桃色ぱんつにご用心 ― 2012年05月16日 20時15分49秒
高校からの帰り道、萌々埼みどり(ももさき みどり)は懐かしいメロディを耳にして足を止めた。
――ドボルザーク交響曲第九番第二楽章。
『家路』という名前で、下校時によく校庭のスピーカーから流れているあの曲だ。そういえば、この近くに小学校があったような気がする。住宅街を歩くみどりは、『家路』のメロディに耳を傾けながらゆっくりと橙色の空を見上げた。
「お父さん……」
三日前から家に帰って来ない父、萌々埼研一(ももさき けんいち)。この『家路』は、よく父と一緒に聴いた曲だった。
「また、いつもの彷徨だったらいいんだけど……」
研究者の父は、実験に行き詰ると突然フラっと居なくなることがあった。丸二日父が戻らなくても、家族は誰も不思議に思わなかった。三日目の朝、つまり今朝のことだが、いつもと様子が違うと感じた母が父の書斎に入り、机の上にみどり宛の手紙を見つけたのだ。
『私が家に戻らない時は、みどりは黄之瀬のところに行ってくれ。彼はみどりを守ってくれるだろう。そして奥義を学ぶのだ』
この手紙を見たみどりは、もしかしたら父は行方不明になったんじゃないかと思った。『守ってくれる』という物騒な文言も、みどりを不安にさせていた。
ちなみに黄之瀬とは、父の大学の同級生の黄之瀬仙人(きのせ せんと)のこと。父が最も頼りにしている友人であり、みどりが子供の時から家族ぐるみの付き合いをしている気の良いおじさんでもある。
(ていうか、奥義って何だよ、奥義って……)
奥義。この言葉さえ無ければ、みどりはもっと真剣に父のことを心配しただろう。こんな手紙、警察に届けるのも恥ずかしい。得体の知れない技を娘に学ばせるために、父はわざと姿を隠しているんじゃないだろうか。そう疑われても、返す言葉が無かった。
結局、みどりと母は、一週間ほど様子を見ようと相談して決めた。
そういえば、黄之瀬達は大学時代に悪ふざけをしていたと母から聞いたことがある。なんでも、戦隊ヒーローの真似事をしていたそうだ。手紙に書かれている奥義って、そのエピソードに関係することなのだろうか?
ちなみに、黄之瀬が戦隊ヒーローをやるならきっとイエローだろう。ちょっと太めだし、好物はカレーだし、なにより名字に『黄』の文字がある。
(すると、お父さんはピンク!?)
なわけがない。いくら名字が『ももさき』だからって、男がピンクを演じるとは思えない。
夕暮れに染まる空を見ながら、みどりがそんなことを考えていると、視界の端にチラリと不審な影を感じる。
(えっ、誰?)
振り向くと誰も居ない。
しかし再び前を向くと――やはり視線の端に不審な動きがあった。
(み、見張られている!?)
みどりの背筋がさーっと寒くなる。
まさか父は誰かに拉致されていて、その犯人は今度はみどりのことを狙っているのだろうか。
(だったら早くここから逃げなくちゃ……)
でも足が動かない。背筋を凍らせた何かが、足まで氷漬けにしてしまったようだ。
(動いてよ、私の足! この場に留まるのは危険なんだからっ!!)
そうやって焦れば焦るほど、足はますます硬直してしまう。後ろを向かないように視線だけを背後に集中すると、通りの角からサングラスの二人組がみどりの様子を窺っているのが見えた。頭の高さから判断してチビとノッポのコンビ。チビは真っ赤な風邪用マスクを口に掛けていた。
「ぎゃーっ! 助けて!!」
やっと声が出た。すると体も動くようになる。みどりは脱兎のごとく繁華街を目指して走り出した。
「ま、待って! みどりィ!!」
二人組は慌ててみどりを追いかけ始める。
(待ってなんて言われたって、待てるわけないじゃないっ!)
今居る住宅街から繁華街まで二百メートルほどだ。そこまで走り切れば誰かが助けてくれるだろう。
(あと少し! ここさえ抜ければ!!)
繁華街の手前にはシャッター街になっている暗い路地があった。最短距離を通るにはここを抜けるしかない。
みどりは意を決して路地に飛び込む。タンタンタンと、アスファルトを蹴るローファーの音が路地にこだまする。
(あと十メートル!!)
しかしその時――
「きゃっ!」
突然、脇から飛び出して来た二人の男達に、みどりは右腕と左腕をそれぞれがっしりと掴まれてしまったのだ。
「やめて! 離してよっ!!」
いくらもがいても腕を固められては動けない。男達は黒いスーツを着ていた。
「嫌っ! やめてっ!!」
でも誰だ、こいつら。二人組にはまだ追い付かれていないはずなのに。
みどりは背後を確認しようとしたが、黒服達に抑え込まれていて振り向くことができない。
「ど、どこに連れて行こうというの?」
黒服達は無言のまま、彼らが飛び出して来た路地にみどりを連れ込もうとする。
すると背後から叫び声が聞こえた。
「みどりィィィッ! 今助けてやるからなッ!!」
えっ、私の名前? なんか聞いたことのある声なんだけど。
「レェェェッド、ハァァリケェェェーン!」
そして変な叫び声と共に、突風が体の右側を通り過ぎる。同時に、右手を掴んでいた黒服の男が三メートルほど吹き飛ばされていた。
ガッシャーンと店舗のシャッターに打ち付けられた黒服は、目を押さえて地面をのた打ち回っている。
「目がっ! 目がぁぁぁっ!!」
みどりも少し目の痛みを感じる。どうやら黒服を吹き飛ばした突風に、目つぶしの成分が含まれていたようだ。
(今の突風って何? あの二人組の仕業なの?)
自由になった右側から後ろを振り向くと、二人組がこちらに向かって走って来るところだった。
「みどり、こっちを向くなっ!」
赤マスクが叫ぶ。またさっきの突風を放とうというのだろうか。
「ダメだ、レッドハリケーンがみどりの顔に当たってしまう。仕方が無い、頼んだぞブルー!」
「ラジャー!」
すると、ブルーと呼ばれたノッポがポケットから何かを取り出し、それを鼻に詰めてみどりに向かって水平にダイブした。
「ブルゥゥゥーッ、ジェェェットォォォッ!」
ノッポは地面に落ちることなく、頭をみどりの方に向けてすごいスピードで近づいてくる。
(え、え、え、そんなバカな!?)
ロケットのごとく飛んで来たノッポは、みどりの左手を押さえている黒服に体当たりしたのだ。
「ぐぇッ!」
黒服は、ノッポの頭突きをモロに喰らって吹っ飛ぶ。これで両腕が自由になった。
それにしても、目つぶし突風といい、ロケット頭突きといい、何て奴らなんだよ。
「アイタタタタ。大丈夫ですか? みどりさん」
頭を押さえながらノッポが立ち上がる。頭突きの衝撃だろうか、サングラスが外れてしまった彼はかなりのイケメン……というか、みどりの知った顔だった。
「りょ、亮くん、どうしたの?」
青凪亮(あおなぎ りょう)。近所に住んでいる高校一年生だ。
「隠れてみどりさんを見守っていたんです。危ないところでした」
「危ないところって、あんたたちにつけられていた時の方が寿命が縮まったんだけど。てことは、赤マスクはあのバカ?」
あの叫び声といい、あの背の高さといい、考えられるのは一人しかいない。
「バカなんてあんまりですよ。直司さんは真剣にみどりさんのことを心配してたんですから」
「やっぱり、あいつか……」
赤根直司(あかね なおし)。みどりの幼馴染でもあり、高校二年の同級生でもある腐れ縁。
そうこうしているうちに、直司がみどり達に追いついた。
「大丈夫かっ、みどりィィっ!」
「ええ、おかげ様でね」
直司は一瞬ほっとした顔をすると、今度は亮の方を向く。
「よくやったブルー!」
「はいっ、レッド」
おいおい、レッドとかブルーとかかなり痛いんだけど、お前ら。
「ほら、みどりも行くぞ。こいつらが起きないうちに」
のびている黒服二人を後に、みどりは直司に手を引かれて繁華街に消えて行った。
◇
三十分後、みどり達はハンバーガー屋に居た。
「みどり、お前は狙われている」
ドヤ顔で迫る直司。彼の口から漏れ出る赤い息が、みどりの顔に降りかかる。
「ぶわっ、ちょ、ちょっと直司、こっちを向いてしゃべらないでよ。あんたの息は臭くて、しかも痛いんだから」
みどりが目を押さえると直司は謝った。
「ゴメン、あっち向くからさ……」
直司は壁を向いたまま話を続ける。知らない人が見たら危ない人だ。
「だからお前は狙われているんだ、灰沢ってやつに」
「なんか全く話が見えないんだけど。ていうか、あんた、もう喋らないで。臭いから」
この一時間にいろいろなことがあった。
まずは、住宅街で尾行してきた不審な二人組、そして暗い路地で私を拉致しようとした黒服達。まあ、不審な二人組はこいつらだったんだけど。
それにしても直司の息は臭い。トウガラシ臭がして目が痛くなる。
「じゃあ僕が説明します、みどりさん」
みどりは亮を向いた。
でも亮くんってホント、イケメンだよね。彼の息もちょっと臭いけど。なんだか青くてチーズっぽいのは何故? まあ、直司より数倍マシだから我慢してあげる。
「みどりさん、あなたは狙われているんです。あなたのお父さんと大学で同級生だった灰沢って男に」
またお父さんの同級生? みどりは眉をしかめた。
「なんで? なんで私が狙われなくちゃいけないの?」
「それはですね、みどりさんのお父さんが失踪したからなんですよ」
「やっぱり……」
亮の話はこんな感じだった。
三日前、父が直司と亮のところに訪問してこう言ったという。
灰沢という男に狙われているからしばらく姿を隠す。次はきっとみどりが狙われるから、みどりが黄之瀬のところに行くまで守ってやってくれ、と。
「なによ、やっぱお父さん、一人で隠れてるんじゃん」
娘をほったらかして、なんという親だ。
「でも研一おじさん、みどりに何回も話そうとしてたんだよ」
壁を向いたまま直司が口をはさむ。
「最近、みどりが顔を合わせてくれないって嘆いてたぜ、おじさん」
だからといって、手紙一つで失踪してもいいという話ではない。
「それであんた達が正義の味方をやってるってわけ?」
「そうなんですよ、みどりさん。僕達すごかったでしょ?」
亮が得意げな顔をする。確かに、今日は亮達に助けられた。
「亮くんには感謝するわ、今日はありがとう」
「おいおい、俺は無視かよ」
「はいはい、直司もア・リ・ガ・トさん」
チラリと横目で直司を見ると、なんとも渋い表情をしていた。
(こいつの前では、なんか素直になれないんだよね……)
みどりはまた亮を見る。
「ということは、さっき私を拉致しようとした黒服達は、その灰沢って奴の手下ってこと?」
「おそらくそうだと思います」
でも彼らはなぜ私を狙うんだろう?
「私なんか拉致したってしょうがないじゃない。わけわかんない」
「そうなんですよね。僕達もそれが不思議なんです」
亮は分からないという顔をする。直司も首をすくめていた。
「灰沢の狙いは、みどりさんのお父さんの発明、ってことは分かってるんですけどね」
「発明? お父さんって、そんな便利なものを発明してたわけ?」
すると直司が呆れたように口をはさむ。
「お前は何にも知らないんだな。これだよ、これ」
振り向くと、直司が手に赤マスクを掲げていた。
「今日はこれに助けられただろ?」
助けられたって、あの突風はそのマスクのおかげだってこと?
「みどりさん、あのマスクの中にお父さんの発明が組み込まれているんですよ。それが直司さんの奥義、レッドハリケーンを生み出しているんです」
「レ、レッドハリケーン? それが……奥義?」
それから亮と直司は、目を輝かせながら奥義について語り始めた。
直司が習得したレッドハリケーンとは、赤トウガラシを含んだ息で突風を作り出す奥義。そして亮が習得したブルージェットは、青チーズを含んだ鼻息の勢いでロケットのように宙を飛ぶ奥義らしい。
「ちょ、ちょ、ちょっと、あんた達。やけに熱く語っちゃってるけど、息や鼻息でそんなことができるわけ?」
「そこなんですよ、みどりさんのお父さんの発明の凄いところは。この赤マスクと青鼻ガーゼには、PAN2という繊維が織り込まれているんです」
「ぱんつ?」
「ぱんつじゃねえよ、PAN2! ローマ字のP、A、Nと数字の2。正式名はパーティクル、アクセレラレロ……」
噛んだ。レッドのくせに、直司が噛んだ。
「みどりさん、Particle Acceleration Netですよ。微粒子加速機能付き網状繊維。その試作二号でPAN2なんです」
きれいな発音で亮くんが補足してくれる。やっぱり亮くんは最高だわ。
「それがお父さんの発明ってわけ?」
「そうなんです」
なんでも、PAN2、つまり微粒子加速機能付き網状繊維はその名の通り網状の繊維で、そこを通り抜ける微粒子をものすごく加速させるんだそうな。
「じゃあ、そのPAN2を使えば、私にだってすぐレッドなんとかって珍技を発動できるってことじゃない」
「レッドハリケーンだよ! それに珍技じゃねえ、奥義だっ!」
すかさず言い直す直司。よほど奥義に愛着があるらしい。
「そもそも、そんなに簡単にはできねえんだよ、みどり」
直司が素人を見る目つきでみどりの方を向く。全く嫌なヤツ。
「さっきから言ってるだろ、PAN2は微粒子を加速させる繊維だって。微粒子が無くちゃ効果を発揮できないんだよ」
微粒子? 息や鼻息に微粒子なんて含まれてんの? もしかして唾の粒子とか?
みどりがぽかんとしていると、亮が助け舟を出してくれた。
「匂いですよ、みどりさん」
匂い? 匂いって微粒子なの?
「そうだよ、匂いは微粒子なんだよ。XXXの匂いがするってことは、XXXから飛んできた微粒子が鼻の中に入るってこ、痛てッ、なにすんだよ」
「飲食店でそんなこと言うんじゃないよ、バカ直司! せっかくのソフトクリームが不味くなるじゃない!」
それにしても、匂いが微粒子だったなんて知らなかったわ。今度から注意しなくっちゃ。
「だからですね、強い匂いのする息や鼻息が出せないと、PAN2を使いこなせないんですよ」
それで、こいつらの息はこんなにも臭いのか。
「匂いだけじゃないぜ。俺の息には赤トウガラシの微粒子も含まれてるからな」
「ああ、わかったわかった、直司は凄いよ。だから、あっち向け!」
みどりは直司の肩を小突いて、顔を壁に向けさせる。
「はははは、相変わらず仲がいいですね」
その姿を見て、亮が笑っていた。
「ああ、そうだ。お前のお父さんからこれを預かってたんだ」
そう言いながら、直司が鞄から小さな箱を取り出す。そして、壁を向いたまま後ろ手でみどりに差し出した。
「なによ、人に物を渡す時はちゃんと前を向きなさいよ」
「お前がこっち向くなって言うから遠慮してんだろ?」
ふてくされた直司は一向にみどりの方を向こうとしない。仕方が無いので、みどりは直司の手から箱を受け取った。
ティッシュボックスを一回り小さくしたような質素な段ボールの箱。
「開けてもいいの?」
「ああ、いいんじゃね」
(それにしてもお父さんから私にって、何が入ってるんだろう?)
不思議に思いながらみどりが箱を開けると、そこには――ぱんつが入っていた。しかもピンクの。
(えっ、何? これ……)
シルクのようなピンクの光沢を放つぱんつ。手触りもなめらかで気持ちいい。
でも、お父さんから私にぱんつ、ってどういうこと? もしかして直司は箱の中身を知ってる? だから恥ずかしくてこちらを見られないとか……?
「あー、みどりさん、それ、ぱんつですね」
みどりが考えを巡らせていると、いつの間にか亮が箱の中を覗き込んでいる。
「ちょ、ちょっと、勝手に見ないでよ!」
顔を赤らめながら慌てて隠すと、箱の中からひらひらと一枚の紙が舞い落ちた。
『みどり、これを穿いて黄之瀬のところへ行き、奥義を習得するのだ。研一』
「みどりさん、これってお父さんからの手紙じゃないですかっ!」
紙を拾った亮が、鼻息を荒くする。
「だから勝手に見ないでって言ってるじゃん、亮くん」
しかし亮は悪びれた様子もなく、目を輝かせる。
「みどりさんも僕達と一緒に戦いましょうよ! 黄之瀬さんのところで奥義を習得すればいいんですよ。僕も直司さんも黄之瀬さんのところで奥義を習得したんですから。直司さんがレッド、僕がブルーだから、みどりさんはピンクですね」
嫌だ、そんなの絶対嫌だ。こんな痛い奴らの仲間になるなんて。
「むふふふ、ピンクパンツだな」
様子を窺っていた直司が鼻で笑う。なによ、あんた。このぱんつは絶対穿いてやらないんだから。
「いい加減にしてよ。こんなぱんつ穿いて、どうやって戦えっていうのよ」
「それはあれですよ、みどりさん」
「そうだな、PAN2の威力を活かすんだな」
ニヤニヤと笑う直司と亮。何かを言いたそうだ。
「活かすって、どうすんの? これにもPAN2が織り込まれてるっての?」
「そりゃ、ぱんつだもんな」
「ぱんつですしねー」
二人は顔を見合わせる。まるで息の合った兄弟のようだ。
「それに私、微粒子なんて出せないし……」
「いや、できるぞ、みどり」
「そうですよ、みどりさん。匂いですよ」
二人はみどりのお尻を見つめ始めた。
えっ、えっ、ま、まさか、これを穿いて、お、な……ダメっ、女の子だからそんな単語言えないっ!
「どこ見てんのよ、あんた達。そんなことできるわけないじゃないっ! バカにしないでよっ!!」
「でもよく考えてみろよ、みどり。あの黒服達はまたお前を狙ってくるぜ。そんな時、どうやって自分を守るんだよ」
「だって、だって……、そんな時はあんた達が守ってくれるんでしょ?」
悔しいけど、今は直司達に頼るしかない。
「そりゃ、俺達が無事だったらいいよ。俺達がやられちまったらどうすんだよ。最後にみどりを守るのは、みどり自身なんだぜ」
「…………」
みどりには返す言葉がなかった。直司達が居ない時に襲われたら、みどりはあっさりと黒服達に拉致されてしまうだろう。
「それとも、黄之瀬さんのところに避難するか?」
「それはちょっと……」
黄之瀬の家はここから結構遠い。山の方へ向かって百キロくらいは離れているだろう。当然、今の学校には通えなくなる。
「だったら、とりあえず穿いとけよ。いざという時のお守りだと思ってさ」
「そうですよ、みどりさん。穿いとくだけでいいんですから」
亮くんに言われるとその通りにしてもいいかな、と思ってしまう。
「それでピンチの時には、一発ぶわっと、痛てッ、いきなり叩くことねえだろっ!」
「バカっ。叩かれたくなかったら、女の子の前でそんな下品なこと言うんじゃないよっ!」
まったく直司はデリカシーの欠片もないんだから。
「悪かったよ。俺達もできるだけみどりのことを見守っているからさ、機嫌直してくれよ」
「ふんっ。じゃあ、亮くん、よろしくお願い」
「はい、わかりました」
みどりの依頼に、気持ちよく返事をする亮。
「おいおい、みどり、何で亮なんだよ」
「だって、あんたの息は臭いから。あんたは遠くから隠れて見守っててちょうだい。私は亮くんにエスコートしてもらうわ」
「直司さん、影からサポートお願いしますね」
「なんだよ、亮もそんなこと言うのかよ。ちぇっ、わかったよ……」
結局、その日のみどりは、亮に家まで送ってもらうことになった。もちろん、直司も背後から見守ってくれたみたいだけど。
◇
翌朝、みどりが亮と一緒に登校すると、クラスでたちまち噂になってしまう。
「みどりィ、意外とあんたもやるじゃない」
「誰? 一緒に登校してたイケメンは?」
「ああ、彼はね……」
クラスメイトに囲まれて質問攻めに遭う。
みどりだって、好きで亮に付き合ってもらっているわけではない。だが、彼との仲が噂されるのもまんざらではなかった。
(なかなか気分いいかも……)
直司に送ってもらわなくて良かった。まあ、直司も影から見守ってくれていたはずなんだけど。
「亮くんっていう後輩で、家の近くに住んでるんだよ」
「えっ、みどり、あんた年下が好みなの?」
「知らなかったわ~」
こんなにクラスで噂されちゃって、直司はどんな気持ちで聞いているんだろう。みどりはチラリと直司の席を見る。が、直司は居ない。
(なによ、影から見守ってるっていうのは嘘じゃない……)
みどり達と一緒に登校したのなら、とっくに学校に着いているはずだ。
(亮くんはこの教室には入れないんだから、ここではあんたが私を守らなくちゃいけないんじゃないの? 念のため、あのぱんつは穿いてきたけどさ……)
最初は腹を立てたみどりだったが、いつまで経っても登校して来ない直司に次第に不安を募らせ始めていた。
そしてその不安は、ホームルームで現実のものとなる。
「おーい、席に着け!」
慌てて教室に駆け込んで来た担任は、肩で息をしている。
「みんな落ち着いて聞いてくれ」
担任の顔はすっかり青ざめていた。
「うちのクラスの赤根直司が、登校途中に誘拐されたらしい。隣のクラスの生徒が、赤根が黒い車に押し込まれるのを目撃した」
ええっ、直司が誘拐!?
みどりは頭が真っ白になる。
「これは大事件だ。したがって今日の授業はすべて無しになった。両親に連絡がつく者は、すぐに連絡して迎えに来てもらってくれ。もしくは二人以上で帰宅。それができない者は学校で待機だ。あと警察の取り調べがあるから、不審者を目撃した者がいたらぜひ協力してほしい」
担任の言葉を聞いてクラスはざわついた。生徒達は各々に携帯電話を取り出し、一斉に掛け始める。そんな喧騒の中、一人の男子生徒が教室に飛び込んで来た。
「み、みどりさん、直司さんがっ!」
亮だった。彼も血相を変えている。
「今、先生から聞いた。私、どうしたらいい?」
「黄之瀬さんのところに行きましょう。あそこなら安全です。僕が送っていきますから」
「でも学校が……」
「そんなこと言ってる場合じゃないですよっ!? この調子じゃ、直司さんが解放されるまで学校だって再開されるかわかりません。どうか黄之瀬さんのところに行って下さい」
厳しい表情をする亮。彼がこんな顔をするのは初めてだ。
「わかったわ……」
みどりは携帯を取り出して母に連絡し、亮と一緒に黄之瀬の家に向かった。
◇
平野を走っていた電車が山間に差し掛かかると、黄之瀬が住む村の無人駅に着く。みどりと亮が電車を降りと、降車客はみどり達を含めて五人だけだった。
「おお、待っておったぞ」
駅まで迎えに来てくれた黄之瀬は、いつもと違う妙な物を右手に掲げている。
――古ぼけたテニスラケット。
それだけだったらまだいい。そのラケットのガットの部分には、黄色いブリーフが被せられていたのだ。
(なに、そのブリーフラケット……?)
後ずさりするみどりに対し、亮は顔を強張らせ、背筋を正して黄之瀬に挨拶をする。
「お久しぶりです、師匠!」
おいおい、そんな大声で叫ぶなって。知り合いだと思われちゃうじゃん。
みどりが他人のフリをしていると、黄之瀬が亮に声を掛けた。
「でかしたぞ、亮。よくみどりを守ったな」
「いえ、直司さんのおかげです。しかし、あんなことになってしまって……」
「灰沢のやつ、直司を誘拐するとはな。それにしても、みどりが無事で良かった」
そして黄之瀬はみどりの方を向く。
目が合ってしまった。
ずっと他人のフリをしていたみどりだが、言葉を交わさざるを得ない状況だ。
「おじさんお久しぶり。でもその前に、その変な物を隠してよ」
みどりは黄之瀬が手にするブリーフラケットを見る。
「なに、この宝具を変な物と言ったのか?」
宝具? そのブリーフラケットが宝具だって? そりゃ、手垢にまみれたラケットは黄之瀬おじさんの青春の宝かもしれないけど、そのブリーフは明らかにNGだよ。
隠せと言うみどりの指摘を受け、眉をしかめる黄之瀬。となりの亮は青ざめている。
「ふふふふ。では、こいつの威力を体感してもらおう」
ニヤリと口元を結んだ黄之瀬は、高々とラケットを持ち上げる。そしてすっと息を吸い込むと、いきなり奇声を発した。
「イエローォォォッ、ブリィィィーズゥゥッ!」
イエローブリーフの間違いじゃないの? とみどりが思う間もなく、黄之瀬がラケットをらせん状にしならせた。その動きに合わせて、黄色いブリーフからビュンビュンと風鳴り音が発生する。すると、みどりの足元に妙な風が巻き起こり始めた。
「きゃっ!?」
風によって、みどりの制服のスカートがふわりと膨らみ始めたのだ。
「ちょ、ちょっと、やめてよ、おじさん」
「ワシの宝具をバカにした罰だ。奥義の力を知るといい」
必死にスカートを押さえるみどり。しかし、スカートは膨れ上がる一方だった。
それは不思議な光景だった。突風が下から吹き付けているわけでもないのに、みどりを取り巻く風によってスカートだけが膨れていく。それはまるで、スカートの中に傘の骨組みが仕組まれていて、それがゆっくりと開いていくかのようだった。
「キャー、み、見ないでっ!」
そして、姿を現し始めたぱんつ。シルク調の桃色の布地が見え隠れする。
「おお、ちゃんとピンクパンツを穿いて来たか。感心、感心」
黄之瀬は目を細めながら、自分のアゴをなで始めた。
「いい加減にやめてよ、おじさん」
このままスカートが上がり続ければ、パンチラがモロパンになってしまう。
「師匠、ストッォォォップッ!」
たまりかねた亮が、黄之瀬を制止した。
(ありがとう、亮くん。おじさんの暴走を止めてくれて)
みどりが涙目で亮を見ると、彼は鼻息を荒くしている。それはまるで、これくらいの露出がちょうどいいと言わんばかりに。
「もう最高ですね、見えたり見えなかったり。今度僕にもイエローブリーズを教えて下さい」
「ほう、そうか。でも難しいぞ、黄色の書をマスターするのは」
(あんた達ね……)
呆れるみどり。と同時に、二人に対する怒りがふつふつと湧き上がって来た。
(もう絶対許さない!)
辺りを見回すと駅周辺にはもう誰も居ない。つまり、何が起こっても誰にも迷惑をかけないし、恥ずかしい思いもすることはないってことだ。
それを確認したみどりは、静かに目を閉じた。
(見てなよ、あんた達をビックリさせてあげる)
そしてお腹に力を込めて、ゆっくりと声を発し始めた。
「奥義! ピィィィーンクッ……」
「えっ!?」
「まさかっ!?」
みどりの叫び声に驚いた黄之瀬と亮は、血相を変えてその場を離れようとする。
「パァァァーンツゥゥッ!!」
渾身の一声。
慌てふためく黄之瀬と亮は、逃げる時に体同士を激しくぶつけてしまい、足がもつれてドタっと地べたに倒れこんだ。カランカランと黄之瀬のラケットが転がっていく。
(ええっ!?)
みどりは驚いた。
場合によっては一発喰らわせてやってもいいと覚悟していたのだが、その必要が無くなったのを見てお腹の力を抜く。スカートもふわふわと元の状態に戻って来た。黄之瀬がラケットを手放したためだろう。
静寂が再び無人駅を包む。
(二人がこんなに慌てるなんて……)
ただ叫んだだけなのに、この慌てぶりはなんだろう。ピンクパンツに仕組まれたPAN2は、それだけすごい突風を発するということなのだろうか。
強い力を持つということ――みどりの中に、今まで味わったことのない昂揚感が生まれていた。
「あはははは、冗談よ。これに懲りたら、もうスカートめくりなんてしないことね」
それにしても二人の狼狽ぶりは面白かった。穿いているだけで効果があるってのは、本当だったのかもしれない。
「アイタタタタ。驚かせないで下さいよ、みどりさん」
「このワシも、ちょっとビビったぞ」
体を押さえながら二人が立ち上がる。
何強がってんのよ、おじさん。ちょっとじゃなかったでしょ、ちょっとじゃ。
「みどりに奥義を教えていなかったことを、すっかり忘れておった。まあ、しばらくはウチにおるわけだから、じっくりと習得するがよい」
それって、奥義を習得しろってこと?
「嫌よ私。そんなもの学ばないわ」
そう、このピンクパンツは、威嚇にも使えることがわかったから。
「まあ、それもいいだろう。好きにすればよい。とにかくワシのところに居れば安全だ」
さて、ピンクパンツをどう使ってやろうか。亮と別れ、黄之瀬の車に乗り込んだみどりは、ピンクパンツの使い道に思いを巡らせ始めていた。
◇
灰沢黒男(かいざわ くろお)。
みどりの父、研一の大学の同級生でもあり、ライバルでもあった男。
「灰沢と研一、そしてワシの三人は、入学した大学の工学部で一緒だったんだ」
灰沢について説明する黄之瀬は、どこか遠い目をしていた。
ここは黄之瀬の自宅のリビング。夕食後、みどりは黄之瀬から父の大学時代の話を聞いている。ちなみにその日の夕食は、独り身の黄之瀬のためにみどりがカレーライスを作ってあげた。
「教養課程が終わり、繊維工学科に進んだ灰沢に対し、研一は物理工学を専攻した。そして、ワシは食品工学を学んだのだ」
つまり、灰沢が特殊な網状繊維を開発し、研一がそれに微粒子を加速させる機能を付加する。こうして完成したPAN(微粒子加速機能付き網状繊維)の効果を最大限に活かすため、黄之瀬が匂いの元となる食品を開発していたという。
「そのPANの力を正義のために使おうとして、ワシらはヒーロー戦隊を組んだのだ」
やっぱり母の話は本当だったんだ……。
「しかし当時のPANはまだ出力が弱くて、十メートル離れた女の子のスカートをめくるくらいの威力しか無かった……」
スカートめくりのどこが正義なのよ、とみどりは黄之瀬を睨みつける。しかし、そんなことはお構いなしに黄之瀬は話を続けた。
「大学を卒業してから大学院、そして研究室に残った研一は、ずっとPANの改良に取り組んでおった。そして、二年くらい前にPANの威力を百倍に増幅することに成功したのだ。それが試作二号機、つまりPAN2なのだ」
威力が百倍!?
つまり、十メートル離れたスカートをめくることができる百倍の強さの風を発生できるようになったということだ。百人のスカートをめくれるようになったのではないだろう。それくらい強い風なら、人を吹き飛ばすことも可能かもしれない。
みどりは、灰沢の手下に拉致されそうになって直司に助けられた時のことを思い出していた。
『レッドハリケーンは、赤トウガラシの成分を含む息を、マスクを通して突風に増幅する奥義なんだ』
ハンバーガー屋で直司から聞いた説明。
あの時は、息で人を吹き飛ばせるなんて嘘だと思った。実は空気砲みたいなものを隠し持っていたんじゃないかと疑った。
しかし黄之瀬から詳細な説明を受けるにつれて、直司の奥義は本当のことだったのだとみどりは実感し始めていた。
「灰沢はきっと、PAN2の技術が欲しいのだろう……」
黄之瀬はズズズとお茶をすする。
しかしここでみどりは不思議に思う。PAN2の技術が欲しければ、父に直接聞けばいいだけだ。みどりのことを狙う理由がわからない。
「一つ教えてほしいんだけど、灰沢はなんで私のことを拉致しようとしてるの? 私、PAN2のことなんて何にも知らないんだけど……」
「ワシもさっぱり分からん。お前を拉致して研一を誘き出し、秘密を聞き出そうとしているとしか思えん。もしかしたら、お前に会いたいだけかもしれんがな」
なに、それ?
灰沢も、ただのスケベオヤジってこと……?
「ワシがみどりを匿っていることを知った灰沢は、直司の解放との引き換えにお前の身を要求してくるだろう。その時のために、奥義を学んでおいた方がいいと思わんか?」
また奥義かよ。お父さんといいおじさんといい、奥義とやらを本気で私に学ばせたいらしい。
「そりゃ、自分の力で直司を助けることができればいいとは思うけどさ……」
駅の時のように、奥義を習得していなくたってピンクパンツが威嚇になることはないのだろうか。そうすれば奥義を学ばなくても済む。
考え込むみどりを横目に、黄之瀬はここぞとばかりに畳み掛けた。
「もし、お前が一人で灰沢に拉致されてしまったらどうする? せっかくここに居るんだから、奥義を習得して自分の力で直司を助けてみないか? 直司だって、お前を守りたい一心で奥義を習得したんだぞ」
えっ、直司が? 私の……ために……?
「それって……」
「直司からは口止めされていたがな。話すにはいい機会だろう」
そしてみどりは、直司が奥義を習得するいきさつを知ることになった。
「直司が真っ白なマスクを持ってここに来たのは、ちょうど一年前のことだった」
一年前と言えば、みどり達が高校に入学したばかりの頃だ。
「きっと研一にそそのかされたのだろう。『このマスクには強い力がある』という風に。研一も研一で、完成したばかりのPAN2の威力を確かめたかったに違いない。強くなりたい直司、PAN2の実践データが欲しい研一。両者の利害が一致したのだ」
直司は背が低い。だから、子供の頃からチビと呼ばれてバカにされてきた。そして中学生になっても背は一向に伸びなかった。強くなりたいという願望は、以前から持ち続けていたのだろう。
「ここに来てすぐに直司は、なるべく強い奥義を習得したいと言いよった。そして、赤の書を選んだのだ」
赤の書。それをマスターするには、赤トウガラシを練り込んだ赤団子を食後に食べる必要があると黄之瀬は言う。赤団子は激辛で、少なくとも二時間はその苦痛に耐えなくてはならない。
「ええっ、二時間も!?」
「そうだ。それも毎食だから一日で合計六時間になる。直司は赤団子を自宅に持ち帰り、激辛修行を一年間もやり通したのだ」
一日六時間が三百六十五日だから、えっと、二千時間を超える計算になる。
「それだけではないぞ。週末はわざわざここに来て、息の出し方の特訓をしておった。いくら赤団子を食べても、目つぶし効果のある息が出せるだけだからな。狙いをつけるとか、出力を細く絞るとか、そういうのは別に特訓が必要なのだ。直司がここに通い始めて一年経つと、純白だったマスクは真っ赤になっておった。それほどまでに努力して、直司は奥義レッドハリケーンを習得したんだよ」
知らなかった、直司がそんな特訓をしていたなんて……。
確かに訓練もせずにPAN2を使えば、周囲にあるものをすべて吹き飛ばしてしまうような気もする。十メートル先から人間一人に的を絞って正確に当てるなんて、もしかしたらもの凄いことだったのかもしれない。
「ゴメン、直司……」
みどりの口からは、いつの間にか直司の名前がこぼれ落ちていた。
「私、直司に酷いこと言っちゃった。PAN2があれば、誰でも奥義が使えるって……」
そして黄之瀬の顔を見る。
黄之瀬は表情を崩すと、小さかった頃のみどりをなだめるような目で言葉を紡ぎ始めた。
「いいんだよ、みどり。それがわかっただけでも。直司もきっと許してくれるだろう。だって、直司はみどりに恩返しがしたかっただけなんだから」
「恩返し?」
「修行が苦しくなると、直司はいつも呟いておった。みどりのために挫けることはできないって。チビ、チビってバカにされていた直司を、みどりはいつも助けてくれたって」
中学生になっても、直司は背が低いことでバカにされていた。そんな時に助け舟を出してやれるのは、幼馴染のみどりだけだったのだ。
「高校生になって、直司は決心したのだろう。みどりを守ることのできる男になりたいと。それが、修行に耐える心の支えになっておった」
あいつが頑張れたのなら、私にできないことはない。だって私は、あいつよりも強いんだから。
みどりは心の奥底に、なにか力の源のようなものが湧いてくるのを感じていた。
「私、奥義を学んでみる」
黄之瀬を熱く見るみどり。
「おお、そうか。それは良かった……」
黄之瀬はほっと溜息をついた。やっと決心してくれたかと言わんばかりに。
「じゃあ、早速明日から桃の書を始めてみるか」
「桃の書? それって強いの?」
「えっ? まあ、一番手軽な奥義ではあるが……」
黄之瀬は戸惑った。せっかく学びやすい奥義を提案したのに、まさか疑問を投げつけられるとは思わなかったからである。
みどりは黄之瀬の提案に首を振る。
「そんなんじゃダメ。もっと強いやつがいい」
「桃の書の次は青の書になる。ほら、亮が習得した奥義だ。ブルーチーズを主原料にした青団子を食べて、その後の塩辛さに一時間も耐えねばならぬ」
「一時間……か。二時間よりも短いのね。黄色の書は?」
「あれは団子を食べるタイプじゃないから、奥義の方向が違う。今のお前にはまだ無理だ」
「じゃあ、直司が習得した赤の書は? 青よりも強いんだよね?」
「ああ、赤の書は青の書よりも上だ。さっき説明した通り、赤トウガラシを主原料にした赤団子を食べて、激辛に二時間耐えねばならぬ」
青の書が一時間、赤の書が二時間。強い奥義になればなるほど、苦痛に耐える時間が長くなる。
「すると、その上に奥義があるとしたら、三時間も苦痛に耐えなくてはならないのね……」
そう言って、みどりはゴクリと唾を飲んだ。
「やめておけ。初心者がいきなり三時間も苦痛を受けるのは無理だ。しかも毎食だから一日に九時間だぞ。起きている時間の半分近くを苦痛に費やすことになる」
「えっ、ホントに赤より上があるの? それって、赤よりも強いんだよね?」
困った顔をする黄之瀬。奥義は習得してほしいが体に無理のない程度に、という彼の配慮は、今のみどりには届きそうにない。
「ああ、確かに強い。最強だ。しかし……」
「じゃあ、今日はその奥義の色だけ教えて。今晩、ゆっくり考えるから」
「それは……」
はたしてみどりは本気なのだろうか。
そんな黄之瀬の疑問を吹き飛ばすかのように、みどりはしっかりとした瞳で黄之瀬を見つめ返した。その力強さに負けた黄之瀬は、最強奥義の色の名を口にする。
「緑の書だ」
◇
「やーい、チビ! 悔しかったら大きくなってみろよ」
近所の公園で、直司のことを男の子達が囲んでいるのが見えた。
「うるさい、俺だって中学生になれば大きくなるんだよ」
「そんなことあるもんか。お前ずーっとこのままだぜ」
「あははは、そうだ、お前はチビのままだ」
「うるさい、黙れ、あっち行け……」
大勢で一人をいじめるなんて、卑怯者がすることだ。
「あんた達、やめなさいよ!」
みどりはたまらず、公園に飛び込んだ。
「おお、フィアンセの登場だぜ」
「かかあ天下だな」
「うるさいわね、あんた達!」
「おー、恐っ」
「みんな逃げろーっ!」
散り散りに去っていく男の子達。
「大丈夫?」
みどりは直司に近づいた。
「なんだよ、余計なことをするなよ。これでまた、あいつらにバカにされるじゃねえかよ」
直司はみどりを睨みつけた。
「ふん、なによ。せっかく助けてやったのに。もうあんたなんか知らないっ」
「頼むからそうしてくれよ。俺はもっと強くなるんだから。そら喰らえ、レェェッドォ、ハリケェェーン!」
「えっ、何よそれ? うわっ、痛っ、目が痛い。目が、目がァァァッ!!」
みどりは目を押さえて飛び起きた。
「なんだ……、夢か……」
見慣れぬ室内に辺りを見回すと、そこは自分の部屋ではなく六畳ほどの和室だった。カーテン越しに朝の光が差し込んでいる。
「そうか、黄之瀬おじさんのところに泊まっているんだった……」
ほんのりと畳の香りが漂ってきた。
そういえば昨晩は、直司が奥義を習得するまでのいきさつをおじさんから聞いたんだっけ。だから、あんな夢を見てしまったんだ。
(あいつ、本当に私に恩返しがしたいなんて思ってんのかな……?)
昨晩の黄之瀬の話で一番気になったのはその部分だった。なぜなら、子供の頃はみどりが直司を助けるたびに憎まれ口を叩かれていたから。そのうちに、本当に余計なお世話なんじゃないかとみどりは思うようになった。
そして高校生になると、二人の仲はすっかり疎遠になってしまう。二年生になって久しぶりに同じクラスになったのに、一昨日までは一度も言葉を交わしていなかった。
その間、直司は密かに修行を続けていた。
(私に隠れてこそこそと……。でも、ふふふ、今度は私の番だからね)
直司よりも強い奥義を習得して驚かせてやろう。
みどりは沸々と闘志を燃やしていた。
(それに、『緑の書』なんて私にぴったりじゃない)
自分の名前と同じ色の奥義。この奥義を習得するのが運命なんじゃないかとさえ、みどりには思えてくる。
だから朝食が終わるとすぐに、黄之瀬に要求した。
「おじさん、緑団子ちょうだい」
「本当にやるのか?」
黄之瀬は一瞬眉をしかめたが、差し出した手を一向に降ろそうとしないみどりを見て、観念したように袋の中から緑団子を取り出した。
緑団子はゴルフボールくらいの大きさだった。
「いいか、少しずつかじっていくんだぞ。気分が悪くなったらすぐに止めていいからな」
「わかったわ」
みどりが頷くと、黄之瀬は緑団子をみどりの掌に乗せる。
大きさの割にはズシリと重たい。いろいろな種類の草を煎じ、それを固めて作ったらしく、黄緑や濃い緑など異なる緑色が織り交ざっている。
みどりはしばらく緑団子を眺めていたが、意を決してガブッとかぶりついた。
「お、おいおい、少しずつって言ったじゃないか!」
そんな黄之瀬の制止も聞かず、三回で口の中にすべてを押し込む。
顔をしかめる黄之瀬。どれだけ不味いのかは、その表情が如実に物語っている。みどりはお腹に力を入れ、苦痛に耐えようと目を閉じた。
「んー……って、えっ?」
苦くない。
それどころか、爽やかな感覚が体を駆け抜ける。みどりは口の中に残った団子をゴクリと飲み込んだ。
「ミント味?」
「実はな、みどりが食べやすいように、昨晩ミントを練り込んでおいた。だが、それは最初だけだぞ。その後は……」
黄之瀬の言葉通り、だんだんと爽快感は姿を消し、苦いような臭いような、なんども形容し難い嫌な感覚がみどりを襲う。それはまるで、すり潰したカメムシを腹の中に入れたような……。
「げえっ、何これ!?」
「吐いてもいいんだぞ、みどり!」
「嫌よ、おえっ、これは絶対吐き出さない。げぇっ、直司なんかに、おえっ、負けたくない……」
嗚咽を繰り返しながら、吐かないように必死に我慢するみどり。気持ちが悪すぎて涙が出てくる。
そしてその嫌な感覚が通り過ぎると――今度は激しい頭痛がみどりを襲い始めた。
「痛い、頭が痛い、あ”、あ”、あ”、嫌っ、あ”、あ”、あ”、痛いっ、あ”、あ”……」
「みどり……」
黄之瀬は、かける言葉を失っていた。
「これが、あ”、あ”、あ”、三時間も、あ”、あ”、あ”、続くの……?」
一人で足掻くみどり。誰も助けることはできないのだ。
「そうだ、三時間だ。後は耐えるしかないぞ」
「激辛よりはましよ、激辛よりは。あ”、あ”、あ”、痛い、あ”、あ”……」
立っていることに耐えられなくなったみどりは、寝室に戻って布団の中に包まる。しかし、こんなに頭痛がひどい状態では眠るなんて到底無理な話だった。
「こんなの、あ”、あ”、あ”、直司の苦痛に比べれば、あ”、あ”、あ”、軽いもんよ……」
なぜだかわからないが、誘拐された直司がもの凄い拷問を受けている状況を連想する。
冷たい地下室、正座に重し石、もしかすると逆さづりにされているかもしれない。
「私なんて、あ”、あ”、あ”、畳の部屋に、あ”、あ”、あ”、居られるんだから……」
そうやってみどりは、布団の中でバタバタとのたうち回りながらひたすら苦痛に耐え続けた。
◇
「はあっ、はあっ、はあっ……」
緑団子を食べてから三時間が経過し、やっと頭痛から解放されたみどりは洗面所の前に立っていた。いや、洗面台に支えられていたと言うべきかもしれない。肩で深く息をする。
「水、水……」
水分をちゃんととるように。みどりは黄之瀬にそう言われていた。
なんでも団子には十分な栄養が含まれているという。苦痛を伴う修行中は、数日に渡って食事を食べたくなくなることがあり、それを考えての措置らしい。確かに今のみどりは、何も口に入れたくはなかった。
「どうだ、やっと落ち着いたか?」
みどりが寝室から出てきたのを見た黄之瀬が近づいてくる。
「ええ。まだちょっと頭が痛いけど……」
「だったら、お昼に団子を食うのはやめとけ。いきなり一日三回は無理だ」
「嫌、私続ける。って言いたいところだけど、やっぱ無理だわ……」
みどりは涙目だった。
「そうだろ。出来る範囲で続ければいい。直司だって最初は、赤団子を食べるのは一日一回だった」
「えっ?」
あいつ、意外と軟弱だな。
「ちょっと寝てから考えるわ。お昼はいらないから」
とてもじゃないけど、昼飯を食べられる状態ではない。
「ああ、ゆっくり寝てろ。じっとしていれば、夕飯は食べられるようになる」
寝室に戻ったみどりは、布団の中に潜りこむ。頭痛はまだ残っていたが、これくらいだったら眠れそうだ。
「夜は……、どうしようかな……」
みどりは迷っていた。
直司も最初は一日一回だったという。それならば、自分も同じペースでいいんじゃないか?
「それにしても、あんなにつらいとは」
団子を口にした時は爽快だったが、途中から嫌な感じがした。しかしそれよりもキツかったのは、三時間も続いた頭痛だった。
しかし、直司と同じペースというのはそれ以上に嫌だった。あいつよりも上に立ちたかった。
「でも、マジでつらいんだよね……」
みどりがグダグダと悩んでいると、なんだかお腹が張ってきた。どうやら腸にガスがたまり始めているようだ。
「もしかして、これって、あの団子の効果……?」
このガスを放出すると、ピンクパンツに仕組まれているPAN2がその勢いを増幅する、というカラクリになっているのだろう。その大規模なものが奥義に違いない。
みどりはちょっと試してみたくなった。
(だって、どれくらい勢いがあるのか知りたいじゃない?)
みどりは洗濯して干しておいたピンクパンツに穿き替える。そして敷布団に仰向けで横たわり、体の上に掛布団を掛けた。天井を見ながらお腹に軽く力を入れ、可愛くぷっとガスを放出する。
ボムッ!!
軽い破裂音と共に布団の中で突風が巻き起こり、みどりの体が浮いた。しかも掛布団と一緒に。その高さは三十センチに達している。
「ええっ、マジ!?」
ガスが背中を通り抜け布団の中から排出されると、みどりの体は再び敷布団の上に落ちる。と同時に、ガスの匂いがみどりを包み込んだ。
「なにこれ!? すごくいい香り……」
ミントの香りだった。
しかしその清涼感はすぐに失われ、みどりを頭痛が襲い始める。
「あいたたたたた……」
でも、団子を食べた時よりも頭痛は軽い。これくらいだったら余裕で耐えることができる。いや、今のみどりには全然気にならなかった。なぜなら、先ほどのガスの威力と香りにすっかり心を奪われてしまったから。
(なんていい香りなの……)
ガス噴出の勢いは凄かった。体が浮くなんて想像もしていなかった。しかし、それ以上に驚いたのは、この香りの素晴らしさだ。
そういえば亮が言っていた。匂いは微粒子だって。でも、あの時の直司や亮は息が臭かった。だからみどりは、ピンクパンツを使うことは臭いガスを発生することだと思ってしまったのだ。
それは嫌だった。奥義なんて学びたくなかった。だって奥義を習得したら、もの凄く臭いガスが出るようになってしまうような気がしたから。
でも違ったのだ。いい香りだって微粒子なんだ。微粒子があればPAN2は機能する。素敵な香りで敵を吹き飛ばすという戦い方だってあるんだよ。
こんな簡単なこと、何で気付かなかったんだろう。
――ミントの香りで相手を吹き飛ばし、その後に訪れる頭痛で敵を無力化する。
これぞ、正義の味方の真の戦い方ではないだろうか。シンプルで、香しく、そして強力だ。その香りが出てくる場所だけが問題だが、スカートで隠していれば見えないし、黙っていれば誰にもわからない。
みどりの頭の中で、奥義に対する考え方がガラリと変わった瞬間だった。
(さっきの緑団子は、きっといい香りを作り出す団子なんだよ)
こんな風に真の正義の味方になれるのだったら、団子を食べた時の頭痛にもきっと耐えられる。みどりは、ちょっとした高揚感に包まれていた。
◇
「はあっ、はあっ、はあっ……。水、水ぅ……」
夕食後の修行にも耐えたみどりが寝室を出ると、すでに夜の十時を過ぎていた。
リビングもキッチンも真っ暗だ。
(おじさん、寝ちゃったのかな……)
電気を付けながら洗面所に向かう途中、リビングの奥の方にぼやっと青白く光る空間があるのをみどりは見つけた。
(なんだろう?)
水を飲み終えたみどりがリビングに足を踏み入れると、光っているのは月明かりに照らされた縁側だった。その場所だけカーテンが開いている。縁側では黄之瀬が座禅を組んでいるのがチラリと見えた。
みどりは邪魔をしないように、そっと黄之瀬に近づく。月が、あと数日で満月になろうかという明るさを東の空に振り撒いていた。
するとゆっくりと黄之瀬が立ち上がり、みどりの方を振り返る。
「ゴメン、おじさん。邪魔しちゃった?」
音は一つもさせなかったのに、なんで気付かれちゃったんだろう?
「お前の気はすぐに分かる。こうして毎日修行をしているからな。周囲の気配を掴むことは、ワシの奥義にとって非常に重要なことなのだ」
黄之瀬は、自分の奥義についてみどりに説明する。
彼の奥義はイエローブリーズとイエロースマッシュ。これは、直司や亮のように、体の中から微粒子を放出する技ではない。周囲の大気中にある微粒子を利用し、ラケットに装備したブリーフ中のPAN2で加速させる、という高度な技なのだ。そのためには、周囲に浮遊する微粒子の密度を即座に感知できる能力が不可欠となる。
「邪魔なんて、気にせんでもよい。それより体は大丈夫か? 初日に二個も団子を食べるなんて、少し無理し過ぎだぞ」
「確かにね、ちょっときつい……」
「今日はもう寝ろ。そうだ、いいものを聞かせてやる。少し待ってろ」
そう言って黄之瀬はリビングを出ると、古いラジカセを持って戻ってきた。
「コンセント、コンセント……」
そしてテーブルの上に置くと、一枚のCDをセットする。
「えっと、えっと、第二楽章だったっけ?」
(えっ? 第二楽章って、まさか、その曲は……)
黄之瀬がラジカセを操作すると、キュルルルとCDが回転し始める。ゆっくりとしたオーケストラの音が、スピーカーから流れてきた。
――ドボルザーク交響曲第九番第二楽章。
みどりが父とよく聞いた曲だ。
「家路ね」
「さすがに知ってるか」
「だって、お父さんによく聞かされた曲だったもん」
「ほお、奇遇だな。この曲はな、大学時代にワシらがテーマ曲にしておったんだ」
へえ、そんないきさつがあったんだ。だからお父さんのお気に入りなのね……。
オーボエが奏でる主旋律が、月に照らされたリビングに響き渡る。
そういえば、お父さんとこの曲を聞いた時も大抵月夜の晩だった。お父さんはいつも、やさしく私の髪をなでてくれたっけ。
「お父さん……」
みどりは父のことを思い出していた。
「ほら、みどり、見てごらん」
黄之瀬は縁側越しに月を見上げる。
銀色に輝く月。
お父さんと一緒の時も、この曲を聞きながら月を見たっけ……。
その時――みどりの意識がすっと遠退いていく。崩れゆくみどりの体を寸前で抱きとめた黄之瀬は、彼女の安らかな寝顔を確認して一言呟いた。
「やっぱりな、この曲と月が鍵だったか……」
◇
翌朝。
「はあっ、はあっ、……。水、水ぅ……」
朝食後の修行が終わってみどりが寝室を出ると、時計は午前十時を回っていた。
緑団子も三回目となると、少し頭痛にも慣れてきたようだ。昨日のお昼前よりも、明らかに体調は良い。 そしてリビングに近づくと、黄之瀬が神妙な面持ちで何かを読んでいるのが見えた。
「満月か……、やはりな……」
黄之瀬の呟きが聞こえてくる。
「おじさん、満月がどうかしたの?」
突然声を掛けられて、黄之瀬がビクッと身を縮めた。慌てて後ろを振り向く。
「ビ、ビックリしたぞ、みどりか……。驚かすなよ。それでどうだ、体調は?」
「昨日よりは大分いいわ。相変わらず頭痛には慣れないけど。ところでそれは何?」
みどりは黄之瀬が手にしているものに目を向けた。
「おお、これか。ついに灰沢から手紙が届いたんだ。直司の引き渡しに応じろという内容のな」
「それって、私の身と交換ってこと?」
「そうだ。ほら、読んでみろ」
黄之瀬から渡された手紙には、こう書かれていた。
『三日後の満月の夜九時に、みどりを連れてカイクロ本社ビルの屋上に来い。そうすれば直司は返してやる。灰沢』
こ、これって、身代金の要求!? じゃないわね、人質交換じゃない。
「警察は? 警察には知らせたの?」
「いや、その必要はないだろう」
「ええっ、相手は誘拐犯なのよ。それに『警察に知らせたら直司の命は無い』とか、そういう常套句がないじゃない。だったら警察に知らせてもいいってことだよね?」
「だからだよ。常套句を使わないから彼は誘拐犯じゃないんだ。これでも灰沢のことはワシが良く知っている。話せばわかる相手だ」
「でも……」
みどりは黄之瀬の態度に納得がいかなかった。そして再び手紙に目を向ける。
「それに、おじさん、ここの書いてあるカイクロって、あのカイクロ?」
その名前に見覚えがあった。というか、国民の誰もが知っているファッションブランド名だ。
「そうだ」
「それってどういうこと? なんで引き渡し場所がカイクロ本社ビルなのよ?」
「それは当たり前のことだ。なぜなら『カイクロ』とは、灰沢黒男そのもののことだからな」
「えっ、つ、つまり、灰沢はカイクロの社長ってこと……?」
それからみどりは、黄之瀬から大学卒業後の灰沢の話を聞く。
「灰沢は、PANの開発で得た繊維工学のノウハウを、仕事に活かそうとしたんだ」
PANの開発についての話は、みどりは二日前に聞いている。大学で繊維工学を学んだ灰沢は、在学中に父と協力してPANを開発していた。
「灰沢はアパレル業界に飛び込んだ。そしてPANの技術を応用して特殊な繊維を開発し、カイクロを立ち上げたのだ。その繊維は、体臭を飛ばしてしまうという機能を持っていた」
「それって、もしかして……」
「そうだ、カイクロのヒット商品『デオラドント』だ」
デオラドント。それを身に付けるだけで、体臭を全く感じなくなるというインナーだ。日本よりも欧米で大ヒットし、カイクロのブランド名を世に知らしめた。
「彼が創設した会社は、いきなり世界のトップ企業に躍り出た。しかし、彼の技術では、デオラドンドの機能をさらに強化することはできなかった」
いくらインナーが体臭を吹き飛ばしても、アウターの中でこもってしまって意味がない。コートを着ていても体臭を吹き飛ばすことができるのはPAN2だけだ。つまりPAN2は、灰沢が喉から手が出るほどほしい技術なのだという。
「だったら、お父さんを探せばいいだけじゃない」
「そうなんだよ、灰沢は研一を高待遇で会社に迎え入れればいいだけだ。あいつがなんでこんなことをしているのか、ワシには全く理解できん。この機会に本人に会って、じっくりと事情を聞いてみたいと思う」 黄之瀬は手紙の通り、三日後に灰沢のところに行くと言う。
「とにかくみどりは奥義を習得してくれ。緑の書は、緑団子を十個食べると完成する。一回だけ奥義『グリーントルネード』を発動することができるようになるのだ」
(グリーントルネード!)
ちょっぴり強そうな名前だと、みどりは思う。
「わかったわ。緑団子はすでに三個食べているから、あと七個ってことね?」
「そうだ」
三日で七個。つまり、一日に二個以上食べないとノルマは達成できない。
みどりはゴクリと唾を飲む。これで修行のノルマと決戦の日が明らかになった。あとは、それに向かって突き進むのみだ。
「私、頑張ってみる」
「お前が奥義を習得してくれれば心強い。たとえ直司と引き換えでお前が拉致されてしまっても、一人で脱出することができるからな」
奥義の発動は一回のみ。つまり、グリーントルネードは最後まで温存せよということだ。
「その前に灰沢をやっつけちゃってよ、おじさん」
「ああ、ぜひそうしたいところだ。念のため亮も呼ぶか」
こうして、みどりと黄之瀬は灰沢との決戦に向けて、着々と準備を進めていった。
◇
◇
◇
三日後。ついに決戦の日がやってきた。
「萌々埼みどり御一行様でしょうか?」
カイクロ本社ビルに到着したみどり達は、社員の丁寧な対応に拍子抜けする。
「はい、そうですが……」
「社主が屋上でお待ちです。お連れの方は、黄之瀬様と青凪様でお間違いないですね。どうぞ、こちらからお入り下さい」
三人は、案内役の社員と一緒にエレベータに乗った。
屋上に着くと、そこは不思議な空間になっていた。全体が半透明の幕のようなもので覆われている。まるで、薄い和紙でできた巨大なドームの中に居るような感覚。景色が透けて見えるのが幻想的で、周囲のビル群のネオンや東の空に輝く満月がドームに彩りを添えていた。
「まさか、この幕の素材は……」
周囲の気配を探りながら、不安そうな声で黄之瀬が呟く。顔は少し青ざめていた。
「どうしたの、おじさん?」
「みどり、もしかしたらワシの奥義は使えんかもしれぬ」
黄之瀬が不安の理由を口にする。
その時だった。
「久しぶりだな、黄之瀬」
屋上の反対側から低い声がする。みどり達が振り向くと、そこには高級そうなスーツを着た男と、黒服達に連れられた制服姿の青年が姿を現す。きっと灰沢達に違いない。
「直司ィ!」
青年は直司だった。だが赤マスクは掛けていない。
「みどり、来ちゃダメだ。これは罠だ」
みどり達に向かって直司が叫ぶ。それと同時に、ギギギと屋上のドアが閉まった。亮がすぐに駆け寄ったが、すでに建物内部から鍵が掛けられてしまったようだ。
背路は絶たれた。もう正面の敵を突破するしかない。
みどりは黄之瀬を見る。
「おじさん、まずは直司を解放してあげて」
「わかった。無理かもしれんが、やってみる」
黄之瀬は、バッグからブリーフラケットを取り出すと、頭上に高々と掲げ、いつかの時のようにくねくねと螺旋を描き始めた。そして、
「イエロォォォッ、スマッァァァシュッ!」
渾身の力でラケットを振り下ろす。
周囲の大気に含まれる微粒子がラケットによって収束され、直司を拘束している黒服達を――なぎ倒すことは無かった。
「あはははは、無駄だ、無駄だ」
灰沢が高笑いをする。
「黄之瀬、お前も気付いているだろ? この屋上を覆う幕はPANでできている。つまりだな、このドーム内は無香的空間なのだよ」
PANによって造られたドーム。その中に存在する微粒子は、PANの微粒子加速機能によってすべてドームの外側に排出されているというのだ。
黄之瀬の奥義は、空気中の微粒子を加速させる技だ。微粒子が存在しなければ技を使うことはできない。
さすがは灰沢。周到な準備といい、登録商標に配慮した言葉づかいといい、伊達に社長をやっているわけではなさそうだ。
「じゃあ亮くん、直司を拘束している黒服を倒して!」
亮の奥義は黄之瀬とは違う。体内にある微粒子を放出する技だ。これなら、たとえ無香的空間でも使用できる。
「了解」
亮は青ガーゼを鼻に詰め、
「ブルゥゥゥーッ、ジェェェットォォォッ!」
奥義の名前を叫びながら水平にダイブする。ロケットのような鼻息噴射によって、亮の体はシュルシュルと地を這うように加速した。
「ぐえェェェッ!」
直司の右手を拘束している黒服に、亮の頭突きが命中。亮は即時に立ち上がり、直司に新しいマスクを手渡した。
「アイタタタタ。直司さん、早くこのマスクでレッドハリケーンを!」
「ゴメン、亮、ダメなんだ」
そう言って直司はうつむいた。その間、周囲の黒服達が亮を取り押さえようと駆け寄って来る。
「なにやってんのよ、直司! 早くあんたの得意技で黒服達をやっつけちゃいなさいよっ!!」
みどりの叫びに、直司が叫び返す。
「ダメなんだよ、みどり。今の俺はレッドハリケーンが使えないんだ!」
えっ、それってどういうこと!?
そうしている間に亮は黒服達に捉えられてしまう。一人に多勢ではしょうがない。体を縛られながら、亮はみどりに重要な情報を伝えた。
「みどりさん、大変です! 直司さんの息が臭くないですっ!!」
直司の息が臭くないって?
それはつまり、息の中に微粒子が含まれていないことを示している。確かにこれではレッドハリケーンは使えない。
「みどり、聞いてくれ。灰沢につかまっている間、ずっとタニカ食堂のメニューだったんだ。俺は、俺は、すっかり健康になっちまったんだよっ!」
事情を訴えながら号泣する直司。奥義を封じられたことがよほど悔しかったのだろう。
「直司……」
直司と黄之瀬の奥義が封じられ、亮も拘束されてしまった。これでみどり達に残されたのは、奥義グリーントルネードだけだ。
「あんたの無念は、私が晴らしてあげるから……」
ギリリと拳を握るみどりに、隣の黄之瀬が小声でささやいた。
「まだだ、みどり。奥義は最後までとっておけ。このまま灰沢が約束を守れば、お前の身と引き換えに直司は解放される。それまで待つんだ。奥義を発動させるのはそれからでも遅くない」
「でも……」
「いいか、言うことを聞くんだ。まだ奥の手が一つある。ここはワシに任せろ」
「えっ、奥の手……?」
黄之瀬はみどりを制して一歩前に出た。
「灰沢、提案がある。昔のように一対一で闘わないか。ワシのイエローブリーフとお前のグレーブリーフ。どちらが強いか勝負だ。お前が勝ったらこのブリーフをお前にやる。だが、ワシが勝ったら直司を返してもらおう」
え、え、え、イエローブリーフで勝負って、今ここでそれを穿くってこと?
止めて、そんなの見たくないっ!
まさかのブリーフ対決の提案に、みどりはおののいた。
「挑発には乗らんよ、黄之瀬。お前のブリーフにはPAN2が組み込まれているじゃないか。しかしオレのブリーフはPANのままだ。それでは勝負にならん」
ていうか、二人とも奥義がブリーフだったってこと?
「それにオレが欲しいのはPAN2の技術ではない。お前のブリーフなんて要らん」
えっ、それってどういうこと? 灰沢の目的はPAN2の技術じゃないの?
そして続く灰沢の言葉は、さらに衝撃的だった。
「オレが欲しいのは、みどりちゃん本人だっ!」
「えええええっっっっ!?」
なんでぇ? それに、いくら大企業の社長でもこんなオヤジに『ちゃん』呼ばわりされたくないっ!
「みどりは関係ないだろう? 灰沢!」
「いや、大有りだよ。オレが今でも独身なのは何故だか知ってるだろ? いまだに萌々埼さんの事が忘れられないんだよ。大学時代だって、こうしてオレとお前が争っている間に萌々埼さんを研一に取られちゃったんじゃないかよっ」
萌々埼さんを取られたって……、どういうこと……?
なんだか話が分からなくなって、みどりはポカンとする。
「おいおい、黄之瀬。みどりちゃんに何も話していないのか? 我らがヒロイン、萌々埼さんのことを」
萌々埼さんって……、もしかしてお母さんのこと? お父さんって婿養子だったの?
「じゃあ、オレがじっくり説明してやろう」
たまりかねた灰沢はみどりを向く。
「オレ達は大学時代、PANの技術を使って戦隊ヒーローの真似事をしていた」
その話は聞いている。
「メンバーは三人。オレがグレー、黄之瀬がイエロー、そして萌々埼さん、つまり君のお母さんがピンクだった」
お父さんじゃなくてお母さんがメンバーだったのかよ。
ていうか、どんだけ地味な戦隊ヒーローだよ。しかも全員ぱんつってどういうこと?
「萌々埼さんは戦隊の人気者だった。みんなが彼女のピンクパンツの威力に期待した」
それって、ぱんつが見たかっただけじゃないの?
「そんな我らの萌々埼さんの心を、研一が奪ったのだ。催眠術という卑怯な手を使ってな」
そして灰沢がパチリと指を鳴らす。それと同時に、屋上に設置されたスピーカーからクラッシックが流れ始めた。
――ドボルザーク交響曲第九番第二楽章。
家路と呼ばれているあの曲だ。
「みどりちゃん、君はお母さんにそっくりだ。だから今度こそ、君を嫁として迎えたい」
すると黄之瀬が叫ぶ。
「みどり、ダメだ。耳を塞げ! 目を閉じろっ!」
そんな叫びに構うことなく灰沢は高笑いをする。
「あははははは、無駄だ、無駄だ。この音源には、特別に催眠効果が付加されている。みどりちゃんはすでに、蜘蛛の巣にかかった蝶なんだよ」
その証拠に、みどりはうつろな目をしていた。
「私は知っている。研一がこうやって萌々埼さんを落としたのを。そして娘にも試していたことを」
そして灰沢は宙を指さす。
「ほら、みどりちゃん。あの月を見るのだっ!」
幕越しに輝く金色の満月。
みどりがそれを見た瞬間、意識を失いその場に崩れ落ちた。
◇
「……きだ、みどり。だから目を覚ましてくれっ!」
遠くから聞こえる呼び声に、みどりは意識を取り戻し始めていた。
「ゴメン、みどり。今回は負けてしまったけど、俺は強くなる。だから、こんなヤツの所に嫁に行くなんて言わないでくれ」
それは直司の声だった。
「みどり、本当に好きなんだ。こんなヤツの何倍も。お前のためなら何にでも耐えられる。もっと厳しい修行をして、もっと強くなる。そして今度こをお前を守ってやるんだ。俺の手で」
ありがとう、直司。
あんたに負けたくなくて、私も修行に耐えたんだよ……。
「ええい、いい加減にしろ。みどりちゃんはもう催眠術にかかってるんだよ。君の声なんて届いてなんかいないんだ」
耳障りな声が邪魔をする。こいつは一体誰だ。
「愛の告白ってやつは、もっとエレガントにするもんだよ。青臭い君には無理だ」
違う、違うんだよ。直司は赤臭いんだ。直司はこういうヤツなんだ。これが本当の直司なんだよ。
「さあ、みどりちゃん。私の言うことがわかるよね」
「……」
「君はこれから私と一生を過ごすのだ。晴れの日も、雨の日も……」
みどりはカッと目を開いた。
「嫌よ」
「なっ……」
予想外のみどりの返事に灰沢は言葉を詰まらせる。
「だから嫌だって言ってんの。聞こえないの?」
「み、み、みどりちゃん。さ、さ、催眠は?」
慌てふためく灰沢。先ほどまでの余裕は見る影もない。
みどりはゆっくりと立ち上がる。
「なに、それ? あんたって、そんなことしないと告白さえできない臆病者なの?」
「ば、ば、バカなこと言うな。私をこんな若造と一緒にしないでくれ」
「あら、直司はちゃんと告白したじゃない。いい? 告白ってのはね、魂の叫びなの。たとえ泥臭くたって、地べたを這いつくばってたって、心が込められていればちゃんと相手に届くのよっ!」
すると、みどりの制服のスカートがバタバタと音を立て始めた。どうやら奥義に使うためのガスが漏れ始めてしまったようだ。
「おじさん、もう私我慢できない。一発やっちゃってもいい?」
「我慢できぬならしょうがない。ワシは逃げるから後は頼むぞ」
そう言って黄之瀬は踵を返す。
みどりは奥義発動のために、足を前後に交差して姿勢を正した。こうすれば発射したガスが足の間を通る際に螺旋状に回転し、強い渦が発生するという。
限界が近づいてきた。スカートを揺らす風の勢いがさらに強くなって、ぱんつが見え隠れする。
「おおっ!」
周囲の視線がみどりに集まった。
「な、なんで、ピ、ピンクじゃないんだ……?」
一人肩を落とす灰沢。
そんなにピンクパンツが見たけりゃ、私のお母さんに見せてもらいなさい。
「みどりさん、最高です!」
亮くん、あんたぶっ飛ばす。って、今からぶっ飛ばしてあげるけど。
「みどり、何で緑色なんだよ?」
心配してくれたのは直司だけだった。
「まさか、お前、緑団子を食べたのか?」
「そうよ、直司まで巻き添えにして悪いけど、ミントの香りで皆を昇天させてあげる」
「ミントなんかじゃない、緑団子の成分は!」
「知ってるわよ、いろんな薬草が混ざってるんでしょ?」
「それも違う! そいつの主成分は――」
ああ、もう出ちゃいそう。すぐに奥義の名前を唱えなきゃ。
「行くわよ、奥義っ! グリィィィーン」
そして最後に、みどりと直司が同時に叫んだ。
「ドクダミなんだよっ!!」
「トルネェェェーッドォォォゥ!!」
シュルシュルシュルとみどりの足元に緑色の渦が発生し、それはたちまち竜巻となる。その勢いの強さに周囲の人々は立っていられなくなった。
渦の中心に居るみどりの目には、次々と倒れゆく人々がスローモーションのように映っていた。
奥義って、き・も・ち・イ・イ!
圧倒的な力を行使する優越感、溜まっていたものを放出するすっきり感、そしてミントの香りがもたらす恍惚感に、みどりはその身を委ねていた。
「頭が、頭が割れるぅ!」
ゴロゴロと屋上の床を転がる人々は、皆一様に頭を抑えている。
殺人的な頭痛攻撃。修行に耐えたみどりには大したことはなかった。しかし、薄れゆくミントの香りに代わってその場を支配したものに驚愕する。
「うわっ、臭っ。なんだ、この嫌な気分にさせる匂いは……」
予想外のドクダミ臭。それはあまりに強烈過ぎて、みどりは意識を失った。
◇
「……きだ、みどり」
自分を呼ぶ愛しい声に、みどりはベッドの上で意識を取り戻す。
「好きだ、みどり」
うん、私も好き。でも直司、どこに居るの?
みどりが声のする方を向いても、そこに直司の姿は無かった。声はすぐ近くから聞こえてくるのに。
「好きだ、みどり。好きだ、みどり。好きだ、みどり……」
同じフレーズを繰り返すその声の主は――携帯電話だった。
(ちぇっ、誰だよ。私の携帯の着メロを勝手に直司の声に変えたのは!)
みどりは、ベッドの脇のテーブルに置いてあった携帯に手を延ばす。
「もしもし」
『みどりか? 目は覚めたか?』
電話を掛けてきたのは黄之瀬だった。
「おじさんからの電話で今、目が覚めたよ。ねえ、もしかして、私の携帯をいじったのって、おじさん?」
この四日間、みどりは黄之瀬の家に居た。ならば、携帯を操作できるのは黄之瀬しか考えられない。
『そうだ。愛する人の声で目覚めるってのもいいもんだろ?』
「バカっ! あほっ! おじさんなんて大嫌いっ!!」
もう少しで、携帯相手に漫才を演じるところだったじゃないっ。
それからみどりは、グリーントルネードを発動してからの出来事を黄之瀬から聞く。
あの時屋上に居た者は、皆グリーントルネードの洗礼を受けた。体全体にドクダミの匂いがこびりつき、あまりの臭さに三日間は外に出られない状態だという。念のため、みどりと直司は自宅の近くの病院に入院することになった。灰沢や黄之瀬は自宅待機、亮はブルージェットを使って、グリーントルネードが発動されると同時にドームを破って逃げていた。
「あの野郎、一人で逃げやがったな」
さすが、イケメンはやることが違う。
『ワシと直司は逃げ損なったがな』
そういえば、直司は私と一緒の病院に入院してるって言ってたっけ。ということは、まさか――
みどりはそこで初めて、仕切カーテンの向こう側にもベッドがあることに気が付いた。そこには直司が眠っていた。
げっ、マジ!? 直司と同室かよ。
『直司もそこに居るんだろ?』
「ええ、まだ寝てるけどね」
『だったら直司をちゃんと介抱してやれ。あいつはよく頑張った。この着メロだって、あいつの努力の証なんだから』
なんでも、昨年の夏休みに泊り掛けで修行をしていた時、直司は寝言でみどりの事を呼んでいたそうだ。それだけ修行が辛かったのだろう。寝てもなお名前を呼んで修行に耐えようとする姿がいじらしくなり、黄之瀬はつい録音したのだという。
『ワシは直司の想いに賭けた。録音したそのフレーズを使って、お前の体の中に催眠術を破る鍵を作ったんだ』
月夜の晩、黄之瀬がみどりに催眠術を掛けた時、それを破るための鍵を作ったという。つまり、直司の『好きだ』というフレーズを聞くと、催眠が解けるようにしておいたのだ。携帯の着メロをそのフレーズに変えたのも、もしものことを考えての措置だった。
『そして直司は、最大のピンチを救ってくれた』
あの時の直司の言葉は嬉しかった。心の奥底まで響き渡った。
『灰沢も今回の件で思い知っただろう。直司の想いの強さを。だから、もう二度とあんなことはしないはずだ』
私もこりごりだわ。グリーントルネードはもう一回使ってみたいけど。
『ああ、それとな、警察と学校は何とか誤魔化せそうだ。灰沢が政治力と財力にものを言わせて隠ぺい工作を行った。亮と登校したことに嫉妬した直司が、黒服達を使ってみどりを拉致し、場末の温泉宿でドクダミ心中を図った、というシナリオになっておる』
な、何だってぇぇぇっ?
誰だぁ、そんなシナリオを考えたのはっ!?
ていうか、ドクダミ心中って何だよ……。
「おじさんはちゃんと証言してくれたんだよね、私がおじさんのところに居たって」
『さあ? ワシの家は温泉宿かもしれんしな。あはははは……』
コンコン。
病室のドアをノックする音が聞こえる。
「ごめん、おじさん、誰か来た」
『見舞い客だな。どんな顔をして入ってくるか楽しみだ。なんたってドクダミ心中だもんな。じゃあな、あはははは……』
おじさん、覚えておきなよ!
それよりも今は訪問客だ。
やっぱりお見舞いだろうか? あんなシナリオを聞かされた友人に、私はどんな顔をすればいい?
「ど、どうぞ……」
みどりは携帯をテーブルに置きながら、複雑な心境で訪問者を迎えた。
「みどり、元気?」
病室に入ってきた人の恰好を見て仰天する。
「あんた、誰?」
訪問者の顔を覆っているのは、厳めしいガスマスクだった。
「だって、すっごく臭いんだもん」
その声は……、お母さん……?
「元気そうで安心したわ。もう大丈夫ね」
ガスマスク越しに言われても、全然説得力ないんだけど……。
「ねえ、お母さん、直司と同室ってどういうこと? ていうか、ドクダミ心中なんてトンデモ話にお母さんも乗っちゃったの?」
「そうよ、だって灰沢君、お金を沢山くれるって言うんだもん」
やっぱ金かよ。
「心中を図った相手と同室なんて、いくら作り話でもありえないし」
「それは大丈夫よ。病院にはちゃんと真相を伝えてあるから。それにね、特別脱臭室はこの病院には一つしかないんだって」
屋上で失神したみどりと直司は、昨夜この病院に運ばれた。しかしドクダミ臭があまりにもひどいため、この特別室で脱臭治療を行うことになったという。
見渡すと、確かに病室は特別な作りになっていた。まるでクリーンルームのように密閉されており、病室の片隅ではブロロロと脱臭機が動いている。
「それでね、みどり。あんたはあと二日、入院してなくちゃならないのよ」
「ってことは、ずっと直司と一緒ってこと?」
「ごめんね、我慢してね」
「そんなの嫌よ。着替えとかってどうすんのよ」
「あら、別にいいじゃない。幼馴染なんだから」
幼馴染っていったって、もう高校生だよ、私達。
「それに、みどり。あれを使ったんでしょ? ピンクパンツ」
あれ? そういえば私のピンクパンツは?
みどりが自分の恰好を見ると、パジャマに着替えさせられている。きっとお母さんがやってくれたのだろう。
「もしかして、あのパンツってお母さんのだったの?」
「そうよ」
やっぱり……。
昨日の灰沢の話は本当だったんだ。
「それで、あんたもピンクパンツを使ったんでしょ? 直司君に」
直司に? ピンクパンツを? そりゃ、使ったことは使ったけど、直司だけにってことじゃなかったし……。
「これは内緒だけど、私もお父さんに使ったの。黄之瀬君に頼んで、特別催眠桃団子を作ってもらってね」
何? 桃の書って催眠術だったのか。
「でも道具に頼ったらダメね。結婚したらお父さん、研究にばかりに夢中になっちゃって、私のことなんてほったらかしなんだから。今もどこに居るのかしらね……」
父が母に催眠術を掛けたのが先だったのか、母が父に掛けたのが先だったのか。
そんなことは、今となってはどうでもいい。二人は惹かれ合って結婚し、私が生まれた。そのことに変わりはないんだから。
そして母は直司のベッドを見る。
「あんたも頑張んなさい。最初が肝心。男は甘やかしたらダメだからね」
「お母さんったら……」
「じゃあね、夕方また来るからね。さて邪魔者は退散、退散っと」
「ちょ、ちょっと……」
こうしてみどりは、直司と病室で二人きりになった。
「ねえ、あの時の言葉、信じてもいいんだよね?」
みどりは直司の寝顔を眺めながら、優しくささやき掛ける。
「でも、小学校を卒業してからあんたはずっと、私に冷たかったじゃない……」
せっかくみどりが直司を助けてあげても、余計なお世話と言われ続けていた。そんな直司に告白されるなんて、にわかには信じ難い。
「ありがとう直司。直司だって、ありがとうって私にひとこと言ってくれるだけで良かったんだよ……」
すうすうと寝息を立てる直司。
彼が目を覚ました後でも、今のように素直になれるかみどりは不安だった。
だからみどりは、彼の顔にそっと自分の顔を近づける。
「ホントだ、臭くない」
亮の言っていたことは本当だった。ドクダミ臭で鼻が麻痺しているのかもしれないが、直司の息はハンバーガー屋の時のような臭さがなかった。目が痛くならないことがそれを証明している。
それどころか、なんだか懐かしい匂いがする。小さい頃に一緒に遊んだ頃の直司の匂い。
「そこまでしてくれなくても良かったのに……」
強くなろうとするあまり、奥義を習得して息が臭くなってしまった直司。ルックスはそんなに悪くないのに、息が臭くなったら直司はモテなくなってしまう。
もしかしたら、直司は本当にみどりのことだけを考えてくれたのかもしれない。
「私だって、息が臭い男は嫌いだからね」
息が臭くない今がチャンスだから。
みどりはそっと直司の唇に自分の唇を近づけた。
胸がドキドキと高鳴る。
そっと口づけ。私のファーストキス。
「でもこれって、王子様がやることだよね……」
すると、直司がゆっくりと目を開ける。
えっ、本当に目を覚ましちゃったよ……。
「み、みどり……」
ドギマギするみどりをよそに、直司は周囲を気にし始めた。
「灰沢はどうした?」
私のためにもう敵と戦ってほしくないから。
「奥義はどうなった?」
赤団子を食べるなんて辛い思いはもうしなくていいから。
「ゴメン、みどり、守ってあげられなくて」
直司はこのままずっと、昔のままの直司でいてほしいから。
「俺、もっと強く……」
みどりは直司の言葉を遮るように、唇で唇を塞いだ。
了
ライトノベル作法研究所 2012GW企画
テーマ:「恋愛」
お題:「赤、橙、黄、緑、青、白、灰、黒、金、銀」 のうち5個以上の「色」を作中で使用
――ドボルザーク交響曲第九番第二楽章。
『家路』という名前で、下校時によく校庭のスピーカーから流れているあの曲だ。そういえば、この近くに小学校があったような気がする。住宅街を歩くみどりは、『家路』のメロディに耳を傾けながらゆっくりと橙色の空を見上げた。
「お父さん……」
三日前から家に帰って来ない父、萌々埼研一(ももさき けんいち)。この『家路』は、よく父と一緒に聴いた曲だった。
「また、いつもの彷徨だったらいいんだけど……」
研究者の父は、実験に行き詰ると突然フラっと居なくなることがあった。丸二日父が戻らなくても、家族は誰も不思議に思わなかった。三日目の朝、つまり今朝のことだが、いつもと様子が違うと感じた母が父の書斎に入り、机の上にみどり宛の手紙を見つけたのだ。
『私が家に戻らない時は、みどりは黄之瀬のところに行ってくれ。彼はみどりを守ってくれるだろう。そして奥義を学ぶのだ』
この手紙を見たみどりは、もしかしたら父は行方不明になったんじゃないかと思った。『守ってくれる』という物騒な文言も、みどりを不安にさせていた。
ちなみに黄之瀬とは、父の大学の同級生の黄之瀬仙人(きのせ せんと)のこと。父が最も頼りにしている友人であり、みどりが子供の時から家族ぐるみの付き合いをしている気の良いおじさんでもある。
(ていうか、奥義って何だよ、奥義って……)
奥義。この言葉さえ無ければ、みどりはもっと真剣に父のことを心配しただろう。こんな手紙、警察に届けるのも恥ずかしい。得体の知れない技を娘に学ばせるために、父はわざと姿を隠しているんじゃないだろうか。そう疑われても、返す言葉が無かった。
結局、みどりと母は、一週間ほど様子を見ようと相談して決めた。
そういえば、黄之瀬達は大学時代に悪ふざけをしていたと母から聞いたことがある。なんでも、戦隊ヒーローの真似事をしていたそうだ。手紙に書かれている奥義って、そのエピソードに関係することなのだろうか?
ちなみに、黄之瀬が戦隊ヒーローをやるならきっとイエローだろう。ちょっと太めだし、好物はカレーだし、なにより名字に『黄』の文字がある。
(すると、お父さんはピンク!?)
なわけがない。いくら名字が『ももさき』だからって、男がピンクを演じるとは思えない。
夕暮れに染まる空を見ながら、みどりがそんなことを考えていると、視界の端にチラリと不審な影を感じる。
(えっ、誰?)
振り向くと誰も居ない。
しかし再び前を向くと――やはり視線の端に不審な動きがあった。
(み、見張られている!?)
みどりの背筋がさーっと寒くなる。
まさか父は誰かに拉致されていて、その犯人は今度はみどりのことを狙っているのだろうか。
(だったら早くここから逃げなくちゃ……)
でも足が動かない。背筋を凍らせた何かが、足まで氷漬けにしてしまったようだ。
(動いてよ、私の足! この場に留まるのは危険なんだからっ!!)
そうやって焦れば焦るほど、足はますます硬直してしまう。後ろを向かないように視線だけを背後に集中すると、通りの角からサングラスの二人組がみどりの様子を窺っているのが見えた。頭の高さから判断してチビとノッポのコンビ。チビは真っ赤な風邪用マスクを口に掛けていた。
「ぎゃーっ! 助けて!!」
やっと声が出た。すると体も動くようになる。みどりは脱兎のごとく繁華街を目指して走り出した。
「ま、待って! みどりィ!!」
二人組は慌ててみどりを追いかけ始める。
(待ってなんて言われたって、待てるわけないじゃないっ!)
今居る住宅街から繁華街まで二百メートルほどだ。そこまで走り切れば誰かが助けてくれるだろう。
(あと少し! ここさえ抜ければ!!)
繁華街の手前にはシャッター街になっている暗い路地があった。最短距離を通るにはここを抜けるしかない。
みどりは意を決して路地に飛び込む。タンタンタンと、アスファルトを蹴るローファーの音が路地にこだまする。
(あと十メートル!!)
しかしその時――
「きゃっ!」
突然、脇から飛び出して来た二人の男達に、みどりは右腕と左腕をそれぞれがっしりと掴まれてしまったのだ。
「やめて! 離してよっ!!」
いくらもがいても腕を固められては動けない。男達は黒いスーツを着ていた。
「嫌っ! やめてっ!!」
でも誰だ、こいつら。二人組にはまだ追い付かれていないはずなのに。
みどりは背後を確認しようとしたが、黒服達に抑え込まれていて振り向くことができない。
「ど、どこに連れて行こうというの?」
黒服達は無言のまま、彼らが飛び出して来た路地にみどりを連れ込もうとする。
すると背後から叫び声が聞こえた。
「みどりィィィッ! 今助けてやるからなッ!!」
えっ、私の名前? なんか聞いたことのある声なんだけど。
「レェェェッド、ハァァリケェェェーン!」
そして変な叫び声と共に、突風が体の右側を通り過ぎる。同時に、右手を掴んでいた黒服の男が三メートルほど吹き飛ばされていた。
ガッシャーンと店舗のシャッターに打ち付けられた黒服は、目を押さえて地面をのた打ち回っている。
「目がっ! 目がぁぁぁっ!!」
みどりも少し目の痛みを感じる。どうやら黒服を吹き飛ばした突風に、目つぶしの成分が含まれていたようだ。
(今の突風って何? あの二人組の仕業なの?)
自由になった右側から後ろを振り向くと、二人組がこちらに向かって走って来るところだった。
「みどり、こっちを向くなっ!」
赤マスクが叫ぶ。またさっきの突風を放とうというのだろうか。
「ダメだ、レッドハリケーンがみどりの顔に当たってしまう。仕方が無い、頼んだぞブルー!」
「ラジャー!」
すると、ブルーと呼ばれたノッポがポケットから何かを取り出し、それを鼻に詰めてみどりに向かって水平にダイブした。
「ブルゥゥゥーッ、ジェェェットォォォッ!」
ノッポは地面に落ちることなく、頭をみどりの方に向けてすごいスピードで近づいてくる。
(え、え、え、そんなバカな!?)
ロケットのごとく飛んで来たノッポは、みどりの左手を押さえている黒服に体当たりしたのだ。
「ぐぇッ!」
黒服は、ノッポの頭突きをモロに喰らって吹っ飛ぶ。これで両腕が自由になった。
それにしても、目つぶし突風といい、ロケット頭突きといい、何て奴らなんだよ。
「アイタタタタ。大丈夫ですか? みどりさん」
頭を押さえながらノッポが立ち上がる。頭突きの衝撃だろうか、サングラスが外れてしまった彼はかなりのイケメン……というか、みどりの知った顔だった。
「りょ、亮くん、どうしたの?」
青凪亮(あおなぎ りょう)。近所に住んでいる高校一年生だ。
「隠れてみどりさんを見守っていたんです。危ないところでした」
「危ないところって、あんたたちにつけられていた時の方が寿命が縮まったんだけど。てことは、赤マスクはあのバカ?」
あの叫び声といい、あの背の高さといい、考えられるのは一人しかいない。
「バカなんてあんまりですよ。直司さんは真剣にみどりさんのことを心配してたんですから」
「やっぱり、あいつか……」
赤根直司(あかね なおし)。みどりの幼馴染でもあり、高校二年の同級生でもある腐れ縁。
そうこうしているうちに、直司がみどり達に追いついた。
「大丈夫かっ、みどりィィっ!」
「ええ、おかげ様でね」
直司は一瞬ほっとした顔をすると、今度は亮の方を向く。
「よくやったブルー!」
「はいっ、レッド」
おいおい、レッドとかブルーとかかなり痛いんだけど、お前ら。
「ほら、みどりも行くぞ。こいつらが起きないうちに」
のびている黒服二人を後に、みどりは直司に手を引かれて繁華街に消えて行った。
◇
三十分後、みどり達はハンバーガー屋に居た。
「みどり、お前は狙われている」
ドヤ顔で迫る直司。彼の口から漏れ出る赤い息が、みどりの顔に降りかかる。
「ぶわっ、ちょ、ちょっと直司、こっちを向いてしゃべらないでよ。あんたの息は臭くて、しかも痛いんだから」
みどりが目を押さえると直司は謝った。
「ゴメン、あっち向くからさ……」
直司は壁を向いたまま話を続ける。知らない人が見たら危ない人だ。
「だからお前は狙われているんだ、灰沢ってやつに」
「なんか全く話が見えないんだけど。ていうか、あんた、もう喋らないで。臭いから」
この一時間にいろいろなことがあった。
まずは、住宅街で尾行してきた不審な二人組、そして暗い路地で私を拉致しようとした黒服達。まあ、不審な二人組はこいつらだったんだけど。
それにしても直司の息は臭い。トウガラシ臭がして目が痛くなる。
「じゃあ僕が説明します、みどりさん」
みどりは亮を向いた。
でも亮くんってホント、イケメンだよね。彼の息もちょっと臭いけど。なんだか青くてチーズっぽいのは何故? まあ、直司より数倍マシだから我慢してあげる。
「みどりさん、あなたは狙われているんです。あなたのお父さんと大学で同級生だった灰沢って男に」
またお父さんの同級生? みどりは眉をしかめた。
「なんで? なんで私が狙われなくちゃいけないの?」
「それはですね、みどりさんのお父さんが失踪したからなんですよ」
「やっぱり……」
亮の話はこんな感じだった。
三日前、父が直司と亮のところに訪問してこう言ったという。
灰沢という男に狙われているからしばらく姿を隠す。次はきっとみどりが狙われるから、みどりが黄之瀬のところに行くまで守ってやってくれ、と。
「なによ、やっぱお父さん、一人で隠れてるんじゃん」
娘をほったらかして、なんという親だ。
「でも研一おじさん、みどりに何回も話そうとしてたんだよ」
壁を向いたまま直司が口をはさむ。
「最近、みどりが顔を合わせてくれないって嘆いてたぜ、おじさん」
だからといって、手紙一つで失踪してもいいという話ではない。
「それであんた達が正義の味方をやってるってわけ?」
「そうなんですよ、みどりさん。僕達すごかったでしょ?」
亮が得意げな顔をする。確かに、今日は亮達に助けられた。
「亮くんには感謝するわ、今日はありがとう」
「おいおい、俺は無視かよ」
「はいはい、直司もア・リ・ガ・トさん」
チラリと横目で直司を見ると、なんとも渋い表情をしていた。
(こいつの前では、なんか素直になれないんだよね……)
みどりはまた亮を見る。
「ということは、さっき私を拉致しようとした黒服達は、その灰沢って奴の手下ってこと?」
「おそらくそうだと思います」
でも彼らはなぜ私を狙うんだろう?
「私なんか拉致したってしょうがないじゃない。わけわかんない」
「そうなんですよね。僕達もそれが不思議なんです」
亮は分からないという顔をする。直司も首をすくめていた。
「灰沢の狙いは、みどりさんのお父さんの発明、ってことは分かってるんですけどね」
「発明? お父さんって、そんな便利なものを発明してたわけ?」
すると直司が呆れたように口をはさむ。
「お前は何にも知らないんだな。これだよ、これ」
振り向くと、直司が手に赤マスクを掲げていた。
「今日はこれに助けられただろ?」
助けられたって、あの突風はそのマスクのおかげだってこと?
「みどりさん、あのマスクの中にお父さんの発明が組み込まれているんですよ。それが直司さんの奥義、レッドハリケーンを生み出しているんです」
「レ、レッドハリケーン? それが……奥義?」
それから亮と直司は、目を輝かせながら奥義について語り始めた。
直司が習得したレッドハリケーンとは、赤トウガラシを含んだ息で突風を作り出す奥義。そして亮が習得したブルージェットは、青チーズを含んだ鼻息の勢いでロケットのように宙を飛ぶ奥義らしい。
「ちょ、ちょ、ちょっと、あんた達。やけに熱く語っちゃってるけど、息や鼻息でそんなことができるわけ?」
「そこなんですよ、みどりさんのお父さんの発明の凄いところは。この赤マスクと青鼻ガーゼには、PAN2という繊維が織り込まれているんです」
「ぱんつ?」
「ぱんつじゃねえよ、PAN2! ローマ字のP、A、Nと数字の2。正式名はパーティクル、アクセレラレロ……」
噛んだ。レッドのくせに、直司が噛んだ。
「みどりさん、Particle Acceleration Netですよ。微粒子加速機能付き網状繊維。その試作二号でPAN2なんです」
きれいな発音で亮くんが補足してくれる。やっぱり亮くんは最高だわ。
「それがお父さんの発明ってわけ?」
「そうなんです」
なんでも、PAN2、つまり微粒子加速機能付き網状繊維はその名の通り網状の繊維で、そこを通り抜ける微粒子をものすごく加速させるんだそうな。
「じゃあ、そのPAN2を使えば、私にだってすぐレッドなんとかって珍技を発動できるってことじゃない」
「レッドハリケーンだよ! それに珍技じゃねえ、奥義だっ!」
すかさず言い直す直司。よほど奥義に愛着があるらしい。
「そもそも、そんなに簡単にはできねえんだよ、みどり」
直司が素人を見る目つきでみどりの方を向く。全く嫌なヤツ。
「さっきから言ってるだろ、PAN2は微粒子を加速させる繊維だって。微粒子が無くちゃ効果を発揮できないんだよ」
微粒子? 息や鼻息に微粒子なんて含まれてんの? もしかして唾の粒子とか?
みどりがぽかんとしていると、亮が助け舟を出してくれた。
「匂いですよ、みどりさん」
匂い? 匂いって微粒子なの?
「そうだよ、匂いは微粒子なんだよ。XXXの匂いがするってことは、XXXから飛んできた微粒子が鼻の中に入るってこ、痛てッ、なにすんだよ」
「飲食店でそんなこと言うんじゃないよ、バカ直司! せっかくのソフトクリームが不味くなるじゃない!」
それにしても、匂いが微粒子だったなんて知らなかったわ。今度から注意しなくっちゃ。
「だからですね、強い匂いのする息や鼻息が出せないと、PAN2を使いこなせないんですよ」
それで、こいつらの息はこんなにも臭いのか。
「匂いだけじゃないぜ。俺の息には赤トウガラシの微粒子も含まれてるからな」
「ああ、わかったわかった、直司は凄いよ。だから、あっち向け!」
みどりは直司の肩を小突いて、顔を壁に向けさせる。
「はははは、相変わらず仲がいいですね」
その姿を見て、亮が笑っていた。
「ああ、そうだ。お前のお父さんからこれを預かってたんだ」
そう言いながら、直司が鞄から小さな箱を取り出す。そして、壁を向いたまま後ろ手でみどりに差し出した。
「なによ、人に物を渡す時はちゃんと前を向きなさいよ」
「お前がこっち向くなって言うから遠慮してんだろ?」
ふてくされた直司は一向にみどりの方を向こうとしない。仕方が無いので、みどりは直司の手から箱を受け取った。
ティッシュボックスを一回り小さくしたような質素な段ボールの箱。
「開けてもいいの?」
「ああ、いいんじゃね」
(それにしてもお父さんから私にって、何が入ってるんだろう?)
不思議に思いながらみどりが箱を開けると、そこには――ぱんつが入っていた。しかもピンクの。
(えっ、何? これ……)
シルクのようなピンクの光沢を放つぱんつ。手触りもなめらかで気持ちいい。
でも、お父さんから私にぱんつ、ってどういうこと? もしかして直司は箱の中身を知ってる? だから恥ずかしくてこちらを見られないとか……?
「あー、みどりさん、それ、ぱんつですね」
みどりが考えを巡らせていると、いつの間にか亮が箱の中を覗き込んでいる。
「ちょ、ちょっと、勝手に見ないでよ!」
顔を赤らめながら慌てて隠すと、箱の中からひらひらと一枚の紙が舞い落ちた。
『みどり、これを穿いて黄之瀬のところへ行き、奥義を習得するのだ。研一』
「みどりさん、これってお父さんからの手紙じゃないですかっ!」
紙を拾った亮が、鼻息を荒くする。
「だから勝手に見ないでって言ってるじゃん、亮くん」
しかし亮は悪びれた様子もなく、目を輝かせる。
「みどりさんも僕達と一緒に戦いましょうよ! 黄之瀬さんのところで奥義を習得すればいいんですよ。僕も直司さんも黄之瀬さんのところで奥義を習得したんですから。直司さんがレッド、僕がブルーだから、みどりさんはピンクですね」
嫌だ、そんなの絶対嫌だ。こんな痛い奴らの仲間になるなんて。
「むふふふ、ピンクパンツだな」
様子を窺っていた直司が鼻で笑う。なによ、あんた。このぱんつは絶対穿いてやらないんだから。
「いい加減にしてよ。こんなぱんつ穿いて、どうやって戦えっていうのよ」
「それはあれですよ、みどりさん」
「そうだな、PAN2の威力を活かすんだな」
ニヤニヤと笑う直司と亮。何かを言いたそうだ。
「活かすって、どうすんの? これにもPAN2が織り込まれてるっての?」
「そりゃ、ぱんつだもんな」
「ぱんつですしねー」
二人は顔を見合わせる。まるで息の合った兄弟のようだ。
「それに私、微粒子なんて出せないし……」
「いや、できるぞ、みどり」
「そうですよ、みどりさん。匂いですよ」
二人はみどりのお尻を見つめ始めた。
えっ、えっ、ま、まさか、これを穿いて、お、な……ダメっ、女の子だからそんな単語言えないっ!
「どこ見てんのよ、あんた達。そんなことできるわけないじゃないっ! バカにしないでよっ!!」
「でもよく考えてみろよ、みどり。あの黒服達はまたお前を狙ってくるぜ。そんな時、どうやって自分を守るんだよ」
「だって、だって……、そんな時はあんた達が守ってくれるんでしょ?」
悔しいけど、今は直司達に頼るしかない。
「そりゃ、俺達が無事だったらいいよ。俺達がやられちまったらどうすんだよ。最後にみどりを守るのは、みどり自身なんだぜ」
「…………」
みどりには返す言葉がなかった。直司達が居ない時に襲われたら、みどりはあっさりと黒服達に拉致されてしまうだろう。
「それとも、黄之瀬さんのところに避難するか?」
「それはちょっと……」
黄之瀬の家はここから結構遠い。山の方へ向かって百キロくらいは離れているだろう。当然、今の学校には通えなくなる。
「だったら、とりあえず穿いとけよ。いざという時のお守りだと思ってさ」
「そうですよ、みどりさん。穿いとくだけでいいんですから」
亮くんに言われるとその通りにしてもいいかな、と思ってしまう。
「それでピンチの時には、一発ぶわっと、痛てッ、いきなり叩くことねえだろっ!」
「バカっ。叩かれたくなかったら、女の子の前でそんな下品なこと言うんじゃないよっ!」
まったく直司はデリカシーの欠片もないんだから。
「悪かったよ。俺達もできるだけみどりのことを見守っているからさ、機嫌直してくれよ」
「ふんっ。じゃあ、亮くん、よろしくお願い」
「はい、わかりました」
みどりの依頼に、気持ちよく返事をする亮。
「おいおい、みどり、何で亮なんだよ」
「だって、あんたの息は臭いから。あんたは遠くから隠れて見守っててちょうだい。私は亮くんにエスコートしてもらうわ」
「直司さん、影からサポートお願いしますね」
「なんだよ、亮もそんなこと言うのかよ。ちぇっ、わかったよ……」
結局、その日のみどりは、亮に家まで送ってもらうことになった。もちろん、直司も背後から見守ってくれたみたいだけど。
◇
翌朝、みどりが亮と一緒に登校すると、クラスでたちまち噂になってしまう。
「みどりィ、意外とあんたもやるじゃない」
「誰? 一緒に登校してたイケメンは?」
「ああ、彼はね……」
クラスメイトに囲まれて質問攻めに遭う。
みどりだって、好きで亮に付き合ってもらっているわけではない。だが、彼との仲が噂されるのもまんざらではなかった。
(なかなか気分いいかも……)
直司に送ってもらわなくて良かった。まあ、直司も影から見守ってくれていたはずなんだけど。
「亮くんっていう後輩で、家の近くに住んでるんだよ」
「えっ、みどり、あんた年下が好みなの?」
「知らなかったわ~」
こんなにクラスで噂されちゃって、直司はどんな気持ちで聞いているんだろう。みどりはチラリと直司の席を見る。が、直司は居ない。
(なによ、影から見守ってるっていうのは嘘じゃない……)
みどり達と一緒に登校したのなら、とっくに学校に着いているはずだ。
(亮くんはこの教室には入れないんだから、ここではあんたが私を守らなくちゃいけないんじゃないの? 念のため、あのぱんつは穿いてきたけどさ……)
最初は腹を立てたみどりだったが、いつまで経っても登校して来ない直司に次第に不安を募らせ始めていた。
そしてその不安は、ホームルームで現実のものとなる。
「おーい、席に着け!」
慌てて教室に駆け込んで来た担任は、肩で息をしている。
「みんな落ち着いて聞いてくれ」
担任の顔はすっかり青ざめていた。
「うちのクラスの赤根直司が、登校途中に誘拐されたらしい。隣のクラスの生徒が、赤根が黒い車に押し込まれるのを目撃した」
ええっ、直司が誘拐!?
みどりは頭が真っ白になる。
「これは大事件だ。したがって今日の授業はすべて無しになった。両親に連絡がつく者は、すぐに連絡して迎えに来てもらってくれ。もしくは二人以上で帰宅。それができない者は学校で待機だ。あと警察の取り調べがあるから、不審者を目撃した者がいたらぜひ協力してほしい」
担任の言葉を聞いてクラスはざわついた。生徒達は各々に携帯電話を取り出し、一斉に掛け始める。そんな喧騒の中、一人の男子生徒が教室に飛び込んで来た。
「み、みどりさん、直司さんがっ!」
亮だった。彼も血相を変えている。
「今、先生から聞いた。私、どうしたらいい?」
「黄之瀬さんのところに行きましょう。あそこなら安全です。僕が送っていきますから」
「でも学校が……」
「そんなこと言ってる場合じゃないですよっ!? この調子じゃ、直司さんが解放されるまで学校だって再開されるかわかりません。どうか黄之瀬さんのところに行って下さい」
厳しい表情をする亮。彼がこんな顔をするのは初めてだ。
「わかったわ……」
みどりは携帯を取り出して母に連絡し、亮と一緒に黄之瀬の家に向かった。
◇
平野を走っていた電車が山間に差し掛かかると、黄之瀬が住む村の無人駅に着く。みどりと亮が電車を降りと、降車客はみどり達を含めて五人だけだった。
「おお、待っておったぞ」
駅まで迎えに来てくれた黄之瀬は、いつもと違う妙な物を右手に掲げている。
――古ぼけたテニスラケット。
それだけだったらまだいい。そのラケットのガットの部分には、黄色いブリーフが被せられていたのだ。
(なに、そのブリーフラケット……?)
後ずさりするみどりに対し、亮は顔を強張らせ、背筋を正して黄之瀬に挨拶をする。
「お久しぶりです、師匠!」
おいおい、そんな大声で叫ぶなって。知り合いだと思われちゃうじゃん。
みどりが他人のフリをしていると、黄之瀬が亮に声を掛けた。
「でかしたぞ、亮。よくみどりを守ったな」
「いえ、直司さんのおかげです。しかし、あんなことになってしまって……」
「灰沢のやつ、直司を誘拐するとはな。それにしても、みどりが無事で良かった」
そして黄之瀬はみどりの方を向く。
目が合ってしまった。
ずっと他人のフリをしていたみどりだが、言葉を交わさざるを得ない状況だ。
「おじさんお久しぶり。でもその前に、その変な物を隠してよ」
みどりは黄之瀬が手にするブリーフラケットを見る。
「なに、この宝具を変な物と言ったのか?」
宝具? そのブリーフラケットが宝具だって? そりゃ、手垢にまみれたラケットは黄之瀬おじさんの青春の宝かもしれないけど、そのブリーフは明らかにNGだよ。
隠せと言うみどりの指摘を受け、眉をしかめる黄之瀬。となりの亮は青ざめている。
「ふふふふ。では、こいつの威力を体感してもらおう」
ニヤリと口元を結んだ黄之瀬は、高々とラケットを持ち上げる。そしてすっと息を吸い込むと、いきなり奇声を発した。
「イエローォォォッ、ブリィィィーズゥゥッ!」
イエローブリーフの間違いじゃないの? とみどりが思う間もなく、黄之瀬がラケットをらせん状にしならせた。その動きに合わせて、黄色いブリーフからビュンビュンと風鳴り音が発生する。すると、みどりの足元に妙な風が巻き起こり始めた。
「きゃっ!?」
風によって、みどりの制服のスカートがふわりと膨らみ始めたのだ。
「ちょ、ちょっと、やめてよ、おじさん」
「ワシの宝具をバカにした罰だ。奥義の力を知るといい」
必死にスカートを押さえるみどり。しかし、スカートは膨れ上がる一方だった。
それは不思議な光景だった。突風が下から吹き付けているわけでもないのに、みどりを取り巻く風によってスカートだけが膨れていく。それはまるで、スカートの中に傘の骨組みが仕組まれていて、それがゆっくりと開いていくかのようだった。
「キャー、み、見ないでっ!」
そして、姿を現し始めたぱんつ。シルク調の桃色の布地が見え隠れする。
「おお、ちゃんとピンクパンツを穿いて来たか。感心、感心」
黄之瀬は目を細めながら、自分のアゴをなで始めた。
「いい加減にやめてよ、おじさん」
このままスカートが上がり続ければ、パンチラがモロパンになってしまう。
「師匠、ストッォォォップッ!」
たまりかねた亮が、黄之瀬を制止した。
(ありがとう、亮くん。おじさんの暴走を止めてくれて)
みどりが涙目で亮を見ると、彼は鼻息を荒くしている。それはまるで、これくらいの露出がちょうどいいと言わんばかりに。
「もう最高ですね、見えたり見えなかったり。今度僕にもイエローブリーズを教えて下さい」
「ほう、そうか。でも難しいぞ、黄色の書をマスターするのは」
(あんた達ね……)
呆れるみどり。と同時に、二人に対する怒りがふつふつと湧き上がって来た。
(もう絶対許さない!)
辺りを見回すと駅周辺にはもう誰も居ない。つまり、何が起こっても誰にも迷惑をかけないし、恥ずかしい思いもすることはないってことだ。
それを確認したみどりは、静かに目を閉じた。
(見てなよ、あんた達をビックリさせてあげる)
そしてお腹に力を込めて、ゆっくりと声を発し始めた。
「奥義! ピィィィーンクッ……」
「えっ!?」
「まさかっ!?」
みどりの叫び声に驚いた黄之瀬と亮は、血相を変えてその場を離れようとする。
「パァァァーンツゥゥッ!!」
渾身の一声。
慌てふためく黄之瀬と亮は、逃げる時に体同士を激しくぶつけてしまい、足がもつれてドタっと地べたに倒れこんだ。カランカランと黄之瀬のラケットが転がっていく。
(ええっ!?)
みどりは驚いた。
場合によっては一発喰らわせてやってもいいと覚悟していたのだが、その必要が無くなったのを見てお腹の力を抜く。スカートもふわふわと元の状態に戻って来た。黄之瀬がラケットを手放したためだろう。
静寂が再び無人駅を包む。
(二人がこんなに慌てるなんて……)
ただ叫んだだけなのに、この慌てぶりはなんだろう。ピンクパンツに仕組まれたPAN2は、それだけすごい突風を発するということなのだろうか。
強い力を持つということ――みどりの中に、今まで味わったことのない昂揚感が生まれていた。
「あはははは、冗談よ。これに懲りたら、もうスカートめくりなんてしないことね」
それにしても二人の狼狽ぶりは面白かった。穿いているだけで効果があるってのは、本当だったのかもしれない。
「アイタタタタ。驚かせないで下さいよ、みどりさん」
「このワシも、ちょっとビビったぞ」
体を押さえながら二人が立ち上がる。
何強がってんのよ、おじさん。ちょっとじゃなかったでしょ、ちょっとじゃ。
「みどりに奥義を教えていなかったことを、すっかり忘れておった。まあ、しばらくはウチにおるわけだから、じっくりと習得するがよい」
それって、奥義を習得しろってこと?
「嫌よ私。そんなもの学ばないわ」
そう、このピンクパンツは、威嚇にも使えることがわかったから。
「まあ、それもいいだろう。好きにすればよい。とにかくワシのところに居れば安全だ」
さて、ピンクパンツをどう使ってやろうか。亮と別れ、黄之瀬の車に乗り込んだみどりは、ピンクパンツの使い道に思いを巡らせ始めていた。
◇
灰沢黒男(かいざわ くろお)。
みどりの父、研一の大学の同級生でもあり、ライバルでもあった男。
「灰沢と研一、そしてワシの三人は、入学した大学の工学部で一緒だったんだ」
灰沢について説明する黄之瀬は、どこか遠い目をしていた。
ここは黄之瀬の自宅のリビング。夕食後、みどりは黄之瀬から父の大学時代の話を聞いている。ちなみにその日の夕食は、独り身の黄之瀬のためにみどりがカレーライスを作ってあげた。
「教養課程が終わり、繊維工学科に進んだ灰沢に対し、研一は物理工学を専攻した。そして、ワシは食品工学を学んだのだ」
つまり、灰沢が特殊な網状繊維を開発し、研一がそれに微粒子を加速させる機能を付加する。こうして完成したPAN(微粒子加速機能付き網状繊維)の効果を最大限に活かすため、黄之瀬が匂いの元となる食品を開発していたという。
「そのPANの力を正義のために使おうとして、ワシらはヒーロー戦隊を組んだのだ」
やっぱり母の話は本当だったんだ……。
「しかし当時のPANはまだ出力が弱くて、十メートル離れた女の子のスカートをめくるくらいの威力しか無かった……」
スカートめくりのどこが正義なのよ、とみどりは黄之瀬を睨みつける。しかし、そんなことはお構いなしに黄之瀬は話を続けた。
「大学を卒業してから大学院、そして研究室に残った研一は、ずっとPANの改良に取り組んでおった。そして、二年くらい前にPANの威力を百倍に増幅することに成功したのだ。それが試作二号機、つまりPAN2なのだ」
威力が百倍!?
つまり、十メートル離れたスカートをめくることができる百倍の強さの風を発生できるようになったということだ。百人のスカートをめくれるようになったのではないだろう。それくらい強い風なら、人を吹き飛ばすことも可能かもしれない。
みどりは、灰沢の手下に拉致されそうになって直司に助けられた時のことを思い出していた。
『レッドハリケーンは、赤トウガラシの成分を含む息を、マスクを通して突風に増幅する奥義なんだ』
ハンバーガー屋で直司から聞いた説明。
あの時は、息で人を吹き飛ばせるなんて嘘だと思った。実は空気砲みたいなものを隠し持っていたんじゃないかと疑った。
しかし黄之瀬から詳細な説明を受けるにつれて、直司の奥義は本当のことだったのだとみどりは実感し始めていた。
「灰沢はきっと、PAN2の技術が欲しいのだろう……」
黄之瀬はズズズとお茶をすする。
しかしここでみどりは不思議に思う。PAN2の技術が欲しければ、父に直接聞けばいいだけだ。みどりのことを狙う理由がわからない。
「一つ教えてほしいんだけど、灰沢はなんで私のことを拉致しようとしてるの? 私、PAN2のことなんて何にも知らないんだけど……」
「ワシもさっぱり分からん。お前を拉致して研一を誘き出し、秘密を聞き出そうとしているとしか思えん。もしかしたら、お前に会いたいだけかもしれんがな」
なに、それ?
灰沢も、ただのスケベオヤジってこと……?
「ワシがみどりを匿っていることを知った灰沢は、直司の解放との引き換えにお前の身を要求してくるだろう。その時のために、奥義を学んでおいた方がいいと思わんか?」
また奥義かよ。お父さんといいおじさんといい、奥義とやらを本気で私に学ばせたいらしい。
「そりゃ、自分の力で直司を助けることができればいいとは思うけどさ……」
駅の時のように、奥義を習得していなくたってピンクパンツが威嚇になることはないのだろうか。そうすれば奥義を学ばなくても済む。
考え込むみどりを横目に、黄之瀬はここぞとばかりに畳み掛けた。
「もし、お前が一人で灰沢に拉致されてしまったらどうする? せっかくここに居るんだから、奥義を習得して自分の力で直司を助けてみないか? 直司だって、お前を守りたい一心で奥義を習得したんだぞ」
えっ、直司が? 私の……ために……?
「それって……」
「直司からは口止めされていたがな。話すにはいい機会だろう」
そしてみどりは、直司が奥義を習得するいきさつを知ることになった。
「直司が真っ白なマスクを持ってここに来たのは、ちょうど一年前のことだった」
一年前と言えば、みどり達が高校に入学したばかりの頃だ。
「きっと研一にそそのかされたのだろう。『このマスクには強い力がある』という風に。研一も研一で、完成したばかりのPAN2の威力を確かめたかったに違いない。強くなりたい直司、PAN2の実践データが欲しい研一。両者の利害が一致したのだ」
直司は背が低い。だから、子供の頃からチビと呼ばれてバカにされてきた。そして中学生になっても背は一向に伸びなかった。強くなりたいという願望は、以前から持ち続けていたのだろう。
「ここに来てすぐに直司は、なるべく強い奥義を習得したいと言いよった。そして、赤の書を選んだのだ」
赤の書。それをマスターするには、赤トウガラシを練り込んだ赤団子を食後に食べる必要があると黄之瀬は言う。赤団子は激辛で、少なくとも二時間はその苦痛に耐えなくてはならない。
「ええっ、二時間も!?」
「そうだ。それも毎食だから一日で合計六時間になる。直司は赤団子を自宅に持ち帰り、激辛修行を一年間もやり通したのだ」
一日六時間が三百六十五日だから、えっと、二千時間を超える計算になる。
「それだけではないぞ。週末はわざわざここに来て、息の出し方の特訓をしておった。いくら赤団子を食べても、目つぶし効果のある息が出せるだけだからな。狙いをつけるとか、出力を細く絞るとか、そういうのは別に特訓が必要なのだ。直司がここに通い始めて一年経つと、純白だったマスクは真っ赤になっておった。それほどまでに努力して、直司は奥義レッドハリケーンを習得したんだよ」
知らなかった、直司がそんな特訓をしていたなんて……。
確かに訓練もせずにPAN2を使えば、周囲にあるものをすべて吹き飛ばしてしまうような気もする。十メートル先から人間一人に的を絞って正確に当てるなんて、もしかしたらもの凄いことだったのかもしれない。
「ゴメン、直司……」
みどりの口からは、いつの間にか直司の名前がこぼれ落ちていた。
「私、直司に酷いこと言っちゃった。PAN2があれば、誰でも奥義が使えるって……」
そして黄之瀬の顔を見る。
黄之瀬は表情を崩すと、小さかった頃のみどりをなだめるような目で言葉を紡ぎ始めた。
「いいんだよ、みどり。それがわかっただけでも。直司もきっと許してくれるだろう。だって、直司はみどりに恩返しがしたかっただけなんだから」
「恩返し?」
「修行が苦しくなると、直司はいつも呟いておった。みどりのために挫けることはできないって。チビ、チビってバカにされていた直司を、みどりはいつも助けてくれたって」
中学生になっても、直司は背が低いことでバカにされていた。そんな時に助け舟を出してやれるのは、幼馴染のみどりだけだったのだ。
「高校生になって、直司は決心したのだろう。みどりを守ることのできる男になりたいと。それが、修行に耐える心の支えになっておった」
あいつが頑張れたのなら、私にできないことはない。だって私は、あいつよりも強いんだから。
みどりは心の奥底に、なにか力の源のようなものが湧いてくるのを感じていた。
「私、奥義を学んでみる」
黄之瀬を熱く見るみどり。
「おお、そうか。それは良かった……」
黄之瀬はほっと溜息をついた。やっと決心してくれたかと言わんばかりに。
「じゃあ、早速明日から桃の書を始めてみるか」
「桃の書? それって強いの?」
「えっ? まあ、一番手軽な奥義ではあるが……」
黄之瀬は戸惑った。せっかく学びやすい奥義を提案したのに、まさか疑問を投げつけられるとは思わなかったからである。
みどりは黄之瀬の提案に首を振る。
「そんなんじゃダメ。もっと強いやつがいい」
「桃の書の次は青の書になる。ほら、亮が習得した奥義だ。ブルーチーズを主原料にした青団子を食べて、その後の塩辛さに一時間も耐えねばならぬ」
「一時間……か。二時間よりも短いのね。黄色の書は?」
「あれは団子を食べるタイプじゃないから、奥義の方向が違う。今のお前にはまだ無理だ」
「じゃあ、直司が習得した赤の書は? 青よりも強いんだよね?」
「ああ、赤の書は青の書よりも上だ。さっき説明した通り、赤トウガラシを主原料にした赤団子を食べて、激辛に二時間耐えねばならぬ」
青の書が一時間、赤の書が二時間。強い奥義になればなるほど、苦痛に耐える時間が長くなる。
「すると、その上に奥義があるとしたら、三時間も苦痛に耐えなくてはならないのね……」
そう言って、みどりはゴクリと唾を飲んだ。
「やめておけ。初心者がいきなり三時間も苦痛を受けるのは無理だ。しかも毎食だから一日に九時間だぞ。起きている時間の半分近くを苦痛に費やすことになる」
「えっ、ホントに赤より上があるの? それって、赤よりも強いんだよね?」
困った顔をする黄之瀬。奥義は習得してほしいが体に無理のない程度に、という彼の配慮は、今のみどりには届きそうにない。
「ああ、確かに強い。最強だ。しかし……」
「じゃあ、今日はその奥義の色だけ教えて。今晩、ゆっくり考えるから」
「それは……」
はたしてみどりは本気なのだろうか。
そんな黄之瀬の疑問を吹き飛ばすかのように、みどりはしっかりとした瞳で黄之瀬を見つめ返した。その力強さに負けた黄之瀬は、最強奥義の色の名を口にする。
「緑の書だ」
◇
「やーい、チビ! 悔しかったら大きくなってみろよ」
近所の公園で、直司のことを男の子達が囲んでいるのが見えた。
「うるさい、俺だって中学生になれば大きくなるんだよ」
「そんなことあるもんか。お前ずーっとこのままだぜ」
「あははは、そうだ、お前はチビのままだ」
「うるさい、黙れ、あっち行け……」
大勢で一人をいじめるなんて、卑怯者がすることだ。
「あんた達、やめなさいよ!」
みどりはたまらず、公園に飛び込んだ。
「おお、フィアンセの登場だぜ」
「かかあ天下だな」
「うるさいわね、あんた達!」
「おー、恐っ」
「みんな逃げろーっ!」
散り散りに去っていく男の子達。
「大丈夫?」
みどりは直司に近づいた。
「なんだよ、余計なことをするなよ。これでまた、あいつらにバカにされるじゃねえかよ」
直司はみどりを睨みつけた。
「ふん、なによ。せっかく助けてやったのに。もうあんたなんか知らないっ」
「頼むからそうしてくれよ。俺はもっと強くなるんだから。そら喰らえ、レェェッドォ、ハリケェェーン!」
「えっ、何よそれ? うわっ、痛っ、目が痛い。目が、目がァァァッ!!」
みどりは目を押さえて飛び起きた。
「なんだ……、夢か……」
見慣れぬ室内に辺りを見回すと、そこは自分の部屋ではなく六畳ほどの和室だった。カーテン越しに朝の光が差し込んでいる。
「そうか、黄之瀬おじさんのところに泊まっているんだった……」
ほんのりと畳の香りが漂ってきた。
そういえば昨晩は、直司が奥義を習得するまでのいきさつをおじさんから聞いたんだっけ。だから、あんな夢を見てしまったんだ。
(あいつ、本当に私に恩返しがしたいなんて思ってんのかな……?)
昨晩の黄之瀬の話で一番気になったのはその部分だった。なぜなら、子供の頃はみどりが直司を助けるたびに憎まれ口を叩かれていたから。そのうちに、本当に余計なお世話なんじゃないかとみどりは思うようになった。
そして高校生になると、二人の仲はすっかり疎遠になってしまう。二年生になって久しぶりに同じクラスになったのに、一昨日までは一度も言葉を交わしていなかった。
その間、直司は密かに修行を続けていた。
(私に隠れてこそこそと……。でも、ふふふ、今度は私の番だからね)
直司よりも強い奥義を習得して驚かせてやろう。
みどりは沸々と闘志を燃やしていた。
(それに、『緑の書』なんて私にぴったりじゃない)
自分の名前と同じ色の奥義。この奥義を習得するのが運命なんじゃないかとさえ、みどりには思えてくる。
だから朝食が終わるとすぐに、黄之瀬に要求した。
「おじさん、緑団子ちょうだい」
「本当にやるのか?」
黄之瀬は一瞬眉をしかめたが、差し出した手を一向に降ろそうとしないみどりを見て、観念したように袋の中から緑団子を取り出した。
緑団子はゴルフボールくらいの大きさだった。
「いいか、少しずつかじっていくんだぞ。気分が悪くなったらすぐに止めていいからな」
「わかったわ」
みどりが頷くと、黄之瀬は緑団子をみどりの掌に乗せる。
大きさの割にはズシリと重たい。いろいろな種類の草を煎じ、それを固めて作ったらしく、黄緑や濃い緑など異なる緑色が織り交ざっている。
みどりはしばらく緑団子を眺めていたが、意を決してガブッとかぶりついた。
「お、おいおい、少しずつって言ったじゃないか!」
そんな黄之瀬の制止も聞かず、三回で口の中にすべてを押し込む。
顔をしかめる黄之瀬。どれだけ不味いのかは、その表情が如実に物語っている。みどりはお腹に力を入れ、苦痛に耐えようと目を閉じた。
「んー……って、えっ?」
苦くない。
それどころか、爽やかな感覚が体を駆け抜ける。みどりは口の中に残った団子をゴクリと飲み込んだ。
「ミント味?」
「実はな、みどりが食べやすいように、昨晩ミントを練り込んでおいた。だが、それは最初だけだぞ。その後は……」
黄之瀬の言葉通り、だんだんと爽快感は姿を消し、苦いような臭いような、なんども形容し難い嫌な感覚がみどりを襲う。それはまるで、すり潰したカメムシを腹の中に入れたような……。
「げえっ、何これ!?」
「吐いてもいいんだぞ、みどり!」
「嫌よ、おえっ、これは絶対吐き出さない。げぇっ、直司なんかに、おえっ、負けたくない……」
嗚咽を繰り返しながら、吐かないように必死に我慢するみどり。気持ちが悪すぎて涙が出てくる。
そしてその嫌な感覚が通り過ぎると――今度は激しい頭痛がみどりを襲い始めた。
「痛い、頭が痛い、あ”、あ”、あ”、嫌っ、あ”、あ”、あ”、痛いっ、あ”、あ”……」
「みどり……」
黄之瀬は、かける言葉を失っていた。
「これが、あ”、あ”、あ”、三時間も、あ”、あ”、あ”、続くの……?」
一人で足掻くみどり。誰も助けることはできないのだ。
「そうだ、三時間だ。後は耐えるしかないぞ」
「激辛よりはましよ、激辛よりは。あ”、あ”、あ”、痛い、あ”、あ”……」
立っていることに耐えられなくなったみどりは、寝室に戻って布団の中に包まる。しかし、こんなに頭痛がひどい状態では眠るなんて到底無理な話だった。
「こんなの、あ”、あ”、あ”、直司の苦痛に比べれば、あ”、あ”、あ”、軽いもんよ……」
なぜだかわからないが、誘拐された直司がもの凄い拷問を受けている状況を連想する。
冷たい地下室、正座に重し石、もしかすると逆さづりにされているかもしれない。
「私なんて、あ”、あ”、あ”、畳の部屋に、あ”、あ”、あ”、居られるんだから……」
そうやってみどりは、布団の中でバタバタとのたうち回りながらひたすら苦痛に耐え続けた。
◇
「はあっ、はあっ、はあっ……」
緑団子を食べてから三時間が経過し、やっと頭痛から解放されたみどりは洗面所の前に立っていた。いや、洗面台に支えられていたと言うべきかもしれない。肩で深く息をする。
「水、水……」
水分をちゃんととるように。みどりは黄之瀬にそう言われていた。
なんでも団子には十分な栄養が含まれているという。苦痛を伴う修行中は、数日に渡って食事を食べたくなくなることがあり、それを考えての措置らしい。確かに今のみどりは、何も口に入れたくはなかった。
「どうだ、やっと落ち着いたか?」
みどりが寝室から出てきたのを見た黄之瀬が近づいてくる。
「ええ。まだちょっと頭が痛いけど……」
「だったら、お昼に団子を食うのはやめとけ。いきなり一日三回は無理だ」
「嫌、私続ける。って言いたいところだけど、やっぱ無理だわ……」
みどりは涙目だった。
「そうだろ。出来る範囲で続ければいい。直司だって最初は、赤団子を食べるのは一日一回だった」
「えっ?」
あいつ、意外と軟弱だな。
「ちょっと寝てから考えるわ。お昼はいらないから」
とてもじゃないけど、昼飯を食べられる状態ではない。
「ああ、ゆっくり寝てろ。じっとしていれば、夕飯は食べられるようになる」
寝室に戻ったみどりは、布団の中に潜りこむ。頭痛はまだ残っていたが、これくらいだったら眠れそうだ。
「夜は……、どうしようかな……」
みどりは迷っていた。
直司も最初は一日一回だったという。それならば、自分も同じペースでいいんじゃないか?
「それにしても、あんなにつらいとは」
団子を口にした時は爽快だったが、途中から嫌な感じがした。しかしそれよりもキツかったのは、三時間も続いた頭痛だった。
しかし、直司と同じペースというのはそれ以上に嫌だった。あいつよりも上に立ちたかった。
「でも、マジでつらいんだよね……」
みどりがグダグダと悩んでいると、なんだかお腹が張ってきた。どうやら腸にガスがたまり始めているようだ。
「もしかして、これって、あの団子の効果……?」
このガスを放出すると、ピンクパンツに仕組まれているPAN2がその勢いを増幅する、というカラクリになっているのだろう。その大規模なものが奥義に違いない。
みどりはちょっと試してみたくなった。
(だって、どれくらい勢いがあるのか知りたいじゃない?)
みどりは洗濯して干しておいたピンクパンツに穿き替える。そして敷布団に仰向けで横たわり、体の上に掛布団を掛けた。天井を見ながらお腹に軽く力を入れ、可愛くぷっとガスを放出する。
ボムッ!!
軽い破裂音と共に布団の中で突風が巻き起こり、みどりの体が浮いた。しかも掛布団と一緒に。その高さは三十センチに達している。
「ええっ、マジ!?」
ガスが背中を通り抜け布団の中から排出されると、みどりの体は再び敷布団の上に落ちる。と同時に、ガスの匂いがみどりを包み込んだ。
「なにこれ!? すごくいい香り……」
ミントの香りだった。
しかしその清涼感はすぐに失われ、みどりを頭痛が襲い始める。
「あいたたたたた……」
でも、団子を食べた時よりも頭痛は軽い。これくらいだったら余裕で耐えることができる。いや、今のみどりには全然気にならなかった。なぜなら、先ほどのガスの威力と香りにすっかり心を奪われてしまったから。
(なんていい香りなの……)
ガス噴出の勢いは凄かった。体が浮くなんて想像もしていなかった。しかし、それ以上に驚いたのは、この香りの素晴らしさだ。
そういえば亮が言っていた。匂いは微粒子だって。でも、あの時の直司や亮は息が臭かった。だからみどりは、ピンクパンツを使うことは臭いガスを発生することだと思ってしまったのだ。
それは嫌だった。奥義なんて学びたくなかった。だって奥義を習得したら、もの凄く臭いガスが出るようになってしまうような気がしたから。
でも違ったのだ。いい香りだって微粒子なんだ。微粒子があればPAN2は機能する。素敵な香りで敵を吹き飛ばすという戦い方だってあるんだよ。
こんな簡単なこと、何で気付かなかったんだろう。
――ミントの香りで相手を吹き飛ばし、その後に訪れる頭痛で敵を無力化する。
これぞ、正義の味方の真の戦い方ではないだろうか。シンプルで、香しく、そして強力だ。その香りが出てくる場所だけが問題だが、スカートで隠していれば見えないし、黙っていれば誰にもわからない。
みどりの頭の中で、奥義に対する考え方がガラリと変わった瞬間だった。
(さっきの緑団子は、きっといい香りを作り出す団子なんだよ)
こんな風に真の正義の味方になれるのだったら、団子を食べた時の頭痛にもきっと耐えられる。みどりは、ちょっとした高揚感に包まれていた。
◇
「はあっ、はあっ、はあっ……。水、水ぅ……」
夕食後の修行にも耐えたみどりが寝室を出ると、すでに夜の十時を過ぎていた。
リビングもキッチンも真っ暗だ。
(おじさん、寝ちゃったのかな……)
電気を付けながら洗面所に向かう途中、リビングの奥の方にぼやっと青白く光る空間があるのをみどりは見つけた。
(なんだろう?)
水を飲み終えたみどりがリビングに足を踏み入れると、光っているのは月明かりに照らされた縁側だった。その場所だけカーテンが開いている。縁側では黄之瀬が座禅を組んでいるのがチラリと見えた。
みどりは邪魔をしないように、そっと黄之瀬に近づく。月が、あと数日で満月になろうかという明るさを東の空に振り撒いていた。
するとゆっくりと黄之瀬が立ち上がり、みどりの方を振り返る。
「ゴメン、おじさん。邪魔しちゃった?」
音は一つもさせなかったのに、なんで気付かれちゃったんだろう?
「お前の気はすぐに分かる。こうして毎日修行をしているからな。周囲の気配を掴むことは、ワシの奥義にとって非常に重要なことなのだ」
黄之瀬は、自分の奥義についてみどりに説明する。
彼の奥義はイエローブリーズとイエロースマッシュ。これは、直司や亮のように、体の中から微粒子を放出する技ではない。周囲の大気中にある微粒子を利用し、ラケットに装備したブリーフ中のPAN2で加速させる、という高度な技なのだ。そのためには、周囲に浮遊する微粒子の密度を即座に感知できる能力が不可欠となる。
「邪魔なんて、気にせんでもよい。それより体は大丈夫か? 初日に二個も団子を食べるなんて、少し無理し過ぎだぞ」
「確かにね、ちょっときつい……」
「今日はもう寝ろ。そうだ、いいものを聞かせてやる。少し待ってろ」
そう言って黄之瀬はリビングを出ると、古いラジカセを持って戻ってきた。
「コンセント、コンセント……」
そしてテーブルの上に置くと、一枚のCDをセットする。
「えっと、えっと、第二楽章だったっけ?」
(えっ? 第二楽章って、まさか、その曲は……)
黄之瀬がラジカセを操作すると、キュルルルとCDが回転し始める。ゆっくりとしたオーケストラの音が、スピーカーから流れてきた。
――ドボルザーク交響曲第九番第二楽章。
みどりが父とよく聞いた曲だ。
「家路ね」
「さすがに知ってるか」
「だって、お父さんによく聞かされた曲だったもん」
「ほお、奇遇だな。この曲はな、大学時代にワシらがテーマ曲にしておったんだ」
へえ、そんないきさつがあったんだ。だからお父さんのお気に入りなのね……。
オーボエが奏でる主旋律が、月に照らされたリビングに響き渡る。
そういえば、お父さんとこの曲を聞いた時も大抵月夜の晩だった。お父さんはいつも、やさしく私の髪をなでてくれたっけ。
「お父さん……」
みどりは父のことを思い出していた。
「ほら、みどり、見てごらん」
黄之瀬は縁側越しに月を見上げる。
銀色に輝く月。
お父さんと一緒の時も、この曲を聞きながら月を見たっけ……。
その時――みどりの意識がすっと遠退いていく。崩れゆくみどりの体を寸前で抱きとめた黄之瀬は、彼女の安らかな寝顔を確認して一言呟いた。
「やっぱりな、この曲と月が鍵だったか……」
◇
翌朝。
「はあっ、はあっ、……。水、水ぅ……」
朝食後の修行が終わってみどりが寝室を出ると、時計は午前十時を回っていた。
緑団子も三回目となると、少し頭痛にも慣れてきたようだ。昨日のお昼前よりも、明らかに体調は良い。 そしてリビングに近づくと、黄之瀬が神妙な面持ちで何かを読んでいるのが見えた。
「満月か……、やはりな……」
黄之瀬の呟きが聞こえてくる。
「おじさん、満月がどうかしたの?」
突然声を掛けられて、黄之瀬がビクッと身を縮めた。慌てて後ろを振り向く。
「ビ、ビックリしたぞ、みどりか……。驚かすなよ。それでどうだ、体調は?」
「昨日よりは大分いいわ。相変わらず頭痛には慣れないけど。ところでそれは何?」
みどりは黄之瀬が手にしているものに目を向けた。
「おお、これか。ついに灰沢から手紙が届いたんだ。直司の引き渡しに応じろという内容のな」
「それって、私の身と交換ってこと?」
「そうだ。ほら、読んでみろ」
黄之瀬から渡された手紙には、こう書かれていた。
『三日後の満月の夜九時に、みどりを連れてカイクロ本社ビルの屋上に来い。そうすれば直司は返してやる。灰沢』
こ、これって、身代金の要求!? じゃないわね、人質交換じゃない。
「警察は? 警察には知らせたの?」
「いや、その必要はないだろう」
「ええっ、相手は誘拐犯なのよ。それに『警察に知らせたら直司の命は無い』とか、そういう常套句がないじゃない。だったら警察に知らせてもいいってことだよね?」
「だからだよ。常套句を使わないから彼は誘拐犯じゃないんだ。これでも灰沢のことはワシが良く知っている。話せばわかる相手だ」
「でも……」
みどりは黄之瀬の態度に納得がいかなかった。そして再び手紙に目を向ける。
「それに、おじさん、ここの書いてあるカイクロって、あのカイクロ?」
その名前に見覚えがあった。というか、国民の誰もが知っているファッションブランド名だ。
「そうだ」
「それってどういうこと? なんで引き渡し場所がカイクロ本社ビルなのよ?」
「それは当たり前のことだ。なぜなら『カイクロ』とは、灰沢黒男そのもののことだからな」
「えっ、つ、つまり、灰沢はカイクロの社長ってこと……?」
それからみどりは、黄之瀬から大学卒業後の灰沢の話を聞く。
「灰沢は、PANの開発で得た繊維工学のノウハウを、仕事に活かそうとしたんだ」
PANの開発についての話は、みどりは二日前に聞いている。大学で繊維工学を学んだ灰沢は、在学中に父と協力してPANを開発していた。
「灰沢はアパレル業界に飛び込んだ。そしてPANの技術を応用して特殊な繊維を開発し、カイクロを立ち上げたのだ。その繊維は、体臭を飛ばしてしまうという機能を持っていた」
「それって、もしかして……」
「そうだ、カイクロのヒット商品『デオラドント』だ」
デオラドント。それを身に付けるだけで、体臭を全く感じなくなるというインナーだ。日本よりも欧米で大ヒットし、カイクロのブランド名を世に知らしめた。
「彼が創設した会社は、いきなり世界のトップ企業に躍り出た。しかし、彼の技術では、デオラドンドの機能をさらに強化することはできなかった」
いくらインナーが体臭を吹き飛ばしても、アウターの中でこもってしまって意味がない。コートを着ていても体臭を吹き飛ばすことができるのはPAN2だけだ。つまりPAN2は、灰沢が喉から手が出るほどほしい技術なのだという。
「だったら、お父さんを探せばいいだけじゃない」
「そうなんだよ、灰沢は研一を高待遇で会社に迎え入れればいいだけだ。あいつがなんでこんなことをしているのか、ワシには全く理解できん。この機会に本人に会って、じっくりと事情を聞いてみたいと思う」 黄之瀬は手紙の通り、三日後に灰沢のところに行くと言う。
「とにかくみどりは奥義を習得してくれ。緑の書は、緑団子を十個食べると完成する。一回だけ奥義『グリーントルネード』を発動することができるようになるのだ」
(グリーントルネード!)
ちょっぴり強そうな名前だと、みどりは思う。
「わかったわ。緑団子はすでに三個食べているから、あと七個ってことね?」
「そうだ」
三日で七個。つまり、一日に二個以上食べないとノルマは達成できない。
みどりはゴクリと唾を飲む。これで修行のノルマと決戦の日が明らかになった。あとは、それに向かって突き進むのみだ。
「私、頑張ってみる」
「お前が奥義を習得してくれれば心強い。たとえ直司と引き換えでお前が拉致されてしまっても、一人で脱出することができるからな」
奥義の発動は一回のみ。つまり、グリーントルネードは最後まで温存せよということだ。
「その前に灰沢をやっつけちゃってよ、おじさん」
「ああ、ぜひそうしたいところだ。念のため亮も呼ぶか」
こうして、みどりと黄之瀬は灰沢との決戦に向けて、着々と準備を進めていった。
◇
◇
◇
三日後。ついに決戦の日がやってきた。
「萌々埼みどり御一行様でしょうか?」
カイクロ本社ビルに到着したみどり達は、社員の丁寧な対応に拍子抜けする。
「はい、そうですが……」
「社主が屋上でお待ちです。お連れの方は、黄之瀬様と青凪様でお間違いないですね。どうぞ、こちらからお入り下さい」
三人は、案内役の社員と一緒にエレベータに乗った。
屋上に着くと、そこは不思議な空間になっていた。全体が半透明の幕のようなもので覆われている。まるで、薄い和紙でできた巨大なドームの中に居るような感覚。景色が透けて見えるのが幻想的で、周囲のビル群のネオンや東の空に輝く満月がドームに彩りを添えていた。
「まさか、この幕の素材は……」
周囲の気配を探りながら、不安そうな声で黄之瀬が呟く。顔は少し青ざめていた。
「どうしたの、おじさん?」
「みどり、もしかしたらワシの奥義は使えんかもしれぬ」
黄之瀬が不安の理由を口にする。
その時だった。
「久しぶりだな、黄之瀬」
屋上の反対側から低い声がする。みどり達が振り向くと、そこには高級そうなスーツを着た男と、黒服達に連れられた制服姿の青年が姿を現す。きっと灰沢達に違いない。
「直司ィ!」
青年は直司だった。だが赤マスクは掛けていない。
「みどり、来ちゃダメだ。これは罠だ」
みどり達に向かって直司が叫ぶ。それと同時に、ギギギと屋上のドアが閉まった。亮がすぐに駆け寄ったが、すでに建物内部から鍵が掛けられてしまったようだ。
背路は絶たれた。もう正面の敵を突破するしかない。
みどりは黄之瀬を見る。
「おじさん、まずは直司を解放してあげて」
「わかった。無理かもしれんが、やってみる」
黄之瀬は、バッグからブリーフラケットを取り出すと、頭上に高々と掲げ、いつかの時のようにくねくねと螺旋を描き始めた。そして、
「イエロォォォッ、スマッァァァシュッ!」
渾身の力でラケットを振り下ろす。
周囲の大気に含まれる微粒子がラケットによって収束され、直司を拘束している黒服達を――なぎ倒すことは無かった。
「あはははは、無駄だ、無駄だ」
灰沢が高笑いをする。
「黄之瀬、お前も気付いているだろ? この屋上を覆う幕はPANでできている。つまりだな、このドーム内は無香的空間なのだよ」
PANによって造られたドーム。その中に存在する微粒子は、PANの微粒子加速機能によってすべてドームの外側に排出されているというのだ。
黄之瀬の奥義は、空気中の微粒子を加速させる技だ。微粒子が存在しなければ技を使うことはできない。
さすがは灰沢。周到な準備といい、登録商標に配慮した言葉づかいといい、伊達に社長をやっているわけではなさそうだ。
「じゃあ亮くん、直司を拘束している黒服を倒して!」
亮の奥義は黄之瀬とは違う。体内にある微粒子を放出する技だ。これなら、たとえ無香的空間でも使用できる。
「了解」
亮は青ガーゼを鼻に詰め、
「ブルゥゥゥーッ、ジェェェットォォォッ!」
奥義の名前を叫びながら水平にダイブする。ロケットのような鼻息噴射によって、亮の体はシュルシュルと地を這うように加速した。
「ぐえェェェッ!」
直司の右手を拘束している黒服に、亮の頭突きが命中。亮は即時に立ち上がり、直司に新しいマスクを手渡した。
「アイタタタタ。直司さん、早くこのマスクでレッドハリケーンを!」
「ゴメン、亮、ダメなんだ」
そう言って直司はうつむいた。その間、周囲の黒服達が亮を取り押さえようと駆け寄って来る。
「なにやってんのよ、直司! 早くあんたの得意技で黒服達をやっつけちゃいなさいよっ!!」
みどりの叫びに、直司が叫び返す。
「ダメなんだよ、みどり。今の俺はレッドハリケーンが使えないんだ!」
えっ、それってどういうこと!?
そうしている間に亮は黒服達に捉えられてしまう。一人に多勢ではしょうがない。体を縛られながら、亮はみどりに重要な情報を伝えた。
「みどりさん、大変です! 直司さんの息が臭くないですっ!!」
直司の息が臭くないって?
それはつまり、息の中に微粒子が含まれていないことを示している。確かにこれではレッドハリケーンは使えない。
「みどり、聞いてくれ。灰沢につかまっている間、ずっとタニカ食堂のメニューだったんだ。俺は、俺は、すっかり健康になっちまったんだよっ!」
事情を訴えながら号泣する直司。奥義を封じられたことがよほど悔しかったのだろう。
「直司……」
直司と黄之瀬の奥義が封じられ、亮も拘束されてしまった。これでみどり達に残されたのは、奥義グリーントルネードだけだ。
「あんたの無念は、私が晴らしてあげるから……」
ギリリと拳を握るみどりに、隣の黄之瀬が小声でささやいた。
「まだだ、みどり。奥義は最後までとっておけ。このまま灰沢が約束を守れば、お前の身と引き換えに直司は解放される。それまで待つんだ。奥義を発動させるのはそれからでも遅くない」
「でも……」
「いいか、言うことを聞くんだ。まだ奥の手が一つある。ここはワシに任せろ」
「えっ、奥の手……?」
黄之瀬はみどりを制して一歩前に出た。
「灰沢、提案がある。昔のように一対一で闘わないか。ワシのイエローブリーフとお前のグレーブリーフ。どちらが強いか勝負だ。お前が勝ったらこのブリーフをお前にやる。だが、ワシが勝ったら直司を返してもらおう」
え、え、え、イエローブリーフで勝負って、今ここでそれを穿くってこと?
止めて、そんなの見たくないっ!
まさかのブリーフ対決の提案に、みどりはおののいた。
「挑発には乗らんよ、黄之瀬。お前のブリーフにはPAN2が組み込まれているじゃないか。しかしオレのブリーフはPANのままだ。それでは勝負にならん」
ていうか、二人とも奥義がブリーフだったってこと?
「それにオレが欲しいのはPAN2の技術ではない。お前のブリーフなんて要らん」
えっ、それってどういうこと? 灰沢の目的はPAN2の技術じゃないの?
そして続く灰沢の言葉は、さらに衝撃的だった。
「オレが欲しいのは、みどりちゃん本人だっ!」
「えええええっっっっ!?」
なんでぇ? それに、いくら大企業の社長でもこんなオヤジに『ちゃん』呼ばわりされたくないっ!
「みどりは関係ないだろう? 灰沢!」
「いや、大有りだよ。オレが今でも独身なのは何故だか知ってるだろ? いまだに萌々埼さんの事が忘れられないんだよ。大学時代だって、こうしてオレとお前が争っている間に萌々埼さんを研一に取られちゃったんじゃないかよっ」
萌々埼さんを取られたって……、どういうこと……?
なんだか話が分からなくなって、みどりはポカンとする。
「おいおい、黄之瀬。みどりちゃんに何も話していないのか? 我らがヒロイン、萌々埼さんのことを」
萌々埼さんって……、もしかしてお母さんのこと? お父さんって婿養子だったの?
「じゃあ、オレがじっくり説明してやろう」
たまりかねた灰沢はみどりを向く。
「オレ達は大学時代、PANの技術を使って戦隊ヒーローの真似事をしていた」
その話は聞いている。
「メンバーは三人。オレがグレー、黄之瀬がイエロー、そして萌々埼さん、つまり君のお母さんがピンクだった」
お父さんじゃなくてお母さんがメンバーだったのかよ。
ていうか、どんだけ地味な戦隊ヒーローだよ。しかも全員ぱんつってどういうこと?
「萌々埼さんは戦隊の人気者だった。みんなが彼女のピンクパンツの威力に期待した」
それって、ぱんつが見たかっただけじゃないの?
「そんな我らの萌々埼さんの心を、研一が奪ったのだ。催眠術という卑怯な手を使ってな」
そして灰沢がパチリと指を鳴らす。それと同時に、屋上に設置されたスピーカーからクラッシックが流れ始めた。
――ドボルザーク交響曲第九番第二楽章。
家路と呼ばれているあの曲だ。
「みどりちゃん、君はお母さんにそっくりだ。だから今度こそ、君を嫁として迎えたい」
すると黄之瀬が叫ぶ。
「みどり、ダメだ。耳を塞げ! 目を閉じろっ!」
そんな叫びに構うことなく灰沢は高笑いをする。
「あははははは、無駄だ、無駄だ。この音源には、特別に催眠効果が付加されている。みどりちゃんはすでに、蜘蛛の巣にかかった蝶なんだよ」
その証拠に、みどりはうつろな目をしていた。
「私は知っている。研一がこうやって萌々埼さんを落としたのを。そして娘にも試していたことを」
そして灰沢は宙を指さす。
「ほら、みどりちゃん。あの月を見るのだっ!」
幕越しに輝く金色の満月。
みどりがそれを見た瞬間、意識を失いその場に崩れ落ちた。
◇
「……きだ、みどり。だから目を覚ましてくれっ!」
遠くから聞こえる呼び声に、みどりは意識を取り戻し始めていた。
「ゴメン、みどり。今回は負けてしまったけど、俺は強くなる。だから、こんなヤツの所に嫁に行くなんて言わないでくれ」
それは直司の声だった。
「みどり、本当に好きなんだ。こんなヤツの何倍も。お前のためなら何にでも耐えられる。もっと厳しい修行をして、もっと強くなる。そして今度こをお前を守ってやるんだ。俺の手で」
ありがとう、直司。
あんたに負けたくなくて、私も修行に耐えたんだよ……。
「ええい、いい加減にしろ。みどりちゃんはもう催眠術にかかってるんだよ。君の声なんて届いてなんかいないんだ」
耳障りな声が邪魔をする。こいつは一体誰だ。
「愛の告白ってやつは、もっとエレガントにするもんだよ。青臭い君には無理だ」
違う、違うんだよ。直司は赤臭いんだ。直司はこういうヤツなんだ。これが本当の直司なんだよ。
「さあ、みどりちゃん。私の言うことがわかるよね」
「……」
「君はこれから私と一生を過ごすのだ。晴れの日も、雨の日も……」
みどりはカッと目を開いた。
「嫌よ」
「なっ……」
予想外のみどりの返事に灰沢は言葉を詰まらせる。
「だから嫌だって言ってんの。聞こえないの?」
「み、み、みどりちゃん。さ、さ、催眠は?」
慌てふためく灰沢。先ほどまでの余裕は見る影もない。
みどりはゆっくりと立ち上がる。
「なに、それ? あんたって、そんなことしないと告白さえできない臆病者なの?」
「ば、ば、バカなこと言うな。私をこんな若造と一緒にしないでくれ」
「あら、直司はちゃんと告白したじゃない。いい? 告白ってのはね、魂の叫びなの。たとえ泥臭くたって、地べたを這いつくばってたって、心が込められていればちゃんと相手に届くのよっ!」
すると、みどりの制服のスカートがバタバタと音を立て始めた。どうやら奥義に使うためのガスが漏れ始めてしまったようだ。
「おじさん、もう私我慢できない。一発やっちゃってもいい?」
「我慢できぬならしょうがない。ワシは逃げるから後は頼むぞ」
そう言って黄之瀬は踵を返す。
みどりは奥義発動のために、足を前後に交差して姿勢を正した。こうすれば発射したガスが足の間を通る際に螺旋状に回転し、強い渦が発生するという。
限界が近づいてきた。スカートを揺らす風の勢いがさらに強くなって、ぱんつが見え隠れする。
「おおっ!」
周囲の視線がみどりに集まった。
「な、なんで、ピ、ピンクじゃないんだ……?」
一人肩を落とす灰沢。
そんなにピンクパンツが見たけりゃ、私のお母さんに見せてもらいなさい。
「みどりさん、最高です!」
亮くん、あんたぶっ飛ばす。って、今からぶっ飛ばしてあげるけど。
「みどり、何で緑色なんだよ?」
心配してくれたのは直司だけだった。
「まさか、お前、緑団子を食べたのか?」
「そうよ、直司まで巻き添えにして悪いけど、ミントの香りで皆を昇天させてあげる」
「ミントなんかじゃない、緑団子の成分は!」
「知ってるわよ、いろんな薬草が混ざってるんでしょ?」
「それも違う! そいつの主成分は――」
ああ、もう出ちゃいそう。すぐに奥義の名前を唱えなきゃ。
「行くわよ、奥義っ! グリィィィーン」
そして最後に、みどりと直司が同時に叫んだ。
「ドクダミなんだよっ!!」
「トルネェェェーッドォォォゥ!!」
シュルシュルシュルとみどりの足元に緑色の渦が発生し、それはたちまち竜巻となる。その勢いの強さに周囲の人々は立っていられなくなった。
渦の中心に居るみどりの目には、次々と倒れゆく人々がスローモーションのように映っていた。
奥義って、き・も・ち・イ・イ!
圧倒的な力を行使する優越感、溜まっていたものを放出するすっきり感、そしてミントの香りがもたらす恍惚感に、みどりはその身を委ねていた。
「頭が、頭が割れるぅ!」
ゴロゴロと屋上の床を転がる人々は、皆一様に頭を抑えている。
殺人的な頭痛攻撃。修行に耐えたみどりには大したことはなかった。しかし、薄れゆくミントの香りに代わってその場を支配したものに驚愕する。
「うわっ、臭っ。なんだ、この嫌な気分にさせる匂いは……」
予想外のドクダミ臭。それはあまりに強烈過ぎて、みどりは意識を失った。
◇
「……きだ、みどり」
自分を呼ぶ愛しい声に、みどりはベッドの上で意識を取り戻す。
「好きだ、みどり」
うん、私も好き。でも直司、どこに居るの?
みどりが声のする方を向いても、そこに直司の姿は無かった。声はすぐ近くから聞こえてくるのに。
「好きだ、みどり。好きだ、みどり。好きだ、みどり……」
同じフレーズを繰り返すその声の主は――携帯電話だった。
(ちぇっ、誰だよ。私の携帯の着メロを勝手に直司の声に変えたのは!)
みどりは、ベッドの脇のテーブルに置いてあった携帯に手を延ばす。
「もしもし」
『みどりか? 目は覚めたか?』
電話を掛けてきたのは黄之瀬だった。
「おじさんからの電話で今、目が覚めたよ。ねえ、もしかして、私の携帯をいじったのって、おじさん?」
この四日間、みどりは黄之瀬の家に居た。ならば、携帯を操作できるのは黄之瀬しか考えられない。
『そうだ。愛する人の声で目覚めるってのもいいもんだろ?』
「バカっ! あほっ! おじさんなんて大嫌いっ!!」
もう少しで、携帯相手に漫才を演じるところだったじゃないっ。
それからみどりは、グリーントルネードを発動してからの出来事を黄之瀬から聞く。
あの時屋上に居た者は、皆グリーントルネードの洗礼を受けた。体全体にドクダミの匂いがこびりつき、あまりの臭さに三日間は外に出られない状態だという。念のため、みどりと直司は自宅の近くの病院に入院することになった。灰沢や黄之瀬は自宅待機、亮はブルージェットを使って、グリーントルネードが発動されると同時にドームを破って逃げていた。
「あの野郎、一人で逃げやがったな」
さすが、イケメンはやることが違う。
『ワシと直司は逃げ損なったがな』
そういえば、直司は私と一緒の病院に入院してるって言ってたっけ。ということは、まさか――
みどりはそこで初めて、仕切カーテンの向こう側にもベッドがあることに気が付いた。そこには直司が眠っていた。
げっ、マジ!? 直司と同室かよ。
『直司もそこに居るんだろ?』
「ええ、まだ寝てるけどね」
『だったら直司をちゃんと介抱してやれ。あいつはよく頑張った。この着メロだって、あいつの努力の証なんだから』
なんでも、昨年の夏休みに泊り掛けで修行をしていた時、直司は寝言でみどりの事を呼んでいたそうだ。それだけ修行が辛かったのだろう。寝てもなお名前を呼んで修行に耐えようとする姿がいじらしくなり、黄之瀬はつい録音したのだという。
『ワシは直司の想いに賭けた。録音したそのフレーズを使って、お前の体の中に催眠術を破る鍵を作ったんだ』
月夜の晩、黄之瀬がみどりに催眠術を掛けた時、それを破るための鍵を作ったという。つまり、直司の『好きだ』というフレーズを聞くと、催眠が解けるようにしておいたのだ。携帯の着メロをそのフレーズに変えたのも、もしものことを考えての措置だった。
『そして直司は、最大のピンチを救ってくれた』
あの時の直司の言葉は嬉しかった。心の奥底まで響き渡った。
『灰沢も今回の件で思い知っただろう。直司の想いの強さを。だから、もう二度とあんなことはしないはずだ』
私もこりごりだわ。グリーントルネードはもう一回使ってみたいけど。
『ああ、それとな、警察と学校は何とか誤魔化せそうだ。灰沢が政治力と財力にものを言わせて隠ぺい工作を行った。亮と登校したことに嫉妬した直司が、黒服達を使ってみどりを拉致し、場末の温泉宿でドクダミ心中を図った、というシナリオになっておる』
な、何だってぇぇぇっ?
誰だぁ、そんなシナリオを考えたのはっ!?
ていうか、ドクダミ心中って何だよ……。
「おじさんはちゃんと証言してくれたんだよね、私がおじさんのところに居たって」
『さあ? ワシの家は温泉宿かもしれんしな。あはははは……』
コンコン。
病室のドアをノックする音が聞こえる。
「ごめん、おじさん、誰か来た」
『見舞い客だな。どんな顔をして入ってくるか楽しみだ。なんたってドクダミ心中だもんな。じゃあな、あはははは……』
おじさん、覚えておきなよ!
それよりも今は訪問客だ。
やっぱりお見舞いだろうか? あんなシナリオを聞かされた友人に、私はどんな顔をすればいい?
「ど、どうぞ……」
みどりは携帯をテーブルに置きながら、複雑な心境で訪問者を迎えた。
「みどり、元気?」
病室に入ってきた人の恰好を見て仰天する。
「あんた、誰?」
訪問者の顔を覆っているのは、厳めしいガスマスクだった。
「だって、すっごく臭いんだもん」
その声は……、お母さん……?
「元気そうで安心したわ。もう大丈夫ね」
ガスマスク越しに言われても、全然説得力ないんだけど……。
「ねえ、お母さん、直司と同室ってどういうこと? ていうか、ドクダミ心中なんてトンデモ話にお母さんも乗っちゃったの?」
「そうよ、だって灰沢君、お金を沢山くれるって言うんだもん」
やっぱ金かよ。
「心中を図った相手と同室なんて、いくら作り話でもありえないし」
「それは大丈夫よ。病院にはちゃんと真相を伝えてあるから。それにね、特別脱臭室はこの病院には一つしかないんだって」
屋上で失神したみどりと直司は、昨夜この病院に運ばれた。しかしドクダミ臭があまりにもひどいため、この特別室で脱臭治療を行うことになったという。
見渡すと、確かに病室は特別な作りになっていた。まるでクリーンルームのように密閉されており、病室の片隅ではブロロロと脱臭機が動いている。
「それでね、みどり。あんたはあと二日、入院してなくちゃならないのよ」
「ってことは、ずっと直司と一緒ってこと?」
「ごめんね、我慢してね」
「そんなの嫌よ。着替えとかってどうすんのよ」
「あら、別にいいじゃない。幼馴染なんだから」
幼馴染っていったって、もう高校生だよ、私達。
「それに、みどり。あれを使ったんでしょ? ピンクパンツ」
あれ? そういえば私のピンクパンツは?
みどりが自分の恰好を見ると、パジャマに着替えさせられている。きっとお母さんがやってくれたのだろう。
「もしかして、あのパンツってお母さんのだったの?」
「そうよ」
やっぱり……。
昨日の灰沢の話は本当だったんだ。
「それで、あんたもピンクパンツを使ったんでしょ? 直司君に」
直司に? ピンクパンツを? そりゃ、使ったことは使ったけど、直司だけにってことじゃなかったし……。
「これは内緒だけど、私もお父さんに使ったの。黄之瀬君に頼んで、特別催眠桃団子を作ってもらってね」
何? 桃の書って催眠術だったのか。
「でも道具に頼ったらダメね。結婚したらお父さん、研究にばかりに夢中になっちゃって、私のことなんてほったらかしなんだから。今もどこに居るのかしらね……」
父が母に催眠術を掛けたのが先だったのか、母が父に掛けたのが先だったのか。
そんなことは、今となってはどうでもいい。二人は惹かれ合って結婚し、私が生まれた。そのことに変わりはないんだから。
そして母は直司のベッドを見る。
「あんたも頑張んなさい。最初が肝心。男は甘やかしたらダメだからね」
「お母さんったら……」
「じゃあね、夕方また来るからね。さて邪魔者は退散、退散っと」
「ちょ、ちょっと……」
こうしてみどりは、直司と病室で二人きりになった。
「ねえ、あの時の言葉、信じてもいいんだよね?」
みどりは直司の寝顔を眺めながら、優しくささやき掛ける。
「でも、小学校を卒業してからあんたはずっと、私に冷たかったじゃない……」
せっかくみどりが直司を助けてあげても、余計なお世話と言われ続けていた。そんな直司に告白されるなんて、にわかには信じ難い。
「ありがとう直司。直司だって、ありがとうって私にひとこと言ってくれるだけで良かったんだよ……」
すうすうと寝息を立てる直司。
彼が目を覚ました後でも、今のように素直になれるかみどりは不安だった。
だからみどりは、彼の顔にそっと自分の顔を近づける。
「ホントだ、臭くない」
亮の言っていたことは本当だった。ドクダミ臭で鼻が麻痺しているのかもしれないが、直司の息はハンバーガー屋の時のような臭さがなかった。目が痛くならないことがそれを証明している。
それどころか、なんだか懐かしい匂いがする。小さい頃に一緒に遊んだ頃の直司の匂い。
「そこまでしてくれなくても良かったのに……」
強くなろうとするあまり、奥義を習得して息が臭くなってしまった直司。ルックスはそんなに悪くないのに、息が臭くなったら直司はモテなくなってしまう。
もしかしたら、直司は本当にみどりのことだけを考えてくれたのかもしれない。
「私だって、息が臭い男は嫌いだからね」
息が臭くない今がチャンスだから。
みどりはそっと直司の唇に自分の唇を近づけた。
胸がドキドキと高鳴る。
そっと口づけ。私のファーストキス。
「でもこれって、王子様がやることだよね……」
すると、直司がゆっくりと目を開ける。
えっ、本当に目を覚ましちゃったよ……。
「み、みどり……」
ドギマギするみどりをよそに、直司は周囲を気にし始めた。
「灰沢はどうした?」
私のためにもう敵と戦ってほしくないから。
「奥義はどうなった?」
赤団子を食べるなんて辛い思いはもうしなくていいから。
「ゴメン、みどり、守ってあげられなくて」
直司はこのままずっと、昔のままの直司でいてほしいから。
「俺、もっと強く……」
みどりは直司の言葉を遮るように、唇で唇を塞いだ。
了
ライトノベル作法研究所 2012GW企画
テーマ:「恋愛」
お題:「赤、橙、黄、緑、青、白、灰、黒、金、銀」 のうち5個以上の「色」を作中で使用
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