ある暗がりで、小さな温もりを2015年04月07日 21時44分10秒

 下校時の暗い街道が嫌いだった。
 ――山中街道(やまなかかいどう)
 僕の町ではそう呼ばれている江戸時代から続く古い道。ぽつりぽつりと二十メートルおきに並んだ街灯の白熱電球が、ぼんやりと古い町並みを照らしている。時代を重ねて黒ずんだ柱の支える瓦屋根の木造住宅、そして復元された石畳。
 自分の住む、そんな昔ながらの宿場町の夜が嫌いだった。
 ――町並みがあるのに暗いってのが許せないんだよ。いっそのこと、すべての白熱電球をLEDに替えて煌々と照らしちゃえばいいのに!
 そんなことを言っても、「風情が無くなるから」と一介の高校生である僕の声はかき消されてしまうだろう。
 だから僕は黙々と歩く。
 この古ぼけた暗い夜道を。

 でも最近、僕はこの夜道を勉強に利用することを思いついた。
 明るい街灯の下で問題を見て、暗い街灯間で考える。
 それもこれも、一ヶ月ほど前の出来事がきっかけだった。
「ねえ新治、そろそろ受験勉強、始めない?」
 一人のクラスメートが僕に提案する。
 高校二年生の僕達も、一年後はついに受験を迎える。そろそろ勉強を始めよう思っているうちに、きっかけを掴めないままずるずると月日を過ごしていた。
「あ、ああ。別にいいけど……」
 ちょうどいい機会だ。と思ってみたものの、受験勉強という言葉の重みに僕はたじろいだ。そんな僕の生返事を受けて、クラスメートはあるものを持ってきた。
「はい、これが今週の単語帳」
 強制参加というわけだ。しかも自作。
 さらに、単語帳はめくっても表側しか文字が書かれていなかった。裏側は僕が答えを記入して、金曜日に返却しろというのだ。
 毎週月曜日に届けられる単語帳の中身は、最初は英熟語だった。次は数学の公式。歴史の年号だったこともある。
 だんだんと変わっていく内容に、いつしか僕は、下校時の街灯で単語帳を開くのが楽しみになっていた――

 ☆

「さて、今週は何だろう?」
 旧街道に差し掛かると、最初の街灯の下で僕は単語帳を開く。
 期待を込めて視線を落とした一枚目には、マジックの丸っこい文字でこう書かれていた。

『一夜一夜に人見頃』

 どっかで聞いた事があるぞ?
 なんてボケてたら受験は受からない。
 ていうかあいつ、僕のことバカにしてるだろ。これって中学校の数学じゃないか。
 答えは、数字の一・四一四二一三五六(ひとよひとよにひとみごろ)。二の平方根を覚えるための語呂合わせだ。
「いやいや、もうちょっと受験に役立つ問題にしてくれよ……」
 いきなりやることが無くなった僕は、宙を見上げながら次の街灯を目指して歩く。
 目に入るのは、街道沿いの旧家の屋根瓦。その上に広がる高く澄んだ二月の夜空には、チラチラとおうし座のスバルが瞬いていた。
「寒っ!」
 こんなにも夜空が澄んでいるのだから冷えるのは当たり前だ。僕は急いで次の街灯に向かい、白熱電灯の光の下で単語帳をめくる。

『イチゴパンツの大事件』

 なんだ、こりゃ!?
 これって受験に役立つことなのかよ?
 僕は困惑した。だって書かれている言葉の意味が、ぱっと見た目に分からなかったから。
「待てよ。さっきよりも難しくなったのは明らかなんだから、ちょっと頑張ってみよう……」
 僕は気を取り直し、イチゴパンツの意味を考えながら歩き出す。タイムリミットである次の街灯はまだ遠い。
「さっきは語呂合わせだったから、今回も語呂合わせじゃないのか?」
 これまで渡された単語帳には、それぞれテーマが設定されていた。今回もテーマがあるとすると、最初の問題から判断して『語呂合わせ』の可能性が高い。
「イチゴパンツ。これが数字の語呂合わせだとすると……」
 カチカチと僕の頭の中でイチゴパンツが数字に変換されていく。
「多分イチゴは、一(イチ)、五(ゴ)だな。じゃあ、パンツは何だ?」
 パンツ、パンツ、パンツ、パンツ……。
 人に聞かれたらなんだかヤバそうだが、口の中でもごもごと『パンツ』を繰り返してみる。
「も、もしかして八(パン)、二(ツー)!?」
 おおっ、数字が出て来た!
 ていうか、まさかの英語交じり?
 でも、これで合ってるような気がする。
 一と五、そして二と八。これを繋げると四つの数字になった。
「一五八二か。一五八二、一五八二……そうかっ!」
 僕は閃いた。
 一五八二は、年号を意味するのではないかと思い当たったからだ。
 日本史で一六〇〇年は関ヶ原の合戦だから、一五八二年はその十八年前。その年に起きた大事件といえば、たぶんあれだろう。
「本能寺の変か……?」
 というか、これって役に立つ語呂合わせなのか?
 事件と搦めて覚えるには「イチゴパンツの信長公」とか、そんな風にしないといけないんじゃないかと不満を抱きながら、不謹慎にもハレンチな信長公の姿で頭の中を一杯にしてしまう。
 そんなもやもやとした気持ちのまま、僕は次の街灯に辿り着いた。 
「次は、まともな問題にしてくれよ……」
 街灯に照らしながら単語帳をめくった僕は、そこに書かれている奇妙な言葉にあ然とする。

『変な姉ちゃん、ある暗がりでキスの練習』

 あいつ、絶対ふざけてるだろ?
 イチゴパンツといい、キスの練習といい、絶対遊んでるとしか思えない。明日学校で文句を言ってやる。
 出題したクラスメートに向けて悪態をつきながらも、僕は答えを考える。
 しかし、これって語呂合わせなのか?
 今までの語呂合わせは全部数字だったが、この文はどう考えても数字に変換できるとは思えない。『変な姉ちゃん』がどんな数字になるのか、宇宙人でも誰でもいいから分かるやつがいたら教えてくれよ!
「変な姉ちゃん、変な姉ちゃん……」
 さっきの『パンツ』と同様に、上を向きながらつぶやいてみる。
 やっぱり口に出してみないと答えは出て来そうにない。
 幸い、旧街道に人なんてほとんど居なかった。
「パンツは閃いたけど、今回は全然わからないぞ……」
 一向に答えが見つからないまま、タイムリミットの街灯が頭上に見えてくる。
「ある暗がりでキスの練習って、一体なんのことなんだよっ!?」
 出題者への恨みを込めて僕が小さく叫んだその時――
「私のこと呼びましたか?」
 突然耳元に掛けられたのは、女性の可愛らしい声だった。

 ☆

「だ、誰っ?」
 というか、今までのこと全部見られてた? 
 上を向いたままアホ面で『変な姉ちゃん』を連呼しながら歩いていたことを。
 頭を真っ白にしながら視線を下ろすと――
「んっ? んんんんんーっ!??」
 目の前いっぱいに広がる目をつむった女性の顔。そして唇に伝わる温かな感触。
 ま、まさか! こ、これって、キス……しちゃってる?
 驚いた僕は、思わずのけぞった。
「ダメなんです離れたら。これは温もりを伝える大切な練習なんですから」
 残念そうな表情を浮かべながら、黒い長髪の女性が僕のことを見つめていた。
 大きめの二重の瞳。きりっと筋の通った鼻。
 ――うわっ、可愛い……。
 うるうるさせている瞳がたまらない。その視線が僕の心を射抜いたかと思うと、彼女の瞳は再び艶やかなまぶたで覆われる。
 えっ、これってまたキスの練習? 温もりを伝える練習って、こんな可愛い女性とキスしたら温もりどころか胸熱なんだけど……。
 でもこんなチャンス、滅多にあるもんじゃない。ここはお言葉に甘えて――
「ゴメン」
 ラッキーと思いつつも、僕はドキドキする気持ちをぐっとこらえて彼女を制止する。
「初対面の人とこんなことできないよ。さっきも一回しちゃったし」
 すると彼女は大きな瞳をゆっくりと開いた。
「気にしないでいいのですよ。練習なんですから」
 だから、その練習っていうのが嫌なんじゃないか。ちょっとバカにされているようだし、こんなに可愛い女性とキスするんだったらお互い本気になってキスしたい。
「僕、新垣新治(あらがきしんじ)っていいます。言者山高校の二年生です」
 彼女の言葉を遮るように、僕は自分の名を語る。ちゃんと自分の名前を呼んでもらえるように。
「あら、いい名前ですね。私の知り合いにも似たような方がいます」
 名前を褒められるとやっぱり嬉しい。似たような方がいるのなら、名前を覚えてもらえたかもしれない。
「し、失礼ですが、お名前とかって伺ってもいいですか?」
 僕は思い切って訊いてみる。
「私はね、アルっていうの。本名は恥ずかしくて言えないんだけどね。いくつかって……? うふふ、いくつだと思う?」
 悪戯っ娘のように笑うアルさん。
 高校生っぽくないから大学生なのかな?
 考える僕を楽しそうに眺めているその笑顔は、初対面なのになんだか懐かしい感じがした。
「十八……ですか?」
「ピンポーン。そう、私は十八」
 なにか秘密の答えを言い当ててもらったかのように、アルさんは嬉しそうな顔をした。
 紺色のダッフルコートに白いニットのセーター。十八にしてはちょっと子供っぽいような気もするけど、あたたかそうなフレアスカートは落ち着いて見える。そしてその下は……ええっ?
「ごめんね、下の方は光が当たらなくてよく見えないと思うけど……」
 あわわわ、視線を下げてガン見してるのがバレバレじゃないか。
「こちらこそごめんなさい。アルさんが綺麗でつい見とれちゃって」
 あからさまに誤魔化そうとする僕を責めようとはせず、アルさんはニコリと微笑んだ。
「ありがとう。今日は私のこと呼んでくれて嬉しかった。こうやって一度、街道を通る人とお話ししたかったの」
「僕もお会いできて嬉しかったです。僕で良ければいつでもお相手します」
 嬉しかったと言われて思わず照れてしまう。でも、彼女を呼んだ覚えはないんだけど。
「じゃあ、またお願いするわ。私はそろそろ消えるから、ちょっと目をつむってて」
 えっ、目をつむっててって一体どういうこと?
 不思議に思いながらも、彼女の懇願するような眼差しに負けて僕は目を閉じる。もう会わないって言われるのが恐かった。
 ふっと暖かい風が僕の髪をなでたかと思うと、夜空の冷たさが再び降りてきた。ゆっくり目を開けると、そこには誰もいなかった。
「なんか、不思議な出来事だった……」
 さっきまで目の前で起きていたことは実は夢だったんじゃないだろうか。そう思えるほどアルさんの存在には実感がなかった。
「僕って本当に、女の人とキス……しちゃったのかな?」
 あの時の唇の温かさが本物だとすると、僕は今晩、ファーストキスをしたことになる。
 それはなんだか、ふわふわした体験だった。
 単語帳に書かれていた語呂合わせの展開そのままだったことは気になるけど。
「とにかく可愛いかったなぁ……」
 あの瞳で見つめられたら、どんな男性もイチコロだろう。
「でも……、アルさんの足が……見えなかった……」
 アルさんって、実はアレ的な存在なのかな?
 まあ、美人だからいいっか。
 僕は宙を見上げる。ぼんやりと視界の隅に街灯の光を受けながら、彼女にまた会いたいと夜空に願った。

 ☆

「おい、何だよ、あの単語帳の内容は!?」
 次の日。僕は教室に着くと、単語帳を作成したクラスメートに詰め寄る。
「今週の、面白かったでしょ?」
 机に座ったまま腕組みをして僕を見上げる女生徒は、古坂古都里(ふるさかことり)。小学校からの腐れ縁だ。
 ショートカットの彼女は、悪びれた様子もなく指で髪をひとかきすると、文句なら受けて立とうと言わんばかりの挑戦的な目つきで僕を見た。
「面白かったじゃないよ。『変な姉ちゃん』って、あれ何だよっ!?」
 思わず僕は声を荒らげる。
「ちょ、声がちょっと大きいよ」
 古都里は眉をしかめ、僕を制するように声のトーンを落とした。
「せっかくオモシロ語呂合わせを集めたんだから、面白かったって言ってよね。なに? 新治的にはつまらなかった? それとももっとエッチな方がいい?」
 えっ、さらにエッチなのがあるのか?
 じゃなかった、あの内容が受験にとってメリットがあるのかどうかって聞きたかったんだ。
「さっきも聞いたけど、『変な姉ちゃん』って何? あれを覚えて意味があるの?」
「あら。それを調べるのが新治の宿題じゃない。意味が分かれば、受験に役立つかどうかも分かると思うけど」
 ぐぐっ、まあ確かにそうだけど……。
 反論できずに言葉を詰まらせた僕に、彼女は畳み掛ける。
「でもあれは簡単な方ね。だって文をそのまま検索すれば答えが出ちゃうもん。それに比べてイチゴパンツはちょっと難しかったんじゃない?」
 幼馴染みとはいえ、同級生の女の子の口から『イチゴパンツ』が飛び出してくると、ちょっぴりドキっとする。
 確かにイチゴパンツは難しかった。年号を示すことがわかって、ようやく解く事ができた。
 ていうか、あれは僕を悩ませるためにわざと『信長』という単語を入れてなかったのか。
 古都里の魂胆に呆れながらも、『変な姉ちゃん』については後で検索してみようと思う。
「じゃあ、金曜日に答えを待ってるからね。あっ、そうだ、別件で新治に書いてもらいたいものがあったんだ……」
 思い出したように古都里は鞄の中をのぞきこみ、何かを探し始めた。
「あった、あった」
 そして一枚の紙を取り出す。
「はい、これに署名して!」
 署名だって?
 署名って「◯◯反対!」とか、たまに街頭でやってるやつだろ?
 怪訝な顔をしながら、僕は渡された紙に目を落とす。

『街灯LED化に反対する署名』

 驚いた。
 どうやら街灯の白熱電球をLEDに替える計画があるらしい。
 なんという朗報だと、僕は夢中になって中身に目を通す。
「なんでもね、旧街道沿いの街灯をすべてLED化するって、観光協会が決めたらしいのよ。しかも、急きょ今週末にやるって言うんで、とーちゃんカンカンになっちゃって、『そんな青白い光で街を照らされちゃ、うちの蕎麦が不味くなる』って、商工会の面々を集めて署名活動をやってるわけ」
 そういえば古都里の家って、旧街道沿いの由緒ある蕎麦屋だったな。
 青白い光って、確かにノーベル賞で青色LEDが注目されてるけど、すべてのLEDが青白いわけでもないと思うけど。
「確か、電球色のLEDもあるよね?」
「それって年寄りに言ってもわかんないのよ。学校でも署名を集めて来いってうるさくってさ。あれ? 新治、興味あるの?」
「ああ、まあな……」
 逆の意味で、だけどな。
 LED化すると聞いて、つい嬉しそうな顔をしてしまったのだろう。それを見逃さなかった古都里は、僕が署名賛同と勘違いしたらしく、鞄から同じ紙を何枚も出してきた。
「まだまだあるのよ。ちょうど良かった、新治も協力して」
「分かった」
 僕はニヤリと笑いながら署名の紙を受け取る。
 これをこっそり捨ててしまえば、LED化反対の署名が減るかもしれない。そうなったらこっちのものだ。
 LED化が実現しそうな喜びで思わずにやけてしまいそうになり、僕は慌てて話題を変える。
「そういえば古都里、あの旧街道沿いで幽霊が出るって話、聞いた事ないか?」
「えっ、幽霊が出るの? どこで?」
 思惑通り古都里は食いついて来た。
 昨晩、旧街道で僕にキスしてきたアルさん。その存在感の無さが、ずっと気になっていた。
「最近のことじゃなくて、この町にそういう話があるのかって感じで知りたいんだ」
 ホントは昨日のことなんだけど。
「そうね……」
 古都里は再び腕組みをして考え始める。
 すぐに思い当たらないところを見ると、そんな噂は無いのかもしれない。
「まあ、うちの町ってどこでも幽霊が出そうだからね」
 がはっ、そういうことか。
「旧街道で言えば、特にお寺の山門のところが怪しいんじゃない?」
「お寺の山門って?」
「ほら、旧街道に入ってから百メートルくらいのところに割と立派な山門があるじゃない。あの門って、昔はお城の丑寅門だったらしくて、色々な逸話が残ってるそうだけど」
 そうなのか。
 今日の帰りは注意して見てみよう。
「もしかして新治、その山門で幽霊を見たとか?」
 ギクッ、こいつ鋭いな。山門かどうかはまだわからないけど。
「そんなんじゃないよ、詳しくはまた今度な。じゃ、署名を持って行くよ」
「よろしくね。幽霊の方もね!」
 ウインクする古都里に片手で合図しながら、僕は自分の席に向かった。

 ☆

 その日の夕方。
 最初の街灯の下に来ると、僕は単語帳ではなくスマホを取り出す。『変な姉ちゃん』をネットで検索することを思い出したのだ。
「どれどれ?」
 文を全部入力するのが面倒臭かったので、とりあえず『変な姉ちゃん』で検索してみる。
 驚くことに、それだけで学問っぽい関連ワードがヒットした。
「んん? 『周期表十八族』とな?」
 周期表って……化学だよな。
 他にも『希ガス』って言葉が出てきたから間違いない。
「とりあえずブクマしとくか……」
 自分の受験科目にはあまり関係なさそうだが、金曜日には古都里に回答を提出しなくちゃいけない。
 僕は出てきたページをブックマークに入れておく。
「それよりもお寺の山門ってどこだろう?」
 古都里は確か、旧街道に入って百メートルくらいのところと言っていた。それならここから近いはずだ。
「あっ、あった!」
 四番目の街灯の前にそれはあった。
 簡素だが切妻様式の屋根瓦が特徴的な山門。木製の柱の両側には短い壁が連なっている。門の向こう側へは街灯の光が届かず、別世界の入口のような闇に包まれていた。
 そんな厳かな山門の佇まいを眺めていると、突然耳元に声を掛けられる。
「こんばんわ、新治クン。またお会いしましたね」
 びっくりして振り向くと、アルさんだった。昨日と同じダッフルコートに身を包んでいる。
 それにしても、またもや気配が感じられなかったぞ。
「私とキスの練習、したくなりました?」
 そんな可愛い顔で、男心を激しく揺さぶることを言わないでくれよ。
 何て返答したらいいのかわからずに困っていると、アルさんは僕の手元に視線を落とす。
「今日はめずらしく単語帳をご覧じゃないんですね?」
 そうなんですよ、今日はスマホなんです――と言おうとして、何かが僕の心に引っかかる。
 そもそも『今日はめずらしく』ってことを、なんでアルさんが知ってるんだ?
 この一ヶ月間、この場所に立つ僕は必ず単語帳を手にしていた。そのことを知っているアルさんは、ずっと僕のことを見ていたことになる。
 やっぱりアルさんは……。
 ここは勇気を出して訊いてみよう。
 僕は一つ深呼吸をした後、しどろもどろに切り出す。
「あの、その……、もしかして、アルさんは人間ではない……とか?」
 さすがに「幽霊では?」とは言えなかった。
 十分配慮したつもりの質問だったが、アルさんが普通の女性ならかなり失礼かもしれない。しかし彼女はニコリと笑いながら僕に言う。
「はい、そうなんです。私、宇宙人なんです」
 あへっ? 幽霊じゃなくて?
 僕は目をパチクリさせる。
 その様子が可笑しかったのだろうか。アルさんはクスクス笑いながら言葉を続ける。
「信じられませんか? だって私、この場所から離れられませんし」
 いやいやそれって完全に地球人だから。しかも地縛霊アピールだし。
「質量だって三十六ですし」
 三十六キロってむちゃくちゃ軽いじゃん。
 女性にとって体重の話はタブーって言うけど、わざわざ『質量』なんて宇宙っぽく言わなくてもいいのに。
 出るところはちゃんと出てる見事なプロポーションなのに、それだけしか体重がないということは、もしかすると足が……。
「それに、ここの街灯は光が弱すぎて、足が見えなくなっちゃってるんです」
 やっぱり無いんだ。というか、浮いてる?
 これでアルさんの人外疑惑は確定してしまったわけだけど、怖いという気持ちがちっとも湧いてこないのは、懐かしささえ漂うアルさんのほんわかとした雰囲気によるものだろう。
 その時、僕は思い出した。街灯のLED化の計画があることを。
「アルさん、もし街灯の光が強くなるとしたら嬉しいですか?」
 するとアルさんは瞳を輝かせる。
「はい。それは大変結構なことだと思います。実は私って、足にはちょっと自信があるんです」
 足に自信があるって? 幽霊が?
 それを聞いてなんだか可笑しくなったけど、明るくなることが結構だなんて、やっぱりここの白熱電球はLEDに替えるしかない。
「実はですね、あの電球を最新型に換える計画があるらしいんです」
「えっ、あの電球を換えちゃうんですか?」
 突然アルさんの表情に陰がさしたのを僕は見逃さなかった。
 明るいのがいいって言っていたのに、換えるのはダメだなんてなぜだろう?
 不思議に思った僕は、彼女が望む方向を探ってみる。
「だって明るい方がいいんですよね?」
「ええ、まあ、そうなんですが、あの電球は換えて欲しくないなあって……」
 うーん、それってどういうことなんだろう?
 そうか、幽霊だから明る過ぎると出にくいとか、青白い光だと人間味がなくなっちゃうとか、そういうことを憂いているのかもしれない。
 アルさんも意外と古風な人なんだな。電球色のLEDがあることを知らないんだから。まあ、幽霊だから仕方がないか。
「わかりました。この街灯だけは、僕が責任を持ってこれまでと変わらないようにします。それだったらいいですよね?」
 するとアルさんの表情がぱっと明るくなった。
「お願いします、新治クンっ!」
 やっぱりアルさんの笑顔は素敵だなぁ。
 電球を交換する時、観光協会の人にお願いして、少なくともここの街灯は電球色のLEDにしてもらおう。
 そんでもって、今よりもちょっと明るめにしてもらって、アルさんを喜ばせてあげよう。
 そしたらアルさんは僕に、「ありがとう新治クン。お礼に練習じゃない本番のキスをしましょう」と言ってくれたりして。
 むふふふふ、そうなったらいいなあ……。
 僕は下心で胸を膨らませながら、アルさんと楽しいひと時を過ごした。

 ☆

 次の日の水曜日。
 昼休みになると、僕は観光協会に電話をかけてみる。
「すいません、旧街道沿いの街灯をLED化するという話を聞いたもので、お電話したのですが……」
 すると、最初は穏やかな口調で対応してくれていた受付の方の声が硬くなった。
『その件ですが、白熱電球と見た目には変わらないタイプを用いますので、景観はほとんど変わりません。交換作業は最大の配慮を持って行いますので、何卒ご理解いただきたくよろしくお願いいたします』
 抑揚が失われ、緊張が追加された声。
 きっと、LED化に関する問い合わせが相次いだのだろう。少し棒読みっぽかったのは、対応マニュアルが用意されているからに違いない。
 でも、交換するLEDが白熱電球と見た目には変わらないタイプと聞いて、僕はほっとする。
「いや、あのう、苦情とかじゃなくて、ぜひ交換作業のお手伝いをさせてもらえたらと思いまして……」
『えっ?』
 受付の方の声が素に戻る。
『あっ、はい。そうでしたか。それは大歓迎です!』
 やっぱり女性の声は、明るい方が聞いていて気持ちがいい。
「ありがとうございます。それでは僕は、いつ頃、どこに伺えばよろしいでしょうか?」
 用いるLEDは電球色タイプのようだが、念には念を入れることに越したことはない。アルさんにも『責任を持ってこれまでと変わらないようにする』って言っちゃったし。
 できれば交換作業に参加して、少なくともあの場所の電球は自分で交換したかった。
『交換作業は今度の日曜日の午後一時から行いますので、その時間に旧街道入口に来ていただけると助かります』
「わかりました。当日はよろしくお願いします」
『こちらこそよろしくお願いいたします』
 僕は名前と高校名、そして連絡先を告げて電話を切る。
 場合によっては、自分で買ったLEDとこっそり交換することも考えておかなくちゃいけない。そのためには事前に電器屋に行って、LEDの下見をする必要がある。
 日曜日の交換作業に向けて、僕は頭の中で段取りを立て始めた。

 ☆

 帰り道は、二日ぶりに単語帳で勉強することにした。
 明後日の金曜日には、答えを書いて古都里に渡さなくてはいけない。
 一昨日は『変な姉ちゃん』で止まってしまったが、単語帳の中身はまだまだ沢山ある。
 僕は最初の街灯に辿り着くと、また変なことが書いてあるんじゃないかとドキドキしながら単語帳をめくった。

『一番怖い条約』

 おおっ、今度はまともな感じだぞ。
「どれどれ? 一番怖いって言われてる条約ってなんだろう?」
 と考え始めて、僕はあることを思い出す。
「違う違う、そんな解き方じゃダメだ。今回は語呂合わせだったじゃないか」
 それなら、まともに解いても無駄なはず。
 僕はセルフ突っ込みを入れながら、頭の中を語呂合わせモードに切り替えた。
「どこまでが語呂合わせか分からないが、とりあえず最初の方を変換すると……」
 僕の頭の中で、『一番怖い』がカチカチと数字に変換されていく。
「一(イチ)、八(バン)、五(こ)、八(わ)、一(い)……かな?」
 一八五八一。五ケタだ。
「これって回文?」
 いやいや、そんなことは無いだろう。
「もしかすると、最初の四ケタが年号なのかな……?」
 一八五八。これはなんだか年号っぽい。
 もしこれが年号だとすると、明治維新くらいだ。
 その頃調印した条約といえば……日米修好通商条約か?
「あははは、確かに一番怖い条約かも」
 なんだか解けたような気もするが、あとで確認する必要はありそうだ。
 久しぶりに満足した気持ちで街灯間を歩く。
 次の街灯に辿り着くと、今度も解くぞと気合を入れて単語帳をめくった。

『リカちゃん焦ってゲロ吐いた』

 だからこんな語呂合わせって受験で役立つのかよっ!?
 試験会場で笑ってしまって逆効果なんじゃないの。って、答えは全然わからないけど。
 やっぱり数字の語呂合わせ?
 でも『リカちゃん』は数字に変換できそうもないし……。
「あー、やめた、やめた」
 僕は早々に思考を停止する。
 いくら考えても答えを思いつきそうにないし、こんな変な語呂合わせだったらネットで検索すればすぐに出て来そうな気もする。それなら考えるだけ無駄だ。
「今日も夜空が綺麗だな……」
 宙を見上げながら街灯間を歩く。
 今にも星が降るような綺麗な夜空に、ゲロを吐くリカちゃんの姿が重なった。
「ええい、すぐにでも検索してやる!」
 次の街灯に着くと僕はスマホを取り出し、歩きながらはまずいと思いながら街灯間で答えを見る。
「なになに……火山岩と深成岩の覚え方だって?」
 なんでも、流紋岩(リ)、花崗岩(カちゃん)、安山岩(あ)、閃緑岩(せって)、玄武岩(ゲロ)、ハンレイ岩(はいた)を覚えるための語呂合わせなんだそうな。
「そんなの分かるわけねえよっ!」
 発狂したくなるような気持ちをぐっと抑えてくれたのは、耳元に掛けられた可愛らしいアルさんの声だった。

 ☆

「懐かしいですね、私の時は『梨花ちゃん焦って下駄履いた』でしたけど」
 ウソだろ?
 これってそんなにメジャーな語呂合わせなのか?
「アルさん、勝手に見ないで下さいよ。恥ずかしいじゃないですか」
 今週は特に。変な語呂合わせばかりだから。
 でも、アルさんも同じ語呂合わせで学んでいたことを知って、本当はすごく嬉しかったりする。
「アルさんに教えてほしいんですけど、この語呂合わせって受験が終わってからは使うことなんて無いですよね?」
 僕は以前から疑問に思っていた。
 受験のために覚える難しい熟語や公式って、高校を卒業してからも使うことがあるのだろうか? と。
 十八歳のアルさんには難しい問いかもしれないけど、それならばただの愚痴として聞いてもらいたかった。
「それなんだけどね、意外とそうでもないのよ」
 ええっ? そうなの?
 アルさんから文字通り意外な答えが返って来る。
 ということは、将来この語呂合わせを使う時がやって来るのか?
「もし新治クンが海水浴に行くとするよね。その時、白い砂の海岸と黒い砂の海岸、どっちがいい?」
 そりゃ、泳いでいて爽やかな方がいいに決まってる。
「もちろん白い砂浜ですよ」
「そうよね。女の子も白い砂浜が大好きなの。だったら、好きな子をビーチにエスコートする時、『ゲロ吐いた』海岸よりも『リカちゃん』海岸に連れて行ってあげた方がいいと思わない?」
 うほっ、この語呂合わせって、そんな風に使うのか。
 ていうか、ゲロ吐いた海岸なんて音感的にも行きたくないけど。
「へえ、勉強になりました」
 もしかしたらアルさんって結構博学なのかもしれない。
 だったら、すぐ横にある山門についても何か知ってるかも。
「そういえばアルさん、目の前にあるこの山門って昔はお城の門だったってこと知ってました?」
「そりゃ、知ってるわよ。だって私、ずっとここに居るんだもん。この山門はね、言者山城の丑寅門だったの」
 さすがは地縛霊。
 やっぱりアルさんは、この門から離れることができないのだろう。
「この門には、いろいろな逸話があるって聞いたことがあるんですけど」
 その話がわかれば、アルさんがどんな理由で幽霊になったのかがわかるかもしれない。
 理由がわかれば、成仏させてあげることも可能なんじゃないだろうか。
「うーん、私もそこまでは知らないわ。丑寅門ってね、お城の鬼門にあたる方角なの。だから、いろいろなお祓いが行われていたっていう話は知ってるけど」
 おおお、呪術が関係しているのか。
 もしそうならば僕の手には負えなくなる。呪いが山門に残留していたら、僕も憑りつかれるかもしれない。
 手に汗を握りながら、僕は自分の推理を展開する。
「もしかしてアルさんは、鬼払いの呪術が失敗して命を落としてしまった巫女さんだったとか?」
「へっ?」
 アルさんは目をパチクリさせた。
「あははは、中二病全開で何言ってんのよ新治クン。私は宇宙人だって言ってるじゃない」
 いや、そっちの方が中二病っぽいんですけど……。
 自分も相当恥ずかしいことを言ってしまったと照れながらアルさんの顔を見ると、彼女はぶうっと頬をふくらませていた。本気で『宇宙人』と言って欲しいらしい。
 その姿が可愛らしかったので、とりあえず宇宙人という流れで話をふってみる。
「じゃあ、宇宙から見たこの山門って、どんな感じですか?」
 この作戦はうまくいったようだ。アルさんは満足そうな顔で宙を見上げると、なにやら考え始めた。
「うーん、そうね。ずっと待っている女の子が見えるわ。好きで好きでたまらない男の人をじっと独りで待ってるの」
 そう言ってアルさんは、少し悲しげな表情を山門に向ける。
 もしかしたら、アルさんの正体はその女の子に関係しているのかもしれない。
 明日学校に行ったら、古都里にこのことを聞いてみようと僕は思った。

 ☆

 次の日の木曜日。
「ねえ古都里、この間言ってた山門に伝わる話についてなんだけど……」
 学校に着くと早速、古都里に逸話について訊いてみる。
「ずっと待ってる女の子がいたって聞いたんだけど、知ってる?」
 すると古都里は急にゴホゴホとむせ始めた。
「えっ、誰がそんなこと言ったの? 私、待ってなんかいないよ。うん、ホント」
 たらりと脂汗も流している。
 いやいや、古都里のことを聞いてるんじゃないんだけど……。
 わけがわからず僕は困惑する。
「古都里のことじゃなくて、昔話的にあの山門でずっと待ってる女の子がいたかどうか教えてくれって言ってるんだよ」
「へっ……?」
 一瞬で素に戻った古都里は恥ずかしそうに下を向いていたが、しばらくするとゴホンと咳払いして神妙な面持ちで僕のことを見る。そして、落ち着いた口調で語り始めた。
「あの山門に伝わる話で私が知ってるのは、駆け落ちしようとして失敗した男女の話なんだけど……」
 時は江戸時代。
 言者山藩の重臣の長男と町娘が恋に落ちたという。
 藩にとどまっているうちは、二人は決して結ばれることはない。
 若者は『脱藩して城を出るから一緒に駆け落ちしよう』と町娘を誘う。
「それは、この地方にとっては珍しく雪の降る夜だった。二人は城の丑寅門で落ち合う約束をしたの。しかし待てども待てども若者はやって来ない……」
 僕は思わずアルさんの言葉を思い出した。

『ずっと待っている女の子が見えるわ。好きで好きでたまらない男の人をじっと独りで待ってるの』

 きっとこのことだったんだ。アルさんが見た、いや体験した光景というのは。
「それで二人はどうなったの?」
 僕は思わず身を乗り出す。
「結局、若者は姿を現さなかった。どうやら直前に周囲の人達に説得されて、脱藩を思い留まったという話なの。そして翌朝、門の前で雪をかぶったまま冷たくなった町娘が発見された」
「そんな……」
 なんて悲しい話なんだろう。
 きっとその町娘が幽霊になって、今でも愛しい人を待ち続けているに違いない。
 語呂合わせが『梨花ちゃん焦って下駄履いた』に変わっていたのは、江戸時代だったからなんだ。
 でも、その幽霊を成仏させてあげるには、若者の霊を連れて来るしか方法がないじゃないか。
 僕が進む先には、とてつもない苦難が待ち受けているような気がした。
「ようやく新治も、この宿場町の歴史に興味を持ってくれたのね」
「えっ?」
 アルさんのことを考えていた僕は、古都里の予想外の言葉にドキリとする。
 小学校の頃、この町に引っ越して来た時から薄暗い宿場町が嫌いだった。だから町の歴史に興味が湧くことは無かったし、古都里と一緒の時も話題として触れないようにしていた。
「そんなんじゃないよ」
「だったらなんで?」
 毎晩のように美人の幽霊に会ってるから。
 なんてことを、さすがに言うわけにはいかない。
「まあ、受験の面接でこの町について訊かれた時、ちゃんと答えられるようにしておきたいと思ってね」
 ふと思いついた言い訳をする。
 我ながら上手い口実だと思った。受験を絡めた理由にしておけば、深く考えずに納得してくれるに違いない。
 しかしその考えは甘かった。
「やっぱり新治は、卒業したらこの町を出て行くの?」
 上目づかいで僕に尋ねる古都里。
 古都里自身がこの町のこと大好きだからって、幼馴染みにまでそれを強要することはないんじゃない?
 そりゃ、由緒ある蕎麦屋の一人娘でこの町から出してもらえないのは気の毒だと思うけど、僕には僕の人生がある。
 だから、とうとう彼女に言ってしまった。
「ああ、出て行くよ。薄暗くて古臭いこの宿場町があんまり好きじゃないんだ」
 僕の答えを聞いて、古都里は驚いたように目を見開く。そして顔を伏せたかと思うと、僕から視線を外したままゆっくりと立ち上がり小走りで教室から出て行った。
 ゴメン古都里。泣かせてしまったのかもしれない……。
 古都里には話したことはないけど、薄暗い町が好きじゃない理由は他にもあるんだ。いつかはちゃんと話そうと思ってるけど。
 郷土愛あふれる彼女にとって、町を傷つけるような僕の言葉は心をえぐる鋭さを持っていたんじゃないかと、授業中僕は自分の発言をずっと後悔していた。 

 ☆

 結局その日の二人は言葉を交わすことなく、学校を終えることとなった。
 ――仕方が無い、古都里には明日謝っておこう。
 旧街道に差し掛かった僕は、とりあえず単語帳の残りをやっつけることに。最初の街灯で、彼女手製の単語帳を開く。

『ニヤニヤ死にな』

 もう、どんな語呂合わせが来ても驚かなくなった。
 というか、これは今日の学校での出来事に対する反撃なんだよと、丸っこい文字が僕に語りかけてくる。
 死ぬ時にニヤニヤできたら、それはきっと幸せな人生だったんだろう……と感慨に浸ったところで、はっと我に返る。
「いやいや、これはただの語呂合わせだから」
 早く解かないと、タイムリミットの街灯に着いちゃうじゃないか。
 僕は冷静になって、この語呂合わせに自分なりの解法ルールを適用する。
 それは、『まず数字に変換できなかったら、考えるのを諦める』という方針だった。これまでの経験上、数字にできない場合はネットで検索した方が手っ取り早い。
「さて、どんな数字になることやら……」
 僕の頭の中で、『ニヤニヤ死にな』がカチカチと数字に変化されていく。
「もしかしてこれは、二(ニ)、八(ヤ)、二(ニ)、八(ヤ)、四(シ)、二(に)、七(な)か?」
 なんだ簡単じゃないか。
 答えはきっと、数字の二八二八四二七に違いない。
「でもこの数字、いったい何を示しているのだろう……?」
 年号ではないことは明らかだ。だって七ケタだし。
 何かの定数? どこかの都市の人口? それともネット動画の再生回数?
 数字は自体は分かった。でもそれが何を意味しているのが分からない。
「うわっ、すごくもやもやする!」
 結局僕は、次の街灯でスマホを取り出し『ニヤニヤ死にな』を検索することに。
「なんだよ、八の平方根かよ……」
 というか、そもそも八の平方根なんて語呂合わせで覚える必要があるのだろうか?
 だって、八の平方根って二の平方根の二倍だろ。『一夜一夜に人見頃』を二倍すればいいだけじゃないか。
 街灯間を歩きながらそんなことを考えているうちに、僕はあることに気付く。
「待てよ。試験中に八の平方根を計算している暇があるか?」
 きっとその間にも時間はどんどん過ぎていって、ライバルに差をつけられてしまうに違いない。
 もしかしてこの語呂合わせは、過酷な受験戦争が生んだ産物なのではないだろうか。そんな結論を導き出した時には、次の街灯に着いていた。
「次の語呂合わせは何だろう?」
 僕は単語帳をめくる。

『アフロ中井』

 ぷっ、なんだこれ?
 絶対これは数字じゃない。
 じゃあ、ネット検索だ。
 僕はその場でスマホを出して検索してみる。
「なんだよ、出てこないじゃんかよ……」
 アフロ中井で出てくるのは、アフロ中井さんやそれに関係するページばかりだった。
「チクショー、やられた。まさかここまで計算してるとは!?」
 学校で古都里にひどい事を言ってしまったことを、心の底から反省する。
 数字じゃない。ネットでも出てこない。解く手がかりが全く無いとは、なんて最強の語呂合わせなんだ。
 仕方が無いので、いつかのように僕は「アフロ中井、アフロ中井」と夜空を見上げながらつぶやいた。
 しかし、タイムリミットの四番目の街灯が見えてきても、何も思い浮かばない。
「あー、アフロ中井って何だよっ!」
 僕はアルさんに聞こえるように小さく叫んでみた。
 彼女だったら答えを知っているかもしれない。
「ふふふ、新治クン。アフロ中井は、『井』をカタカナにするとわかりやすいですよ~」
 温かな風とともに耳元で柔らかな声がした。

 ☆

「えっ、アルさん『アフロ中井』って知ってるの?」
「もちろんよ。私だって昔は受験生だったんだから」
 江戸時代に受験があったかどうかわからないが、『アフロ中井』は誰もが通る道らしい。
 早速僕は、アフロ中井の『井』をカタカナに換えて、『アフロ中イ』を頭の中に浮かべてみる――が、さっぱりわからない。
「ねえ、アルさん、もったいぶらずに答えを教えて下さいよ」
 僕が懇願すると、アルさんはいつかのような悪戯っ娘の顔をする。
「じゃあ、私の質問に答えてくれたら教えてあ・げ・る」
 いやいや、そんな女子力全開で言われても……。
 たとえ質問に答えても、得られるのがアフロ中井の秘密というのがなんだか腑に落ちない。
「わかりました。アルさんの質問って何ですか?」
「えっとね、新治クンは頑張って勉強してるけど、合格したら遠くの大学に行っちゃうの?」
 アルさんに訊かれて、僕は学校での一件を思い出す。

『やっぱり新治は、卒業したらこの町を出て行くの?』

 二人の女性から同じような質問をされるなんて、今日はなんという日なんだろう。
 古都里には「この町が好きじゃない」と言って悲しませてしまった。だから今は、慎重に言葉を選びたい。
「はい、都心の大学を受けようと思っています」
 僕は単刀直入に答える。
 この気持ちには嘘はない。
「じゃあ、一年とちょっと経ったら、新治クンとは会えなくなるのね……」
 悲しげな表情を見せるアルさん。僕の心はぎゅっと締め付けられる。
「ごめんなさい、アルさん」
 思わず謝罪の言葉が漏れた。あの時、古都里にも素直になれたらと思う。
「新治クンが謝ることはないのよ。だって新治クンの人生なんだもん」
 自分の人生だから、ちゃんと向き合わなくちゃいけないことがあった。
 だから思い切って言葉にする。
「僕は、母さんの居ないこの町から離れたいんです」
 誰にも話したことのない本当の理由。
 アルさんだから打ち明けたのか、古都里にちゃんと話してあげるための練習だったのか、それはわからない。
 言葉にすることで自分の気持ちを確かめたかった。
「お母さんって?」
「亡くなったんです。十年前に」
「……」
 アルさんは黙って僕の話に耳を傾ける。その優しさが嬉しかった。
「母さんが亡くなってから、僕と父さんはこの町に引っ越して来たんです」
 父さんと母さんは研究者で、同じ職場で働いていた。しかし実験中の不幸な事故で母さんは亡くなってしまった。祖父母を頼って、僕たちはこの町にやって来たのだ。
「父さんの車の助手席から見た、この町の夜の風景が忘れられなくて。町並みがあるのに活気がなくぼやっとした暗い風景が、なんだか自分の心と一緒だなあって」
 はっきりとした輪郭のない、ただ朽ちていくのを待っているような風景。僕の心も同化してしまいそうで恐かった。
「この風景を見ていると、今でも時折あの時の悲しみを思い出すことがあるんです。だからこの町を離れたいんです。この町自体が嫌いというわけではないんです」
 自分の心に言い聞かせるように。
 そしていつかちゃんと古都里に話して、分かってもらえるように。
 アルさんの顔を見ると、ふっと小さく息を吐いている。
「よかった。新治クンがこの町を嫌いじゃなくて」
 この場所を離れることができないアルさん。町に対する愛着は、古都里と同じくらい強いはずだ。
 アルさんが見せてくれた安堵の表情に、僕はなんだか救われたような気持ちに包まれた。
「でもアルさんは、この町を出て行こうとする男の人を好きになったんですよね?」
 僕は、古都里から聞いた山門にまつわる話を思い出す。
「えっ、誰がそんなこと言ったの?」
「違うんですか? ここで男の人をずっと待ってて、力尽きてしまった町娘だったんじゃないかと」
「あははは、違うわよ。私は宇宙人って言ってるでしょ?」
「でも、この場所から離れられない」
「そう、離れられないわ」
 それってどんな気持ちなんだろう。
「好きな人がこの町を出て行っても?」
 するとアルさんは少し考えた後、静かに言葉を紡ぐ。
「その時はね、泣いて、泣いて、泣き通すの。涙が出なくなった時はもう忘れてる。女ってそんなものよ」
 僕だったら、自分でなんとかしようとするのにな。
 それが男と女の違いなのかもしれない。
 僕は、ふと最初の質問を思い出す。
「ところで、アフロ中井って何ですか?」
 返ってきたのは、江戸時代の町娘には難しすぎる答えだった。
「国連常任理事国よ」

 ☆

 その夜。
 家で単語帳に答えを書き込みながら、僕はアルさんの正体について考える。
「国連常任理事国を知ってるなんて、江戸時代の町娘とは思えないぞ」
 常任理事国が設定されたのは第二次世界大戦後の話だし、さらに『アフロ中井』はソビエト連邦がロシアに変わってからの語呂合わせだったりする。
 そもそもアルさんは洋服を着ているじゃないか。町娘が幽霊になったのなら和服で登場しなくちゃおかしいだろ?
「やっぱり、宇宙人なのかな……」
 それもなんだかぱっとしない。
 そもそも宇宙船が隠された形跡もないし、あの場所から動けないというのも宇宙人っぽくない。
「あー、わからないけど、美人だからいっか」
 数時間前のアルさんの笑顔。
 特に、僕がこの町を嫌いじゃないと言った時の安堵の表情が忘れられなかった。
「古都里にもちゃんと謝っておこう」
 この単語帳を渡す時に、一言謝らなくちゃいけないな。
 母さんのことは恥ずかしくて言えそうにないけど。
 古都里だって、僕の本心が伝われば分かってくれるはず。
 アルさんの笑顔がそれを証明していた。
「そうだ、そういえばLEDを見に行かなくちゃ!」
 僕は突然思い出す。
 電球交換は今度の日曜日だ。
 明日の夕方は電器屋に寄って帰ることにした。

 ☆

「うへっ、LEDってこんなに高いの!?」
 金曜日の夕方。電器屋にて僕の目ン玉は飛び出した。
「四十ワット型で千円、六十ワット型で二千円……だと……」
 さらに、一番明るい百ワット型になると三千円を超えるものもある。
 種類も、『電球色』と『昼光色』と『昼白色』があって、名前だけではよくわからない。パッケージの写真から判断すると、『電球色』が一番白熱電球に近い感じがする。間違って『昼白色』に交換しちゃったら、アルさんには「宇宙人なのに幽霊っぽい」と怒られ、古都里のとーちゃんには「蕎麦が不味くなる」と叱られるに違いない。
 それにしても、どの色も値段が高い。
 てっきり五百円以下だと思っていた僕は、財布の中身を見ながら店内でしゅん巡する。
「でも、アルさんと約束しちゃったしな……」

『この街灯だけは、僕が責任を持ってこれまでと変わらないようにします』

 僕はアルさんと約束した。
 そして、今よりも明るくなったら嬉しいと彼女ははしゃいでいた。
 つまり、アルさんに喜んでもらうためには、電球色のLEDで、観光協会が用意するものよりもちょっと明るいタイプを買わなくちゃいけない。
「観光協会は、いったい何ワット型のLEDを用意してるんだろう?」
 僕は一旦店の外に出ると、観光協会に電話をかけてみる。
 すると、用意するのは電球色の四十ワット型という答えが返ってきた。
「それより明るいタイプとなると、六十ワット型か……」
 金額二千円ナリ。
 僕は泣く泣く千円札を二枚出して、六十ワット型の電球色LEDを買った。
 明後日の交換には、これをこっそりポケットに忍ばせて行かなくちゃいけない。そして、山門のところの街灯の電球を交換する時に、観光協会が用意した四十ワット型ではなく、この六十ワット型を取り付けるのだ。
「アルさん、喜んでくれるかな……」
 家までの夜道を歩きながら、僕はアルさんの笑顔を思い浮かべる。それと同時に、僕はもう一人の女の子のことを思い出していた。
「そういえば、今朝の古都里はなんだか不気味だった」
 昨日は古都里を悲しませてしまった。この町が好きじゃない――そんな心無い僕の一言で。
 いつもだったらそんなことがあった翌日は、「ふん、新治なんか知らないわよ」とソッポを向かれるはずなのに、今朝の古都里はいたって平素だったのだ。
 答えを記入した単語帳を返す時、一言ゴメンと謝罪を添えたからだろうか?
 でも、それくらいでは簡単に許してくれないのが普段の古都里だった。
『いいわ、新治の気持ちはよく分かったから』
 物分りが良すぎる彼女の返事に僕は耳を疑った。
 いつもの古都里はもっと不器用な女の子だった。
「まあ、いっか。古都里にちゃんと話す機会だと思ったけど、また別の時でいいや……」
 それなら今は日曜日の交換作業に集中しよう。
 僕は、LEDの入った紙袋をぎゅっと握りしめた。

 ☆

 日曜日のお昼。
 晴れて風のないポカポカ日和で、電球交換には最適な休日だ。
 僕は作業がしやすいようにジャージに着替え、昨日買った六十ワット型の電球をポケットに忍ばせる。
 旧街道の入口に到着すると、すでに五人くらいの人が集まっていた。石畳の上には梯子が置かれ、段ボール箱が乗った台車が並んでいる。
「こんにちわ。お電話した新垣ですが……」
 僕が声を掛けると、ジャージ姿の小柄の女性が振り向いた。
「こんにちわ。あなたが新垣新治君ですね。今日はお手伝いいただき、ありがとうございます!」
 声の感じやテンションの高さから考えて、電話で対応してくれた女性だろう。
「こちらこそよろしくお願いします」
「それでは三人一組で電球の交換作業を行いたいと思います。新垣君は、梯子を押さえる係をお願いしたいのですが」
 ええっ? 電球を換える係じゃないの?
 なんか想定と違うぞ。まあ、僕が勝手に立てた想定なんだけど。
「わかりました」
 とりあえず観光協会の方針に従って期をうかがおう。今は出会ったばかりだし。
 信頼してもらえれば、梯子に上らせてもらえるかもしれない。
 僕は梯子を軽々と担いで待機する。観光協会の女性が、「来てもらって良かったぁ」という視線で僕のことを見てくれるのがちょっぴり気持ち良かった。

 交換作業は次のような手順だった。
 電球係がLEDの入った段ボール箱が乗った台車を押して移動する。次に、梯子係が街灯に梯子を掛けてしっかりと押さえる。最後に交換係がトートバッグに電球を入れ、梯子に上って交換を行うのだ。
「やはり、用意されているLEDは四十ワット型だな……」
 僕は梯子を押さえながら作業の様子をうかがう。そして、どうやったら自分のポケットに入っている六十ワット型とすり替えることができるか考え始めた。
 梯子に上ったらポケットに手を入れることは難しい。他の二人に見られてしまうし、バランス面でも危険を伴うだろう。
 やはり、梯子に上がる前、トートバッグを担ぐ時がチャンスだ。
 現在、梯子には小柄な女性が上っていた。電球の位置は地上から約五メートル。梯子は四メートルくらいしかないので、梯子に手を掛けながら電球を換えようとすると背の高さが必要となる。小柄な女性にとっては、少し伸びをしないと電球に手が届かず大変そうだ。
 その様子を見ながら僕はほくそ笑む。この状況を利用しない手はない。
 ――ふふふ、作戦シナリオは完成した。
 僕のいる電球交換隊は、ついに山門の前の街灯に到達する。満を持したように僕は切り出した。
「交換作業、大変そうですね。僕は背がありますので、梯子に上れば少しはお役に立てると思うのですが……」
「そう? そうしてもらえると助かるわ」
 安堵の表情を浮かべる女性。今までの作業の大変さがうかがえる。
 よし、作戦通りだ。
「やり方は……今まで見てたから分かるよね?」
「はい、完璧です」
 返事をする僕に、女性は電球の入ったトートバックを差し出した。僕は左手でバッグを受け取りながら、右手はポケットの中に忍ばせる。
「それでは梯子の固定をお願いします」
 女性の意識が梯子に向いた瞬間、僕はこっそり六十ワット型LEDと四十ワット型とを入れ替えた。そしてバッグを首を通して肩に掛け、梯子を掴んで一歩一歩上っていく。
「結構、高いな……」
 たかが五メートルと馬鹿にしていたが、意外と高度感がある。梯子を持つ人がいなければ不安でたまらないだろう。
 梯子に手を掛けられる限界の位置まで上り、僕は街灯を見る。電球はすぐ目の前にあった。
「あれっ、この白熱電球、マジックで何か書いてある……」
 くるくると回しながら白熱電球を外す。目の前にかざすと、ガラス面に書かれている文字が見えた。
 ――36Ar。
「なんだこれ? 型番?」
 不思議に思いながら白熱電球をトートバッグに入れようとした時、ハプニングが起きた。

 ☆

「誰に断って電球を換えてんだよ!」
 突然、梯子の下から男性の太い声が聞こえてきたのだ。
 ビックリした僕は、反射的に白熱電球をポケットに入れる。
 梯子をぎゅっと掴みながら足下を見ると、短髪の中年の男性が観光協会の女性に話し掛けているところだった。もしかすると電球交換に反対する商工会の人かもしれない。
「ですから、今回交換するLEDは、今まで取り付けてあった白熱電球とほとんど変わらないタイプでして……」
 梯子を押さえながら観光協会の女性が対応する。こんな状況では、僕は動かない方がいいだろう。
 こりゃ、しばらく降りれないな……。
 僕はなるべく下を見ないようにしながら、二人のやり取りに耳を澄ます。
「いきなり全部交換ってのはねえんじゃねえの? 一、二か所交換して、まずは様子を見るというのが円満な解決方法ってもんだろ?」
「申し訳ありませんが、これは協会としての方針なので、私個人としてはなんとも……」
 言葉を濁す女性に、男性は不満をつのらせた。
「なんだ、使えないねーちゃんだな。商工会から観光協会へ署名を提出したのわかってんだろ? ウチの娘だって書いてくれたんだぜ」
「恥ずかしいからやめようよ、とーちゃん」
 ええっ、この声は……!?
 突然耳に飛び込んできた聞きなれた女の子の声。
 ――古都里!?
 不安定な状況で視界が遮られていて、下がよく見えず彼女がいるのが今まで分からなかった。
 僕は急に、どこかに消えてしまいたい衝動に駆られる。
 早く作業を終えなくちゃ!
 動揺した僕は、下から丸見えであることを忘れ、トートバックから六十ワット型LEDを取り出して街灯に手を伸ばした。
「だからやめてくれって言ってんだよ、にーちゃん!」
 動きに気付いた男性が、太い声で僕を制す。
 ギクリと心臓が止まりそうになり、僕は完全に固まった。
「えっ、新治……!?」
 同時に古都里の声。
 彼女に見つかってしまった。最悪だ。
「なんで新治がここに? 署名してくれたんじゃなかったの……?」
 僕は硬直したまま脂汗を流す。
 下から浴びせられる古都里の声からも、動揺が伝わってきた。
 そして急に駆け出す靴の音。
「おい、古都里、どこに行く!」
 どうやら古都里は走り去ってしまったようだ。
 すると足下から男性の声が聞こえてきた。
「にーちゃん、あんた、うちの娘の知り合いか? そういえば二、三日前、学校で署名に協力してもらえたって娘が喜んでいたけど、まさかあんたのことじゃねえよな。もしそうだったら、その意味をよく考えるんだな」
 捨て台詞を残して男性は去って行く。
 僕は頭が真っ白になったまま機械のようにLEDの取り付けを完了させ、心を失った人形のように梯子を降りる。
 その後、どうなったのかはよく覚えていなかった。

 ☆

「古都里を裏切ってしまった……」
 その夜は眠れなかった。
 ポケットの中に入っていた四十ワット型LEDと白熱電球を自室の机の上に置き、僕は一晩中考える。
 署名すると言っておきながら、署名なんてしなかった。
 それどころか、自ら率先して交換作業を手伝った。
 軽蔑されても仕方が無い。
 古都里のとーちゃんに言われた内容もキツかったが、彼女が今どういう気持ちでいるのかを考えるとギュッと胸を締め付けられるように辛かった。
「今回は謝っても許してもらえないよな……」
 案の定、眠い目をこすって登校した週明けの教室では、僕は古都里に無視されてしまった。
 いつもだったら、「はい、これ今週の宿題」って単語帳を渡してくれるのに。
 彼女に掛ける言葉を何も見いだせないまま、その日の授業は終了した。

「しょうがない、アルさんに相談してみるか……」
 そもそも電球交換の手伝いは、アルさんに喜んでもらうためにやったことだ。
 彼女の喜ぶ顔を見れば、古都里のことはしばらくの間、忘れることができるような気がした。
 いや、僕はただ、アルさんに優しく慰めてもらいたかったのかもしれない。
 旧街道入口に到着すると、交換したLEDはいつもと変わらずぼんやりと町並みを照らしていた。
「なんだ、全然変わらないじゃん」
 僕の嫌いな薄暗い風景。
 しかし、これだったら古都里や彼女のとーちゃんも納得してくれるんじゃないかと、ほっとする気持ちも湧いて来る。
 なんとも複雑な気持ちが僕の中でグルグルと回り始めていた。
「それよりも、山門のところはどうだ?」
 観光協会が用意した四十ワット型ではなく、僕が小遣いで買った六十ワット型に交換した街灯。
 その場所は、遠くから見てもわかるくらい明るく照らされていた。
「うほっ、結構明るいんだな」
 僕は思わず小躍りする。そして山門の前に辿り着くと、会いたい人の名前を呼んだ。
「アルさん? どうです、明るくなりましたよ!」
 しかし、何も反応は無い。
「どうしたんです? 自慢の足が見えるようになって恥ずかしくなったんですか?」
 僕の呼び掛けは、空しく澄んだ冬の夜空に消えて行く。
 しばらく山門の前で待ってみたが、アルさんが姿を現す様子はない。
「ううっ、寒ッ!」
 三十分もいると、体が芯から冷えてくる。
 アルさんのことを何回も呼んでみたが、とうとう姿を現してはくれなかった。
「これで雪なんか降ってたら大変だぞ」
 僕は古都里から聞いた、愛しき人を待つ町娘の話を思い出す。
 朝まで待ってたりなんかしたら、間違いなく凍死するだろう。
「どうして出てきてくれないんですか? アルさん……」
 今日はもう心が耐えられそうにない。古都里の件が疲労に拍車をかけていた。
 僕は失意に打ちのめされて、とぼとぼと帰宅の途についた。

 ☆

 翌日の火曜日。
 今日も教室では古都里に無視されてしまった。彼女の怒りは当分収まりそうにない。
 しょうがないので、帰宅時は単語帳無しで旧街道を歩く。いつの間にか僕は、山門のところに立っていた。
「アルさん?」
 昨日と同様、何も反応は無い。
「やっぱり、幽霊的には明るすぎるんですか?」
 そんな質問をアルさんが聞いていたら、「私は宇宙人よ」って怒られそうだけど。
 怒って出てきてくれれば、それでも良かった。
「ねえ、いい加減に出てきて下さいよ。もしかして……」
 アルさんも怒ってる?
 僕は目をつむって、今までの自分の行為について自問した。

 古都里のことを裏切ってまでLEDに交換したのは、純粋にアルさんのためだったのだろうか?
 本当は、旧街道を明るくしてトラウマを払拭したいという自分の欲求のために、アルさんを理由にしただけではないだろうか?

 そう追求されても、僕には何も言い返すことができなかった。
 だから山門に向かって真摯に謝罪する。
「ごめんなさい」
 アルさんに届くように。
「僕は古都里を裏切り、アルさんを出汁に使って、旧街道を明るくしようと考えました」
 そして、自分の心に言い聞かせるように。
「でもそれは、この町を好きになりたかったんです。昼間のように明るくなれば、母さんが居なくなったあの頃のことを思い出さずに済むと思ったからなんです!」
 古都里のとーちゃんにもわかってもらえるように。
 これは僕の心の底からの叫びだった。
「アルさん……」
 それでも彼女は出てきてくれなかった。
「出て来てくれるまで、ここで待ってますからねっ!」
 こうなったら根競べだ。
 アルさんが出て来るのが先か、僕がダウンするのが先か。
 僕は街灯の下に立って夜空を見上げる。今日もおうし座のスバルがチラチラとまたたいていた。
「ううっ、寒ッ……」
 情けないことに、僕はものの五分で弱音を吐き始める。
 とにかく寒い。
「日本は温暖化してるんじゃなかったのかよ……」
 その話がホントだとすると、江戸時代よりも確実に暖かくなっているはずだ。
 町娘は、好きな若者をここでずっと待っていたというのに。
 僕は町娘に負けてしまうのか。って、町娘は凍死してしまったんだけど。
「でも、待てよ」
 町娘の場合、若者が来てくれると信じていたから待つことができたんだ。
 僕の場合はどうだ?
 LEDが明るすぎてアルさんが出て来てくれないのだったら、いつまで経っても無駄ってことじゃないか。
 だったら行動を起こそう。待っているだけの町娘とは違うところを見せてあげるんだ。
「アルさん、待ってて下さいよ。今、別のLEDを持ってきますから!」
 僕は、街灯の六十ワット型LEDを四十ワット型に交換しようと、梯子とLEDを取りに自宅へ走った。

 三十分後、梯子とLEDを持って山門のところに戻ってきた。
「大丈夫かな……」
 折り畳みの梯子を伸ばしながら僕は不安に思う。
 一人で行う交換作業。
 梯子を押さえてくれる人は誰も居ない。
 足を滑らせたり梯子が傾いたりしたらタダでは済まないだろう。
「それでもやらなくちゃいけないんだ。アルさんに会うために」
 梯子を街灯に立てかけ、意を決して上る。
 そして、二日前に僕が取り付けた六十ワット型LEDを外した。
「げっ!」
 辺りが真っ暗になった。
 よく考えれば当たり前のことだ。暗い暗い旧街道の街灯のLEDを外しちゃったんだから。
「なんて浅はかなんだよ……」
 僕は自分の未熟さを呪う。
 仕方がないので、外した六十ワット型LEDを左ポケットに入れ、左手でスマホを持って液晶画面を街灯に向ける。ぼおっとした淡い光に照らされ、街灯のソケットが闇の中に浮かび上がった。
「なんとか交換作業はできそうだ」
 そして右手でポケットから四十ワット型LEDを取り出し、ソケットにねじ込もうとする。
「あと少し……」
 しかし、両手を梯子から離しているこの不安定な状態が致命的となった。
 ねじ込んだ四十ワット型LEDが光を放った瞬間、僕はバランスを崩してしまったのだ。
「あっ!」 
 ガタンと梯子が傾き、宙に放りだされる。
 地表までの距離約四メートル。
 コマ送りのように遠ざかっていく街灯の光。
「オワタ、僕の人生……」
 アルさんはついに姿を現してくれなかったと嘆きながら、僕は死を覚悟した――

 ☆

「……んじゃダメッ! 新治! 目を覚ましてっ!」
 どこからか自分を呼ぶ声がする。
 どうやら僕は、冷たく硬い場所に横たわっているようだった。
 肩と腰が痛い。手もひどく擦りむいているようで熱い。
「小学校の頃から好きだった。引っ越して来た時から、ずっと好きだった」
 ポタリ、ポタリと僕の顔の上に落ちる滴。
 いったい誰が泣いているんだろう。
「だから死なないで、新治……」
 小学校の頃からずっと聞いている声。いつも僕の傍にあった声。
 そうだ、この声は――古都里。
 僕は生きているよ。
 ありがとう、こんなにも心配してくれて。
 ゆっくりと僕は目を開ける。涙を流す古都里の瞳が見開かれた。
「新治! よかった、新治……!」
 僕は古都里にぎゅっと抱きしめられる。その温もりが嬉しかった。
「僕は……どうなったんだ……?」
 しばらくして僕は周囲を見回す。近くにはスマホと梯子が転がっていた。
「新治が梯子から落ちちゃって、慌てて私、地面に着く直前に新治を思いっきり突き飛ばしたの」
 賢明な判断だよ、古都里。
 古都里が突き飛ばしてくれなかったら、頭を強打していただろう。
 打ち所が悪ければ死んでいたかもしれない。まさに命の恩人だ。
 肩と腰を打って手を擦りむいているけど、これだけで済んだのはラッキーだったと言える。
「ありがとう古都里。でもなんで、ここに?」
 さすがに偶然通りかかったということはないだろう。
 なにか特別な理由があるはずだ。
「ごめんなさい。実は私、先週からずっとこの山門に隠れてたの。だって新治、幽霊が出るって言うから」
「えっ?」
 僕はずっと、古都里に見られていたのか。
 アルさんと話していたことを。
 幽霊話がきっかけってことは、火曜日くらいから?
「僕が話してるのって、聞こえてた?」
「……うん、まあ……」
 なんだかはっきりしない答えだけど、それはきっと聞こえてたってことだろう。
「じゃあ、母さんの話も?」
「ごめんね、新治の苦しみにずっと気付いてあげられなくて……」
 なんだよ、ちゃんと聞こえてんじゃないかよ。
 あの話を聞かれていたというのは、なんだか恥ずかしい。
「じゃあ、三十分くらい前の懺悔も?」
「うん。謝らなくちゃいけないのはこっちよね。日曜日はとーちゃんがひどいこと言っちゃって。でも新治も悪いのよ。だって、ここの電球は変わらないようにするって言ってたのに、率先して電球を換えてるからビックリしちゃって……」

『この街灯だけは、僕が責任を持ってこれまでと変わらないようにします』

 確かに僕は言ったような気がする。
 ただしアルさんに対してだけど。
 そうか。その言葉を山門の陰から聞いていた古都里は勘違いしたんだ。ここの電球が変わらないように僕が奮闘すると、そして観光協会の作業も阻止するんじゃないかと。
 日曜日は、もし僕がいない時に電球が換えられたら困ると思って、とーちゃんを誘って様子を見に来たんだろう。
 そりゃビックリするよな。心配して来てみたら、当の本人が電球を換えてるんだから。
「ごめん……」
 古都里の気持ちが嬉しくて、涙があふれそうだ。
 こんなに想われていた事に気付かなかったなんて、なんて僕は鈍感なんだろう。

『ずっと待っている女の子が見えるわ。好きで好きでたまらない男の人をじっと独りで待ってるの』

 いつかアルさんが言っていたこと。
 あれはアルさんじゃなくて、古都里のことだったんだ。
「新治は毎日、ここで立ち止まって、誰かと楽しそうに話してた。でもその相手の姿が見えなくて……。本当に幽霊が出たんじゃないかと思って、ずっと心配してたの」
 アルさんって僕にしか見えていなかったんだ……。
 そりゃ心配するだろう。誰もいないのに、誰かと話していたんだから。
「僕が話していた相手は、アルさんっていうんだ。幽霊……だと思うんだけど、本人は宇宙人って言い張ってて、面白い人なんだ」
 僕は古都里にアルさんのことを話してあげる。
 語呂合わせの答えを教えてもらったこと、足の綺麗さを自慢しているわりには見えないこと、そしてこの場所から離れられないこと。
 キスの練習については内緒だけど。
「それは絶対、この山門に憑いている地縛霊ね」
 この場所を離れられないと聞いて、古都里は鼻息を荒くする。
「でもさ、古都里。電球を交換してから現れなくなっちゃったんだ」
 すると彼女は山門を見上げながら何かを考え始めた。
「だったら……、LEDを元の白熱電球に戻してみたら?」
 へっ? 元に戻す?
 そういう発想は僕には無かった。
 さすがは地元と幽霊を愛する女子高生。
「なんで?」
「ただの女のカンよ」

 ☆

 僕は、白熱電球を取りに家に走る。
 肩や腰が痛かったけど、こうして走ることはできるから大丈夫だろう。電球の交換もなんとかできそうだ。
「ヘッドライトも忘れないようにしなくちゃ!」
 さっきはヤバかった。
 LEDを外したら真っ暗になるなんて当たり前のことなのに、すっかり忘れていた自分は本当にバカだった。
 でも今度は古都里が居る。
 梯子も固定してくれるだろうし、困った時も頼りになる。
「出て来てくれよ、アルさん」
 古都里が待っている心強さを噛みしめながら、彼女にぜひアルさんを紹介してあげたいと思った。

 家に戻ると、僕の部屋のドアが開いていた。
「父さん、何やってんの!?」
 慌てて部屋に入ると、僕の机の前で父さんが何かを手にしている。
「ごめんな、新治。ドアの隙間からこれが見えたので、つい気になって」
 父さんが手にしていたのは、『36Ar』とマジックで書かれたあの電球だった。
「これ、懐かしいなぁ。どこにあったんだ?」
「えっ!?」
 驚いた。
 山門の前にある街灯に付けられていた電球のことを、父さんが知っているなんて。
「その電球のこと知ってるの? 父さん」
「これはな、母さんと初めて会った年に作った電球なんだ」
「ええっ?」
 僕はさらにビックリする。
 どちらも研究者だった父さんと母さん。
 二人が出会ったのは、たしか父さんが大学院生で母さんが大学生の頃と聞いている。
「母さんが亡くなってここに引っ越して来た時、想い出の品はほとんど骨董屋に売ってしまったんだけどね。きっとこれは、押し入れの隅に残ってたんだな……」
「……うん、……そう。押し入れの中で見つけたんだ」
 僕は慌てて話を合わせる。
 ていうか、この電球は骨董屋から流れてきたのかよ。
「でも父さん、その電球が想い出の品ってなんでわかるの?」
「ほら、ここに『36Ar』って書いてあるだろ? これが証拠だ」
 この記号はいったい何なんだろう?
 電球の型番?
「この記号って?」
 すると父さんの鼻息が荒くなる。
「聞いて驚くな。この電球にはな、アルゴン三十六だけが入ってるんだ。アルゴン三十六だけがな!」
 ドヤ顔で頭上に電球をかざす父さん。
 わけがわからず、僕は頭の中をハテナマークで一杯にした。
 そんな表情を見て、父さんはがっかりする。
「なんだ、わからんのか? お前ももう高校二年生だろ?」
「アルゴンってのは聞いた事があるよ。でも、それと電球ってどんな関係があるんだよ?」
「うへっ、今の高校生にはそこから説明しなくちゃいけないのか……」

 父さんの講義が始まってしまった。
 古都里が待ってるから急がなきゃと思い、なるべく話が短くなるように僕は必死で相づちを打つ。
 父さんが納得しないと電球を渡してくれそうもない。
「一般的な白熱電球には、フィラメントの昇華を抑えるためにアルゴンガスが封入されているんだ。覚え方は学校で習っただろ? 原子番号十八番。『変な姉ちゃん、ある暗がりでキスの練習』の『ある』がアルゴンだ」
 ええっ、それって……。
 僕は、古都里に渡された単語帳にあった語呂合わせを思い出す。まさかそれが、父さんの口から出てくるとは思わなかった。
「地球上のアルゴンには質量数四◯と質量数三十六のものがあって、特にアルゴン三十六がすごいんだ。なんていったって、地球ができる前から宇宙に存在していたアルゴンなんだからね」
 ええっ、宇宙のアルゴン?
 それに質量が三十六って言ってなかったっけ?
 その時突然、アルさんの言葉が僕の脳裏に蘇ってきた。

『私のこと呼びましたか?』
『そう、私は十八』
『質量だって三十六ですし』
『私、宇宙人なんです』

 そうか、そうだったのか……。
 バラバラに散らばっていたパズルのピースが、今カチリと一つに合わさった。
 アルさんは山門に憑く幽霊なんかじゃなかったんだ。
 彼女はその電球の中にいる。
 宇宙人なのにあの場所から離れられなかったのは、そういう理由だったんだ。
「父さん達はな、そのアルゴン三十六だけを集める実験をしていたんだ。その成功を記念して、アルゴン三十六だけを封入した電球を作った。それがこの電球なんだよ。その頃の母さんはむちゃくちゃ可愛くて、人気の的だった。ダッフルコートと白いセーターがよく似合ってた……」
 だったら、そんな大事なものを骨董屋に売るんじゃねえよ!
 思わず僕は叫びたくなったが、ポロポロと涙をこぼす父さんを見て言葉を飲み込む。
 そもそも母さんは、父さんの最愛の人じゃないか。
 その辛さを忘れるために、父さんはこの町に来たんだ。
 きっと、大切な想い出までも売りたくなるくらい大きな悲しみと苦しみを味わったに違いない。ぼんやりと暗い宿場町が嫌いだなんて、そんなの子供の感傷とは比べものにならない想いを積み重ねてきたんだ。
「有美……、どうして君が……」
 涙を流しながらうなだれる父さん。
「ごめん、父さん。悲しいことを思い出させちゃって。ちょっとこれ借りていくよ」
 僕はその手から白熱電球を受け取ると、一目散に走り出した。

 ☆

 やっと見つけた。
 アルさんのことを。
 この電球をあの街灯に取り付ければ、アルさんが姿を現してくれるに違いない。
 僕は走りながら、電球をぎゅっと握りしめる。
 やがて、山門の前で待っている古都里が見えてきた。
「ごめん、古都里。遅くなっちゃって」
「あまりに遅いから、打ったところが痛むんじゃないかって心配してたんだから……」
 いつもだったら「遅いよ新治っ!」って言われるところなのに。
 今は古都里の心遣いが嬉しい。彼女だって相当寒かっただろうに。
「本当にごめん。それとアルさんだけど、やっぱりこの電球が鍵だったんだ。さあ、取り付けるから梯子を頼む」
「うん、わかった」
 僕は倒れている梯子を持ち上げ、街灯に立て掛ける。梯子に足を掛けると、横で古都里がしっかり押さえてくれていた。
 ヘッドライトのスイッチを入れ、ポケットの中の電球を確かめる。
 ――さあ、行くぞ!
 気合いを入れて僕は梯子を上り始めた。
 ――待っててね、アルさん。今、光をあげるから。
 僕はLEDを外し、『36Ar』と書かれた電球をソケットにねじこむ。
 通電した瞬間、熱せられたフィラメントが光を放ち始めた。
 ――温かい……。
 光が温かさをまとっているのは白熱電球ならではだ。
 そして梯子から降りた僕を、待ち望んでいた人が迎えてくれた。
「バレちゃったね私の正体。お久しぶり、新治クン」
「会いたかったです、アルさん」
 ダッフルコートに白いセーターのアルさんが、いつものように微笑んでいた。

「ねえ、新治。誰かいるの?」
 古都里が梯子から手を放し、怪訝な顔で僕の隣に立つ。
「ああ。古都里も『アルさん』って呼んでごらん。きっと姿を現してくれるよ」
「えっ、私が……?」
「大丈夫だよ、幽霊なんかじゃないから」
 古都里は一度下を向いて考える素振りを見せた後、意を決したように前を向く。
「アルさん……」
 彼女の小さな呼びかけで、アルさんがさらに輝いたように見えた。
「はじめまして、古都里さん」
「……えっ、……あ、はじめまして……」
 古都里はアルさんに向き合い、恥ずかしそうに挨拶する。
 どうやら彼女にもアルさんが見えるようになったようだ。
「綺麗な人……」
 アルさんのことを見つめながら、古都里はため息をもらす。
 そして僕の方を見て、とんでもないことを言い出した。
「ねえ、新治はアルさんとつき合ってるの?」
「えっ?」
 つき合ってる? つきあってる? ツキアッテル……?
 練習とはいえ、キスしちゃったんだからつき合ってると言えるのだろうか……。
「あはははは、心配しないで古都里さん。私には実体がないの。だから新治クンとつき合うことはできないわ。だって、電球から投影されているだけなんですもの」
 高らかに笑うアルさん。
 アルさんの足が見えなかったのは、本当に光の弱さが原因だったんだ。
 というか、そこまで否定していただかなくてもよろしいのではないでしょうか。
「でもね、温かさは伝えることができるの。試しに二人とも、掌をこちらに向けてみて」
 僕達に催促しながら、アルさんはゆっくりと掌を体の前に突き出す。
 僕も右手を上げて、掌をアルさんの前にかざす。古都里も左手の手袋を脱いで、同じように掌をかざした。
 僕の右手の掌とアルさんの右手の掌が、古都里の左手の掌とアルさんの左手の掌が静かに合わさった。
「温かい……」
「うん、温かいね……」
 目をつむってみると、本物の人間と掌を合わせているのと変わらない感覚がする。
「すごいでしょ。これって一生懸命練習したのよ。新治クンにはちょっと練習台になってもらったけどね」
 練習台って……、えっ、じゃああのキスは……そういうこと?
 それってなんだか悲しすぎるぅ。
「それに、私には大切な人がいたことを、さっき思い出したの」
 えええっ!? じゃあ、僕は当て馬だったんですか?
「それにね、もし私が新治クンを好きになっても、あなたの想いには負けるわ、古都里さん」
「えっ?」
 今度は古都里が目をパチクリさせる番だった。
「新治クンへの想いは日本一、いや宇宙一じゃないかしら。ずっと空から見ていた宇宙人の私が言うんだから間違いないわよ」
 いや、こんなところで宇宙人アピールしなくても……。
 それに空からじゃなくて、街灯からでしょ?
 肝心の古都里は頬を赤らめて、妙に納得しているようだった。「よし」と無駄に気合いを入れている。
「だから、新治クンもきっと気付いてくれるはずよ」
 えっ、僕?
 気付いてくれるって、今あからさまに言っちゃってるじゃないですか。
 二人の視線がこちらに集中してすごく恥ずかしいので、僕は思い切って宣言する。
「僕も好きになれるよう頑張ります。時間はかかるかもしれないけど」
「えっ、えっ……そんな……私……。うん、私も頑張る……」
 顔を真っ赤にする古都里。
 その様子がいじらしくて愛らしくて、こちらも恥ずかしくなってしまう。だから僕はつい照れ隠しの言葉を吐いた。
「古都里のことじゃないよ。この宿場町を好きになれるように頑張るってことだよ」
「へっ?」
 鳩が豆鉄砲を喰らったとはこのことを言うのだろう。
 驚いて瞳を見開いた古都里は、その形を三角にして僕のことをポカポカと叩き始める。
「なに? 信じられない。ふざけないでよ、新治のバカっ!!」
 なんでだろう? なぜだか今は、古都里の罵声が心地いい。
 これで明日からも、いつもの通りの古都里と接することができそうだ。
「あははは。お似合いね二人とも。これでもう思い残すことはないわ」
「ええっ?」
 それってどういうこと?
「お別れなんですか?」
 古都里も疑問を口にする。
「ええ、もうすぐフィラメントが切れそうなの。そしたら私はもう姿を現すことができなくなる」
「ずっとここにいて下さいよ、アルさん」
「そうですよ。私達のことを見ていて下さい」
「あら、私はどこにも行かないわ。だって、あの電球の中にいるんだから。姿を現せなくなる、ただそれだけ……」
「アルさん……」
 なぜだか涙がこぼれてくる。
 確かにアルさんはどこにも行かず、あの電球の中に留まっているのだろう。これは本当のお別れではないのに、僕の心には悲しみがじわじわと溢れ始めていた。
 ふと隣を見ると、古都里も泣いていた。
 僕はたまらず、古都里の手を握る。
「じゃあね。二人に会えて楽しかった」
「僕もです。教えてくれた語呂合わせの答え、絶対忘れません」
「私も、想いが伝わることを絶対証明してみせます!」
「ありがとう。消えるところを見られるのは恥ずかしいから、目をつむっていてほしいな」
 アルさんの最後の笑顔。
 それを心に焼き付けて、僕達はゆっくりと目をつむる。
 温かな風が胸の前を通り過ぎたかと思うと、まぶたの上から感じていた光が突然消えた。
 空からしんしんと冷気が降りて来るのを感じながら、僕は繋いでいる古都里の手をぎゅっと握りしめた。
「消えちゃったね、アルさん」
「ああ……」
 古都里の声で目を開けると、山門の前は闇に包まれていた。

 ☆

 朝起きると、父さんがめずらしく仏壇の前に座っていた。
 アルゴン三十六の入った電球を母さんの位牌の横に置いて、なにやらぶつぶつと話している。
 あの後、僕と古都里は、フィラメントが切れてすっかり熱を失った電球を回収し、代わりにLEDを取り付けた。そして家に帰ると、父さんに電球をそっと手渡した。
 また骨董屋に売っちゃうんじゃないかと一瞬心配したが、仏壇の電球に向かって楽しそうに会話している父さんを見ていると、もう大丈夫じゃないかと思う。
 僕たち親子には時間が必要だったんだ。十年という長い、長い時間が。

 学校に着くと、ちょっと驚くことがあった。
「はい、これ。今週の単語帳」
 古都里がいつもの宿題を持って来たのだ。
 これって、昨晩のあの出来事の後で作ったのだろうか?
「新治が悪いんだから、二日間で全部解きなさいよね。これは命令だからね」
 いつもの憎まれ口を添えて。
「二日間で全部って、二日分しか作ってないんだろ?」
「そんなことあるわけないじゃない。ちゃんと一週間分……じゃなかった、そうよ、二日分よ。何? 文句ある?」
 逆ギレされてしまった。真っ赤な顔で。
 やっぱり古都里は、日曜日にちゃんと単語帳を作ってくれていたんだ。
「サンキュー、古都里」
 心の中ではもっと丁重にお礼を述べながら、僕は単語帳を受け取った。
 席に着くと、パラパラと単語帳をめくってみる。
「今週のテーマはなんだろう?」
 どんな内容なのか、すごく気になったからだ。

『コートジボアールが生産世界第一位の農作物は?』
『ジョセフ・フライが固形化を発明したのは西暦何年?』
『カカオマス、砂糖、ココアバター、粉乳の混合物の融点は?』

 これって地理? 歴史? それとも化学?
 出題の傾向が掴めずにいた僕は、問題を見ているうちに一つの単語に辿り着く。
「テーマはチョコレートか……」
 今週末は二月十四日。国民的イベントが待ち構えていた。
「古都里のやつ、僕に宣戦布告するつもりだな。しかも自作の最終兵器で」
 ならば受けて立とう。
「アルさん、ありがとう。大事なものに気付かせてくれて……」
 春を感じさせる風に誘われて、小さな温もりが僕の胸の中に生まれていた。







ライトノベル作法研究所 2015バレンタイン企画
使用お題:「受験」、「卒業」、「涙」

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