解!豚骨2010年05月29日 18時34分37秒

「響子さん、考えたよ、新しいお店の名前」
 僕は思い切って提案する。ラーメン屋のオープンを控えて、オーナーの響子さんはとても忙しそうだ。
「『解!豚骨』っていうのはどう?」
「ええ、ああ……、そうね……」
「ほら、胃にやさしいって感じが出てると思わない? あっさり味の新しい豚骨ラーメンなんだからさ」
「ああ、うん……」
 響子さんはどこか上の空だ。
「それに、『悩み解決、豚骨ラーメンはこれで決まり!』という意味もあるしね」
 ついに響子さんは生返事さえもしてくれなくなった。忙しい合間を縫って、やっと二人きりになったというのに。
「ねえ、響子さん、聞いてるの!?」
「うるさいわね、こっちは忙しいのよ。仕入れやら色んな準備やらで考えなくちゃいけないことが山ほどあるの!」
 イライラしている響子さんに、僕も少し腹が立った。
「以前の響子さんはこんなんじゃなかったよ。せっかく寝ないでお店の名前を考えたのに……」
「それが余計なお世話って言ってるの。誰もあんたに頼んでないし、それにあなたは私のお母さんでも、ましてや彼氏でもないのよ。一度キスしたからって自惚れないで!」
「……」
 僕は言葉を失った。以前の響子さんはこんなにギスギスしていなかった。確かに、最近はお店のオープンを控えて忙しいのはわかる。でも、でも、この前のキスを取り上げて自惚れるなとはあまりにも酷い。
 気がつくと僕は、その場から走り去っていた。走りながら次から次へと涙が溢れてくる。

 響子さんと最初に会ったのは、ちょうど一年前のことだった。ふらりと入った環八通りのラーメン屋台。そこで一人汗を拭いながら、ラーメンを作っていたのが響子さんだった。
 いわゆる一目ぼれというやつなのかもしれない。僕は毎週のようにその屋台に通った。通って初めて分かったのだが、響子さんのラーメンは少しずつ味が変わっていることに気がついた。
 響子さんのラーメンは豚骨味だ。昭和五十八年の東京にしては珍しい白いスープ。そのスープが、だんだんと良くなっているのだ。
 美味しくなっていますね――その一言が全く切り出せないほど僕は奥手だった。ある日僕は そのことを言うためだけに閉店後の屋台を訪れた。しかし恥ずかしくて屋台に近寄れない。電信柱の影から覗いてみると――残ったスープを使って、いろいろな調味料や材料を組み合わせて試行錯誤をしている響子さんが居た。響子さんは、新たな味を求めて日々努力をしていたのだ。
 結局その日は、「美味しいですね」が言えずに最後まで響子さんを見ているだけだった。そしてそれから、閉店後の屋台を覗き続ける日々が始まった。途中からは双眼鏡を持ち出して、加えるものが何であるのか観察するようになった。何を加えるとスープがどのように変わるのかが分かると、響子さんのラーメンを食べに行くのが益々楽しみになった。しかしそれと同時に、全く響子さんに話しかけることができない自分にやきもきする。ラーメンが美味しく感じた時はどの素材を加えた時なのか、教えてあげたくて仕方がなかった。

 そんなある日、覗きがついに見つかってしまった。閉店後の屋台を見ようといつもの場所に着くと、突然後ろから声をかけられたのだ。
「あ、あなたは…・・・、うちのお店の常連さん? 最近、なんか視線を感じると思ってたら、あなただったのね。悪いけど警察を呼ぶわよ」
「あっ、ごめんなさい、ごめんなさい。もうしませんから、許して下さい、許して下さい……」
 土下座をしながら僕はひたすら謝った。言い訳をしようなんて考えもしない。そんなことができるくらいなら、最初から彼女に声を掛けている。
「ちょっと、土下座は止めてよ」
「何でもしますから、許して下さい……」
「困ったわね。あなたはいつもラーメン食べに来てもらってるし、悪い人でもなさそうだし……。そうだ、じゃあこうするのはどう?」
 何かを提案しようとしている響子さんの表情が見たくて僕は顔を上げた。
「私のモルモットになって。そしたら許してあげる」
「モルモット……?」
「そう、実験台よ」
 こうして僕は、彼女公認で、閉店後の味の試行錯誤に付き合うことになった。

「やるからには、ラーメン界のてっぺんを目指したいの」
 響子さんはとてもポジティブな人だった。こそこそ覗き見していた自分が恥ずかしいほど。だから、彼女のモルモットとなった僕は精一杯努力することにした。
 まずはラーメンについての勉強だ。他の店も食べ歩いてみた。自分も実力を付けて、彼女と切磋琢磨できる存在になりたかった。そして、当時流行し始めていた豚骨スープと醤油味を組み合わせた醤油豚骨に目をつけ、響子さんに提案した。
「豚骨だけよりも、あっさり感があるわね。これはいけるかも」
 高評価だった。響子さんは強い興味を示してくれている。
 そして試行錯誤を繰り返した結果、豚骨がコクを出し醤油が麺に絡みつく美味しいスープが完成した。

 屋台で新しいラーメンを出すようになると、だんだんとお客が増えていった。口コミで醤油豚骨の評判が広がったようだ。半年も経つと、屋台の前に行列ができるようになった。そして一年が経とうという頃に、今度は新しいお店の話が舞い込んできた。
 そんなある日。いつものように響子さんと閉店後の試行錯誤をしていると、急に響子さんが土下座をした。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 僕は困惑した。響子さんの身の上に何かあったのだろうか? 新しいお店の話が立ち消えになったとか? それともお店のオープンを期に、僕に手を引いてほしいという提案なのだろうか?
 僕が黙って立ちすくんでいると、響子さんが僕を見上げてペロッと舌を出した。
「――って感じで、あなたが私に謝り倒したのがちょうど一年前だった。覚えてる?」
 あはっ、びっくりした。冗談だとわかって僕はほっと胸をなでおろす。
 でもそうか、もうあれから一年になるのか……
「本当はあの時、すごく恐かったのよ。だって不審な男がずっと、影から私のこと覗いていたんだもん」
 ごめんなさい、響子さん。その罪滅ぼしで僕はあなたのモルモットになりました。
「でも今はとても感謝している。あなたのおかげで素敵なスープが完成いたしました」
 再び頭を下げる響子さん。そして一向に頭を上げようとしない彼女に、僕は本当に申し訳ない気持ちで一杯になり、なんとか頭を上げてもらおうとアスファルトに膝をついた。その時――響子さんはいきなり顔を上げ、僕の頬を両手で挟むと強引に口づけをした。唇を通して、胸に暖かいものが伝わって来る。
「響子さん……」
 唇が離れると二人は見つめ合う。
「だって、こちらから土下座でもしないとキスもしてくれなさそうな感じだったから。これはご褒美よ」
 一年も一緒にいるのに、デートにも誘わない奥手の僕に痺れを切らしたのだろう。それは彼女なりのアクションだった。女性にそんなことをさせるなんて自分が本当に情けない。
 だから僕も精一杯の告白をした。
「僕は、ずっとあなたのそばにいる」
 本当は好きって言いたかったんだけど言えなかった。響子さんに「好きにはなれない」と言われるのが恐かったから。僕が一番自信を持って言えること――それはずっと響子さんを見続けることだった。
「ありがとう」
 そして僕達はまたキスをした。

 新しいお店の話が具体的になるにつれて、響子さんは格段に忙しくなった。屋台も閉めることが多くなり、会えない日が続く。そしてやっと会えたと思ったら、彼氏でもなんでもないとの宣言。『自惚れないで』とも言われてしまった。僕の心はズタズタだ。
 もう、響子さんには会わないようにしよう……
 あの時のキスはご褒美だと思えばいい。奥手で冴えない男が一生大切してもいいと思える一度きりの輝く宝物。きっと響子さんの店は流行るだろう。そして経営に長けた男性と一緒になって、ラーメン界に羽ばたいていくのが彼女に似合っているんだ。
『やるからには、ラーメン界のてっぺんを目指したいの』
 そんな彼女に、ただそばにいるだけの男は必要ない。そんなことは最初から分かっていたのに……
 でも、やっぱり響子さんの新しいお店が気になってしまい、オープン直後に僕は食べに来てしまった。店の名前は――『響子の店』になっている。
 長い列にならんでお店に入ると、カウンターとテーブル席が並んでいる。最大三十人は入れると思われる店内は、オープン直後とあって満席だ。従業員はウエイターを職人を合わせると五人くらいだろう。響子さんは――奥でラーメンの湯切りをしている。幸い、僕には気付いていない。
 無理を言って、厨房に背を向けてテーブル席に座らせてもらう。もちろん注文するのは醤油豚骨だ。運ばれてきたラーメンを一口すすると――美味い。やっぱり美味いよ、響子さん。ラーメンを食べ進めるたびに、この味を作り上げた苦労が脳裏に蘇ってくる。僕達はどこで間違ってしまったのだろう。そう考えると、ラーメン鉢がだんだんと滲んできた。そんな時、あるものが僕の目に飛び込んで来た。
 卍卍卍・解!豚骨・卍卍卍
 ラーメン鉢の内側に刻まれたその文字を見つけて、僕は思わず厨房号を振り返る。そこには汗を拭いながら満面の笑みを浮かべ、僕にグーのサインをする響子さんがいた。



即興三語小説 第57回投稿作品
▲お題:「モルモット」「てっぺん」「絡みつく」
▲縛り:「ストーカーを出す」「昭和の話にする(任意)」
▲任意お題:「卍・解!」「こちらから土下座でもしないとキスもしてくれなさそう」
「切磋琢磨」「あなたのそばにいる」