーフティバントが一番確実に塁に出れる方法なの」
「へえ、そうなんだ」
「それにね、あれにはちゃんとした理由があるのよ。大きな声では言えないけどね」
そして四音は、耳打ちするように小声で種明かしをしてくれたんだ。
「あれはね、バットに仕掛けがあるの」
ええっ、バットに?
そんな風には見えないけど。
「内臓された二台のカメラで投球の軌道と速度、そして相手選手の守備位置を計測しててね、インパクトの瞬間にAIが表面の形状と反発係数を変化させて相手が最も捕りにくい場所にボールを転がすことができるの。バント専用、瞬時形態最適化AI搭載バット、略してバントくんって呼んでるんだけどね」
「なにそれ。そんなことができるの?」
「そんなことって何よ。羽希が秘書やってるのは何の会社? うちらは軽金属加工のプロなの忘れてるでしょ」
そうだった、そうだった。うちの会社は飛田LITEサプライだった。
「でもこの作戦には弱点があるの。バントしかしないと気づかれたら相手チームも対策してくるでしょ? だから最初の二球はブンブン振ってもらって、長打があるぞって思わせる」
みんなが豪快に空振りするのには、理由があったんだ。
「まあ、本当に当たって長打になればそれに越したことはないんだけどね。急造チームだとそうは上手くいかないよね」
その通りだよ。あれが当たればいいのにってずっと思ってたんだから。
「でもね、ツーストライクになるといいことが一つあるの」
「それって?」
「相手チームは、バントはしてこないと思ってしまう」
「ええっ、そうなの? 何で?」
「それはね、スリーバントってルールがあるからよ。ツーストライクに追い込まれてからのバントは、失敗すると即アウトになっちゃうの。ほら、バントってボールを当てやすいから無限にファールできちゃうでしょ?」
「へえ、そんなルールがあるんだ……」
「だから守備側は、ツーストライクになった時点でバントの可能性を低く想定してしまう。でもバントくんを使うと、追い込まれてからも確実にフェアゾーンの最適解にボールを転がすことができるの」
四音はバッターボックスに目を向ける。そこではショートの山本六太(やまもと ろくた)が打席に立っていた。
「でもそれでセーフになるのは最初のうちだけ。だんだんと手の内が分かれば対策されちゃう」
続いて彼女は相手の守備位置に視線を移す。確かに相手チームの守備位置が変わっている。ファーストとサードはかなり前に出ていて、外野も極端に前で守っていた。
「ホントだ。あれじゃバントしてもすぐにボールを捕られちゃう」
「そうなの。だからね、この虎の子の一点を大事にしなくちゃいけないの」
六太は一球目でバットを思いっきり振る。当たれば外野の守備を軽く越えられると思えるくらい。が、当たらない。
「あれが当たればねぇ……」
「そう簡単にはいかないのよ。羽希もバッターボックスに立ってみればわかるわ」
「嫌よ、そんなの。怖いもん」
「でも相手チームも相当怖いと思うよ。別の意味でね」
「だよね、あれが当たったら即失点だもんね」
「面白いでしょ、野球って。羽希もやる気になった?」
「いや、全然」
六太は二球目も強振する。が、やっぱり当たらない。
「てことは、次はバント?」
「になっちゃうよねぇ~」
相手選手もぐっと守備位置を前進させた。もうバレバレじゃん。
それにも関わらず六太はバントを強行。同時にダッシュしていたファーストが捕ってホームに送ってアウト。さらにキャッチャーはカバーに入ったセカンドに投げて、バッターもアウトになってしまった。
ツーアウト二塁三塁。しかしまだまだチャンスは続いている。
次のバッターはファーストの田中三郎(たなか さぶろう)。
彼も最初はブンブンとバットを振るがやっぱり当たらない。そしてその後のバントではホームでのクロスプレーでスリーアウトになってしまった。
「こんな風に対策されちゃうと打つ手がないのよ」
「バットを振って、ボールに当てることができればいいのにね……」
私と四音は頭を抱えるのであった。
〇 〇 〇
その後、試合は一対〇でサプライズがリードしたまま膠着状態になってしまう。
バントしか攻撃方法がないサプライズは、塁にランナーを貯めることができてもホームを踏むことができない。相庭製薬の極端な前進守備によって。
一方の相庭製薬も、サプライズの投一を打ち崩すことができなかった。ランナーを一塁に出せても、二塁や三塁でアウトにされてしまう。左利きの守備がこんなところに活かされるとは、誰も予想していなかっただろう。
しかし最終回の七回表。相庭製薬は投一の攻略に成功する。疲れで球威が衰えたところに三連打を浴びせて二点を奪ったのだ。
七回の裏。サプライズの攻撃。スコアは一対二。
この回に点を入れなければ、我がチームは負けてしまう。
ちなみに同点になった場合は、延長戦を行うのではなく、同じ守備同士のじゃんけん大会で勝敗を決めることになっている。
「みんな、この回で逆転して五万円ゲットしようよ!」
四音がメンバーにカツを入れるが、みんなは死んだ魚のような目をしている。普段から運動をしていないためか肩で息をしているメンバーもいた。
打順は四音からだ。
六回までと同様にバントで一塁に出る。
続く正五、投一の二人もバントで出塁してノーアウト満塁。
ここまでは相庭製薬もやらせてくれるのだ。しかしここから極端な前進守備でことごとくホームでアウトにされてしまう。
この回も例外ではなかった。バットを振り回しても当たらない捕二は、ツーストライクからバント。ホームで四音が、一塁で捕二がアウトになって、ツーアウト二塁三塁になってしまう。
絶体絶命。ああ、五万円は夢と散るのか、と諦めたその時、ベンチに戻ってきた四音が動いた。球審に予想外の代打を告げたのだ。
「代打、来雲土羽希、よろしくお願いします!」
えっ、私?
それってどういうこと?
ポカンとする私のところに、四音がバントくんを持ってやってくる。
「いい羽希、私たちはもうあなたに賭けるしかないの。これ持ってバッターボックスに立って、一塁まで全力疾走してほしい」
「む、無理だよ。私野球なんてやったことないし、バットだって持ったこともないんだから」
「大丈夫。このバットは我社の技術を込めた最高傑作だから。今までのバント成功率は百パーセントだったよね。今は守備位置のバグでやられてるけど」
「そ、そうだけど……」
「これ持ってバントの恰好して、バッターボックスに立ってるだけでいいから。怖かったら目をつむっててもいいから」
「えー…………」
嫌がる私に、他のメンバーも声を掛けてくれる。
「羽希さん、お願いします!」
「最後に僕たち見たいんです、羽希さんが全力疾走するところを!」
「みんな…………」
思わず涙が溢れて来そうになった。
こんなにも疲れているというのに、それほどまでに私のおっぱいが揺れるところを見たいのかよ。
「わかった、私やるわ」
こうなったらヤケクソだ。
「ありがとう、羽希」
私は四音からバントくんを受け取り、右バッターボックスに立った。
生まれて初めて立つバッターボックス。
球審に挨拶をして、土のグラウンドに白線で囲まれた長方形の聖地に足を踏み入れる。私の心臓はバクバクだ。
バントくんを胸に抱えてフィールドを向く。ピッチャーそして広大なフィールドに散らばる選手たちがみんな私に注目している。それは相手選手だけじゃない。三塁の正五も二塁の投一も私に熱い視線を届けてくれていた。チラリと観客席を見ると、みんなが息を飲んで私を見つめている。
そうか、ここは舞台なんだ。
主役だけが立つことを許されたステージ。
いや違う、ここに立つ者すべてが主役になれる特別な場所なんだ。ここでの振る舞い一つで物語のゆくえが決まってしまうことすらある。正に今がその時。
こんな重要な役を私が演じてしまっていいのだろうか。
メンバー集めと事務作業にしか貢献してこなかったおっぱいだけが取柄の私が。
そんな雑念は一瞬で吹き飛ばされる。ピッチャーが一球目を投じたのだ。
ものすごいスピードで私に近づいてくる白球。驚きで私はのけ反った。
ちょ、ちょ、ちょっと、なに今の。当たったら死ぬよ、こんなの絶対無理だよ。
思わず涙がこぼれて来る。代打なんて引き受けるんじゃなかったと。
同時に私は、先ほどまでの考えを改めていた。主役になれる舞台なんてそんな生やさしいものじゃなかった。ここは生きるか死ぬかを問う場所だ。四音や他のメンバーは、こんなに怖いものと対峙してたんだ。私にそれができるか、全く自信がない……。
「羽希さん、頑張って!」
「大丈夫、軟球だから当たっても死にませんよ!」
「羽希ならできる。みんなを信じろ! 私を信じろ!」
背後のベンチから次々とメンバーの声が飛んでくる。
みんな勝手なこと言っちゃって。
でもそれが嬉しくて心強い。この場所に立って、初めて私はメンバーの一員になれたような気がした。
それならば――やるしかない!
静かに目を閉じて、私はバットを構えた。バントの恰好で。
視覚が失われるとその他の感覚が研ぎ澄まされていく。
四音の話によると、このバットには目が付いているという。迫りくるボールや相手の守備位置を絶えず捕捉している二つのカメラという目が。今はそれを信じるしかない。四音がこのバットに組み込んでくれた我社の最新のテクノロジーと共に。
応援やヤジを意識から消し去ると、キャッチャーの息遣いが聞こえてくる。そしてシュルシュルと近づいて来る軟球の音。
すると奇跡が起きた。バットが自然に動き出したのだ。私の意に反して。
ええっ、なにこれ?
驚いて目を開けると、ピッチャーからの投球がバットに当たるところだった。コンという小気味良い音を立てて宙に弾かれたボールは、きれいな弾道を描いて二塁と三塁の間に飛んでいく。そして超前進守備のレフトの頭上を越えた。
「走れ! 羽希ィ!!」
「羽希さん、一塁ですよ!」
えっ、一塁に走るの?
見ると、六太がピョンピョンと飛び跳ねながら手招きしている。一塁コーチャーボックスで私に向かって「こっちこっち!」と叫びながら。
私はバントくんを地面に置くと、一塁に向かって走り始めた。
全力疾走なんて何年ぶりだろう、と思う間もなく息が切れ始めてしまう。
苦しい、まだ走らなきゃいけないの? あとどれだけ? 一塁はまだなの!?
「羽希ィ、死ぬ気で走って! 一塁でセーフになんなきゃ五万は手に入らないよ!」
「そうですよ、五万円ですよ」
そうだ、五万円だ。この走りに五万円がかかっているんだ!
私は最後の力をふり絞り、一塁ベースが見えたとたんヘッドスライディングした。
後から聞いた話では、すでに三塁の正五も二塁の投一もホームインしており、相手チームは最後の希望にかけて一塁に送球したらしい。そしてファーストが捕球するのと私が一塁ベースを抱き抱えるのはほぼ同時だったのだ。
球場全体が静まる。
すべての人の意識が、球審のコールに集中した。
「セーフ!」
そ、それって……。
やった、やったよ! セーフだよ!!
「羽希さん、やりましたよ! 僕たち勝ったんです!」
興奮しながら一塁コーチャーの六太が手を差し伸べてくれる。
私はユニフォームの胸を土で茶色に染めながら体を起こした。
振り向くとメンバー全員が私のもとに駆け寄ってくる。嬉しくて涙がこぼれてくる。私は四音に強く抱きしめられた。
「すごいよ羽希! 三対二で逆転サヨナラ勝ちよ!」
「そうなの? 本当に私たち勝ったの?」
「そうよ、これで五万円ゲットだよ」
私は他のメンバーと一緒にホームベース前に並び、相手チームに挨拶をする。
グラウンド整備が終わってベンチを片づけていると、社長がベンチに来てくれた。
「みんな、よくやってくれた。いい試合だったよ」
「社長、五万円の約束、忘れてないですよね?」
私が訊くと、社長は呆れた表情をする。
「いきなりそれか? まあ、君たちにとっては重要なことだからね。ああ、もちろんだとも。次も勝ったら十万円だからさらに頑張ってほしい」
すると四音が驚く行動に出たのだ。
「すいません社長。私と羽希は今日の疲れを取るためにこれから一泊の温泉旅行に行ってきますので、失礼を承知で申し上げますが、今この場で二人分十万円と明日の有給休暇をいただけないでしょうか?」
ちょ、ちょっと四音。何言ってんのよ、そんなの初めて聞いたけど。
困惑する私をよそに、社長は私たちを労ってくれる
「二人は大活躍してくれたから特別に許そう。ゆっくり休んでくるといい」
そう言いながら財布の中から十万円を取り出してくれたのだ。
「ありがとうございます、社長!」
四音に合わせて私もお辞儀をする。
「じゃあ、いくよ! これから温泉に」
「四音っていつも唐突なんだから……」
こうして私と四音は、その日のうちに温泉に行くことになったんだ。
〇 〇 〇
二時間後。
私と四音は、温泉地に向かう特急列車に揺られていた。
試合終了後、自宅マンションに戻った私は軽くシャワーを浴びて化粧をし直し、荷物を持ってすぐ駅に向かう。
駅で四音は私に謝罪した。
「急に予約を取ったから近場の温泉しか空いてなかったけど、食事は豪華にしといたから許してね」
そんなことよりも私は四音に訊きたいことが山ほどあった。座席についた私は、早速彼女に質問する。
「いろいろと訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「だよね」
「まず、私の打席の時のことなんだけど……」
あれは不思議な体験だった。
私は目をつむってバントの恰好をしただけだったのに……。
あの時、一体何が起きたのだろう?
「ああ、あれね。バットが勝手に動いたでしょ?」
そうなのだ。
あの時、私は何もしなかったのにバットが勝手に動いてボールを弾き返したのだ。レフトの頭を越えるように。
「バントくんのオートパイロット機能なのよ。略しておっぱい機能ね」
「おっぱい機能って……」
オートパイロットって自動運転のことだよね。それをおっぱい機能って略したらいろいろなところからクレームが来るんじゃないの?
「あら、関係ないことはないのよ。羽希にユニフォームを渡す時に言ったよね、金属繊維が織り込まれてるって」
「うん。最初ごわごわしてるかなって思ったんだけど、胸がしっかりとホールドされて結構良かったよ」
「あれはね、おっぱいをホールドしていただけじゃないの」
「えっ、そうなの?」
「バントの構えをした時にバットを包み込むような磁場を形成して、バントくんを動かしていたのよ。バントくんからの情報、つまり投球と守備位置に関する情報をAIが処理して、最適な反発係数とスイング軌道を計算して瞬間的にバットを動かすことができるの」
マジか、そんな機能まで備えていたとは!?
「それでね、男があのユニフォームを着ても上手く磁場を形成できないのよ。バットの上側の磁場が作れなくてね。バントくんのオートパイロット機能を使うためには、Fカップ以上のおっぱいが必要なの」
それでなのか、私が代打に立たされたのは。
ようやくその理由が分かった。
「作戦名は『必殺、おっぱいでバットコントロール、球よ白き飛翔体を成せ』よ」
確かにおっぱいでバットをコントロールしていたみたいだから何も言えないんだけど、後半は『白き飛翔体となれ』が正解なんじゃね?
ていうか、このシステムってまずいんじゃないの? 負けたチームが知ったらカンカンになって怒るんじゃないのかな? まあ、それまでのバントだって同じなんだけど。
「からくりはわかったけど、相手チームにバレたらどうすんの?」
「もちろん反則負けだよね。だからこうして急いで温泉旅行に来てるんじゃない。反則負けになったらあの社長のことだから五万円すらもらえないわよ」
まあ、そうだよね。
ホテルや特急などの予約は全部四音にやってもらった。四音は最初からこれを計画していたに違いない。
「それにね、たとえ反則負けにならなくても次は勝てないわよ。バントとおっぱいだけで勝てるのは初戦だけだから」
それはそうだろう。試合の情報が伝われば、次の相手は最初からバントを警戒してくるに違いない。
「だから今夜はとことん楽しもうよ! 豪華な夕食と広々とした露天風呂が私たちを待ってるよ!」
「楽しみだね! ホテルとかの手配に感謝するわ」
「羽希のおかげで勝てたんだから当たり前よ。それと露天風呂ではその勝利のおっぱいを存分に拝ませてもらうから」
「ええっ、そんな……」
まあ四音は試合の準備で大変みたいだったし。
ずっと寝不足っぽい感じがしていたのは、こんなにすごいシステムを構築していたからだったんだ……。
今夜くらいは温泉でゆっくりして、勝利の美酒に酔おうと誓う私たちなのでした。
おわり
ミチル企画 2023夏企画
お題:『サプライズ』
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