うさぎの戸締り ― 2023年05月18日 21時33分50秒
注意:この作品は新海誠監督作品(特に『すずめの戸締り』)の内容に触れています
「裕樹ィ、行くよ!」
窓の外から小百合の声が聞こえてくる。
慌てて窓を開け階下を見ると、私服姿の彼女が少しイライラしながらこちらを見上げていた。
「ちょっと待ってて! 今行くから」
「早く、早くぅ~」
一秒たりとも待てないという表情。
それはそうだろう、ずっと行きたかった場所に行けるのだから。
よく晴れた三月の日曜日はお出かけにはうってつけ。玄関を開けると、小百合は腕組みをしてお待ちかねだった。
白のクルーネックTシャツにデニムのジャケットを羽織り、カーキ色のキュロットに白ソックスとローファーは正に行動派スタイル。幼馴染の小百合らしい。
「ていうか、その恰好……」
「そうよ、今日はすずめになるんだから」
そう、お出かけの目的は新海誠監督の映画『すずめの戸締り』の聖地巡礼。一緒にお茶の水に行くのだ。
新宿駅で東京駅行きの中央線に乗り換える。四ツ谷駅を過ぎると次が御茶ノ水駅だ。
電車の扉に身を預け、春の日差しを浴びる外堀の水面を眺める小百合。窓に写る彼女の姿に僕は見とれていた。
長いまつ毛、輝く瞳、そしてすっきりとしたフェイスライン。
僕たちは中学を卒業し、もうすぐ高校に入学する。小百合ならすぐに彼氏ができてしまうに違いない。
幼馴染という立場でこうしてお出かけできるのはこれが最後なんじゃないかと、僕は彼女の姿を目に焼き付けていた。
御茶ノ水駅のホームに下りて階段を登り、御茶ノ水橋口の改札を出ると小百合が「おおっ!」と声を上げた。興奮しながら辺りをキョロキョロしている。
「裕樹。ここだよ、赤いオープンカーが停まってたところは!」
だからそんなに興奮するなって。この先体力が持たないだろ?
ていうか、めちゃくちゃ恥ずかしいから。スマホでそんなにバチバチ写真を撮ってたら完全に田舎者だから。
「どこなの? 赤いオープンカーは! どこなの~」
たまらず僕は小百合の手を引いて駅から離れることにした。
お茶の水橋の真ん中付近まで来ると、手を繋いでいることが急に恥ずかしくなる。
「えっ、もう離しちゃうの? もうちょっと手を繋いでても良かったのに……」
そ、それって……。
「だって草太さん、すずめと手を繋いでこの橋を渡りたかったと思うの」
なんだよ、そういうことかよ……。
ドキドキして損した。すずめのコスプレしてるからって僕を出汁にするな。ちょっと嬉しかったけど。
「それよりも裕樹、ほら、あれ……」
小百合が指差す方を見る。
その方向にはアーチ状の白い大きな橋が見えた。
「おおっ、あの橋って!?」
「そう、あの橋よ」
映画の重要なシーンに登場する橋。僕が絶対に行きたいと思っていた場所。
「聖橋じゃないか!」
興奮気味に走り出そうとした僕を、今度は小百合が引き留める。
「ちょ、ちょっと待ってよ。あの美しいアーチをここから写真に撮っておきたいの」
ここは橋の上だから隣りの橋、聖橋の全体がよく見える。小百合が言うことももっともだった。
スマホで写真を撮りながら、彼女はぽつりぽつりと語り始める。
「あの橋はね、関東大震災の復興の象徴なんだって。だから年齢はもう九十歳を超えてるんだよ」
へぇ、それはすごいな。
「土木遺産に指定されてるんだから」
映画に使われたのはそういう理由からなのかな?
白く美しいアーチを僕も写真に収める。
それから僕たちは聖橋に向かって神田川沿いを歩く。橋のたもとの湯島聖堂にお参りしてから聖橋に上がった。湯島聖堂は映画には出て来ないけど、小百合曰く、聖橋の名前の由来になった場所らしい。
「ついに来たぞ、聖橋!」
聖橋はとても気持ちの良い場所だった。
ビル群に挟まれて深い谷の底を流れる神田川。その流れが注ぐ秋葉原のビル群を、割と高い場所から眺めることができる。
橋の上から神田川を見下ろすと、川を渡る鉄道橋とトンネルが見えた。
「あれ? あのトンネル、見覚えがある!」
僕の興奮は収まらない。
「丸ノ内線のトンネルだよ。ていうか、見覚えあるどころじゃないよ、あそこは最も重要な聖地じゃない」
そうだ、映画では、あの丸ノ内線のトンネルから災いが出てきたんだ。
僕は慌ててスマホを取り出し、写真を撮り始めた。
すると並んで欄干に体を預ける小百合が、ニヤニヤしながら僕の顔を覗き込んで来る。
「裕樹だって写真撮りまくってるじゃん」
いやいや、あのトンネルだよ。写真撮るなって言う方が間違っている。
「というか裕樹、何であのトンネルから災いが出て来るか知ってる?」
「えっ?」
僕は固まってしまった。
それって監督が考えた設定だからじゃないのか?
それとも何か理由があるのか?
「この地域はね、江戸城から見て鬼門にあたるの。鬼門っていうのはね、北西の方角のことなんだけど、鬼が来るって言われてる」
だから災いがやって来る?
「裕樹は丑寅(うしとら)って言葉、聞いたことある?」
うしおととら、なら聞いたことあるけど。昔のアニメでそんなのがあったような……。
すると小百合は、ぶつぶつと何かを唱え始めた。
「子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)」
「それって十二支?」
「そう。江戸時代はね、それで方角や時刻も表していたんだよ」
「へぇ~」
「十二だからちょうど時計の文字盤代わりになるの。時計の12の位置が子、1の位置が丑という風に」
それってなんか聞いたことがある。丑三つ時(うしみつどき)っていうのもその一種だったような。
「方角として使った場合は北が子になって、東に当たるのが卯。そして鬼門の北東は、丑と寅の間になるから二つをくっつけて丑寅」
それで丑寅なのか。丑と寅のミックスというわけだ。
「そんでね、鬼門と逆の方角にあたる動物が、鬼から街を守るって言われてる」
ということは……何だ?
僕は子、丑、寅、卯と指を折り始める。が、どれが街を守る動物なのか全然イメージできない。
しびれを切らした小百合は、スマホを僕にかざした。そこには十二支が時計の文字盤のように配置された図が表示されていた。これならよく分かる。
「鬼門が丑寅だから、その反対側は……未と申?」
「そう。でもね、ヒツジには角があるでしょ? だから鬼と同類と見られている」
「ということは守護神はサル一択か」
「そうなの。場所によっては北東側の門に猿の像を配置しているところもあるみたい。守護神としてね。でも……」
小百合はスマホを引っ込めて僕の瞳を凝視する。
これから言うことに対して、同意して欲しいという強い眼差しで。
「猿が守護神って微妙じゃない? 猿だよ、サル。それよりも兎の方が圧倒的にいいのに!」
「えっ?」
どう反応していいのか困ってしまう。僕にとっては猿も兎もどっちもどっち。
ていうか猿に謝れ。鬼から街を守っている有り難い猿様に。
「兎がいいって、どういうこと?」
「そういう世界になればいいのに、ってこと」
いやいや鬼門が北東のままならそれは無理だろ。
もしかして、鬼門の方角が変わればいいって言いたいのか?
「兎が守護神ってことはね、鬼門の方角は西になるの。そっちの方が鬼門っぽいし、それに街を守る置物が全部兎だったら可愛くていいじゃない!」
そんな理由?
守護神だったらトラとかドラゴンの方がよくね?
「あの映画だって、『すずめ』じゃなくて『うさぎの戸締り』になってたかもしれないのにな……」
そう言いながら両手を広げて欄干に背中を預ける小百合。
「えっ?」
刹那、バランスを崩して川側にのけぞる恰好になってしまった。
「危ないっ!!」
落ちる——と思った僕は慌てて小百合の足を掴む。が時は遅し。僕は彼女と一緒に神田川に落下してしまった——
◇
目を覚ますとそこは知らない天井、ではなく自分の部屋の天井だった。
時計を見ると朝の九時。と同時に、窓の外から小百合の声がする。
「裕樹ィ、行くよ!」
やべぇ、来ちまった。
僕は慌てて窓から首を出す。
「ゴメン、小百合。今起きたばかりだから家で待ってて!」
彼女の家は歩いてすぐの所にある。これから準備すると十分以上はかかるだろう。だから家で待ってもらった方がいい。
「なによ、九時って言ったの裕樹じゃない」
「だから謝ってるじゃん。ゴメン、本当にゴメン」
手を合わせる僕に対し、ムッとしながら踵を返し家に向かう小百合。服装もデニムのジャケットにカーキ色のキュロットだった。
というか、さっきのは一体なんだったんだ?
夢にしてはやたらリアルだったけど。
しかし今はゆっくり考えている時間はない。すぐに行くって小百合に言っちゃったんだし。
僕は服に着替えて、慌てて家を飛び出した。
「裕樹、今日は楽しみだねぇ~」
二人は新海アニメの大ファン。今までも何回か聖地巡礼に行っている。
しかし『すずめの戸締り』は初めてだ。だって高校受験があったから。
志望校にそれぞれ合格し、晴れて聖地巡礼に行ける春がやってきた。
「なのに寝坊しちゃって。今日は私が行きたいところに行かせてもらうからね」
まあ仕方がない。
変な夢を見ていたから遅れた、なんて言うわけにはいかないし。
それよりも驚くことが起きた。小百合がいきなり僕の手を握ってきたのだ。
「早く、早く!」
そして駅に向かって走り出す。
なんだか嬉しいような、でも近所の人に見られたら恥ずかしいような、複雑な気持ちで僕は駅へと走る。
新宿駅で中央線に乗り換えて、電車が四ツ谷駅に着くと小百合が言った。
「ほら、降りるよ」
「えっ、ここで?」
まだ四谷だよ?
お茶の水まで行って『すずめの戸締り』の聖地巡礼するんじゃないのか?
「だって聖地巡礼でしょ?」
「まあ、そうだけど……」
四谷もまた新海アニメの聖地だったりする。特に映画『君の名は。』の。
きっと小百合は、そちらの聖地も巡りたくなったに違いない。
そう解釈した僕は彼女に続いて駅のホームに降りる。今日は遅刻してしまったので、言うことを聞かなくちゃいけないし。
改札を出て四谷見附橋を目にした小百合は、興奮気味に叫び始めた。
「ここだよ、ここ!」
まあ、そうだよね。『君の名は。』で瀧くんが奥寺先輩と待ち合わせしてたのあの橋だし。
しかし小百合は、写真を撮りながら驚くことを言い始めたのだ。
「どこなの? 赤いオープンカーは! どこなの~」
ええっ、それってどういうこと?
瀧くんって赤いオープンカーに乗ってたっけ? 赤いオープンカーは『すずめの戸締り』の芹澤じゃないのか? 声優はどちらも同じだけど。
さらに小百合は橋の欄干に体を預け、眼下の丸ノ内線に向かって指をさした。
「ほら、見て! あの丸ノ内線のトンネルから災いが出てきたんだよ!」
さっきから何を言ってるんだ、小百合は!?
赤いオープンカーも災いも出て来るわけないじゃないか。あれはお茶の水だろ? ここは四谷だぜ。
そりゃ、同じ丸ノ内線のトンネルだから地下で繋がってるかもしれないけどさ、出口が違いすぎる。
だから僕は小百合に訊いてみた。
「そんなシーン、あったっけ? あのトンネルから災いが出て来るシーンって」
「何言ってんの?」
僕を向く彼女は目を丸くした。信じられないという表情で。
「あんなに重要なシーンなのに。裕樹は寝てたの? もしかしてまだ観てないとか?」
「そんなことないよ、ちゃんと観たよ、『すずめの戸締り』だろ?」
その言葉を聞いた彼女は、さらに目を丸くした。
「今何て言った?」
「『すずめの戸締り』だけど?」
すると小百合は突然ケラケラと笑い出したんだ。
「すずめ? すずめって何よ。トリが扉閉めてどうすんのよ。『うさぎの戸締り』でしょ? 間違って何か別の映画観たんじゃない?」
うさぎ!?
今度は僕が目を丸くする番だ。
僕だって新海アニメの大ファンなんだから、映画を間違えるわけないだろ?
「僕が観たのは、災いの扉を閉めるために草太とすずめが冒険する映画だよ」
「だから、うさぎだって言ってるの。その他は合ってるけど……」
その他は合ってる?
それってどういうことだ?
ま、まさか——
「入れ替わってる?」
「なによ、いきなり。『君の名は。』のセリフ言ってんのよ?」
そこは間違ってないんだ。
「違うよ。入れ替わってると言ったのは、鬼門の方角だよ。ねえ、小百合教えて。鬼門の方角ってどっち?」
「どっちって西に決まってるじゃない。だから扉を閉めるのはヒロインのうさぎなのよ。兎は鬼門の守護神なんだから」
やっぱりそういうことか。
鬼門の方角が入れ替わっているんだ。
ということは、ということは——僕はパラレルワールドに来ちゃったってこと? 聖橋から落ちた時に、鬼門の方角が入れ替わってしまった世界へ。
スマホを取り出し「鬼門」について調べてみる。すると小百合の言う通り「西」と書かれていた。
「ほら、私の言った通りでしょ? 江戸城にとって西側のこの四谷が鬼門なの。だからこの場所から災いが出てきた」
鬼門の方角が西なら、そういうことになるだろう。
しかし僕にはにわかに信じられなかった。
「本当に兎が守護神なのか?」
だって可愛すぎるだろ?
「本当よ。ほら、これを見て!」
「えっ、桃太郎?」
小百合がスマホに表示させたのは、昔話『桃太郎』の絵本の表紙。
中央の桃太郎は僕が知っている姿だったが、家来が決定的に異なっていた。
「桃太郎の家来はね、鬼門の守護神なの。だって鬼を退治しに行くんだもん。でも家来が兎だけでは戦力不足だから、その前後の干支も連れている」
それはトラとドラゴン。
これは強そうだ。これなら勝てる、鬼でも魔王でもどんと来いだ。
「ていうか、裕樹はどう思ってたのよ、鬼門の方角って」
「北東だと思ってたけど」
最近、というか今日教えてもらったんだけどな、元の世界の小百合に。
すると彼女はぷっと噴き出した。
「北東? じゃあ桃太郎の家来はサルとヒツジとトリになっちゃうじゃない。いや、ヒツジは鬼の仲間だから……まさかのイヌ!?」
ああ、そうだよ。桃太郎の家来はサルとトリとイヌだよ。
「そんなんで勝てるわけないじゃない。ペットと一緒に鬼退治とかバカなの、その桃太郎」
僕も不思議に思ってたんだよね、子供の頃からずっと。
よく考えたら、そのメンバーで勝てるはずがない。きび団子というチートアイテムでドーピングしたってさ。
「そんなに笑うなよ。鬼門が北東の世界だって、どこかにあるかもしれないだろ?」
「パラレルワールドにね。そんな世界、行きたくもないけど」
ぶっちゃけ僕も、鬼門は西でいいような気がしてきた。
だったら小百合が言う『うさぎの戸締り』に乗ってやろうじゃないか。まだ観てないけどさ。
とりあえず丸ノ内線のトンネルの写真を、と欄干から身を乗り出した瞬間、僕はバランスを崩してしまう。心ここにあらずがいけなかったらしい。
「危ない、裕樹!」
僕にしがみつく小百合。が時遅し。二人の重心はずるずると欄干から外側に移動する。
「手を放せ! 小百合」
「いや、裕樹と離れたくない!」
「今なら小百合は助かる」
「裕樹と一緒がいい。高校も一緒が良かった——」
僕の想いもむなしく、二人は四谷見附橋から落ちてしまった。
◇
目を覚ますと、そこは僕の部屋のベッドだった。
時計を見ると時刻は朝の八時五十分。あと十分したら小百合がやってくる。
急いで準備しないとまた彼女を怒らせてしまう。
「裕樹ィ、行くよ!」
ちょうど着替え終わったところで小百合の声がした。
デニムのジャケットにカーキ色のキュロット。
玄関を開けて目に入る小百合の姿は、やはり『すずめ』コーデだ。
いや、もしかしたら『うさぎ』コーデなのか?
僕はさりげなく、この世界のルールを探る。
「ねえ、小百合。今日はどこから行く?」
この質問なら間接的にこの世界の真相を探ることができる。答えがお茶の水なら鬼門の方角は北東、四谷なら西だ。
「そうねぇ、やっぱお茶の水じゃない?」
「だよね!」
おおっ、この世界は元の世界と同じだ。
鬼門の方角は北東、桃太郎の家来はサルとトリとイヌ。
「おっ、裕樹も乗り気ね?」
「もちろんだよ、受験でずっと行けなかったんだから」
「そうね、やっと行けるんだよね……」
小百合は俯く。少し悲しげな表情で。
「裕樹は新海アニメが好き?」
いきなり何を言い出すんだろう、小百合は。
あれほど新海アニメについて二人で語り合ってきたというのに。
「好きだよ。だからこうして聖地巡礼するし、してきたんじゃないか?」
他の作品も一緒に行ったよね。『君の名は。』も『天気の子』も、中学生になってから。
「私も好き。でもこんな女の子、変じゃない? 今まで中学生だったから許されていたような気がするの」
そんなことないよ。変と言うやつがいたらぶっ飛ばしてやる、と鼻息を荒くしそうになってふと思う。
そっか、小百合は心配しているんだ。高校デビューを。
四月から僕たちは別々の学校に通う。幼馴染としてこれは初めてのことだった。
「大丈夫だよ。高校にも絶対いるよ、新海アニメファンが」
「そうだよね、変じゃないよね。高校にもいるよね、私みたいな女の子が」
顔を上げる小百合。
僕に救いを求めるその瞳にドキリとする。
四谷見附橋から落ちた時、小百合は「離れたくない」と言ってくれた。
あの世界は、本当にパラレルワールドだったのだろうか?
小百合が望む「守護神が兎」となった世界。それは、もしかしたら、彼女の心の世界への旅だったのかもしれない。
「ねえ、裕樹」
「ん?」
本当は言いたい。
やっぱり小百合は変だ。僕じゃなきゃ相手はできないんだ。だから高校に行っても男子には近づかない方がいいって。
そんな想いが爆発しそうになる。
「新海監督ってまたアニメ作るよね?」
「ああ、二年半後にね、きっと」
新海監督は三年ごとに新作を発表している。
ということは、次の作品が封切になるのは二年半後だろう。
「そしたらまた、一緒に聖地巡礼してくれる?」
「もちろんだよ」
「でもその時、私たち大学受験中だよ」
「そんなの関係ない。気になるなら受験が終わってから行けばいい、今回のように」
小百合と一緒なら、どこにでも行ってやるさ。
そう言おうとして僕は気付く。これは彼女の願いなんだ——と。
最新作の聖地巡礼は今日行ってしまうから、次のきっかけは二年半後になってしまうんだ。
こんなに先の希望に必死に手を伸ばそうとしている小百合。その想いに気付いた瞬間、涙が出そうになってきた。彼女がこんなに頑張っているのに僕は何してるんだよ。しっかりしなくちゃダメじゃないか。
だから思い切って提案する。
「それよりもさ、まだ行ってない新海アニメの聖地が沢山あるじゃん」
「それって?」
「例えば宮崎とか種子島とか津軽半島とか?」
さすがに宇宙とかアガルタは言わないでおいた。
「行こうよ! 僕は小百合と一緒に行きたいんだ」
「えっ?」
小百合はぽっと顔を赤らめる。
「高校生には遠すぎるよ。お泊りになっちゃう……」
「あっ……」
何言ってるんだ僕は。
ああ今の発言を取り消したい。本当に行きたいのは確かなんだけど、状況を考え無さ過ぎた。
二人で顔を真っ赤にして、しばらくの間俯きながら駅までの道を歩く。
すると小百合がぽつりと言った。
「でも、飛騨高山なら……」
そっか、そうだよ。
飛騨高山という聖地があったじゃないか!
「三葉のように?」
「そう、三葉のように」
映画『君の名は。』では、高校生の三葉が飛騨から東京を日帰りする。
だから僕たちだって高校生になれば出来るんだ。その行動自体がまさに聖地巡礼。
「じゃあ、夏休みに行こうよ!」
「うん、私バイトしてお金を貯める」
「僕だって貯めるよ。楽しみだね、飛騨高山」
そう言いながら、勇気を出して僕は小百合に手を差し出した。
この先二人がずっと手を繋いでいられるように。
「うん、楽しみ!」
小百合の柔らかな手。
もうこの手を離したくない。たとえまた橋から落ちることになったとしても。
「そうだ、神津島にも行ってみようよ」
「それって、お泊り?」
「いやいやいやいや、そうじゃないと思うよ、きっと……」
この春、僕たちは新しい世界を歩き出したんだ。
おわり
ミチル企画 2023GW企画
お題:『春』『旅』『うさぎ』
「裕樹ィ、行くよ!」
窓の外から小百合の声が聞こえてくる。
慌てて窓を開け階下を見ると、私服姿の彼女が少しイライラしながらこちらを見上げていた。
「ちょっと待ってて! 今行くから」
「早く、早くぅ~」
一秒たりとも待てないという表情。
それはそうだろう、ずっと行きたかった場所に行けるのだから。
よく晴れた三月の日曜日はお出かけにはうってつけ。玄関を開けると、小百合は腕組みをしてお待ちかねだった。
白のクルーネックTシャツにデニムのジャケットを羽織り、カーキ色のキュロットに白ソックスとローファーは正に行動派スタイル。幼馴染の小百合らしい。
「ていうか、その恰好……」
「そうよ、今日はすずめになるんだから」
そう、お出かけの目的は新海誠監督の映画『すずめの戸締り』の聖地巡礼。一緒にお茶の水に行くのだ。
新宿駅で東京駅行きの中央線に乗り換える。四ツ谷駅を過ぎると次が御茶ノ水駅だ。
電車の扉に身を預け、春の日差しを浴びる外堀の水面を眺める小百合。窓に写る彼女の姿に僕は見とれていた。
長いまつ毛、輝く瞳、そしてすっきりとしたフェイスライン。
僕たちは中学を卒業し、もうすぐ高校に入学する。小百合ならすぐに彼氏ができてしまうに違いない。
幼馴染という立場でこうしてお出かけできるのはこれが最後なんじゃないかと、僕は彼女の姿を目に焼き付けていた。
御茶ノ水駅のホームに下りて階段を登り、御茶ノ水橋口の改札を出ると小百合が「おおっ!」と声を上げた。興奮しながら辺りをキョロキョロしている。
「裕樹。ここだよ、赤いオープンカーが停まってたところは!」
だからそんなに興奮するなって。この先体力が持たないだろ?
ていうか、めちゃくちゃ恥ずかしいから。スマホでそんなにバチバチ写真を撮ってたら完全に田舎者だから。
「どこなの? 赤いオープンカーは! どこなの~」
たまらず僕は小百合の手を引いて駅から離れることにした。
お茶の水橋の真ん中付近まで来ると、手を繋いでいることが急に恥ずかしくなる。
「えっ、もう離しちゃうの? もうちょっと手を繋いでても良かったのに……」
そ、それって……。
「だって草太さん、すずめと手を繋いでこの橋を渡りたかったと思うの」
なんだよ、そういうことかよ……。
ドキドキして損した。すずめのコスプレしてるからって僕を出汁にするな。ちょっと嬉しかったけど。
「それよりも裕樹、ほら、あれ……」
小百合が指差す方を見る。
その方向にはアーチ状の白い大きな橋が見えた。
「おおっ、あの橋って!?」
「そう、あの橋よ」
映画の重要なシーンに登場する橋。僕が絶対に行きたいと思っていた場所。
「聖橋じゃないか!」
興奮気味に走り出そうとした僕を、今度は小百合が引き留める。
「ちょ、ちょっと待ってよ。あの美しいアーチをここから写真に撮っておきたいの」
ここは橋の上だから隣りの橋、聖橋の全体がよく見える。小百合が言うことももっともだった。
スマホで写真を撮りながら、彼女はぽつりぽつりと語り始める。
「あの橋はね、関東大震災の復興の象徴なんだって。だから年齢はもう九十歳を超えてるんだよ」
へぇ、それはすごいな。
「土木遺産に指定されてるんだから」
映画に使われたのはそういう理由からなのかな?
白く美しいアーチを僕も写真に収める。
それから僕たちは聖橋に向かって神田川沿いを歩く。橋のたもとの湯島聖堂にお参りしてから聖橋に上がった。湯島聖堂は映画には出て来ないけど、小百合曰く、聖橋の名前の由来になった場所らしい。
「ついに来たぞ、聖橋!」
聖橋はとても気持ちの良い場所だった。
ビル群に挟まれて深い谷の底を流れる神田川。その流れが注ぐ秋葉原のビル群を、割と高い場所から眺めることができる。
橋の上から神田川を見下ろすと、川を渡る鉄道橋とトンネルが見えた。
「あれ? あのトンネル、見覚えがある!」
僕の興奮は収まらない。
「丸ノ内線のトンネルだよ。ていうか、見覚えあるどころじゃないよ、あそこは最も重要な聖地じゃない」
そうだ、映画では、あの丸ノ内線のトンネルから災いが出てきたんだ。
僕は慌ててスマホを取り出し、写真を撮り始めた。
すると並んで欄干に体を預ける小百合が、ニヤニヤしながら僕の顔を覗き込んで来る。
「裕樹だって写真撮りまくってるじゃん」
いやいや、あのトンネルだよ。写真撮るなって言う方が間違っている。
「というか裕樹、何であのトンネルから災いが出て来るか知ってる?」
「えっ?」
僕は固まってしまった。
それって監督が考えた設定だからじゃないのか?
それとも何か理由があるのか?
「この地域はね、江戸城から見て鬼門にあたるの。鬼門っていうのはね、北西の方角のことなんだけど、鬼が来るって言われてる」
だから災いがやって来る?
「裕樹は丑寅(うしとら)って言葉、聞いたことある?」
うしおととら、なら聞いたことあるけど。昔のアニメでそんなのがあったような……。
すると小百合は、ぶつぶつと何かを唱え始めた。
「子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)」
「それって十二支?」
「そう。江戸時代はね、それで方角や時刻も表していたんだよ」
「へぇ~」
「十二だからちょうど時計の文字盤代わりになるの。時計の12の位置が子、1の位置が丑という風に」
それってなんか聞いたことがある。丑三つ時(うしみつどき)っていうのもその一種だったような。
「方角として使った場合は北が子になって、東に当たるのが卯。そして鬼門の北東は、丑と寅の間になるから二つをくっつけて丑寅」
それで丑寅なのか。丑と寅のミックスというわけだ。
「そんでね、鬼門と逆の方角にあたる動物が、鬼から街を守るって言われてる」
ということは……何だ?
僕は子、丑、寅、卯と指を折り始める。が、どれが街を守る動物なのか全然イメージできない。
しびれを切らした小百合は、スマホを僕にかざした。そこには十二支が時計の文字盤のように配置された図が表示されていた。これならよく分かる。
「鬼門が丑寅だから、その反対側は……未と申?」
「そう。でもね、ヒツジには角があるでしょ? だから鬼と同類と見られている」
「ということは守護神はサル一択か」
「そうなの。場所によっては北東側の門に猿の像を配置しているところもあるみたい。守護神としてね。でも……」
小百合はスマホを引っ込めて僕の瞳を凝視する。
これから言うことに対して、同意して欲しいという強い眼差しで。
「猿が守護神って微妙じゃない? 猿だよ、サル。それよりも兎の方が圧倒的にいいのに!」
「えっ?」
どう反応していいのか困ってしまう。僕にとっては猿も兎もどっちもどっち。
ていうか猿に謝れ。鬼から街を守っている有り難い猿様に。
「兎がいいって、どういうこと?」
「そういう世界になればいいのに、ってこと」
いやいや鬼門が北東のままならそれは無理だろ。
もしかして、鬼門の方角が変わればいいって言いたいのか?
「兎が守護神ってことはね、鬼門の方角は西になるの。そっちの方が鬼門っぽいし、それに街を守る置物が全部兎だったら可愛くていいじゃない!」
そんな理由?
守護神だったらトラとかドラゴンの方がよくね?
「あの映画だって、『すずめ』じゃなくて『うさぎの戸締り』になってたかもしれないのにな……」
そう言いながら両手を広げて欄干に背中を預ける小百合。
「えっ?」
刹那、バランスを崩して川側にのけぞる恰好になってしまった。
「危ないっ!!」
落ちる——と思った僕は慌てて小百合の足を掴む。が時は遅し。僕は彼女と一緒に神田川に落下してしまった——
◇
目を覚ますとそこは知らない天井、ではなく自分の部屋の天井だった。
時計を見ると朝の九時。と同時に、窓の外から小百合の声がする。
「裕樹ィ、行くよ!」
やべぇ、来ちまった。
僕は慌てて窓から首を出す。
「ゴメン、小百合。今起きたばかりだから家で待ってて!」
彼女の家は歩いてすぐの所にある。これから準備すると十分以上はかかるだろう。だから家で待ってもらった方がいい。
「なによ、九時って言ったの裕樹じゃない」
「だから謝ってるじゃん。ゴメン、本当にゴメン」
手を合わせる僕に対し、ムッとしながら踵を返し家に向かう小百合。服装もデニムのジャケットにカーキ色のキュロットだった。
というか、さっきのは一体なんだったんだ?
夢にしてはやたらリアルだったけど。
しかし今はゆっくり考えている時間はない。すぐに行くって小百合に言っちゃったんだし。
僕は服に着替えて、慌てて家を飛び出した。
「裕樹、今日は楽しみだねぇ~」
二人は新海アニメの大ファン。今までも何回か聖地巡礼に行っている。
しかし『すずめの戸締り』は初めてだ。だって高校受験があったから。
志望校にそれぞれ合格し、晴れて聖地巡礼に行ける春がやってきた。
「なのに寝坊しちゃって。今日は私が行きたいところに行かせてもらうからね」
まあ仕方がない。
変な夢を見ていたから遅れた、なんて言うわけにはいかないし。
それよりも驚くことが起きた。小百合がいきなり僕の手を握ってきたのだ。
「早く、早く!」
そして駅に向かって走り出す。
なんだか嬉しいような、でも近所の人に見られたら恥ずかしいような、複雑な気持ちで僕は駅へと走る。
新宿駅で中央線に乗り換えて、電車が四ツ谷駅に着くと小百合が言った。
「ほら、降りるよ」
「えっ、ここで?」
まだ四谷だよ?
お茶の水まで行って『すずめの戸締り』の聖地巡礼するんじゃないのか?
「だって聖地巡礼でしょ?」
「まあ、そうだけど……」
四谷もまた新海アニメの聖地だったりする。特に映画『君の名は。』の。
きっと小百合は、そちらの聖地も巡りたくなったに違いない。
そう解釈した僕は彼女に続いて駅のホームに降りる。今日は遅刻してしまったので、言うことを聞かなくちゃいけないし。
改札を出て四谷見附橋を目にした小百合は、興奮気味に叫び始めた。
「ここだよ、ここ!」
まあ、そうだよね。『君の名は。』で瀧くんが奥寺先輩と待ち合わせしてたのあの橋だし。
しかし小百合は、写真を撮りながら驚くことを言い始めたのだ。
「どこなの? 赤いオープンカーは! どこなの~」
ええっ、それってどういうこと?
瀧くんって赤いオープンカーに乗ってたっけ? 赤いオープンカーは『すずめの戸締り』の芹澤じゃないのか? 声優はどちらも同じだけど。
さらに小百合は橋の欄干に体を預け、眼下の丸ノ内線に向かって指をさした。
「ほら、見て! あの丸ノ内線のトンネルから災いが出てきたんだよ!」
さっきから何を言ってるんだ、小百合は!?
赤いオープンカーも災いも出て来るわけないじゃないか。あれはお茶の水だろ? ここは四谷だぜ。
そりゃ、同じ丸ノ内線のトンネルだから地下で繋がってるかもしれないけどさ、出口が違いすぎる。
だから僕は小百合に訊いてみた。
「そんなシーン、あったっけ? あのトンネルから災いが出て来るシーンって」
「何言ってんの?」
僕を向く彼女は目を丸くした。信じられないという表情で。
「あんなに重要なシーンなのに。裕樹は寝てたの? もしかしてまだ観てないとか?」
「そんなことないよ、ちゃんと観たよ、『すずめの戸締り』だろ?」
その言葉を聞いた彼女は、さらに目を丸くした。
「今何て言った?」
「『すずめの戸締り』だけど?」
すると小百合は突然ケラケラと笑い出したんだ。
「すずめ? すずめって何よ。トリが扉閉めてどうすんのよ。『うさぎの戸締り』でしょ? 間違って何か別の映画観たんじゃない?」
うさぎ!?
今度は僕が目を丸くする番だ。
僕だって新海アニメの大ファンなんだから、映画を間違えるわけないだろ?
「僕が観たのは、災いの扉を閉めるために草太とすずめが冒険する映画だよ」
「だから、うさぎだって言ってるの。その他は合ってるけど……」
その他は合ってる?
それってどういうことだ?
ま、まさか——
「入れ替わってる?」
「なによ、いきなり。『君の名は。』のセリフ言ってんのよ?」
そこは間違ってないんだ。
「違うよ。入れ替わってると言ったのは、鬼門の方角だよ。ねえ、小百合教えて。鬼門の方角ってどっち?」
「どっちって西に決まってるじゃない。だから扉を閉めるのはヒロインのうさぎなのよ。兎は鬼門の守護神なんだから」
やっぱりそういうことか。
鬼門の方角が入れ替わっているんだ。
ということは、ということは——僕はパラレルワールドに来ちゃったってこと? 聖橋から落ちた時に、鬼門の方角が入れ替わってしまった世界へ。
スマホを取り出し「鬼門」について調べてみる。すると小百合の言う通り「西」と書かれていた。
「ほら、私の言った通りでしょ? 江戸城にとって西側のこの四谷が鬼門なの。だからこの場所から災いが出てきた」
鬼門の方角が西なら、そういうことになるだろう。
しかし僕にはにわかに信じられなかった。
「本当に兎が守護神なのか?」
だって可愛すぎるだろ?
「本当よ。ほら、これを見て!」
「えっ、桃太郎?」
小百合がスマホに表示させたのは、昔話『桃太郎』の絵本の表紙。
中央の桃太郎は僕が知っている姿だったが、家来が決定的に異なっていた。
「桃太郎の家来はね、鬼門の守護神なの。だって鬼を退治しに行くんだもん。でも家来が兎だけでは戦力不足だから、その前後の干支も連れている」
それはトラとドラゴン。
これは強そうだ。これなら勝てる、鬼でも魔王でもどんと来いだ。
「ていうか、裕樹はどう思ってたのよ、鬼門の方角って」
「北東だと思ってたけど」
最近、というか今日教えてもらったんだけどな、元の世界の小百合に。
すると彼女はぷっと噴き出した。
「北東? じゃあ桃太郎の家来はサルとヒツジとトリになっちゃうじゃない。いや、ヒツジは鬼の仲間だから……まさかのイヌ!?」
ああ、そうだよ。桃太郎の家来はサルとトリとイヌだよ。
「そんなんで勝てるわけないじゃない。ペットと一緒に鬼退治とかバカなの、その桃太郎」
僕も不思議に思ってたんだよね、子供の頃からずっと。
よく考えたら、そのメンバーで勝てるはずがない。きび団子というチートアイテムでドーピングしたってさ。
「そんなに笑うなよ。鬼門が北東の世界だって、どこかにあるかもしれないだろ?」
「パラレルワールドにね。そんな世界、行きたくもないけど」
ぶっちゃけ僕も、鬼門は西でいいような気がしてきた。
だったら小百合が言う『うさぎの戸締り』に乗ってやろうじゃないか。まだ観てないけどさ。
とりあえず丸ノ内線のトンネルの写真を、と欄干から身を乗り出した瞬間、僕はバランスを崩してしまう。心ここにあらずがいけなかったらしい。
「危ない、裕樹!」
僕にしがみつく小百合。が時遅し。二人の重心はずるずると欄干から外側に移動する。
「手を放せ! 小百合」
「いや、裕樹と離れたくない!」
「今なら小百合は助かる」
「裕樹と一緒がいい。高校も一緒が良かった——」
僕の想いもむなしく、二人は四谷見附橋から落ちてしまった。
◇
目を覚ますと、そこは僕の部屋のベッドだった。
時計を見ると時刻は朝の八時五十分。あと十分したら小百合がやってくる。
急いで準備しないとまた彼女を怒らせてしまう。
「裕樹ィ、行くよ!」
ちょうど着替え終わったところで小百合の声がした。
デニムのジャケットにカーキ色のキュロット。
玄関を開けて目に入る小百合の姿は、やはり『すずめ』コーデだ。
いや、もしかしたら『うさぎ』コーデなのか?
僕はさりげなく、この世界のルールを探る。
「ねえ、小百合。今日はどこから行く?」
この質問なら間接的にこの世界の真相を探ることができる。答えがお茶の水なら鬼門の方角は北東、四谷なら西だ。
「そうねぇ、やっぱお茶の水じゃない?」
「だよね!」
おおっ、この世界は元の世界と同じだ。
鬼門の方角は北東、桃太郎の家来はサルとトリとイヌ。
「おっ、裕樹も乗り気ね?」
「もちろんだよ、受験でずっと行けなかったんだから」
「そうね、やっと行けるんだよね……」
小百合は俯く。少し悲しげな表情で。
「裕樹は新海アニメが好き?」
いきなり何を言い出すんだろう、小百合は。
あれほど新海アニメについて二人で語り合ってきたというのに。
「好きだよ。だからこうして聖地巡礼するし、してきたんじゃないか?」
他の作品も一緒に行ったよね。『君の名は。』も『天気の子』も、中学生になってから。
「私も好き。でもこんな女の子、変じゃない? 今まで中学生だったから許されていたような気がするの」
そんなことないよ。変と言うやつがいたらぶっ飛ばしてやる、と鼻息を荒くしそうになってふと思う。
そっか、小百合は心配しているんだ。高校デビューを。
四月から僕たちは別々の学校に通う。幼馴染としてこれは初めてのことだった。
「大丈夫だよ。高校にも絶対いるよ、新海アニメファンが」
「そうだよね、変じゃないよね。高校にもいるよね、私みたいな女の子が」
顔を上げる小百合。
僕に救いを求めるその瞳にドキリとする。
四谷見附橋から落ちた時、小百合は「離れたくない」と言ってくれた。
あの世界は、本当にパラレルワールドだったのだろうか?
小百合が望む「守護神が兎」となった世界。それは、もしかしたら、彼女の心の世界への旅だったのかもしれない。
「ねえ、裕樹」
「ん?」
本当は言いたい。
やっぱり小百合は変だ。僕じゃなきゃ相手はできないんだ。だから高校に行っても男子には近づかない方がいいって。
そんな想いが爆発しそうになる。
「新海監督ってまたアニメ作るよね?」
「ああ、二年半後にね、きっと」
新海監督は三年ごとに新作を発表している。
ということは、次の作品が封切になるのは二年半後だろう。
「そしたらまた、一緒に聖地巡礼してくれる?」
「もちろんだよ」
「でもその時、私たち大学受験中だよ」
「そんなの関係ない。気になるなら受験が終わってから行けばいい、今回のように」
小百合と一緒なら、どこにでも行ってやるさ。
そう言おうとして僕は気付く。これは彼女の願いなんだ——と。
最新作の聖地巡礼は今日行ってしまうから、次のきっかけは二年半後になってしまうんだ。
こんなに先の希望に必死に手を伸ばそうとしている小百合。その想いに気付いた瞬間、涙が出そうになってきた。彼女がこんなに頑張っているのに僕は何してるんだよ。しっかりしなくちゃダメじゃないか。
だから思い切って提案する。
「それよりもさ、まだ行ってない新海アニメの聖地が沢山あるじゃん」
「それって?」
「例えば宮崎とか種子島とか津軽半島とか?」
さすがに宇宙とかアガルタは言わないでおいた。
「行こうよ! 僕は小百合と一緒に行きたいんだ」
「えっ?」
小百合はぽっと顔を赤らめる。
「高校生には遠すぎるよ。お泊りになっちゃう……」
「あっ……」
何言ってるんだ僕は。
ああ今の発言を取り消したい。本当に行きたいのは確かなんだけど、状況を考え無さ過ぎた。
二人で顔を真っ赤にして、しばらくの間俯きながら駅までの道を歩く。
すると小百合がぽつりと言った。
「でも、飛騨高山なら……」
そっか、そうだよ。
飛騨高山という聖地があったじゃないか!
「三葉のように?」
「そう、三葉のように」
映画『君の名は。』では、高校生の三葉が飛騨から東京を日帰りする。
だから僕たちだって高校生になれば出来るんだ。その行動自体がまさに聖地巡礼。
「じゃあ、夏休みに行こうよ!」
「うん、私バイトしてお金を貯める」
「僕だって貯めるよ。楽しみだね、飛騨高山」
そう言いながら、勇気を出して僕は小百合に手を差し出した。
この先二人がずっと手を繋いでいられるように。
「うん、楽しみ!」
小百合の柔らかな手。
もうこの手を離したくない。たとえまた橋から落ちることになったとしても。
「そうだ、神津島にも行ってみようよ」
「それって、お泊り?」
「いやいやいやいや、そうじゃないと思うよ、きっと……」
この春、僕たちは新しい世界を歩き出したんだ。
おわり
ミチル企画 2023GW企画
お題:『春』『旅』『うさぎ』
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