ミツメルト2014年09月15日 17時37分01秒

「あっ!?」
 通学や通勤客でごった返す駅のホームで、俺、伊賀和志(いが かずし)は思い出す。
「し、進路希望の書類、入れたっけぇ!?」
 灰色のA四サイズの封筒。それをバッグの中に入れた記憶が無い。
 慌てた俺は、人ごみをかき分けて壁際の赤い自動販売機の陰に駆け込んだ。恐る恐るバッグの中を確認する。
「げっ! やっぱ入ってない……」
 サラサラと白くなっていく頭の中。こめかみには嫌な汗が流れて来た。
 今日は進路希望の書類の締切日だ。忘れた者はもれなく放課後に呼び出される、進路指導の戸塚に。
 ――ガン飛ばしの戸塚。
 生徒達からそう恐れられるほど、進路指導の教諭、戸塚安行(とつか やすゆき)は生徒を睨みつけるのが大好きな先生だった。
「嫌だ。戸塚に呼び出されるくらいなら、取りに戻って遅刻した方がマシだ!」
 俺は踵を返し、改札口に向かってダッシュする。必死に走れば、書類も遅刻もどちらもクリアできるかもしれない。
 最初の難関は改札口だ。
 俺は、こちらに向かって来る人々をひらりひらりとよけながら前進する。すると正面に誰もいない自動改札口を見つけた。
「ラッキー! チャンスは今だっ!!」
 ――向こうから人が来る前に。
 俺は、ICカードの入った財布をポケットから取り出し猛ダッシュ。
 すると向こう側にも人影が現れた。急接近してるから、そいつもきっと同じ改札口を狙っているに違いない。
 ――あいつより先にィィィィィッ!!
 俺は改札の緑印を確認しながら、財布を持った手をタッチパネルに延ばした――直後、強い衝撃が俺を襲う。

「痛ぇっ!」
「痛いじゃないっ!!」

 何か固いものが額を直撃し、俺は激しく後ろに突き飛ばされた。
 慌てて受け身を取り、地面と後頭部との衝突を回避したところまでは良かったが、何か重いものが俺の上にのしかかる。
 見ると、地面に倒れた俺の上に女の子が乗っていた。俺と同じく額を手で押さえている。
 ――なんだよ邪魔しやがって。でも、もしかしたら……?
 期待に胸を膨らませながら、彼女の顔をのぞきこむ。
 ショートの黒髪から覗かせるのは、ちょっと眉毛が太く一重まぶたの平均的な顔立ち。着ているのは俺の高校の制服だった。
 ああ、神様。どうせぶつかるなら、とびっきりの美少女にしてくれればよかったのに……。
 そんでもって両手が胸にタッチしちゃってるとか、ラッキースケベはボーイミーツガールの基本じゃないかと、そんなバカなことを考えることができる脳を守った両手の活躍を忘れて俺は落胆した。
「ちょっと、なにやってんのよっ!」
 失礼な妄想を見透かすように、女の子は俺のことを睨みつける。
 おっ、怒った顔はちょっとキュートかも。
「邪魔しないでよ。私の方が先だったんだからっ!」
 せっかく容姿を心の中でほめてやったのに、俺を悪者にするその態度にカチンと来た。
 人を突き飛ばしておいて、何言ってんだよ!
 俺はちゃんとゲートグリーンを確認して突入したんだぞ。
「ふざけんな、そっちが逆走したんだろ!?」
 しかし女の子は引き下がらない。
「逆走? 聞き捨てならないことを言うわね。そっちのゲートが閉まったから、あんたは私に突き飛ばされたんじゃない」
「えっ?」
 確かに俺は、自分が来た方向に突き飛ばされた。女の子は平均より背は高そうだが割と痩せ目のタイプ。まともに俺とぶつかれば、彼女の方が飛ばされてしまうに違いない。
 ということは、女の子の言い分が正しいのか?
「ほら、心当たりアリって顔してるじゃない。私の方が早かったのは明らかよね。だったら逆走したのはあんたでしょ!」
 ギリギリと俺を睨みつける女の子。
 だから、その言い方が気に入らないんだって!
 俺は一歩も引けなくなった。
「うるさい、うるさい。俺の方が先だったんだ」
「男なら、素直に負けを認めなさいよっ」
 俺と女の子の視線が激しくスパークする。
 数秒は続いたと思われる意地と意地のぶつかり合い――は、意外な終止符を打つ。
 ポンっという音と共に、俺と女の子との間の空間に何かが現れたのだ。

 えっ、えっ!? な、なに? これ?

 その空間に浮かんでいたのは、一センチくらいの大きさの赤くとぐろを巻いた物体。

 赤い……ウ、ウンチぃ!?

 それはまさしく、マンガに出て来るような小さな小さなウンチだった。しかも目の前でプカプカと宙に浮いている。 「ちょっと、何、ぼおっとしてんの?」
 女の子の声で、はっと我に戻る。
 ていうか、彼女はこの物体の出現に気付いていないのか?
「早く謝ってよ。私、急いでるんだから!」
「えっ? あぁ……」
 全く気付いていない彼女の様子に、俺は思わず言葉を詰まらせる。
 その態度に呆れたのか、女の子はいそいそと立ち上がり、スカートの汚れを払い始めた。
「なによ、心ここに非ずって態度で誤魔化そうっていうの? 号泣するよりマシだけど男らしくないわね。ふん、じゃあね」
 そんな捨て台詞を残し、女の子は駅のホームに向かって走り去って行った。

 ていうか、何? このウンチ?

 女の子のことなんてどうでも良くなってしまった。
 だって、そのウンチは艶々していて、なぜだかとても魅力的に見えたから。
 いつまでも、目の前の空間にプカプカ漂っている赤い不思議な物体。ふっと息を吹きかけても、どこかに飛んで行く気配はない。本物のウンチみたいに柔らかそうで、ちょっぴり唐辛子系の匂いが漂ってくる。
 思いっきり興味を持った俺は、指先で突いてみようと恐る恐る手を延ばす。その時――

「ダメでケル。人間は、触っちゃいケルないです」

 突然掛けられた可愛い声に俺は振り向く。
 すると、これまた空間にプカプカと浮く不思議な存在があった。それは、アニメフィギュアを彷彿とさせる体長二十センチくらいの小さな美少女。
「あなた、見えケルね? あの怒メルトが、見えケルのね?」
 運命的な――妖精トケルとの出会いだった。




 おおおおお、なんだこれはっ!?
 俺は激しく神に感謝する。
 さっきは変なトラブルで神を恨んでしまったが、素直に謝罪しよう。
 今、俺の目の前に現れた美少女こそが、真の神の意志に違いない。

 パタパタと背中の小さな羽をはばたかせながら宙に浮く儚く美しい存在。
 フリルのたくさん付いた白を基調としたミニのワンピースに身を包み、ふわふわの長い金髪を風になびかせている。お腹には、かなり大きめのピンクのウエストポーチを付けていた。
 瞳は二重で大きく、それでいて目元はキリっと引き締まった丹精な顔立ち。その小さな唇が、俺に向かって言葉を発する。

「おい、お前!」

 お前?
 こんな可愛い美少女が、いたいけな、いや痛い目に遭ったばかりの男子高校生に向かってそんなことを言うわけがない。
 きっと空耳だろう。

「ボクがしゃべってケルよ。無視しないのケル!」

 ケル? それって何語?
 とその時、ドンと俺の肩に何かがぶつかった。
「邪魔だよ!」
 先を急ぐサラリーマンの足が、地べたに座ったままの俺に当たったのだ。そして、あろうことか、そのサラリーマンの膝が宙に浮く美少女めがけて――
「あああああああっっっッ!」
 俺が大声を出したものだから、サラリーマンはビクッと立ち止まる。その脚を少女はすっとすり抜けた。
「なんだよ、ビックリさせやがって。なんか文句でもあんの?」
「いえ、何でもありません。スイマセンです」
「ちっ……」
 舌打ちをしながら先を急ぐサラリーマン。彼が通ったあとに、少女は相変わらず小さな羽をはばたかせていた。

「大丈夫ケルよ。人間はボクに触ることはでケルないから」

 少女はパタパタと羽をはためかせながら、赤いウンチのところまで飛んでいく。そしてウエストポーチの口を開けると、大切そうにウンチを収納した。その様子から判断すると、消しゴムくらいの弾力は持ち合わせているようだ。
「なんだよ、そのウン……、赤い物体は」
 すると小さな美少女は、ウエストポーチを満足そうに撫でながら答える。
「これか? これは怒メルト(どめると)と言うケルよ」
 ドメルト?
 そういえば、彼女はさっきもそんなことを言ってたな。
「なんだよ、そのドメルトって?」
「マナが溶結したものケル」
 マナ?
 なんだそりゃ?
「なんだよ、そのマナってのは」
「大気に存在する神秘的な力の源のことを、マナと呼ぶケルよ。事の始まりは一万年以上前にさかのぼケル。人類がまだ文字を持たない時代に、ボクたち妖精が……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て。その話は長いのか?」
 俺は思い出した。
 進路希望の書類を取りに帰ろうとしていたことを。そしてまだ改札口の前に倒れたままでいることを。
 今の自分は駅の利用者にとって邪魔な存在だし、時間だって遅刻が確定しそうになっている。
「一万年間にわたる長い長い話ケル」
 俺に話をしたくてウズウズしている美少女。それなら話を聞いてあげている間は、どこかに行ってしまうことはないのかもしれない。
「ちょっと待ってくれ。移動しながら聞いてあげるから」
 とりあえず俺は立ち上がり、柱の影で制服の汚れを払う。そして改札ゲートではなく、電車の来るホームに向かって歩き出した。進路希望の書類はこの際どうでもいい。
「俺は伊賀和志。君は?」
 振り向くとフィギュアサイズの美少女は、羽をはばたかせながら俺の後をついて来た。思った通りだ。
「ボクはトケル。妖精なのケル」
 嬉しそうに微笑むその姿は本当に可愛らしい。この手で捕まえて、ぎゅっと抱きしめてあげたいくらいに。
 こうして俺とトケルの不思議な体験は幕を開けたのであった。




「そうだ、和志。忘れ物ケル!」
 ホームに向かおうとした俺は、トケルの声で足を止める。彼女が指さす方を見ると、改札ゲートの近くに灰色の封筒が落ちていた。
「あっ、あれは……」
 進路希望の書類だ。
 もしかして俺って書類を持って来てたのかも?
 淡い期待に心躍らせながら、灰色の封筒を拾い上げて中身を確認する。
「なんだ、さっきの女の子のかよ……」
 吉川美南(よしかわ みなみ)。
 書類の氏名欄には、そう書かれていた。つかの間の喜びは穴のあいた風船のようにシュルルと萎んでいく。
「あいつも三年生だったのか」
 クラスは三年一組。俺は四組だから教室は少し離れている。見かけない顔だったのは、そういう理由なのかもしれない。
「じゃあ、この封筒を駅員さんに渡して、俺は学校へ急ぐとするか……」
 ざまあみろ。
 俺は心の中でつぶやく。これであいつも今日の放課後、戸塚に呼ばれることになるだろう。たっぷり絞られるといい、俺と一緒に。これは俺を突き飛ばした罰だ。
 そこでふと気付く。
「俺と一緒にィ?」
 想像してしまった。
 あの子と一緒に、進路指導室の前でコウベを垂れながら怒られる順番が来るのを待つ姿を。
 彼女のことだ。顔を見たとたん俺のことを罵るだろう。駅でぶつかったせいで進路希望の書類を忘れたのだと。
 いやぁ、全くその通りなんだけどさ。
「ああ、面倒くせえ」
 俺は渋々、灰色の封筒をバッグの中にしまう。この書類はあの子に、えっと吉川さんって言ったっけ、学校で渡すしかないだろう。
「それがいいケル。あの子と和志は、波長が合っケルよ」
 俺の行動を観察していたトケルが気になることを言う。
 波長が合っケル? いや、合ってるだって?
 そんなことはねえだろ。怒りの波長は合ってたかもしれないけど。
「いいかトケル。これはあの子のためではなくて、俺の身の安全を考えた上での作戦だ」
 するとトケルは不思議そうな顔で俺を見る。
「そうケルかぁ?」
 少し膨らんだウエストポーチを愛しそうに撫でながら。
「だって和志、こんなに艶やかな怒メルトは見たことがないケル」
 そうだよ、ドメルトって何なんだよ。
 その時、電車の接近を知らせるアナウンスがホームに流れる。
「詳しくは後で聞くから、とりあえずこの電車に乗るぞ、トケル」
「わかったケル」
 俺とトケルは、キキーとブレーキ音を鳴らせながらホームに滑り込む銀色の電車に乗り込んだ。




「もう、和志。なんで電車の中で返事をしてくれなかったケルゥ!?」
 学校の最寄駅を降りて改札を出ると、トケルが涙目で俺のことを見つめる。
 ――うわっ、涙を浮かべる悲しげな顔もソーキュート!
 俺は鼻の下を伸ばしながら、肩の上あたりをパタパタと飛ぶトケルに謝罪した。
「ゴメンゴメン。だって電車の中で返事したら、たちまち怪しい人間だって思われちまうだろ?」
 トケルは他人から見えない。だから人前でトケルに相槌を打つことは、かなり危険な行為なのだ。
 電車に乗り込んだ時、トケルは嬉しそうに話を始めた。一万年にわたる妖精と人間との関わりについて長々と。
 もしかしたら周囲の人達にも聞こえてるんじゃないかと俺はヒヤヒヤしたが、そんなことは無さそうだった。きっとトケルは、俺にしか見えないし、声も俺にしか聞こえないのだろう。
 一つ困ったのは、トケルが俺に相槌を求めてくること。
 話し相手ができてよほど嬉しかったのはわかるが、見えない相手に向かってブツブツと相槌を打つ男子高校生ほど世の中で怖い存在はないだろう。
 俺は心を鬼にして、電車を降りるまでは沈黙を貫いたのだ。
「うわーん、和志がボクのことを妖しいって言ったぁ~」
 そりゃ、妖精は『妖しい精』って書くけどさ。
「言ってないよ」
 トケルの可愛い瞳に一粒の涙。
 美少女の涙は最終兵器だね、ホントに。
「ごめんよ、トケル。妖精が人間の視線の力に注目したところまでは理解したからさ、そこから先を続けてくれ」
「うん、わかったケル。話を続ケルよ!」
 喜ぶ顔も飛び切り可愛い。
 電車の中でのトケルの話はこんな感じだった。
 一万年前、妖精は人間には見えない存在としてこの世に生息していた。そしてある時、人間の視線がマナに影響することを見つけたのだ。妖精は、人間の視線に反応する特殊なマナを利用して、人間からパワーをもらう方法を考え出した。
「さっきも話しケルけど、人間の視線にはかなり強い力があるのケル」
 俺は、学校へ続く道を歩きながらトケルの話に耳を傾ける。遅刻は確定的だが、その時間帯のおかげで通学する生徒はまばらだ。これなら多少の相槌を打っても怪しまれることはないだろう。
「そして、ある条件を満たせば、大気中に存在するマナを溶結させることがわかったのケル」
 溶結? それは文字のごとく溶けて結合するってことなのか?
「その条件ってのは?」
 トケルはよくぞ聞いてくれましたという顔で、声のボリュームを上げた。

「視線と視線がぶつかることなのケル。それはそれはすごいパワーなのケル!」

 視線と視線がぶつかること?
 それって、睨み合うってことか?
 むむむむ、そんな状況、最近どこかで体験したような……。
「そうか、そういうことだったのか!」
 はっと気づく。
 小さな赤いウンチが発生した時の状況を思い出せば、すぐにわかることだった。
「わかった。俺はあの女の子――吉川さんと衝突し、改札口の順番を巡って睨み合った。その時に、視線と視線がぶつかってマナが溶結した。そういうことなんだな?」
「そうなのケル。和志は物分りが良いケル」
 視線と視線がぶつかる場所に発生するもの。それが、あの赤いウンチだったのだ。

「三秒なのケル。三秒以上、同じ感情の視線がぶつかり合った時に、感情に応じたメルトが発生するのケル」

 三秒以上だって?
 うーん、確かに三秒は睨み合っていたような気がする。
 俺は吉川さんの態度にカチンと来たし、吉川さんも明らかに俺に対して怒っていた。
 あの場を支配していた感情は確かに怒りだった。
「そうか。もしかしてトケル、その『ドメルト』の『ド』って、怒るの『怒』なのか?」
「そうなのケル~。怒るメルトと書いて、怒メルトなのケル~」
 嬉しそうに俺の周囲を飛び回るトケル。
 怒メルト――つまり、怒りの感情がぶつかり合ってマナが溶結したメルトだ。
 そのネーミング法則に従えば、違う感情で視線がぶつかった時には違う名前のメルトができることになる。
「じゃあ、メルトには他にも種類があるとか?」
「そうなのケル。赤は『怒メルト』、黄は『喜メルト(きめると)』、青は『悲メルト(ひめると)』なのケル」
 赤、黄、青ォ!?
 つまり、黄色いウンチや青いウンチも出現するってこと……?
 ていうか、悲メルトって何だよ? 喜びの視線がぶつかるのは想像できるけど、悲しみの視線がぶつかるシチュエーションがわからない。
 俺はいつの間にか、黄色や青色のウンチが出現する状況を想像していた。
「喜メルトは素敵ケルよ。すごく楽しい気分になれるのケル」
 楽しい気分になれるって? どうやって?
 暗雲が立ち込めるように、俺の頭の中を想像しがたい光景が支配し始める。
「ま、まさかトケル、それを食べるんじゃ……」
「そうケル。メルトはボクたちのパワーなんだケル」
 その可愛らしいお口で? 赤や黄や青のあの物体を?
 ――美少女がウンチを食べるぅ!??
 ダメだ、ダメだ、ダメだ、これ以上想像しちゃダメだッ!!
 メルトについての質問はもうしてはいけないような気がして、俺は学校への道のりを急いだ。




 学校に着くと、ホームルームには間に合わなかったが一時間目はギリギリセーフだった。
 何事もなかったかのように自分の机に座り、教科書とノートを出すと、トケルは机の端っこに移動して俺に話し掛ける。
「それでね、それでケルね」
 まだまだ話し足りないようだ。
「ゴメン、授業が終わったら話を聞いてあげるから」
「ちぇっ、つまケルない……」
 ふて腐れたトケルは唇を尖らせ、机の端っこに座って足をブラブラさせ始めた。その後姿に俺は見とれてしまう。
 ――うわっ、きゃわいい……。
 後ろからトケルを眺めると、腰くらいまである金髪がとても綺麗だった。背中の小さな羽もトンボのように透き通っている。そんなミニチュアの美少女が、ちょこんと俺の机の上に座っているのだ。
 ――なんだかお気に入りのフィギュアを学校に持って来てるみたいだぞ。
 実際にそんなことをしたら、皆にバカにされることは間違いない。
 友人達からは「こんな子が好みかよ」とからかわれるだろうし、女子からはドン引きされること必至。こんな風に授業中に机の上に出して置いたものなら――まあ、それが俺の理想の授業風景だったりするのだが、先生に没収されて、その噂が学校中に広まって、『フィギュア君』というあだ名で社会的抹殺が待ち受けている。
 でもトケルは誰にも見えない。
 机にちょこんと座っている姿を授業中にぼおっと眺めていても、誰にも気付かれることはない。
 それにトケルは生きている。
 足をブラブラさせたり、サラサラと風に髪の毛が揺れたり、斜め後ろから見える胸の柔らかなカーブが呼吸に合わせて隆起を繰り返したり……。
 こんなことはフィギュアでは決してありえない。
「おい、和志。ちゃんと授業を聞いケルか?」
 俺の視線を感じたのか、トケルが怪訝そうに振り返る。
 目立たぬよう俺が小さく親指を立てると、「よし、その調子で頑張るケル」とニコリと微笑んだ。
 ――うわっ、マジ天使……。
 その笑顔に感涙。
 もう俺は、トケル無しでは生きていけない。
 すっかり彼女に夢中になってしまった俺は、授業中は彼女を眺め、休み時間は物陰で彼女の話に相槌を打ち、そんなことをしているうちにあっと言う間に放課後になってしまった。




「ヤべぇ……」
 進路希望の書類を忘れた俺は、案の定、放課後に戸塚から呼び出されていた。
「とにかくヤベぇ。確実に怒られる……」
 進路指導室の前で順番を待ちながら、何度もため息をつく。その手に吉川美南の進路希望の書類を握りしめながら。
 そう、俺は、戸塚に怒られるのを憂いているのではなく、彼女にこの場所で出会うのを恐れているのだ。
 ああ、学校に着いたらすぐに吉川さんに書類を届けるべきだった。トケルに夢中になってしまった俺がバカだった。トケルが吉川さんで、吉川さんがトケルだったら、俺はすぐにでも彼女の元へ走ったのに。
 せめて彼女が姿を現す前に俺の番になってくれれば、先生にこの書類を渡して事情を話し、少々の罪滅ぼしになると思うのだが……。
「あっ、あなたは朝の」
 そんな俺の目論見は見事に崩れ去った。進路指導室の前に姿を現した吉川さんは、顔を伏せていた俺をすぐに見つけてしまった。
「ていうか、その書類!!」
「いや、これは違うんだ……」
 目の前で仁王立ちする吉川さんは、俺から強引に書類を奪うと中身を確認する。
「なんであんたがこれを持ってんのよ!」
 ヤベぇ、目が三角だよ。
「えっと、まあ、それはだな……。とにかくゴメン」
 しどろもどろになる俺に、吉川さんは怒りの言葉を畳み掛ける。
「あんたのせいで私、こんなところに呼び出されちゃったんじゃない。ていうか、何? 朝のアレを恨んで書類を隠してたとか? それって復讐のつもり? 男らしくない、最低!」
 おいおい、それはちょっと言い過ぎだろ?
 彼女の言葉に俺はカチンと来た。
「だからゴメンって謝ってるだろっ! 隠すつもりならとっくに捨ててるよ。こうして持ってることが隠すつもりじゃない証拠だろ!?」
 俺は立ち上がり、声を荒らげながら吉川さんを睨む。
 彼女も負けじと睨み返してきた。
 立ってみると二人の背丈は同じくらい。どうりで朝の正面衝突では額同士がぶつかるわけだ。
 鼻筋の通った凛とした顔の一重眼が怒りに燃えている。その目力はかなりの迫力だったが俺も負けてはいられない。ていうか、このシチュエーションどこかで体験したような……。

 案の定、ポンっという音がして、俺と吉川さんの間の空間に赤い物体が現れる。

「出たっ、赤いウン……」
「怒メルトなのケル!」
「えっ、何これ!?」

 出現したものは朝と同じ小さな小さな赤いウンチだったが、決定的に違っていることが一つあった。
 なんと吉川さんも怒メルトの出現に反応したのだ。とその時、
「誰だ! 廊下で騒いでるやつは!?」
 戸塚の怒号と共に、ガラガラと進路指導室のドアが開かれた。




「すいません、戸塚先生。騒いでたんじゃなくて、これには理由があって、つまりこの人が悪いんです!」
 言い訳をしながらビッと俺のことを指差す吉川さん。
 おいおい、なんだよ、いきなり悪者扱いかよ。
「理由は中でゆっくり聞こう。伊賀も関与してるのか? だったら一緒に中に入れ」
 いやいや、伊賀『も』じゃなくて、俺の方が順番は先だったんですけど。
 ちっと舌打ちをしながら俺は進路指導室に入り、吉川さんと並んで戸塚と対峙するよう椅子に腰かけた。
「先生。遅くなって申し訳ありませんが、私の進路希望の書類です。今までこの人が隠していたんです」
 俺から奪った灰色の封筒を、吉川さんが戸塚に渡す。
 ていうか、その正義面は何?
 しかし戸塚は表情を崩そうとせず、吉川さんを向いたまま一つ咳払いをした。
「どんな理由があろうとも、書類の提出が遅れたことは事実。お前には言い分があるみたいだが、そうならないよう余裕を持って事前に提出すれば良かったんじゃないのか? 締切日ギリギリになったお前も悪い。だから他の生徒と平等に、ちゃんと指導を受けてもらう」
 その言葉に吉川さんは顔を引きつらせながら俺をチラリと見た。
 ふん、ざまあみろだ。
「で、でも、先生。書類を出せなかったのは私が悪いんじゃないんです。本当に書類はこの人が持ってて、私は提出することができなかったんです」
「言い訳はするなっ!」
 戸塚の怒号が進路指導室に響く。
「うっ……」
 吉川さんが委縮したかと思うと、今度は戸塚の指導が始まった。ギリギリと彼女を睨みつけ始めたのだ。
 ――出たっ! 戸塚のガン飛ばし!
 先に睨まれなくて良かった、とほっとしていた俺だったが、恐怖に引きつる吉川さんの顔を見ているうちに、ちょっぴり可哀想になってくる。
 ――これって指導にしてはやり過ぎじゃね?
 進路希望の書類に関しては、一方的に俺が悪かったりする。
 だったら助け舟くらいは出してやろうと口を開こうとした時、予期せぬ事態が発生した。ポンっと音がして、吉川さんと戸塚の間の空間に何かが現れたのだ。

 な、なんだ!? これは?
 く、黒色の、ウ、ウンチィ!?

 怒メルトとそっくりの小さな小さなウンチが、二人の視線がぶつかる空間にプカプカと浮いていた。ただし毒々しい暗黒色で、異様な匂いが漂ってくる。
「おいトケル、あれは?」
 俺は小声でトケルに尋ねる。
「あれは、怖メルトなのケル」
 事態を静観していたトケルが俺に耳打ちする。その声はかすかに震えていた。
 ――フメルト!?
「恐怖の『怖』と書いて、怖メルトなのケル」
 振り向くと、トケルの表情は見てはいけないものに出会ったかのごとく強張っている。
 そんなに怖いものには見えないが、このドブのような臭さは何とかしてほしい。
 ていうか、確かメルトって、同じ感情で視線がぶつかると生成されるんじゃなかったっけ? ということは、今の吉川さんと戸塚の二人は、心が恐怖で満たされてるってこと?
 それって、なんだかおかしい……ような……。
「和志。これは異常事態ケル。怖メルトは、通常では生成されないケル」
 トケルも強い違和感を持っているようだ。
 睨まれている吉川さんが恐怖に包まれていることはわかる。しかし、戸塚も同じ感情というのは一体どういうことなのだろう?
 教師として睨みつけるんだったら、普通、怒りとか正義感とかだろ? 少なくとも恐怖ではないはずだ。
「これは何者かが関与してケル。そして戸塚先生に強い恐怖を与えてケル。あっ、あそこを見るのケル。先生の耳元近くの髪!」
 トケルが指さす先を注目すると、髪の色と同じ黒いものが戸塚の耳元の髪にへばりついていた。今まで髪の毛の一部だと思っていたが、明らかに何かの生き物だ。その証拠に、そいつは戸塚の耳元で何かをブツブツとつぶやいている。
「あいつ、デブゴだケル。妖精仲間だけど嫌われ者ケル」
 どうやら、戸塚にとりついている生き物の正体は、『デブゴ』という名前の妖精らしい。
 するとデブゴは黒い小さな羽をはばたかせ、戸塚の耳元を離れて怖メルトに向かって移動した。ようやく明らかになったその全貌は、黒いマントをまとった太めの魔女といった出で立ちだった。体長はトケルよりも小さめだ。
 怖メルトに到達したデブゴは、ニヤリと笑うとウエストポーチに怖メルトを収納した。
「和志、まずいケル。デブゴは怖メルトを食べるつもりなのケル!」
 慌てふためくトケル。
 俺は不覚にも想像してしまった。あいつが、あの臭くて黒い禍々しいものを口の中に入れる光景を。
「うげっ、想像させんなよトケル」
「冗談じゃないケル。デブゴは怖メルトからパワーを得て、さらに強い恐怖を先生に与えケル。すると今度はメルトじゃなくて、もっと恐ろしいものが生成されケルっ!」
 さらに恐ろしいもの?
 あれを食べることよりも恐ろしい光景なんて想像できそうにない。
「怖メルトの力を借りて視線が三十秒以上ぶつかると、今後は怖デブリが生成されるケル。それが生成されると、デブゴ以外の妖精は怖デブリから半径二十キロ以内には近づけなくなるケルっ!」
「怖デブリ……だと!?」
 なんてカッコよく言ってみたところで俺にはなんのことだかさっぱり分からないが、デブゴ以外の妖精が近づけなくなるというのは困る。
「そしたらトケルはどうなっちゃうんだよっ!?」
 俺は初めて自分に迫る危機を感じていた。
「ボクはここから二十キロ先まで飛ばされてしまうケルんだ」
 な、な、何だって!?
 それは絶対嫌だ。
 学校から二十キロ圏内と言えば、俺の家もその中に入ってしまう。ということは、しばらくトケルに会えなくなるってことじゃないか。
 せっかく理想の美少女と出会えたというのに。せっかく授業中の楽しみを見つけたというのに。
 そうこうしているうちにもデブゴは戸塚の耳元に戻り、怖メルトを一口で飲み込んだ。その口からは黒い禍々しい妖気が漏れている。
 そして大きく深呼吸をすると、もの凄いパワーで戸塚を罵り始めた。

「おい、もっと生徒を睨むブゴ! 真剣にやらないと奥さんにチクるブゴ!!」

 その言葉に戸塚は表情を歪ませた。特に『奥さん』という単語のところで。
「トケル、なんとかしてくれよ。このままじゃ大変なことになっちまう!」
 どうやら戸塚はもの凄い恐怖を感じているようだ。吉川さんを睨みつける迫力が増している。このままでは本当に怖デブリが生成されてしまうかもしれない。
「分かったケル。和志は吉川さんの視線を先生から逸らすケル。ボクはデブゴに干渉してみケル。この怒メルトを使って!」
 そう言いながらウエストポーチを開けるトケル。
 怒メルトを使う? それって怒メルトを食べるのか? さっきのデブゴと同じように。
 ――美少女の可愛いお口に、あ、赤いウンチがッ!!!???
 嫌だ、そんなシーンは見たくもない。
 かと言って、トケルが俺の近くから居なくなってしまうのも嫌だ。そのためには、どんな手を使ってでも怖デブリの生成は阻止せねばならぬ。
「わかった。俺は吉川さんを何とかする。だからデブゴは頼んだぞ!」
「ガッテンでケル!」
 俺はトケルの方を見ないようにして吉川さんに声を掛ける。
「吉川さん、吉川さんっ!」
 しかし二人は睨み合ったままだ。心が完全に恐怖に支配されている。
「吉川さん、頼むからこっちを見てくれよっ!」
 彼女に何も反応は見られない。
 目隠しをしたり突き飛ばしたりという最終手段もあるが、後でセクハラ呼ばわりされることは間違いないので、その前に呼びかけで何とかしたい。
 ――彼女の恐怖を取り除く言葉って?
 意を決し、俺は吉川さんに言葉を投げかける。
「俺が悪かった。本当に悪かった! だからこっちを向いてくれっ!!」
 今まで意地を張って言えなかった謝罪の言葉。が、彼女はこちらを向く気配さえ見せない。
「書類のことは心から謝る。朝のゲートも俺の方が後だったかもしれない。容姿のことも、二重だったらもっと可愛くなるのになって思ったことは内緒だけどゴメン!」
 謝罪の言葉って不思議だ。一度口にすると、次から次へと堰を切ったように出てくる。しかし吉川さんは一向に反応しない。
 こうなったら。
 俺は力を振り絞って彼女に向かって叫んだ。
「吉川さん、君の言うことを何でも聞く! 君のためなら何でもするっ!!」
「えっ?」
 しめた、彼女が反応した。
 吉川さんは戸塚から視線を外し、ゆっくりとこちらを向く。しかし安堵する俺の予想に反し、彼女の表情はさらなる恐怖に包まれていった。

「キャァァァァァァァァァァァァァーーーーーーーーーーーッ!!!!」

 白目を向いて意識を失った吉川さんの体は、ごとりと鈍い音を立てて床に崩れ落ちた。




 倒れた吉川さんを戸塚と一緒に保健室に運ぶと、戸塚は俺に告げる。
「後は保健の先生に任せよう。お前の指導は明日以降にする。他の生徒が待ってるから、先生は指導室に戻るぞ」
 そんなドライな態度に、俺はひとこと言いたくなった。
「先生。あんなに睨みつける指導はどうかと思いますが」
 語尾を強調し、抗議に意図をあからさまにして。
「自分にもよくわからないんだ。生徒の顔を見ると止まらなくなってしまってな。吉川には本当に悪いことをした」
「だったら!」
 戸塚は俺の言葉を無視するようにベッドに横たわる彼女を一瞥すると、そそくさと保健室を後にした。
 自分にもよくわからないだって? 人に言い訳するなって言っておきながら、自分で言い訳してんじゃねえかよ。
 でも、それって……?
 ――戸塚はデブゴの存在に気づいていない?
 まあ、それがわかったとしても俺には関係ない。明日に備えてトケルと作戦を練る必要がある。
「じゃあ、俺達も帰るか。ってトケル? おい、トケルどこに行った?」
 トケルの姿が見当たらない。
 ま、まさか、デブゴのせいでこの空間から追い出されちまったんじゃ……。
 青ざめながらキョロキョロしていると、愛しき小さな声が聞こえてきた。
「和志、こっち、こっちケル!」
 振り返るとわずかに開いた保健室の引き戸の隙間から、トケルが顔を覗かせていた。
「どうしたんだよ、トケル。居なくなっちゃったかと心配したよ」
 俺は保健室を出て、後ろ手にドアを閉める。
「ゴメン和志。戸塚先生に見つからないように隠れてたケル」
「隠れてたって? 普通の人にはトケルは見えないんだろ?」
 それなら隠れる必要は無いはずだ。
「戸塚先生はデブゴに支配されてケル。だったらボクも見えるかもしれないんだケル。和志達が進路指導室に入る時、ボクは怒メルトを回収していたから見つからなかったのケル」
 戸塚はトケルが見えるかもしれないって?
 それが本当ならちょっと困る。戸塚が担当する数学の授業では、机の上にトケルを座らせることができなくなるからだ。
「でもトケル、戸塚はデブゴの存在に気づいてないかもしれないぞ」
「それはボクも感じケル。さっきの先生の言葉はちょっと信じられなかったケル。でも用心するに越したことはないケルよ」
「わかった。注意するよ」
「それと吉川さんケル。彼女もボクが見えてるかもしれないケル」
「えっ、それって……」
 心当たりが一つあった。
 進路指導室に入る直前、出現した怒メルトに吉川さんが反応していたからだ。
「ボクが怒メルトを食べようとした時、吉川さんと目が合ったような気がするケル。って、あっ」
 俺の背後で起きた事態に目を見開くトケル。俺は慌てて振り向いた。

「あ、あなたも、その小さな女の子が見えるのね」

 不意に掛けられた言葉に心臓が飛び上がりそうになる。
 いつのまにか開けられていた保健室のドアから、吉川さんが顔を覗かせていた。




「ねえ、教えて私にも。その宙に浮いている可愛い女の子のこと。確かあなた……伊賀くん、だっけ?」
「ああ、俺の名前は伊賀和志。三年四組だ」
「私は吉川美南。三年一組よ」
 戸塚が俺のことを『伊賀』と呼んでいたのを吉川さんも聞いていたのだろう。
 ぎこちない儀式のような自己紹介が終わると、吉川さんは待ち構えていたようにトケルに視線を移した。いきなり瞳をうるうるさせている。
「この子、すっごく可愛いィ!」
 それはまるで宝物を愛でるような表情で。
 そして恥らいながら俺に質問する。
「最初、この子に気付いた時、私、自分の頭がおかしくなっちゃったと思ったの。でも伊賀くんにも見えてるんだよね? てことは、私、大丈夫よね? その子の存在を信じてもいいのよね?」
 今まで俺に見せてきた怒りの表情が嘘のように素直な瞳でトケルを見つめる吉川さん。俺は少し可笑しくなった。
「ああ、こいつは妖精で、トケルっていうんだ」
「トケルちゃん!?」
 おいおい、トケルを呼ぶ声にハートマークが込められてるじゃねえか。
 なんだか嫌な予感がするが、俺は彼女にトケルのことを説明してあげる。トケルは他の人には見えないこと。メルトをパワーの源とする妖精であること。メルトとは、人間の視線がぶつかる場所でマナが溶結する物体であること。メルトが生成されるには、同じ感情で視線がぶつかる必要があること。
 吉川さんはうっとりとトケルの容姿に見とれながら話を聞いていたが、怖メルトの話になると顔を強張らせた。
「戸塚先生に睨まれると金縛りにあったようになっちゃって、視線を逸らせなくなるの……」
 声が震えているから、よっぽど怖かったに違いない。
 ――怒ると恐い吉川さんも、か弱い一人の女の子なんだな……。
 朝の出来事がなければ、そっと肩を抱いてあげたいくらい彼女は怯えていた。
「でも驚いたよ。その時の戸塚も、心が恐怖に支配されていたとは」
「ボクもなのケル。デブゴのささやきは、それほどの威力があるのケル」
 デブゴのやつ、どんだけ戸塚の弱みを握ってるんだよ。
「私にも聞こえたわ、そのデブゴってやつのささやきが。そうそう、奥さんにチクるというところで先生の睨みの迫力が増して、何が何だか分からなくなっちゃったの」
 妖精のトケルが見えるようになった吉川さんだ。デブゴの声が聞こえてもおかしくはない。
 きっとあの時だな。デブゴが怖メルトを食べた後だ。
「何度も吉川さんに話し掛けたんだよ俺。聞こえなかった?」
「ゴメンね。全然わからなかった……」
 なんだよ、俺の心からの謝罪は無駄だったのかよ。
「でも突然、服従宣言が耳に入って、それで伊賀くんの方を見たの」
 だから服従宣言じゃねえって。
「そしたら、小さな小さな可愛い女の子が、赤いウン、じゃなかった物体を口にしようとして、だから私、やめてって叫んだの。すると、またわけが分からなくなって……」
 なんだ、あの叫びは怒メルトを食べようとするトケルに驚いただけだったのか。
「でも助かったよ。もう少しで怖デブリが生成されちゃうところだったから」
「怖デブリって?」
「怖メルトの最強版……らしい」
「そうなのケル。怖デブリが生成されると、ボク達はその周辺には居られなくなるのケル」
「そしたら、トケルちゃんはどうなっちゃうの?」
「ここから二十キロ圏外に強制的に飛ばされちゃうのケル」
「そんなの嫌! トケルちゃんはずっと私のそばに居るの」
 おいおい、トケルは俺のところに居るんだから邪魔しないでくれよ。
 とその時、トケルを見つめる吉川さんの瞳が光を増していく。
「いいこと思いついた! これから作戦を実行しましょ!」
「もう体はいいのかよ」
「大丈夫よ。それに私、トケルちゃんに会えなくなるのは嫌だもん。伊賀くんも協力してくれるよね? 何でもするって言ってたしね」
「えっ、あ、ああ……」
 だから最後のひとことが余計なんだってば。
 こうして俺は、吉川さんの作戦に協力することになった。




「ちょっと吉川さん、どこに行くんだよ?」
 学校を出た吉川さんは駅に向かって歩いている。手には何か書類を握りしめながら。
「戸塚先生の自宅に決まってるじゃない」
「戸塚の自宅ぅ!?」
 いきなり敵の本拠地に乗り込んで、一体何をやろうというんだよ?
「伊賀くんも聞いてたんでしょ? そのデブゴってやつのささやきを」
「あ、ああ、聞いてたけど」
「先生に睨らまれてた時ね、『奥さんにチクる』というところで明らかに迫力が増したの。ということは、鍵は奥さんよ」
 ああ、そうか。
 戸塚は『奥さん』という言葉に反応した。つまり、奥さんが戸塚の恐怖の源になっているということだ。
「私の推測ではね、先生はかなりの恐妻家ね。ささやかれただけで心が恐怖で満たされるんだから相当なものよ」
 だから自宅を訪問しようというのか。
 そこで一体何をするというのだろう?
「戸塚の自宅に行って何するんだよ? 本人はまだ学校じゃねえのか?」
「だから今、行くんじゃない。奥さんと話しをするのよ、女同士の話を」
 女同士の話?
 それで解決する問題とは思えないが……。
「ゴメン、駅に着いたからちょっと調べ物するね」
 吉川さんは駅の入口に立ち、書類を見ながらスマホを操作し始めた。戸塚の自宅までの行き方を調べているのだろう。きっとその書類は職員名簿か何かに違いない。
「なんだかワクワクなのケル」
 耳元で無邪気な声がする。トケルは俺の肩の上辺りではしゃいでいた。
 もしかしたら、これからとんでもない修羅場を迎えるかもしれないというのに。
「ここから四つ目の駅ね。自宅が駅の近くなんて、結構いいところに住んでるじゃない。さあ、行くわよ」
 スマホから顔を上げた吉川さんの瞳は、闘志に燃えていた。




「こんにちは。落葉高校の吉川といいます」
 駅の近くのアパートの二階に着くと、ドアの上の『戸塚安行・草香』という文字を確認しながら吉川さんが呼び鈴を押す。
『はーい、今出ます。落葉高校の生徒さん?』
「はい、吉川といいます」
 インターホンでのやり取りが終わると、ガチャリと施錠を外す音がした。
 開いたドアからのぞかせたのは、恐妻とは思えない優しそうな丸顔の女性。
「ごめんなさいね、安行さん、まだ帰ってないのよ」
 その女性は柔らかな視線を俺達に送る。こんな人が戸塚の恐怖の源になっているなんて、とても信じられない。
 涼しそうな空色のノースリーブのワンピース。豊満な胸元から見えるのはくっきりとした谷間……。
(ちょっと、何、鼻の下を伸ばしてんのよ。女は正体を隠すんだから気を抜かないでよね)
(あ、ああ……)
 ヤベぇ、胸元をチラ見してたことバレちまったか?
 一方女性は、小声でやりとりする俺達に表情を曇らせた。
「あなたたち、私に用……なの?」
「はい、そうです。失礼ですが戸塚先生の奥様の草香さんですね?」
「ええ、そうですが……」
 すると神妙な面持ちで吉川さんが切り出した。
「今日は奥さんに話があって来ました。戸塚先生には聞かれたくない話なんです」
「そうですか。じゃあ、ここではなんですから中で伺いましょう」
 こうして俺達は敵の本拠地への侵入に成功した。

 リビングのテーブルに吉川さんと並んで座ると、草香さんが「どうぞ」と麦茶をテーブルに置く。
 草香さんが向かいに腰かけると、吉川さんが一つ咳払いをした。
「突然の話で申し訳ないのですが、草香さんから戸塚先生にお願いしてほしいことがあるんです」
 吉川さんの真剣な表情に、草香さんもゴクリと唾を飲む。
「それは何でしょう?」
「生徒を睨まないようにしてほしいんです」
 うわっ、いきなり直球!?
 でも、これだけで戸塚のガン飛ばしが無くなるとは思えない。
「安行さんの指導方針については、私、口出ししないようにしているんですが……」
 あなたが戸塚を操ってるんじゃ? と言いたくなったが、草香さんの困惑した表情は演技ではなさそうだ。
「違うんです、草香さん。戸塚先生に睨まれると、なんだか私、ドキドキしちゃうんです」
 そう言いながら、吉川さんはぽっと顔を赤らめた。
 えっ、話ってそっち方向?
「他の女子も言ってます。戸塚先生の睨みには特別な魅力があると」
 いやいや魅力は無いでしょ。
 魅力を感じてるのはデブゴだけだから。
「私、先生の指導を受けるたびにキュンとなっちゃって、それを彼に話したらものすごく怒っちゃって、それでここに連れて来られたんです」
 ええっ、連れて来られたのは俺の方じゃねえかよ。
 ていうか、何? 俺って彼氏役なの!?
 目をパチクリさせる俺をチラリと見た吉川さんは、しおらしくうつむきながら、じわじわと俺の足を踏みつけてきた。どうやら話を合わせろという合図らしい。
 ――おい、痛ぇよ。少しは加減しろよ。後で覚えてろよ。
 こうなったら仕方がないと、俺も神妙な顔を作る。
「だから奥さん。戸塚……先生に、睨むのをやめさせてくんねえかな。お願ぇだ」
 俺、何役?
 いきなりふられたから、ドラマのヤクザみたいになっちまったじぇねえかよ。
「私からもお願いします。今は彼を失いたくないんです」
 吉川さんが俺の腕にしがみ付いて来る。
 ちょ、ちょっと、演技が過ぎるんじゃねえの。ていうか、何か柔らかいものが肘に当たっちゃってるんですけど……。
「いい雰囲気なのケル。もっとくっついちゃえなのケル」
 トケルが一人はしゃいでいる。
 いい加減にしろと俺はトケルを睨みつけた。
 しかしその仕草がいけなかった。俺が吉川さんの浮気に怒ってソッポを向いたように草香さんにとられてしまったのだ。
「わ、わ、わかりました。安行さんによく言っておきます」
 あっさりと俺達の要求を飲んだ草香さん。それならこれ以上の長居は無用だろう。
「頼んだぜ、奥さんよ」
 この役、なかなか気分がイイ。
「ごめんなさいね。口の悪い彼氏で」
 何だよ、お前がやらせてんじゃねえかよ。
「では、失礼します」
 席を立って玄関に向かう吉川さんに、俺は背後から小声で問いかける。
(おい、こんなんで大丈夫なのかよ?)
(大丈夫よ。女の嫉妬は恐ろしいの。きっと草香さんが睨むのをやめさせるはず。特に女子生徒に対してはね)
(てめえ、裏切ったな)
(私の書類を隠した罰よ。あんたは明日、たっぷりと指導を受けなさい)
(こ、このや……)
 その時だった。最悪のハプニングが発生したのは。
「ただいまぁ~。草香ちゃぁぁぁぁん、会いたかったよぉ!」
 帰宅した戸塚と、玄関で鉢合わせになってしまったのだ。




 草香ちゃぁぁぁぁんだって?
 これがあの戸塚かよ。
 玄関で靴を脱ぐ戸塚は俺達の存在に気付くと、驚いたように目を見開き、一目散に草香さんのもとへ走った。
「どうして生徒達が僕の家に居るの? 草香ちゃん、怖いよぉ~」
 草香さんに抱きついて、そのふくよかな胸に顔を埋める戸塚。俺達は口をポカンと開けて、その光景を見つめるしか術はなかった。
「これであなたたちも分かったでしょ? 安行さんは好きで生徒を睨みつけているわけじゃないの。魂を削りながら指導してるのよ」
「……」
 開いた口が全く塞がらない。
 が、戸塚が指導中に恐怖の感情に包まれる理由がわかったような気がする。彼は奥さんが怖いんじゃなくて、俺達が怖かったんだ。
「今日はね、生徒の指導中になぜか草香ちゃんのことを思い出しちゃったんだ。そしたらね、急に家に帰りたくなっちゃって、僕、すごく怖くなったんだよ」
 ぼ、ぼ、僕だって?
 ていうか、草香さんが恋しくなって恐怖を募らせていたのかよっ!?
 それに『なぜか』ってどういうことだ? やっぱり戸塚は、デブゴの存在には気付いていないのか?
「そう言えば、デブゴが居ないのケル」
 トケルもデブゴを探しているようだ。
 俺も戸塚の耳元近くの髪の毛に注目してみたが、デブゴが隠れている様子はない。
「じゃあ、デブゴは何処に行ったんだよ?」
「きっと進路指導室に住みついてケル。先生のそばに居ても、自宅でこんな調子ならデブゴにメリットは無いのケル」
 そう言いながら戸塚夫婦に目を移すトケル。
 その視線の先では、高校生にはちょっと刺激の強いやり取りが展開されていた。
「んんっ、もう、くすぐったいよ、安行さん」
「草香ちゃんのおっぱいは本当に柔らかいなぁ。学校でのストレスが吹っ飛ぶよ」
 おいおい、あんたが指導すべき生徒の目の前なんですけど……。
 横を見ると、吉川さんは耳まで真っ赤になっている。
 確かにこれじゃ、自宅で怖メルトが生成されるわけがない。
「安行さん、もう生徒のことを睨んじゃダメよ」
「うん、わかった。草香ちゃんがそう言うなら、もう睨むのをやめる」
「ホント? ちゃんと私の目を見て言って?」
「うん、草香ちゃん愛してる」
 戸塚は草香さんに熱い視線を送った。
「ん、もう。はぐらかせないで。私も好きよ……」
 俺達のことなんてほったらかしで熱く見つめ合う二人。恥ずかしさでなんだか俺の背中もムズムズしてきた。とその時――

 ポンという音がして、戸塚夫婦の間に何かが出現したのだ。

「き、金色のウ、ウンチィィィィィッ!?」
 それは蜂蜜のような黄金色の小さな小さなウンチだった。二人の間の空間にプカプカ浮いている。
「何だ? あの金色のは?」
 振り返ると、トケルは瞳をうるうるさせていた。
「蜜メルトだケル!!」
 ミツメルトだと!?
「ボクの大好物なんだケル。そして最高のパワー源なのケル。これがあれば、デブゴなんてちょろいのケル」
 何ィ? これは、デブゴの野望を阻止できるアイテムなのか!?
「これって、そんなにパワーがあるのか?」
「そうなのケル。これを食べれば、デブゴに決して負けないのケル!」
 おおお、何て頼もしい。これですべては解決じゃないか!
 この喜びを分かち合おうと吉川さんを見ると、彼女は恐怖で顔を引きつらせていた。

「ダメっ! トケルちゃんにそんなものを食べさせたらっ!!」

 ダ、ダメって、どういうことだよ。トケルだって大好物って言ってるじゃないか!?
「おいおい、これはデブゴに対抗する切り札なんだ。食べないでどうするんだよっ!」
「戸塚先生が生徒を睨まなきゃいいんでしょ? だったらさっき、先生はもう睨まないって言ってたじゃない」
「そんなこと信じられるかよ。ていうか、トケルは俺のところに居る妖精なんだ。余計な口出しするなよ」
「あら? 先生に誓いを立てさせたのは誰のおかげ? トケルちゃんは私のところに居るべきだと思うけど」
 まるで自分の手柄と言わんばかりの吉川さんに腹が立った。
 トケルは彼女のところに居るべきだって?
 そんなことってあるかよ。俺の授業中の楽しみはどうなるんだよ。
「ボクはどちらでもいいケルよ。どっちみち二人が出会う場所で怒メルトが発生ケルんだし。でも目力の強さでは美南が上ケルかな」
「ほら、トケルちゃんもそう言ってるじゃない」
 だからその傲慢な態度が気に入らないんだよ。
「うるさい、うるさい、トケルは俺のところに居るんだ」
 俺は吉川さんを睨みつける。
「なによ、男なら負けを認めなさいよ」
 吉川さんも負けじと俺のことを睨んだ。
「あらあら、内輪もめ?」
 いちゃいちゃしていた戸塚夫婦もようやく俺達の様子に気付いたようだ。
「お前たちって、実は似た者同士だな」
 先生もいい加減なことを言わないでくれよ。俺はこんな鋭い睨みはできないし。
 て、よく見たら、吉川さんって奥二重じゃないか。化粧で目をパッチリさせて眉毛も細めに整えたら、もっと可愛くなるような……。
 そんなことを考えていたら、ポンっと音がして二人の間に赤いウンチが出現する。
「おおっ、こんな怒メルト、見たことないケル!」
 その怒メルトは、ほんのり桃色に染まっていた。

 了



ライトノベル作法研究所 2014大夏祭り大会
テーマ:「○○○なのに、□□□な美少女」または「○○○なのに、□□□ない美少女」

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