茜の中のアオの少女2022年05月19日 21時19分57秒

 僕は知らなかった。
 登校中、毎日のように眺めていた裏山に。
 何もないと初めから諦めていた高校の裏山に。
 こんなにも美しい場所があったなんて。
「ほら、私の言った通りでしょ?」
 放課後、この場所を案内してくれた幼馴染の夕陽崎茜(ゆうひざき あかね)はそっと僕の手を握る。そんな彼女の勇気に鈍感になってしまうほど、僕は目の前の景色に心を奪われていた。
 林の中にひっそりとたたずむ溜池。
 土手によって溜められた二十五メートルプールくらいの水面が、キラキラと光る木漏れ日を浴びて見事な青色に輝いているのだ。
「まるで青い池じゃないか……」
「青い池?」
「そういう名所があるんだよ北海道に。僕も行ったことはないけど」
 死ぬまでには必ず行きたい場所。
 駅の観光ポスターを見たとき、その魅惑的な青色に運命を感じたんだ。これは絶対、自分が行くべき場所なのだと。だからすぐにネットで検索し、スマホの画面に表示される美しい映像を確固たる決意として心のスクリーンに定着させてきた。
 そんな夢にまで見た景色が今、目の前に広がっている。
「私が見つけたんだからね。他の人には内緒だよ?」
 ここに辿り着くまでいくつも畑を越え、林の中の小路を登ってきた。おそらくほとんどの生徒は知らないだろう。
「もちろんだよ」
 僕は手を握り返し、二人の秘密をこの場所に誓う。心からの感謝と共に。
 それにしても、ただの溜池がこれほどまでに美しく青色に輝くことがあるのだろうか。いや、現実に目の前に存在しているのだから、北海道の青い池と同じメカニズムが偶然にもこの場所で起きているのだろう。
 すると不思議なことが起きた。水面を覆っていた青色がぷるんと揺れたかと思うと、細かな粒子となって水面から数センチほど浮き上がったのだ。いや、違う。元々細かな粒子が水面を覆っていて、それが急に動き出したと表現した方がいい。キラキラと光る渦巻となった青き微粒子は、細い空気の流れとなって茜の鼻の穴から彼女の体の中に吸い込まれていった。
 それは一瞬の出来事だった。
「大丈夫か? 茜!?」
 僕は繋いでいる手を開放し、立ったまま目をつむる彼女の肩を掴む。何も反応しない茜は気を失っているようだった。
「おい! 茜! 茜っ!?」
 強く肩を揺さぶる。すると彼女はゆっくりと目を開けたのだ。
「あなたは……風野透(かぜの とおる)くんね」
 瞳の奥には、茜とは全く異なる人格がいた。

「あなたを視界に捉えたとたん、この体の脳の副腎髄質からノルアドレナリンが分泌されて大脳皮質の『風野透』という言葉と結びついた。だからあなたは風野透くん。間違ってないでしょ?」
 僕は大声で叫びたかった。お前は誰なんだと。
 しかし涼しい顔で難しい単語を次々と発する艶やかな唇に、不覚にもドキリとする。
 茜の顔なのに茜とは完全に異なる振る舞い。そのギャップはなにかすごく新鮮だった。
「そしてこの体は夕陽崎茜。大脳皮質の一番深いところにその単語が刻まれている」
 そう言いながら彼女は茜の体を見回している。
 全く掴めない状況、茜の中にいる得体の知れない存在、訊きたいことが山ほどありすぎて言葉が出てこない。
「き、君は……?」
 かろうじて口から出たのは、質問とは呼べぬような呟きだった。
「私はアフェクティブオキシジェン(Affective Oxygen)。知性を持った酸素分子ってところね。頭文字をとってAO(アオ)って呼んでもらっていいわ」
「酸素分子……?」
 理解できない。
 酸素分子が知性を持ってるなんて、十七年の僕の人生の中でも初めて聞く知見だ。
「そう、酸素分子よ。だから心配しないで、健康には何も害は無いから。ただし、私が中にいる間は彼女のすべてをコントロールさせてもらうけどね」
 酸素分子だから人間の体をコントロールできる。理解できそうだけど承服できない怪奇現象だ。
 すると目の前の少女は伏せ目がちにふっと溜息をついた。
「やっぱり疲れるわね。脳内を解析しながら体をコントロールするのは」
 少しよろけながら僕に体を預けてきたのだ。
「ちょ、ちょっと……」
「離脱するからちゃんと体を支えていてあげてね」
「いやいや待ってよ。離脱って?」
「文字通り離脱よ。この体から離れるの。いきなり脱力するから気をつけて。ほら、腕でしっかりと彼女の体を支えてあげるの」
 強い口調に気圧され、僕は慌てて彼女の背中に手を回す。何があっても茜が倒れてしまわないように。
「そうそう、そんな風にね。抱きしめる感じで」
 幼稚園の頃から見慣れてきた茜の体。だから誰よりも知っていると思っていた。
 が、実際に触れてみて驚く。
 華奢な肩、甘い香り、そして制服越しでも分かる胸の柔らかさ。幼稚園や小学校の頃からは全く想像できない高校生の茜がそこにいた。身長だって一六◯センチだ。一七◯センチになった僕は、そんな茜のことを何も知らなかった。
「じゃあ、またね」
 ドキドキと鼓動が高鳴る僕をよそに、茜の鼻から青い微粒子が放出される。刹那、彼女の全体重が僕の腕にのしかかってきた。
 重い。女性に対してこんなことを言うのもなんだけどすごく重い。意識のない人を支えるのってこんなにも大変なものとは思わなかった。
「うーん……」
 倒れないようにとぎゅっと抱きしめた瞬間、茜の人格が戻ってくる。
「えっ、ええっ!? ちょっと何やってんのよ。エッチ! 透のバカっ!」
 思わず背中に回した手の力を緩める。その隙を見逃さず、茜は僕の手を振りほどいた。
「今はダメ。もっとロマンチックな時だったらいいけど……って、あれ? 青い光が消えてる……」
 溜池を見るとすでに光は失われている。アオもどこかに行ってしまったようだ。
 知性を持つ酸素分子、アオ。そんなものが存在するなんて誰が信じるだろうか。
 今さっきこの場所で起きたことを、僕は茜に話せずにいた。

 *

「ふん、ふふん……」
 次の日の朝、一緒に登校する茜はなぜか上機嫌だった。柄にもなく鼻歌なんて歌っている。
「今日も一緒に行こうよ、あの青い池に」
 恥ずかしそうに向けてくる上目遣い。それで僕は理解した。茜はなにか勘違いしてる。
 が、それは僕にとっても好都合だ。またアオに遭いたい。それには茜と一緒にあの場所に行く必要があった。
「わかった」
「じゃあ、放課後に昇降口でね。ところで透って花粉症?」
 いきなり何を訊いてくるのだろう。今はもう五月だ。花粉症の時期はとっくに過ぎている。
「違うけど?」
「昨日からなんか鼻がムズムズするのよね。ほら花粉症って一年中あるって言うじゃない」
 確かに。スギやヒノキ以外の花粉症の可能性が――っていやいやそうじゃないだろ。
 僕は思い出す。昨日アオが出入りした場所は彼女の鼻だった。
「じゃあ花粉症かもね」
 僕がうそぶくと、彼女は不思議な話を始めたのだ。
「青い池でそんな花粉が飛んでたのかな? そういえばあそこで私、変なこと思い出したんだよね」
「それって?」
「自分の名前の由来を両親から聞いた時のこと。そして透の名前を初めて覚えた時のこと。なんでだろうね?」
 なんでだろうって、そりゃ、あの時だよ。
 確かアオは昨日、茜の脳内から二人の名前を探り当てていた。もしかしたらそれが『思い出した』出来事として茜の意識に刻まれたんじゃないだろうか。茜には言えないけど。
「なんか授業でそんなことやったんじゃない? 現代文か歴史とかで名前に関する話があったとか?」
 またもや適当に答えてみる。
 茜とはクラスが違う。彼女がどんな授業を聞いたなんて分からないから適当なことなら何でも言える。
 すると茜は「うーん、そうかもね」と頷いた。

 放課後。二人で裏山の溜池に行くと、水面は今日も青く輝いていた。
「すごく綺麗だよね、ここ……」
「ああ」
 二人で並んで土手の上から池を眺める。すると茜は恥ずかしそうに僕の手を握ってきた。
 僕も彼女の手を握り返す。またアオと話したいと願いを込めて。
 願いが通じたのか、立ち上がる青の微粒子は昨日と同様に渦を巻きながら茜の鼻の中に吸い込まれていった。
「今日はノルアドレナリンがドバドバね。一体何をしたのよ、少年は」
 アオの第一声は、またもや茜の脳内解析についてだった。
 少年と呼ばれた僕は、思わず丁寧な口調で話し始めてしまう。
「それは、僕たちが手を繋いでいるからです」
 するとアオは握った手を引っ込める。
「本当だわ。ノルアドレナリンの分泌量も減った。しかし手を繋ぐっていいものね」
 他にもあんなことやこんなこともあると言ってみたい。でもそれは僕にとっても未体験ゾーンだし、そもそも茜の体を勝手に使うなんて失礼極まりなく、後で知られたら怒られること間違いなし。
 だから真面目な話題に変えてみる。
「アオさんって酸素分子なんですよね。酸素分子は無色って習いました。でもなんでアオさんは、あんなに綺麗に青色に光ってたんですか?」
 これは純粋な興味だ。
 そのメカニズムが分かれば、本家本元の青い池の参考にもなるだろう。
「それはね、レイリー散乱のおかげなの」
 レイリー散乱?
 また難しい言葉が彼女の口から飛び出した。やっぱりこの存在は茜ではない。
「少年は可視光の波長ってどれくらいだか知ってる?」
 話の内容が全く分からない。
 難しいことを口にする茜はちょっと魅力的だったけど、ここまで理解できないと自分が嫌になる。
「何ですか? そのカシコーって?」
「カシコーじゃなくて可視光よ。目に見える光のことで、三八〇ナノから七八〇ナノメートルが波長なの」
 もう諦めた。どうせ分からないんだったら難しい文学や漢詩でも聞いていると思えばいいんだ。
「この波長よりも小さな粒子に光が当たるとレイリー散乱が起きるんだけど、青い光ほど周囲に散らばるのよ」
 楽しそうに話を続ける茜の中の存在。
 こうしてじっくり眺めてみると、茜って結構可愛いと思う。
 少し垂れめの二重の大きな瞳。柔らかそうな丸めの頬に、唇も少し厚めな感じが特徴だ。
「一方、酸素分子の大きさは〇・三五ナノメートル。可視光の波長の千分の一以下だから、大気中でレイリー散乱が起きて空が青く見えるの」
 なんとなく分かってきた。
 茜ってすごく女性的な容姿なんだ。だからいつものバカ話はギャルっぽく見えてしまう。でも難しい話を楽しそうに話す瞳の輝きは、新鮮で魅力的に感じてしまうんだ。
「ねえ、わかった? 私たち酸素分子が青く光るメカニズム」
「え? えっ……」
 まずい、全く聞いていなかった。
 青く光るメカニズム? いやいや全然わからない。だから僕は適当なことを言ってみる。
「じゃあ、赤い光はどこに行っちゃったんですか?」
 青と来たら対は赤だろう。カスタネット、ゲーム機のコントローラー、童話の鬼だってそうだ。
 しかしこの言葉がアオの解説心に火をつけてしまう。
「おっ、いいところに気がついたね少年。じゃあ、赤い光と青い光の違いを説明するよ」
 しまった藪蛇だ、と思いきや
「スキーで例えるとね、青い光がモーグラーで赤い光が基礎スキーヤーなの」
 ん? ちょっと分かりやすくなったかも?
「そして私たち微粒子がジャンプ台。じゃあ、青い光が私たちに出会うとどうなる?」
 えっと、青い光がモーグラーで微粒子はジャンプ台だから
「ジャンプする」
「そう、バックフリップとかコークスクリューとかやっちゃうのよ。青いウエアーを見せびらかしながら派手にね」
 まあ、そうだろう。モーグラーだったら間違いなくメイクする。
「じゃあ、赤い光はどうすると思う? 少年」
「赤い光も……ジャンプする?」
「しないわよ、基礎スキーヤーなんだから。ジャンプ台なんて避けて、さっさと先に行っちゃうの」
 まあ、言われてみたらそうなのかもしれない。
「青い選手ばかりがジャンプする。するとゲレンデはどういう風に見える?」
「青く染まる」
「そう。それが空が青かったり、青い池が美しく光るメカニズムなの」
 へえ、なんか分かったような、分からないような……。
 ここで僕ははたと思う。そもそも赤い光の話だったんじゃないか――と。
「で、赤い光はどこに行っちゃったんですか?」
「それについては明日ね。なんか疲れてきちゃった。明日は茜ちゃんを海に連れてきて。そこで説明してあげるから。じゃあね……」
「ちょ、ちょっと!」
 いつもいきなりなんだから、と憤る間もなく僕は茜を抱きしめる。
 アオは今日も、脱力する茜を残して鼻から空に去って行った。

 *

「どうしたの透。急に海に行こうだなんて」
「暖かくなってきたし、ちょっと潮風に当たりたくなってね」
 僕たちが住む町は海に面している。
 自宅から二十分ほど自転車を走らせれば、そこはもう海なのだ。
「久しぶりだね、透と海に行くの。透は覚えてる? 幼稚園の頃、家族でよく行ってたこと」
「ああ」
 と返事をしてみたものの、実はよく覚えていない。
 両親からは僕と茜の微笑ましいエピソードを山ほど聞いているのだが。
「それよりも花粉症は大丈夫?」
 今日は僕からの一方的なお願いで、一緒に川沿いのサイクリングロードを自転車で走っている。花粉症がひどくなったら申し訳ない。あれが花粉症だったらの話だけど。
「うん、今は大丈夫。昨日はちょっと鼻がムズムズしたけどね」
 やはり花粉症じゃないのかな。昨日もアオは茜の鼻を通過していた。
「そうそう、昨日も不思議な夢を見たの。透と一緒にスキーに行く夢。透はガシガシとコブを滑っててさ、途中でジャンプするわけ。透もあんなことできるんだね、カッコよかったよ」
 いやいや、出来るわけがない。それはアオの妄想の世界の話だから。
 でも脳内世界とはいえ、アオが僕のことを華麗にジャンプさせてくれたのは嬉しかった。
 そんな話をしているうちに海に到着する。子供の頃からよく訪れた海岸だ。
 アオのリクエストだから海に来てみたのだが、ちゃんと待ってくれているのだろうか。海が青く光っているわけでもないし。それどころか太陽はその高度を下げつつあり、海は赤く染まろうとしている。
「なつかしいね、この場所」
「ああ」
 茜と一緒に、海が見える草地に腰を下ろす。
 髪を揺らす潮風。ザザーと揺らぎを持った波音の繰り返し。今日は本当に暖かくて心地いい。すると僕は突然、眠気に襲われてしまったんだ。


「とおるはしってる? なんでわたしのなまえが、あかねっていうのか」
「しらないけど」
「それはね、ここでみれるゆうひが、とてもきれいだからなんだって」
「へえ」
「それでね、ゆうひがきれいなときは、ちゅーするんだよ」
「ちゅー?」
「いいから。とおるは、めをとじてて」
「…………」
「もう、あけてもいいよ」


 ゆっくりと目を開ける。
 どうやら眠ってしまっていたようだ。茜の膝の上で。
 それにしても懐かしい夢だった。あの出来事は幼稚園の頃だっただろうか。
 それよりもなんだか鼻がムズムズする。僕も花粉症になっちゃったのかも――と思ったところで自分が置かれた状況に改めて気づく。
「ええっ、膝の上!?」
 慌てて起き上がろうとすると、茜に押さえつけられてしまった。
「もうちょっと横になってて欲しいかな少年。今、膝枕のデータを収集しているところだから」
 茜の体を支配しているのはアオだった。僕は膝枕されたまま彼女の顔を見上げる。
「来ないかと思ったよアオは。だってここには青く光る場所なんてないじゃないか」
 アオは呆れた表情で僕を見下ろす。
「私は酸素分子なのよ。どこにだって移動できるし、青く光る必要だってないんだから」
 そう言われればそうなのかもしれない。
「それに約束したでしょ?」
 アオは前を向く。僕も彼女が見つめる海に目を向けた。
 太陽が沈もうとしている空は、見事に赤く染まっていた。

「今、見えてる太陽の光はね、遥か西の昼下がりの地域とか、そういういろいろな空を通過して来た光なの」
 夕陽の方角は西だ。西にどんどん進んでいけば、まだ昼下がりの地域になるのだろう。
「昨日は青と赤のスキーヤーの話をしたよね。青のモーグラーと赤の基礎スキーヤーの話」
「ああ、覚えてる」
「じゃあ、青のモーグラーはジャンプ台でどうする?」
「ジャンプする」
「そう、それが昼下がりの地域の空の色。じゃあ、赤の基礎スキーヤーは?」
「ジャンプしない」
「だから遠くまで滑ることができるの」
 そうか、そういうことなのか。
 昼下がりの地域で青はジャンプしてしまい、遠くまでやって来ない。代わりにやって来るのは赤のスキーヤーなのだ。
「それで夕焼けは赤いのか」
「そうよ。分かった?」
 空が青い地域があるから、その先に赤い地域もある。まさか両者が一体になっているとは思ってもいなかった。
「よく分かったよ。ところでそろそろ起き上がっていい?」
 膝枕のデータは取得できたのだろうか。
 しかしアオは、驚くべきリクエストを口にしたのだ。
「その前に……キスしてもいい?」

 ――キスしてもいい?
 そのリクエストに答えるならば、僕は茜とキスすることになる。いや、中身はアオなんだから僕がキスするのはアオ?
「膝枕のデータはとても興味深かったわ。ゆったりと心が満たされることがよくわかった。だったら最後にキスのデータも取りたいの」
「最後に?」
 確かにアオはそう言った。まるで別れが迫っているように。
「この世界には不幸にも色を失っている地域がある。そこに青や赤の輝きを与えることが私の使命。だからこれ以上、ここには留まれない」
 そこまで言われたら引き留めることは出来ないだろう。そもそも酸素分子なんだから、引き留めること自体が不可能だ。
 もっとアオと話をしてみたかったけど、それは僕個人の事情でしかない。
 しかしそれとキスとは別だ。
 なぜなら、僕にとってはファーストキスなのだから。
「ごめん……僕はアオとはキスできない」
「どうして? 少年は茜ちゃんのこと大切に思ってるじゃない?」
「でも、今の中身はアオだ」
「じゃあ、中身も茜ちゃんになってあげる。私は彼女の大脳皮質や海馬の情報を読み取ることができる。そこから少年に対する気持ちも記憶も復元することができる。それってもう、茜ちゃん自身でしょ?」
「…………」
 それは違うと思う。
 だけど、なぜ違うのかを言い返すことができない。
 気まずく感じた僕は、沈黙を守りながらアオから視線を外した。
「わかったわ。じゃあ、おでこにキスしてくれる? 別れの挨拶に」
「それだったら……」
 僕は体を起こし、草地に座ったままアオと対峙する。
 ――これからキスをする。
 たとえそれがおでこだとしても、僕にとっては初めての体験だ。
 ドキドキと胸の鼓動が高鳴る。震える手を彼女の両肩に置いて、ゆっくりと体を引き寄せた。
 アオは興味津々で僕を見上げている。
「め、目をつむって欲しい。恥ずかしいから」
「そうなの?」
 くすくすと笑うアオは、ゆっくりと目を閉じる。
「キスしたらお別れだからね。倒れないようにちゃんと抱きしめてあげるんだよ」
「わかった」
 僕はそっと彼女のおでこにキスをする。
 刹那、茜の体から力が失われた。

 今日は本当に夕陽が綺麗だ。
 僕は草地に座ったまま、茜の上半身を抱きしめる。
 華奢な肩、甘い香り、柔らかな女の子の体。すると「うーん」と意識を取り戻した茜は僕を拒否することなく、吐息まじりに小さくささやいた。
「このままでいいよ、透」
 体を離そうとする僕の背中に、茜は手を回してくる。
「夕陽が綺麗ね。だからもっとぎゅっとして……」
 夕陽が大好きな茜。だって彼女の名前の由来だから。
 先ほど見た夢で再認識した。僕たちはずっと昔からここに居たんだ――と。
 懐かしい景色。腕の中にある大切な存在。絶対失ってはいけない人なんだ茜は。だからもう、他の誰かに乗っ取られて欲しくない。
 僕は強く彼女を抱きしめる。
「ありがとう。幼稚園の時のことを思い出してくれて。私ね、あの時からずっと透のことが好き」
「僕も大切に思ってる」
「あの時は透が目をつむったから、今度は私が目をつむるね」
 僕はゆっくりと体を離す。
 茜は目を閉じたまま、静かに僕を待ち続けていた。
 唇を唇に近づける。僕のファーストキス。唇が合わさった瞬間、熱いものが体を駆け抜けた。
「大好きだよ、茜」
「私も」
 狂おしい感情に導かれ、僕は茜のことを抱きしめた。すると彼女は小さく耳元で囁いたのだ。
「これでもう、思い残すことはない……」
「えっ?」
 驚いた僕は体を離し、彼女を見つめる。
「キスってこんなに素晴らしいものなのね。世界中の人がキスをしたら戦争なんて無くなるのに。キスを忘れた人が戦争を始めるってよく分かったわ。それを教えてくれてありがとう。これで私は行くことができる」
「それって……」
「じゃあね少年。君のことは絶対忘れないよ」
 すると茜の鼻から青い光が空に向かって放たれていく。
 呆然としながら、僕はそれを眺めることしかできなかった。

「うーん……」
 しばらくすると茜が意識を取り戻す。
 僕は彼女の体を支えたまま、思わず失礼な質問をしてしまった。
「お前、本当に茜か?」
「疑うなら、透のお尻のホクロの位置を当ててみてもいいけど?」
「いや、アオだってそれくらいできるぞ。茜の記憶を覗くことができるんだから」
 でもそんなことをアオにはして欲しくない。僕のお尻の記憶を覗き見るなんて。
 すると茜はニヤリと笑う。
「だったら私のこと、アオちゃんだと思ってくれててもいいよ」
「えっ?」
「だって魅力的に感じてたんでしょ? アオちゃんのこと」
 挑戦的な眼差しで僕のことを見つめる茜。
 それは茜であり、アオでもあった。
「茜は……アオのこと知ってたのか?」
「もちろんよ。だって体の中に入って欲しいって頼んだの、私だもん」
 俺は知る。事の経緯を。
「あれは一ヵ月くらい前だったかな。裏山の溜池がすごく神秘的だったから私はお願いしたの。透の本心を教えてほしいって」
 溜池にはヌシとか女神がいると思っているのか茜は。まあ、実際にすごい存在がいたわけだが。
「だってこんなに私は透のことが好きなのに、透は全然私のこと振り向いてくれないんだもん。神様がいるなら、どこがいけないのか教えてもらいたかった。そしたら急に、水面が青く光り出したの」
 そしてアオが登場した、というわけか。
「青く光る人型は、自分のことをアオと呼んでた。人の中にも入れるし、記憶も見れるんだって。でも人間同士の触れ合いで生まれる感情が分からず、調査したいって。だから私は取引したの。それを体験させてあげる代わりに、透の本心を教えて欲しいって」
 なんだよ、ということは最初から仕組まれていたんじゃないか。
 どうりで茜は、溜池にも海にも疑いもせずに来てくれたというわけだ。
「でも嬉しかったなぁ、透がちゃんと幼稚園の時のこと覚えていてくれて。だってあれが私の心の支えだから」
「もしかして、あの時って……アオは僕の体の中に入ってたのか?」
 茜に膝枕をしてもらった時、なんだか鼻がムズムズした。そして幼稚園の頃の夢を見た。アオが僕の中に入っていたと考えれば腑に落ちる。
「ゴメンね。あの時アオちゃんにいろいろ聞いちゃった。透が私のことどう思ってたかって。だからね、私頑張る。透に相応しい女の子になれるよう努力する。その時まで、幼稚園の頃の想い出を大切にしていて欲しいの。それだけが私の願い」
 涙目になる茜。僕は思わず、彼女を抱きしめていた。
「僕だって負けないよ。アオの話が理解できるようになるには高校の勉強だけではダメなんだ」
「あまり先に行かないでね。追いつけなくなっちゃうから」
「それはどうかな?」
「透の、いじわる……」
 いつからだろう。こんな風に素直に話せなくなってしまったのは。
 きっと、どんどん女の子っぽく魅力的になる茜に気後れしてしまっていたのだろう。でも中身はずっとあの頃の茜のままだった。
「さっき見た夢もこんな感じだったなぁ。そしてね、ドラマのような熱いキスをくれた」
「僕にとってはファーストキスだったんだぞ。それをアオに捧げちゃって、茜はそれでよかったのかよ」
「いいよ。それがアオちゃんとの約束だったから。それにね、私のファーストキスは幼稚園の時なの……」
 全く茜ってやつは。
 僕たちは体を離し、見つめ合う。
 あの時と変わらない瞳。そして夕陽は赤く輝いている。
「綺麗だね、夕焼け」
「うん、私の名前だもんね」
「だったらちゅーしてもいいんだよね?」
「うん、いいんだよ」
 こうして僕たちの恋は始まったんだ。


 了



ミチル企画 2022GW企画
テーマ:『青』

誰かがタマネギを炒めている2022年05月20日 23時09分11秒

 ついに携帯タマネギ炒め機が発売された。コンパクトでバッグの中に入れておくだけで面倒なタマネギ炒めが出来るという優れモノだ。
『さて、今夜私がいただくのは、帰りながら炒めた飴色タマネギです』
 このテレビCMが大ヒット。家に着いた時の飴色タマネギが実に美味しそうで、食欲をそそるのである。おかげで炒め機はバカ売れ、いつの間にか『ケイタマネ』の愛称で呼ばれるようになった。
 しかし良いことばかりが起きるとは限らない。
「うわぁ、目が、目がぁ?っ!」
「誰だ、電車の中でケイタマネの蓋を開けたのは!?」
 そんな事故が頻発する。満員電車なら最悪だ。
 たちまち「絶対蓋が開かないケイタマネカバー」なる商品が次々と発売され、新たに法律も整備される。公衆の集合する場所で稼働中のケイタマネの蓋を開け、若しくはこれをさせた者は軽犯罪法違反として罪に問われ、一日以上三十日未満の拘留または千円以上一万円未満の科料が科されることになり、事故は劇的に減少した。
「やっぱ、飴色タマネギだよね」
「蓋を開けた時の幸福感は半端ないね」
 日本中を平和が包み込む。今日もあなたの隣りでは誰かがタマネギを炒めている。



500文字の心臓 第187回「誰かがタマネギを炒めている」投稿作品☆逆選王