裁判員由美の画策2010年06月05日 09時52分17秒

「健太せんぱーい、やっと開放されましたよ~」
 バイト先の弁護士事務所のドアを元気良く開けたのは、同じバイト仲間の由美ちゃんだった。手には何やら怪しく光る黒い筒を抱えている。
「お疲れ様。それでどうだった?」
「一日中拘束されて、すっごい疲れました」
 由美ちゃんは最近、裁判員に選出され、今日は公判初日に出席していた。相変わらず声は元気なのだが、顔は少しやつれて見える。
「それでその黒い筒は何? なんか買ってきたの?」
「買ってきたんじゃないですよ。さっき勝也さんから借りたんです」
 勝也さんとは、この弁護士事務所の弁護士である。
「それで、何が入ってんの?」
「ふふふふふ。それはいくら先輩でも内緒ですよ~。明日の判決の後でもし私がテレビに映ったら、その時を楽しみにしていて下さいね」
 さすがは由美ちゃん、判決の後でテレビに映る気満々とは。ても裁判員って、映ったとしてもモザイクがかかるんじゃなかったっけ?
 由美ちゃんは、勝也さんから借りた黒い筒を彼女の机の横に置く。アルバイトとはいえ、デスクワークが多い僕達には一人一人机が与えられている。非常勤職員に近い扱いと言えば分かりやすいだろう。彼女は明日、一度この事務所に寄ってから裁判所に行くつもりのようだ。裁判所はここからすぐ近くだ。
「せんぱーい、ビール飲みに行きましょうよ。なんかパッてやりたい気分なんですよ」
「お前、明日は大丈夫なのか? 判決なんだろ」
「大丈夫、大丈夫。明日は明日ですよ。ねっ、行きましょ!」
 くりっとした瞳でお願いされると断りきれない俺であった。

「最初に言っておくけど、事件の話は無しだぞ。酒が不味くなる」
 案の定、カウンターの隣に座った由美ちゃんは俺に事件の中身を話したくてうずうずしている。
「えー、でも先輩だって、心の中では聞きたいって思ってるんでしょ」
「いや、天地神明に誓ってそんなことはないぞ」
 と言いながら、本当は聞いてみたい気満々だったりする。弁護士事務所に居ると裁判の話がよく耳に入ってくるが、バイトなので実際に裁判に出席することは無い。裁判員という偶然の助けを借りてではあるが、一足先に裁判の向こう側へ飛躍したバイト仲間の由美ちゃんが、とてもうらやましかった。
「ぶはーっ!」
 由美ちゃんはビールジョッキを一気に半分空けた。
「おいおい、ペース早いんじゃないか?」
「だって先輩が話を聞いてくれないんだもん。意地悪ですよ……」
「裁判の内容は誰にも話しちゃいけなんだぞ」
「特別な人にだったらいいんですよ」
 特別、という言葉にドキリとする。可愛い子だなとは思っていたが、ちょっととんでいる行動が苦手で恋愛対象としては見ていなかった。
「特別な人でもダメだ。しょうがないな、それなら独り言でも呟くんだな。ちなみに俺は聞いてないからな」
 すると由美ちゃんの表情がぱっと明るくなった。特別という言葉に負けた俺が情けない。
「じゃあ、ちょっと涼しげな怪談話を呟きますからね」
 すると彼女は前を向き、神妙な顔つきになったかと思うと、一息置いてゆっくりと呟き始めた。
「逢魔ヶ刻、灯明薄暗いお寺の境内を虚ろな目で彷徨する女がいた……」
 ゴクリと俺は唾を飲む。なんだか本当に恐そうだ。
「その手には包丁がキラリ。そして、偶然通りかかった中年の男を背中からメッタ刺しに」
「無差別殺人か?」
 聞いてないと言っておきながら、つい反応してしまう俺はさらに情けない。
「無差別――というほどでもないけど、誰でも良かったみたい。夫を病気で亡くしたその女は、すっかり気を病んでしまった。『夫が雲のむこうに独りで寂しそう。だからお友達が必要』としきりに呟いていたわ」
「すると、犠牲者にとって犯人は全くの無関係……」
「そう。女と被害者との間に関係は何も無し。目撃者も無し。凶器も百円ショップで売られているような安物で、しかも指紋は拭き取られていた」 「それでよく女を捕えたな」
「それがほんの些細なことなの……」
 俺は日本酒を注文する。これはビールを飲みながら聞く話ではない。由美ちゃんも俺に付き合って日本酒を注文する。
「女は最初、凶器を百円ショップで買おうとした。安くて沢山出回っている物ほど足がつきにくいから。しかし百円ショップで包丁を見た時、女は思い出してしまったの。似たような包丁を、隣のスーパーでは九十八円で売っていることを」
「それで凶器をスーパーで買ってしまった」
「主婦の悲しき性ってやつね。凶器となった包丁は、周辺ではそのスーパーでしか売られていなかった。しかも、事件の一ヶ月間にそのスーパーで売れた九十八円の包丁はたった一丁だけ。その時の防犯カメラの映像から、女が容疑者として浮かび上がったの」
 その女にとっては不運だったかもしれないが、我々一般人にとっては幸運だ。犠牲者の方には申し訳ないが、夫の友達をこれ以上増やされなくて本当に良かった。女をスーパーに仕向けたのは、きっと神の仕業なんだろう。いや、もしかすると、一番救われたのはその女なのかもしれない。
 小一時間も経つと、由美ちゃんはすっかり出来上がってしまった。
「せんぱーい、聞いてしまいましたよね、聞いてしまいましたよね。だから特別な関係になって下さいよ~」
 由美ちゃんがいい匂いのする体をすり寄せてくる。「特別」に「関係」が付くだけで、その言葉が甘く耳に響いてくる。
「いや、聞いてないよ。全然」
「ウソ。じゃあ、飲んで忘れて下さいよ。私も飲んで忘れますからぁ~」
 ダメだ、由美ちゃん相当飲んでるよ。特別な関係、に惹かれるものもあるが、酔いつぶれた女性と特別な関係を約束しても意味がない。それに明日の彼女には、裁判員という重要な仕事が待っている。
「もう帰ろう、由美ちゃん。タクシーを呼ぶからさ」
「じゃあ、明日も付き合ってくださいよ~」
「ゴメン、由美ちゃん。明日は送別会があるんだ、大学時代の友人のね」
 もし明日も由美ちゃんと飲みに行けたら、本当に特別な関係になりたいのか聞いてみることができるのに。なんで送別会が明日にあるんだろうと、俺もちょっと残念に思う。
「先輩のいけずぅ……」
 俺は勘定を済ますとタクシーを呼んで由美ちゃんを乗せ、運転手に彼女の住所を伝えてタクシー代を払い、歩道から静かに見送った。

 翌日、バイト先の弁護士事務所に着いた俺は、大切なものが無くなっていることに気がついた。今日の送別会の手品で使う予定の造花の花束が見当たらない。黒い筒に入れて机の脇に置いていたのだが、きれいさっぱり無くなっている。
 仕方がないので、事務所に居る先輩方に聞いてみることにした。
「すいません。ここに置いてあった黒い筒って、誰か知りませんか?」
「黒い筒? そういえば朝、由美ちゃんが黒い筒を持って行ったような気がするぞ」
 もしや、と思い、由美ちゃんの机の脇を見ると、昨日彼女が借りてきた黒い筒はそのままの状態で机の脇に鎮座していた。由美ちゃんは、間違って俺の花束を裁判所に持って行ったのだ。
 俺はさーっと背筋が凍るような感覚に包まれながら、恐る恐る壁の時計を見る。裁判はもう始まっている。もう、どうすることもできない。
(しょうがねえなあ。ところで、あっちの筒は何が入ってるんだ……?)
 打つ手は無いと開き直った俺は、今度は由美ちゃんが持って行こうとしていた黒い筒の中身が気になった。中を開けてみると、くるくると巻かれた紙が入っている。それを広げると――達筆な文字で大きく『勝訴』と書かれていた。
(由美ちゃん、裁判員ってこれを持って出て来る人だと思っていたのか……?)
 どうせ恥をかくなら『勝訴』よりも花束の方がまだマシだと思いながら、由美ちゃんが提案する「特別な関係」について、考え直した方がいいんじゃないかと真剣に悩む俺であった。



即興三語小説 第58回投稿作品
▲お題:「裁判の向こう側」「雲のむこう」「九十八円」
▲縛り:「主人公が何か大切なものを失くしている」「(小道具として)花を出す」「弁護士事務所の描写を入れる(任意)」
▲任意お題:「逢魔ヶ刻」「虚ろな目」「灯明」「彷徨」「天地神明に誓って」

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
スパム対策の質問です。このブログのタイトルは?

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://tsutomyu.asablo.jp/blog/2010/06/05/5139334/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。