ふわり、草の匂い ― 2013年08月20日 08時02分47秒
子供の頃、パパは魔法使いだと思っていた。
「ほら、四葉。そこに立ってごらん」
パパの言う通り、草に覆われた公園の丘の上に立つ。
白詰草が咲き誇る町の公園は、二人のお気に入りだった。
「ねえ、パパ? これから何が起こるの?」
「四葉が気持ち良くて、びっくりする魔法だよ」
そこでパパは、とっておきの魔法を私に披露してくれた。
『カゲカゲ、フワフワ。カゲカゲ、フワフワ……』
パパが呪文を唱えると、足元がなんだか涼しくなる。気が付くとスカートがフワフワと宙に浮いていた。
「うわぁ、パパ。おもしろーい! そんで、なんか、気持ちイイ」
フワフワと漂うスカートと一緒に、体も浮いてしまうような感覚に私はとらわれる。
――このまま空も飛べたら気持ちいいのに。
私の心も一緒に軽くしてくれた魔法だった。
そんなパパの魔法は、草の匂いがした。
でも。
五年前のこの出来事って……。
ただのスカートめくりなんじゃないのぉぉぉぉーーーッ!?
☆
パパはもしかしたら変態?
丘野四葉(おかの よつは)がそんな疑念を持ち始めたのは、高校一年生になったばかりの梅雨のある日のこと。雨上がりの通学路に面したビルの合間の路地から、懐かしいフレーズが聞こえてきたのがきっかけだった。
『カゲカゲ、フワフワ。カゲカゲ、フワフワ……』
――えっ、その呪文って?
声がした方を振り向くと、そこに居たのはサングラスとマスク姿の怪しい男。ビルに隠れるようにしてビデオカメラを構えている。どうやら反対側の歩道を撮影しているようだ。
――この人ってパパ? 変装して何やってんの?
声を掛けようと思ったが、パパじゃない別人のような気もする。それ以上に私を躊躇させたのは、その男が発するただならぬ雰囲気だった。
サングラスの奥から感じる真剣な眼差し。
――何を撮っているんだろう……?
男のカメラが追う方向を見ると、一人の女子高生が歩道を歩いていた。
――あっ、あれは。
同級生の東屋日和子(あずまや ひよこ)。ショートボブの髪を朝の光になびかせている。
その時。
「キャッ!」
日和子が甲高い声を上げた。
雨上がりの歩道、水たまりに反射する朝の光、そしてめくれ上がっていく日和子の制服のスカート。
必死に前を抑える日和子だが、無情にもお尻が露わになる。下着の可愛いひよこのプリントがコンニチワをした。
――ま、まさか、これってパパの魔法……?
スカートをめくる風、フワフワという呪文。これはまさにパパの魔法そのものだ。
元に戻ったスカートに手を当て恥ずかしそうにキョロキョロと辺りを見回す日和子とは対照的に、私は呆然と立ち尽くす。そんな私を我に戻したのは、日和子の叫び声だった。
「四葉! あの男を捕まえてッ!!」
――えっ、えっ? あの男?
そうだ、あの男は!?
日和子が指さす方向を見る。ビルの合間の路地を、サングラスの男が慌てて走り去って行くところだった。
「なによ、四葉。ちょっとくらいは追いかけてくれたっていいじゃない」
横断歩道を駆けて来た日和子は、ぷうっとほおを膨らませた。
「許せないあの男。絶対、盗撮野郎だわ。さっきのビデオに撮ってたもん」
「あの男が?」
私は知らないフリをする。
「えっ、あんた、あんなに近くに居て全然気付かなかったの?」
「うん。ゴメン……」
ホントは気付いていたけど。
だって、もしかしたらパパかもしれないんだから。
「盗撮野郎に撮られちゃったよ、私のとっておき」
「あのひよこのプリントが?」
ちょっとそれは子供っぽいんじゃない?
私の反応に、日和子は顔をほんのり赤くする。
「やっぱ見えてたのね、私のパンツ……」
そりゃ、あなた、スカート短すぎですから。
「絶対あいつを捕まえて、映像を取り返してやる」
日和子はギリギリと拳を握りしめた。
――もしあの男がパパだったらどうしよう。
鼻息を荒くする彼女の隣で、私の心は不安に浸食されていた。
☆
その日の学校は、どんな授業を受けたのか全く覚えていない。
だって、パパが盗撮犯なのかもしれないんだから。
放課後になっても、私の心はちっとも穏やかになってくれなかった。
――カゲカゲ、フワフワ。
あれはパパの呪文に間違いない。
もしサングラスの男がパパではないとしたら、なぜ呪文をあの男が知っていたのか謎になる。
――まさか、パパの魔法の弟子……とか?
そんなことがあるのだろうか。
私の頭の中では、いろいろな可能性がグチャグチャと際限なく回り始めていた。
「四葉。あんた、これから暇?」
思考を遮る威圧するような声。
気が付くと、目の前には日和子の顔があった。いつのまにかホームルームは終わっている。
「えっ、あ、う、うん……」
気圧された私は、仕方なく生返事をした。
「だったら調査に行くよ」
「行くってどこに?」
「盗撮野郎が居た場所に決まってるじゃない」
やっぱり。
「あの突風がわざとだとしたら、きっと何かカラクリがあるはず。それを突き止めるのよ。それにカラクリがあるなら、あいつは再び姿を現すわ」
日和子は本気で犯人探しをするつもりだ。
私は通学用バッグに教科書を詰めながら、なんとかしなくちゃと焦りで心が一杯になっていた。
☆
「怪しい男はね、この場所に居たのよ」
朝の場所にたどり着くと、日和子は私に状況を説明する。
「そしてあんたはそこ。三メートルくらいしか離れていないのに、本当に気付いてなかったの?」
「えっ、う、うん……」
今は知らんぷりを貫かなくちゃ。
日和子の目を見ていられなくなって視線を外すと、彼女は仕方が無いと車道に目を移した。
すると日和子は、男になりきってビルの合間に身を寄せる。ビデオを構える手つきをしながら、反対側の歩道に焦点を合わせている。
「車道は片側二車線、計四車線だから、ざっと十五メートルは離れてるわね……」
ブツブツと呟きながら状況を調査する日和子。目は真剣そのものだ。
「ここから風を起こしてスカートをめくるのは不可能。となると、歩道側になにかトリックがあるはずだわ」
そして彼女は駆け出した。
「四葉、向こう側の歩道に行くよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
私は慌てて日和子を追いかけた。
「私は今朝、この歩道を歩いていた」
日和子は、朝の自分自身の行動を再現しながら検証を始める。
「そしてこの辺りでスカートがめくれ上がった。ということは、この場所になにか仕掛けがあるはず……」
彼女は立ち止まって地面を見る。
「あっ!」
そして何かを見つけ、腰を折ってアスファルトに目を近づけた。
茶色に染めたショートボブの髪がパラリと下を向く。進学校であるうちの高校の生徒にしては崩れた格好の日和子だが、頭はかなりいい。成績はいつもクラスで一、二番を争っている。
――優等生なら優等生らしい恰好をしたらいいのに。
何度そう思ったかわからない。目鼻立ちも整った彼女と一緒に歩いていると、いつも男子の目線を奪われてしまう。スカートだって、明らかに校則違反と分かるくらいに短いし……。
――ちょっと日和子、そんなに前かがみになったら、またお尻のひよこが見えちゃうよ。
日和子に忠告しようとしたその時、
「これだ!」
彼女は何かを見つけて叫び声を上げた。そしてあるものを指さしながら私の方を見る。
「見てごらんよ、四葉。この部分のアスファルト、色が違ってるでしょ」
ホントだ。
日和子が指さす先を見ると、その部分のアスファルトが周囲よりも黒っぽくなっていた。
その範囲は二メートル四方くらい。どうやら、その部分だけが新しいアスファルトに塗り換えられているらしい。
「むふふふ、わかったわ、四葉」
日和子はすっと姿勢を正す。
「この新しく塗り換えられたアスファルトが謎を解く鍵よ。きっとこの場所がターゲットになっていたのね」
「ちょ、ちょっと、よく分からないんだけど……」
「いいわ、詳しく説明してあげる。ここじゃなんだからちょっとそこのお店に入らない?」
日和子は、目の前にある喫茶店を指さした。
☆
喫茶店に入った私達は、通りに近い二人掛けのテーブルを選ぶ。席につくと、日和子はキョロキョロと周囲を見回し何かを探し始めた。
「あった、あった」
そして、すぐ近くの壁際の棚に置いてあったガラスの置物に手を伸ばす。
それは五センチくらいの直方体のガラスの中に、白く自由の女神像が浮き上がった不思議な置物だった。
「これはね、3Dクリスタルアートって言うの」
ガラスの置物を勝手に手に取った日和子は、それを私に手渡した。
ずしりと重いガラスの置物。その中に、自由の女神が三次元の像として掘られている。目を近づけて見ると、ガラスの中の模様は小さな白い点の集まりとして形成されているようだ。
「すごい、これ。ガラスの中に像が浮き上がっている」
これってどうやって掘ったんだろう。周囲のガラスには全く傷はないし。
私が不思議そうにガラスの置物を眺めていると、日和子はニヤリと笑みを浮かべた。
「それが今回のトリックのヒントよ」
えっ、これが?
つまり自由の女神がヒントってこと?
でもこの人が着ている服ってやたらごつくない? スカートがめくれるなんて騒ぎじゃないんだけど。
私が目をパチクリさせていると、逆に日和子から質問される。
「ねえ、四葉。この自由の女神の像って、どうやって作ったか知ってる?」
「えっ、作り方?」
自由の女神がヒントじゃないの?
そんな、いきなり製法を聞かれたって、日和子ほど頭がいいわけじゃないからわからないんだけど……。
「適当でいいから考えてみてよ」
「えーと、じゃあね……」
私は、お菓子のフルーツゼリーを連想した。透明のゼリーの中にフルーツが浮かぶ姿は、この自由の女神とそっくりだ。
「白い点で自由の女神像を作っておいて、外から型にガラスを流し込んだとか?」
すると日和子はバカにしたような目つきで私を見る。
「そんな風に作ってるわけないじゃない。溶けたガラスってものすごく高温なのよ。ゼリーじゃないんだから」
ぐっ、ゼリーを連想したのがバレてる。なによ、適当でいいって言ったの日和子じゃん。
「じゃあ、どうやって作ってるのよ」
私は少しムッとしながら日和子に聞いた。
「レーザー光線よ」
日和子の目の奥がキラリと光る。
レーザー光線? それって中東のサッカー場で飛び交ってる赤色とか緑色のアレ?
「複数のレーザー光線をガラスの外側から当てるの。するとレーザー光が交わったところだけが高温になって、ガラスが白く変色するってわけ」
ガラスって変色するんだ……。というか、そんな危ないものがサッカー場で? じゃなかった、そんな風にしてこの自由の女神が掘られてるってわけか。
「今朝の風も同じ。きっと複数の場所から空気砲みたいなものがあのアスファルトを目印にして飛ばされたんだわ」
空気砲? それってカメハアハアとか、マカンコウソウサイッポウみたいなもの?
「すると、あの場所で空気の渦が生じてスカートがめくれる。きっとそんなカラクリなんだと思うの」
すごいよ日和子。あんた天才。
「じゃあ、犯人は一人じゃないってこと?」
「おっ、鋭いね、ワトソン君」
あのね、私ワトソン君じゃないから。それを言うならミスワトソンだから。
でも、日和子に認めてもらえたのはちょっと嬉しい気もする。
「そう。少なくとも三人以上はいるはず。これは盗撮集団による組織的犯罪だわ」
組織的犯罪!?
日和子の口から飛び出した言葉は、ドラマの世界が自分の身に押し寄せてくるような迫力を持っていた。
☆
それから私達は、しばらくの間、喫茶店から現場を張り込んでいた。
今座っている席からは、黒く変色したアスファルトも、サングラスの男がビデオを撮っていた場所も見渡すことができる。盗撮集団を見つけるには最適な場所というわけだ。
「なかなか現れないわね……」
しかし怪しい男達は現れるわけもなく、時間は無情にも過ぎていく。
「そうね……」
コーヒー一杯で粘れるギリギリの時間になろうとしていた。
窓の外を眺めながら私は、いつの間にか日和子と一緒に犯人探しに興じていることに気付く。
どうしてだろう? 日和子に推理されるのがあんなに嫌だったのに。
もしかしたら、『盗撮集団』という言葉が私の心を軽くしてくれたのかもしれない。集団でスカートめくりをしているのなら、メンバーはみんなパパの呪文を知っているってことなんだから。
あっ、でもそれって、パパが盗撮集団のボスってことになっちゃうんだけど。
「サングラスにマスク姿なんて、すぐに分かるのにね……」
いい加減張り込みに飽きてきた私は、ビルの影に隠れていた怪しい男を思い浮かべながらポツリと呟く。
すると日和子がにわかに険しい雰囲気を漂わせ始めた。
「四葉、今なんて言った?」
日和子を見ると、目が笑っていない。
「えっ、サングラスにマスク姿ならすぐ分かるかなって……」
「なんでそれをあんたが知ってんのよ」
その言葉にはっとする。
「今朝は盗撮犯に気付かなかったんじゃないの? 私、犯人の特徴なんてひとことも言ってなかったし」
げっ、ヤバい。
「えへへへ、だってサングラスにマスクって、怪しい男の代名詞だよね……」
「そんなこと言っても誤魔化されないわよ。あんた、何か知ってんでしょ?」
「知らない。私、何も知らない」
ここは貝のように口を閉ざすしかない。
「ははーん」
日和子はついに疑いの目を私に向ける。
「必死になるところがなんか怪しいわ。まさかあんた、犯人を知っててかばってんじゃないでしょうね? それともあんたが犯人の一味とか?」
は、犯人の一味ィ!?
私は自分の耳を疑う。そして同時にふつふつと怒りが湧いてきた。
「日和子、私怒るよ」
親友の私になんてことを言うの!?
「じゃあ正直に答えてよ。やましいことがあるから黙ってんでしょ?」
一歩も引こうとしない日和子。まるで正義は自分の元にあるかのごとく。
その態度に私は切れた。
日和子っていつもそうだ。頭がいいからって自分の価値観を人に押し付けて、ちょっと可愛いからって男の視線を私から奪って!
「ふざけないで。私は盗撮犯なんかじゃない。それに盗撮犯なんてかばったりしない! パパだって決してそんなことしないんだからッ!!」
私は思わず叫んでいた。
☆
「まあまあ、落ち着いてよ四葉。あんたの事情はよくわかったからさ……」
周囲を見渡しながら日和子が私をなだめる。私の叫び声に驚いた喫茶店のお客は、皆こちらを向いていた。
恥ずかしくなった私は、視線を避けるようにテーブルを向く。コーヒーカップに残るわずかな茶色い液体が、惨めな自分を物語っているような気がした。
――あーあ、ホント私ってバカ……。
こんなんじゃ日和子の顔も見れやしない。
喫茶店のざわめきが収まってくると、日和子がゆっくりと話しかけてきた。
「四葉は自分のパパが盗撮犯じゃないかと感じた。だから、そのことを私に隠していた。それで正解よね?」
やっぱり日和子には敵わないや。
「うん……」
私は負けを認めて静かに頷く。
どうせこうなるなら、最初から日和子に打ち明けていればよかった。
恐る恐る顔を上げる私を、彼女は柔らかく見つめていた。
「でも盗撮犯がパパかどうかわからないんだよね? だから私の捜索に協力してくれた」
「そう……」
すると日和子は不思議そうな顔をする。
「もしそうなら、一つだけ分からないことがあるんだよねぇ~」
探偵のように眉間に手を当てて、日和子は目を閉じる。
「分からないこと?」
「そう、この事件の最大の謎……」
目を閉じたまま答える日和子。まるでその謎が解ければ事件が解決するかと言わんばかりに。
「ねえ、四葉。もうすべてを話してくれるよね?」
日和子は目を開けて、私のことをまっすぐに見る。親友として私のことを認めてくれる真摯な眼差しだった。
仕方が無い。聞かれたことすべてを彼女に打ち明けよう。
覚悟を決めた私は、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ教えて。四葉はなぜ、盗撮犯がパパじゃないかと思ったのかを」
そうか、日和子はあの呪文のことを知らなかったんだっけ。
「パパの呪文……」
「呪文?」
怪訝な顔をする日和子。それもそのはずだ。いきなり呪文と言われても理解できる人がいるわけがない。
しかし、そんな説明をこの喫茶店でするのはなんだかこっぱずかしい。さっきのこともあるし、お客が全員聞き耳をたてているような気もする。
だから私は立ち上がった。
「日和子、まだ時間あるよね? 一緒に行きたい場所があるの。そこでちゃんと説明するから」
「えっ、あ、まあ、いいけど……」
困惑しながら日和子も席を立った。
☆
白詰公園は大川のほとりに広がる公園だ。
「四葉が行きたい場所ってこの公園?」
「そう。ほら、あの丘に登ると夕陽が見えるよ」
私達は、白詰草が咲く小さな丘に登り、対岸の町並みを眺める。梅雨の晴れ間の夕陽は、すでにビルの上に差しかかろうとしていた。
「この時間って気持ちいいね」
夕暮れの爽やかな風が、私達の髪を通り過ぎていく。
しばらく二人で町並みを眺めた後、私は静かに切り出した。
「ねえ、日和子。変な話をしても私のこと馬鹿にしない?」
これからする話は、『呪文』とか『魔法』についてだ。日和子が真剣に取り合ってくれるか、私は不安だった。
「ああ、四葉の話を信じるよ」
夕陽に照らされる日和子の顔は、なんだかいつもより優しく見えた。
私は川の方を向くと、一つ呼吸を置いてゆっくりと話し始める。
「子供の頃ね、パパとよくこの公園に来たの」
それは小学校五年生の頃だった。ママが亡くなって落ち込みがちだった私を、パパはよくこの公園に連れ出してくれた。
「パパはここで、私に魔法をかけてくれた。カゲカゲ、フワフワって呪文の」
「魔法?」
隣から困惑の疑問府が漂ってくる。が、私は気にしない。
だって、魔法なんて言葉を聞いて平静でいられる人なんていないんだから。私だって、本当に魔法かって考えると今でも信じられない。
「そう、魔法。パパが呪文を唱えるだけでスカートがフワフワってなって、とっても気持ちが良かったの」
――カゲカゲ、フワフワ。
それは私とパパの秘密の言葉だった。
「その呪文がね、今朝のあの場所で聞こえたの」
呪文の事は誰にも話したことはない。パパが広めたりしなければ、誰も知らないはずなんだ。
「見たらサングラスの怪しい男がビデオを撮っていて、そしたら日和子のスカートがめくれちゃって……」
あの男がパパなんて信じられない。
もしパパじゃない他の誰かだったら絶対に許せない。
怒りと困惑がごっちゃになって、いつの間にか私は泣いていた。
「あの男はパパじゃない。パパじゃないって信じてるの……」
「わかった、四葉。わかったよ」
夕陽に向かって涙をこぼす私に、日和子はそっと寄り添ってくれた。
「それにしてもいいところね。初めて来たわ」
涙と一緒に怒りも恥ずかしさも出し尽くした私は、日和子に公園を案内する。
「えへへ、そうでしょ?」
だってここは私とパパのお気に入りなんだから。
「それにしても『パパの魔法』だなんて、あんたってどんだけ夢見るファザコンなのよ」
日和子の言葉がチクリと胸を刺す。
「もう、それは言わないって約束でしょ?」
「だったら四葉も忘れなさいよ。魔法なんてありえないんだから。きっと風が起こるのを察知して、あんたのパパは呪文を唱えたんだと思うよ」
うん、そうなのかもしれないよね。
「ということはさ、あんたのパパは犯人ではない。そういうことよ」
探偵にそう言ってもらえると助手も心強い。
「うん、わかった……」
とにかく日和子と一緒に盗撮集団を捕まえてやる。そしたら真相は明らかになるはずだ。
私は明日からの捜索に意欲を燃やし始めた。
☆
「じゃあ、明日の放課後はあの喫茶店に集合ね」
中央広場の真ん中に立った日和子は、明日の捜索の提案をする。
「わかった。明日は部活があるけど休んで合流するわ」
パパの潔白がかかっているんだから、部活どころの話ではない。
「それにしてもこの広場って不思議な場所ね。この模様、なんか風車みたい」
日和子は地面を見ながらしみじみと呟いた。
つられて下を向いた私は驚く。そこには一つの模様が形作られていたからだ。
――巨大な白詰草の渦巻模様。
直径は十メートルくらいあるだろうか。
うす黄緑の芝生を下地として、濃い緑色の白詰草が巨大な渦巻模様を形作っている。そう、その形はまるで緑のペロペロキャンディーのよう。
「こんな模様、昔は無かったのに……」
目を丸くする私を横目に、日和子は冷静に分析を開始した。
「この渦巻模様、自然にこうなったとは思えない。これは間違いなく人間の仕業だわ」
そりゃ、私もそうだと思うけど……。
そして日和子は周囲を丹念に調べ始めた。
「渦巻模様を取り囲むようにベンチが四台。あれ? あの白いものって何かしら?」
何かを見つけた日和子が、一つのベンチに向かって走り出す。ベンチの下には白い怪しい箱が設置されていた。
「こ、これって……」
白い箱の前方には小さな穴が開いている。そして、その穴の奥で何かがキラリと光ったのだ。
「カメラのレンズ!?」
――盗撮ボックス。
私達は撮られている。
なにか得体の知れない恐怖に背筋が凍りついた。
「四葉、見て。後ろに何か書いてある」
その場に立ち尽くす私とは対照的に、日和子は箱を調べ始めている。そして、箱の裏側になにやら怪しい文字を発見した。
『植生観察中。西都大学工学部都市環境学科 丘野研究室』
「ねえ、四葉。西都大学の丘野研究室って書いてあるよ」
四つん這いになってベンチの下を覗きこみ、文字を読み上げる日和子。薄暗い公園に日和子のひよこがコンニチワをしているような気もするが、私はそれどころではなかった。
――西都大学の丘野研究室!?
それって、パパの研究室だ……。
私はすっかり言葉を失ってしまった。
「ねえ、丘野研究室って何? なんで四葉と名字が同じなの? もしかして、あんたの親戚とか?」
青ざめたまま立ち尽くす私のもとに日和子がやってくる。
「パパの……、研究室……」
「えっ!?」
かろうじて発した私の言葉に日和子も絶句した。
私達はそのまま無言で公園を歩き、出口で別れて家路についた。
それからどうやって家にたどり着いたのか、全く覚えていない。
「お帰り、四葉」
玄関を開けた時のパパの優しい声に、私は泣き出しそうになる。
――裏でやましいことをしてるから、その反動で家族に優しくしてるの?
でも、そんなことパパの前で言えるわけがない。
「どうしたんだ、四葉。調子が悪いのか?」
その言葉に涙が出そうになり、私はパパの脇をすり抜けて自分の部屋に行こうとした。
「痛ッ!」
腕に軽い痛みを感じ体が動かなくなる。パパに腕を掴まれてしまったからだ。
「四葉、何かあったんだな。部屋にこもる前にちゃんとパパに話してくれ」
私はパパを睨みつける。
「嘘つき! パパなんて大嫌い!」
「えっ……」
腕を掴む力が緩む。私はパパの手を振りほどき、自分の部屋に走った。そして勢いよくドアを閉める。
「四葉!」
私は泣きながら、パパの声が聞こえないように耳を塞いだ。
☆
部屋にこもってから二時間が過ぎた。時計を見ると夜の八時を回っている。どうりでお腹も空いてきたわけだ。
――このまま意地を張り続けるか、パパに謝ってご飯を食べるか。
堂々巡りの回転軸にお腹の虫が影響を与え始めた頃、部屋の外にスリッパの音が聞こえてきた。パパだ。
『四葉、聞いてるか?』
「…………」
ドア越しの問いに返事をしないで黙っていると、パパは勝手に話し始める。
『さっきは悪かった、掴んだりして』
「……」
今でも左手首が痛い。見ると少し赤くなっていた。
『ママが死んでから、パパはパパなりに精一杯やってきた。確かに至らないところもあったと思う。だが、だがな、四葉』
パパが一つ呼吸を置いた。
『嘘つきっていうのはどういうことだ? 研究者としてパパは誠実に生きてきた。だから、それだけは納得がいかない……』
だって、パパの魔法って、魔法じゃなかったんでしょ?
高校生になれば魔法なんて存在しないことはわかるけど、それを自ら否定はしたくなかった。想い出は、そっとしておけば素敵なままでいられるのだから。
しばらくの間、私の部屋のドアを沈黙が包む。
するとドアを何かがこすれる音がした。そして床が軋むミシリという音。きっとパパが、ドアに背中を付けて座り込んだのだろう。パパの背中を通して、穏やかな息遣い聞こえてくる。
パパは持久戦を覚悟しながら、私が何か答えるのを待っているのだ。
ああ、この時がやって来た。
パパとの想い出を自ら打ち破る儀式。
でもこれは大人になるために避けて通れない道なんだ。いわば通過儀礼ってやつ。
私は覚悟を決めて、重い口を開いた。
「カゲカゲ、フワフワ……」
パパの息遣いが止まる。
それは、私の言いたいことが伝わった静けさだった。
『あの呪文か……』
絞り出すようなパパの声。
パパにとっても、満ちた時を受け入れる時間が必要だったみたい。
『ごめんな、魔法だなんて嘘をついて』
ああ、私の心の中でパパの魔法が崩れていく。
『パパが植物を研究しているのは知ってるだろ? あの風は、研究の成果を応用したものなんだ』
西都大学の工学部で准教授をしているパパ。都市環境学における植物の役割を研究しているらしい。
『植物って電磁波を感じて行動をするんだ。ほら、太陽の光で葉を閉じたり開いたりするだろ? あれって電磁波を感じているからなんだよ』
パパは私のことはそっちのけで解説を始めてしまった。そういう研究者らしいところは私の好きなところであり、嫌いな部分でもあった。
『ある日パパはね、ある電磁波を発見したんだ。白詰草に風を起こさせるような』
「風?」
電磁波を使って草に風を起こさせる?
『そうだ、白詰草に特殊な電磁波を浴びせると、葉の裏の気口を開いて排気を始めるんだよ』
そんなことができるの?
『研究を重ねると、日蔭になった部分の白詰草だけに風を起こさせることが可能になった。その電磁波を発生させる装置をポケットに忍ばせて、呪文を唱えながらスイッチを押していたんだ』
日蔭にある白詰草だけが風を起こす電磁波。
だから『カゲカゲ、フワフワ』なのね……。
まさかそんなカラクリだったとは。
『日向の白詰草は、光合成で酸素を作り出す。日蔭になった葉は、パパの電磁波で酸素を放出する』
酸素が沢山含まれた空気って、なんだか体に良さそう。
『風自体も気持ちいいし、その成分には癒しの効果がある。画期的な研究の成果だったんだよ』
だから、あの魔法で生まれた風はとっても気持ちが良かったんだ。
そしてそれは、パパが必死に研究して掴んだ成果。
そうか、そうなんだ!
これは魔法と変わりないじゃない? だって普通の人にはできないことなんだから。
「わかった、パパ」
私の中で、想い出という気体のようなものが表面を形成し、心の隙間にカチリとはまった瞬間だった。
『だったらご飯を食べよう。パパもお腹が空いたよ』
ドアの向こう側からもグゥと聞こえてくる。その音に、私は可笑しくなった。
☆
「ごめんなさい、嘘つきってひどいこと言って」
「パパも悪かったよ、魔法だなんて嘘をついていて」
夕飯を食べながら、私はパパと言葉を交わす。
なんだか父娘関係が、いつもよりも一歩前に進んだような感じがした。
今なら何でも聞けるかもしれない。
「ねえ、パパ」
私は意を決してパパに尋ねる。
「今日の朝って何してた?」
「何してたって、通勤してからずっと大学に居たけど」
今朝、私はパパと一緒に家を出た。私は徒歩でパパは車だ。ずっと大学に居たという言葉を信じるなら、盗撮犯はパパではないということになる。
「じゃあ、今の研究って何? 白詰公園でやってるの?」
「白詰公園? ああ、アレね」
パパからすぐに反応が返ってきた。ということは、渦巻模様やベンチ下の箱にも心当たりがあるということだろう。
それならば話は早い。
「中央広場に変な渦巻模様があってビックリしたの」
「変とはなんだよ、綺麗な渦巻模様だっただろ? 白詰草で細かく模様を作るのは苦労したんだぞ。まずはな、小型と大型の白詰草に分けて栽培してだな」
やっぱりパパの仕業だったのね……。
あと、苦労話は聞くつもりはないから。
「あの渦巻模様って何か意味があるの?」
私はパパの説明を遮って単刀直入に尋ねる。
「ああ、大アリとも。あれも白詰草に風を起こさせているんだよ」
えっ、あれもカゲカゲ、フワフワ?
「最近、つむじ風のニュースをよく聞くだろ?」
つむじ風ってグルグル回る風のこと?
「つむじ風は発達すると竜巻になって、すごい被害をもたらすんだ」
それなら知っている。茨城で大きな竜巻が発生して、家ごと飛ばされた中学生が亡くなったというニュースを聞いたことがある。
「そのつむじ風なんだが、北半球では反時計回りに発生することが多いって知ってるか?」
えっ、そんなことってあるの!?
「いや、知らないけど」
「地球の自転の影響でそうなるんだよ。ということは……」
ということは?
「逆回り、つまり時計回りの空気の流れを普段から作っておけば、つむじ風の発生が減るんじゃないかなあと思って……」
何? その自信なさげな語尾は。
「そんな研究をしてるんだよ、あの公園で」
まだ研究途中かい。
「あの渦巻模様は、時計回りの空気の流れを作るためのものなんだ。あの形の白詰草が排気すると、渦ができるんだよ。その様子を撮影して、検証してるところなんだけどね」
あの箱はそういう意味だったのね……。
夕方は背筋が凍る思いをしたけど、今思えば寿命を千秒くらい損した気分だよ。
私は体からどっと力が抜けていくのを感じていた。
「はいはい、パパの研究で町の平和が守れるといいね」
「おっ、いいこと言うね。皆の知らないところで町を守っているなんて、なんかカッコよくないか?」
パパは微妙に照れながら、鼻の下を指でこする。
――こんな人が盗撮なんてするだろうか?
なにか私の心にも平和が訪れたような、そんな感じがした。
☆
「パパの魔法って、そういうカラクリだったのよ」
「へえ、すごいね、あんたのパパって」
翌日、放課後の喫茶店で私の話を聞いた日和子は、ふーんと喉を鳴らした。
「だったら、あんたのパパは、この場所で起きた盗撮事件の犯人じゃないわね」
「そうでしょ? 日和子もそう思うよね。パパみたいなのんきな人がそんなことするとは思えないよね」
すると日和子はため息をつきながら私を見る。
「いや、だから、そんなんじゃないって。ちゃんと根拠があるってことよ」
「根拠?」
そうか、日和子はパパの朝の行動のことを言っているのだろう。
「そうよね。パパはまっすぐ職場に行ったって言うし」
その言葉を聞いて日和子はますます呆れ顔になる。
「それって初耳なんですけど。そりゃ、アリバイがあるに越したことはないけど、他にあるでしょ? 根拠が」
他に根拠って……?
いったい日和子は何を考えているのだろう。
「もう、あんたって本当にパパの潔白を証明したいの?」
もちろん、したいに決まってるじゃない。
私がほおを膨らませると、やれやれと彼女は説明を始めた。
「あんたのパパは白詰草の専門家。悪く言えば、白詰草バカよ」
バ、バカって、悪かったわね。私もそう思うけど。
「そりゃあもう、娘に『四葉』って名前をつけちゃうくらいにね」
うわっ、この人、私の存在そのものを否定したよ。
「その白詰草が、この現場のどこにあるっていうの?」
えっ、白詰草が?
日和子に言われて私ははっとした。
そうか、ここはコンクリートとアスファルトしかない街の中だ。どこにも白詰草なんて生えていない。
だったら簡単じゃない。たとえあの呪文が聞こえたとしても、それは全く別ものってことなんだ。
「あはははは。そうよね、私なんでもっと早く気付かなかったんだろう……」
持つべきものは友。
いつの間にか私は日和子の手をがしっと握りしめていた。
「だからあなたのパパは盗撮犯じゃない」
「うん、うん、そうよね」
熱い友情が炸裂した瞬間だった。
「となると、次は、サングラスの男がなぜ『カゲカゲ、フワフワ』と呟いていたのか知りたくなるわね」
喫茶店から通りを見ながら、日和子がアゴに手を当てる。
――カゲカゲ、フワフワ。
パパの呪文は、日蔭になった白詰草から発生した風でスカートがふわふわとなる魔法だった。
ということは……。
「わかった!」
むふふふ、助手に先を越されたようだね、ホームズ君。
私は得意顔で自分の推理を述べる。
「フワフワは、スカートがふわふわってなるって意味よ」
「いや、それって、誰でもそう思ってるから」
思いっきりバカにされたよぉ。
「でも待ってよ、四葉。それって意外と重要かも。つまり『カゲカゲ』の方に着目せよってことなのよ」
まだバカにされてる感が拭えないんだけど。
でも、カゲカゲに着目せよ、か。
パパの呪文の『カゲカゲ』は日蔭を意味していた。だったら今回も……?
「ねえ、昨日の朝の天気って、どんな感じだったっけ?」
日和子も同じことを考えているようだ。
私は彼女のスカートがめくれた時のことを思い出す。
「うーん、なんだか日和子のひよこがキラキラしていたような気がするけど……」
「そうなのよね。私もスカートを抑えながら、なんだか周囲がキラキラしていたような気がするのよ」
キラキラ光るものって何だ?
今は梅雨だけど、少なくとも昨日は雨は降っていなかった。
そうか、雨上がりの朝だったんだからキラキラの正体はアレよね。
「「水たまり!」」
二人の声が重なった。
☆
☆
☆
それから三日後の朝のこと、私達はビルの合間が見える場所に隠れていた。
――キラキラと光る水たまり。
このキーワードから推測される天候は『雨上がり』と『日差し』だ。この条件が整った時に、盗撮犯は現れるに違いない。
そう考えた私達は、雨上がりの朝に現場で張り込みをしようと打ち合わせをしていた。
「あっ! あいつ……」
「ついに現れたわね」
推理は的中。通行人に紛れるようにして、サングラスにマスク姿の怪しい男が現れた。
私達が隠れている路地の入口に陣取った男は、ビルの影に身を隠すようにしてビデオカメラを構える。なにかをぶつぶつと呟きながら、反対側の歩道を狙い始めた。
――カゲカゲ、フワフワ。
男の唇は、そう動いているように見えた。
「あの野郎、パパの呪文を使ってる。許せない!」
私が飛び出そうとすると、後ろから日和子に襟を掴まれた。
「ぐげっ、なにすんの、日和子」
「ちょっと待って。動くのは証拠を掴んでからよ」
見ると、日和子はビデオカメラを構えていた。盗撮の様子を背後から盗撮しようというのだ。
「わかったわ……」
溜飲を下げた私は、日和子と一緒に盗撮犯の様子を観察する。
注目すべきは、黒いアスファルトで置き換えられている向こう側の歩道だ。そこを歩く女性のスカートがフワフワとめくれ上がり、その様子があの男のビデオに収録されていたら黒というわけだ。その証拠を掴むためには、犯人が盗撮する様子を捉えて、さらにビデオを押収する必要がある。
すると、通学途中の女子生徒がその場所に差し掛かった。制服が同じだから同じ学校の生徒。スカートは明らかに校則違反と思えるほど短い。
視線を男に移すと、唇の動きが激しくなっている。
――マズイ。あの子、盗撮犯の餌食になっちゃう!
私の第六巻がそう叫んだ瞬間、「キャッ!」と甲高い声が歩道に響く。
視線を戻すと、スローモーションのように女生徒のスカートがめくれ上がっていくところだった。
綺麗な太ももが露わになって、そして……。
――ま、まさかのFNDS!?
その子が穿いていたのは、愛好者が密かに増えているというフンドシスタイルの下着だったのだ。
ブブブとは聞こえなかったが、明らかに男の様子がおかしくなった。前かがみになり指で鼻を抑えている。何かが鼻からポタポタと落ちているようだ。
――鼻血?
そりゃそうかもしれない。女性の私から見てもなかなか刺激的な絵だったし。
その時。
「鼻血なんてボロを出したわね。ちょっとこれ持ってて、四葉」
日和子は私にビデオカメラを預けると、男に向かって飛び出していった。
☆
それからの日和子の行動は、私には予測できないものだった。
盗撮犯の背後から、突進を敢行したのだ。
――おっ、いよいよ犯人をとっちめるつもりね。
しかし、日和子は男に飛びかかるようにして軽く触れただけ。そして「キャッ」と今まで聞いたこともないくらい可愛い声を出して身をかがめた。
――えっ? 男を突き飛ばすんじゃなかったの?
加勢しようと日和子の後を追った私は、肩透かしを食らって立ち止まる。
「だ、大丈夫ですか?」
日和子に気付いた男は、親切にも彼女に手を伸ばす。
「私こそごめんなさい。よそ見してたらぶつかってしまって……」
日和子も日和子で、しおらしく男の手を取った。
いや、自らぶつかりに行きましたよ、この人は。
「僕こそごめんなさい。あなたに気付かなくて。あっ!」
男は驚きの声を上げながら、慌ててサングラスとマスクを外し、日和子の制服の袖に目を近づけた。
――血?
日和子の制服の袖には、点々と血が付いていたのだ。
おおおおお、すごいよ日和子。あんた、どうやって男の鼻血を制服に付けたの?
身長差を考えると神業としか思えない。少なくとも私の目にその瞬間は見えなかった。
「ごめんなさい。僕の血が付いちゃったみたいで」
「いえいえ、私がぶつかったから血が出たのではないですか? 本当に申し訳ないです」
上目遣いで答える日和子。男のほおが緩むのが分かる。
うわっ、悪女のエンジェルスマイル。私にゃ真似できねぇ。
「いえ、この血は……」
フンドシでブブブとは口が裂けても言えないよね。
「とにかく、制服に血を付けてしまって申し訳ない。クリーニング代をお支払いいたします」
そう言いながら男は、ポケットの財布に手を伸ばした。
――そうか、こうやって犯人と自然な会話に持ち込むための作戦だったのか。
私はようやく日和子の作戦を理解した。
これなら歩道で立ち話をしていても怪しまれることはないし、男に仲間を呼ばれてしまうこともない。さらに、鼻血で制服を汚したという負い目を与えることにも成功した。
――じゃあ、仕上げには優秀な助手が必要よね。
意を決し、私は二人に向かって歩みを進めた。
☆
「あれ? 日和子、こんなところでどうしたの? 制服に鼻血なんて付けちゃってさ」
通学途中に偶然出会った同級生。
そんなさりげなさを演出しながら、私は二人に近づいた。
「……ッ」
しかし日和子は恐い顔で私を睨みつける。
――えっ? 私、なにかマズイこと言ったっけ?
男は男で、私の言葉を聞いて考え事を始めていた。
「ひよこ……?」
そのキーワードに思い当たる節があるようだ。
そして、はっと表情に光を灯す。
「君は、この間のひよこさん?」
えっ? この男、日和子の名前を知ってるの?
「もしかして、お二人はお知り合い……とか?」
「え、ええ、ま、まあ……」
私の問いに男はぽっと顔を赤らめた。何か秘密めいたものを連想したかのように。
一方、日和子の顔もだんだん赤くなってくる。こっちは怒ってるようだけど。
「四葉、なんであんたが出てくるのよ。知り合いなんかであるわけないじゃない。この男が連想してるのはね、私の名前じゃなくてパンツの絵柄だから」
あはははは、そうか、そうだよね。この人、盗撮犯だった。
すると男はすっと背筋を正す。
「ほお、どうやら君達はグルだね。それに鼻血であることを知っているところをみると、隠れて僕のことを見ていたね?」
男の眼差しが威圧的に変わる。しかし日和子は一歩も引かなかった。
「あんたこそこそこそとビデオを撮って。私が写っている映像を渡しなさいよ、この盗撮野郎」
うわっ、『こそ』の三連発。噛まずによく言えたよ、日和子。
「残念ながらその映像は渡せないね。なぜなら僕がやっているのは盗撮ではなくて研究だからね」
あらら、開き直っちゃったよ。
「研究? 女子高生のパンツを撮影するのが研究なの? そんなことあるわけないじゃない。研究という証拠を見せなさいよ」
「パンツが写ってしまったのは予期せぬ偶然の出来事でね。いわばアクシデント。ここでの撮影行為はちゃんと警察の許可を得ているんだよ。この許可証が証拠だ」
男はポケットから一枚の紙を取り出した。なにやら細かく文字が書かれている。
ええっ? 警察の許可?
「じゃあ、何の研究よ。分かりやすく説明してみなさいよ」
「理解できるかどうかは君の学力次第だね。どうだね、聞いてみるかね?」
学力だなんて、日和子を一番刺激する単語を使うとは敵もやるわね。
「望むところよ。さあ、始めなさい」
落ち着いて、日和子。どうどう。
「では、透水性舗装という言葉を知っているかね?」
「知ってるわよ。透水性の高いアスファルトを使った舗装でしょ? 豪雨時などに雨水を地中に浸透させることができるから、河川の増水が減らせる効果があるって習ったわ」
さすが日和子。そんなものがあるなんて知らなかったわ。
「ほお、少しは学のある女子高生と見た。では、透気性舗装はどんなものか知っているかね?」
トウキセイホソウ? それって陶器製ってこと? トラックが通ったら割れちゃうんじゃね?
「うっ……。言葉から推測して、通気性のよいアスファルトとしか分からないけど……」
えっ、通気性? ああ、そういうことか。
頑張れ日和子。負けるな日和子!
「その透気性アスファルトの研究をしているのだよ、僕は」
アスファルトの研究? それってもしかして、あのアスファルトのこと?
「町と警察の許可を得て、反対側の歩道のアスファルトの一部を塗り替えたんだ。研究中の透気性アスファルトを試すためにね」
あのアスファルトって、こいつが塗り替えたのか。
「透気性アスファルトには温暖化を抑制する効果があるって注目されているんだよ。その効果を最大に発揮するのは雨上がりの朝。陽に照らされたアスファルトに影が差すと、内部と表面との間に急激に温度差が生まれ、しみ込んだばかりの雨水が水蒸気となって排気されるんだ」
「アスファルトに影が差すと……?」
日和子は説明を消化するように、ゆっくりと男の言葉を繰り返した。
「そうか。だから、カゲカゲ、フワフワなのね」
男の言っていることはさっぱりわからないけど、日和子は理解したようだ。
なんとなく伝わってきたのは、スカートは空気砲とかでめくれたわけではなくて、アスファルトそのものが原因だったみたい。
ということは盗撮集団の仕業ではなくて、こいつの単独犯ってこと?
「ほお、君達は僕の呪文も知っているんだね。だったら話が早い」
いや、それはパパの呪文だから。あんたが勝手に使ってるんだからね。
「カゲカゲは、日蔭になったアスファルトが風を起こすからってことね」
「その通りだよ。そしてフワフワは、君達女子高生のスカートだ」
おおお、私の推理通りじゃないのよ、ホームズ君。
「スカートは僕の研究にとって最適な検証材料なんだ。理想な条件下では、きれいな円形に広がるからね。円の面積は半径の二乗に比例するというのは知っているだろ?」
円の面積=半径× 半径× およそ三。それくらいなら私も知っている。
「影になったアスファルトが排気する。スカートが広がる。影の面積が増えて排気が加速する。スカートがさらに開く。その様子を捉えることによって、アスファルトの排気能力の検証を行っているのだよ」
「そんなのは実験室で行えばいいじゃない?」
そうだ、そうだ。
「もちろんやったさ。何百回、いや何千回もね。僕自身がスカートを穿いたこともある」
うわっ、こいつ変態。
「研究はすでに実地段階なのだよ。実際に都市で機能するかどうかを検証するのが都市環境学だからね。撮影だってこの通り、ちゃんと警察の許可を得ているんだ」
都市環境学って、ま、まさか、あんたは西都大学の関係者じゃないでしょうね。
「だからって女子高生のパンツを撮影してもいいってことにはならないんじゃない? これは立派な盗撮よ」
日和子が反撃を開始した。
しかし男は少しも表情を崩さない。
「君はさっきの説明をちゃんと聞いていたのかね。僕は何千回も実験を行ったのだよ。君達の高校のスカートを用いてね」
「それがなんなのよ」
「そのデータを基に、アスファルトの排気能力を調整することが可能なのだよ。パンツが見えないようにね。もちろん、君達の高校の女子生徒全員の身長、体重、座高をすべて考慮している」
それ犯罪だから。きっと個人情報保護法に引っかかってるから。
「つまりね、ここで撮影していてもパンツが見えることは決してないんだよ。君達がちゃんと校則を守っていればね」
「うっ……」
校則という印籠を目の前につきつけられて、日和子はひるんでしまった。
今時の女子高生にとって、すっかり形骸化している校則のスカート丈。まさか、それを逆手に取るとは。
でもダメだよ、そこで引いたら日和子。校則違反をしてるって自分で言ってるようなものじゃん。
それなら私の出番だ。ついに迷助手の登場!
日和子を押しのけて、私はビシっと男を指さす。
「校則があんたを許しても世間は決して許さない。そのビデオを渡しなさい。中身をあんたの顔写真と一緒に動画サイトに投稿して、社会的に抹殺してやるんだから」
「ぐっ……」
今度は男がひるむ番だった。
ぐはははは、正義は我の元にあり。
しかし、私が勝利を確信した瞬間、男は踵を返して走り出した。
「待て! 逃げるな、この野郎!! ほら、日和子も追いかけるよ」
私達は逃げる男を追って駆け出した。
☆
「待てぇぇぇッ!」
私達は必死に男を追いかける。
悲しきかな、男と女の体力差。男との距離はどんどんと離れて――いかなかった。
「あいつ、体力ないわね。きっと変な実験ばかりしてるからよ」
「そうね。追いついて絶対あいつを取り押さえてやる」
日和子も、走りながら気力を取り戻していた。
しかし、私達が必死に走っても追いつくことはできない。それくらいの体力は男も持ち合わせていた。
「さっきはありがとう四葉。男にビシっと言ってくれて。すごくスッキリしたわ」
私も気持ち良かったなあ、男がひるんだ時は。
人を指差しちゃいけないってパパに言われていたけど、今回は構わないよね?
「日和子もダメよ、あそこで引き下がったら。あの男だって校則違反が日常化してることわかっててやってるんだから」
やましい気持ちがあるから、サングラスとマスクで変装してたんだよ、きっと。
「そうよね。私も探偵失格よね」
「そんなことないよ」
日和子はよくやったよ。犯人を寸前まで追い込んだし。
でも頭のいい人って理屈に弱いよね。日和子しかり、あの男もしかり。
男は信号に引っかからないよう、巧みに角を曲がりながら逃げていく。少しずつであるが、男の後ろ姿は遠ざかっているようだ。
「ヤバいよ、日和子。離されちゃうよ」
「大丈夫よ四葉。もし逃げられても必ず探し出してやるわ。これを手がかりにね」
そう言いながら、日和子は鼻血が付いた制服の袖をつまむ。
男に振り切られた時は、DNA捜査でもやろうというのだろう。
というか、撮影許可を出した警察で聞けば一発じゃね?
「犯人の体液は立派な証拠よ」
――女子高生の制服に付いた犯人の体液。
ニュースでよく聞くけど、それって死亡フラグだから。
「むふふふ、男のDNAはもらったわ」
日和子、落ち着いて!
慣れないランニングで息があがって脳に酸素が行ってないと思うけど、知らない人が聞いたら誰かの子を宿してるみたいだよ。
「四葉見て! この犬――実に尾も白い」
通りすがりの犬見て関係ないこと言わなくてもいいからっ。あんたの探偵へのこだわりはよくわかったからっ!
男との壮絶な追跡劇を繰り広げているうちに、いつの間にか左手に大川が見えてきた。
「ねえ、四葉。これって白詰公園に向かってるんじゃない?」
日和子が言う通り、男は白詰公園の方向に走っている。男が信号を避けて逃げているうちに、知らず知らずに川沿いを進むことになったのだろう。
この道をまっすぐ進むと白詰公園に入口に突き当たる。そうなれば男は公園内に逃げ込むことは間違いない。
そうか、それならば!
「日和子、私いいこと思いついた。あの男を中央広場に誘導するよ」
中央広場には白詰草の渦巻模様がある。今ここで、あれを使わない手はない。
「いいことって何するの?」
「いいからここは私に任せといて」
そう言いながら携帯を取り出し、パパに電話を掛ける。
「ねえ、パパ。大変なことが起きたの」
『四葉か? 大丈夫か? どうしたんだ、大変なことって!?』
走る私の息遣いが緊迫感を与えたのだろう。パパの真剣な声が電話から返ってきた。
「白詰公園でつむじ風が、だんだんと発達してるの。ねえ、呪文で逆回転の風を起こして!」
『逆回転の時計回りの風か』
「そうよ、カゲカゲ、フワフワをマックスでお願い!」
本家本元の呪文の威力を見せてやるからね。
『わかった。遠隔操作ですぐに電磁波を発生させよう。ちなみに日向の白詰草も使うから、呪文に『カゲカゲ』は要らないぞ』
やけに細かいわね。とにかくフルパワーでお願い!
「わかったわ。あっ、つむじ風がこっちに向かってる。こっちに来ないで、来ないでぇぇぇぇッ」
演技が過ぎたような気もするが、これくらいやればきっとパパも最大出力で電磁波を発生させてくれるに違いない。
『準備完了。四葉! 行くぞ!!』
男もちょうど中央広場に差し掛かったところだ。私はパパと一緒に呪文を叫ぶ。
フワフワ、マックスぅぅぅぅーーーッ!!!
ひゅるひゅると風鳴りがしたかと思うと、周囲の木々がバサバサと音を立てる。
広場の中央では砂ぼこりや落ち葉が宙を舞い、ゆるやかに空気の渦を形成し始めた。
見ると、男はよろよろと体勢を崩している。そして風に流されるようにして、バレエダンサーのごとくその場でグルグルと廻り出した。
――うわっ、本当に時計回りだ。
さすがに男を宙に舞わせるほどの力は無かったが、足止めさせるには十分だった。
十回は廻ったところで、男はドサッとその場に倒れる。
「やったね、四葉。私、ビデオを取り上げてくる」
日和子が駆け寄っても男は動こうとしない。どうやら完全に目を回しているようだ。
『大丈夫か、四葉!』
携帯からパパの声が聞こえる。
私は興奮気味に作戦の成功を伝えた。
「ありがとう、パパ。もう大丈夫。パパは町の平和を守ったよ」
盗撮犯を無力化することに成功したんだからそれは間違いない。
『そうか、それは良かった。本当に良かった……』
電話越しにパパの安堵が伝わって来る。
それにしても懐かしいなぁ、パパの魔法。
この優しい風、気持ちのいい空気。
子供の頃、パパにかけてもらった魔法そのものだよ。
私は目をつむる。そして、呪文から数分が経った今でもふわふわと浮き上がるスカートの感覚に身を任せ、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
久しぶりのパパの魔法は、優しい草の匂いがした。
おわり
ライトノベル作法研究所 2013夏祭り企画
テーマ:変態(本作の変態は「スカートめくり」)
お題:「鼻血」、「女神」、「ひよこ」、「平和」
「ほら、四葉。そこに立ってごらん」
パパの言う通り、草に覆われた公園の丘の上に立つ。
白詰草が咲き誇る町の公園は、二人のお気に入りだった。
「ねえ、パパ? これから何が起こるの?」
「四葉が気持ち良くて、びっくりする魔法だよ」
そこでパパは、とっておきの魔法を私に披露してくれた。
『カゲカゲ、フワフワ。カゲカゲ、フワフワ……』
パパが呪文を唱えると、足元がなんだか涼しくなる。気が付くとスカートがフワフワと宙に浮いていた。
「うわぁ、パパ。おもしろーい! そんで、なんか、気持ちイイ」
フワフワと漂うスカートと一緒に、体も浮いてしまうような感覚に私はとらわれる。
――このまま空も飛べたら気持ちいいのに。
私の心も一緒に軽くしてくれた魔法だった。
そんなパパの魔法は、草の匂いがした。
でも。
五年前のこの出来事って……。
ただのスカートめくりなんじゃないのぉぉぉぉーーーッ!?
☆
パパはもしかしたら変態?
丘野四葉(おかの よつは)がそんな疑念を持ち始めたのは、高校一年生になったばかりの梅雨のある日のこと。雨上がりの通学路に面したビルの合間の路地から、懐かしいフレーズが聞こえてきたのがきっかけだった。
『カゲカゲ、フワフワ。カゲカゲ、フワフワ……』
――えっ、その呪文って?
声がした方を振り向くと、そこに居たのはサングラスとマスク姿の怪しい男。ビルに隠れるようにしてビデオカメラを構えている。どうやら反対側の歩道を撮影しているようだ。
――この人ってパパ? 変装して何やってんの?
声を掛けようと思ったが、パパじゃない別人のような気もする。それ以上に私を躊躇させたのは、その男が発するただならぬ雰囲気だった。
サングラスの奥から感じる真剣な眼差し。
――何を撮っているんだろう……?
男のカメラが追う方向を見ると、一人の女子高生が歩道を歩いていた。
――あっ、あれは。
同級生の東屋日和子(あずまや ひよこ)。ショートボブの髪を朝の光になびかせている。
その時。
「キャッ!」
日和子が甲高い声を上げた。
雨上がりの歩道、水たまりに反射する朝の光、そしてめくれ上がっていく日和子の制服のスカート。
必死に前を抑える日和子だが、無情にもお尻が露わになる。下着の可愛いひよこのプリントがコンニチワをした。
――ま、まさか、これってパパの魔法……?
スカートをめくる風、フワフワという呪文。これはまさにパパの魔法そのものだ。
元に戻ったスカートに手を当て恥ずかしそうにキョロキョロと辺りを見回す日和子とは対照的に、私は呆然と立ち尽くす。そんな私を我に戻したのは、日和子の叫び声だった。
「四葉! あの男を捕まえてッ!!」
――えっ、えっ? あの男?
そうだ、あの男は!?
日和子が指さす方向を見る。ビルの合間の路地を、サングラスの男が慌てて走り去って行くところだった。
「なによ、四葉。ちょっとくらいは追いかけてくれたっていいじゃない」
横断歩道を駆けて来た日和子は、ぷうっとほおを膨らませた。
「許せないあの男。絶対、盗撮野郎だわ。さっきのビデオに撮ってたもん」
「あの男が?」
私は知らないフリをする。
「えっ、あんた、あんなに近くに居て全然気付かなかったの?」
「うん。ゴメン……」
ホントは気付いていたけど。
だって、もしかしたらパパかもしれないんだから。
「盗撮野郎に撮られちゃったよ、私のとっておき」
「あのひよこのプリントが?」
ちょっとそれは子供っぽいんじゃない?
私の反応に、日和子は顔をほんのり赤くする。
「やっぱ見えてたのね、私のパンツ……」
そりゃ、あなた、スカート短すぎですから。
「絶対あいつを捕まえて、映像を取り返してやる」
日和子はギリギリと拳を握りしめた。
――もしあの男がパパだったらどうしよう。
鼻息を荒くする彼女の隣で、私の心は不安に浸食されていた。
☆
その日の学校は、どんな授業を受けたのか全く覚えていない。
だって、パパが盗撮犯なのかもしれないんだから。
放課後になっても、私の心はちっとも穏やかになってくれなかった。
――カゲカゲ、フワフワ。
あれはパパの呪文に間違いない。
もしサングラスの男がパパではないとしたら、なぜ呪文をあの男が知っていたのか謎になる。
――まさか、パパの魔法の弟子……とか?
そんなことがあるのだろうか。
私の頭の中では、いろいろな可能性がグチャグチャと際限なく回り始めていた。
「四葉。あんた、これから暇?」
思考を遮る威圧するような声。
気が付くと、目の前には日和子の顔があった。いつのまにかホームルームは終わっている。
「えっ、あ、う、うん……」
気圧された私は、仕方なく生返事をした。
「だったら調査に行くよ」
「行くってどこに?」
「盗撮野郎が居た場所に決まってるじゃない」
やっぱり。
「あの突風がわざとだとしたら、きっと何かカラクリがあるはず。それを突き止めるのよ。それにカラクリがあるなら、あいつは再び姿を現すわ」
日和子は本気で犯人探しをするつもりだ。
私は通学用バッグに教科書を詰めながら、なんとかしなくちゃと焦りで心が一杯になっていた。
☆
「怪しい男はね、この場所に居たのよ」
朝の場所にたどり着くと、日和子は私に状況を説明する。
「そしてあんたはそこ。三メートルくらいしか離れていないのに、本当に気付いてなかったの?」
「えっ、う、うん……」
今は知らんぷりを貫かなくちゃ。
日和子の目を見ていられなくなって視線を外すと、彼女は仕方が無いと車道に目を移した。
すると日和子は、男になりきってビルの合間に身を寄せる。ビデオを構える手つきをしながら、反対側の歩道に焦点を合わせている。
「車道は片側二車線、計四車線だから、ざっと十五メートルは離れてるわね……」
ブツブツと呟きながら状況を調査する日和子。目は真剣そのものだ。
「ここから風を起こしてスカートをめくるのは不可能。となると、歩道側になにかトリックがあるはずだわ」
そして彼女は駆け出した。
「四葉、向こう側の歩道に行くよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
私は慌てて日和子を追いかけた。
「私は今朝、この歩道を歩いていた」
日和子は、朝の自分自身の行動を再現しながら検証を始める。
「そしてこの辺りでスカートがめくれ上がった。ということは、この場所になにか仕掛けがあるはず……」
彼女は立ち止まって地面を見る。
「あっ!」
そして何かを見つけ、腰を折ってアスファルトに目を近づけた。
茶色に染めたショートボブの髪がパラリと下を向く。進学校であるうちの高校の生徒にしては崩れた格好の日和子だが、頭はかなりいい。成績はいつもクラスで一、二番を争っている。
――優等生なら優等生らしい恰好をしたらいいのに。
何度そう思ったかわからない。目鼻立ちも整った彼女と一緒に歩いていると、いつも男子の目線を奪われてしまう。スカートだって、明らかに校則違反と分かるくらいに短いし……。
――ちょっと日和子、そんなに前かがみになったら、またお尻のひよこが見えちゃうよ。
日和子に忠告しようとしたその時、
「これだ!」
彼女は何かを見つけて叫び声を上げた。そしてあるものを指さしながら私の方を見る。
「見てごらんよ、四葉。この部分のアスファルト、色が違ってるでしょ」
ホントだ。
日和子が指さす先を見ると、その部分のアスファルトが周囲よりも黒っぽくなっていた。
その範囲は二メートル四方くらい。どうやら、その部分だけが新しいアスファルトに塗り換えられているらしい。
「むふふふ、わかったわ、四葉」
日和子はすっと姿勢を正す。
「この新しく塗り換えられたアスファルトが謎を解く鍵よ。きっとこの場所がターゲットになっていたのね」
「ちょ、ちょっと、よく分からないんだけど……」
「いいわ、詳しく説明してあげる。ここじゃなんだからちょっとそこのお店に入らない?」
日和子は、目の前にある喫茶店を指さした。
☆
喫茶店に入った私達は、通りに近い二人掛けのテーブルを選ぶ。席につくと、日和子はキョロキョロと周囲を見回し何かを探し始めた。
「あった、あった」
そして、すぐ近くの壁際の棚に置いてあったガラスの置物に手を伸ばす。
それは五センチくらいの直方体のガラスの中に、白く自由の女神像が浮き上がった不思議な置物だった。
「これはね、3Dクリスタルアートって言うの」
ガラスの置物を勝手に手に取った日和子は、それを私に手渡した。
ずしりと重いガラスの置物。その中に、自由の女神が三次元の像として掘られている。目を近づけて見ると、ガラスの中の模様は小さな白い点の集まりとして形成されているようだ。
「すごい、これ。ガラスの中に像が浮き上がっている」
これってどうやって掘ったんだろう。周囲のガラスには全く傷はないし。
私が不思議そうにガラスの置物を眺めていると、日和子はニヤリと笑みを浮かべた。
「それが今回のトリックのヒントよ」
えっ、これが?
つまり自由の女神がヒントってこと?
でもこの人が着ている服ってやたらごつくない? スカートがめくれるなんて騒ぎじゃないんだけど。
私が目をパチクリさせていると、逆に日和子から質問される。
「ねえ、四葉。この自由の女神の像って、どうやって作ったか知ってる?」
「えっ、作り方?」
自由の女神がヒントじゃないの?
そんな、いきなり製法を聞かれたって、日和子ほど頭がいいわけじゃないからわからないんだけど……。
「適当でいいから考えてみてよ」
「えーと、じゃあね……」
私は、お菓子のフルーツゼリーを連想した。透明のゼリーの中にフルーツが浮かぶ姿は、この自由の女神とそっくりだ。
「白い点で自由の女神像を作っておいて、外から型にガラスを流し込んだとか?」
すると日和子はバカにしたような目つきで私を見る。
「そんな風に作ってるわけないじゃない。溶けたガラスってものすごく高温なのよ。ゼリーじゃないんだから」
ぐっ、ゼリーを連想したのがバレてる。なによ、適当でいいって言ったの日和子じゃん。
「じゃあ、どうやって作ってるのよ」
私は少しムッとしながら日和子に聞いた。
「レーザー光線よ」
日和子の目の奥がキラリと光る。
レーザー光線? それって中東のサッカー場で飛び交ってる赤色とか緑色のアレ?
「複数のレーザー光線をガラスの外側から当てるの。するとレーザー光が交わったところだけが高温になって、ガラスが白く変色するってわけ」
ガラスって変色するんだ……。というか、そんな危ないものがサッカー場で? じゃなかった、そんな風にしてこの自由の女神が掘られてるってわけか。
「今朝の風も同じ。きっと複数の場所から空気砲みたいなものがあのアスファルトを目印にして飛ばされたんだわ」
空気砲? それってカメハアハアとか、マカンコウソウサイッポウみたいなもの?
「すると、あの場所で空気の渦が生じてスカートがめくれる。きっとそんなカラクリなんだと思うの」
すごいよ日和子。あんた天才。
「じゃあ、犯人は一人じゃないってこと?」
「おっ、鋭いね、ワトソン君」
あのね、私ワトソン君じゃないから。それを言うならミスワトソンだから。
でも、日和子に認めてもらえたのはちょっと嬉しい気もする。
「そう。少なくとも三人以上はいるはず。これは盗撮集団による組織的犯罪だわ」
組織的犯罪!?
日和子の口から飛び出した言葉は、ドラマの世界が自分の身に押し寄せてくるような迫力を持っていた。
☆
それから私達は、しばらくの間、喫茶店から現場を張り込んでいた。
今座っている席からは、黒く変色したアスファルトも、サングラスの男がビデオを撮っていた場所も見渡すことができる。盗撮集団を見つけるには最適な場所というわけだ。
「なかなか現れないわね……」
しかし怪しい男達は現れるわけもなく、時間は無情にも過ぎていく。
「そうね……」
コーヒー一杯で粘れるギリギリの時間になろうとしていた。
窓の外を眺めながら私は、いつの間にか日和子と一緒に犯人探しに興じていることに気付く。
どうしてだろう? 日和子に推理されるのがあんなに嫌だったのに。
もしかしたら、『盗撮集団』という言葉が私の心を軽くしてくれたのかもしれない。集団でスカートめくりをしているのなら、メンバーはみんなパパの呪文を知っているってことなんだから。
あっ、でもそれって、パパが盗撮集団のボスってことになっちゃうんだけど。
「サングラスにマスク姿なんて、すぐに分かるのにね……」
いい加減張り込みに飽きてきた私は、ビルの影に隠れていた怪しい男を思い浮かべながらポツリと呟く。
すると日和子がにわかに険しい雰囲気を漂わせ始めた。
「四葉、今なんて言った?」
日和子を見ると、目が笑っていない。
「えっ、サングラスにマスク姿ならすぐ分かるかなって……」
「なんでそれをあんたが知ってんのよ」
その言葉にはっとする。
「今朝は盗撮犯に気付かなかったんじゃないの? 私、犯人の特徴なんてひとことも言ってなかったし」
げっ、ヤバい。
「えへへへ、だってサングラスにマスクって、怪しい男の代名詞だよね……」
「そんなこと言っても誤魔化されないわよ。あんた、何か知ってんでしょ?」
「知らない。私、何も知らない」
ここは貝のように口を閉ざすしかない。
「ははーん」
日和子はついに疑いの目を私に向ける。
「必死になるところがなんか怪しいわ。まさかあんた、犯人を知っててかばってんじゃないでしょうね? それともあんたが犯人の一味とか?」
は、犯人の一味ィ!?
私は自分の耳を疑う。そして同時にふつふつと怒りが湧いてきた。
「日和子、私怒るよ」
親友の私になんてことを言うの!?
「じゃあ正直に答えてよ。やましいことがあるから黙ってんでしょ?」
一歩も引こうとしない日和子。まるで正義は自分の元にあるかのごとく。
その態度に私は切れた。
日和子っていつもそうだ。頭がいいからって自分の価値観を人に押し付けて、ちょっと可愛いからって男の視線を私から奪って!
「ふざけないで。私は盗撮犯なんかじゃない。それに盗撮犯なんてかばったりしない! パパだって決してそんなことしないんだからッ!!」
私は思わず叫んでいた。
☆
「まあまあ、落ち着いてよ四葉。あんたの事情はよくわかったからさ……」
周囲を見渡しながら日和子が私をなだめる。私の叫び声に驚いた喫茶店のお客は、皆こちらを向いていた。
恥ずかしくなった私は、視線を避けるようにテーブルを向く。コーヒーカップに残るわずかな茶色い液体が、惨めな自分を物語っているような気がした。
――あーあ、ホント私ってバカ……。
こんなんじゃ日和子の顔も見れやしない。
喫茶店のざわめきが収まってくると、日和子がゆっくりと話しかけてきた。
「四葉は自分のパパが盗撮犯じゃないかと感じた。だから、そのことを私に隠していた。それで正解よね?」
やっぱり日和子には敵わないや。
「うん……」
私は負けを認めて静かに頷く。
どうせこうなるなら、最初から日和子に打ち明けていればよかった。
恐る恐る顔を上げる私を、彼女は柔らかく見つめていた。
「でも盗撮犯がパパかどうかわからないんだよね? だから私の捜索に協力してくれた」
「そう……」
すると日和子は不思議そうな顔をする。
「もしそうなら、一つだけ分からないことがあるんだよねぇ~」
探偵のように眉間に手を当てて、日和子は目を閉じる。
「分からないこと?」
「そう、この事件の最大の謎……」
目を閉じたまま答える日和子。まるでその謎が解ければ事件が解決するかと言わんばかりに。
「ねえ、四葉。もうすべてを話してくれるよね?」
日和子は目を開けて、私のことをまっすぐに見る。親友として私のことを認めてくれる真摯な眼差しだった。
仕方が無い。聞かれたことすべてを彼女に打ち明けよう。
覚悟を決めた私は、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ教えて。四葉はなぜ、盗撮犯がパパじゃないかと思ったのかを」
そうか、日和子はあの呪文のことを知らなかったんだっけ。
「パパの呪文……」
「呪文?」
怪訝な顔をする日和子。それもそのはずだ。いきなり呪文と言われても理解できる人がいるわけがない。
しかし、そんな説明をこの喫茶店でするのはなんだかこっぱずかしい。さっきのこともあるし、お客が全員聞き耳をたてているような気もする。
だから私は立ち上がった。
「日和子、まだ時間あるよね? 一緒に行きたい場所があるの。そこでちゃんと説明するから」
「えっ、あ、まあ、いいけど……」
困惑しながら日和子も席を立った。
☆
白詰公園は大川のほとりに広がる公園だ。
「四葉が行きたい場所ってこの公園?」
「そう。ほら、あの丘に登ると夕陽が見えるよ」
私達は、白詰草が咲く小さな丘に登り、対岸の町並みを眺める。梅雨の晴れ間の夕陽は、すでにビルの上に差しかかろうとしていた。
「この時間って気持ちいいね」
夕暮れの爽やかな風が、私達の髪を通り過ぎていく。
しばらく二人で町並みを眺めた後、私は静かに切り出した。
「ねえ、日和子。変な話をしても私のこと馬鹿にしない?」
これからする話は、『呪文』とか『魔法』についてだ。日和子が真剣に取り合ってくれるか、私は不安だった。
「ああ、四葉の話を信じるよ」
夕陽に照らされる日和子の顔は、なんだかいつもより優しく見えた。
私は川の方を向くと、一つ呼吸を置いてゆっくりと話し始める。
「子供の頃ね、パパとよくこの公園に来たの」
それは小学校五年生の頃だった。ママが亡くなって落ち込みがちだった私を、パパはよくこの公園に連れ出してくれた。
「パパはここで、私に魔法をかけてくれた。カゲカゲ、フワフワって呪文の」
「魔法?」
隣から困惑の疑問府が漂ってくる。が、私は気にしない。
だって、魔法なんて言葉を聞いて平静でいられる人なんていないんだから。私だって、本当に魔法かって考えると今でも信じられない。
「そう、魔法。パパが呪文を唱えるだけでスカートがフワフワってなって、とっても気持ちが良かったの」
――カゲカゲ、フワフワ。
それは私とパパの秘密の言葉だった。
「その呪文がね、今朝のあの場所で聞こえたの」
呪文の事は誰にも話したことはない。パパが広めたりしなければ、誰も知らないはずなんだ。
「見たらサングラスの怪しい男がビデオを撮っていて、そしたら日和子のスカートがめくれちゃって……」
あの男がパパなんて信じられない。
もしパパじゃない他の誰かだったら絶対に許せない。
怒りと困惑がごっちゃになって、いつの間にか私は泣いていた。
「あの男はパパじゃない。パパじゃないって信じてるの……」
「わかった、四葉。わかったよ」
夕陽に向かって涙をこぼす私に、日和子はそっと寄り添ってくれた。
「それにしてもいいところね。初めて来たわ」
涙と一緒に怒りも恥ずかしさも出し尽くした私は、日和子に公園を案内する。
「えへへ、そうでしょ?」
だってここは私とパパのお気に入りなんだから。
「それにしても『パパの魔法』だなんて、あんたってどんだけ夢見るファザコンなのよ」
日和子の言葉がチクリと胸を刺す。
「もう、それは言わないって約束でしょ?」
「だったら四葉も忘れなさいよ。魔法なんてありえないんだから。きっと風が起こるのを察知して、あんたのパパは呪文を唱えたんだと思うよ」
うん、そうなのかもしれないよね。
「ということはさ、あんたのパパは犯人ではない。そういうことよ」
探偵にそう言ってもらえると助手も心強い。
「うん、わかった……」
とにかく日和子と一緒に盗撮集団を捕まえてやる。そしたら真相は明らかになるはずだ。
私は明日からの捜索に意欲を燃やし始めた。
☆
「じゃあ、明日の放課後はあの喫茶店に集合ね」
中央広場の真ん中に立った日和子は、明日の捜索の提案をする。
「わかった。明日は部活があるけど休んで合流するわ」
パパの潔白がかかっているんだから、部活どころの話ではない。
「それにしてもこの広場って不思議な場所ね。この模様、なんか風車みたい」
日和子は地面を見ながらしみじみと呟いた。
つられて下を向いた私は驚く。そこには一つの模様が形作られていたからだ。
――巨大な白詰草の渦巻模様。
直径は十メートルくらいあるだろうか。
うす黄緑の芝生を下地として、濃い緑色の白詰草が巨大な渦巻模様を形作っている。そう、その形はまるで緑のペロペロキャンディーのよう。
「こんな模様、昔は無かったのに……」
目を丸くする私を横目に、日和子は冷静に分析を開始した。
「この渦巻模様、自然にこうなったとは思えない。これは間違いなく人間の仕業だわ」
そりゃ、私もそうだと思うけど……。
そして日和子は周囲を丹念に調べ始めた。
「渦巻模様を取り囲むようにベンチが四台。あれ? あの白いものって何かしら?」
何かを見つけた日和子が、一つのベンチに向かって走り出す。ベンチの下には白い怪しい箱が設置されていた。
「こ、これって……」
白い箱の前方には小さな穴が開いている。そして、その穴の奥で何かがキラリと光ったのだ。
「カメラのレンズ!?」
――盗撮ボックス。
私達は撮られている。
なにか得体の知れない恐怖に背筋が凍りついた。
「四葉、見て。後ろに何か書いてある」
その場に立ち尽くす私とは対照的に、日和子は箱を調べ始めている。そして、箱の裏側になにやら怪しい文字を発見した。
『植生観察中。西都大学工学部都市環境学科 丘野研究室』
「ねえ、四葉。西都大学の丘野研究室って書いてあるよ」
四つん這いになってベンチの下を覗きこみ、文字を読み上げる日和子。薄暗い公園に日和子のひよこがコンニチワをしているような気もするが、私はそれどころではなかった。
――西都大学の丘野研究室!?
それって、パパの研究室だ……。
私はすっかり言葉を失ってしまった。
「ねえ、丘野研究室って何? なんで四葉と名字が同じなの? もしかして、あんたの親戚とか?」
青ざめたまま立ち尽くす私のもとに日和子がやってくる。
「パパの……、研究室……」
「えっ!?」
かろうじて発した私の言葉に日和子も絶句した。
私達はそのまま無言で公園を歩き、出口で別れて家路についた。
それからどうやって家にたどり着いたのか、全く覚えていない。
「お帰り、四葉」
玄関を開けた時のパパの優しい声に、私は泣き出しそうになる。
――裏でやましいことをしてるから、その反動で家族に優しくしてるの?
でも、そんなことパパの前で言えるわけがない。
「どうしたんだ、四葉。調子が悪いのか?」
その言葉に涙が出そうになり、私はパパの脇をすり抜けて自分の部屋に行こうとした。
「痛ッ!」
腕に軽い痛みを感じ体が動かなくなる。パパに腕を掴まれてしまったからだ。
「四葉、何かあったんだな。部屋にこもる前にちゃんとパパに話してくれ」
私はパパを睨みつける。
「嘘つき! パパなんて大嫌い!」
「えっ……」
腕を掴む力が緩む。私はパパの手を振りほどき、自分の部屋に走った。そして勢いよくドアを閉める。
「四葉!」
私は泣きながら、パパの声が聞こえないように耳を塞いだ。
☆
部屋にこもってから二時間が過ぎた。時計を見ると夜の八時を回っている。どうりでお腹も空いてきたわけだ。
――このまま意地を張り続けるか、パパに謝ってご飯を食べるか。
堂々巡りの回転軸にお腹の虫が影響を与え始めた頃、部屋の外にスリッパの音が聞こえてきた。パパだ。
『四葉、聞いてるか?』
「…………」
ドア越しの問いに返事をしないで黙っていると、パパは勝手に話し始める。
『さっきは悪かった、掴んだりして』
「……」
今でも左手首が痛い。見ると少し赤くなっていた。
『ママが死んでから、パパはパパなりに精一杯やってきた。確かに至らないところもあったと思う。だが、だがな、四葉』
パパが一つ呼吸を置いた。
『嘘つきっていうのはどういうことだ? 研究者としてパパは誠実に生きてきた。だから、それだけは納得がいかない……』
だって、パパの魔法って、魔法じゃなかったんでしょ?
高校生になれば魔法なんて存在しないことはわかるけど、それを自ら否定はしたくなかった。想い出は、そっとしておけば素敵なままでいられるのだから。
しばらくの間、私の部屋のドアを沈黙が包む。
するとドアを何かがこすれる音がした。そして床が軋むミシリという音。きっとパパが、ドアに背中を付けて座り込んだのだろう。パパの背中を通して、穏やかな息遣い聞こえてくる。
パパは持久戦を覚悟しながら、私が何か答えるのを待っているのだ。
ああ、この時がやって来た。
パパとの想い出を自ら打ち破る儀式。
でもこれは大人になるために避けて通れない道なんだ。いわば通過儀礼ってやつ。
私は覚悟を決めて、重い口を開いた。
「カゲカゲ、フワフワ……」
パパの息遣いが止まる。
それは、私の言いたいことが伝わった静けさだった。
『あの呪文か……』
絞り出すようなパパの声。
パパにとっても、満ちた時を受け入れる時間が必要だったみたい。
『ごめんな、魔法だなんて嘘をついて』
ああ、私の心の中でパパの魔法が崩れていく。
『パパが植物を研究しているのは知ってるだろ? あの風は、研究の成果を応用したものなんだ』
西都大学の工学部で准教授をしているパパ。都市環境学における植物の役割を研究しているらしい。
『植物って電磁波を感じて行動をするんだ。ほら、太陽の光で葉を閉じたり開いたりするだろ? あれって電磁波を感じているからなんだよ』
パパは私のことはそっちのけで解説を始めてしまった。そういう研究者らしいところは私の好きなところであり、嫌いな部分でもあった。
『ある日パパはね、ある電磁波を発見したんだ。白詰草に風を起こさせるような』
「風?」
電磁波を使って草に風を起こさせる?
『そうだ、白詰草に特殊な電磁波を浴びせると、葉の裏の気口を開いて排気を始めるんだよ』
そんなことができるの?
『研究を重ねると、日蔭になった部分の白詰草だけに風を起こさせることが可能になった。その電磁波を発生させる装置をポケットに忍ばせて、呪文を唱えながらスイッチを押していたんだ』
日蔭にある白詰草だけが風を起こす電磁波。
だから『カゲカゲ、フワフワ』なのね……。
まさかそんなカラクリだったとは。
『日向の白詰草は、光合成で酸素を作り出す。日蔭になった葉は、パパの電磁波で酸素を放出する』
酸素が沢山含まれた空気って、なんだか体に良さそう。
『風自体も気持ちいいし、その成分には癒しの効果がある。画期的な研究の成果だったんだよ』
だから、あの魔法で生まれた風はとっても気持ちが良かったんだ。
そしてそれは、パパが必死に研究して掴んだ成果。
そうか、そうなんだ!
これは魔法と変わりないじゃない? だって普通の人にはできないことなんだから。
「わかった、パパ」
私の中で、想い出という気体のようなものが表面を形成し、心の隙間にカチリとはまった瞬間だった。
『だったらご飯を食べよう。パパもお腹が空いたよ』
ドアの向こう側からもグゥと聞こえてくる。その音に、私は可笑しくなった。
☆
「ごめんなさい、嘘つきってひどいこと言って」
「パパも悪かったよ、魔法だなんて嘘をついていて」
夕飯を食べながら、私はパパと言葉を交わす。
なんだか父娘関係が、いつもよりも一歩前に進んだような感じがした。
今なら何でも聞けるかもしれない。
「ねえ、パパ」
私は意を決してパパに尋ねる。
「今日の朝って何してた?」
「何してたって、通勤してからずっと大学に居たけど」
今朝、私はパパと一緒に家を出た。私は徒歩でパパは車だ。ずっと大学に居たという言葉を信じるなら、盗撮犯はパパではないということになる。
「じゃあ、今の研究って何? 白詰公園でやってるの?」
「白詰公園? ああ、アレね」
パパからすぐに反応が返ってきた。ということは、渦巻模様やベンチ下の箱にも心当たりがあるということだろう。
それならば話は早い。
「中央広場に変な渦巻模様があってビックリしたの」
「変とはなんだよ、綺麗な渦巻模様だっただろ? 白詰草で細かく模様を作るのは苦労したんだぞ。まずはな、小型と大型の白詰草に分けて栽培してだな」
やっぱりパパの仕業だったのね……。
あと、苦労話は聞くつもりはないから。
「あの渦巻模様って何か意味があるの?」
私はパパの説明を遮って単刀直入に尋ねる。
「ああ、大アリとも。あれも白詰草に風を起こさせているんだよ」
えっ、あれもカゲカゲ、フワフワ?
「最近、つむじ風のニュースをよく聞くだろ?」
つむじ風ってグルグル回る風のこと?
「つむじ風は発達すると竜巻になって、すごい被害をもたらすんだ」
それなら知っている。茨城で大きな竜巻が発生して、家ごと飛ばされた中学生が亡くなったというニュースを聞いたことがある。
「そのつむじ風なんだが、北半球では反時計回りに発生することが多いって知ってるか?」
えっ、そんなことってあるの!?
「いや、知らないけど」
「地球の自転の影響でそうなるんだよ。ということは……」
ということは?
「逆回り、つまり時計回りの空気の流れを普段から作っておけば、つむじ風の発生が減るんじゃないかなあと思って……」
何? その自信なさげな語尾は。
「そんな研究をしてるんだよ、あの公園で」
まだ研究途中かい。
「あの渦巻模様は、時計回りの空気の流れを作るためのものなんだ。あの形の白詰草が排気すると、渦ができるんだよ。その様子を撮影して、検証してるところなんだけどね」
あの箱はそういう意味だったのね……。
夕方は背筋が凍る思いをしたけど、今思えば寿命を千秒くらい損した気分だよ。
私は体からどっと力が抜けていくのを感じていた。
「はいはい、パパの研究で町の平和が守れるといいね」
「おっ、いいこと言うね。皆の知らないところで町を守っているなんて、なんかカッコよくないか?」
パパは微妙に照れながら、鼻の下を指でこする。
――こんな人が盗撮なんてするだろうか?
なにか私の心にも平和が訪れたような、そんな感じがした。
☆
「パパの魔法って、そういうカラクリだったのよ」
「へえ、すごいね、あんたのパパって」
翌日、放課後の喫茶店で私の話を聞いた日和子は、ふーんと喉を鳴らした。
「だったら、あんたのパパは、この場所で起きた盗撮事件の犯人じゃないわね」
「そうでしょ? 日和子もそう思うよね。パパみたいなのんきな人がそんなことするとは思えないよね」
すると日和子はため息をつきながら私を見る。
「いや、だから、そんなんじゃないって。ちゃんと根拠があるってことよ」
「根拠?」
そうか、日和子はパパの朝の行動のことを言っているのだろう。
「そうよね。パパはまっすぐ職場に行ったって言うし」
その言葉を聞いて日和子はますます呆れ顔になる。
「それって初耳なんですけど。そりゃ、アリバイがあるに越したことはないけど、他にあるでしょ? 根拠が」
他に根拠って……?
いったい日和子は何を考えているのだろう。
「もう、あんたって本当にパパの潔白を証明したいの?」
もちろん、したいに決まってるじゃない。
私がほおを膨らませると、やれやれと彼女は説明を始めた。
「あんたのパパは白詰草の専門家。悪く言えば、白詰草バカよ」
バ、バカって、悪かったわね。私もそう思うけど。
「そりゃあもう、娘に『四葉』って名前をつけちゃうくらいにね」
うわっ、この人、私の存在そのものを否定したよ。
「その白詰草が、この現場のどこにあるっていうの?」
えっ、白詰草が?
日和子に言われて私ははっとした。
そうか、ここはコンクリートとアスファルトしかない街の中だ。どこにも白詰草なんて生えていない。
だったら簡単じゃない。たとえあの呪文が聞こえたとしても、それは全く別ものってことなんだ。
「あはははは。そうよね、私なんでもっと早く気付かなかったんだろう……」
持つべきものは友。
いつの間にか私は日和子の手をがしっと握りしめていた。
「だからあなたのパパは盗撮犯じゃない」
「うん、うん、そうよね」
熱い友情が炸裂した瞬間だった。
「となると、次は、サングラスの男がなぜ『カゲカゲ、フワフワ』と呟いていたのか知りたくなるわね」
喫茶店から通りを見ながら、日和子がアゴに手を当てる。
――カゲカゲ、フワフワ。
パパの呪文は、日蔭になった白詰草から発生した風でスカートがふわふわとなる魔法だった。
ということは……。
「わかった!」
むふふふ、助手に先を越されたようだね、ホームズ君。
私は得意顔で自分の推理を述べる。
「フワフワは、スカートがふわふわってなるって意味よ」
「いや、それって、誰でもそう思ってるから」
思いっきりバカにされたよぉ。
「でも待ってよ、四葉。それって意外と重要かも。つまり『カゲカゲ』の方に着目せよってことなのよ」
まだバカにされてる感が拭えないんだけど。
でも、カゲカゲに着目せよ、か。
パパの呪文の『カゲカゲ』は日蔭を意味していた。だったら今回も……?
「ねえ、昨日の朝の天気って、どんな感じだったっけ?」
日和子も同じことを考えているようだ。
私は彼女のスカートがめくれた時のことを思い出す。
「うーん、なんだか日和子のひよこがキラキラしていたような気がするけど……」
「そうなのよね。私もスカートを抑えながら、なんだか周囲がキラキラしていたような気がするのよ」
キラキラ光るものって何だ?
今は梅雨だけど、少なくとも昨日は雨は降っていなかった。
そうか、雨上がりの朝だったんだからキラキラの正体はアレよね。
「「水たまり!」」
二人の声が重なった。
☆
☆
☆
それから三日後の朝のこと、私達はビルの合間が見える場所に隠れていた。
――キラキラと光る水たまり。
このキーワードから推測される天候は『雨上がり』と『日差し』だ。この条件が整った時に、盗撮犯は現れるに違いない。
そう考えた私達は、雨上がりの朝に現場で張り込みをしようと打ち合わせをしていた。
「あっ! あいつ……」
「ついに現れたわね」
推理は的中。通行人に紛れるようにして、サングラスにマスク姿の怪しい男が現れた。
私達が隠れている路地の入口に陣取った男は、ビルの影に身を隠すようにしてビデオカメラを構える。なにかをぶつぶつと呟きながら、反対側の歩道を狙い始めた。
――カゲカゲ、フワフワ。
男の唇は、そう動いているように見えた。
「あの野郎、パパの呪文を使ってる。許せない!」
私が飛び出そうとすると、後ろから日和子に襟を掴まれた。
「ぐげっ、なにすんの、日和子」
「ちょっと待って。動くのは証拠を掴んでからよ」
見ると、日和子はビデオカメラを構えていた。盗撮の様子を背後から盗撮しようというのだ。
「わかったわ……」
溜飲を下げた私は、日和子と一緒に盗撮犯の様子を観察する。
注目すべきは、黒いアスファルトで置き換えられている向こう側の歩道だ。そこを歩く女性のスカートがフワフワとめくれ上がり、その様子があの男のビデオに収録されていたら黒というわけだ。その証拠を掴むためには、犯人が盗撮する様子を捉えて、さらにビデオを押収する必要がある。
すると、通学途中の女子生徒がその場所に差し掛かった。制服が同じだから同じ学校の生徒。スカートは明らかに校則違反と思えるほど短い。
視線を男に移すと、唇の動きが激しくなっている。
――マズイ。あの子、盗撮犯の餌食になっちゃう!
私の第六巻がそう叫んだ瞬間、「キャッ!」と甲高い声が歩道に響く。
視線を戻すと、スローモーションのように女生徒のスカートがめくれ上がっていくところだった。
綺麗な太ももが露わになって、そして……。
――ま、まさかのFNDS!?
その子が穿いていたのは、愛好者が密かに増えているというフンドシスタイルの下着だったのだ。
ブブブとは聞こえなかったが、明らかに男の様子がおかしくなった。前かがみになり指で鼻を抑えている。何かが鼻からポタポタと落ちているようだ。
――鼻血?
そりゃそうかもしれない。女性の私から見てもなかなか刺激的な絵だったし。
その時。
「鼻血なんてボロを出したわね。ちょっとこれ持ってて、四葉」
日和子は私にビデオカメラを預けると、男に向かって飛び出していった。
☆
それからの日和子の行動は、私には予測できないものだった。
盗撮犯の背後から、突進を敢行したのだ。
――おっ、いよいよ犯人をとっちめるつもりね。
しかし、日和子は男に飛びかかるようにして軽く触れただけ。そして「キャッ」と今まで聞いたこともないくらい可愛い声を出して身をかがめた。
――えっ? 男を突き飛ばすんじゃなかったの?
加勢しようと日和子の後を追った私は、肩透かしを食らって立ち止まる。
「だ、大丈夫ですか?」
日和子に気付いた男は、親切にも彼女に手を伸ばす。
「私こそごめんなさい。よそ見してたらぶつかってしまって……」
日和子も日和子で、しおらしく男の手を取った。
いや、自らぶつかりに行きましたよ、この人は。
「僕こそごめんなさい。あなたに気付かなくて。あっ!」
男は驚きの声を上げながら、慌ててサングラスとマスクを外し、日和子の制服の袖に目を近づけた。
――血?
日和子の制服の袖には、点々と血が付いていたのだ。
おおおおお、すごいよ日和子。あんた、どうやって男の鼻血を制服に付けたの?
身長差を考えると神業としか思えない。少なくとも私の目にその瞬間は見えなかった。
「ごめんなさい。僕の血が付いちゃったみたいで」
「いえいえ、私がぶつかったから血が出たのではないですか? 本当に申し訳ないです」
上目遣いで答える日和子。男のほおが緩むのが分かる。
うわっ、悪女のエンジェルスマイル。私にゃ真似できねぇ。
「いえ、この血は……」
フンドシでブブブとは口が裂けても言えないよね。
「とにかく、制服に血を付けてしまって申し訳ない。クリーニング代をお支払いいたします」
そう言いながら男は、ポケットの財布に手を伸ばした。
――そうか、こうやって犯人と自然な会話に持ち込むための作戦だったのか。
私はようやく日和子の作戦を理解した。
これなら歩道で立ち話をしていても怪しまれることはないし、男に仲間を呼ばれてしまうこともない。さらに、鼻血で制服を汚したという負い目を与えることにも成功した。
――じゃあ、仕上げには優秀な助手が必要よね。
意を決し、私は二人に向かって歩みを進めた。
☆
「あれ? 日和子、こんなところでどうしたの? 制服に鼻血なんて付けちゃってさ」
通学途中に偶然出会った同級生。
そんなさりげなさを演出しながら、私は二人に近づいた。
「……ッ」
しかし日和子は恐い顔で私を睨みつける。
――えっ? 私、なにかマズイこと言ったっけ?
男は男で、私の言葉を聞いて考え事を始めていた。
「ひよこ……?」
そのキーワードに思い当たる節があるようだ。
そして、はっと表情に光を灯す。
「君は、この間のひよこさん?」
えっ? この男、日和子の名前を知ってるの?
「もしかして、お二人はお知り合い……とか?」
「え、ええ、ま、まあ……」
私の問いに男はぽっと顔を赤らめた。何か秘密めいたものを連想したかのように。
一方、日和子の顔もだんだん赤くなってくる。こっちは怒ってるようだけど。
「四葉、なんであんたが出てくるのよ。知り合いなんかであるわけないじゃない。この男が連想してるのはね、私の名前じゃなくてパンツの絵柄だから」
あはははは、そうか、そうだよね。この人、盗撮犯だった。
すると男はすっと背筋を正す。
「ほお、どうやら君達はグルだね。それに鼻血であることを知っているところをみると、隠れて僕のことを見ていたね?」
男の眼差しが威圧的に変わる。しかし日和子は一歩も引かなかった。
「あんたこそこそこそとビデオを撮って。私が写っている映像を渡しなさいよ、この盗撮野郎」
うわっ、『こそ』の三連発。噛まずによく言えたよ、日和子。
「残念ながらその映像は渡せないね。なぜなら僕がやっているのは盗撮ではなくて研究だからね」
あらら、開き直っちゃったよ。
「研究? 女子高生のパンツを撮影するのが研究なの? そんなことあるわけないじゃない。研究という証拠を見せなさいよ」
「パンツが写ってしまったのは予期せぬ偶然の出来事でね。いわばアクシデント。ここでの撮影行為はちゃんと警察の許可を得ているんだよ。この許可証が証拠だ」
男はポケットから一枚の紙を取り出した。なにやら細かく文字が書かれている。
ええっ? 警察の許可?
「じゃあ、何の研究よ。分かりやすく説明してみなさいよ」
「理解できるかどうかは君の学力次第だね。どうだね、聞いてみるかね?」
学力だなんて、日和子を一番刺激する単語を使うとは敵もやるわね。
「望むところよ。さあ、始めなさい」
落ち着いて、日和子。どうどう。
「では、透水性舗装という言葉を知っているかね?」
「知ってるわよ。透水性の高いアスファルトを使った舗装でしょ? 豪雨時などに雨水を地中に浸透させることができるから、河川の増水が減らせる効果があるって習ったわ」
さすが日和子。そんなものがあるなんて知らなかったわ。
「ほお、少しは学のある女子高生と見た。では、透気性舗装はどんなものか知っているかね?」
トウキセイホソウ? それって陶器製ってこと? トラックが通ったら割れちゃうんじゃね?
「うっ……。言葉から推測して、通気性のよいアスファルトとしか分からないけど……」
えっ、通気性? ああ、そういうことか。
頑張れ日和子。負けるな日和子!
「その透気性アスファルトの研究をしているのだよ、僕は」
アスファルトの研究? それってもしかして、あのアスファルトのこと?
「町と警察の許可を得て、反対側の歩道のアスファルトの一部を塗り替えたんだ。研究中の透気性アスファルトを試すためにね」
あのアスファルトって、こいつが塗り替えたのか。
「透気性アスファルトには温暖化を抑制する効果があるって注目されているんだよ。その効果を最大に発揮するのは雨上がりの朝。陽に照らされたアスファルトに影が差すと、内部と表面との間に急激に温度差が生まれ、しみ込んだばかりの雨水が水蒸気となって排気されるんだ」
「アスファルトに影が差すと……?」
日和子は説明を消化するように、ゆっくりと男の言葉を繰り返した。
「そうか。だから、カゲカゲ、フワフワなのね」
男の言っていることはさっぱりわからないけど、日和子は理解したようだ。
なんとなく伝わってきたのは、スカートは空気砲とかでめくれたわけではなくて、アスファルトそのものが原因だったみたい。
ということは盗撮集団の仕業ではなくて、こいつの単独犯ってこと?
「ほお、君達は僕の呪文も知っているんだね。だったら話が早い」
いや、それはパパの呪文だから。あんたが勝手に使ってるんだからね。
「カゲカゲは、日蔭になったアスファルトが風を起こすからってことね」
「その通りだよ。そしてフワフワは、君達女子高生のスカートだ」
おおお、私の推理通りじゃないのよ、ホームズ君。
「スカートは僕の研究にとって最適な検証材料なんだ。理想な条件下では、きれいな円形に広がるからね。円の面積は半径の二乗に比例するというのは知っているだろ?」
円の面積=半径× 半径× およそ三。それくらいなら私も知っている。
「影になったアスファルトが排気する。スカートが広がる。影の面積が増えて排気が加速する。スカートがさらに開く。その様子を捉えることによって、アスファルトの排気能力の検証を行っているのだよ」
「そんなのは実験室で行えばいいじゃない?」
そうだ、そうだ。
「もちろんやったさ。何百回、いや何千回もね。僕自身がスカートを穿いたこともある」
うわっ、こいつ変態。
「研究はすでに実地段階なのだよ。実際に都市で機能するかどうかを検証するのが都市環境学だからね。撮影だってこの通り、ちゃんと警察の許可を得ているんだ」
都市環境学って、ま、まさか、あんたは西都大学の関係者じゃないでしょうね。
「だからって女子高生のパンツを撮影してもいいってことにはならないんじゃない? これは立派な盗撮よ」
日和子が反撃を開始した。
しかし男は少しも表情を崩さない。
「君はさっきの説明をちゃんと聞いていたのかね。僕は何千回も実験を行ったのだよ。君達の高校のスカートを用いてね」
「それがなんなのよ」
「そのデータを基に、アスファルトの排気能力を調整することが可能なのだよ。パンツが見えないようにね。もちろん、君達の高校の女子生徒全員の身長、体重、座高をすべて考慮している」
それ犯罪だから。きっと個人情報保護法に引っかかってるから。
「つまりね、ここで撮影していてもパンツが見えることは決してないんだよ。君達がちゃんと校則を守っていればね」
「うっ……」
校則という印籠を目の前につきつけられて、日和子はひるんでしまった。
今時の女子高生にとって、すっかり形骸化している校則のスカート丈。まさか、それを逆手に取るとは。
でもダメだよ、そこで引いたら日和子。校則違反をしてるって自分で言ってるようなものじゃん。
それなら私の出番だ。ついに迷助手の登場!
日和子を押しのけて、私はビシっと男を指さす。
「校則があんたを許しても世間は決して許さない。そのビデオを渡しなさい。中身をあんたの顔写真と一緒に動画サイトに投稿して、社会的に抹殺してやるんだから」
「ぐっ……」
今度は男がひるむ番だった。
ぐはははは、正義は我の元にあり。
しかし、私が勝利を確信した瞬間、男は踵を返して走り出した。
「待て! 逃げるな、この野郎!! ほら、日和子も追いかけるよ」
私達は逃げる男を追って駆け出した。
☆
「待てぇぇぇッ!」
私達は必死に男を追いかける。
悲しきかな、男と女の体力差。男との距離はどんどんと離れて――いかなかった。
「あいつ、体力ないわね。きっと変な実験ばかりしてるからよ」
「そうね。追いついて絶対あいつを取り押さえてやる」
日和子も、走りながら気力を取り戻していた。
しかし、私達が必死に走っても追いつくことはできない。それくらいの体力は男も持ち合わせていた。
「さっきはありがとう四葉。男にビシっと言ってくれて。すごくスッキリしたわ」
私も気持ち良かったなあ、男がひるんだ時は。
人を指差しちゃいけないってパパに言われていたけど、今回は構わないよね?
「日和子もダメよ、あそこで引き下がったら。あの男だって校則違反が日常化してることわかっててやってるんだから」
やましい気持ちがあるから、サングラスとマスクで変装してたんだよ、きっと。
「そうよね。私も探偵失格よね」
「そんなことないよ」
日和子はよくやったよ。犯人を寸前まで追い込んだし。
でも頭のいい人って理屈に弱いよね。日和子しかり、あの男もしかり。
男は信号に引っかからないよう、巧みに角を曲がりながら逃げていく。少しずつであるが、男の後ろ姿は遠ざかっているようだ。
「ヤバいよ、日和子。離されちゃうよ」
「大丈夫よ四葉。もし逃げられても必ず探し出してやるわ。これを手がかりにね」
そう言いながら、日和子は鼻血が付いた制服の袖をつまむ。
男に振り切られた時は、DNA捜査でもやろうというのだろう。
というか、撮影許可を出した警察で聞けば一発じゃね?
「犯人の体液は立派な証拠よ」
――女子高生の制服に付いた犯人の体液。
ニュースでよく聞くけど、それって死亡フラグだから。
「むふふふ、男のDNAはもらったわ」
日和子、落ち着いて!
慣れないランニングで息があがって脳に酸素が行ってないと思うけど、知らない人が聞いたら誰かの子を宿してるみたいだよ。
「四葉見て! この犬――実に尾も白い」
通りすがりの犬見て関係ないこと言わなくてもいいからっ。あんたの探偵へのこだわりはよくわかったからっ!
男との壮絶な追跡劇を繰り広げているうちに、いつの間にか左手に大川が見えてきた。
「ねえ、四葉。これって白詰公園に向かってるんじゃない?」
日和子が言う通り、男は白詰公園の方向に走っている。男が信号を避けて逃げているうちに、知らず知らずに川沿いを進むことになったのだろう。
この道をまっすぐ進むと白詰公園に入口に突き当たる。そうなれば男は公園内に逃げ込むことは間違いない。
そうか、それならば!
「日和子、私いいこと思いついた。あの男を中央広場に誘導するよ」
中央広場には白詰草の渦巻模様がある。今ここで、あれを使わない手はない。
「いいことって何するの?」
「いいからここは私に任せといて」
そう言いながら携帯を取り出し、パパに電話を掛ける。
「ねえ、パパ。大変なことが起きたの」
『四葉か? 大丈夫か? どうしたんだ、大変なことって!?』
走る私の息遣いが緊迫感を与えたのだろう。パパの真剣な声が電話から返ってきた。
「白詰公園でつむじ風が、だんだんと発達してるの。ねえ、呪文で逆回転の風を起こして!」
『逆回転の時計回りの風か』
「そうよ、カゲカゲ、フワフワをマックスでお願い!」
本家本元の呪文の威力を見せてやるからね。
『わかった。遠隔操作ですぐに電磁波を発生させよう。ちなみに日向の白詰草も使うから、呪文に『カゲカゲ』は要らないぞ』
やけに細かいわね。とにかくフルパワーでお願い!
「わかったわ。あっ、つむじ風がこっちに向かってる。こっちに来ないで、来ないでぇぇぇぇッ」
演技が過ぎたような気もするが、これくらいやればきっとパパも最大出力で電磁波を発生させてくれるに違いない。
『準備完了。四葉! 行くぞ!!』
男もちょうど中央広場に差し掛かったところだ。私はパパと一緒に呪文を叫ぶ。
フワフワ、マックスぅぅぅぅーーーッ!!!
ひゅるひゅると風鳴りがしたかと思うと、周囲の木々がバサバサと音を立てる。
広場の中央では砂ぼこりや落ち葉が宙を舞い、ゆるやかに空気の渦を形成し始めた。
見ると、男はよろよろと体勢を崩している。そして風に流されるようにして、バレエダンサーのごとくその場でグルグルと廻り出した。
――うわっ、本当に時計回りだ。
さすがに男を宙に舞わせるほどの力は無かったが、足止めさせるには十分だった。
十回は廻ったところで、男はドサッとその場に倒れる。
「やったね、四葉。私、ビデオを取り上げてくる」
日和子が駆け寄っても男は動こうとしない。どうやら完全に目を回しているようだ。
『大丈夫か、四葉!』
携帯からパパの声が聞こえる。
私は興奮気味に作戦の成功を伝えた。
「ありがとう、パパ。もう大丈夫。パパは町の平和を守ったよ」
盗撮犯を無力化することに成功したんだからそれは間違いない。
『そうか、それは良かった。本当に良かった……』
電話越しにパパの安堵が伝わって来る。
それにしても懐かしいなぁ、パパの魔法。
この優しい風、気持ちのいい空気。
子供の頃、パパにかけてもらった魔法そのものだよ。
私は目をつむる。そして、呪文から数分が経った今でもふわふわと浮き上がるスカートの感覚に身を任せ、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
久しぶりのパパの魔法は、優しい草の匂いがした。
おわり
ライトノベル作法研究所 2013夏祭り企画
テーマ:変態(本作の変態は「スカートめくり」)
お題:「鼻血」、「女神」、「ひよこ」、「平和」
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