セーブポイント2022年01月19日 21時10分08秒

湊の場合1

「やった! やっと見つけた!!」
 湊(みなと)は嬉しさのあまり部屋の中でコントローラーを投げ上げた。
 ゲーム画面には、彼が操る女性アバターが裸の状態で出現したからだ。
 ――白亜大戦。
 白亜紀に登場するような巨大生物を狩るハンティングアクションゲーム。
 発売初日に購入した湊は、大学の勉強もそっちのけでプレイにいそしんできた。その甲斐があったと、頭の中を満足感で一杯にする。と同時に、心地よい疲労感がベッドの上に大の字になった彼の体をじわりじわりと包み込み始めた。
 このまま眠ってしまっても――
「いいわけない! 早速、造るぞ!!」
 がばっと起き上がった湊は、ベッド脇に落ちたコントローラーに手を伸ばす。

 彼は、あるものを手に入れたかった。
 それは、普通にゲームをしているだけでは決して手に入らないもの。
 いや、正しくは手に入れることはできる。似たようなものであれば。
 ――DLC(ダウンロードコンテンツ)。
 追加料金を支払えば、特別なアイテムをダウンロードできるシステムだ。いわば課金システムなのだが、それに投資することによって湊が欲するアイテム自体は入手可能だった。
 でもそれではダメなのだ。
 課金システムで得られるものは、そのリストが公開されている。つまり、いくら貢いだのかがあからさまになってしまう。
 そんなものではない、彼が真に手に入れたいものは。
 ――世界で自分だけが有するもの。
 それを得るためだけに、何時間いや何ヶ月という労力を費やしてきた。

「森、木々の葉、木漏れ日、清らかな水、マイナスイオン、そして岩石……」
 まずは女性アバターが出現した場所を注意深く観察する。その場で手に入れることができる素材も重要だからだ。
 ――森の中の清らかな水の流れ、岩石が露出する渓流と水を湛えた淵。
 つまり光、水、岩石、植物といった素材はいくらでも現地調達できるということだ。
 次に手持ちのアイテムと、会得した魔法のリストを確認する。
「必要な試薬もある、そして魔法も会得済み、と……」
 すべてを確認した湊は、すうっと深く深呼吸した。
 いよいよだ。ついに長く待ち焦がれていた夢が実現するのだ。
 メニューから水の魔法を選択し、必要となる素材と試薬を調合ボックスの中に入れる。そしてコントローラーのOKボタンに指を乗せた。
「ギフト、アクア!」
 指に力を入れると同時に、女性アバターと湊の声がユニゾンで部屋にこだまする。
 すると淵の水面がわずかに波立ち、白い湯気のようなものが立ち上がった。その気体は次第に渦を形成し、裸の女性アバターがその白き渦に飲み込まれていく。渦の動きが止まり、次第に空気が晴れてくると念願のものがそこに出現していた。
「やった! やったぞ!! ついに俺はやったんだ!!!」

 それは――水色と白の縞々ぱんつだった。




美音の場合1

「なによ、もう。可愛くないわね!」
 美音(みと)は不満をつのらせていた。
「せっかく可愛い装備を造ったっていうのに……」
 彼女の不満は、あるものを自由に造れないことに起因しているのである。

 確かに白亜大戦は面白い。
 恐竜のような巨大生物を倒す時はドキドキするし、広大なマップを探検するのはワクワクする。
 アクションとアドベンチャー。そのバランスがとても良いのだ。
 時には仲間と共闘し、一緒に巨大生物を倒した達成感に酔いしれ、プレイヤー同士の友情が芽生えることだってある。

「でもね、装備がね……」

 美音にとっては装備だって重要な要素だ。強さという意味ではなく、ビジュアル的にだが。
 白亜大戦で作成できる装備は、基本的にはマップ内で取得した素材と魔法の組み合わせで構成される。
 森の装備なら、葉や木などの植物素材と森の魔法が必要で、水の装備なら綺麗な水や渓流や滝で採取したマイナスイオンと水の魔法が必要となる。金属が手に入れば武器や防具を強化できるし、巨大生物から得られる素材も重要だ。
 魔法は種類が限られているものの、素材は広大なマップに無数に存在する。だから装備も様々な種類を思いのまま自由に造ることができる。
 が、造れるのは装備や武器、防具といった外側に纏うものだけ。その下のインナーは、デフォルト設定のまま変更することができない。

「これってボクサーショーツ? ていうか、ただの短パンだよね」

 美音は一生懸命素材を集め、森の魔法も取得した。そして短めのスカートが魅力的な森の妖精風の可愛らしい装備を造り出した。
 早速、その装備を身に着けて巨大生物を狩りに出掛けてみる。
 彼女が操る女性アバターは双剣を駆使し、森の妖精ごとく軽やかに飛び回りながら巨大生物にダメージを入れていく。時には宙返りをしながら、時には高速スピンで手数を稼ぐ。
 しかし、その時にひらめくスカートからチラリと見えるインナーに、どうしても興覚めしてしまうのだ。
 設定としてはボクサーショーツのようなのだが、どう見ても短パン。それはまるで、とある有名アニメの少女――電気の力でコインを高速で飛ばす彼女のように。

「DLCも、可愛いの無いしね……」

 ゲームの設定上、インナーを自由に造ることはできない。
 それでもインナーを変更したいというプレイヤーのためには、DLCが用意されていた。
 が、DLCで手に入るインナーはハイレグだったり、Tバックだったり、男性好みのものばかり。森の妖精風装備に合う可愛らしいインナーは見当たらない。

「まあ、ぱんつの可愛さを競うゲームじゃないし」

 白亜大戦は面白い。
 インナーが自由に造れなくても、それを忘れさせてくれる楽しさで溢れている。
 それに短パンが気になるのは、スカート丈が短い装備を装着した時だけ。スカート丈が長かったり、パンツスタイルやごつい防具を身に付けた時は全く気にならない。

 不満の種火を残しつつも、美音はそう割り切ってゲームを楽しんでいた。
 ところがだ。
 種火を再燃させるような出来事が起きた。
 それは、巨大生物を倒すために何人かと共闘した時のこと。メンバーの中に一人、水色の装備で身を包んだ女性アバターがいた。レイピア使いの彼女は身のこなしが軽く、跳躍や宙返りを繰り返しながら攻撃を当てている。まるで美音のアバターのように。
 その水色の彼女が宙返りをした時、チラリと露わになったインナーに美音の視線は釘付けになった。

「えっ、縞ぱん!?」

 見間違いではない。それは確かに白と水色の縞々模様だった。
 そしてそのインナーは、悔しいほどに彼女の水色装備に合っていたのだ。
 刹那、インナーについての不満が心の底から溢れ出してくる。

「あれが欲しい! でも縞ぱんってDLCには無かったはず」

 DLCのインナーリストを必死に思い出す。
 一時期、毎日のようにリストを眺めていた美音は確信した。
 あのプレイヤーのインナーはDLCではなく、魔法と素材で造られた一点ものだと。

「でも、どうやって!?」

 それが謎だった。
 というのも、魔法と素材でインナーを造るシーンがこのゲームには一切登場しないからだ。
 ゲームにログインすると、自分が操るアバターは最後にセーブした場所で出現する。ほとんどの場合、セーブした時と同じ装備で。
 その時も、インナーを変更するというメニューは登場しない。

「seaportさんか。覚えたわ」

 美音は記憶に刻み付ける。水色装備の女性アバターに表示されているプレイヤー名を。
 ――seaport。
 そのプレイヤー名は、美音にとって別の意味で印象づけられていた。

「sp(縞ぱん)さん。必ずあなたのインナーの秘密を暴いてあげるから……」

 こうして美音のsp(縞ぱん)探しが始まったのだ。




湊の場合2

 湊が縞ぱんを手にするまで、苦労の連続だった。
 まず白亜大戦には、インナーを無料で変更できる機会が全くない。
 インナーについては別途DLCが用意されており、メーカーはそれを強く推している。
 もしプレイヤーが無料で自由にインナーを変更できたら、誰もDLCを買ってくれなくなるからだ。

 一方、白亜大戦はアイテムを自由に造れることをウリにしていた。
 そのようなゲームは白亜大戦の他にも山ほどある。素材を集めてアイテムを造れるゲームであれば。
 その場合、用いた素材と出来上がるアイテムは一対一に対応しており、同じ手順を踏めば必ず同じアイテムが生成されることが多い。
 白亜大戦が他のゲームと違うのは、魔法という要素が追加されたことであった。不確定要素を組み合わせることにより、意外性のあるアイテムを造れるようになっているのだ。
 ――唯一の武器で戦いに挑んでみませんか?
 これが白亜大戦のキャッチコピーである。その言葉通り、自分ならではの武器で戦いに挑めることがこのゲームの最大の魅力だった。

 何でも造れるゲーム。
 しかしインナーは自由に造れない。
 そんな批判をかわすために、きっとメーカーは抜け道を用意しているに違いない。
 湊がそう思い始めたのは、とある魔法を手にしたことがきっかけだった。

 ある日、ティガサウルスという巨大生物を険しい山岳地帯で散々苦労しながら倒した時のこと。
 洞窟内のその生物の巣の中で、湊はある魔法を手に入れた。
 ――ギフト魔法。
 何だこれ?と思う。
 散々苦労して手に入れたのがプレゼントを貰えるだけの魔法なんてと、湊は最初がっかりした。
 魔法の説明には、プレイヤーがその時点で一番役に立ちそうなものをAIが勝手に判断して造ってくれる魔法、と記されている。プレイヤーは必要な素材をボックスの中に入れて、魔法名と属性を詠唱するだけで発動するらしい。
 しかしいざ使ってみると、なかなか奥の深い魔法であることに気が付いた。
 例えば、火を操る巨大生物と対峙していた時にこの魔法を唱えると、水や氷属性のアイテムを造ってくれる。攻撃が手薄だと判断すれば武器を、体力が削られていると判断すれば防具を、という風に。つまり、何が現れるのかは分からないが、その場面で最適なものを届けてくれるという仕組みになっている。
 このギフト魔法を使いこなせるようになってから、湊は白亜大戦をプレイするのがますます楽しみになっていた。必ず役に立つという安心感に加えて、何が造られるのかわからないドキドキがたまらない。
 そしてある時、彼はふと思った。
 もし裸で出現するような場所でこの魔法を唱えれば、インナーを造ってくれるのではないかと。裸の状況で一番役に立つのは、インナーであることは間違いない。

 ――裸で出現する場所。
 ゲーム内でそんな場所があるとしたら、セーブポイントしかありえないと湊は直観した。
 というのも、裸になるという行動リストはこのゲームには存在しないからだ。
 巨大生物に装備を剥がされるというイベントも想定してみたが、このゲームではそれは死を意味する。
 一方、セーブポイントでは気の利いたエフェクトが用意されていた。
 町の宿屋で目覚めるのが一般的なログイン方法だが、パン屋でセーブするとパン屋の格好で目覚め、教練所でセーブすると修行服で目覚めることもあった。
 町の外ではその自由度が広がり、森の中では迷彩服で、山岳地帯では登山服で出現したりする。
 このようなセーブポイントの傾向をつかんだ湊は考察する。もし裸で出現する場所があるとすれば、海か温泉か湖か川ではないか――と。
 こうして湊は水辺ばかり探索するようになり、得られる素材も魔法も水に関係するものばかりになってしまう。

 そしてついに発見したのだ。
 森の中の淵にセーブポイントがあることを。
 そしてそこからゲームを再開すると、裸で出現することを。




美音の場合2

「seaport、seaport、縞ぱん、縞ぱん……と」

 白亜大戦で縞ぱんを目にした直後、美音のseaport探しは白熱した。
 まずはSNS。
 もし美音本人が縞ぱんの作成に成功したのであれば、嬉しさのあまりネットでつぶやくと思ったからだ。
 しかしそんなアカウントは見当たらない。
 あらゆるSNSを覗いて「seaport」と「白亜大戦」で検索してみても、それらしき情報は一つも出てこなかった。

「じゃあ、動画なのかな……」

 seaportは動画配信者ということも考えられる。
 白亜大戦で縞ぱんを造れるほどの達人なのだ。他にも裏技をたくさん知っているに違いない。
 もし美音がそんな達人だったら――プレイ動画をネットにアップして閲覧数と広告料を稼ぐことだろう。
 そう思った彼女は、今度は動画サイトを片っ端から調べ始めた。が、それらしき動画は一つも出てこない。

「ゲームの中で会えるのを待つしかないのかな……」

 一週間探し続けた美音だが、一旦seaport探しをやめることにした。
 せっかく白亜大戦という心休まる場所を見つけたのに、ぱんつごときに気持ちを荒立たせるのは馬鹿らしく感じたからだ。
 白亜大戦にログインすると、そこには広大な森が自分を待ってくれている。
 美音は自分のテリトリーに戻り、木の上に建てた家で横になる。木漏れ日が差し込むこのツリーハウスが彼女のお気に入りの城だった。

 美音のプレイスタイルは独特だった。
 ガツガツと狩りに出掛けるのではなく、森に迷い込んだ巨大生物だけを狩るというスタイル。いわゆる縄張りだ。
 これなら攻撃スキルに乏しい部分は地の利でカバーすることができる。
 実際、彼女がテリトリーとしている範囲の木々は、その間隔から大きさや高さまですべて熟知していた。
 美音が身に付けている森の装備は軽く、機動性に優れ、しかも迷彩の役割も果たす。おまけに各所にトラップを仕掛けており、森は緑の要塞と化していた。森に迷い込んだら最後、木々の間を飛び回る彼女に襲われてどんな巨大生物もその餌食になってしまうのだ。

 美音が縞ぱんのことを忘れかけていたある日のこと。
 森のツリーハウスで装備の手入れをしていると、眼下の小路を歩いてくるプレイヤーが現れた。
 この小路を歩くプレイヤーは少ない。一週間に一人か二人という程度だ。美音は息をひそめて、そのプレイヤーを観察する。
 それは女性アバターだった。が、表示されるプレイヤー名に美音はハッとする。

「sp(縞ぱん)さん!?」

 そう、それはいつかのseaportだった。
 美音はとっさにツリーハウスの影に身を隠す。幸いなことに、seaportは美音には気づいていないようだった。

「どこに行くのかしら?」

 seaportは迷うことなく、森の小路を進んでいく。
 その先には渓流があり、泳ぐのにちょうど良い淵があった。
 美音は音を立てないよう地上に降り立つと、大木に身を隠しながらseaportをつけていく。どうやらseaportは、森の淵を目指しているようだった。

「こんなところで何を?」

 いつも森に居る美音だから分かる。
 ここにはプレイヤーはあまりやって来ない。
 が、その割には迷い込む巨大生物は多い。
 だから彼女はここを縄張りとしているわけで、おいしい狩場となっているのだ。

「まさか、彼女もこの場所をテリトリーにしようとしてる……とか?」

 seaportの水色装備は、見た目から判断して水の魔法で造られているようだ。
 ということは、この先の森の淵あたりをテリトリーにしようとしているのかもしれない。
 ――森の美音、水のseaport。
 それならば棲み分けは可能で、競合することもないだろう。
 そう思ったとたん、美音の中の警戒感は薄れ、新たな興味が湧いてくる。
 seaportの近くにいれば、縞ぱんの秘密を教えてもらえるかもしれない――と。

 そんなことを美音が考えていると、seaportは森の淵に出た。
 淵の脇にたたずみ、水の流れを見つめている。
 大木の影からその様子を観察していた美音は確信する。彼女の目的は、やはりこの場所だったのだと。

 刹那、驚くことが起きた。
 seaportの姿が消えたのだ。

「えっ、ここでログアウト!?」

 まさかの展開に美音はうろたえる。
 気づくと、彼女は森の淵へ歩き出していた。そして淵の中を覗き込む。

「一体、ここに何があるっていうの?」

 ――森の中の清らかな水の流れ、岩石が露出する渓流と水を湛えた淵。
 確かに水の要素にあふれている。
 水の魔法を操るであろうseaportにはうってつけの場所に違いない。

「って、まさか!?」

 その時、雷に打たれたように美音の頭にある予感が閃いた。
 seaportはこの場所でログアウトするために、わざわざやって来たのではないかと。
 もしそうであれば、その理由は一つしかない。この場所で出現するためだ。

「そんなの、やってみれば分かるわ」

 早速、美音はログアウトする。
 そして直後にログインしてみたのだ。

「思った通りだわ。やった! やっと見つけた!!」

 森の淵で出現した美音のアバターは、素っ裸だった。




湊の場合3

 縞ぱんを手にしてから、湊は短めのスカートが魅力的な水の妖精風装備で狩りに出掛けるようにしていた。
 もちろん、縞ぱんを自慢するためだ。
 巨大生物と対峙すると、彼が操る女性アバターは身の軽さを利用して宙返りを繰り返しながらレイピアの攻撃を当てていく。
 すると面白いことに、共闘するプレイヤーの視線が湊に集中するのだ。

「むはははははは、縞ぱんの威力は絶大だな」

 伝説のプレイヤーでも何でもないのに、こんなにも注目を浴びている。
 それが面白くてたまらない。
 ――宙返り、スピン、バク転、前転回避。
 ここぞとばかり、湊は自慢の縞ぱんを他のプレイヤーに見せつけてやったのだ。

 湊の振る舞いに目を奪われているプレイヤーの中に、森の妖精風装備を身に付けた女性アバターがいた。
 彼女も短めのスカートが魅力的な防具を作成しており、湊と同様、身の軽さを活かした双剣攻撃が特徴的だった。
 しかしだ。
 ひらりひらりとひるがえるスカートから覗かせるのは短パン、いやデフォルトのインナーだ。それが目に入るたびに興醒めしてしまう。

「あんなに可愛い装備を造ったというのに……」

 つくづく残念に思う。
 縞ぱんだったら、どんなに可愛いことか――と。
 と同時に、縞ぱんの造り方を教えてあげたい気持ちが芽生えそうになり、湊は慌てて右手で自分の頬を叩いた。

「いやいや、見かけに騙されちゃダメだ」

 とても可愛らしい装備を纏っている女性アバターだが、きっと操っているのは男に違いない。
 湊だって男なのに、女性アバターを操り、可愛らしい装備を装着しているのだ。
 それにこの縞ぱんを造るのに散々苦労した。それを簡単に教えてあげるのはもったいない。
 縞ぱんを造りたくて悶えるのは、今度は他のプレイヤーの番なのだ。それを高みで眺める権利を、湊は有していた。
 
 最後に湊は、森の装備を身に付けた女性アバターを見る。
 ――resonant。
 プレイヤー名はそう記されている。

「共鳴か。いい名だな……」

 まさか、このresonantが湊の人生に深く関わってくることになるとは、その時の彼は知らなかった。




美音の場合3

「やった! ついにやった!!」

 森の淵で彼女のアバターが裸で出現した時、美音はコントローラーを投げ上げそうになった。
 それをすんでのところで思い直し、改めてコントローラーを握り直す。

 今の状態は裸だ。
 局部はぼかされているけど、それは仕方がない。全年齢のゲームなんだし。
 この状態で何か装備を造れば、インナーも新たに出来上がることだろう。
 忌々しいあの短パン、いやデフォルトのインナーとはおさらばだ。

 美音は素材を確認する。
 森の素材は余るほど有している。
 そして、一番適していると思われる森の魔法を唱えた。

「クリエイト、フォレスト!」

 すると、周囲の森の葉がざわざわと音を立て始めた。と同時に、落ち葉を含んだ旋風が美音が操る女性アバターを包み込んでいく。そしてその風が晴れた時、現れたアバターが身に着けていたのは――

「いつもの森の装備やん!」

 そう、いつもの装備を身に付けた女性アバターが立っていたのだ。
 試しに美音はその場で宙返りさせてみる。
 ひらひらとひらめくスカートから覗き見えるのは、やっぱりいつもの短パン。

「マジか……」

 がっくりと脱力する。
 素材が足りなかったのか、それとも魔法が間違っていたのか。
 気落ちするのはまだ早い。会得している魔法はまだ他にもある。
 美音は詠唱可能なすべての魔法を試してみた。が、いずれも新たなインナーを造るには至らなかった。

「何が足りないの……?」

 それは誰も教えてくれない。
 ネットにも何も掲載されていない。
 知っているのはあのseaportというプレイヤーだけ。

「それならば!」

 美音はついに、非常手段に出ることにしたのだ。




湊の場合4

 一ヶ月くらい縞ぱんを楽しんだ湊は、今度は違うインナーを造ろうと考えていた。
 そのためには、またあの森の淵でログアウトして、再び出現する必要がある。
 尾行されていないことを確認した湊は、こっそりと森に入り、あの淵へと小路を急いでいた。そして森の淵にたどり着く。

 湊がこの場所を訪れるのは二回目だ。
 改めて周囲を見渡してみるが、本当に素敵な場所だった。
 ――森の中の清らかな水の流れ、岩石が露出する渓流と水を湛えた淵。
 きっとこれほどまで自然にあふれた場所でなければ、縞ぱんは造れなかったのかもしれない。
 例えば、どこかに温泉があって、その場所でもここと同様、裸で現れるセーブポイントだったと想定する。しかしそんな場所でギフト魔法を唱えたとしても、今穿いている縞ぱんのような清らかな水色は発色しなかったんじゃないだろうか。もしかしたらくすんだ灰色のぱんつが出現したかもしれないと、湊は考えていた。
 周囲の環境、そしてアバターが置かれている状況によって発動するギフト魔法。
 清らかな水の流れがあるからこそ完成した縞ぱんだった。そして縞々の白い部分も、この場所に深く関係している可能性がある。

「バイバイ、縞ぱん……」

 気まぐれなギフト魔法。
 次にここで出現した時にも縞ぱんが造れるとは限らない。
 そもそも湊がここに来たのは、縞ぱん以外のインナーを造るためなのだ。
 しばしの間、水面を見つめながら感傷に浸っていた彼は意を決してログアウトする。
 今度出現した時に、違うインナーを造るために。

 ゲームをログアウトした湊は、アパートのベッドに寝ころび天井を見上げながらもう一度手順を確認する。
 次回ギフト魔法を唱える時、アイテムボックスに入れるのは清らかな水だけではなく、もう少しジェル化させた水を追加してアクセントを付けようと思っていた。
 そのために巨大生物を倒した時に、皮に付いていた油分を積極的に採取していたのだ。
 この油分を苦労して精製したのがゼラチン。これを試薬に用いることで水をジェル化させることができる。

「いよいよ明日だな……」

 次の日。
 目的のインナーを造るために森の淵に出現した湊に、悲劇が待ち受けていた。
 最初に裸で出現して、次にギフト魔法を唱えたところまでは順調だったのだが。
 お目当てのインナーが生成され、歓喜に身を躍らせようとした瞬間、彼が操るアバターは捕獲されてしまったのだ。森に仕組まれたトラップによって。




美音の場合4

「直接教えてもらうからね、seaportさん」

 インナーの生成に失敗した美音だが、それでも不思議な高揚感に包まれていた。
 なぜなら、ついにseaportの尻尾を掴んだからだ。
 縞ぱんを穿くseaportはここでログアウトした。それは必ずここに現れることを意味している。
 つまりこの森の淵で待ち伏せしていれば、必ずseaportに会える。

 美音は早速、森の淵の周辺にトラップを仕掛ける。
 一つではなく、二重、三重にと。
 これはあくまでも予備的な措置だ。seaportからインナーの造り方を教えてもらえなかった時の備え。基本的には交渉に持ち込めればと思っていた。
 彼女は次々と森の中にトラップを仕掛けていく。巨大生物を何体も捕らえた技術を駆使して。

 準備を整えた美音は、大木の影に隠れて静かにseaportを待つ。
 もしseaportが現れても、すぐにはトラップを発動させるつもりはない。なぜならseaportがインナーを造るところを見てみたいからだ。
 ――どのように、そしてどんな魔法を使って?
 とにかくそれが知りたかった。
 seaportは裸でこの場所に出現する。それならば、すぐにインナーを造るはず。
 美音はその様子を見てから、交渉を持ちかけようと考えていた。

 しかしその夜、seaportは現れなかった。
 一晩中待ち続け徹夜となった彼女だが、眠い目をこすりながらさらに待った。
 大学の授業もサボり、ひたすら森の淵に注目し続けている。
 いつやめようかと何度も思う。が、頭を振って懸命にその迷いを吹き飛ばす。
 せっかく掴んだseaportの尻尾なのだ。ここで離してしまっては一生後悔する。
 seaportさえ出現すればすべてが終わる。彼女が出現すれば、縞ぱんの謎も教えてもらうことができる。

 そしてその時はやってきた。
 徹夜も二夜目かと覚悟した瞬間、青髪の女性アバターが地面に片足をひざまづいた状態で森の淵に出現したのだ。
 表示されるプレイヤー名もseaport。間違いない。
 すると彼女はひざまづいたまま魔法を唱えた。

「ギフト、アクア!」

 ギフト?と美音が思う間もなく、淵の水面がわずかに波立ち、白い湯気のようなものが立ち上がった。その気体は次第にジェル状の塊となり、水玉となって渦を形成し裸の女性アバターの周囲を回りながら包み込んでいく。渦の動きが止まり、次第に空気が晴れてくるとアバターはなんとも可愛らしいインナーを纏っていた。

「水玉模様!?」

 ブラとぱんつを身に着けた下着姿。
 その模様はなんと、水色の水玉模様だったのだ。

 美音の声、つまり彼女のアバターの声に反応してseaportが振り向いた。と同時にダッシュを開始しようとする。
 すぐに交渉できるようにと、ボイスチャットをONにしていたのが裏目に出てしまったようだ。
「まずい!」
 逃げられたらこれまでの苦労が水の泡になる。
 そう思った美音は、瞬時にトラップを発動させる。
 刹那、草のつるで造った縄がseaportの足を縛り上げ、彼女を逆さ吊りにした。

「ごめんね、seaportさん。私はただ、そのインナーの造り方を教えて欲しいだけなの」

 美音のアバターは大木の影から姿を現し、逆さ吊りになった下着姿のseaportに話しかける。
 が、彼女は予想外の反応を示す。逆さ吊りの状態のまま再び、魔法を唱えたのだ。

「ギフト、アクア!」

 すると淵の水から剣が生成し、二人の方に飛んで来る。そしてseaportの足を縛っていたつるを切ったのだ。
 地面に落ちた瞬間、再びダッシュを試みるseaport。
 しかし美音は第二のトラップを発動させた。今度はつるで造られた巨大の網に包まれて、seaportは再び宙吊りになったのだ。

「トラップはまだまだあるから逃げられないわよ。だから観念して私の質問に答えて欲しい」

 網の中のseaportは観念したようだ。
 美音のアバターの方を見ると、静かにうなづいた。
 それを確認した美音は、最初の疑問を彼女にぶつけてみる。

「ねえ、ギフトって何?」




湊の場合5

 湊は忌々しく思う。
 念願のインナーを造ることに成功したのだが、その直後にトラップに捕らえられてしまったからだ。
 せっかく思い通りのインナーが完成したというのに。水の妖精風装備にぴったりの、可愛らしい水玉模様のインナーが。
 湊は、吊り上げられた草のつるでできた大きな網の中からトラップを仕掛けたプレイヤーを見る。

 ――resonant。
 彼女は確か、一度だけ共闘したことがある。
 短めのスカートが特徴的な森の装備も見覚えがあった。

 それにしても、一体なんなのだろう。この連続トラップは。
 最初のトラップはギフト魔法で解除できたが、まさかさらなるトラップが仕掛けられているとは思わなかった。
 二回連続してギフト魔法を使ったおかげで、マジックポイントはほぼゼロになってしまっている。すぐにはもうどうすることもできない。
 湊が観念すると、resonantはボイスチャットで訊いてくる。

「ねえ、ギフトって何?」

 そうか、こいつはギフト魔法を知らないんだ。
 ということは、山岳地帯のティガサウルスを倒していないということになる。
 それにresonantは最初、インナーの造り方を教えてほしいと言っていた。
 ギフト魔法が使えなければ、インナーが造れないのも当然だ。

 さあ、どうしよう。
 親切に教えてあげるか、それとも白を切るか?
 湊が迷っていると、カシャリと写真を撮る音がした。どうやらresonantがゲーム画面の写真を撮ったらしい。

「教えてくれないと、下着で吊るされたこの恥ずかしい姿をネットで公開しちゃうから」

 下着姿をネットで公開?
 それは大歓迎と湊は思う。
 湊は男だから、アバターの下着姿をさらされてもちっとも恥ずかしくない。
 それどころか水玉模様インナーの良い宣伝になるだろう。白亜大戦で水玉模様のインナーを身に着けているのは、現時点ではおそらく湊のアバターだけなのだから。

 全く動じない湊に対し、resonantは動揺し始めた。
 ネットに晒すという脅しが全く効かず、それどころか薄笑いさえ浮かべているのだから当前だ。
 ついにはresonantは土下座を始めた。

「お願いだから教えて。そしたら開放してあげるから」

 開放?
 その言葉に湊は違和感を覚える。
 これはゲームなんだし、拘束されているのはアバターに過ぎない。こっそりアイテムでマジックポイントを回復させればギフト魔法を再び使えるようになるし、ログアウトするという脱出方法もある。ログインしても再びトラップの中という可能性は残っているが。
 しかし、土下座というresonantの行動に湊は心を打たれていた。
 やっぱりresonantの中の人は男なんだ。
 何としてでもお気に入りのインナーを造って、ニヤニヤしながらプレイしたいんだ。
 その気持ちは痛いほど分かる。なぜなら湊自信がそうだから。
 そう思った瞬間、湊は急にresonantに親近感を抱き始めた。
 かつて共闘した時にひらめくスカートから見えた短パン姿。あれは本当に興覚めだった。それをなんとかしたい。その願いは世界共通のはずだ。

「インナーの造り方を教えてあげたら、resonantさんは何をくれる?」

 逆に、湊は質問してみる。
 湊が歩み寄った形だが、その時のresonantの表情に彼ははっとした。
 というのもアバターだというのに、本当に嬉しそうな表情をしたから。
 中身が男でなければ、好きになってしまいそうな笑顔だった。

「私、森の素材や魔法を沢山持ってる。それと交換じゃダメ?」

 森の素材や魔法か……。
 森にはそんなに強い巨大生物はいないので、森の素材や魔法はレベル的には得やすい部類でそれほどレアではない。
 だからそれほどまでの興味はないが、このトラップの技術には感銘を受けた。教えを受けることはステップアップに繋がる可能性がある。

「わかった。インナーを作成するにはまずギフト魔法が必要だ。それは会得してる?」

 会得していないだろうと思いながら、湊はあえて訊いてみる。
 resonantは最初、「ギフトって何?」と言っていた。
 ギフト魔法を会得していれば、そんなことは言わないはずだ。

「会得してないけど……」
「ギフト魔法を会得するには山岳地帯にいるティガサウルスを倒す必要がある。一緒に行ってあげてもいいけど?」

 resonantは喜ぶと思いきや、表情をだんだんと暗くさせていった。
 おいおい、なんだよ。可愛らしいインナーを造ってニヤニヤしたいんだろ?
 男だったら勇気を出して困難に挑んでみろよ。
 resonantのことをほっとけなくなる自分を、湊は不思議に思い始めていた。




美音の場合5

 その日の白亜大戦のプレイを終えコントローラーを置いた美音は、アパートの部屋のベッドに寝ころんで天井を見上げる。そして今でも心臓がバクバクしているのを感じていた。
 やっとインナーの造り方が分かった。
 しかしそのためには、山岳地帯のティガサウルスを倒して、ギフト魔法を会得しなければならない。
 ずっと森に籠って、森にやってきた巨大生物だけを狩っていた美音にとって、出掛けてまで狩りをするというのはすごくハードルが高い冒険だった。
 しかし今回は、seaportが同行してくれるという。
 それを美音は、とても心強く感じていた。

 もしかしたら、プレイヤーとしてのseaportは男性なんじゃないないだろうか。
 ボイスチャットの時も、声は女性のものだったが、しゃべり方は男性っぽかった。
 下着姿をネットで晒すと脅しても、全く動揺することがなかったし。
 きっと可愛らしいアバターを造って、可愛らしいインナーを身に着け、ニヤニヤしながらプレイしているのだろう。男の人ってパンチラが大好きだから。

 まあ、そんなことはどうでもいい。
 要は可愛いインナーを造れる方法さえ分かればいいのだ。
 それに手を貸してくれると言うのだから、seaportが男であれ女であれ、まずは協力を受け入れておいても損はない。
 そこに立ちはだかるティガサウルス討伐という高い壁。
 美音はseaportに、一週間の猶予をもらいたいと提案する。
 seaportにとっては倒したことのある相手だが、美音にとっては初めてとなるラスボスクラスの巨大生物。その棲息地や習性、戦う環境などをじっくりと下調べしておきたかった。
 
 行ってみて初めて知ったが、山岳地帯は森林限界を越えた高地にあった。
 当然木々は生えておらず、岩石が露出する岩場ばかり。これでは美音が得意とする森の魔法は威力が半減してしまう。
 しかし何も準備しないわけにはいかない。
 美音は一週間の期間をフルに使い、山岳地帯を調べ上げ、自分の攻撃力の乏しさをカバーできるような作戦を考えていた。

 ティガサウルス討伐の前夜、下準備の確認を済ませて美音はベッドに入る。
「いよいよ、明日なのね……」
 ドキドキしてなかなか寝つけられない。
 ティガサウルスって、どんな狂暴な巨大生物なのだろう?
 と同時に、何だかワクワクしている自分がいた。
 それは、彼女が最初に白亜大戦にログインした時と同じ高揚感。このゲームの楽しさを再認識した瞬間だった。




湊の場合6

 いよいよ、resonantと一緒にティガサウルスを討伐する夜がやってきた。
 本当のことを言えば、他にも助っ人を呼んで大人数で倒したいところ。それほどティガサウルスは狂暴な巨大生物だった。
 が、インナー作成という二人の共通の秘密を守るためには二人で討伐せざるを得なかったのだ。

 ――二人だけで行く秘密のクエスト。
 それってなんだかドキドキする。
 まあ、resonantの中身は男なんだろうけど。

 湊は予想する。
 resonantの中の人は、彼と同じく若者なんじゃないかと。
 インナーの秘密を知るために、森の淵で張り込みを続けるなんて年配者ができることじゃない。高校生以下の学生も無理だろう。昼間は学校がある。となれば、大学生か、フリーターなんじゃないだろうか。

 白亜大戦にログインし、いつもの水の妖精風装備にセットアップして、ティガサウルスが生息する山岳地帯の入口で待つ。
 resonantも、いつもの森の装備でやってきた。
 二人はボイスチャットで会話を交わしながら、ティガサウルスが待つ山岳地帯の洞窟に向かった。

「今日の討伐の作戦を考えてみたんだけど、任せてもらってもいい?」
「うん。私はティガサウルスと戦うのは初めてだから、あなたに任せるわ」

 湊はこの日のために作戦を考えていた。
 二人の装備は似たような軽量タイプで、お互い軽やかに巨大生物の周りを舞ながら戦うスタイルだ。
 そして武器も双剣とレイピアという、似たような接近戦用の武器。
 それならば、攻撃係と陽動係に分かれて、その役割を入れ替えながら戦えばいい。
 そのことをresonantに話すと、素直に納得してくれた。

 いよいよ洞窟の中に入る。
 ティガサウルスは横になっていびきをかいて寝ていた。その音の大きさから、怒った時の迫力が伺い知れる。

「じゃあ、いくぞ」
「うん」

 湊が小声で合図すると、彼は尻尾へ、resonantはティガサウルスの鼻先に移動する。
 そして「せーの」の掛け声と同時に、お互いがそれぞれの箇所を切りつけた。
 驚いたティガサウルスは雄たけびと共に慌てて立ち上がる。体長はざっと二十メートルはあるだろう。

 ティガサウルスの攻撃は、主に噛みつきと尻尾による薙ぎ払いの二つだ。
 どちらの攻撃も強力で、一度喰らえばかなりのダメージを受けることになる。二人とも軽量タイプの防具だからなおさらだ。
 そんな重量級の攻撃を二人はひらひらとかわし、ダメージを受けないように少しずつ攻撃を当てていく。
 その際、鼻先担当は陽動が主で、無理に攻撃をする必要はないというのが二人のルールだった。あくまでも最初の目的は尻尾を切ること。両足と尻尾で体重を支えているティガサウルスは、尻尾が欠損すれば自由に動けなくなるからだ。尻尾の薙ぎ払い攻撃を封印するという意味もあった。

「チェンジ!」
「わかった」

 ひらひらと尻尾の周辺を舞ながら、十回くらいレイピアの攻撃を当てた湊は、resonantに向けて役割交代の指示を出す。
 さすがに切れ味が落ちてきた。一度レイピアを研磨しないと、効果的な攻撃は不可能だ。
 湊はティガサウルスの鼻先に移動すると、攻撃を巧みによけながら少しずつレイピアを研磨する。一方resonantは尻尾に移動し、双剣で攻撃を開始した。

「あいつ、なかなかやるじゃないか」

 レイピアの研磨が完了した湊は、resonantの攻撃を観察する余裕が生まれていた。
 鼻先への攻撃は無理に当てる必要はない。噛みつかれないよう注意を払いながら、ティガサウルスの意識を分散させればいいのだ。

「ティガは初めてだって言ってたけど、ホントかな?」

 湊がそう思ってしまうほど、resonantの攻撃は見事だった。
 尻尾の薙ぎ払いをひらりひらりとよけながら、体を回転させて双剣で尻尾を切り裂いていく。時には宙返りで、時にはスピンを駆使して。
 その芸術的な身のこなしに、湊はうっとりと見とれてしまう。ただし、チラリチラリと見える短パンは興覚めだったが。

「ぱんつか……」

 思えばこうして二人を結びつけたのは、湊が造った縞ぱんだった。
 この一か月間、彼は他のプレイヤーにどうやって縞ぱんを見せつけようか、そればかり考えてきた。
 最初は注目されることが快感だったが、最近はそれもあまり感じなくなってしまう。

「ヤバい、めっちゃ楽しいんだけど」

 しかし今の戦いはどうだろう。
 久しぶりにぱんつのことを忘れて、巨大生物の討伐だけを考えている。
 それは白亜大戦本来の楽しみ方。思いがけず湊は初心に戻り、湧き上がる高揚感を噛みしめていた。

 五回は交代を繰り返しただろうか。
 さすがのティガサウルスも弱ってきた。尻尾もボロボロになっている。
 しかし、それは湊たちも同じこと。二人の間にも疲れが垣間見える。あと一回くらいの交代で尻尾が切れなければ、討伐はかなり難しくなるだろう。

「あと少しだぞ」
「うん。頑張る!」

 お互い励まし合いながら湊が尻尾側に回った時、悲劇が起きた。
 もうすぐ尻尾が切れるという油断もあったのだろう。薙ぎ払われた尻尾がちぎれるような予想外の動きをして、湊のアバターの体を直撃したのだ。

「ぐはっ、さすがにこれはヤバい」

 空中で体勢を崩しながらも咄嗟にレイピアを投げる。
 その最後の一撃で、ティガサウルスの尻尾は切断された。
 が、湊が受けたダメージも相当なものだった。ちぎれそうになった尻尾の鞭のような動きは、薙ぎ払いの威力を倍増させていたからだ。
 ゲージを見ると、体力はほとんどない。
 このまま地上に落下してさらなるダメージを受ければ、湊はクエストリタイアになってしまう。
 しかし尻尾を切断することに成功した。これでティガサウルスは動きも攻撃力も普段の三分の一以下に落ちるはず。あのresonantなら、最後までやってくれるに違いない。

「ゴメン、後は頼む……」

 ひとこと言い残した湊のゲーム画面は、暗転した。




美音の場合6

「どうしよう、seaportさんがやられちゃった……」

 もう少しでティガサウルスを倒せるというところで悲劇が起きた。
 ちぎれかけた尻尾の薙ぎ払い攻撃を受けて、seaportが致命的なダメージを受けてしまったのだ。
 地上に落ちて、さらにティガサウルスに踏みつけられたseaportはクエストリタイアで消えてしまう。
 が、それと同時にティガサウルスの尻尾は切断されていた。

 一気にバランスを失ったティガサウルス。
 噛みつき攻撃も狙いが定まらなくなったし、動きも鈍くなった。当然だが、尻尾の薙ぎ払い攻撃も受けることはなくなった。

「これなら私だって……」

 美音はティガサウルスの鼻先に立ち、噛みつき攻撃を受けないようにしながら後ずさりする。
 そしてこの巨大生物を洞窟の外まで、引きずり出したのだ。

「山岳地帯さえ抜ければ、森にトラップが仕掛けてある」

 今度は美音の事前準備が活かされる番だった。
 ティガサウルスの鼻先に立ち、森へと誘導する彼女は、今日の戦いをしみじみと思い返す。
 seaportとの共闘。これはめちゃくちゃ楽しかった。
 可愛らしいインナーにこだわっていた自分が馬鹿らしくなるほどに。
 また、seaportと一緒に狩りをしたい。これでギフト魔法を手に入れることができれば、お礼も言わなきゃいけないし。
 そのためには決してミスは許されない。
 美音はティガサウルスの攻撃を受けないよう、細心の注意を払いながら森まで誘導することに成功した。そして仕掛けてあった巨大トラップを発動させる。

「やったー! 捕獲に成功した!!」

 クエストクリア!
 seaportの協力があったとはいえ、美音にとって初めてのラスボス級巨大生物の捕獲成功だ。
 その後、ティガサウルスが生息していた洞窟の奥で、美音はついにギフト魔法を会得することに成功した。




エピローグ

「さあ、いよいよだ」

 白亜大戦へのログアウトとログインを繰り返し、裸の状態で森の淵に登場した美音は、すうっと一つ深呼吸する。
 素材も十分、試薬もある。そしてギフト魔法も会得したばかりだ。
 あとは魔法を詠唱するのみ。

「ギフト、フォレスト!」

 すると淵の水面がわずかに波立ち、白い湯気のようなものが立ち上がった。その気体は次第に渦を形成し、裸の女性アバターがその白き渦に飲み込まれていく。渦の動きが止まり、次第に空気が晴れてくると、インナー姿のアバターが現れた。

「やった! 成功だ。でも……」

 確かに、オリジナルなインナーの生成に成功した。
 が、その柄はモスグリーン一色。
 seaportのような縞々模様を期待していた美音は喜び半分、失望半分の複雑な気持ちに包まれる。

「なんで縞ぱんにならないの……?」

 その時だ。
 美音のアバターの隣りに、裸の女性が現れる。
 青いショートヘア。seaportだった。
 そして湊は魔法を唱える。

「ギフト、アクア!」

 すると先ほどの美音と同じく、湊のアバターは白い霧に包まれる。
 霧が晴れると、そこにはインナー姿のアバターが現れた。その色は美音と同様、スモーキーブルー一色。

「ほら、俺だって縞ぱんは造れないんだ、今の時間帯はね」

 今の時間帯?と美音は不思議に思う。
 白亜大戦はの一日は、プレイ時間の三十分に相当する。つまり三十分プレイを続ければ、白亜大戦の朝から夜を体験できるということだ。
 美音がログインした時、白亜大戦の時間帯は夕方だった。

「白いインナーを造るためには、あるものが必要なんだ。白いぱんつに欠かせないものが」

 白いぱんつに必要なもの?
 それは一体何だろう?
 美音は月並みな答えを口にした。

「純白の木綿……とか?」
「違うよ」

 即座に否定する湊。
 そして答えを口にした。

「resonantさんも男だったらわかるだろ? パンチラは希望の光なんだ。潤沢な陽の光がぱんつの白い部分には必要なんだよ」
「いやいや、パンチラってちっとも希望の光じゃないし。ていうか、そもそも私女だし」
「えっ?」

 その時だ。
 世界に異変が起きた。
 轟音に驚いた二人が空を見上げると、巨大な隕石がまさに落下しようとしていたのだ。
 分離した小さな隕石が次々と地上に落下する。爆音と共に森の木々がなぎ倒され、あちこちで火の手が上がっていた。

「ヤバい、ログアウトするぞ」
「うん。その方が良さそうね」

 巨大隕石の落下。
 白亜紀の恐竜絶滅は、これが原因と考えられている。
 隕石落下の結果、地球表面は舞い上がった塵に覆われ、数年間は太陽光が透過しない闇の世界が続いたという。
 ゲームとしての白亜大戦も突然終了した。
 これは後で噂になったことだが、DLCの売上が思わしくなかったことで大幅な赤字となっており、運営側がゲームを強制終了させたらしい。
 このアクシデントが原因で、白亜大戦における美音の可愛らしいインナー作成は、永遠に不可能となった――



 十年後。
 まばゆい朝陽の中、洗濯物を干す美音に向かって息子が質問する。
「ねえ、ママ。なんでぼくのなまえは、はるとっていうの?」
「それはね、陽人はママとパパの希望の光だからだよ」
 息子は本当に可愛い。
 興味津々に質問してくるキラキラと光る瞳は、まるで宝石のようだ。
「じゃあなんで、ママはいつもしましまのぱんつをほしてるの?」
「それはね――」

 白亜大戦が強制終了した後、湊は美音と連絡をとり合うようになった。他のゲームをオンラインで一緒に遊んだり、時には二人で出掛けたり。
 そこで分かったのは、二人はよく似ているということ。白亜大戦で似たような装備を造っていた時から、美音は相性の良さをなんとなく感じていた。
 そして出会いから一年後、湊は美音にプレゼントしたのだ。
 白亜大戦で美音が造りたかった、念願のライトグリーンと白の縞ぱんを。

 美音は可愛い息子に微笑みながら、十年前の湊の言葉を思い出す。
「希望の光だからよ。パパが言うにはね」



 了



ミチル企画 2021-2022冬企画
テーマ:『イラストお題』

夏にあらわる少女2021年08月25日 19時03分35秒

第一話 夏にあらわる少女

 私の名前は大津菜摘(おおつ なつみ)。
 向葉高校という県立女子高に通う二年生。
 兄弟は一人、大学一年生の兄貴がいる。
 アコースティックギターをじゃんじゃか鳴らしてオリジナル曲を歌うのが趣味で、高校生の頃はそんな姿を動画にしてネットにアップしてたり。
 そんな兄貴もこの春に大学生になり、親に買ってもらったパソコンにすっかり夢中になってギターを弾かなくなってしまった。今までうるさいほど兄貴の部屋から歌が聞こえてきてたというのに。
 と思ったら、なんだか変な歌声が壁越しに聞こえてくる。

『夏になれば、君がひょっこり顔を出す〜』

 私にはおなじみのフレーズ、兄貴の代表曲(自称)『夏にあらわる少女』のサビの部分だ。
 が、声が全然違う。兄貴の声よりはるかにイケボって感じ?
 それにちょっと機械的な感じもするし……。
 てことは、まさか、これって……ボーカロイド!?
 私は慌ててスマホで兄貴の動画チャンネルを覗いてみる。

 ――ヤマモはボカロPになりました!

 マジか!?
 どこかで頭でも打ったのか?
 ちなみに『ヤマモ』というのは兄貴のハンドルネーム。本名の大津山想(おおつ やまも)から来ている、ってそのまま名前をカタカナにしただけなんだけどね。
 もう一つ解説しておくと、『ボカロP』というのは音声合成技術を用いたアプリケーション(ボーカロイド)を使って曲をプロデュース(P)する人たちのことだ。
 それにしてもボカロPになったというのは本当で本気みたい。
 その証拠に、今まで三十曲くらい投稿されていたオリジナル曲の弾き語り動画が、きれいさっぱり削除されていた。

 ――これから週一でアップしていくよ!

 いやいや、そんなに頑張んなくてもいいって。
 現在、視聴できるのは『夏にあらわる少女』の一曲のみ。
 今後は、今までのオリジナル曲をすべてボカロバージョンにして、毎週のようにアップしていくということなんだろう。そりゃまたご苦労なことで。
 試しに私は『夏にあらわる少女』を再生してみる。
 ボカロPなんて一朝一夕になれるはずがない。どんなにダサい編曲になったのか笑ってやろう、と思いながら広告をスキップさせ耳を澄ませていると――
「ええっ!?」
 流れてきたイントロに私は驚いた。
 今までのは昭和のバラードを彷彿とさせていたのに!
 アコースティックギターのみだったイントロは、ドラムが小粋にテンポを刻みキーボードがキャッチーなメロディを繰り返すアップテンポに変わっていたのだ。
「こ、これって、本当に『夏にあらわる少女』!?」
 あまりの変化に思わず動揺しちゃったよ。
 イントロが終わるとボーカロイドが歌詞を奏で始める。男性を基調とした声だ。
 それにしても意外とこの曲調に合っている。歌い方も想像していたより自然で、素人が調教したとは思えない。

「夏になれば、君がひょっこり顔を出す〜」

 気がつくと私は、サビの部分を一緒に歌っていた。
「やるじゃん、兄貴!」
 これって意外と人気が出るかもよ?
 来週から順にアップされる曲も楽しみになってくる。
 それならば再生回数もこまめにチェックしておかなくちゃ。だって広告収入に直結する数字だからね。親にチクると脅して、ちょっとだけ分け前をもらっちゃったりして。
 そもそも親に買ってもらったパソコンで小遣い稼ぎってズルくない? 金が入るならパソコン代も払ってことだよね。まあ、ボーカロイドはバイト代で買ったのかもしれないけど。

 しかしその二ヶ月後、まさか兄貴の曲が自分のクラスで流れることになるとは、この時の私は思ってもみなかった。





第二話 風をおこす少女

 私の名前は東野風香(ひがしの ふうか)。
 県立向葉高校ってとこに通ってる高二の女子高生なんだけど、二ヶ月くらい前に面白いものを見つけたんだ。
 それはヤマモというボカロPの動画チャンネル。
 アップされてる曲はまだ十曲くらいで、歌詞がちょっと古臭いんだけど曲調がアップテンポで歌いやすい。そして妙に頭に残るんだよね、不思議なんだけど。
 特に気に入っているが『夏にあらわる少女』。
 いやいや、タイトルからして古臭いよね。
 でもね、気がつくとサビのところを口ずさんでる。

『夏になれば、君がひょっこり顔を出す〜』

 これって他人に聞かれたら恥ずかしくない?
 でもやっぱり、気がつくと口から出ちゃってる。
 私の感性がおかしいのかな? それとも実は隠れた名曲だったりする?
 それを調べてみたくなって、私はこっそりクラスで流してみることにしたんだ。

 今ね、クラスでは学園祭の準備の真っ盛り。
 一ヶ月後の七月初旬の開催を目指して、有志が放課後に残ってコツコツと装飾を造ってる。
 その時にね、BGMとしてさりげなく流してみるの。
 ヤマモの曲ばかりにしちゃうとファンだって疑われちゃうから、それはやめておく。他のボカロPの曲も混ぜて、ヤマモ率は二十パーセントくらいにしておくの。もちろん他のボカロPの曲は、有名ではない当たり障りのないものを選んでおいた。

 そして私はこっそり作戦を実行する。
 それがきっかけで大変なことが起こるとは知らずに……





第三話 火がついた少女

 私の名前は南田朱莉(みなみだ あかり)。県立向葉高校の二年生。
 今日は学校ですごいことがあった。
 だって運命の曲に出会っちゃったんだもん。
 その曲は、放課後に学園祭の準備をしてた時に流れてきたんだ。

『夏になると、君がひょっこり顔を出す〜』

 うわっ、ダサって思ったよ。最初はね。
 でも不思議なの。何度もこのサビのフレーズを聴いていると、つい口ずさみたくなってくる。
 きっとアップテンポな曲調が合ってるんだよ。歌詞も何気に覚えやすい。
 だから私は、この曲を持ってきた子に尋ねてみたんだ。

「風香ちゃん、この曲、なんていうの?」
 私が声を掛けたのは南野風香っていうクラスメート。
 吹奏楽部で確かフルートを吹いてるって言ってたっけ。
 すると彼女は一瞬ビクッとした後、必死に冷静さを保とうとしながら私を振り返った。
「え、えっと、い、今私のスマホから流れているこの曲……のこと?」
「そうだけど? 他に曲なんて流れてないじゃん」
 しばらく机の上で音楽を奏でるスマホを見つめていた彼女は、もじもじしながら打ち明けたんだ。
「えっとね、この曲ね、『夏にあらわる少女』っていうの。ヤマモっていうボカロPの」

 うわっ、ダッサって思ったよ。今日二回目。
 夏にあらわるだよ、あらわる。
 でもなんかこの歌詞にぴったりの曲名だと思ったんだ。

「ねえ、朱莉ちゃん? もしかしてこの曲、気に入っちゃった?」
「えっ? い、いや……」
 突然、質問を返されて不覚にも私は言葉を詰まらせる。
 クラスのみんなの前でこんなダサい曲を「気に入った」なんて、そんなホントのこと口が裂けても言えそうにない。
 何か、自分を正当化させる理由を見つけなくては……。

「ほ、ほら、私たちが小学生の頃の紅白で、少林辛子って演歌歌手が初目ニクの千木桜を歌ってたことがあったじゃない。それの逆バージョンのような感じがして、なんか面白いなって……」

 ちゃんと理由になっていたかどうかは分からないけど、風香ちゃんは私の表情を伺いながらふーんと鼻を鳴らした。
「それって、どういうこと? 初目ニクが少林辛子の持ち歌を歌ってるような感じってこと?」
「そうそう、それ!」
 少林辛子がどんな曲を歌ってたかなんて知らないけどね。
「だから私もちょっと聴いてみたくなっちゃって……」
「へぇ……」
 すると風香ちゃんは私の耳元でそっとささやいたんだ。
「実はね、私もこの曲気に入ってるの。だからクラスの反応を見てみたかったんだけど、やっぱり隠れた名曲かもしれないよね?」
 そう言われてなんだか嬉しくなっちゃった。自分の感性はやっぱり正しかったんじゃないかって。この曲が気になったのは自分だけではなかった。
 私はちょっと照れながら、「かもね」と小さく相槌を打つ。

 よし、覚えたぞ。
 ヤマモPの『夏にあらわる少女』。
 家に着いた私は自室に閉じこもり、早速スマホで『ヤマモP』を検索してみる。
 出てきた動画チャンネルには、十曲くらいが投稿されている。それらを順に聴きながら、私は再び衝撃を受けたのだ。
「どの曲もなんかダサいけど、歌いやすくてイイ!」

 ――だったらやるしかない!

 実はね、私、歌ってみた動画を載せてるチャンネルを持ってるんだ。
 合唱部で鍛えられてて歌声にはちょっと自信があるから。
 だからヤマモPの曲を歌って、私の『ホムラチャンネル』に動画をアップしてみた。
 だって、ヤマモPのチャンネルには「イラストやイメージ動画、みんなの歌声も大歓迎!」って書いてあるんだもん。

 こうして私は一日一曲ずつ、『ホムラチャンネル』に歌ってみた動画を投稿していく。
 ヤマモチャンネルのボーカルオフバージョンを自室で流し、それに合わせて歌っている動画を自分で撮影して。
 ちょと恥ずかしいから、顔は分からないようにしているけどね。
 そんな行動が、一人のヤマモPのファンの怒りを買ってしまうとは知らずに……





第四話 水をかける少女

 私の名前は西川瑞希(にしかわ みずき)。県立向葉高校の二年生。
 最近、私を怒らせているものがある。
 それは、大好きなヤマモチャンネルに毎日のように投稿されるコメントだ。
 コメントの書き込みは、一週間前から始まった。
 最初のコメントはこんな内容だった。
 
『ヤマモPさんの『夏にあらわる少女』を歌ってみました。もしよかったら聴きに来て下さい』

 ご丁寧にリンクが貼ってある。
 なになに? ホムラチャンネルだって?
 そんなの絶対見に行ってやるもんかと思ったよ、最初は。
 でも、ヤマモさんが「歌ってもらえて嬉しいです」とか「素敵な歌声ですね」とか丁寧に返信してるんだもん。どうしても気になっちゃう。
 挙句の果てにはヤマモさん、『ホムラさんが歌った『夏にあらわる少女』にハモってみた』なんて動画を投稿しちゃった。
 これにはさすがに困惑したよ。
 二つの矛盾した思いが、私の頭の中でグルグルと回り出したから。
 ――久しぶりにヤマモさんの歌声が聴ける。でも、ホムラってやつの歌声は聴きたくない。
 散々迷った挙句、ついに私はその動画を再生したんだ。だってヤマモさんの歌声が聴きたくてしょうがなかったんだもん。ヤマモさんがボカロPになってから昔の動画はすべて削除されちゃって、彼の歌声が聴けなくなってもう二か月が過ぎようとしている。
 
『夏になると、君がひょっこり顔を出す〜』

 おおおおおお、ヤマモさんが歌ってる。ヤマモさんの歌声だよぉ!
 ハモリの部分だけなのは残念だけど。
 それにしても鬱陶しいのは、サビの部分を楽しそうに歌うホムラって女の歌声。
 彼女の歌を邪魔しないようヤマモさんが遠慮がちにハモっているのも、なんだか釈然としない。元々はヤマモさんの曲でしょ?
「ヤマモさん、優しすぎだよ……」
 でもこの時、私はピンと来たんだ。
 この女の声って……どこかで聞いたことが……ある。
「ま、まさか!?」
 私の脳裏に蘇ってきたのは、あるクラスメートの声だった。
 ――南田朱莉(みなみだ あかり)。
 それは一週間くらい前のことだった。
 風香が学園祭の準備にあわせて『夏にあらわる少女』を放課後の教室で流してた時、サビのフレーズに合わせて口ずさんでる子がいたっけ。
 その声にそっくりだ。
 ヤマモさんの曲を流すという風香の行為にもびっくりしたけど、まさか歌い始める人が出現するなんて予想外で二度びっくりした。だから彼女の歌声を覚えていたんだ。名前も確か南田朱莉だったと思う。あまりしゃべったことはないけど。
「ならば、行動あるのみね」
 ホムラの正体が南田朱莉であることを確信した私は、早速行動に移すことにした。

「ねえ、菜摘。ちょっとお願いがあるんだけど、お昼は一緒に中庭で食べない?」
 翌日、私は一人のクラスメートを昼休みに誘う。
 彼女の名前は大津菜摘。中学から一緒の親友だ。
「どうしたの、瑞希? 教室じゃ話せないこと?」
 神妙を装う私の表情から事情を察してくれる菜摘。さすがは我が友。
「うん。まあ、ちょっとね……」
「なんか訳アリみたいね。分かったわ」
 こうして昼休みになると、私は中庭で彼女に悩みを打ち明けた。
「実はね、話したいことってヤマモさんのことなんだ」
 菜摘はただのクラスメートじゃない。だって彼女は――
「えっ? 相談って兄貴のことなの?」
 ヤマモさんの実の妹なんだから。

 中学校入学に合わせて隣の県から引っ越してきた私に、最初に声を掛けてくれたのが菜摘だった。
 ほら、中学校って小学校からの同窓生が沢山いるから、クラスで孤独を味わうことってあまりないじゃない? 普通は。
 だけど私は一人ぼっち。小学生の同窓生は誰もいない。
 だから菜摘が声を掛けてくれた時は、本当に嬉しかった。そして二人はすぐに仲良くなり、何でも話せる間柄になる。
「実はね、三年生に兄貴がいるの」
 菜摘にお兄さんがいることも、すぐに教えてもらった。
 私は一人っ子だったから、とてもうらやましく感じたのを覚えている。
「兄貴のやつ、高校に行ったら急にギター弾き始めちゃってさ」
 中二になっても同じクラスだったから、ヤマモさんが歌い始めたこともリアルタイムで聞いていたんだ。
「自分で作った曲をネットに投稿してんの。将来はこれでメシを食うんだって、笑っちゃうよね」
 でも、それってすごいじゃない?
 だって自分で曲を作って、それをギターで歌って動画サイトに投稿してるんだよ。
 興味を持った私は、菜摘にチャンネル名を教えてもらったんだ。
 ――ヤマモチャンネル。
 しかし中学生の私には、それを視聴する手段がなかった。
 私は知恵を絞り、母にお願いして父のタブレットを借りる。宿題の調べものに使うからと嘘ついて。
 部屋に籠り、慣れないタブレットを必死に操作する。あの時はすごくドキドキしたなぁ。やっとのことでチャンネルにたどり着くと、投稿されているのは一曲だけだった。タイトルは『夏にあらわる少女』。
 なんか今っぽくないなぁと思ったんだけど、動画を再生してみてビビビって来たんだ。
「この声、なんかいい……」
 これって一目惚れ、いや一耳惚れ?
 この時、私は心に誓う。
 ――私がファン一号になってあげる。
 コメントを投稿するのは、恥ずかしくてできなかったけど。
 それからは、ヤマモチャンネルを視聴するが私の楽しみになったんだ。
 月に一曲くらいという投稿のペースも、私には有り難かった。だって親から毎日のようにタブレットを借りることは不可能だったから。
 高校受験の時は、菜摘に「一緒に勉強しよう」と持ちかけて彼女の家にお邪魔したことも何回かあった。もちろん勉強が主目的だが、ヤマモさんの声を聴きたいという下心もあった。でもその時にはっきりと認識したんだ。普段の声と歌声は全く別物なんだって。私が好きなのはヤマモさんの歌声なのだ――と。
 菜摘と一緒に県立向葉高校に合格し、スマホを買ってもらった時は嬉しかったなぁ。これで毎日ヤマモチャンネルを視聴することができる。その頃には投稿されている曲は十五曲くらいに増えていた。
 どれもこれも大好きな曲だ。だって素敵な歌声が聴けるんだもん。
 それなのに……。
 私達が高二になって、ヤマモさんが大学に入ったと思ったら、いきなりボカロPになっちゃって。
 そんでもって、今までの動画を全部消しちゃうなんてあんまりじゃない?
 私はヤマモさんの歌声が聴きたいのに。
 水を構成する水素と酸素のように、私の生活とは切っても切り離せない存在になっているというのに。
 ボカロが歌う『夏にあらわる少女』なんて、本当の『夏にあらわる少女』じゃないんだよ。

「ねえ、菜摘。一週間くらい前にさ、風香が放課後の教室で流してたじゃない。ボカロ版の『夏にあらわる少女』を」
 中庭で弁当を食べながら、私は菜摘に事のいきさつを話し始める。
「ああ、そんなことあったね。あれはドキッとしたよ、まさか兄貴の曲が教室で流れるなんて思いもしなかったから」
「私も。心臓が止まるかと思った」
「それにしても世の中には物好きもいるよね、あの『夏にあらわる少女』をBGMに使うなんてさ」
「いやいや菜摘、『夏にあらわる少女』は名曲だよ。ボカロ版なんかよりも、ヤマモさんの歌声の方が一億倍イイけどね」
 鼻息を荒くする私に、やれやれという顔をする菜摘。
「そんで? 風香があの曲を流したことと兄貴となんか関係あるの?」
「風香のこととはあんまり関係ないんだけど、あの出来事をきっかけにヤマモチャンネルに変なコメントが書き込まれるようになったの」
「変なコメント?」
「まあ、一種のファンコメントなんだけどね」
 すると菜摘は、すべてを把握したと言わんばかりの笑みを浮かべた。
「瑞希は兄貴の曲にぞっこんだからなぁ。きっと兄貴がそのコメントに鼻の下をだらしなく伸ばしちゃって、激しく嫉妬しちゃったんでしょ?」
 びっくりしたよ。言い方は悪いが、まさにその通りだったから。
「まいったなぁ、菜摘には何でもお見通しってわけね。ところで菜摘はそのコメント、見てないの?」
「ゴメン。兄貴のチャンネルで見てるのは、再生数と投稿されてる曲数だけなんだ。コメントなんて全く興味なし。そんで? どんなことが書かれてんの?」

 私は菜摘に説明する。
 ヤマモPの曲を勝手に歌って、それを自身のチャンネルに投稿している女がいること。
 その女のコメントにヤマモさんが丁寧に返答していて、あまりいい気がしないこと。
 そしてその女の正体は、歌声から推測するに同じクラスの南田朱莉かもしれないこと。

「朱莉か……。あの子ならやりそうね、だって合唱部だもん」
「へえ、彼女って合唱部だったんだ」
「そうよ。それで? 本人に直接言うのもアレだから私に何かしろと?」
「分かってるのなら話が早いわ。ヤマモさんにお願いして欲しいの。新曲を投稿するのをしばらく止めて欲しいって」
「ふーん。火を消すなら元からって作戦ね。ていうか、そんなに嫌なの?」
「嫌、嫌、すんごく嫌。だからこの通り。一生のお願いだから……」
 私は菜摘の前で手を合わせる。真剣に彼女の目を見つめながら。
「わかったわ……」
 根負けした菜摘は、しぶしぶ承知してくれた。

 菜摘にお願いした甲斐があったのか、今週のヤマモチャンネルには新曲が投稿されなかった。
 新規投稿がなければ、当然ホムラからコメントが寄せられることもない。
「ふん。ざまぁみろだ」
 私は一人ほくそ笑む。
 ヤマモさんも普通の人で良かった。だって、得体のしれないホムラという女からのコメントよりも、可愛い妹からのお願いを優先してくれたってことだから。
 が、ほっとしたのも束の間、ホムラは予想もしない行動に出たのだ。

『今度は『夏にあらわる少女』をピアノの音色でしっとり歌ってみました。聴きに来て下さいね』

 なに? 新曲を歌えないなら旧作を蹂躙しようって魂胆?
 それにピアノでしっとりってどういうこと? あの曲は元々ギターでしっとり歌われていた曲なんだよ。ホムラみたいなにわかファンがオリジナルに近づけるはずがない。
 当然、私は無視していた。が、事態はすぐに無視できない展開に発展する。というのも以前と同様に、ヤマモさんが彼女のコメントに反応してしまったのだ。

『ホムラさんが歌うしっとり版『夏にあらわる少女』にハモってみました』

「不覚だった……」
 私は作戦の失敗を痛感する。
 菜摘には「新曲の投稿停止」しかお願いしていなかった。旧作を狙い撃ちしたホムラの戦略には全く無力だったのだ。
 そして前回と同じく激しく逡巡した後、私はそのしっとり版ハモリ動画を聴いてしまう。

「これって……、昔の『夏にあらわる少女』と同じだ……」

 ホムラのピアノの弾き語りに合わせて、ヤマモさんが素敵な歌声を優しく重ねている。
 ボカロ版『夏にあらわる少女』しか知らない人が聴けば、味わいのある素敵なアレンジと感じるだろう。
 でも、これが本当の『夏にあらわる少女』なのだ。
 ギター弾き語り版は、古臭くもあったがゆっくりと心に響く豊かさがあった。
 不覚にも私は、ポロポロと涙をこぼしてしまう。
 懐かしい弾き語り版に再び出会えた嬉しさ半分、見知らぬ女に大好きな『夏にあらわる少女』を乗っ取られたような悔しさ半分。
 いや、半分じゃない、この涙の九割が悔しさだ。
 この時私は実感する。
 ホムラの動画に許せる部分があったのは、それがボカロバージョンだったからということに。
 ――ふん、にわかファンめ。昔はすべてギター弾き語りだったの、知らないんだから。
 そんな風に見下せる余裕が、私の怒りを沸騰前のレベルで留めてくれていた。
 しかしこのしっとり版は許せない。
 これ以上、彼女の暴挙を許してはいけない。私の心の中の大切な部分に、土足で踏み込んで来るような厚かましい行為を。
 だから私は放課後の教室で、ついに南田朱莉に掴みかかっていた。

「ちょ、ちょっと西川さん、どうしたの?」
 嫌がる表情の奥に、自分は悪くないのに何でこんなことをされなくちゃいけないのと開き直る南田朱莉の瞳。私の怒りは爆発した。
「あなたがホムラなんでしょ!?」
 彼女の表情がさっと変わる。まるで血の気が失せたように。
 刹那、不敵な笑みを浮かべたかと思うと挑戦的な言葉を吐いてきた。
「だったら何? 私、なんにも悪いことしてないんだけど」
 ついに正体を明かしたわね。
 そのふてぶてしさが害悪だってこと、思い知らせてやるんだから。
「ヤマモさんは迷惑してんの。あんたの行為やコメントに」
 すると彼女は即座に言い返してきた。
「あなたこそちゃんとコメント見てる? ヤマモPは歓迎してくれてるのよ。その証拠にハモってみた動画まで作ってくれるんだから。私のために、ね」
 確かに南田朱莉の言う通りかもしれない。
 冷静に状況を客観視している人なら、多くが彼女の肩を持つシーンだろう。
 だけど、最後のひとことが私にとって地雷だった。
 ――私のために。
 勝ち誇ったような南田朱莉の瞳。私のことをまるで負け犬のように見下す言葉が許せなかった。
 彼女はさらに畳みかける。
「それに何で西川さんがヤマモPの気持ちを知ってんの? 「ヤマモさん」なんて親しみを込めて呼んじゃってるけど、あなただって赤の他人でしょ!?」
 赤の他人だって?
 私は中学生の頃からヤマモさんの曲を知っている。親から借りたタブレットでドキドキしながら曲を聴いた日々。そんな想い出を踏みつけられたような気がした私は、ついに口走ってしまう。クラスメートが残る教室で。
「聞いたのよ、菜摘に!」
 皆の注目が菜摘に集まる。その時の彼女の表情が忘れられない。
 真っ赤な顔で、黙ってと言わんばかりに人差し指を口の前にかざす彼女の必死の形相を。
 でも走り出した私は止まることができなかった。
「菜摘はヤマモさんの妹なんだから!」
「えっ……?」
 ざわざわと放課後の教室は驚きに包まれた。





第五話 土にいのる少女

 私の名前は北山晶子(きたやま あきこ)。県立向葉高校の二年生。
 今日の放課後、教室で大変なことがあった。
 西川瑞希さんと南田朱莉さんが言い争いになっちゃって、最後に瑞希さんが叫んだの。
「菜摘はヤマモさんの妹なんだから!」と。

 ヤマモさん。
 彼が作った名曲『夏にあらわる少女』。
 最近の教室では不思議なことが起きている。
 数週間くらい前に、東野風香さんがこの曲を教室で流して。
 今日は、西川瑞希さんと南田朱莉さんが言い争いになって。
 そしたら、南田朱莉さんがホムラさんだってことが明らかになった。ホムラチャンネルで『夏にあらわる少女』の見事なピアノ弾き語り動画を披露していた女性は、実はクラスメートだったのだ。
 そして究極の驚きは、大津菜摘さんがヤマモさんの妹という事実。

 私は『夏にあらわる少女』を知っている。
 だって、お兄ちゃんの大好きな曲だから。
『夏になると、君がひょっこり顔を出す〜』
 いつもこのフレーズを口ずさんでいたお兄ちゃん。
 優しくて山が大好きだったお兄ちゃん。
 そんな想いが溢れそうになって、私はとっさに行動していたんだ。
「大津菜摘さん! あなたがヤマモさんの妹さんというのは、本当のことなのでしょうか!?」
 西川瑞希さんと南田朱莉さんの言い争いを遮るように。
 気が付くと、私は大津菜摘さんの席の前に立っていた。
「バレちゃったらしょうがないわね。その話はホントよ。大津山想は私の兄貴」
 席に座る菜摘さんは、組んだ両手の上に顎を乗せたまま私のことを見上げた。
「だったらお願いがあります!」
 私は中腰になって彼女の両手を握る。
「ヤマモさんにお願いして欲しいのです。私と一緒に山に登って、『夏にあらわる少女』を歌って欲しいって」
 すると菜摘さんは目をパチパチさせた。
「ちょ、ちょっと、話がよく見えないんだけど。山に? 一緒に登る? それを兄貴に頼んで欲しいってこと?」
「そうです。一生のお願いです!」
 私は菜摘さんの瞳を見つめる視線に心を込める。
 根負けした彼女は、小さく微笑んでくれた。
「わかったわ……。でも、なんで? 理由が分からなくちゃ、兄貴を説得できない」
 彼女の疑問は当たり前だろう。私は丁寧に説明する必要がある。
「それはですね――」
 私はゆっくりと、事のいきさつを語り始めた。

「去年の夏のことなんです。私のお兄ちゃんは、登山で訪れた山で行方不明になってしまって……」
 その瞬間、ざわついていた教室が急に静かになる。
 行方不明――そんな物騒な言葉に、多くの人が聞き耳を立て始めた。
 でも私は話を止めない。それどころか多くのクラスメートに聞いてもらいたいと思っている。
 だってヤマモさんのことで、皆が言い争い合って欲しくないから。
「今でもお兄ちゃんは家に戻って来ません。家族はもう諦めました。だったらせめて、一周忌となる今年の夏に、消息を絶った山でお兄ちゃんの好きだった『夏にあらわる少女』を聴かせてあげたいのです」
 私はクラスメート全員に聞こえるよう、声のトーンを少し上げた。

「そのきっかけを作ってくれたのは東野風香さんでした」
 私は姿勢を正し、風香さんを向く。
「私のお兄ちゃんはヤマモさんの『夏にあらわる少女』が大好きで、いつもサビの部分を口ずさんでいました。だからこの曲が教室で流れた時、お兄ちゃんのことを思い出して私、泣きそうになったんです」
 風香さんはうっすらと目に涙を溜めている。
 私もちょっと泣いちゃいそうだけど、去年散々泣いたからさすがに涙は出て来ない。
「その時気づきました。お兄ちゃんのことを強く思い出させてくれるのは、この曲なんだと」

 次に私は南田朱莉さんを向く。
「朱莉さん、私はびっくりしました。ホムラさんが朱莉さんだったなんて知らなかったから」
 朱莉さんは私と目を合わせようとはせず、首を垂れていた。
「私、ホムラさんの『夏にあらわる少女』のピアノ弾き語りに感動したんです。あれは素晴らしかった。ボカロPになったヤマモさんには悪いんですけど、『夏にあらわる少女』は肉声でゆっくり歌うのが一番心に響くと気づいたんです」
 はっとした表情で顔を上げてくれた朱莉さん。彼女も感極まった瞳をしている。
「一周忌となる今年の夏は、私たち家族や親戚だけで山に登って、ヤマモチャンネルの『夏にあらわる少女』を流そうと考えていました。でも、それじゃダメなんだって、お兄ちゃんの魂に届けてあげたいのは肉声の『夏にあらわる少女』なんだって。それを教えてくれたのが朱莉さんだったんです」

 最後に私は西川瑞希さんを向いた。
「でも私にはヤマモさんと連絡を取る手段がない。ヤマモチャンネルにコメントを投稿しようかと思ったんですけど、こんな重い話を受けてもらえるかどうか自信がなかった。そんな時瑞希さんが、菜摘さんのことを教えてくれた」
 瑞希さんは苦虫を嚙み潰したような、それでいて少しほっとしたような複雑な表情をしている。
 きっと、菜摘さんの秘密をクラスにばらしてしまったことを後悔していたのだろう。
「皆さんはヤマモさんの『夏にあらわる少女』が好きなんです。だから喧嘩をして欲しくない。お兄ちゃんだって同じことを言うと思います。この曲は、楽しい時に歌う曲なんだって」

 私はクラスに向けて訴える。
 もし他に『夏にあらわる少女』が気に入った人がいるなら、一緒に山に登って歌って欲しいと。
 たとえヤマモさんが一緒に登ってくれなくても、皆が歌ってくれるならきっとお兄ちゃんも喜んでくれるんじゃないかと。
 その願いが皆の心に届いたのか、夏休みに入ったすぐの平日に、有志で慰霊の登山を行うことになったのだ。





最終話 夏にうたう青年

 俺の名前は大津山想(おおつ やまも)。
 地元の向葉大学に通う一年生だ。
 今、俺たちは特急列車に揺られて長野県に向かっている。二泊三日で山に登るために。
 えっ? さすがは『山想』の名にふさわしい行動だって?
 いやいや俺はボカロPで、決して登山愛好家なんかじゃない。
 山に登ることになったのは、二週間前に妹に懇願されたからだ。

「ねえ、兄貴。夏休みになったら私と一緒に山に登ってくれない?」
 風呂上りの髪を乾かしながら、妹の菜摘がさらりと言った。
 菜摘は県立女子高に通う二年生。艶やかなパジャマ姿が最近めっきり色っぽくなった。
 ていうか登山? 完全インドア派の菜摘がいきなり何を言い出すんだ?
「なに、その鳩が豆鉄砲喰らったような顔は。頼まれたのよ、北山晶子ってクラスメートに」
「まだ話がよく見えないんだが」
「いいから。兄貴は私と一緒に登るの。晶子の他にもJKが三人も来るのよ。悪い話じゃないでしょ?」
 それだったら……。
 いやいや誤解しないでくれ。そんな軽い理由で引き受けたわけではない。
 妹の話を詳しく聞くと、俺が行かざるを得ない理由があったからだ。

 北山晶子という妹のクラスメート。彼女の兄は、昨年の夏に山で行方不明になってしまったという。
 彼が好きだったのは、俺の代表曲『夏にあらわる少女』。
 一周忌となる今年の夏に、彼が消息を絶った山で歌って欲しいということらしい。

 俺は最近ボカロPになったばかりだが、その原曲は高校時代にギター弾き語りで動画サイトに投稿していた。晶子さんの兄は、きっとその頃にファンになってくれたのだろう。
 なんでも彼は、普段から『夏にあらわる少女』を口ずさんでくれていたという。嬉しい限りだ。
 そういえば最近は、ホムラって女の子が俺の動画サイトにコメントを寄せてくれていたっけ。なかなか歌の上手い子で、俺の曲の歌ってみた動画を沢山投稿してくれていた。

「そうそう、兄貴。明日からの登山なんだけど、ホムラって子も来るわよ。彼女、実はクラスメートだったの」

 マジか!?
 それはすごい楽しみだ。
 俺が作った曲を歌ってくれているホムラさんに会えるなんて!
 なんだかドキドキしてきた。ネットで知り合った人と会うのは初めてだから。
「彼女と山でハモれたら最高だろうな……」
 俺は新調したザックや登山用の着替えをベッドの横に置き、眠れない夜を悶々としていた。


「ふあああぁぁぁ……」
「ちょっと兄貴、しゃんとしてよ。みんな兄貴に会うのを楽しみにしてるんだからさ」
 ザックを担ぎ、妹と一緒に駅に向かう。
 妹はハイカットのトレッキングシューズ、黒地のレギンスにカーキ色のキュロットを重ね穿きし、上は薄ピンクのパーカーを羽織っている。正に山ガールという出で立ちだ。
 妹のクラスメートとは駅で集合し、電車とバスを乗り継いで登山口まで行くことになっている。山麓で一泊し、明日はいよいよ登山だ。登頂後は山頂近くの山小屋に一泊し、三日目は夜遅くに帰宅する。
 駅に近づくと、それぞれ山ガールの恰好をした四人の女子高生が俺たちを待っていた。
「これが兄貴のヤマモです」
 ぶっきらぼうな妹の紹介に合わせて、俺は軽く頭を下げた。
「初めましてヤマモです。ボカロPやってます」
 顔を上げて四人の女の子を見渡す。その中の、特に色白の子に俺の心は激しく奪われた。
 ――うわっ、可愛い!
 まるで夏が導いてくれた奇跡のように。
 こんな感覚に捕らわれるのは小学生の時以来だった。
 しかもその色白の子は、感極まった表情で俺に近づいて来る。
「今日は本当にありがとうございます。私のお兄ちゃんのために来てくださって!」
 深く頭を下げてお辞儀をする色白の女の子。帽子から長く伸びる綺麗な黒髪が揺れている。
 ということは――この子が依頼主?
「彼女が依頼主の北山晶子さんよ」
 妹の菜摘が補足してくれた。
 ていうか妹も意地悪なやつだなぁ。こんなに可愛い子の依頼なら、二つ返事で引き受けてやったのに。彼女のお兄さんがどんな人だったかは分からないけど、彼女に満足してもらえる登山になればこちらも嬉しい。
 すると、晶子さんの隣にいたショートヘアの女の子が、待ち切れないという様子で声を掛けてきた。
「ヤマモさん、初めまして。私がホムラです」
 ハキハキとした声で。活動的な感じが伝わってくる。
 声の感じも確かにホムラさんだ。『夏にあらわる少女』のピアノ弾き語り版は本当に素晴らしかった。
「こちらこそ初めまして。ホムラさんとはなんだか初めてって感じがしませんね」
 挨拶しながら少し照れてしまう。
 ネットの世界にはオフ会というものがあるそうだが、そこでの出会いってこんな感じなのだろうか?
「彼女は南田朱莉さん。なんだかすでに親しそうだから説明は必要なさそうね。そしてこちらが東野風香さん」
 長身の女の子がペコリと挨拶をする。
「初めまして。私、吹奏楽部なんでフルート持ってきました」
 風香さんは彼女自身のザックを見た。そこには黒色の細長いケースが括りつけられている。
 あれってフルートなのか……。細長いからてっきりストックだと思ってた。
「そしてこちらが瑞希。私と中高一緒で家にも何回も遊びに来ているから、兄貴も会ったことあるんじゃない?」
 一番おとなしそうな女の子が軽く頭を下げた。
 言われてみれば、見たことのある顔かもしれない。
 ちょっと不機嫌な感じなのが気になるが……。

 こうして俺たち一行は特急列車に乗り込んだ。
 夏休みに入ったばかりの平日だから、自由席はガラガラだ。
 俺の隣にはホムラこと朱莉さんが陣取り、俺の曲についていろいろと話しかけてきた。
 彼女が言うには、ボカロ曲の中では俺の曲は特に歌いやすいんだそうだ。
 まあ、それは当たり前だろう。すべての曲は俺のギター弾き語りが元になってるんだから。
 歌詞も純粋で心に響くって? 聞こえはいいが、単純で語彙に乏しいって言われてるような気もする。高校生の頃の俺を殴ってやりたい。
 俺たちが楽しそうに会話すればするほど、隣の方から厳しい視線が向けられているような? 妹の隣に座っているのは瑞希さん……だっけ?
 それよりも俺は、最初に心を惹きつけられた晶子さんのことが気になっていた。
 だって、一目ぼれに近い感覚だったから。
 いや、小学生の頃に似たようなことがあった。
 俺の代表曲『夏にあらわる少女』は、実はその時の体験を歌ったものなのだ。

 小学生の頃、俺には奈角誠(なつの まこと)という親友がいた。
 が、小学生四年生になる時に、隣の県に引っ越してしまったのだ。
 夏になると、向葉市にある母方の実家に遊びにやってくる誠。俺は彼が戻ってくると、必ず遊びに行っていた。
 誠とはドロンコになって散々遊んだなぁ……。
 蝉取り、探検、魚釣り。汗まみれになった後、誠のばあちゃんが用意してくれる冷えたスイカに食らいつくのが楽しみだったんだ。
 その時にひょっこり顔を出す彼の妹。
 色白で、麦わら帽子がとても似合っていた。
 すごく可愛くて、俺は一目ぼれしてしまったんだ。
 ――夏にしか会えない女の子。
 しょうちゃんと呼ばれていた彼の妹が、『夏にあらわる少女』のモデルになっている。
 中学生になってからは誠には会えていない。高校に入学した頃はSNSでのやり取りがあったけど、大学受験で忙しくなってからはご無沙汰している。彼は今、元気にしているのだろうか?
 しょうちゃんだってもう高校生だと思うけど、今はどこにいるんだろう……。

 列車が長野県の駅に着くと、俺たちはバスに乗り換える。
 終点でバスを降りてしばらく林道を歩くと、今日の宿の山小屋が見えてきた。
 山小屋だから寝るのは皆一緒で、大部屋にごろ寝だ。風呂も入れないのが一般的な山小屋だが、林道に面した宿ということで水道やプロパンガスの設備があり、風呂に入ることができた。
 俺たちは早速風呂に入り、十八時に夕食を取る。十九時前のニュースで明日の天気を確認すると、幸い明日も快晴との予報だった。
 平日だから少ないとはいえ、大部屋には他の登山客もいる。いろいろとメンバー内で話してみたいこともあったが、俺たちはおとなしく寝ることにした。
 明日は朝早いし、山にも登らなくてはならない。
 いつもよりずいぶん早いが、二十一時には皆眠りに就いていた。

 二日目。
 肌寒さで目が覚める。
 それもそのはず、麓と言えども山小屋の標高はすでに千メートルを越えていた。玄関の温度計で確認すると、外気温は十五度しかない。連日三十度を越えている向葉市とは大違いだ。
 六時に朝食となり、食後にお昼のおにぎりを受け取る。
 さあ、これから登山開始だ。
 準備を済ませたメンバーが山小屋の前に揃うと、依頼主の晶子さんが説明を始めた。
「まず目指すのは、百名山の宇増路(うましろ)岳です。標高二千五百メートルで、コースタイムは四時間です。さあ、頑張って登りましょう!」
 うへっ、四時間だって!?
 現在、午前七時。ということは、宇増路岳に着いた時はすでに午後なのか……。
 それにしても晶子さんは可愛い。
 俺たち一行は道案内の晶子さんを先頭に、俺が最後尾で登山を開始した。日頃の運動不足がたたって結構つらかったが、ちらちらと見える先頭の晶子さんの横顔が励みになってなんとかついていくことができた。
 三十分登って五分休む、というルーティーンを何回も繰り返して、ようやく俺たちは宇増路岳の頂きに立つ。
「やっと着いたぁ~」
「すごい、めっちゃ眺めいい!」
「疲れが吹き飛ぶぅ~」
 そこは絶景が広がる世界だった。
 さすがは百名山。その名は伊達じゃない。
 俺たちは広い山頂に散らばる岩々にそれぞれ腰かけ、ゆっくりと眺めを楽しみながらお昼を食べる。
 食べ終わってお弁当を片づけていると、晶子さんが驚くべき事実を告げた。
「さて、これから二時間ほど稜線を歩いて山小屋まで行きます」
 えっ、ここが今日の最終地点じゃないの?
 近くに山小屋の屋根も見えているのに……。
 周囲を見回すと、妹をはじめ他の女の子たちも騙されたと言わんばかりの顔をしていた。
「みなさん、大丈夫ですよ。稜線歩きは眺めが良くて気持ちいいですから」
 歩いてみて分かったが、その言葉は半分本当で半分ウソだった。
 確かに稜線歩きは、天空の歩道を進んでいるような浮遊感を味わえて気持ちいい。宇増路岳から離れるにつれて登山者も減っていき、天空の世界を独占しているような気分になれる。眼下に広がる景色も、今までの疲れを忘れさせてくれた。
 が、意外とアップダウンがあって、地味に足にダメージを加えてくる。
 目的の狐火山荘に着いた時には、晶子さん以外は皆、膝に両手をついていた。
「親父さん、お世話になります!」
 晶子さんは山小屋に着くなり、扉を開けて大きな声で挨拶をする。
 すると山小屋の主人と思われる髭面で中年くらいの筋肉質の男性が、入口からぬうっと顔を出した。
「おお、しょうちゃん久しぶり。今日のお客はしょうちゃんたちだけだから、ゆっくりしていきな」
 親父さんは俺たちを見回しながら挨拶をすると、すぐに中に引っ込んだ。
 というか、しょうちゃん……って?
 今、確かに山小屋の親父さんは、晶子さんに向かって「しょうちゃん」と呼んでいた。
 気になった俺は、晶子さんに尋ねる。
「晶子さん、しょうちゃんって?」
「えっ? ああ、ここの親父さんには昨年大変お世話になって、それ以来親しくさせてもらってるんです。兄はこの山小屋を最後に消息を絶ってしまったので……」
「い、いや、そうじゃなくて、何で晶子さんが「しょうちゃん」って呼ばれてるのかって」
「ああ、そっちですか。ほら、晶子の「晶」って水晶の「晶」でしょ? だから母や親戚からは「しょうちゃん」って呼ばれてるんです。兄の捜索で皆で登って来た時に、親父さんにそれを聞かれてしまって……」
 ということは、もしかしたらもしかして……。
 一つの可能性に至った俺は、ある名前を呼んでいた。
「もしかして、奈角のしょうちゃん?」
 すると晶子さんは目を丸くした。
「何でその名前を知ってるんですか!? 懐かしいですね。奈角は父方の苗字です。私の高校入学と同時に両親が離婚して、母方の北山姓になりましたけど。今は母と一緒に祖父母の家に住んでます」
 そうか、そうだったのか……。
 やっとすべてが分かった。
 晶子さんを見たときに、強く心を惹かれた理由が。
 彼女は、俺が小学校の頃に一目ぼれした夏の間だけ会える少女その人だったのだ。
 つまり、晶子さんは『夏にあらわる少女』のモデルそのもの。
「じゃあ、行方不明になったのは誠なんだね。小学校の頃、俺と誠は親友だったんだよ」
 はっとした表情に変わる晶子さん。
 彼女も、夏の縁側で一緒にスイカを食べたことを思い出したに違いない。
「あの時のお兄ちゃんの友達が、ヤマモさんだったんですね……」
 晶子さんはボロボロと涙をこぼしていた。

 夕食を食べ終わり小屋の外に出ると、綺麗な夕焼け空が広がっていた。
 所々に尖ったピークを持つ山並みが周囲を囲み、森の木々に覆われる深い谷は漆黒の闇に包まれようとしている。
 人工的な明かりが一つも目に入らない自然そのものの風景に、皆が息を飲んでいた。
 ――きっと誠の魂もこの美しい景色を眺めているに違い。
 今がレクイエムのその時と、晶子さんは山小屋の主人に許可を申し出た。
「親父さん、ちょっとうるさくしますけど、いいですか?」
「いいよいいよ。今のところ宿泊客はしょうちゃんたちだけだから。ガンガンやっちゃって」
 それなら遠慮はいらないと、まず風香さんがフルートに唇を当てた。
 美しいフルートの音色が、『夏にあらわる少女』のイントロを奏で始める。ホムラさんのピアノ弾き語り版を参考にして、新たにアレンジしたイントロだ。
 そして俺の歌い出し。俺は大きく息を吸い、お腹に力を、息に心を込めて声を絞り出す。
 誠よ、どうして行方不明なんかになっちまったんだ? こんな綺麗な妹さんを残して。
 彼と遊んだ楽しかった日々が、走馬灯のように脳裏に蘇ってくる。
『夏になると、君がひょっこり顔を出す〜』
 サビの部分になると、俺は涙を堪えられなくなってしまった。
 菜摘と瑞希さん、そして晶子さんが主旋律に歌声を重ね、俺のかすれ声を包み込んでくれる。
 さらに朱莉さんのハモりが、この歌を美しく装飾してくれた。
 みんなありがとう。最高のハーモニーだよ。だからこの歌はきっと誠に届く。
 だって、誠が大好きで、いつも口ずさんでくれていた曲だから。
 誠と一緒にスイカを食べた妹のことが忘れられずに作った歌だから。
 その時だった。
 突然、山小屋の親父さんが血相を変えて外に飛び出して来たのだ。
 その歌について詳しく教えてくれ――と。

 翌日。
 朝食が終わると、俺たち一行は山小屋の親父さんの後について山道を歩いていた。地図には載っていない、山小屋の従業員しか知らない秘密の道を。
「親父さん、どれくらい歩くんですか?」
 晶子さんが訊くと、彼は「こんなの平坦道だよ」と言わんばかりの顔で答える。
「あと十分くらいかな。この道はね、万年雪の下に繋がってるんだ」
 山小屋の前には狐火池という小さな池がある。
 普段の生活用水はその水を使っているらしいが、著しい渇水や水質悪化に備えて雪解け水を確保できるよう、秘密のルートが小屋の裏側から繋がっているという。
 俺たちは今、その道を歩いていた。
「昨日の歌とその万年雪が、何か関係あるんですか?」
「まあいいから、ついてきな。現地を見てもらったら分かる」
 それ以降、親父さんは黙ってしまった。山男は無口無愛想を体現するかのように。
 道はいくつかの谷と尾根をトラバースし、いつのまにか目の前には大きな万年雪が広がっていた。
「あちこちで水が流れてるだろ?」
 親父さんが言う通り、辺りには色々な場所でちょろちょろと水が流れている。
「夏になるとな、ここは雪が溶けて岩肌が露わになるんだ。ほら、そこを見てみな」
 親父さんが指さす岩肌には、何か文字が刻まれていた。
 それは俺たちにはおなじみのフレーズ。

『夏になると、君がひょっこり顔を出す』

 晶子さんをはじめ、皆が息を飲む。
 すると親父さんが語り出した。
「昨日はびっくりしたよ。しょうちゃんたちがいきなり、ここに彫られた言葉を歌い始めるんだから」
 いやいや、びっくりしてるのは俺たちですよ。
 昨日歌ったフレーズがここに刻まれているというのは、一体どういうことなんだろう。
「これはな、今年ここに来て初めて発見したんだ」
 秋になると雪に覆われてしまう岩壁。ということは、この文字は昨年の夏に刻まれたということになる。
 ということは――
「昨晩、いろんな可能性を考えてみたんだが、しょうちゃんのお兄さんに何か深刻なトラブルが生じて、なんとかここまでたどり着いたんじゃないのかな? でもここはルートから外れていて普段は誰も来ない。だから力尽きる前にこのメッセージを残した……」
 普段から口ずさんでいたフレーズ。
 叫んでも誰も助けに来てくれない絶望感の中で、誠にとって勇気を与えてくれた言葉だったのかもしれない。
 だって、歌のモデルがしょうちゃんであることを、誠にだけは伝えていたのだから。
 俺がギターの弾き語りを始めた時、最初にこの歌を聴いてもらったのが誠だったのだから。
 このフレーズは俺たちだけが分かる秘密のメッセージ。もし彫り上げた後に偶然救助されたとしても、恥ずかしい思いをすることはない。そこに誠の生への執念をひしひしと感じてしまう。
「お兄ちゃん……」
 ボロボロと涙をこぼすしょうちゃん。
 他のみんなも泣いている。そう言う俺も涙が止まらなくなった。
 それでも誠のために歌ってやろうと、俺は一つ大きく息を吸った。



 了



ミチル企画 2021夏企画
テーマ:『夏×火風水土』

今こそ〇〇キャンプ!2021年05月21日 06時58分30秒

1.今こそ〇〇キャンプ

『凛太朗、ゴールデンウィークの前半、空けといて』
 そんな命令調のラインが届いたのは、四月も終盤になってからだった。
 送り主は角尾穂花(すみび ほのか)。小学校から高校まで一緒の腐れ縁だ。
 大学が別々になって、しばらく話す機会も無いまま「あいつ元気にやってるかな」とふと思った矢先のこと。天災は忘れた頃にやってくる。
『前半っていつだよ?』
 本当は「めんどくせぇ」って返したかったんだけどさ。
 大学も三年生になって、キャンパスライフを謳歌してるからそんな暇はねぇと叫びたいところだけど、コロナの影響で全く予定は入ってない。「いつだよ?」と訊いた時点で、すでに彼女に屈していたような気もする。
 ていうか、ゴールデンウィークって四月二十九日からだよな。それって――
『三日後からに決まってるじゃない』
 マジか。
 相変わらず容赦ねえ。

 俺に対しては遠慮なく物を言う穂花。
 まあ、小学校から一緒なんだから当たり前なのかもしれないが。
 容姿は――うん、可愛い方だ。幼馴染の俺が思いっきり下方修正して言うんだから、どんな感じかは察してくれ。
 高校卒業時の背は一六〇センチくらい、髪はショートでぽっちゃり型、顔の特徴は瞳がでかいことかな。
 大学デビューに成功して垢抜けたという噂も聞いているが、ホントかどうかは不明。月に一度くらい朝に見かけるが、化粧が日に日に上手くなっているから噂はホントなんだろう。
 そんな穂花が俺のスケジュールを押さえようというのだから、不覚にもちょっと期待してしまう自分がいる。

『で、何すんの?』
 デートのお誘いか?
 はたまた勉学に関する悩みとか?
 しかし穂花から返ってきたのは意外な用事だった。
『キャンプよ。キャンプ』
 ええっ、キャンプ?
 そういえばあいつ、地域文化なんとかってフィールド系の学科に進んだって親父さんが言ってたっけ。
 それとは別に、最近女子高生が一人でキャンプするアニメが流行ってるとかどうとか聞いたことがあるけど、まさかそのブームに乗っかろうってわけじゃねえだろうな。
『なんでキャンプ?』
 すると彼女は、驚きの理由を打ち明けた。
『買ったのよ。キャンプ用の山林をパパが』
 ええっ、山林を? 健介さんが?
 マジか!?
 それっていくらするんだよ。
『一人でキャンプする芸能人の動画ってあるじゃない』
 そういえば、そんな動画があるというのは聞いたことがある。
 自分で山林を購入して……って、それかよ。
『その動画にパパがはまって、買っちゃったのよ』
 うほっ、それは剛気なことで。
 値段は一千万? まさかの二千万?
『金持ちやな』
『それが意外と安いのよ。一千坪で五十万くらいらしい。都心から車で二時間もかかるけど』
 五十万!?
 山林ってそんなに安いのか?
『都市計画とやらで宅地に転用できないから安いってパパが言ってた。キャンプなら問題ないけどね』
 
 ――噂に聞くプライベートキャンプ。
 俺は想像する。
 他のキャンパーは誰もいない、ゴールデンウィークの静かな里山。
 焚き火をしても文句は言われないし、ハンモックだって吊るし放題。
 夜になると木々の間から降り注ぐ星の光を浴びながら、パチパチという焚火の音とドリップコーヒーの味と香りを楽しむ。そして鳥のさえずりで目覚めるテントの朝。
 それは俺が思い描いていた理想のキャンプスタイルだった。

『それってどこ? そこでキャンプするってこと? ていうか俺が行ってもいいの?』
 こんなに矢継ぎ早に訊いたらめっちゃ乗り気なのがバレバレじゃんと思いながら、俺は穂花の親父さんの顔を思い浮かべる。
 髭を生やしているけど、いつもニコニコしてる角尾健介(すみび けんすけ)さん。
 俺がキャンプに行ってもいいかどうかは当然、山林の持ち主である健介さんの許しが必要となるだろう。
 まあ、家も隣だし、子供の頃から家族同然だし、会ったらいつもちゃんと挨拶してるし、断られる要素を頭の中で数えてみたが何も見当たらない。
『さっきから車で二時間くらいのところでキャンプするって言ってるじゃん』
 というと北関東か?
 千葉や茨城という可能性もあるが。
『パパがね、凛太朗と行ってくればって提案してくれたの。どう? 空いてる?』
 それなら安心だ。土地所有者の承諾済みってことだから。
 俺の想像の中の焚き火の向こう側に、炎に照らされる穂花の顔が浮かび上がってきた。
 しゃべるとうるさい幼馴染だが、静かな森で黙ってコーヒーを楽しむなら理想の相手かもしれない。
『わかった。行くよ』
『サンキュ。道具はこっちで用意するから凛太朗は着替えだけ持って来てね』

 幼馴染と二人でキャンプ。
 しかもゴールデンウィークなのに周囲に誰もいないスペシャルな環境。
 そんな自由に満ちた土地で、自然に包まれた優雅な時間を満喫する。
 ――今こそプライベートキャンプ!
 心の中のもう一人の自分が叫び出しそうなのを堪え、三日後に味わうであろうさわやかな空気を想像して深呼吸する。
 そんな自分を殴ってやりたくなるような事態が起こるとは、この時の俺、巻羽凛太朗(まきわ りんたろう)は予想すらしていなかった。


2.今こそ〇〇カリ

 そして訪れた四月二十九日。ゴールデンウィークの初日である。
「おはようございます、おじさん、おばさん。ちょっと凛太朗を借りていきますね」
 俺んちの朝の玄関に、元気な穂花の声が響く。
 そんな彼女はばっちりノーメイク。しかも黒のタートルネックにサロペットデニムという完全牧場スタイルで、靴はハイカットのトレッキングシューズ、そしてベージュのニットカーディガンを羽織っている。高校卒業時とあまり変わらねえじゃねぇか。おい、大学デビューはどこ行った。
 まあ、メイクとキャンプというものはお互い最も離れた場所に位置するような気もする。女子が一人でキャンプする物語の主人公が高校生なのも、きっとそういうことなのだろう。
 俺はジーンズにアウトドアっぽい襟シャツとパーカーという出で立ちでスニーカーに足を通し、着替えが入ったバッグ一つを肩に掛けて穂花と一緒に玄関を出た。そして隣の家に向かって挨拶する。
「おはようございます、健介さん。今日はよろしくお願いします」
 健介さんはちょうど、車に荷物を積み込んでいるところだった。
 ていうか、何? この荷物の量。
 健介さん自慢のRV車は、後ろのスペースに荷物がぎっしり積まれていたのだ。
 ――まさか健介さんも一緒に?
 プライベートキャンプ場まで送ってくれるというからかなりの高待遇と喜んでいたのだが、そんなオチが用意されていたのかもしれない。
 ――まあ、誘ってもらってる立場としては贅沢言えないよな。
 ちょっとドキドキが減っちまったと残念に思いながら荷物の積み込みを手伝う。そして車の後部座席に乗り込んだ。

 角尾家と巻羽家に手を振って意気揚々と出発したRV車は、健介さんが運転し、穂花が助手席、俺が後部座席に座る。
 我が町を出るとすぐに高速道路に乗り、荷物が一杯で重そうな車体を健介さんがアクセル全開で加速させた。最初からずっと気になっているが、何だろう、この荷物の量は。俺の隣の後部座席にも、人が乗る余裕がないほど荷物が積まれていた。
 ――てっきり穂花と二人きりだと思っていたのに……。
 でもまあ、それは仕方がないことかもしれない。
 幼馴染で家も隣とはいえ、俺たちは若い男女。父親としては娘が心配でたまらないだろう。
 穂花と二人で焚き火を囲む脳内風景に、健介さんの髭面が加わる。俺なんてよりも、キャンプにマッチしそうな風貌をしているのが羨ましい。
 ――男同士で酒を酌み交わすのも悪くないかもな。
 そう自分に言い聞かせながら、とりあえず俺は訊いてみた。
「キャンプするのに、こんなに荷物が必要なんですか?」
 すると健介さんは驚くべき計画を打ち明ける。
「ああ、この荷物ね。だってこれは五泊分の荷物だからね」
 五泊分!?
 おいおい、そんなこと聞いてないぞ。
 たしか穂花は、二十九日から三泊って言ってたはず。
 すると穂花が補足してくれる。
「パパとママがね、ゴールデンウィーク後半の五月二日から同じ場所でキャンプするの。その荷物もあるのよ。私がそれに参加するかどうかは決めかねてるけど」
 そういうことなのか。
 まあ、そうだよな。もともとキャンプするために山林を買ったんだから、そこで他人だけが楽しむということはあり得ない。
 俺たちがキャンプする三泊分と、健介さんたちの二泊分。どうりで大荷物になるわけだ。
「だから申し訳ないんだけど、五月二日は家まで送ってあげられないんだ。最寄りの駅までになるけどいいかな?」
 健介さんが恐縮しながら、ミラー越しにチラリと視線を向ける。
 いやいやいやいや、そんなの全然構いませんって。
 穂花から帰りの電車賃を用意しとけって言われてたから、それは想定内。
 行きも送ってくれて、しかもプライベートキャンプ場という理想のシチュエーションを貸してくれるだけでも感謝しなくちゃ。
 それよりも穂花と二人っきりというドキドキシチュエーションの方が気になっていた俺は、「問題ないっスよ」とにこやかに恐縮した。

 車はずっと高速道路を走っていた。
 次第に周囲に森林が広がっていき、トンネルもいくつかくぐるようになってくる。
 そして出発から二時間後、インターを降りた車はやがて砂利道を走り始める。いよいよRV車の本領発揮だ。しばらくすると砂利道はわだちがえぐれた山道となり、車と一緒にガタガタと荷物が左右に揺れ始めた。その激しい揺れが十分くらい続いたところで車は停車する。道は行き止まりになっていた。
 こりゃ、人里からかなり来たぞ。
 土地が安いのもうなづける。その証拠に、スマホを見ると見事に圏外だった。
 まいったなと思いながら車を降りると、そこは雑木林が広がるなだらかな丘に挟まれた谷のような場所だった。伸びをすると空気が気持ちいい。名前の知らない鳥の泣き声が木々に反射していた。
「この一帯はうちの土地だから自由に使ってもらっていい。詳細は穂花に聞いてくれ。それでは荷物を降ろすぞ」
 そう言いながら、健介さんは焦るように車から荷物を降ろし始めた。まるで次の用事が迫っているかのように。
 俺はもっと詳しくこの場所についての説明を聞いてみたかったが、せっせと荷物を降ろす健介さんを放っておくわけにもいかない。三泊もするんだから、周囲を探索する時間はたっぷりあるし、健介さんに言われたように詳しくは穂花に聞けばいい。
 俺と穂花が手伝うと、すぐに車は空になった。
 すると健介さんは慌てて車に乗り込む。
「じゃあ、五月二日に来るから。凛太朗くん、穂花のことをよろしく」
 車を切り返した健介さんは、そんな台詞を残して走り去ってしまった。

 ――なんであんなに慌てて行ってしまったんだろう?
 疑問で頭を一杯にしながら、去りゆく車のテールランプを見送る。
 その答えは、すぐに穂花が示してくれた。
「さあ、やるわよ!」
 元気な声で、何かの始動を宣言したのだ。
 振り返ると、いつの間にか穂花は皮手袋に長靴と作業上着を着用し、ゴーグルとマスク姿になっている。そしてひときわ大きな荷物のジッパーを開けると、あるものを取り出した。
「今こそ草刈り。ファイト!」
 それは、エンジン付きの草刈機。
 言われてみて初めて認識したが、行き止まりの道の先に広がっていたのは草ぼうぼうの荒地だった。


3.今こそ〇〇ハラ

 やられた!
 最初からこれが目的だったんだ。
 どうりでうまい話ばかりだと思ったんだよ。着替えだけ持参すれば理想のプライベートキャンプが味わえるなんて。
 でもちょっと考えれば分かること。春になれば山林なんて草ぼうぼうになるに決まってるじゃないか。
 穂花が俺を誘い、健介さんが土地を使わせてくれる理由。それは角尾家のファミリーキャンプのお膳立てに汗を流して貢献せよという意味に違いない。
「ほらほら、早く作業しなくちゃ、夜になっちゃうわよ」
 そう言いながら、穂花は草刈機に燃料を注入している。それは農家のおじさんたちがよく使っている先端の金属製の歯がグルグルと回るタイプの草刈機だった。
 ――でも待てよ。これは草刈機を体験するチャンスかも?
 子供の頃、あれを使ってみたかったことを思い出す。
 やらされるんじゃない。自分からやるんだ。
 発想を転換せよ。ポジティブシンキングから物事は発展する。
「仕方ねえな、この草刈機、どうやって使うんだ?」
 俺なりに頑張った提案だった。心を前向きにして、快適なキャンプを過ごそうと協力的な態度を演出したつもりだった。が、その提案は穂花によって一蹴されたのだ。

「あんた、刈払機取扱作業者の資格、持ってんの?」

 なぬ? カリハライキトリアツカイサギョウシャノシカク?
 なんだそりゃ?
「この草刈機で業務するための資格よ」
 おいおい、それ使うのって資格がいるのかよ。
「ここみたいに自分の土地で使う分にはいらないんだけどね。結構危ない機械だから、使い方の講習も兼ねて資格を取ることが推奨されてるの」
 マジか。
 危ない機械ということは認めるが。
「そういう穂花は持ってんのかよ?」
「もちろん持ってるわ。ていうか、これを使うためにプライベートキャンプに来てるんだから」
 これを使うために?
 瞳をランランと輝かせながら語る穂花。
 いやいや、意味わからん。草刈りと言えば小学校の時から苦行の代表だろ?
 しかしその後の彼女の様子で理由が判明する。
 リコイルスターターを引っ張ってエンジンをかけ、暖気運転を始めた穂花は、「私から十五メートル以内には近づかないで」と俺に警告する。そして鼻歌混じりで草刈機のエンジンをブンブンとふかし、ギュィィィィンという切断音に合わせて叫び声を上げ始めたのだ。
「ったく、余計なこと言いやがって、あのデブ!」
 ええっ? 何だって?
 確かに高校卒業時から俺の体重は増えたが、女子にデブと言われるほどじゃないと思っている。
「教授だからってすべてのゼミ生が従うと思ってんじゃねえ」
 なんだよ、ゼミの話かよ。
 ていうか悪態ついてる相手は教授なのか?
「女だから一人ではフィールドに行けないって?」
 穂花は昔から野外が好きだからな。
 地域文化なんとかのゼミで教授になんか言われたんだろう。
「バカ言ってんじゃないよ。女だってな、フィールド調査はできんだよ」
 ヤバいよ、ヤバい。
 こりゃ、相当ストレスがたまってるわ。
「オラオラオラオラオララララァァァァァ!」
 こんな姿、絶対あいつの彼氏には見せられないぞ。いるかどうかは知らんけど。
 キャンプの相手が俺で本当に良かったよ。
 俺があっけにとられていると、その間に草刈は一段落する。
「ふぅ、すっきりした。やっぱ今こそウサハラだよね」
 満足そうに一息つく穂花。
 なんかそれって言葉の使い方、間違ってない? ただのウサ晴らしなのに、ウサギ使って人を困らせてるみたいに聞こえるから。
 テニスコート一面分くらいの草刈りを終えてた彼女は、満面の笑顔で草刈機のエンジンを止めたのだった。


4.今こそ〇〇ベッド

「じゃあ、刈った草をこの辺りに集めて」
 草刈機を地面に置いた穂花は、平地の真ん中あたりを指さしながら俺に命令する。
 俺は長靴やらが入ったプラスティックケースから軍手を取り出すと、草を鷲掴みにして運び始めた。草刈りをしてもらったんだから、これくらいはやらなくちゃという思いが俺を動かしている。
 久しぶりに至近距離で触れ合う自然。足を運ぶたびに草の匂いがする。うん、見事な雑草だ。
「集めてキャンプファイヤーでもやるのかよ」
 平地の真ん中に草を積み上げながら俺は訊いてみた。
「違うわ。ベッドにするの」
 ベッド?
 干し草じゃあるまいし、こんなものベッドになるのか?
 疑問に思いながらも俺は刈り取られた草をどんどん積み上げていく。
 一方穂花はその草を正方形に並べ始めた。俺がすべての草を集め終わった頃には、二か所に草の正方形が出来上がっていた。
「じゃあ、テントを張るわよ。この上に」
 そうか、ベッドというのはそういうことだったのか。
 確かにこの上にテントを張れば、ある程度ふかふか感を味わえるかもしれない。
「ていうか、二か所?」
 何気なく俺が訊くと、穂花はぽっと頬を赤らめた。
「当り前じゃない。あんたと同じテントで寝たら、何されるかわかんないし……」
 ちょっとうつむき加減に。
 それを聞いて、俺も急に恥ずかしくなる。
 不満げに「二か所?」と訊いた時点で、一つのテントで寝る気満々だったことを明かしているようなもんじゃねぇか。
「何もしねえよ」
 慌てて吐いた捨て台詞が何の効果も上げないほど、すごく気まずい。
 俺たちは必死にテントを組み立てるフリをして、早く時間が経過しないか、そればかり考えていた。

 テントの組み立ては、いい時間稼ぎになった。
 初めての経験だったので、骨組みをどうやって繋げたらいいのか、インナーをどうやって骨組みに固定すればいいのか考えているうちに、先程の気まずさを忘れることができた。
 お互い、それぞれのテントを組み立てる。
 ドーム型になったテントを雑草の上に置き、フライシートを張ってペグで地面に固定する。こうして二張のテントが完成した。
「どれどれ、寝心地はどんな感じだ?」
 早速中に入って寝転んでみる。テントの中は、大人が大の字になって寝られるくらいの広さがあった。
 ――今こそ雑草ベッド!
 と叫んでみたかったが、思ったよりはふかふかではない。それどころか、ゴツゴツした部分が背中に当たってしまう場所もある。寝る場所を選べば問題は無さそうだが。
 難しいもんだと入口から顔を出すと、穂花も納得いかないという表情で隣のテントから顔を出している。俺はなんだか可笑しくなった。

 就寝用のテントが完成したら、今度は荷物用のテントを二人で組み立てる。健介さんの車一杯に積まれていた荷物を入れておくテントだ。
 それは就寝用とは違い、背の高い大きなテントだった。広さは二畳分くらいもある。
「ここはトイレも兼ねてるからね」
 そう言いながら、穂花は段ボール型簡易トイレを組み立てた。形は洋式で、凝固剤を使って汚物を瞬時に固めてしまうタイプのトイレだった。
「あんたは外でやりなさい。どこでも自由に使っていいから」
 いやいや、俺も大はここでやらせてもらうぞ。小は知らんけど。
 簡易トイレをテントの奥に設置し、その横にどんどんと荷物を積み上げていく。
 プラスティックケースのような透明で中身が分かるものはいいが、大きな袋に入っているものは中身がわからず気になった。
 特に気になったのは一番大きな袋。一抱えほどもある。
 持ち上げてみると結構重い。十キロは超えているだろう。パイプやらの突起が体に当たって運びにくい。
「これは何だ?」
「ああ、それは折り畳み自転車よ」
 折り畳み自転車?
 一体何に使うんだ?
「町に出る時使うの。非常時の買い出しとか、お風呂に入りたい時とか」
 そっか、お風呂か。
 そんなこと考えもしなかった。
 言われてみれば結構重要なことじゃねえか。これから三泊もするんだから、その間お風呂に入れなかったら体は臭くなるし、髪もバキバキだろう。
「町にはね、日帰り温泉もあるのよ。あんたはそこの小川の水浴びで十分だけどね」
 なぬ、温泉!? そんなものが近くにあるのか。
 ていうか、穂花もいちいち突っかかるやつだな。ゴールデンウィークのこんな時期に小川で水浴びができるわけねえだろ? 夏なら快適かもしれんけど。
 それより俺は温泉という言葉に強く惹かれていた。プライベートキャンプに温泉が加わったら最強じゃねえか。それに町に出ればスマホも使えるだろう。
「自転車、後で俺も使わせてもらうからな」
 俺はベーっと穂花に向かって舌を出した。


5.今こそ〇〇水

「じゃあ、お昼ご飯の準備をしよっか」
 荷物の収納が終わると穂花が昼飯の提案する。腕時計を見ると、すでに十三時を過ぎていた。
 車に乗ってる時間が長かったからなぁ……。
 ここに来てからの労働が充実していたせいか、ギュウとお腹も鳴っている。
 元のカーディガン姿に着替えた穂花は、荷物テントに入ると中から二つのものを取り出して来た。ポリタンクと、何かが入った薄汚れたトートバッグだ。
「まずは水汲みか?」
「そんなところよ」
 トートバッグからは長い木製の柄が顔をのぞかせている。きっと柄杓だろう。これから川に行って水を汲むに違いない。
 すると穂花は予想外の行動に出た。小川の方ではなく、丘の方へ向かって歩き始めたのだ。
「ちょ、ちょっと。小川に行くんじゃないの?」
「まあ、黙ってついてきなさい」
 穂花は、丘の山際に沿って続く小道を進んでいく。周囲に雑草が茂り、かろうじて踏み跡が見えるくらいの道だ。一分くらい歩いただろうか。正面に高さ三メートルくらいの小さな崖が見えてきた。
「目的地はあそこよ」
 崖は岩肌が露になっていて、土の縞々模様が見えていた。これは地層と言うのだろう。
 それよりも驚いたのは、二メートルくらいの高さにあるその地層から水が流れ落ちていたのだ。水量は蛇口を少しひねったくらいの細さだったが、その下にポリタンクを置いておけば三十分もしないうちに水は一杯になるだろう。
「すごいでしょ!」
 自慢げに穂花が胸を張る。
「これって湧き水か?」
「そうよ。これでご飯を炊いたりコーヒーを淹れたらめっちゃ旨いんだから」
「本当か!?」
 おおおお、それは大歓迎だ。
 というか、湧き水があるなんて理想のプライベートキャンプ場じゃね?
「小川の水だって綺麗だからそこそこ美味しいと思うけど、こっちの方が絶対いいでしょ?」
 そりゃそうだ。
 小川から水を汲んだら、葉っぱとかプランクトンとかいろいろ入ってそうだしな。
 俺は湧き水に近づくと、手を伸ばして落ちてくる水流に触ってみる。
 冷たい。まさに湧き水だ。
 そして掌で水をすくって口に含んだ。
 うん、美味いぞ、これ。水道水とは全然違う。
 ――今こそ自然湧水!
 これから三泊分の食事とコーヒーが、俺はめちゃくちゃ楽しみになっていた。


6.今こそ〇〇燃料

 穂花がポリタンクを湧き水の下に置くと、ババババババと水がポリタンクを叩く音が周囲に響く。湧き出し口から距離があるので、さすがにすべての水がタンクの口から中に入るというわけにもいかなかった。どうやら漏斗は用意してないらしい。
「じゃあ、待っている間、凛太朗はこれをやってて」
 そう言いながら穂花は、地面に置いたトートバッグから飛び出している木の柄を掴んだ。
 取り出したのは柄杓――じゃなくて、小型のツルハシ。
「わかった。これで水を汲むよ、ってツルハシやないかい」
 てっきり柄杓だと思い込んでいた俺は、早速ボケてみる。
 しかし穂花の反応は冷たかった。
「誰がこれで水を汲めと言ったの? あんたがやるのはアレ」
 彼女が指示したのは小さな崖の端。そこには地表から五十センチくらいの高さに、真っ黒な地層が顔を出していた。
「あの黒い地層を掘って、このトートバッグに入れて来るのよ」
 なんだよ、せっかくボケてやったんだから、優しくツッコんでくれたっていいじゃないか。
 全く人使いが荒いんだからと、不満を露わにしながらツルハシを受け取り、トートバッグを持って崖に近づく。そして彼女が指示した黒い地層に目を向けた。
 ――なんだこれ、上下の地層とはちょっと違うぞ。
 二十センチくらいの幅の真っ黒な帯。よく見ると黒光りしている。
 触ってみると、石よりも軽そうな黒い塊が数センチくらいの大きさでボロりと崩れてくる。上下の岩ほど硬そうな感じはしない。
 まてよ、これって普通の岩とは違うんじゃないのか?
 もしかして、これは……。
「おーい、穂花。これって石炭か?」
「そうよ。お見事ね」
 マジか。
 石炭って……燃える石のあの石炭だろ? 蒸気機関車の映像とかでよく見るけど、実際に見たり触ったりするのは始めてだ。
 現れたものがあまりにも予想外だったので、頭が状況を受け入れるのに時間がかかっている。
 しかしここはすげぇ。
 山林が自分たちのものというだけでもすごいのに、湧き水はあるし石炭も採れる。先程妄想した湧き水で炊いたホカホカご飯に、ジュウジュウと石炭に肉汁が滴る焼き肉が加わった。
「よし、掘るぞ!」
 俺は意気揚々と、石炭層に夢中でツルハシを打ちつけたのだ。 

 トートバッグを石炭で一杯にして戻ると、ポリタンクも湧き水で一杯になっていた。
「じゃあ、戻りましょ。悪いけどポリタンクをお願いできるかしら」
 また命令されるかと思ったら、予想外のお願いベースで俺は戸惑う。まあ、なんだかんだ言っても、こき使われることには変わらないんだけどさ。
 俺はトートバッグを地面に置くと、代りにポリタンクを持ち上げた。
「げっ、重っ!」
 ポリタンクの容量は十リットル。つまり十キロの重さが右腕一本にかかっているから当然だ。
 この状態でテントまで戻るのはかなり辛い。着くまでに腰がやられてしまいそうだ。
「片腕だけで持ってるから辛いのよ。ほら、これを左手に持ってみて」
 穂花が石炭が入ったトートバッグを俺の左手に差し出した。
 水に加えて石炭まで持たせるなんて鬼だな、と思いながらトートバッグを掴むと――あれ? 全体の重さは増したのに、ちょっと楽になったような……。
「バランスが重要なの。右手と左手でそれぞれ同じくらいの重さのものを持つようにすると歩きやすいから」
 ていうか、都合よく俺を使ってません?
 結局、ほぼすべての荷物を持たされてるじゃん。
 まあ、このために俺はここに連れて来られたわけだから仕方ないんだけどさ。
 ツルハシだけ持った穂花が、鼻歌混じりで俺の前をスキップし始めた。

「すごいでしょ? この場所。私が見つけたのよ」
 前を歩く穂花が自慢げに振り返る。
 確かにすごい。
 これって地域文化なんとかのフィールドワークの賜物なのだろうか?
「この地域に石炭が出るのは分かっていた。近くの町には昔、大きな炭鉱があったしね」
 ほお、やっぱり調査の賜物なんだ。
 なんだかんだ教授に文句を言っても、ゼミ活動が役立ってんじゃねえか。
「地元の博物館に行っていろいろと教えてもらったの。この付近の山には小さな石炭層が広がってるって。亜瀝青炭で質も低いから地元では無視されてるけど、キャンプするならこれで十分じゃない?」
「ああ、そうだな」
 十分どころか最高だよ。
 まだ燃えるところを見てないから断言はできないけど、ちゃんと燃えるなら盛大な拍手を送りたい。
 だってキャンプに必要な水と燃料がその場所で、しかもタダで手に入るんだよ。動画なんかでうっかり広めたら、たちまち全国から人が押し寄せちゃって、この周辺はプライベートキャンパーの聖地になってしまうに違いない。
 それにしても、こんな使える資源が地元では無視されてるなんて、なんてもったいない。
 まあ、もっと大きな炭鉱があってそこでたくさんの石炭が採れたのなら、あんな二十センチの石炭層なんて屁みたいなものかもしれないけどね。
 ――今こそ自家燃料。
 そんな言葉が俺の頭に浮かび上がる。現代のプライベートキャンプがその価値を再発見させたんだ。
「去年の今ごろからこの周辺をいろいろ歩いて、石炭層があって湧き水もあるこの場所を見つけたの」
 すごいよ穂花。見直したぞ。
 地域文化なんとかに進んだ成果が表れてるじゃないか。
 俺は最初、この土地は健介さんが選んで買ったんだと思っていた。
 が、実際は穂花が買わせてたんだな。
 まあ、可愛い娘のためだし、最高のプライベートキャンプができるなら俺が親でも買っちゃうかも。値段もかなり安いし。
 
 すると突然、ガサガサという音が横の草むらの中から聞こえてきた。
 何か野生動物がいるのだろう。
 距離は約十メートル。一方、動物はこちらに気付くことなく草むらを物色している。
 音の感じから予想するに、そんなに大きな動物ではない。猫くらい、もしかしたら鳥かもしれない。
 ちょうどいい。休憩だ。いい加減疲れたよ、水と石炭の両方持ってるんだから。
 俺はポリタンクとトートバッグを地面に置くと、スマホを取り出し、そろりそろりと草むらの中に入る。もう少し近づけば写真を撮れるだろう。
「ちょ、ちょっと凛太朗。やめておきなよ」
「大丈夫だよ。あの大きさならウサギかタヌキじゃないの?」
 それだったら撮るしかない!
 俺はスマホを目の前で構え、録画を開始しながらさらに近づく。
「待ってよ、凛太朗。私を一人にしないでよ」
 ツルハシをぎゅっと握りしめた穂花が俺の背後にくっついた。
 彼女はこの場所を詳しく知ってるようだったけど、やっぱり女の子なんだなと俺は思う。
 小学生の頃、家の近くを一緒に探検したことを思い出した。ガサゴソしている木の枝が気になって、一緒に塀に登ってどんな動物なのか見に行ってたっけ。
「それに、たとえ可愛い動物が撮れても、SNSには上げられないわよ」
 ここに着いた時にスマホを確認したら圏外だった。
 そのことを穂花は言いたいのだろう。
「あの丘をちょっと登れば電波は入るんだけどね」
 それなら問題はない。
 いい動画が撮れたら、ちょっと丘を登ってポチっとすればいいだけじゃないか。
 俺はさらに近づく。そろりそろりと、ガサゴソする草むらに向かって。オドオドする穂花も俺の背中にぴったりくっついて――とその時、予想外の出来事が起きた。
「あっ!」
「きゃぁ!」
 ふっと体が浮いたと思ったとたん、いきなり周囲が暗転したのだ。


7.今こそ〇〇バル

 ん? 無重力!?
 そんな感覚に、昔の記憶がフラッシュバックする。
 昔、穂花と一緒にこんな体験をしたことが……。

 刹那、お尻に強い痛みを感じる。
「いたたたた……」
 お尻をさすりながら周囲を見回そうとしたが、土ぼこりがすごくて目が開けられない。ようやく目が開けられるようになっても、今度は暗くて周囲がよく見えない。
 地べたに座ったまま頭上を見上げると、はるか遠く上方にぽっかりと空が見える。どうやら俺たちは深い穴に落ちたようだ。
「ちょっと、何なのよ、これ」
 隣には穂花。ゴホゴホと土ぼこりにむせながら同じくお尻をさすっている。
 落ちる時に彼女がぎゅっと右手で俺のことを掴んでくれたおかげで、二人の体は回転することなくお互い一緒にお尻で着地したようだ。頭を打たなくて本当に良かった。
「怪我はないか?」
 俺はスマホのライトをつけて、穂花を照らす。
 彼女は左手でツルハシを掴んだまま座り込んでいた。これが体に刺さらなかったのも不幸中の幸いだろう。
「大丈夫。お尻はめっちゃ痛いけど、その他はどこも打ったり挫いたりしてないみたい」
 俺たちは立ち上がってお互いの無事を確かめる。
 そこは立って歩けるくらいの洞窟で、両手を広げられるくらいの幅があった。洞窟の途中に地表と繋がる穴が開いて、そこに落ちたらしい。そのことを示すように、俺たちが尻もちをついた場所には五十センチくらいの高さで土が堆積している。それがクッションになったというのも、二人が怪我をしなかった要因かもしれない。
 ライトで照らしながらぐるりと見回すと、洞窟は両側に続いている。そしてわずかに傾斜していた。

「やっぱ圏外だな」
 俺はスマホの電波を確認する。
 当然のことだが、洞窟の中も地表と同じく圏外だった。
「さて、どうするか……」
 とりあえず、俺はスマホのライトを切って機内モードに切り替えた。どうなるか全く分からない状況では電池を無駄遣いしない方が得策だろう。
 とにかく怪我をしなくて本当に良かった。
 おかげで次にどうするかを考えることができる。
「外に出れそうもない?」
 穂花の問いに、俺は頭上を見上げる。
 穴の入口まで四メートルくらいはある感じだ。俺の肩の上に穂花が乗っても、外に出れそうにはない。
 同じく穴を見上げる穂花。不安そうな表情を穴から差し込む光が照らしていた。

 というか、さっきのフラッシュバックは何だったのだろう。
 俺は昔、穂花と一緒に無重力体験をしたことがある。
 が、こんな風に穴に落ちたことは一度もない。
 あの記憶は一体……何だ?

「このツルハシを上手く使って出れないの?」
 ぼおっと出口を見上げていた俺は、穂花の言葉で我に返った。
 彼女の言う通り、俺たちにはツルハシがある。
 穴の壁に上手く窪みを作って足場を確保していけば、もしかしたら壁を登れるかもしれない。
「ちょっと試してみる。少し離れてて」
 穂花が距離を取ったことを確認すると、俺は洞窟の壁に向けてツルハシを打ちつける。
 するとツルハシはぐさりと壁に突き刺さり、周囲の岩と一緒にボロボロと崩れてしまった。
 これは危ない。やり過ぎると、さらに天井が崩れてしまうかもしれないし、足場となるような穴を加工しようとしても大きめの崩れやすい穴が開くだけだろう。
「すぐには無理そうだな……」
 俺は、そう呟くのがやっとだった。

「三日後にはパパが来るから、そん時に助けてもらおうよ」
 途方に暮れる俺を見かねて穂花がぽつりと呟く。
 実は俺もそれを考えていた。
 俺たちが置かれた状況は、それほどまで悲観するものではないのだ。誰も来ない場所で遭難したわけじゃなく、三日後には確実に健介さんたちがやって来るのだから。
 俺たちが落ちた穴の近くには、ポリタンクと石炭が不自然に置き去られている。だから場所もすぐに特定してくれるだろう。
 三日後の救出を当てにするなら、無理に脱出を測って事態を悪くすることはない。穴が崩れて致命的な怪我をしたら元も子もないからだ。それまでの期間を耐え抜くことを考えた方がよい。
 ――今こそサバイバルか……。
 とりあえず必要なのは水と食料、そして適度な温度だ。
 たとえすべてが得られなくても、この場所なら三日間じっとしていれば乗り切れないこともなさそうだ。洞窟だから雨風も凌げそうだし。
 が、ひもじくて寒くて退屈な時間が続くのは間違いない。ゴールデンウィークとはいえ、まだ四月。この場所は暖かい都心ではなく、車で二時間も離れた田舎の山林なのだから。
「せめて水があればいいのにね」
 穂花は自分のスマホを取り出し、ライトで洞窟の壁を照らし始めた。
「ほら、地上には湧き水があったじゃない。だったら地下にあっても不思議じゃないと思うんだけど……」
 それは盲点だった。
 もし洞窟の壁から水が湧いていたら、それは飲める可能性がある。
「じゃあ探検してみようぜ」
「うん」
 こうして俺たちは洞窟の中を探検することになった。

 まずは傾斜の上方に伸びる洞窟に進んでみる。
 俺がスマホで洞窟内を照らし、穂花と離れないようにして一歩一歩慎重に進む。
 照らされる洞窟の壁にはツルハシで削ったような筋模様が見える。どうやらこの洞窟は自然にできたものではなく、人力で掘られたもののようだ。
 壁面には一メートルを超える幅の黒い地層も見える。黒光りする部分もあるから石炭層だろう。となれば、この洞窟は昔の炭鉱だったのかもしれない。その証拠に石炭層の傾きと洞窟の傾斜はほぼ同じだった。
 それならば、どこかに出口があるはずだ。そこに辿り着くことができれば俺たちはここから脱出できる。しかし――
「行き止まりだ」
 五メートルくらい進んだところで、洞窟は崩れた土砂によって閉ざされていたのだ。

 次は傾斜の下方に進んでみる。
 が、落下地点から二メートルくらい進んだところで俺たちは歩みを止めた。ぴちゃぴちゃと足音がし始めたからだ。
「水だ!」
 照らすと前方に水面が見えた。洞窟の先は水没して行き止まりだった。
「これが飲めるといいんだが……」
 でも洞窟内に水があることが分かった。これは大きな一歩だ。たとえこの水が飲用に適していなくても、水があるということは大きな希望になる。
「飲めるかどうかは、水の温度で予想できるわ。常温だったら雨水が溜まっただけかもしれないけど、冷たかったら湧き水の可能性がある」
 さすがは地域文化なんとかゼミ。
 まあ、湧き水や石炭があるキャンプサイトを見つけるだけでもすごいんだけどさ。
 俺たちはタイミングを合わせたように、同時にしゃがんで水に手をつける。そして驚きの言葉を上げたのだった。


8.今こそ〇〇食

「あったかい!」
「これ、温泉だ!!」

 驚いた。
 まさか洞窟の中に温かい水が溜まっているとは。
 周囲の壁から温泉が湧き出ている様子は無かったから、この水溜まりの中でお湯が湧いているのだろう。それならば、もしかしたら飲めるかもしれない。
 たとえ飲めなくても、足をつければ暖を取ることができる。
 サバイバルに必要な水と温度が確保できることが分かって、俺はほっと一息ついた。

 ひとまず俺たちは、落ちてきた穴の下に戻る。
 差し込む光に照らされる穂花の表情も、安堵に満ちていた。
「あとは食料、か……。じゃあ、今こそ出番ね」
 そう言いながら、穂花はニットのカーディガンを脱ぎ始めた。
 おいおい、何を始めようというんだ?
 ていうか、なぜ脱いだ?
 まさか「私を召し上がれ」なんてバカなことを言うわけじゃねぇだろうな。
 驚いた俺は、思わずスマホのライトで穂花を照らす。カーディガンを脱いだ彼女の上半身は、黒のハイネックがメリハリのある女性らしい体のラインを露わにしていた。
 ――こいつ、いつの間にこんなに成長したんだ!?
 存在を主張する胸が、サロペットデニムの胸ポケットの部分を押し上げている。
 俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
「ちょ、ちょっとじろじろ見ないでよ。照らすのもやめて。温泉に入るわけじゃないんだから」
 恥ずかしそうに穂花は、脱いだカーディガンを胸の前で抱く。
「このニットを解くのよ」
「解いてどうするんだ?」
 とりあえず訊いてみる。
 穂花が何をしたいのか、全くわからなかった。
「食べるのよ」
 えっ? 食べる?
 このカーディガンを??
「このニットはカゼイン繊維でできているの。つまり百パーセントのミルク由来」
 カゼイン繊維? ミルク由来? そんなものが食べられるのか?
 穂花は歯を使って、カーディガンの袖口を解いていく。
 すると袖口から編む前の毛糸がだんだんと伸びていった。
「これを短くちぎってあの温泉につけてから口に含めば、水分も取れるし、空腹を満すことはできなくても癒すことはできるんじゃないかな」
 その説明で、やっと俺は理解した。
 これはすごい。このカーディガンは正にサバイバル用の服じゃないか。
 ――今こそ繊維食!?
 贅沢は言ってられない。
 でもこれで俺たちは、この場所で三日間を乗り越えられるような気がした。

 その時。
 頭上でガサガサという草の音がする。
 と同時に、何かが穴の中に落ちて来たのだ。


9.今こそ〇〇作戦

「危ない!」
 とっさに穂花を庇う。
 落ちて来たものが頭に当たらぬよう、彼女を洞窟の壁に体で押し付けた。
「痛ぇ!」
 そいつは俺の背中に当たると洞窟内に転がった。
 そして俺たちの周りをぐるぐると回り始めたのだ。
「きゃあ、何、これ?」
 大きさは猫くらいの小動物。
 目を凝らすと小さな豚のような格好をしていて、茶色とアイボリーの縞々模様が見える。
「イノシシの子供だ」
 そう、それは可愛らしいウリ坊だった。
 ブヒブヒと豚のような鳴き声を発しながら、洞窟の上の方へ消えて行く。
「むふふふ、バカなやつめ。そっちは行き止まりだ」
 まあ、この洞窟はどっちに行っても行き止まりなんだけど。
 俺はツルハシを手にする。
「こいつの一撃で仕留めれば、食えるかもよ?」
 すると穂花が必死に俺のことを止めた。
「やめようよ。たとえ殺すことができても、火もナイフも無いから食べれないよ」
 まあ、火とナイフがあっても俺には解体なんてできないが。
「それに匂いを嗅ぎつけて母親がやってくるよ。そんなのが落ちてき来たら、私たち終わりだよ」
 確かにそれはカンベンだ。
 巨体の母イノシシが落ちてきたら、このツルハシで戦える自信は俺にはない。
「じゃあ、どうすればいいんだよ?」
 穂花はすこし考えた後に提案する。
「あの穴から外に投げ返せばいいんじゃない?」
 投げ返す?
 あのウリ坊を?
 もしかしたらあいつは、俺たちが穴に落ちる直前に草むらでガサゴソしてたやつじゃないのか?
 だったらあいつは俺たちを窮地に陥れた張本人、いや張本猪なんだぞ。
 そんなやつをタダで帰してやれるほど、俺はお人よしじゃない。

 ん? タダでは帰さない?
 そうか、その手があったか!?
 その時俺は、すごいアイディアを思いついたのだ。

「穂花、お前のスマホでメール送信予約の設定をしてくれないか?」
「えっ、私のスマホで?」
「そうだ。健介さんにSOSメールを送るんだよ。一時間に一回の頻度で、これから三日間」
「そんなことしたってここは圏外なんだけど」
「だからあいつを使うんだ。ここは圏外でも、丘の上なら電波が通じるんだろ?」
 はっとした表情をする穂花。
 俺の作戦をようやく理解したようだ。
「俺はこれからこのカーディガンを解いて、できるだけ長い毛糸を作る。それを使って、穂花のスマホをあのウリ坊に結び付けて、外に放り投げるんだ」
 きっとウリ坊は、母親を探して丘の上に上がるだろう。
 その時がチャンス。一時間に一回の発信にしておけば電池の消耗も少ないし、きっと健介さんにメールが届く。
 ――今こそ猪メール大作戦!
 これは俺たちの明日を賭けた戦いだ。この洞窟で縮こまったまま寒さに震える夜を迎えるか、それとも足を伸ばして焚き火の前でうたた寝できるかは、この作戦の成否に掛かっている。
「わかった。でも何で私のスマホなの?」
「だってお前のスマホじゃなきゃ、メールが届いても健介さんに信じてもらえないだろ?」
 俺のスマホで俺の両親にメールを送るという手もある。
 でも俺の両親はこの場所を知らないので、結局健介さんに連絡を取ることになるのだ。それなら穂花のスマホから直接メールを送った方がいい。
「そういうことね。ちょっと時間をちょうだい」
「ああ、俺もこのカーディガンを解くのに時間がかかりそうだしな」
 こうして俺たちは必死に作業を始めた。
 ウリ坊を探すイノシシの母親がここに落ちて来る前に。
 解いた毛糸の長さが二メートルくらいに達した俺は、今度はウリ坊を捕獲しようと格闘する。が、これが難しかった。ちょろちょろと逃げ回って、素直には捕まってくれないのだ。
「捕まえた!」
「できた、設定!」
 やっとのことで捕獲に成功したと同時に、穂花もスマホのメール予約発信設定を完了した。


10.今こそ〇〇ドーム

 捕獲したウリ坊を穂花に押さえてもらい、毛糸で彼女のスマホをウリ坊の背中に固定する。手順はこんな感じだった。
 まず液晶画面を下にしてスマホをウリ坊の背中に押し付ける。そして解いた毛糸を使って、ウリ坊の胴体や首をスマホと一緒にぐるぐる巻きにしたのだ。この時、背面に貼り付けられていたスマホリングが役に立った。リングに何回も毛糸を通しておいたからしっかりと固定されてるし、糸が切れない限りスマホが落ちることはないだろう。
「じゃあ、穴に向かって投げるぞ」
 俺は立ち上がり、ウリ坊を胸の前でしっかりと抱いた。
 すでに俺たちに慣れつつあるウリ坊は、大人しく俺の胸に抱かれている。それどころか、人懐こい可愛らしい視線を俺に向け始めていた。
 ――おいおい、そんなつぶらな瞳で見つめられたら投げにくいじゃねえか。
 目を閉じて心を鬼にする。
 すべてはお前にかかっているのだ。明日と明後日の俺たちが快適に過ごせるかどうかが。
 俺は一つ深呼吸すると、目を開けてぐっと深くしゃがみこみ、「行けーっ!」と掛け声と供にウリ坊を投げ上げた。
 クルクルと横ロールするウリ坊は、なんとか穴の外に飛んで行く。そしてガサっと草の音がしたかと思うと、ガサガサと草をかき分ける音が遠ざかって行った。どうやら無事に地上に降り立ったようだ。
「あとは運を天に任せるだけだな……」
 穂花を向いて呟くと、彼女は「そうね」と静かにうなづいた。

「ゼミの先輩方はみんないい人なんだけど、教授がね……」
 ウリ坊を投げ上げてから六時間が経過した。
 もう二十時だ。洞窟の中は真っ暗。穴の入口からは、ぼやっとした淡い光が差し込んでいた。きっと月が出ているのだろう。
 俺たちは洞窟の壁に背を預けて座り、この二年間についての話をする。別々にキャンパスライフを過ごしていた、お互いが知らない時間について。こういうのは焚火を挟んでコーヒーの香りと供に味わいたかったのだが、こんな状況だから仕方がない。
 話しに夢中になっていると時間が経つのを忘れることができた。お腹が空いてくれば、毛糸をツルハシの汚れていない刃の根元の部分で短く切って、温泉に付けてから口に含む。十分くらいくちゃくちゃしていると柔らかくなって、飲み込むことができた。
 トイレに行きたくなった時のために、上側の洞窟の行き止まりに穴を掘って簡易トイレを作っている。朝以降はほとんど何も食べていないので、大に行きたくならないのが救いだった。
「そろそろ横になろうぜ」
「そうね……」
 さすがに六時間も話していると疲れてくる。
 俺たちは堆積する土砂の柔らかい場所を選んで横になった。この際、服が汚れるなんて気にしている場合じゃない。できるだけ体力を温存することが大切だ。
「ウリ坊ちゃん、ちゃんとスマホを運んでくれてるかしら……」
 SOSメールが健介さんに届けば、その二時間後には来てくれるはず。
 誰も来てくれないのは、穂花のスマホが圏外のままであることを示していた。
 ――頼むから丘の上に運んでくれ、ウリ坊ちゃん!
 仰向けになり、わずかに明るい出口の穴を見つめながら俺は祈っていた。

 それから一時間。
 眠れずに俺は、今日起きたことを思い出していた。
 ここに着いて、草刈りして、テントを張って、水と石炭を採りに行って……。
 そこまでは最高の体験だったのに、今はこうして穂花と土まみれになって洞窟で横になっている。
 何でこうなった? 何を間違えた? 俺が草むらに行かなければ良かったのか?
 でも地下にこんな洞窟があるのなら、いずれは誰かが落ちてしまうような気がする。そういう意味では、俺は見事に角尾家のファミリーキャンプのお膳立てをしたのだ。数ヶ月いや数年という長い目で見た時の貢献度はでかいに違いない。
 出口からの淡い光のおかげで、全くの暗闇ではなくうっすらと周囲が見える。それは心強く、有難かった。
 ぼんやりと出口を見上げていて思い起こすのは、ここに落ちた時の無重力感のフラッシュバック。
 あれは一体なんだったんだろう……。
 それとウリ坊が落ちて来た時もデジャヴュを感じた。
 薄らとした記憶だが、俺は昔、迫る危険から穂花を守れなかったことがある。
 だからもう一度同じことが起きたら、今度は絶対穂花のことを守るんだって小学生の俺は心に刻みつけたんだ。その記憶が、ウリ坊が落てきた時の映像と結びついて離れない。俺の二十年の人生の中で、頭上からイノシシが落てきたのは今回が始めてだというのに。
 唯一言えるのは、小学生の頃の後悔と決意によって、ウリ坊から彼女を守ろうと自然に体が動いたことだけだった。

 そんなことを考えていると穂花がそろりと上半身を起こす。そして俺の様子を伺い始めた。俺は慌てて寝たフリをする。
「やっぱ寝られないわ」
 そう小さく呟いた穂花は、上半身を起こしたままゴソゴソと何かをしている。薄目を開けてみると、彼女はサロペットデニムの胸ポケットの中を漁っていた。
「今こそね、これを使うのは……」
 そして取り出したのは、四センチ角くらいの正方形の薄いビニールのパッケージ。中に入っているものの形が、リング状に浮き出ている。
 それって、まさか……コンドーム!?
 穂花はコンドームを握りしめると立ち上がり、そそくさと温泉の方へ歩いて行ってしまった。

 一体、何をしようとしてるんだろう? あいつは。
 コンドームを使って男女がやることと言えば、アレしかないじゃないか。
 ――今こそコンドーム。
 いやいや、今回は副題を復唱しなくていいから。使おうとしているのは穂花なんだし、いや待てよ、いざとなれば使うのは俺なのか?
 それにしても穂花はコンドームを持ってどこに行ったんだろう?
 まさか、温泉に行って身を清めているとか。
 それだったら俺も清めたい。だって俺にとっては初体験なんだから。
 なかなか戻って来ない穂花のことを考えると、股間がムズムズしてくる。一人で悶々としているうちに彼女はあるものを持って戻ってきた。

 それは、水で膨らんだコンドーム。
 きっと温泉を中に入れて来たのだろう。

「あー、これでやっと寝られるわ」
 何をするのかと薄目で観察していると、どうやら頭の下に敷いているようだ。
「枕かよ」
 ドキドキしていた自分がバカらしくなって、思わずツッコんでしまった。
「なに? 起きてたの?」
「ああ。そいつで何をするのかって思ってな」
「ふーん。もしかし凛太朗、期待しちゃった?」
「バ、バカ言うんじゃないよ。おまえなんかに童貞捧げるくらいなら風俗行った方がマシだよ」
 ホントは思いっきり期待してたけど。
 照れ隠しの言葉が思いのほか強くなってしまい、今度は後悔で頭の中が一杯になった。
「ひどい。最低。可愛い幼馴染に向かってそんなこと言う? 私だってこんなところで初体験を迎えるなんてまっぴらだわ」
 穂花を怒らせて申し訳ないと思うと同時に、その後の彼女の言葉が気になってしまう。
 ――こんなところで初体験?
 この言葉を信じるとしたら、たとえ穂花に彼氏がいてもまだ深い関係には至っていないのだろう。
 可笑しくなった俺は、静かに笑い始めた。
「お互い、清い体なんだな」
「そうよ、小学生の頃のまま」
 俺は寝返りを打って穂花を向く。
 彼女はコンドーム水枕に頭を乗せたまま、こちらを向いていた。
 というか、頭を乗せても破れないなんてすごいじゃないか。
「結構破れないんだな、それ」
「すごいでしょ。でも素敵な男性なら、黙って腕枕してくれるんじゃないのかな? そしたらこんなもの必要ないんだけどな」
「悪かったな、素敵な男性じゃなくて」
 ホントにこいつは一言多い。
 ていうか、腕枕なんて思いつきもしなかった。恋愛経験の少なさが悔やまれる。
「こんなところで腕枕なんてしたら、腕がクラッシュ症候群になっちまう」
「それを言うなら橈骨神経麻痺でしょ?」
 ああ言えばこう言う。
 穂花のそんなところは小学校の頃から全く変わらない。
「水枕、気持ちいいのか?」
「めっちゃ快適よ。あんたも使ってみる? まだあるから」
「いや、いいよ。俺は枕が無くても寝られるから」
 まだ持ってるのかよ。
 お前の胸ポケットは四次元なのか?
「コンドームって意外と色々なことに使えるのよ。コンパクトだし、こんな風に水を入れることもできるし、ペロの散歩の時もうんちを持ち帰れるし、いざとなれば買ったものを入れることだってできるんだから」
 百歩譲って最初の三つは認めよう。が、最後のは納得いかねえ。だってコンドームをエコバッグ代わりにするんだよ。そんなの見たことねえよ。女子大生がそんなことするものなら、一発でSNSに上げられて大バズりになっちまう。
 不覚にも俺は、穂花がアイスやペットボトルをコンドームにツッコんで家に持ち帰る姿を想像してしまった。
「だからね、いつもメガビッグサイズを買うことにしてるの。残念ながら凛太朗には使えないわね」
 カチンと来た。
 だから言い返してしまう。
「こう見えても俺だって成長してるんだぜ」
 穂花の胸みたいに――とは言わなかったが。
「無理しなくていいのよ。あんたのちんちんなんて小学生の頃からたっぷり見てるんだから。こんな大きいのをはめたって、すぽって抜けちゃうじゃない」
 言ってくれるじゃないの。こいつ、大人の男ってものを知らないな。
 それなら俺の本気を見せてやる――と、ここでアピールするわけにもいかないし。
「まあ、そうだな。俺のちんちんあの頃のまんまだし、ブカブカで残念だよ」
 言い争ってもしょうがないので俺はゴロリと仰向けになる。
「私の体も、小学生の頃のまんまだよ」
 穂花も仰向けになって腹部をなで始めた。
 なに? その意味深な行動は?
 それよりも俺は、なだらかに盛り上がる双丘の方が気になってしまう。小学生の頃は見事にぺったんこだったぞ。いつの間にか俺たちは、大人ってものになっちまったんだ。
 すると「きゃっ」と穂花が可愛らしい声を出した。
「破れちゃった……」
 彼女の頭を見ると、破裂したコンドームの水で髪をびっしょり濡らしている。
 ふん、ざまあ見ろ。俺のちんちんバカにした罰だ。


11.今こそ〇〇浴

 しばらくすると、隣で横になる穂花がカタカタと震え始めた。
 見ると、乾ききらないままの上半身を丸めて縮こまっている。
「ねえ、凛太朗。なんだか寒くなってきちゃった……」
 ったく、コンドームを水枕なんかにするからこうなるんだよ。
 それとも、もし俺が恋人だったら、黙って抱きしめてあげるシーンなのだろうか……。
 いやいや穂花はただの幼馴染。大切な存在という点は一緒だが。
 一応、コンドームが敗れた直後に穂花は服を絞って乾かしたようだが、こんなところで完全に乾くはずもない。反対側を向かされていた俺には、どうやって乾かしたのかもわからんが。
「だったら温泉に入って来いよ。体が冷えたままにしてると体力が持たないぞ。あと二日もあるんだから」
「ふん、冷たいのね。きっと朝にはパパが助けに来てくれて、凛太朗のこと叱ってもらうんだから。メールにもちゃんと書いておいたし」
 いやいや服を濡らした穂花が悪い。
 それとも抱擁してあげない俺が悪いのか?
 こんな気持ちになるのも、コンドームの件で妙な雰囲気になってしまったのがいけないのだ。あれだけ自分を貫いてきた穂花が、なんだか急にかまってちゃんになっちまって面倒くさい。
 それに俺は間違ったことは言ってない。
 穂花を温めてやってもいいが、そうすると俺も濡れてしまう。温泉という確実に暖を取れる手段があるのだから、それを使って体温を回復するのが合理的と誰もが言うだろう。
 ていうか、健介さん宛てのメールには一体なにが書かれてるんだ?
「私、温泉に入ってくる……」
「ああ、ゆっくりと温まってくるんだぞ。何かあったらすぐに呼んでくれ」

 穂花が行ってしまうと、俺は仰向けになって一人考える。
 さっきのは、あまりに冷たい態度だったのだろうか――と。
 俺はあいつの恋人なんかじゃない。もしあいつに彼氏がいるなら、抱きしめるなんてやってはいけない行為じゃないか。
 そもそも俺は、あいつに好意を持っているのだろうか?
 いやいや、そんなことはありえない。好きとか愛してるとか、そんな言葉をあいつの笑顔に重ねたことは一度も無かった。今までも、そして今この時も。
 小学校からずっと一緒の女の子。中学校、高校と、いつも必ず傍にいた。
 そうだよ、あいつは俺の生活の一部なんだ。見ている世界の背景なんだ。好きとか愛してるとかじゃなくて、いなくなったら困る存在なんだよ
 そんなことを考えていたら、ゴゴゴゴという地鳴りが聞こえてきた。
 背中を地面につけていたから感じやすかったこともあるだろう。
 脳が「地震」と判断する前に、俺の体は動いていた。

 あの時、俺は、穂花のことを守れなかった。
 それなら、今こそ――

「ちょ、ちょっと何すんのよ!」
 暗闇の中、俺は靴のまま温泉に入り手探りで穂花の腕を掴む。
 そして思いっきり体を引き寄せ、入口の穴の下まで慌てて駆け戻った。
「地震だ!」
 俺は叫ぶと、穂花の頭を守るよう右腕で彼女の頭を覆い、左腕でしっかりと抱きしめた。
 そこでやっと、彼女も地面の振動に気が付いた。
 ボロボロと洞窟の壁の一部が崩れる。温泉がある方の洞窟からは、暗闇の中でゴオッっと地面を揺るがすような不気味が音がする。
 ――頼むから早くおさまってくれ!
 後から考えると揺れは十秒くらいだったのかもしれない。が、俺には数分のも長さに感じられた。もし落盤が起きればただで済むとは思えないのだから。出口が見えるこの場所が、唯一地表と繋がる希望だった。
 揺れがおさまっても俺は、しばらくの間穂花を抱きしめていた。
「あのぅ、凛太朗? 私、素っ裸なんだけど……」
 やがてぽつりと穂花が呟く。
 言われてみて初めて認識する。なにか柔らかいものが俺の腹部から胸部にかけて押し付けられていることを。
 でも、そんなことよりもっと大事なことに俺は気付いたんだ。
 今俺の腕の中には――決して失ってはいけない存在があることに。
「穂花が無事で良かった。もし洞窟が崩れたらって思ったら自然に体が動いてた。穂花がいなくなった世界を想像しただけで、胸が張り裂けそうになったんだ……」
 どんなにののしられてもいい。スケベと軽蔑されてもいい。
 これが俺の本当の気持ちなんだから。
「それにやっと思い出した。木の上の猫のこと」

 あれは小学二年生の時のこと。
 葉が茂る木の枝の中で何かがガサゴソしているが気になった俺は、嫌がる穂花と一緒に塀に登って近くで見ようとした。
 その正体は猫だった。
 飛びかかってきた猫に驚いた俺たちは、二人一緒に塀から落ちて地面に尻もちを着くことになったんだ。
 そんな俺たちの上に落下して来る猫。
 俺は猫を振り払って穂花を守るべきだった。
 が、その時俺が取ったのは、自分だけ逃げようとする最低の行動だった。
 立ち上がろうと俺は地面に手を着く。その時、不運が起きた。俺の手は、穂花のお腹の上に着地した猫のしっぽを強く地面に押し付ける形になってしまったのだ。びっくりした猫が穂花のことを思いっきり引っ掻く。尻もちを着いて露わになった彼女のおへそあたりを。
「ギャー」
 穂花の悲鳴と、止まらない泣き声が脳裏に蘇る。
 悲劇はそれだけでは終わらなかった。穂花は猫ひっかき病にかかってしまい、一週間熱にうなされることになった。
 空席が続く穂花の机を見つめながら、俺は深く後悔に苛まれる。
 ――穂花が死んじゃったらどうしよう……。
 俺のせいだ。自分だけ逃げようとしたからこんなことになったんだ。
 なんて最低な人間なんだ。熱にうなされるのは自分であるべきなんだ。
 そして心に誓ったんだ。
 ――これからは穂花のことを守ってあげなくちゃ。
 彼女の身に降りかかる危険から、俺が体を張って守ってやる――と。

「やっと思い出したのね。バカ……」
 穂花が上目遣いで俺を見る。
「草むらの中で何かがガサゴソしてた時から、なんか嫌な予感がしてたのよ」
 だから俺が写真を撮ろうとした時、穂花は不安がっていたのか。
 その態度に気づいた時、俺は察するべきだったのかもしれない。
「まるで、あの時と一緒じゃない」
 うん、確かに一緒だ。
 二人で無重力感を味わったのも、動物が落ちてきたことも。
「でもあの時と違うのは、私を守ってくれたこと。今もそうだけど、ウリ坊が落ちて来た時も嬉しかった。凛太朗も成長したのね。ありがとう……」
 最後のお礼はうつむき加減に。
 穂花からお礼を言われるなんて滅多にないんだから、ちゃんと目を見て言って欲しかったかも。
 すると穂花は左手を上げ、彼女の頭に添えた俺の右手を掴む。そして彼女のお腹をさするようにと掴んだ手を誘導した。
「ほら、あの時の傷。まだミミズ腫れが残ってる」
 右手から伝わる穂花の柔らかいお腹は、少しデコボコしていた。
 小学生の頃から変わらない、俺だけが知っている彼女の秘密。
「これのせいで私はビキニが着れないんだからね。責任取るって、あの時言ったよね?」
 ええっ? そんなこと言ったっけ?
 穂花を守ると心の底から誓ったけど。
 もし言ったとしても、小学二年の責任と大学三年の責任はかなり違うような気がしないでもないが……。
 でもそれもいいかかなと思う。穂花を一生守るということは、結局同じことなのだから。
「ああ……」
 俺は穂花をぎゅっと抱きしめる。
 彼女も俺の胸に抱かれたまま、体を預けてくれた。

「ちょっと寒くなってきたから、また温泉に入りたいんだけど……」
 一分くらいすると穂花が耳元でささやく。
 柔らかい彼女の体。抱きしめていると不思議と心が温かくなる。この時が永遠に続けばいいと思うくらいに。
 そんな気持ちに浸っていたから、もしかしたら三分くらいは抱きしめていたのかもしれない。
「ゴメン、穂花。もう揺れは収まったみたいだから、風邪を引く前にまた温泉につかった方がいいな」
「うん、そうする……」
 俺たちは名残惜しそうに体を離す。
 薄明りにぼんやりと浮かび上がる穂花の体はとても美しかった。そして彼女は温泉の方へ駆けて行く。
「あれ? あれれ?」
 しかし暗闇の中から聞こえてきたのは穂花の戸惑う声。
「温泉がないの。今、服を着るから、そしたらライトを付けて来てみて」
 彼女の合図で俺が温泉に行ってみると、さっきまであった水面が無くなっている。そしてその先には、今まで水没していた洞窟の先が露わになっていた。


12.今こそ〇〇心

 まるで、何かのアドベンチャーゲームみたいだ。地震が起きて、水没していた洞窟の先が現れるなんて。
 もしゲームだったら、主人公は何をする?
 答えは決まってる。今、行動を起こさない手はない。
「穂花、この洞窟の先へ進んでみないか?」
 後で思い起こせば、男ってなんて勝手な生き物なんだと思う。
 心の半分が大切なもので満たされた。すると、残りの半分が相反するものを要求する。
 ――今こそ冒険心!
 心の男の子の部分がそう叫んでいた。
「ねえ、凛太朗。やめようよ、また地震が来るかもしれないし」
 冷静に考えれば穂花の意見の方が正しいのは明らかだ。が、この時の俺はすっかり変な高揚感に捕らわれてしまっていた。
 ――彼女の手を握っていれば、俺はなんでもできる。
 一体どこからこんな得体の知れない自信が湧いて来たのだろう。
 一度ツルハシを取りに戻った俺は、ツルハシを穂花に渡す。
「大丈夫。俺たちなら行ける」
 そう宣言すると左手で彼女の手を握り、右手でスマホライトを掲げて洞窟の先へ進み始めた。

 十メートルくらい進むと、洞窟をふさぐように土砂が溜まっていた。
 土砂の上面と洞窟の天井との間には隙間があり、水が流れたような跡が見える。きっと地震が起きる前はこの場所は塞がれていて、土砂が水を堰き止めていたのだろう。その証拠に、土砂の窪みにはまだ温泉が残っていた。
 地震の揺れで土砂がゆるみ、一番弱いところが壊れて水が流れ出たに違いない。そういえば揺れている時にこちらの洞窟からゴオッとすごい音がしたけど、あれは水が流れ出る音だったんだ。
「ここを掘るぞ」
 俺はがむしゃらにツルハシを使って堆積する土砂を掘る。すると隙間の向こう側に、洞窟の暗闇が続いているのが見えた。
「穂花もちょっと掘るといい」
 労働せよという意味ではない。もし彼女の体が冷えてしまっているなら、適度な運動で温まった方が良いと考えたからだ。
 こうして二十分くらい交代で掘っていると、人がしゃがんで通れるくらいの隙間を作ることができた。
 この隙間を通り抜けると、もう土砂が溜まっている場所はなかった。水が流れた跡を追うように、俺たちは傾斜する洞窟を下方に向けて歩く。そして五百メートルくらい進んだところで、洞窟の先に出口らしきものが見えてきたのだ。


13.今こそ〇〇!

「穂花、あれ、出口じゃないか?」
「ホント!?」
 彼女の手をぎゅっと握る。
 そこから二人は駆け足になった。洞窟の出口は、キャンプ地に行く時に通った砂利道に面していたのだ。
「やった!」
「脱出できた!」
 ツルハシを放り投げ、俺たちは手を取り合って喜ぶ。
 月明かりが穂花のとびっきりの笑顔を照らす。遠くには町の光も見えた。俺たちは助かったのだ。
 ふと穂花を見ると、彼女が着ているカーディガンは半袖になっていた。それもそのはず、散々解いて食べたり、ウリ坊にスマホをくくり付けたりしたんだから。それは俺たちの勝利を象徴するニットのベストだった。
 感極まった俺は穂花を抱きしめる。彼女も素直に体を預けてくれた。
 ――二人だから頑張れた。穂花だから守りたかった。
 体が離れると二人は見つめ合う。
 まさか、こんな日が訪れるとは思わなかった。
 心を揺さぶるくらいに穂花のことを愛おしく感じるなんて。
 するとゆっくりと穂花が目を閉じた。
 ――今こそ!
 意を決した俺が彼女に唇を近づけたその時――見慣れたRV車のヘッドライトが、俺たちのことを照らしたのだ。

「大丈夫か? 穂花! 凛太朗くん!」
 RV車は俺たちの前で停まると、運転手が慌てて下りてきた。健介さんだ。
「大丈夫よ、パパ!」
 穂花が健介さんの胸に飛び込む。
「ありがとうございます、健介さん」
 俺は深々と頭を下げた。
 穂花のメールは、無事に健介さんに届いたのだ。

 それから二人は健介さんの車に乗ってキャンプ地に戻り、テントで服を着替えた。
 着替え終わると町の日帰り温泉に向けて出発する。幸いそこは深夜まで営業している施設だった。
 車の中では、助手席の穂花が一部始終を健介さんに話している。身振り手振りを添えて楽しそうに。
 楽しかった――と訊かれたら、どう答えたらいいのだろう?
 少なくとも確実に言えるのはお互い必死だったということ。決して後悔しないように目の前の出来事に向き合ってきた。そして俺は、小学生の頃の決意を思い出すことができた。
 町の灯りが近くなってスマホの機内モードを解除すると、ピコーンとメールの受信音が鳴る。見ると新規メールが四件、いずれも穂花からだった。
 俺はメールを開く。

『パパへ。
 湧き水に行く途中に開いた穴に落ちて出られなくなりました。
 助けて下さい。穴の場所はポリタンクが目印です。
 凛太朗も一緒です。
 パパ、ママ、今まで本当にありがとう。
 もしものことがあっても、それは好きな人と一緒の幸せな最期でした。
 穂花』

 おいおい、穂花よ。こんなメールを健介さんに送ってたのかよ。
 わざわざ俺にCCしてるって、一種の告白じゃねえか。
 だからキスしようとしている俺たちを見ても、健介さんは何も言わなかったんだ。
 俺は何度も何度もメールを読み返す。
 あの時、俺たちは必死だった。母イノシシがやって来るんじゃないかとビクビクしてた。そしてウリ坊に一縷の望みを託したんだ。ある意味、限界状態だったと言えるだろう。そんの状況下で穂花が嘘を書くとは思えない。
 ありがとう穂花。幸せと言ってくれて俺もすごく嬉しいよ。

 ていうか、これから一時間おきにこのメールが届くのかよ。
 恥ずかしくって悶え死にそう。
 頼むからウリ坊ちゃん、早く圏外へ逃げてくれ〜

 温泉でゆっくりと温まり夕食をとった俺たちは、キャンプ地に戻ってテントで眠る。
 俺は健介さんと同じテントだったけど、疲れていたから眠りはあっという間に訪れた。
 三人で二泊して、予定を一日切り上げて五月一日に帰宅した。角尾家の三人は、予定通り五月二日からプライベートキャンプに出かけたみたいだけど。
 穂花のスマホは結局あきらめることになった。探しに行くこともできたがイノシシの巣にある可能性が高く、わざわざ危険を犯すこともない。幸いデータはほぼ無事だったという。クラウドと同期していたのが功を奏したようだ。
 ウリ坊が運んだ穂花のスマホ。この三日間、あの丘から六十通の想いを届けてくれた。
 それは俺の一生の宝物だ。

 ゴールデンウィークが終わると、俺たちは月に二、三回の頻度でデートを重ねる。
 そこで穂花から聞く健介さんの行動に驚いた。なんでも毎週のようにキャンプ地に通い、洞窟を補強して梯子を設置し、湧き出る温泉を溜める湯船を作っているという。ゆくゆくは洞窟にレールを敷いてトロッコを走らせるとか。いやいやもうそこは、あなたの土地じゃないでしょ!?

 そして夏が来た。
『七月にファミリーキャンプをするんだけど、その前って空いてる?』
 穂花からラインがやって来る。
 付き合い始めて、俺に対する遠慮がさらに無くなった。あからさまに下準備を手伝えと言っている。
 ならば受けて立とう。この間取得した刈払機取扱作業者の資格を活かすのは今こそ!
『それっていつだよ?』
 あの日洞窟の中で抱きしめた穂花の嬉しそうな顔を思い浮かべながら、俺は訊くのであった。



 おわり



ミチル企画 2021GW企画
テーマ:『今こそ』

幻の花2021年01月12日 23時33分55秒

 幻の花が咲いているという。
 しかも全国各地で。

 その花の名は『花紅(かこう)』。
 リンゴの一種で、中国原産のジリンゴとして日本でも古くは栽培されていた花だ。
 一般にリンゴといえば白い花が咲くものだが、花紅は花弁が赤い。と言っても真っ赤というわけでなく、花弁の根元は白く、端にいくにつれてピンクに染まり、端は真っ赤となる。正に『花紅』の名に恥じぬ美しい花なのだ。
 ただでさえ珍しい赤いリンゴの花。青森県の一部だけで見られると聞いたことがある。それが全国各地で咲くとは、一体どういうことなんだろう?

 この情報は本当なのだろうか?
 それを確かめるため、同じ家に住む息子の嫁に訊いてみる。

「〇〇県でも、花紅咲いたって?」
「そうなのよ、おじいちゃん。だから出歩いちゃダメよ。と言っても出掛けられないと思うけど」

 やっぱり漏れ聞いた情報は本当だった。
 それなら見に行ってみたい! この足で歩いて。

 実はわしは一年前から寝たきりになってしまい、自分では起き上がることが難しくなっている。
 目に入る外の様子と言えば、食事の時に電動介護ベッドで起き上がって見る窓の外の景色、そして日曜日に息子に車椅子を押してもらう散歩だけ。それがわしの唯一の楽しみとなっている。
 その他の時間は、隣の部屋から漏れ聞こえてくるテレビの音にじっと耳を傾けている。耳も遠くなって、ニュースの一部しか聞こえないのが残念なのだが。


『今日は、△△県でも過去最多、』

 おおっ、△△県でも花紅が咲いたらしい。
 早く起き上がれるようになって、幻の花を見に行きたいものだ。

『東京は曜日最多です』

 今度は『妖美』という花が咲いたらしい。
 一体どんな花なんだろう?
 名前から想像するに、さぞかし綺麗な花に違いない。しかも東京で咲いたとは。
 見に行ってみたい。足に力を入れるとまだまだ動けそうな気がする。
 生きる力がふつふつと湧いてくるのをわしは感じていた。



ミチル企画 2020-21冬企画
テーマ:『天に星』『地に花』『人に愛』

奇跡は今日も古墳に眠る2021年01月12日 23時29分33秒

「こ、こんなところに、入っていいのかい?」
 前を歩く幼馴染のサキに思わず声を掛けた。不安に声を震わせながら。
「平気よ。だって私の父が作らせたものなんだから」
 振り返るサキは僕の目を見る。
 それはいつもと違う、決意に満ちた眼差しだった。

 集落から離れた丘に、その場所はあった。
 人工的に土が盛られた巨大なその丘は、綺麗な円形に整地されており、広さは田んぼ一反ほどもある。
 驚くべきはその麓に見える構造物だ。
 石を積み上げて作られた、人が三人並んで入れる程の大きさの洞窟。その入口がぽっかりと口を開けている。

「父が死んだ時、この中に埋葬されるの」

 サキの父は、僕たちの村の長だ。
 村人を集めて数年かけて何かを作っているのは、そこで働いたことのある父さんから聞いていた。が、こんな近くに寄るのは初めてだった。
 僕はドキドキしながら、洞窟の入口をくぐるサキの後に続く。
 するとそこは石造りの部屋になっていた。

「うわぁ、素敵な場所だね」
「でしょ?」

 石で組み上げられた神秘的な空間。
 サキが松明に火を付けると、壁面に描かれている絵が炎に照らされて浮かび上がる。それは僕たちの村の風景を描いたものだった。
 見上げると巨大な岩が見える。天井は三枚の大きな板状の岩で構成されていて、全面が青く塗られ、数多の星が描かれていた。

「あれ、柄杓星だね」
 僕は見覚えのある星を指差した。
「そうよ、綺麗よね。でもこの部屋が素敵なのは、天井だけじゃないの」

 するとサキは松明を床に向ける。
 天井と同様の板状の大岩が敷かれている床面には、色とりどりの花が描かれている。
「すごい、すごい……」
 僕たちはこの村の自然を模した空間に立っていたのだ。

 ため息を漏らす僕のことをよそに、サキは松明を両手で持っての顔の前に火をかざし、祈りを捧げるように静かに目を閉じる。そしてゆっくりと呪文のような言葉を口にした。

「星在天、花在地、愛在人……」

 照らされるサキのふっくらとした横顔。
 目を閉じて祈りを捧げる姿は、村で一緒に暮らしてきた十五年間で一番美しい彼女だった。
 子供だけでは来てはいけない場所であることをすっかり忘れて、僕は彼女に見とれてしまう。
 やがて目を開けたサキは、神妙な顔で僕を向く。

「天には星、地には花、そして人には愛。この三つが揃った時、奇跡が起きるんだって」

 君がここに居ることが奇跡だ。
 そう言いたくなる気持ちをぐっとこらえる。
 サキは村の長の娘、一方僕は小さな農家の六男。
 お互い十五となった今、こうして二人で一緒にいることは決して許されない行為だった。

「父は真剣に信じてるの、その奇跡を。だからここに埋葬して欲しいと願ってる。笑っちゃうでしょ?」

 でもそれは素敵なことだと思う。
 農家に生まれた自分たちには、決して実現することのできないことだから。
 死後の世界にも夢を持てるのは、限られたごく一部の人たちだけなのだ。

「それにね、もしそうだったら今ここで奇跡が起こるはずじゃない? だって私たち、愛し合ってるんだから」

 ええっ!?
 愛し合ってるって?
 いやいや、僕はサキと手を繋いだことも……って、それはあるけど、それ以上のことをしたことはない。

「なに? その表情は。ロクは私のこと愛してないの?」
「愛してるって、そんなのいきなり訊かれても分からないよ。サキは僕にとって大切な人だけど」
「ははーん、父のことが恐いんでしょ?」
「恐いとかそういうことの前に、身分が違いすぎるよ」
「父に逆らって、私のこと奪いたいって思ったことないの?」
「奪いたいって……」

 サキはなんで、いきなりこんなことを言い出すのだろう?
 僕が困惑の表情を浮かべると、彼女はぽろぽろと涙をこぼし始めた。

「この間、父に言われたの。となり村の長の家に嫁ぐようにって……」

 僕たちの村では、女の子は十五でお嫁に行くことになっている。
 それは前からわかっていて、サキの相手は自分ではないことも理解していたつもりだったが、いざ彼女の口から聞くとショックだった。

「い、いつなの?」
「次の満月の日だって」

 な、なんだって!?
 槌で頭を殴られたような衝撃を受ける。
 ということは、あと数日でサキはいなくなってしまうんじゃないか。僕の近くから、永遠に。
 今なら手を伸ばせば届く美しい彼女の表情も、もう見れなくなってしまうのだ。
 ぎゅっと締め付けられるような胸の痛み。その穴の存在を見つけたかのように、サキが僕の胸に飛び込んできた。

「私、お嫁に行きたくない。ロクのそばにずっといたい……」

 だからサキは奇跡を願っていたのか。
 僕だって奇跡を起こしたい。それにはどうしたらいいんだろう?
 床に落ちた松明の火を見つめながら、胸の中の大切な存在をこの手の中に収めていいものかどうか、僕は迷っていた。

「ねえ、ロク。私のこと抱いて」
「抱いてって……」
「私のこと好きじゃないの?」
「そ、そりゃ、サキのことは大好きだけど」
「じゃあ二人で奇跡を起こしましょ! 私はロクのことを愛してる。あなたが自分の気持ちを解放してくれれば、きっと奇跡は起きる」

 そんなこと言ったって……。
 僕だってサキとお別れしたくない。
 でも現実を見れば、それは無理だということはわかる。僕たちは大人になろうとしてるんだから。

「ロクが私のこと抱いてくれなかったら、私は今ここで死ぬ」
 サキは僕から離れ、帯に挟んであった刃物を取り出した。鋭い切先が、僕に選択を突きつける。
「先にあなたを殺してからね」
 彼女の真剣な眼差し。
 この石室に入る前にちらりと見せた決意は、このことだったんだ。
 だから僕も覚悟を決める。

「僕もサキのことが好きだ。愛してる」
 刃物をぎゅっと握りしめる彼女に手を差し伸べる。
 そのとたん、彼女の顔を覆っていた緊張が剥がれ落ちた。手からするりと刃物が落ちて、カランと石室に甲高い音が響く。
 僕は彼女のことをしっかりと抱きしめた。
「私も。ロクのことを愛してる……」

 その時だ。
 ゴオという地鳴りとともに石室の岩がガタガタと揺れ始め、そして――



 ☆ ☆ ☆



「あー、たいくつだなぁ……」

 G県M市の五月の空は、今日も快晴だ。
 僕、九札帆高(くさつ ほたか)は、数学の授業をぼおっと聞き流しながら教室の窓に目を向けていた。
 白い雲、青い空。河岸段丘の上に建てられた我が高校の校舎の三階からは、大河川に沿って点在する街のビル群を遠くまで見渡すことができた。
 
 サイン、コサイン、タンジェント……。
 教室に響く先生の声と、数学の謎呪文が、窓から見える街並みに向かってすうっと飛んでいく。
 うーん、さっぱり分からないし、理解しても何に使えるのか全く見当がつかない。
 母ちゃんだって使ってるとこ見たことないし。
 
 僕は机に突っ伏し、寝たフリをする。
 数学の時間の唯一の楽しみと言えば、薄目の視界の隅に映る彼女の姿だから。
 窓側の席に座るクラス一の美少女、阿鍵晴菜(あかぎ はるな)。
 斜め前、といっても横横前の位置関係だから、首をかなり横にしないと彼女の御姿を崇めることはできない。
 授業中にその姿勢を取るためには、あからさまに寝ている生徒が多い数学に限るのである。

「いつ見ても、可愛いなぁ……」

 肩にかかる黒のストレートヘア越しに、ちらりちらりと見える彼女の横顔。
 眉は細すぎず、つぶらな瞳を二重のまぶたとぷっくりとした涙袋がより魅力的なものにしている。
 何よりも好きなのは美しい鼻筋のライン。目を閉じれば、その輪郭をそらんずることができるほどに。
 血色の良い唇に、すっとした顎。そして僕は、制服のなだらかな丘に視線を移す。

 それほどの阿鍵さんなのだが、誰かと付き合っているという噂を聞いたことがない。
 高校二年生にもなれば、クラスの可愛い女の子は皆、誰かと付き合っているという状況なのに。
 かといって、自分から声を掛けることなんて考えられないくらい僕はヘタレだっだ。一年生の時も同じクラスで、二年生でも一緒になれた時はめちゃくちゃ嬉しかったのだが。

「あーあ、アニメや小説だったら、委員会とかが同じになるんだけどな……」

 僕は図書委員。
 一方、阿鍵さんは美化委員だ。
 いやいや、彼女だって図書委員だったんだよ、一年生の時は。
 だから二年生になったら僕も図書委員に立候補したっていうのにさ。

『ねえ、帆高くん? サン=テグジュペリとか武者小路実篤っていいよね!』
 なーんて言われたら、めちゃくちゃ会話が弾んですぐに仲良くなれるのに。
 そんなことを夢見た高校二年生は、出鼻で挫かれてしまったんだ。


 阿鍵さんを見ているのが大好きな僕に、ある日、奇跡のような出来事が起きた。
 朝、教室に着くと、机の中に一通の手紙が入っていたのだ。
 ――阿鍵晴菜。
 その名前を目にしたとたん、僕は慌てて手紙をカバンに隠す。

(まさか……。でも、どういうこと?)

 様々な憶測が僕の脳を支配する。当然その日は、授業どころではなくなってしまった。
 そりゃそうだ、大好きな阿鍵さんからの手紙を受け取ってしまったのだから。
 その日はずっと彼女の存在が気になってしまう。気がつくと、視線は彼女の後ろ姿を追っている。
 しかし、休み時間になっても、昼休みになっても、彼女が僕を気にする素振りは全くないのだ。
 手紙を出したのなら、ちょっとは意識してくれてもいいと思うのだが……。

(もしかして、誰かのいたずら……とか?)

 その可能性は十分考えられる。
 僕は誰のグループにも属さないクラスでも浮いた、いや沈んだ存在。ターゲットにするなら格好の標的だろう。
 もし犯人がこのクラスにいるのなら、ニヤニヤしながら僕のことを眺めているに違いない。急に挙動不審になった僕の様子を。
 そう思った瞬間、放課後まで冷静でいるように心がけた。こんな卑劣なことをする奴に、決して燃料を与えてはいけないのだ。
 ホームルームが終わると、僕は何もなかったかのように教室を後にする。手紙が入ったカバンを掴んで。
 そして理科室やら音楽室やらが並ぶ人気のない階のトイレに入ると、個室に籠もってその手紙を開けた。


『今日の午後五時、宝塔塚古墳に来て』


 手紙の内容は、これだけだった。

(はたして、その場所に姿を表すのは誰だ!?)

 考えられるのは、阿鍵さんか、他の誰かか、もしくは誰も来ないか。
 ということは、ということは、阿鍵さんが来る確率は三分の一ってことじゃないか!
 確率が三分の一もあるなら行くしかない、と数学オンチな僕は即刻行くことを決意したのであった。
 一応なにかあった時のために、家族ラインに『宝塔塚古墳で死後の世界を覗いてくる』とささやかな遺書を残して。

(ていうか、宝塔塚古墳って何? それって、どこにあるの?)

 転勤族だった父のせいで、僕の家は引っ越しが多かった。
 今住んでいるこのM市だって、中学生の時に引っ越してきたばかりなのだ。
 だから、あまりこの街のことは知らなかったりする。
 しょうがないので僕はスマホを取り出し、『宝塔塚古墳』について調べ始めた。

 ――G県M市にある七世紀末築造の円墳。
 ――直径三十メートル高さ五メートルで、切石切組積みの両軸型横穴式石室がある。

 すげぇ、ちゃんとネットに載ってるじゃん。
 それに思っていたより高校から近い。二キロくらいだから、歩いても五時までには余裕で着けるだろう。

「古墳で待ち合わせなんて、なんて古風な人なんだろう。阿鍵さんって」

 ネットに掲載されている魅力的な古墳の写真。
 それを眺めているうちにすっかり古代のロマンで頭が一杯になってしまった僕は、いたずらの可能性をころっと忘れて古墳に向けて歩き出した。


 宝塔塚古墳は、住宅街の真ん中にあった。
 古墳はこんもりとした森に囲まれているもの――とばかり思っていた僕は拍子抜けする。
 円墳の側面は芝生になっていて、頂上部だけに木々が生えている。つまり、住宅街の中にある巨大な芝生丘公園という感じなのだ。
 が逆に、それは好都合かもしれない。住宅が近くにあるなら、何が起こっても大声で助けを呼ぶことができるだろう。
 ひとまず身の安全を確認した僕は、ネットに載っていた石室に行ってみる。
 それは予想を遥かに超えた、立派な構造物だった。

「すげぇ、なんかピラミッドの中みたいだよ」

 ピラミッドなんて行ったことないけど。
 でも、テレビでよく見るような石造りの構造が、圧倒的な存在感で僕の目と心を奪っていた。
 しかもこの古墳は、石室の中に自由に入れるらしい。

「おじゃまします……」

 しずしずと石室に足を踏み入れる。
 古墳といえば、古人(いにしえびと)のお墓だ。
 この中に、かつて遺体が安置されていたことは紛れもない事実なのだ。
 そんなところでいたずらに遭うのも嫌だが、死者の霊に取り憑かれるのはもっと怖い。
 僕は心を神聖な気持ちで満たしながら、中に進んでいった。

「それにしてもすごい。こんなところが近くにあったなんて……」

 中に入ると、石造りの構造のすごさがよく分かる。
 幅二メートル、高さ二メートルくらいの空間。そこは、見事なまでに角型に加工された石で囲まれていた。
 側面の石は、互いがぴったり合わさるように加工されていて、隙間はほとんどない。
 天井に至っては、三枚の巨石によって構成されていた。

「こんな巨石、七世紀の人たちが、どうやって加工して、どうやって運んで来たんだろう……」

 その時だった。
 すっかり石室に夢中になってしまった僕は、不覚にも背後に迫る人の気配に気づかなかったのだ。

「早かったのね、九札帆高クン」

 振り返るとそこには、制服姿の阿鍵さんが立っていた。
 
 
 ☆


「来てくれて、ありがとう」
 阿鍵さんは無表情のまま僕の目を見る。
「まあ帆高クンなら来てくれると思ってたけど。あれだけ毎日、私のこと見てるんだから」
 僕のことを小馬鹿にするようなセリフを吐きながら。
 ていうか、いつも彼女を眺めていたことがバレバレだったなんてめちゃくちゃ恥ずかしい。
 それよりもなによりも、大好きな阿鍵さんがこんにも近くにいて、いい香りが鼻をくすぐることに僕の心臓はバクバクとフル回転を始めていた。
 僕の身長は一七〇センチだが、阿鍵さんは一六〇センチもない。このままでは激しい鼓動が彼女の耳に届いてしまう。
 が、彼女は僕の動揺なんか気に留めず、石室の天井を見上げた。

「ここ、すごいでしょ?」
「あ、ああ」
 やっとのことで声を出す。
 何を話したらいいのか、どうしたらいいのか、軽くパニクっていた僕には助け舟となる彼女の一言にほっとする。
 というか、呼び出されたのは僕の方なのだが。
「古墳ができた頃はね、この壁一面に絵が描かれていたそうよ」
「へぇ~」
 僕は壁画を見るふりをしながら壁に近づき、彼女との距離を空ける。これで少しは自分らしい行動を取れそうだ。
 実際に壁に手を当てると、壁画があったとは思えないほどゴツゴツとした岩肌が露わになっていた。
「天井にはまだ痕跡が残っていて、これを当てると見れるの」
 そう言いながら、阿鍵さんはバッグの中から何かを取り出す。
 それは、掌に収まるくらいの懐中電灯だった。
「ブラックライトっていうの。紫外線を当てる装置」
 そして彼女は、ブラックライトを天井に向けた。

「うわぁ」
 思わず声が出てしまった。
 なんとも幻想的な光景だったから。
 薄暗い石室の天井が、ブラックライトを浴びて紫色に光り始めている。
 それはかつて描かれていたと思われる絵柄、天に広がる一面の星空だった。

「すごい……」
 ため息を漏らす僕に、阿鍵さんが解説を始める。
「このブラックライトを当てるとね、蛍光をもつ物質が反応するの。砕いて染料にしていた鉱物に、そんな成分が含まれていたんじゃないかってパパは言ってた」
 北斗七星らしき星座も見える。
 古人もこれを見上げていたと思うと、歴史のロマンを感じてしまう。
 古墳ができた時代と変わらぬ星空。僕たちの時間は過去と繋がっている。
「これを僕に見せるために?」
「違うわ」
 間髪入れず響く彼女の冷たい声。
 急降下した声の温度に、やっちまったかと僕は後悔した。

「見て。床面にも絵が描かれていたの」
 彼女は今度は床にブラックライトを向ける。
 床の大岩の中央には大きな草むらのような塊が紫色に浮き上がり、その周囲にたくさんの花々が描かれていた。
 しかし不思議だ。
 これを僕に見せることが目的ではないというのに、なぜ僕をここに呼んだのだろう? わざわざブラックライトを持参して。
 頭の中をはてなマークで一杯にしながら阿鍵さんを見る。いつの間にか両手で包み込むようにブラックライトを手にする彼女は、ライトが照らす紫色の星々を見上げていた。
 そして一息吸うと、静かに言葉を紡ぎ始める。

「天に星、地に花、人に愛……」

 祈りを捧げるように。
 これはなにかの儀式なのだろうか? 死者の魂を呼んでいる――とか?
 それなら僕は、生贄ということになる。

「ねえ、帆高クン。この言葉知ってる?」
「確か武者小路実篤、だったっけ?」
「さすがね。一般にはそう言われている。でもね、この地に古くから伝わっていた言葉でもあるの。この古墳ができた時にはすでにね」

 ネットには確か、この古墳は後期の築成で七世紀と書いてあった。
 千年以上も前からこの言葉がこの地に伝わっていたとは驚きだ。

「武者小路実篤の場合、色紙に好んで書かれたのがこの言葉だった。つまり彼にとっては描写の一つだったんだと思う。でもこの地に伝わる言葉は、別の意味で使われていた……」

 いにしえから伝わる言葉。
 それは意味を持って使われていたという。
 一体どんな使われ方をしていたのだろう?
 ただでさえ美しい阿鍵さんがブラックライトを持つ姿が巫女のようで、僕には神々しすぎてゴクリと唾を飲んだ。

「この三つが揃う時、奇跡が起きるんだって」

 そのことで、僕がとんでもない災難に巻き込まれることを知らずに。


 ☆


「帆高クン。貴方は私を愛することができる?」

 いきなりの質問に戸惑う。
 もちろん僕は、阿鍵さんが大好きだ。彼女の容姿を愛している。
 が、彼女の人格まで愛せるかというと圧倒的に情報が足りない。
 こんなにたくさん会話したのだって、今日が初めてなんだから。

 一向に口を開こうとしない僕を見て、阿鍵さんはふっと口元を緩めた。

「あんなに私のこと見てるのに、結構意気地なしなのね。まあ、即答する軽い男よりは百倍マシだけど」
 続けて彼女は、僕の心を鋭くえぐる言葉を投げつけた。
「まあ、私も貴方のこと好きでもないし、愛してもいないからお互い様だけどね」

 ええええっ、そうなの?
 ――僕に好意を持っているから呼び出したんじゃないだろうか?
 彼女がここに姿を現した時に芽生えた小さな期待は、無残にも粉々に砕かれてしまう。
 しかしショックで打ちひしがれる間もなく、阿鍵さんは予想外の質問を始めた。

「じゃあ、言い方を変えるね。もし貴方と私との間に子供ができたとしたら、その子を愛することができる?」

 いきなり何を言い出すのだろう? この人は。
 僕は阿鍵さんと手を繋いだこともないというのに。
 でもこの質問には答えることができそうな気がした。不思議な確信を持って。
 
「それって自分の子供ってことだろ? 自分の子供を愛さない親がいるのか?」

 たぶん間違いなく、僕はその子を愛するだろう。
 阿鍵さんとの子供なら、なおさらに違いない。
 すると彼女は、僕の答えを待ちわびていたように不気味な笑顔を浮かべた。

「私もね、自分の子供を愛すると思う。私は愛する、貴方も愛する。だったら私と貴方の間に、その時愛が生まれるってことなんじゃない?」

 何だよ、その論法。
 A=B、B=Cなら、A=Cと言いたいのか?
 数学オンチの僕だって、それがなんかおかしいってのは分かる。愛に適用するなんてことは。
 時代が進むと愛もそんな風にデジタルになっちゃうのだろうか?

「だからね、ここで試してみたいの」
「試すって?」
「あら、今説明したじゃない。貴方の愛と、私の愛を一つにする方法。ここで奇跡を起こすためにね」

 いやいや、全然分からないんだけど。
 今からここで、恋愛数学の授業をやろうって言うのだろうか?

「まだ分からないの? セックスするのよ、ここで。二人が絶頂に達した時、互いに「子供が欲しい」って思ったら、それは愛だと思うの」

 な、なななな、何を言ってるんだ、この人は!?
 セ、セ、セックス!? 僕と阿鍵さんが?
 そもそもそれは、まず手を繋いで、デートに行って、キスをして、抱きしめて、そうして初めて行える行為なんじゃないの?
 それをいきなりセックスって、そんなの出来るわけないじゃないか。

 どう反応していいのか迷う前に、僕の顔は真っ赤になっていたに違いない。
 一方、阿鍵さんは真顔で僕のことを観察している。男の僕だって恥じらうその言葉を、顔色一つ変えずに発音できる彼女って、一体何者なんだ?

「そんなの、いきなり出来るわけないじゃないか」
「あら、気にしなくていいのよ。私、処女じゃないから」
「そ、そ、そういうことじゃなくて」
「貴方が初めてならやり方くらい教えるわ。それとも何? 本当に子供ができるか疑ってる? 大丈夫、今日あたりが排卵日だからバッチリよ。ってまさか、まだ精通してないってことはないよね?」
「な、ななな……」

 僕は言葉を失った。
 精通くらいしてるよ、と叫びたかったが、そういう問題ではない。
 彼女の発言は僕の理解を遥かに超えていた。
 刺激的な言葉のオンパレードで真っ赤になった顔をこれ以上晒したくない。その一心で、僕は彼女を拒絶する。

「そうじゃなくて、もっと自分を大切にしなよ。子供ができたら、学校休まなくちゃいけなくなるんだよ!?」
「と言ってる割には、下半身は正直みたいだけど?」

 見ると僕の制服のズボンは壮大にテントを張っていた。
 かあっと頭に血が上って、赤い顔がさらに紅潮していく。
 理性では強く否定しているのに、本能に忠実な下半身が許せない。僕は慌てて股間に手を当てる。

「準備は万端なようね。じゃあ、始めましょうか」
 と言いながら、阿鍵さんが制服のスカートの中に手を入れようとした時――石室の外から声が聞こえてきた。

『えー? この中に入るの?』
『大丈夫だよ、俺も一緒だからさ』

 どうやら肝試しに来たカップルらしい。
 スカートの中に手を入れるのをやめた阿鍵さんは、声のする入口を振り向く。
 ――今だ!
 僕はここぞとばかりに彼女の手を掴むと、石室の外に向かって駆け出した。


 ☆


「あーあ……」
 古墳が見えるベンチに腰掛けた阿鍵さんは、石室の入口を眺めながらぼやき始めた。
 僕も少し距離を置いて同じベンチに座り、股間を隠すように膝の上で手を組んで、彼女と同じように恨めしそうに石室を眺めていた。
 
 夕方六時近くになっても、五月の空はまだ明るい。
 帰宅するサラリーマンや学生、犬の散歩やらで古墳の周りは人通りが増えてきて、石室の中で秘密の行為に興じるなんてことは不可能になっていた。
 体の火照りが上も下も収まってきた僕は、一言、彼女に訊いてみる。

「なんで、あそこで奇跡を起こしたかったんだ?」

 しかし彼女は何も返事をしない。
 ベンチに座ったままで足をぶらぶらさせている。
 怒っているのかと恐る恐る表情を伺うと、古墳を見つめてぼんやりしている。どうやら何か考え事をしているようだ。
 すると突然、阿鍵さんは僕の方を向いた。

「もう一回同じ質問するけど、貴方は本当に自分の子供を愛せる?」

 同じと言いながら、ちょっとだけ内容が変わった。
 阿鍵さん限定ではなくなった分、僕にとっては答えやすい。
 将来、僕は誰と結婚するのか分からないが、自分の子供はきっと愛するだろう。

「ああ、愛する」

 今度は自信を持って答えることができた。
 だから、その眼差しを阿鍵さんへ向ける。先ほどのゴタゴタの仕返しも込めて。
 すると目が合った瞬間、彼女は表情をくしゃくしゃにした。

「私だって愛すると思う。でもパパは言うの、ママと別れるって。ママはママで、私を連れて出て行こうとしてる。私、ここを離れたくない……」

 ぽろりぽろりと阿鍵さんの目から涙がこぼれ落ちた。
 
 

 ☆ ☆ ☆



 あれから数日間、僕は阿鍵さんをまともに見ることができなかった。
 彼女も、僕に声をかけようとはしない。
 あの日の涙が本物だったとすると、近いうちに彼女は引越してしまう可能性がある。

「近くだったらいいんだけど……」

 となりの市くらいだったら、今まで通りこの高校に通えるだろう。
 でももっと遠くに行ってしまったら?
 彼女は転校してしまうかもしれないのだ。

「一体、どうしたらいいんだろう……?」

 奇跡を願ったのは、両親の離婚を阻止したかったんだと思う。
 いや、奇跡を起こそうと思ったんじゃない。僕に助けを求めたんだ。
 もしあの時、行為に至って子供ができたとしたら、僕は彼女と一緒になることを望んだだろう。その気持ちを、僕の行動を利用したかったんだと思う、離婚を阻止するために。それが僕の心を傷つけることになったとしても。
 
「だったら、それに乗ってやろうじゃないの!」

 僕は大好きな阿鍵さんのために、一世一代の大芝居を打つことを決意した。


 ☆


 早朝の教室で僕が阿鍵さんの机に手紙を入れたのは、最初に手紙をもらってから十日目のことだった。
 大芝居を打つには、しっかりとした作戦を練る必要がある。シナリオを作り、セリフを考える。練習をして、彼女の前でも堂々と実行できる自信がつくまで、それくらいの日数がかかったという次第だ。

 放課後、古墳が見えるベンチで待っていると、時刻通りに阿鍵さんがやってきた。
 そして彼女はいきなり、前回の続きを思わせる過激発言を繰り出した。

「今日はあの中に入っても何もしないわよ。そろそろ生理が来るころだから、子供なんてできないしね」

 本当に歯に衣を着せない人だと思う。
 でも、そういう人だと分かっている分、今日は冷静に対応できそうだ。
 僕はこの数日間練習してきたセリフを頭の中に用意する。練習を重ねたのは、僕的にとても恥ずかしい語句が満載なのだから。

「僕だって何もしないよ。だってあの時、しちゃったんだからね」
「しちゃったって何を?」
「だからセックスをだよ」
「はぁ?」

 い、言えた!
 彼女の前で真顔でセックスという単語を。
 十日前には考えられなかった進歩だ。
 一方、阿鍵さんはあっけに取られていた。

「だから君のお腹の中には僕の子供がいる」

 これが僕の作戦だった。
 というか、彼女の作戦を受け入れただけ、と言うべきかもしれないが。
 すると阿鍵さんはニヤリと口角を上げた。

「へぇ、それで?」
「僕は、君の両親に挨拶に行かなくちゃいけない」
「パパに殺されるわよ」

 いやいや、その殺されるようなことをしようとしたのは誰だよ!
 突っ込みたくなる気持ちを抑えて、僕は淡々と作戦を続けた。

「殺されるのは嫌だけど、殴られるのは覚悟してる。そして、将来結婚させて欲しいとお願いする」

 阿鍵さんの目を見る。
 どれだけ僕が真剣なのか、まず彼女に分かってもらえなければこの作戦は成功しない。
 ていうか、よく考えたらこれってプロポーズじゃないか。たとえ芝居だとしても。

「ふうん、ホントにそれやるの?」
「ああ」
「マジで? 冗談ぬきで? 途中で逃げたりしないでしょうね?」
「決して逃げたりしない」

 僕は視線に力を込めた。
 大好きな阿鍵さんの瞳は何時間だって見つめることができる。懐疑的な表情もまた魅力的な彼女は美しい。
 やがて根負けした阿鍵さんは僕から目をそらし、正面の古墳を見る。

「そしたらパパとママは、別れなくなると思う?」
「逆だよ、別れても意味がないと思わせるんだ」
「それってどういうこと?」
「これは勝手な憶測だけど、別れたら子供、つまり阿鍵さんのことを独占できると思ってるから争っているんじゃないのかな? 別の人間に盗られてしまうという危機に晒されれば、争っていられなくなる」
「ふうん……」

 彼女の答えは曖昧だったが、なんとなくは納得してくれたようだ。
 僕はひとまず、ほっと胸を撫で下ろす。
 すると阿鍵さんから提案があった。

「それをやるなら、あと一週間待って欲しい」
「どうして?」
「どうしてって、排卵日から十日ちょっとじゃ妊娠したかどうかなんて分からないでしょ? 貴方、本当に女の子のこと知らないのね」
「ごめん……」
「まあ童貞っぽいし、仕方ないっちゃ仕方ないけど。私も生理が来ないフリして、ママになんとなくアピールしておくわ」
「そうしてくれると助かるけど、当日はできるだけご両親に衝撃を与えたい。僕も相当の覚悟でやるから、どうせやるなら最大限の効果が欲しい」
「まあ、そうよね。これってショック療法みたいなもんだしね……」

 それから僕たちはラインを交換した。
 決行日に向けて詳細を詰めるために。

「それで、場所はどうする? 家に来る?」
「それなんだけど……」

 僕は、その日のために考えた場所を打ち明ける。
 阿鍵さんも、その作戦に納得してくれた。

 そして、決行の日はやってきた。



 ☆ ☆ ☆



「家の近くにこんなところがあったのね、知らなかったわ」
「すごいだろ? 七世紀の人たちにこんな優れた石工技術があったとは驚きだよ」

 石室の外から男女の声がする。
 隣りに立つ阿鍵さんが「来たわよ」と僕の脇を肘でつついた。
 ――いよいよだ。
 僕はゴクリと唾を飲む。

 六月になった最初の日曜日。
 宝塔塚古墳の石室で待つ僕たちのもとに、阿鍵さんの両親がやって来た。
 阿鍵さんから最初に手紙をもらってから二十日目、二人で作戦の相談をしてから十日目のことだった。

 薄暗い石室の中からは、シルエットになって両親の表情はよく見えない。
 一方、両親からは僕たちの顔はよく見えるだろう。
 これも作戦の一つだった。これから重大な告白をする身としては、相手の表情が分からない方がやりやすい。

 さあ、始まるぞ。
 この間の大芝居よりも大きな、今まで生きてきた人生の中で最大級の芝居が。
 ドキドキと鼓動が激しくなって今にも心臓が飛び出しそうだ。
 僕は大きく息を吸って、石室の中に入ってきた二人に声を掛ける。

「初めまして。僕は晴菜さんと同じクラスの九札帆高と言います。わざわざここに来ていただきありがとうございます。今日は大事なことを……」
「とその前に、何でこの場所を選んだのかね?」

 出鼻をくじくように、父親が僕の言葉を遮る。
 そして彼は、石室の天井を見上げた。

「ここが奇跡の間、だからか?」

 ――奇跡の間。
 そんな言葉、初めて聞いた。
 が、そう呼ばれるにふさわしい伝説は知っている。阿鍵さんからの話で。
 そう、これが僕の考えた作戦だった。
 今日両親に会う場所をここに指定したのも、奇跡を起こす場所だからだった。

「そうよ」
 腕を組んで仁王立ちする阿鍵さんが冷たく答える。
「パパも晴菜も詳しいのね。私にも教えて頂戴?」
 母親が彼女を見る。
 すると「俺が説明しよう」と父親が解説を始めた。

「ここは七世紀、つまり千三百年以上も前の飛鳥時代に造られたんだ。これだけ精密に石を組み上げて造られた石室は他の県では滅多に見られない。それどころか、この県にはもっと巨大な古墳がいくつもあり、東日本ではナンバーワンなんだ。なんでこの県には、これほどまで古墳文化が栄えたんだと思う? 帆高クン」

 いきなり振られてしまった。
 今日は土下座して、殴られて、それで終わると思っていたのに。
 きっと父親は僕のことを試しているのだろう。話を聞くに値する男かどうかを。
 だから僕は知恵を絞る。これほどまで瞬間的に思考を巡らせたのは、高校入試以来かもしれない。

「巨大な権力を持つ支配者がいたから、でしょうか?」

 父親は「ほお」と頷きながら、僕の表情を観察している。
 古墳といえば、西日本では超巨大な前方後円墳や、巨石を積み上げたものを連想する。
 そんな構造物は、権力が無ければ造り上げることはできないだろう。
 それならこの県の古墳だって、同じことが言えるはずだ。

「それもあるかもしれない。しかしここは東国だ。東国の中でもこの県は大陸にアクセスしやすかった。大陸文化や、埴輪の原料となる粘土が手に入りやすいなど、この県独特の風土が影響したのではないかと考えられている」

 そんなことが影響しているんだ……。
 現代のように電車も飛行機も無かった時代だ。地の利がそこで暮らす人々の生活に大きく影響したことは十分考えられる。

「そして、この石だ」
 父親は壁に近づき、岩肌を手で確認し始めた。
「これは溶結凝灰岩だ。これほどまでに加工しやすい石は火山の近くでしか採掘することができないんだよ。だからG県は東国ナンバーワンの古墳県になったと私は考えている。そして築造当時、この壁面には漆喰が塗られ、壁画が描かれていた」

 父親は再び石室の天井を見上げる。
 かつて、阿鍵さんが僕の前でそうしたように。
 そして彼女から聞いたのと同じ言葉を、彼は唱え始めた。

「天に星、地に花、人に愛。この三つが揃う時に奇跡が起きる。そんな願いを込めて、この石室は造られたんだ」

 僕はようやく理解した。
 阿鍵さんが僕に披露した知識は、父親からの受け売りだったんだ。
 そういえばあの時、「パパから」って言っていたような気もする。

 だったら、この『奇跡』を利用してやろう。
 僕は頭の中で用意していたセリフの言葉を、『奇跡』に置き換える。
 そして再び、大きく息を吸った。


 ☆


「僕たちもその奇跡を願っています! 一つは、晴菜さんのお腹の中にいる僕たちの子供がすくすくと成長することを! そしてもう一つは、おじいちゃん、おばあちゃんとしてお二人に末長くその子の成長を見守っていただけることを!」

 僕は石室の床にひざまづき、深々と頭を下げた。
 本当は順序立てて説明する予定だったが、インテリ風の父親にはそれは無用と僕は直観した。間を置いて隙を与えれば、きっとさっきのように質問攻めに遭うに違いない。それならば、一気に事を片付けた方が良いと僕は判断した。
 でも、初対面で「おじいちゃん、おばあちゃん」はちょっと失礼だったかも? 頭を下げながら僕は後悔する。
 予定外の僕の行動に、阿鍵さんも同調してくれたようだ。横に感じる彼女の気配は、僕と同じように床にひざまづき頭を下げる仕草だった。

 石室の中で沈黙が続く。
 頭を床面につける僕にとってそれは、永遠に続くように感じられた。

 すると父親の重い声が石室に響く。
「妊娠は確実なのか?」
 僕が答えようとすると、阿鍵さんが先に口を開く。
「まだ検査はしてない。でも、予定日から一週間過ぎても生理が来ないの。だから早く知らせようと思って……」
「そうか。じゃあ、まだ確定じゃないんだな」
 
 再び沈黙が訪れる。と突然、母親の笑い声が聞こえてきた。

「お、おばあちゃんですって。素敵じゃない? ねえ、あなた。あなただって、おじいちゃんになるのよ。もちろん大歓迎よね?」
「えっ? あ、ああ……」

 戸惑いに満ちた父親の声、完全に同意していないのはあからさまだ。
 一方、母親は嬉しそう。こんな反応は予想外だったが。

「ねえ、二人とも顔を上げて」
 母親の声で僕たちは顔を上げる。
「恥を忍んで言うけど、私たち離婚するところだったの。だってこの人、それはそれはひどいことしてたんだから。帆高クンには決して言えないようなことをね」

 どうやら離婚騒動は本当で、その原因は父親にあったらしい。
 その証拠に、父親は厳しい表情のまま沈黙を貫いている。

「私は賛成よ。順番が逆になっちゃったのはちょっと残念だけど、これも因果応報なのね。ほら、あなた。私たちはもうおじいちゃんとおばあちゃんなんだから、諦めて何か言ってあげなさいよ」

 すると父親がゆっくりと口を開く。
 ――言葉と一緒に拳が飛んでくるかもしれない。
 そう覚悟する僕に、彼は低くて重い声で問いかけた。

「君は晴菜を愛しているのか?」
「はい、愛しています」
「晴菜はどうだ?」
「私も彼を愛してる。だからこの子を産みたい」

 打ち合わせ通りのセリフだが、実際に阿鍵さんに言ってもらうと勇気が湧いてくる。
 嬉しくて嬉しくて、夢じゃないかと思ってしまう。
 しかし将来、こんな日が本当にやって来るのだろうか?

「子供が産まれた後はどうする?」
「高校を卒業したら仕事を見つけて結婚します。それまではどうか、お二人に子供の面倒を見ていただきたいのです」
「パパ、お願い。それまではまだ一緒に暮らせるでしょ?」

 阿鍵さんは父親のことを熱く見る。
 すると父親はふっと表情を崩した。

「わかった。それまではこちらの家で子供の面倒を見よう。それより、帆高クンのご両親はこのことを知っているのかな?」
「いえ、まだ話していません。まずは、お二人にご報告しなければと思って……」
「わかった。子供のことはこちらでなんとかすると伝えて欲しい。それでいいよな?」
 父親が母親を向く。
「もちろんよ」
 二人の同意。
 それは僕たちのことが許され、さらに阿鍵さんの両親の離婚が回避された瞬間だった。


 その時だ。
 ゴオという地鳴りとともに石室の岩がガタガタと揺れ始める。


「地震だ!」
「危ない!!」
 
 阿鍵さんを守らなくてはと思った僕は、ひざまづく体勢から上半身を起こす。
 慌てて隣りを見ると、彼女の上にはすでに父親が覆いかぶさっていた。
 そして二人は見つめあっている。まるで別れを惜しむかのように。
 まあ、実際には阿鍵さんは妊娠していないのだから、まだまだ別れは訪れないのだけど。

 地震はすぐに収まり、皆で慌てて石室の外に出た。話もそこで終わりとなった。
 僕の作戦は見事に成功したのだ。
 おそらく後日、阿鍵さんは両親と一緒に妊娠検査をして陰性が判明するだろう。
 それでいいのだ。実際、彼女は妊娠していないのだし、それにも関わらず僕たちの関係は阿鍵さん両親の公認となった。これは僕にとって、ものすごい一歩なのだ。
 妊娠していないことが判明したら、彼女の両親にまた離婚の危機が訪れるかもしれない。いや、そうならないよう僕が間に入らなくちゃいけないのだ。阿鍵さんがこの地から離れて行かないように。

 それにしても、こんなに上手くいくとは思わなかった。
 父親に「どこの馬の骨」とののしられ、ドラマのように殴られることも覚悟していたのだが。
 母親の反応も意外だった。阿鍵さんの妊娠に戸惑うどころか、逆に歓迎しているようだったじゃないか。まあ、そのおかげで父親の態度が軟化したので、本当に助かった。

 阿鍵さんの両親に同意してもらった瞬間、地震が起きたのは驚きだ。
 もしかして、あれが奇跡だったのだろうか?
 すると、天の星と地の花、そして人の愛の三つが揃ったということになる。
 両親の離婚が回避されたから、二人の愛が復活した――とか?
 まさか、阿鍵さんの中で僕への愛が芽生えた――てなことは、ないだろうな……。

 そもそも、父親がしていた「僕に言えないひどい事」って何だったんだろう?
 ギャンブル? それとも浮気?
 まあ、余計な詮索は止めておこう。今のところ作戦は上手くいっているのだから。
 あとは僕の両親だけだ。父ちゃん母ちゃんへの説明が済んだら、阿鍵さんと恋人らしい関係を一から築いていこう。

 これですべてが上手くいく。
 来週末になったら、阿鍵さんをどこかに誘ってみようかな?
 学校で会うのもなんか楽しみだ。だって二人だけのすごい秘密ができたのだから。クラスメートは誰も知らない、僕たちだけの秘密が。
 僕は、来週からの高校生活に胸を膨らませ始めた。しかし――












 数日後、阿鍵さんの妊娠が明らかになったんだ。



 ☆ ☆ ☆



(どうして、阿鍵さんが妊娠……?)

 阿鍵さんの両親から連絡が入った時、僕は自分の耳を疑った。
 それは到底受け入れられるものではなかったから。
 それもそのはず、僕は阿鍵さんとセックスしていない。

(じゃあ、子供の父親は……誰?)

 僕は考える。
 彼女の母親が言っていた「僕に言えないひどい事」の意味を。
 そして地震の後での阿鍵さんと彼女の父親が見せた親密ぶりの理由を。
 これらを彼女の妊娠と結び付けるとすれば、たどり着く真相は一つだった。

(まさか、阿鍵さんと彼女の父親が……??)

 そんなことってあるだろうか?
 でもそうとしか思えない。
 ――自分の夫と娘が関係を持っていた。
 それを知った母親が離婚を決意し、父親と阿鍵さんとを引き離そうとするのはごく自然な流れのような気がした。
 僕が告白した時に母親が喜んでくれたのは、その悪しき関係を断ち切ってくれると判断したからだろう。

(じゃあ、妊娠のタイミングは?)

 僕が阿鍵さんから手紙をもらった日の直前に違いない。
 おそらく父親との関係中に、避妊に失敗してしまったのだろう。
 困った阿鍵さんは、教室の中でカモになりそうな男を探したんだ。彼女の両親とトラブルになりそうもない真面目そうな生徒を。
 告白の時の父親の様子もあっさりし過ぎていた。
 きっとそれは避妊失敗の負い目があったからに違いない。父親にとって僕は救世主に見えたことだろう。

(もし僕があの日、阿鍵さんとセックスしていたら???)

 これが最初の阿鍵さんの目論見だったのだろう。
 考えれば考えるほど、泣きたくなってくる。
 自分で言うのもなんだけど、こんなに純粋な男子高校生の心を弄ぶなんて最低最悪だ。
 ――お腹の中の子供を愛することができる?
 あれは僕に向けられた言葉ではなかった。彼女自身に対しての問いかけだったんだ。
 それなのに僕はあっさりと信じて、両親に謝罪までして。
 もしあの時阿鍵さんとセックスしていたら、僕は自分の子と疑わずに他人の子を育てていたかもしれないんだ。

(だったらその奇跡を使って、阿鍵さんと一緒に……)

 阿鍵さんを憎めたらどんなに救われただろう。
 でもそれはできなかった。だって僕は阿鍵さんが大好きだから。
 あの日、僕に見せてくれた涙。
 そして、偽りだとしても、一緒に子供を育てたいと両親に誓ってくれた言葉。
 今の僕にはそれで十分だ。それを胸に、あの場所で奇跡を起こしてみよう。

 幸い、彼女の妊娠は僕と彼女の家族だけの秘密で、まだ公にはなっていない。
 僕は自分の両親にもまだ話していなかった。妊娠していないことが明らかになってからの方が、両親にショックを与えずに済むからだ。
 が、いずれ阿鍵さんの妊娠は誰もが知る事実となるだろう。それまでに何とかしなくてはならない。

 だから僕は準備を進める。
 全世界に向けての遺書を書き進めて、さらに図書館に行って奇跡のもとになった言い伝えを探した。
 彼女があの日僕に語った奇跡に酔いながら、あの世に逝けるように。
 そして誰も傷つかない偽の真実が、この世の中に残るように。

 準備が整った六月の終わりの日曜日、僕は古墳に阿鍵さんを呼び出した。


 ☆


 その日は、梅雨晴れだった。
 奇跡を願う人生最期の日を、最高の青空が祝福してくれる。
 僕は一人、宝塔塚古墳の石室で阿鍵さんを待つ。
 思えば、ここでいろいろなことがあった。
 天井の星の絵、床面の花の絵、そして突然のセックスの誘い。
 阿鍵さんの両親に対しても大芝居を打った。それもこれも今日ですべてが終わる。

 すると一人の人影が石室の中に入ってくる。
 シルエットで大好きな顔や私服姿が見えないのが残念だが、背や格好、そしていつもの香りで阿鍵さんとわかる。

「真実を教えて欲しい」

 僕はいきなり阿鍵さんに問いかけた。
 彼女もここに呼ばれた意味を理解しているはずだ。その証拠に、彼女はお腹に手を当てながら僕を見る。

「この子の父親、ってことよね?」
「そうだ」

 阿鍵さんは一度下を向いて一息吸うと、意を決したように話し始めた。

「パパよ。以前から関係を持っていたの」

 やはりそうだったのか。
 彼女は僕が驚きを見せないことを確認すると、さらに言葉を続けた。

「ずっとパパの子供が欲しかった。でもパパは、私のこと娘としか見てくれない。だからこうするしかなかった……」

 ぽろり、ぽろりと涙をこぼし始める阿鍵さん。
 やっぱり僕を出汁に使うつもりだったんだ。
 父親と彼女との子供を、何も知らない僕に育てさせようとしたことは許せない。

「両親はこのことを知ってるのか?」
「知らないわ。お腹の子供は、本当に貴方との子と思ってる。だからお願い。貴方と私が黙っていれば、すべてが上手く行くの。誰も不幸にならない唯一の選択肢なの」

 それじゃ僕が不幸なんだよ。
 でもそんな展開って昔ドラマで観たことがある。好きな女性のために、自分を犠牲にするという展開。他人の子供を自分の子供と周囲に偽って、育てていくんだ。
 僕だってそんな聖者になれるのだろうか。阿鍵さんをもっと愛するようになれば。
 そしてその子供を、心穏やかに一緒に育てていくことができるのだろうか。

 大好きな阿鍵さんの瞳から涙が止まらない。
 きっとこの涙は本物なのだろう。だって、僕が一番苦しむ選択を突きつけているのだから。
 阿鍵さんは「お願い」と懇願しながら僕に近づいてきた。
 きっとこの肩を引き寄せれば、僕の決心は揺らぐだろう。
 だから僕はセットしてきたんだ。全世界に向けた遺書が、この時間に発信されるように。
 僕の決心が揺らがないように。

「ねえ、阿鍵さん。ここで起きたサキとロクの物語って知ってる?」
 すると彼女は、真っ赤な瞳を僕に向ける。
「えっ? サキとロク? 知らない……けど」
「じゃあ、最期に話してあげる。奇跡を願った男女の物語を」

 
 それは、この古墳が築造された時の話。
 古墳を造った権力者の娘サキは、農家の六男ロクと恋仲にあったという。
 身分の違う二人は愛し合いながらも、決して一緒になれないことを憂う。
 ある日、隣りの村への嫁入りを告げられたサキは、ロクをこの石室に呼び出した。一緒に死のうと、刃物を持って。
 その時、奇跡が起きる。地震がこの村を襲ったのだ。
 ロクは必死にサキのことを庇う。ロクはサキのことを本当に愛していたからだ。
 実はサキは疑っていた。サキに好意を見せるロクの言葉や行動を。
 しかしロクの愛は本物だった。そう、この奇跡の間は、星と花と愛の三つが揃うと奇跡が起きるのではなく、人の愛を確かめるための奇跡が起きる場所だったのだ。
 真実の愛を確かめ合った二人は決意する。二人の愛が永遠になることを。そして刃物を使ってこの場所で一緒に最期を遂げた。


「この間、ブラックライトで見せてくれたでしょ? 床面が紫色に光るのを」
 阿鍵さんは静かに頷く。
 僕の話に聞き入っていた彼女の涙は、すっかり乾いていた。
「花が描かれていたのは周囲だけで、真ん中は大きな草むらみたいになってたじゃない。あれってサキとロクの血だったんじゃないのかな。ブラックライトは血痕にも反応するんだよ」

 そして僕はナイフを取り出した。
 かつてサキがしたように。

「ここで一緒に死のう、阿鍵さん」

 彼女の表情がみるみる凍りついた。


 ☆


「ちょ、ちょ、ちょっと待って。死ぬってどういうこと?」
「そのまんまの意味だよ。僕は君を殺して、自分も死ぬ」

 阿鍵さんは入口目指して走ろうとしたが、それを予測していた僕は素早く彼女の前に立ち塞がった。
 入口からの光を浴びて、彼女の美しい顔が恐怖に歪むのがよくわかる。

「ごめんね、綺麗な顔をそんなにさせちゃって。すぐ済むからちょっとの辛抱だよ」
「ねえ、考え直して。私たち結婚するんだよ。この子が産まれてから、二人で次の子供を作ればいいじゃない?」
「それじゃダメなんだ。それまでの間、僕は自分が正常心でいられるか自信がない」

 虐待死のニュースを見かけることがある。
 再婚した奥さんの連れ子を、新しい夫が虐待して殺してしまうケースだ。
 そういう事件を起こす人は、その人の人格に問題があるんじゃないかとずっと思っていた。
 でもそれは違うのかもしれない。だって今の僕がそうだから。
 もちろん僕の人格に問題がある可能性も考えられる。だけど何だろう、この本能の奥底から湧き上がってくる感情は。
 ライオンも子殺しをすると聞いたことがあるけど、なんだか分かるような気がする。もしかしたら、有性生殖を行う動物がこの世に誕生した時から遺伝子に組み込まれている感情なのかもしれない。

「もし、君の言う通りになったとしても、僕はその子を虐待してしまうかもしれない」
「嫌、この子は絶対殺させない!」

 ボロボロと涙を流しながら、手でお腹を庇おうとする阿鍵さん。
 その瞳は力強く、僕は負けそうになってしまう。

「それにね、阿鍵さん。もうスイッチは押されてしまったんだ」
「スイッチって?」
「僕はね、SNSに自動投稿されるようセットして来たんだ。僕は阿鍵さんと一緒に死ぬという遺書を。だからもう、引き下がれないんだ」
「お願い、私の命は貴方にあげるから、この子だけは、この子だけは……」

 大きく息を吸う。
 ありがとう、僕を産んでくれた母ちゃん、育ててくれた父ちゃん。
 そして素敵な笑顔を見せてくれた阿鍵さん。
 十七年の人生だったけど、僕は幸せでした。

 そして僕は、ナイフを振り下ろした。





























 ☆ ☆ ☆



「パパ、ママ。これから詩真と一緒に古墳に行ってくる!」
「お兄ちゃん待って! 今日はお兄ちゃんと一緒に石室の探検をするんだ」
 そう言いながら子供たち、貴竜と詩真は玄関で靴を履いている。
「夕方にはちゃんと帰ってくるのよ」
 二人に上着を着せてあげているのは、僕の妻の晴菜だ。

 あれから十年。
 僕たちは結婚して、四人家族になっていた。

「お兄ちゃんね、パパやママみたいにお祈りの練習してた。だから詩真も、お兄ちゃんと一緒に石室でお祈りするの」
「じゃあ、パパも一緒に行くか」
「ホント? 一緒に芝滑りもしよ!」
「ああ、負けないぞ」

 結婚してから僕たちは、宝塔塚古墳の近くの中古住宅を購入した。
 だから、あの古墳は子供たちの遊び場なのだ。
 芝が敷き詰められた円墳で滑って遊び、石室の中を探検する。
 そして僕たちは、石室に入るとき必ず祈りを捧げる。
 あの日、あそこで失われた一人の命のために。


 ナイフを振り下ろしたあの時、阿鍵さんは急に苦痛に顔を歪ませる。
 まだナイフは当たっていないというのに。
「赤ちゃんが、赤ちゃんが……」
 床面に座り込んだ阿鍵さんは、下腹部を押さえながら号泣し始めた。
「流れちゃった……」
 そう、あまりの恐怖のために、彼女は流産してしまったのだ。

 と同時に、僕の中から確固たる決意がひゅるひゅると抜けていく。
 永遠の愛、石室の奇跡、そんなことを堂々と掲げていた自分が急に馬鹿らしくなる。
 遺書を投稿していたことも忘れて、僕は阿鍵さんと一緒に泣き出したんだ。泣いてないとやってられない感情が次から次へと溢れ出て来る。

 それから彼女を病院に連れて行って、一人で自宅に戻ると、警察やら高校の担任やらが押しかけていて大変なことになっていた。両親が涙を流して喜んでくれたことは嬉しかったけど。
 もちろんそれは、僕が投稿した遺書が原因だった。

 えっ? 遺書に何を書いたかって?
 忘れたくてしょうがないから、もうあまり覚えてないけど、こんな内容だったかな。


 僕は阿鍵さんが大好きだ。
 だから子供ができてしまった。
 どうしていいのか分からないから一緒に死ぬ。


 最初はね、いろいろと細かく書いてたんだよ。
 でもそうすると、誰かが悪者になってしまう。
 誰も悪者にならない内容って、こうするしかなかったんだ。
 シンプルイズベスト。今思えば、これが良かったのかもしれない。

 そんなおバカ遺書のおかげで、僕たちは散々な目に遭った。
 クラスメートがみんなでそう判断したのか、担任に言われたのかは分からないが、学校に行っても僕たちを責めたり、からかったりする人はいなかった。その代わり、みんなが口々に言うんだ、「結婚すれば?」って。
 遺書を投稿したSNSだって、肯定的なリプの多くが「死ぬな!」「ケコーンしろ」だった。
 だから僕たちが十八になった時、二人は結婚したんだ。
 大学も行ってみたかったけど、新型コロナの影響がまだ残っていてリモート講義ばかりになってしまったキャンパスライフに魅力を感じられなかった僕たちは、お互い別々の場所に就職することにした。
 僕は童貞夫として、一から阿鍵さんの愛を積み上げることにしたんだ。

 それはそれは、大変な夫婦生活だったよ。阿鍵さんはなかなか心を開いてくれなかったから。寝る部屋も別々だったし。
 なんかそんなドラマがあったよね、契約結婚みたいな。
 僕たちもそんな感じだったんだ。阿鍵さんの両親が離婚しないための契約――そんな風に捉えて、僕たち二人の結婚生活はドライに始まった。

 それでもやっていけたのは、一つの確信があったからだと思う。
 阿鍵さんは必ず、子供を大切にしてくれるという。
 だってあの時、彼女は決して中絶を取引材料にしなかった。自分の命が危機に瀕している時でさえ必死に子供を守ろうとした。
 その時感じたんだ。彼女の想いに比べたら、僕の意思なんてすごくちっぽけなものなんだって。彼女への想いを、もっともっと積み上げていかなくちゃいけないんだって。

 ようやく阿鍵さんが心を開いてくれた時、僕たちは初めて結ばれた。
 その時、心の底から思ったんだ。ああ、この人との子供が欲しいって。
 これこそが、あの時彼女が言っていた「愛」だったんだ。
 僕は絶対、この子供を愛する。そして彼女も、この子供を愛してくれる。
 それは本当に、幸せな幸せな瞬間だった。



「天に星」
「テンニホシ」
「地に花」
「チニハナ」
「人に愛」
「ヒトニアイ」

 僕の後に続いて復唱する子供たちの声が愛おしい。
 初めてこの石室に訪れた時は、こんな未来がやって来るとは思わなかった。

 あの日の奇跡――と言ったら怒られるだろう。
 だって、一人の罪のない子供の命がこの場所で失われたのだから。
 だから言い換えよう。失われた奇跡ではなく、僕たちが生きている奇跡、大好きな人と一緒になれた奇跡、そして二人の子供を授かった奇跡だと。
 奇跡は今日も、古墳の中で眠っている。



 おわり



ミチル企画 2020-21冬企画
テーマ:『天に星』『地に花』『人に愛』