死音組曲2008年03月17日 20時27分53秒

私の名前は、ネチャード・イレラレン
華麗なる天才ピアニスト
世界中を旅して、春を呼ぶ女性を探している

 最近思うことがある。
 私のこの指裁きには、死を司る魔力が宿っているのではないかと。
 なぜなら、夜のレッスンに訪れるご婦人達の口から発せられる調べが、”死ぬ~”とか、”逝く~”とか、そんな風に聞こえるからだ。
 そこで書いてみたのが死音組曲。すべての曲が、シの音から始まっている。

「きゃぁーっ、ネチャード!」
「死音組曲、とっても良かったよ~」
 演奏会が終わると、いつものように黄色い声に囲まれる。しかし騒いでいられるのも今のうち。ご婦人達よ、今宵の眠りはちと深いかもしれぬぞ。

 コンコン…
 さあ、今夜のレッスンの生徒がやってきた。
「どうぞ」
「……」
 部屋に入ってきたのは、20代前半くらいの女性。どこかで見たことのある黒いドレスに身を包む彼女は、静かに俯いている。早速、死音の効果が表れているのだろうか。
「どうだったかな、今晩の組曲は」
「何が死音組曲よ…」
 女性が顔を上げる。
「あ、貴女は!」
 そう、それは以前”チ音”を授けた女性だった。
 彼女の発する調べがあまりにも調子外れだったので、オンチ、オンチ、オンチと心の中で唱えているうちに、うっかり”チオン”と口に出してしまったのだ。
「私って、そんなに音痴なの…?」
 女性はうっすらと目に涙を浮かべている。
「いや、あの時は前衛的だと思ったのだ、本当に」
「聞くところによると貴方、チェリーボーイだって話じゃない」
「そ、それをどこで…」
「シ音になんてこだわっているから、Bから先に進めないの。わかる?」
「うっ」
「私を音痴呼ばわりした罪は重いわ。その責任は取ってもらうわよ、私の声が愛おしいと思えるまでね」
「あっ、何をする。あっ、ああっ、ああぁぁぁ…」

私の名前は、ネチャード・イレラレン
華麗なる天才ピアニスト
最近目覚めたC音から始まる、結婚式の曲を書いている


文章塾という踊り場♪ 第23回「桃、梅、桜、ピンク、あるいはそれにまつわるもの」投稿作品

チ音記号2008年02月17日 20時07分20秒

「ねえねえ、知ってる?」
 また姉貴のいつものが始まった…
「音楽でさ、ヘ音記号とかト音記号ってあるじゃん」
 音痴のくせに今度は音楽ネタ…?
「あの“ヘ”とか“ト”ってね、実はイロハだったのよ!」
 それって小学校で習ったような…
「“ヘオン”とか“トーン”って言うから、てっきり英語だと思ってたんだよね」
 それは姉貴だけかも…
「そんでね、次世代の記号はね、“チ音記号”なんだって! ほら、ヘとトの次はチでしょ」
「んなこと、誰に聞いてきたんだよ?」
 あまりのアホらしさについ反応してしまった。
「ネチャード・イレラレンという人。すっごくピアノ、上手なんだよ」

 そういえば姉貴、最近コンサートに行くって言ってたっけ。あれってピアノのコンサートだったんだ。似合わね ぇ~と思いつつ、そいつに熱を上げる姉貴を連想する。

「はぁ~、素敵な夜だった…」
「なんだよ、そのネチャードなんとかとデートにでも行ったのかよ」
「そうよ。私、彼のホテルの部屋に招待されたのよ」
 そう言いながら姉貴がトランプをひらひらさせる。なんでもこのカードに部屋番号が書いてあったらしい。
「変なことされたんじゃねえだろうな?」
「そうね…、貴重な体験だったわ」
 うっとりと視線を漂わせる姉貴。夜のレッスンのすばらしさに、姉貴はつい声を出してしまったんだそうな。そ れを聞いたネチャードは、”君の調べは前衛的だ。譜面に落とすならチ音記号の助けを必要とするだろう”と絶賛 だったらしい…

「そんでね、最後にアドバイスされたの。”チ音を十回唱えれば自己を発見するだろう”ってね。でもこれってな んか、変なんだよね」
「なんで?」
「チ音、チオン、ちおん、知恩…、ほらいつの間にか知恩院になっちゃうでしょ。私には尼がお似合いってこと… ?」
 ちょっと違うような気がするけど、わざわざ答えを教える必要もないと窓の外を見る。
「吹雪か…」
 五線のような雪跡が残る窓に、映る姉貴はチ音記号のようだった。


文章塾という踊り場♪ 第22回 「暑さ or 寒さを感じさせる、あるいはそれにまつわるもの」投稿作品

ネチャード・イレラレン2008年01月15日 21時05分23秒

私の名前は、ネチャード・イレラレン
華麗なる天才ピアニスト
世界中を旅して、お目当ての女性を探している

「きゃぁーっ、ネチャード!!」
 新年の演奏会が終わると、ご婦人達の黄色い声が出口を覆う。どうやら、私の甘いマスクと、魅惑的な演奏が彼女達をそうさせているらしい。私は片手にトランプを持ち、一枚一枚空に向かって投げる。ひらひらと落ちてくるカードをご婦人達が我先にと拾ううちに、用意した車に乗り込むのだ。

 コンコン…
 さあ、今夜のお客がやってきた。
「どうぞ」
「カ、カード、私が拾いました」
 ちょっと緊張気味に、20代前半くらいの女性が部屋に入ってくる。黒いドレスの胸のところでハートのAをかざしているのが愛らしい。ホテルの部屋番号を記したカードだ。
「今夜は私のレッスンに付き合ってもらうけど、いいかい?」
「は、はい、喜んで…」

 ピアノは非常に繊細な生き物だ。タッチの強弱そして速さによって音の艶が変わる。そして世の中には、ピアノに負けないくらい繊細な生き物が存在する。それは女性だ。芸術的なタッチによって、彼女達の口から発せられる調べを自在にコントロールする。それが私の夜のレッスンなのだ。

「さあ、始めるよ」
 私は目を閉じて、指先の感覚だけを頼りに曲を奏で始める。ある時は早く、ある時はゆったりと、そう、それはまるで草原を舞う蝶のよう。シルクのように滑らかに風の合間を抜け、深く茂みに迷い込んで秘密の花びらを探し、蜜をまとって激しく羽ばたいていく…
「ふう、今夜も完璧な演奏だった」
 その証拠に、あまりの心地の良さに女性はすでに気を失っていた。
「おやすみ。しかし今夜のご婦人も違ったな…」
 私は女性を残して、いつものように一人部屋を後にした。
 熱く硬くなった情熱を衣の内に秘めたまま。

私の名前は、ネチャード・イレラレン
華麗なる天才ピアニスト
今年で40才になるが未だに童貞
世界中を旅しながら、失神しない女性を探している


文章塾という踊り場♪ 第21回「お正月らしい、お正月を感じさせるもの」投稿作品