やさしい呪文でお願いを ― 2010年07月24日 09時44分39秒
『呪文がやさしくなる呪い講座、始めました』
新聞の端っこの方に小さく載っていたこの広告を見た私は、すぐに「やさしい呪文協会」を訪問した。しかし、日中だというのにシャッターが降りている。割と遠くから来ていた私は、このまま帰るわけにはいかないとシャッターを叩いてみた。すると――中から若い女性が面倒くさそうに顔を出す。
「受講希望の方?」
「はい、そうですが」
「ぶっちゃけ、動機とか聞いちゃってもいい?」
「難しい呪文とか覚えるのが苦手でして……」
「ちゃんと呪える自信ある?」
「はい、それだけは」
「じゃあ合格。教祖様が待ってるので中へどうぞ」
こうして私は、『呪文がやさしくなる呪い講座』を受けることになった。
道場のような十二畳くらいの部屋に通されると、そこで私は正座をして教祖様を待つ。すると、白装束に身を包んだ年配の女性が入ってきて目の前に座った。
「あなたですね、今日の受講生は?」
「はい、そうです。よろしくお願いいたします」
「それで、今回はどんな呪いをご希望で?」
「それなんですが、事のいきさつからお話ししてもよろしいですか?」
「はい、結構ですよ」
目の前の教祖様は柔らかな笑顔を浮かべた。
「私には息子がいるんです」
教祖様の目を見ながら、私はゆっくりと話を始めた。
「無事に高校、大学を出て、地元の新聞社に就職しました。五年前のことです。いつも夜遅くまで働いて、ここ一、二年は疲れているような感じだったんですけど、つい一ヶ月前に失踪してしまったんです」
「ほお。息子さんは、その新聞社でどんなことをされていたんですか?」
「主に記事を書いていました。取材も自分でやっていたようです。それで失踪する直前は、官公庁の不正を調べていたらしいんです。食事の時に、『闇に流れるプール金の行方を突き止めるんだ』なんて言ってましたから」
「それで事件に巻き込まれたとか?」
「それもあるかもしれません。しかし最近、息子の上司だったアイツが、そうアイツが、息子をこき使っていたことが分かったんです」
「では今回はその人を?」
「はい。でも話にはまだ続きがあるんです」
「わかりました。続けて下さい」
さすが教祖様だ。私は少し興奮してしまったが、彼女は苛立つ様子もない。私は息を整えると、再び話し始めた。
「その息子の上司だったアイツなんですが、先日起きたダムの崩壊死亡事故で……」
「亡くなってしまったんですか?」
「いえ、崩壊前の亀裂を写したスクープ写真が一躍有名になって、社内で昇進したんです」
「そうなんですか」
「その写真なんですが、実はどうも息子が撮影したものらしいんです。でも失踪してしまったから、アイツが好き勝手に使ってしまって」
「スクープ写真が撮られた時期と、息子さんの失踪時期は一致するんですか?」
「そうなんです、一致するんです。もしかしたら、息子が撮ったあの写真を奪うためにアイツが息子を……」
「有り得ない話では無さそうですね」
「だからアイツが憎くて憎くて。でも証拠が無いんです、証拠が。警察も取り合ってくれません。もう私は、呪いに頼るしかないんです」
「では早速、その方を呪ってみましょう」
教祖様は立ち上がり、奥の部屋を覗くと「アレを持ってきて下さい」と声をかけた。
「では、始めましょう」
教祖様が再び私の前に座る。
「まずお聞きします。息子さんの上司だった方を呪うとして、あなたならどのように呪いますか?」
「そうですね……、『堕ちろ、詫びろ、居なくなれ』と呪文を唱えますかね」
「まあ一般の方は、普通そんな感じです。でも私どもの講座では、『やさしい呪文』をお教えすることにしています。『やさしい』というのは『簡単』という意味ではありません。表現をやわらかくすることで、呪いを一ランク上の存在に昇華させようという試みです。例えばですね、先ほどのあなたの呪文を我々の呪文に言い換えるとこうなります。『一歩下がって振り返ってみませんか、ちゃんと謝るとすっきりしますよ、失踪した部下のところに行ってみてはいかがですか』。どうです、素敵でしょう?」
「はあ……」
私は少し呆然としてしまった。そんなものが呪いと言えるのだろうか……
「あら、あなた。それで効果があるのか、とお疑いのようですね。そうです、皆さんそう思われるのです。だから私達は、呪いの効果をアップさせるための食物を使っています」
教祖様がそう言った時、タイミングよく奥の部屋から女性がお盆を持って現れた。最初に対応した、あのぶっきらぼうな女性だ。しかし先ほどと違って彼女は巫女姿に着替えている。お盆に乗っているは、マスクメロンのようだった。
「これは特別なメロンです。呪いの効果が格段に上がるよう、我が協会が特別に開発したものです。百聞は一見にしかず、百見は一食にしかず。まずは召し上がっていただきましょう」
そういって教祖様が合図をすると、巫女姿の女性がメロンを切った。すると、中から出てきたのは緑色ではなく純白の果肉だった。
「へえ、白いんですね」
「そうなんですよ。実はですね、呪いというとブラックなイメージがあるのですが、元来ものすごくピュアなものなんです。なぜなら、人の本心がそのまま現れる願いであり言葉なのですから。だから我々は、どうしたら呪いが本来のピュアな姿を取り戻せるのか、日々研究しているのです。そういうわけで、呪いに用いる食材も白くピュアなものを用意しています。さあ、お食べ下さい」
なんだか分かったような分からないような説明だったが、私はスプーンを手にして白い果肉をすくった。メロンよりも柔らかい感触がした。
「うっ、何ですか。この味は……」
「ああ、決して吐き出さないで下さい。非常に高価なものですから。吐き出すと、呪いが完成しませんよ」
何て表現したらいいんだろう、この味は。まず、メロンのような甘みがない。白くて柔らかくて、それでもって少し繊維質のような……
「なんだか――アスパラのような感じの味ですね」
そうだ、アスパラガスの味だ。
「さすがです! よくわかりましたね。この食物は、『アスパラガスマスクメロン』といいます。我が協会が、やさしい呪いのために特別に開発した食物です。やわらかく茹でてありますので、食べやすいと思いますよ」
アスパラガスマスクメロン!? せめて、姿と味を逆にしてくれたらよかったのに。アスパラガスの形をしたマスクメロンなら、私も大歓迎だ。
「では、先ほどの呪文を唱えましょう。いいですか、私の後についてお願いします。『一歩下がって振り返ってみませんか、ちゃんと謝るとすっきりしますよ、失踪した部下のところに行ってみてはいかがですか』。はい、どうぞ」
「一歩下がって振り返ってみませんか……」
私はがんばって、この長い呪文を三回繰り返した。
呪文を三回唱えると、今回の講座は終了となった。私が道場を後にしようとすると、まだ話があると教祖様に引き止められた。
「少々いやらしい話で恐縮なんですが、今回の講座の受講代についてお話したいと思います。しばらくよろしいでしょうか?」
「はぁ……」
えっ、お金を取るの? と思いながら私が座りなおすと、教祖様はニコニコしながら話を続けた。
「あなたは初めてですので、今回は受講代は無料にさせていただきます」
私はほっとした。
「ということで今回は、食物代だけ頂戴させていただきます」
えっ、そんなこと聞いてないよと、私はまた不安な顔に戻る。
「それでおいくらなんですか?」
「このアスパラガスマスクメロンなのですが、実は一個十万円いたします。なにせ我が協会が特別に開発した食材なのですから。しかし今回は特別サービスといたしまして、本来であれば十万円いただくところを、あなた様に切り分けた四分の一に相当する二万五千円だけいただきます」
「に、二万五千円……」
得したような騙されたような、何だか複雑な気持ちだ。
でもまあ、今回丁寧に話しを聞いてもらい、心がすっきりしたのも事実だ。一緒に呪いを唱えた時は、すがすがしくさえ感じた。私がお金を払うと、教祖様は満面の笑みになった。
「あら、まだ食べ残しがあるみたいですね。非常に高価な食物ですので、全部食べていかれたらいかがですか? アボガドのようにカラシ醤油をあえて挑戦されたら、食べやすいと思いますよ」
するとタイミングを合わせたように、巫女姿の女性がカラシ醤油を持ってくる。
もしやと思い、私は質問した。
「念のために聞いておきますが、このカラシ醤油は無料でいただけるのでしょうか?」
「あははははは。このカラシ醤油も非常に高価な材料を用いているのですが……。もちろん今回は、特別に無料とさせていただきますよ」
教祖様の引きつった笑いが道場に響く。私は皿に半分残ったアスパラガスマスクメロンにカラシ醤油をかけ、それを口にした。
「この一切れが、五千円くらいするのか……」
涙が出てきたのは、カラシ醤油を付けすぎたためだけだろうか。
即興三語小説 第65回投稿作品
▲お題:「シャッター」「流れるプール」「ガスマスク」
▲縛り:「誰かを呪う」「ラストは涙(任意)」「セリフだけ読んでも話が伝わるように書く(努力目標)」
▲任意お題:「壊死」「やさしくなる呪い」「あえて挑戦」
新聞の端っこの方に小さく載っていたこの広告を見た私は、すぐに「やさしい呪文協会」を訪問した。しかし、日中だというのにシャッターが降りている。割と遠くから来ていた私は、このまま帰るわけにはいかないとシャッターを叩いてみた。すると――中から若い女性が面倒くさそうに顔を出す。
「受講希望の方?」
「はい、そうですが」
「ぶっちゃけ、動機とか聞いちゃってもいい?」
「難しい呪文とか覚えるのが苦手でして……」
「ちゃんと呪える自信ある?」
「はい、それだけは」
「じゃあ合格。教祖様が待ってるので中へどうぞ」
こうして私は、『呪文がやさしくなる呪い講座』を受けることになった。
道場のような十二畳くらいの部屋に通されると、そこで私は正座をして教祖様を待つ。すると、白装束に身を包んだ年配の女性が入ってきて目の前に座った。
「あなたですね、今日の受講生は?」
「はい、そうです。よろしくお願いいたします」
「それで、今回はどんな呪いをご希望で?」
「それなんですが、事のいきさつからお話ししてもよろしいですか?」
「はい、結構ですよ」
目の前の教祖様は柔らかな笑顔を浮かべた。
「私には息子がいるんです」
教祖様の目を見ながら、私はゆっくりと話を始めた。
「無事に高校、大学を出て、地元の新聞社に就職しました。五年前のことです。いつも夜遅くまで働いて、ここ一、二年は疲れているような感じだったんですけど、つい一ヶ月前に失踪してしまったんです」
「ほお。息子さんは、その新聞社でどんなことをされていたんですか?」
「主に記事を書いていました。取材も自分でやっていたようです。それで失踪する直前は、官公庁の不正を調べていたらしいんです。食事の時に、『闇に流れるプール金の行方を突き止めるんだ』なんて言ってましたから」
「それで事件に巻き込まれたとか?」
「それもあるかもしれません。しかし最近、息子の上司だったアイツが、そうアイツが、息子をこき使っていたことが分かったんです」
「では今回はその人を?」
「はい。でも話にはまだ続きがあるんです」
「わかりました。続けて下さい」
さすが教祖様だ。私は少し興奮してしまったが、彼女は苛立つ様子もない。私は息を整えると、再び話し始めた。
「その息子の上司だったアイツなんですが、先日起きたダムの崩壊死亡事故で……」
「亡くなってしまったんですか?」
「いえ、崩壊前の亀裂を写したスクープ写真が一躍有名になって、社内で昇進したんです」
「そうなんですか」
「その写真なんですが、実はどうも息子が撮影したものらしいんです。でも失踪してしまったから、アイツが好き勝手に使ってしまって」
「スクープ写真が撮られた時期と、息子さんの失踪時期は一致するんですか?」
「そうなんです、一致するんです。もしかしたら、息子が撮ったあの写真を奪うためにアイツが息子を……」
「有り得ない話では無さそうですね」
「だからアイツが憎くて憎くて。でも証拠が無いんです、証拠が。警察も取り合ってくれません。もう私は、呪いに頼るしかないんです」
「では早速、その方を呪ってみましょう」
教祖様は立ち上がり、奥の部屋を覗くと「アレを持ってきて下さい」と声をかけた。
「では、始めましょう」
教祖様が再び私の前に座る。
「まずお聞きします。息子さんの上司だった方を呪うとして、あなたならどのように呪いますか?」
「そうですね……、『堕ちろ、詫びろ、居なくなれ』と呪文を唱えますかね」
「まあ一般の方は、普通そんな感じです。でも私どもの講座では、『やさしい呪文』をお教えすることにしています。『やさしい』というのは『簡単』という意味ではありません。表現をやわらかくすることで、呪いを一ランク上の存在に昇華させようという試みです。例えばですね、先ほどのあなたの呪文を我々の呪文に言い換えるとこうなります。『一歩下がって振り返ってみませんか、ちゃんと謝るとすっきりしますよ、失踪した部下のところに行ってみてはいかがですか』。どうです、素敵でしょう?」
「はあ……」
私は少し呆然としてしまった。そんなものが呪いと言えるのだろうか……
「あら、あなた。それで効果があるのか、とお疑いのようですね。そうです、皆さんそう思われるのです。だから私達は、呪いの効果をアップさせるための食物を使っています」
教祖様がそう言った時、タイミングよく奥の部屋から女性がお盆を持って現れた。最初に対応した、あのぶっきらぼうな女性だ。しかし先ほどと違って彼女は巫女姿に着替えている。お盆に乗っているは、マスクメロンのようだった。
「これは特別なメロンです。呪いの効果が格段に上がるよう、我が協会が特別に開発したものです。百聞は一見にしかず、百見は一食にしかず。まずは召し上がっていただきましょう」
そういって教祖様が合図をすると、巫女姿の女性がメロンを切った。すると、中から出てきたのは緑色ではなく純白の果肉だった。
「へえ、白いんですね」
「そうなんですよ。実はですね、呪いというとブラックなイメージがあるのですが、元来ものすごくピュアなものなんです。なぜなら、人の本心がそのまま現れる願いであり言葉なのですから。だから我々は、どうしたら呪いが本来のピュアな姿を取り戻せるのか、日々研究しているのです。そういうわけで、呪いに用いる食材も白くピュアなものを用意しています。さあ、お食べ下さい」
なんだか分かったような分からないような説明だったが、私はスプーンを手にして白い果肉をすくった。メロンよりも柔らかい感触がした。
「うっ、何ですか。この味は……」
「ああ、決して吐き出さないで下さい。非常に高価なものですから。吐き出すと、呪いが完成しませんよ」
何て表現したらいいんだろう、この味は。まず、メロンのような甘みがない。白くて柔らかくて、それでもって少し繊維質のような……
「なんだか――アスパラのような感じの味ですね」
そうだ、アスパラガスの味だ。
「さすがです! よくわかりましたね。この食物は、『アスパラガスマスクメロン』といいます。我が協会が、やさしい呪いのために特別に開発した食物です。やわらかく茹でてありますので、食べやすいと思いますよ」
アスパラガスマスクメロン!? せめて、姿と味を逆にしてくれたらよかったのに。アスパラガスの形をしたマスクメロンなら、私も大歓迎だ。
「では、先ほどの呪文を唱えましょう。いいですか、私の後についてお願いします。『一歩下がって振り返ってみませんか、ちゃんと謝るとすっきりしますよ、失踪した部下のところに行ってみてはいかがですか』。はい、どうぞ」
「一歩下がって振り返ってみませんか……」
私はがんばって、この長い呪文を三回繰り返した。
呪文を三回唱えると、今回の講座は終了となった。私が道場を後にしようとすると、まだ話があると教祖様に引き止められた。
「少々いやらしい話で恐縮なんですが、今回の講座の受講代についてお話したいと思います。しばらくよろしいでしょうか?」
「はぁ……」
えっ、お金を取るの? と思いながら私が座りなおすと、教祖様はニコニコしながら話を続けた。
「あなたは初めてですので、今回は受講代は無料にさせていただきます」
私はほっとした。
「ということで今回は、食物代だけ頂戴させていただきます」
えっ、そんなこと聞いてないよと、私はまた不安な顔に戻る。
「それでおいくらなんですか?」
「このアスパラガスマスクメロンなのですが、実は一個十万円いたします。なにせ我が協会が特別に開発した食材なのですから。しかし今回は特別サービスといたしまして、本来であれば十万円いただくところを、あなた様に切り分けた四分の一に相当する二万五千円だけいただきます」
「に、二万五千円……」
得したような騙されたような、何だか複雑な気持ちだ。
でもまあ、今回丁寧に話しを聞いてもらい、心がすっきりしたのも事実だ。一緒に呪いを唱えた時は、すがすがしくさえ感じた。私がお金を払うと、教祖様は満面の笑みになった。
「あら、まだ食べ残しがあるみたいですね。非常に高価な食物ですので、全部食べていかれたらいかがですか? アボガドのようにカラシ醤油をあえて挑戦されたら、食べやすいと思いますよ」
するとタイミングを合わせたように、巫女姿の女性がカラシ醤油を持ってくる。
もしやと思い、私は質問した。
「念のために聞いておきますが、このカラシ醤油は無料でいただけるのでしょうか?」
「あははははは。このカラシ醤油も非常に高価な材料を用いているのですが……。もちろん今回は、特別に無料とさせていただきますよ」
教祖様の引きつった笑いが道場に響く。私は皿に半分残ったアスパラガスマスクメロンにカラシ醤油をかけ、それを口にした。
「この一切れが、五千円くらいするのか……」
涙が出てきたのは、カラシ醤油を付けすぎたためだけだろうか。
即興三語小説 第65回投稿作品
▲お題:「シャッター」「流れるプール」「ガスマスク」
▲縛り:「誰かを呪う」「ラストは涙(任意)」「セリフだけ読んでも話が伝わるように書く(努力目標)」
▲任意お題:「壊死」「やさしくなる呪い」「あえて挑戦」
山道で…… ― 2010年07月25日 00時01分17秒
俺は山道で迷う奴は馬鹿だと思っていた。
ほら、よく昔話であるだろ、山道で迷う話って。それでもって、結論は狐か狸に化かされてたって話しになるんだ。
でも、今、俺が置かれている状況って何だ? 完全に山の中で道に迷った状態。マジで洒落にならない。
事の始まりは、会社から自宅まで近道をしようとしたことだった。自宅と会社の間には小山があり、そこを抜ける道は人がやっと歩ける峠道しかなかった。いつもは会社までマイカーで通っているのだが、今日は妻が車で病院に行くというので朝は妻に会社まで送ってもらい、帰りはバスかタクシーで帰ることにしていたのだ。
――歩いて帰ってみよう。
今日に限って、なぜそんなことを思ったのだろう。俺は今、そのことをものすごく後悔している。
会社を出て、山道に入り、峠にたどり着いたところまでは良かった。峠で道は右と左に分かれており、俺は何も考えずに右を選んだ。しかししばらく進むと、また同じ峠に戻ってきてしまったのだ。ずっと道に沿って進んでいたというのに。そこで俺は、今度は左に進むことにした。すると――やはり、また同じ峠に戻ってきてしまった。
これは一体どういうことだろう……
振り返ると、背後の道もまた右と左に分かれている。俺は何がなんだか分からなくなってしまった。前の道も、後ろの道も、どちらに進んでもまだ同じ場所に戻って来るような気がした。
――何か、目印になるものは無いだろうか?
カバンの中を漁ると、虫除けとして携帯していた蚊取り線香があった。俺は取り出し火をつける。そして、火がついた部分をぽきっと折ると、土に突き刺した。これで、もし元に戻ってきたかどうかが分かる。
俺は今度は右の道に進んだ。すると――やはり、また同じ峠にたどり着いた。しかも、その場所には香取線香が立てられていた。
そこで俺は初めて恐怖した。
――何かの無限ループに迷い込んだんじゃないのか?
俺が立ち尽くしていると、立てられた線香の丸まった灰がぽとりと落ちた。でも、このまま立ち尽くしていてもしょうがない。俺は諦めを込めて再び歩き出した。
四度目に峠にたどり着いた時は、状況が違っていた。先客がいたのだ。しかも先程の俺と同じように、蚊取り線香に火をつけ、土に刺していた。
――おいおい、どういうことだ?
迷っているのは一人ではない、という安心感が湧いてくると、物事を冷静に考える余裕が生まれてきた。
――彼が今、線香に火をつけているということは、先程の峠ではないかもしれない。俺は同じところをグルグルと回っているのではなく、同じような峠をいくつも越えているんだ、きっと。
今度は俺は、彼の後を気付かれないようにこっそりつけてみることにした。すると、彼は峠の近くで立ち止まった。彼越しに峠の方を伺ってみると―ーなんと、峠で蚊取り線香に火を付けているもう一人の男がいたのだ。
俺はもしやと思い、後ろを振り向く。すると、俺の後ろには俺と同じように後ろを振り向いている男が居た。きっと彼は、『山道で迷う馬鹿な奴を馬鹿だと罵る奴が、馬鹿だと信じて疑わない俺が馬鹿だったのだ』と考えているに違いない。今の俺と同じように……
一時間で書く即興三語小説
▲お題:「馬鹿な奴を馬鹿だと罵る奴が、馬鹿だと信じて疑わない俺が馬鹿だったのだ」「立てられた線香の丸まった灰がぽとりと落ちた」「山の中で道に迷った」
▲縛り:怪談
▲任意お題:「あなたが帰った朝に、あなたが作ったカレーを温めるのは、少し寂しい」
「ああ、そうか。そういうことだったのか、と知ったかぶりをしたあとは、ちょっと機嫌が悪いものである」
「静かに燃える蝋燭の炎が揺らめき、消え闇に包まれた」
「このなべ一杯のカレーを私だと思って、毎晩愛してね」
「私を本気にさせた奴が悪いことに、まだ気が付かないのか」
ほら、よく昔話であるだろ、山道で迷う話って。それでもって、結論は狐か狸に化かされてたって話しになるんだ。
でも、今、俺が置かれている状況って何だ? 完全に山の中で道に迷った状態。マジで洒落にならない。
事の始まりは、会社から自宅まで近道をしようとしたことだった。自宅と会社の間には小山があり、そこを抜ける道は人がやっと歩ける峠道しかなかった。いつもは会社までマイカーで通っているのだが、今日は妻が車で病院に行くというので朝は妻に会社まで送ってもらい、帰りはバスかタクシーで帰ることにしていたのだ。
――歩いて帰ってみよう。
今日に限って、なぜそんなことを思ったのだろう。俺は今、そのことをものすごく後悔している。
会社を出て、山道に入り、峠にたどり着いたところまでは良かった。峠で道は右と左に分かれており、俺は何も考えずに右を選んだ。しかししばらく進むと、また同じ峠に戻ってきてしまったのだ。ずっと道に沿って進んでいたというのに。そこで俺は、今度は左に進むことにした。すると――やはり、また同じ峠に戻ってきてしまった。
これは一体どういうことだろう……
振り返ると、背後の道もまた右と左に分かれている。俺は何がなんだか分からなくなってしまった。前の道も、後ろの道も、どちらに進んでもまだ同じ場所に戻って来るような気がした。
――何か、目印になるものは無いだろうか?
カバンの中を漁ると、虫除けとして携帯していた蚊取り線香があった。俺は取り出し火をつける。そして、火がついた部分をぽきっと折ると、土に突き刺した。これで、もし元に戻ってきたかどうかが分かる。
俺は今度は右の道に進んだ。すると――やはり、また同じ峠にたどり着いた。しかも、その場所には香取線香が立てられていた。
そこで俺は初めて恐怖した。
――何かの無限ループに迷い込んだんじゃないのか?
俺が立ち尽くしていると、立てられた線香の丸まった灰がぽとりと落ちた。でも、このまま立ち尽くしていてもしょうがない。俺は諦めを込めて再び歩き出した。
四度目に峠にたどり着いた時は、状況が違っていた。先客がいたのだ。しかも先程の俺と同じように、蚊取り線香に火をつけ、土に刺していた。
――おいおい、どういうことだ?
迷っているのは一人ではない、という安心感が湧いてくると、物事を冷静に考える余裕が生まれてきた。
――彼が今、線香に火をつけているということは、先程の峠ではないかもしれない。俺は同じところをグルグルと回っているのではなく、同じような峠をいくつも越えているんだ、きっと。
今度は俺は、彼の後を気付かれないようにこっそりつけてみることにした。すると、彼は峠の近くで立ち止まった。彼越しに峠の方を伺ってみると―ーなんと、峠で蚊取り線香に火を付けているもう一人の男がいたのだ。
俺はもしやと思い、後ろを振り向く。すると、俺の後ろには俺と同じように後ろを振り向いている男が居た。きっと彼は、『山道で迷う馬鹿な奴を馬鹿だと罵る奴が、馬鹿だと信じて疑わない俺が馬鹿だったのだ』と考えているに違いない。今の俺と同じように……
一時間で書く即興三語小説
▲お題:「馬鹿な奴を馬鹿だと罵る奴が、馬鹿だと信じて疑わない俺が馬鹿だったのだ」「立てられた線香の丸まった灰がぽとりと落ちた」「山の中で道に迷った」
▲縛り:怪談
▲任意お題:「あなたが帰った朝に、あなたが作ったカレーを温めるのは、少し寂しい」
「ああ、そうか。そういうことだったのか、と知ったかぶりをしたあとは、ちょっと機嫌が悪いものである」
「静かに燃える蝋燭の炎が揺らめき、消え闇に包まれた」
「このなべ一杯のカレーを私だと思って、毎晩愛してね」
「私を本気にさせた奴が悪いことに、まだ気が付かないのか」
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