銀月 ― 2010年05月13日 23時19分49秒
「何だ!?」
ガサゴソと茂みが揺れる音に、とっさに俺は近くの納屋の影に隠れる。息を潜めて様子を伺っていると、茂みの中から黒い物体がぬうっと現れた。
「っ!」
それは熊だった。体長一・五メートルはあろうかというツキノワグマ。何かを探すように農道をうろうろし始めた。
(神様お願い! 頼むからこっちに来ないでくれ!)
納屋の裏に隠れながら、俺の心蔵はバクバク鳴っていた。野生の熊を見るのは初めてだ。しかも俺が持つ熊というイメージよりもはるかに大きい。もしあれが襲い掛かってきたら、無事で済むとはとても思えない。
三分くらいの時間が三十分に感じる。何も起こらないことに痺れを切らした俺は、納屋の影からそっと様子を伺う。熊はまだ農道をウロウロとしていた。幸いこちらには気付いていない。運良くこちらは夕陽を背にしており、風向きも風下側だった。しかし農道しか逃げ道がない状況では逃げ去ることは不可能だ。しばらくこの場所に隠れ続けるしか方法はない。
そのような状況を認識すると、少しだけ熊を観察する余裕が生まれた。その熊は少しくたびれた感じのする熊だった。歩みも精彩を欠いている。きっと歳をとった熊なのだろう。そして特徴的だったのが前足の付け根付近にある大きな傷だ。三日月のような形で毛が生えていないところがあり、夕陽が当たって銀色に輝いている。熊は探し物でもするようにしばらく農道をウロウロした後、高速道路の方に向かって歩いて行った。これはチャンスと、俺は農道を夕陽の方角へ一目散に走って逃げた。
「ばあちゃん、く、熊だ、熊が出たよ!」
俺は祖母の家に慌てて駆け込んだ。ゴールデンウィークを利用して俺は一人で遊びに来ていたのだ。
「それは本当か皐君! どこに出たんだ?」
居間から伯父さん顔を出す。
「ここから農道を五百メートルほど東に行ったところ。納屋がある辺りだよ」
すると伯父さんは、すぐに何処かに電話をかけ始めた。
「すまない、皐君。雨戸を閉めてもらえないか」
電話の相手が出るまでの間、伯父さんが俺に声をかける。俺は縁側に行き雨戸を閉め始めた。すでに宵闇が集落を包み始めていた。
「それでどんな熊じゃった?」
いつの間にか俺のすぐ後ろにばあちゃんが居た。いつもの優しい口調とは異なる言葉の鋭さに、俺はドキリとする。
「大きかったよ。一・五メールくらいはあったかも。あと前足の付け根に大きな傷があった」
「そうか、やはり銀月じゃな。もうそういう時期になったんか……」
そう言いながらばあちゃんは仏壇の方へ向かって歩く。そこにはじいちゃんと、そして俺の母の写真が飾られていた。
それはちょうど二十年前。高速道路が開通して交通の便が良くなったこともあり、母は故郷分娩を行うためこの家、つまり実家を訪れていた。しかし散歩中に運悪く熊に襲われ、俺を出産した直後に亡くなった。熊の三日月状の傷――「銀月」の名の由来となった傷であるが、その時じいちゃんが放った猟銃によるものだという。
「傷が痒み出したと思ったら、またこの季節が来たんじゃの……」
そう言ってばあちゃんは仏壇の前に正座し、鎖骨の辺りをボリボリと掻きだした。上から見て初めて気付いたが、ばあちゃんの左の鎖骨から肩にかけて大きな傷があった。そういえば子供の頃に一緒にお風呂に入った時、左肩にタトゥーのようなものを見た記憶がある。それがこの傷跡だったのだ。
「ばあちゃん、その傷は……?」
「これはの、有希子を守ろうとした時にできた傷じゃ」
有希子とは俺の母の名だ。身重の母が銀月に襲われた時、母を守ろうとしてばあちゃんも引っ掻かれたという。じいちゃんが来るのが遅ければ、ばあちゃんも、いや俺だってこの世にいたかどうかわからない。
「俺、母さんの仇を取る」
「やめろ」
それはいつもの優しいばあちゃんの声ではなかった。
「でも……」
「やめてくれ。ワシはお前まで失いとうない」
「銀月も二十歳を越えてるんだろ。人間でいえば老人だよ。今ならやっつけられる」
「聞き分けの無い奴だな。あやつもワシと同じくもう寿命じゃ。それにあやつも大切なものを失ったんじゃ。静かに死なせてやれ」
「大切なものって?」
「…………」
それっきりばあちゃんは黙ってしまった。
「私が説明しよう」
その時、電話を終えた伯父さんが戻ってきた。
「二十年前はちょうどバブルの絶頂期だった。この村も例外ではなくてな、甘い需要予測を基にして高速道路が建設されたんだ。山を削ってな」
ある日、子熊が山から高速道路に落ちた。びっくりした子熊は斜面を駆け上がらずに道路に沿って逃げようとしたという。そしてトラックにはねられて命を落とした。実は、その子熊は銀月の子供だったというのだ。
「何台ものトラックに轢かれて子熊はぺったんこになってしまったんだ。その直後だった。村が銀月に襲われたのは……」
「そうだったのか、ばあちゃん?」
ばあちゃんは何も言わず線香に火をつけ、それを仏壇に立てるとチーンとお輪を鳴らした。
「今日は有希子とあの子熊の命日じゃ。お前の二十歳の誕生日でもあるがな……」
いつまでも消えないお輪の残音が俺の心にも鳴り響いていた。
翌日。銀月は高速道路で発見された。死体となって。目立った外傷はなく、車にはねられたのか、高速道路に落ちたためか、それとも寿命だったのか死因は誰にも分からなかった。ただ、二十年前に子熊が亡くなった場所で、銀月は冷たくなっていた。
「こんな田舎に高速道路なんぞ造るからいけんのじゃ」
ばあちゃんがポツリと口にする。
その高速道路も今年から無料になるという。末端の不採算路線を無料化するという新政権の社会実験の一環だ。これで二十年続いたこの区間の『高速道路』としての肩書きは一旦終わりになる。
「銀月の願いが届いたんじゃよ……」
そう呟くばあちゃんの声は、まるで我が子を失ったかのようだった。
即興三語小説 第55回投稿作品
▲お題:「タトゥー」「説明しよう!」「宵闇」
▲縛り:「ぽんこつヒロインが登場する(任意)」
「動物(ペット可)を登場させる(任意)」
「夕陽に向かって走る(任意)」
「視覚描写に力を入れる(任意)」
▲任意お題:「痒み」「ぺったんこ」「神様お願い!」「鎖骨」
ガサゴソと茂みが揺れる音に、とっさに俺は近くの納屋の影に隠れる。息を潜めて様子を伺っていると、茂みの中から黒い物体がぬうっと現れた。
「っ!」
それは熊だった。体長一・五メートルはあろうかというツキノワグマ。何かを探すように農道をうろうろし始めた。
(神様お願い! 頼むからこっちに来ないでくれ!)
納屋の裏に隠れながら、俺の心蔵はバクバク鳴っていた。野生の熊を見るのは初めてだ。しかも俺が持つ熊というイメージよりもはるかに大きい。もしあれが襲い掛かってきたら、無事で済むとはとても思えない。
三分くらいの時間が三十分に感じる。何も起こらないことに痺れを切らした俺は、納屋の影からそっと様子を伺う。熊はまだ農道をウロウロとしていた。幸いこちらには気付いていない。運良くこちらは夕陽を背にしており、風向きも風下側だった。しかし農道しか逃げ道がない状況では逃げ去ることは不可能だ。しばらくこの場所に隠れ続けるしか方法はない。
そのような状況を認識すると、少しだけ熊を観察する余裕が生まれた。その熊は少しくたびれた感じのする熊だった。歩みも精彩を欠いている。きっと歳をとった熊なのだろう。そして特徴的だったのが前足の付け根付近にある大きな傷だ。三日月のような形で毛が生えていないところがあり、夕陽が当たって銀色に輝いている。熊は探し物でもするようにしばらく農道をウロウロした後、高速道路の方に向かって歩いて行った。これはチャンスと、俺は農道を夕陽の方角へ一目散に走って逃げた。
「ばあちゃん、く、熊だ、熊が出たよ!」
俺は祖母の家に慌てて駆け込んだ。ゴールデンウィークを利用して俺は一人で遊びに来ていたのだ。
「それは本当か皐君! どこに出たんだ?」
居間から伯父さん顔を出す。
「ここから農道を五百メートルほど東に行ったところ。納屋がある辺りだよ」
すると伯父さんは、すぐに何処かに電話をかけ始めた。
「すまない、皐君。雨戸を閉めてもらえないか」
電話の相手が出るまでの間、伯父さんが俺に声をかける。俺は縁側に行き雨戸を閉め始めた。すでに宵闇が集落を包み始めていた。
「それでどんな熊じゃった?」
いつの間にか俺のすぐ後ろにばあちゃんが居た。いつもの優しい口調とは異なる言葉の鋭さに、俺はドキリとする。
「大きかったよ。一・五メールくらいはあったかも。あと前足の付け根に大きな傷があった」
「そうか、やはり銀月じゃな。もうそういう時期になったんか……」
そう言いながらばあちゃんは仏壇の方へ向かって歩く。そこにはじいちゃんと、そして俺の母の写真が飾られていた。
それはちょうど二十年前。高速道路が開通して交通の便が良くなったこともあり、母は故郷分娩を行うためこの家、つまり実家を訪れていた。しかし散歩中に運悪く熊に襲われ、俺を出産した直後に亡くなった。熊の三日月状の傷――「銀月」の名の由来となった傷であるが、その時じいちゃんが放った猟銃によるものだという。
「傷が痒み出したと思ったら、またこの季節が来たんじゃの……」
そう言ってばあちゃんは仏壇の前に正座し、鎖骨の辺りをボリボリと掻きだした。上から見て初めて気付いたが、ばあちゃんの左の鎖骨から肩にかけて大きな傷があった。そういえば子供の頃に一緒にお風呂に入った時、左肩にタトゥーのようなものを見た記憶がある。それがこの傷跡だったのだ。
「ばあちゃん、その傷は……?」
「これはの、有希子を守ろうとした時にできた傷じゃ」
有希子とは俺の母の名だ。身重の母が銀月に襲われた時、母を守ろうとしてばあちゃんも引っ掻かれたという。じいちゃんが来るのが遅ければ、ばあちゃんも、いや俺だってこの世にいたかどうかわからない。
「俺、母さんの仇を取る」
「やめろ」
それはいつもの優しいばあちゃんの声ではなかった。
「でも……」
「やめてくれ。ワシはお前まで失いとうない」
「銀月も二十歳を越えてるんだろ。人間でいえば老人だよ。今ならやっつけられる」
「聞き分けの無い奴だな。あやつもワシと同じくもう寿命じゃ。それにあやつも大切なものを失ったんじゃ。静かに死なせてやれ」
「大切なものって?」
「…………」
それっきりばあちゃんは黙ってしまった。
「私が説明しよう」
その時、電話を終えた伯父さんが戻ってきた。
「二十年前はちょうどバブルの絶頂期だった。この村も例外ではなくてな、甘い需要予測を基にして高速道路が建設されたんだ。山を削ってな」
ある日、子熊が山から高速道路に落ちた。びっくりした子熊は斜面を駆け上がらずに道路に沿って逃げようとしたという。そしてトラックにはねられて命を落とした。実は、その子熊は銀月の子供だったというのだ。
「何台ものトラックに轢かれて子熊はぺったんこになってしまったんだ。その直後だった。村が銀月に襲われたのは……」
「そうだったのか、ばあちゃん?」
ばあちゃんは何も言わず線香に火をつけ、それを仏壇に立てるとチーンとお輪を鳴らした。
「今日は有希子とあの子熊の命日じゃ。お前の二十歳の誕生日でもあるがな……」
いつまでも消えないお輪の残音が俺の心にも鳴り響いていた。
翌日。銀月は高速道路で発見された。死体となって。目立った外傷はなく、車にはねられたのか、高速道路に落ちたためか、それとも寿命だったのか死因は誰にも分からなかった。ただ、二十年前に子熊が亡くなった場所で、銀月は冷たくなっていた。
「こんな田舎に高速道路なんぞ造るからいけんのじゃ」
ばあちゃんがポツリと口にする。
その高速道路も今年から無料になるという。末端の不採算路線を無料化するという新政権の社会実験の一環だ。これで二十年続いたこの区間の『高速道路』としての肩書きは一旦終わりになる。
「銀月の願いが届いたんじゃよ……」
そう呟くばあちゃんの声は、まるで我が子を失ったかのようだった。
即興三語小説 第55回投稿作品
▲お題:「タトゥー」「説明しよう!」「宵闇」
▲縛り:「ぽんこつヒロインが登場する(任意)」
「動物(ペット可)を登場させる(任意)」
「夕陽に向かって走る(任意)」
「視覚描写に力を入れる(任意)」
▲任意お題:「痒み」「ぺったんこ」「神様お願い!」「鎖骨」
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://tsutomyu.asablo.jp/blog/2010/05/13/5084561/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。