奇跡は今日も古墳に眠る ― 2021年01月12日 23時29分33秒
「こ、こんなところに、入っていいのかい?」
前を歩く幼馴染のサキに思わず声を掛けた。不安に声を震わせながら。
「平気よ。だって私の父が作らせたものなんだから」
振り返るサキは僕の目を見る。
それはいつもと違う、決意に満ちた眼差しだった。
集落から離れた丘に、その場所はあった。
人工的に土が盛られた巨大なその丘は、綺麗な円形に整地されており、広さは田んぼ一反ほどもある。
驚くべきはその麓に見える構造物だ。
石を積み上げて作られた、人が三人並んで入れる程の大きさの洞窟。その入口がぽっかりと口を開けている。
「父が死んだ時、この中に埋葬されるの」
サキの父は、僕たちの村の長だ。
村人を集めて数年かけて何かを作っているのは、そこで働いたことのある父さんから聞いていた。が、こんな近くに寄るのは初めてだった。
僕はドキドキしながら、洞窟の入口をくぐるサキの後に続く。
するとそこは石造りの部屋になっていた。
「うわぁ、素敵な場所だね」
「でしょ?」
石で組み上げられた神秘的な空間。
サキが松明に火を付けると、壁面に描かれている絵が炎に照らされて浮かび上がる。それは僕たちの村の風景を描いたものだった。
見上げると巨大な岩が見える。天井は三枚の大きな板状の岩で構成されていて、全面が青く塗られ、数多の星が描かれていた。
「あれ、柄杓星だね」
僕は見覚えのある星を指差した。
「そうよ、綺麗よね。でもこの部屋が素敵なのは、天井だけじゃないの」
するとサキは松明を床に向ける。
天井と同様の板状の大岩が敷かれている床面には、色とりどりの花が描かれている。
「すごい、すごい……」
僕たちはこの村の自然を模した空間に立っていたのだ。
ため息を漏らす僕のことをよそに、サキは松明を両手で持っての顔の前に火をかざし、祈りを捧げるように静かに目を閉じる。そしてゆっくりと呪文のような言葉を口にした。
「星在天、花在地、愛在人……」
照らされるサキのふっくらとした横顔。
目を閉じて祈りを捧げる姿は、村で一緒に暮らしてきた十五年間で一番美しい彼女だった。
子供だけでは来てはいけない場所であることをすっかり忘れて、僕は彼女に見とれてしまう。
やがて目を開けたサキは、神妙な顔で僕を向く。
「天には星、地には花、そして人には愛。この三つが揃った時、奇跡が起きるんだって」
君がここに居ることが奇跡だ。
そう言いたくなる気持ちをぐっとこらえる。
サキは村の長の娘、一方僕は小さな農家の六男。
お互い十五となった今、こうして二人で一緒にいることは決して許されない行為だった。
「父は真剣に信じてるの、その奇跡を。だからここに埋葬して欲しいと願ってる。笑っちゃうでしょ?」
でもそれは素敵なことだと思う。
農家に生まれた自分たちには、決して実現することのできないことだから。
死後の世界にも夢を持てるのは、限られたごく一部の人たちだけなのだ。
「それにね、もしそうだったら今ここで奇跡が起こるはずじゃない? だって私たち、愛し合ってるんだから」
ええっ!?
愛し合ってるって?
いやいや、僕はサキと手を繋いだことも……って、それはあるけど、それ以上のことをしたことはない。
「なに? その表情は。ロクは私のこと愛してないの?」
「愛してるって、そんなのいきなり訊かれても分からないよ。サキは僕にとって大切な人だけど」
「ははーん、父のことが恐いんでしょ?」
「恐いとかそういうことの前に、身分が違いすぎるよ」
「父に逆らって、私のこと奪いたいって思ったことないの?」
「奪いたいって……」
サキはなんで、いきなりこんなことを言い出すのだろう?
僕が困惑の表情を浮かべると、彼女はぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「この間、父に言われたの。となり村の長の家に嫁ぐようにって……」
僕たちの村では、女の子は十五でお嫁に行くことになっている。
それは前からわかっていて、サキの相手は自分ではないことも理解していたつもりだったが、いざ彼女の口から聞くとショックだった。
「い、いつなの?」
「次の満月の日だって」
な、なんだって!?
槌で頭を殴られたような衝撃を受ける。
ということは、あと数日でサキはいなくなってしまうんじゃないか。僕の近くから、永遠に。
今なら手を伸ばせば届く美しい彼女の表情も、もう見れなくなってしまうのだ。
ぎゅっと締め付けられるような胸の痛み。その穴の存在を見つけたかのように、サキが僕の胸に飛び込んできた。
「私、お嫁に行きたくない。ロクのそばにずっといたい……」
だからサキは奇跡を願っていたのか。
僕だって奇跡を起こしたい。それにはどうしたらいいんだろう?
床に落ちた松明の火を見つめながら、胸の中の大切な存在をこの手の中に収めていいものかどうか、僕は迷っていた。
「ねえ、ロク。私のこと抱いて」
「抱いてって……」
「私のこと好きじゃないの?」
「そ、そりゃ、サキのことは大好きだけど」
「じゃあ二人で奇跡を起こしましょ! 私はロクのことを愛してる。あなたが自分の気持ちを解放してくれれば、きっと奇跡は起きる」
そんなこと言ったって……。
僕だってサキとお別れしたくない。
でも現実を見れば、それは無理だということはわかる。僕たちは大人になろうとしてるんだから。
「ロクが私のこと抱いてくれなかったら、私は今ここで死ぬ」
サキは僕から離れ、帯に挟んであった刃物を取り出した。鋭い切先が、僕に選択を突きつける。
「先にあなたを殺してからね」
彼女の真剣な眼差し。
この石室に入る前にちらりと見せた決意は、このことだったんだ。
だから僕も覚悟を決める。
「僕もサキのことが好きだ。愛してる」
刃物をぎゅっと握りしめる彼女に手を差し伸べる。
そのとたん、彼女の顔を覆っていた緊張が剥がれ落ちた。手からするりと刃物が落ちて、カランと石室に甲高い音が響く。
僕は彼女のことをしっかりと抱きしめた。
「私も。ロクのことを愛してる……」
その時だ。
ゴオという地鳴りとともに石室の岩がガタガタと揺れ始め、そして――
☆ ☆ ☆
「あー、たいくつだなぁ……」
G県M市の五月の空は、今日も快晴だ。
僕、九札帆高(くさつ ほたか)は、数学の授業をぼおっと聞き流しながら教室の窓に目を向けていた。
白い雲、青い空。河岸段丘の上に建てられた我が高校の校舎の三階からは、大河川に沿って点在する街のビル群を遠くまで見渡すことができた。
サイン、コサイン、タンジェント……。
教室に響く先生の声と、数学の謎呪文が、窓から見える街並みに向かってすうっと飛んでいく。
うーん、さっぱり分からないし、理解しても何に使えるのか全く見当がつかない。
母ちゃんだって使ってるとこ見たことないし。
僕は机に突っ伏し、寝たフリをする。
数学の時間の唯一の楽しみと言えば、薄目の視界の隅に映る彼女の姿だから。
窓側の席に座るクラス一の美少女、阿鍵晴菜(あかぎ はるな)。
斜め前、といっても横横前の位置関係だから、首をかなり横にしないと彼女の御姿を崇めることはできない。
授業中にその姿勢を取るためには、あからさまに寝ている生徒が多い数学に限るのである。
「いつ見ても、可愛いなぁ……」
肩にかかる黒のストレートヘア越しに、ちらりちらりと見える彼女の横顔。
眉は細すぎず、つぶらな瞳を二重のまぶたとぷっくりとした涙袋がより魅力的なものにしている。
何よりも好きなのは美しい鼻筋のライン。目を閉じれば、その輪郭をそらんずることができるほどに。
血色の良い唇に、すっとした顎。そして僕は、制服のなだらかな丘に視線を移す。
それほどの阿鍵さんなのだが、誰かと付き合っているという噂を聞いたことがない。
高校二年生にもなれば、クラスの可愛い女の子は皆、誰かと付き合っているという状況なのに。
かといって、自分から声を掛けることなんて考えられないくらい僕はヘタレだっだ。一年生の時も同じクラスで、二年生でも一緒になれた時はめちゃくちゃ嬉しかったのだが。
「あーあ、アニメや小説だったら、委員会とかが同じになるんだけどな……」
僕は図書委員。
一方、阿鍵さんは美化委員だ。
いやいや、彼女だって図書委員だったんだよ、一年生の時は。
だから二年生になったら僕も図書委員に立候補したっていうのにさ。
『ねえ、帆高くん? サン=テグジュペリとか武者小路実篤っていいよね!』
なーんて言われたら、めちゃくちゃ会話が弾んですぐに仲良くなれるのに。
そんなことを夢見た高校二年生は、出鼻で挫かれてしまったんだ。
阿鍵さんを見ているのが大好きな僕に、ある日、奇跡のような出来事が起きた。
朝、教室に着くと、机の中に一通の手紙が入っていたのだ。
――阿鍵晴菜。
その名前を目にしたとたん、僕は慌てて手紙をカバンに隠す。
(まさか……。でも、どういうこと?)
様々な憶測が僕の脳を支配する。当然その日は、授業どころではなくなってしまった。
そりゃそうだ、大好きな阿鍵さんからの手紙を受け取ってしまったのだから。
その日はずっと彼女の存在が気になってしまう。気がつくと、視線は彼女の後ろ姿を追っている。
しかし、休み時間になっても、昼休みになっても、彼女が僕を気にする素振りは全くないのだ。
手紙を出したのなら、ちょっとは意識してくれてもいいと思うのだが……。
(もしかして、誰かのいたずら……とか?)
その可能性は十分考えられる。
僕は誰のグループにも属さないクラスでも浮いた、いや沈んだ存在。ターゲットにするなら格好の標的だろう。
もし犯人がこのクラスにいるのなら、ニヤニヤしながら僕のことを眺めているに違いない。急に挙動不審になった僕の様子を。
そう思った瞬間、放課後まで冷静でいるように心がけた。こんな卑劣なことをする奴に、決して燃料を与えてはいけないのだ。
ホームルームが終わると、僕は何もなかったかのように教室を後にする。手紙が入ったカバンを掴んで。
そして理科室やら音楽室やらが並ぶ人気のない階のトイレに入ると、個室に籠もってその手紙を開けた。
『今日の午後五時、宝塔塚古墳に来て』
手紙の内容は、これだけだった。
(はたして、その場所に姿を表すのは誰だ!?)
考えられるのは、阿鍵さんか、他の誰かか、もしくは誰も来ないか。
ということは、ということは、阿鍵さんが来る確率は三分の一ってことじゃないか!
確率が三分の一もあるなら行くしかない、と数学オンチな僕は即刻行くことを決意したのであった。
一応なにかあった時のために、家族ラインに『宝塔塚古墳で死後の世界を覗いてくる』とささやかな遺書を残して。
(ていうか、宝塔塚古墳って何? それって、どこにあるの?)
転勤族だった父のせいで、僕の家は引っ越しが多かった。
今住んでいるこのM市だって、中学生の時に引っ越してきたばかりなのだ。
だから、あまりこの街のことは知らなかったりする。
しょうがないので僕はスマホを取り出し、『宝塔塚古墳』について調べ始めた。
――G県M市にある七世紀末築造の円墳。
――直径三十メートル高さ五メートルで、切石切組積みの両軸型横穴式石室がある。
すげぇ、ちゃんとネットに載ってるじゃん。
それに思っていたより高校から近い。二キロくらいだから、歩いても五時までには余裕で着けるだろう。
「古墳で待ち合わせなんて、なんて古風な人なんだろう。阿鍵さんって」
ネットに掲載されている魅力的な古墳の写真。
それを眺めているうちにすっかり古代のロマンで頭が一杯になってしまった僕は、いたずらの可能性をころっと忘れて古墳に向けて歩き出した。
宝塔塚古墳は、住宅街の真ん中にあった。
古墳はこんもりとした森に囲まれているもの――とばかり思っていた僕は拍子抜けする。
円墳の側面は芝生になっていて、頂上部だけに木々が生えている。つまり、住宅街の中にある巨大な芝生丘公園という感じなのだ。
が逆に、それは好都合かもしれない。住宅が近くにあるなら、何が起こっても大声で助けを呼ぶことができるだろう。
ひとまず身の安全を確認した僕は、ネットに載っていた石室に行ってみる。
それは予想を遥かに超えた、立派な構造物だった。
「すげぇ、なんかピラミッドの中みたいだよ」
ピラミッドなんて行ったことないけど。
でも、テレビでよく見るような石造りの構造が、圧倒的な存在感で僕の目と心を奪っていた。
しかもこの古墳は、石室の中に自由に入れるらしい。
「おじゃまします……」
しずしずと石室に足を踏み入れる。
古墳といえば、古人(いにしえびと)のお墓だ。
この中に、かつて遺体が安置されていたことは紛れもない事実なのだ。
そんなところでいたずらに遭うのも嫌だが、死者の霊に取り憑かれるのはもっと怖い。
僕は心を神聖な気持ちで満たしながら、中に進んでいった。
「それにしてもすごい。こんなところが近くにあったなんて……」
中に入ると、石造りの構造のすごさがよく分かる。
幅二メートル、高さ二メートルくらいの空間。そこは、見事なまでに角型に加工された石で囲まれていた。
側面の石は、互いがぴったり合わさるように加工されていて、隙間はほとんどない。
天井に至っては、三枚の巨石によって構成されていた。
「こんな巨石、七世紀の人たちが、どうやって加工して、どうやって運んで来たんだろう……」
その時だった。
すっかり石室に夢中になってしまった僕は、不覚にも背後に迫る人の気配に気づかなかったのだ。
「早かったのね、九札帆高クン」
振り返るとそこには、制服姿の阿鍵さんが立っていた。
☆
「来てくれて、ありがとう」
阿鍵さんは無表情のまま僕の目を見る。
「まあ帆高クンなら来てくれると思ってたけど。あれだけ毎日、私のこと見てるんだから」
僕のことを小馬鹿にするようなセリフを吐きながら。
ていうか、いつも彼女を眺めていたことがバレバレだったなんてめちゃくちゃ恥ずかしい。
それよりもなによりも、大好きな阿鍵さんがこんにも近くにいて、いい香りが鼻をくすぐることに僕の心臓はバクバクとフル回転を始めていた。
僕の身長は一七〇センチだが、阿鍵さんは一六〇センチもない。このままでは激しい鼓動が彼女の耳に届いてしまう。
が、彼女は僕の動揺なんか気に留めず、石室の天井を見上げた。
「ここ、すごいでしょ?」
「あ、ああ」
やっとのことで声を出す。
何を話したらいいのか、どうしたらいいのか、軽くパニクっていた僕には助け舟となる彼女の一言にほっとする。
というか、呼び出されたのは僕の方なのだが。
「古墳ができた頃はね、この壁一面に絵が描かれていたそうよ」
「へぇ~」
僕は壁画を見るふりをしながら壁に近づき、彼女との距離を空ける。これで少しは自分らしい行動を取れそうだ。
実際に壁に手を当てると、壁画があったとは思えないほどゴツゴツとした岩肌が露わになっていた。
「天井にはまだ痕跡が残っていて、これを当てると見れるの」
そう言いながら、阿鍵さんはバッグの中から何かを取り出す。
それは、掌に収まるくらいの懐中電灯だった。
「ブラックライトっていうの。紫外線を当てる装置」
そして彼女は、ブラックライトを天井に向けた。
「うわぁ」
思わず声が出てしまった。
なんとも幻想的な光景だったから。
薄暗い石室の天井が、ブラックライトを浴びて紫色に光り始めている。
それはかつて描かれていたと思われる絵柄、天に広がる一面の星空だった。
「すごい……」
ため息を漏らす僕に、阿鍵さんが解説を始める。
「このブラックライトを当てるとね、蛍光をもつ物質が反応するの。砕いて染料にしていた鉱物に、そんな成分が含まれていたんじゃないかってパパは言ってた」
北斗七星らしき星座も見える。
古人もこれを見上げていたと思うと、歴史のロマンを感じてしまう。
古墳ができた時代と変わらぬ星空。僕たちの時間は過去と繋がっている。
「これを僕に見せるために?」
「違うわ」
間髪入れず響く彼女の冷たい声。
急降下した声の温度に、やっちまったかと僕は後悔した。
「見て。床面にも絵が描かれていたの」
彼女は今度は床にブラックライトを向ける。
床の大岩の中央には大きな草むらのような塊が紫色に浮き上がり、その周囲にたくさんの花々が描かれていた。
しかし不思議だ。
これを僕に見せることが目的ではないというのに、なぜ僕をここに呼んだのだろう? わざわざブラックライトを持参して。
頭の中をはてなマークで一杯にしながら阿鍵さんを見る。いつの間にか両手で包み込むようにブラックライトを手にする彼女は、ライトが照らす紫色の星々を見上げていた。
そして一息吸うと、静かに言葉を紡ぎ始める。
「天に星、地に花、人に愛……」
祈りを捧げるように。
これはなにかの儀式なのだろうか? 死者の魂を呼んでいる――とか?
それなら僕は、生贄ということになる。
「ねえ、帆高クン。この言葉知ってる?」
「確か武者小路実篤、だったっけ?」
「さすがね。一般にはそう言われている。でもね、この地に古くから伝わっていた言葉でもあるの。この古墳ができた時にはすでにね」
ネットには確か、この古墳は後期の築成で七世紀と書いてあった。
千年以上も前からこの言葉がこの地に伝わっていたとは驚きだ。
「武者小路実篤の場合、色紙に好んで書かれたのがこの言葉だった。つまり彼にとっては描写の一つだったんだと思う。でもこの地に伝わる言葉は、別の意味で使われていた……」
いにしえから伝わる言葉。
それは意味を持って使われていたという。
一体どんな使われ方をしていたのだろう?
ただでさえ美しい阿鍵さんがブラックライトを持つ姿が巫女のようで、僕には神々しすぎてゴクリと唾を飲んだ。
「この三つが揃う時、奇跡が起きるんだって」
そのことで、僕がとんでもない災難に巻き込まれることを知らずに。
☆
「帆高クン。貴方は私を愛することができる?」
いきなりの質問に戸惑う。
もちろん僕は、阿鍵さんが大好きだ。彼女の容姿を愛している。
が、彼女の人格まで愛せるかというと圧倒的に情報が足りない。
こんなにたくさん会話したのだって、今日が初めてなんだから。
一向に口を開こうとしない僕を見て、阿鍵さんはふっと口元を緩めた。
「あんなに私のこと見てるのに、結構意気地なしなのね。まあ、即答する軽い男よりは百倍マシだけど」
続けて彼女は、僕の心を鋭くえぐる言葉を投げつけた。
「まあ、私も貴方のこと好きでもないし、愛してもいないからお互い様だけどね」
ええええっ、そうなの?
――僕に好意を持っているから呼び出したんじゃないだろうか?
彼女がここに姿を現した時に芽生えた小さな期待は、無残にも粉々に砕かれてしまう。
しかしショックで打ちひしがれる間もなく、阿鍵さんは予想外の質問を始めた。
「じゃあ、言い方を変えるね。もし貴方と私との間に子供ができたとしたら、その子を愛することができる?」
いきなり何を言い出すのだろう? この人は。
僕は阿鍵さんと手を繋いだこともないというのに。
でもこの質問には答えることができそうな気がした。不思議な確信を持って。
「それって自分の子供ってことだろ? 自分の子供を愛さない親がいるのか?」
たぶん間違いなく、僕はその子を愛するだろう。
阿鍵さんとの子供なら、なおさらに違いない。
すると彼女は、僕の答えを待ちわびていたように不気味な笑顔を浮かべた。
「私もね、自分の子供を愛すると思う。私は愛する、貴方も愛する。だったら私と貴方の間に、その時愛が生まれるってことなんじゃない?」
何だよ、その論法。
A=B、B=Cなら、A=Cと言いたいのか?
数学オンチの僕だって、それがなんかおかしいってのは分かる。愛に適用するなんてことは。
時代が進むと愛もそんな風にデジタルになっちゃうのだろうか?
「だからね、ここで試してみたいの」
「試すって?」
「あら、今説明したじゃない。貴方の愛と、私の愛を一つにする方法。ここで奇跡を起こすためにね」
いやいや、全然分からないんだけど。
今からここで、恋愛数学の授業をやろうって言うのだろうか?
「まだ分からないの? セックスするのよ、ここで。二人が絶頂に達した時、互いに「子供が欲しい」って思ったら、それは愛だと思うの」
な、なななな、何を言ってるんだ、この人は!?
セ、セ、セックス!? 僕と阿鍵さんが?
そもそもそれは、まず手を繋いで、デートに行って、キスをして、抱きしめて、そうして初めて行える行為なんじゃないの?
それをいきなりセックスって、そんなの出来るわけないじゃないか。
どう反応していいのか迷う前に、僕の顔は真っ赤になっていたに違いない。
一方、阿鍵さんは真顔で僕のことを観察している。男の僕だって恥じらうその言葉を、顔色一つ変えずに発音できる彼女って、一体何者なんだ?
「そんなの、いきなり出来るわけないじゃないか」
「あら、気にしなくていいのよ。私、処女じゃないから」
「そ、そ、そういうことじゃなくて」
「貴方が初めてならやり方くらい教えるわ。それとも何? 本当に子供ができるか疑ってる? 大丈夫、今日あたりが排卵日だからバッチリよ。ってまさか、まだ精通してないってことはないよね?」
「な、ななな……」
僕は言葉を失った。
精通くらいしてるよ、と叫びたかったが、そういう問題ではない。
彼女の発言は僕の理解を遥かに超えていた。
刺激的な言葉のオンパレードで真っ赤になった顔をこれ以上晒したくない。その一心で、僕は彼女を拒絶する。
「そうじゃなくて、もっと自分を大切にしなよ。子供ができたら、学校休まなくちゃいけなくなるんだよ!?」
「と言ってる割には、下半身は正直みたいだけど?」
見ると僕の制服のズボンは壮大にテントを張っていた。
かあっと頭に血が上って、赤い顔がさらに紅潮していく。
理性では強く否定しているのに、本能に忠実な下半身が許せない。僕は慌てて股間に手を当てる。
「準備は万端なようね。じゃあ、始めましょうか」
と言いながら、阿鍵さんが制服のスカートの中に手を入れようとした時――石室の外から声が聞こえてきた。
『えー? この中に入るの?』
『大丈夫だよ、俺も一緒だからさ』
どうやら肝試しに来たカップルらしい。
スカートの中に手を入れるのをやめた阿鍵さんは、声のする入口を振り向く。
――今だ!
僕はここぞとばかりに彼女の手を掴むと、石室の外に向かって駆け出した。
☆
「あーあ……」
古墳が見えるベンチに腰掛けた阿鍵さんは、石室の入口を眺めながらぼやき始めた。
僕も少し距離を置いて同じベンチに座り、股間を隠すように膝の上で手を組んで、彼女と同じように恨めしそうに石室を眺めていた。
夕方六時近くになっても、五月の空はまだ明るい。
帰宅するサラリーマンや学生、犬の散歩やらで古墳の周りは人通りが増えてきて、石室の中で秘密の行為に興じるなんてことは不可能になっていた。
体の火照りが上も下も収まってきた僕は、一言、彼女に訊いてみる。
「なんで、あそこで奇跡を起こしたかったんだ?」
しかし彼女は何も返事をしない。
ベンチに座ったままで足をぶらぶらさせている。
怒っているのかと恐る恐る表情を伺うと、古墳を見つめてぼんやりしている。どうやら何か考え事をしているようだ。
すると突然、阿鍵さんは僕の方を向いた。
「もう一回同じ質問するけど、貴方は本当に自分の子供を愛せる?」
同じと言いながら、ちょっとだけ内容が変わった。
阿鍵さん限定ではなくなった分、僕にとっては答えやすい。
将来、僕は誰と結婚するのか分からないが、自分の子供はきっと愛するだろう。
「ああ、愛する」
今度は自信を持って答えることができた。
だから、その眼差しを阿鍵さんへ向ける。先ほどのゴタゴタの仕返しも込めて。
すると目が合った瞬間、彼女は表情をくしゃくしゃにした。
「私だって愛すると思う。でもパパは言うの、ママと別れるって。ママはママで、私を連れて出て行こうとしてる。私、ここを離れたくない……」
ぽろりぽろりと阿鍵さんの目から涙がこぼれ落ちた。
☆ ☆ ☆
あれから数日間、僕は阿鍵さんをまともに見ることができなかった。
彼女も、僕に声をかけようとはしない。
あの日の涙が本物だったとすると、近いうちに彼女は引越してしまう可能性がある。
「近くだったらいいんだけど……」
となりの市くらいだったら、今まで通りこの高校に通えるだろう。
でももっと遠くに行ってしまったら?
彼女は転校してしまうかもしれないのだ。
「一体、どうしたらいいんだろう……?」
奇跡を願ったのは、両親の離婚を阻止したかったんだと思う。
いや、奇跡を起こそうと思ったんじゃない。僕に助けを求めたんだ。
もしあの時、行為に至って子供ができたとしたら、僕は彼女と一緒になることを望んだだろう。その気持ちを、僕の行動を利用したかったんだと思う、離婚を阻止するために。それが僕の心を傷つけることになったとしても。
「だったら、それに乗ってやろうじゃないの!」
僕は大好きな阿鍵さんのために、一世一代の大芝居を打つことを決意した。
☆
早朝の教室で僕が阿鍵さんの机に手紙を入れたのは、最初に手紙をもらってから十日目のことだった。
大芝居を打つには、しっかりとした作戦を練る必要がある。シナリオを作り、セリフを考える。練習をして、彼女の前でも堂々と実行できる自信がつくまで、それくらいの日数がかかったという次第だ。
放課後、古墳が見えるベンチで待っていると、時刻通りに阿鍵さんがやってきた。
そして彼女はいきなり、前回の続きを思わせる過激発言を繰り出した。
「今日はあの中に入っても何もしないわよ。そろそろ生理が来るころだから、子供なんてできないしね」
本当に歯に衣を着せない人だと思う。
でも、そういう人だと分かっている分、今日は冷静に対応できそうだ。
僕はこの数日間練習してきたセリフを頭の中に用意する。練習を重ねたのは、僕的にとても恥ずかしい語句が満載なのだから。
「僕だって何もしないよ。だってあの時、しちゃったんだからね」
「しちゃったって何を?」
「だからセックスをだよ」
「はぁ?」
い、言えた!
彼女の前で真顔でセックスという単語を。
十日前には考えられなかった進歩だ。
一方、阿鍵さんはあっけに取られていた。
「だから君のお腹の中には僕の子供がいる」
これが僕の作戦だった。
というか、彼女の作戦を受け入れただけ、と言うべきかもしれないが。
すると阿鍵さんはニヤリと口角を上げた。
「へぇ、それで?」
「僕は、君の両親に挨拶に行かなくちゃいけない」
「パパに殺されるわよ」
いやいや、その殺されるようなことをしようとしたのは誰だよ!
突っ込みたくなる気持ちを抑えて、僕は淡々と作戦を続けた。
「殺されるのは嫌だけど、殴られるのは覚悟してる。そして、将来結婚させて欲しいとお願いする」
阿鍵さんの目を見る。
どれだけ僕が真剣なのか、まず彼女に分かってもらえなければこの作戦は成功しない。
ていうか、よく考えたらこれってプロポーズじゃないか。たとえ芝居だとしても。
「ふうん、ホントにそれやるの?」
「ああ」
「マジで? 冗談ぬきで? 途中で逃げたりしないでしょうね?」
「決して逃げたりしない」
僕は視線に力を込めた。
大好きな阿鍵さんの瞳は何時間だって見つめることができる。懐疑的な表情もまた魅力的な彼女は美しい。
やがて根負けした阿鍵さんは僕から目をそらし、正面の古墳を見る。
「そしたらパパとママは、別れなくなると思う?」
「逆だよ、別れても意味がないと思わせるんだ」
「それってどういうこと?」
「これは勝手な憶測だけど、別れたら子供、つまり阿鍵さんのことを独占できると思ってるから争っているんじゃないのかな? 別の人間に盗られてしまうという危機に晒されれば、争っていられなくなる」
「ふうん……」
彼女の答えは曖昧だったが、なんとなくは納得してくれたようだ。
僕はひとまず、ほっと胸を撫で下ろす。
すると阿鍵さんから提案があった。
「それをやるなら、あと一週間待って欲しい」
「どうして?」
「どうしてって、排卵日から十日ちょっとじゃ妊娠したかどうかなんて分からないでしょ? 貴方、本当に女の子のこと知らないのね」
「ごめん……」
「まあ童貞っぽいし、仕方ないっちゃ仕方ないけど。私も生理が来ないフリして、ママになんとなくアピールしておくわ」
「そうしてくれると助かるけど、当日はできるだけご両親に衝撃を与えたい。僕も相当の覚悟でやるから、どうせやるなら最大限の効果が欲しい」
「まあ、そうよね。これってショック療法みたいなもんだしね……」
それから僕たちはラインを交換した。
決行日に向けて詳細を詰めるために。
「それで、場所はどうする? 家に来る?」
「それなんだけど……」
僕は、その日のために考えた場所を打ち明ける。
阿鍵さんも、その作戦に納得してくれた。
そして、決行の日はやってきた。
☆ ☆ ☆
「家の近くにこんなところがあったのね、知らなかったわ」
「すごいだろ? 七世紀の人たちにこんな優れた石工技術があったとは驚きだよ」
石室の外から男女の声がする。
隣りに立つ阿鍵さんが「来たわよ」と僕の脇を肘でつついた。
――いよいよだ。
僕はゴクリと唾を飲む。
六月になった最初の日曜日。
宝塔塚古墳の石室で待つ僕たちのもとに、阿鍵さんの両親がやって来た。
阿鍵さんから最初に手紙をもらってから二十日目、二人で作戦の相談をしてから十日目のことだった。
薄暗い石室の中からは、シルエットになって両親の表情はよく見えない。
一方、両親からは僕たちの顔はよく見えるだろう。
これも作戦の一つだった。これから重大な告白をする身としては、相手の表情が分からない方がやりやすい。
さあ、始まるぞ。
この間の大芝居よりも大きな、今まで生きてきた人生の中で最大級の芝居が。
ドキドキと鼓動が激しくなって今にも心臓が飛び出しそうだ。
僕は大きく息を吸って、石室の中に入ってきた二人に声を掛ける。
「初めまして。僕は晴菜さんと同じクラスの九札帆高と言います。わざわざここに来ていただきありがとうございます。今日は大事なことを……」
「とその前に、何でこの場所を選んだのかね?」
出鼻をくじくように、父親が僕の言葉を遮る。
そして彼は、石室の天井を見上げた。
「ここが奇跡の間、だからか?」
――奇跡の間。
そんな言葉、初めて聞いた。
が、そう呼ばれるにふさわしい伝説は知っている。阿鍵さんからの話で。
そう、これが僕の考えた作戦だった。
今日両親に会う場所をここに指定したのも、奇跡を起こす場所だからだった。
「そうよ」
腕を組んで仁王立ちする阿鍵さんが冷たく答える。
「パパも晴菜も詳しいのね。私にも教えて頂戴?」
母親が彼女を見る。
すると「俺が説明しよう」と父親が解説を始めた。
「ここは七世紀、つまり千三百年以上も前の飛鳥時代に造られたんだ。これだけ精密に石を組み上げて造られた石室は他の県では滅多に見られない。それどころか、この県にはもっと巨大な古墳がいくつもあり、東日本ではナンバーワンなんだ。なんでこの県には、これほどまで古墳文化が栄えたんだと思う? 帆高クン」
いきなり振られてしまった。
今日は土下座して、殴られて、それで終わると思っていたのに。
きっと父親は僕のことを試しているのだろう。話を聞くに値する男かどうかを。
だから僕は知恵を絞る。これほどまで瞬間的に思考を巡らせたのは、高校入試以来かもしれない。
「巨大な権力を持つ支配者がいたから、でしょうか?」
父親は「ほお」と頷きながら、僕の表情を観察している。
古墳といえば、西日本では超巨大な前方後円墳や、巨石を積み上げたものを連想する。
そんな構造物は、権力が無ければ造り上げることはできないだろう。
それならこの県の古墳だって、同じことが言えるはずだ。
「それもあるかもしれない。しかしここは東国だ。東国の中でもこの県は大陸にアクセスしやすかった。大陸文化や、埴輪の原料となる粘土が手に入りやすいなど、この県独特の風土が影響したのではないかと考えられている」
そんなことが影響しているんだ……。
現代のように電車も飛行機も無かった時代だ。地の利がそこで暮らす人々の生活に大きく影響したことは十分考えられる。
「そして、この石だ」
父親は壁に近づき、岩肌を手で確認し始めた。
「これは溶結凝灰岩だ。これほどまでに加工しやすい石は火山の近くでしか採掘することができないんだよ。だからG県は東国ナンバーワンの古墳県になったと私は考えている。そして築造当時、この壁面には漆喰が塗られ、壁画が描かれていた」
父親は再び石室の天井を見上げる。
かつて、阿鍵さんが僕の前でそうしたように。
そして彼女から聞いたのと同じ言葉を、彼は唱え始めた。
「天に星、地に花、人に愛。この三つが揃う時に奇跡が起きる。そんな願いを込めて、この石室は造られたんだ」
僕はようやく理解した。
阿鍵さんが僕に披露した知識は、父親からの受け売りだったんだ。
そういえばあの時、「パパから」って言っていたような気もする。
だったら、この『奇跡』を利用してやろう。
僕は頭の中で用意していたセリフの言葉を、『奇跡』に置き換える。
そして再び、大きく息を吸った。
☆
「僕たちもその奇跡を願っています! 一つは、晴菜さんのお腹の中にいる僕たちの子供がすくすくと成長することを! そしてもう一つは、おじいちゃん、おばあちゃんとしてお二人に末長くその子の成長を見守っていただけることを!」
僕は石室の床にひざまづき、深々と頭を下げた。
本当は順序立てて説明する予定だったが、インテリ風の父親にはそれは無用と僕は直観した。間を置いて隙を与えれば、きっとさっきのように質問攻めに遭うに違いない。それならば、一気に事を片付けた方が良いと僕は判断した。
でも、初対面で「おじいちゃん、おばあちゃん」はちょっと失礼だったかも? 頭を下げながら僕は後悔する。
予定外の僕の行動に、阿鍵さんも同調してくれたようだ。横に感じる彼女の気配は、僕と同じように床にひざまづき頭を下げる仕草だった。
石室の中で沈黙が続く。
頭を床面につける僕にとってそれは、永遠に続くように感じられた。
すると父親の重い声が石室に響く。
「妊娠は確実なのか?」
僕が答えようとすると、阿鍵さんが先に口を開く。
「まだ検査はしてない。でも、予定日から一週間過ぎても生理が来ないの。だから早く知らせようと思って……」
「そうか。じゃあ、まだ確定じゃないんだな」
再び沈黙が訪れる。と突然、母親の笑い声が聞こえてきた。
「お、おばあちゃんですって。素敵じゃない? ねえ、あなた。あなただって、おじいちゃんになるのよ。もちろん大歓迎よね?」
「えっ? あ、ああ……」
戸惑いに満ちた父親の声、完全に同意していないのはあからさまだ。
一方、母親は嬉しそう。こんな反応は予想外だったが。
「ねえ、二人とも顔を上げて」
母親の声で僕たちは顔を上げる。
「恥を忍んで言うけど、私たち離婚するところだったの。だってこの人、それはそれはひどいことしてたんだから。帆高クンには決して言えないようなことをね」
どうやら離婚騒動は本当で、その原因は父親にあったらしい。
その証拠に、父親は厳しい表情のまま沈黙を貫いている。
「私は賛成よ。順番が逆になっちゃったのはちょっと残念だけど、これも因果応報なのね。ほら、あなた。私たちはもうおじいちゃんとおばあちゃんなんだから、諦めて何か言ってあげなさいよ」
すると父親がゆっくりと口を開く。
――言葉と一緒に拳が飛んでくるかもしれない。
そう覚悟する僕に、彼は低くて重い声で問いかけた。
「君は晴菜を愛しているのか?」
「はい、愛しています」
「晴菜はどうだ?」
「私も彼を愛してる。だからこの子を産みたい」
打ち合わせ通りのセリフだが、実際に阿鍵さんに言ってもらうと勇気が湧いてくる。
嬉しくて嬉しくて、夢じゃないかと思ってしまう。
しかし将来、こんな日が本当にやって来るのだろうか?
「子供が産まれた後はどうする?」
「高校を卒業したら仕事を見つけて結婚します。それまではどうか、お二人に子供の面倒を見ていただきたいのです」
「パパ、お願い。それまではまだ一緒に暮らせるでしょ?」
阿鍵さんは父親のことを熱く見る。
すると父親はふっと表情を崩した。
「わかった。それまではこちらの家で子供の面倒を見よう。それより、帆高クンのご両親はこのことを知っているのかな?」
「いえ、まだ話していません。まずは、お二人にご報告しなければと思って……」
「わかった。子供のことはこちらでなんとかすると伝えて欲しい。それでいいよな?」
父親が母親を向く。
「もちろんよ」
二人の同意。
それは僕たちのことが許され、さらに阿鍵さんの両親の離婚が回避された瞬間だった。
その時だ。
ゴオという地鳴りとともに石室の岩がガタガタと揺れ始める。
「地震だ!」
「危ない!!」
阿鍵さんを守らなくてはと思った僕は、ひざまづく体勢から上半身を起こす。
慌てて隣りを見ると、彼女の上にはすでに父親が覆いかぶさっていた。
そして二人は見つめあっている。まるで別れを惜しむかのように。
まあ、実際には阿鍵さんは妊娠していないのだから、まだまだ別れは訪れないのだけど。
地震はすぐに収まり、皆で慌てて石室の外に出た。話もそこで終わりとなった。
僕の作戦は見事に成功したのだ。
おそらく後日、阿鍵さんは両親と一緒に妊娠検査をして陰性が判明するだろう。
それでいいのだ。実際、彼女は妊娠していないのだし、それにも関わらず僕たちの関係は阿鍵さん両親の公認となった。これは僕にとって、ものすごい一歩なのだ。
妊娠していないことが判明したら、彼女の両親にまた離婚の危機が訪れるかもしれない。いや、そうならないよう僕が間に入らなくちゃいけないのだ。阿鍵さんがこの地から離れて行かないように。
それにしても、こんなに上手くいくとは思わなかった。
父親に「どこの馬の骨」とののしられ、ドラマのように殴られることも覚悟していたのだが。
母親の反応も意外だった。阿鍵さんの妊娠に戸惑うどころか、逆に歓迎しているようだったじゃないか。まあ、そのおかげで父親の態度が軟化したので、本当に助かった。
阿鍵さんの両親に同意してもらった瞬間、地震が起きたのは驚きだ。
もしかして、あれが奇跡だったのだろうか?
すると、天の星と地の花、そして人の愛の三つが揃ったということになる。
両親の離婚が回避されたから、二人の愛が復活した――とか?
まさか、阿鍵さんの中で僕への愛が芽生えた――てなことは、ないだろうな……。
そもそも、父親がしていた「僕に言えないひどい事」って何だったんだろう?
ギャンブル? それとも浮気?
まあ、余計な詮索は止めておこう。今のところ作戦は上手くいっているのだから。
あとは僕の両親だけだ。父ちゃん母ちゃんへの説明が済んだら、阿鍵さんと恋人らしい関係を一から築いていこう。
これですべてが上手くいく。
来週末になったら、阿鍵さんをどこかに誘ってみようかな?
学校で会うのもなんか楽しみだ。だって二人だけのすごい秘密ができたのだから。クラスメートは誰も知らない、僕たちだけの秘密が。
僕は、来週からの高校生活に胸を膨らませ始めた。しかし――
数日後、阿鍵さんの妊娠が明らかになったんだ。
☆ ☆ ☆
(どうして、阿鍵さんが妊娠……?)
阿鍵さんの両親から連絡が入った時、僕は自分の耳を疑った。
それは到底受け入れられるものではなかったから。
それもそのはず、僕は阿鍵さんとセックスしていない。
(じゃあ、子供の父親は……誰?)
僕は考える。
彼女の母親が言っていた「僕に言えないひどい事」の意味を。
そして地震の後での阿鍵さんと彼女の父親が見せた親密ぶりの理由を。
これらを彼女の妊娠と結び付けるとすれば、たどり着く真相は一つだった。
(まさか、阿鍵さんと彼女の父親が……??)
そんなことってあるだろうか?
でもそうとしか思えない。
――自分の夫と娘が関係を持っていた。
それを知った母親が離婚を決意し、父親と阿鍵さんとを引き離そうとするのはごく自然な流れのような気がした。
僕が告白した時に母親が喜んでくれたのは、その悪しき関係を断ち切ってくれると判断したからだろう。
(じゃあ、妊娠のタイミングは?)
僕が阿鍵さんから手紙をもらった日の直前に違いない。
おそらく父親との関係中に、避妊に失敗してしまったのだろう。
困った阿鍵さんは、教室の中でカモになりそうな男を探したんだ。彼女の両親とトラブルになりそうもない真面目そうな生徒を。
告白の時の父親の様子もあっさりし過ぎていた。
きっとそれは避妊失敗の負い目があったからに違いない。父親にとって僕は救世主に見えたことだろう。
(もし僕があの日、阿鍵さんとセックスしていたら???)
これが最初の阿鍵さんの目論見だったのだろう。
考えれば考えるほど、泣きたくなってくる。
自分で言うのもなんだけど、こんなに純粋な男子高校生の心を弄ぶなんて最低最悪だ。
――お腹の中の子供を愛することができる?
あれは僕に向けられた言葉ではなかった。彼女自身に対しての問いかけだったんだ。
それなのに僕はあっさりと信じて、両親に謝罪までして。
もしあの時阿鍵さんとセックスしていたら、僕は自分の子と疑わずに他人の子を育てていたかもしれないんだ。
(だったらその奇跡を使って、阿鍵さんと一緒に……)
阿鍵さんを憎めたらどんなに救われただろう。
でもそれはできなかった。だって僕は阿鍵さんが大好きだから。
あの日、僕に見せてくれた涙。
そして、偽りだとしても、一緒に子供を育てたいと両親に誓ってくれた言葉。
今の僕にはそれで十分だ。それを胸に、あの場所で奇跡を起こしてみよう。
幸い、彼女の妊娠は僕と彼女の家族だけの秘密で、まだ公にはなっていない。
僕は自分の両親にもまだ話していなかった。妊娠していないことが明らかになってからの方が、両親にショックを与えずに済むからだ。
が、いずれ阿鍵さんの妊娠は誰もが知る事実となるだろう。それまでに何とかしなくてはならない。
だから僕は準備を進める。
全世界に向けての遺書を書き進めて、さらに図書館に行って奇跡のもとになった言い伝えを探した。
彼女があの日僕に語った奇跡に酔いながら、あの世に逝けるように。
そして誰も傷つかない偽の真実が、この世の中に残るように。
準備が整った六月の終わりの日曜日、僕は古墳に阿鍵さんを呼び出した。
☆
その日は、梅雨晴れだった。
奇跡を願う人生最期の日を、最高の青空が祝福してくれる。
僕は一人、宝塔塚古墳の石室で阿鍵さんを待つ。
思えば、ここでいろいろなことがあった。
天井の星の絵、床面の花の絵、そして突然のセックスの誘い。
阿鍵さんの両親に対しても大芝居を打った。それもこれも今日ですべてが終わる。
すると一人の人影が石室の中に入ってくる。
シルエットで大好きな顔や私服姿が見えないのが残念だが、背や格好、そしていつもの香りで阿鍵さんとわかる。
「真実を教えて欲しい」
僕はいきなり阿鍵さんに問いかけた。
彼女もここに呼ばれた意味を理解しているはずだ。その証拠に、彼女はお腹に手を当てながら僕を見る。
「この子の父親、ってことよね?」
「そうだ」
阿鍵さんは一度下を向いて一息吸うと、意を決したように話し始めた。
「パパよ。以前から関係を持っていたの」
やはりそうだったのか。
彼女は僕が驚きを見せないことを確認すると、さらに言葉を続けた。
「ずっとパパの子供が欲しかった。でもパパは、私のこと娘としか見てくれない。だからこうするしかなかった……」
ぽろり、ぽろりと涙をこぼし始める阿鍵さん。
やっぱり僕を出汁に使うつもりだったんだ。
父親と彼女との子供を、何も知らない僕に育てさせようとしたことは許せない。
「両親はこのことを知ってるのか?」
「知らないわ。お腹の子供は、本当に貴方との子と思ってる。だからお願い。貴方と私が黙っていれば、すべてが上手く行くの。誰も不幸にならない唯一の選択肢なの」
それじゃ僕が不幸なんだよ。
でもそんな展開って昔ドラマで観たことがある。好きな女性のために、自分を犠牲にするという展開。他人の子供を自分の子供と周囲に偽って、育てていくんだ。
僕だってそんな聖者になれるのだろうか。阿鍵さんをもっと愛するようになれば。
そしてその子供を、心穏やかに一緒に育てていくことができるのだろうか。
大好きな阿鍵さんの瞳から涙が止まらない。
きっとこの涙は本物なのだろう。だって、僕が一番苦しむ選択を突きつけているのだから。
阿鍵さんは「お願い」と懇願しながら僕に近づいてきた。
きっとこの肩を引き寄せれば、僕の決心は揺らぐだろう。
だから僕はセットしてきたんだ。全世界に向けた遺書が、この時間に発信されるように。
僕の決心が揺らがないように。
「ねえ、阿鍵さん。ここで起きたサキとロクの物語って知ってる?」
すると彼女は、真っ赤な瞳を僕に向ける。
「えっ? サキとロク? 知らない……けど」
「じゃあ、最期に話してあげる。奇跡を願った男女の物語を」
それは、この古墳が築造された時の話。
古墳を造った権力者の娘サキは、農家の六男ロクと恋仲にあったという。
身分の違う二人は愛し合いながらも、決して一緒になれないことを憂う。
ある日、隣りの村への嫁入りを告げられたサキは、ロクをこの石室に呼び出した。一緒に死のうと、刃物を持って。
その時、奇跡が起きる。地震がこの村を襲ったのだ。
ロクは必死にサキのことを庇う。ロクはサキのことを本当に愛していたからだ。
実はサキは疑っていた。サキに好意を見せるロクの言葉や行動を。
しかしロクの愛は本物だった。そう、この奇跡の間は、星と花と愛の三つが揃うと奇跡が起きるのではなく、人の愛を確かめるための奇跡が起きる場所だったのだ。
真実の愛を確かめ合った二人は決意する。二人の愛が永遠になることを。そして刃物を使ってこの場所で一緒に最期を遂げた。
「この間、ブラックライトで見せてくれたでしょ? 床面が紫色に光るのを」
阿鍵さんは静かに頷く。
僕の話に聞き入っていた彼女の涙は、すっかり乾いていた。
「花が描かれていたのは周囲だけで、真ん中は大きな草むらみたいになってたじゃない。あれってサキとロクの血だったんじゃないのかな。ブラックライトは血痕にも反応するんだよ」
そして僕はナイフを取り出した。
かつてサキがしたように。
「ここで一緒に死のう、阿鍵さん」
彼女の表情がみるみる凍りついた。
☆
「ちょ、ちょ、ちょっと待って。死ぬってどういうこと?」
「そのまんまの意味だよ。僕は君を殺して、自分も死ぬ」
阿鍵さんは入口目指して走ろうとしたが、それを予測していた僕は素早く彼女の前に立ち塞がった。
入口からの光を浴びて、彼女の美しい顔が恐怖に歪むのがよくわかる。
「ごめんね、綺麗な顔をそんなにさせちゃって。すぐ済むからちょっとの辛抱だよ」
「ねえ、考え直して。私たち結婚するんだよ。この子が産まれてから、二人で次の子供を作ればいいじゃない?」
「それじゃダメなんだ。それまでの間、僕は自分が正常心でいられるか自信がない」
虐待死のニュースを見かけることがある。
再婚した奥さんの連れ子を、新しい夫が虐待して殺してしまうケースだ。
そういう事件を起こす人は、その人の人格に問題があるんじゃないかとずっと思っていた。
でもそれは違うのかもしれない。だって今の僕がそうだから。
もちろん僕の人格に問題がある可能性も考えられる。だけど何だろう、この本能の奥底から湧き上がってくる感情は。
ライオンも子殺しをすると聞いたことがあるけど、なんだか分かるような気がする。もしかしたら、有性生殖を行う動物がこの世に誕生した時から遺伝子に組み込まれている感情なのかもしれない。
「もし、君の言う通りになったとしても、僕はその子を虐待してしまうかもしれない」
「嫌、この子は絶対殺させない!」
ボロボロと涙を流しながら、手でお腹を庇おうとする阿鍵さん。
その瞳は力強く、僕は負けそうになってしまう。
「それにね、阿鍵さん。もうスイッチは押されてしまったんだ」
「スイッチって?」
「僕はね、SNSに自動投稿されるようセットして来たんだ。僕は阿鍵さんと一緒に死ぬという遺書を。だからもう、引き下がれないんだ」
「お願い、私の命は貴方にあげるから、この子だけは、この子だけは……」
大きく息を吸う。
ありがとう、僕を産んでくれた母ちゃん、育ててくれた父ちゃん。
そして素敵な笑顔を見せてくれた阿鍵さん。
十七年の人生だったけど、僕は幸せでした。
そして僕は、ナイフを振り下ろした。
☆ ☆ ☆
「パパ、ママ。これから詩真と一緒に古墳に行ってくる!」
「お兄ちゃん待って! 今日はお兄ちゃんと一緒に石室の探検をするんだ」
そう言いながら子供たち、貴竜と詩真は玄関で靴を履いている。
「夕方にはちゃんと帰ってくるのよ」
二人に上着を着せてあげているのは、僕の妻の晴菜だ。
あれから十年。
僕たちは結婚して、四人家族になっていた。
「お兄ちゃんね、パパやママみたいにお祈りの練習してた。だから詩真も、お兄ちゃんと一緒に石室でお祈りするの」
「じゃあ、パパも一緒に行くか」
「ホント? 一緒に芝滑りもしよ!」
「ああ、負けないぞ」
結婚してから僕たちは、宝塔塚古墳の近くの中古住宅を購入した。
だから、あの古墳は子供たちの遊び場なのだ。
芝が敷き詰められた円墳で滑って遊び、石室の中を探検する。
そして僕たちは、石室に入るとき必ず祈りを捧げる。
あの日、あそこで失われた一人の命のために。
ナイフを振り下ろしたあの時、阿鍵さんは急に苦痛に顔を歪ませる。
まだナイフは当たっていないというのに。
「赤ちゃんが、赤ちゃんが……」
床面に座り込んだ阿鍵さんは、下腹部を押さえながら号泣し始めた。
「流れちゃった……」
そう、あまりの恐怖のために、彼女は流産してしまったのだ。
と同時に、僕の中から確固たる決意がひゅるひゅると抜けていく。
永遠の愛、石室の奇跡、そんなことを堂々と掲げていた自分が急に馬鹿らしくなる。
遺書を投稿していたことも忘れて、僕は阿鍵さんと一緒に泣き出したんだ。泣いてないとやってられない感情が次から次へと溢れ出て来る。
それから彼女を病院に連れて行って、一人で自宅に戻ると、警察やら高校の担任やらが押しかけていて大変なことになっていた。両親が涙を流して喜んでくれたことは嬉しかったけど。
もちろんそれは、僕が投稿した遺書が原因だった。
えっ? 遺書に何を書いたかって?
忘れたくてしょうがないから、もうあまり覚えてないけど、こんな内容だったかな。
僕は阿鍵さんが大好きだ。
だから子供ができてしまった。
どうしていいのか分からないから一緒に死ぬ。
最初はね、いろいろと細かく書いてたんだよ。
でもそうすると、誰かが悪者になってしまう。
誰も悪者にならない内容って、こうするしかなかったんだ。
シンプルイズベスト。今思えば、これが良かったのかもしれない。
そんなおバカ遺書のおかげで、僕たちは散々な目に遭った。
クラスメートがみんなでそう判断したのか、担任に言われたのかは分からないが、学校に行っても僕たちを責めたり、からかったりする人はいなかった。その代わり、みんなが口々に言うんだ、「結婚すれば?」って。
遺書を投稿したSNSだって、肯定的なリプの多くが「死ぬな!」「ケコーンしろ」だった。
だから僕たちが十八になった時、二人は結婚したんだ。
大学も行ってみたかったけど、新型コロナの影響がまだ残っていてリモート講義ばかりになってしまったキャンパスライフに魅力を感じられなかった僕たちは、お互い別々の場所に就職することにした。
僕は童貞夫として、一から阿鍵さんの愛を積み上げることにしたんだ。
それはそれは、大変な夫婦生活だったよ。阿鍵さんはなかなか心を開いてくれなかったから。寝る部屋も別々だったし。
なんかそんなドラマがあったよね、契約結婚みたいな。
僕たちもそんな感じだったんだ。阿鍵さんの両親が離婚しないための契約――そんな風に捉えて、僕たち二人の結婚生活はドライに始まった。
それでもやっていけたのは、一つの確信があったからだと思う。
阿鍵さんは必ず、子供を大切にしてくれるという。
だってあの時、彼女は決して中絶を取引材料にしなかった。自分の命が危機に瀕している時でさえ必死に子供を守ろうとした。
その時感じたんだ。彼女の想いに比べたら、僕の意思なんてすごくちっぽけなものなんだって。彼女への想いを、もっともっと積み上げていかなくちゃいけないんだって。
ようやく阿鍵さんが心を開いてくれた時、僕たちは初めて結ばれた。
その時、心の底から思ったんだ。ああ、この人との子供が欲しいって。
これこそが、あの時彼女が言っていた「愛」だったんだ。
僕は絶対、この子供を愛する。そして彼女も、この子供を愛してくれる。
それは本当に、幸せな幸せな瞬間だった。
「天に星」
「テンニホシ」
「地に花」
「チニハナ」
「人に愛」
「ヒトニアイ」
僕の後に続いて復唱する子供たちの声が愛おしい。
初めてこの石室に訪れた時は、こんな未来がやって来るとは思わなかった。
あの日の奇跡――と言ったら怒られるだろう。
だって、一人の罪のない子供の命がこの場所で失われたのだから。
だから言い換えよう。失われた奇跡ではなく、僕たちが生きている奇跡、大好きな人と一緒になれた奇跡、そして二人の子供を授かった奇跡だと。
奇跡は今日も、古墳の中で眠っている。
おわり
ミチル企画 2020-21冬企画
テーマ:『天に星』『地に花』『人に愛』
前を歩く幼馴染のサキに思わず声を掛けた。不安に声を震わせながら。
「平気よ。だって私の父が作らせたものなんだから」
振り返るサキは僕の目を見る。
それはいつもと違う、決意に満ちた眼差しだった。
集落から離れた丘に、その場所はあった。
人工的に土が盛られた巨大なその丘は、綺麗な円形に整地されており、広さは田んぼ一反ほどもある。
驚くべきはその麓に見える構造物だ。
石を積み上げて作られた、人が三人並んで入れる程の大きさの洞窟。その入口がぽっかりと口を開けている。
「父が死んだ時、この中に埋葬されるの」
サキの父は、僕たちの村の長だ。
村人を集めて数年かけて何かを作っているのは、そこで働いたことのある父さんから聞いていた。が、こんな近くに寄るのは初めてだった。
僕はドキドキしながら、洞窟の入口をくぐるサキの後に続く。
するとそこは石造りの部屋になっていた。
「うわぁ、素敵な場所だね」
「でしょ?」
石で組み上げられた神秘的な空間。
サキが松明に火を付けると、壁面に描かれている絵が炎に照らされて浮かび上がる。それは僕たちの村の風景を描いたものだった。
見上げると巨大な岩が見える。天井は三枚の大きな板状の岩で構成されていて、全面が青く塗られ、数多の星が描かれていた。
「あれ、柄杓星だね」
僕は見覚えのある星を指差した。
「そうよ、綺麗よね。でもこの部屋が素敵なのは、天井だけじゃないの」
するとサキは松明を床に向ける。
天井と同様の板状の大岩が敷かれている床面には、色とりどりの花が描かれている。
「すごい、すごい……」
僕たちはこの村の自然を模した空間に立っていたのだ。
ため息を漏らす僕のことをよそに、サキは松明を両手で持っての顔の前に火をかざし、祈りを捧げるように静かに目を閉じる。そしてゆっくりと呪文のような言葉を口にした。
「星在天、花在地、愛在人……」
照らされるサキのふっくらとした横顔。
目を閉じて祈りを捧げる姿は、村で一緒に暮らしてきた十五年間で一番美しい彼女だった。
子供だけでは来てはいけない場所であることをすっかり忘れて、僕は彼女に見とれてしまう。
やがて目を開けたサキは、神妙な顔で僕を向く。
「天には星、地には花、そして人には愛。この三つが揃った時、奇跡が起きるんだって」
君がここに居ることが奇跡だ。
そう言いたくなる気持ちをぐっとこらえる。
サキは村の長の娘、一方僕は小さな農家の六男。
お互い十五となった今、こうして二人で一緒にいることは決して許されない行為だった。
「父は真剣に信じてるの、その奇跡を。だからここに埋葬して欲しいと願ってる。笑っちゃうでしょ?」
でもそれは素敵なことだと思う。
農家に生まれた自分たちには、決して実現することのできないことだから。
死後の世界にも夢を持てるのは、限られたごく一部の人たちだけなのだ。
「それにね、もしそうだったら今ここで奇跡が起こるはずじゃない? だって私たち、愛し合ってるんだから」
ええっ!?
愛し合ってるって?
いやいや、僕はサキと手を繋いだことも……って、それはあるけど、それ以上のことをしたことはない。
「なに? その表情は。ロクは私のこと愛してないの?」
「愛してるって、そんなのいきなり訊かれても分からないよ。サキは僕にとって大切な人だけど」
「ははーん、父のことが恐いんでしょ?」
「恐いとかそういうことの前に、身分が違いすぎるよ」
「父に逆らって、私のこと奪いたいって思ったことないの?」
「奪いたいって……」
サキはなんで、いきなりこんなことを言い出すのだろう?
僕が困惑の表情を浮かべると、彼女はぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「この間、父に言われたの。となり村の長の家に嫁ぐようにって……」
僕たちの村では、女の子は十五でお嫁に行くことになっている。
それは前からわかっていて、サキの相手は自分ではないことも理解していたつもりだったが、いざ彼女の口から聞くとショックだった。
「い、いつなの?」
「次の満月の日だって」
な、なんだって!?
槌で頭を殴られたような衝撃を受ける。
ということは、あと数日でサキはいなくなってしまうんじゃないか。僕の近くから、永遠に。
今なら手を伸ばせば届く美しい彼女の表情も、もう見れなくなってしまうのだ。
ぎゅっと締め付けられるような胸の痛み。その穴の存在を見つけたかのように、サキが僕の胸に飛び込んできた。
「私、お嫁に行きたくない。ロクのそばにずっといたい……」
だからサキは奇跡を願っていたのか。
僕だって奇跡を起こしたい。それにはどうしたらいいんだろう?
床に落ちた松明の火を見つめながら、胸の中の大切な存在をこの手の中に収めていいものかどうか、僕は迷っていた。
「ねえ、ロク。私のこと抱いて」
「抱いてって……」
「私のこと好きじゃないの?」
「そ、そりゃ、サキのことは大好きだけど」
「じゃあ二人で奇跡を起こしましょ! 私はロクのことを愛してる。あなたが自分の気持ちを解放してくれれば、きっと奇跡は起きる」
そんなこと言ったって……。
僕だってサキとお別れしたくない。
でも現実を見れば、それは無理だということはわかる。僕たちは大人になろうとしてるんだから。
「ロクが私のこと抱いてくれなかったら、私は今ここで死ぬ」
サキは僕から離れ、帯に挟んであった刃物を取り出した。鋭い切先が、僕に選択を突きつける。
「先にあなたを殺してからね」
彼女の真剣な眼差し。
この石室に入る前にちらりと見せた決意は、このことだったんだ。
だから僕も覚悟を決める。
「僕もサキのことが好きだ。愛してる」
刃物をぎゅっと握りしめる彼女に手を差し伸べる。
そのとたん、彼女の顔を覆っていた緊張が剥がれ落ちた。手からするりと刃物が落ちて、カランと石室に甲高い音が響く。
僕は彼女のことをしっかりと抱きしめた。
「私も。ロクのことを愛してる……」
その時だ。
ゴオという地鳴りとともに石室の岩がガタガタと揺れ始め、そして――
☆ ☆ ☆
「あー、たいくつだなぁ……」
G県M市の五月の空は、今日も快晴だ。
僕、九札帆高(くさつ ほたか)は、数学の授業をぼおっと聞き流しながら教室の窓に目を向けていた。
白い雲、青い空。河岸段丘の上に建てられた我が高校の校舎の三階からは、大河川に沿って点在する街のビル群を遠くまで見渡すことができた。
サイン、コサイン、タンジェント……。
教室に響く先生の声と、数学の謎呪文が、窓から見える街並みに向かってすうっと飛んでいく。
うーん、さっぱり分からないし、理解しても何に使えるのか全く見当がつかない。
母ちゃんだって使ってるとこ見たことないし。
僕は机に突っ伏し、寝たフリをする。
数学の時間の唯一の楽しみと言えば、薄目の視界の隅に映る彼女の姿だから。
窓側の席に座るクラス一の美少女、阿鍵晴菜(あかぎ はるな)。
斜め前、といっても横横前の位置関係だから、首をかなり横にしないと彼女の御姿を崇めることはできない。
授業中にその姿勢を取るためには、あからさまに寝ている生徒が多い数学に限るのである。
「いつ見ても、可愛いなぁ……」
肩にかかる黒のストレートヘア越しに、ちらりちらりと見える彼女の横顔。
眉は細すぎず、つぶらな瞳を二重のまぶたとぷっくりとした涙袋がより魅力的なものにしている。
何よりも好きなのは美しい鼻筋のライン。目を閉じれば、その輪郭をそらんずることができるほどに。
血色の良い唇に、すっとした顎。そして僕は、制服のなだらかな丘に視線を移す。
それほどの阿鍵さんなのだが、誰かと付き合っているという噂を聞いたことがない。
高校二年生にもなれば、クラスの可愛い女の子は皆、誰かと付き合っているという状況なのに。
かといって、自分から声を掛けることなんて考えられないくらい僕はヘタレだっだ。一年生の時も同じクラスで、二年生でも一緒になれた時はめちゃくちゃ嬉しかったのだが。
「あーあ、アニメや小説だったら、委員会とかが同じになるんだけどな……」
僕は図書委員。
一方、阿鍵さんは美化委員だ。
いやいや、彼女だって図書委員だったんだよ、一年生の時は。
だから二年生になったら僕も図書委員に立候補したっていうのにさ。
『ねえ、帆高くん? サン=テグジュペリとか武者小路実篤っていいよね!』
なーんて言われたら、めちゃくちゃ会話が弾んですぐに仲良くなれるのに。
そんなことを夢見た高校二年生は、出鼻で挫かれてしまったんだ。
阿鍵さんを見ているのが大好きな僕に、ある日、奇跡のような出来事が起きた。
朝、教室に着くと、机の中に一通の手紙が入っていたのだ。
――阿鍵晴菜。
その名前を目にしたとたん、僕は慌てて手紙をカバンに隠す。
(まさか……。でも、どういうこと?)
様々な憶測が僕の脳を支配する。当然その日は、授業どころではなくなってしまった。
そりゃそうだ、大好きな阿鍵さんからの手紙を受け取ってしまったのだから。
その日はずっと彼女の存在が気になってしまう。気がつくと、視線は彼女の後ろ姿を追っている。
しかし、休み時間になっても、昼休みになっても、彼女が僕を気にする素振りは全くないのだ。
手紙を出したのなら、ちょっとは意識してくれてもいいと思うのだが……。
(もしかして、誰かのいたずら……とか?)
その可能性は十分考えられる。
僕は誰のグループにも属さないクラスでも浮いた、いや沈んだ存在。ターゲットにするなら格好の標的だろう。
もし犯人がこのクラスにいるのなら、ニヤニヤしながら僕のことを眺めているに違いない。急に挙動不審になった僕の様子を。
そう思った瞬間、放課後まで冷静でいるように心がけた。こんな卑劣なことをする奴に、決して燃料を与えてはいけないのだ。
ホームルームが終わると、僕は何もなかったかのように教室を後にする。手紙が入ったカバンを掴んで。
そして理科室やら音楽室やらが並ぶ人気のない階のトイレに入ると、個室に籠もってその手紙を開けた。
『今日の午後五時、宝塔塚古墳に来て』
手紙の内容は、これだけだった。
(はたして、その場所に姿を表すのは誰だ!?)
考えられるのは、阿鍵さんか、他の誰かか、もしくは誰も来ないか。
ということは、ということは、阿鍵さんが来る確率は三分の一ってことじゃないか!
確率が三分の一もあるなら行くしかない、と数学オンチな僕は即刻行くことを決意したのであった。
一応なにかあった時のために、家族ラインに『宝塔塚古墳で死後の世界を覗いてくる』とささやかな遺書を残して。
(ていうか、宝塔塚古墳って何? それって、どこにあるの?)
転勤族だった父のせいで、僕の家は引っ越しが多かった。
今住んでいるこのM市だって、中学生の時に引っ越してきたばかりなのだ。
だから、あまりこの街のことは知らなかったりする。
しょうがないので僕はスマホを取り出し、『宝塔塚古墳』について調べ始めた。
――G県M市にある七世紀末築造の円墳。
――直径三十メートル高さ五メートルで、切石切組積みの両軸型横穴式石室がある。
すげぇ、ちゃんとネットに載ってるじゃん。
それに思っていたより高校から近い。二キロくらいだから、歩いても五時までには余裕で着けるだろう。
「古墳で待ち合わせなんて、なんて古風な人なんだろう。阿鍵さんって」
ネットに掲載されている魅力的な古墳の写真。
それを眺めているうちにすっかり古代のロマンで頭が一杯になってしまった僕は、いたずらの可能性をころっと忘れて古墳に向けて歩き出した。
宝塔塚古墳は、住宅街の真ん中にあった。
古墳はこんもりとした森に囲まれているもの――とばかり思っていた僕は拍子抜けする。
円墳の側面は芝生になっていて、頂上部だけに木々が生えている。つまり、住宅街の中にある巨大な芝生丘公園という感じなのだ。
が逆に、それは好都合かもしれない。住宅が近くにあるなら、何が起こっても大声で助けを呼ぶことができるだろう。
ひとまず身の安全を確認した僕は、ネットに載っていた石室に行ってみる。
それは予想を遥かに超えた、立派な構造物だった。
「すげぇ、なんかピラミッドの中みたいだよ」
ピラミッドなんて行ったことないけど。
でも、テレビでよく見るような石造りの構造が、圧倒的な存在感で僕の目と心を奪っていた。
しかもこの古墳は、石室の中に自由に入れるらしい。
「おじゃまします……」
しずしずと石室に足を踏み入れる。
古墳といえば、古人(いにしえびと)のお墓だ。
この中に、かつて遺体が安置されていたことは紛れもない事実なのだ。
そんなところでいたずらに遭うのも嫌だが、死者の霊に取り憑かれるのはもっと怖い。
僕は心を神聖な気持ちで満たしながら、中に進んでいった。
「それにしてもすごい。こんなところが近くにあったなんて……」
中に入ると、石造りの構造のすごさがよく分かる。
幅二メートル、高さ二メートルくらいの空間。そこは、見事なまでに角型に加工された石で囲まれていた。
側面の石は、互いがぴったり合わさるように加工されていて、隙間はほとんどない。
天井に至っては、三枚の巨石によって構成されていた。
「こんな巨石、七世紀の人たちが、どうやって加工して、どうやって運んで来たんだろう……」
その時だった。
すっかり石室に夢中になってしまった僕は、不覚にも背後に迫る人の気配に気づかなかったのだ。
「早かったのね、九札帆高クン」
振り返るとそこには、制服姿の阿鍵さんが立っていた。
☆
「来てくれて、ありがとう」
阿鍵さんは無表情のまま僕の目を見る。
「まあ帆高クンなら来てくれると思ってたけど。あれだけ毎日、私のこと見てるんだから」
僕のことを小馬鹿にするようなセリフを吐きながら。
ていうか、いつも彼女を眺めていたことがバレバレだったなんてめちゃくちゃ恥ずかしい。
それよりもなによりも、大好きな阿鍵さんがこんにも近くにいて、いい香りが鼻をくすぐることに僕の心臓はバクバクとフル回転を始めていた。
僕の身長は一七〇センチだが、阿鍵さんは一六〇センチもない。このままでは激しい鼓動が彼女の耳に届いてしまう。
が、彼女は僕の動揺なんか気に留めず、石室の天井を見上げた。
「ここ、すごいでしょ?」
「あ、ああ」
やっとのことで声を出す。
何を話したらいいのか、どうしたらいいのか、軽くパニクっていた僕には助け舟となる彼女の一言にほっとする。
というか、呼び出されたのは僕の方なのだが。
「古墳ができた頃はね、この壁一面に絵が描かれていたそうよ」
「へぇ~」
僕は壁画を見るふりをしながら壁に近づき、彼女との距離を空ける。これで少しは自分らしい行動を取れそうだ。
実際に壁に手を当てると、壁画があったとは思えないほどゴツゴツとした岩肌が露わになっていた。
「天井にはまだ痕跡が残っていて、これを当てると見れるの」
そう言いながら、阿鍵さんはバッグの中から何かを取り出す。
それは、掌に収まるくらいの懐中電灯だった。
「ブラックライトっていうの。紫外線を当てる装置」
そして彼女は、ブラックライトを天井に向けた。
「うわぁ」
思わず声が出てしまった。
なんとも幻想的な光景だったから。
薄暗い石室の天井が、ブラックライトを浴びて紫色に光り始めている。
それはかつて描かれていたと思われる絵柄、天に広がる一面の星空だった。
「すごい……」
ため息を漏らす僕に、阿鍵さんが解説を始める。
「このブラックライトを当てるとね、蛍光をもつ物質が反応するの。砕いて染料にしていた鉱物に、そんな成分が含まれていたんじゃないかってパパは言ってた」
北斗七星らしき星座も見える。
古人もこれを見上げていたと思うと、歴史のロマンを感じてしまう。
古墳ができた時代と変わらぬ星空。僕たちの時間は過去と繋がっている。
「これを僕に見せるために?」
「違うわ」
間髪入れず響く彼女の冷たい声。
急降下した声の温度に、やっちまったかと僕は後悔した。
「見て。床面にも絵が描かれていたの」
彼女は今度は床にブラックライトを向ける。
床の大岩の中央には大きな草むらのような塊が紫色に浮き上がり、その周囲にたくさんの花々が描かれていた。
しかし不思議だ。
これを僕に見せることが目的ではないというのに、なぜ僕をここに呼んだのだろう? わざわざブラックライトを持参して。
頭の中をはてなマークで一杯にしながら阿鍵さんを見る。いつの間にか両手で包み込むようにブラックライトを手にする彼女は、ライトが照らす紫色の星々を見上げていた。
そして一息吸うと、静かに言葉を紡ぎ始める。
「天に星、地に花、人に愛……」
祈りを捧げるように。
これはなにかの儀式なのだろうか? 死者の魂を呼んでいる――とか?
それなら僕は、生贄ということになる。
「ねえ、帆高クン。この言葉知ってる?」
「確か武者小路実篤、だったっけ?」
「さすがね。一般にはそう言われている。でもね、この地に古くから伝わっていた言葉でもあるの。この古墳ができた時にはすでにね」
ネットには確か、この古墳は後期の築成で七世紀と書いてあった。
千年以上も前からこの言葉がこの地に伝わっていたとは驚きだ。
「武者小路実篤の場合、色紙に好んで書かれたのがこの言葉だった。つまり彼にとっては描写の一つだったんだと思う。でもこの地に伝わる言葉は、別の意味で使われていた……」
いにしえから伝わる言葉。
それは意味を持って使われていたという。
一体どんな使われ方をしていたのだろう?
ただでさえ美しい阿鍵さんがブラックライトを持つ姿が巫女のようで、僕には神々しすぎてゴクリと唾を飲んだ。
「この三つが揃う時、奇跡が起きるんだって」
そのことで、僕がとんでもない災難に巻き込まれることを知らずに。
☆
「帆高クン。貴方は私を愛することができる?」
いきなりの質問に戸惑う。
もちろん僕は、阿鍵さんが大好きだ。彼女の容姿を愛している。
が、彼女の人格まで愛せるかというと圧倒的に情報が足りない。
こんなにたくさん会話したのだって、今日が初めてなんだから。
一向に口を開こうとしない僕を見て、阿鍵さんはふっと口元を緩めた。
「あんなに私のこと見てるのに、結構意気地なしなのね。まあ、即答する軽い男よりは百倍マシだけど」
続けて彼女は、僕の心を鋭くえぐる言葉を投げつけた。
「まあ、私も貴方のこと好きでもないし、愛してもいないからお互い様だけどね」
ええええっ、そうなの?
――僕に好意を持っているから呼び出したんじゃないだろうか?
彼女がここに姿を現した時に芽生えた小さな期待は、無残にも粉々に砕かれてしまう。
しかしショックで打ちひしがれる間もなく、阿鍵さんは予想外の質問を始めた。
「じゃあ、言い方を変えるね。もし貴方と私との間に子供ができたとしたら、その子を愛することができる?」
いきなり何を言い出すのだろう? この人は。
僕は阿鍵さんと手を繋いだこともないというのに。
でもこの質問には答えることができそうな気がした。不思議な確信を持って。
「それって自分の子供ってことだろ? 自分の子供を愛さない親がいるのか?」
たぶん間違いなく、僕はその子を愛するだろう。
阿鍵さんとの子供なら、なおさらに違いない。
すると彼女は、僕の答えを待ちわびていたように不気味な笑顔を浮かべた。
「私もね、自分の子供を愛すると思う。私は愛する、貴方も愛する。だったら私と貴方の間に、その時愛が生まれるってことなんじゃない?」
何だよ、その論法。
A=B、B=Cなら、A=Cと言いたいのか?
数学オンチの僕だって、それがなんかおかしいってのは分かる。愛に適用するなんてことは。
時代が進むと愛もそんな風にデジタルになっちゃうのだろうか?
「だからね、ここで試してみたいの」
「試すって?」
「あら、今説明したじゃない。貴方の愛と、私の愛を一つにする方法。ここで奇跡を起こすためにね」
いやいや、全然分からないんだけど。
今からここで、恋愛数学の授業をやろうって言うのだろうか?
「まだ分からないの? セックスするのよ、ここで。二人が絶頂に達した時、互いに「子供が欲しい」って思ったら、それは愛だと思うの」
な、なななな、何を言ってるんだ、この人は!?
セ、セ、セックス!? 僕と阿鍵さんが?
そもそもそれは、まず手を繋いで、デートに行って、キスをして、抱きしめて、そうして初めて行える行為なんじゃないの?
それをいきなりセックスって、そんなの出来るわけないじゃないか。
どう反応していいのか迷う前に、僕の顔は真っ赤になっていたに違いない。
一方、阿鍵さんは真顔で僕のことを観察している。男の僕だって恥じらうその言葉を、顔色一つ変えずに発音できる彼女って、一体何者なんだ?
「そんなの、いきなり出来るわけないじゃないか」
「あら、気にしなくていいのよ。私、処女じゃないから」
「そ、そ、そういうことじゃなくて」
「貴方が初めてならやり方くらい教えるわ。それとも何? 本当に子供ができるか疑ってる? 大丈夫、今日あたりが排卵日だからバッチリよ。ってまさか、まだ精通してないってことはないよね?」
「な、ななな……」
僕は言葉を失った。
精通くらいしてるよ、と叫びたかったが、そういう問題ではない。
彼女の発言は僕の理解を遥かに超えていた。
刺激的な言葉のオンパレードで真っ赤になった顔をこれ以上晒したくない。その一心で、僕は彼女を拒絶する。
「そうじゃなくて、もっと自分を大切にしなよ。子供ができたら、学校休まなくちゃいけなくなるんだよ!?」
「と言ってる割には、下半身は正直みたいだけど?」
見ると僕の制服のズボンは壮大にテントを張っていた。
かあっと頭に血が上って、赤い顔がさらに紅潮していく。
理性では強く否定しているのに、本能に忠実な下半身が許せない。僕は慌てて股間に手を当てる。
「準備は万端なようね。じゃあ、始めましょうか」
と言いながら、阿鍵さんが制服のスカートの中に手を入れようとした時――石室の外から声が聞こえてきた。
『えー? この中に入るの?』
『大丈夫だよ、俺も一緒だからさ』
どうやら肝試しに来たカップルらしい。
スカートの中に手を入れるのをやめた阿鍵さんは、声のする入口を振り向く。
――今だ!
僕はここぞとばかりに彼女の手を掴むと、石室の外に向かって駆け出した。
☆
「あーあ……」
古墳が見えるベンチに腰掛けた阿鍵さんは、石室の入口を眺めながらぼやき始めた。
僕も少し距離を置いて同じベンチに座り、股間を隠すように膝の上で手を組んで、彼女と同じように恨めしそうに石室を眺めていた。
夕方六時近くになっても、五月の空はまだ明るい。
帰宅するサラリーマンや学生、犬の散歩やらで古墳の周りは人通りが増えてきて、石室の中で秘密の行為に興じるなんてことは不可能になっていた。
体の火照りが上も下も収まってきた僕は、一言、彼女に訊いてみる。
「なんで、あそこで奇跡を起こしたかったんだ?」
しかし彼女は何も返事をしない。
ベンチに座ったままで足をぶらぶらさせている。
怒っているのかと恐る恐る表情を伺うと、古墳を見つめてぼんやりしている。どうやら何か考え事をしているようだ。
すると突然、阿鍵さんは僕の方を向いた。
「もう一回同じ質問するけど、貴方は本当に自分の子供を愛せる?」
同じと言いながら、ちょっとだけ内容が変わった。
阿鍵さん限定ではなくなった分、僕にとっては答えやすい。
将来、僕は誰と結婚するのか分からないが、自分の子供はきっと愛するだろう。
「ああ、愛する」
今度は自信を持って答えることができた。
だから、その眼差しを阿鍵さんへ向ける。先ほどのゴタゴタの仕返しも込めて。
すると目が合った瞬間、彼女は表情をくしゃくしゃにした。
「私だって愛すると思う。でもパパは言うの、ママと別れるって。ママはママで、私を連れて出て行こうとしてる。私、ここを離れたくない……」
ぽろりぽろりと阿鍵さんの目から涙がこぼれ落ちた。
☆ ☆ ☆
あれから数日間、僕は阿鍵さんをまともに見ることができなかった。
彼女も、僕に声をかけようとはしない。
あの日の涙が本物だったとすると、近いうちに彼女は引越してしまう可能性がある。
「近くだったらいいんだけど……」
となりの市くらいだったら、今まで通りこの高校に通えるだろう。
でももっと遠くに行ってしまったら?
彼女は転校してしまうかもしれないのだ。
「一体、どうしたらいいんだろう……?」
奇跡を願ったのは、両親の離婚を阻止したかったんだと思う。
いや、奇跡を起こそうと思ったんじゃない。僕に助けを求めたんだ。
もしあの時、行為に至って子供ができたとしたら、僕は彼女と一緒になることを望んだだろう。その気持ちを、僕の行動を利用したかったんだと思う、離婚を阻止するために。それが僕の心を傷つけることになったとしても。
「だったら、それに乗ってやろうじゃないの!」
僕は大好きな阿鍵さんのために、一世一代の大芝居を打つことを決意した。
☆
早朝の教室で僕が阿鍵さんの机に手紙を入れたのは、最初に手紙をもらってから十日目のことだった。
大芝居を打つには、しっかりとした作戦を練る必要がある。シナリオを作り、セリフを考える。練習をして、彼女の前でも堂々と実行できる自信がつくまで、それくらいの日数がかかったという次第だ。
放課後、古墳が見えるベンチで待っていると、時刻通りに阿鍵さんがやってきた。
そして彼女はいきなり、前回の続きを思わせる過激発言を繰り出した。
「今日はあの中に入っても何もしないわよ。そろそろ生理が来るころだから、子供なんてできないしね」
本当に歯に衣を着せない人だと思う。
でも、そういう人だと分かっている分、今日は冷静に対応できそうだ。
僕はこの数日間練習してきたセリフを頭の中に用意する。練習を重ねたのは、僕的にとても恥ずかしい語句が満載なのだから。
「僕だって何もしないよ。だってあの時、しちゃったんだからね」
「しちゃったって何を?」
「だからセックスをだよ」
「はぁ?」
い、言えた!
彼女の前で真顔でセックスという単語を。
十日前には考えられなかった進歩だ。
一方、阿鍵さんはあっけに取られていた。
「だから君のお腹の中には僕の子供がいる」
これが僕の作戦だった。
というか、彼女の作戦を受け入れただけ、と言うべきかもしれないが。
すると阿鍵さんはニヤリと口角を上げた。
「へぇ、それで?」
「僕は、君の両親に挨拶に行かなくちゃいけない」
「パパに殺されるわよ」
いやいや、その殺されるようなことをしようとしたのは誰だよ!
突っ込みたくなる気持ちを抑えて、僕は淡々と作戦を続けた。
「殺されるのは嫌だけど、殴られるのは覚悟してる。そして、将来結婚させて欲しいとお願いする」
阿鍵さんの目を見る。
どれだけ僕が真剣なのか、まず彼女に分かってもらえなければこの作戦は成功しない。
ていうか、よく考えたらこれってプロポーズじゃないか。たとえ芝居だとしても。
「ふうん、ホントにそれやるの?」
「ああ」
「マジで? 冗談ぬきで? 途中で逃げたりしないでしょうね?」
「決して逃げたりしない」
僕は視線に力を込めた。
大好きな阿鍵さんの瞳は何時間だって見つめることができる。懐疑的な表情もまた魅力的な彼女は美しい。
やがて根負けした阿鍵さんは僕から目をそらし、正面の古墳を見る。
「そしたらパパとママは、別れなくなると思う?」
「逆だよ、別れても意味がないと思わせるんだ」
「それってどういうこと?」
「これは勝手な憶測だけど、別れたら子供、つまり阿鍵さんのことを独占できると思ってるから争っているんじゃないのかな? 別の人間に盗られてしまうという危機に晒されれば、争っていられなくなる」
「ふうん……」
彼女の答えは曖昧だったが、なんとなくは納得してくれたようだ。
僕はひとまず、ほっと胸を撫で下ろす。
すると阿鍵さんから提案があった。
「それをやるなら、あと一週間待って欲しい」
「どうして?」
「どうしてって、排卵日から十日ちょっとじゃ妊娠したかどうかなんて分からないでしょ? 貴方、本当に女の子のこと知らないのね」
「ごめん……」
「まあ童貞っぽいし、仕方ないっちゃ仕方ないけど。私も生理が来ないフリして、ママになんとなくアピールしておくわ」
「そうしてくれると助かるけど、当日はできるだけご両親に衝撃を与えたい。僕も相当の覚悟でやるから、どうせやるなら最大限の効果が欲しい」
「まあ、そうよね。これってショック療法みたいなもんだしね……」
それから僕たちはラインを交換した。
決行日に向けて詳細を詰めるために。
「それで、場所はどうする? 家に来る?」
「それなんだけど……」
僕は、その日のために考えた場所を打ち明ける。
阿鍵さんも、その作戦に納得してくれた。
そして、決行の日はやってきた。
☆ ☆ ☆
「家の近くにこんなところがあったのね、知らなかったわ」
「すごいだろ? 七世紀の人たちにこんな優れた石工技術があったとは驚きだよ」
石室の外から男女の声がする。
隣りに立つ阿鍵さんが「来たわよ」と僕の脇を肘でつついた。
――いよいよだ。
僕はゴクリと唾を飲む。
六月になった最初の日曜日。
宝塔塚古墳の石室で待つ僕たちのもとに、阿鍵さんの両親がやって来た。
阿鍵さんから最初に手紙をもらってから二十日目、二人で作戦の相談をしてから十日目のことだった。
薄暗い石室の中からは、シルエットになって両親の表情はよく見えない。
一方、両親からは僕たちの顔はよく見えるだろう。
これも作戦の一つだった。これから重大な告白をする身としては、相手の表情が分からない方がやりやすい。
さあ、始まるぞ。
この間の大芝居よりも大きな、今まで生きてきた人生の中で最大級の芝居が。
ドキドキと鼓動が激しくなって今にも心臓が飛び出しそうだ。
僕は大きく息を吸って、石室の中に入ってきた二人に声を掛ける。
「初めまして。僕は晴菜さんと同じクラスの九札帆高と言います。わざわざここに来ていただきありがとうございます。今日は大事なことを……」
「とその前に、何でこの場所を選んだのかね?」
出鼻をくじくように、父親が僕の言葉を遮る。
そして彼は、石室の天井を見上げた。
「ここが奇跡の間、だからか?」
――奇跡の間。
そんな言葉、初めて聞いた。
が、そう呼ばれるにふさわしい伝説は知っている。阿鍵さんからの話で。
そう、これが僕の考えた作戦だった。
今日両親に会う場所をここに指定したのも、奇跡を起こす場所だからだった。
「そうよ」
腕を組んで仁王立ちする阿鍵さんが冷たく答える。
「パパも晴菜も詳しいのね。私にも教えて頂戴?」
母親が彼女を見る。
すると「俺が説明しよう」と父親が解説を始めた。
「ここは七世紀、つまり千三百年以上も前の飛鳥時代に造られたんだ。これだけ精密に石を組み上げて造られた石室は他の県では滅多に見られない。それどころか、この県にはもっと巨大な古墳がいくつもあり、東日本ではナンバーワンなんだ。なんでこの県には、これほどまで古墳文化が栄えたんだと思う? 帆高クン」
いきなり振られてしまった。
今日は土下座して、殴られて、それで終わると思っていたのに。
きっと父親は僕のことを試しているのだろう。話を聞くに値する男かどうかを。
だから僕は知恵を絞る。これほどまで瞬間的に思考を巡らせたのは、高校入試以来かもしれない。
「巨大な権力を持つ支配者がいたから、でしょうか?」
父親は「ほお」と頷きながら、僕の表情を観察している。
古墳といえば、西日本では超巨大な前方後円墳や、巨石を積み上げたものを連想する。
そんな構造物は、権力が無ければ造り上げることはできないだろう。
それならこの県の古墳だって、同じことが言えるはずだ。
「それもあるかもしれない。しかしここは東国だ。東国の中でもこの県は大陸にアクセスしやすかった。大陸文化や、埴輪の原料となる粘土が手に入りやすいなど、この県独特の風土が影響したのではないかと考えられている」
そんなことが影響しているんだ……。
現代のように電車も飛行機も無かった時代だ。地の利がそこで暮らす人々の生活に大きく影響したことは十分考えられる。
「そして、この石だ」
父親は壁に近づき、岩肌を手で確認し始めた。
「これは溶結凝灰岩だ。これほどまでに加工しやすい石は火山の近くでしか採掘することができないんだよ。だからG県は東国ナンバーワンの古墳県になったと私は考えている。そして築造当時、この壁面には漆喰が塗られ、壁画が描かれていた」
父親は再び石室の天井を見上げる。
かつて、阿鍵さんが僕の前でそうしたように。
そして彼女から聞いたのと同じ言葉を、彼は唱え始めた。
「天に星、地に花、人に愛。この三つが揃う時に奇跡が起きる。そんな願いを込めて、この石室は造られたんだ」
僕はようやく理解した。
阿鍵さんが僕に披露した知識は、父親からの受け売りだったんだ。
そういえばあの時、「パパから」って言っていたような気もする。
だったら、この『奇跡』を利用してやろう。
僕は頭の中で用意していたセリフの言葉を、『奇跡』に置き換える。
そして再び、大きく息を吸った。
☆
「僕たちもその奇跡を願っています! 一つは、晴菜さんのお腹の中にいる僕たちの子供がすくすくと成長することを! そしてもう一つは、おじいちゃん、おばあちゃんとしてお二人に末長くその子の成長を見守っていただけることを!」
僕は石室の床にひざまづき、深々と頭を下げた。
本当は順序立てて説明する予定だったが、インテリ風の父親にはそれは無用と僕は直観した。間を置いて隙を与えれば、きっとさっきのように質問攻めに遭うに違いない。それならば、一気に事を片付けた方が良いと僕は判断した。
でも、初対面で「おじいちゃん、おばあちゃん」はちょっと失礼だったかも? 頭を下げながら僕は後悔する。
予定外の僕の行動に、阿鍵さんも同調してくれたようだ。横に感じる彼女の気配は、僕と同じように床にひざまづき頭を下げる仕草だった。
石室の中で沈黙が続く。
頭を床面につける僕にとってそれは、永遠に続くように感じられた。
すると父親の重い声が石室に響く。
「妊娠は確実なのか?」
僕が答えようとすると、阿鍵さんが先に口を開く。
「まだ検査はしてない。でも、予定日から一週間過ぎても生理が来ないの。だから早く知らせようと思って……」
「そうか。じゃあ、まだ確定じゃないんだな」
再び沈黙が訪れる。と突然、母親の笑い声が聞こえてきた。
「お、おばあちゃんですって。素敵じゃない? ねえ、あなた。あなただって、おじいちゃんになるのよ。もちろん大歓迎よね?」
「えっ? あ、ああ……」
戸惑いに満ちた父親の声、完全に同意していないのはあからさまだ。
一方、母親は嬉しそう。こんな反応は予想外だったが。
「ねえ、二人とも顔を上げて」
母親の声で僕たちは顔を上げる。
「恥を忍んで言うけど、私たち離婚するところだったの。だってこの人、それはそれはひどいことしてたんだから。帆高クンには決して言えないようなことをね」
どうやら離婚騒動は本当で、その原因は父親にあったらしい。
その証拠に、父親は厳しい表情のまま沈黙を貫いている。
「私は賛成よ。順番が逆になっちゃったのはちょっと残念だけど、これも因果応報なのね。ほら、あなた。私たちはもうおじいちゃんとおばあちゃんなんだから、諦めて何か言ってあげなさいよ」
すると父親がゆっくりと口を開く。
――言葉と一緒に拳が飛んでくるかもしれない。
そう覚悟する僕に、彼は低くて重い声で問いかけた。
「君は晴菜を愛しているのか?」
「はい、愛しています」
「晴菜はどうだ?」
「私も彼を愛してる。だからこの子を産みたい」
打ち合わせ通りのセリフだが、実際に阿鍵さんに言ってもらうと勇気が湧いてくる。
嬉しくて嬉しくて、夢じゃないかと思ってしまう。
しかし将来、こんな日が本当にやって来るのだろうか?
「子供が産まれた後はどうする?」
「高校を卒業したら仕事を見つけて結婚します。それまではどうか、お二人に子供の面倒を見ていただきたいのです」
「パパ、お願い。それまではまだ一緒に暮らせるでしょ?」
阿鍵さんは父親のことを熱く見る。
すると父親はふっと表情を崩した。
「わかった。それまではこちらの家で子供の面倒を見よう。それより、帆高クンのご両親はこのことを知っているのかな?」
「いえ、まだ話していません。まずは、お二人にご報告しなければと思って……」
「わかった。子供のことはこちらでなんとかすると伝えて欲しい。それでいいよな?」
父親が母親を向く。
「もちろんよ」
二人の同意。
それは僕たちのことが許され、さらに阿鍵さんの両親の離婚が回避された瞬間だった。
その時だ。
ゴオという地鳴りとともに石室の岩がガタガタと揺れ始める。
「地震だ!」
「危ない!!」
阿鍵さんを守らなくてはと思った僕は、ひざまづく体勢から上半身を起こす。
慌てて隣りを見ると、彼女の上にはすでに父親が覆いかぶさっていた。
そして二人は見つめあっている。まるで別れを惜しむかのように。
まあ、実際には阿鍵さんは妊娠していないのだから、まだまだ別れは訪れないのだけど。
地震はすぐに収まり、皆で慌てて石室の外に出た。話もそこで終わりとなった。
僕の作戦は見事に成功したのだ。
おそらく後日、阿鍵さんは両親と一緒に妊娠検査をして陰性が判明するだろう。
それでいいのだ。実際、彼女は妊娠していないのだし、それにも関わらず僕たちの関係は阿鍵さん両親の公認となった。これは僕にとって、ものすごい一歩なのだ。
妊娠していないことが判明したら、彼女の両親にまた離婚の危機が訪れるかもしれない。いや、そうならないよう僕が間に入らなくちゃいけないのだ。阿鍵さんがこの地から離れて行かないように。
それにしても、こんなに上手くいくとは思わなかった。
父親に「どこの馬の骨」とののしられ、ドラマのように殴られることも覚悟していたのだが。
母親の反応も意外だった。阿鍵さんの妊娠に戸惑うどころか、逆に歓迎しているようだったじゃないか。まあ、そのおかげで父親の態度が軟化したので、本当に助かった。
阿鍵さんの両親に同意してもらった瞬間、地震が起きたのは驚きだ。
もしかして、あれが奇跡だったのだろうか?
すると、天の星と地の花、そして人の愛の三つが揃ったということになる。
両親の離婚が回避されたから、二人の愛が復活した――とか?
まさか、阿鍵さんの中で僕への愛が芽生えた――てなことは、ないだろうな……。
そもそも、父親がしていた「僕に言えないひどい事」って何だったんだろう?
ギャンブル? それとも浮気?
まあ、余計な詮索は止めておこう。今のところ作戦は上手くいっているのだから。
あとは僕の両親だけだ。父ちゃん母ちゃんへの説明が済んだら、阿鍵さんと恋人らしい関係を一から築いていこう。
これですべてが上手くいく。
来週末になったら、阿鍵さんをどこかに誘ってみようかな?
学校で会うのもなんか楽しみだ。だって二人だけのすごい秘密ができたのだから。クラスメートは誰も知らない、僕たちだけの秘密が。
僕は、来週からの高校生活に胸を膨らませ始めた。しかし――
数日後、阿鍵さんの妊娠が明らかになったんだ。
☆ ☆ ☆
(どうして、阿鍵さんが妊娠……?)
阿鍵さんの両親から連絡が入った時、僕は自分の耳を疑った。
それは到底受け入れられるものではなかったから。
それもそのはず、僕は阿鍵さんとセックスしていない。
(じゃあ、子供の父親は……誰?)
僕は考える。
彼女の母親が言っていた「僕に言えないひどい事」の意味を。
そして地震の後での阿鍵さんと彼女の父親が見せた親密ぶりの理由を。
これらを彼女の妊娠と結び付けるとすれば、たどり着く真相は一つだった。
(まさか、阿鍵さんと彼女の父親が……??)
そんなことってあるだろうか?
でもそうとしか思えない。
――自分の夫と娘が関係を持っていた。
それを知った母親が離婚を決意し、父親と阿鍵さんとを引き離そうとするのはごく自然な流れのような気がした。
僕が告白した時に母親が喜んでくれたのは、その悪しき関係を断ち切ってくれると判断したからだろう。
(じゃあ、妊娠のタイミングは?)
僕が阿鍵さんから手紙をもらった日の直前に違いない。
おそらく父親との関係中に、避妊に失敗してしまったのだろう。
困った阿鍵さんは、教室の中でカモになりそうな男を探したんだ。彼女の両親とトラブルになりそうもない真面目そうな生徒を。
告白の時の父親の様子もあっさりし過ぎていた。
きっとそれは避妊失敗の負い目があったからに違いない。父親にとって僕は救世主に見えたことだろう。
(もし僕があの日、阿鍵さんとセックスしていたら???)
これが最初の阿鍵さんの目論見だったのだろう。
考えれば考えるほど、泣きたくなってくる。
自分で言うのもなんだけど、こんなに純粋な男子高校生の心を弄ぶなんて最低最悪だ。
――お腹の中の子供を愛することができる?
あれは僕に向けられた言葉ではなかった。彼女自身に対しての問いかけだったんだ。
それなのに僕はあっさりと信じて、両親に謝罪までして。
もしあの時阿鍵さんとセックスしていたら、僕は自分の子と疑わずに他人の子を育てていたかもしれないんだ。
(だったらその奇跡を使って、阿鍵さんと一緒に……)
阿鍵さんを憎めたらどんなに救われただろう。
でもそれはできなかった。だって僕は阿鍵さんが大好きだから。
あの日、僕に見せてくれた涙。
そして、偽りだとしても、一緒に子供を育てたいと両親に誓ってくれた言葉。
今の僕にはそれで十分だ。それを胸に、あの場所で奇跡を起こしてみよう。
幸い、彼女の妊娠は僕と彼女の家族だけの秘密で、まだ公にはなっていない。
僕は自分の両親にもまだ話していなかった。妊娠していないことが明らかになってからの方が、両親にショックを与えずに済むからだ。
が、いずれ阿鍵さんの妊娠は誰もが知る事実となるだろう。それまでに何とかしなくてはならない。
だから僕は準備を進める。
全世界に向けての遺書を書き進めて、さらに図書館に行って奇跡のもとになった言い伝えを探した。
彼女があの日僕に語った奇跡に酔いながら、あの世に逝けるように。
そして誰も傷つかない偽の真実が、この世の中に残るように。
準備が整った六月の終わりの日曜日、僕は古墳に阿鍵さんを呼び出した。
☆
その日は、梅雨晴れだった。
奇跡を願う人生最期の日を、最高の青空が祝福してくれる。
僕は一人、宝塔塚古墳の石室で阿鍵さんを待つ。
思えば、ここでいろいろなことがあった。
天井の星の絵、床面の花の絵、そして突然のセックスの誘い。
阿鍵さんの両親に対しても大芝居を打った。それもこれも今日ですべてが終わる。
すると一人の人影が石室の中に入ってくる。
シルエットで大好きな顔や私服姿が見えないのが残念だが、背や格好、そしていつもの香りで阿鍵さんとわかる。
「真実を教えて欲しい」
僕はいきなり阿鍵さんに問いかけた。
彼女もここに呼ばれた意味を理解しているはずだ。その証拠に、彼女はお腹に手を当てながら僕を見る。
「この子の父親、ってことよね?」
「そうだ」
阿鍵さんは一度下を向いて一息吸うと、意を決したように話し始めた。
「パパよ。以前から関係を持っていたの」
やはりそうだったのか。
彼女は僕が驚きを見せないことを確認すると、さらに言葉を続けた。
「ずっとパパの子供が欲しかった。でもパパは、私のこと娘としか見てくれない。だからこうするしかなかった……」
ぽろり、ぽろりと涙をこぼし始める阿鍵さん。
やっぱり僕を出汁に使うつもりだったんだ。
父親と彼女との子供を、何も知らない僕に育てさせようとしたことは許せない。
「両親はこのことを知ってるのか?」
「知らないわ。お腹の子供は、本当に貴方との子と思ってる。だからお願い。貴方と私が黙っていれば、すべてが上手く行くの。誰も不幸にならない唯一の選択肢なの」
それじゃ僕が不幸なんだよ。
でもそんな展開って昔ドラマで観たことがある。好きな女性のために、自分を犠牲にするという展開。他人の子供を自分の子供と周囲に偽って、育てていくんだ。
僕だってそんな聖者になれるのだろうか。阿鍵さんをもっと愛するようになれば。
そしてその子供を、心穏やかに一緒に育てていくことができるのだろうか。
大好きな阿鍵さんの瞳から涙が止まらない。
きっとこの涙は本物なのだろう。だって、僕が一番苦しむ選択を突きつけているのだから。
阿鍵さんは「お願い」と懇願しながら僕に近づいてきた。
きっとこの肩を引き寄せれば、僕の決心は揺らぐだろう。
だから僕はセットしてきたんだ。全世界に向けた遺書が、この時間に発信されるように。
僕の決心が揺らがないように。
「ねえ、阿鍵さん。ここで起きたサキとロクの物語って知ってる?」
すると彼女は、真っ赤な瞳を僕に向ける。
「えっ? サキとロク? 知らない……けど」
「じゃあ、最期に話してあげる。奇跡を願った男女の物語を」
それは、この古墳が築造された時の話。
古墳を造った権力者の娘サキは、農家の六男ロクと恋仲にあったという。
身分の違う二人は愛し合いながらも、決して一緒になれないことを憂う。
ある日、隣りの村への嫁入りを告げられたサキは、ロクをこの石室に呼び出した。一緒に死のうと、刃物を持って。
その時、奇跡が起きる。地震がこの村を襲ったのだ。
ロクは必死にサキのことを庇う。ロクはサキのことを本当に愛していたからだ。
実はサキは疑っていた。サキに好意を見せるロクの言葉や行動を。
しかしロクの愛は本物だった。そう、この奇跡の間は、星と花と愛の三つが揃うと奇跡が起きるのではなく、人の愛を確かめるための奇跡が起きる場所だったのだ。
真実の愛を確かめ合った二人は決意する。二人の愛が永遠になることを。そして刃物を使ってこの場所で一緒に最期を遂げた。
「この間、ブラックライトで見せてくれたでしょ? 床面が紫色に光るのを」
阿鍵さんは静かに頷く。
僕の話に聞き入っていた彼女の涙は、すっかり乾いていた。
「花が描かれていたのは周囲だけで、真ん中は大きな草むらみたいになってたじゃない。あれってサキとロクの血だったんじゃないのかな。ブラックライトは血痕にも反応するんだよ」
そして僕はナイフを取り出した。
かつてサキがしたように。
「ここで一緒に死のう、阿鍵さん」
彼女の表情がみるみる凍りついた。
☆
「ちょ、ちょ、ちょっと待って。死ぬってどういうこと?」
「そのまんまの意味だよ。僕は君を殺して、自分も死ぬ」
阿鍵さんは入口目指して走ろうとしたが、それを予測していた僕は素早く彼女の前に立ち塞がった。
入口からの光を浴びて、彼女の美しい顔が恐怖に歪むのがよくわかる。
「ごめんね、綺麗な顔をそんなにさせちゃって。すぐ済むからちょっとの辛抱だよ」
「ねえ、考え直して。私たち結婚するんだよ。この子が産まれてから、二人で次の子供を作ればいいじゃない?」
「それじゃダメなんだ。それまでの間、僕は自分が正常心でいられるか自信がない」
虐待死のニュースを見かけることがある。
再婚した奥さんの連れ子を、新しい夫が虐待して殺してしまうケースだ。
そういう事件を起こす人は、その人の人格に問題があるんじゃないかとずっと思っていた。
でもそれは違うのかもしれない。だって今の僕がそうだから。
もちろん僕の人格に問題がある可能性も考えられる。だけど何だろう、この本能の奥底から湧き上がってくる感情は。
ライオンも子殺しをすると聞いたことがあるけど、なんだか分かるような気がする。もしかしたら、有性生殖を行う動物がこの世に誕生した時から遺伝子に組み込まれている感情なのかもしれない。
「もし、君の言う通りになったとしても、僕はその子を虐待してしまうかもしれない」
「嫌、この子は絶対殺させない!」
ボロボロと涙を流しながら、手でお腹を庇おうとする阿鍵さん。
その瞳は力強く、僕は負けそうになってしまう。
「それにね、阿鍵さん。もうスイッチは押されてしまったんだ」
「スイッチって?」
「僕はね、SNSに自動投稿されるようセットして来たんだ。僕は阿鍵さんと一緒に死ぬという遺書を。だからもう、引き下がれないんだ」
「お願い、私の命は貴方にあげるから、この子だけは、この子だけは……」
大きく息を吸う。
ありがとう、僕を産んでくれた母ちゃん、育ててくれた父ちゃん。
そして素敵な笑顔を見せてくれた阿鍵さん。
十七年の人生だったけど、僕は幸せでした。
そして僕は、ナイフを振り下ろした。
☆ ☆ ☆
「パパ、ママ。これから詩真と一緒に古墳に行ってくる!」
「お兄ちゃん待って! 今日はお兄ちゃんと一緒に石室の探検をするんだ」
そう言いながら子供たち、貴竜と詩真は玄関で靴を履いている。
「夕方にはちゃんと帰ってくるのよ」
二人に上着を着せてあげているのは、僕の妻の晴菜だ。
あれから十年。
僕たちは結婚して、四人家族になっていた。
「お兄ちゃんね、パパやママみたいにお祈りの練習してた。だから詩真も、お兄ちゃんと一緒に石室でお祈りするの」
「じゃあ、パパも一緒に行くか」
「ホント? 一緒に芝滑りもしよ!」
「ああ、負けないぞ」
結婚してから僕たちは、宝塔塚古墳の近くの中古住宅を購入した。
だから、あの古墳は子供たちの遊び場なのだ。
芝が敷き詰められた円墳で滑って遊び、石室の中を探検する。
そして僕たちは、石室に入るとき必ず祈りを捧げる。
あの日、あそこで失われた一人の命のために。
ナイフを振り下ろしたあの時、阿鍵さんは急に苦痛に顔を歪ませる。
まだナイフは当たっていないというのに。
「赤ちゃんが、赤ちゃんが……」
床面に座り込んだ阿鍵さんは、下腹部を押さえながら号泣し始めた。
「流れちゃった……」
そう、あまりの恐怖のために、彼女は流産してしまったのだ。
と同時に、僕の中から確固たる決意がひゅるひゅると抜けていく。
永遠の愛、石室の奇跡、そんなことを堂々と掲げていた自分が急に馬鹿らしくなる。
遺書を投稿していたことも忘れて、僕は阿鍵さんと一緒に泣き出したんだ。泣いてないとやってられない感情が次から次へと溢れ出て来る。
それから彼女を病院に連れて行って、一人で自宅に戻ると、警察やら高校の担任やらが押しかけていて大変なことになっていた。両親が涙を流して喜んでくれたことは嬉しかったけど。
もちろんそれは、僕が投稿した遺書が原因だった。
えっ? 遺書に何を書いたかって?
忘れたくてしょうがないから、もうあまり覚えてないけど、こんな内容だったかな。
僕は阿鍵さんが大好きだ。
だから子供ができてしまった。
どうしていいのか分からないから一緒に死ぬ。
最初はね、いろいろと細かく書いてたんだよ。
でもそうすると、誰かが悪者になってしまう。
誰も悪者にならない内容って、こうするしかなかったんだ。
シンプルイズベスト。今思えば、これが良かったのかもしれない。
そんなおバカ遺書のおかげで、僕たちは散々な目に遭った。
クラスメートがみんなでそう判断したのか、担任に言われたのかは分からないが、学校に行っても僕たちを責めたり、からかったりする人はいなかった。その代わり、みんなが口々に言うんだ、「結婚すれば?」って。
遺書を投稿したSNSだって、肯定的なリプの多くが「死ぬな!」「ケコーンしろ」だった。
だから僕たちが十八になった時、二人は結婚したんだ。
大学も行ってみたかったけど、新型コロナの影響がまだ残っていてリモート講義ばかりになってしまったキャンパスライフに魅力を感じられなかった僕たちは、お互い別々の場所に就職することにした。
僕は童貞夫として、一から阿鍵さんの愛を積み上げることにしたんだ。
それはそれは、大変な夫婦生活だったよ。阿鍵さんはなかなか心を開いてくれなかったから。寝る部屋も別々だったし。
なんかそんなドラマがあったよね、契約結婚みたいな。
僕たちもそんな感じだったんだ。阿鍵さんの両親が離婚しないための契約――そんな風に捉えて、僕たち二人の結婚生活はドライに始まった。
それでもやっていけたのは、一つの確信があったからだと思う。
阿鍵さんは必ず、子供を大切にしてくれるという。
だってあの時、彼女は決して中絶を取引材料にしなかった。自分の命が危機に瀕している時でさえ必死に子供を守ろうとした。
その時感じたんだ。彼女の想いに比べたら、僕の意思なんてすごくちっぽけなものなんだって。彼女への想いを、もっともっと積み上げていかなくちゃいけないんだって。
ようやく阿鍵さんが心を開いてくれた時、僕たちは初めて結ばれた。
その時、心の底から思ったんだ。ああ、この人との子供が欲しいって。
これこそが、あの時彼女が言っていた「愛」だったんだ。
僕は絶対、この子供を愛する。そして彼女も、この子供を愛してくれる。
それは本当に、幸せな幸せな瞬間だった。
「天に星」
「テンニホシ」
「地に花」
「チニハナ」
「人に愛」
「ヒトニアイ」
僕の後に続いて復唱する子供たちの声が愛おしい。
初めてこの石室に訪れた時は、こんな未来がやって来るとは思わなかった。
あの日の奇跡――と言ったら怒られるだろう。
だって、一人の罪のない子供の命がこの場所で失われたのだから。
だから言い換えよう。失われた奇跡ではなく、僕たちが生きている奇跡、大好きな人と一緒になれた奇跡、そして二人の子供を授かった奇跡だと。
奇跡は今日も、古墳の中で眠っている。
おわり
ミチル企画 2020-21冬企画
テーマ:『天に星』『地に花』『人に愛』
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