ため息2015年12月31日 18時20分32秒

「おい悠斗、今日はどこに行く?」
「なんだ、正樹か。どこでもいいけど。」
「じゃあ、ゲーセン行こうぜ!」
「ああ、ゲーセンね。」
「なんだよ、行きたくないのかよ?」
「そんなこと言ってないし。」
「なんかその喋り方、行きたくないって感じがするんだよな」
「ふーん、どこが。」
「それだよ、それ! お前、語尾に小さくため息入れてるだろ?」
「えっ? バレた?。」
「だから、ため息入れんなって言ってんだよ、疑問符の後に変だろ?」
「おおっ!。」
「意味わかんないし」
「そう?〇」
「ため息、大きくしてどうすんだよ」
「気にすんなって。きっと俺だけじゃないと思うぜ。」
「いや、お前だけだよ、そんな器用なことができるのは」
「そうかな?。 百作品あったら三作品くらいはやってると思うけど。」
「作品ってなんだよ? 『百人いたら三人』の間違いじゃないのかよ、お前、作品だったのかよ」
「正樹こそ。もっと。力を。抜いた方が。いいんじゃないの?。」
「いやいや、ため息つき過ぎだっつーの」
「逆に全然ため息ついてないじゃん。正樹は。」
「だってよく言うだろ? 『ため息つくと幸せが逃げる』って、それ、一応気にしてんだよ」
「えー。俺が知ってるのは『ため息つけばそれで済む』だけど?。」
「なに、それ?」
「母が。教えてくれた。」
「母だって? なに急にかしこまってんの? いつも、『かーちゃん』って呼んでるお前がさ」
「♪ささやーかな。 ♪ぼーくの。 ♪母の。じ。ん。せ。い。」
「歌うな! 歌ったら、たとえ結果が良くても掲載されないだろ?」
「大丈夫。微妙に外してるし。それに正樹だって『掲載』とか変なこと言ってんじゃん。」
「ていうか、よくそんな古い歌、知ってんな?」
「正樹だって古いってよく知ってんな。」
「もうやめようぜ、こんな不毛な会話、ゲーセン行くかって話だっただろ?」
「じゃあ行かない。」
「やっぱ、行きたくないんじゃねえかよ、だったら最初からそう言えよ」
「だって俺達。受験生だろ?。」
「そうだけど?」
「センター試験までもう一ヶ月切ってんだよ。」
「…………」
「もっと素直になれよ。」
「素直って?」
「俺みたいにさ。」
「こ、こうか?。」
「そうだよ。やればできるじゃん。」
「おお!。」
「いいぞ。その調子!。」
「なんか。受験生って感じがしてきた。」
「だろ?。『ため息つけばそれで済む』だよ!。どんどんつこうぜ。」
「ああ。『ため息つけばそれで済む』だな。」
「受験なんて糞喰らえだ!。」
「推薦組は爆発しろ!。」
「雪不足は受験生には嬉しいぞ。」
「三月になったら遊びまくってやる。」
「今も遊んでるけどな。」
「ちょ、ちょっと。余計なこと言うなよ。ところでさ。お前どっちだ?。」



共幻文庫 短編小説コンテスト 第12回「。」投稿作品

Fの魔法、正の代償2015年12月26日 10時10分27秒

「Fって何だ……?」
 雄介は授業中、ずっと考えていた。
 京香が古文の教科書に書いていた記号の意味を。
 フール? ファール? まさか腑抜けのF?

 一つ前の時間は古文だった。
『け、け、ける、ける、けれ、けよ……』
 五月の陽気に、古文の呪文がすうっと溶けていく。
 涅槃の境地に達したところで、俗世から自分を呼ぶ声が……。
 はっと目を開けると、恐い顔をした先生が机の前に立っていた。
 立たされながら教室の失笑を見回すと、一人だけ教科書を見ている奴がいる。
 こんな時でも勉強かよ。優等生は違うぜ……。
 しかしそれは勘違いだった。
 京香は教科書に何かを書き込むと、ニヤリとこちらを見た。

 京香の席は、俺の二つ隣の窓際だ。
 成績優秀、容姿は……まあまあかな。
 だから今まで気に留めていなかったが、あれ以来意識してしまう。

 確かあれは『F』見えた。
 また何か書かれるんじゃないかと思うと、つい彼女を見てしまう。
 窓からの風を受けてサラサラとそよぐ長い髪。
 セーラー服のリボン辺りのなだらかな膨らみ。
 今が盛りと芽吹く若葉よりも、授業に集中する瞳が美しい。
『古文の教科書に書いてたFって何だよ?』
 以前なら何でもなかった質問が、俺の口を重くする。

「な~に~? あんた京香に気があんの?」
 ホームルームが終わると留美が後ろの席から小突いてきた。中学校からの腐れ縁だ。
「べ、別に……」
「そう、ならいいんだけど。ちょっと気になることを聞いたから」
「何だよ。教えろよ」
「これって私から聞いたこと秘密だよ? あの子達のグループって、あんたで賭けしてんのよ」
「えっ?」
「古文の時間ね、あんたが何回居眠りするかって賭けてんの」
 じゃあ、『F』って何だ……?
「京香の観察によるとね、あんたの古文の居眠りはいつも三回だって話だよ」
 三回、三回……。
 そっか、あれは『F』ではなくて『正』の字の途中だったのか……。

 明日の五時間目は古文だ。
 襲い来る睡魔とそれを狩る小悪魔。
 全滅してしまいそうな睡魔を応援したくなるのは、魔法にかかった自分を認めたくないからだろう。

 ◇

「五回?」
 雄介は授業中ずっと考えていた。
 京香が数学の教科書に書いていた回数を。
 俺は五回も居眠りしてないぞ!?

 一つ前の時間は数学だった。
『サイン、コサイン、タンジェント……』
 三角関数の呪文が心の中をごちゃごちゃにかき乱す。
 京香に話しかけてみたい。でも『F』の一件が心にバリアを張り巡らせて、行動に移せない。
 だからわざと寝たふりをして、彼女の気を引こうとした。
 先生に立たされながらチラリと京香を見ると、彼女は教科書に『正』の字を完成させていた。

「おい、京香達のグループ、今度は何の賭けしてる?」
 ホームルームが終わると後の席の留美に訊ねる。
「知らないわよ、そんなこと」
 なぜかふて腐れる留美。
 そのアンテナには、まだ何も捉えられていないようだ。
 一ヶ月前、俺の居眠り回数の賭けを教えてくれたのは彼女だった。
「京香のやつ、数学の教科書に『正』って書いてたんだぜ。まだ居眠りは二回だったのに」
「正の字を使って計算してたんじゃないの?」
「高校生がそんなことするかよ。真面目に答えろよ」
「そんなに気になるなら自分で聞けばいいじゃない」
「ゴメン謝る。なあ、頼みがあるんだけど……」
「なによ」
「数学の時間、俺が何を五回やってるか見ててほしいんだ」
 嫌がる留美をパフェを驕ることでなんとか説き伏せた。

 一週間後の調査結果。
「そうね、居眠りが平均二回、肩のフケが三個、ペンで耳かっぽじるのが四回」
「お前、何見てんだよ」
「細かく調査しろって言ったの、あんたじゃない」
 やさぐれる留美を横目に考える。
 やはり居眠りではなかったんだ。では五回とは?
「一つだけ……」
「えっ?」
「一つだけあったよ、五回……」
「本当か、それは?」
「あんたが京香を見てた回数」
 留美は俺から目をそらして京香の机の方を向いた。
 主の居ない放課後の窓際の席は、キラキラと梅雨間の夕日を反射させていた。
 ん? でも、待てよ。
 俺が京香を見た回数だって?
 そんなこと京香が数えているはずないじゃないか。
 だってそうなら目が合うだろ?
「なあ……」
 振り返るといつも微笑んでくれた留美の姿は、もうどこにも無かった。



共幻文庫 短編小説コンテスト 第10回「秘密」投稿作品

ダイニングメッセージ2015年12月03日 07時29分34秒

 津木高校ミステリー部の部室では、恒例になっている昼休みの推理合戦が始まっていた。
 ――艶のある人
 今回明らかになったダイニングメッセージには、そう描かれていたのだ。
「これは歩人、ズバリお前のことだろ?」
 そう言いながら自信満々に俺のことを指差すのは、部内一の論理派、曲豆久巴(まがりまめ きゅうは)。
 江戸時代の和算家、栗田久巴から名をもらったと豪語するだけあって、数学の成績は校内でもトップクラス。二年生ながらに我がミステリー部を牽引する頼もしい部長様だ。
「お前の名前は、艶野歩人(えんの あると)。『野』と『歩』を平仮名にするだけで、完全にお前の名前と一致するではないか!」
 うぬぬぬ……。
 指を差されて名指しされるのは気持ちの良いものではないが、確かに久巴の言う通りだ。
 俺の名前の『野』と『歩』を平仮名にすると、『艶のある人』になる。まさかこんな風に名指しされると思っていなかった俺は、久巴の頭の回転の良さに舌を巻くと共に、メッセージを見た瞬間にツヤツヤした奴を探そうとした自分が無性に恥ずかしくなった。
 しかし、勝ち誇ったように鼻を高くする久巴を、猫を撫でるような可愛らしい声が制する。
「そんなんじゃダメだよ~、久巴くん」
 豊色のあ(ほうしょく のあ)先輩。
 我がミステリー部の紅一点だ。
「なんで『野』と『歩』が平仮名なのか、その理由まで解かないと推理って言わないんだよ~」
「そ、それは……えと、その……」
 一瞬声を詰まらせた久巴だったが、言葉を繋ぎながら必死に解を探している。
 一方、のあ先輩は、いたずら好きな猫のような瞳で久巴のことを観察していた。その仕草の可愛らしさに、さすがの久巴もたじたじだ。ほんのりと頬を赤く染めながら、脂汗をタラタラと流している。
「こ、このメッセージをすべて漢字で描くのは、た、大変だったから……とか?」
「へえ~。それなら何で、一番画数の多い『艶』が漢字なのかな?」
「えと、そ、それは……」
 久巴の負けだった。
 確かに、のあ先輩の言う通りだ。『野』と『歩』を平仮名にするくらいなら、まずは『艶』を平仮名にするはずじゃないか。
 すると、のあ先輩はチョークを手にすると、部室の黒板に何やら文字を書き始めた。

『ツヤ・ノ・アル・ヒト』
『エン・ノ・アル・ト』

「これが私の答えよ」
 自信満々に言い放つのあ先輩の瞳は、獲物を見つけた猫のようにキラリと輝く。
「久巴くんは、『艶のある人』は『エンノアルト』であると推理したよね。この二つの文字列をこうやって書き比べてみると、共通する言葉が見つかるの。それは、『ノ』と『アル』。つまりね、『ノ』と『アル』が平仮名であるのは、そのことを示すメッセージなのよ」
 おおお、さすが、のあ先輩。何が言いたいのか、さっぱりわからない。
 ――でも待てよ。
 その時、俺はあることに気がついた。
 『ノ』と『アル』が平仮名であることに意味があるという先輩の指摘は、まんざら間違っているとは思えない。
「のあ先輩。さっき『艶』が一番画数が多いと言いましたよね。もしかしたら、その認識が間違っているんじゃないでしょうか……」
 ふふふ、と笑みを作りながら俺は先輩を見る。
 その様は、先輩にとってさぞかし不気味だったに違いない。先輩は動揺しながら、画数を確認しようと肉球に、じゃなかった掌に必死に文字を書き始めた。
「ズバリですね、この『艶』は『艶』じゃないんですよ」
「『艶』が『艶』じゃない……って?」
「そうです。こう考えてみてはいかがですか? これは『豊』と『色』の組み合わせであると」
 はっと先輩が顔色を変える。
 久巴も「そうか!」と手を打った。
「もうお二人ともお気付きですね」
 俺はおもむろに右手を上げると、のあ先輩をビシっと指差した。
「そうです、このメッセージには『豊色のあ』という先輩の名前が隠されていたんです! 『の』と『あ』が平仮名だったのは、そういう理由だったんですよ」
 矢で心臓を射抜かれたように目を丸くする先輩に、俺は「指差してゴメン」と小さく心の中で謝る。
 すると、すかさず久巴がツッコミを入れてきた。
「それじゃあ、後に続く『る人』って何だよ?」
「チッチッチ、ダメですよ、久巴さん。『ルヒト』って読んじゃ」
 指を振りながら、俺は反撃を開始する。
「これはですね、『ルニン』と読むんです。ええ、その響きの通り『流人』です。これにはちゃんと理由がありますよね、のあ先輩?」
 俺が視線を向けると、先輩はビクリとしながら苦笑いでその場を誤魔化そうとする。
「あははははは。なんだ、歩人くん、知ってたの?」
「知ってましたとも。のあ先輩のことですから」
 猫のように頭をカキカキする先輩は本当に可愛いなと、俺の視線は思わずその姿に釘付けになった。
「なんだよ、歩人。俺にもちゃんと教えてくれよ」
 懇願するような目つきの久巴がいじらしくなったので、俺はゴホンと一つ咳払いをしてから、おもむろに説明を始める。
「先輩は今、流人なんです。一人、職員室に流されて全力で刑期を全う中の」
 実態はこうだ。
 センター試験を二ヶ月後に控えた先輩は、あまりにも成績が振るわないため、職員室の片隅で個別指導を受けているのだ。偶然それを見つけてしまった時に見せてくれた、ペロッと小さく舌を出しながらの照れ笑いがこれまた可愛かったことを、俺ははっきりと覚えている。
「ふうん、先輩の名前がこのメッセージに隠されている、か……。歩人は先輩にのぼせているだけなんじゃないのか?」
 まだ納得できていないのか、久巴はブツブツと呟きながら再びメッセージを観察し始めた。
 ふん、俺に論破されたのがそんなに悔しいのか?
「なんだよ。文句があるんだったら、久巴もちゃんとした推理をしてみろよ」
 その時だった。
 久巴が急に、雄叫びを上げたのは。
「おおおおおおお、ついに見つけたぞ。このメッセージに隠された真実を!」
 そして彼は、興奮しながらメッセージの『艶』の文字を指差した。
「二人とも、見てみろよ。この文字は『艶』のようであって、実は『艶』ではなかったのだ!」
 まさかと思いながら、のあ先輩と俺はメッセージに近寄って久巴が指差す場所を見る。
 すると、『艶』の字の右上の『ク』になっているべき場所が、『久』になっていた。
「『艶』と見せかけて、実は違う文字だった。その真相は……」
 久巴は信じられないという顔で推理を展開する。
 俺達はゴクリと唾を飲んだ。
「この文字を四つに分解すると、『曲』、『豆』、『久』、『巴』になる。つまり俺の名前だったのだ!!」
 その時、俺達をあざ笑うかのように、キンコーンカンコーンと昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「と、今日の推理合戦はここまでだ」
「じゃあね、歩人くん」
 手を振りながら、のあ先輩と久巴が部室を後にした。
 一人残された俺は、弁当のご飯の上に海苔で描かれた文字をまじまじと見つめていた。
 なんだよ、結局、昼休みに弁当食べれなかったじゃねえか。しかも、字が間違ってるし。きっと家に帰ったら母ちゃん、「『艶』まで頑張ったんだよ!」ってドヤ顔で自慢するんだろうな……。



共幻文庫 短編小説コンテスト 第9回「艶のある人」投稿作品

秋の空室2015年11月07日 08時48分28秒

 紅葉が青空を映えさせるのか、それとも青空が紅葉を映えさせるのか。
 車窓の景色に魅せられた俺は、路肩に車を停めて夢中でシャッターを切る。
 ――林道の両側に広がる素晴らしき紅葉。
 それをさらに鮮やかに見せてくれているのは、木々の間から見える青空だった。
「もっと、空が見える場所はないものか?」
 ふと山の方を見ると、登山道らしき山道が林の中へ続いていた。足を踏み入れるとカサカサと落ち葉の音がする。しばらく進むと、わずかに山の稜線が見えてきた。
「もう少し、あと少し……」
 さらに十分くらい歩いただろうか。紅葉に染まる尾根が一望できる開けた場所に出る。谷の紅葉と赤く染まった稜線、そして青空の三者が生み出すハーモニーに、俺は息を飲んだ。
 しかし喜びもつかの間、写真撮影に夢中になっているうちにあれよあれよとガスが立ち込め、たちまち空は厚くて暗い雲に覆われてしまった。ゴロゴロと遠くで雷の音がする。
「ヤバい、これは一雨来るぞ」
 俺が引き返そうとした時はすでに手遅れ。ザザザといきなり叩きつけるような豪雨に襲われ、俺は近くにあったモミジの大木に身を寄せた。
「なんだよ、女心となんとかって言うけど、まさかその通りになるとは」
 一人悪態をついても天候は回復することはない。俺は小一時間ほど、大木の下で雨宿りをすることになった。

 雨は一向に止む気配は無い。それどころか雨足はだんだんと強くなる。辺りもだんだんと暗くなってきた。
「こんなことになるなら、びしゃ濡れになっても降り始めの時に車の所まで戻るんだった……」
 後悔先に立たず。
 せっかく雨宿りを始めてしまったのだから雨が止むまで待とうとその場に留まり続けた俺が本当の後悔をするのは、さらに三十分が経った時だった。ガラガラと聞いたことのない轟音が大地を揺らす。山の方を見ると、バキバキと次々と木がなぎ倒されていた。
「ヤバい、土砂崩れだ!」
 早く逃げないとここも危ない。
 俺は雨の中、登山道を車に向かって走り出した。が、すでに時は遅し。くるぶしに冷たいものを感じた瞬間、俺は大量の水に体をさらわれたのだ。
 思わず近くの木にしがみつく。
 しかし土砂崩れに伴う鉄砲水は、その木もろとも俺を押し流した。俺は必死に木に掴まりながらも意識を失った――

 気が付くと、俺は流された木にしがみついたままゴツゴツした川原に横たわっていた。
 どうやら命は助かったようだ。幸い大きな怪我もなく、足や背中に軽い打撲を負っただけで済んだのは奇跡に近い。
「しかし一体、ここはどこだろう?」
 辺りはすでに真っ暗。ザアザアと流れる川のほとりであることは分かるが、道も灯りも何もない。ポケットからスマホを出すと、水没したためか全く反応しなかった。
「困ったなあ……」
 俺は途方に暮れる。空を見上げると木々の間から星が見えた。どうやら天候はすでに回復しているようだ。
 こうなったら川に沿って下るしか方法は無いだろう。まだ水流が多くて不安だが、人里に出るにはこれが確実だ。
 だんだんと暗闇に目が慣れてきた俺は、川に沿うようにして藪こぎを始めた。

「あっ、灯りだっ!」
 一時間も奮闘しただろうか。手足を傷だらけにしながら、やっとのことで俺は人家の灯りを見つけた。
「しかも温泉!」
 目の前に現れたのは、川に面した温泉宿の露天風呂だった。
「助かったぁ……」
 そのまま露天風呂に入りたい気持ちを抑え、俺は温泉宿の玄関に向かう。そこには『秋山の湯』という看板が掲げられていた。
「すいません。お願いします、どうか泊めて下さい!」
 玄関を開けて俺が必死に叫ぶと、人が良さそうな白髪のおじいさんが出て来た。おじいさんは申し訳なさそうに俺に向かって頭を下げる。
「ごめんなさい、今夜はもう泊まれません」
 もう泊まれないって夜遅いから? それとも満室ってこと? 
 しかし満室というには宿には人が居る感じは無いし、さっきの露天風呂も誰も入っていなかった。念のため俺はおじいさんに訊いてみる。
「満室ってことですか?」
「いえ、そうではないんです。今夜はどなたも泊まれないんです」
 誰も泊まれないって?
 もしそうなら宿の電気は消えてるはずじゃないか。でも建物には煌々と灯りが点けられているし、露天風呂だってきちんとお湯が張ってあった。
 ということは……、もしかしてVIPがお忍びで来ているとか? それだったら邪魔はしないから、せめて宿泊だけでもさせてほしい。
「そこをなんとか泊めてほしいんです。山で鉄砲水に遭って、びしゃびしゃになって途方に暮れているんです」
 俺がそう言うと、おじいさんの眉がピクリと動く。
「鉄砲水……ですか?」
「はい、そうです」
 俺がそう答えると、おじいさんの態度が豹変した。突然俺に対して物腰が柔らかくなったのだ。
「それは失礼いたしました。どうぞ、こちらに」
「ありがとうございます!」
 災害に遭った人を追い返すようなことは、さすがに非人道的と思ったのだろう。
 俺はほっとしながらびしょ濡れになった靴と靴下を脱ぎ、スリッパを履いておじいさんの後について廊下を歩く。案内された部屋は、八畳ほどの古風な和室だった。
「お疲れでしょう。どうぞお風呂に入って下さい。浴衣はここにあります」
 ああ、早くお風呂に入りたい!
 おじいさんが部屋から退出すると、俺は浴衣に着替えて露天風呂に駆け込んだ。

「ああ、いい湯だった」
 地獄で仏に会うとは、こんなことを言うのだろう。
 すっかり生き返った俺が部屋に戻ると、温かい食事が並べられていた。
「こんな老いぼれが作る料理で、大変申し訳ありませんが……」
 いやいや、これは本当に有り難い。
 ご飯に味噌汁、そして焼き魚に漬物。メニューはシンプルだったが、腹ペコだった俺にとっては豪華なディナーだ。夢中で箸を進めながらも、先ほどのおじいさんの言葉が心に引っかかる。
 ――こんな老いぼれが作る料理で。
 温泉宿だったら、板前さんとかが住み込みで働いているのではないのだろうか? VIPがお忍びで来ているのなら、料理は重要なポイントで板前さんは欠かせないはずだ。
 ということは、本当に誰も泊めていない……とか?
 気になった俺は、お腹が一杯になって眠くなった目をこすりながらも、御膳を下げに来たおじいさんに訊いてみる。
「なんで今日は、誰も宿泊できないんですか?」
 こんなに紅葉が綺麗な秋の休日なのに、空室にしている理由が分からない。露天風呂も素敵で快適だったし、開けていれば満室になるほどお客が来るに違いない。
 するとおじいさんは布団を敷きながら、おもむろに語り始めた。
「ちょうど五年前の今日だったんです。忘れもしない平成二十二年、十月三十一日のことでした」
 平成二十二年? 五年前だって!?
「ここの上流で土砂崩れが発生して、何人もの方が亡くなられたのは」
 ま、まさかそんなことって……。
 おじいさんの話は驚きで、おまけにどうしようもないほど急激な眠気に襲われていた俺は正常な判断ができなくなった。
「あれから毎年、この日は私一人で宿を開けているんです」
 そうか、そういうことだったのか……。
 俺はようやく真相に気付く。おじいさんの言う五年前の今日という日に何が起きたのか。
 俺は朦朧とする頭で、親切にしてくれたおじいさんにお礼を述べる。
「今日は本当に、本当にありがとうございました……」
 ここはあの世と現世が交差する場所。
 宿の主人のおじいさんは、俺のために精一杯のおもてなしをしてくれた。
 俺は倒れるように布団に横たわり、おじいさんに心から感謝しながら目を閉じた――

 目を覚ますとそこは川原だった。
 温泉宿の土台らしきコンクリートの上に、俺は横たわっていた。
 ――秋山の湯。
 それは確か、五年前の土砂崩れの際に流された温泉宿の名前だ。宿の主人をはじめとして宿泊客や従業員も犠牲になったとニュースで見たことがある。そのうちの何人かはまだ見つかっていないという話だった。
「宿の主人のおじいさん、今も犠牲者を少なくしようと頑張ってるんだな……」
 誰も泊めていなかったのは、そういうことだったのだ。
 秋のあの日の空室。その理由に俺は深く胸を打たれる。
 ――ありがとう、おじいさん。
 心の中でおじいさんの冥福を祈ると、俺は自分の車を目指して歩き始めた。



共幻文庫 短編小説コンテスト 第7回「秋の空」投稿作品

そつ・わざ2015年10月15日 07時48分22秒

「ようこそ、結婚相談所、『卒業(そつわざ)』へ」
 古びたビルの二階にあるドアを開けると、明るい女性の声が小さな事務所に響く。
 ネットで評判になっている結婚相談所。小さいけど、アフターケアが充実しているという噂だ。
「そつわざ? ここの名前って、『卒業』と書いて『そつわざ』って読むんですか?」
「そうなんです。ウチは『卒』を極める相談所ですから。申し遅れました、私が所長の刈谷茜です。どうぞ、こちらへ」
 元気の良い小柄な女性は、私を個室に案内した。
 というか、所長直々に対応してもらえるなんてラッキー。これは幸先良いかも、と私は個室のソファーに腰掛けた。

「申し訳ありませんが、先にウチの相談所の説明をさせて下さいね」
 私が小さく頷くと、茜所長は紙とマジックを持って向かいのソファーに腰掛ける。
「先ほども申しましたように、ウチは『卒』を極めるために設立した相談所なんです」
 そう言いながら、茜所長はマジックのキャップを取り外す。
「まず、『卒』という字を思い浮かべて下さい」
「卒、卒、卒……」
 私は頭の中に『卒』の字を描く。
「実はですね、この文字の土台はやじろべえでできているんです」
 えっ、やじろべえ?
 驚く私の前で、茜所長は紙に大きく『十』の字を書く。
 そうか、『卒』の字の下の部分は、確かに『十』の字になっている。それを『やじろべえ』と表するなんて、この所長、なかなか面白い。
「そして、やじろべえの上の右と左に『人』が一人ずつ乗っています」
 へえ、確かにやじろべえの上に人が二人乗ってる。
 私は感心しながら、茜所長の前の紙に『卒』の字が組み立てられていく過程を眺めていた。
「最後に『亠(やね)』を乗せて、一つの家の中に入ります。これが私どもが考える結婚なんです」
 そして茜所長は、完成した『卒』の字が私の方を向くように、紙をクルリと回した。

「さあ、この字をよく見て下さい。どんな感じがしますか?」
 どんな感じって……?
 いきなり言われてもすぐには答えられないけど、さっきの『やじろべえ』って説明は興味深かったかも。
「土台がやじろべえっていうのは、面白いですね」
 すると、茜所長は瞳を輝かせる。
「そうなんですよ、そこが『卒業(そつわざ)』の原点なんです」
 そして茜所長は再びマジックのキャップを外す。
「例えばですね、片方の『人』を大きくしてみますね」
 茜所長は、右側の『人』の字をマジックでなぞって太字にする。
「どうです? どんな感じがしますか?」
 右側の『人』だけが太く大きくなり、『卒』の字がすごくアンバランスになってしまった。
「なんだか、右側に倒れちゃいそうですね」
「そうです、そこです!」
 興奮気味に指摘する茜所長。どうやらこれが、彼女の言わんとすることらしい。
「どちらかの『人』が大きくなってしまったら、結婚生活はバランスが崩れてしまいます。『卒』という字を保つためには、微妙なバランスが必要なんです。それを維持し続けることを、私どもは『卒業(そつわざ)』と呼んでおります」
 へえ、だからこの相談所はアフターケアが良いって評判なんだ。
 それに、やじろべえの上に『人』が二人なんて、私にぴったりの相談所だよ。
 私はもっと、この相談所のシステムについて知りたくなった。

「所長にちょっとお聞きしたいのですが、その『卒業(そつわざ)』ではどうやって二人のバランスを維持しているのですか?」
 私は単刀直入に茜所長に訊いてみる。
 普通の結婚相談所は、二人を引き合わせるところで終了だ。良心的なところでも、面倒を見てくれるのは結婚式までだと思う。それなのに、この相談所では二人のバランスを維持し続けることがモットーらしい。だから、そこまでケアしてくれる方法が知りたかった。もしかしたら、ものすごく値段が高いのかもしれない。
「そうですよね、それって知りたいですよね?」
 茜所長はソファーに座り直し、改まって私を見る。
「ウチでは少し特殊な方法を用いています。そして、この方法についてご了承いただけるお客さんのみ、お相手をご紹介しているのです。この点は事前にご了承いただきたいのですが、よろしいですか?」
 いよいよ核心に迫ってきたぞ。
 私は小さく頷くと、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「実はですね、紹介したお二人のその後の生活について、小説に書かせていただいているんです」
 小説?
 不思議に思いながらも、私は茜所長の話に耳を傾ける。
「もちろん実名や住所、職業等は明かしません。偽名を用いて、無料の小説の投稿サイトにお二人の間の出来事についてヒューマンドラマとして書かせていただいております」
 無料の小説の投稿サイトに?
 それでどうやって二人のバランスが保てるのだろう?
「そんなことをして効果があるのですか?」
「小説と言って皆さんバカにしますが、これが絶大な効果があるんです。無料サイトですと気楽にコメントを寄せてくれる方が沢山おりまして、『〇〇の方が威張ってる』とか『△△はもっと主張すべきだ』というコメントが寄せられて、二人の良いアドバイスになるんです」
 へえ~。確かに読者からの忌憚のない意見なら、核心を突くこともあるかもしれない。
「それに、自分達の行動を読んで、お二人が冷静になるという効果もあります」
 きっとこの効果も大きいだろう。
「そして、これはウチの最大の特徴なのですが、もし紹介したお二人が上手くいかなかった場合、紹介料をお返ししてるんです。だってその時は、小説を有料化すれば元が取れますから。そうならないようにって、頑張っていらっしゃるお客さんもいるんですよ」
 これはある意味すごいシステムかもしれない。
 二人の関係がめちゃめちゃになればなるほど、売上は大きくなるのだろう。
「ご紹介後のお二人の様子を小説に書かせていただけることが前提になっていますので、紹介料はお手頃な値段になっています」
 具体的に訊いてみると、他の結婚紹介所とあまり変わらない。
 それでアフターケアが充実するのなら、頼んでみてもいいかもしれない。別に私は小説に書かれても構わないし。
 それよりも、『人』と『人』とのバランスを重視するというポリシーが気に入った。
「じゃあ、早速入会したいと思います」
「ありがとうございます。ちなみにお聞きしますが、どんな御方がお好みでしょうか?」
 私は思い切って、自分に関する特殊事情を打ち明ける。
「あのう……、実は私、男の人が苦手で、女の人を紹介してほしいんです。それって……、大丈夫ですか?」
 すると茜所長は自信満々に言った。
「ええ、問題ありませんよ。私、百合描写は得意ですから……」



共幻文庫 短編小説コンテスト 第5回「卒業」投稿作品