Fish Song 2.06 ― 2011年02月07日 20時48分17秒
※この作品は、リライト企画!(お試し版)に投稿した作品です。
元になった作品は、弥田さん作「Fish Song 2.0」です。
歓楽街を歩く少女は、ライブハウスのネオンサインの前で立ち止まる。そして迷いもせずに地下へと続く階段を降り始めた。
――今日は大好きな、ストリート・ムーン・マニアックのライブだから。
少女はこの日を心待ちにしていた。階段まで漏れ聞こえるギターの音が、少女の心をウキウキさせる。
そしてライブハウスの重い扉を開けると――ギーンと脳天を揺らすようなギターサウンドが少女の耳を突き抜けた。
――これだ、この感覚だ。
破壊的なサウンドとは裏腹に、少女の心は嬉しさで飛び上がりそうだった。
受付でお金を払うと、少女は観客の合い間をすり抜けて最前列に出た。そしてステージを前にして直接床に座る。ここが彼女のお気に入りの場所だ。
目の前ではクララと呼ばれるギターの女の子が、歌いながら髪の毛を揺らしている。淡い栗色に染めた肩くらいまでの髪は、ふわふわとカールしていて可愛らしい。
少女はもう夢見心地だった。スポットライトを浴びたクララが飛んだり跳ねたりして髪がふわりと揺れる度に、走っていって抱きしめたい衝動に駆られる。
「クララ!」
思わず少女は叫んでいた。クララも少女に向かって手を振ってくれる。
すると今度は目の前に大柄な男性が立ちはだかる。ベースのピラクルーだ。親指を激しく動かして、小粋なチョッパーのリズムを刻んでいる。
ベースのソロが終わると今度はドラム。両足で連打するバスドラの迫力は、お腹の底から少女を突き上げるような衝撃を与えた。
「いいぞ、アルバート・フィッシュ!」
観客からドラマーに向けて声援が飛ぶ。バンドと観客が一体となった夢の空間に、少女はすっかり酔いしれていた。
ソロパートが終わると、またクララの歌声が響く。少女がクララを熱く見ると、彼女はウインクをした。
「さあ、行こうよ」
そう言われているような気がして少女は立ち上がる。曲に合わせて体を動かすと心はだんだんと上昇する。いつの間にか少女もクララと一緒にシャウトしていた。
それは一年前のこと。
「お前はクララだ」
有鳩雨雄は、ギターの倉田羅々に向かって宣言した。
「えっ、クララ? まさか、倉田羅々(くらたらら)でクララってわけじゃないでしょうね」
「その通りだ」
「ちょっと安易じゃない? それにデスメタルに『クララ』はちょっと……」 羅々は不満そうだった。
雨雄はそれに構わず、今度はベースの平野廻の方を向く。
「そして廻は……、平野廻(ひらのめぐる)の前と後を取って、ピラクルーってのはどうだ。図体でけぇし」
「……」
無口の廻は、まんざらでもないという顔をした。
「ふん。じゃあ雨雄、今度はあんたの番ね。メンバーのニックネームを勝手に決めたんだから覚悟なさい」
「お手柔らかに頼むよ、羅々」
「そうね……、有鳩は『ありはと』だから、『アルバート』というのはどう?」
「ほお。ナイスだね」
「それで、雨雄は……、『レインマン』?」
「おいおい、『アルバート・レインマン』って、長すぎねえか」
「なによ、文句あるわけ?」
「……フィッシュ」
「廻、何か言ったか?」
「……雨雄は、『うお』と読めるから……、『フィッシュ』」
「たまには廻もいいこと言うじゃん。『アルバート・フィッシュ』、いいんじゃない、これで」
「ちょっと恐そうだけどな」
「構わないわよ、デスメタルだし」
「じゃあ、今度はバンド名だな」
そう言いながら、雨雄は各メンバーに五枚ずつ白い名刺大のカードを配り始めた。
「これに各自好きな言葉を書いて一枚ずつめくるんだ。それでバンド名を決めよう」
「なんか、レミオロメンみたいね」
「……(キュッ、キュッ)」
廻はすでにカードに言葉を書き込んでいた。
三人がそれぞれ五枚のカードを書き終わると、雨雄がそれを集め、裏返しでテーブルに広げてかき混ぜた。
「じゃあ、羅々から引いてくれ」
羅々は、ど真ん中のカードを裏返す。そこには『ストリート』と書かれていた。
「誰? このカード書いたの」
「……」
廻が静かに手を上げる。
「じゃあ、次は廻だ。一枚めくってくれ」
すると廻はテーブルの端にあるカードをめくった。
「……」
「『ムーン』か。羅々だろ、これ書いたの」
「そうよ、なんか文句ある?」
「最後は俺の番だな。それっと」
雨雄がカードをめくると、そこには『マニアック』と書かれていた。
「はははは、自分が書いたカードを選んじまうとはね。でもちょうど良かったんじゃないか、三人それぞれのカードが選ばれて」
こうして、デスメタルバンド『ストリート・ムーン・マニアック』が誕生した。
「じゃあ、次の曲は『月の海』です」
クララが曲名を告げると、ピラクルーのベースが不気味なリズムを紡ぎ始める。
「純白に頸動脈が淡く走って――」
そして、先ほどの曲とは一転したクララのダウナーボイスが、ライブハウスに響き渡る。
「赤血球に思いを馳せる――」
観客も静まり返った。ピラクルーのベースとクララのボイスだけの異様な空間。
「指先から子宮まで――」
それは静かの海に居るかの如く、クララのふわりとした髪の毛が無重力に揺れている。
「身体中をめぐるちいさな細胞――」
そしてクララが突然シャウトしたかと思うと、アルバート・フィッシュのドラムの連打が激しく会場を揺さぶる。クララは後ろに倒れこみ、あおむけに寝ころがってギターを弾き始めた。
ゴホッ、ゴホッ。
舞い上がった塵を吸い込み、咳をしながらもクララはギターを弾き続ける。埃は少女ものところにも舞い上がった。
ゴホッ、ゴホッ。
少女が咳をすると、クララが少女を見てニコリと笑った。まるで「一緒に咳をしてるね」と言わんばかりに。
ギターのソロが終わると、次はドラムのソロだった。アルバート・フィッシュは不規則にリズムを刻み始める。
ある時は三拍子、ある時は四拍子。単純化したかと思うと、複雑なリズムを紡ぎ出す。身をねじるように、もがきあがくように、そして自由奔放に。そしてドラムを叩く手が激しく踊り始め、それが絶頂に達したかと思うと静かにスティックを持つ腕を円を描くように動かした。
にやり、とアルバート・フィッシュが笑った。
『月の海』の後はラブソングだった。ストリート・ムーン・マニアックのレパートリーの中て唯一のラブソングだ。
クララは声の調子を元に戻し、アルバート・フィッシュとピラクルーが刻むエイトビートに乗せてラブソングを歌い始める。
クララの目の前にいる少女は、再び床に腰を下ろし、うっとりとその歌を聴いていた。
――そういえば私も少女の頃は、ライブハウスの一番前でこうしてラブソングを聴いていたんだっけ。
クララは昔の自分を思い出していた。家を飛び出し、繁華街をうろついた十代。キラキラと光るネオンサインに目を奪われながら、勇気が無くてそのどれにも飛び込めずにいた。その時だ。ロックのリズムが地下に続く階段から聞こえてきたのは。
――その時、わたし、あの子だった。
あの頃の私は、ボーカルのお姉さんを見上げながらあんな風になりたいと思っていた。
――その時、あの子、わたしだった。
そしてこの気持ちが伝わるようにと、熱くお姉さんを見つめていた。
――その時、ふたり、ひとりだった。
目が合うと心が繋がっているような気がした。
――その時、ひとり、ふたりだった。
自分にも歌がうたえるようになれると信じたのは、あの頃からだったんだ。
「あっ……」
驚きに思わず漏らした声は、いったいどっちが発したものなんだろう。
互いに歩み寄りはじめたその一歩目は、いったいどっちが踏み出したんだろう。
成長したクララは、いつの間にかこうしてギターを弾きながら歌をうたうようになっていた。そう、あの時のお姉さんのように。
ラブソングが終わると、クララとアルバート・フィッシュがマイクを持つ。
「今日は、ストリート・ムーン・マニアックのライブへお越しいただき誠にありがとうございます」
バンドのメンバーが深々とお辞儀をする。
「それにしても、ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁ。皆さんの真っ赤なハートの中でも、くらくらくらくら笑っていると思いますが……」
「誰がクラゲじゃあ、こらぁ」
すかさずクララがツッコミを入れる。
「ていうか、そのネタあんまり使わないでね、って言ったよね。もう」
「なんでさ、いいネタだと思うよ」
「純粋に恥ずかしいんだよ」
「いいじゃんいいじゃん。きっといつかその恥ずかしさが快感に」
「ならないならない」
「照れるな照れるな」
「照れてない照れてない」
顔を赤らめるクララは本当に可愛いと少女は思った。スポットライトを背後から浴びると、クララの髪はにふんわりと光の中に浮かんでいるように見えた。
「さっきの歌、好きなんだ。すこし私に似ている気がして」
「似てない似てない」
「もう、ちゃちゃをいれないでよ。最後まで聞いて。……だからね、別にあんたが作った歌だから、とかそんなんじゃなくて、純粋にうたいたいからうたってるんだ。これは凄いことだと思うよ。六十億人の有象無象がいて、その中からこうして集まってくれた人達がそうとは気付かないシンパシーを持っていて、そうして、こんなに狭い空間に居合わせて、さ。とんでもない確率だよね。奇跡だよね。今なら宝くじだって当てちゃいそうだ」
「……」
「……」
「……、ねえ」
「なに?」
「そのセリフ、すっごくクサいよ」
「……、ごめんなさい」
すると、会場からどっと笑いが起きた。ミラーボールの光が反射するライブハウスの中で、みんなが楽しそうに笑っている。
「ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁー」
「もう。だから言わないでってば!」
自転車にのって坂をくだる。
クララ達は昨日のライブが終わった後、打ち上げに繰り出したようだ。今頃は二日酔いで頭痛に悩まされているに違いない。
ブレーキから手を離すとスピードが全身を駆けめぐる。このまま流れて風になってしまいたいけれど、わたしの確固とした境界線がそれを許さない。許してくれない。
シンパシーという現象。共鳴。ふたつの音叉。ふたりの人間。
坂が尽きていく。すこしずつブレーキを握って、すこしずつ減速していく。スピードがほどけていく。
地平線に煙突が屹立して、もくもくと煙をふきだしているのが見える。その上で、欠けた月が刃物のように輝いている。燐光に肌がちりちり震えて、いまにも切り裂かれてしまいそうだった。
口笛を吹く。自作の歌のメロディーを。作った翌日に友達に聞かせてみせて、夜中ベッドで死ぬほど後悔した曲を。
音の連なりが脳を満たすので、わたしは何も考えないですんだ。からっぽの頭のままペダルを踏む。そのスピードがチェーンを伝わって、自転車は進む。風をきって進む。
リライト企画!(お試し版) 弥田さん作「Fish Song 2.0」のリライト作品
元になった作品は、弥田さん作「Fish Song 2.0」です。
歓楽街を歩く少女は、ライブハウスのネオンサインの前で立ち止まる。そして迷いもせずに地下へと続く階段を降り始めた。
――今日は大好きな、ストリート・ムーン・マニアックのライブだから。
少女はこの日を心待ちにしていた。階段まで漏れ聞こえるギターの音が、少女の心をウキウキさせる。
そしてライブハウスの重い扉を開けると――ギーンと脳天を揺らすようなギターサウンドが少女の耳を突き抜けた。
――これだ、この感覚だ。
破壊的なサウンドとは裏腹に、少女の心は嬉しさで飛び上がりそうだった。
受付でお金を払うと、少女は観客の合い間をすり抜けて最前列に出た。そしてステージを前にして直接床に座る。ここが彼女のお気に入りの場所だ。
目の前ではクララと呼ばれるギターの女の子が、歌いながら髪の毛を揺らしている。淡い栗色に染めた肩くらいまでの髪は、ふわふわとカールしていて可愛らしい。
少女はもう夢見心地だった。スポットライトを浴びたクララが飛んだり跳ねたりして髪がふわりと揺れる度に、走っていって抱きしめたい衝動に駆られる。
「クララ!」
思わず少女は叫んでいた。クララも少女に向かって手を振ってくれる。
すると今度は目の前に大柄な男性が立ちはだかる。ベースのピラクルーだ。親指を激しく動かして、小粋なチョッパーのリズムを刻んでいる。
ベースのソロが終わると今度はドラム。両足で連打するバスドラの迫力は、お腹の底から少女を突き上げるような衝撃を与えた。
「いいぞ、アルバート・フィッシュ!」
観客からドラマーに向けて声援が飛ぶ。バンドと観客が一体となった夢の空間に、少女はすっかり酔いしれていた。
ソロパートが終わると、またクララの歌声が響く。少女がクララを熱く見ると、彼女はウインクをした。
「さあ、行こうよ」
そう言われているような気がして少女は立ち上がる。曲に合わせて体を動かすと心はだんだんと上昇する。いつの間にか少女もクララと一緒にシャウトしていた。
それは一年前のこと。
「お前はクララだ」
有鳩雨雄は、ギターの倉田羅々に向かって宣言した。
「えっ、クララ? まさか、倉田羅々(くらたらら)でクララってわけじゃないでしょうね」
「その通りだ」
「ちょっと安易じゃない? それにデスメタルに『クララ』はちょっと……」 羅々は不満そうだった。
雨雄はそれに構わず、今度はベースの平野廻の方を向く。
「そして廻は……、平野廻(ひらのめぐる)の前と後を取って、ピラクルーってのはどうだ。図体でけぇし」
「……」
無口の廻は、まんざらでもないという顔をした。
「ふん。じゃあ雨雄、今度はあんたの番ね。メンバーのニックネームを勝手に決めたんだから覚悟なさい」
「お手柔らかに頼むよ、羅々」
「そうね……、有鳩は『ありはと』だから、『アルバート』というのはどう?」
「ほお。ナイスだね」
「それで、雨雄は……、『レインマン』?」
「おいおい、『アルバート・レインマン』って、長すぎねえか」
「なによ、文句あるわけ?」
「……フィッシュ」
「廻、何か言ったか?」
「……雨雄は、『うお』と読めるから……、『フィッシュ』」
「たまには廻もいいこと言うじゃん。『アルバート・フィッシュ』、いいんじゃない、これで」
「ちょっと恐そうだけどな」
「構わないわよ、デスメタルだし」
「じゃあ、今度はバンド名だな」
そう言いながら、雨雄は各メンバーに五枚ずつ白い名刺大のカードを配り始めた。
「これに各自好きな言葉を書いて一枚ずつめくるんだ。それでバンド名を決めよう」
「なんか、レミオロメンみたいね」
「……(キュッ、キュッ)」
廻はすでにカードに言葉を書き込んでいた。
三人がそれぞれ五枚のカードを書き終わると、雨雄がそれを集め、裏返しでテーブルに広げてかき混ぜた。
「じゃあ、羅々から引いてくれ」
羅々は、ど真ん中のカードを裏返す。そこには『ストリート』と書かれていた。
「誰? このカード書いたの」
「……」
廻が静かに手を上げる。
「じゃあ、次は廻だ。一枚めくってくれ」
すると廻はテーブルの端にあるカードをめくった。
「……」
「『ムーン』か。羅々だろ、これ書いたの」
「そうよ、なんか文句ある?」
「最後は俺の番だな。それっと」
雨雄がカードをめくると、そこには『マニアック』と書かれていた。
「はははは、自分が書いたカードを選んじまうとはね。でもちょうど良かったんじゃないか、三人それぞれのカードが選ばれて」
こうして、デスメタルバンド『ストリート・ムーン・マニアック』が誕生した。
「じゃあ、次の曲は『月の海』です」
クララが曲名を告げると、ピラクルーのベースが不気味なリズムを紡ぎ始める。
「純白に頸動脈が淡く走って――」
そして、先ほどの曲とは一転したクララのダウナーボイスが、ライブハウスに響き渡る。
「赤血球に思いを馳せる――」
観客も静まり返った。ピラクルーのベースとクララのボイスだけの異様な空間。
「指先から子宮まで――」
それは静かの海に居るかの如く、クララのふわりとした髪の毛が無重力に揺れている。
「身体中をめぐるちいさな細胞――」
そしてクララが突然シャウトしたかと思うと、アルバート・フィッシュのドラムの連打が激しく会場を揺さぶる。クララは後ろに倒れこみ、あおむけに寝ころがってギターを弾き始めた。
ゴホッ、ゴホッ。
舞い上がった塵を吸い込み、咳をしながらもクララはギターを弾き続ける。埃は少女ものところにも舞い上がった。
ゴホッ、ゴホッ。
少女が咳をすると、クララが少女を見てニコリと笑った。まるで「一緒に咳をしてるね」と言わんばかりに。
ギターのソロが終わると、次はドラムのソロだった。アルバート・フィッシュは不規則にリズムを刻み始める。
ある時は三拍子、ある時は四拍子。単純化したかと思うと、複雑なリズムを紡ぎ出す。身をねじるように、もがきあがくように、そして自由奔放に。そしてドラムを叩く手が激しく踊り始め、それが絶頂に達したかと思うと静かにスティックを持つ腕を円を描くように動かした。
にやり、とアルバート・フィッシュが笑った。
『月の海』の後はラブソングだった。ストリート・ムーン・マニアックのレパートリーの中て唯一のラブソングだ。
クララは声の調子を元に戻し、アルバート・フィッシュとピラクルーが刻むエイトビートに乗せてラブソングを歌い始める。
クララの目の前にいる少女は、再び床に腰を下ろし、うっとりとその歌を聴いていた。
――そういえば私も少女の頃は、ライブハウスの一番前でこうしてラブソングを聴いていたんだっけ。
クララは昔の自分を思い出していた。家を飛び出し、繁華街をうろついた十代。キラキラと光るネオンサインに目を奪われながら、勇気が無くてそのどれにも飛び込めずにいた。その時だ。ロックのリズムが地下に続く階段から聞こえてきたのは。
――その時、わたし、あの子だった。
あの頃の私は、ボーカルのお姉さんを見上げながらあんな風になりたいと思っていた。
――その時、あの子、わたしだった。
そしてこの気持ちが伝わるようにと、熱くお姉さんを見つめていた。
――その時、ふたり、ひとりだった。
目が合うと心が繋がっているような気がした。
――その時、ひとり、ふたりだった。
自分にも歌がうたえるようになれると信じたのは、あの頃からだったんだ。
「あっ……」
驚きに思わず漏らした声は、いったいどっちが発したものなんだろう。
互いに歩み寄りはじめたその一歩目は、いったいどっちが踏み出したんだろう。
成長したクララは、いつの間にかこうしてギターを弾きながら歌をうたうようになっていた。そう、あの時のお姉さんのように。
ラブソングが終わると、クララとアルバート・フィッシュがマイクを持つ。
「今日は、ストリート・ムーン・マニアックのライブへお越しいただき誠にありがとうございます」
バンドのメンバーが深々とお辞儀をする。
「それにしても、ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁ。皆さんの真っ赤なハートの中でも、くらくらくらくら笑っていると思いますが……」
「誰がクラゲじゃあ、こらぁ」
すかさずクララがツッコミを入れる。
「ていうか、そのネタあんまり使わないでね、って言ったよね。もう」
「なんでさ、いいネタだと思うよ」
「純粋に恥ずかしいんだよ」
「いいじゃんいいじゃん。きっといつかその恥ずかしさが快感に」
「ならないならない」
「照れるな照れるな」
「照れてない照れてない」
顔を赤らめるクララは本当に可愛いと少女は思った。スポットライトを背後から浴びると、クララの髪はにふんわりと光の中に浮かんでいるように見えた。
「さっきの歌、好きなんだ。すこし私に似ている気がして」
「似てない似てない」
「もう、ちゃちゃをいれないでよ。最後まで聞いて。……だからね、別にあんたが作った歌だから、とかそんなんじゃなくて、純粋にうたいたいからうたってるんだ。これは凄いことだと思うよ。六十億人の有象無象がいて、その中からこうして集まってくれた人達がそうとは気付かないシンパシーを持っていて、そうして、こんなに狭い空間に居合わせて、さ。とんでもない確率だよね。奇跡だよね。今なら宝くじだって当てちゃいそうだ」
「……」
「……」
「……、ねえ」
「なに?」
「そのセリフ、すっごくクサいよ」
「……、ごめんなさい」
すると、会場からどっと笑いが起きた。ミラーボールの光が反射するライブハウスの中で、みんなが楽しそうに笑っている。
「ストリート・ムーン・マニアックにはクラゲがいてさぁー」
「もう。だから言わないでってば!」
自転車にのって坂をくだる。
クララ達は昨日のライブが終わった後、打ち上げに繰り出したようだ。今頃は二日酔いで頭痛に悩まされているに違いない。
ブレーキから手を離すとスピードが全身を駆けめぐる。このまま流れて風になってしまいたいけれど、わたしの確固とした境界線がそれを許さない。許してくれない。
シンパシーという現象。共鳴。ふたつの音叉。ふたりの人間。
坂が尽きていく。すこしずつブレーキを握って、すこしずつ減速していく。スピードがほどけていく。
地平線に煙突が屹立して、もくもくと煙をふきだしているのが見える。その上で、欠けた月が刃物のように輝いている。燐光に肌がちりちり震えて、いまにも切り裂かれてしまいそうだった。
口笛を吹く。自作の歌のメロディーを。作った翌日に友達に聞かせてみせて、夜中ベッドで死ぬほど後悔した曲を。
音の連なりが脳を満たすので、わたしは何も考えないですんだ。からっぽの頭のままペダルを踏む。そのスピードがチェーンを伝わって、自転車は進む。風をきって進む。
リライト企画!(お試し版) 弥田さん作「Fish Song 2.0」のリライト作品
千年後の自動階段 ― 2011年02月05日 16時35分38秒
※この作品は、リライト企画!(お試し版)に投稿した作品です。
元になった作品は、片桐秀和さん作「自動階段の風景 ――行き交う二人――」です。
紅かった。月が。
輪郭がぼんやりしているのは、まだユウキの意識が朦朧としているからだろうか。
その紅い月は、ちぎれ雲ひとつない透き通った青空に浮かんでいた。
そしてユウキの体は、その青空の中を上昇しているようだった。
――このまま天国に行くのだろうか。
そう思ってユウキは、はっと意識を取り戻す。
――あれからどうなったんだろう?
意識を失う直前にユウキが見たのは、猛スピードで突っ込んでくる建築資材を運ぶ大型トラックのボンネット。とても避けられたとは思えない。
――きっと俺は死んだんだな。
ユウキは体を動かそうとしたが全く動かせない。体を横たえているのは、白く細長い床のような場所。手探りで形状を探ると、細長い床の片方は壁のようになっていて、もう一方は下に切れ落ちている。
まるでそれは階段のようだった。しかも、エスカレーターのように上昇している自動階段。
丸一日階段に横たわっていたユウキは、やっと体を動かせるようになった。
相変わらず月は紅い。
なんとか上半身を起こして周囲を見渡すと、ユウキが居たのはやはり階段だった。上にも下にも人が居るようだ。それよりも驚いたのは、反対側には下りの自動階段もあることだった。
二日目になると、ユウキは元通りに体を動かせるようになった。
ユウキは階段に座って紅い月を眺める。
自動階段は相変わらず上昇を続けている。反対側の下降する階段を見ていたこともあったが、乗っている人はみな同じ顔に見える上に、それがものすごいスピードですれ違うものだから気持ちが悪くなってしまった。
だからユウキはずっと月を眺めていた。なんであんなに紅いのだろうと思いながら。
すると突然自動階段が止まり、空の彼方から中性的な声が響いてきた。
『ご利用の皆様にお知らせします。ただ今、当自動階段は定期検査を行っております。七分間の停止が予想されます。お急ぎの皆様にはまことにご迷惑をおかけいたします。繰り返してご利用の皆様にお知らせします――』
――なんだよ、点検かよ。
ユウキは少しふて腐れるように反対側の下り階段を向く。案の定、下り階段も止まっていた。そしてそこに乗っていた人と顔を合わせて、思わず声を上げた。
「えっ!?」
「あっ!」
反対側の階段からも驚きの声が聞こえてきた。そこに乗っていたのは――なんとユウキと瓜二つの顔をした男性だったのだ。
「あなたも……」
「そうです、私もタイプEです」
西暦二五○○年。
人類は存続の危機に面していた。
男性が持つY染色体が、子孫を残せないほどに小型化してしまったのだ。
もともとY染色体は修復が効かない染色体だった。しかも、突然変異を繰り返すたびに小型化していった。
――このままでは人類は絶滅してしまう。
そう判断した科学者達は、Y染色体があまり小型化していない人々を選び出し、そのクローン人間を作ることで人類を存続させようと計画した。
そしてその計画の発動から五百年が経った西暦三○○○年には、人類の男性はタイプAからEまでの五種類だけになってしまったのだ。
ユウキはタイプEのクローンだった。そして反対側の階段に居た男性も同じくタイプEのクローンだった。
「珍しいですね」
「僕も同じタイプの人間に会うのは初めてです」
クローンにはAからEまでの五タイプが存在していたが、その存在比は著しく偏っていた。例えばタイプAが七○%、タイプBが二○%、という具合に段々と減っていき、タイプEはわずか○.○○○一%の存在だったのだ。
「俺は武本ユウキ」
「僕は丹羽ミキオ」
二人は何か運命的なものを感じていた。
「俺、一昨日交通事故で死んだんです」
ユウキは淡々と切り出した。
「それは、ご愁傷さまでした。痛かったですか」
ミキオが弔いの言葉を口にした。彼としても死んでいることには変わりなく、不可思議な会話とも取れるが、その表情にからかいの色は一切ない。
「いや、一瞬だからどうということも。はは、気づいたらこの変な階段に乗って上昇していました」
「そう、良かった、っていうのはおかしいな。不幸中の幸いでしたね」
ミキオもあくまで軽快な調子で話すユウキに合わせたのか、おどけた様子を見せた。
「ああ、それ、それです。俺って変なところで運が良いんですよ。あれ、この場合は運が良いとは言わないか」
コウキが頭を掻くと、ミキオは楽しそうにお腹を抱えて笑った。和やかな雰囲気が一段落すると、ミキオが静かな調子でつぶやく。
「じゃあ、僕は明後日かな」
「何がですか?」
「生まれるのが」
ああ――、とユウキは息を漏らす。
「そうか。俺が二日来た道をこれから行くわけだから、明後日生まれることになるんですね」
「ええ」
「それはおめでとう」
「ありがとう。今はとっても楽しみです」
「そうですよね」
人間界ではタイプEの男性は大変珍しいので、どこに行ってもモテモテだった。そりゃ世界の男の七○%が同じ顔をしているのだから、そうなるのは当然だ。
「俺がこれから行くところはどんなところですか? まさか地獄だったりは――」
人間界に戻るミキオに比べて、ユウキの方は不安で一杯だった。
「いや、名前は天国でした。着いた先の看板にそう書いてあったから。
でも、ある意味地獄かもしれませんね。だってこの階段は男性専用だから」
「げっ、それは難儀だな」
つまり行き着く先には、タイプAの同じ顔をした男性がうじゃうじゃ居るということだ。
「だから見てはいけないんです」
「というと……?」
「考えるんです。人類とは何なのか、ということを」
溢れんばかりの同じ顔をしたクローン人間。天国をそのような状況にしてまでも人類が存続し続ける意味は一体何なのか。
「僕はずっと考えていました。二十年くらい。そしてある日、気がつくとこの下り階段に乗っていました」
「それで答えは出たの?」
「いいえ、何も答えは出なかった」
「そうか……」
ユウキが沈黙すると、ミキオはおもむろに夜空に浮かぶ紅い月を見上げた。ユウキも自然とそれに倣う。ユウキがこの二日間ひたすらに見ていた月だ。
「ねえ、どうしてあの月は紅いんだ?」
ユウキは長らく疑問に思っていたことを口にした。答えがあるなら知りたいと思っていたが、今は何よりミキオならどう思うかが知りたかった。
「命の色なんだと思う」
「命?」
「うん、尽きた命と生まれる命。いくら取り替えが効くクローン人間だって、命に色があってもいいんじゃないかって思ったんだ」
「へえ、難しいな」
「僕にもよく分からないんだけど、死ぬことも生まれることもきっと同じくらい大切なんだってそう思った。うまく言葉に出来ないけれど、あそこで過ごした二十年で分かったような気がする」
「大切か――」
「ああ」
ユウキははっと息を呑む。一瞬意識が揺らいだ後、絶対に解けないはずの数式の答えが電撃とともに去来したように、強烈な衝撃がユウキの魂を打った。
「聞いて欲しいことがある」
そう切り出したユウキの表情は固い。強張った頬が震えると、唾をゆっくり飲み込んだ。
「おかしいな奴だって思ってくれてかまわない。だけど聞いて欲しい。ずっと君に伝えたいことがあったんだ」
どこか苦しそうにも見えるユウキに心配そうな表情を見せながらも、ミキオは深く頷いた。
「俺は君だよ。そして君は俺なんだ」
「え?」
ミキオは驚きのあまりそう言うよりなかったのだろう。それでも言葉の意味するところを、自分なりに必死に掴もうとしている。
ユウキは自分でも止められない激しい想い、けれど真摯な想いをゆっくりと言葉にしていく。
「何度も何度も、こうして俺達は出会っていたんだよ」
それを聞いたミキオが、あっ、とつぶやいた。
「僕にも分かった。僕達はここを何度も何度もすれ違っていたんだね。生まれる君と死んだ僕、死んだ君と生まれる僕。どちらか一方の世界で一緒に過ごしたことはないけれど、こうしてグルグルと入れ替わっていたんだ」
「お互いにな」
「そうだ、僕達は同じタイプEのクローンじゃないか」
「じゃあ、約束しよう。次に君が死んでもこうやってこの階段ですれ違うって」
「ああ、約束しよう」
二人は自然と右手を伸ばしあい、強く握手を交わした。
その時だった。
突然ユウキがミキオの手を強く引っ張ったのだ。そしてその勢いでミキオの体は宙を舞い、上り階段に着地した。一方、ユウキの体はミキオと入れ替わって下り階段に移動する。
「な、何を!?」
驚愕に震えるミキオ。何が起こったのかわからないという表情でユウキを見つめている。
その時、七分間停止していた自動階段が動き始めた。
「だから言っただろ。俺は君で、君は俺だって。だったら入れ替わったって変わりはしないんだ。また天国で二十年の瞑想にふけってくれ」
「くそっ、騙したな」
「もしかしたら君は、こんな感じでこの場所と天国とをずっと行き来しているのかもしれないぜ」
「そ、そんなことは……」
「ま、天国でゆっくり考えるんだな。じゃあな、またこの階段で会おうぜ。あばよ」
ユウキを乗せた階段が下っていく。あと二日我慢すれば、また人間界に戻れる。そうすれば、タイプEのクローンはモテモテの人生を歩むことができるのだ。まさか、タイプAに生まれ変わるということはあるまい……。
リライト企画!(お試し版):片桐秀和さん作「自動階段の風景 ――行き交う二人――」のリライト作品
元になった作品は、片桐秀和さん作「自動階段の風景 ――行き交う二人――」です。
紅かった。月が。
輪郭がぼんやりしているのは、まだユウキの意識が朦朧としているからだろうか。
その紅い月は、ちぎれ雲ひとつない透き通った青空に浮かんでいた。
そしてユウキの体は、その青空の中を上昇しているようだった。
――このまま天国に行くのだろうか。
そう思ってユウキは、はっと意識を取り戻す。
――あれからどうなったんだろう?
意識を失う直前にユウキが見たのは、猛スピードで突っ込んでくる建築資材を運ぶ大型トラックのボンネット。とても避けられたとは思えない。
――きっと俺は死んだんだな。
ユウキは体を動かそうとしたが全く動かせない。体を横たえているのは、白く細長い床のような場所。手探りで形状を探ると、細長い床の片方は壁のようになっていて、もう一方は下に切れ落ちている。
まるでそれは階段のようだった。しかも、エスカレーターのように上昇している自動階段。
丸一日階段に横たわっていたユウキは、やっと体を動かせるようになった。
相変わらず月は紅い。
なんとか上半身を起こして周囲を見渡すと、ユウキが居たのはやはり階段だった。上にも下にも人が居るようだ。それよりも驚いたのは、反対側には下りの自動階段もあることだった。
二日目になると、ユウキは元通りに体を動かせるようになった。
ユウキは階段に座って紅い月を眺める。
自動階段は相変わらず上昇を続けている。反対側の下降する階段を見ていたこともあったが、乗っている人はみな同じ顔に見える上に、それがものすごいスピードですれ違うものだから気持ちが悪くなってしまった。
だからユウキはずっと月を眺めていた。なんであんなに紅いのだろうと思いながら。
すると突然自動階段が止まり、空の彼方から中性的な声が響いてきた。
『ご利用の皆様にお知らせします。ただ今、当自動階段は定期検査を行っております。七分間の停止が予想されます。お急ぎの皆様にはまことにご迷惑をおかけいたします。繰り返してご利用の皆様にお知らせします――』
――なんだよ、点検かよ。
ユウキは少しふて腐れるように反対側の下り階段を向く。案の定、下り階段も止まっていた。そしてそこに乗っていた人と顔を合わせて、思わず声を上げた。
「えっ!?」
「あっ!」
反対側の階段からも驚きの声が聞こえてきた。そこに乗っていたのは――なんとユウキと瓜二つの顔をした男性だったのだ。
「あなたも……」
「そうです、私もタイプEです」
西暦二五○○年。
人類は存続の危機に面していた。
男性が持つY染色体が、子孫を残せないほどに小型化してしまったのだ。
もともとY染色体は修復が効かない染色体だった。しかも、突然変異を繰り返すたびに小型化していった。
――このままでは人類は絶滅してしまう。
そう判断した科学者達は、Y染色体があまり小型化していない人々を選び出し、そのクローン人間を作ることで人類を存続させようと計画した。
そしてその計画の発動から五百年が経った西暦三○○○年には、人類の男性はタイプAからEまでの五種類だけになってしまったのだ。
ユウキはタイプEのクローンだった。そして反対側の階段に居た男性も同じくタイプEのクローンだった。
「珍しいですね」
「僕も同じタイプの人間に会うのは初めてです」
クローンにはAからEまでの五タイプが存在していたが、その存在比は著しく偏っていた。例えばタイプAが七○%、タイプBが二○%、という具合に段々と減っていき、タイプEはわずか○.○○○一%の存在だったのだ。
「俺は武本ユウキ」
「僕は丹羽ミキオ」
二人は何か運命的なものを感じていた。
「俺、一昨日交通事故で死んだんです」
ユウキは淡々と切り出した。
「それは、ご愁傷さまでした。痛かったですか」
ミキオが弔いの言葉を口にした。彼としても死んでいることには変わりなく、不可思議な会話とも取れるが、その表情にからかいの色は一切ない。
「いや、一瞬だからどうということも。はは、気づいたらこの変な階段に乗って上昇していました」
「そう、良かった、っていうのはおかしいな。不幸中の幸いでしたね」
ミキオもあくまで軽快な調子で話すユウキに合わせたのか、おどけた様子を見せた。
「ああ、それ、それです。俺って変なところで運が良いんですよ。あれ、この場合は運が良いとは言わないか」
コウキが頭を掻くと、ミキオは楽しそうにお腹を抱えて笑った。和やかな雰囲気が一段落すると、ミキオが静かな調子でつぶやく。
「じゃあ、僕は明後日かな」
「何がですか?」
「生まれるのが」
ああ――、とユウキは息を漏らす。
「そうか。俺が二日来た道をこれから行くわけだから、明後日生まれることになるんですね」
「ええ」
「それはおめでとう」
「ありがとう。今はとっても楽しみです」
「そうですよね」
人間界ではタイプEの男性は大変珍しいので、どこに行ってもモテモテだった。そりゃ世界の男の七○%が同じ顔をしているのだから、そうなるのは当然だ。
「俺がこれから行くところはどんなところですか? まさか地獄だったりは――」
人間界に戻るミキオに比べて、ユウキの方は不安で一杯だった。
「いや、名前は天国でした。着いた先の看板にそう書いてあったから。
でも、ある意味地獄かもしれませんね。だってこの階段は男性専用だから」
「げっ、それは難儀だな」
つまり行き着く先には、タイプAの同じ顔をした男性がうじゃうじゃ居るということだ。
「だから見てはいけないんです」
「というと……?」
「考えるんです。人類とは何なのか、ということを」
溢れんばかりの同じ顔をしたクローン人間。天国をそのような状況にしてまでも人類が存続し続ける意味は一体何なのか。
「僕はずっと考えていました。二十年くらい。そしてある日、気がつくとこの下り階段に乗っていました」
「それで答えは出たの?」
「いいえ、何も答えは出なかった」
「そうか……」
ユウキが沈黙すると、ミキオはおもむろに夜空に浮かぶ紅い月を見上げた。ユウキも自然とそれに倣う。ユウキがこの二日間ひたすらに見ていた月だ。
「ねえ、どうしてあの月は紅いんだ?」
ユウキは長らく疑問に思っていたことを口にした。答えがあるなら知りたいと思っていたが、今は何よりミキオならどう思うかが知りたかった。
「命の色なんだと思う」
「命?」
「うん、尽きた命と生まれる命。いくら取り替えが効くクローン人間だって、命に色があってもいいんじゃないかって思ったんだ」
「へえ、難しいな」
「僕にもよく分からないんだけど、死ぬことも生まれることもきっと同じくらい大切なんだってそう思った。うまく言葉に出来ないけれど、あそこで過ごした二十年で分かったような気がする」
「大切か――」
「ああ」
ユウキははっと息を呑む。一瞬意識が揺らいだ後、絶対に解けないはずの数式の答えが電撃とともに去来したように、強烈な衝撃がユウキの魂を打った。
「聞いて欲しいことがある」
そう切り出したユウキの表情は固い。強張った頬が震えると、唾をゆっくり飲み込んだ。
「おかしいな奴だって思ってくれてかまわない。だけど聞いて欲しい。ずっと君に伝えたいことがあったんだ」
どこか苦しそうにも見えるユウキに心配そうな表情を見せながらも、ミキオは深く頷いた。
「俺は君だよ。そして君は俺なんだ」
「え?」
ミキオは驚きのあまりそう言うよりなかったのだろう。それでも言葉の意味するところを、自分なりに必死に掴もうとしている。
ユウキは自分でも止められない激しい想い、けれど真摯な想いをゆっくりと言葉にしていく。
「何度も何度も、こうして俺達は出会っていたんだよ」
それを聞いたミキオが、あっ、とつぶやいた。
「僕にも分かった。僕達はここを何度も何度もすれ違っていたんだね。生まれる君と死んだ僕、死んだ君と生まれる僕。どちらか一方の世界で一緒に過ごしたことはないけれど、こうしてグルグルと入れ替わっていたんだ」
「お互いにな」
「そうだ、僕達は同じタイプEのクローンじゃないか」
「じゃあ、約束しよう。次に君が死んでもこうやってこの階段ですれ違うって」
「ああ、約束しよう」
二人は自然と右手を伸ばしあい、強く握手を交わした。
その時だった。
突然ユウキがミキオの手を強く引っ張ったのだ。そしてその勢いでミキオの体は宙を舞い、上り階段に着地した。一方、ユウキの体はミキオと入れ替わって下り階段に移動する。
「な、何を!?」
驚愕に震えるミキオ。何が起こったのかわからないという表情でユウキを見つめている。
その時、七分間停止していた自動階段が動き始めた。
「だから言っただろ。俺は君で、君は俺だって。だったら入れ替わったって変わりはしないんだ。また天国で二十年の瞑想にふけってくれ」
「くそっ、騙したな」
「もしかしたら君は、こんな感じでこの場所と天国とをずっと行き来しているのかもしれないぜ」
「そ、そんなことは……」
「ま、天国でゆっくり考えるんだな。じゃあな、またこの階段で会おうぜ。あばよ」
ユウキを乗せた階段が下っていく。あと二日我慢すれば、また人間界に戻れる。そうすれば、タイプEのクローンはモテモテの人生を歩むことができるのだ。まさか、タイプAに生まれ変わるということはあるまい……。
リライト企画!(お試し版):片桐秀和さん作「自動階段の風景 ――行き交う二人――」のリライト作品
河のほとりにて ― 2011年02月04日 22時15分09秒
※この作品は、リライト企画!(お試し版)に投稿した作品です。
元になった作品は、紅月セイルさん「孤高のバイオリニスト」です。
「静かに時間が通り過ぎます――」
夜のレッスンを終えた鷹斗が隅田川のほとりを歩いていると、川の方から女性の歌声が聞こえてきた。
――なんて美しい歌声なんだろう。
耳を傾けながら鷹斗が川の方に近づくと、不意に歌が止まる。
「誰? タカさん? 孝彦さんなの?」
どうやらその女性は、鷹斗と別の男性を間違えたようだ。しかし、同じ「タカ」という名前を呼ばれて鷹斗はドキリとして立ち止まる。
「孝彦さんじゃないのね……」
気落ちした女性のため息に、鷹斗は軽い罪悪感を感じていた。
「ゴメンなさい、歌の邪魔をしてしまって。あまりにもあなたの歌声が美しかったので」
「いいの、気にしないで。私が勝手に間違えただけだから」
そして二人の間に沈黙が広がる。ボーと汽笛を鳴らして、隅田川を船が通り過ぎていった。
「さっきの唄……」
「えっ?」
「先程あなたが歌っていた唄、僕も知ってます」
そう言いながら、鷹斗は抱えていたケースを地面に置くと、その中からバイオリンを取り出した。先程までレッスンで使っていた愛用品だ。
そしてバイオリンを顎に挟むと弓を構え、うろ覚えであったが女性が歌っていた唄のイントロを弾き始めた。
美しいバイオリンの音が、夜の川辺に響き渡る。
水面のさざなみ、橋を行き交う車の騒音、それらの喧騒をすべて打ち消してしまうほどの圧倒的な音色だった。
「…………」
いつまで経っても歌い始めない女性に、鷹斗は弓を動かす手を止めた。
「うっ……、ううっ……」
どうやら女性は泣いているようだ。
「どうなさったんですか?」
鷹斗はポケットからハンカチを取り出し、すすり声に向かって差し出す。
「ごめんなさい。ありがとうございます。この唄は孝彦さんが好きだった唄……なんです。あなたの美しい演奏を聴いたとたんに、あの頃を思い出してしまって……」
そして女性はゆっくりと話し始める。
「ちょうど十二年前のことです。詳しくは話せませんが、私達は別れ別れになってしまいました。その時私は、彼に手紙を残したんです。永代橋が見える場所で、また会いましょうと」
水面には、青くイルミネーションに光る永代橋が揺れている。そう、それは鷹斗が渡したハンカチの色のように。
「十二年経ってこの場所もすっかり変わってしまいました。もしかしたら、孝彦さんは迷っているのでしょうか?」
「そうかもしれませんね。だったらまた歌いましょうよ。きっとあなたの歌声を聞いて、孝彦さんもこの場所が分かるに違いありません」
鷹斗はそう言うと、再びバイオリンを弾き始めた。そしてそれに続くように女性も歌い始めた。
「誰?」
遠くで男性の声がして、鷹斗は演奏を止めた。
「孝彦さん! やっぱり来てくれたんだ……」
歓喜で声が震える女性に、鷹斗は声をかける。
「よかったですね。孝彦さんが来てくれて」
「ええ、もう思い残すことはありません。これでやっと成仏することができます。どなたか知りませんが、本当にありがとうございました」
そう言う女性の声が次第に遠ざかっていった。
「えっ、えっ、どういうことなんです? 成仏って……」
困惑する鷹斗の元に、先程の男性が駆けてきた。そして息を切らしながら鷹斗に問いかける。
「君がさっき弾いていた曲って?」
鷹斗は何て答えたらいいのか分からなかったが、正直に話すことにした。
「先程までここに女性が居て、その方が歌っていたんです」
「えっ、女性がここに居たんですか? それはどんな方でした?」
「御免なさい。僕は目が見えないので……」
鷹斗は顔を上げて、男性の方を向く。孝彦と思われるその男性は、鷹斗を見て驚きの声を上げた。
「あなたは……、もしかして先日のコンクールで優勝した盲目のバイトリニストの……」
「そうです。西条鷹斗と申します」
鷹斗は孝彦に向かってお辞儀をした。
「今日は多恵子の十三回忌なんです」
「そうだったんですか……」
隅田川のほとりに二人で座り、孝彦は鷹斗に語り始めた。
「十二年前の今日、多恵子はこの場所で身を投げたんです。一通の手紙を残して」
「…………」
きっと多恵子さんはこの場所でずっと孝彦のことを待っていたのだと鷹斗は思う。
「多恵子は何か言っていましたか?」
「あなたの姿を見れて心残りが消えたと」
「そうですか……」
孝彦は少し考えた後、遠慮がちに口を開いた。
「世界的なバイオリニストにお願いをするのは大変恐縮なのですが……」
孝彦は鷹斗を見る。
「先ほどの曲をもう一度弾いていただけないでしょうか?」
「ええ、喜んで」
そして鷹斗は、静かに『精霊流し』を弾き始めた。
リライト企画!(お試し版):紅月セイルさん「孤高のバイオリニスト」のリライト作品
元になった作品は、紅月セイルさん「孤高のバイオリニスト」です。
「静かに時間が通り過ぎます――」
夜のレッスンを終えた鷹斗が隅田川のほとりを歩いていると、川の方から女性の歌声が聞こえてきた。
――なんて美しい歌声なんだろう。
耳を傾けながら鷹斗が川の方に近づくと、不意に歌が止まる。
「誰? タカさん? 孝彦さんなの?」
どうやらその女性は、鷹斗と別の男性を間違えたようだ。しかし、同じ「タカ」という名前を呼ばれて鷹斗はドキリとして立ち止まる。
「孝彦さんじゃないのね……」
気落ちした女性のため息に、鷹斗は軽い罪悪感を感じていた。
「ゴメンなさい、歌の邪魔をしてしまって。あまりにもあなたの歌声が美しかったので」
「いいの、気にしないで。私が勝手に間違えただけだから」
そして二人の間に沈黙が広がる。ボーと汽笛を鳴らして、隅田川を船が通り過ぎていった。
「さっきの唄……」
「えっ?」
「先程あなたが歌っていた唄、僕も知ってます」
そう言いながら、鷹斗は抱えていたケースを地面に置くと、その中からバイオリンを取り出した。先程までレッスンで使っていた愛用品だ。
そしてバイオリンを顎に挟むと弓を構え、うろ覚えであったが女性が歌っていた唄のイントロを弾き始めた。
美しいバイオリンの音が、夜の川辺に響き渡る。
水面のさざなみ、橋を行き交う車の騒音、それらの喧騒をすべて打ち消してしまうほどの圧倒的な音色だった。
「…………」
いつまで経っても歌い始めない女性に、鷹斗は弓を動かす手を止めた。
「うっ……、ううっ……」
どうやら女性は泣いているようだ。
「どうなさったんですか?」
鷹斗はポケットからハンカチを取り出し、すすり声に向かって差し出す。
「ごめんなさい。ありがとうございます。この唄は孝彦さんが好きだった唄……なんです。あなたの美しい演奏を聴いたとたんに、あの頃を思い出してしまって……」
そして女性はゆっくりと話し始める。
「ちょうど十二年前のことです。詳しくは話せませんが、私達は別れ別れになってしまいました。その時私は、彼に手紙を残したんです。永代橋が見える場所で、また会いましょうと」
水面には、青くイルミネーションに光る永代橋が揺れている。そう、それは鷹斗が渡したハンカチの色のように。
「十二年経ってこの場所もすっかり変わってしまいました。もしかしたら、孝彦さんは迷っているのでしょうか?」
「そうかもしれませんね。だったらまた歌いましょうよ。きっとあなたの歌声を聞いて、孝彦さんもこの場所が分かるに違いありません」
鷹斗はそう言うと、再びバイオリンを弾き始めた。そしてそれに続くように女性も歌い始めた。
「誰?」
遠くで男性の声がして、鷹斗は演奏を止めた。
「孝彦さん! やっぱり来てくれたんだ……」
歓喜で声が震える女性に、鷹斗は声をかける。
「よかったですね。孝彦さんが来てくれて」
「ええ、もう思い残すことはありません。これでやっと成仏することができます。どなたか知りませんが、本当にありがとうございました」
そう言う女性の声が次第に遠ざかっていった。
「えっ、えっ、どういうことなんです? 成仏って……」
困惑する鷹斗の元に、先程の男性が駆けてきた。そして息を切らしながら鷹斗に問いかける。
「君がさっき弾いていた曲って?」
鷹斗は何て答えたらいいのか分からなかったが、正直に話すことにした。
「先程までここに女性が居て、その方が歌っていたんです」
「えっ、女性がここに居たんですか? それはどんな方でした?」
「御免なさい。僕は目が見えないので……」
鷹斗は顔を上げて、男性の方を向く。孝彦と思われるその男性は、鷹斗を見て驚きの声を上げた。
「あなたは……、もしかして先日のコンクールで優勝した盲目のバイトリニストの……」
「そうです。西条鷹斗と申します」
鷹斗は孝彦に向かってお辞儀をした。
「今日は多恵子の十三回忌なんです」
「そうだったんですか……」
隅田川のほとりに二人で座り、孝彦は鷹斗に語り始めた。
「十二年前の今日、多恵子はこの場所で身を投げたんです。一通の手紙を残して」
「…………」
きっと多恵子さんはこの場所でずっと孝彦のことを待っていたのだと鷹斗は思う。
「多恵子は何か言っていましたか?」
「あなたの姿を見れて心残りが消えたと」
「そうですか……」
孝彦は少し考えた後、遠慮がちに口を開いた。
「世界的なバイオリニストにお願いをするのは大変恐縮なのですが……」
孝彦は鷹斗を見る。
「先ほどの曲をもう一度弾いていただけないでしょうか?」
「ええ、喜んで」
そして鷹斗は、静かに『精霊流し』を弾き始めた。
リライト企画!(お試し版):紅月セイルさん「孤高のバイオリニスト」のリライト作品
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