コーヒーハウスにて2007年10月29日 00時17分24秒

「ええっ!今から行くの?」
「ほら学園祭、まだやってるし」
「やだよ、無茶苦茶だよ先輩。じゃあねバイバイ(ガチャ)」
「おい、よう子!よう子…」
プーーー

 最悪だ。
 席に戻ると、飲みかけのコーヒーカップがかちゃりと音をたてる。黒の波紋が、俺を嘲笑っているかのようだ。テーブルの上で右手を開くと、公衆電話から戻ってきた小銭達が回り出す。こんなに十円入れて、俺は何を期待してたんだ。

 そもそも俺は、ここで美香さんを待っていた。
「美味しいコーヒーを出す店があるんですよ。三時にそこでお待ちしています」
「考えておきますわ」
 美香さんがそんな風に俺の誘いを受け流すようになって、一ヶ月になる。待合せに来なかった事はすでに二回。でも、美香さんの心が離れてしまったとは思いたくなかった。時計は四時を回っている。決定的な三連敗を認めたくない俺は、何を思ったのか気のいい後輩、よう子に電話をかけていた。

 もともと俺は、ミルクが無くてはコーヒーが飲めない。
「あら、すぐにミルクを入れてしまっては、コーヒーの香りを楽しめなくてよ」
 美香さんのそんな言葉が、頭の中で反射する。あの頃はブラックでも平気で飲めた。美香さんの笑顔とコーヒーの香り。二つがとろけあうと、世界一すてきな飲み物が誕生した。でも、今、俺の目の前に置かれているのは、胸をほろ苦くさせるだけの黒い液体。

 だったら飲み干してしまえばいいのに。
 何度もそう思う。
 でも、よう子にも振られた今、美香さんが来てくれることだけが俺の希望なんだ。美香さんに飲んでほしかったこの店のコーヒー。それが目の前から消えて無くなることが恐かった。

「先輩!来てやったよ」
 突然扉を開けたのは、よう子だった。
「はやくぅ~、学園祭終わっちゃうよーっ!」
 よう子が向かいの席に腰掛けた瞬間、テーブルに忘れられてたミルクの白い波紋がくすっと笑ったような気がした。
「そう急かすなよ」
 俺はコーヒーにミルクを注ぐと、ぐいっと一気に飲み干した。


こころのダンス文章塾 第20回「珈琲の香り(扉)」投稿作品

ダイコン2007年10月29日 00時39分31秒

「ダイコンなんて、だいっキライ!」
ブリ大根を前にして息子が叫んだ、らしい。
そんな話を妻から聞いて、ふと昔の自分を思い出す。
何を隠そう、自分もダイコンが大嫌いだった。

だいこんが食べられるようになったのは、一人暮らしを始めてから。
通っていた大学の前に、旨い小料理屋があったおかげだ。
そこのおでんを食べている時に、ふとある疑惑が湧き起こった。
自分のダイコン嫌いは、母の料理が原因だったのではないのだろうか。

疑惑を抱きながら二十年。
二世帯住宅に引っ越して七年。
ついにその疑惑が、確信に変わる日がやってきた。
謎を解く鍵は、母が作った目の前のブリ大根だ。

「こりゃ、だいこんじゃなくてダイコンだよ・・・」
思わずぼやいてしまう。
煮込みが足りず、中が白くて硬い。
ぶりの旨味がしみ込んでないから、すごく苦い。
でも、なんだろう、この不思議な感覚は。
記憶の奥底に沈んでいる何かを呼び覚ますような味だ。
これがいわゆる“おふくろの味”と云うのだろうか。

むむむ、待てよ。
”おふくろの味”という言葉を使っていいのは、
旨いものに対してなんじゃないのか?
このブリ大根は、ものすごく不味いぞ。
でも旨くならないものに対しては、使ってもいいような気がする。
だって、母の料理が日増しに旨くなって、
いつの間にか三ツ星レストラン級になっちまったら、
それは”おふくろの味”とは言えないんじゃないだろうか。

さらば”おふくろの味”と、ごみ箱を開けたところで、
妻に見つかってしまった。
「子供達は泣きながら食べたのに…」
ギロっと睨みながら、捨てたらみんなにバラすわよ、なんて、
恐ろしいことをさらりとおっしゃってくれる。
結局、明日の朝、子供達の前でブリ大根を食べることになった。

「やっぱり食べたくなーい!」
泣き叫びたい気持ちを抑えながら考える。
不味くても、おいしそうに食べる?
それとも、正直に不味そうに食べる?
自分は息子に、どんな顔を見せてしまうのだろうか。


こころのダンス文章塾 第20回記念企画「旨いもの」投稿作品