天に星、人に愛、地に花…2021年01月12日 23時27分09秒

 窓の外に目を向けると、一面の星空が広がっていた。
 現在、二〇二〇年十二月三十一日、つまり大晦日。
 時刻は午後二時五十分。ただし世界標準時だけど。

「タロウ、ソロソロ、ジャナイカ?」
 クルーのジョージが気を遣って休憩を促してくれた。
「ありがとう。ちょっと電話してくる」
 私は隣の棟に移動し、自宅に電話を掛ける。

「もしもし」
 すると可愛らしい声が私の耳に飛び込んでくる。
「パパ! 元気? そろそろ新年になるよ!」
 そう、日本ではもうすぐ二〇二一年を迎えようとしているのだ。
「おいおいナナ。まだ起きてるのか? 小学生は寝てなくちゃいけない時間だろ?」
「だって、パパから電話が掛かってくると思って……」
「そうよ、ナナだって頑張って起きてたんだから」
「わかった、わかった、ごめんな、ナナ。ていうか、ほら、もう新年になるよ」
「ホントだ。三、二、一、ゼロ、あけまして、おめでとう!」
「おめでとう! 今年もよろしくね」
「ナナもママも愛してる。宇宙からみんなの健康を祈ってるよ!」

 ここは国際宇宙ステーション。
 だから午後三時なのに星空が見える。地球と反対側には、昼でも夜でも絶えず星が輝いている。
 そして日本では、今さっき新しい年を迎えたばかりだ。

「タロウ、ハチジニナルト、オモシロイモノ、ミレルヨ!」

 およそ九十分で地球を一周するステーション。
 ちょうど五時間後にドバイ上空を通過するという。
 日本との時差は五時間。つまり、その時ドバイでは新年を迎える。

「何が見れるんですか?」
「ソレハ、オタノシミ、ダヨ」

 やがてその時刻になると他のクルーも集まって来た。
 みんなが地球側の窓にかじり付く。

 世界標準時、午後八時。
 地表でキラキラと光が輝き始めた。

「そっか、カウントダウン花火か」
 日本にはそういう風習があまりないから、すっかり失念していた。
 例年シンガポールなど各地で見られるそうだが、新型コロナの影響でほとんど中止になってしまった。

 今、地上では、多くの人々が希望の眼差しであの花火を見上げていることだろう。
 キラキラと光る地上の花火。それを眺めながら、二〇二一年が人類が新型コロナに打ち勝つ年になりますようにと心から祈るのであった。



ミチル企画 2020-21冬企画
テーマ:『天に星』『地に花』『人に愛』

ガラスの丘リナ2020年08月26日 20時46分48秒

「これから実演を始めるよ~!」
 家族連れが集う日曜日の広域公園に、活きの良い若い男性の声が響く。
「ガラスでウサギを作ってみるからね~」
 声の主、十八歳の少年タクミは、芝生広場の真ん中で金属の棒を右手で高々と宙へ突き出した。
 それはステンレス製のパイプ。先端に透明の塊が付いている。
「この先っぽに付いているのが、ガラスです!」
 タクミがパイプを陽にかざすと、ガラスがキラキラと輝いた。
 それを見た子供たちが、一人また一人と集まってくる。

「次に秘密兵器を取り出します」
 タクミはしゃがみ、地面のバッグから金属製の筒を取り出した。
 それは小型ボンベ。カセットコンロでよく使うタイプで、先端にトーチバーナーが付いている。
 一五〇〇度の炎を作り出せるタクミの愛用品だ。
「そして――火をつけます!」
 抑揚をつけた声とともに、タクミがトーチバーナーの根元の引き金を引く。
「おっ!」
 子供たちが小さく驚きの声を上げる。ゴーという激しい空気音とともに青白い炎が誕生した。

「それではこれから、ガラスに炎の魔法をかけてみるよ!」
 タクミはパイプを口に咥え、左手で支えながら前へ突き出す。同時に右手のトーチの炎を近づけ、パイプの先端のガラスを炙り始めた。
 熱せられるガラス。一〇〇〇度を超える熱で真っ赤に色が変わっていく。
 やがてガラスは、どろりと変形し始めた。

 ここからがタクミの真骨頂。
 ガラス芸人としての腕の見せ所だ。
 というのも普通、ガラス細工はバーナーを固定して、ガラスの方を動かして行う。
 が、タクミはパイプを咥えて、右手のバーナーを自在に動かしてパフォーマンスできるのだ。それはまるで、炎でガラスに魔法をかけるように。
 真っ赤になったガラスが変形すると、タクミは左手でパイプを回しながら息を吹き込む。
「おおっ!」
 するとガラスはぷうっと膨らみ始めた。

 息を吹き続けるタクミ。
 その圧力で、炎で柔らかくなったところだけが変形していく。
 熱せられて変形する部分、そして冷えて硬くなる部分――絶妙なバランスを保ちながら、次第にガラスは形を成していく。
 それを支えているのは、タクミの人並外れた肺活量だった。

 拳くらいの大きさのガラスの膨らみが誕生したかと思うと、バーナーで炙った場所から小さな膨らみがニョキニョキと生えてきた。しかも細長いのが二本。
 その過程を、子供たちは息を飲んで見守っている。
 小さな目と口を刻み、可愛らしい丸い尻尾が生えてきた。
「はい、出来上がり! ガラスのウサギの完成だよ!」
 パイプを口から外し、先端のウサギを子供たちの前にかざす。
 タクミがパイプを回すとウサギはキラキラと輝いた。
「すごい、ホントだ!」
「ガラスのウサギ、可愛い!」
 歓声とともに子供たちから拍手が湧き起こり、青く澄んだ空に広がっていく。
 そんな晴れた日曜の公園が、タクミは大好きなのだ。

 タクミは作ったばかりのウサギを地面に置き、マットを敷いてバッグの中からガラス細工を並べ始めた。
「他にもいろんな動物があるからね」
 ――ウサギ、イヌ、ネコ、ゾウ、そしてキリンたち。
「遊び終わったら、お父さんやお母さんと買いに来てね! お兄さん、しばらくここにいるから」
「うん、絶対買いに来る!」
「お母さん、連れてくる!」
 こうして子供たちはバラバラと公園に散って行った。

 子供たちの後ろ姿を眺めながら、タクミは地面に腰を下ろす。
「今日もいい天気だなぁ……」
 見上げると、どこまでも青い空に、ぽっかりと一つ白い雲が浮かんでいる。
 タクミはバッグの中からガラス製のオカリナを取り出した。奏でるのは、遠い異国の音楽だ。
 草の上でまったりとたたずむ午後。ガラスを震わせる曲が青空にすうっと溶けていく。
 全国各地を転々としながら、ガラス細工を売って生計を立てている。タクミはそんな、大道芸人顔負けのガラス細工職人だった。


 ◇


「ねえ、さっきの曲、もう一回聴かせて?」
 一曲吹き終わって芝生に寝転んだタクミに、可愛らしい声のリクエストが飛んできた。
「寝転んだままでもいい? 今日はとっても気持ちがいいから」
「うん、いいよ」
 タクミはオカリナを顔の前にかざす。
 抜けるような青空。陽を浴びて輝くオカリナ。この曲が生まれた異国にもこの空は繋がっている。
 そんな見知らぬ国に想いを馳せながら、タクミはオカリナを口に当てた。
 目を閉じてメロディを奏で始めると、小さな声もうっとりと呟く。
「懐かしいなぁ。ボクの故郷の曲みたい」
 この曲は日本のものじゃない。一体どんな子供が聴いてくれているんだろう、とタクミは不思議に思う。
「ねえ、タクミ。僕の故郷に来てみない?」
 えっ!? と驚いてタクミは曲を奏でる手を止めた。
 確かに今、「タクミ」と呼ばれた。見知らぬ子供に。なんでこの子は名前を知っているのだろう?
「誰?」
 タクミは体を起こして辺りを見回してみる。が、誰もいない。
「ボクだよ、ボク」
 誰もいないのに声だけが聞こえてくる。
「隠れてないで、出ておいでよ」
 と言ってみたものの、隠れる場所はどこにもないのだ。
「ここだよ、ここ。それよりも、お腹のパイプを切り離してくれないかな?」

 声の主は、なんと先ほど作ったガラスのウサギだった。

「えっ、マジで!?」
 驚きながらもタクミはバッグの中からヤスリを取り出し、恐る恐るガラスのウサギを手に取った。
 精魂こめて作った作品には魂が宿る――と言う。
 が、どう見ても、ただのガラスだ。タクミが先ほど子供たちの前で作ったウサギ。
 ホントにこのウサギがしゃべったんだろうか、と半信半疑でウサギをパイプから切り離すと、ウサギはタクミの手からぴょんと飛び跳ね、芝生の上に着地した。
「あー、すっきりした。ありがとう上手に作ってくれて!」
 ペコリとお辞儀をするウサギ。
 一方、タクミは頬をつねっている。これは夢だ、絶対夢なんだと。
 一生懸命作ったとはいえ、そのガラスのウサギが動いて、しかも言葉を話すなんてありえない。
「そんなに驚かなくてもいいよ。ボクの名前はリナリナ。ガラスの丘リナから来たんだ」

 青白き燐光に包まれるウサギ。
 ガラスの内面から何かが湧き出している――そんな風にタクミは感じていた。
 ウサギのリナリナは、タクミに向ってニコリと微笑む。

「何でボクが動いて見えるか教えてあげるよ」
 タヌキに化かされたような顔をしながら、タクミはうんうんと頷いた。
「まずはタクミ、ガラスって透明だよね?」
「ああ、そうだね」
「でも、ガラスって見えるよね? それは何で?」
 なんか、どこかのクイズ番組みたいだなぁと思いながらもタクミは答える。
「ガラスが光を反射してる……から?」
「その通り。今ね、このガラスの内側はボクの故郷のリナに繋がっているんだ。だから、リナからの光でボクが動いて見える。ガラスが震えるから、声も聞こえる」

 ふーん、とすぐに納得できるわけではなかった。
 だってガラスのウサギが動いて、しかも言葉をしゃべっているのだから。
 でもタクミには確かに見え、確実に声は聞こえるのだ。それなら納得せざるを得ない。
 ――ボクの故郷のリナ。
 タクミは今、猛烈に魅力を感じている。ガラスのウサギの故郷に。そして今、この世界と繋がっていることに。

「リナリナ、って呼べばいいのかな?」
「いいよ、タクミ」
「さっき君は、故郷に来ないかって言ったよね?」
「言ったよ」
「なんで?」
「タクミのガラス細工の技術が、リナに必要だから」
 嬉しさで思わずタクミはにやけてしまう。
 ――見たことも行ったこともない国が、自分の技術を必要としてくれる。
 それはタクミにとって光栄なことだった。
「そのリナってところに、どうやったら行けるのかな?」
「今ならボクに触れば行けるよ。青白く光っているのは繋がっている証拠だから。というか、タクミを招待するためにボクは来たんだよ」

 それならば、とタクミは思う。
 どうせ自分は住居を持たない流浪のガラス職人だ。今日の宿もまだ決めていない。
 道具も旅支度も全部、目の前のバッグに揃っているし、ガラス細工の知識、つまり亡き師匠の教えはすべて頭の中に入っている。ガラスの原料だって、ほとんど現地調達でやってきた。たとえリナが異世界であっても、何とかやっていけるに違いない。

「じゃあ、リナに連れて行ってくれるかい? リナリナ」
「いいよ。じゃあ、ボクに触って」
 タクミはバッグを肩にかけ、恐る恐る右手の指をガラスのウサギに伸ばす。
 人差し指がリナリナに触れた瞬間、タクミの体は青白き光に包まれた。
 こうしてタクミの、ガラスの丘リナへの旅が始まった。


 ◇


 光の眩しさで目を閉じると、タクミの体は浮遊感に包まれる。
 その刹那、どしんとお尻から地面に落下。
 ゆっくりとタクミが目を開けると、そこは暗闇の世界だった。

「真っ暗だよ、リナリナ。君の故郷は今、夜なの?」
 それになんだか肌寒い。お尻も冷たく、周囲全体が湿っている感触にタクミは困惑する。確か日本は夏だった。
「いや、リナも今は昼間のはずなんだけど……」
 リナリナがぴょんぴょんと辺りを飛び跳ねる。青白き光を放ちながら。
 その薄っすらとした光で見える情報から判断すると、タクミたちの周囲は岩に囲まれているようだ。
「あっ、あーーーっ!」
 試しにタクミは宙に向って声を発してみる。
 すると、周囲から直ちに音の反射が返ってきた。
 肩にかけたバッグを押さえながら立ち上がると、踏み出した右足でぴしゃりと水の音がした。

 それらが示していることは――。

「もしかして洞窟の中なんじゃないの? リナリナ」
「そうかもね。ちょっと調べてみるよ」
 リナリナはぴょんぴょんと岩を伝って跳んでいく。
 すると突然、前方の暗闇のから怒りを帯びた声が飛んで来た。
「ちょっと、誰? あんたたち、うるさいよ!」
 そしてボッと赤い色の炎が灯る。タクミの十メートルほど前方に。

 ゆっくりとタクミに近づいてくる炎。
 声の主をほのかに照らしながら。
 それは赤い髪の少女だった。

 太めの眉、切れ長の瞳。
 通った鼻筋に、唇はキッと結んでいる。
 ショートの赤髪の先端はゆるくカールして、ゆったりとした長袖のラウンドネックに身を包んでいる。
 それよりもタクミが驚いたのは、彼女が体の前にかざす右手の人差し指だ。
 真っ赤な爪の先から、同じく真っ赤な炎が揺らめいていた。

「久しぶり、ルミナ!」
 リナリナが嬉しそうに飛び跳ねる。
「その声は……リナリナ?」
 怒りをまとっていた少女の表情が緩んだ。
 するとリナリナは岩伝いに飛び跳ねて、ルミナと呼ばれた少女の左の掌に乗った。
「何? 今はウサギやってんの?」
「これ、タクミが作ってくれたんだよ。ガラス職人で、リナのために日本って国から一緒に来てくれたんだ」
 すると少女は左手のリナリナを舐め回すように観察した。
「へぇ、なかなか可愛いじゃん」
「でしょ?」
「ていうか、薄っす。どうやったらこんなに薄くガラスを加工できるのよ」
「それを教えてもらうためにタクミを呼んだんだよ。すごい技術だよね」
 すると少女は目を細めた。
「いやいや、それだけじゃないでしょ? ま、まさか、アレの代表として――」
「しっ! それはまだ内緒。村長にはこれから話すんだから……」

 狭い洞窟の中だ。
 ルミナと呼ばれた少女とリナリナの会話は、タクミの耳にも入ってしまう。
 どうやらタクミのリナへの招待には、いろいろな思惑が絡んでいるらしい。
 それを教えてもらいたいタクミは、ゴホンと一つ咳払いする。

 少女の視線がタクミを捉える。
 その瞳からは邪魔者を蔑む光は消え、尊敬にも似た潤いを帯びていた。
「さっきはゴメン。思わず怒鳴っちゃって。このガラス細工はすごいわ、感動しちゃう。さすがはリナリナが連れてきた人ね」
 少女がタクミに向って一歩踏み出した。
「私はルミナ、ジオ族の娘。よろしくね」

 少女は右手を差し出す。
 赤き炎を灯しながら。

「ダメだよ、ルミナ。日本人の手は、その温度には耐えられないんだ」
「えっ、そうなの?」
 慌ててルミナは炎を消す。すると辺りは真っ暗になった。
 代わりにリナリナの青白き光がぼおっと辺りを照らし始めた。その燐光に照らされたルミナの笑顔に、タクミは息を飲んだ。
(なんて素敵な笑顔なんだ……)
 彼女の顔に見とれながら、タクミも自己紹介する。
「僕はタクミ。こちらこそよろしく」

 二人の挨拶が終わると、リナリナが辺りを見回した。
「ところでルミナ。ここはどこ?」
「ここは結晶の森(クリスタルフォレスト)の鍾乳洞の中よ」
「ええっ、結晶の森に来ちゃったの? リナに飛ぶはずだったのに」
「またやっちゃったの? 相変わらずね、リナリナは」

 くすくすと笑うルミナ。
 どうやらリナリナは天然らしい。
 そんなルミナとリナリナの会話を、タクミは興味深く聞いていた。

「それで何やってたの? ルミナはここで」
「えへへ、何だと思う?」
「まさか秘密の特訓!? 今年のジオの代表ってルミナ――とか?」
「そんなことあるわけないでしょ? こんな出来損ないにジオの命運が託されるはずないもの。今年も代表はサファイア様よ」
「やっぱり、そうだよね……」

 するとルミナは右手を高く上げて人差し指に赤い炎を灯し、洞窟の壁を照らす。
「この鍾乳洞の石にはね、青珠石が含まれてるの。今はちょうど午後三時前だしね」
「えっ? それって……」
「そうよ、こっちに大きな池があるの」
 ルミナはリナリナを左手に乗せたまま踵を返し、鍾乳洞の奥へ歩いて行ってしまった。
 タクミは慌てて二人を追いかける。
「ちょっと僕にも教えてくれよ。何が何だかさっぱり分からないよ」
「説明は後でするから、とにかくボクたちについてきて。もう三時になっちゃう」とリナリナ。
 何だよ、冷たいなぁとタクミは二人の後をついて行く。

 十メートルくらい歩くと広い場所に出た。
 ルミナは歩みを止める。そしてタクミを振り返り、隣に来るようにと手招きした。
 タクミは彼女の右隣に立つ。そして目の前に広がる景色に息を飲んだ。

 幅が三十メートル、高さは五メートルはあるかと思われる空間。目の前には大きな池が広がっている。
 その池全体が、青白く光っているのだ。
 まるで無数の青いホタルが、池の中で泳ぎながら発光しているかのごとく。
  
「さっきも言ったけど、ここの鍾乳石には青珠石が含まれているの」
 ルミナは隣に立つタクミに語りかける。
「青珠石はね、午後三時になると青珠の粒子を放出するんだよ」とリナリナ。
「それが水と反応すると青白く光るの。こんな風にね」

 幻想的な風景だった。
 全国を旅したタクミの十八年の人生の中でも、こんな景色は見たことがない。
 暗闇の中、足元に広がる無数の青白い点。それを見下ろすタクミたちは、まるで宇宙に浮いているようだった。もし青い街灯の街があるならば、夜空の上からの景色はこんな風に見えるに違いない。

「ねっ、癒されるでしょ?」
 ルミナがタクミを向く。
 隣に並んで初めて分かったが、身長は二人ともほぼ同じ一六〇センチくらい。
 青白い光に照らされた彼女に、タクミはドキリとする。
(なんて可愛いんだろう……)
 この景色も素晴らしいけど、今はルミナの顔をずっと眺めていたい――とタクミの心が叫んでいた。が、幼少の頃から師匠と修行に励んでいた彼に、そんなセリフはとても思い浮かばない。
「う、うん……」
 しどろもどろに、そう言うのがやっとのタクミ。
 再び前を向いて、景色を目に焼き付ける。
(素晴らしい景気、そして隣のルミナ……)
 そんなタクミの幸せな時間は、すぐに終わりを迎える。池はその中の光を次第に失っていく。
 辺りが完全に暗闇に包まれる前に、ルミナは人差し指に炎を灯した。
「今日も素敵だったなぁ……。じゃあ、戻ろっか」
 左手にリナリナを乗せたままルミナはタクミを向く。
 赤い光に照らされた彼女もまた魅力的だった。

 ルミナの後ろについて五分くらい歩くと、鍾乳洞の出口が見えてくる。
 眩しさでくらんだタクミの目が慣れてくると、出口の前には深い森が広がっていた。
 鍾乳洞からは先ほどの池を水源とする小川が流れ出しており、出口では小さな滝となってせせらぎを形成している。この流れが、目の前の森を潤しているのだろう。
「ここから西に少し歩くと魔王城が見えてくるから、そこまで案内するわ。リナリナなら、その先の道は分かるよね」
 ルミナの提案に、リナリナは鍾乳洞を振り返った。
「うん、それでいいよ。それにしても結晶の森にこんなところがあるなんて、ボク知らなかったよ」
「ここはね、ジオ族の中でも数人しか知らないの。だからリナの人には内緒だよ? 私のお気に入りなんだから」
「わかったよ、ルミナ」
 鍾乳洞の中では分からなかったが、ルミナはゆったりとしたサロペットデニムにトレッキングシューズという恰好だった。

 タクミには分からないことだらけだった。
 ジオ族とか結晶の森って何だろう?
 しばらく歩くというのなら、詳しく聞いてみたい。

「ねえ、二人に教えて欲しいんだけど、ジオ族とか結晶の森って何?」
 するとリナリナがぴょんと飛び跳ね、タクミの肩の上に乗った。
「この地方にはね、二つの村があるんだ」
 タクミはリナリナの話に耳を傾ける。
「魔王城を挟んで西の海沿いの村が『ガラスの丘リナ』、東の森の村が『結晶の森ジオ』なんだよ」

 ――ガラスの丘リナと、結晶の森ジオ。
 二つの村が隣接する世界。
 それにしても『ガラス』と『結晶』だなんて、なんとも対照的な取り合わせだとタクミは思う。

「二つの村の間に境界はなくて、ポツンと魔王城があるだけなんだ。そして、ここは『結晶の森』。ボクは『ガラスの丘』に行こうとしたんだけど、間違ってこっちに来ちゃったみたい」
「リナリナってそういうとこ、あんだよね~」
 ルミナが振り向きながらリナリナをからかう。
「だから、それは言わないで」
 リナリナがちょっとだけ赤くなった。
「それでジオ族というのは?」
「リナの住民がリナ族、ジオの住民がジオ族。ボクはリナのガラスの精霊だけど、ルミナはジオ族の女の子なんだ」

 ――リナ族とジオ族。
 住んでいる場所が違うだけなのだろうか?
 ルミナの人差し指の爪が真っ赤だったり、炎を出せることもタクミは気になっていた。

「リナ族はね、素手でガラスの細工ができるの。一方、私たちジオ族は、素手で結晶を育成できる」
「ええっ!?」
 タクミは驚いた。
 ――ガラス細工と結晶育成。
 それが素手でできるとはどういうことなのだろう!?

「ガラス細工も結晶育成も一〇〇〇度を越える熱が必要なんだよ。それが素手でできるって!?」
「だからそういうことなんだよ、タクミ。ボクたちリナ族は、両手を二〇〇〇度まで加熱して、ガラスを熔かすことができるんだ」
「一方ジオ族は、両手を二〇〇〇度まで加熱してその中で爪と同じ結晶を育成することができるの。残念ながら私には無理なんだけどね」
 そう言いながらルミナはタクミに爪を見せる。
「ほら、私の爪は人差し指だけなの、結晶で出来ているのは。結晶を育成できるジオ族は、すべての爪が結晶でできてる人だけ」
 そしてルミナはうつむいた。
「私はね、ジオ族の出来損ないなの……」

 一行はどんよりとした雰囲気に包まれる。
 タクミには、ルミナに掛ける言葉が見つからない。彼女がどんな風に育ってきたのかが想像できるから。
 学校にも行けず、ガラス細工だけで生きてきた異端児のタクミには、それが痛いほど伝わってきた。

「でもね、ルミナはその指先から炎を出せるんだよ」
 暗い空気を破ったのはリナリナだった。
「炎を出せるって、他のジオ族には出せないの?」
 タクミが訊くと、ルミナは顔を上げる。
「うん。他の人にはできない。きっと結晶を育成するための力が、右人差し指だけに集中しちゃったんだわ」
 そしてルミナは右人差し指を顔の前にかざす。
 ――美しい紅の結晶。
 タクミはその素材が気になっていた。

「もしかして、それってルビー?」
「正解。やっぱりすごいね、タクミは。一発で当てちゃうなんて」
 驚きの表情を見せるルミナに、タクミは照れてしまう。
「ほら、ガラスも結晶もどちらももともと石だろ? 急に冷やすとガラスに、ゆっくり冷やすと結晶になるんだ。だから時間がかかる結晶ってすごいなって、前々から思ってたんだ」
 するとルミナは、自分のルビーの爪を見つめる。
「ホントはね、全部の爪がルビーで生まれてきたら良かったんだけどね。そしたらこの手の中でルビーが育成できるのよ。イメージ次第でどんな形にもできちゃうんだから」
 それはすごい、とタクミは思う。
「もしかして、ルビーのウサギも作れちゃう?」
「訓練次第ではね」
「へぇ……」
 
 ――ルビーのウサギ。
 そんなものが作れるのなら見てみたいとタクミは思う。
 紅く輝くウサギを想像するタクミの表情。その眩しさにルミナは再び下を向いた。

「やっぱり、そういう女の子の方がいいよね……」
 助け舟を出したのはリナリナだった。
「全くタクミは!」
 そして肩の上からタクミの首筋をつつき始める。
「痛たたた。やめろよ、リナリナ」
「反省するのはタクミの方だよ。乙女心がわかってないんだから……」
 ようやくルミナの様子に気づいたタクミ。「ゴメン」と謝りながら、ルミナの人差し指に手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと……」
 いきなりタクミに右手を掴まれて、ルミナは動揺する。
「やっぱすごいよ、爪がルビーなんて。この指にすべてのパワーが集まるんだろ?」
「うん……」
 ルミナは驚いた。タクミの手はなんて柔らかいんだろうと。
 ジオ族は誰も、こんなに柔らかい手を持っていない。
 ずっとタクミの手に触れていたい。そんなルミナの想いを中断させたのは、リナリナの声だった。

「見えてきたよ、魔王城!」

「これが魔王城……?」
 タクミはルミナの手を放し、魔王城に目を向ける。
 そして思う。想像していたものと全く違う――と。
 魔王城と呼ばれたその城は、決してまがまがしいものではなく、物語の主人公が住んでいるような美しいお城だった。

「魔王様、元気かな……」
 城を眺めながらうっとりするルミナの呟きに、タクミは自分の耳を疑う。
「元気かなって、魔王だろ? 恐くないの?」
 正直言って、タクミは不安だった。
 この先ルミナと別れて、リナに無事にたどり着けるのかどうか。
 だって目の前に魔王城があるのだから。魔獣に襲われたり拉致されたらたまらない。
 すると突然、リナリナが笑い出す。
「そんなに顔を引きつらせなくてもいいのに、タクミ」
「笑うなよ。リナリナだって恐くないのかよ? だって魔王だよ。城には魔獣もいるんだろ?」
「ちょ、ちょ、ちょっと、タクミは何か勘違いしてない?」
 今度はルミナがタクミの顔を覗き込む。
「ここの魔王様は、魔法が得意なイケメンの王子様で、あの城に一人で住んでるんだから」
「えっ!?」
 タクミは絶句した。

「ちょっと確認したいんだけど、タクミはどんなイメージを持ってるの? 日本って国にも魔王様がいるのよね?」
 ルミナに訊かれててタクミは考え込む。
 だって、タクミはそんなに詳しくはないから。
「日本に魔王はいない。アニメやマンガだけの話なんだ……」
 師匠と一緒に日本全国を渡り歩いていたタクミは、アニメや小説に触れる機会はほとんどなかった。あるのは各地の宿に置いてあるマンガだけ。
「マンガの中の魔王って悪いやつなんだ。悪魔の王様で、魔獣を操って世界を滅ぼそうとしてる」
 するとリナリナが納得したような口調で答えた。
「そっか、日本じゃ魔王様ってそんな存在なんだ。だからボクが去年連れて来た――ってそんなことはどうでもいいんだけど、ここの魔王様はとってもいい人なんだよ。悪魔の王様じゃなくて、魔法の王子様だもんね」
「魔王様って女の子の憧れなんだから……。魔王様に認められて、魔王城にお嫁に行きたいって」
 うっとりと城を見つめるルミナのことを、やっと理解できたタクミだった。
「それにね、毎年魔王カップが開かれてて、勝った部族には豊作の魔法をかけてもらえるのよ」
「だめ、ルミナ。それってまだ内緒なんだから」
「ゴメン、リナリナ……」
 リナリナのツッコミに、ルミナはペロッと舌を出す。
 その仕草はとっても可愛らしかったが、タクミはなんとなく納得していた。その魔王カップに出場するために、タクミが招待されたのではないか――と。
 でも、突然やってきた少年がいきなり出場できるわけがないと、タクミは思っていた。

「ありがとう、ルミナ!」
 道の分岐に着くと、リナリナがルミナにお礼を言う。
 もう陽は傾き始めていた。魔王城が境界というのであれば、リナまでの道のりはまだまだ長いのだろう。
「じゃあね、リナリナ。タクミも頑張ってね!」
 別の道を進むルミナが、タクミたちに向かって手を振る。
 ここから西側が、タクミたちが向うガラスの丘リナ。そして東側がルミナの住む結晶の森ジオだ。
「今日はありがとう。今度ゆっくりルビーを見せてね!」
 タクミもルミナに手を振る。
 こうしてやっとのことで、タクミは『ガラスの丘リナ』に入ったのだった。


 ◇


 タクミ一行がリナの街の入口に着くと、辺りは暗くなり始めていた。
 夜の帳が降りるにつれて、街道の両側に点々と散らばる家が光り出す。
 不思議に思ったタクミが家に近寄ってみると、その理由が分かった。それぞれの家はレンガではなく、ガラスのブロックを積み上げられて造られていたのだ。すりガラスになっているので中は見えないが、家から漏れ出す光で街が照らされている。
 ――夕暮れのゆったりとした丘に散らばる、光を灯す家々。
 なんて幻想的な風景なんだとタクミは思う。
「さすが、『ガラスの丘リナ』の名は伊達じゃない」
 こんな家や街は見たことがない。ガラスに長年関わってきたタクミでさえも。
 この街でこれから起きる出来事に、タクミは胸を踊らせる。

 リナリナの案内で、一行はまず村長の家を訪問した。
 村長というのだから大邸宅――と思いきや、周囲の家々とさほど変わらない。
 タクミの肩から飛び跳ねたリナリナは、ドアノブの上に乗ってノックする。
 すると一人の若い女性がドアから顔を出した。リナリナは再びタクミの肩に飛び乗る。

 黒い長髪に少したれ気味の大きな瞳。
 丸っこい鼻に薄い唇が愛らしい。
 年は二十歳くらいだろうか。タクミより明らかに年上で、背も若干タクミより高かった。
 水色のゆったりとしたワンピースに白いエプロンを付けているのは、夕飯の準備中だったのだろう。
 それよりもタクミが目を奪われたのは、彼女の豊かな胸。エプロン越しでもその存在を主張している。

「戻ってきたよ、ユーメリナ!」
 リナリナの声に、ユーメリナと呼ばれた女性はタクミの肩に目を向ける。そしてガラスのウサギに目を丸くした。
「まぁ、可愛い! ウサギにしてもらったのね、リナリナ」
 するとリナリナはぴょんとユーメリナに向かって飛んだ。彼女が慌てて出した左手の上に着地。
「今回ボクが連れてきたのはこの人。名前はタクミ。このウサギもね、タクミが作ったんだよ!」
「へえ〜、今年はずいぶん若い人を連れてきたのね。というか、これ軽っ! ホントにガラスなの!?」
 ユーメリナは丸くした瞳をさらに大きくする。
 そしてリナリナに目を近づけて、まじまじと観察し始めた。
「すごい技術でしょ? これなら村長さんも喜んでくれるよね?」
「もちろん。これを作れる人なら、パパも大喜びだわ」
 するとユーメリナは姿勢を正してタクミを向き、右手を差し出した。左手にリナリナを乗せながら。
「自己紹介が遅くなってごめんなさいね。私はユーメリナ。リナの村長の娘なの」
「僕の名前はタクミ。日本から来ました。よろしくお願いします」
 そしてタクミはユーメリナと握手する。

「んっ!?」
 ユーメリナの手の感触にタクミは驚く。
(なんて硬い指なんだ!?)
 それはまるで、石で造られているよう。ルミナの手も硬かったが、ここまでではなかった。
「まぁ、柔らかい!」
 同時にユーメリナも驚いていた。
 そして握手を何度も繰り返す。
「タクミの手ってなんて柔らかいの!? ずっと触っていたい……」
 初めて会った女性に手を撫でられる。もちろんタクミにとっては初めての体験だ。
 女性に接する機会がほとんどなかったタクミは、うっとりとするユーメリナの表情になにか複雑なものを感じていた。
「村長さんは在宅?」
 リナリナが訊くと、はっと我に返ったようにユーメリナは手を引っ込めた。よほどタクミの指の感触が良かったのだろう。ほんのり頬も赤くなっている。
「どうぞ中へ。父にお会い下さい。その間に夕食の準備をしますね」
 こうしてタクミは、リナの村長に会うこととなった。

 村長は、白い髭を蓄えた優しそうな人だった。
 彼もリナリナを見て目を丸くする。
「これを? 君が!?」
 その言葉は、タクミが一瞬で村長に認められた証拠。
「ぜひこの技術を、リナに広めてほしい」
 タクミもその依頼を一瞬で承諾した。もともとそのつもりでリナに来たのだから。

 村長との会談が終わると、タクミは夕食に呼ばれる。
 初めての異世界体験でお腹はペコペコだ。
 テーブルを囲むのは村長夫妻と娘のユーメリナ、そしてタクミの四人。もちろん食器は皿からスプーン、フォークまですべてガラス製だった。
「明日からのタクミさんの案内をユーメリナに任せる。タクミさんも、ユーメリナに何でも訊いて欲しい」
 村長の提案に、ユーメリナが静かに会釈する。
「よろしくね、タクミ。あと当分の間、うちの離れに住んでもらうわね」
 エプロンを外したユーメリナも可愛らしい。お母さんと一緒に作ったという夕食も、タクミの舌を唸らせるほど美味しかった。
「よ、よろしくお願いします!」
 明日からのリナでの生活。タクミは希望で一杯だった。


 ◇


「うわぁ、めっちゃ景色いいじゃん!」
 朝起きて窓のカーテンを開けたタクミは、その風景に驚いた。
 ――なだらかに広がる丘の街と、その向こう側に広がる青い海。
 ガラスの丘リナは名前の通り丘の街で、その西側は海に面している。そしてタクミが泊まった離れからは、海に続く街並みと港が一望できるのだ。
「いいところでしょ? ボクの故郷は」
「ああ、あの曲にぴったりの風景だよ」
 リナリナもしばらくの間、タクミと一緒に生活することになった。

 そんな美しい景色だったが、タクミは一つ気になっていた。
 一面に広がる丘の大部分は緑の草に覆われていたが、所々にゴツゴツとした岩が露出していたからだ。それはそれはとても硬そうな岩が。
「もしかして、あの石は!?」
 予感は的中した。
 離れのドアを開けて外に出ると、目の前にもその岩が露出している。それは赤っぽい石、灰色の石、そして真っ白な石が層状に重なる岩だった。
「やっぱりチャートだ!」

 ――チャート。
 二酸化ケイ素を主成分とする堆積岩。
 不純物の少ない白い部分は、珪石として使われることがある。つまりガラスの原料だ。

 つまり、ここは正にガラスの丘。ガラスの原料の上に作られた街なのだ。
 さらにリナ族は、両手を二〇〇〇度まで加熱できるという。
 それは珪石を熔かすことができる温度。
 食器やブロック、それらすべてがガラスで出来ているのは必然なんだ、とタクミは納得した。

「あら、もう起きてらっしゃったのね」
 掛けられた声にタクミが振り向くと、朝食のトレーを持ったユーメリナが母屋から歩いて来るところだった。
「いやいや、この家、起きるなって言われる方が難しいよ」
 それもそのはず、ガラスのブロックで造られた家の中はすぐに朝陽で満たされる。
 カーテンが引かれた窓より壁の方が明るい――という不思議な目覚めを、タクミは体験していた。
「それにしてもすごいよ、ユーメリナ。ここの石は全部珪石なんだね」
「さすがね、タクミは。一目で分かっちゃうなんて」
「珪石は全部現地調達してたからね。師匠の教え、というかポリシーだったんだ。この透明なところなんて、めちゃくちゃ純度が高くない?」
 タクミは目の前の岩の一部分を指差した。
「その部分はね、高級なガラスに使うの。どうやって細工するか見てみたい?」
「もちろんだよ!」
 ユーメリナの提案にタクミは瞳を輝かせる。
「じゃあ、ちょっと待ってて。朝食を離れに置いてくるから」

 タクミの反応にユーメリナは確信する。
 この人は本物だ――と。
 普通の人なら「朝食を食べてから」と言うところだろう。なのにタクミは、今すぐにでも見たいと鼻息を荒くした。
 そんなタクミにユーメリナが期待するのには理由があった。
 というのも、昨年リナリナが連れてきた男は口だけだったから。いつまで経ってもガラス細工を始めようとしない。それどころか魔王城の存在を知ると、姿を消してしまったのだ。
「この人なら、今年の魔王カップに勝てるかも……」
 離れのテーブルに朝食を置いたユーメリナは、袖をまくりながらタクミが待つ庭に出る。

「じゃあ、やってみるから見ててね」
 ユーメリナは両手に力を込める。手を一〇〇〇度以上に加熱させているのだ。
 その証拠に、両手はわずかに赤みを帯びてきた。
「こうやって手に熱を入れてから、珪石をすくい採るのよ」
「すくい採る!?」
 珪石をすくい採るなんて聞いたこともないぞ、と耳を疑ったタクミだが、すぐに目も疑うことになる。
 ユーメリナは庭の珪石を、いとも簡単に手ですくい採ったのだ。それはまるで、柔らかな地層から粘土をすくい採るように。
「ええっ!? それって珪石だよね。粘土じゃないよね?」
「そうよ」
 タクミは庭の珪石を見つめる。
 ――この世界なら自分にもできるかも?
 そんな気がして、タクミは珪石をすくい――
「痛ってぇ!」
 採れなかった。やはり珪石は珪石だ。
 だってカチカチなのだ。どんなに硬いハンマーで叩いても、砕くのにはかなりの労力が必要だろう。
 それを手ですくい採ってしまうなんて、すごい能力だとタクミは思う。
 振り返ると、ユーメリナはすくい採った珪石を両手でこねていた。これもまた粘土をこねるように。

 珪石の融点はおよそ一七〇〇度。
 きっとリナ族は会得しているのだろう。珪石を粘土のように変形させるちょうどいい温度を。
 子供の頃から珪石をこねていれば、自然と身に付くに違いない。
 
「手でこねただけだから不細工だけど、できたわよ、お皿が」
 ユーメリナが手の中のものを岩の上に置く。
 それは綺麗に整形されていないとはいえ、正にガラスのお皿だった。
「まだ熱いから気をつけてね、タクミ」
 離れの窓からリナリナの声が飛んでくる。
「日本人の手は、この温度には耐えられないんだよ。覚えておいて、ユーメリナ」
 さらにユーメリナに忠告してくれた。
「えっ、そうなの? だからタクミの手はこんなに柔らかいのね」
 そして彼女は嬉しそうにタクミの手を取る。ユーメリナの手はすでに常温に戻っていた。
「うーん、柔らかい! ぷにぷにして気持ちいいい!」
 女性に「柔らかい」と手を握られる。
 普通は逆じゃないかと、悦に浸るユーメリナの表情を眺めながらタクミは今日も複雑な気持ちに揺れていた。
 

 朝食を食べると、ユーメリナに案内されてガラス工房を見学する。
 それはタクミにとって、ガラス工房ではなく陶芸工房だった。
 リナ族の職人は、素手で珪石を熔かし、粘土のようにこねる。そしてロクロを使って形を整形していくのだ。それは正に、日本でいう陶芸。
 陶芸と大きく異なるのは、整形した後で焼く必要がないこと。なぜなら、冷えればそのままガラスのお皿やコップになるのだから。
 その状況を見てタクミは納得する。リナリナや村長がタクミの技術を伝えて欲しいと言った理由を。

 ――吹きガラス。
 それは熱したガラスを息で吹いて整形する手法。
 公園でタクミがガラスのウサギを作った時に用いた技法だ。
 最初、リナリナがその技術を伝えて欲しいと依頼した時、タクミは自分の耳を疑った。なぜなら、吹きガラスの技術はごく一般的なものだったから。
 ――ガラスの丘リナと呼ばれる土地なのに、吹きガラスの技法を知らないのか?
 でも、それには理由があったのだ。
 リナ族の人たちは、本当に吹きガラスの技法を知らなかった。だってその必要がないから。
 日本人だって、粘土を口で吹いて陶芸を行う人は誰もいない。それと一緒だ。

「ねえ、タクミ。リナリナのガラスのウサギを作った技法を見てみたいんだけど」
 一通り工房の見学が終わると、ユーメリナが切り出した。
「じゃあ、パイプはあるかな? 口に咥えられる太さで、ステンレスのやつ」
「ステンレス……って?」
 タクミの要求に眉をひそめるユーメリナ。どうやらこの世界にはステンレスは存在しないようだ。
「ガラスのパイプならあるけど?」
「ああ、それでいい」
 ここは何でもガラスなんだなと思いながら、タクミは腕まくりをする。いよいよ腕の見せ所だ。
 工房の職人たちも、見学に集まってきた。
「はい、パイプ。この後、どうすればいい?」
「じゃあ、このパイプの先に赤く熔かした珪石をくっつけてくれるかな?」
「わかったわ」
 ユーメリナは手で珪石をこね始め、手に力を込めて温度を上げ、ガラスを真っ赤な状態にする。そしてタクミが手にするパイプの先にくっつけた。
「これは吹きガラスという技法です。ガラスを吹いて、加工するんです」
 皆にそう説明するとタクミはパイプを咥え、強く息を吹き込む。自慢の肺活量で。
 すると、真っ赤なガラスはぷうっと膨らみ始めた。

 ここでタクミは大事なことに気づく。
 ガラスの加工に必要なアイテムが欠けていることを。

「えっと、バーナーってありますか?」

 パイプを口から放し、タクミは工房の人たちに訊く。
 すると、タクミを囲む人たちは顔を見合わせ始めた。
「ねえ、タクミ。バーナーって何?」
 たまらずユーメリナが訊いてくる。
 ステンレスだけでなくバーナーも? と思いながらタクミは説明を試みる。バーナーが無ければこの先には進めない。
「バーナーって、炎を噴射する装置のことなんです」
 と言われても、リナ族にはピンと来ない。
 そもそもリナ族は火を使わなかった。自分の手で二〇〇〇度まで加熱できるのだから、それは当然だ。
 タクミは後で知ったことだが、リナでは料理もすべて手の熱で作っているという。

 結局のその日のタクミは、自分の技術を披露することはできなかった。
 バーナーが無ければ、ガラスを吹いて自在に加工することは不可能だ。
 作れるのは、薄い球状のガラスだけ。
 ユーメリナに部分的に熱してもらうことも試してみたが、それは無理だった。なぜならバーナーとは異なり、ガラスに触らないと加熱できないから。ガラスが薄くなればなるほど、触った瞬間に形が崩れてしまう。
 ――道理で、薄いガラス細工に皆驚くわけだ。
 その晩のタクミは、ふて寝するしかなかった。


 ◇


 翌朝、自分の荷物を確認したタクミは小躍りする。
「バーナー、あるじゃん!」
 荷物の中に小型バーナーがあることを思い出したのだ。それは公園でのパフォーマンスに使ったバーナーだった。

 早速タクミは、離れの外に出る。
 右手にバーナー、左手に昨日のガラス球体を持って。
 ガラスの球体は、昨日工房からもらって来ていた。

 朝陽に照らされる丘。その上に立つタクミ。
 先端にガラスの球体が付いたパイプを口に咥え、左手で支える。そして右手に持ったバーナーの引き金を操作し、青白い炎を形成させた。ゴーという空気音が朝の空気を震わせる。
(よし、やってみるか)
 タクミはガラスにバーナーの炎を当てる。しばらくすれば赤く変色して、吹き込む息に呼応して変形が始めるはず――だった。
(えっ!? なんで……???)
 いつまで経ってもガラスは変色しない。透明のままなのだ。
 このままではガスが無くなってしまうと危惧したタクミは、バーナーの火を落とす。日本ではどこでも手に入るガスボンベだが、この世界で手に入るとは思えなかった。
 そして、がっかりしながらガラスの球体を地面に置く。

「どうして変色しない?」
 日本とは珪石の種類が違うのか?
 でも、庭の岩石を見る限りでは全く同じだ。
 なんで!? と自棄になりそうになってようやく気づく。
「そっか、あれが必要なのか……」
 タクミは思い出したのだ。
 ガラスの原料についての師匠の教えを。


『タクミ、ガラスの原料はな、主に次の三つだ。よく覚えておけ』
『三つ? それは何?』
『まずは珪砂。珪石を砕いたものだ。これは主原料で、混ぜる割合は七割から八割だ』
『珪石って、チャートのきれいな部分だよね?』
『そうだ。そして次にソーダ灰。これは作るのがちと難しい。混ぜるのは二割弱だな』
『ソーダ灰? なんでそれを混ぜるの?』
『珪石だけだと熔けにくいんだ。なんせ融点が一七〇〇度もあるからな。これにソーダ灰を混ぜると、融点を一〇〇〇度まで下げることができる』
『へぇ〜。それで三つ目は?』
『最後は石灰。これは石灰岩を砕けばいい。一割ほど混ぜる。ソーダ灰を混ぜるとガラスが水に溶けやすくなるから、それを防ぐ役割をする』


「そうだよ、珪石だけのガラスって、融点が一七〇〇度もあるんだった……」
 思わずタクミは頭を抱える。道理でガラスが赤くならないわけだ。
 ユーメリナがいとも簡単に珪石を熔かしてしまうから、融点の違いなんて考えもしなかった。
「このバーナー、どんなに頑張っても一五〇〇度止まりなんだよなぁ……」
 珪石百パーセントのガラスを、このバーナーで熔かすことはできない。
 つまり今のままでは、ガラス細工は不可能なのだ。
「ということは、ソーダ灰を手に入れる必要があるってことか……」
 タクミが公園で用いていたガラスパイプは、ソーダガラスと呼ばれるもの。ソーダ灰を混ぜて、融点を一〇〇〇度に下げていた。

「よっしゃ、やるか!」
 タクミは諦めない。
 ソーダ灰の作り方だって、師匠に叩き込まれていたから。
 幸いここは海沿いの街。もしかしたら原料は取り放題かもしれないのだ。
 意を決したタクミは、朝食を運んできたユーメリナに提案する。

「ねえ、朝食を食べたら海に行きたいんだけど」
「えっ、海に? もしかして、泳ぎに……?」
 ユーメリナの頬がぽっと赤くなる。
 今は夏だし、今日は天気もいいし、泳ぎに行くのもいいなぁって、タクミは思わずユーメリナに水着姿を重ねてしまう。
 ――ビキニだったら胸がはちきれそう?
 が、ブンブンと頭を振って、慌ててその妄想を消し去った。
「違うよ。海藻を取りに行きたいんだ」
「海藻って、食べるの?」
「いや、ガラスの原料にするんだ」
「ええっ? 海藻をガラスの原料にするの?」

 ユーメリナは聞いたこともなかった。
 海藻がガラスの原料になるなんて。
 やっぱりタクミは不思議な人だと、改めて思う。

「海藻からソーダ灰というのを作るんだよ。それがあれば、僕のような日本人でもガラス細工がしやすくなる」


 朝食を食べ終わると、タクミはリナリナ、ユーメリナと三人で海に行くことになった。大きなトートバッグをぶら下げて。
 リナの海岸は、チャートの硬い岩が露出する岩場だった。
 さすがは『ガラスの丘』だとタクミは思う。海岸に立って振り返ると、まさにガラスの原料の上に街が築かれているのを眺めることができた。
 その岩場には沢山の海藻が生えていた。

「なんでもいいから、片っ端から取って欲しい」
「どれでもいいのね」
 こうしてタクミとユーメリナはトートバッグ一杯に海藻を入れる。
 重さは二つ合わせて十キロはあるだろうか。
 女性に重いものを持たせてはいけないと、タクミが一つ持ち、もう一つを二人で持って工房に戻る。

「ふぅ、やっと着いた。疲れたぁ~」
 どしんとトートバッグを床に置くと、ユーメリナはへなへなと椅子に腰掛けた。
「お疲れついでに申し訳ないんだけど、もう一仕事、いや二、三仕事お願いできるかな?」
 タクミはユーメリナにお願いする。
 本来なら、ここからバーナーで海藻を焼いて灰を作る。
 が、リナにはバーナーは存在しないし、タクミのバーナーもガスの残量が心許ない状況だ。ということで、熱源をユーメリナに頼るしかない。
「分かったわ。今年勝つために、じゃなかったタクミのために、お姉さん頑張っちゃうんだから」
 チラリと気になる言葉が聞こえたが、タクミは聞こえないフリをして大きなガラスの容器に海藻を入れた。
 すべての海藻を入れ終わると、ユーメリナが腕をまくる。
「じゃあ、いくわよ!」
 そして海藻の山に両手を当てて、力を込めた。

 ジューと激しい音とともに、海藻の水分が飛んでいく。
 さすがはリナ族。ガラスの容器が熔けないように、熱は一五〇〇度くらいに加減していると思われるが、あっという間に海藻が乾燥していく。
 タクミが師匠と作業していた時は、海藻をバーナーで焼いて灰にした。が、湿っている海藻はなかなか灰になってくれず、とても苦労したことを思い出す。
 やがて乾燥した海藻は、高温のため自然発火して灰になる。
 最後には、十キロの海藻から一キロの灰が取れた。

「ふう、できたわよ」
「ありがとう、ユーメリナ。次はここに水を入れるから、かき混ぜながら煮て欲しいんだ」
 そう言いながらタクミは、灰が入った容器に水を入れる。ユーメリナの作業中に、バケツに水を汲んでおいたのだ。

「タクミの国のガラスの原料って、作るのが大変なのね」
「ゴメン、ユーメリナ。大変だけど頑張って!」
 ユーメリナは右手を容器の水の中に入れて、力を込めてかき混ぜる。すると水はお湯になり、ぐつぐつと煮立ち始めた。
 日本では、一斗缶に灰を入れて煮ていた。焚火の上に乗せて。
 それもまた大変な作業だったが、それを右手一本でできてしまうなんてすごいとタクミは思う。
 ユーメリナが灰を煮ている間、タクミは別のガラス容器の上に網を置き、その上に布を広げておく。

「ありがとう、ユーメリナ。これから残った液をろ過する」
 タクミは柄杓を用いて、灰を煮た液をすくい、布の上から注いでろ過する。
 その間、ユーメリナはぐったりと椅子に腰掛けていた。
 すべての液をろ過すると、ガラス容器の中には沈殿物が残っている。
「こうやって、不純物を取り除いていくんだよ。あと二つ作業があるんだけど、いい?」
「わかったわ……」
 労いながらのタクミの要求に、ユーメリナが力なく答えた。

「次は、この容器を外側から熱してほしいんだ」
「あと二つ、あと二つ……」
 ユーメリナに申し訳ないと思いながら、タクミはろ液を入れたガラス容器を指さす。
 彼女はガラス容器に両手を当てて、熱を加え始めた。
 すでに熱を持っていたろ液は、すぐにグツグツと煮え始める。するとガラス容器の下に、白い結晶が現れ始めた。
「いいよ、止めて」
 ユーメリナは容器から手を離す。
「ありがとう。ユーメリナ」
「作業はあと一つよね。これからどうするの?」
「この液を常温まで冷やして、ろ過して、そのろ液を蒸発させるんだ。その時、また加熱をお願いしたい」
「わかったわ。これが冷えるまで時間がかかりそうだから、お昼にしましょ?」
「うん。本当にお疲れ様」

 ユーメリナのお母さんが作った昼食を、タクミたちは母屋のテラスで食べる。
 青い海と港街を眺めながら食べる食事は、最高だった。
「タクミは言ってたよね、今作っている材料を混ぜると、ガラス細工をしやすくなるって」
 食後の紅茶を楽しみながら、ユーメリナはタクミに訊く。
「そうなんだよ。あれを珪石に混ぜると、ガラスが熔ける温度が下がるんだ」
「へぇ~」
 信じられないという顔をするユーメリナ。
 そういう技術はリナには伝わっていないことを、その表情でタクミは確信する。

 午後は、工房の人たちにも手伝ってもらうことになった。
 新技術が披露されるという噂が広まって、技術者が集まって来たからだ。
 タクミは冷えたろ液をろ過し、白い沈殿を取り除く。そしてそのろ液を、みんなに手伝ってもらって蒸発させる。
「いくぞ、みんな!」
 技術者たちがガラス容器を取り囲んで、ガラスに両手を当てる。
 みんなが力を込めるとあっという間に水分は飛んでいき、ろ液は白い粉末になった。
 ソーダ灰の完成だ。

「みんな、ありがとう!」
 できたソーダ灰は二十グラム。
 これに八十グラムの珪石を加えて、ユーメリナにこね合わせてもらう。
「うわっ!」
 すると彼女は驚きの表情を浮かべた。
「ホントだ、あっというまに熔けた!」
 ソーダガラスの完成。
 珪石にソーダ灰を加えることで、一七〇〇度の融点が一〇〇〇度まで下がったのだ。
 ユーメリナは、工房の仲間たちにソーダガラスを手渡しする。するとそれを手にした人は皆、今まで味わったこともない感触に目を丸くした。
 それもそのはず、一七〇〇度まで力を込めないと熔けなかったガラスが、一〇〇〇度で熔けてしまうのだ。陶芸で言えば、硬かった粘土が薬品を加えたとたん、トロトロになったという感じなのだろう。
 その光景を、タクミは不思議な心持ちで眺めていた。
 だって皆は、日本人ならあっという間に火傷してしまう赤く熱せられたガラスを素手で扱って、面白そうに感触を楽しんでいるのだから。

 ソーダガラスの感触を皆が確認したのを見届けると、タクミはバッグからバーナーを取り出す。
 そしてユーメリナにお願いして、昨日と同じようにガラスパイプの先に付けてもらった。出来たばかりのソーダガラスを。

 パイプを口に咥え、バーナーに火をつける。
 初めて見るバーナーの炎と空気音に、ユーメリナをはじめとする工房の人たちが「おおっ」と声を上げる。いつの間に見学に来ていたのか、村長の姿もあった。
 タクミは公園での子供たちの反応を思い出しながら、バーナーの炎をガラスに近づける。
 ――今まで、もっと大勢の人たちの前で何度もパフォーマンスをやってきた。
 だからタクミは気負うことはない。
 ――素早いバーナーワーク、的確な温度把握。
 タクミの手の動きに合わせて、公園でのパフォーマンスの時と同様、ぐにゃりとガラスが変形し始めた。
(これならいける!)
 このガラスの反応は日本と同じ。それなら普段通りにやればいい。

 ここから先はタクミの腕の見せ所。
 バーナーの炎を自在に操り、パイプに息を吹き込みながらガラスを細工する。
 まずはウサギの体を形成し、バーナーで炙って細い耳を作る。目と鼻を刻み尻尾を膨らませて、ガラスのウサギの完成だ。
 ――薄くて軽く、球面が美しく輝くガラスのウサギ。
 手こねでは真似できない、タクミならではの工芸品だった。

「すごい!」
 工房のあちこちから称賛の声が上がる。
「でしょ、でしょ!?」
 いつの間にかタクミの肩に乗ったリナリナが、のけぞりながらその声に応えていた。
 最前列までやってきた村長は、完成したばかりのウサギを手にとって、じっくり観察し始める。
「これなら勝てますよ、村長!」
「そうだ、そうだ。これなら勝てる!」
「ボクの目はやっぱり正しかった!」
 工房のあちこちから声が上がる。
「パパ……」
 ユーメリナをはじめとする工房の人たちが、村長の言葉に注目した。

「そうだな、今年の魔王カップは彼に賭けてみるか……」

 すると「おーっ!」と工房が歓声に湧いた。
 ユーメリナはタクミの手を取って小躍りする。
「タクミ。あなたは選ばれたのよ、魔王カップの出場者に。リナの代表として!」
 

 その後、村長宅の母屋で、タクミは詳しい話を聞くことになった。
 まずは村長がタクミに頭を下げる。
「工房では申し訳ない。タクミさんの意向を確認しないまま、あんなことを言ってしまって」
「いえいえ、頭を上げて下さい。なんとなくそんな予感がしてましたから」
 タクミは恐縮する村長に、リナに到着するまでの話をする。
「ここに来る前、魔王城を見ました。その時にチラリと聞いたんです、リナリナたちが魔王カップについて話しているのを」
 いっけねぇという顔をするリナリナ。ユーメリナは「コラ!」と小さく叱っていた。
「魔王カップって、リナとジオが年に一回、優勝を賭けて競うんですよね?」
 タクミが訊くと、村長は魔王カップの経緯について説明を始めた。

「魔王カップは毎年、夏の時期に行われている。リナとジオから代表を出して、魔王様の前で作品を作り、その完成度の高さを競う。素材はそれぞれの部族が得意なものを用いる。つまりリナはガラス、ジオは結晶で作品を完成させる」

 ――リナはガラス、ジオは結晶。
 タクミは結晶の森で、ルミナから聞いていた。ジオ族は手の中で結晶を育成することができると。
 一方、リナ族は素手でガラスをこねることができる。
 両部族が競うなら、ガラス対結晶の闘いになるのは必然なのだ。

「優勝すると、魔王様より村全体に一年間の豊作の魔法をかけてもらうことができる。海に面するリナ族は豊漁を、森に住むジオ族は果実の豊作を。しかし残念なことに、ここ数年、リナは負け続けているのだ」

 話を聞いているうちに、緊張で体が固くなっていくのをタクミは感じていた。
 こんな部族を代表する競技に、日本からぽっと現れた自分が出ても良いのだろうか――と。しかも部族全体の生活がかかっているかもしれないのだ。
 手のひらも汗でじとっと濡れてきた。

「それでね、毎年テーマが設定されるの。今年のテーマは『癒し』なのよ」
 タクミの緊張を感じ取ったのか、ユーメリナが彼を励ますように補足する。
「タクミが出てくれると絶対勝てると思うなぁ。だって貴方が作ったガラスの薄さと曲線美は、絶対結晶には真似できないもん」
 彼女にそう言ってもらえるとタクミも心強い。
「去年のテーマは『太陽』、一昨年は『金』だったが、いずれもジオ族の代表、サファイアが作る作品に負けてしまった。今年の開催は一週間後、ぜひ三年ぶりにジオに勝ちたいのだ」

 部族の代表というだけでも荷が重いのに、さらに三年ぶりという期待を背負えるかどうかタクミは迷う。しかも開催は一週間後。
 が、熱く見つめるユーメリナの瞳に負けて、タクミは了承を決意する。
 ガラス細工では負けないという自負もあるし、せっかくこの世界に来て何もしないのはありえない。それに、負けたら命が取られるということも無さそうだ。

「わかりました。自分でよければお引き受けいたします」
 タクミの返答に、村長はほっと胸を撫で下ろした。
「一つ、お聞きしたいのですが……」
 最後にタクミは質問する。最も重要なことについて。
「それで、作品って何を作ればいいんですか? ガラスで」
 するとユーメリナが呆れた口調で応えた。
「だから最初から言ってるじゃない。カップよ、魔法様がお酒を飲むために使う入れ物。カップなのかグラスなのかは、当日お題として発表されるんだけどね」
「えっ……?」


 その夜、タクミはベッドで考えていた。
 魔王カップとは『魔王杯』のことだとずっと思い込んでいたからだ。
 まさか、お酒を飲むカップの出来の良さを争う大会とは思わなかった。

「カップをガラスで作るなら、ソーダガラスじゃダメなんだよな……」

 そう、ソーダガラス製のカップには致命的な欠陥がある。水への耐久性が低く、使用しているうちに溶けてしまうのだ。
 ガラスのウサギを作るだけならソーダガラスで構わない。
 でも、お酒のような水ものを入れるカップでは耐水性を上げないとダメだ。それには石灰を混ぜたソーダ石灰ガラスを作る必要がある。
 しかしその石灰は、リナで手に入るとはとても思えない。周囲にはチャートしかなさそうだったから。

「だったらあそこに行くしかないか……」

 タクミにはあてがあった。石灰を手に入れることのできる場所のあてが。
 だから村長の前では黙っていた。
 開催は一週間後。カップを作るにはソーダ灰がまだまだ足りない。その作製にはユーメリナの助けが必要となる。
 だからタクミは、石灰の採取を一人で遂行しようと考えていた。
 
「ねえ、リナリナ。明日は石灰を採りに行こうと思うんだけど、一緒に来てくれるよね?」
 するとリナリナがぴょんぴょんと枕元まで跳ねて来る。
「石灰を採りにって、どこに行くの?」
「あの鍾乳洞だよ」

 そう、鍾乳石は石灰そのものだ。
 必要量は拳くらいの塊で十分。だって、ソーダ石灰ガラス全体の一割ほどでいいのだから。
 そんな風にタクミは計算していた。

「じゃあ、またルミナに会えるね」
「ああ、午後三時に行けばね」

 実は、もう一つタクミが考えていたことがあった。
 それはバーナーについてだ。
 タクミが日本から持ってきたバーナーは、カセットボンベの残量がだいぶ厳しくなっている。かと言って、この世界でボンベが手に入るとは思えない。日本ではどこでも手に入るからすっかり油断していた。
 ――それならば……。
 タクミは思いつく。この世界にもバーナーの代わりになるものがあるんじゃないかと。
 それを試してみたいと、いろいろと案を練っていた。


 ◇


 翌日。
 ソーダ灰の作成をユーメリナにお願いして、タクミはリナリナと出発する。 
 二時間ほど歩いて、タクミはようやく鍾乳洞の入り口にたどり着いた。時間はお昼を過ぎていたが、三時まではまだ余裕がある。
 タクミは小さな滝の前の岩に腰掛ける。そしてリナから持ってきた弁当を食べ始めた。
 目の前のせせらぎには鍾乳石がゴロゴロと転がっている。この中から適当な大きさのものを一つ拾えば、原料としては十分だ。

 すると森の中から人が歩いて来るのが見えた。赤い髪の毛の女の子――ルミナだ。
 彼女は今日も、ラウンドネックにサロペットデニムというラフな格好だった。

「やあ、ルミナ!」
 リナリナがタクミの肩の上から声をかける。
「あら? タクミにリナリナ。どうしたの? またここに飛ばされちゃった、ってことはないよね?」
 彼女の言葉で、リナリナの召喚術が全く信用されていないことが分かる。タクミは可笑しくなった。
「いや、今日は君に用事があったんだよ、ルミナ」
 タクミは立ち上がると、姿勢を正してルミナを向く。
 その行動で事情を察したルミナは、鍾乳洞の入り口を見た。
「何か大切な用事みたいね。三時までまだ時間があるから、中で話さない?」
「ああ、分かった」
 こうして三人は、鍾乳洞の中で秘密の会談を開くことになった。

 鍾乳洞の奥の池に到着すると、タクミが切り出した。
「今日、ここに来た目的は二つ。その一つは、石灰を手に入れるためだ」
「石灰?」
 ポカンとするルミナに、リナリナが補足してくれる。
「必要になったんだよ、ガラスの原料に。ここの鍾乳石が」
 するとルミナは振り返り、右人差し指の炎で鍾乳洞の壁を照らしながらタクミに忠告した。
「鍾乳洞の中はダメよ。水が何百年もかけて作りだした芸術なんだから。入口の滝のところに落ちている石だったらいいと思うけど」
「わかった。それを帰りに拾っていくよ」
「それで、もう一つは?」
 するとタクミはルミナの瞳を熱く見た。
「君にぜひ頼みたいことがある」
 ルミナはゴクリと唾を飲んだ。

「昨晩ずっと考えていたんだ。君のその炎をパワーアップできるんじゃないかと」
「えっ、この炎を?」
 ルミナは辺りを照らしていた右手の炎を顔の前にかざし、驚きの表情を浮かべた。
「僕がいた世界には、バーナーという装置がある。それと同じ構造を、手の形で作れないかと昨晩ずっと考えていた……」

 これがタクミの秘策だった。
 タクミが持っている小型バーナーは、カセットボンベの頭にバーナートーチを付けて火力をアップしている。
 つまり、バーナートーチが無ければ、ただのカセットコンロの火なのだ。
 ということは、手の形でバーナートーチのような構造を作ることができれば、右人差し指の炎だって強化できることになる。
 ちなみにバーナートーチは、周囲の空気を巻き込むような筒状の構造をしていた。

「最初に聞いておくけど、ルミナの手って、両手とも二〇〇〇度の熱に耐えられるんだよね?」
「ええ、そうよ。私だってジオ族の端くれだもん」
「じゃあ、まず左手をこんな風に丸めて、筒を作って欲しいんだ」
 タクミはルミナの隣に立ち、彼女に見えるように左手を丸めた。
「こう?」
 タクミの格好を真似て、ルミナも左手を丸める。
「そう。そしたら、左手で作った筒の中に右人差し指を入れる」
 ルミナもタクミに従い、左手で作った筒の中にゆっくりと右人差し指を入れる。
「いいよ、いいよ。じゃあ、せーので僕が息を吹き込むから、同時に炎を出して」
 タクミはルミナの左手の前に顔を近づけて、「せーの」と号令をかけた。

 ルミナは赤い炎を点火する。
 と同時に、タクミはその炎目掛けて勢いよく息を吹きかけた。
 すると、ゴーという空気音と共に、ルミナの赤い爪の先に青白い炎が形成する。
 左手の筒と右手の人差し指との間にできた隙間が空気を巻き込んで、バーナーの炎を作り出したのだ。

「すごいよ、ルミナ!」
「ええっ? これってホントに私の炎なの?」
「そうだよ、ルミナだってこんな力を持っていたんだよ!」

 するとタクミが「ちょっとこのままで」と言いながら、しゃがみこんでバッグを漁る。
 そしてガラスの塊が先端に付いたパイプを取り出した。
「やってみるよ、今ここでガラス細工を」

 タクミの表情がガラリと変わる。
 パイプを口に咥え、真剣な瞳でバーナーの炎を見つめている。
 そしてパイプの先端のガラスをバーナーの火の中に投じた。
 たちまち赤くなっていくガラス。タクミはパイプに息を吹き込む。するとガラスはぷくっと膨らみ始めた。

 ――すごい、こんな工法があるなんて。
 バーナーを灯すルミナは、息を飲んでその様子を見つめていた。炎を絶やさないようと細心の注意を払いながら。
 そして炎の光に照らされるタクミの真剣な表情。
 他者を寄せ付けない気迫に、ルミナはドキリとする。

 ゆっくりとガラスを膨らませながら、炎を中心にするように細かく動くタクミ。時には速く、時にはゆっくりと。するとガラスはTの字のような形に変形した。
 最後にタクミはバッグから取り出した金属の棒を用いて、ガラスに十個の穴を開けた。

「できた! もう火を消していいよ」
 口からパイプを離し、タクミはルミナに完成品をかざす。
 ルミナはバーナーの火を消すと、手の形を崩した。そして完成品に右人差し指を近づけ、炎を灯す。
「これって何? 見たことないんだけど」
 するとずっと静観していたリナリナが説明してくれる。
「オカリナだね。タクミ」
「ああ。それよりもすごいよルミナ。君の炎は!」
 パイプに付いたままのオカリナを地面に置いたタクミは、ルミナの顔を熱く見る。
 その表情が見たくて、ルミナは人差し指の炎を顔の前にかざした。

 ぼおっと赤い光で照らされるタクミの表情。
 その瞳はキラキラと輝いている。
「なぜだか分からないけど、すっごく細工がしやすかった。君の炎のおかげだよ。なんか、めっちゃ上手くなったような気がした」
 自分の力で他人がこんなに喜んでくれるのは初めて、とルミナも嬉しくなる。
 しかしタクミは、鼻息を荒くしたままとんでもないことを言い始めたのだ。
「僕、リナの代表で魔王カップに出ることになったんだ。その時、ルミナの炎を使いたいんだけどいいかな? この炎があれば、絶対勝てるような気がする」

 ――えっ、それってどういうこと?
 ルミナは困惑する。
 ――私も一緒に大会に出るってこと? タクミと一緒に?
 タクミの申し出は嬉しい。この炎が彼の役に立つなら、ぜひ使って欲しい。
 だけどタクミは言った。リナの代表で――と。

「ダメよ、タクミ。私はジオ族なのよ」
 承諾したい気持ちを押し殺して、ルミナは訴える。
「たとえ出来損ないだとしても、たとえ両親いなくても、ここまで育ててもらった恩があるんだから、それを裏切ることはできない」
 
 ルミナは思い出す。
 両親が亡くなった日のこと。そして親戚に育てられた日々。
 右人差し指の爪しか結晶がない不完全な子供でも、叔父さん叔母さんはちゃんとルミナを育ててくれた。
 魔王カップに出るということは、その部族の豊作を賭けるということ。ジオ代表なら良いが、リナ代表となると話が違う。
 そんなことになったら叔父さん夫婦に迷惑をかけてしまう。最悪の場合、裏切り者を育てたと言われてジオに住めなくなるかもしれない。

「ゴメン、タクミ。すぐには返事できない……」
 人差し指の炎を消して、ルミナはタクミから目をそらした。
 タクミの役に立ちたい。でも、ジオを裏切ることはできない。
 真っ暗になった鍾乳洞。次第に池の中から青白い光が湧き起こる。午後三時の青珠の放出が始まったのだ。

 見慣れた幻想的な景色。
 しかしルミナは、こんなに複雑な気持ちで眺めたことはなかった。
 すると隣から、フーという風切り音が聞こえてくる。
 ルミナが振り向くと、いつの間にかパイプから切り離されたガラス細工にタクミが息を吹き込んでいる。

「あの曲がいいな」
 タクミにリクエストするリナリナ。
「わかった。いくよ」
 深く息を吸ったタクミがガラス細工に口を付けた。

 懐かしい調べが鍾乳洞に響く。
 どこかで聞いたことがあるような、ゆっくりとした温かいメロディ。
 それに呼応するように、青珠石から池に放たれた青珠が青白い光を発している。
 ジオでもリナでもない世界から来たタクミ。でも、彼が奏でる曲は、ルミナの心を震わせた。
 そんな彼ならば、リナだけでなくジオの人たちにも受け入れられるはず。

 その時、ルミナの頭の中に一つのアイディアが浮かぶ。
 二人で一緒に魔王カップに出場することができて、ジオとリナの両方の役に立つことができる方法が。

「ねえ、タクミ」
 ルミナは切り出した。池の中の光と自分の決意が消える前に。
「こういうのはどう? 私たち二人で魔王カップに出るの。ジオでもリナでもなく、挑戦者として」
「挑戦者?」
「そう、ジオとリナの代表に挑戦するのよ。それでね、私たちが勝ったら魔法を半分こにして掛けてもらうの、ジオとリナの両方にね」

 それは、ルミナが半分ジオを裏切り、タクミが半分リナを裏切る方法。
 裏を返せば、ルミナが半分リナに貢献して、タクミが半分ジオに貢献する方法と言えるだろう。
 半分と半分が釣り合って、すべてが丸く収まるアイディアだった。

「じゃあ、リナの代表はどうなるの?」
 意義を唱えたのはリナリナだった。
 それは仕方がないだろう。タクミの才能を見つけてリナに招待したのはリナリナなのだから。
 ここで引き下がっては、村長からリナリナへの信頼を裏切ることになる。
 するとタクミはリナリナに頭を下げた。
「ありがとう、リナリナ。こんな僕をここに連れて来てくれて。でも僕は、ルミナが提案するように、挑戦者として参加してみたい」
 そしてルミナを向く。
「ありがとう、ルミナ。素晴らしいアイディアだよ。参加はどんな形でもいい。僕は君の炎でガラス細工を作ってみたい」
 タクミはルミナの手を強く握る。
 やっぱりタクミの手は柔らかいと思いながら、ルミナの心は嬉しさで一杯になる。
「ごめんね、リナリナ。そして、ありがとうタクミ。こんな私でも役に立つなら、よろしくお願いします」
 魔王カップ始まって以来初の、異色の挑戦者が誕生した瞬間だった。


「じゃあ、ルミナ。一週間後に魔王城で」
 鍾乳洞の外で石灰の塊を拾ってから、タクミはルミナの手を振る。
「ボクは反対だからね、タクミ!」
 リナリナはまだプンプンだ。
「一週間かけてリナの人たちを必ず説得するから」
「わかった。私、魔王城で待ってる……」
 ルミナもタクミに手を振った。


 ルミナと別れて、歩きながらタクミは案を巡らせていた。
 ――どうやってリナの人たちを説得しよう?
 しかし、考えが一向にまとまらない。
 だからリナに着いてもタクミは黙っていた。
 ルミナと一緒に挑戦者として参加したいという希望。とりあえず、リナリナにも黙っていてもらえるようお願いする。

 タクミには皆を説得する前にやるべきことがあった。
 それはソーダ石灰ガラスの生成。
 これができなければ、ルミナとの約束も実現することはできない。
 早速、結晶の森から持ち帰った石灰を用いて、ユーメリナに作ってもらう。ソーダ石灰ガラスを。
「基本的にはソーダガラスと同じ感触だけど、これで水に溶けにくくなったのよね」
 ソーダ石灰ガラスはあっという間に完成した。
 そしてタクミは、ユーメリナに正直に告白する。

 それはこんな感じだった。
 日本から持ってきたガスボンベは残量が厳しく、魔王カップを闘い抜くのは難しいこと。
 他にバーナーを探さないと出場できないが、リナにはバーナーはないこと。
 ジオ族に、バーナーの炎を作れる女の子がいること。
 その女の子、ルミナに出場を打診したところ、挑戦者としてならと提案されたこと。

「ふーん、事情はわかったけど……」
 工房の窓から海を眺めながら、ユーメリナは考え込む。
 どうか了承してほしいと、タクミは顔の前に手を組んだ。
「要は……好きになっちゃったんだよね? そのルミナって娘が」
「な、な、な、なにを言っているんでございましょう!?」
 びっくりして声が裏返ってしまうタクミ。敬語もなんか変だ。
「だってそうじゃない。その娘と二人で一つの物を作りたい。そういうことでしょ?」
「そ、そ、そういう言い方をされると、間違ってはないけど……」
「へえ、そうだったの? ボクは気づかなかったなぁ」
 それでリナリナに納得されてしまうのは、なにか悔しいタクミだった。
 いやいや、そうじゃない。ちゃんとした理由があると、タクミは反論する。
「違うんです。ルミナの炎を使うと、すごくガラスが加工しやすくなるんです。なぜだかは分からないんだけど……」
 するとユーメリナはくっくっくっと笑い始めた。
「その理由をお姉さんが教えてあげよっか?」
 何だか嫌な予感がするとタクミは身構える。
「それはね、タクミの気持ちがノッてるから。その娘の炎のおかげじゃないんだよ。そういうのを何て言うのか知ってる? 恋って言うの。覚えておきなさい」
 そしてユーメリナは大きな声で呟きながら、工房を出て行った。
「あーあ、結局私が出ることになるのね。パパやみんなを説得するのも面倒臭いなぁ。でもいっか、このソーダ石灰ガラスがあれば、私も勝てそうな気がするもんね。この借りは絶対返してくれるよね、絶対、絶対、絶対だよね……」
 いやいや、呟きめっちゃ長いだろと思いながらも、タクミはユーメリナに深く感謝するのだった。


 ◇


「ぐわぁ、やっと着いたぁ!」
 一週間後の正午。
 魔王城の城門の前で、タクミは背中の荷物を下す。
 それはユーメリナが大会で用いる携帯型ロクロだった。
「お疲れ様、タクミ。玉座の間まではよろしくね」
 タクミのことを労うユーメリナだったが、同じく城門の前に佇む女性を見つけ、敵意を露にする。

 ショートの赤い髪。
 右手の人差し指の爪だけが赤く光っている。
 サロペットデニムではなく、ジオ族の正装であろう白い襟付きブラウスとタイトスカートに身を包んだその女性――ルミナだった。

「あなたがルミナさんね」
 一方、白いドレス風のワンピースに身を包むユーメリナはルミナに近づいて行き、右手を差し出す。
「私はユーメリナ。リナの代表よ」
「よろしくお願いします」
 そして二人は握手を交わす。
 ユーメリナの言葉からタクミの説得が成功したことを知ったルミナは、駆け寄って来る彼に目を向けた。

 一週間ぶりに見るタクミ。
 ずっと会いたかった。
 今日の日のために、ずっとバーナーの練習をしていたんだから――。
 そんなルミナの瞳を見てユーメリナは確信する。やっぱりこれは恋だと。

 一方タクミは、ルミナのもとに走りながら気を引き締める。
 なぜなら、タクミたちの魔王カップはまだ始まってもいないのだ。
「ルミナ、リナの人たちの説得に成功したよ」
 そしてタクミはルミナを手を取る。
「これから一緒に、魔王様にお願いしよう!」
「うん」
 二人でいれば、力がどんどん湧いてくる。
 タクミは魔王門に向かって、大声で訴えた。

「魔王様、お願いがあります。僕タクミと隣のルミナのペアを、挑戦者として大会に出場させて欲しいのです!」

 すると、皆の頭の中に思念が飛んできた。魔法によるものだ。
『いいですよ。出場者が多い方が楽しいですし、良い作品もできるでしょう。私は構いませんよ』
 予想外の良い返事に、なかなか気さくな魔王様だとタクミは胸を撫で下ろす。

 が、これではまだ不十分。
 もう一つ条件を認めてもらえないと意味がない。
「失礼を重ねて恐縮ですが、僕たちが勝った時の場合について提案したいのです」
 すると魔王は笑い出す。
『もう勝った時の心配をしているんですか? よほど自信があるんですね』
「はい、あります。ルミナとなら絶対勝てます!」
 さすがに今のは恥ずかしかったとタクミはちょっと後悔する。
 手を繋いでいるルミナは、真っ赤な顔をしていた。
『それは面白い。その提案とは何でしょう?』
「その時は、リナとジオの両部族に、半分ずつ豊作の魔法をかけて欲しいのです」
『なかなか興味深いアイディアですね。いいですよ、使う魔力量は同じですから』

 ――よかった……。
 へなへなと脱力して、タクミは地べたに座り込む。
 挑戦者としての参加は認めてもらえる公算はあった。
 が、勝った場合の条件をこちらが提案するなんて、行き過ぎた行為なんじゃないかと内心ビクビクしていたからだ。
 ――もし魔王様が怒ったらどうしよう?
 それは杞憂だったのだ。
 魔王は、日本で言う邪悪な悪魔ではなく、ジオとリナの女の子たちが憧れる魔法の王子様だった。

 するとルミナがしゃがみこんでタクミの両手を取る。
「やったね、タクミ!」
「ああ、これで僕たちも出場できるよ」
「私ね、この一週間ずっとバーナーの練習してたんだよ」
「おおっ、期待してるよ」
 しかしこの時は、この練習が嘘だったんじゃないかと思える事態に発展するとは、誰も予想していなかった――



 魔王門が開く。
 タクミとルミナ、そしてユーメリナとリナリナが玉座の間に着くと、すでにそこには一人の男が待ち構えていた。
 サファイア――ジオの代表だ。

 サファイアはいわゆる大男だった。
 身長は一八〇センチはあるだろうか。年は四十後半ぐらい。黒を基調とした軍服のような服に身を包んでいる。
 体格もよく筋肉も発達しており、力勝負であればタクミの勝機はゼロだろう。
 それよりも特徴的だったのは、青色に光る五本の指の爪。その名の通り、サファイアの輝きを放っている。

 まずは、ユーメリナがサファイアの前に立ち、軽く膝を曲げてお辞儀をする。
 ――リナ代表とジオ代表。
 そもそもこの大会は、リナとジオの技術の優越を競う大会なのだから当然の儀式であろう。
 そして次に、タクミがサファイアの前に立つ。
「挑戦者として参加させていただくタクミです。よろしくお願いします」
「こちらこそ、お手柔らかに」
 サファイアはタクミに右手を差し出した。五本の爪が青く光っている。
 見た目とは異なる物腰の柔らかい言葉に、タクミはほっとしながら彼の右手を握る。
(やっぱり硬い。カチカチだ)
 一方、サファイアも驚いているようだ。タクミの手があまりにも柔らかいことに。
「繊細な作業に向いてそうですな」
「はい、それが取り柄ですから」
 きっとサファイアは、その手の中でサファイアを育成することができるのだろう。
 彼が言う通り、タクミは繊細さで勝負するしかないと作戦を考えていた。


 公示の時間、午後一時になると玉座の間に魔王が現れた。
 タクミたちは魔王の前に、横一列に並ぶ。
 魔王は身長一八〇センチほどのスリムな若者で、年は三十くらいに見える。紫色で襟付きのローブを羽織っていた。
 それよりも何よりもイケメンだ。ルミナをはじめとして若い女性が憧れるのもわかる。
「出場者は揃っていますね。一応、一人一人確認いたしましょう」
 そして魔王は、出場者の名前を呼ぶ。

「まずはジオ代表、サファイアさん」
「ははっ」
 するとサファイアが一歩前に出てお辞儀をする。
「今年も期待しています。去年のお題、テキーラ用のショットグラスは最高でした。今でも愛用していますよ」
「それは光栄です」
「それにしてもサファイアガラスは丈夫で素晴らしいです。この世界であれを作れるのは貴方だけですね」

 さすがは去年の勝者、すごい絶賛ぶりだとタクミは思う。
 ガラスよりもはるかに耐久力のあるサファイアガラスが出てきたら、ガラスに勝ち目はないだろう。それならば、耐久力以外のところで勝負する必要がある。

「次はリナ代表、ユーメリナさん」
「魔王様にはご機嫌うるわしゅう」
 一歩前に出たユーメリナが片膝を曲げてお辞儀をする。
「これはまた一段とお美しい。今年は健闘を期待しています」
「今日は特別なガラスを用意しました。魔王様のお気に召す作品が作れればと思います」

 確かに今日のユーメリナは美しい。
 それにしてもドレス風ワンピースでもその存在を主張する豊かな胸。思わず見とれてしまったタクミは、隣のルミナに「もうっ」と肘で小突かれてしまう。
 そしてタクミたちの番がやってきた。

「最後に挑戦者のタクミさんとルミナさん」
「よろしくお願いします」
「魔王様、お久しぶりでございます」
 タクミとルミナは二人揃って頭を下げる。
「タクミさんは初めての顔ですが、どこから来られたのでしょう?」
「日本という国です。ガラス細工を生業にしています。今日は吹きガラスという技法を披露したいと思います」
「ほお、それは面白そうですね。それでルミナさんは何を?」
「私はバーナーの炎を作ります。その炎で彼がガラスを細工するのです」
「二人の共同作業ということですね。これもまた面白そうです。頑張って下さい」

 出場者との挨拶が終わると、魔王は皆の前に立ち、神妙な面持ちとなる。
「さて、今年のテーマは『癒し』であることを、事前にお伝えしておりました。それでは、これから皆さんに作っていただく『お題』を発表します」

 いよいよだ。
 この発表直後に今年の魔王カップが始まる。
 参加者は皆、ゴクリと唾を飲んだ。

「今年の『お題』は白ワイン用のワイングラスです。制限時間は一時間。それでは始めて下さい!」

 魔王の号令で皆が持ち場に着いた。
 サファイアは作業机に座り、机の上に置いた両手で何かを包み込むようにして意識を集中させている。おそらくワイングラスをイメージしながら、両手の中でサファイアガラスを生成させているのだろう。
 それにしても一時間でグラスを生成させてしまうなんで、なんてすごい力なんだとタクミは思う。
 実際、去年はショットグラスを完成させたという。しかし今年はワイングラス。形が大きい分、生成が間に合わない可能性もある。

 一方、ユーメリナは作業台の上に置いた簡易ロクロの前に座り、事前にこねてあったソーダ石灰ガラスをセットした。おそらくロクロを使ってワイングラスを作るのだろう。
 しかしワイングラスというお題は、ロクロとは相性が悪そうだ。というのも、どうしても肉厚になってしまうからだ。それに簡易ロクロでは、きれいな円形には仕上がらない可能性もある。

 もしかしたら勝てる――とタクミはほくそ笑む。
 吹きガラスの特徴は薄さと軽さ。それに加えて、タクミの技術で『癒し』の曲線美が演出ができれば、ジオとリナに勝てるかもしれない。
「じゃあ、頼んだ!」
 タクミはルミナに声を掛ける。
 しかし彼女は顔を真っ青にしながら、バーナー作りに格闘していた。
「ゴメン、タクミ。炎がバーナーにならないの……」

 ルミナは丸めた左手の中に右手の人差し指を入れて、炎を発生させている。
 が、いくら息を吹き込んでもバーナーの炎に発展しないのだ。

「ええっ、どうしちゃったの? ルミナ」
「なぜだか分からないの」
 一生懸命、炎に向かって息を吹き込むルミナ。しかし一瞬ゴオっと激しく燃えるものの、その炎が長続きしないのだ。
「じゃあ、僕が息を吹いてみるよ」
 タクミがルミナの手に向かって息を吹きかける。タクミの肺活量なら上手くいくかと思いきや、やはりバーナーの炎は長続きしない。
「もしかしたら緊張してるのかな、私……」
 今にも泣き出しそうなルミナに、「頑張って!」と魔王が声を掛ける。するとさらに状況が悪くなってしまった。

 魔王は皆の作業の様子を見学するために、周囲を歩き回っていた。
 それが楽しみにで毎年主催しているわけだから、誰にも止める権利はない。
 ――きっとルミナの憧れの魔王様が近くにいるから、普段の力が出せないんだな。
 そう考えたタクミは、作戦を練り直す。
 ルミナがバーナーを作れなければ、作品を完成することは不可能だ。

 ルミナは焦っていた。
 昨日まではちゃんと作れていたバーナーの炎を、何で今日は作れないの――と。
 手の形を変えてみてもダメ、強く息を吹き込んでもダメ。
 だんだんと変な汗が吹き出してくる。時間もすでに三十分が過ぎていた。
 すると頭に柔らかな感触が宿る。今まで味わったことのないフワフワするような感覚が。
 驚いて振り向くと、ルミナの頭をタクミが撫でていた。右手で、ゆっくりと。
(気持ちいい。タクミの手って柔らかい……)
 頭なら子供の頃、両親に撫でられたことはある。が、ジオ族の手は硬くて撫でられるというよりは押さえつけられるという感覚に近い。
 でもタクミの手は違う。指の一本一本が柔らかい。しかもタクミは、ルミナの赤い髪をすくように指を動かしていた。それが何とも気持ちいい。
(いつまでもこうしてもらいたい……)
 そこでルミナはハッと我に返る。
 こんなフワフワな感覚に酔いしれていてはダメなのだ。制限時間は刻々と過ぎていく。ジオ族の出来損ないと言われ続けた自分の価値を他の人に認めてもらうには、タクミと一緒に素晴らしい作品を作るしかない。

「ありがとう、タクミ。今なら私、出来そうな気がする!」
 ルミナは左手で筒を作る。
 そして右人差し指を入れて炎を点火。
 同時に強く息を吹き込むと、ゴオーッと激しい空気音と共にバーナーの炎が形成した。
 その音に、魔王をはじめとして皆がチラリとルミナを向く。
「すごい音だね、ルミナさん」
 興味津々の魔王が近づいてくる。
「ま、魔王様……」
 すると、へなへなとバーナーの炎は消えてしまった。

 もう諦めようと、タクミが思った時だった。
 タクミの肩を何者かが叩いたのは。
「あれを使いなよ」
 それはタクミの肩に飛び乗ったリナリナ。
 リナリナが示す方を見ると、ユーメリナの作業台の上にちょうど良いサイズの短いガラスのパイプが乗っている。右手の指を差し込めば、バーナートーチになりそうな。
「あれならバーナーのトーチとして使えるよね? 珪石百パーセントで作ってあるから、ソーダ石灰ガラスの加工には使えるよ」
「ありがとう、リナリナ!」
 まさに救世主。
「お礼はユーメリナに言いなよ。自分の作品作りを中断してわざわざ作ったんだよ。ボクは反対したんだけどね」
 タクミはリナリナを肩に乗せたままユーメリナの作業台へ行く。彼女はまだ、ロクロを使ってワイングラスを作り続けていた。リナリナが作業台に飛び移る。
 するとユーメリナが作業をしながらタクミに告げた。
「ステムとフットプレートも幾つか作ったから使って。タクミなら、あとはガラスを吹くだけで完成するでしょ?」
 ステムはワイングラスの柄、フットプレートは底のパーツだ。
「ありがとう、ユーメリナ。この恩は一生忘れない」
「借りは溜まってるから倍返しね。というか急ぎなさい。もう時間が無いわよ」
 残り十分。
 タクミは最後のチャンスに全力を注ぐことにした。

「ルミナ、これを左手の筒の代わりに使うんだ」
 タクミはユーメリナから受け取ったガラスの筒をルミナに渡す。
「目をつむっていれば大丈夫。君ならできる。これが最後のチャンスだ」
「わかった、やってみる」
 ルミナは左手でガラスの筒を持って、右人差し指をその中に入れた。
 そして炎を点火、ルミナとタクミの二人で息を吹き込むと、ゴォーッとバーナーの炎が形成した。そしてルミナは静かに目を閉じる。

 やっとバーナーの炎が点火した。
 タクミは持参したガラス付きパイプを咥えると、ガラスをバーナーで炙り始める。
 赤くなったソーダ石灰ガラス。タクミがパイプに息を吹き込むと、ガラスがぷくっと膨らみ始めた。
「おお、それってとっても面白いね」
 魔王が見学にやって来た。
 が、ユーメリナは目をつむっているし、バーナーの音のせいで魔王の声も聞こえない。
 タクミは左手でパイプを回しながら、わき目もふらず吹きガラスの作成を続けた。

 もう時間はない。
 だから失敗は許されない。
 この一発で完成させるのだ。
 テーマの『癒し』を曲線美で表現する、タクミの最高傑作を。

 思い通りのボウルカップが出来た。
 それにしてもルミナの炎は細工しやすい。思い通りにガラスが曲がっていくのだ。
 ――これが、ユーメリナが言う恋のマジックというものなのだろうか?
 もうしそうならばルミナに感謝せねばと、タクミは彼女の顔を見る。目をつむってバーナーに集中する彼女はとても愛しく見えた。
 ガラスが冷えるとヤスリでカットし、リムを整形する。
 そしてパイプから切り離し、バーナーで炙りながらフットプレート付きのステムを接続する。
 こうして時間いっぱいでタクミたちの作品が完成した。



 いよいよ審査の時間だ。
 魔王は目の間に並んだ三つのワイングラスを見比べる。

「一番薄いのはタクミたちのかな。次がサファイア。ユーメリナのは結構肉厚だね」
 タクミは小さくガッツポーズをする。薄さはタクミの技術の一番のウリだから。
 ユーメリナの作品が肉厚なのはしょうがない。
 ロクロを使ってこねたガラスを整形するのであれば、薄さには限界があった。

「続いて色。ユーメリナとタクミたちのは透明だけど、サファイアのは青みがかかっていて美しい。なかなか癒される色だよ」
 今度はサファイアが小さくガッツポーズした。
 そりゃサファイアなんだから、ガラスには太刀打ちできないよとタクミは悔しく思う。

 すると魔王はワイングラスを順々に手に取った。
「手に持った感触が良いのはタクミたちのかな。まずは軽い、そしてこの曲線美。触るととても気持ちがいい」
 満足できる作品が出来て良かったとタクミは思う。
 ルミナを見ると、彼女も頷いていた。
「サファイアのも軽いけど、ほんのわずかに手触りがざらざらしている」
 それは仕方がないかもしれない。
 結晶を育成して形成しているのだ。結晶面にできるわずかな段差がそのような手触りをもたらしているに違いない。
「一方、ユーメリナのは重い」
 これはどうしようもない。
 ボウルカップの部分が肉厚になっているので、それがそのまま重さに反映してしまっていた。

「ということで、ユーメリナには申し訳ないが、サファイアとタクミたちの作品の中から優勝を決めさせてもらう」

 その時だった。
「ちょっと待って下さい!」
 リナリナの声が玉座の間に響いた。

「魔王様は最初におっしゃいました。今回のお題は『白ワイン用のワイングラス』と。それならば、白ワインを注いだ時に最も『癒し』の効果が得られる作品を選ぶべきではないでしょうか?」
「ふむ。確かにその通りだ。じゃあ、それを審査してみよう。今からワインを取ってくるからちょっと待ってて欲しい」
 魔王が席を外すと、ユーメリナはリナリナを叱りつける。
「ねえ、リナリナ。無駄な足掻きはやめようよ。もう私たちは負けよ」
「いや、まだボクたちにもチャンスはある」
 と、リナリナは強気を崩さない。

 その時、ルミナがはっとする。
「そうか、そういうことなのね? リナリナ」
「そうだよ、ルミナの大好きなアレだよ」

 どうやらルミナはリナリナの企みに気づいたようだ。
 が、ユーメリナをはじめサファイアとタクミはただポカンとするだけだった。

「皆さんお待たせしました」
 戻ってきた魔王が三つのワイングラスに白ワインを注ぐ。
 するとリナリナが最後のお願いをした。
「魔王様、ここで明かりを消して欲しいのですが……」

 そこでやっとタクミは気づく。
 リナリナが何を考えているのかを。
 時計を見ると、ちょうど午後三時だった。

「明かりを?」
 不思議に思いながらも魔王は魔法灯を消した。
 すると玉座の間は暗闇に包まれる。
「おおっ!」
 そして魔王をはじめとする皆が歓声を上げた。
 ユーメリナのグラスの中の白ワインが、青白く光り出したのだ。それはまるでグラスの中で青いホタルが飛び交っているように。

 ユーメリナとタクミたちが用いたソーダ石灰ガラス。
 この石灰の原料は、結晶の森にある鍾乳石だ。それには青珠石が含まれている。午後三時になると青珠が飛び出して、水に触れると青白く光る青珠石が。
 よく見るとタクミのワイングラスも微かに青白く光っていた。が、薄過ぎたのだ。
 一方、肉厚のユーメリナのワイングラスは、白ワイン中に放出する青珠の量がはるかに多かった。それがホタルのように青白い光を放ち、幻想的なグラスを演出していた。

「これは癒される……」

 魔王の一言。
 それで勝負が決着した。
「今年の魔王カップは、リナの勝利とする!」


 その時――


「くたばれ、魔王!!」

 暗闇の玉座の間に、ただならぬ声が響く。
 何者かがせまる気配を感じたタクミは、魔王を庇うようにとっさに右手を差し出す。
 と同時に、激しい痛みが彼の右手を貫いた。

 慌てて魔王が魔法灯をつけると、そこには剣を構える勇者が立っていた。
 その切先からは赤い鮮血が滴り落ちている。
「お、お前は去年召喚した……」
 リナリナはその人物を覚えていた。
「そうだよ、オレは去年日本から連れて来られた者だ。魔王を倒すこの時を待ちわびていたのさ。だって魔王は勇者に倒されるものだからね」

 タクミは右手の激しい痛みに耐えられなくなっていた。
 灯りに照らされた右腕を見ると、手首から先が無くなっている。
「ああああああああっーーーー!!!」
 絶叫しながら意識を失ったタクミは、どさりとその場に倒れた。

「タクミっ!」
 ルミナは叫ぶ。
 ――タクミの手が無くなってしまった。
 優しくルミナの頭をなでてくれた、柔らかい彼の右手が。
 激しい怒りがルミナを包む。いつの間にか、右人差し指が真っ赤に燃えていた。
「お前を許さない。返せ、タクミの右手を!」
 勇者に右手を向けるルミナ。
 その人差し指から、かつてない勢いで炎が吹き出した――



 ◇



「タクミ、タクミ……」
 名前を呼ぶ懐かしい声に、タクミは目を覚ます。
「師匠……」
 それは二年前に亡くなった師匠だった。
「この間、ガラスを加工しやすくなる成分を教えたが、覚えてるか?」

 ――ガラスを加工しやすくなる成分?
 そんなもの教えてもらったっけ?
 いや、教わったような気がすると、タクミは記憶の中を探す。
 そうだ――

「確か、『ア』なんとかだったような……」
「そうだ、『ア』なんとかという四文字の成分だ」

 しかし、そこから先が思い出せない。
「ガラスが加工しやすくなる、ガラスが加工しやすくなる……」

 すると成分ではなく、別の記憶が蘇ってくる。
 愛しい女性の顔と供に。

「ルミナ……」

 タクミはその女の子と一緒にガラスを細工した。
 すると、すごくガラスが加工しやすくなった。
 ガラスを炙るのは、彼女のルビーの爪から発する炎。

「そっか、アルミナか!」
「ようやく思い出したな。そうだ、アルミナを混ぜるとガラスが柔らかくなって加工しやすくなる」

 そうだったのか、とタクミは納得する。
 ルミナの炎でガラス細工がしやすかったのは、理由があったのだ。

 ルミナ。
 赤い髪の女の子。
 髪の毛を撫でると気持ち良さそうに頷いてくれた。
 また撫でてあげたいと想いとともに、とても重要なことにタクミは気がつく。
 右手の手首から先が無くなっているのだ。

「ああああああっーーーーーー!」

 叫び声とともに、タクミは目を覚ました。



 がばっと体を起こす。
 そこは病室のようなベッドの上だった。
 タクミが右手を見ると、グルグルと包帯が巻かれている。どうやら本当に右手首から先が無くなっているようだ。

「タクミ!」
 懐かしい声の主に、タクミはいきなり抱きつかれる。
 赤い髪の女の子――ルミナだった。
「ここはどこ? ルミナ」
「ここは病院よ、日本の」

 それってどういうことだ、とタクミは思う。
 ルミナはジオ族の娘。日本になんて来れないはずだ。
 それにタクミはどうやって日本に戻ってきた? 全く記憶がない。
 しかしそんな疑問よりも、まず最初にルミナに伝えたいことがあった。

「ルミナ。分かったんだよ、君の炎でガラスが細工しやすくなった理由が!」

 その言葉を聞いて、ルミナは可笑しくなった。
 この人は、本当にガラス細工が好きなんだと。
 自分の手首よりも、ガラス細工のしやすさの方が大事な人なんだと。
 
「君の右人差し指の爪ってルビーだろ? ルビーの主成分はアルミナなんだよ。だからガラスが細工しやすくなったんだ」

 クスクスと笑うルミナ。
 そしてそんなことはどうでもいいと思う。
 だってここはジオでもリナでもなく、日本なのだから。

「ごめんね、タクミ。私はもう、炎は出せないの」
 そう言いながら、ルミナは包帯で巻かれた右人差し指を突き出した。
「どうしたんだよ、その手?」
「爪を剥いだの、自分で。だってね、ジオ族のままだと日本に行けないって言われたから」

 ――爪を剥いだ?
 タクミは自分の耳を疑う。
 それは自分と一緒に日本に来るために?
 涙がポロポロとこぼれてくる。こんな自分のために、女の子が自分の爪を剥ぐなんて、あってはならないことだ。

「ゴメン、ルミナ。痛い思いをさせてしまって……」
 タクミは左手でルミナの右手首を握りしめた。涙が後から後から出てくる。
「もう痛くないから大丈夫。タクミと一緒に日本に来るためだもん、そんなの一瞬よ。それよりもタクミの方が大変じゃない。右手首を失っちゃったんだから」
 そしてその柔らかな左手で、タクミの右手をさする。
 タクミは濡れた目のままルミナの瞳を見つめる
「後悔してない? ジオ族であることを捨てちゃって」
「いいのよ、私なんてジオ族の出来損ないなんだから。十本の爪が全部結晶だったら、剥がすの大変だったわ」
「そんなこと言うなよ」
「それにね、私嬉しいの。タクミのような柔らかい手になれて。タクミに頭を撫でてもらったの、嬉しかった……」
「いつでも撫でてやるよ」
「うん、ありがとう……」
 タクミは左手でルミナを抱きしめる。

 その時だった。
 タクミの背後からゴホンと咳払いが聞こえてきたのは。
 振り返ると、ガラスのウサギが二匹、テーブルからタクミたちを見つめていた。

「ボク、恥ずかしくなっちゃったよ」
 その声はリナリナだ。そしてもう一匹は――
「そういうのって、私たちがリナに帰ってからにして欲しいよね」
 ユーメリナだった。


「タクミはね、魔王様を守ろうとして、勇者に手首を切られちゃったんだよ。去年、ボクが日本から召喚した人に。本当に申し訳ないよ」
「なんでもね、勇者は魔王を退治しなくちゃならないって、思い込んでいたんだって」

 それからタクミは、事の詳細を聞くことになった。
 魔王の退治を企んでいた勇者は、一年間、結晶の森に隠れて機会をうかがっていたという。そして魔王カップのタイミングで魔王城にもぐりこみ、玉座の間が真っ暗になった隙に魔王に近づいた。そして切りかかったところ、タクミに邪魔されてしまったのだ。

「その直後、タクミはボクが日本に戻したんだ。重症だったからね。タクミは道端で意識を失っているところを病院に運ばれた。ひき逃げの被害者――という扱いでね」
「それでね、ルミナが勇者へ反撃したの。それはすごかったんだから、愛の力ね」
 ルミナは真っ赤な顔でうつむいている。
「でもその攻撃を魔王様が止めた。殺してしまったら、何も分からなくなっちゃうからね。そして罰として、彼から日本に戻る権利を奪ったんだ」

 そこから先の経緯はタクミにも予想がついた。
 なぜなら、日本に来れるはずのないルミナがここにいるのだから。
 ジオ族の象徴であるルビーの爪と引き換えに、勇者から奪った日本に来る権利を魔王から貰ったに違いない。

「だからルミナのことよろしくね。ボクたちはもう戻るから」
「ガラスの技術を教えてくれてありがとう。私たちが勝てたのはタクミのおかげよ。リナを代表してお礼を言うわ。あと、さっきのアルミナ情報も使わせてもらうわね。じゃあね!」
 すると二匹のガラスのウサギから、青白い光が抜けていく。

「ついに私たちだけになっちゃったね」
「ああ、そうだな……」
「そうそう、私が日本に来るときね、サファイア様がお土産をくれたの」
 そう言いながらルミナはバッグから取り出した。魔王カップでサファイアが作った、あのワイングラスを。
「これ、すごいぞ。サファイアガラスは高級品なんだ。日本なら何十万って値段がつく」
「それで入院費が払える?」
「いやいや、おつりがくるかもよ」
「じゃあ、それで日本中を回りましょ? ガラス細工をしながら。私がバーナー、そしてタクミが吹くの」
「バーナーワークは難しいぞ」
「一生懸命練習する。私、タクミの右腕になりたいの」
 愛おしくなってタクミはルミナを抱きしめた。
 そして二人はそっとキスを交わすのだった。


 おわり

ライトノベル作法研究所 2020夏企画
テーマ:『炎』と『癒し』と『挑戦者』

右サイドを駆け上がれ!2020年05月17日 16時45分35秒

「おおっ!」
 サッカースタジアムが響めきに包まれる。
「ナイス、カット!!」
「いいぞ、華羽!」
「よし、行けー!」
 ホームチームのキャプテン華羽穂樽(かわ ほたる)が、相手チームのパスをカットしたのだ。

 刹那。
 チームの雰囲気が一変する。
 華羽選手がボールを持った瞬間、選手たちの攻撃のスイッチが入った。

 前を向くボランチの華羽選手。
 両サイドバックはスプリントを開始した。
 センターバックはラインを押し上げ、フォワードは裏のスペースを狙って相手ディフェンダーと駆け引きを開始する。
 その切り替えの速さ、いや鋭さに背筋がゾワっとする。
 統率されたチームの動き。小学四年生の私でも感じる反撃の予感に、ドキドキと胸の鼓動は高まっていく。

「ゆりこ!」
 華羽選手に名前を呼ばれた右サイドバックは走るスピードを上げた。観客席の前から三番目に座る私の目の前を、その背番号2が駆け上がっていく。試合終盤とは思えないスタミナだ。
 通り過ぎる荒い息遣い。揺れるショートヘアと飛び散る汗。テレビでは決して味わえない臨場感。
「おおっ!」
「そこか!?」
 再びスタジアムが湧く。
 華羽選手から、ディフェンスラインを切り裂くグラウンダーのスルーパスが、右サイド目掛けて放たれたのだ。

「お願い、追いついて!!」
 思わず手を組んで、私は小さくなる背番号2を見守っていた。
 後半もすでに三十分が過ぎている。私だって少年少女サッカークラブに所属しているから分かる。今は地獄の時間帯だ。スタミナは切れかけで息をするだけでも胸が熱く苦しい。筋肉ももう限界に近いだろう。無理をすれば足をつってしまう。
 そんな極限状態だというのに、華羽選手からのパスは容赦ない。前半と同じ鋭さを持ってディフェンダーの隙間を切り裂いた。

 このパスに追いつけば、ラインの裏を取れる絶好のチャンス。
 が、もし追いつけなければ……ごっそりと削られるだろう。背番号2のスタミナは。
 そんな私の心配をよそに、背番号2は走るスピードをさらに加速させ、華羽選手からのスルーパスに追いついた。

「すごい!!」
 しかしそこからが圧巻だった。
 背番号2は右足でボールを保持しながら中に切り込み、味方フォワードの上がりを待つ。立ちはだかるセンターバック、背後からは左サイドバックが迫り来る。
 すると背番号2はボールをまたいでフェイント入れると、左足でゴールライン側にボールを動かし、右足を大きく振った。

「ダメ! そのタイミングじゃ!」
 そこはまだ相手の守備範囲内。
 センターバックが足を投げ出してブロックする。敵も必死だ。
 嗚呼、センタリング失敗――と思いきや
「えっ? センタリング……じゃないの!?」
 背番号2が躍動した。
 相手ディフェンダーを嘲笑うかのごとく、大きく振った右足で地面を蹴ってボールを止めると、左足で再びボールを動かした。見事なフェイントだ。体勢を崩したセンターバックは対応できず、悔しそうにボールの行方を見守るしかない。
「すごい、後半三十分過ぎで、こんな足技が出せるなんて……」
 さあ、後はセンタリングを上げるだけ。
 顔を上げた背番号2は味方フォワードを確認する。そして右足を振り抜いた。

 低い弾道でゴール前に向かって飛んでいくボール。
 しかし――その軌道は味方フォワードへではなく、かなり手前へ戻ってしまう。
「ええっ、キックミス? せっかくここまで攻めたのに……」
 そんな私の心配は無用だった。
 背番号2は狙ってこのコースにボールを上げたのだ。敵味方が密集するゴール前ではなく、ペナルティエリア手前がガラ空きとなることを見越して。

 そこには必ず華羽選手が走り込んでくれる。
 そう信じていなければ、上げることができないコース。

「サンキュ、ゆりこ!」
 そう言ったかどうかはわからないが、走り込んできた華羽選手はニヤリと笑うと小さくジャンプした。亜麻色のポニーテールを揺らしながら、背番号2からのセンタリングを頭で合わせる。
 ゴールの左上隅に向かって、鋭くコースを変えるボール。ゴールキーパーの右手をすり抜けて、見事にネットを揺らした。
『ゴール!!!』
 スタジアムが湧き上がる。お客さんも総立ちだ。
 私も立ち上がって、スタジアムに連れて来てくれたお父さんとハイタッチ。すごいすごい、こんなプレーが間近で見られるなんて。本当に胸のドキドキが止まらない。

 ピッチでは、華羽選手が背番号2と抱き合っている。
 ――遠賀ゆりこ(おんが ゆりこ)、背番号2。
 なでしこリーグ一部のチーム『芦屋INCA』に所属する不動の右サイドバックだ。
「すごい! 私もあんなプレーがしてみたい。あんな選手になりたい!!」
 彼女はその日から、私の憧れの選手となった。



      〇  〇  〇



「まったく、もう、やってられないよ……」
 あれから五年。
 高校生になった私、立花芽瑠奈(たちばな めるな)は、憧れの名門サッカー部への入部という夢を手に入れた。
 ――黄葉戸学園女子サッカー部。
 高校女子サッカーのタイトルを十個も持つ、日本でトップクラスの部活だ。

 が、いざ入部してみると、現実の厳しさを痛感する。

 部員数は五十名。
 一方、試合でピッチに立てるのは十一名。
 つまり五倍弱の競争を勝ち抜かないとレギュラーにはなれないってこと。

 でも私には強力な武器があった。
 それは持久力。一五〇〇メートルを四分半で走ることができる。
「なに、ずるい。一種のチートじゃん。陸上部としてインターハイに出れるよ、それ」
 同じクラスで一緒に入部した麻由にもネチネチと言われたものだ。
 だから、私はすぐにレギュラーの座を手にできると思っていたのに……。

「はぁ……」
「メル、いい加減にやめなよ。ため息、もう十回目だよ」
「麻由はこの状況に満足してるの? 私たちがこれを引っ張っていることに!」

 それは重いコンダラ……じゃなくて、重いローラーだった。

「ローラーだけど?」
「ローラーだけど、じゃないよ」
 相変わらずの麻由の天然ぶりに私は呆れる。
「えっ? メルはこれがローラー以外のなにかに見えるの?」
「いやいや、サッカー部でローラーはおかしいでしょ? スポ根野球漫画じゃあるまいし」
「部活の後でグラウンドにローラーかけるのは普通じゃん。私たち、まだ一年生なんだし」

 そんな無邪気な麻由の横顔を、初夏の夕陽が照らしている。
 今年は世界的なウイルス災害のため入学式は中止、学校や部活に通えるようになったのは六月からだった。
 私は「はぁ」と今日十一回目のため息をつく。
 
「麻由ってお気楽でいいよね。いい、サッカーはそもそも芝生でやるものなの。土のグラウンドじゃないの」
「しょうがないじゃない。高校の部活なんだし」
「しょうがないじゃないよ。ここは天下の黄葉戸学園なんだよ。全国のサッカー少女が憧れる聖地なんだよ。ていうのに、土のグラウンドってありえないよ」

 名門なのに、という理由だけじゃない。
 そもそも私は土のグラウンドが嫌いなのだ。
 スパイクはすぐすり減るし、ボールの痛みも激しいし、練習は埃っぽくってショートの髪はいつもバキバキ。それに土のグラウンドでいくら上手くなったって、試合が行われるのは芝。練習で上手くいくことが本番でも上手くいくとは限らない。まあ、本番に出られるチャンスがあれば、の話だけど。

「中学まで通ってたクラブだって人工芝で練習してたっていうのに……」
 私が十二回目のため息をつこうと麻由を向くと、いつもお気楽な彼女の表情が強張っている。
 いったい何が、と思った瞬間、背後の頭上から声が飛んできた。

「あんたたち、いつまでローラーかけてんの。そんなエリート育ちなら、さぞかしボールの扱いは上手いんでしょうね?」

 ヤバい、この声は――
 振り向くと、やはりキャプテンだった。
 
 宝河香月(たからが かづき)先輩、三年生。
 一七五センチという恵まれた体格に加えて、ボールの扱いは部活ナンバーワン。
 おまけに敵の弱点を的確に突くパスセンスに長けていて、年代別の日本代表に呼ばれるのは時間の問題ではないかと噂されている。

 身長の高いキャプテンの言葉は、どうしても高圧的に感じてしまう。
 一方、私は一六〇センチで、麻由は一五五センチ。
 この身長差を打ち消すには、強い言葉を返すしかない。

『なら、芝のグラウンドで私と勝負してみます? ただし私からボールを奪えなかったら、次の試合のレギュラーをいただきますよ』

 そんな風に言ってみたい。
 まさにスポ根ドラマ。
 が、私にはそう啖呵を切れない事情があった。
 というのも、自慢の持久力で大抵の相手ならぶっちぎることができるので、足技なんて使う機会はあまりないし、真剣に練習もしてこなかったから。

 つまり、下手ってこと。

「メルはね、もっと左足を練習しなくちゃダメ」
 的確な指摘に言葉をつまらせる。確かに私は左足を使うのが特に苦手だった。
「でもキャプテン。日本代表だって、利き足だけでプレーしている人もいるじゃないですか?」
「それはね、フォワードとかトップ下とかそういうポジションの話よ。いい? 考えてみてよ。右サイドバックが右足しか使えなかったら、センタリングしか上げられないじゃない?」
 キャプテンが言うことももっともだ。
 が、私には私の考えがあった。
「だったらそれでいいじゃないですか。センタリングさえ上げられれば」

 私の脳裏に小学生の時に見た試合のシーンが蘇る。
 芦屋INCAの背番号2は、敵陣深く切り込んで得点に結びつく正確なセンタリングを上げた。
 私はそういうプレーがしたいのだ。
 それだけで十分なのだ。
 実際、少年少女サッカー時代は何度も敵陣に切り込んで、決定的なセンタリングを成功させている。

「あなたのスタミナは部員誰もが認めるわ。でもそれだけじゃダメ。今は基礎をしっかり身に着ける時なの」
 本当にそうなのか?
 自分の得意な部分を徹底的に磨けば、それはそれでいいのではないだろうか?
 不服そうな表情を崩さない私を見かねたキャプテンは、一つため息を漏らすと私に向かって提案した。
「わかったわ。週末の紅白試合、あなたにはAチームの右サイドバックに入ってもらう。右サイドバックの桜には、あなたの代わりにBチームの左サイドに入ってもらうわ。そこで自分には何が必要なのか学ぶのね」
 ニヤリと不敵な笑みを浮かべたキャプテンは踵を返し、部室の方へ引き上げて行った。


「やったじゃん、メル! いきなりAチームだよ!」
 キャプテンが部室に入ったことを確認すると、麻由が私の手を取って小躍りする。
 まるで自分の事のように喜んでくれる麻由は本当に大切な友達だ。
「これで結果を出せれば、念願のレギュラー昇格だね、メル!」
 そんなに上手くいくだろうか?
 私はキャプテンが最後に見せた表情が気になっていた。
「きっと今頃、桜先輩と相談してるよ。私をギャフンと言わせる算段を」
 間違いなくそうだろう。
 あの笑いには、私の足を封じる策略が滲み出ていた。
「なに、暗い顔をしてんのよ。あのキャプテンに「それでいいじゃないですか」って啖呵切ったのメルじゃない。ちょっと胸がすうっとしたなぁ。ほらほら、その自信はどこに行ったの? 芽瑠奈よ、諦め……」

「ストップ!!」

 私は慌てて麻由の口を遮る。
「だからいつも言ってるよね。それ言っちゃダメだって」
 本当に嫌なんだから、ダジャレで私の名前を茶化されるのは。
「ちぇっ、久しぶりにあれを言うチャンスだったのに〜」
 仲の良くない友達ならぶっ飛ばすところだよ? 麻由だから許してあげるけど。
「メルならできるよ、桜先輩をぶっちぎるところを見せてよ」
 私だって快走したい。右サイドを一直線に。
 あの時の背番号2のように、相手選手を置いてきぼりにして。
 ふと空を見上げると、六月の夕陽はすっかり沈んでいた。



      〇  〇  〇



 黄葉戸学園女子サッカー部の週末の練習は、市営グラウンドで行うことになっている。そこには立派な人工芝のサッカー専用グラウンドがあった。さすがに定期戦を乗り切るには、学園の土のグラウンドの練習だけというわけにはいかない。
 私たち一年生は、練習開始の一時間前に顧問の先生が運転するマイクロバスに乗り、ボールやらコーンなどの用具を運ぶ。そして会場準備を済ませ、ウォーミングアップをしながら上級生が到着するのを待つのだ。
 部員が揃って一通り基礎練習が終わると、紅白試合が行われることになっていた。
 キャプテンの言葉通り、私はAチームの右サイドバックとして名前を呼ばれた。
 
 広いピッチに散らばるメンバー。
 フォーメーションはオーソドックスな四ー四ー二。
 私は右サイドバックのポジションに駆けていく。
 ――これがレギュラーとしての第一歩。
 そう思うと緊張する。
 スパイクの裏で、人工芝の感触を確認する。
 やれる自信はある。体調も万全だ。

 対する相手はBチーム。主にベンチメンバーで構成されている。
 中でも注意しなくてはいけないのが桜先輩。キャプテンの言葉通り、左のウイングに構えている。これから私とマッチアップする強敵だ。

 ――砂根桜(すなね さくら)先輩。三年生。
 身長は私と同じ一六〇センチくらい。痩せ型でぺったんこの私とは違い、女性的なボディは部内一魅力的かもしれない。カールのかかった綺麗な長髪は、今日は後ろで結んでいる。
 スタミナは上位クラスで、レギュラーとして普段は右サイドバックを守っている。足技は素晴らしく、トラップは完璧、パスも両足から正確に繰り出せる能力を持っていた。

 ピーッと二年の先輩が吹く笛でゲームが始まった。
 Aチームのキックオフ。前に大きく蹴り出されたボール目掛けて、中盤以上の選手がスプリントを開始した。
「よっしゃあ、私も!」
 とダッシュをしようとしたところ、
「行くな、メル!」
 センターバックの先輩に制止されてしまった。

「メルは初めてなんだから、今はラインを作ることに集中だよ!」
 わかるよ、先輩が言うこともわかる。
 でも、お願いだから走らせて。私の武器は走ることだけなんだから。
 抗議の意をこめてボランチのキャプテンを見ると、顔を小さく横に降っている。今は大人しくしとけ、という意味に違いない。
 仕方がないので、前半はしっかりとディフェンスラインを作ることに専念した。

 しかし私はすぐに、桜先輩からの洗礼を受けることになった。

 ディフェンスラインでのパス回し。
 私は丁寧に右足でトラップしてから、右足でパスを送る。それを桜先輩に狙われたのだ。
 パスする瞬間、桜先輩は私に体を当ててくる。
「ぎゃっ!」
 私はいとも簡単に体勢を崩してしまった。

 いつもはとっても温厚な桜先輩なのに。
 なに、この鬼畜なタックルは!?

 でもよく考えたら、桜先輩だってこの試合にレギュラーの座がかかっているのだ。私を自由にさせたら、その座を失ってしまうかもしれない。必死になるのも当たり前だ。
 私のような貧相なガリガリ女子と違って、桜先輩は見事なボンキュボーン。身長が同じなら運動量保存の法則で飛ばされるのは私の方。

 桜先輩のタックルをかわせても、今度はトラップミスを狙われる。
 私は右足でしかトラップができないので、先輩は右足を狙って詰めてくるのだ。きちんとトラップができてもパスコースが限定される。トラップを焦ると、ミスで前にこぼしてしまう。
 何度もボールを失ってすっかり嫌になった私は、手で合図してスペースにボールを要求し始めた。
 が、飛んでくるパスは全部足元ばかり。
「もう、先輩たちって意地悪!」
 きっとキャプテンの指示なのだろう。パスは私の足元に出せと。
 私に反省させるために意地悪してるんだ。
「悔しいけどここは我慢。せめて桜先輩が疲れるまで」
 これだけ激しくプレスしてくるのだから、さすがの桜先輩だってかなりスタミナが削られているはず。一方私は、ほとんど走っていないのでスタミナは満タンに近い。耐えていれば、チャンスは必ず訪れる。
 そう悟った私はトラップすることを諦め、ダイレクトでパスを繋ぐことにした。

「ぐっ、ダメだ……」

 すぐに私は重要なことに気づく。
 左足が使えないため、右足でしかダイレクトパスを送れないのだ。
 つまり、ほとんどのパスがセンターバックに返すことになってしまう。これでは攻撃に結びつかない。
「いやいや、私だって!」
 左足が使えることを証明してやろう。
 ちょうど左足めがけてセンターバックからパスが飛んできた。私はここぞとばかり、左足のインサイドキックでボランチへのダイレクトパスを試みる。が――

「あれ?」

 当たり損ね。
 左足のくるぶしに当たってしまったボールは、コロコロと力なく二メートルほど前方に転がっていく。それはサイドバックとしては致命的なミスだった。

「もらったわ!」
 桜先輩はそれを見逃さなかった。
 さっとボールをかっさらうと、その勢いのままゴールに切れ込んで行ったのだ。
 私は慌てて桜先輩を追いかける。が、後の祭り。敵の背中を追いかけるサイドバックほど惨めなものはない。

 ――後ろからスライディングしてみる?
 いやいやそれは危険なプレーだ。
 一発レッドだし、ペナルティエリア内ならPKを与えてしまう。
 それよりも桜先輩に怪我をさせてしまうわけにはいかない。たかが紅白戦で。

 ――自慢のスタミナで?
 いやいや、たとえ追いついたとしても桜先輩からボールを奪えるとは思えない。
 その前にセンタリングを上げられてしまうだろう。

 ひらひらとなびく、桜先輩のポニーテルに手が届くくらいの距離まで詰めることができた。
 せめてセンタリングを上げる瞬間に肩を当て、タイミングをずらそうとした瞬間、桜先輩は左足で中に折り返す。そして、走り込んできたBチームのファワードにきっちりと合わせられてしまった。

 ゴール!
 
「あー、もう嫌だ!」

 私の決定的なミスで、Aチームは一点ビハインドのまま前半を折り返すこととなった。



      〇  〇  〇
 
 

 ハーフタイムになってベンチにメンバーが集まると、キャプテンが私を向いて切り出した。
「メル、お疲れ様。じゃあ後半は交代で、代わりの右サイドバックには……」

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!
 こんな消化不良のまま終わってしまうのは嫌だ!

 だから私は叫んでいた。
「キャプテン、私の真価は後半に発揮されるんです。お願いですから、後半も私を使って下さい!」
 後で考えると、相当生意気なことを言ったものだと思う。
 でも、それだけ必死だったのだ。
 あんなに必死な桜先輩を見ていると、私だって必死のプレーで答えたいという気持ちが溢れてくる。

「ふうん、じゃあ後半は死ぬ気で走ってくれるのね」
「もちろん死ぬ気で走ります!」
「私のパスはキツいわよ」
「光栄です!」

 どんなSMスポ根だよ、と思いながらも、私はキャプテンに向けた眼差しから力を抜かない。
 こうなったら根比べだ、と思った瞬間、ふっとキャプテンの表情が崩れた。
「わかったわ。後半も頑張って頂戴。それでいいですよね、先生?」
 顧問の先生を向くと、お前たちにまかせたと静かにうなづくだけだった。

 よし、やってやる!
 これでダメだったら、私に未来はない。


 サイドが変わって後半が始まった。
 桜先輩も前半と同じポジションだ。そして私へのプレスを止めようとしない。
 しかし時間が経つにつれて、私はあることに気がついた。
 桜先輩の後ろを守る左サイドバックが疲れてきて、桜先輩と動きを合わせられなくなってきたのだ。

 つまり、桜先輩の背後にはぽっかりとスペースが空き始めたということ。

 これを活かさない手はない。
 私はある作戦を思いつく。
 前半に左足のパスを試みてわかったことがあった。桜先輩は私の右足だけに集中していて、左足はノーマークだったのだ。

 それならば。

 センターバックから来たパスを、勢いを殺さず前方に飛ぶように左足にちょんと当ててみよう。どこに転がるかなんて出たとこ勝負だ。
 試しにやってみると、ラッキーなことにボールは小さく弧を描いて桜先輩の頭上を越えて行った。
 転々とするボールは、ぽっかりと空いた先輩の背後のスペースへ。

 よっしゃ、もらった!

 ダッシュした私は桜先輩と入れ替わり、フリーでボールを保持する。
 ボールの行方を追って顎が上がってしまった先輩は、反応が一瞬遅れてしまったのだ。その隙を私は見逃さなかった。
 しかし喜びも束の間、前方からはサイドバックが慌てて詰めてくる。後ろからは桜先輩。この状況を一人で打開できる足技は、残念ながら私にはない。
 しょうがないので右足でパスを出して、ボランチのキャプテンにボールを預ける。そして全力でラインに沿ってスプリントを開始した。

『私のパスはキツいわよ』

 さあ、どんなパスが来るんでしょうね。
 楽々追いつけたら心の中で笑ってあげるから。そんなものなのかと。
 そう思いながらキャプテンをちらりと見る。目が合った瞬間、彼女の必殺スルーパスが炸裂した。

「ええっ、マジ!?」

 それは、必死に走らないと追いつけないコース。
 でもこれに追いつければ決定的なチャンスを作れる、本当に必殺のスルーパスだった。

「こんちくしょう!」
 血の味がしそうな限界状態の肺に必死に空気を送り込む。
 手を振って、足をフル回転させて、私はタッチラインギリギリでボールに追いついた。
「でも、これでオフサイドラインは突破した!」
 私は、ラインの裏に抜け出ることに成功したのだ。

 ドキドキと心臓が高鳴る。
 私とゴールとの間には、相手センターバックとゴールキーパーしかいない。その二人の鬼気迫る表情が、自分がどんなに危険な位置にいるのかを物語っている。
 
「まずはセンタリング!」

 私は右足でボールを保持しながら中に切れ込み、センターバックが寄せて来る前に右足を振り抜いた。
 味方フォワードが待つゴール前ではなく、ペナルティエリア前のポッカリと空いたスペースに。
 ボールは弧を描きながら飛んでいく。

「キャプテン、今度はあなたの走りを見せてもらいますよ!」

 これはチームプレーではなく、私怨にまみれたブレーだったかもしれない。
 でも、私は感じたんだ。
 さっきキャプテンと目が合った時に。
 ――『最後は私に戻せ』と。

 アイコンタクトの通り、キャプテンはゴール前のスペースに走り込んでいた。
 身長一七五センチの長身が躍動する。と同時に、ショートの髪が頭の振りに合わせて綺麗に広がった。
 高く跳んだキャプテンは、私のセンタリングを空の上からヘディングでゴールに叩き込んだのだ。
 まるで青空から獲物を狙う鷹のように。

 ゴール!

 うわっ、超気持ちいい!
 これだよ、サッカーは!
 私はこの瞬間のためにサッカーを続けてきたんだ。
 

 まだまだやれる。
 もっともっと走ってやる。
 試合再開の笛を聞きながら、私の中でアドレナリンが増産されるのを感じていた。
 
 しかし、そこから先は地獄だった。
 スペースに抜けることができるようになった私は、何度も何度もスプリントを試みる。
 が、パスが来るのは三回に一回くらいなのだ。
 まあ、そりゃそうだ。いつも同じところにパスしていたら、それはキラーパスとは言わないし、相手だって警戒してしまう。

 中学までのクラブだったら、パスが出されてから走っても楽々追いつけた。
 でも今は違う。キャプテンのキラーパスは本物だ。最初から死ぬ気で走らないと追いつけない。
 そういえば小学生の時に見た芦屋INCAの試合でも、背番号2は何度も何度もスプリントしてたっけ。それでも華羽選手からパスが来たのは数回だけだった。そのたった数回のために、チームのために、背番号2は献身的に右サイドを駆け上がっていたのだ。

「いや、違う!」

 チームのためなんかに私は走らない。
 あのゴールの瞬間のためなんだ。
 今なら分かる。あれは私のサッカーのすべてだ。さっきのゴールで心からそう感じた。

 とはいえ、さすがの私も毎回万全の状態でスプリントできるわけではない。
 後半三十分。
 ほんのわずか出遅れてしまったスプリントに、キャプテンから鋭いスルーパスが飛んで来る。

「ごめん、キャプテン。これは追いつけない」

 そんな弱気が横顔に表れてしまったのだろうか。
 無意識のうちに手の振りを弱めてしまったのだろうか。
 それを見抜いたキャプテンから檄が飛んでくる。
 最も言われたくない言葉と共に。

「死ぬ気を見せろ! 芽瑠奈、諦めるな!」

 言ったな、その言葉を!
 キャプテンでも許さない!
 だから絶対追いついてやる。

 それが悲劇の始まりだった。
 タッチラインから外に出ようとするボールに思いっきり足を伸ばす。
「ぎゃっ!」
 が、ほんの一瞬間に合わなかった私はボールの上に乗ってしまい、派手に転倒してしまったのだ。
「痛たたたた……」
 思いっきり右足を挫く。
 ピッチに転がった私はしばらく立ち上がることができなかった。



      〇  〇  〇



「カチカチだね、このギブス」
「だから麻由、私の右足で遊ばないでよ」

 紅白戦で右足首に重度の捻挫を負ってしまった私は、それから二週間、ギブス&松葉杖生活を余儀なくされた。
 部活は見学――なんてことになるわけもなく、ベンチに座ったままで左足を使う特訓をさせられることになったのだ。麻由と一緒に。

 麻由が私にボールを投げる。
 私はベンチに座ったまま、左足で麻由に蹴り返す。
 その練習を毎日五百回、繰り返す。
 
「ごめんね、麻由。毎日毎日こんな練習に付き合わせちゃって」
「気にしないでメル。私はレギュラーなんて別に狙ってないから」
「でも……」
「それにね、メルが有名になってくれたら私嬉しいの。これだけのスタミナがあれば、なでしこリーグでだって活躍できるわよ。そんでもって「あの時の練習があったから」って言ってくれたら私泣いちゃう」
「麻由……」

 麻由には本当に感謝してる。
 彼女の気持ちに応えるためには、今この練習を活かさなくちゃいけない。
 なんとしてでも左足を上手く使えるようにならなくては……。

 インサイド、アウトサイド、インステップ、インフロント、アウトフロント。
 麻由が投げてくれたボールを、それぞれの蹴り方で百回ずつ彼女へ返す。
 最初はあっちゃこっちゃに飛んでいたボールだったが、ギブスが外れる頃には麻由の元へちゃんと返せるようになっていた。


「左足、上手く当たるようになったね、メル」
 練習上がりの桜先輩が、私の元にやってきた。
 麻由はグラウンド整備に行っている。そんな同級生の後ろ姿を眺めながら、私は校庭脇のベンチでボールを磨くことしかできなかった。
「ありがとうございます」
 ベンチの隣に腰掛けようとしている桜先輩にお礼を言う。先輩、ちゃんと私の特訓を見ていてくれたんだ。ほんのり香る汗は、石鹸のように爽やかで羨ましい。
 でも、紅白戦での鬼畜なタックルは忘れてはいませんけど。
「左足は、そうやってインパクトの瞬間に集中する癖をつけておくといいよ。試合でもきっと役に立つから」

 桜先輩の柔らかな言葉には説得力がある。
 キャプテンに上から目線で言われたら、意地でもやるもんかと思っちゃうけど。

「最初はね、『なんで右足と同じように動かない』って思い詰めちゃうから嫌になっちゃうの。だからね、融通の利かないテニスラケットかゴルフクラブみたいなもんだと思っておけばいいのよ」
 へえ、そんな考え方があるんだ……。
「テニスラケットだって、スイートスポットに当たればちゃんと飛ぶでしょ? そんなイメージでいいの」
「先輩はそうやって練習してたんですか?」
「そうよ。ちゃんと飛ぶようになったら面白くなるから。面白くなったらこっちのもんよ」

 確かにそう思う。
 怪我をした日の紅白戦、左足でパスをミスした時は本当に嫌になった。あれは右足と同じようにパスしようと思ったから嫌になったんだ。
 でもその後で、桜先輩の背後へ左足で転がせた時はちょっと面白く感じた。きっとそれはダメもとと考えていたからなんだろう。

 桜先輩にいろいろ教えてもらったら、早く上手くなれるような気がする。
 だったら訊いてみよう。
 憧れの選手に近づくためにはどうすればいいのかを。

「桜先輩。私、憧れの選手がいるんです」
「憧れの選手? もちろんサッカー選手よね?」
「もちろんです。その選手は……」
 すると先輩は掌を立てて私を制止した。
「ちょっと待って、当ててみせるから……」
 顎に手を当てて夕焼け空に視線を向ける先輩。そして輝く瞳で私を向く。
「わかった! 友永選手でしょ!? ガンガン走るといえば友永選手だもんね」

 友永選手――きっとサムライブルーの左サイドバックの友永選手に違いない。

「まあ、友永選手も好きですよ。運動量は素晴らしいですし、なによりもあの明るさですよね。友永選手のポジティブシンキングはとても参考になります。でも私がお手本にしたいのは男子ではなく、なでしこメンバーなんです」
「ふうん……。となると清川選手とか土輝選手とか?」

 清川選手と土輝選手は、現在のなでしこジャパンの右サイドバックと左サイドバックだろう。

「両選手も素晴らしいと思います。が、私がお手本にしたいのはもっとベテランで、ワールドカップで優勝した時のメンバーだったりして……」
 すると桜先輩は「えっ?」と驚いた顔をした。
「ワールドカップの優勝って九年前だよ? メルって……いくつだった?」

 二〇一一年、ドイツで女子サッカーのワールドカップが行われた。
 なでしこジャパンは決勝でアメリカを破って優勝。
 金色の紙吹雪舞うピッチの上で、青いユニフォームを纏った戦士たちがカップを掲げるシーンは、何度も何度もテレビで放映されている。

「まだ小学校に上がる前でした。だからワールドカップ自体はぜんぜん覚えていないんです。でも小学四年でサッカーを始めた時に、お父さんに連れて行ってもらったんです。芦屋INCAの試合に」
「芦屋INCA? ってことは……遠賀選手だね」
「そうです! そうなんです」

 なんだか嬉しかった。桜先輩の口からその名前が出てきた時は。
 誰にも言えずに一人で決めた目標は、間違いではなかったような気がした。

「渋いね、遠賀選手が目標って」
「ですよね。でも芦屋INCAの試合で右サイドを駆け上がる遠賀選手を目の当たりにして、私、体中が震えたんです。あんなプレーがしたいって」
「なんとなくわかるよ。メルのプレーって、そんな感じだもんね」

 えへへへ、と私は照れ笑いする。
 そんな感じって言ってもらえたのがとても嬉しい。

「ワールドカップでも遠賀選手はすごかったんだよ」
「そうみたいですね」
 残念ながら私は、ワールドカップの時の遠賀選手のプレーはあまりよく知らない。
「予選リーグのメキシコ戦の時かな、試合終了間際に遠賀選手がワンツーを繰り返しながらするすると上がって、華羽選手にマイナスのパスを出したの。それが決まって華羽選手はハットトリック。あれは凄かったよね」

 そんなシーンがあったんだ。
 ワールドカップといえば、決勝延長での華羽選手の奇跡のシュートは何度もテレビで見たけど、そんな連携プレーがあったとは知らなかった。

「何が凄いかっていうと、それが後半三十五分過ぎだったってこと。試合終了間際にそれだけ走れるって驚異的じゃない? メルならできそうだけどね、悔しいけど」
「いやぁ、私はそんな……」
「でもね、メルとは決定的に違うところがある」
 照れる私に冷や水を浴びせる言葉を、先輩は口にする。

「遠賀選手って、元々フォワードだったの」

 えっ?
 遠賀選手って、最初からサイドバックのエキスパートだったんじゃないの?
 あれだけスタミナがあって走れるのに?

「高校生の時に選ばれたU-19では、フォワードでアジア制覇。卒業後に入団したテッテレ東京では、トップ下やウイングだったんだって。代名詞の背番号2が定着したのは、芦屋INCAに移籍してからなのよ」

 だからあんなに足技が上手いのか。
 もともとフォワードでアジア制覇までしてるんだから当たり前だ。
 それに比べて、走るだけしか能がない私が「目標なんです」ってちゃんちゃら可笑しいじゃん。恥ずかしくて穴があったら入りたい……。

「どうしちゃったの? メル」
「いや、そんな凄い選手だったなんて全然知らなくて」
「気にしなくていいのよ、私も知らなかったから」
「えっ?」
 驚いて桜先輩を見る。
 夕焼け空を向く先輩は、遠い目をしていた。
「教えてくれたのは香月なの」
「キャプテンが?」
「あれは入部したばかりの時だった。サイドバックへの転向に納得できなかった私に、香月が話してくれたの」

 それから桜先輩は、入部してから現在までの話しをしてくれた。
 中学までのクラブではフォワードだった桜先輩は、黄葉戸学園に入学して現実の厳しさを思い知ったという。
 ほとんどの部員が自分よりも上手い。
 そりゃそうだ、女子サッカーの名門なんだから。
 頭では分かっていたつもりだったが、実際にそれを目の当たりにするとかなりのショックを受けたという。中学までの常識が通用しない。焦りと苛立ちで自分のプレーを見失ってしまう。
 そんな時に顧問の先生に言われたのが、サイドバックへのコンバートだった。

「悔しかった。信じられなかった。今までの人生がすべて否定されたような気がした」
 
 うつむいて、スパイクを見つめる桜先輩。
 いつも明るい先輩にそんな苦悩があったなんて全然知らなかった。

「そんな時にね、遠賀選手のことを教えてくれたのが香月だったの」
 あのキャプテンにそんな優しさがあったなんて……。
「最初はね、私は聞く耳を持たなかった。だってそうじゃない。香月は私より上手いし、身長も高いし、私から見たら全然余裕で安全圏でしょ。今だから言えるけど、同情はやめてよって思っちゃった」
 確かに女子で一七五センチの身長は恵まれている。
「そしたら懲りずにいろいろと調べてくれて。メルは覚えてる? なでしこ優勝メンバーの左サイドバックの選手」
「えっと、醒鳥選手……でしたっけ?」
「そう醒鳥選手。彼女もサイドバックをやる前は中盤のドリブラーだったのよ」

 ええっ!?
 なでしこ優勝メンバーの両サイドバックが、どちらも元々は攻撃の選手だったとは!?

「だからね、サイドバックへの転向は逆にチャンスなんだって。私のスタミナを活かさない手はないって。挙句の果てに香月に言われたの、チャンスがあるのに頑張らないやつは辞めちゃえって。カチンと来た私は、やっとやる気になったの」
 きっとキャプテンは不器用なんだと思う。歯に衣着せぬ言動が人を選ぶのだろう。
「頑張って頑張って、ようやくレギュラーの右サイドバックに定着してきたなぁって思っていたら、メルみたいなスタミナお化けが入ってきちゃって……」
 桜先輩の視線は私の瞳を捉える。
「香月もメルも贅沢なのよ。二人とも私に無いものを持ってる」
 それは積もる思いを私に託すように。
「だからね、メル。諦め……」

「ストップ!」

 思わず制止してしまった。先輩なのに。
 でも危なかった。
 桜先輩にあの言葉を言われたら、私立ち直れない。
 すると予想に反し、先輩は私にニコリと笑う。

「あら、私「諦めて」って言おうとしたの、わかっちゃった?」
 えっ!?
 そうだったんですか?
「だって、こんなに苦労して掴んだレギュラーの座なんだもん。メルに奪われたくない」
 私てっきり勘違いして、先輩の言葉を遮っちゃったりして、なんか恥ずかしい……。
「だからね、諦めて。左足の練習もしなくていいのよ。って言われたら、本当に諦める?」
「私、諦めません。先輩に言われて目が覚めました。遠賀選手に近づくためには、もっともっと基礎を身に付けなければいけないってことに」
 すると桜先輩は薄暗くなりかけた空に手を突き出し、大きく伸びをする。
「あーあ、残念だなぁ。目覚めちゃったか……」

 ありがとうございます、先輩。
 先輩のやさしさに感謝します。
 ポジション争いは実力勝負。情けは無用だけど、スタミナだけではダメだってことを私に伝えたかったんですね。
 それに先輩だって、キャプテンや私に無い素晴らしいものを持ってるじゃないですか。
 伸びで強調される先輩の豊かな胸。女の私だって目がくぎ付けですよ。
 
「でも、噂はホントだったのね。メルのNGワード」
 桜先輩が腰を上げながら、くすくすっと笑う。
「芽瑠奈、諦めるな」
 捨て台詞とともに小さくなっていく背番号2。
 油断した。
 言われちゃったよ、さり気なく。
 先輩、最初から狙ってたでしょ?



      〇  〇  〇



 夏休みに入ると私の足首も癒えて、元通りに練習ができるようになった。
 私はそのスタミナを買われて、背番号22を付けさせてもらう。基礎練習の成果もじわじわと表われてきた。そして週末にはBチームのメンバーとして、紅白戦に出してもらえることになった。

「私、がむしゃらに走りますから、右サイドに縦ポンをお願いします」
 紅白戦の前に先輩方にお願いする。
 縦ポンというのは、相手のディフェンスラインの裏のスペースに落とす山なりのパスを示すことが多い。

 その作戦は見事に的中した。
 Aチームのディフェンスラインは高い位置に設定されている。黄葉戸学園伝統のパスサッカーを貫くためだ。つまり、ラインの裏にはぽっかりとスペースが空いているということ。縦ポンを蹴りやすい状況となっている。
 私の狙いはそのスペース。試合開始からガンガン走って、何度も何度もディフェンスラインを破ることに成功する。
 疲弊するAチームのディフェンスライン。その位置はじわりじわりと下がっていく。
 そうなったらこっちのもの。相手のプレスが弱くなれば、Bチームだってボールを保持できる。Aチームと同レベルのパスサッカーを展開することが可能になってきた。

「しばらく守りに専念するか……」
 このような状況になったら私の出番はない。
 縦ポンを出すスペースはないし、こちらの守りも間延びし始めて、Aチームにとってキラーパスを出しやすい状況になっているからだ。
 Aチームのボランチはキャプテン。背が高いこともあってどこにいるのかすぐに分かる。こちらを向いてプレーしている時はかなり危険な存在だ。いつ、キラーパスが飛んできてもおかしくない。
 一方、桜先輩はAチームの右サイドバックを守っている。ポジションが完全に対角なので、対戦することがない。怪我をした紅白戦の時の借りを返したいところだが、残念ながら別の機会となりそうだ。
 膠着状態で両チーム無得点のまま、前半は終了した。

「後半は、三十分を過ぎたらまたガンガン走ります!」
 私は先輩方に告げる。
 後半も終盤になれば全員が疲れてくる。特にAチームのディフェンスライン。だって前半にあれだけ引っ掻き回してあげたんだもん、足が止まる可能性だってある。
 そうなったらこっちのもの。また引っ掻き回してあげる。

 私の作戦はまたもや的中した。
 Aチームのディフェンスが間延びしたところに縦ポンを出してもらい、好き勝手に私は走り回った。センタリングだって上げ放題。背の高いキャプテンは、私のセンタリングをカットすることに奔走する。
「あーあ、キャプテンがBチームだったらなぁ……」
 ことごとく弾き返されるセンタリングを見ながら、私は口惜しく感じる。
 でもそれはしょうがない。部内で一番身長が高いのはキャプテンなんだから。
 結局、得点は入らぬまま後半も終わってしまった。
 〇対〇の引き分け。
 Bチームとしては上出来の結果だった。


「メル、紅白戦良かったよ!」
 ボールや道具を片付けて、先生が運転するマイクロバスに乗ると、隣に座った麻由が話しかけてきた。
「でも無得点だった」
「Aチームだって無得点だったじゃない。Aチーム相手に引き分けなんて上出来だよ」

 今日はたくさんセンタリングを上げることができた。
 その中の一つでもゴールに結び付けることができれば、勝てたかもしれないのだ。
 ――キャプテンさえいなければ……。
 センタリングをことごとく跳ね返されたのが本当に悔しい。

「どう? 足の状態は?」
 麻由は私の足首の様子を気にしてくれている。彼女の心遣いは本当に嬉しい。
「走る分には問題なかったよ。思いっきり踏ん張れるかと言われると、ちょっと恐い気もするけど」
 バスに揺られながら足首をグルグルと回してみた。
 疲れはあるが痛みはない。もう大丈夫だろう。それよりも、今にもつりそうなふくらはぎの方がヤバい。
「またAチームに入れればいいね」
「うん。そうだね……」

 それには桜先輩という壁を乗り越えないといけない。
 この前は戒めという意味でAチームに入れてもらえることができたが、次は実力でその座を勝ち取らないといけないのだ。
『こんなに苦労して掴んだレギュラーの座なんだもん。メルに奪われたくない』
 夏休み前の桜先輩の言葉が脳裏に蘇る。

 でも……。
 やっぱり私はAチームで試合に出てみたい。
 キャプテンからのキラーパスを受けて、キャプテンにセンタリングを返してみたい。
 怪我をした紅白戦の時のように。
 そこには必ず、素晴らしいゴールが待っているはずだから。


 学園に戻って片付けを終えた私たちは、部室で着替えて校門を出る。住宅街に差し掛かった時、公園の方からなにやら話し声が聞こえてきた。

「今日はメルにやられっぱなしだったなぁ……」

 ええっ? 私のこと!?
 誰? 話してるのは!?

 麻由と一緒に立ち止まると、キャプテンと桜先輩がこちらに背を向けてベンチに座っている。
 ベンチの隣には二台の自転車。きっと市営グラウンドからの帰りなのだろう。恰好もジャージのままだ。

「麻由、先に帰ってて」
 小声で小さく手を振ると、麻由も「じゃあね」と手を振った。
 私は先輩たちに見つからないようトイレの影に隠れる。壁に寄りかかりながらスマホをいじっていれば、傍目にも怪しまれないだろう。

「あのスタミナはチートだよね。でも味方になれば、こんなに心強いことはない。だからね、私、先生に進言しようと思ってる。公式戦でのメルの起用を」
「それ本気で言ってる? 香月」

 えっ、キャプテンが私の起用を?
 こんな光栄なことはないが、桜先輩は不服のようだ。

「だってあれだけ走れるんだよ。使わない手はないよ」
「でも、そしたらどうなるの? 黄葉戸のパスサッカーは?」
「その伝統を活かすためにメルを走らせるんだよ。今日のBチームを見たよね」
 
 今日、私は試合開始からガンガン走った。
 きっと、その時のことを言ってるんだろう。

「前半からメルに走られた結果、どうなった? 痛感したよね、ディフェンスラインを作っていた桜なら」
「ずるずるとラインを下げざるを得なかった。悔しいけど」
「でしょ? それを今度は私たちがやるのよ、公式戦で。相手のラインが下がればこっちのもの。黄葉戸のパスサッカーの出番よ」

 いやぁ、照れるなぁ……。
 私の足が、そんなにAチームを苦しめていたなんて。

「でも、他のみんなが納得する?」
「みんなには私が説得する。ロンドンオリンピックの話をしたら、みんな納得してくれると思う。桜は覚えてる? ロンドンオリンピックのこと」

 ロンドンオリンピック?
 それって何年前? って、今私はスマホをいじってるフリをしているんだから、本当に調べればいいんだ。
 すると、二〇一二年とネットに書いてあった。
(てことは、八年前か……)
 私は小学一年生だった。なでしこジャパンがワールドカップ制覇した翌年だ。全く記憶にない。

「ロンドンオリンピックって、ぜんぜん覚えてないんだけど」
「私たち小学三年生だったもんね。でも私は覚えてる……」
 キャプテンの声が途切れた。
 トイレの影からチラリと様子を覗くと、キャプテンは晴れた青空を見上げていた。
「日本はね、ポゼッションサッカーを諦めてカウンター勝負に出たの。足の速い選手にすべてを託して」
 
 へえ~、そんなサッカーやってたんだ。
 そういう話を、私はあまり聞いたことがない。

「中でも速かったのが井長選手。それはそれは本当にすごかったんだから、私テレビの前でワクワクしてた」
 気になるのはキャプテンが言う「速い」という意味。
 私はスタミナはあるが、特にスピードがあるというわけではない。
「今でも強烈に覚えているのは、予選リーグのモロッコ戦。中盤からの縦ポンに走り込む井長選手が、本当に最高だったんだから」

 今日の試合でも、私は何度も縦ポンを出してもらった。
 その時の井長選手がどんな風に最高だったのか、私も参考にしたい。

「何がすごかったかと言うと、井長選手はディフェンダーの背後から走り始めたの。なのに、するするっとディフェンダーを追い越しちゃって、キーパーが寄せる前に打ったのよ、絶妙なループシュートを。それが入った時は鳥肌が立ったわ。そして真剣に思ったの、井長選手が日本選手で良かったって」
 
 活き活きとしたキャプテンの声から、当時の興奮が伝わってくる。
 もしかして今日の試合でキャプテンは、私が味方だったら良かったのにって思ってくれたのかな?
 そうだったらとても嬉しい。

「でもね、井長選手は準々決勝で怪我をしてしまったの。それが原因かは知らないけど、日本はその後二連敗で、残念ながら四位。もしあの怪我がなかったらって、どうしても思っちゃうのよね。そしたら日本はメダルを取れていたかもしれないのよ? メキシコオリンピック以来の」

 いやいや、キャプテン。
 その時のなでしこは銀メダルだったんじゃないですか?
 確か、ワールドカップ優勝直後のオリンピックでは、メダルを取ったと聞いたような気がするんですけど。

「つまりね、何が言いたいかというとね、桜。走れる選手は確実に武器なの。それを使わない手はないの。私たちはもう三年生で後が無いんだから……」

 私の足が、先輩たちの運命を握るかもしれない?
 それは光栄なことだけど、責任も重大だ。
 トイレの影で私の心臓はドキドキと脈打ち始めた。

「みんなが納得してくれたら、メルを右サイドバックで使ってみたい。そしたら桜には左を守ってもらうことになると思うけど、いい?」
 ええっ、私が桜先輩のポジションを奪う!?
 まあ、私は右サイドバック以外はできそうもないから、レギュラーに抜擢されるってことは結局そうなるんだけど……。
 すると桜先輩はクスクスと笑い始めた。

「いいよ、別に私は左サイドでも」
「ありがとう桜。桜だったら納得してくれると思ってた」
「あら、私は香月の提案に納得したわけじゃないよ。だって香月の本心は、別のところにあるんでしょ?」
「えっ?」

 桜先輩の予想外の切り返しに、キャプテンが声を詰まらせる。
 ていうか、キャプテンの本心って……何?

「好きになっちゃったんだよね、メルのことが」
「ちょ、ちょっと、何言ってんのよ、桜」
「分かるよ、香月のことだったらなんでも。ほら、顔が真っ赤だよ」

 いきなり何言ってんの? 桜先輩。
 思わずスマホを落としそうになったよ。
 でも、それってどういうこと?
 声だけ聞いているといろいろとヤバい。
 想像が私の脳を破壊しそうなんですけど。

「メルがAチームで出た時の紅白戦、香月の目がキラキラしてた。すっごい活き活きしてたよ」
「い、いや、あ、あれは、メルがどこまで追いつけるかなって……」
「私にはそんな風に見えなかったなぁ。もうぞっこんって感じだったよ」
「いやいや、どんなにキツいパスを出しても追いついてくれるからさぁ……」
「それに私にはそんな瞳、見せてくれたことないじゃない」
「そ、そんなことないって。私は今だって桜のことが……」

 ええっ!?
 キャプテンと桜先輩って、そんな仲だったんだ……。
 なんだか聞いちゃいけないような展開になっててどうしよう。

「ふふふ、冗談よ。私も香月のことが好き。でもあの時、メルに嫉妬しちゃった」
「ほら、桜にはちゃんと優しくパスしてあげてるじゃない。桜は桜、メルはメルよ」
「まあ、そういうことにしといてあげるわ」

 キャプテンから私へのキラーパス。
 それに桜先輩が嫉妬してたなんて、なんか複雑な気持ち。
 でも、ちょっとだけ分かるような気もする。
 だってあの時、キャプテンのパスに追いつくことで私の居場所ができたような気がしたから。上級生ばかりのAチームの中で、唯一の私の居場所が。
 パスがきつければきついほど、その土台は強く頑丈になっていく。

 また、受けてみたいなぁ、キャプテンからのキラーパス。
 公式戦でそれができたら最高だろうなぁ……。

 しかしそんな想いは、残念ながら叶うことは無くなってしまった――



      〇  〇  〇



 週が開けると、先生から衝撃的な発表があった。
「突然のことなんだが、香月がU-18に選抜されることになった」
 ええっ、U-18!? キャプテンが!?
 てことは、日本代表じゃん!!
「ということで、香月はしばらくの間、部活を離れる」

 先生がその経緯を説明する。
 今年はコスタリカとパナマでU-20のワールドカップが行われる予定だった。
 が、世界的なウイルス災害のために中止となってしまう。
 それならば次の大会、つまり二〇二二年のU-20ワールドカップに備えて、早めに準備を行おうとU-18日本代表が選抜されることになったという。

「そして早速なんだが、来週末にそのU-18と練習試合をすることになった」
 U-18と練習試合!?
 ということは……キャプテンと対戦するということ?
「香月が抜けたボランチの位置には桜、そして右サイドバックにメルを起用しようと思う」
 ええええええええっ!!!
 まさかのレギュラー昇格!?
 週末のキャプテンと桜先輩の会話でちょっとは覚悟していたが、いきなり先生から発表があるとは思ってもいなかった。

 急に掌に灯る柔らかい感触。見ると、隣の麻由がこっそり手を握ってくれている。
 彼女は泣きそうな顔で小さくうなづいていた。
(ありがとう、麻由)
 そんな想いを込めて、私は手をぎゅっと握り返した。


 その日から私はレギュラー組に交じって練習を開始する。
 チームの決めごと、ディフェンスラインの上げ下げなど、私は先輩方からみっちり叩き込まれた。
 さすがに紅白戦とは違う。
 練習試合とはいえ相手はU-18。同年代の日本代表なのだ。しかもその中にはうちのチームを知り尽くしたキャプテンがいる。完膚なきまでにやられる可能性も否定できない。
 
 そんなのは嫌だ。
 せっかくのレギュラー昇格の初戦なのに、敵の背中ばかり追いかける試合なんてやりたくない。

 金曜日には練習試合用のユニフォームが渡される。
 ――背番号2。
 思わず手が震えてしまう。
 小学生の頃から憧れだった遠賀選手の代名詞。
 そして今まで桜先輩がつけていた番号。
 その背番号2を黄葉戸でつけられる日が、こんなに早く来るとは思わなかった。
 ちなみに桜先輩は、今までキャプテンがつけていた10番を背負うことになった。


 そして土曜日。
 私は麻由と一緒に準備をして、先生が運転するマイクロバスに乗り込む。
 レギュラーに昇格したとはいえ一年生は一年生。その辺り、部活は特別扱いしてくれない。
「頑張ってね、メル」
 バスの中では麻由が励ましてくれた。
「うん。今日は走って走って走りまくるよ」
 私に気負いはない。
 だって走るだけしか能が無いんだから。
 ミスしたらどうしようなんて心配に値する技量は、私は持ち合わせていなかった。

 市民グランドに着くと、麻由と一緒に用具を運ぶ。
 ゴールを運んだり、フラッグを立てたり準備をしていると、だんだんと緊張が増してきた。
 先輩方が自転車でやって来る。
 そしてU-18メンバーを乗せたバスが到着した。

 いよいよだ。
 今日は絶対、やってやる!

 ジャージを脱ぐ。憧れだった黄葉戸のユニフォームが露になった。しかも背番号は2。
 ストッキングに脛当てを入れ、スパイクの紐を結びなおす。
 そしてレギュラー組でウォーミングアップ。足の状態は万全だ。

 グラウンドの反対側ではU-18メンバーがウォーミングアップを開始した。
 中でもキャプテンは目立つ。だって、U-18の中でも一番背が高かったから。
 それよりも驚いたのは、キャプテンが付けている背番号。
 
「4!?」

 それって、ボランチの番号じゃないよね?
 ディフェンス? てことは、ま、まさかのセンターバック!?
 まあ、背が一番高ければその可能性もある。
 
 私の脳裏に、先日の紅白戦の光景が蘇ってきた。
 センタリングを上げても上げても、ことごとく跳ね返されてしまう悪夢のような光景が。
『あーあ、キャプテンが味方だったらなぁ……』
 何度そう思ったことだろう。
 いや、違う。
 今からそんなに弱気になってどうする、メル!
『あーあ、メルが味方だったらなぁ……』
 キャプテンにそう思わせなくちゃいけないんだ、今日の試合は!

 ――芽瑠奈よ、諦めるな!

 いつのまにか私は、自分を鼓舞させる言葉をつぶやいていた。



      〇  〇  〇



 ピーっと笛が鳴って練習試合が始まった。
 キャプテンは予想通りセンターバックだった。
 それよりも驚いたのが審判だ。さすがは日本代表。練習試合といえどもちゃんと資格を持った方が審判として派遣されている。笛の音色はもちろん、ラインでの旗の上げ方も全く違って見える。

 それにしても相手はみんな上手い。
 足に吸いつくようなトラップに加えてボールも保持でき、パスや判断のスピードも速い。そりゃそうだ、日本代表なんだもん。
 プレスに行くとかわされる。かといって、積極的にプレスしないとボールは奪えない。チームの体力はどんどんと奪われていく。

 しかしその事が逆に、私から、いやチームから迷いを消した。
 数少ないチャンスを、すべて右サイドへ縦ポンしてくれたのだ。
 ――味方がボールを奪ったらとにかく走る。
 私ができることは、これだけだった。
 
 何度か裏に抜けることができた私は、ゴール前にセンタリングを上げる。
 が、それはことごとくキャプテンに弾き返されてしまった。
(悪い予感が的中しちゃったなぁ……)
 まあ、これは始めから予想されたこと。
 めげずにこの攻撃を続けていくことが重要なんだ。

 その甲斐あって、相手のラインがじわりじわりと下がってきた。さすがに何度もセンタリングを上げられては、警戒せざるを得ないのだろう。
(ふふふふ、ここまでは作戦通りかな)
 守りが間延びしてプレスが弱まれば、相手が日本代表といえども黄葉戸はボールを持てる。桜先輩も、スプリントを開始する私にスルーパスを試みてくれた。しかし――

「優しすぎるよ、桜先輩……」

 私に配慮してくれているのか、コースもパススピードも甘い。だから楽々と追いつけてしまうのだ。つまり、敵もすぐに追いついてしまうということ。
「あーあ、キャプテンからのパスなら、ディフェンスラインの裏に完璧に抜け出せるのに……」
 意地悪だと思っていたパス。でもそれは、私の能力を最大限に活かしてくれるパスだった。
 桜先輩のことを悪く言いたくはないが、私のことを本当に理解してくれていたのはキャプテンだったのかもしれない。
 でも、今そんなことを言ってもしょうがない。今のキャプテンは敵なんだし、パスを供給してくれるのは桜先輩なんだから。

 前半も終盤に差し掛かると、相手も疲れてきてだんだんと自由に走れるようになってきた。
 調子に乗った私は、ドリブルで中に切れ込んでみる。センタリングを上げても弾き返されるのが目に見えているからだ。
 すると長身の選手が鬼気迫る形相でこちらに向かってくる。目が合う。キャプテンだ。

『私を突破できるもんならやってみなさいよ』

 ニヤリと口角を上げるキャプテンは、そう言っているような気がした。
(なら、やってやろうじゃないの)
 挑発に乗ったことを、後で深く後悔することも知らずに。

 キャプテンと対峙して最初に思い出したのが、昔見た芦屋INCAの試合。
 あの時、遠賀選手は華麗な足技で相手のセンターバックをかわしていた。あのシーンは今でも鮮明に覚えている。
 ならば、
(まずはセンタリングと見せかけて……)
 右足を振り上げ、蹴るフリをしながらボールの前に着地させ、すぐに左足でボールを動かす。
 が、キャプテンはそんなフェイントに引っかかることはない。
(でも、これを何度か繰り返せば、絶対に剥がせるはず)
 長身のキャプテンは足も長い。
 どんなにボールを動かしても、するするとキャプテンの足が伸びてくるのだ。
(何とかして、この足をかわせないものか……)
 少し無理な体勢でボールをまたぎ、前方に右足を着地させようとした時――キャプテンの左足が私の右足首を狙って伸びて来た。

 それは数か月前に重度の捻挫を負った箇所。

 無意識のうちに右足を引っ込める。が、そのために私は体勢を崩し、前につんのめる形で倒れこんでしまう。と同時に、ピピーッと笛の音が鳴った。
「えっ、もしかして……!?」
 慌てて上半身を起こすと、私が倒れていたのはペナルティエリアに入ったところだった。
 ということは――PK獲得!?

 黄色のカードを手にしながら、主審が私とキャプテンのもとへ駆けて来る。
 まさか、うちのチームが先制点のチャンス!? 日本代表から!?
 やったよ、麻由。キャプテンの壁を――突破することはできなかったけど、崩すことができた。

 さぞかしキャプテンは青ざめていることだろう。やっちまったという感じで。
 まあ、実際にはキャプテンの足は私の右足には当たってないから、ファールじゃないって擁護してあげてもいいんだけど……と人工芝に手をついたままキャプテンの表情を見上げると、「バカめ」と言わんばかりの不敵な笑みを浮かべて私を見下ろしている。
(何、その余裕?)
 不可解に思いながら立ち上がると、さらに不可解な出来事が私を襲う。
 主審は私に向って、イエローカードを提示したのだ。

「ええっ、私!?」
 何が起きているの分からなかった。
 審判がカードの裏に何かを書いている。きっと私の背番号なんだろう。
(なんで、なんで? ファールをもらうのは、先に足を出してきたキャプテンの方じゃないの!?)
 するとキャプテンが吐き捨てるようにつぶやいた。
「シミュレーションよ。わざとPKを得ようとする行為。メルはもっとサッカーのこと勉強した方がいいわ」

 何だって?
 私がシミュレーション!?
 いやいやそれは、キャプテンが足首を狙ってきたら避けただけで、私は決してわざと転んだわけじゃない!
 呆然とする私に先生から怒声が飛ぶ。
「何やってんだメル。すぐに再開するぞ、戻れ、戻れ!」

 整理できない心を引きずりながら慌てて自陣に戻る。
 なんで、私が?
 どうしてイエローカード!?
 納得できない。誰かにちゃんと説明してほしい。
 そんなプレーに集中できない気持ちが動きを鈍らせてしまったのだろう。そこをキャプテンに狙われてしまった。

 センターバックからのロングフィード。
 私の裏のスペースに落ちたボールに、オフサイドぎりぎりのタイミングで相手のフォワードが抜け出した。
「やられた! これはかなりヤバい」
 私は相手の背中を追いかける。
 しかし先ほどのイエローカードは、私の雑念をどんどんと増幅させていく。
 ――危険なプレーで止めたら一発レッド。
 ――ファールで止めてもイエロー二枚で退場。
 しかも敵は速い。さすがは日本代表のフォワード。この位置からでは追いつけそうもない。

 完全に詰んだ。もう私にできることはない。
 そう思った瞬間、桜先輩から怒声が飛んできた。

「芽瑠奈、諦めるな!」

 今までの私なら、NGワードに鼓舞して能力以上の力を発揮していただろう。
 でもダメなんだ。
 鼓舞すべき心が死んでいた。
 溢れてきた涙で、追いかける敵の背中が滲んでくる。

 そんなこと言われても、もうダメなんですよ。
 私にできることは、もう、何もない……。

 目の前のフォワードは、手を後ろに降ってシュート体勢に入る。
 嗚呼、この腕を掴んで後ろに引き倒してやりたい、と思う間もなく、左足のシュートが炸裂する。
「お願い! 弾いて!! キーパー!!!」
 その願いはむなしく、ボールは味方ゴールに吸い込まれていった。

 前半終了間際。
 私たちはU-18に一点を先制されてしまった。



      〇  〇  〇



 前半が終了してベンチに戻ると、バシっと桜先輩に頬を引っぱたかれる。
「どうしてメルのことを叩いたかわかる!?」
 泣き出しそうな目で先輩を見ると、先輩も顔をくしゃくしゃにしていた。
「私が……、イエローカードをもらってしまった……からです」
 たどたどしく私が答えると、「違う」と先輩は否定する。
「一生懸命のプレーを誰も責めたりしない。問題はカードをもらった後。なんで死ぬ気で走らなかったの!?」
「だって……」

 私は言葉を濁らせた。
 頭の中では言い訳を一生懸命用意し始めている。
 ――イエローカードをもう一枚もらったら退場でチームに迷惑かけちゃうし、相手のフォワードもめちゃくちゃ速かったし……。
 しかし桜先輩の言葉は、そんな雑念をすべて吹き飛ばしてくれた。

「メルは憧れだって言ってたよね。子供の頃に見た背番号2が」
 先輩の視線が私を射貫く。
「メルは今、背番号2を着けてるの。子供の頃のあなたが、さっきの背番号2を見たらどう思う?」

 はっとした。
 たとえ無理でも、精一杯のプレーを貫いて欲しいと願っただろう。
 子供の頃の私なら。
 私の中の背番号2は、そういう存在だったから。

 なんで私、諦めてしまったんだろう。
 イエローカードなんて、くそくらえだ。
 自分が最も嫌いなプレーを、よりによって憧れの背番号2を着けたその日にやってしまうとは……。

「ありがとうございます。私、目が覚めました」
 だから私は先輩に進言する。
「後半はもっとキツいパスを下さい。私が追いつけそうもないめっちゃキツいやつを」
「わかったわ」

 私たちの反撃が始まった瞬間だった。


 後半は、開始から膠着状態が続く。
 お互いのディフェンスは疲弊し、ラインも下がり気味だ。中盤は間延びしてしまい、決定機を作れないままボールの保持合戦で時間は消費されていく。
 そして後半三十分。
 一番きついこの時間に、桜先輩は攻撃のギアを一段上げる。

『いい、後半三十分を過ぎたらスルーパスを出すよ。メルは死ぬ気で走ってね』

 ハーフタイムに先輩はみんなに提案した。
 死ぬ気って、本当に死にそうだ。呼吸をするたびに鉄の味がする。

『スルーパスは絶対、三回は成功させてみせる。裏が取れれば香月が出てくる。メルは香月を引き付けてセンタリングを上げて。その三回のうちの一本を絶対決めよう!』

 本当に無茶言ってくれるよ。
 まあ、言い出しっぺは私なんだけど。
 センタリングを三回成功って、スプリントはあと何回やればいいのだろう。
 しかも裏を取った後にキャプテンを引き付けなくちゃいけない。
 その上でセンタリングを上げるなんて、まさに無理ゲーじゃん。
 でもやらなくちゃいけない。私には走ることしか能がないんだから。


 まず一回目のスルーパス。
 これはまだ甘い。サイドバックが対処できると判断したキャプテンはゴール前に構えたままだ。
 センタリングを上げてみたものの、案の定、キャプテンにクリアされてしまった。

 二回目のスルーパス。
 これはキツいのが来た。私はディフェンスラインの裏に完全に抜け出した。
 対応するキャプテンが私に迫ってくる。
(前半の借りを返してあげるから)
 ――顔を狙ってセンタリングを上げてみようか。
 ――手に当たったらPKをもらえるかも。
 なことを考えていたら、あっという間に詰められてしまった。
(なんとかスタミナで剥がせないか……)
 ボールを動かしたり止めたりして揺さぶりを掛ける。そしてキャプテンの動きが止まった瞬間、左足でゴールラインに向けて長めのボールを出し、ラインギリギリでセンタリングを上げる。
 が、キャプテンにスライディングでカットされてしまった。

 人工芝に座るキャプテンが、不敵な笑みを浮かべながら私を見上げる。
『今のあなたには無理よ』
 まるでそう言っているようだった。

 一体どうしたらいい?
 早めのセンタリングもダメ、キャプテンを引きつけてもダメ。
 手詰まりだ、今の私には無理なんだ。
 
 その時の私は、よほど暗い顔をしていたのだろう。
 近寄ってきた桜先輩が、「ナイス!」と労いの声を掛けてくれた。
「これでいいのよ。コーナーが取れたんだもん」
 そう言ってもらえると、すごく心が救われる。
 先ほどのプレーで、私たちはコーナーキックを獲得していた。最低限の仕事をしたという先輩の心遣いに「最高のパスでした」と私は親指を立てる。
 するとすれ違いざまに、先輩がアドバイスをくれた。

「あとね、メル。まだ前半を引きずってるよ。ハーフタイムに言ったように、戦うべき相手をしっかりと見極めなさい」

 コーナーキックの行方を見ながら私は考える。
 きっとまだ、心の内がプレーに出てしまっているのだろう。
 ――今日、私が戦うべき相手。
 それはずっとキャプテンだと思っていた。
 私の足を認めてくれたキャプテン。
 彼女の壁を越えてこそ、その恩に応える行為だと考えていた。

 でもそれは違うんじゃないだろうか。
 悪く言えば、それは私情だ。チームプレイではない。
 ハーフタイムに桜先輩は言っていた。子供の頃の自分の見せられるプレーだったのかと。

 そうか、そうなんだ。
 子供の頃から憧れだった背番号2。
 その背中を見つめる瞳に勇気を与えるプレーをしなくちゃいけないんだ。

 それならば。
 黄葉戸に入学してから今まで身につけたすべてを出そう。
 子供の頃の自分に、頑張ったねと言ってもらえるように。


 コーナーキックはキーパーにキャッチされてしまい、試合が再開する。
 時間は後半四十分。
 チャンスはあと一回くらいだろう。

 敵はあからさまなパス回しで時間稼ぎを開始した。
 黄葉戸は必死のチェイシングでボールを奪いに行く。みんなもう、体力は限界を突破しているはずだ。先輩方の頑張りには頭が下がる。
 すると桜先輩がボールを奪取した。
 私はラインに沿ってスプリントを開始する。チラリと振り向くと、先輩と目が合った。
『頼むよ、メル!』
 渾身の桜先輩のスルーパス。この試合で一番キツいコースだった。

 これに追いつけなければチャンスはない。
 血の味がする肺に酸素を送り込み、私は必死に手を降った。
 敵の左サイドバックの脇をすり抜け、裏のスペースでスルーパスに追いつく。ゴールを向くと、キャプテンが迫っていた。

 ――私の敵はキャプテンじゃない。

 私は子供の頃に見た遠賀選手のプレーを思い出す。
 あのプレーがしっかりとできればいいんだ。それ以上のことを望む必要はない。
 
 手を振って右足を振り抜く――と見せかけ、地面に着いた右足でボールを止めて左足で動かす。そんなフェイントにも引っかかることなく、キャプテンは私の右足に意識を集中させていた。

 それならば、もう一回。
 私は再び手を振って右足を振り抜く――フリからボールの上に右足を置き、足裏を使って後方にボールを転がした。キャプテンの体勢とは完全に逆側の、誰もいないスペースへ。

「えっ!??」

 困惑するキャプテンの表情。
 まさか左足に持ち替えるとは思っていなかったのだろう。
 そんなことはどうでもいい。

 くるりと体を反転しながら、私はゴールとキーパーの位置を確認する。
 キーパーは前に出ている。その後ろのスペースに、必死の形相で味方が走り込もうとしていた。

 ――こんなにきつい状態なのに、みんなが私を信じて走ってくれている。

 だったらきちんと届けなくてはいけない。
 このボールを、ゴール前のみんなのもとに。

 左足でのキックの体勢に移行しながら私は思い出す。かつて桜先輩が掛けてくれた言葉を。
『スイートスポットに当たればちゃんと飛ぶでしょ?』
 これから慣れない左足を使う。足のどこに当てるかが重要だ。
 まず右足を踏み込み、しっかりとした土台を作る。
 そして腰を回しながら、左足に意識を集中させた。

 私の左足のスイートスポット。
 麻由と一緒に何千回も練習して習得した場所。
 だから必ずできる。
 子供の頃の私に、成長した姿を見せてあげる。

 キャプテンは慌ててスライディングをしてくる。
 が、私には届かない。
 左足の親指の付け根に正確に当てたボールは、ふわふわとゴール前に飛んでいった。

「さあ、頼んだよ。先輩方」

 しかし全く予想外のことが起きた。
 キーパーの頭の上を越えたボールは、そのままゴールに吸い込まれていったのだ。
 それはまるでスローモーションを見ているかのように。

 ゴール!

 えっ、入っちゃったの?
 左足のスイートスポットに当てたセンタリングが……?

 呆然とする私に、突然誰かが横から抱きついてきた。
 この香りは――桜先輩。
「やったね! メル!!」
 まさかゴールに入るとは思わなかった。
 まさに無欲の勝利。子供の頃の私だって驚きのプレーに違いない。
 と言っても、勝ったわけじゃないんだけどね。

 試合はそのまま、一対一の引き分けで終了した。
 日本代表相手にしては上出来の結果だった。


「まさか、左足に持ち替えるとはね……」
 試合終了後の挨拶のあと、すれ違いざまキャプテンが恨み節を漏らす。
 この試合が原因でキャプテンがU-18メンバーから外されたら申し訳ない、と一瞬思ったが、そんな情けは無用ということもこの試合で私は学んだ。
 すべては実力勝負。
 私ももっともっと練習しなくちゃいけない。

 後日、驚きの展開があった。
 私は突然、U-15メンバーに選ばれたのだ。
 インドで行われる予定だったU-17ワールドカップが中止となり、それならばと次の二〇二二年の大会に備えて早めに代表を招集することになったという。
 ちなみにU-15の監督は、U-18と同じ監督だった。

「実はね、香月が監督に進言して実現したらしいよ。あの時のうちとの練習試合」
 後になって桜先輩が教えてくれた。
 まさか私の足が監督の目に止まることを狙って、キャプテンが尽力してくれたとか?

 そんなことは分からない。
 もしそうだとしたら、プレーで恩返しすればいい。
 キャプテンからのキラーパスに追いつくことで。
 そしてキャプテンへのセンタリングという形で。
 ――その時、なでしこジャパンの背番号2を背負っていますように。
 私の夢は動き出したばかりだ。

ライトノベル作法研究所 2020GW企画
テーマ:『ナンバー2』

青赤えんぴつ2020年01月14日 21時50分06秒

 ――終わりがくれば、それは始まりに変わる。
 当たり前のことだと思うんだけど、こんなにも意識したのは初めてだ。
 それもこれも、あいつが紹介したバイトのせい。幼馴染のあいつのせいだ。


「おーい、ニョリ!」
 こんな風に私のことを呼びながら、背の高いあいつは飄々と学校の廊下を歩いて来る。
 だ・か・ら、この名前で私のことを呼ぶなって。
 順風満帆だった高校デビューが台無しになっちゃうっての。
「ちょ、ちょっと、ワリト。学校でそんな風に呼ばないでって何度も言ってるじゃない」
「えっ? 教室じゃないからいいかと思った」
 私が投げつけた苦言にキョトンとした表情を浮かべる幼馴染は、糸冬和理人(いとふゆ わりと)。
 ――和を理解する人。
 たしかそんな由来だった。子供の頃からおばさんが何度も何度も自慢げに語ってくれたのは。
 ねえ、自分の名前の由来をちゃんと理解してる?
 特に『和』だよ、『和』。私の心の平和を乱すようなあいつの行動は許せない。
「ダメダメ、絶対ダメ。教室じゃなくても学校じゃダメ!」
「えー、ニョリって名前、いいと思うけどな。女台真理(にょだい まり)で略してニョリって、みんな一発で覚えてくれるよ」
 なるほどと相槌を打つ周囲の生徒の表情。
 しまった、こんな公の場であいつに語らせるんじゃないかった。せっかく知り合いの少ない高校に入学したというのに、あだ名がまたニョリになっちゃうじゃない。
 しかし後悔先に立たず。ニヤニヤと表情を崩す生徒たちに絶望感を抱いた私は、くるりと踵を返す。
「もう、知らないっ!」
「ちょ、ちょっとニョリ。呼び止めたのは話があるからなんだけど」
 がしっと腕を掴まれて私は動けなくなった。
 あいつ、こんなに力が強かったっけ? 今もひょろひょろしてるのに。
「放課後。話は放課後にしてよ、わかった? だったら手を離して」
「なんだよ、冷たいなぁ。じゃあ、桜のベンチで待ってるから」
「ええ。そこでお願い」
 高校に入学してから二週間目。
 この日を境に、私の高校生活が一変するとは知らずに――


  ◎ ◎ ◎


 まだ履きなれない新しいローファーに足を突っ込み、前のめりになりながら昇降口を出ると、高度を下げた春の太陽の光が目に飛び込んでくる。目の前は校庭、左を向くと校門。そこへ続く桜並木では、ピンクの花びらを夕陽がさらに赤く染めていた。
 桜の下のベンチ。
 並木道から少し引っ込んだ桜の木の裏側に並ぶその場所は、生徒の憩いの場になっていた。
 その中の一つ。ゆったりとした木製のベンチ。一人で本を読むワリトの頭の上に、ひらひらと花びらが舞っている。
 『おーい、ワリト』と声を掛けそうになって私は慌てて口を閉じた。『遅いよ、ニョリ』なんて返された暁には、さらに私のあだ名が広まってしまうから。帰宅する生徒のピークは過ぎているが、パラパラと通り過ぎる生徒たちに聞かれたくはない。
 だから私は、ベンチの後ろからそっと近づいた。
「何、読んでるの?」
「!?」
 突然背後から声を掛けられたワリトは、驚いて立ち上がろうとした。
 急に目の前に迫る後頭部。私は避けきれずに、額に強い痛みが。
「痛ぁ!」
「うげっ!?」
 爆発しそうな痛みに額を手でおさえながら、私は振り向くワリトを睨みつける。舌を噛まなくて本当に良かった。
「何やってんのよ!」
「何やってんのじゃないよ。驚かしてきたのはそっちじゃんか」
 ワリトも、しかめっ面で後頭部を抑えている。
 確かにそうなんだけど……。
 素直にゴメンと言えずに、私はつい憎まれ口を叩く。
「いや、でもね、そうよ、ワリトが話があるって言うからこんなことになったんじゃない」
「いやいや、ニョリが先に謝れ。全面的にニョリが悪い」
 だから、ニョリニョリ言うなって!
 周囲を見渡すと、帰宅する生徒からクスクスと失笑が漏れ聞こえてくる。
 これはヤバい。
「謝るからさ、ほら行くよ」
 私はワリトの手を取り、無理やり彼を引っ張ると、校門に向かって一緒に走り出した。

「それで何? 話って?」
 校門から駅に向かう道を進み、誰もいない路地へ曲がると、私はワリトに切り出した。
 手はもう握っていない。あれはあの場から逃げ出したくて、しょうがなく握っただけ。だって、私たちは別に付き合っているわけじゃないもん。
 狭い路地を歩くワリトは、立ち止まって神妙な顔をする。
 明らかに様子がいつもと違う。ゴクリを唾を飲む、そんな決意が伝わってくる。
 えっ、何? まさかの告白!? こんなところで??
 ダメだよワリト、さっき手を握ったのは幼馴染だからで、それに私は失恋したばかりなんだから……。
 すると身長一八◯センチの彼から、意外な言葉が飛び出した。
「実は、ニョリにぴったりのバイトを見つけたんだ。ガリ勉にぴったりの」
 へっ?
 バイト?
 告白じゃないの? ただのバイトの話?
 何でそんなに改まって言うのかわからないけど、そういえばワリトにそんなこと話してたような気もする。高校生になったらバイトしてみたいって。うちの高校は基本的にバイトは禁止だから、見つかるとヤバいんだけどさ。
 いやいやびっくりさせないでよ。それにガリ勉って余計じゃね?
 百歩譲ってガリ勉にぴったりを認めたとして、それってどんなバイトなのよ? 塾講師? 家庭教師? 高校一年生にそんなバイトやらせてもらえるの?
「そんなバイトあるの?」
「それがあるんだよ」
 興味を持った声で私が返事をすると、ワリトはほっとしたような表情を浮かべる。こいつ、学校にいる時から私に話したくてしょうがなかったんだ。
 まあ私だって、そんなバイトがあるものならどんな内容なのか興味があるけど。

「ただ、文字を書くだけのバイトなんだって」

 ただ文字を? 書くだけ?
 そんな楽ちんなバイトが、この世の中に存在するとは思えない。
「ワリト、私をからかってるでしょ?」
「そんなことないよ、決してそんなことない」
「じゃあ、見せてみなさいよ。そのバイトの募集要項とやらを」
 私は、ワリトのスマホが入っているであろうスボンのポケットに視線を向ける。
 すると彼は慌てて、私の視線を遮るようにポケットを手を抑えた。
「こ、これは、信頼できる人から口づてに頼まれたバイトなんだ。だからネ、ネットには載ってない。さ、さらに、このバイトの話は、信頼できる人にしかしちゃいけないって言われてるんだ」
 なんだか怪しい。とっても怪しい。
 私はワリトの顔を覗き込んだ。覗き込んだと言っても私は身長一六五センチだから、ちょっと見上げる格好になっちゃうんだけど。
 路地が暗くて瞳の様子がわからない。
 でも彼は、私から視線を逸らそうとはしなかった。真実を伝えようとする態度だけは本物――と考えても良さそうだ。幼馴染としての経験が脳にそう伝えていた。
「仕方ないわね。信じてあげるわよ」
 私は前を向く。幼馴染とはいえ、ずっとワリトを見つめるのはちょっと恥ずかしい。さっきは変な勘違いもあったし。
「それで? 履歴書とかは必要なの?」
「やってくれるの、ニョリ? そのバイト」
「やるかどうかはまず話を聞いてみてからだよ。でもそのためには、なにか書類が必要なんでしょ?」
「必要ない。これから連れて行ってやるよ。駅の近くだから」
 ええっ、これから?
 いやいやいや、心の準備が全くできてないよ。そういうのって、書類を書きながら整えるもんじゃない?
「せめて明日にしない? ほら、私、バイトの話を今日聞いたばかりだし」
 少し歩みを速めたワリト。私の言葉なんて全く耳に届いていないみたい。
「前任者が辞めたばかりらしいんだ。今日ニョリを紹介すると、とっても喜ばれる」
 さらにワリトは歩みを速める。
 ちょっと待てぇ。私の話も聞け!
 格好だって制服姿だし、北高生だってバレバレじゃない。でも普段から清潔にしてるし、スカートだって短くしてないし、髪も染めてないから問題ない? 上半身はまだ発育途中だからインパクトは薄いと思うけど、顔はちょっと残念な松島菜々緒って言われているから一般ウケするかも。えっ、コウタロウ? ワンチームかっ!?
 ハッと気づくと、ワリトはかなり先を歩いている。
 全くしょうがないなぁ。今日は話を聞くだけだからね。バイトをやるとは言ってないからね。
 ドキドキと不安が入り混じってすっかり道がわからなくなった私は、必死にワリトの背中を追いかけた。


「このビルの地下なんだ」
 ワリトがようやく歩みを止めたのは、駅の表通りから少し離れた三階くらいの小規模なビルが立ち並ぶ静かな路地だった。
 商店街でも住宅街でもなく、オフィス街と呼べるほど小綺麗でもない。◯◯工業とか◯◯事務所と銘打つ看板がそれぞれのビルに掲げられているが、一階のシャッターはほぼすべてが閉まっている。現在午後六時。まだ仕事をしている方が多数いるようで、二階や三階の窓からは光が漏れている。
 ワリトが指差すビルもその中の一つ。地下へ続く階段に付けられた蛍光灯は、切れかけているのかチカチカと点滅している。
「申し訳ないんだけど、俺はここから先へは行けないんだ」
 って、どういうこと?
 私一人で、この薄暗い階段を行かせるつもり?
「ゴメン、私帰る」
 そりゃそうでしょ。わけのわからないビルの薄暗い地下の部屋に、一人で平気で入れる女子高生なんているわけがない。電気がついてる二階や三階だって不安だというのに。
 そもそも紹介者が同席しないってどういうこと? そんなのありえないじゃない。『この方が、バイトに推薦したい女台さんです』って紹介してもらって、初めて私はその場に居てもいい存在になれるような気もする。
 くるりと踵を返す私に、ワリトは慌てふためいた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。じゃあ、こうしよう。俺が今から電話をして、支配人に出て来てもらうから」
 出て来てもらうって、ビルの入口まで?
 まあ、それだったらちょっとは許せるかも。通りなら街灯もあってそんなに暗くはないし、なによりもワリトが一緒にいてくれる。
「大丈夫だよ。支配人って言っても気のいいおばあさんだから」
 私の歩みが完全に止まったのを確認すると、ワリトはポケットからスマホを取り出し、どこかに電話を掛け始めた。
「ごめん。聞かれると恥ずかしいから、ちょっと失礼する」
 そう言うと、ワリトはスマホを耳に当てながら通りの向こう側へ移動した。と言っても三メートルくらいしか離れてないんだけど。
 ペコペコとお辞儀をしながら誰かと会話をするワリト。その内容は、私のこれからの行動がお金になるかどうかという一種の商談なのだ。
 ――なんだか、私という存在が売買にかけられてるみたい。
 それなのにまるで他人事のようだ、と変な感覚に体が包まれた時、ワリトはスマホを耳から離した。
「おーい、ニョリ。今から出てきてくれるってよ」
 いよいよだ。
 私の働きを買ってくれる人がここに現れる。
 ドキドキしながら私は地下に続くビルの階段に注目した。切れかけた蛍光灯がチカチカしている薄暗い階段を。
 するとギギギという金属音がして、ドアがゆっくりと開く。そこから顔を覗かせたのは、ワリトの言う通り優しそうなおばあさんだった。
 手すりを使いながら一歩一歩階段を上がるおばあさん。私が頼んだからわざわざ出てきてもらった。なんだか申し訳なくなって、思わず階段を一段降りた。
「あの、すいません。糸冬君に電話で紹介してもらった女台ですけど……」
 しかしおばあさんは、すっかり白くなった後頭部をこちらに向けたまま、黙って階段を上り続けている。私の声が聞こえたのか、聞こえなかったのか……。
 やっとのことでビルの入口にたどり着いたおばあさんは、身長一六五センチの私を見上げた。
「あなたね、伊藤さんが紹介してくれた女子高生は」
 えっ、伊藤さん?
 いやいや、伊藤じゃなくて糸冬だし――と思いながら振り返ると、そこにワリトの姿はなかった。
 あいつ逃げたな。しかも偽名使いやがって……。
 ワリトへの悪態は心の中だけにして、私は笑顔を繕っておばあさんを向く。背は一五◯センチくらいの、ほんのりお香の匂いがする本当に優しそうなおばあさんだった。
「あなた、色鉛筆で絵や文字を書くのはお好き?」
 いきなりの質問で戸惑う。
 まあ、ワリトから『ただ文字を書くだけのバイト』と聞いていたから、想定内と言えなくもない。私は絵心は全くないが文字を書くのは好きなので、満面の笑顔でうなづいた。
「ええ、好きです」
「じゃあ、あなたにお願いしようかな、この仕事」
 人生初のバイトが決まった瞬間であった。


 地下への階段を降り、ギギギとドアを開けるおばあさんに案内されると、そこには薄暗い廊下が伸びていた。ほんのわずかだが、うっすらとお香が漂っている。
 廊下にはいくつかドアが面している。どうやら小部屋が並んでいるようだ。
 おばあさんがいつも座っているであろう受付のカウンターを過ぎると、おばあさんは入口から二番目のドアに手をかける。内開きの木製のドアの向こうは、二畳くらいの広さのこじんまりとした個室になっていた。部屋の真ん中には一メートル四方くらいのテーブル、そしてダイニングで使うような簡素な椅子が一つ置いてある。部屋を照らすのはテーブルの上の裸電球のみ。まあ、電球色のLEDなんだと思うけど。
「ここでね、紙に絵や文字を書いてほしいの」
 そう言っておばあさんはテーブルに近づく。テーブルには筆入れと紙、そして手回しの鉛筆削りが置いてあった。
「この中の鉛筆を使ってね」
 おばあさんは筆入れを開けた。それはプラスチックや布製ではなく、かなり使い古した木製の筆入れだった。
 えっ?
 私は筆入れの中を覗き込んで驚いた。だって、中に入っているのは赤青鉛筆だけだったから。しかも短いのだったり、長いのだったり、太かったり、細かったり……。
 おばあさんは筆入れの中から赤青鉛筆を一本手に取ると、積み上げられた白紙から一枚をとってテーブルの真ん中に置き、言葉の代わりに青色の文字を書き始めた。

『書くのは絵でも文字でも、どんな内容でもいいの』
『赤と青の長さが揃うように芯を使うお仕事。だから長い方の色を選んで頂戴』
『好きな時間だけ作業をして、最後に芯を尖らせたら終わり』
『時給は千円でよいかしら?』

 習字の先生が書いたような、縦書きの美しい文字。軸も全くぶれていない。しかも立ったまま、毛筆のような筆さばきで。テーブルの上の紙にさらりと書いた文字にはとても思えなかった。
 ――字は体を表す。
 私はそんな言葉を思い出した。
 こんな美しくまっすぐな文字を書ける人が、人を騙すはずがない。
 私はおばあさんを向くと、「お願いします」と丁寧に頭を下げた。


 詳しく話を聞くと、履歴書のような書類のやりとりは一切必要ないという。
 そして、試しに一時間ほどやってみてはと勧められた。もちろん一時間分の時給は支払われるそうだ。
 迷った挙句、やってみることにした。今から一時間なら、七時半までには家に帰ることができる。私はお母さんに遅くなるとラインで連絡する。

 こうして個室に一人になった私。
 まずスクールバッグを床に置いて、椅子に腰掛ける。木製で簡素ではあるが、なかなか座り心地の良い椅子だ。これなら何時間でも文字を書くことができそう。
 そして鉛筆。
 私は一つ深呼吸をすると、古風な木製の筆入れに手を添える。本体の箱を蓋がすっぽり覆うお弁当箱のようなタイプの筆入れだ。蓋を軽く掴んで持ち上げると、本体の箱がすうっと姿をあらわした。
 そこには鉛筆と小さな定規が入っていた。筆記用具は本当に赤青鉛筆だけ。しかもいくつか種類がある……。
「これって、メーカーが違うからなのかな?」
 短いのやら長いの。太かったり細かったり。太いのなんて、小指くらいの太ささだったりする。
 とりあえず全部筆入れから出してテーブルに並べてみる。赤青鉛筆は合計四本だ。
 筆入れから出すために手に取ってみて気付いたことだが、形も様々だった。円形だったり、六角形だったり。
「さて、どれを使ってみようかな?」
 私は先ほどおばあさんが書いてくれた紙を横に置く。そこにはこう書かれている。

『赤と青の長さが揃うように芯を使うお仕事。だから長い方の色を選んで頂戴』

 つまり、赤と青の長さが揃うようにするのが私の仕事ってこと?
 そのことにどんな意味があるのかはわからないが、とりあえず長さが揃っていない鉛筆を選んでみよう。
「だったら、まずはこの鉛筆ね」
 私が手に取ったのは、赤の長さが青よりも四センチくらい長い鉛筆。赤と青の長さのバランスは、この鉛筆が最も悪かった。太さは普通の鉛筆とほぼ同じで、形も六角形。
 鉛筆を選ぶと、他の鉛筆は筆入れに戻す。そして紙を一枚取ってテーブルの真ん中に置いた。大きさはB5サイズだ。
「さて、何を書こうかな?」
 書くことなんて、何も考えていない。
 人間って不思議なものだ。何を書いても良いと言われると、書きたいことは全く浮かんでこない。逆に「これを書いちゃダメ」と言われた方が書けるような気がする。
「じゃあ、書いちゃダメなこととか……」
 アホ、バカ、◯◯、×××、△△△△△……。
 いやいや、それは人間として失格じゃない? おばあさんに見られたら即首になっちゃうかもしれないし、それよりも人間性を疑われてしまう。
 途方に暮れた私は、椅子に寄りかかって小さな部屋を見回した。
 天井はコンクリートの打ちっ放し、壁は石膏ボードっぽいが貼られた壁紙はアイボリーの無地。壁時計が一つカチカチと音を立てているが、それ以外はハンガーとそのフックが一つだけ。カレンダーくらい貼ってあってもいいのに。床は掃除がしやすそうなベージュのリノリウム――とそこで、床に置いたスクールバッグが目に入る。
「そうだ、いいものがあるじゃない!」
 私はバッグから取り出す。英語の教科書を。
「ここで授業の復習や予習をやればいいんだよ」
 我ながらナイスアイディア。
 早速、今日の授業でやったページを開き、習った単語を書き始める。
「うーん、ちょっと書きにくいかも……」
 やっぱり普通の鉛筆のようにスラスラというわけにはいかない。色鉛筆は黒鉛ではなく、顔料や染料が用いられている。少し紙に引っかかる感触はなんともまどろっこしい。
「それになんだか、目がチカチカする……」
 十回ずつ単語を書いたら、B5の紙はすぐに真っ赤になった。
 でも書いていくうちにちょっとずつ慣れてくる。私は高校受験の時のことを思い出して、単語の発音に合わせて口も同時に動かし始める。声は出さないようにして。
 続いて例文。それが終わったら明日の授業の予習。あっという間に時間と紙が消費されていく。
「これって夢のようなバイトじゃね?」
 勉強もできてお金ももらえる。
 確かに私にぴったりなバイトかも――そんなことを考えていると、ワリトの言葉が脳裏に蘇ってきた。

『ニョリにぴったりのバイトを見つけたんだ。ガリ勉にぴったりの』

 自分はガリ勉だとは思ってはいないけど、確かにガリ勉向けのバイトではある。
 なんだかワリトに見透かされているような気がして、高揚感がしゅるしゅるとしぼんでいった。


 あっという間に一時間が経過し、私はカウンターに座るおばあさんに声をかける。するとおばあさんはよっこらしょと腰を上げて、のろのろと私が作業していた部屋へやってきた。
 そして木製の筆入れを開けて、目を丸くする。
「ほぉ、この鉛筆、赤の方を三ミリも使ってくれたのね」
 何ミリ使ったかなんて自分には全くわからなかったが、おばあさんは一目見ただけでわかるようだ。きっと長いことここの管理をやっているのだろう。ズルをしたとしても、一瞬で見抜かれてしまうような気がした。
 そしておばあさんは、私が真っ赤にした紙の束に目を向ける。
「ありがとう。この鉛筆はね、バランスがうまく取れなくて困っていたところなの」
 お礼を言いながら、おばあさんは私に千円札を手渡した。
 ――生まれて初めてのバイト代。
 私はお守りをもらったかのように、大事に大事に千円札を受け取った。そして訊いてみる。
「バランスが取れなくなると、どうなっちゃうんですか?」
 するとおばあさんは、私を見つめる瞳に悲しみを浮かべる。きっと良くないことが起こるのだろう。
「この鉛筆はね、とある学校で使ってもらってるんだけど、著しくバランスが崩れると捨てられちゃうの。ポイッてね」
 おいおい、それはどこのお嬢様学校じゃ!
 鉛筆には貴重な森林資源が使われているんだぞ。環境問題という言葉を知らんのか。ポイなんてしたら北欧娘に怒られるんだから。
 それに、私が今日必死に使ったこの鉛筆を捨てたりしたら決して許さん!
 気がついたら私は千円札を握りしめていた。どうか、この千円分の作業が無駄になりませんように。
「でもなんで、絵や文字を書かなくちゃいけないんですか?」
 英単語を書きながら一つだけ不思議に思ったことがある。
 長さのバランスを取るためだけなら、削ればいいだけなんじゃないかと。まあ、それも森林資源の無駄遣いだけどね。
「この赤青鉛筆はね、普通の鉛筆とは違って芯の素材がデリケートなのよ。鉛筆削りで何度もガタガタやっちゃうと、その振動で中の芯が折れちゃう」
 そういうことなのか。普通の鉛筆と比べて、ちいっと書きにくいのは。
 顔料や染料が芯に混ぜられているから、折れやすくなっているのかもね。
「でもね、鉛筆を使いながら芯を短くすれば折れにくくなるの。押し付けられた力で、逆に強くなるくらい。しかしそれはとても大変な作業よね。だからバイトさんにお願いしているのよ」
 それならば任せて下さい。
 こんなに私にぴったりのバイトはありません。他にバイトをやったことはありませんが。
 いつの間にか私は、千円札と一緒におばあさんの手を握りしめていた。


  ◎ ◎ ◎


 次の日、教室に着くとワリトが不安そうな表情で近づいてきた。
 私は慌てて口の前に人差し指を立てて、会話の拒否権を発動する。今、こいつに教室内でニョリ発言されれば、私の高校生活は終わったも同然。幸い、クラスで私のことをニョリと呼ぶ生徒は、今のところ誰もいない。ワリト以外には。
 そして私は、ワリトに見えるよう口を動かして合図する。
 ――ほ・う・か・ご。
 するとワリトは小さくうなづいた。今すぐにでも話をしたそうな表情で。
 これで教室での惨事を未然に防ぐことができた。もしあいつが放課後、本当に桜のベンチに座っていたら、よく言い聞かせてやらねばならぬ。教室で話しかけるな、と。

 放課後。やっぱりあいつは桜のベンチにいた。手にした本には目もくれず、そわそわと昇降口の方を気にしていた。私を見つけるまでは。
「ちょっとワリト、教室では話しかけないでっていつも言ってるじゃない」
 近づく私が声をかけると、彼は待ちわびた様子で腰を上げた。
「昨日のバイト、どうだった?」
 やっぱりそのことか。ていうか、私の忠告は無視?
 そんなに気になるんだったら、逃げずに最後までその場にいればよかったのに……。
「逃げたやつには教えてやんない」
 そうだよ、昨日は一人で心細かったんだから。
「頼むから、意地悪しないで教えてくれよ。おばあさん、どんな人だった? いい人だった?」
 確かにいい人だったけどさ。
 そんなに知りたきゃ、自分で見て来ればいいじゃない。昨日の怒りを思い出した私は、ふと思いつく。ちょっと意地悪してやろうと。
 私は急に目を泳がせ、魂が抜けたような表情でこう言った。
「おばあさん、魔女みたいな人ダッタ。今日もバイトに行かナキャ。でないと魂を抜かレル……」
 するとワリトは急に青ざめる。
「だ、大丈夫か。ニョリ」
 私の肩をつかんで、顔を覗き込んできた。
 目が真剣だ。
 ちょっとやり過ぎたかな? 謝罪の意味を込めて私は表情を崩す。
「ごめんワリト。冗談よ」
 すると彼は私の肩から手を放し、ヘナヘナとベンチに座り込んだ。
「脅かすなよ。紹介した手前、ちょっとは責任を感じてるんだからさ」
「それって何? ホントにそう思ってる? だったら今、熱く抱擁してくれたって良かったのに」
「そ、そ、そ、そそんなこと、できるわけないだろ? が、学校で」
「だったらワリトだってニョリって呼ばないでよ。学校で」
 返事もせず、顔を真っ赤にするワリト。
 私も結構恥ずかしい。『抱きしめて』とは言えずに『抱擁』なんて言葉を使ったことが。
 でも私はさっき、肩をつかまれてドキッとした。昨日だって腕を握られて戸惑った。ずっと子供同士だと思っていたけど、ワリトだって男子高校生なんだ。失恋の寂しさを紛らわすため、というわけでもないけど、ワリトだったら強引に奪ってくれても構わないという気持ちはある。いや、ほんのちょっとだけだけどね。
 いやいや、そんなことで気を許しちゃいけないんだ。私は腕を組んで彼の前に仁王立ちする。
「それに昨日の行動はひどいんじゃない? おばあさんに会わずに逃げちゃうし、しかも偽名を使うなんて……」
「偽名?」
 不思議そうな顔をするワリト。
 おいおい、自分でやっててその言い方はないでしょ?
「だっておばあさん、伊藤さんからの紹介って言ってた」
「伊藤……?」
 顎に手を当てて考え込むワリトは、しばらくして手を打った。何かに思い当たったように。
「それは、苗字の最後の方をごにょごにょって言っちゃったから……かな」
 ――糸冬。
 確かに「冬」の部分が聞き取れなければ、「伊藤」になってしまう。
「ちゃんと発音しないあんたが悪い」
「確かにそうでした、すいません」
 ワリトの割には珍しく素直に謝ってくれた。
 まだ納得はいかないけど、ここらへんで許してやってもいいかな。おばあさんもいい人だったし、バイトの中身も彼の言う通りだった。
「今日も行こうと思う、あのバイト。あんたの言う通り私にぴったりだった。ありがと」
「あんまり無理するなよ」
「わかってるわよ。うちの高校、一応バイト禁止だしね」
 そう言うと、ベンチで見送るワリトに手を振って私は駅に向って駆け出した。


「あら、女台さん、こんばんわ。今日もやってくれるの? 今、準備するから待っててね」
 バイト先に着くと、カウンターに座っていたおばあさんがよいしょと腰を上げる。
 振り返って背後の棚を覗き込むと、目の高さほどの棚から木製の筆入れを一つ取り出した。
「じゃあ、こちらへどうぞ」
 昨日と同じ個室に私は通される。
 電球の下のテーブル。柔らかな光に照らされる紙の束と鉛筆削り。そして木製の椅子。
 必要なものが揃っていることをおばあさんは確認すると、筆入れをテーブルに置いた。コトリと小さな音がした。
「やっていただくのは昨日と同じよ。長い方の色を使ってね」
「わかりました」
 私が返事をすると、おばあさんはニコリを微笑んで部屋を出て行った。

「さて、今日も英単語から始めますか」
 私はスクールバッグの中から英語の教科書と参考書を取り出す。
 英語の授業では、週に一回、小テストが実施されるのだ。だから良い成績を取るためには、日々の鍛錬が必要だったりする。それをこのバイトでこなしてしまうというのが私の魂胆だった。
 ちなみに、私はまだ小テストで一番になったことはない。が、ワリトはすでに一番をとっているのだ。あいつは意外と勉強ができる。高校受験をきっかけにメキメキと学力を上げてきた。負けてなんていられない。
 私はまず、古ぼけた木製の筆入れを開ける。
 木製ならではの優しい手触り。蓋を持って少し持ち上げると、きつくもなく、ゆるくもない、すうっと下箱が分離していく。昨日も感じたその感触、とても心地よい。さぞかし腕のよい職人が作ったのだろう。長年の使用によって、さらに使い勝手が良くなっているのかもしれないが。
「やっぱ、昨日と同じ鉛筆かなぁ……」
 私は一応、すべての赤青鉛筆を眺めてみた。本数は昨日と同じ四本。昨日使ったと思われる鉛筆は、赤色の方がまだかなり長かった。
 ――赤と青の長さのバランスを整えるのが私の仕事。
 ということで、私は昨日と同じ鉛筆を取り出す。そして筆入れに入っている定規で試しに長さを測ってみた。すると赤が七・四センチ、青が三・二センチだった。
「こりゃ、書きがいがあるわね」
 赤と青のバランスを取るためには、赤の方を四センチ以上も使わなくてはならない。
 私はテーブルの上に置いてあるB5の紙を一枚取り、今日習った英単語を十回ずつ書き始めた。芯が丸くなってきたら、鉛筆削りでなるべく振動を起こさないようにそっと削る。
 単語が終わったら熟語、そして例文。明日の授業で習う単語も書いた。それでも時間が余ったので、昨日までに習った単語も書いてみた。
 あっという間に一時間が経過する。表も裏も真っ赤になったB5の紙。その数は十枚以上に達した。
「どれだけ短くなったかな?」
 私は鉛筆削りで最後の仕上げをする。そして期待を込めて長さを測ってみると――短くなったのはたったの五ミリだった。
「えー、たったこれだけ?」
 この鉛筆のバランスを取るためには、一体何日かかるのだろう?
 まあ、こんな風に時間のかかる作業だからバイトとしてお金をもらえるわけなんだけどね……。
 短くすることについての成果はあまり期待しないようにしよう。お金をもらって勉強していると思えば、バイトの成果なんて大したことはない。逆にすぐにバランスが整ってしまったら、もう来なくていいと言われてしまうかもしれないし。
 私はそんな風に、気楽に考えることにした。


  ◎ ◎ ◎


 バイトを始めて三日が経過した。
 今日は英語の小テストが実施される日だ。
「ふふふ、秘密のバイト学習の成果に、教室中がひれ伏す日となるのよ」
 何? この悪役キャラ。でも私はそんな高揚を抑えきれない。
 小テストの結果がクラスで一番になると、英語の先生は名前は呼んでくれる。それは勝利宣言にも等しい。入学してからずっと、いつかは呼ばれてみたいと思っていた。ワリトだって呼ばれたんだから、私が呼ばれないわけがない。
 あれだけ英単語を書いたんだもん。成果が出なかったら泣いてやるわ。
 ドキドキしながら教壇に立つ先生を見つめる。自信はある。単語は全部書けた。例文だってパーフェクト。すると先生の艶やかな唇が動き始める。
「今回のトップは、女台真理さん」
 集まる教室の視線。
 やった! 気持ちいい! 努力はやっぱり無駄ではなかった。
「と、木同貴理(もくどう きり)さん」
 へっ!?
 私一人だけじゃないの?
 すると、教室の前の方に座るショートカットの女子が小さくガッツボーズをする。
 そうだ、あの人が木同さんだった。
 確かあの人、バレー部に入ったんじゃなかったっけ?
 自分とは違うグループに属しているので詳しくは分からないが、外見だけではガツガツ勉強をするようなタイプには見えない。むしろ体育会系だ。
 彼女と同点だったなんて……。
 来週の小テストでは見てなさい! 私の心の中では、メラメラと英単語熱が燃え上がっていた。


「おーい、ニョリ!」
 帰り道。
 桜のベンチの前で、と言ってももう花なんて咲いてないけど、私はワリトに呼び止められた。
「だから言ってるでしょ? 学校でその名前を――」
「すごいじゃん、今日の小テスト」
 聞いちゃいないよ、いつもながらだけど。
 まったく……。
 私はため息をつきながら、ワリトが座るベンチに近づく。
「私もビックリしちゃった。名前を呼ばれるなんてね」
「またまた謙遜しちゃって。してやったりな顔してたぞ、あの時」
 あら、私としたことがはしたない。
 というか、こいつにはバレバレか。
「まあ、それなりに頑張ったからね。まさか同点の人がいるなんて思わなかったけど……」
 ――木同貴理。
 彼女の存在をうっとおしく感じたことも、幼馴染にはバレているのかもしれない。
「名前も似てるしな」
「名前って?」
「だって真理と貴理だろ? そっくりじゃないか」
 確かに。
 今まで気付かなかった。
「それ見つけた時、可笑しくて可笑しくてたまらなかったよ……」
 下を向いて笑いをこらえるワリト。その姿にカチンと来た。
 笑うな。このバカ者。
 私の心は悔しさで煮えたぎっているんだから。
「でもさ、名前はそっくりでも、実生活はだいぶ違うんだな。なんたって木同さんは――って噂をすれば来たぞ、木同さんが」
 そう言いながら、ワリトは読んでいた本を慌てて開く。私が確認しようと昇降口の方を振り向こうとすると
「振り向くな。俺と話してるフリをするんだ」
 怒られた。ワリトに。
 ワリトは本を広げたまま、チラチラと前を見て校門へと歩く人影を追っている。ベンチの前に立つ私を隠れ蓑にして。そして視線が校門の方を向いた時、彼は私に言った。
「もういいぞ、見ても」
 私は校門の方を見る。
 すると通りを歩く一組の男女の後ろ姿が見えた。
 あのショートカット、見覚えがある。女子の方が木同さんだろう。しかも男子の方も見覚えがあった。
「リア充だしな」
 確かに。って、おいおい、それが私と木同さんの違い?
 その言い方はあんまりじゃない。確かに私に彼氏はいないけど。
 ていうか、木同さん、彼氏がいたんだ……って、あの男子、誰だっけ?
 私は頭にハテナマークを浮かべながらワリトの顔を見る。すると彼はすかさず名前を告げた。
「相手はうちのクラスの言成だよ。言成真人(ことなり まこと)」
 そうそう、そうだよ。言成くんだ。
 あの二人、付き合ってたんだ。高校生になってまだ一か月経たないっていうのに。
「同じ東中出身だしな、あの二人。でも、くっついたのは高校に入ってからだって噂だよ。しかも木同さんの方から一方的って話」
 へぇ、女子からなんてやるじゃん。
 確かに、あの感じは木同さんの方が積極的だった。どう見ても彼女の方から言成くんの腕にしがみついているしね。

「ちょっと重いんだよね、って言ってた、言成」

 その言葉にドキリとする。
 不意に、脳裏に一ヶ月半前の記憶が蘇ってくる。
 高校受験が終わったばかりの頃。
 私は言われたのだ。好きだった男子に。別れの言葉と一緒に。


 中学三年生の秋。
 私は、ある男子に恋をした。
 志望校が同じであることを偶然知り、一緒に合格しようと励ましてもらっているうちに好きになってしまった。スランプに悩んでいた私にとって、彼の助言は救いの声だった。
 ――彼の優しさに応えたい。同じ高校に通いたい。
 この想いがどれだけ励みになったことか。
 しかし、勉強を頑張れば頑張るほど、彼への想いは深く、そして重く積み重なった。
 もし合格することができたら、それは彼のおかげだ。彼は私の恩人だ。運命の人なのだ。
 合格発表当日。
 なんとか合格できた私。でも彼の番号は無かった。
「ゴメン、一緒の高校には通えなくなった」
「高校が違っていても私は構わない。だってあなたは運命の人だから」
「運命なんて重すぎるよ。僕が落ちたことも運命だなんて言わないよね」
「そういう意味じゃないの。あなたのおかげで私は合格できた。そのお礼が言いたいの」
「じゃあ、新しい高校生活、頑張ってよ。僕は影で応援してるから。君なら大丈夫。じゃあね……」
 それ以来、彼とは会っていない。
 重いと言う彼の言葉が、私の心の底に今でもどす黒く沈殿している。


「ニョリ? ちょっと聞いてる?」
「ええっ、何?」
 ワリトの声で私は我に帰る。
「木同さん、可愛いい割には押しの強いところがあるんだって」
 そうだ、木同さんのことを話していたんだった……。
「言成が言うんだよ、週末の予定は全部彼女が決めちゃうって」
 そういえば私もずっと考えていた。高校に合格したら、彼とどこに行こうかなって。
 映画、ショッピング、花見、遊園地、ちょっと冒険してキャンプ。
 想像するだけで楽しかった。行きたい場所なんて無限に思いつくことができた。
 木同さん、きっとそれを実践しているんだ……。
「ゴールデンウィークもほとんど予定を入れられちゃったらしい。男友達とも遊びたかったなんて俺たちに愚痴るんだけど、贅沢な話だよな。全くリア充爆発しろだよ!」
 私がたどり着けなかった未来。
 もし彼が合格していたら、私も木同さんみたいになれていたのだろうか。
 そう思うと悔しさが込み上げてくる。
「ホント、爆発しちゃえばいいのに……」
 私はあれほど英単語を頑張っているのに……。
 なんでリア充の木同さんが私と同じ点を取れるのだろう?
 今日だって、これから二人でショッピンクしたり、ゲームやったり、カラオケとかタピオカとかネコカフェとかしちゃったりするかもしれないのだ。
「だな、爆発しろ!」
「しちゃえ!」
 しかしこの時の私はまだ、自分が木同さんの運命を握っているとは思ってもいなかった。


  ◎ ◎ ◎


 ゴールデンウィークが開けると、バイトでいつも使っていた赤青鉛筆のバランスが取れてきた。
 赤の長さが四センチを切ったのだ。赤と青の長さの差は、ようやく一センチ以内になった。
 しかし、英語の小テストの成績は以前と変わらなかった。トップは私と木同さんの二人。どうしても単独トップにはなれないでいた。
 一方、ワリトの方は、言成くんからゴールデンウィークののろけ話ばかり聞かされているようだ。
「どうもあの二人、ゴールデンウィークはキャンプに行ったらしいよ。クラスメート六人でって嘘ついて」
 ええっ、それって……。
 やだ、二人きりのお泊まりじゃない。
「最悪なことに、俺もそのメンバーの一人になってるんだよ。それで口裏合わせのためにって、キャンプで何をしたかを毎日のように聞かされてて、もううんざりなんだよ……」
 それはそれはご愁傷様。
 いっそのこと本当に六人でキャンプに行けばいいんじゃない? 口裏合わせのテンプレートができるわよ。
「それでさ、あいつ言うんだよ。最近、木同さんの見方が変わってきたって」
 見方が変わったって……?
「ほら、木同さん、最近ずっと英単語の小テストで名前を呼ばれるだろ?」
 私と一緒に、だけどね。
「自分と遊んだ後もちゃんと勉強してるんだと思うと、こっちも頑張らなくちゃって思うんだって。以前はあれほど自分勝手とか重いとか愚痴ってたのにさ」
 それって、二人の釣り合いが取れてきたってこと?
 私はなんだかモヤモヤするものを感じる。釣り合いってバランス? それって、なにか既視感があるような……。
「俺さ、あの二人はすぐに別れちゃうって思ってたんだよ。いや、人の不幸を願ってたわけじゃないよ。でもさ、勉強もできて恋人もいるなんて不公平すぎじゃね?」
 まあ、そういう人もいるよね――以前の私ならそう返していただろう。
 でも違う。やっぱり私、どこかで同じことを体験している。
 そうだ、バイトで使ってる鉛筆。あれもすぐに捨てられちゃうんじゃないかと心配していたら、最近バランスが取れてきたじゃない。
 ――ま、まさか、偶然だよね。
 そんな心のモヤモヤは、英語の先生の言葉ではっきりとした形になるのであった。


 英語の単語の小テストで、四回連続で二人がトップになった時。授業の終わりに先生が近づいて来て、私に訊いたのだ。
「ねえ、女台さん? 女台さんは木同さんと一緒に英単語の勉強してるの?」
「いいえ。一緒じゃありませんけど」
 だって木同さんは、今でも言成くんと一緒に帰っているじゃない。一緒に勉強しているのなら言成くんだと思うけど。
 でもなんで先生はそんなことを私に訊くのだろう?
 不思議に思った私は、逆に質問する。
「どうして先生はそう思われるんですか?」
「だってね、二人の間違っているところがいつも同じだから」
 ええっ!?
 私は驚いた。
 小テストの結果は戻ってこない。だからずっと自分は満点だと思っていた。二人が満点なら同時にトップであるのも納得がいく。
 しかし先生は違うと言う。さらに二人とも同じ場所を間違っているなんて……。
 まさか、カンニング!?
 なわけがない。木同さんは私よりもずっと前の席に座っている。
「すいません、今までの小テストの回答用紙、見せてもらえませんか?」
「女台さんのだけならいいけど」
「もちろん、自分のだけで構いません」
 私は先生と一緒に職員室へ行き、間違った場所を確認する。
 それはケアレスミスではなく、すべて私が間違って覚えていた箇所だった。
 つまり私は、そういう風に間違って赤鉛筆で書いていたのだ。
 ということは、もしかして……?
 いやいや、そんなことがあり得るだろうか?
 とにかく試して見なければ分からない。二人が同じ間違いをする理由は、もしかするとあの赤青鉛筆にあるのかもしれない。
「ありがとうございます。先生」
 私はある実験を思いついた。
 今日のバイトで試してみたい実験を――

「mouseの複数形はmouses……」
 バイトでいつもの赤青鉛筆を握った私は、赤の方を使って英単語を書き始めた。
 ただし、学校で習った単語とは違う形にして。
 私は『ネズミ』の複数形は何だか知っている。だって今年の干支だもん。でも、この鉛筆ではそれを書かない。ここで書くのは『mouses』という単語。
 その結果は、すぐに小テストに出た。
 トップは私一人だけだったのだ。
 そして私は確信する。先生が木同さんに掛けた言葉を盗み聞きして。
「木同さん、今回はどうしちゃったの? ネズミの複数形はmiceよ。mousesって書いたら、パソコンのマウスになっちゃうんだから……」


 いつも使っていた赤青鉛筆。
 それは、木同さんと言成くんだったんだ……。
 私が赤の鉛筆を使って英単語の勉強をしていたから、木同さんも良い成績を取ることができた。そして赤と青のバランスが取れたため、二人の関係が良くなった。そう考えれば辻褄が合う。
 バランスが取れなくなった鉛筆は捨てられてしまう――おばあさんはそう言っていた。それはきっと、二人が別れてしまうから。重すぎる愛情に耐えられなくなって、消滅してしまうのではないだろうか。
 だとすると……。
 私の興味は、残りの三本の鉛筆に移りつつあった。


  ◎ ◎ ◎


 バイト先の古風な木製の筆入りに入っている赤青鉛筆は四本。
 その一本は、木同さんと言成くん、というのが私の推理だ。
 ということは、残りの三本も私が知ってる誰か、の可能性がある。
「一体、誰なんだろう……?」
 手がかりは、男女のカップルということ。赤青鉛筆なんだから。
「このうち一本は、きっとあの人たちね」
 心当たりがあった。
 うちのクラスには、誰もが知る公認カップルが一組存在しているのだ。
 ――馬丘翔流(うまおか かける)と魚占あゆ(うおしめ あゆ)
 イケメンとギャルという、典型的なイケイケカップルだ。
 馬丘くんは本当に格好いい。身長はワリトよりもちょっと低いけど、ルックスはクラスナンバーワン。存在感のある真っ直ぐな鼻筋、優しそうな二重の瞳。ヂャーニーズにも入れるんじゃないかと私は評価している。
 一方、魚占さんは、テレビによく登場するような女子高生って感じのギャル。スカートは校則よりも明らかに短いし、地毛だと言い張る亜麻色の長髪は絶対、染めてるよね?
 二人はいつも一緒に帰っているし、教室でも人目を気にせずイチャイチャしている。
「そんな二人にお似合いの鉛筆といえば……」
 この太くて短いやつだろう。
 彼と彼女の学校生活そのものを象徴している。
「じゃあ、まずは恒例の英単語といきますか……」
 英単語を書いてみれば分かる。その鉛筆が予想した二人なのかどうかが。
 たとえ予想が外れたとしても、これは勉強なのだから自分に損は全くない。
 私は太くて短い赤青鉛筆を筆入れから取り出した。
「うわっ、太っ!」
 本当に小指と同じくらいの太さがある。断面は丸い。しかし長さがどちらも短い。
 試しに測ってみたら、青が三・一センチ、赤が二・八センチだった。
「さて、どちらを使おうかな……」
 バランスを取るなら青だ。
 でもここで私はふと考える。
 バランスを取って、私に何かいいことがあるのだろうか――と。
 もし、この青が馬丘くんだとしたら、青を使って英単語を勉強すれば彼が小テストで良い成績を取れるようになるだろう。イケメンの馬丘くんが私と一緒に名前を発表されるなんて、ちょっと、どころかかなり嬉しいかも。
 でもそれだけなのだ。
 なぜなら、馬丘くんには魚占さんという彼女がいるから。
「だったら……」
 私はB5の紙を手にして、赤の方で英単語を書き始めた。
 赤の長さは二・八センチ。これをゼロにしてしまえばいい。私の考えが正しければ、長さがゼロになれば魚占さんは馬丘くんの彼女という立場を失うはず。
「それにしても書きにくいなぁ……」
 一つだけ問題があった。
 太いのは構わないが、短いのは致命的なのだ。鉛筆をしっかりと握れないから、ストレスなく文字を書くことができない。
 たまりかねた私は、赤青鉛筆を持っておばあさんのところに行く。なんとかならないものかと。
「ありますよ」
 ひとこと呟くと、おばあさんは棚の引き出しを開けた。そこには色々な種類の鉛筆ホルダーがずらりと並んでいた。ちなみに鉛筆ホルダーとは、短い鉛筆を使い切るための筒状のアダプターだ。
「この太さがちょうどなんじゃないかしら?」
 ええっ、あるの?
 この小指くらいの太さに合う鉛筆ホルダーが?
 おばあさんは私から赤青鉛筆を受け取ると、引き出しから取り出した鉛筆ホルダーにセットする。驚くことに両者はピタリとフィットした。
「ほら、ちょうどでしょ?」
 ニコリと笑うおばあさん。
 でもこれで私の野望が現実に近づいた。
「すごいすごい! 鉛筆ホルダーを使うとものすごく書きやすい! 太い文字が書けて芯がどんどん減ってる気がする!」
 部屋に戻った私は、ガンガン英単語を書く。
 それにしても不思議なものだ。良い成績を取ろうと英単語を書くよりも、芯を減らしてやろうと企む方がこんなにもパワーが出るなんて。宇宙で戦争する映画でもそんなことを言ってたと聞いたことがある。結局あの映画の最終話、受験で観られなかったんだけどさ。
 その暗黒面に、私の心が落ちた瞬間だった。


 英単語の小テストの成績発表。
 私の予想通り、トップは魚占さんだった。
 私はわざと間違えてトップにならないよう調整した。馬丘くんを争うライバルとは、一緒に名前を呼ばれたくなんてない。
 発表の瞬間、どっと教室が湧いた。
 そりゃそうだ。好成績とは無縁だったギャルがいきなりクラスのトップに輝いたのだ。
 しかし、授業の後で得意げに語る彼女の言葉が私の心を逆撫でする。
「いやね、なんかゾーンに入ったっていうか、天から単語が降ってきた感じなのよ」
 まるで自分の実力でトップになれたかのように。
 いやいや、それは私のおかげだから。
 それにゾーンって、よくスポーツ選手が使う言葉じゃない? 普段からコツコツと努力しているアスリートだから使える言葉なんだと思うよ。まあニュアンスは分からなくもないけどね。私も高校受験の時はそうだったし。
 そして魚占さんは馬丘くんを熱く見る。
「翔流、やったよ! 私すごいでしょ!」
 ちょ、待ってよ? 教室だよ、ここ。
 そういうのは放課後、誰も見ていないところでやってくれる?
「すげえよ、ますます好きになった」
 馬丘くんも馬丘くんだ。お願いだから二人の仲を見せつけないで。
 しかし私は知っている。もし本当に馬丘くんが魚占さんのことをさらに好きになったとしたら、それは私のせいなのだ。だって、赤青鉛筆の青の方を相対的にさらに長くしちゃったんだから。
「じゃあ、今日はご馳走してくれる?」
「いいぜ。どこに行こうか?」
 はいはいはいはいはいはいはい、後は勝手にやってちょうだい。
 ――こいつは許しちゃおけねぇ。
 早く赤鉛筆の長さをゼロにしなくては。
 私は早くバイトに行きたくてうずうずし始めた。

「もう単語なんて書いてやんないんだから」
 バイトの個室で太い赤青鉛筆を手にした私は、何を書こうか迷っていた。
 先週は英単語をまじめに書いて、魚占さんをつけ上がらせてしまった。今週はその轍を踏むわけにはいかない。
「じゃあ、何を書けばいいんだろう?」
 魚占さんにお淑やかになってもらえるよう、古文の教科書でも書き取りしようか?
 「いとおかし」とか「あはれなり」なんて言ってる魚占さんも見てみたいし、その彼女をますます好きになってしまう馬丘くんはもっと素敵かも。
 いやいや、そんな気分じゃない。今は勉強なんて全くする気にはなれない。
 書くことはなんだっていい、とにかく芯を減らせばいいんだから。
 だったらとりあえず……
『リア充爆発しろ!』
 私は正直な気持ちを書きなぐっていた。
 赤の芯が早く消費されるように、文字に力を込めて。
 全く全くどいつもこいつも!
 でもしょうがない。ここでは赤青鉛筆しか扱っていないんだから、私が相手をするのはすべてリア充なのだ。
 私はすぐに、この言葉を書くことに虚しさを感じてしまった。
『教室でイチャイチャするんじゃねぇ』
 この言葉は意外と効力があるかもしれない。
 だって実現可能な命令形だから。
 イチャイチャするなという命令が魚占さんの脳に届けば、教室では静かにしてくれるかも?
 しかし、この言葉を書けば書くほど教室での出来事が脳裏に蘇ってくる。
 人の努力をあたかも自分の成果のように自慢する魚占さん。
 その得意げな顔。思い出すだけでも本当に頭に来る。
『アホ、バカ、◯◯、×××、△△△△△……』
 いつの間にか、B5の紙は決して人には見せられない単語で埋め尽くされていた。
 
 そんなことをさらに三日繰り返していると、太い赤青鉛筆の赤の長さはほとんどゼロになった。
 そして翌日。
 学校で小さな喧嘩が勃発する。
 魚占さんが所属するギャルのグループで小競り合いが起きたのだ。
「ちょっと、あゆ。あんた最近調子に乗ってない?」
「そうよ、小テストでトップを取ったからって私たちのことバカにしてるでしょ?」
 どうやら先日の英語の小テスト以来、魚占さんの態度が横柄になっているらしい。それが元でグループ内でいざこざが起きている。
 そりゃそうでしょ。私だってあの態度にはカチンと来たもの。近くにいる女子ならなおさらかも。
 あの時、英単語なんて書かなきゃ良かったって思ったけど、こんなところに効果が出るとはね。人生、何が起きるか分からない。
「バカにバカって言って何が悪いの。文句があるならトップを取ってみなさいよ」
「それ言っちゃう? あゆはバカの気持ちが分かる娘だと思ってたのに」
「謝りなよ、あゆ。でなきゃ、もう遊んであげないよ」
 すると魚占さんは謝るどころか馬丘くんに視線を向け、女子たちに宣戦布告したのだ。

「私は平気よ。だって私には翔流がいるもの。あんたたちこそアホでバカで◯◯で×××だし、△△△△△じゃない!」

 あーあ、言っちゃった。
 そんな単語、教室では絶対言っちゃダメなのに。
 教室でイチャイチャなんてしてるから、モラルの敷居が低くなっちゃったんだよ……。
 その時、ガタンと音がして誰かが教室を出て行った。
 見ると魚占さんが血相を変えて追いかける。
「翔流! 待って、翔流。私は悪くない、悪くないの……」
 終わったな。
 教室の誰もが、そう感じていた。


 その日のバイト。
 太い赤青鉛筆は元に戻っていた。赤の長さが青と同じになっていたのだ。
「ええっ、どうして? 二人は無事、破局を迎えたはずなのに……」
 昨日は確かに赤の芯の長さをゼロにした。最後に鉛筆を削った時に、青の芯が出てきたもん。
 それに学校でも派手に昼ドラ演じてたじゃない。
「ん? でも、よく見るとちょっと違うかも?」
 手に取ると、全然違っていた。
 青の部分は以前と変わらないが、赤の方は平べったくなっていたのだ。
「まるで青の三次元が、赤で二次元に変換されたような……」
 これってどういうこと?
 わけがわかんない。
 とりあえず私は、いつものように英単語を書き始めた。頭にハテナマークを浮かべたままで。
 そして私は、単語を書きながらいろいろと考える。
「もしかして馬丘くん、もう新しい彼女を作ったってこと?」
 さすがにそれは早すぎる。だって今日、魚占さんとあんなことになったばかりなんだし。
 でも書き味は魚占さんの時とは明らかに違う。
 彼女の鉛筆はもっとさらりとした書き味だったけど、今回の平べったい赤鉛筆は違う。なんだか芯が粘っこいような印象なのだ。
「案外、私だったりして」
 こんなにも平べったい人生は送っていないつもりだけどね。
 でもこんな風に、一度は馬丘くんと付き合ってみたい。
 私は鉛筆を動かしながら妄想する。
 ――真理、一緒に帰るよ。
 脳内で再生される馬丘くんの包容力溢れる甘い声。
 きゃー、そんな風に言われてみたい。クラス一のイケメンに。
 そしたら馬丘くんと並んで通学路を歩くの。そんでもって手も握ってくれちゃったりして。暖かいねって耳元で彼が囁いてくれたらもう最高!
 うわー、早くそんな日が来ないかな。
 私だって太くて短い恋をしてみたい。
 そんなことは今まで全くの夢物語だった。でもこのバイトに通っているうちは、実現可能かもしれないのだ。だって赤の芯を片っ端から消費しちゃえばいいんだから。そして時々、青の鉛筆で『女台真理が好き』って自分の名前を書いちゃうんだ。なんかすっごく恥ずかしいけど、それくらいの覚悟は必要だと思う。努力しないで馬丘くんと付き合おうなんて虫がいいからね。その苦労が報われれば、いつかは私に順番が回って来るはず。
 そのためには、まずはこの赤の鉛筆を――


  ◎ ◎ ◎


 馬丘くんの新しい彼女が判明した。
 ――石見鈴里(いわみ すずり)。
 クラス内でもトップクラスのアニメ好き、つまりアニオタだ。
 見た目はおとなしく、もちろん髪は染めてないしスカートだって長い。肩くらいの長い黒髪は枝毛ばかりだし、顔の造りもごく普通の日本人って感じ。
「馬丘くん、今度は百八十度、趣向を転換してきたよ……」
 二人のことはクラスではまだ誰も知らないようだ。どうやら見えないところでコソコソと付き合っているらしい。
 でも、こんな地味な女子と付き合ってくれるんだから、私にだって芽があるかも。
 私は希望に胸を膨らませながら、どうやって赤の芯を消費しようか作戦を考え始めた。

 別に今まで通り、英単語を書き続けても構わない。
 赤の芯は確実に消費されるし、私だって勉強になる。それに石見さんは、トップになっても自慢して回るようなことはしなかった。馬丘くんだって、おおっぴらに付き合っていない以上、沈黙を貫いていたし……。
 でもそれでは面白くない。
 悪女的な言い方をすれば、もうこのタイプの女子とは付き合いたくないという印象付きで別れを迎えさせてあげたい。ライバルは減らすに限る。いやぁ、私も成長したもんだ。悪い意味で。

 その日から私は、アニオタグループの会話に耳を傾けるようになった。その内容から、石見さんの弱点が見つかるかもしれないからだ。
 するとすぐに興味深い会話を耳にすることができた。
「明日発売される『瞬撃の凶刃』の最新巻ってすごいらしいよね」
「原作の漫画って今、修羅場なんだよね」
 ふむふむ、『瞬撃の凶刃』か。
 名前は聞いたことがある。なんでも今すごく話題の作品らしい。主題歌を担当する歌手も紅白に初出場してたような。曲名は確か『紅蓮の華矢』……だっけ?
 すると石見さんが突然、声を荒らげる。
「ちょ、ちょっとネタバレはなしよ。私、アニメを楽しみにしてるんだから」
 えっ、アニメで?
 うーん、状況がよく分からないけど、石見さんがあんなにムキになるところを初めて見た。
 もしかしたらこれは使えるかも。
 ――必殺『瞬撃の凶刃』作戦。
 作戦の実行のため、私は早速本屋とリサイクルショップを駆け巡り、バイトで貯めたお金を駆使して漫画を全巻揃えることに成功した。

「こりゃ、面白いわ。話題になるのも分かる……」
 私は早速、家で『瞬撃の凶刃』の漫画を読み始める。
 舞台は中世ヨーロッパのような国で、主人公は十七才くらいの女の子。ある日突然、巨大化したゾンビによって村が襲われ、家族が殺されてしまうのだ。そして、たった一人生き残った弟はゾンビの姿にされてしまう。主人公は弟を人間に戻すため、聖剣を手に入れてゾンビの首領を倒すことを決意する。
「そういえば石見さん、アニメで観るって言ってたっけ……」
 ネットで調べると、アニメ化されているのは原作の途中までということがわかった。具体的には、現在二十四巻まで発売されている漫画のうち、アニメ化されているのは二十巻分まで。
「ということは……」
 私の頭の中で悪魔が囁いた。
 二十一巻から先の内容を書いてあげればいいと。

 次の日から私は、バイト先で『瞬撃の凶刃』の二十一巻以降の内容を書き始める。
 ただのあらすじではなく、状況描写を加えた臨場感溢れる文章で。
 だって、ここで書いた内容は潜在的に石見さんの脳に訴えるものだから。
『岩陰からゾンビの首領が現れた』なんて淡白なあらすじを書いても、それが彼女の記憶に強く刻まれるとは思えない。
『誰? そこに隠れているのは!? あなた、も、もしかして……』と書いた方が、効果は大きいだろう。
「むふふふ、私、ノベライズ作家になれるかも……」
 この作業はかなり楽しかった。だって、面白い内容をそのまま文章にできるんだもん。
 そしてあっという間にB5の紙は真っ赤になる。
 家に帰ると続きの原作を読んで、イメージを膨らませて明日に備える。すぐに就寝時間になってしまうので、原作を学校に持って行って休み時間も読むようにした。

 必殺『瞬撃の凶刃』作戦の概要はこんな感じだ。
 私はバイトで『瞬撃の凶刃』の未アニメ部分を文章に書いて、石見さんに潜在的既視感を植え付ける。これは、馬丘くんとのデートの時に威力を発揮するだろう。なぜなら、原作は読んでません宣言をしている石見さんの口から、未アニメ部分の話題が出るのだから。
 ――疑惑。
 恋愛にとって最大の敵。
 相手のことを信じられなくなった時、その恋は終焉を迎える。
 ちなみに英語で書くと『suspicion』。しばらく前の小テストで、スペルを間違えてしまったことは内緒だ。今でも木同さんは『suspition』と覚えているに違いない。
 問題は、馬丘くんが『瞬撃の凶刃』に興味を持っているかどうかだ。この度合いによって、作戦が二人の仲に与えるダメージ値が変わってくる。最悪の場合、ノーダメージということもあり得るのだ。
「いや、馬丘くんならきっと……」
 彼はわざわざクラストップのアニオタを選んだ。言い寄る女子は星の数ほどいるはずなのに。
 それなら『瞬撃の凶刃』のファンである可能性は高い。その話題で意気投合したから石見さんを選んだ――ということは大いにあり得る。
 まあ、私の真の目的は赤の芯をゼロにすることだから、この作戦自体は全くのおまけなんだけどね……。

 放課後の桜のベンチ。
 いつものようにワリトが座っている。
 私は彼の隣に座り、やっとのことで手に入れた『瞬撃の凶刃』の最新巻、二十五巻を読み始める。いよいよクライマックスだ。赤の芯の長さも、今日か明日にはゼロになるだろう。
「ちょ、おま、それ俺の前で広げるなよ」
 私が手にしたものを目にしたワリトが、慌てて距離を広げる。
「何? ワリトもアニメ派?」
 どうやらワリトも、原作を読まずにアニメ化を楽しみにしている石見さんと同じタイプらしい。
「そうだよ。楽しみにしてるんだから、絶対ネタバレすんなよ」
「無理しないでワリトも読めばいいのに。クライマックス、すごいよ」
「だから俺の前にそれをかざすなって。表紙の絵すらネタバレって言われてるんだからさ」
 何よ、ワリトのやつ。意固地になっちゃって。
 まあ、でも、今はこんなやつに構ってる暇はない。
 クライマックスの臨場感をどうやって文章で表現するのか、ちゃんと考えなくちゃ。
「ズバーン、お、お前はあの時の。そうよ、私は……」
「ストップ! 声に出したら同じだろ。全く、人のことも考えろよ」
 怒ったワリトはスクールバッグを持って校門の方へ歩き出してしまった。
 やべぇ、あいつマジでキレてた。
 そんなにムキになることないのに……。
 この時の私は、翌日に起きる出来事について、まだ楽観的に考えていた。


 平べったい赤い鉛筆の芯の長さが、ついにゼロになった。
 それと同時に、私は『瞬撃の凶刃』のクライマックスを書き上げる。
 さて、明日のデートでは何が起きるのか?
「下校時に、こっそり二人の後をつけてみようか?」
 いやいや、これは見つかった時のリスクが大きい。
 最悪の場合、いくら赤の芯を消費しても私の番が回って来なくなる可能性も考えられる。
「まあ、バイトで鉛筆を確認すればいいんだし……」
 しかし悲劇は教室内で起きてしまった。

 昼休み。
 五時間目の授業が始まる前のことだった。
 アニオタグループ内で、『瞬撃の凶刃』について喋りが始まる。
「最新巻、すごいね。詳しくは言えないけど」
「あんなに激しい戦いになるとはね。内緒だけど」
 すると石見さんが饒舌に語り出したのだ。教室中に聞こえる声で。

「まさかゾンビの首領は主人公の弟だったとはね。どうりで味方の作戦がだだ漏れに――」
「ダメっ! 石見さんっ!」

 教室の空気が凍りついた。
 私は立ち上がって制止する。が、一瞬遅かった。
 カタっとシャーペンが床に落ちる音があちらこちらで聞こえてくる。
 石見さんと話をしていたアニオタグループの顔は真っ青だ。それもそのはず、原作は読んでません宣言をしていた石見さんが自ら率先してネタバレしちゃったのだから。彼女らにとって、石見さんは全くのノーマークだった。
 すると、ガタンと音がして誰かが教室を出て行った。
 見ると石見さんが血相を変えて追いかける。
「翔流! 待って、翔流。私は悪くない、口が勝手に動いちゃったんだから……」
 二人が出て行くと、教室がざわつき始める。
「えっ、あの二人って?」
「まさか、付き合っていたとか?」
 私は立ち上がったまま、静まることのない教室をただ呆然と眺めるしかなかった。

「おい、ニョリ! お前、石見さんに最新巻見せただろ!?」
 私がバイトに行こうと校門に向かっていると、桜のベンチから強い口調でワリトの声が飛んできた。
「うん、ゴメン……」
 私はワリトに近づき、素直にうなだれる。
 本当は見せてない。でも実質的には見せたようなものだ。
 私はあの時、立ち上がって石見さんを制止しようとした。それは私がこの一件に関わっていることを、クラス中に知らしめたことと同然。
「あんなことになるとは思わなかったの……」
 これは本当だ。
 馬丘くんと石見さんの二人の仲だけが壊れればいいと思っていた。
 しかしその結果、私は色々なものを壊してしまった。
「ったく。だからやめろってあれほど言ったのに……」
 ワリトは背もたれに身を預けて、脱力したようにぼおっと雲を眺める。
「あーあ、結果を知っちゃったらつまんないよな、アニメ化されても」
 ワリトも相当ショックだったようだ。これは本当に申し訳ない。
「馬丘くんも?」
「そうじゃねえの? あいつとはあんま話したことないからよく分からんけど、あのアニメのセリフをたまに喋ってたよ。『肺を呼吸に捧げよ』とか『全集中の駆逐!』とかな」
 やっぱり馬丘くんもファンだったんだ……。
「あと言成な。あいつもかなりしょげてた」
 ――覆水盆に返らず。
 ネタバレだけは償う方法が本当に見当たらない。
 時間を元に戻すことができればと切に願う。
 私ができるせめてもの償いは、赤青鉛筆のバランスをちゃんと整えてあげること。言成くんなら木同さんと長く続きますようにと。
「じゃあ、バイトがあるから……」
 私は呆然と空を眺め続けるワリトに小さく頭を下げると、校門に向かって歩き出した。 


 地下室に着くと、三本の鉛筆の青い芯が折れていた。
 馬丘くんのと、言成くんの。そして細くて長い鉛筆の。
 それが何を意味しているのか、私は直感する。
「こんなにもショックだったなんて……」
 きっと心が折れちゃったのだ。
 ワリトはマジで落胆していた。
 馬丘くんだって教室を飛び出した。
 ワリトの話だと、言成くんもかなり凹んでいたという。
「でも、この鉛筆って……」
 青い芯が折れた細長い鉛筆を手に取る。この鉛筆は誰なのか、私はまだ調べていなかった。
 一つの可能性が頭をよぎる。
 私が知っている心が折れた男子は三人。
 そして芯の折れた青鉛筆は三本。
 それが意味することは
「ええっ、嘘。そんなことって……」
 もしかしてワリト!?
 にわかには信じられなかった。
 この細長い青鉛筆がワリトかも、ということではない。
 信じられなかったのは、ワリトと思われる青鉛筆に赤鉛筆がくっついていること。

「ワリトに彼女がいる!?」

 それは私の足元を完全に崩すくらいの衝撃だった。
 いやいや、そんな素振りなんてワリトは私に見せたことはない。
 でも、でも、馬丘くんと石見さんだって、結局クラスでは誰にも気づかれなかったじゃない。
 逆に、もし私に彼氏ができたとしたらワリトに報告する? いや、わざわざそんなことするわけがない。ここでのバイトがきっかけで私が馬丘くんと付き合うことになっても、誰にも言わずに内緒にしようと思っていた。もちろんワリトにも内緒だ。
 ワリトだってそうだろう。彼女ができても私に報告する義務なんてない。
 そういえばあいつ、なんでいつも桜のベンチに座っているんだろう?
 まさか、待っているとか? 彼女と一緒に帰るために……。
 そう考えると、なんだか辻褄が合う。
 それなのに私は馴れ馴れしく近づいたり、一緒にベンチに座っちゃったりしてたんだ。なんて図々しい空気の読めない女だったんだろう。
 本当のワリトを象徴するのが、この細い青鉛筆?
 そして私の知らないワリトの彼女が、この細い赤鉛筆?
 青と赤の細長い鉛筆は、裏面同士でしっかりとくっついている。まるで肌と肌を合わせるように。
 その様子を凝視していると、ゾワゾワと得体の知れない恐怖が背筋に這い上ってきた。
 ここに居てはいけない。ここは私が住んでいた世界ではない。
 私は細長い赤青鉛筆を筆入れに置くと、スクールバッグを掴んで何も片付けをしないまま部屋を飛び出してしまった。


  ◎ ◎ ◎


 それからしばらくの間、私はバイトに行くことができなかった。
 芯の折れた、細長い青鉛筆のことがずっと心を占領している。
 ――あの青鉛筆はもしかして……。
 ワリトなのかもしれない。
 そう思うだけで、どうしようもない感情が湧き出てしまう。
 別にワリトに彼女ができても構わない。むしろ歓迎してあげてもいい。
 でも、あの細長い赤青鉛筆は、私がバイトを始めた時から存在した。それは二ヶ月も前のことなのだ。
 つまり、ずっと前からワリトには彼女がいた。
 それに私は全然気づかなかったし、ワリトもそれを私に話してくれなかった。
 それが悔しかった。私の知らない彼女の存在が怖かった。
 私がバイトに行った後で、きっと二人は一緒に仲良く下校していたのだろう。
 なんだか自分だけのけ者にされていたような気がした。

 バイトに行けば、あの細長い赤青鉛筆が必ず目に入る。
 でもあの鉛筆は握れない。
 だって、ワリトだと確定してしまうのが恐いから。
 彼女が誰なのか、知ってしまうのが嫌だから。
 すべてが判明した時、自分が冷静でいられるのか自信がないから。だって私は、あれだけの仕打ちを繰り返すことができる悪女なのだから。
 きっとこれは、今まで繰り返してきた悪行に対する罰なんだ。人の心を弄んだ罰。
 私はバイトに行くことができなくなった。


 心が落ち着くまで、それから一ヶ月がかかった。
 その間にもワリトは誰かと付き合っている素振りは一つも見せていない。
 一方、馬丘くんも、新しい彼女の噂は聞こえてこなかった。
「あの鉛筆たちは、今どうなっているのだろう?」
 そちらの興味がじわじわと湧いてくる。
 折れた芯についての心配もあった。
 そして私は、久しぶりにビルの地下に降りてみた。

 赤青鉛筆は五本に増えていた。
 普通の太さが三本、細長いのが一本、そして太いのが――
「ええっ? これって……」
 太いのは、反対側に青鉛筆がくっついていた。つまり、青青鉛筆。
「何? 男同士ってこと?」
 まあ、そういうこともあるだろう。何が起こるか分からない世界だ。あれからずっと馬丘くんが大人しいのは、そういうことだったんだ。
「馬丘くんと付き合っている男子は誰?」
 いや、やめておこう。知っても意味はないし、知りたくもない。
 私はちょっぴり笑った後、改めて鉛筆を眺める。
 芯はちゃんと鉛筆削りで尖らせてあった。
 誰かが作業をしているのだろうか。それとも、実態に合わせて自然に変化しているのだろうか。
 とにかく不思議な鉛筆たちだった。
 そして静かに細長い赤青鉛筆を手に取る。
「さあ、これで最後にするわ」
 一ヶ月前に青の芯が折れたせいか、赤の方が一センチくらい長くなっている。
 私はB5の紙をテーブルの中央に置くと、青の方で英単語を書き始めた。
 この青い鉛筆がワリトであることを確認したら、もうこのバイトを辞めるつもりだ。
 彼女については誰だろうと構わない。
 ここで英単語を書けば、私は小テストで名前を発表される。おそらくワリトと一緒に。
 それで十分だった。だって、二人は幼馴染なんだもん。それ以上でもそれ以下でもない。これが私とワリトの距離なんだ、それで十分なんだよ。
 やっとそういう気持ちになれた。


  ◎ ◎ ◎


「おめでとう、ワリト」
 初夏の放課後。
 桜のベンチに座る彼に私は声を掛ける。
「お前もな、ニョリ」
「ありがと。隣いい?」
「久しぶりだな。バイトはいいの?」
「うん」
 私はキョロキョロしながらワリトの隣に座り、スカートを直す。
 ワリトが待ってる彼女さん。今、この時間だけは許してね?
 だって、今日は二人でトップを取れたおめでたい日だから。こんなことは今日で最後にするから。
 気兼ねしない二人の関係。それがどんなに尊いものか、私はこの時初めて実感した。
 この時間がずっと続いて欲しい。
 何で今まで、そう思わなかったのだろう。
 何で今まで、この時間をもっと大切にしなかったんだろう。
「久しぶりにゾーンに入ったよ。英単語が天から降りて来るって、こういうことなんだな」
「あんたもそんなこと言うのね」
 どこかで聞いたことのあるセリフ。
 頭に来るどころか、可笑しくなってしまう。
 今の私には、なにもかも懐かしい。
「また頼むよ、ニョリ」
「いいや、私はもうバイトを辞めたから」
 と言っておきながら私は不思議に思う。
 なんでワリトは「また頼むよ」なんて言うのだろう?
 すると彼は低い声でポツリと言う。待ちくたびれたかのように。

「やっと使ってくれたんだな、俺の鉛筆を」

 ええっ? それって……。
 ワリトはすべてを知ってたってこと?
「そんな顔するなよ。俺が紹介したバイトなんだから、俺が知らないわけないだろ?」
 あの時逃げたのはそういうことだったの?
 偽名を使ったのも。
「だって、カウンターのおばあさん、俺のばあちゃんだもの」
 ええっ? あのおばあさんってワリトのおばあちゃん!?
 ハテナマークで頭を一杯にする私を横目に、ワリトはゆっくりと彼自身の物語を語りだした。


「あれは中三の秋のことだった。受験勉強をやらなくちゃいけないのに、俺は全く勉強が手につかなくなってしまった」
 夕焼け空を見上げながらワリトは懐かしそうに話す。たった半年ちょっと前のことなのに。
 半年前か……。
 あの時、私もスランプだった。そしてアドバイスをくれた男子を好きになった。
 そうすることによって、ようやく前に進む力が湧いてきた。
「それはね、大好きだった女の子が、別の人を好きになっちゃったから……」
 私はハッとする。
 それって……もしかして……?
「そしたらさ、俺を見かねたばあちゃんが言ったんだ。あの地下室に俺を連れて行って。一本の赤青鉛筆を俺の前に置いてさ」
 ワリトは、おばあさんの口調を真似てこう言った。

『その女の子を応援したければ赤の方で、その子の恋を壊したければ青の方で勉強すればいい』

「その赤青鉛筆はね、赤の方がかなり長かった。長さをちゃんと測ったわけじゃないけど、三センチは長かったと思う」
 今の私ならその意味がわかる。
 あの頃、私は一方的に恋をしていた。
 あの人の優しさに答えようとがむしゃらだった。
 頑張れば頑張るほど、想いは強くなっていった。
「今思えば、ばあちゃんは俺に勉強させたかったんだ。究極の選択を突きつけて。だってどっちを選んでも結果は『勉強する』だもんな」
「おばあちゃんは策士ね」
「だよな」
 二人で静かに笑う。
 こんな穏やかな日が来るとは半年前には思えなかった。あの頃は、本当に毎日が戦争のようだった。
「それでワリトはどっちを選んだの?」
 結局私の恋は壊れてしまった。
 だから、結果からではどっちなのか私には分からない。
「それ、聞く?」
「聞いちゃダメ?」
「ダメに決まってるだろ? お前はホントに男心が分からんやつだな。そんなこと俺に言わせるなよ」
 きっと赤でしょ?
 だって優しいもん、ワリトは。
 ワリトなら、幼馴染の不幸を願うことはしないはず、たぶん。
 そう考えて私はハッとする。

 ――今まで私が赤青鉛筆を使って、何が起きたのか。
 ――もしワリトが赤を使って受験勉強したら、何が起きるのか。

 私はすべてを理解する。
 今、この場所にいられるのは、ワリトのおかげだったんだと。
「ありがとう、ワリト……」
 気がつくと私は泣いていた。
 後から後から涙が溢れてくる。
 私がこの学校に合格できたのは、ワリトの想いの積み重ねだったんだ。私だって頑張った。死ぬ気で受験勉強をやった。それをワリトが底上げしてくれていた……。
 涙を拭いながら横を見ると、ワリトも泣いていた。
「俺、頑張ったんだ。赤と青のバランスを取ろうと必死に。でもさ、翌日には元に戻っちゃうんだよ、赤の長さが。どんなに頑張って単語を書いても、どんなにたくさん数式を書いても、どんなに紙を真っ赤にしてもダメだったんだ。だからゴメンな、ニョリ。俺を許してくれ……」
 あんたが謝ることなんかない。
 私が勝手に想いを膨らませていただけなんだから。
「ううん、もういいの。こちらこそ、ありがと」
 するとワリトは涙を拭い始めた。
 校門に向かう生徒の中には、こちらをチラチラ見る人もいる。でもそんなの気にしない。変な噂をするやつは、私が捕まえてとっちめてやる。
「四月になったらばあちゃんがバイト代をくれるようになった。そして入学式を終えて、ニョリと同じクラスになれたことを喜んでいたら……あの細長い鉛筆が現れたんだ」
 私はワリトと付き合った記憶はない。
 でも、知り合いの少ない高校に入学して、ワリトと同じクラスになれたことに安堵したのは間違いなかった。二人で帰ったことも、一度や二度ではない。
 きっとそういうのを神様が見ていたのだろう。細くて長いのもなんとなくわかる。
「いろいろ試しているうちに、青い方が自分であることがわかった。その途端、恐くなったんだ。もう人の人生を左右することはしたくない。だけど、知らない人に任せるのは嫌だった」
「それで、私に声を掛けたと」
 ワリトは私を向く。
 涙はすでに乾いていた。
「ニョリだったら気づかないと思ってたんだけどなぁ……。ずっとガリ勉を続けてくれたら良かったのに」
 それはあんたの都合でしょ?
 私だって普通の女の子なんだから、恋バナにだって興味あるわよ。
「そんな都合よくなんていかないよ」
「でも、あれは酷かったぜ。『瞬撃の凶刃』のネタバレ。あれは一生許してやらないからな」
「うん、私も反省してる。石見さんを悪者にしちゃったし。それに馬丘くんもショックで男に走っちゃったから」
「えっ、それってマジ?」
「うん。だって彼、青青鉛筆になっちゃったんだもん」
 ぷっとワリトが吹き出した。
 私もてへっと笑ってみる。
 初夏の放課後。夕暮れの桜のベンチ。
 私、ここにいても良かったんだ。
 誰かの邪魔なんかじゃなかったんだ……。
 空を見上げると、宇宙に届くくらい高く成長した梅雨間の雲を夕陽が真っ赤に染めている。
 神様、お願いですから、これからもずっとこんな日が続きますように――


 私はバイトを続けることにした。
 ちゃんとバランスを取る使い方をして、罪滅ぼしをしなければいけないと思ったから。
 それに私たちの鉛筆を他の人に任せるのは嫌だった。
 細くて長いあの鉛筆は、ちょっと太くなっていた。



 おわり



ライトノベル作法研究所 2019-20冬企画
テーマ:『終わりと始まり』

太陽はジメテの夏2019年08月29日 21時23分00秒

 世界は光に溢れていた。
 笑顔がまぶしい双子の女の子が今、僕の目の前にいる。
 ――長い髪のフウと、最近髪を切ったヨキ。
 彼女たちが同時に歌を口ずさむと、いつも不思議なことが起こるんだ。

 君と集める ヒルクウキ
 ロクソル山の ナクルに詰めて
 ヤミノクモの 来る前に

 二人は歌いだした。僕を見つめながら、村に伝わる古い歌を。村の子供なら誰でも歌える、穏やかで優しい歌。
 ハイトーンは軽やかに、ロングトーンは力強く。二人の視線と歌声に包まれると、まるで別世界に迷い込んだような錯覚を覚える。
 でも、ゴメンね。僕は同時に二人を見つめることができない。だって僕は一人だから。
 困った僕は、妹のヨキのさらさらの髪を見つめていた。風になびく切ったばかりのブロンズの髪。それがとても綺麗だったから。

 なのに……

「なによ、クガンったら。姉さんのことばかり見つめて」
 歌い終わったヨキが僕のことを睨みつける。
 まただ。また不思議なことが起きた。
 僕はずっと、ヨキのことを見ていたんだよ。
「あら。クガンはお姉さんが好きなのよ。落ち着いてるから」
 フウが僕をちらりと見て顔を赤らめる。まるで僕がずっとフウのことを見つめていたかのように。
「お姉さんって言ったって、たった数時間の違いでしょ!?」
 膨らませた頬を、さらに大きくするヨキ。
「じゃあ、私の長い髪が魅力的だったんじゃない? あんた、慌てて切っちゃうからいけないのよ」
「だって、だって、クガンが言ったんだもん。髪が短い女の子も魅力的だって」
 そう、だから僕はずっとヨキのことを見てたんだ。
 髪を切ったヨキはとっても魅力的だったから。

 不思議なことが起きるのは、決まって二人が同時に歌いだす時。
 そんなことあるかって思うだろ?
 でも、本当に同時に歌いだしちゃうんだ。
 双子だから?
 たぶんそう。双子だから。
 だって容姿も本当にそっくりなんだよ。一卵性双生児だし。
 髪を切る前のヨキは、本当にフウにそっくりだった。後ろ姿だけなら、幼馴染の僕だって見分けがつかないほどに。

「もう、いいわ。クガンなんて知らないんだから。罰よ、姉さんばかり見ていた罰!」
 ぼおっとしていた僕は、ヨキの言葉ではっとする。
 罰? それってなんだよ。
「今日のヒルクウキ集め、いつもの倍やってよね!」
 いつもの倍? いつもの倍って、倍やるのか?
「そりゃないよ」
「そうよ。ヨキは勝手ね」
 僕は、ヨキをずっと見てたんだから。
 ほら、フウだって反対してるじゃないか。
「姉さんは黙ってて。じゃあ、こういうのはどう? 私の担当のラトラ通りとレトレ通りをやってちょうだい? そしたら許したげる」
 むむむむ。ラトラ通りとレトレ通り?
 僕の担当は、リトリ通りとロトロ通りだから……それってやっぱり倍ってことじゃないか!?
 納得がいかないけど、ヨキの怒りは簡単には収まりそうもない。
 腹をくくった僕は、腕組みするヨキを向く。
「仕方がないなぁ……」
「ホント!? だからクガン大好き!」
 とたんに機嫌を直して、ヨキは僕に抱きついてくる。
 悲しいことに、僕はこの笑顔に本当に弱いんだ。短く切った髪が僕の首筋に当たってくすぐったい。
「まったくクガンはヨキに甘いんだから。じゃあね、二人とも。私は自分の当番に行ってくるからね……」
 フウは呆れたような言葉を残して、通りの向こうに消えて行った。
 一方のヨキは、僕の手を握ってなんだか嬉しそう。
「じゃあ、私の分をやってくれるお礼に、最初だけ手伝ってあげる。どっちに行く? ラトラ通り? レトレ通り?」
「どっちも」
「なによ、仕方ないわね」
 なんだよ、どっちも手伝ってくれるのかよ!
 だったら罰なんて言わずに両方やってくれよ~
「ラトラ通りとレトレ通りの極意を教えてあげるから、ちゃんと覚えておくのよ」
 なんだか納得がいかないけど、こうして僕とヨキは、ヒルクウキ集めに出発した。


 僕の名前はクガン。
 オオキ国の辺境の地、チイサ村に住んでいる少年。
 チイサ村の人口は百人くらい。周囲を山々に囲まれた盆地の中にぽつんと佇む、本当に小さな、小さな村なんだ。
 だから子供といえども大切な仕事を任されている。
 ――ヒルクウキ集め。
 こうやって言葉にすると、なんだか難しいことをやってるように聞こえるだろ?
 でも、そんなことはないんだ。だって、これは子供でもできる仕事なんだから。
 手順はこうだ。
 まず、村長さんの家に行って、透明な結晶を掘り抜いて造られた瓶を借りてくる。
 その瓶の中に昼間の空気を入れて、それぞれの通りにある石造りの台に置いて、蓋をするだけなんだ。
 簡単だろ?
 えっ、なんでそんなことしなくちゃいけないのか、わからないって?
 そこなんだよ。最近、僕が新たな考えを持ち始めたのは。
 その考えをヨキに紹介したくて、僕はうずうずしてたんだ。


「ちょっと重いよ。ひどいよ、ヨキ……」
 村長さんの家を出た僕は、大きなトレーを持たされていた。
 トレーが重くて持つ手が痛い。だってそこに乗っているのは、十二個の瓶だから。
 立っているだけでも至難の業だ。トレーの端を腰骨に押し当て、後ろにふんぞり返らないと体のバランスを取ることができない。まるで組体操をやっているような恰好。
 瓶の大きさは、握り拳を二つ重ねたくらい。それが結晶でできていて、しかも十二個も乗っているんだから、トレーの重さは半端ない。
「しょうがないじゃない。私のラトラ通りとレトレ通りの分と、クガンのリトリ通りとロトロ通りの分があるんだから」
 一つの「通り」に置く瓶は、それぞれ三つ。
 瓶を置く「通り」は、四か所。
 だから計算すると、三かける四で十二個。うん、計算合ってる――って、冷静に言ってる場合じゃないっ!
「なんで僕がヨキの分まで持たなきゃいけないんだよ!」
「罰だからよ。クガンだってさっき認めたじゃない。罰を受けるって」
「そりゃそうだけど、手伝ってくれるって言ったじゃないか。ラトラ通りとレトレ通りの分は」
「そうよ。だからラトラ通りとレトレ通りは、私が瓶を台に置いてあげるの。あー楽ちんだなぁ、瓶を持たなくていいのは」
 なんだよ、これがヨキの狙いだったのか。
 つまり重い瓶を持ちたくなかったということだ。
 でも、僕の前を歩きながら心の底から伸びをするヨキを見ていると、怒りはすうっとどこかに消えてしまう。
 両手を上げて伸びをしながら空を見上げるヨキ。最近、成長著しい胸の膨らみが強調される。そのラインがとても美しくて、つい見とれてしまうのだ。
「ほら、さっさとラトラ通りに行きましょ! 瓶を置けば、どんどん軽くなるんだから」
 石畳の村道をスキップするヨキの後を、重いトレーを抱えた僕はヨタヨタとついていくのがやっとだった。

「ねえ、ヨキ」
「ん? どうしたのクガン」
 ラトラ通りとレトレ通りに瓶を置いてトレーの重さが半減した僕は、思い切ってヨキに話しかける。
 最近思い浮かんだ、「夜」についての新たな考えを打ち明けるために。
「ヤミノクモがやって来るから夜になるって、小さい頃から僕たち教わってきただろ? それってホントなのかな?」
 するとヨキが目を丸くする。
 そして、いきなり怒りに似た鋭い感情を僕にぶつけてきた。
「なに? 今私たちがやってる仕事を否定したいの? そんなに罰が嫌だった?」
 先ほどまでの笑顔が幻だったかのように。
「いい加減、罰から離れろよ。もう気にしてないから」
「気にしてるじゃない。ヤミノクモについて詮索するのはよくないって、おばあちゃんがいつも言ってた。だから余計なことを考えちゃダメ。ヤミノクモがやって来るから夜になるの。そういうものなの」
 それだ。
 子供の頃から僕がずっと抱いてきた違和感。
 ヤミノクモのことを聞こうとすると、大人は誰もが口を閉ざす。自分の味方だと思っていた幼馴染のヨキでさえこうだ。
 その理由が何なのか?
 そもそもヤミノクモって何なのか?
 僕はずっと考えていた。
「ヤミノクモに逆らうと闇獣に連れて行かれるって、クガンも散々言われてきたでしょ!?」
「…………」
 僕は言葉を失ってしまう。
 子供の頃、植え付けられた恐怖が脳裏に蘇る。
 そう、ヤミノクモの真相に触れるのはタブーなのだ。少なくとも僕の村では。
 しつこく両親に聞くと、必ず言われるのはこんな言葉だった。
 ――そんな子は闇獣に食われちまうぞ!
 そう言われると大抵の子供は黙ってしまう。闇獣なんて得体のしれないものに食われたくない。
 まさかこの歳になってそのフレーズを、しかもヨキに言われるとは思わなかった。それよりも驚いたのは、この歳になっても僕は恐怖に身がすくんだことだ。
 子供の頃からの刷り込みというものは本当に恐ろしい。
 その恐怖に立ち向かうかのごとく、僕はトレーから瓶を一つ手に取る。
「でも、この結晶があれば、ヤミノクモに対抗できるって言うじゃないか」
 とある結晶を堀り抜いて作られた瓶。
 透明なその結晶は、僕の手の中でキラキラと輝いている。
「ナクルって言うんだよ。この結晶」
「そんなことくらい、知ってるわよ」

 ――ナクルの結晶。
 その結晶で作られた瓶に、僕たちは毎日ヒルクウキを詰めている。
 そして夜が訪れる前に、各「通り」の台の上に置いて、蓋をしておくのだ。
 それが僕たちの仕事。
 そうしておけば、ヒルクウキは瓶の中に留まったまま。
 つまり「通り」の灯になり、村人は夜でも「通り」を歩くことができる。

「だって、あの歌にも詠まれているじゃない」
 するとヨキは静かに歌い始めた。
 村に伝わる、そして村のすべての子供が口ずさめるあの歌を。

 君と集める ヒルクウキ
 ロクソル山の ナクルに詰めて
 ヤミノクモの 来る前に

 小さい頃は、歌詞の意味なんて全く分からなかった。
 母親がよく歌う、メロディーが美しい素敵な曲。きっとヨキたち姉妹にとってもそんなイメージだろう。
 大人の真似をして何気なく口ずさんでいるうちに、村のすべての子供が覚えてしまう。
 しかしその歌詞は、生活に必要な「教え」だったのだ。
 なぜなら、子供たちは少年少女になると、「通り」にヒルクウキを詰めた瓶を置く仕事を受け持つのだから。
 そして歌の意味を知るのであった。

「あっ、お姉ちゃんズルい!」
 歌い終わったヨキがいきなり叫ぶ。
「び、びっくりした。どうしたんだよ、ヨキ」
「お姉ちゃん、オカズを多く取り分けてる。私の好きなパニコロームクリッケなのに!」
 おいおい、何でそんなこと分かるんだよ。
 そんなツッコミをする間もなく、ヨキは走り出そうとしていた。
「ゴメン、クガン。リトリ通りとロトロ通りを手伝えなくて。私のパニコロームクリッケがピンチなの!」
 なんだよ、村の仕事よりもパニコロームクリッケかよ。
 僕は呆れながら取引する。
「分かったから早く帰りな。その代わり、週末はロクソル山に一緒に行ってくれるよな?」
「ええ、ロクソル山でもホトスプ川でも行ってあげるから今は許して。じゃあね!」
 そう言ってヨキは走り出してしまった。
「ったく、賑やかな姉妹だこと……」
 僕は再びトレーを抱えてリトリ通りに向かう。
 どさくさに紛れて週末の約束を取りつけてしまった。そのロクソル山ハイキングに胸を膨らませながら。
 それがとんでもない悲劇を招くなんて、僕には知る由もなく――


 ◇ ◇ ◇


「ねえ、やっぱやめようよ。ロクソル山は……」
 週末。
 待ち合わせの場所にやってきたヨキは、表情を不安で曇らせていた。
 というか、本当に今にも泣きそうだ。
 可愛らしいハイキングの恰好をしているというのに。チェックの長袖のシャツにカーキ色のパンツ。背中にデイパックを背負い、靴も歩きやすそうで、帽子を頭に乗せている。
 足りないものはただ一つ。ヨキの笑顔だけだった。
 彼女の表情を曇らせているのは村の禁忌のせいだ。
 ――ヤミノクモについて詮索してはいけない。
 ヤミノクモに唯一対抗できるナクルの結晶は、ロクソル山で採掘される。だからロクソル山に行くという行為は、村の禁忌に触れる可能性がある。
 だから僕は言う。
「大丈夫だよ。ロクソル山には行かないから」
 するとヨキは驚いたように僕を見る。
「ロクソル山に行くって言ったのは、僕たちの行先を秘密にするためのおまじないだよ。だって、それ以外の場所を伝えていたら、どこに行くのか言いふらしちゃうだろ? ヨキの家族に」
 僕は誰にも詮索されずに、二人でハイキングに行きたかったんだ。
 たとえ家族に言わなくても、姉のフウにはバレてしまう可能性がある。
 だって本当に不思議な双子だから。この双子の姉妹には、いつも不可解なことが起こっている。
 僕の言葉に、ヨキの表情にだんだんと輝きが戻ってきた。
「うん、そうだよね。クガンだって、ロクソル山には行かないよね」
「というか、行きたくても行けないんだよ。どこにあるのか知らないんだから」
「へっ?」
 僕の言葉が意外だったのか、ヨキは目を丸くした。
 だって、誰も教えてくれないから。
 もしかしたら両親だって知らないのかもしれない。勝手にナクルの結晶を採ってくる行為は、きっと村のタブーなのだろう。
「だから探しに行かないか?」
「なによ、結局行くんじゃん」
 ヨキは再び表情を曇らせる。
「行けるかどうか分からないよ。でもね、最近見つけてしまったんだ。今は使われていない古いレールを」
「古いレール?」
「ほら、村長さんの畑の裏に空き地があるだろ? あそこで見つけたんだよ、草に隠れるようにして山の方に続いている錆びたレールがあるのを」
 なぜ、そんなところにレールがあるのか?
 いや、問題はそこじゃない。なぜレールが必要だったのか、ということだ。
 ――重いものを運ぶため。
 そうとしか考えられない。そう考えれば、いろいろな事柄が繋がってくる。
 ナクルの結晶は鉱物、つまり石と同じ重さだ。一抱えもあれば人間、いや馬でも運ぶのは無理だろう。
 きっとあのレールはかつてはトロッコが通っていて、ナクルの結晶を運んでいたんだ。ロクソル山から村まで。
 ヒルクウキを集めるナクルの結晶でできた瓶は、村長さんの家に保管されている。それは、村長さんの家でナクルの結晶が加工されていたからに違いない。
 こうして色々な状況を積み重ねていけば、答えは自然に出てくる。ロクソル山がどこにあるのか、という答えが。
「そのレールをたどれば行けると思うんだ、ロクソル山に。だから今から探検してみない?」
 僕はヨキの手を取る。
 そして彼女の瞳を熱く見つめた。
「ええっ、でも……」
「じゃあ誤解がないように、僕がロクソル山に行って何をしたいのか言っておくよ。それ以上の目的がないことがはっきりしたら、きっとヨキだって納得してくれると思う」
「うん。その目的って……?」
「ナクルの結晶を見つけて、一欠片だけ持って帰る。それだけなんだ。そして、その結晶を使って家でちょっと実験をする」
「それって危なくない?」
「危なくないよ。だって僕たちだって、普段からナクル製の瓶を触ったりしてるじゃないか。あれって全然危なくないだろ? 本当はあの瓶が使えればいいんだけどね、実験に。でも家に持って帰ることができないから、他に結晶が必要なんだよ。自由に実験に使えるナクルの結晶が」
 そして再びヨキの瞳を熱く見た。
「うん、わかった……」
 ヨキの瞳の光はまだ戸惑いで揺れている。
「でもその前に誓って。決してこの手を離さないって。私、やっぱり恐い……」
 それは仕方がないだろう。
 僕だってワクワク半分、ドキドキ半分だ。
 今日初めて話を聞いたヨキは、不安の方が大きいに違いない。
 だから僕は彼女の手を強く握る。
「わかった。この手は決して離さないから」
 こうして僕たちは、古いレールをたどる冒険に出発した。

 線路の上は意外と歩きやすかった。
 周囲は雑草が生い茂っていたが、線路は枕木が敷き詰めてあるおかげで藪が薄く、行く手が阻まれることはない。
 小川をいくつか渡ると、村を囲む山々が近づいてくる。山の高さはそれほどでもなく、斜面も険しそうではなかった。道さえあれば、ヨキと一緒でも二時間くらいで登れるだろう。
 そう、僕たちが住む村は、そんな山々に囲まれた盆地の中にある。ちなみに僕もヨキも、この村から外に出たことはない。山々を縫うように続く長い道のりを、徒歩か馬車で数日かけて越えるしか方法がないからだ。
 そんな山々の中に一つだけ、山頂が尖った山があった。レールは確実に、その山に続いている。
「もしかしたら、あれがロクソル山かな?」
 僕は握る手に力を込めてヨキを見る。
 少し表情を強張らせながら、ヨキは尖った山頂を見上げた。僕を引き寄せるように腕に力を込める仕草は、もう帰ろうよと言っているかのようだった。
 だから僕は打ち明ける。
 考えている実験の意味を。
 ヤミノクモについての疑いを。
 それは村の人には誰にも打ち明けられない禁忌だから。

「ヨキ。僕はね、ヤミノクモなんて存在しないんじゃないかと思ってるんだ」

 その時の、ヨキの驚いた顔を僕は忘れられない。
 この世の終わりを覗き込もうとする悪魔の子を見るような、険しい視線を僕に向けてきた。
 ――ヤミノクモのことを詮索してはいけない。
 子供の頃から言い聞かされてきた村の禁忌。それを犯すようなことを、僕は考えている。
「驚かせちゃってゴメン。だからそんな目で見ないでよ。僕は普通だから」
「…………」
 何かを言おうとして、ヨキは口をつむんだ。
 ここで何かを口にすれば、ヨキ自身もヤミノクモについて詮索することになる。村の禁忌を破りたくない一心が、彼女の口を堅くしたに違いない。
「何も言わなくてもいいから、とりあえず僕の考えを聞いてほしい」
 ヨキは返事の代わりに僕の手をギュッと握る。
 そして一緒に線路を歩きながら、黙って僕の話に耳を傾けてくれた。
 彼女の歩みが幾分軽くなったのは、ロクソル山に行くことよりも僕の話の方が重くなったからだろう。

「ヤミノクモがやってくると夜になる――と僕たちは教わってきた」
 村の子供なら、誰もが教わること。
 三年前までの僕は、一度も疑うことはなかった。だって大人も全員、そのことを信じているのだから。
「でも不思議に思わないか? ヤミノクモは毎日、同じ時間に東の国からやって来るんだぜ。そして西の国へ去っていく。一度も遅刻することもなく。少なくとも、僕が記録している間は一度もなかった」
 するとヨキの表情が変わった。
 思い当たる節があるという感じで。
 が、僕が彼女の顔を覗き込んでいることに気づくと、再び険しさを表情に纏う。少し頬を赤らめながら。
「でもそれっておかしくない? ヤミノクモが夜を連れてくるのなら、時には遅刻したり、早く来ちゃったりしてもいいと思うんだ」
 少なくとも、自分がヤミノクモなら、毎日毎日同じ時間に行動できる自信はない。
「それにね、何でいつも東の国からやってくるんだ? たまには西の国から、いや北や南から来たっていい。そもそも何で毎日やって来るんだ? 来ない日があってもいいじゃないか」
 ヤミノクモについて不思議に思い始めたのは三年ほど前のことだ。
 それ以来、僕は本を読んだりして勉強してきた。だって大人には決して聞けないことだから。
「そして最近、あるアイディアが思い浮かんだんだ」
 僕は初めて披露する。
 世界の仕組みがひっくり返るかもしれないようなアイディアを。

「もしかしたら、闇の星があるんじゃないかって思うんだよ。闇の星から届く闇の光。きっとそれが夜の正体なんだ」

「闇の……星?」
 久しぶりにヨキが口を開いた。
 聞いたこともない言葉に、興味を持ってくれたからなのだろうか?
 それとも、これはヤミノクモには関係がないと判断してくれたのだろうか?
 いずれにせよ、新たなアイディアについてヨキと話ができることは、とても嬉しかった。
「そう、闇の星」
「その、星っていうのは……何?」
 やはり、まずはそこからか。
 まあ、僕だって、星というものが存在するかもしれないってことは、最近知ったばかりだもんな。
 僕はゆっくりと説明する。
 本で読んだことの受け売りだけど。
「実は、この空はね、小さな光の点々の集まりなんだって。その小さな光の点を星って言うらしい」
「…………」
 ヨキは空を見上げる。そんなことなんて信じられないという風に。
「ほら、空には明るいところとそんなに明るくないところがあるだろ? とってもわかりにくいけど」
 最初、本で読んでそのことを知った時は衝撃的だった。
 そんなことあるかって思った。
 でも、毎日のように空を眺めているうちに、わずかに明るさが違うところがあることがわかってきたんだ。
「それはね、星の数の違いなんだって。星がたくさんある場所は空が明るくて、数が少なくなってるところはあまり明るくないんだって」
 僕も目を凝らして空を見てみたが、小さな光の点は見えなかった。
 本には、望遠鏡という特殊な道具を使うと判別できると書いてあった。
「それでね、本によると、空の明るいところは東から西へ動いているんだって。毎日、同じ時間に。これって不思議だろ?」
 この部分は最初、本に書いてあることが全く理解できなかった。
 だって、空が動くって書いてあるんだぜ。雲だったら分かるけど。
 でも、毎日空を見上げて、空の明るい場所やそうでもない場所の動きを観察しているうちに、実感することができるようになってきた。空の明るさの模様はちゃんと東から西へ動いていて、いつも同じ時間に同じ模様が現れるということが分かってきたんだ。
「だからね、もしかしたら夜も同じなんじゃないかって思ったんだ。もし闇の星というものがあったら、いつも同じ時間に夜がやってくることが説明できる。一度も遅刻することなく、必ず東の国から来るということもね」
 すると予期せぬことが起こった。
 いきなりヨキが反論してきたのだ。
「だったら、私たちがやってるヒルクウキ集めはどうなるの?」
 僕の瞳を見つめながら、鋭くアイディアの欠陥を突く。
 それはまるで、かくれんぼで僕を見つけた時の鬼のように。
「ナクルの結晶でできた瓶は透明なのよ。その闇の星っていうのが本当なら、瓶の中も夜になっちゃうんじゃない?」
 ヨキは頭がいい。
 すぐに僕の話を理解してしまった。
 三年前に疑問に思い、いろいろな本を読んで最近結論に至った僕のアイディアは、一瞬で危うくなってしまう。
「そうなんだ。だから僕はナクルの結晶を手に入れて、実験してみたいと思ってるんだ。さっきヨキが言ったように、闇の光がナクルの結晶を透過できるかどうかをね」
 これで、ヨキを新たなアイディアについての議論に巻き込むことに成功した。
 彼女の助けがあれば、もしかしたら夜についての謎が解けるかもしれない。



 山裾に近づき周囲が岩ばかりになると、線路はそこで途切れていた。
 先端が尖った山頂は、すぐ近くに迫る森の木々が邪魔になって見えなくなっている。
 岩がゴロゴロする山裾には、岩の間を縫うように沢水が流れていて、爽やかな風が吹いていた。とても気持ちの良い場所だ。
「お腹が空いたわ。ちょうどいい、ここでお昼にしましょ?」
 ヨキの視線の先には大きな木があって、日陰に転がる大岩がまるでベンチのように佇んでいる。山からの沢水もとても綺麗で、そのまま飲んでも美味いに違いない。
「うん。この場所は最高だね。線路も途切れたし、お昼を食べたらこの辺りで結晶を探してみよう」
「じゃあ、あの木陰にお弁当を広げましょ」
 そう言いながら、ヨキは背中のデイパックを下した。

「やっぱり外で食べるお弁当は最高だね」
 本当はヨキの料理の腕を褒めてあげたかったんだけど、なんだか照れくさくて僕はお茶を濁す。
 それならば態度で示そうと、僕はお弁当のおかずを次から次へと口に運んでいた。
 うん、これは美味い。かなりの距離を歩いたこともあって、お腹もペコペコだった。
「もっと落ち着いて食べたら? ほら、パンもあるよ」
 笑いながらヨキは僕にパンを差し出した。
 ヨキの家の窯で焼かれた拳くらいの大きさのまん丸パンだ。
「うわぁ、これ懐かしいなぁ」
 子供の頃よく食べていたパン。ヨキの家族と一緒にピクニックに行った時は、毎回このパンが楽しみだった。
 あの頃はヨキのお母さんが焼いていたと思うけど、今はヨキ自身が焼いているのだろうか?
 それにしてもヨキに笑顔が戻ってよかった。最初はロクソル山なんて行かないって言い出すし、道中もずっと暗い表情で心配してたんだ。
「ねえ、クガン。私もちょっと考えてみたんだけど、さっきクガンが言ってた「闇の星」っていうのと、ヤミノクモは、一緒なんじゃないのかな?」
 一緒?
 まさか一緒ってことはないだろ。一緒だったら、この三年間僕が考えてきたことはどうなるんだ?
「だって、考えてみてよ。闇の星というのがあったとして、それはいつも同じ時間にやって来るんだよね? だったらヤミノクモと一緒じゃない」
「…………」
 僕は言葉を失った。
 そんなことを考えたこともなかったからだ。
「ヤミノクモはヤミノクモだよ。遅刻もしないし、早くやって来ることもない。毎日同じ時刻に東の空からやって来る。だってヤミノクモなんだもん。人は詮索しちゃいけない存在なんだよ」
 そうか、ヨキにとってヤミノクモは絶対的な存在なんだ。
 だって、そういう風に教えられてきたもんな。
 存在について詮索しないから、その動きを当たり前のように受け入れられる。
 ヤミノクモのことをすっかり盲信しているヨキに、何を言っても無駄なような気もするが、ささやかな反論を僕は試みる。
「でもね、ヨキ。闇の星だって、その考えが広まれば、ヤミノクモと同じように受け入れられると思うんだけどな……」
 最近本で知った星という概念。
 でも自分は、その概念を絶対的な存在として信じきれているのだろうか?
 星が遅刻したり早く来たりしないなんて、誰が保証してくれるのだろう。
 僕はお弁当の中から丸いパンを一つ手に取る。
 そして、それを「闇の星」に見立てて、宙に掲げてみた。
 ――この「闇の星」から闇の光が発射されているのなら。
 その闇の光は、ヨキが言うように、ナクルの結晶を透過してしまうのだろうか?
 もしそうなら、僕の考えは間違っていることになる。

 しかし、ここでハプニングが起こる。
 考え事をしていたせいか、指がすべって丸いパンが手の中からこぼれ落ちてしまったのだ。

「ちょ、ちょっとクガン。何やってんのよ!」
 パンはヨキの方へ落ちて、地面をコロコロと転がる。
 ヨキはパンを拾おうとして、慌てて駆け出した。そして草むらに消えようとするパンに手を伸ばし――
「きゃっ!」
 ヨキも一緒に草むらに姿を消してしまったのだ。
 驚いた僕は、慌てて草むらに駆け寄る。
 ――きっと草の中に転んで姿が見えなくなってしまったに違いない。
 そんな僕の予想は、見事に裏切られることになった。
「おおっ!?」
 ツルツルと滑る草むらの中の足元にバランスを崩し、僕も地表から姿を消すこととなったのだから。
 そう、草むらの先にぽっかりと空いた穴の中へ、僕たちは転がり落ちてしまった。



「ねぇ、起きて。クガン……」
 ヨキの声で僕は目を覚ます。
「ううっ……」
 体中が痛い。
 どうやら穴に落ちた時に体を打ったようだ。
 目を開けると、部屋一つ分くらいの広い空間に僕たちは居た。壁や天井は透明な石でできていて、キラキラと輝いている。
「私たち、穴の中に落ちたみたいよ」
 そう言って、ヨキは天井に空いた入り口を指さした。
 入り口の位置は高く、ジャンプしても、ヨキを肩の上に乗せても届きそうもない。
 幸い、穴の中はヒルクウキが充満していて、明るさは保たれている。
「ヨキは大丈夫だった!?」
「全然大丈夫じゃないよ」
 顔を歪めながらお尻をさするヨキ。
「めっちゃお尻打って大炎上だよ。その後でクガンも落ちてきて、気を失っちゃったんだからね」
 えっ、もしかしてヨキがクッションになってくれたとか?
 僕はゴメンと小さく恐縮する。
「それよりもほら、見て、壁や天井や床を。全部透明な結晶でできてて、すっごく綺麗なんだから」
 ヨキに言われ、手をついている床を見て僕は驚いた。
 本当に透明な結晶でできている。しかもツルツルのスベスベだ。
 もしかして、この石って――
「きっと、これがナクルの結晶だよね?」
 ヨキも同じことを考えていたようだ。
 僕たちは辿り着いていたんだ、ロクソル山に。
「ああ、きっとこれがナクルの結晶だよ」
 この穴は、ナクルの結晶を掘り出した跡に違いない。ここからレールを使って、トロッコで村までナクルの結晶を運んでいたんだ。
 僕は村長さんの家にある、ナクルの結晶の瓶を思い出していた。
 確かにあの瓶と、この穴の床や壁や天井は同じ結晶のような気がする。
 さしずめ僕たちは、巨大なナクル製の瓶の中に閉じ込められたと言うべきだろうか。だからヒルクウキもここに留まることができるんだ。
 僕ははっとする。
 今は何時なんだろう?
「ヨキ。僕たちはどれくらいこの穴の中にいる?」
「さあ? 私もね、さっき目が覚めたばっかりなの」
 僕は天井に空いた入り口を見上げる。
 ――真っ暗だ。
 ってことは……。
「もしかしたら、もう夜なんじゃないかな。だって、ほら」
「えっ?」
 驚いたようにヨキも天井の入り口を見上げる。
「ホントだ。天井もキラキラしていて分からなかったけど、よく見たら外は真っ暗じゃない」
 そしてヨキは表情を曇らせた。
「大変だよ。私たち、今日のお仕事できなかった!」
 僕たちは各通りに灯の瓶を置かなくてはならない。ナクルの結晶でできた瓶にヒルクウキを詰めて。
「それはきっとフウがやってくれてるよ」
「そうよね、きっとそうよ。だって私のお姉ちゃんだもん」
 そんなことよりも、僕はもっと大事なことに気づく。
 事は僕たちが思っているよりも深刻であるということに。
「でも、後でお姉ちゃんに怒られちゃう……」
 そんなことはどうでもいい。
 もしかしたら、もしかすると、僕たちはもう二度とこの穴から出られないかもしれないんだから。
「パパやママも心配してるかもしれないし……」
 僕の両親も心配しているかもしれない。
 でも、誰もこの場所に助けに来てくれることはないのだ。
 だって、ここに来ていることは誰にも伝えていないのだから。
「ちょっと、クガン。さっきから頭を抱えてどうしたの?」
「ねえ、ヨキ。ヨキは誰かに言った? ここに来るって」
「そんなの言えるわけないじゃない。ロクソル山に来るなんて。クガンだって言ってたよね、みんなに内緒にしたかったって」
「そうなんだよ、そうなんだ。僕たちがここに来ているこは、誰も知らないんだよ。だから僕たちはずっと、ここに閉じ込められたままなのかもしれないんだ……」
 さすがのヨキも、事の重大さに気づいたようだ。
 僕を見つめる表情がだんだんと青ざめていくのがわかる。
 さっきからずっと考えているが、天井の入り口から出る方法は見つかりそうもない。かと言って、誰かに助けてもらった時は、僕たちがロクソル山に来たことがバレる時なのだ。
「そ、そんな……。うっ、うっ…………」
 ついにヨキは泣き出してしまった。
 僕は静かに彼女の肩を抱き寄せる。
「ゴメン、ヨキ。僕がロクソル山に行こうなんて言うから……」
「ううん。ついて来た私も悪いの」
 そしてヨキは僕に体を預けて涙をこぼし始めた。
 本当に僕ってバカだ。
 ロクソル山に行きたければ、一人で来れば良かったんだ。
 それなのに、ヨキを道連れにしてしまうなんて。
 なんてひどい男なんだ。なんて最低な男なんだ。
 後悔に体が震える。自分のバカさに怒りを覚える。
 その振動がヨキに伝わったのだろうか。彼女は僕から体を離し、静かに僕を見つめた。
 そしてすうっと息を吸う。

 君と集める ヒルクウキ
 ロクソル山の ナクルに詰めて
 ヤミノクモの 来る前に

 子供の頃から聞いている美しい歌。
 穴の中で歌声が反射し、なんだか神々しく聞こえてくる。
 不思議なものだ、心が次第に落ち着いてくる。
 歌い終わったヨキは、静かに天井の入り口を見上げた。
「お姉ちゃんも、こうやって窓の外の夜の空を見上げてた」
 きっと双子の心は通じ合っているのだろう。
 もしかしたら、フウが助けに来てくれるかもしれない。
 一縷の希望を感じたその時、グウとヨキのお腹が鳴った。
「えへへへ。お姉ちゃんのことを考えたら、ちょっと安心しちゃった」
 確かに僕も、ちょっとお腹が空いてきた。でもお弁当の残りは穴の外だ。
 するとヨキがポケットに手を伸ばす。
 そして丸パンを一つ取り出した。
「穴に落ちる直前に拾ったパンがあるよ。ちょっと土が付いちゃってるけど」
 この期に及んで、土が付いたから食べられないとは言っていられないだろう。
 このパンが、僕たちの命を繋いでくれるかもしれないのだから。
「クガンが食べようとしたパンなんだから、クガンが食べていいよ」
「いやいや、それはヨキが食べなよ。僕は結構お弁当を食べたから、そんなにはお腹は空いてはいないんだ」
 嘘だった。
 でも明らかに今は、ヨキの方がお腹が空いているように見えた。
「いやいやいや、これはクガンが食べなよ。ほら、私は体小さいし。クガンの方が必要でしょ?」
 なんて優しい子なんだと僕は嬉しくなる。罰を与えようとしていた先日のヨキとは別人だ。
 だから僕は提案する。
「だったら、今日はヨキが半分食べなよ。残りの半分は明日にしよ。助けがいつ来るのか分からないんだし」
「いいの? それで」
「ああ」
 するとヨキはパンに付いた土を払う。
「じゃあ、遠慮なくいただくよ」
 そしてガブリとパンに噛り付いた。
「んっ?」
 途端に目を開くヨキ。
「どうした? ヨキ!?」
 もしかして、パンに付いていたのは土だけじゃなかったのだろうか?
「何か変か? 変だったら吐き出した方がいいよ」
「ううん、大丈夫。なんか塩味が効いて美味くなったように感じたから。多分気のせい」
 そう言って何事もなかったかのようにヨキはパンを半分平らげた。
「明日、助けが来ますように」
 そしてパンの半分をポケットに入れる。
「誰かが僕たちに気づいてくれますように!」
 僕たちは手を繋いで、ナクルの結晶の床に横になった。



「おーい、誰かいるか!?」
「ヨキ! クガン!」
 翌朝。
 騒がしい声で僕たちは目を覚ました。
 どうやら両親たちが助けに来てくれたようだ。
「おーい、ここだ。穴の中にいるよ!」
「助けて。お願いだから!」
 すると縄梯子が穴の中に投げ入れられる。その瞬間、僕とヨキは抱き合って喜んだ。
 助かったのだ。
 まずは最初にヨキが梯子を上る。
 続いて僕が穴から顔を出すと、村長さんとヨキの両親、そして僕の両親の顔が見えた。ヨキはフウと抱き合っている。
 しかし、この一件が、僕と双子の姉妹に重大な決断を強いられることになるとは、この時は思いもしなかった。


 ◇ ◇ ◇


 翌日。
 僕と双子の姉妹フウとヨキ、そしてそれぞれの両親は、村長さんの家に呼び出されていた。
 険しい表情の村長さんが僕たちを迎える。
 家の奥の会議室に招かれると、入り口のドアは内側からしっかりと閉められてしまった。中にいるのは村長さんと僕たちだけだ。
「大変なことになった……」
 村長さんがため息を漏らす。
 そして僕たちを見回した。
「今回の一件を知っているのは、ワシを入れてこの八人だけじゃな」
 村長さんが確認する。
 僕とフウとヨキ、そしてそれぞれの両親の顔をじっくりと見ながら。
「昨日、見聞きしたことは一切口外しないように。これは古くから伝わる村の掟じゃ」
 村長さんからの依頼に、一同頷く。
 僕は全く納得がいかなかったが、横から睨みつける父親が恐くて渋々首を縦に振った。
「そのことを証明するために、この中から一人、闇の国へ人質を出すことになった」
 人質!?
 なんだよ、それ……。
 すると僕の父親が声を上げた。
「人質ってどういうことですか? 詳しく説明をお願いします」
「うむ……。まあ、いきなり人質と言われても納得いかんじゃろ。少し長くなるけど、いいか?」
 今回は僕も納得して首を縦に振る。
「この村はな、太古の昔からヤミノクモと契約をしとるんじゃ」
 契約? それはどんな……?
「ナクルの結晶で囲まれた領域は不可侵にするという契約じゃ。そのおかげで夜でも灯りを得られておる」
 だからナクルの結晶でできた瓶の中のヒルクウキは、夜が来ても明るいままなのか……。
「それはつまり、ナクルの結晶の産地、ロクソル山への立ち入りを禁じるということでもある。ヤミノクモがナクルの結晶に近づかないことを誓う代わりに、我々もナクルの結晶の産地にはむやみに近づかないということじゃ」
 すると父親がさらに質問をする。
「私たちがその禁忌を破った、ということは分かりました。それと人質とは、どういう関係があるのでしょうか?」
「ロクソル山で見聞きしたことを誰にも話さないことを保証するためじゃ。あんな大きな結晶があることを村人たちが知ったら、悪用する輩が出てもおかしくないじゃろ?」
 結晶をこっそり持ち出そうと考えていた僕は、聞く耳が痛い。
 人質になった人は闇の国に連れて行かれる。
 そして、この中の誰かがロクソル山のことを言いふらしたら、最悪の場合、人質は殺されてしまうのだろう。
 僕の軽はずみな考えで、とんでもないことをしてしまった。後悔と恐怖で、僕の体は小刻みに震えてくる。
 その様子を察したのだろうか。父親が僕の肩に手を置いて、村長さんに提案する。
「私が人質になります。聞くところによると、この愚息がヨキさんを誘ったとのこと。だから彼女や彼女の家族には非はありません」
 ええっ、父さんが?
 それはおかしい。僕が悪いんだから僕が行くべきだ。
「僕が人質になります。僕がヨキを誘ったんだから、父さんが人質になるのは変だ」
「お前は黙ってろ。責任を取るのは大人って決まってる」
「いや、僕が……」
「ちょっと待ってくれ!」
 親子で言い争いになるところを村長さんが遮った。
「立候補してくれて大変助かるんじゃが、人質は関係者の中で一番若い者と決まっとる。年寄りは先に死んでしまうから人質にならん」
 ということは……。
 皆の視線が一気にヨキに集まった。
 この中で一番年が若いのは双子の妹のヨキということになる。
「村長さん、僕もヨキと同い年です。たった数か月違うだけじゃないですか!」
「ダメじゃ。これは昔から決まっとることなんじゃ」
 村長はさんは無慈悲に首を横に振った。
 そんな、そんなことって……。
「ゴメン、ヨキ。僕の浅はかな行動でこんなことになって」
 どうしようもない感情があふれて涙がこぼれてくる。
 闇の星なんてバカなことを考えなければよかった。最初からヨキの言うことを聞いていればよかったんだ。ヤミノクモについて詮索なんかしちゃいけなかったんだ……。
 ヨキの両親にも本当に申し訳ない。僕は涙を流しながら、土下座をするように床にひざまづいた。
「わかりました、村長さん。私が人質になります」
 気丈に答えるヨキ。
 しかしその声は、わずかに震えていた。
 思わずフウが抱き付く。
「それではヨキさん。明日の夕方、またここに来て欲しい」
 明日の夜、ヨキは闇の国へ連れて行かれる。
 そしたらもう二度と、ヨキには会えないんだ……。
 だってここに居る全員が死んでしまうまで、この村には帰れないんだから。
 後悔と悲しみで、僕の心はぐちゃぐちゃになっていた。


 ◇ ◇ ◇


 その夜。
 僕は一睡もできなかった。
 ――明日になればヨキはいなくなってしまう。
 そう思うと居てもたってもいられなかったのだ。
 どうしたらヨキを助けることができる?
 どうしたらヨキと一緒に居られることができる?
「ん? 待てよ。もしかして、あそこなら!?」
 一つのアイディアが浮かぶ。
 ヨキを闇の国に連れて行かれない方法があるかもしれない。
 僕はどうしたらその方法が成功するか、作戦を練り始めていた。

 ヨキが人質となる日の昼、僕はヨキの家を訪れていた。
 徹夜で考案した作戦を伝えるためだ。ところが――
「ゴメンね、クガン。今日は家族だけでヨキとの最後の日を迎えることにしたの」
 僕はフウに門前払いされてしまった。
 とぼとぼと家に戻る間、僕は自分の甘さを悔いる。
 ヨキの家族にとって、僕は禍をもたらした厄介者じゃないか。
 彼女の両親にとって、僕は憎むべき存在なのだ。
 そんな者を、娘との最後の日に家に招き入れるわけがない。
 フウが玄関に出てくれたことだけでも、最大限に配慮してもらった結果なのかもしれない。だって、玄関で父親にいきなり殴り倒されてもおかしくはないのだから。
 かといって、この作戦は自分の両親の助けを借りるわけにもいかない。
 だから僕は一人、夜が来るのを待っていた。


 ヤミノクモが村を覆い始めると、僕は食料とナイフをザックに詰めて家を抜け出した。
 村の中央にある噴水広場。
 そこのステージに、一人の女の子が寝かされていた。
 ――ヨキだ。
 僕はそっと近づくと、小声で話しかけた。
「ヨキ。助けに来たよ」
「えっ? クガン? クガンなの?」
 薄暗くてよく見えないが、ヨキはいつもとは違うおしゃれな格好をしていた。
 ――短い髪に似合う白い髪飾り。体の線を強調するような胸元の空いた白いワンピース。
 まるで闇獣に嫁入りするかのような美しさだった。ヨキってこんなにもスタイルが良かったのかと、思わず見とれてしまう。
「何ぼおっとしてんの? そんなに私って綺麗?」
「ああ、すごく綺麗だよ。だから一緒に行こう!」
「行こうってどこに? 闇獣からは逃げられないよ」
「大丈夫。僕についてきて」
 そう言いながら僕は、ヨキの手足を縛っているロープをナイフで切る。
 そして彼女の手を握りしめて、一緒に走り出した。

 うす暗闇の中、僕はレールの上を走る。
 ヨキの手をしっかりと握りしめながら。
 彼女も僕の走りにしっかりとついて来てくれた。
 そしてロクソル山の麓にたどり着くと、ヨキがその走りを止めた。
「ねえ、クガン。もしかして、あの穴の中に隠れるの?」
 そう、それが僕の作戦だった。
「ヨキも見ただろ? あの穴はナクルの結晶でできていて、ヤミノクモは侵入できないんだ。だから闇獣だって入れないはずだ」
 あの穴に居れば大丈夫。
 きっとこのピンチを乗り越えられるに違いない。
「そうすれば私とクガンは助かるかもしれない。でも私たちは双子なんだよ。もう一人はどうなるの?」
 その言葉にガツンと頭を殴られたような気がした。
 そう、僕は、自分とヨキのことしか考えていなかったのだ。
 ヨキが広場に居ないことを知った闇獣はどうするだろう?
 答えは簡単だ。ヨキの代わりにフウを人質として連れ去るに違いない。だって二人は誕生日が同じ双子なのだから。
 たとえ今、ヨキのことを助けることができたとしても、それはフウの犠牲の上に成り立つ話なのだ。
「あんた、バカじゃないの? 目先のことしか考えないから、いつもこうなるのよ」
 本当に僕はバカだ。
 ロクソル山にヨキを誘った時だってそうだ。行きたいという目先の気持ちに負けて、ヨキを人質に差し出すことになってしまった。
 今だってヨキを助けたいという一心で、フウを犠牲にしようとしている。
「あーあ、なんであの娘はこんなやつが好きになっちゃったんだろうね」
 えっ?
 今何て言った、と言おうとした時――

 ギャーっと闇の空から異様な声が響く。
 そしてその声の主は、僕たちの上空をバサバサと旋回し始めた。
「来たわ。ミジューアよ」
 闇獣ミジューア。
 誰もその姿を見たことがない闇の国の使い魔。
「ミジューアがここに来たってことは、ヨキは無事に逃げれたってことね」
「そ、それって……」
「ほらほら、ぼおっとしない。さっさと穴に行くわよ!」
 彼女は僕の手を取って走り出す。
 この力強さ。とてもヨキのものとは思えない。
「き、君は……」
「あんた、やっと気づいたの。今までずっと手を握っていたのに姉妹を見分けられなかったって、ヨキが聞いたら泣いちゃうわよ」
 フウだった。
 空からはバサバサと羽音をたてながらミジューアが襲い来る。
 僕たちは間一髪のところで、穴の中に逃げ込んだ。


 縄梯子を伝って穴の中に降りた僕たちは、穴の奥で身を寄せ合って入り口を見守る。
 ミジューアはその嘴や足を入り口に入れようとするが、その度にギャーと悲鳴にも近い鳴き声を発して引っ込める。しばらくの間、バタバタと悪戦苦闘していたミジューアだったが、ついに諦めたのか、バサバサと羽音を響かせて飛び立って行った。
「助かった……」
 僕はへなへなと脱力して、床に両手をつく。
 フウもぐったりとお嬢様座りをしていた。
「ヤバいわね、あれは。私たちを殺す気満々だったわ」
 確かにヤバかった。
 村長さんは人質と言っていたが、本当に人質だったのだろうか?
 あんなやつに捕まったら、命なんてすぐに取られてしまうだろう。
「ミジューアは血の一滴も残さず人間を食い尽くすんだって。パパがそう言ってた。だからね、人質として闇の国に連れ去られたように見えるんだって。でもね、本当は生贄なの」
 マジか。
 僕たちは村長さんに騙されていたのか。
「だからね、私たちは徹夜でヨキを逃す算段をしていたの。家族揃って」
 それで僕は会わせてもらえなかったんだ……。
「家中のお金をかき集めてドラヒルゴンを雇ったのよ。だからヨキは今、ドラヒルゴンの背の上のはず」
 ――ドラヒルゴン。
 ヒルクウキのあるところなら、無限に飛ぶことができるという幻の魔獣。
 まさかそんなものがお金で雇えるとは思わなかった。
「ママの遠い親戚は魔獣使いの家系なの。でも、相当な額を支払わざるを得なかった。私だってこんなになっちゃったんだからね」
 改めてフウを見た僕は驚愕する。
 彼女の自慢の長髪はバッサリと切られてショートになっていたのだ。まるでヨキのように。
 フウの髪は、ヨキを逃がすための金策に使われたんだ。あれほど大切に手入れしていたというのに……。
「まあ、おかげであんたも村長さんも見分けがつかなかったんだけどね」
 フフフと意地悪そうに笑うフウ。
 自虐が織り交ぜられたその笑いには、哀愁が漂っている。それだけフウにとって、悲しい別れだったんだ。
「私はずっと家の中に隠れている予定だったんだけど、一人で家を抜け出して来たの」
「なんでそんなことしたんだよ」
「あんた、昼間、家に来たでしょ。思いつめた目をして。あまりにも真剣だったから、その瞳に賭けてみたくなったの」
 僕はヨキの家を訪れた。徹夜で考えた作戦を提案するために。
 そんなに思いつめた顔をしていたとは思わなかった。でも真剣さはちゃんと伝わっていたのだ。
「そして私は一人で村長さんの家に行った。人質として差し出されても、きっとあんたが助けに来ると思ったから。まあ来なければそれでもいいかなって考えもあったけど。私が犠牲になれば、ヨキとあんたはこの村で幸せに暮らせるでしょ?」
 フウの言葉に涙が溢れてきた。
 僕はヨキのことしか考えていなかった。
 フウが犠牲になる可能性なんて、全く考えてもいなかった。
 でもフウは違った。
 ちゃんとヨキのことを考えて行動していたのだ。ヨキの幸せを願っていたのだ。
 なんて僕は浅はかなんだろう。
 なんで短絡的なんだろう。
 フウが犠牲になったこの村で、ヨキと一緒に幸せになんて暮らせるわけがないじゃないか……。
 次から次へと涙が溢れてきた。

 その時。
 美しい歌声が穴の中にしっとりと響く。

 君と集める ヒルクウキ
 ロクソル山の ナクルに詰めて
 ヤミノクモの 来る前に

 さすがは双子、歌声もヨキとそっくりだ。
 子供の頃から聞いてきた調べは、僕の心をゆっくりと癒してくれた。
 歌い終わるとフウが僕を見つめる。
「ヨキなら大丈夫よ。ドラヒルゴンの背の上で、西に向かってヒルクウキの中を飛んでいる」
 その言葉を聞いてほっとする。
 しかし今は夜だというのに、ヒルクウキの中を飛んでいるなんて、ドラヒルゴンはどれだけ遠くに飛んで行ってしまったのだろう。
「不思議なことに、私たちはお互いが歌いたくなるタイミングがわかるの」
 それはなんとなくわかる。
 だって二人が歌い出すのはいつも同時だったから。
「それでね、さらに不思議なんだけど、歌っている間はあの娘の視線になれるの」
 ええっ? それって……。
「今までずっと気づかなかったんだけどね。ほら、この歌を口ずさむ時って、いつも二人一緒だったじゃない。でもこの間、初めてそのことがわかったの」
「この間って?」
「ヨキとあんたがこの穴に落ちちゃった時。歌っている間、私はこの穴の様子がはっきりと見えた」
 そういうことだったのか。
 二人が一緒に歌い出すと不思議なことが起こる理由は。
「それでね、村長さんにこの景色のことを相談したら、ここに案内してくれたの」
 僕とヨキがこの穴から助け出されたのは、フウのおかげだったんだ。
「この歌がある限り、私はあの娘の様子が分かる。生きているかどうかが分かる。だから安心して。でも本当のことを言うと、女としての魅力は私の方が上だと思うんだけどね」
 ちょ、ちょ、ちょっと。
 お願いだからこんな時に誘惑しないで欲しい。
 僕はヨキのこと一筋なんだから。
「あら、照れちゃって。髪を切ったから、あの娘にそっくりでしょ?」
 そう言いながらフウは、ショートのブロンズの髪をさらりと手ですいた。
 髪を切ったフウは、本当にヨキとそっくりだ。
 ヨキに怒られそうだが、ショートになったフウのサラサラのブロンズの髪もとっても魅力的だった。
「まさか本当に見分けがつかないんじゃないでしょうね。私の方が胸が大きいんだから、失礼しちゃうわ」
 そんなこと言われたって、じっくり見たことがないからわからないよ。でも、もしかしたら、フウの方がくっきりしてるかも、胸の谷間は……。
「触ってみる? そしたら違いがはっきりとわかるわよ。って、まさか、あんたあの娘と一夜を共にして、まだってことは……」
「あわわわわわわ、そ、そ、そ、そそんなこと……」
 僕の反応を見ながら、意地悪そうに笑うフウ。
 お姉さんだからって僕をからかうのはやめて欲しい。
 こんな反応しちゃったら、どんな状況だったかなんて一目瞭然じゃないか。
「やっぱダメよ、触っちゃ。私の将来の大切な人のためにとっておくわ」
「はいはい、それがいいっす」
「そうそう、あの娘に聞いたわよ。あんた、闇の星なんてことを考えてるんだって?」
 急に真面目な話になって、照れ隠しに僕は一つ咳払いをした。
 それにしてもヨキのやつ、そんなことまで喋ったのか?
 あれだけヤミノクモについては詮索しないって言ってたのに。
 ヨキだけに打ち明けた秘密のアイディアというのに、他人が知っているというのはなんだか小っ恥ずかしい。
「私もちょっと考えてみたんだけど、もし闇の星というものがあったとしたら、この穴の入り口の下は夜になるんじゃない?」
 ん? 入り口の下は夜に……って?
 確かにフウの言う通りだ。闇の星があったら、あの入り口の下は夜になっているはずだ。だってあの部分だけポッカリ空いているのだから。
 やっぱり闇の星というアイディアは間違っていたのだ。
「でも不思議なのよね。ほら、いつも私たちってナクルの結晶の瓶にヒルクウキを入れて、通りの台に置いていたじゃない? それって、ナクルの結晶で蓋をしてるからヤミノクモが入って来ないんだと思っていたの」
 僕もそう思っていた。
 それが不思議というはどういうことだろう?
「でもこの穴は、蓋がないじゃない」
 僕ははっとする。
 フウに言われるまで気づかなかった。
 確かにこの穴には蓋がない。それなのにヤミノクモは中に入って来なかった。今でもヒルクウキが充満して明るいままだ。ミジューアだって入ろうとして入れなかったじゃないか。
「だからね、このナクルの結晶には何か秘密があるんじゃないかと思うの。村長さんは契約って言ってたけど、それとは違う何かが。だって、さっきのミジューアみたいなやつが律儀に契約を守ってるとは思えないもの」
「そうだね……」
 先ほどのミジューアの行動は、本能で動く闇獣そのものだった。穴の中に欲しい獲物があるけど、何かが生理的な障壁になって仕方なく捕獲をあきらめたという感じだった。もしミジューアに知性があって「これは契約による禁則事項だったな」とつぶやいてくれれば、今でも村長さんの言葉を信じていただろう。
 その秘密が解ければ、なにかこの事態を解決する策が見つかるかもしれない。
 僕はその決意を込めて、キラキラと輝く結晶の壁を見つめる。
「ふわわわわ……」
 そのとたん、横で大きなあくびをするフウ。
「なんだか眠くなっちゃったわ。昨日は徹夜だったからね。もう寝ましょ、クガン」
 実は僕もかなり眠い。僕だって昨日の徹夜がかなり効いている。
「ねえ、手は握っててもいい? やっぱり恐いから」
「うん、わかった……」
 フウの言葉でヨキのことを思い出す。
 やっぱり双子なんだ。誰かに手を握っていて欲しいと願うところは。
 手を握ったまま一緒に床に横になったフウは、消え入りそうな小さな声でつぶやく。
「あんたはバカだけど、その短絡的なところ、嫌いじゃないよ」
 声にちょっとだけ照れを乗せて。
「だって信じられるから。あの娘も言ってたけど、こうして手を握ってもらうとすごく安心する……」
 そう言ってもらえるととても嬉しい。
「助けに来てくれてありがとう。本当のことを言うとね、あの時、すごく恐かった。すごく、すごくね……」
 小さく鼻をすするような音がしたかと思うと、フウはすうすうと寝息をたてる。
 広場のステージに寝かされたあの時、フウは妹の幸せと自分の命とを天秤にかけたことを心から後悔したに違いない。僕がロクソル山に来たことを後悔したように。
 とにかくフウが生きていて良かった。本当に、本当に良かった……。
 フウの手は、ヨキと同じでとても柔らかかった。



 ◇ ◇ ◇



 翌朝。
 僕はフウの美しい歌声で目を覚ます。

 君と集める ヒルクウキ
 ロクソル山の ナクルに詰めて
 ヤミノクモの 来る前に

「どうだった? ヨキの様子」
「なんかすごい所にいたわよ、あの娘」
 フウが説明してくれる。ヨキの目を通して見た風景を。
 ――湖をさらに大きくしたような水の平原。
 ――その岸辺に連なる街並み。
 ――この村よりもずっとずっと都会の風景。
「なんだか風景だけじゃ分からないな」
「そうね。今度から、文字で情報を送ってもらいましょ」
 こうして僕たちは、穴の中に篭もりながらヨキからの情報を集めることにした。当面の食料は十分に持ってきている。
 双子が同時に歌い出すのは、どうやら一日に一回か二回らしい。
 ということで、情報が十分に集まるまで一週間くらいはかかりそうだ。
 翌日には僕たちの両親がここを見つけてくれて、食料や衣服を差し入れしてくれるようになった。村長さんはプンプンだったけど。でも僕たちを生贄にしようとした悪者なんだから、家族ぐるみで無視してやった。ざまあみろだ。
 幸いなことに、若者三人が雲隠れした現在、代わりに両親の誰かが人質として連れて行かれることはなかった。僕の父親は「私が代わりに人質になる」と言い張っていたようだけど、ミジューアがやって来る気配は全くなかったそうだ。きっと大人は不味いと思っているんだろう。
 夜は穴の中で寝て、昼は穴の外に出る。穴の外では沢で水浴びもできて快適だった。
 こうしている間にヨキから得られた情報は、こんな感じだ。

 巨大な水の平原は「海」と呼ばれるものらしい。
 海の岸辺に連なる街並みは、ジメテという名の国。
 ヤミノクモは海に近づくことはなく、ジメテと海は絶えずヒルクウキに包まれている。
 ドラヒルゴンとの契約が切れた現在、ヨキは安全なジメテに住んでいる。
 絶えず昼間が続くジメテはとても暑く、地元の人はこの気候を「夏」と呼んでいる。
 海の水は湖とは異なり、かなり濃い塩水でできている。

 その情報を聞いて僕ははっとする。
 以前、ヨキが言っていたことを思い出したからだ。

『なんか塩味が効いて美味くなったように思ったから』

 穴の中に落ちたパンを食べた時のことだ。
 ということは、もしかしたら、もしかしたら、このナクルという結晶は――
「ねえ、フウ。ナクルの結晶ってもしかしたら塩なんじゃないのかな?」
「ええっ、そんなことって……」
 疑いながらもフウはナクルの結晶の壁に指をこすりつけて、ペロリと舐める。
「うわっ、しょっぺぇ」
 女の子ならもっと可愛く言ってくれよと苦笑しながら、僕はすべての謎が解けるのを感じていた。
 ――塩。
 そう、キーワードは塩だった。
 つまり、ヤミノクモは塩が苦手なのだ。
 だから塩であるナクルの結晶には近づかないし、海と呼ばれる塩の水平原にも近づかないのだ。
「やっと謎が解けたよ! フウ!」
「えっ、なになに? どうしたの?」
 まだ訳が分かっていないフウの手を取って僕は踊り出す。
 これでヨキに会いに行ける。夏のジメテで僕たちを待っているヨキのもとへ。


 僕たちは昼の間働いて、夜は穴の中で寝る生活を続けた。
 そして貯めたお金で馬車を買い、ナクルの結晶を薄く切って荷台の内側にペタペタと貼り付けた。こうすれば、移動中にヤミノクモがやって来てもミジューアに襲われることはない。さすがにドラヒルゴンを雇うのは高額すぎて無理だった。
 そして僕とフウの家族は出発する。
 ヨキが住むジメテに移住するために。
 はじめての夏が僕たちを待っていた。




 おわり



ライトノベル作法研究所 2019夏企画
テーマ:『太陽』、『恐怖』、『音楽』、『はじめての夏』