冬のいず ― 2019年01月18日 07時47分14秒
木等暦(きられき)高校には一つの伝説があった。
――中庭の大きな楠の下に静かに佇む白い大理石の椅子。
この椅子に座って百冊目の本を読み終えた時、三つの願いが叶うという。
「ぴったりじゃん、その伝説、読書好きの私に!」
入学式の日に伝説の噂を聞いた倉科来栖(くらしな くるす)は、これから始まる高校生活に胸を踊らせる。
が、彼女は知らなかったのだ。
大理石の椅子に座ることができるのは、校内でたった一名であることを。
毎年一月に行われる校内読書感想文コンテストの優勝者。
その人のみが、大理石の椅子に腰掛けて読書することができる。
「一月ってなによ。そんなの一年生には無理じゃん……」
入学して一週間。
中庭の椅子の伝説について調べ尽くした来栖は、大理石の椅子に腰掛けるための条件を知って落胆した。四月に入学したばかりの新入生にとって、コンテストは遥か先、九ヶ月後の出来事なのだ。それまでの間、一年生は誰一人として中庭の大理石の椅子に座ることはできない。
「どうりで、いつも同じ人だったのね。あの椅子に座っているのは……」
長い黒髪、メガネの似合う上級生。
教室の窓から昼休みの中庭を眺める来栖の瞳は、本を読む彼女の姿を羨望を込めて映し出していた。
「あーあ、私もあの椅子に座って本を読みたいなぁ……」
文学少女なら誰もが抱く(と来栖は思っている)願望。来栖はへこたれない。
昼休みの中庭を眺め、椅子への憧れを強くするたびに、読書感想文コンテスト優勝への想いを募らせていった。それを支えているのは、文学少女には珍しく超ポジティブな思考。
「もしかしたら、逆にチャンスかもよ……」
例えば、コンテストが五月にあったとしよう。
それならば新入生も参加できる。が、四月に入学したばかりの一年生にとっては準備期間がわずかしかない。
これでは圧倒的に不利だ。上級生が勝利するのは間違いない。
でも、九ヶ月後だったらどうだろう?
一年生にも十分な準備時間が与えられるし、受験で忙しい三年生はほとんど参加しないはず。となると、そこで繰り広げられるのは一年生と二年生のガチバトル。一年生にだって勝機は十分ある。
「それなら、今、私がやるべき事は……」
来栖はスマホを取り出して、ネット検索を開始した。
キーワードは『小説』と『感想文』。
今のうちに感想文スキルを上げようというのが、彼女の魂胆だった。
しかし、検索に引っかかるのは「楽して読書感想文を書く方法」とか「歴代の読書感想文コンテスト優勝作品」とか、そんなサイトばかり。
「ダメダメ、こんな月並みな感想では。もっともっと、審査員の教師や全校生徒の心を鋭くえぐるような、尖った感想を書けるようにならなくちゃ!」
校内コンテストで優勝するためなら、これくらいは当たり前だろう。人と同じ感想文では皆の目には止まらない。
ちなみに木等暦高校の読書感想文コンテストは、五人の審査員による投票(一人分の持ち点は百点)と約千人の全校生徒の投票(一人一点)によって決まる。生徒による投票率が一、二割に留まっている現状では、優勝者は実質、審査員の投票によって決まると言っても良いだろう。
そこで来栖は付け加えた。検索ワードに『鋭い感想』や『厳しい感想』といった内容を。
すると、とあるサイトが彼女の目に止まったのだ。
「こ、これは!?」
――チミル企画。
可愛らしい感じの名前。その響きについ惹かれてしまう。
なんでも小説の競作サイトで、いろいろな人から感想が寄せられるところらしい。
しかし、サイトの評価についての検索結果には、恐るべき名前の由来が記してあった。
――厳しい感想がウリ。生半可な作品を投稿すると血を見るので、そう呼ばれている。
「血を見るからチミルって、一体どんな感想が寄せられてるのよ……」
逆にすっかり興味を持ってしまった来栖は、その年の冬に行われたイベントのサイトを覗いてみる。そこには『ちっちゃな異能』というテーマで投稿された作品が並び、作品に寄せられた感想の数が表示されていた。
「どれどれ……」
リンクをクリックすると作品が表示される。そして来栖は寄せられた感想に目を通して驚いた。
そこには本当に辛辣な感想が並んでいたのだ。
『冒頭が冗長でつまらない。これでは読者が最後まで読んでくれない』
『中盤の展開がなんか変。主人公の気持ちを考えると、こんな展開にはならないはず』
『ラストが納得いかない。作者はこの作品を通して何が言いたいのか』
「うわぁ、これってマジ……?」
それは来栖にとって驚愕の光景だった。
なぜなら、読書感想文についての彼女の概念を根底から覆すものだったから。
――読書感想文とは、作品リスペクトの上に構築されるもの。
中学校までの国語の授業を通して、来栖はそう理解していた。授業で扱われている文学作品だって、「主人公の気持ちは?」とか「作者が目的としていることは?」と聞かれることはあっても、「この作品のダメなところは?」という問いはなかった。先生もそんな指摘はしないし、作品批評に対する答えも教えてくれない。
「でも、こういう視点が重要かも……」
さすがに、読書感想文コンテストの本番で作品をディスるのは不適切だろう。
しかし、著名な文学作品とて時代の波についていくのは難しいはず。その時代に合わなくなった部分を、高校生というフレッシュな視点で指摘してみればいいのだ。このチミル企画のように。
その指摘が皆をハッとさせるものであれば、かなりポイントを稼げるに違いない。逆に、今の時代にも通用する部分があれば、それはきっと人間の本質を突いた部分であり、作品を書いた作者の意図を浮き彫りにできる可能性がある。
「なんか燃えるわね。よっしゃ、このサイトで感想書きを鍛えてみるか」
来栖は早速、チミル企画のゴールデンウィーク祭りに参加してみることにした。
チミル企画のイベントは、年に三回行われていた。
――ゴールデンウィーク祭り、お盆祭り、年末年始祭り。
イベントの度に寄せられる作品のテーマが異なり、しかも力作揃いで純粋に作品を楽しむこともできる。
そして驚いたのが、寄せられる感想の質の高さだ。
確かに、「血見る企画」と異名をとるだけあって、辛辣な言葉から始まる感想は多い。しかし、その主張の根拠となる部分が、どの感想にも丁寧に書かれているのだ。これは作品をしっかりと読み込まないとできないことだった。
「すごい、すごい……」
ゴールデンウィーク祭りでは、二、三の作品にちょこっと感想を書いただけの来栖だったが、お盆祭りでは作品をじっくりと読み込んでみようと決意した。
お盆祭りが始まると、来栖は感想が集まりだした作品からじっくりと読んでみることにした。感想が多い作品ほど、感想の書き方の勉強になるからだ。
そして寄せられてくる感想を読んで、来栖は不思議な共感を覚える。
「あれ? この人の感想、私が感じたことと一緒だ」
作品を読んでいる時に覚えた違和感。来栖はそれをなんとなく感じただけであったが、別の人からは解説が付け加えられていたのだ。そこには違和感の原因について、丁寧な分析結果が記してある。
「そうか。だからあの部分、私も違和感を覚えたんだ……」
これは非常に勉強になる。
違和感は、ぼやっと抱くだけではダメなんだ。
肩透かしを食らった部分は、それなりの理由が存在しているんだ。
それをちゃんと文字にすることができれば!
感じたことをしっかりと表現できれば、読書感想文コンテストの優勝はぐっと私に近づくはず!
そしてそのやり方は、このチミル企画の感想にぎっしりと詰まっている。
来栖は宝の山を見つけたような気がした。そして作品を次々を読み込んでいく。作品をちゃんと読まなければ、他の感想人と意見を共有することはできない。
来栖は感想も書いてみた。
自分が抱いた感動や違和感と向き合って。
なぜそんな感情が生まれたのか、自分なりの分析を行いながら。
ある時は、他の方の感想を参考にしながら。ある時は、他の方の感想とは違う部分を意識しながら。
――他の方とは違った感想。
これは読書感想文コンテストにおいて重要な部分だ。他の生徒と同じ感想文を書いていては優勝できないことは明白だから。
優勝するためには、自分独自の感想を持つことも必要なのだ。それが鋭利な刃物になるか、鈍器になるかは書き方次第。鋭利な刃物にする方法は、チミル企画が教えてくれる。
こうして感想を書いているうちに、来栖はあることに気がついた。
それは、寄せられる感想が、ある一つのマナーに沿って書かれていること。
――作品はディスるが、作者はディスらない。
このマナーは、来栖が思い描いていた理想的な読書感想文のイメージとピタリ一致していた。
ゴールデンウィーク祭り、お盆祭り、年末年始祭り。
チミル企画のイベントで着々と感想書きの技術を磨いた来栖は、一月に開始される校内読書感想文コンテストに参加する。そして先生方による審査員部門で一位(二三五点)、そして校内投票においても一位(三七点)を獲得し、見事総合優勝を果たしたのであった。
◇
『冬のイズ』
「あー、やっと、やっと百冊目を読み終わったわ!」
私は手にしていた本を制服の膝の上に置くと、大理石の椅子に座ったまま楠の木漏れ日に向かって両手を高く突き上げ、込み上げる充実感を満喫するように大きく伸びをした。
――三つの願いが叶うという、中庭の椅子伝説。
馬鹿げた噂と一蹴する友人が多い中、私は愚直にも高校生活をその伝説に捧げてきた。
一年生の時は読書感想文の特訓、そして一月の校内読書感想文コンテストで見事優勝を果たす。
しかし、大理石の椅子に座る権利を得てからが大変だった。
『中庭の大理石の椅子に座って百冊目の本を読み終わった時、三つの願いが叶う』
私が持っている情報は、たったそれだけだったから。これではあまりにも少なすぎる。
読む本って、ハードカバーオンリーってことはないよね?
通学の電車や自宅で続きを読んじゃダメなの?
同人誌は? ネット小説は?? 漫画は???
知りたいことが沢山あった。でもその真相を知っているのは、歴代の校内読書感想文コンテストの優勝者だけ。
「あのう、先輩。三つの願いを叶えるための条件について、詳しく教えて欲しいんですけど……」
「あら? あなたはそんなことの為に、読書感想文コンテストに応募したのかしら?」
ニヤリと含み笑いを隠しつつ、誰も私に詳細を教えようとしない。
あれって絶対知ってる顔だ――と確信するものの、知らないと言い張る先輩方に詰め寄るわけにもいかない。
仕方がないので、私はなるべく薄い文庫本を百冊選び、通学や自宅で続きを読むことはせず、大理石の椅子だけで読破することを決意した。
しかしここから私は、新たな問題に直面する。
仮にも私は校内読書感想文コンテストの優勝者。全生徒から注目される、大理石の椅子に座る資格を得た文学少女なのだ。
校内のインテリジェンスを象徴する楠の下の椅子のお姫様が、薄い文庫本をペラペラと高速でめくっていては格好がつかないというもの。
だから私は、ハードカバーを読んでいるように見せることができる薄い文庫本用の便利グッズを(泣きたいほど高価だったけど)購入した。そして大理石の椅子に姿勢良く座り、そよ風に誘われるようにページをめくって、見かけだけは優雅な文学少女を装うことにした。
問題はこれだけではなかった。
冬の寒さ、夏の暑さ、そして雨や風。特に、冷えた大理石に座る厳しさは想像を絶するものがある。
だから、冬の間の読書は天気の良い昼休みだけにして、春になって暖かくなると放課後も中庭の椅子に座って本を読むことにした。もちろん部活なんてやっている余裕はない。
こうして私が百冊目を読み終わったのは、秋も十月の半ばを過ぎた頃だった。
『おめでとう、ござまイス!』
出てきた、出てきた、なんか出てきたよ。
予想とちょっと違っていたのでさすがの私も驚いたが、盛大な伸びの途中だったこともあり気にしないふりをして声に耳だけ傾ける。
『あれ? 驚かないんイスか?』
「疲れちゃったのよ。中庭の椅子で百冊の本って、どんだけハードル高いんだか」
声の主が現れた、ということは、私の百冊チャレンジが成功したという証拠だ。
私はついに勝ったのだ。清楚な文学少女を装い、部活を楽しむこともせず、高校生活を賭けた一か八かの挑戦に。
「それに私は驚かないわ。だって今まで読んだ本のほとんどが、こんな展開だったもの」
そう、私はずっとライトノベルを読んでいた。しかも精霊が登場するファンタジー系。
その中に出てくる願いは大抵三つで、なんとかの精霊が出てきて順番に一つずつ叶えてくれる。だから私は、百冊目の本を読み終わった時に、どんな精霊が登場するのだろうと期待を込めて心の準備を整えていた。
『つまらなイス。もっと驚いて欲しイス』
「ていうかあんた、実体はないの?」
キョロキョロと私は声のする方に首を向ける。しかし、猫っぽい容姿をしているとか、天使っぽく羽ばたいているとか、そんな精霊の姿はどこにも見当たらなかった。
『「あんた」って、そんな言い方はなイスよ、校内一の大精霊「イス」様に向かって』
校内一? 大精霊にしてはなんかスケールちっちゃくない?
それに名前が「イス」ってのも、ずいぶん安価なネーミングね。
でも、ここで大精霊様のご機嫌を損ねるとすべてが台無しになってしまう可能性がある。それはヤバい。
「大変申し訳御座いませんでした。大精霊イス殿」
椅子から立ち上がった私は、ゆっくりと回れ右をして椅子に向き直る。両手でスカートの裾をつまむと、静々と厳かに椅子の前に跪いた。精霊の名前や言葉づかいから判断して、椅子の精霊に違いない。
「どうか、私めの願いを叶えて下さいまし」
深々と頭を下げると、椅子の方から声がする。
『うむ、分かったイス。キミの願いは聞き入れたイス。ではこれから残りの二つの願いを叶えるために、魔王退治に出陣するのイス!』
ええっ、魔王退治? それに一つ目の願いなんて言ったっけ?
もしかして、「願いを叶えて下さい」と言ったのが一つ目としてカウントされたとか? そんなことで願いを消費されるのは納得がいかない!
これは詐欺だ。消費者省に訴えてやる。精霊が出てきたところからやり直せ!!
私が顔を真っ赤にすると、声の主がクスクスと笑い出した。
『やっと驚いてくれたイス。嬉しイス、魔王退治なんて嘘イス』
なんだって!?
魔王退治のところを疑わなかったとは、なんたる失態。ただのラノベの読みすぎじゃん。
それにしても大精霊らしからぬ嘘発言に、私はカチンとくる。
「文学少女をなめとんか。今すぐゲロ吐いて大理石に胃液ブチまけたろか!?」
『ごめんなさイス、ごめんなさイス。謝るから胃液だけはやめて、溶けちゃイスから……」
あら、私としたことがはしたない。
でもこれで、声の主が大理石の椅子であることが判明した。大理石の敵は胃液とラノベにも書いてあった。
というか、校内一を語るにしては意外とチキンな大精霊じゃないのよ。
一気に親近感が増してしまった私は、椅子に向かって優しく語りかける。
「こちらもごめんなさい。私、こういう体験は初めてなの。あなた、この大理石の椅子の精霊さんよね?」
『そうイス。名前も「イス」って言うイス。よろしくお願イス』
まあ、ありがちな展開ね。
というか、テンプレートそのままかしら。
「こちらこそよろしく、イス。それで早速一つ目のお願いなんだけど……」
『ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってイス』
願いを切り出す私にイスが待ったをかける。
まさか、その前に魔王退治なんて言い出すんじゃあるまい。
『もっとよく考えて欲しイス。もし願い事が一つだけだったら、どうするんイスか? それに胃液はやめてくれイス』
口に指を突っ込んでゲロ準備していた私をイスが諭す。
「でも三つなんでしょ?」
そういう伝説って聞いているんだから、今更違うとは言わせない。
それにさっき、二つ以上あるようなこと言ってたよね。
『まあ、そうなんイスけど……』
「じゃあいいじゃない。早速一つ目を叶えてよ」
『えっと、願い事には制限があるんイス。まずそれを説明しなイスと……』
制限か……。
まあ、これは当たり前かも。
最初に「願いは無限に」という願いを叶えてもらったら、あとはやりたい放題だもんね。
「それはどんな制限?」
『校内限定でイス』
校内限定? なんてちっぽけな。
「じゃあ、世界平和を願おうとしていた私はどうなるの?」
嘘だけど。
『校内平和なら可能でイス。ふむふむ、最初の願いは「校内平和」――でイスね』
「ちょちょ、ちょっと待てやコラっ!」
『だから胃液はダメでイス!』
危ないところだった。
最初の願いが校内平和になったら、一生後悔し続けるところだった。
「まあ、校内限定が仕様ってことなら仕方ないわね。でも問題ないわ。私の願いは、二年四組の首藤蹴斗(しゅとう しゅうと)君に振り向いてもらうことだから」
首藤蹴斗君。
サッカー部のエースストライカーだ。
長身のイケメンで、元スペイン代表のフェルナンドウとかいう人とそっくり。
私は今回の三つの願いを駆使して、彼といい仲になりたいと考えていた。
『残念ながら、その願いはダメでイス。実はもう一つ制限がありまイスて、叶えられる願いは椅子に関することだけなんイス』
「マジ?」
ここに来てまさかの椅子縛り。
だったら早く言ってよ。願いが椅子に関することだけって知っていたら、こんな風に青春を無駄にすることはなかったかもしれない。
呆れた私は、完全に脱力した。
「他に制限はないの? この際だから全部言っちゃってよ」
『法律や常識の範囲内ってのはありまイスけど、基本的には「校内限定」と「椅子関連」の二つイス』
「椅子縛りってあんた変態? 初めて聞いたわ」
少なくとも、今まで読んだラノベにそんな記述はない。
『椅子の精霊でイスから』
「じゃあ、蹴斗君のことはどうするのよ?」
『それは自分で考えて欲しイス』
「全く使えない精霊様ね……」
私は大理石の椅子に手を当て、椅子が鎮座する中庭の芝生を見ながら考える。
思えば私はずっと、椅子の前に跪いたままだった。
「椅子に関連した願いで、蹴斗君を振り向かせる内容とは……」
そんな願いってあるのだろうか……?
その時、私は思い出した。
この椅子に座る資格を持っている校内で唯一の生徒は、誰なのかということを。
「蹴斗君が毎日、この大理石の椅子のことを見てくれますように。ってのは?」
別に、最初から蹴斗君に自分を好きになってもらおうとは思わない。
まずは私のことを気にかけてくれればいいのだ。
それならば、この大理石の椅子を毎日見てくれればいい。そこに座る資格を持っているのは校内で私だけなのだから。蹴斗君がこの椅子を見る。それはイコール、私のことを見てくれることになる。
『大丈夫でイスよ。一つ目の願いはそれでいイスか?』
「いいっス!」
我ながらのナイスアイディアにイスと同じような口調になってしまったが、こうして私は一つ目の願いをイスに託したのであった。
◯
「あー、ドキドキする……」
次の日、私の心臓は朝から高鳴りっぱなしだった。
――今日は蹴斗君が私のことを見てくれる。
正確には「大理石の椅子を」だけど。
イスがちゃんと願いを叶えてくれているのかという点も疑問だけど、そんなことを気にしている余裕は私にはなかった。
「枝毛が目立たないといいけどなぁ……」
昨日は学校帰りに新しいシャンプー、コンディショナー、トリートメントを買ってきた。なるべく髪がサラサラに見える高級なやつを。そしてお風呂では念入りに、自慢のセミロングの黒髪の手入れを行ったのだ。
蹴斗君の二年四組の教室は二階にある。そこから中庭を見下ろすと、楠の脇から私の後頭部が見える位置関係だ。だから髪の印象が最も重要になる。
朝は時間をかけてブラッシング。やっとのことで風にそよぐナチュラルヘアが完成した。そして新しく買った本を手に私は家を出る。もちろんハードカバーの文学少女っぽいやつだ。
本選びも大変だった。
まずは見た目重視。大理石の椅子に座った時に一番見栄えがする本を選ぶ。カバーは白を基調としたシンプルなもの、カバーを外した時の本の様子も確認した。中身はほとんど確認しなかったけど、たまには変わった本を読んでみるのも面白い。
一瞬、英語の本なんてオシャレかなと思ったけど、二階から英文が見えて「なに、このインテリぶった女」とドン引きされると逆効果だ。あくまでも蹴斗君は椅子を見てくれるのであって、私に興味があるのではない。
昼休みになると、私の緊張はマックスに達していた。
いつもの中庭での読書なのに、心臓のドキドキが止まらない。校舎からの生徒の視線なんて今までは全然気にならなかったのに。
大理石の椅子の前に立つと、力を込めて椅子を押して少しだけ向きを変える。二年四組の教室から私の右側の顔がチラリと見えるシチュエーションにするためだ。どちらかというと、私は右側の表情に自信があった。
そしてクッションを敷いて、ゆっくりと椅子に腰掛ける。
姿勢を正し、制服のスカートの膝の上に昨日買った白い本を置く。両手で本を持ち、最初のページをめくった――が、内容は全く頭の中に入ってこなかった。
頭の中は、余計な思考がグルグルと勝手に回り始めている。
右側の顔が見えるようにしたんだから、髪を結んできた方がよかったんじゃないの?
いやいや、昨晩は念入りに髪の手入れをしたんだから、結ばないのが正解でしょ?
どちらにせよ昨日までとは全然違う私なんだから、それを分かってくれるといいな……。
するとイスの声が聞こえてきた。
『ほら、蹴斗君が見てるイス』
えっ、どれどれ? と校舎を見上げたいのをぐっとこらえる。
もし蹴斗君と目が合ったらどうすんのよ。
それこそパニックだし、変な表情をして自意識過剰と思われたらマイナスだし……。
私は必死に平静を装い、小声でイスに語りかける。
「まだ見てる?」
『うーん、また弁当を食べ始めちゃったみたイス』
ということは、窓際の席で弁当を食べてるってことなのかな?
そもそも席が窓際なのかもしれないし。まあ、そんなことはどうでもいい。授業中に私がこの椅子に座ることはないのだし、昼休みに蹴斗君が窓際にいるという事実だけが重要なんだ。
そこで私はふと思いつく。
明日からこの椅子でお弁当を食べればいいんじゃないか――と。
昨日までの私は、百冊の本を読破するため必死になっていた。三時間目と四時間目の間に早弁して、昼休みのすべての時間を読書に費やしていた。
でももう、そんな努力はしなくてもよい。すでに百冊を読み終わって、精霊イスが登場したのだから。
もし、教室から見下ろして美味しそうなおかずがチラリと見えたら、蹴斗君はもっと私に興味を抱いてくれるかも。
ところで蹴斗君はどんなおかずが好きなんだろう?
サッカー部で男の子だから、やっぱミートボール?
だったら美味しそうなミートボールが入ったお弁当を作って来ようかな?
でも、女の子のお弁当にミートボールばっかってのもヤバいから、やっぱミートボールは一個? それよりもサッカーボールおむすびってのもいいんじゃない? 海苔を上手く切ってサッカーボールみたくして。そしたらいつの間にか蹴斗君が隣にやって来て、「それ、俺にも分けてくれよ」って言ってくれたりして……。
暴走する妄想に、思わずニンマリしてしまう。
しかし、その時イスに掛けられた言葉で、私は一瞬で素に戻った。
『素敵イス、その表情。蹴斗君もチラリと見て、ほっこりしてたイス』
マジ?
見られた?
妄想に浸るこの表情を。
『ボクと出会った女の子たちはみんな、そんな感じだったイス。気になる異性に対して、いろんな表情を作ってたイス』
イスに出会った女の子というと、校内読書感想文コンテストで優勝した先輩方だ。
なんだ、みんな百冊の本を読破して、イスに願いを叶えてもらってんじゃないの。
『クスリと笑顔を見せたい女の子は、ライトノベルが多かったイス。中には、シェイクスピアのカバーでごんぎつねを読んでた女の子もいたイス。あれは素敵な涙だったイス』
ごんぎつねはヤバいわ。
あんなピュアな涙を見せられたら男子はイチコロかもね。
ていうか、涙を流すなら別にシェイクスピアでもよくね?
「先輩方はみんな頑張っていたのね」
『そうイス。今のキミのようにイス』
今の自分のように?
昨日までの自分はただ百冊を読むことばかりに夢中で、他の努力は全然して来なかったような気もする。
「それで、先輩方の想いは叶ったのかしら?』
『叶った人もイスるし、叶わなかった人もイスる』
「それって当たり前じゃない」
『そうでイス。一つ確実に言えるのは、どの女の子も素敵になったイス』
先輩方の願いも、みんな恋だったのかな?
恋が女性を綺麗にする、って昔から言われているけど、ようやく私もそれが分かったような気がする。椅子の伝説の願いが叶えば簡単に恋が手に入る――なんて軽率だった。人生、そんなに甘くない。
『気をつけなきゃいけないのは、イスがイズになることでイス』
「イスがイズ?」
『そう、心理学的な戒めで、こんな言葉があるのイス』
すると頭の中でエコーのように、イスの言葉が広がっていく。
『イスがイズに変わる時、恋に冬が訪れる』
「なに、その言葉?」
『キミの心がイズにとらわれてしまった時、詳しく解説してあげるイス』
私の心がイズにとらわれる?
なにそれ? イスがイズに変身するんじゃなくて? そもそもイズというのが、何のことなんだかわからないんだけど。
それにその時ってもう手遅れなんじゃないの? 恋に冬が訪れちゃってるんだから。
不満そうな顔をする私に、イスが忠告した。
『ほらほらそんな表情をしちゃダメでイス。蹴斗君が見てるイス』
ずるいよ、イス。
それに、本当に今、蹴斗君が見てるのかしら?
さすがにもうお弁当は食べ終わってるんじゃない?
校舎を振り返ることができないもどかしさに私は一人悶絶する。
仕方がないので一つ息を吸って呼吸を整え、読書(のふり)に戻ることにした。
翌日から私は、いろいろな事を試してみた。
髪を結んでみたり、結ばなかったり。
結ぶ時はポニーテールにしたり、三つ編みにしてみたり。
お弁当にミートボールを入れたり、サッカーおむすびにしてみたり。
そして一ヶ月後。
ついに私の夢が叶う瞬間がやってきた。
中庭でお弁当を食べる私のところに蹴斗君がやってきて、いきなり告げたのだ。
「初対面なのに突然勝手なこと言ってゴメン。そのサッカーおむすび、今度の日曜日の試合の後に食べてみたいんだ。いいかな?」
◯
「どうしよう、どうしよう。イス、どうしよう!」
日曜日の午前九時。
私は中庭の大理石の椅子に座って逡巡していた。
「試合は校庭で十時からでしょ? それを観に行った方がいいかな? それとも、約束の一時までここで待っていた方がいいかな?」
椅子の横には保冷バッグが置いてある。
蹴斗君のために、サッカーおむすびを大量に作ってきたのだ。
『何言ってるのイス。試合の後にお弁当を食べたいってことは、応援して欲しいって意味イス』
「やっぱそうかな、やっぱそうよね。でも私、サッカーの試合って観るの初めてなの。危なくない? それにルール分からなくても大丈夫?」
『だから、サッカーのルールブックを読んだらって言ったんイス。なのに格好つけて、ごんぎつねなんて読んでるからいけないんイス。自業自得でイス』
「だって、蹴斗君に私のピュアな涙をアピールしたかったんだもん……」
久しぶりに読んだごんぎつねはヤバかった。ごん、やっぱあんたは神だよ。
『約束の時間までまだ四時間もあるんイス。ずっとここで待ってるんイスか?』
それもなんだか時間がもったいない。
なんで応援に来なかったの、と聞かれる事態もやっぱり避けたい。
「じゃあ、応援に行ってくる」
『だったら、椅子の下に落ちている大理石のかけらを持っていくといイス。持っていれば、ボクとお話できるのイス』
私は言われる通り椅子の下を覗き込む。すると五センチくらいの白い大理石のかけらが落ちていた。
「ふーん、これね」
私は拾ったかけらを目の前にかざす。純白のかけらは、黒曜石のように先が尖っていた。
『そうでイス』
この声は、かけらの方から聞こえたような気がした。
私はお弁当を大理石の椅子の上に置き、大理石のかけらを持って校庭に向かう。この場所は楠の木陰になっているから、お弁当を校庭に持って行くよりは衛生面でも良いだろう。
校庭に着くと、選手たちがユニフォームごとに分かれて練習を始めていた。相手チームもすでに到着しているようだ。
蹴斗君は……、あっ、いたいた。
彼は長身だからすぐ分かる。
ゴール前の列の先頭にいる蹴斗君は、ボールを味方にパスし、小さく折り返されたボールを思いっきりゴールに蹴り込む。
「ナイス、シュート!」
私は小さく声を上げる。が、その声はすぐに黄色い声援に打ち消されてしまった。
「キャーッ、蹴斗君!」
「今日もゴール決めてね!」
見れば、十人くらいの女生徒がベンチ裏に陣取っていて、シュート練習を見学していた。その光景を目にした私は、ここに来たことを強く後悔する。
――オシャレな髪型で制服のスカートも短めの可愛らしい女子たち。
蹴斗君がシュートを放つ度に、スカートを揺らしながら飛び跳ねている。
あんな可愛らしい子たちに私が敵うわけないじゃない。
私のスカートは長め。だって短いスカートで椅子に座ったら下着が見えちゃうから。私のスカート丈は、大理石の椅子に姿勢良く座った時、膝小僧がちょうど隠れるくらいに調整していた。
所詮、私は座ってなんぼの文学少女。立ち姿ではあの子たちには歯が立たないし、今のこの状況に至っては場違い感半端ない。
だから私は、校庭の隅で隠れるようにして試合を見学することにした。
『ねえ、もっと近くで試合を観なくていイスか?』
「いいのよ、イス。ここが私のボジションなんだから」
それは嘘だった。
本当は、早くこの場から去りたい、早く私が居るべき中庭の椅子に戻りたい、そんな気持ちで一杯だった。
でもここに居なければ、蹴斗君の活躍を観ることができない。私は試合後の蹴斗君との会話のためだけに、仕方なく校庭の隅に立っていた。
幸い、蹴斗君は試合でとても目立っていた。私もつい試合に夢中になる。チームは彼にボールを集める。だからボールを触る回数も多く、誰よりも多くのシュートを放っていた。
「惜しい!」
「次頑張って、蹴斗君!」
彼がシュートを打つ度に、女子たちの声援が飛び交う。
不幸なことに、男子とは音域の異なるその黄色い音の波は、サッカー部員の掛け声にかき消されることなく私の耳にも届くのだ。
声援に対し、蹴斗君も手を上げて応えている。
そんな光景を目にするたびに、私はだんだんと不安になってきた。
『ほら、こちらも大きな声で応援しなくちゃでイス』
そしたら蹴斗君は私にも手を振ってくれるかな?
いやいや、この場で決してそんなことをするわけにはいかない。
「バカね、イス。そんなことしたらあの子たちに見られて、「なに、あのダサい女。ライバルのつもり? 応援する資格あるのかしら」って思われるのがオチよ」
それは恐い。それが回避できるなら、蹴斗君が私に手を振ってくれなくてもいい。
「蹴斗君、試合が終わったら本当に中庭に来てくれるのかしら?」
『そう言ってたでイスから、そうなんじゃなイスか』
「お願いだから、いい加減なこと言わないでよ!」
私はついイスに八つ当たりする。
『ボクだってちゃんと聞いたイス、彼の言葉を。そんなに疑うなら、二つ目の願いにしたらいイズら。蹴斗君が試合後に中庭の椅子のところに来ますようにって、そう願えばいイス』
確かにそうすれば、蹴斗君は確実に来てくれるだろう、試合の後、中庭へ。
でも蹴斗君はちゃんと私に告げたのだ。その時間にサッカーおむすびを食べに来ると。迷惑じゃないならお願いすると頭を下げて。そんな大事なこと、私が聞き間違えるはずがない。
それに、ここで二つ目のお願いを使うということは、彼の言葉を疑うということだ。好きな人の言葉を疑うなんて、私はそんなことをしたくない。
いやいや、もっと最悪なケースも考えられる。もし蹴斗君が試合後あの女子たちに誘われて、急に彼女たちと一緒にお昼を食べたくなってしまった時だ。彼は自分の意思に反し、二つ目のお願いによって中庭に来ざるを得なくなる。そんな状況で、美味しくおむすびを食べられるはずがない。
そうこう考えているうちにも、黄色い声援が容赦なく私の耳に飛んでくる。その声の力は、ぐるぐると私の思考を闇の底へと落とし込んでいった。
「ダメだ、ダメだ、こんなことじゃ。なにか素敵なシーンを、蹴斗君と私だけの特別なシーンを思い浮かべなくちゃ」
魔がさす、というのはこういうことを言うのだろう。
目を閉じて私が思い浮かべたのは、こんなシーンだった。
――白い病室、青い空。窓際に座って本を読む私の前で、蹴斗君がゆっくりと目を覚ます。
このシーンに、あの女子たちは似合わない。
私だからこそ、スカートが長くて姿勢の良い文学少女の私だから絵になる。
そして蹴斗君は私に恋をする。本を読みながら、静かに寄り添う私に。
『すごく良イズら、そのイメージ。ボクを握る手からビンビンと伝わってくるのが心地よイズらよ』
イスも賛同してくれた。やっぱり私って、こういうシーンの方が似合うんだ。
『どうするでイズら? そのイメージを二つ目の願いにしちゃえイズら』
「でも、どうやって?」
『キーワードを病室にすればいイズら。そうなることを願えばいイズらよ』
ええっ、それって……?
蹴斗君が怪我するってこと?
『大丈夫、気にすることはなイズら。サッカーに怪我は付き物なんでイズら』
「それはそうだけど……」
私は迷っていた。
願いは想いを叶えるもの。なのに人に不幸をもたらしても良いものだろうか。
その時だった。
グランドが割れんばかりに湧き上がったのは。
見ると蹴斗君がガッツポーズをしながらベンチの方へ走っている。
「ナイスシュート!」
「やったね、蹴斗君!」
「もう一点、お願いっ!」
女子たちの声援から判断して、どうやら蹴斗君がシュートを決めたようだ。
そしてベンチからグラウンドに戻る蹴斗君は、嬉しそうに飛び跳ねる女子たちに手を振った。
その光景に、私は自分の愚かさ悔いる。
彼女たちは見ていたのに、私は見ていなかった。
彼がシュートを決めるシーンを。
私は何のためにここに居たの? もし試合後に彼が中庭に来てくれたとしても、私は何を話せばいいの?
もう何がなんだかわからない。これからどんな選択をしても最悪の結果しか見えない。いっそのこと彼がこのグラウンドから消え去ってしまえばいい。
だから私は決意した。
「イス、お願いって椅子に関することだったら何でもいいんだよね?」
『何でもいイズら。ここは校内だから、制限は椅子だけになるんでイズら』
「じゃあ、今から二つ目のお願いをするわ」
私は唱える。試合再開の笛の音と同時に。
「蹴斗君が車椅子に乗ることになりますように」
『わかったでイズら』
イスが答えると私は目をつむる。
その瞬間は見たくない。たとえ私が望んだことだとしても。
なんて卑怯な女なんだろう。でも、こうするしかなかった。蹴斗君が試合後に中庭に来てくれても、来てくれなくても、私に訪れるのは地獄しかなかったから。
私の選択がさらなる地獄を招くとは、この時は思ってもみなかった。
「痛い、痛いっ!」
その時はあっけなくやってきた。
恐る恐る目を開けると、グランドの真ん中で蹴斗君が右足首を抑えてのたうち回っている。
『相手選手とヘディング争いで接触したでイズら。無理な体勢で足を着いたから、ありゃアキレス腱をやったに違いなイズら』
苦痛に顔を歪める蹴斗君。
その表情を見て、私は自分がしたことの愚かさに青ざめた。
『いイズらか、行かなくて。看病するチャンスでイズら』
そんなことできるわけがない。
あの怪我は私が願って起きたもの。
それはまるで、後ろからナイフで刺しておいて「大丈夫?」と声を掛けるようなものじゃない。
どうして私はあんなことを願ってしまったんだろう?
病室で涼しい顔をして寄り添うことができるなんて、どうして連想してしまったんだろう?
後悔が、後から後から押し寄せてくる。
ただ立ち尽くす私を、手の中のイスがイラついた口調で罵った。
『なんだ、自分の願いに責任持てないなんて情けなイズら。あーあ、オレ様の力が一つ無駄になったでイズら』
「うるさい、黙ってイス!」
やり場のない怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになった私は、大理石のかけらを地面に叩きつける。
そのかけらを見て私は驚いた。
「なに? これ……」
白いはずの大理石が、黒曜石のように真っ黒になっていた。
◯
それから一ヶ月近く、私は中庭の大理石の椅子には近寄らなかった。
蹴斗君に姿を見られたくなかったし、イスとも話したくなかった。
あの日、救急車で運ばれた蹴斗君はアキレス腱の縫合手術を行い、しばらく車椅子生活を送っていたという。その後、松葉杖を使って通学し、一ヶ月後にはなんとか歩けるようになったとクラスメートから聞いた。
そして学校が冬休みに入ったある日、私は久しぶりに中庭の大理石の椅子に座った。
イスに最後のお願いをするために。
「ねえ、イス。最後に教えて?」
すると耳に懐かしい声が響く。
『最後なのでイスか?』
それは試合の日に私を罵った声ではなく、以前と同じ穏やかな精霊イスの声だった。
「そうよ。今日が最後。別に今日じゃなくてもいいんだけど、ほら、年が明けたらすぐに読書感想文コンテストが始まるでしょ。私、優勝するつもりはないから、ここに座れるのもあとわずか。だから、最後のお願いをしようと思ってるの」
三つ目の願いを叶えた時、精霊は消えてしまう。
今まで読んだラノベがそう教えてくれた。
まあ、イスの場合、この大理石の椅子の精霊だから存在が消えるというわけではなく、私がイスの声を聞けなくなるというだけだと思うけど。
『毎度のことでイスが、ちょっぴり悲しイスね』
「私もよ」
しばらくの間、沈黙が漂う。
ほんの数ヶ月の間だったけど、イスと出会っていろいろなことがあった。
最初のお願いで蹴斗君がこの椅子を見るようになって、突然声をかけられ、そんでもって試合での大怪我。
後悔ばかりのラストだったけど、これを糧にして私という人間が成長できたら良いと思う。
「それでね、イスとお別れする前に、以前言ってたことを教えてほしいの」
『それってなんイスか?』
「ほら、言ってたじゃない。イスとイズがなんとかって」
『ああ、あれでイスね』
すると頭の中にいつかの言葉がエコーする。
『イスがイズに変わる時、恋に冬が訪れる』
「そうそう、それそれ」
『ちょっと説明が長くなるけど、いイスか?』
「いいよ。最後だもん」
私は楠を見上げると、大理石のイスの背もたれにゆっくりと体を預けた。
『あの言葉のイスとイズは、アルファベットで書くんでイス』
あれってアルファベットだったのね。
どうりでいくら考えてもわからないはずだ。
『イスはISU、そしてイズはIZUなんでイス』
私は声に従い、木漏れ日に向かって指を動かし文字をイメージする。
――ISUとIZU。
『この二つの言葉で、共通する文字はどれでイスか?』
「IとUね」
『そう、IとU(YOU)でイス。つまり「私」と「あなた」ってことなんでイス』
へえ~。
そういう意味が隠されていたんだ。
これは盲点だった。
『昔、ヨーロッパのある心理学者が、等号付き不等号の≦と≧を用いて、心の中の重要度を表したんイス。ほら、欧米では等号付き不等号の等号部分は、日本みたいに二重線じゃなくて一本線なんでイスからね』
私は再び宙に向かって指を動かし、等号付き不等号を描いてみる。
――≦と≧。
何回も描いてみるうちに、それらはそれぞれアルファベットの「S」と「Z」に見えてくる。
「そうか! イス(ISU)はI≦U、イズ(IZU)はI≧Uってことなのね!」
『そうでイス。イスは「あなたが大事」、イズは「私が大事」って意味なんでイス』
ようやく分かった。イスとイズの意味が。
最初、私は蹴斗君のことばかり考えていた。
彼の好きな文学少女はどんな感じだろうとか、どんなおかずが好きなんだろうとか。
しかし試合の時の私は逆だった。
蹴斗君の痛みよりも、自分の都合を優先した。
恋に冬が訪れるのも当たり前だ。
私が犯した失敗。
それを誰かに罰して欲しいと願い続けてきた、あの日から。感想という鋭利な刃物で切り裂かれるように。
私はそんな場所を知っている。
だから私は、この一ヶ月という月日に全力を注いだ。イスに出会ってからのストーリーを文字にすることに。
「私ね、書いてみたの。イスと私の物語を」
『知ってるでイス』
「それでね、チミル企画ってところに投稿しようと思うの」
さぞかし辛辣な感想が寄せられるだろう。
でもそれでいいのだ。私はそれだけのことをしたのだから。
『その先を言っちゃうのでイスか?』
「うん。だって、もう、お別れだから」
思えばイスは、一年前、私がこの椅子に座るようになってからずっと私のことを見ていてくれたのかもしれない。
暑い日も寒い日も、風の強い日も雨の日も。
そう考えるとなんだか涙が出てきた。
でも今日という日が良いのだ。イスに大切なことを教えてもらった今日という日が。
「私忘れない。イスとイズの話」
『そう言ってくれると嬉しイス』
「そして弱い心に負けそうになったら、必ずあの日のことを思い出すの」
イスがイズになった日。
自分の都合のために、人を犠牲にしたあの日。
「本当はイスに止めて欲しかったんだけどなぁ。私の心がイズに染まりそうになった時」
普通のラノベだったらストップをかけてくれるところだろう。「本当にいいの?」って精霊に。
でもあの時、イスも一緒にイズになっていた。それどころか、悪の道へと煽っていた部分もあるんじゃないかと思う。
『無理でイス。だって、ボクとキミの心は一体でイスから。あの時も、そしてこれからも』
「うん、それを聞いて安心した。薄々感じていたけど、初めからそういうことだったのね。これで心残りなく最後のお願いを言うことができるわ」
私は深呼吸する。
そして瞳を閉じ、大理石の椅子の手触りを確認しながら三つ目の願いを口にした。
「蹴斗君が、イスと私の物語を読んでくれますように」
競作企画
2018年12月30日 21時51分57秒 公開
■この作品の著作権は競作企画さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
◆テーマ:冬のイズ
◆キャッチコピー:イスがイズに変わる時、恋に冬が訪れる
◆作者コメント:運営の皆様、このような機会を設けていただき感謝いたします。
最後まで読んでくれてありがとう。これが本当の私なんです。
2018年12月31日 20時34分52秒 ゴンザレス
「冬のイズ」を読了しましたので、感想を記します。
途中までは興味深く読んでいたのですが、唐突に終わってしまった印象です。
もっと良いラストがあったんじゃないでしょうか。残念です。
そう感じたのは、おそらく作品の持つイメージがハッピーエンドを連<続きを読む>
2019年1月1日 14時54分29秒 さくら
あけましておめでとうございます。
主人公がドキドキしているところが、なんか可愛かったんですが、イスとのお別れはどうなったんでしょうか?
なんかモヤモヤします。もうちょっと説明が欲しかったと思い<続きを読む>
2019年1月4日 21時44分31秒 猪次郎
なんか、かったるかった。展開もテンプレだし。
イスの語り口もウザい。
もうちょっと工夫が欲しかったです。
どのように改稿したら良いかというと、一つの案としてイスの口調を普<続きを読む>
2019年1月10日 22時36分33秒 首藤蹴斗
冬のイズ、読まさせていただきました。
今でもサッカーおむすび、食べたいです。
明日の昼休みに、中庭に行ってみます。
◇
昼休み、大理石の椅子に座った来栖は、膝の上に本を置く。
今日は一月にしては天気がよく、風もないので最高の読書日和だ。それは同時に、最高のお弁当日和だったりする。
一応、来栖は蹴斗のためにサッカーおむすびを作ってきた。別に無駄になってもよいという奉仕の気持ちで。
「あー、今日は本当にいい天気ね」
楠の木漏れ日を見上げながら、大きく伸びをする来栖。
なんとも清々しい気分。こんなにも平穏な気持ちでこの椅子に座るのはいつぶりだろう。
昨晩、「首藤蹴斗」を名乗る人物が、チミル企画に投稿した来栖の作品にコメントを寄せてくれた。もし彼が本物の蹴斗だったら、これから中庭に訪れるはずだ。
もし、一緒におむすびを食べることができたらハッピーな展開。しかし、逆に作品を書いたことを咎められる可能性だってある。彼が怪我をしたことについて、ファンの女子に罵られるという最悪のパターンだって考えておかなくてはならない。さらに、あのコメント自体が嘘で、別の誰かのいたずらだったということだってあり得る。
いずれにせよ、何かを期待したり恐れたりすることは無駄なのだ。
来栖はできることをやった。
嬉しいことも、恥ずかしいことも、すべてを作品としてさらけ出した。
あとは運を天に任せるしかない。
「イス。今の私の気持ちって、イスでもイズでもないよね?」
大理石の椅子の精霊に教えてもらったISUとIZUの話。
今の来栖の気持ちを記号にすれば、I=Uと表現されるかもしれない。
そんなことを尋ねてみても、答えてくれる精霊はもう登場することはないのだ。三つ目の願い事を告げてしまったのだから。
「こんにちは、倉科さん」
不意に声を掛けられ振り向くと、そこには杖をつく蹴斗が立っていた。
「あわわわ、首藤君。今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ、勝手なお願いをしてゴメン」
いざ蹴斗を目の前にすると、来栖の心はあっけなく揺れ動く。
イスでもイズでもどちらでもないなんて、イスが聞いたら笑われそうなくらい。
「ちょっ、ちょっと待って。ここにはこの大理石の椅子しかないんだけど、えっと、どうしよう……」
「大丈夫だよ。ほら、この杖は椅子にもなるから」
そう言いながら蹴斗は杖を変形させる。簡易的な椅子に。道理で杖がごつくて、ヘンテコな形をしていたわけだ。
「便利な杖ね。じゃあ、今お弁当を準備するから待って……」
向かい合って椅子に座ると、来栖はお弁当を膝の上に広げた。サッカーおむすびが露わになると蹴斗が声を上げる。
「これだよ、これ。二階からこのおむすびがチラチラ見えて、気になっていたんだ。いい? いただいても」
「もちろん」
どうやら蹴斗は、文句を言いに来たようではなさそうだ。
来栖はほっと胸をなでおろす。
「うんうん。形もいいけど、味もいいね。もう一つもらってもいい?」
「どうぞどうぞ。もっと沢山食べてもいいよ」
美味しそうにおむすびを頬張る彼の表情を見ていると、これからもずっと作ってあげたいという気持ちが溢れてくる。
これが「イス」ってことなのかな?
来栖はイスとイズの話を思い出して切に願う。この気持ちがイズに変わりませんようにと。
「あの小説、興味深かった。この椅子と読書感想文が結びついているなんて知らなかったから。だけど……」
蹴斗の表情が曇る。
やはりいいことばかりではない。
でもこれは想定されたこと。イスの気持ちを忘れなければいいと、来栖は蹴斗の瞳を見る。
「俺の怪我のこと、あんな風に書かれると迷惑かな。正々堂々と戦ってる俺たちに失礼だぜ」
「うん、わかった。ごめんね……」
「だから怪我に関して君は悪くない。それだけ、言いたかったんだ」
「うん。ありがとう……」
すると蹴斗は照れたように楠を見上げる。
「あー、ホントに今日はいい天気だな」
なにか一仕事やり終えたかのように。
もしかしたら蹴斗も緊張していたのかもしれない。それを証明するかのごとく、木漏れ日は笑顔に変わる彼の表情を照らし出していた。
「というか、あのサイトの感想ってすごいね。みんな言いたいことズバズバ書いてて、びっくりしたよ」
「あのサイトってチミル企画?」
「あれ、チミル企画っていうのか。確かに血見るって感じだよね」
「ホント、ホント。私の作品の感想もすごいもん」
そう言って二人で笑い合う。
「でもね、今回作品を投稿してみてわかったことがあるの」
「それは?」
「どんな辛辣な感想にもちゃんと理由があるし、それにね、たった一つの感想によって救われることもあるんだってこと」
蹴斗は書いてくれた。
来栖の作品にコメントを。
それがどれだけ来栖の心の支えになったかわからない。
蹴斗だって、どれだけ勇気が必要だったかわからない。
「まあ、俺も気になったからな。というか、君はすごいね。その辛辣な感想をまとめて、読書感想文コンテストに応募しちゃうんだから」
そう、来栖はある作戦を実行していた。
チミル企画に投稿した彼女の作品『冬のイズ』に寄せられた感想を、校内読書感想文コンテストにまとめて提出していたのだ。「さあ、これが私の小説に寄せられた感想です」と煽り文句を付けて。
確かにそれは感想文。自分で書いたものではないけれど。
他人が書いた文章でコンテストに参加するというのは常識的に問題のある行為であったが、感想を含めて著者が著作権を有するというチミル企画の盲点を突いた来栖の奇策であった。
コンテスト用感想文の提出日は、新年が始まって最初の登校日の一月八日。
生徒閲覧のために感想文が校内に即日掲示されると、来栖の作品は発想の斬新さゆえに注目を浴びる。他の生徒の感想文は、他人が執筆した小説に生徒自身が感想を書いたものだったが、来栖のところだけ、生徒自身が執筆した小説に寄せられた感想文が掲示されているのだから。
「おいおい、こんな辛辣な感想が寄せられるって、一体どんな小説を書いたんだよ!?」
チミル企画の『冬のイズ』は、あっという間に校内で噂になる。当然、当事者の蹴斗の耳にも届くこととなった。
「まさに俺たち、公開処刑状態だよ。どんな重要な試合にだって緊張したことがなかった俺がこのザマだ」
簡易的な椅子に座っているためなのか、蹴斗の足は小刻みにカタカタと震えていた。
周囲を見渡すと、校舎の窓という窓から生徒が顔を出して中庭の二人の様子を伺っている。
「あら、私は全然平気よ」
だって来栖は、楠の下の大理石の椅子のお姫様なのだから。
暑い日も寒い日も、雨の日も風の日もずっと生徒の目に晒されてきた。この場所は、来栖のホームグラウンドなのだ。
ここでなら校内のどんな女子にも勝てる。来栖には確かな自信があった。
「お弁当も食べたし、小説の話もできた。後は君がこれを受け取ってくれたら、俺はすぐに立ち去ろうと思う」
そう言いながら蹴斗は、ポケットの中から白いかけらを取り出す。
それはあの日、来栖が地面に投げつけた大理石のかけらだった。
「それって……」
「見つけたんだ。君が試合を観ていた場所で」
ええっ!?
一瞬驚いた来栖だったが、かけらを差し出す蹴斗の笑顔で理解する。あの日、試合に出ていた蹴斗は、ちゃんと来栖のことを見ていてくれたのだと。
嬉しくて、嬉しくて、思わず涙が頬をつたってきた。
「おいおい、彼女振られたぜ」
「やっぱりダメだったのね……」
「なんとかしてやれよ、蹴斗!」
ざわつき始める校舎。
「まいったな……」
立ち上がり、ポリポリと頭をかく蹴斗は来栖に語りかける。大理石を受け取り、涙を流しながら石を見つめる彼女に。
「嬉しかったんだ。試合を観に来てくれて。だって君は、本にしか興味がない人だと思ってたから」
来栖は言いたかった。本にしか興味がないわけではない。蹴斗に興味があったから本を読んでいたのだ<と。
でもそれは『冬のイズ』に書いたし、蹴斗もそのことを読んでくれている。
「まずは友達からでいいか?」
蹴斗は恥ずかしそうに手を差し伸べる。涙を拭い、顔を上げる来栖に向かって。
「うん!」
来栖は両手でその手を握り返した。
「蹴斗君の手って温かい……」
すると冬の昼休みの中庭は、盛大な歓声(ちょっと悲鳴)に包まれたのであった。
ライトノベル作法研究所 2018―2019冬企画
テーマ:『冬の〇〇』
――中庭の大きな楠の下に静かに佇む白い大理石の椅子。
この椅子に座って百冊目の本を読み終えた時、三つの願いが叶うという。
「ぴったりじゃん、その伝説、読書好きの私に!」
入学式の日に伝説の噂を聞いた倉科来栖(くらしな くるす)は、これから始まる高校生活に胸を踊らせる。
が、彼女は知らなかったのだ。
大理石の椅子に座ることができるのは、校内でたった一名であることを。
毎年一月に行われる校内読書感想文コンテストの優勝者。
その人のみが、大理石の椅子に腰掛けて読書することができる。
「一月ってなによ。そんなの一年生には無理じゃん……」
入学して一週間。
中庭の椅子の伝説について調べ尽くした来栖は、大理石の椅子に腰掛けるための条件を知って落胆した。四月に入学したばかりの新入生にとって、コンテストは遥か先、九ヶ月後の出来事なのだ。それまでの間、一年生は誰一人として中庭の大理石の椅子に座ることはできない。
「どうりで、いつも同じ人だったのね。あの椅子に座っているのは……」
長い黒髪、メガネの似合う上級生。
教室の窓から昼休みの中庭を眺める来栖の瞳は、本を読む彼女の姿を羨望を込めて映し出していた。
「あーあ、私もあの椅子に座って本を読みたいなぁ……」
文学少女なら誰もが抱く(と来栖は思っている)願望。来栖はへこたれない。
昼休みの中庭を眺め、椅子への憧れを強くするたびに、読書感想文コンテスト優勝への想いを募らせていった。それを支えているのは、文学少女には珍しく超ポジティブな思考。
「もしかしたら、逆にチャンスかもよ……」
例えば、コンテストが五月にあったとしよう。
それならば新入生も参加できる。が、四月に入学したばかりの一年生にとっては準備期間がわずかしかない。
これでは圧倒的に不利だ。上級生が勝利するのは間違いない。
でも、九ヶ月後だったらどうだろう?
一年生にも十分な準備時間が与えられるし、受験で忙しい三年生はほとんど参加しないはず。となると、そこで繰り広げられるのは一年生と二年生のガチバトル。一年生にだって勝機は十分ある。
「それなら、今、私がやるべき事は……」
来栖はスマホを取り出して、ネット検索を開始した。
キーワードは『小説』と『感想文』。
今のうちに感想文スキルを上げようというのが、彼女の魂胆だった。
しかし、検索に引っかかるのは「楽して読書感想文を書く方法」とか「歴代の読書感想文コンテスト優勝作品」とか、そんなサイトばかり。
「ダメダメ、こんな月並みな感想では。もっともっと、審査員の教師や全校生徒の心を鋭くえぐるような、尖った感想を書けるようにならなくちゃ!」
校内コンテストで優勝するためなら、これくらいは当たり前だろう。人と同じ感想文では皆の目には止まらない。
ちなみに木等暦高校の読書感想文コンテストは、五人の審査員による投票(一人分の持ち点は百点)と約千人の全校生徒の投票(一人一点)によって決まる。生徒による投票率が一、二割に留まっている現状では、優勝者は実質、審査員の投票によって決まると言っても良いだろう。
そこで来栖は付け加えた。検索ワードに『鋭い感想』や『厳しい感想』といった内容を。
すると、とあるサイトが彼女の目に止まったのだ。
「こ、これは!?」
――チミル企画。
可愛らしい感じの名前。その響きについ惹かれてしまう。
なんでも小説の競作サイトで、いろいろな人から感想が寄せられるところらしい。
しかし、サイトの評価についての検索結果には、恐るべき名前の由来が記してあった。
――厳しい感想がウリ。生半可な作品を投稿すると血を見るので、そう呼ばれている。
「血を見るからチミルって、一体どんな感想が寄せられてるのよ……」
逆にすっかり興味を持ってしまった来栖は、その年の冬に行われたイベントのサイトを覗いてみる。そこには『ちっちゃな異能』というテーマで投稿された作品が並び、作品に寄せられた感想の数が表示されていた。
「どれどれ……」
リンクをクリックすると作品が表示される。そして来栖は寄せられた感想に目を通して驚いた。
そこには本当に辛辣な感想が並んでいたのだ。
『冒頭が冗長でつまらない。これでは読者が最後まで読んでくれない』
『中盤の展開がなんか変。主人公の気持ちを考えると、こんな展開にはならないはず』
『ラストが納得いかない。作者はこの作品を通して何が言いたいのか』
「うわぁ、これってマジ……?」
それは来栖にとって驚愕の光景だった。
なぜなら、読書感想文についての彼女の概念を根底から覆すものだったから。
――読書感想文とは、作品リスペクトの上に構築されるもの。
中学校までの国語の授業を通して、来栖はそう理解していた。授業で扱われている文学作品だって、「主人公の気持ちは?」とか「作者が目的としていることは?」と聞かれることはあっても、「この作品のダメなところは?」という問いはなかった。先生もそんな指摘はしないし、作品批評に対する答えも教えてくれない。
「でも、こういう視点が重要かも……」
さすがに、読書感想文コンテストの本番で作品をディスるのは不適切だろう。
しかし、著名な文学作品とて時代の波についていくのは難しいはず。その時代に合わなくなった部分を、高校生というフレッシュな視点で指摘してみればいいのだ。このチミル企画のように。
その指摘が皆をハッとさせるものであれば、かなりポイントを稼げるに違いない。逆に、今の時代にも通用する部分があれば、それはきっと人間の本質を突いた部分であり、作品を書いた作者の意図を浮き彫りにできる可能性がある。
「なんか燃えるわね。よっしゃ、このサイトで感想書きを鍛えてみるか」
来栖は早速、チミル企画のゴールデンウィーク祭りに参加してみることにした。
チミル企画のイベントは、年に三回行われていた。
――ゴールデンウィーク祭り、お盆祭り、年末年始祭り。
イベントの度に寄せられる作品のテーマが異なり、しかも力作揃いで純粋に作品を楽しむこともできる。
そして驚いたのが、寄せられる感想の質の高さだ。
確かに、「血見る企画」と異名をとるだけあって、辛辣な言葉から始まる感想は多い。しかし、その主張の根拠となる部分が、どの感想にも丁寧に書かれているのだ。これは作品をしっかりと読み込まないとできないことだった。
「すごい、すごい……」
ゴールデンウィーク祭りでは、二、三の作品にちょこっと感想を書いただけの来栖だったが、お盆祭りでは作品をじっくりと読み込んでみようと決意した。
お盆祭りが始まると、来栖は感想が集まりだした作品からじっくりと読んでみることにした。感想が多い作品ほど、感想の書き方の勉強になるからだ。
そして寄せられてくる感想を読んで、来栖は不思議な共感を覚える。
「あれ? この人の感想、私が感じたことと一緒だ」
作品を読んでいる時に覚えた違和感。来栖はそれをなんとなく感じただけであったが、別の人からは解説が付け加えられていたのだ。そこには違和感の原因について、丁寧な分析結果が記してある。
「そうか。だからあの部分、私も違和感を覚えたんだ……」
これは非常に勉強になる。
違和感は、ぼやっと抱くだけではダメなんだ。
肩透かしを食らった部分は、それなりの理由が存在しているんだ。
それをちゃんと文字にすることができれば!
感じたことをしっかりと表現できれば、読書感想文コンテストの優勝はぐっと私に近づくはず!
そしてそのやり方は、このチミル企画の感想にぎっしりと詰まっている。
来栖は宝の山を見つけたような気がした。そして作品を次々を読み込んでいく。作品をちゃんと読まなければ、他の感想人と意見を共有することはできない。
来栖は感想も書いてみた。
自分が抱いた感動や違和感と向き合って。
なぜそんな感情が生まれたのか、自分なりの分析を行いながら。
ある時は、他の方の感想を参考にしながら。ある時は、他の方の感想とは違う部分を意識しながら。
――他の方とは違った感想。
これは読書感想文コンテストにおいて重要な部分だ。他の生徒と同じ感想文を書いていては優勝できないことは明白だから。
優勝するためには、自分独自の感想を持つことも必要なのだ。それが鋭利な刃物になるか、鈍器になるかは書き方次第。鋭利な刃物にする方法は、チミル企画が教えてくれる。
こうして感想を書いているうちに、来栖はあることに気がついた。
それは、寄せられる感想が、ある一つのマナーに沿って書かれていること。
――作品はディスるが、作者はディスらない。
このマナーは、来栖が思い描いていた理想的な読書感想文のイメージとピタリ一致していた。
ゴールデンウィーク祭り、お盆祭り、年末年始祭り。
チミル企画のイベントで着々と感想書きの技術を磨いた来栖は、一月に開始される校内読書感想文コンテストに参加する。そして先生方による審査員部門で一位(二三五点)、そして校内投票においても一位(三七点)を獲得し、見事総合優勝を果たしたのであった。
◇
『冬のイズ』
「あー、やっと、やっと百冊目を読み終わったわ!」
私は手にしていた本を制服の膝の上に置くと、大理石の椅子に座ったまま楠の木漏れ日に向かって両手を高く突き上げ、込み上げる充実感を満喫するように大きく伸びをした。
――三つの願いが叶うという、中庭の椅子伝説。
馬鹿げた噂と一蹴する友人が多い中、私は愚直にも高校生活をその伝説に捧げてきた。
一年生の時は読書感想文の特訓、そして一月の校内読書感想文コンテストで見事優勝を果たす。
しかし、大理石の椅子に座る権利を得てからが大変だった。
『中庭の大理石の椅子に座って百冊目の本を読み終わった時、三つの願いが叶う』
私が持っている情報は、たったそれだけだったから。これではあまりにも少なすぎる。
読む本って、ハードカバーオンリーってことはないよね?
通学の電車や自宅で続きを読んじゃダメなの?
同人誌は? ネット小説は?? 漫画は???
知りたいことが沢山あった。でもその真相を知っているのは、歴代の校内読書感想文コンテストの優勝者だけ。
「あのう、先輩。三つの願いを叶えるための条件について、詳しく教えて欲しいんですけど……」
「あら? あなたはそんなことの為に、読書感想文コンテストに応募したのかしら?」
ニヤリと含み笑いを隠しつつ、誰も私に詳細を教えようとしない。
あれって絶対知ってる顔だ――と確信するものの、知らないと言い張る先輩方に詰め寄るわけにもいかない。
仕方がないので、私はなるべく薄い文庫本を百冊選び、通学や自宅で続きを読むことはせず、大理石の椅子だけで読破することを決意した。
しかしここから私は、新たな問題に直面する。
仮にも私は校内読書感想文コンテストの優勝者。全生徒から注目される、大理石の椅子に座る資格を得た文学少女なのだ。
校内のインテリジェンスを象徴する楠の下の椅子のお姫様が、薄い文庫本をペラペラと高速でめくっていては格好がつかないというもの。
だから私は、ハードカバーを読んでいるように見せることができる薄い文庫本用の便利グッズを(泣きたいほど高価だったけど)購入した。そして大理石の椅子に姿勢良く座り、そよ風に誘われるようにページをめくって、見かけだけは優雅な文学少女を装うことにした。
問題はこれだけではなかった。
冬の寒さ、夏の暑さ、そして雨や風。特に、冷えた大理石に座る厳しさは想像を絶するものがある。
だから、冬の間の読書は天気の良い昼休みだけにして、春になって暖かくなると放課後も中庭の椅子に座って本を読むことにした。もちろん部活なんてやっている余裕はない。
こうして私が百冊目を読み終わったのは、秋も十月の半ばを過ぎた頃だった。
『おめでとう、ござまイス!』
出てきた、出てきた、なんか出てきたよ。
予想とちょっと違っていたのでさすがの私も驚いたが、盛大な伸びの途中だったこともあり気にしないふりをして声に耳だけ傾ける。
『あれ? 驚かないんイスか?』
「疲れちゃったのよ。中庭の椅子で百冊の本って、どんだけハードル高いんだか」
声の主が現れた、ということは、私の百冊チャレンジが成功したという証拠だ。
私はついに勝ったのだ。清楚な文学少女を装い、部活を楽しむこともせず、高校生活を賭けた一か八かの挑戦に。
「それに私は驚かないわ。だって今まで読んだ本のほとんどが、こんな展開だったもの」
そう、私はずっとライトノベルを読んでいた。しかも精霊が登場するファンタジー系。
その中に出てくる願いは大抵三つで、なんとかの精霊が出てきて順番に一つずつ叶えてくれる。だから私は、百冊目の本を読み終わった時に、どんな精霊が登場するのだろうと期待を込めて心の準備を整えていた。
『つまらなイス。もっと驚いて欲しイス』
「ていうかあんた、実体はないの?」
キョロキョロと私は声のする方に首を向ける。しかし、猫っぽい容姿をしているとか、天使っぽく羽ばたいているとか、そんな精霊の姿はどこにも見当たらなかった。
『「あんた」って、そんな言い方はなイスよ、校内一の大精霊「イス」様に向かって』
校内一? 大精霊にしてはなんかスケールちっちゃくない?
それに名前が「イス」ってのも、ずいぶん安価なネーミングね。
でも、ここで大精霊様のご機嫌を損ねるとすべてが台無しになってしまう可能性がある。それはヤバい。
「大変申し訳御座いませんでした。大精霊イス殿」
椅子から立ち上がった私は、ゆっくりと回れ右をして椅子に向き直る。両手でスカートの裾をつまむと、静々と厳かに椅子の前に跪いた。精霊の名前や言葉づかいから判断して、椅子の精霊に違いない。
「どうか、私めの願いを叶えて下さいまし」
深々と頭を下げると、椅子の方から声がする。
『うむ、分かったイス。キミの願いは聞き入れたイス。ではこれから残りの二つの願いを叶えるために、魔王退治に出陣するのイス!』
ええっ、魔王退治? それに一つ目の願いなんて言ったっけ?
もしかして、「願いを叶えて下さい」と言ったのが一つ目としてカウントされたとか? そんなことで願いを消費されるのは納得がいかない!
これは詐欺だ。消費者省に訴えてやる。精霊が出てきたところからやり直せ!!
私が顔を真っ赤にすると、声の主がクスクスと笑い出した。
『やっと驚いてくれたイス。嬉しイス、魔王退治なんて嘘イス』
なんだって!?
魔王退治のところを疑わなかったとは、なんたる失態。ただのラノベの読みすぎじゃん。
それにしても大精霊らしからぬ嘘発言に、私はカチンとくる。
「文学少女をなめとんか。今すぐゲロ吐いて大理石に胃液ブチまけたろか!?」
『ごめんなさイス、ごめんなさイス。謝るから胃液だけはやめて、溶けちゃイスから……」
あら、私としたことがはしたない。
でもこれで、声の主が大理石の椅子であることが判明した。大理石の敵は胃液とラノベにも書いてあった。
というか、校内一を語るにしては意外とチキンな大精霊じゃないのよ。
一気に親近感が増してしまった私は、椅子に向かって優しく語りかける。
「こちらもごめんなさい。私、こういう体験は初めてなの。あなた、この大理石の椅子の精霊さんよね?」
『そうイス。名前も「イス」って言うイス。よろしくお願イス』
まあ、ありがちな展開ね。
というか、テンプレートそのままかしら。
「こちらこそよろしく、イス。それで早速一つ目のお願いなんだけど……」
『ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってイス』
願いを切り出す私にイスが待ったをかける。
まさか、その前に魔王退治なんて言い出すんじゃあるまい。
『もっとよく考えて欲しイス。もし願い事が一つだけだったら、どうするんイスか? それに胃液はやめてくれイス』
口に指を突っ込んでゲロ準備していた私をイスが諭す。
「でも三つなんでしょ?」
そういう伝説って聞いているんだから、今更違うとは言わせない。
それにさっき、二つ以上あるようなこと言ってたよね。
『まあ、そうなんイスけど……』
「じゃあいいじゃない。早速一つ目を叶えてよ」
『えっと、願い事には制限があるんイス。まずそれを説明しなイスと……』
制限か……。
まあ、これは当たり前かも。
最初に「願いは無限に」という願いを叶えてもらったら、あとはやりたい放題だもんね。
「それはどんな制限?」
『校内限定でイス』
校内限定? なんてちっぽけな。
「じゃあ、世界平和を願おうとしていた私はどうなるの?」
嘘だけど。
『校内平和なら可能でイス。ふむふむ、最初の願いは「校内平和」――でイスね』
「ちょちょ、ちょっと待てやコラっ!」
『だから胃液はダメでイス!』
危ないところだった。
最初の願いが校内平和になったら、一生後悔し続けるところだった。
「まあ、校内限定が仕様ってことなら仕方ないわね。でも問題ないわ。私の願いは、二年四組の首藤蹴斗(しゅとう しゅうと)君に振り向いてもらうことだから」
首藤蹴斗君。
サッカー部のエースストライカーだ。
長身のイケメンで、元スペイン代表のフェルナンドウとかいう人とそっくり。
私は今回の三つの願いを駆使して、彼といい仲になりたいと考えていた。
『残念ながら、その願いはダメでイス。実はもう一つ制限がありまイスて、叶えられる願いは椅子に関することだけなんイス』
「マジ?」
ここに来てまさかの椅子縛り。
だったら早く言ってよ。願いが椅子に関することだけって知っていたら、こんな風に青春を無駄にすることはなかったかもしれない。
呆れた私は、完全に脱力した。
「他に制限はないの? この際だから全部言っちゃってよ」
『法律や常識の範囲内ってのはありまイスけど、基本的には「校内限定」と「椅子関連」の二つイス』
「椅子縛りってあんた変態? 初めて聞いたわ」
少なくとも、今まで読んだラノベにそんな記述はない。
『椅子の精霊でイスから』
「じゃあ、蹴斗君のことはどうするのよ?」
『それは自分で考えて欲しイス』
「全く使えない精霊様ね……」
私は大理石の椅子に手を当て、椅子が鎮座する中庭の芝生を見ながら考える。
思えば私はずっと、椅子の前に跪いたままだった。
「椅子に関連した願いで、蹴斗君を振り向かせる内容とは……」
そんな願いってあるのだろうか……?
その時、私は思い出した。
この椅子に座る資格を持っている校内で唯一の生徒は、誰なのかということを。
「蹴斗君が毎日、この大理石の椅子のことを見てくれますように。ってのは?」
別に、最初から蹴斗君に自分を好きになってもらおうとは思わない。
まずは私のことを気にかけてくれればいいのだ。
それならば、この大理石の椅子を毎日見てくれればいい。そこに座る資格を持っているのは校内で私だけなのだから。蹴斗君がこの椅子を見る。それはイコール、私のことを見てくれることになる。
『大丈夫でイスよ。一つ目の願いはそれでいイスか?』
「いいっス!」
我ながらのナイスアイディアにイスと同じような口調になってしまったが、こうして私は一つ目の願いをイスに託したのであった。
◯
「あー、ドキドキする……」
次の日、私の心臓は朝から高鳴りっぱなしだった。
――今日は蹴斗君が私のことを見てくれる。
正確には「大理石の椅子を」だけど。
イスがちゃんと願いを叶えてくれているのかという点も疑問だけど、そんなことを気にしている余裕は私にはなかった。
「枝毛が目立たないといいけどなぁ……」
昨日は学校帰りに新しいシャンプー、コンディショナー、トリートメントを買ってきた。なるべく髪がサラサラに見える高級なやつを。そしてお風呂では念入りに、自慢のセミロングの黒髪の手入れを行ったのだ。
蹴斗君の二年四組の教室は二階にある。そこから中庭を見下ろすと、楠の脇から私の後頭部が見える位置関係だ。だから髪の印象が最も重要になる。
朝は時間をかけてブラッシング。やっとのことで風にそよぐナチュラルヘアが完成した。そして新しく買った本を手に私は家を出る。もちろんハードカバーの文学少女っぽいやつだ。
本選びも大変だった。
まずは見た目重視。大理石の椅子に座った時に一番見栄えがする本を選ぶ。カバーは白を基調としたシンプルなもの、カバーを外した時の本の様子も確認した。中身はほとんど確認しなかったけど、たまには変わった本を読んでみるのも面白い。
一瞬、英語の本なんてオシャレかなと思ったけど、二階から英文が見えて「なに、このインテリぶった女」とドン引きされると逆効果だ。あくまでも蹴斗君は椅子を見てくれるのであって、私に興味があるのではない。
昼休みになると、私の緊張はマックスに達していた。
いつもの中庭での読書なのに、心臓のドキドキが止まらない。校舎からの生徒の視線なんて今までは全然気にならなかったのに。
大理石の椅子の前に立つと、力を込めて椅子を押して少しだけ向きを変える。二年四組の教室から私の右側の顔がチラリと見えるシチュエーションにするためだ。どちらかというと、私は右側の表情に自信があった。
そしてクッションを敷いて、ゆっくりと椅子に腰掛ける。
姿勢を正し、制服のスカートの膝の上に昨日買った白い本を置く。両手で本を持ち、最初のページをめくった――が、内容は全く頭の中に入ってこなかった。
頭の中は、余計な思考がグルグルと勝手に回り始めている。
右側の顔が見えるようにしたんだから、髪を結んできた方がよかったんじゃないの?
いやいや、昨晩は念入りに髪の手入れをしたんだから、結ばないのが正解でしょ?
どちらにせよ昨日までとは全然違う私なんだから、それを分かってくれるといいな……。
するとイスの声が聞こえてきた。
『ほら、蹴斗君が見てるイス』
えっ、どれどれ? と校舎を見上げたいのをぐっとこらえる。
もし蹴斗君と目が合ったらどうすんのよ。
それこそパニックだし、変な表情をして自意識過剰と思われたらマイナスだし……。
私は必死に平静を装い、小声でイスに語りかける。
「まだ見てる?」
『うーん、また弁当を食べ始めちゃったみたイス』
ということは、窓際の席で弁当を食べてるってことなのかな?
そもそも席が窓際なのかもしれないし。まあ、そんなことはどうでもいい。授業中に私がこの椅子に座ることはないのだし、昼休みに蹴斗君が窓際にいるという事実だけが重要なんだ。
そこで私はふと思いつく。
明日からこの椅子でお弁当を食べればいいんじゃないか――と。
昨日までの私は、百冊の本を読破するため必死になっていた。三時間目と四時間目の間に早弁して、昼休みのすべての時間を読書に費やしていた。
でももう、そんな努力はしなくてもよい。すでに百冊を読み終わって、精霊イスが登場したのだから。
もし、教室から見下ろして美味しそうなおかずがチラリと見えたら、蹴斗君はもっと私に興味を抱いてくれるかも。
ところで蹴斗君はどんなおかずが好きなんだろう?
サッカー部で男の子だから、やっぱミートボール?
だったら美味しそうなミートボールが入ったお弁当を作って来ようかな?
でも、女の子のお弁当にミートボールばっかってのもヤバいから、やっぱミートボールは一個? それよりもサッカーボールおむすびってのもいいんじゃない? 海苔を上手く切ってサッカーボールみたくして。そしたらいつの間にか蹴斗君が隣にやって来て、「それ、俺にも分けてくれよ」って言ってくれたりして……。
暴走する妄想に、思わずニンマリしてしまう。
しかし、その時イスに掛けられた言葉で、私は一瞬で素に戻った。
『素敵イス、その表情。蹴斗君もチラリと見て、ほっこりしてたイス』
マジ?
見られた?
妄想に浸るこの表情を。
『ボクと出会った女の子たちはみんな、そんな感じだったイス。気になる異性に対して、いろんな表情を作ってたイス』
イスに出会った女の子というと、校内読書感想文コンテストで優勝した先輩方だ。
なんだ、みんな百冊の本を読破して、イスに願いを叶えてもらってんじゃないの。
『クスリと笑顔を見せたい女の子は、ライトノベルが多かったイス。中には、シェイクスピアのカバーでごんぎつねを読んでた女の子もいたイス。あれは素敵な涙だったイス』
ごんぎつねはヤバいわ。
あんなピュアな涙を見せられたら男子はイチコロかもね。
ていうか、涙を流すなら別にシェイクスピアでもよくね?
「先輩方はみんな頑張っていたのね」
『そうイス。今のキミのようにイス』
今の自分のように?
昨日までの自分はただ百冊を読むことばかりに夢中で、他の努力は全然して来なかったような気もする。
「それで、先輩方の想いは叶ったのかしら?』
『叶った人もイスるし、叶わなかった人もイスる』
「それって当たり前じゃない」
『そうでイス。一つ確実に言えるのは、どの女の子も素敵になったイス』
先輩方の願いも、みんな恋だったのかな?
恋が女性を綺麗にする、って昔から言われているけど、ようやく私もそれが分かったような気がする。椅子の伝説の願いが叶えば簡単に恋が手に入る――なんて軽率だった。人生、そんなに甘くない。
『気をつけなきゃいけないのは、イスがイズになることでイス』
「イスがイズ?」
『そう、心理学的な戒めで、こんな言葉があるのイス』
すると頭の中でエコーのように、イスの言葉が広がっていく。
『イスがイズに変わる時、恋に冬が訪れる』
「なに、その言葉?」
『キミの心がイズにとらわれてしまった時、詳しく解説してあげるイス』
私の心がイズにとらわれる?
なにそれ? イスがイズに変身するんじゃなくて? そもそもイズというのが、何のことなんだかわからないんだけど。
それにその時ってもう手遅れなんじゃないの? 恋に冬が訪れちゃってるんだから。
不満そうな顔をする私に、イスが忠告した。
『ほらほらそんな表情をしちゃダメでイス。蹴斗君が見てるイス』
ずるいよ、イス。
それに、本当に今、蹴斗君が見てるのかしら?
さすがにもうお弁当は食べ終わってるんじゃない?
校舎を振り返ることができないもどかしさに私は一人悶絶する。
仕方がないので一つ息を吸って呼吸を整え、読書(のふり)に戻ることにした。
翌日から私は、いろいろな事を試してみた。
髪を結んでみたり、結ばなかったり。
結ぶ時はポニーテールにしたり、三つ編みにしてみたり。
お弁当にミートボールを入れたり、サッカーおむすびにしてみたり。
そして一ヶ月後。
ついに私の夢が叶う瞬間がやってきた。
中庭でお弁当を食べる私のところに蹴斗君がやってきて、いきなり告げたのだ。
「初対面なのに突然勝手なこと言ってゴメン。そのサッカーおむすび、今度の日曜日の試合の後に食べてみたいんだ。いいかな?」
◯
「どうしよう、どうしよう。イス、どうしよう!」
日曜日の午前九時。
私は中庭の大理石の椅子に座って逡巡していた。
「試合は校庭で十時からでしょ? それを観に行った方がいいかな? それとも、約束の一時までここで待っていた方がいいかな?」
椅子の横には保冷バッグが置いてある。
蹴斗君のために、サッカーおむすびを大量に作ってきたのだ。
『何言ってるのイス。試合の後にお弁当を食べたいってことは、応援して欲しいって意味イス』
「やっぱそうかな、やっぱそうよね。でも私、サッカーの試合って観るの初めてなの。危なくない? それにルール分からなくても大丈夫?」
『だから、サッカーのルールブックを読んだらって言ったんイス。なのに格好つけて、ごんぎつねなんて読んでるからいけないんイス。自業自得でイス』
「だって、蹴斗君に私のピュアな涙をアピールしたかったんだもん……」
久しぶりに読んだごんぎつねはヤバかった。ごん、やっぱあんたは神だよ。
『約束の時間までまだ四時間もあるんイス。ずっとここで待ってるんイスか?』
それもなんだか時間がもったいない。
なんで応援に来なかったの、と聞かれる事態もやっぱり避けたい。
「じゃあ、応援に行ってくる」
『だったら、椅子の下に落ちている大理石のかけらを持っていくといイス。持っていれば、ボクとお話できるのイス』
私は言われる通り椅子の下を覗き込む。すると五センチくらいの白い大理石のかけらが落ちていた。
「ふーん、これね」
私は拾ったかけらを目の前にかざす。純白のかけらは、黒曜石のように先が尖っていた。
『そうでイス』
この声は、かけらの方から聞こえたような気がした。
私はお弁当を大理石の椅子の上に置き、大理石のかけらを持って校庭に向かう。この場所は楠の木陰になっているから、お弁当を校庭に持って行くよりは衛生面でも良いだろう。
校庭に着くと、選手たちがユニフォームごとに分かれて練習を始めていた。相手チームもすでに到着しているようだ。
蹴斗君は……、あっ、いたいた。
彼は長身だからすぐ分かる。
ゴール前の列の先頭にいる蹴斗君は、ボールを味方にパスし、小さく折り返されたボールを思いっきりゴールに蹴り込む。
「ナイス、シュート!」
私は小さく声を上げる。が、その声はすぐに黄色い声援に打ち消されてしまった。
「キャーッ、蹴斗君!」
「今日もゴール決めてね!」
見れば、十人くらいの女生徒がベンチ裏に陣取っていて、シュート練習を見学していた。その光景を目にした私は、ここに来たことを強く後悔する。
――オシャレな髪型で制服のスカートも短めの可愛らしい女子たち。
蹴斗君がシュートを放つ度に、スカートを揺らしながら飛び跳ねている。
あんな可愛らしい子たちに私が敵うわけないじゃない。
私のスカートは長め。だって短いスカートで椅子に座ったら下着が見えちゃうから。私のスカート丈は、大理石の椅子に姿勢良く座った時、膝小僧がちょうど隠れるくらいに調整していた。
所詮、私は座ってなんぼの文学少女。立ち姿ではあの子たちには歯が立たないし、今のこの状況に至っては場違い感半端ない。
だから私は、校庭の隅で隠れるようにして試合を見学することにした。
『ねえ、もっと近くで試合を観なくていイスか?』
「いいのよ、イス。ここが私のボジションなんだから」
それは嘘だった。
本当は、早くこの場から去りたい、早く私が居るべき中庭の椅子に戻りたい、そんな気持ちで一杯だった。
でもここに居なければ、蹴斗君の活躍を観ることができない。私は試合後の蹴斗君との会話のためだけに、仕方なく校庭の隅に立っていた。
幸い、蹴斗君は試合でとても目立っていた。私もつい試合に夢中になる。チームは彼にボールを集める。だからボールを触る回数も多く、誰よりも多くのシュートを放っていた。
「惜しい!」
「次頑張って、蹴斗君!」
彼がシュートを打つ度に、女子たちの声援が飛び交う。
不幸なことに、男子とは音域の異なるその黄色い音の波は、サッカー部員の掛け声にかき消されることなく私の耳にも届くのだ。
声援に対し、蹴斗君も手を上げて応えている。
そんな光景を目にするたびに、私はだんだんと不安になってきた。
『ほら、こちらも大きな声で応援しなくちゃでイス』
そしたら蹴斗君は私にも手を振ってくれるかな?
いやいや、この場で決してそんなことをするわけにはいかない。
「バカね、イス。そんなことしたらあの子たちに見られて、「なに、あのダサい女。ライバルのつもり? 応援する資格あるのかしら」って思われるのがオチよ」
それは恐い。それが回避できるなら、蹴斗君が私に手を振ってくれなくてもいい。
「蹴斗君、試合が終わったら本当に中庭に来てくれるのかしら?」
『そう言ってたでイスから、そうなんじゃなイスか』
「お願いだから、いい加減なこと言わないでよ!」
私はついイスに八つ当たりする。
『ボクだってちゃんと聞いたイス、彼の言葉を。そんなに疑うなら、二つ目の願いにしたらいイズら。蹴斗君が試合後に中庭の椅子のところに来ますようにって、そう願えばいイス』
確かにそうすれば、蹴斗君は確実に来てくれるだろう、試合の後、中庭へ。
でも蹴斗君はちゃんと私に告げたのだ。その時間にサッカーおむすびを食べに来ると。迷惑じゃないならお願いすると頭を下げて。そんな大事なこと、私が聞き間違えるはずがない。
それに、ここで二つ目のお願いを使うということは、彼の言葉を疑うということだ。好きな人の言葉を疑うなんて、私はそんなことをしたくない。
いやいや、もっと最悪なケースも考えられる。もし蹴斗君が試合後あの女子たちに誘われて、急に彼女たちと一緒にお昼を食べたくなってしまった時だ。彼は自分の意思に反し、二つ目のお願いによって中庭に来ざるを得なくなる。そんな状況で、美味しくおむすびを食べられるはずがない。
そうこう考えているうちにも、黄色い声援が容赦なく私の耳に飛んでくる。その声の力は、ぐるぐると私の思考を闇の底へと落とし込んでいった。
「ダメだ、ダメだ、こんなことじゃ。なにか素敵なシーンを、蹴斗君と私だけの特別なシーンを思い浮かべなくちゃ」
魔がさす、というのはこういうことを言うのだろう。
目を閉じて私が思い浮かべたのは、こんなシーンだった。
――白い病室、青い空。窓際に座って本を読む私の前で、蹴斗君がゆっくりと目を覚ます。
このシーンに、あの女子たちは似合わない。
私だからこそ、スカートが長くて姿勢の良い文学少女の私だから絵になる。
そして蹴斗君は私に恋をする。本を読みながら、静かに寄り添う私に。
『すごく良イズら、そのイメージ。ボクを握る手からビンビンと伝わってくるのが心地よイズらよ』
イスも賛同してくれた。やっぱり私って、こういうシーンの方が似合うんだ。
『どうするでイズら? そのイメージを二つ目の願いにしちゃえイズら』
「でも、どうやって?」
『キーワードを病室にすればいイズら。そうなることを願えばいイズらよ』
ええっ、それって……?
蹴斗君が怪我するってこと?
『大丈夫、気にすることはなイズら。サッカーに怪我は付き物なんでイズら』
「それはそうだけど……」
私は迷っていた。
願いは想いを叶えるもの。なのに人に不幸をもたらしても良いものだろうか。
その時だった。
グランドが割れんばかりに湧き上がったのは。
見ると蹴斗君がガッツポーズをしながらベンチの方へ走っている。
「ナイスシュート!」
「やったね、蹴斗君!」
「もう一点、お願いっ!」
女子たちの声援から判断して、どうやら蹴斗君がシュートを決めたようだ。
そしてベンチからグラウンドに戻る蹴斗君は、嬉しそうに飛び跳ねる女子たちに手を振った。
その光景に、私は自分の愚かさ悔いる。
彼女たちは見ていたのに、私は見ていなかった。
彼がシュートを決めるシーンを。
私は何のためにここに居たの? もし試合後に彼が中庭に来てくれたとしても、私は何を話せばいいの?
もう何がなんだかわからない。これからどんな選択をしても最悪の結果しか見えない。いっそのこと彼がこのグラウンドから消え去ってしまえばいい。
だから私は決意した。
「イス、お願いって椅子に関することだったら何でもいいんだよね?」
『何でもいイズら。ここは校内だから、制限は椅子だけになるんでイズら』
「じゃあ、今から二つ目のお願いをするわ」
私は唱える。試合再開の笛の音と同時に。
「蹴斗君が車椅子に乗ることになりますように」
『わかったでイズら』
イスが答えると私は目をつむる。
その瞬間は見たくない。たとえ私が望んだことだとしても。
なんて卑怯な女なんだろう。でも、こうするしかなかった。蹴斗君が試合後に中庭に来てくれても、来てくれなくても、私に訪れるのは地獄しかなかったから。
私の選択がさらなる地獄を招くとは、この時は思ってもみなかった。
「痛い、痛いっ!」
その時はあっけなくやってきた。
恐る恐る目を開けると、グランドの真ん中で蹴斗君が右足首を抑えてのたうち回っている。
『相手選手とヘディング争いで接触したでイズら。無理な体勢で足を着いたから、ありゃアキレス腱をやったに違いなイズら』
苦痛に顔を歪める蹴斗君。
その表情を見て、私は自分がしたことの愚かさに青ざめた。
『いイズらか、行かなくて。看病するチャンスでイズら』
そんなことできるわけがない。
あの怪我は私が願って起きたもの。
それはまるで、後ろからナイフで刺しておいて「大丈夫?」と声を掛けるようなものじゃない。
どうして私はあんなことを願ってしまったんだろう?
病室で涼しい顔をして寄り添うことができるなんて、どうして連想してしまったんだろう?
後悔が、後から後から押し寄せてくる。
ただ立ち尽くす私を、手の中のイスがイラついた口調で罵った。
『なんだ、自分の願いに責任持てないなんて情けなイズら。あーあ、オレ様の力が一つ無駄になったでイズら』
「うるさい、黙ってイス!」
やり場のない怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになった私は、大理石のかけらを地面に叩きつける。
そのかけらを見て私は驚いた。
「なに? これ……」
白いはずの大理石が、黒曜石のように真っ黒になっていた。
◯
それから一ヶ月近く、私は中庭の大理石の椅子には近寄らなかった。
蹴斗君に姿を見られたくなかったし、イスとも話したくなかった。
あの日、救急車で運ばれた蹴斗君はアキレス腱の縫合手術を行い、しばらく車椅子生活を送っていたという。その後、松葉杖を使って通学し、一ヶ月後にはなんとか歩けるようになったとクラスメートから聞いた。
そして学校が冬休みに入ったある日、私は久しぶりに中庭の大理石の椅子に座った。
イスに最後のお願いをするために。
「ねえ、イス。最後に教えて?」
すると耳に懐かしい声が響く。
『最後なのでイスか?』
それは試合の日に私を罵った声ではなく、以前と同じ穏やかな精霊イスの声だった。
「そうよ。今日が最後。別に今日じゃなくてもいいんだけど、ほら、年が明けたらすぐに読書感想文コンテストが始まるでしょ。私、優勝するつもりはないから、ここに座れるのもあとわずか。だから、最後のお願いをしようと思ってるの」
三つ目の願いを叶えた時、精霊は消えてしまう。
今まで読んだラノベがそう教えてくれた。
まあ、イスの場合、この大理石の椅子の精霊だから存在が消えるというわけではなく、私がイスの声を聞けなくなるというだけだと思うけど。
『毎度のことでイスが、ちょっぴり悲しイスね』
「私もよ」
しばらくの間、沈黙が漂う。
ほんの数ヶ月の間だったけど、イスと出会っていろいろなことがあった。
最初のお願いで蹴斗君がこの椅子を見るようになって、突然声をかけられ、そんでもって試合での大怪我。
後悔ばかりのラストだったけど、これを糧にして私という人間が成長できたら良いと思う。
「それでね、イスとお別れする前に、以前言ってたことを教えてほしいの」
『それってなんイスか?』
「ほら、言ってたじゃない。イスとイズがなんとかって」
『ああ、あれでイスね』
すると頭の中にいつかの言葉がエコーする。
『イスがイズに変わる時、恋に冬が訪れる』
「そうそう、それそれ」
『ちょっと説明が長くなるけど、いイスか?』
「いいよ。最後だもん」
私は楠を見上げると、大理石のイスの背もたれにゆっくりと体を預けた。
『あの言葉のイスとイズは、アルファベットで書くんでイス』
あれってアルファベットだったのね。
どうりでいくら考えてもわからないはずだ。
『イスはISU、そしてイズはIZUなんでイス』
私は声に従い、木漏れ日に向かって指を動かし文字をイメージする。
――ISUとIZU。
『この二つの言葉で、共通する文字はどれでイスか?』
「IとUね」
『そう、IとU(YOU)でイス。つまり「私」と「あなた」ってことなんでイス』
へえ~。
そういう意味が隠されていたんだ。
これは盲点だった。
『昔、ヨーロッパのある心理学者が、等号付き不等号の≦と≧を用いて、心の中の重要度を表したんイス。ほら、欧米では等号付き不等号の等号部分は、日本みたいに二重線じゃなくて一本線なんでイスからね』
私は再び宙に向かって指を動かし、等号付き不等号を描いてみる。
――≦と≧。
何回も描いてみるうちに、それらはそれぞれアルファベットの「S」と「Z」に見えてくる。
「そうか! イス(ISU)はI≦U、イズ(IZU)はI≧Uってことなのね!」
『そうでイス。イスは「あなたが大事」、イズは「私が大事」って意味なんでイス』
ようやく分かった。イスとイズの意味が。
最初、私は蹴斗君のことばかり考えていた。
彼の好きな文学少女はどんな感じだろうとか、どんなおかずが好きなんだろうとか。
しかし試合の時の私は逆だった。
蹴斗君の痛みよりも、自分の都合を優先した。
恋に冬が訪れるのも当たり前だ。
私が犯した失敗。
それを誰かに罰して欲しいと願い続けてきた、あの日から。感想という鋭利な刃物で切り裂かれるように。
私はそんな場所を知っている。
だから私は、この一ヶ月という月日に全力を注いだ。イスに出会ってからのストーリーを文字にすることに。
「私ね、書いてみたの。イスと私の物語を」
『知ってるでイス』
「それでね、チミル企画ってところに投稿しようと思うの」
さぞかし辛辣な感想が寄せられるだろう。
でもそれでいいのだ。私はそれだけのことをしたのだから。
『その先を言っちゃうのでイスか?』
「うん。だって、もう、お別れだから」
思えばイスは、一年前、私がこの椅子に座るようになってからずっと私のことを見ていてくれたのかもしれない。
暑い日も寒い日も、風の強い日も雨の日も。
そう考えるとなんだか涙が出てきた。
でも今日という日が良いのだ。イスに大切なことを教えてもらった今日という日が。
「私忘れない。イスとイズの話」
『そう言ってくれると嬉しイス』
「そして弱い心に負けそうになったら、必ずあの日のことを思い出すの」
イスがイズになった日。
自分の都合のために、人を犠牲にしたあの日。
「本当はイスに止めて欲しかったんだけどなぁ。私の心がイズに染まりそうになった時」
普通のラノベだったらストップをかけてくれるところだろう。「本当にいいの?」って精霊に。
でもあの時、イスも一緒にイズになっていた。それどころか、悪の道へと煽っていた部分もあるんじゃないかと思う。
『無理でイス。だって、ボクとキミの心は一体でイスから。あの時も、そしてこれからも』
「うん、それを聞いて安心した。薄々感じていたけど、初めからそういうことだったのね。これで心残りなく最後のお願いを言うことができるわ」
私は深呼吸する。
そして瞳を閉じ、大理石の椅子の手触りを確認しながら三つ目の願いを口にした。
「蹴斗君が、イスと私の物語を読んでくれますように」
競作企画
2018年12月30日 21時51分57秒 公開
■この作品の著作権は競作企画さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
◆テーマ:冬のイズ
◆キャッチコピー:イスがイズに変わる時、恋に冬が訪れる
◆作者コメント:運営の皆様、このような機会を設けていただき感謝いたします。
最後まで読んでくれてありがとう。これが本当の私なんです。
2018年12月31日 20時34分52秒 ゴンザレス
「冬のイズ」を読了しましたので、感想を記します。
途中までは興味深く読んでいたのですが、唐突に終わってしまった印象です。
もっと良いラストがあったんじゃないでしょうか。残念です。
そう感じたのは、おそらく作品の持つイメージがハッピーエンドを連<続きを読む>
2019年1月1日 14時54分29秒 さくら
あけましておめでとうございます。
主人公がドキドキしているところが、なんか可愛かったんですが、イスとのお別れはどうなったんでしょうか?
なんかモヤモヤします。もうちょっと説明が欲しかったと思い<続きを読む>
2019年1月4日 21時44分31秒 猪次郎
なんか、かったるかった。展開もテンプレだし。
イスの語り口もウザい。
もうちょっと工夫が欲しかったです。
どのように改稿したら良いかというと、一つの案としてイスの口調を普<続きを読む>
2019年1月10日 22時36分33秒 首藤蹴斗
冬のイズ、読まさせていただきました。
今でもサッカーおむすび、食べたいです。
明日の昼休みに、中庭に行ってみます。
◇
昼休み、大理石の椅子に座った来栖は、膝の上に本を置く。
今日は一月にしては天気がよく、風もないので最高の読書日和だ。それは同時に、最高のお弁当日和だったりする。
一応、来栖は蹴斗のためにサッカーおむすびを作ってきた。別に無駄になってもよいという奉仕の気持ちで。
「あー、今日は本当にいい天気ね」
楠の木漏れ日を見上げながら、大きく伸びをする来栖。
なんとも清々しい気分。こんなにも平穏な気持ちでこの椅子に座るのはいつぶりだろう。
昨晩、「首藤蹴斗」を名乗る人物が、チミル企画に投稿した来栖の作品にコメントを寄せてくれた。もし彼が本物の蹴斗だったら、これから中庭に訪れるはずだ。
もし、一緒におむすびを食べることができたらハッピーな展開。しかし、逆に作品を書いたことを咎められる可能性だってある。彼が怪我をしたことについて、ファンの女子に罵られるという最悪のパターンだって考えておかなくてはならない。さらに、あのコメント自体が嘘で、別の誰かのいたずらだったということだってあり得る。
いずれにせよ、何かを期待したり恐れたりすることは無駄なのだ。
来栖はできることをやった。
嬉しいことも、恥ずかしいことも、すべてを作品としてさらけ出した。
あとは運を天に任せるしかない。
「イス。今の私の気持ちって、イスでもイズでもないよね?」
大理石の椅子の精霊に教えてもらったISUとIZUの話。
今の来栖の気持ちを記号にすれば、I=Uと表現されるかもしれない。
そんなことを尋ねてみても、答えてくれる精霊はもう登場することはないのだ。三つ目の願い事を告げてしまったのだから。
「こんにちは、倉科さん」
不意に声を掛けられ振り向くと、そこには杖をつく蹴斗が立っていた。
「あわわわ、首藤君。今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ、勝手なお願いをしてゴメン」
いざ蹴斗を目の前にすると、来栖の心はあっけなく揺れ動く。
イスでもイズでもどちらでもないなんて、イスが聞いたら笑われそうなくらい。
「ちょっ、ちょっと待って。ここにはこの大理石の椅子しかないんだけど、えっと、どうしよう……」
「大丈夫だよ。ほら、この杖は椅子にもなるから」
そう言いながら蹴斗は杖を変形させる。簡易的な椅子に。道理で杖がごつくて、ヘンテコな形をしていたわけだ。
「便利な杖ね。じゃあ、今お弁当を準備するから待って……」
向かい合って椅子に座ると、来栖はお弁当を膝の上に広げた。サッカーおむすびが露わになると蹴斗が声を上げる。
「これだよ、これ。二階からこのおむすびがチラチラ見えて、気になっていたんだ。いい? いただいても」
「もちろん」
どうやら蹴斗は、文句を言いに来たようではなさそうだ。
来栖はほっと胸をなでおろす。
「うんうん。形もいいけど、味もいいね。もう一つもらってもいい?」
「どうぞどうぞ。もっと沢山食べてもいいよ」
美味しそうにおむすびを頬張る彼の表情を見ていると、これからもずっと作ってあげたいという気持ちが溢れてくる。
これが「イス」ってことなのかな?
来栖はイスとイズの話を思い出して切に願う。この気持ちがイズに変わりませんようにと。
「あの小説、興味深かった。この椅子と読書感想文が結びついているなんて知らなかったから。だけど……」
蹴斗の表情が曇る。
やはりいいことばかりではない。
でもこれは想定されたこと。イスの気持ちを忘れなければいいと、来栖は蹴斗の瞳を見る。
「俺の怪我のこと、あんな風に書かれると迷惑かな。正々堂々と戦ってる俺たちに失礼だぜ」
「うん、わかった。ごめんね……」
「だから怪我に関して君は悪くない。それだけ、言いたかったんだ」
「うん。ありがとう……」
すると蹴斗は照れたように楠を見上げる。
「あー、ホントに今日はいい天気だな」
なにか一仕事やり終えたかのように。
もしかしたら蹴斗も緊張していたのかもしれない。それを証明するかのごとく、木漏れ日は笑顔に変わる彼の表情を照らし出していた。
「というか、あのサイトの感想ってすごいね。みんな言いたいことズバズバ書いてて、びっくりしたよ」
「あのサイトってチミル企画?」
「あれ、チミル企画っていうのか。確かに血見るって感じだよね」
「ホント、ホント。私の作品の感想もすごいもん」
そう言って二人で笑い合う。
「でもね、今回作品を投稿してみてわかったことがあるの」
「それは?」
「どんな辛辣な感想にもちゃんと理由があるし、それにね、たった一つの感想によって救われることもあるんだってこと」
蹴斗は書いてくれた。
来栖の作品にコメントを。
それがどれだけ来栖の心の支えになったかわからない。
蹴斗だって、どれだけ勇気が必要だったかわからない。
「まあ、俺も気になったからな。というか、君はすごいね。その辛辣な感想をまとめて、読書感想文コンテストに応募しちゃうんだから」
そう、来栖はある作戦を実行していた。
チミル企画に投稿した彼女の作品『冬のイズ』に寄せられた感想を、校内読書感想文コンテストにまとめて提出していたのだ。「さあ、これが私の小説に寄せられた感想です」と煽り文句を付けて。
確かにそれは感想文。自分で書いたものではないけれど。
他人が書いた文章でコンテストに参加するというのは常識的に問題のある行為であったが、感想を含めて著者が著作権を有するというチミル企画の盲点を突いた来栖の奇策であった。
コンテスト用感想文の提出日は、新年が始まって最初の登校日の一月八日。
生徒閲覧のために感想文が校内に即日掲示されると、来栖の作品は発想の斬新さゆえに注目を浴びる。他の生徒の感想文は、他人が執筆した小説に生徒自身が感想を書いたものだったが、来栖のところだけ、生徒自身が執筆した小説に寄せられた感想文が掲示されているのだから。
「おいおい、こんな辛辣な感想が寄せられるって、一体どんな小説を書いたんだよ!?」
チミル企画の『冬のイズ』は、あっという間に校内で噂になる。当然、当事者の蹴斗の耳にも届くこととなった。
「まさに俺たち、公開処刑状態だよ。どんな重要な試合にだって緊張したことがなかった俺がこのザマだ」
簡易的な椅子に座っているためなのか、蹴斗の足は小刻みにカタカタと震えていた。
周囲を見渡すと、校舎の窓という窓から生徒が顔を出して中庭の二人の様子を伺っている。
「あら、私は全然平気よ」
だって来栖は、楠の下の大理石の椅子のお姫様なのだから。
暑い日も寒い日も、雨の日も風の日もずっと生徒の目に晒されてきた。この場所は、来栖のホームグラウンドなのだ。
ここでなら校内のどんな女子にも勝てる。来栖には確かな自信があった。
「お弁当も食べたし、小説の話もできた。後は君がこれを受け取ってくれたら、俺はすぐに立ち去ろうと思う」
そう言いながら蹴斗は、ポケットの中から白いかけらを取り出す。
それはあの日、来栖が地面に投げつけた大理石のかけらだった。
「それって……」
「見つけたんだ。君が試合を観ていた場所で」
ええっ!?
一瞬驚いた来栖だったが、かけらを差し出す蹴斗の笑顔で理解する。あの日、試合に出ていた蹴斗は、ちゃんと来栖のことを見ていてくれたのだと。
嬉しくて、嬉しくて、思わず涙が頬をつたってきた。
「おいおい、彼女振られたぜ」
「やっぱりダメだったのね……」
「なんとかしてやれよ、蹴斗!」
ざわつき始める校舎。
「まいったな……」
立ち上がり、ポリポリと頭をかく蹴斗は来栖に語りかける。大理石を受け取り、涙を流しながら石を見つめる彼女に。
「嬉しかったんだ。試合を観に来てくれて。だって君は、本にしか興味がない人だと思ってたから」
来栖は言いたかった。本にしか興味がないわけではない。蹴斗に興味があったから本を読んでいたのだ<と。
でもそれは『冬のイズ』に書いたし、蹴斗もそのことを読んでくれている。
「まずは友達からでいいか?」
蹴斗は恥ずかしそうに手を差し伸べる。涙を拭い、顔を上げる来栖に向かって。
「うん!」
来栖は両手でその手を握り返した。
「蹴斗君の手って温かい……」
すると冬の昼休みの中庭は、盛大な歓声(ちょっと悲鳴)に包まれたのであった。
ライトノベル作法研究所 2018―2019冬企画
テーマ:『冬の〇〇』
日本の10番を背負う男 ― 2018年09月11日 23時18分31秒
時は二◯二◯年八月。東京オリンピックのサッカー男子決勝戦が、新国立競技場で行われていた。
決勝まで勝ち進んだ日本と対戦するのはベルギー。二年前のロシアワールドカップを再現するかのように、試合が進行していく。
前半はゼロ対ゼロ。後半になって日本が二点先制するも、ベルギーに追いつかれる。そして後半アディッショナルタイムで日本はコーナーキックを獲得し、俺は並々ならぬ決意を固めていた。
――このチャンスを、絶対俺が決めてやる!
二年前のワールドカップでは、コーナーキックをキーパーにキャッチされ、高速カウンターを食らって日本は敗れ去った。だから今回は決して、キーパーにキャッチされてはいけないのだ。
いや、そんな「~されてはいけない」なんてネガティブな感情ではダメだ。ここで得点を決めてやる。そうすれば日本は勝ち越し、金メダルをたぐり寄せることができる。それほどの決意でなきゃ、キーパーのキャッチを防ぐことはできない。
俺は背番号10。日本中の期待を背負った男。
身長一メートル九十センチという恵まれた体格を生かし、ロシアワールドカップの得点王のイングランドのエース、ハリー・エドワード・ケインをお手本にして、どんな屈強なヨーロッパ人にも当たり負けしない体を作り上げた。タイミング良く飛び上がることができれば、誰も俺のヘディングを止めることはできない。
『さあ、後半最後の日本のチャンス。ボールがコーナーから放たれました!』
マークに付いたベルギーディフェンダーを振り切ると、俺は渾身の力を込めて踏み切った。幸い誰にも体をつけられることなく、フリーで空中に飛び上がる。
そして俺の頭めがけて飛んできたボールを、ゴールの隅に叩きつけたのだ。
『ゴール、ゴール、ゴール! 日本、後半アディッショナルで決定的な追加点!! ケインを彷彿させる見事なヘッドだ。日本の10番が金メダルをぐっと引き寄せました!』
コーナーフラッグに向かって走り、仲間と抱き合って喜ぶ俺に、各国からの観客の熱い声援が飛んでくる。
「ナイスゴール、ケイン!」
「ケイン、ビューリフォーヘッド!!」
だから俺はケインじゃねえって。
俺の苗字は『金(KANE)』。日本の10番を背負う男。何回言えば分かってくれるんだ?
ライトノベル作法研究所 2018夏企画
テーマ:『金』
決勝まで勝ち進んだ日本と対戦するのはベルギー。二年前のロシアワールドカップを再現するかのように、試合が進行していく。
前半はゼロ対ゼロ。後半になって日本が二点先制するも、ベルギーに追いつかれる。そして後半アディッショナルタイムで日本はコーナーキックを獲得し、俺は並々ならぬ決意を固めていた。
――このチャンスを、絶対俺が決めてやる!
二年前のワールドカップでは、コーナーキックをキーパーにキャッチされ、高速カウンターを食らって日本は敗れ去った。だから今回は決して、キーパーにキャッチされてはいけないのだ。
いや、そんな「~されてはいけない」なんてネガティブな感情ではダメだ。ここで得点を決めてやる。そうすれば日本は勝ち越し、金メダルをたぐり寄せることができる。それほどの決意でなきゃ、キーパーのキャッチを防ぐことはできない。
俺は背番号10。日本中の期待を背負った男。
身長一メートル九十センチという恵まれた体格を生かし、ロシアワールドカップの得点王のイングランドのエース、ハリー・エドワード・ケインをお手本にして、どんな屈強なヨーロッパ人にも当たり負けしない体を作り上げた。タイミング良く飛び上がることができれば、誰も俺のヘディングを止めることはできない。
『さあ、後半最後の日本のチャンス。ボールがコーナーから放たれました!』
マークに付いたベルギーディフェンダーを振り切ると、俺は渾身の力を込めて踏み切った。幸い誰にも体をつけられることなく、フリーで空中に飛び上がる。
そして俺の頭めがけて飛んできたボールを、ゴールの隅に叩きつけたのだ。
『ゴール、ゴール、ゴール! 日本、後半アディッショナルで決定的な追加点!! ケインを彷彿させる見事なヘッドだ。日本の10番が金メダルをぐっと引き寄せました!』
コーナーフラッグに向かって走り、仲間と抱き合って喜ぶ俺に、各国からの観客の熱い声援が飛んでくる。
「ナイスゴール、ケイン!」
「ケイン、ビューリフォーヘッド!!」
だから俺はケインじゃねえって。
俺の苗字は『金(KANE)』。日本の10番を背負う男。何回言えば分かってくれるんだ?
ライトノベル作法研究所 2018夏企画
テーマ:『金』
逆転世界のみずがめ座 ― 2018年05月16日 20時48分20秒
「えっ!?」
いつものように登校した俺、雪原冬馬(ゆきはら とうま)は、自分の目を疑った。
「これって……?」
朝の高校。昇降口でうわばきに履き替え、階段を登って三階の廊下に到着したところまではよかった。が、廊下の様子がなんだか変なのだ。
どこが変なのかと言うと……どこだろう?
とにかく変だ。落ち着け冬馬、ゆっくりと考えるんだ。
目の前には、リノリウムの敷き詰められた廊下が一直線に伸びている。
左側に窓が、右側には教室が面していて……って、右側ぁ!?
ようやく俺は、違和感の元凶にたどり着いた。そうだよ、先週までは教室は廊下の左側に面していたじゃないか。
廊下の窓から隣りの校舎と中庭が見える。が、これはいつも教室の窓から見えていた景色だ。
一方、教室の中を覗いてみると、窓の向こう側には山々が。これは今まで廊下から見えていた景色だった。
これって、まさか……。
「右と左が入れ替わってる!?」
あの時、星に託した願いは、こんな内容じゃなかったのに!?
どうして左右が逆転してるんだよ!?
俺は、週末から今朝にかけての出来事を思い出していた。
☆
ゴールデンウィークを翌週に控えた二〇一八年四月二十二日。
時は早朝、午前四時半。
俺は父親と一緒に、角山高原スキー場のゴンドラ山頂駅に降り立った。
これから山頂駅のレストランで日の出を見ながら朝食を食べて、誰も滑っていないゲレンデを滑走するのだ。
麓のホテルの宿泊客に向けて、一日限定五組というふれこみでそういうサービスが用意されていた。
正直言って、日の出も朝食も俺にはどうでも良い。
――バージンゲレンデの一番滑走。
これが目当てで、俺は父親にスキー旅行をおねだりしたのだ。
早朝のコンディションの良いゲレンデを滑ることは、春スキーにとって重要だ。命と言ってもいい。午後になるとグチャグチャになる雪は、今はカリカリに凍っている。
「美しい……」
スキーだけが目当てだった俺だが、降り立った山頂駅からの景色に思わず心を奪われる。
日の出を前に、今、目覚めようとしている白銀の世界。眼下に見える谷間はまだ、集落の灯りで照らされている。見上げると、紫色の空には夜明けに対抗しようと星々が最後の光を放っていた。
「あれって、夏の大三角じゃないか」
隣に立つ父親が宙を指差す。
――デネブ、アルタイル、ベガ。夏の大三角。
それなら俺も知っている。どうやって覚えたかは内緒だけど。
「そうか、冬馬。今はまだ春だけど、明け方になると夏の星座が出て来るんだな……」
隣で星を見上げながら、父親は白い息をはいていた。
夜明けはめまぐるしく空の色を塗り替えていく。遥か遠くの山並みがオレンジ色に染まり始めると、はっきり見えていた星々も一つ一つ消えていき、今は大きな三角形が見えるだけだ。
「冬馬。寒いから、先にレストランに入ってるぞ」
「わかった、親父。俺もすぐ行く」
そういえば、ベガとアルタイルって織姫と彦星じゃないか。七夕伝説では夏に一度しか会えないって話になっているけど、こうやって人の知らないところでこっそり会っているんじゃないのか? 今なら夜明けの光で天の川が消えちゃってるんだから。
そう思った瞬間、ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けて俺は雪の上に尻もちをつく。
と同時に、怒りに満ちた声が頭の中を貫いた。
「ソレは、チガうぞ!」
な、なんだ? 衝撃のせいで幻聴まで聞こえるようになってしまったのか?
ていうか、さっきの衝撃はいったい何だったんだよ。
ジンジンする側頭部をさすりながら辺りを見回す。父親はレストランの入り口から中に入ろうとしていて、俺の身に起きた異変には気づいていないようだ。他のお客もすでにレストランに入っていて、外にいるのは俺だけだった。
「ドコ見てンダよ。ココだよ、ココ!」
えっ? ここって……?
声がする方を見ると、雪に半分埋もれた金色の小さな物体が目に入る。体を起こし、近くに寄って拾い上げると、それは親指くらいの大きさの星型のペンダントだった。
「ヤッと気づイタな」
「うわっ!」
ペンダントが喋った!?
「何、驚いテンだよ。俺様を呼んダノはお前じゃナイか」
「呼んだって?」
そんなことしてねえぞ、俺。
「トボケたって無駄ダヨ。チャンと心の声が聞こエタぞ、羨まシイって」
羨ましい? それって織姫と彦星のことか?
そりゃ、羨ましいって思ったよ。
一年に一回しか会えないって嘘じゃねえか。織姫と彦星が実際に近づいているところを、俺は一回も見たことがねえ。みんな伝説の美談に騙されてるんだよ。「一年に一回しか会えないって、まあ可哀想」なんて言われたら、そうだねって言うしかねえだろ。本当はさっきみたいに、毎日のように逢引してんだからさ。
「逢ってイタことはミトめる。タダし、羨ましガラレることジャない。毎回、尻に敷かレテるんダカら」
「尻に敷かれてるって? じゃあ、お前は……」
「ゴ想像のトオり、俺様は彦星ことアルタイル星のオウジ、アルタだ」
「な、なんだって!?」
これが俺とアルタとの出会いだった。
☆
それから俺は、星型のペンダント、いやアルタを首からぶら下げてフリースの下に隠す。
が、人前ではアルタが話しかけてくることはなかった。
朝食を食べ、バージンゲレンデを滑って、雪がぐしゃぐしゃになる時間までスキーを楽しみ、父親の車で家路についてもアルタはだんまり。だから、アルタとの会話は、実は夢の中の出来事だったんじゃないかと思っていたんだ。
それが打ち破られたのは翌日の早朝。四月二十三日の午前三時半のことだった。
「トウマ、起キロ! 早く、起きルンだ!!」
誰だよ、気持ちよく寝ているのを邪魔するやつは。
昨日のスキーで俺は疲れてるんだ。それに今日は平日だから学校もあるんだよ。ゆっくり朝まで寝かせてくれよ。
「早く起キロ! 朝にナッチャう!!」
「んもう! なんだよ、朝になったっていいだろ? 明日も明後日もまた朝が来るって」
あくまでもベットを出ようとしない俺に対して、アルタは耳元で騒ぎ続ける。
「交信すルンだ。アルタイル星と。ソシたら願い事がカナう。ソレは今ダケだ」
「願い事!?」
ズキューンと音はしなかったが、そのワードは俺の心に鋭く刺さる。
というのも、昨日のグチャグチャの雪は本当に嫌になってしまったから。毎週のようにスキーを楽しんでいた俺は、シーズンの終わりを痛感していた。
――すぐにまた冬が来ますように!
二月生まれで名前も冬馬。三度の飯よりスキーが好きな男。
子供の頃、テレビで観たスキー映画に憧れ、志賀―万座ルートの冬期滑走を夢見ている。
だから、すぐに思いつく願い事となれば、そうなるのが当然だろ?
「その願いって、何でも叶うのか?」
「俺様アルタイル星人とイセイジンが出会っテカら二十四時間イナイの願いゴトは、最強ナンだ」
二十四時間!?
最強という言葉はなんだか怪しいが、今はタイムリミットの方が気になってしまう。
確か、昨日アルタと出会ったのが午前五時前だった。ということは、あと一時間でその効力は消えていく。
「アルタ、願い事をするにはどこに行けばいいんだ!?」
ベッドから飛び起きた俺は、急いで着替えながらペンダントを身につけた。そして防寒用のパーカーを羽織る。
「アルタイル星が見えるトコろ。見えレバどこデモいい」
てことは、近所の公園か?
あそこなら広い芝生広場があるから、星を見るには最適だろう。
「よし、公園に行くぞ、アルタ!」
俺は胸のペンダントを手で確認しながら、人気のない早朝の町に繰り出した。
住宅街を一分くらい走ったところに、近隣公園がある。中央に野球場一個分くらいの広い芝生広場があり、休日の昼間は家族連れでいつも賑わっていた。
が、今は午前四時。当然、人の気配はない。
街灯に照らされた門の脇を抜けて公園に入ると、俺は空を見上げた。幸い雲一つなく、星が綺麗に輝いている。アルタイル星に願いをするなら、夏の大三角を探せばいい。
「大三角、大三角……と」
「ソレよりもトウマ、願い事を考えルンだ。俺様の願いとシンクロした部分が、トクに強いパワーをモツ」
シンクロ? なんだよ、それ?
願いが一致した部分ってことか? もし全く一致していなかったら、何も叶わねえってことじゃねえか!
「おいおい、まずはアルタの願い事を教えろよ。シンクロしてるかどうか、わかんねえだろ?」
「ダメだ、トウマ。願い事は人にモラシてはイケない」
漏らしてはいけないってマジかよ。まあ、この手の話にはありがちだけどな。
仕方がないので、俺は作戦を変えることにした。
「じゃあ、まだちょっと時間があるから話でもしようぜ。悩み事とかな」
「ナヤミごと?」
いくら星の王子様といえども悩み事はあるはずだ。アルタの願いは、それを解消する方向に違いないと俺は推測した。
すると、ため息をつくような脱力した声が聞こえてきた。
「ツカれタンだ、俺様ハ。毎年のヨウに、織姫のフィアンセって騒がレテさ」
えっ? それってリア充自慢?
さすがは王子。王子ってやつは、美男子好青年か、いけ好かないやつのどちらかに決まっている。
「タシかに幼馴染の織姫はビジンだ。デモ、性格はごっついキツイで」
なぜに関西弁? でも俺は、ある共通点を二人の間に見出していた。
「それは俺も同じやね」
俺は思い出していた。
幼馴染の存在を。
蓋付如月(ふたつき きさらぎ)。
近所に住んでいる高三の女の子。
誕生日は俺と全く同じ二◯◯一年二月十五日。みずがめ座。
最悪なことに、保育園から高校までずっと一緒だったりする。
「美人だが性格のキツイ幼馴染が、俺にもいるんだ」
容姿端麗、成績優秀。誕生日が同じ俺たちは、いつも比べられてきた。
すると、俺の言葉を発端に、二人で幼馴染の悪口合戦になってしまう。
「織姫ナンて、「私ノ方が位置が上ナノよ」とイツも威張っテンだ」
「俺の幼馴染の如月だって同じだぜ。いつも俺を家来のようにこき使う。この間なんて、教科書忘れたって勝手に俺の机から持っていっちゃうんだぜ。クラスが隣だから実害はないけどさ」
「織姫ダッテ、俺様より遠いノニさ、明るクッテ嫌にナッチャう」
「如月だって、星ぱっか見てるから星バカって呼んだら怒るんだよ。俺のことはスキーバカって言うくせにさ。アルタと会ったら喜ぶんじゃないか?」
「織姫ナンてさ、アニメの主人公にナッタとか、ゲームのキャラにナッタとか、イチイチ自慢してクルンだよ。俺様はダレにも見向きモサれナイのに……」
「お互い苦労してるな。強烈な幼馴染を持っちゃうと」
「ソダネぇ」
早朝の公園にぽっと湧いた笑い声は、満天の夜空にすっと消えていく。
でもこれでわかった。アルタは織姫に嫌気がさしている。だから彼の願いは、織姫から距離を置きたいという内容に間違いない。
この願いと俺の願いをシンクロさせるには、どうしたらいい?
その時俺は、スキー場で聞いた父親の言葉を思い出した。
『今はまだ春だけど、明け方になると夏の星座が出て来るんだな……』
ん? 夏の星座? ってことは、織姫星も夏の星ってこと?
これだ!
夏の大三角は、その名の通り夏の星座じゃないか。だったら、また冬にしてくれと願えばいいんだよ。そうなれば俺はまだスキーを続けられる。アルタはしばらく織姫に会わなくて済む。完全にシンクロしてるじゃないか!
よし、願いが決まった。
さあ、儀式を始めようぜとアルタに告げようとした時、思いもしない声が背後から投げかけられた。
「強烈な幼馴染って、誰のことよ!?」
えっ!!???
驚いた俺が振り向くと、黒い長髪の少女が腕組みをして立っていた。
それは幼馴染の女の子、蓋付如月だった。
「ねえ、その幼馴染って、まさか私のことじゃないでしょうね? ていうか、あんた、誰としゃべってんのよ?」
相変わらずの高圧的な態度で、如月は俺に畳み掛けてくる。背が俺よりも低いのがせめてもの救いだ。俺を見上げる二重のパッチリとした瞳が、街灯の光を反射して三角に光っていた。
「だ、誰だっていいじゃねえか。それより如月こそ、なんでこんな時間にここにいるんだよ?」
「なんでって、あんたも同じ目的じゃないの? だって今日は、こと座流星群の極大でしょ?」
こと座流星群? なんだそりゃ。
そういえば如月は星バカ、いや大の天文マニアだった。
夏の大三角を教えてくれたのも如月だったっけ。そういうのって、本当は男性が女性に教えた方がカッコイイような気がして恥ずかしくて人には言えないんだけど。
彼女の格好を見ると、ジーンズにハイカットのトレッキングシューズ、そして上はフード付きの暖かそうなマウンテンパーカーを着込んでいる。中はセーターかフリースなのだろう。これなら長時間の流星観測にも耐えられそうだ。
「こと座って、ほら、有名な織姫星がある星座よ。子供の頃、教えてあげたでしょ? そこから放射状に流星が降ってくるのよ、今日は」
織姫から星が!? アルタが聞いたら卒倒しそうな光景だ。
ていうか、今、ペンダントがブルブルって震えたような気がしないでもない。
「ほら、落ちた! またすぐに来るよ」
如月が宙を指差す。
俺もその方角を見上げる。
すると二十秒くらい経って流れ星が一つ、つうっと夜空を横切った。
「ホントだ!」
流星群という言葉はニュースで時折聞くけど、本当に流れ星が見えるとは思わなかった。
むふふふふ。これはマジで願いが叶いそうじゃないか。
瞳を輝かせてほくそ笑む俺に、如月は呆れ顔になる。
「あんた、何しにここに来たのかは知らないけど、やっと私の言うことに興味を持ってくれたのね。星座のことをいくら教えてあげても、ちっとも見向きもしなかったのに」
そりゃ、如月さん。今は俺、いや俺たちの願いがかかってるんですよ。真剣にもなるでしょうが。
「まあな、流れ星はわかりやすいからな。綺麗だし」
「ふん……」
小さく鼻を鳴らすと、如月はまた宙を見上げる。そして小さくつぶやいた。
「星の落ち方って波があるの。すごい時は数十秒に一個くらいの頻度で落ちることもあるんだから」
それはすごい、と言おうとしてチラリと横を向くと、彼女は真剣に宙を眺めていた。その姿にドキリとする。
――こいつの顎って、こんなに綺麗だったっけ?
いつもは見下ろしてばかりの如月の顔。こうして宙を見上げている彼女は、鼻筋から顎にかけてのラインがとても美しいことに気がついた。辺りが薄暗いから、街灯に照らされた輪郭が強調されていることもあるだろう。
もし彼女が強烈な幼馴染じゃなかったら?
デートとして流星観測に来ていたのであれば、この先俺はどうしていただろう?
そんな妄想を打ち砕いたのは、興奮に震える彼女の言葉だった。
「ほら、冬馬、来たよ、来たよ、ジャンジャンだよ。フィーバー、フィーバー!」
慌てて宙を見上げると、信じられないような光景が広がっていた。
次から次へと星が落ちてくるのだ。
一つ、また一つ、絶え間なく、こと座からいろいろな方向へ。
「今だよ、願い事をするのは!」
如月に言われて思い出す。
星に願いを込めるためにここに来たことを。
俺は胸の星型のペンダントをパーカーの上からぎゅっと握ると、願い事を心の中で唱える。
その刹那、世界はまばゆい光に包まれた。
☆
はっと目を開けると、俺は自室のベッドの中にいた。
公園から家に帰った記憶がないから、きっと飛ばされてきたのだろう。
それは、俺たちの願いが叶えられたことを意味している。
時間は六時半。あれから二時間しか経っていない。
俺は枕元のスマホに手を伸ばす。そして日付を確認して愕然となった。
「なんだよ、四月のまんまじゃねえかよ」
――二◯一八年四月二十三日。
スマホにはそう表示されていた。
俺はあの時、『すぐにまた冬が来ますように』と願った。だから目が覚めたら、十一月か十二月になっているんじゃないかと予想していたのだ。その目論見は見事に崩れ去ることに。
「もしかして、今朝のことはすべて夢だったのか……?」
部屋の壁に掛けられたスキーウエア。机の上の星型のペンダント。
週末、父親とスキーに行って、山頂でペンダントを拾ったところまでは現実に起きた出来事だろう。しかし今朝のことはあまり自信がない。疲れすぎて変な夢を見ただけという可能性もある。
「アルタ! アルタ!?」
試しにアルタの名前を呼んでみた。が、何も反応はない。やっぱり夢だったのだろうか。
それにしても、何がアルタイル星の王子だよ。願いが叶うって、お子様かよ。
俺は一人毒づくと、おもむろにベッドを抜け出した。どんなに落胆したって、学校に行かなくちゃいけない事実は変わらない。
カーテンを開けると、東向きの窓から洪水のように朝日が部屋になだれ込んできた。
俺は朝食を食べ終わると、制服に着替えて学校へ歩き出した――
「うーん、さっぱりわからない……」
左右の位置が逆転した教室の中。授業を受けながら、先週末から今朝までの出来事を思い出していた俺は考える。
なんでこうなってしまったんだろう、と。
俺はただ『すぐまた冬が来ますように』と願っただけで、『左右逆転の世界』を望んだわけではない。
待てよ、あの時願ったのは俺だけじゃなかったはずだ。だから、他の人の願いが優先されてしまったとか……?
いやいや、アルタは確か『シンクロした部分』と言っていたぞ。ということは、この左右が逆転した世界にも俺の願いが含まれているはずだ。
「うーん、全くわからない……」
何度同じ疑問を繰り返しただろう。
今のところ、先週と明らかに異なっていると分かるのは、左右の逆転だけなのだ。
悶々としているうちに、あっという間に四時間目になってしまう。授業は現代文。陽も高くなり、山側の窓から陽の光が入ってくるようになった。いつもは廊下から見ていたあの山の方向から。
でも、よくよく考えてみるとなんだかおかしい。
左右逆転した世界なら、左利きが多くなっているはずだ。それにも関わらず、ほとんどの生徒が右手でシャーペンを持っていた。
そもそも文字がちゃんと読めているも変だ。すべての左右が逆転したら、文字だって裏返しになっているはず。
考えれば考えるほどわからなくなる俺の耳に、聞きなれない言葉が飛び込んでくる。それは、ことわざについて説明する先生の声だった。
「昔からのことわざに『南に近ければ北に遠い』というものがあります」
えっ? 何それ?
そのことわざって、『北に近ければ南に遠い』じゃなかったっけ?
でもこれで、ついに新たな変化が俺の前の現れた。左右逆転以外の変化が。
俺は一言も聞き逃すまいと先生の言葉に耳を傾ける。
「先生は思うのです。このことわざを最初に詠んだ人は、南に向かっていたんじゃないかと」
まあ、そうだろう。南に近づいて行ったので北から離れてしまったんだから。
「南って、寒くて遠い国って感じがしますよね。そういうことが影響しているんじゃないかと思うのです」
ええっ? 何だって?
南が寒くて遠い国!?
おいおい、逆転してるのは左右だけじゃないのかよ。
もしかして、南と北も逆転している?
だから陽の光も、山側の北側から差し込むようになったのか!?
「それに、日本では昔からよく言いますよね。旅人は南十字星に導かれるように歩むって」
えっ、南十字星!?
そんなの日本で見えたっけ?
その時俺の頭の中に閃いたのは、ある可能性だった。
☆
四時間目が終わると、俺は右隣に座る鈴木に尋ねる。
「頼むから教えてくれ。日本はいつから南半球に位置してる?」
これが俺がたどり着いた答えだった。
――日本が南半球にある世界。
もしこれが実現したのであれば、すべての現象が説明できるからだ。
「いつからって建国時から南半球じゃねえの? それともプレートテクトニクスとやらで北半球からやってきた証拠が見つかって、それがいつかって話?」
怪訝な顔をする鈴木を横目に、俺は小さくガッツポーズする。
やっぱりそうだ。
俺たちの願いによって、日本が南半球にある世界に変わったんだ。
教室の位置が入れ替わったのも、左右逆転の世界になったんじゃなくて、太陽が北側に昇るようになったから教室の窓が北向きに設置されただけだったんだ。
「じゃあ、もう一つ聞くけど、今は春? それとも秋?」
北半球と南半球の大きな違いは季節だ。北半球が春の時、南半球では秋となる。
「どうしたんだよ、今日はなんだか変だぜ。今は秋に決まってんじゃねえか、四月なんだからさ」
おおおおお、星は俺の願いを本当に叶えてくれたんだ。
これからまた冬が来る。スキーの季節がやって来る!
「雪原、そんなことよりも、そろそろ弁当食べに中庭に行かなくていいのか? ぼやぼやしてるとしびれを切らして教室まで来ちまうぜ、お前のラブリーハニーが」
ラブリーハニー?
なんだよ、それ?
この世界では、俺に彼女がいるって設定なのか?
「トウマ!」
すると教室の入り口で俺を呼ぶ女生徒の声がした。
同時に「ほら、来た」という顔をする鈴木。
「遅いから迎えにきちゃった。ハァハァ……」
振り向くと、そこには幼馴染の如月が息を切らして立っていた。
「なんだよ、俺の教室なんかに来んなよ」
俺は如月のもとに駆け寄ると、廊下に連れ出した。
「だってトウマ遅いんだもん。葉月、お腹すいちゃった。いつものようにお弁当用意してるから、早く中庭で食べようよ」
ちょ、ちょっと、如月のキャラ変わりすぎじゃね?
学校で会ってもいつも知らんぷりだった如月がこんな大胆な行動に出るなんて、この世界はどうなってんだ?
それに葉月ってなんだよ。さっぱりわけがわからない。制服のスカートだって短いし。
状況が掴めるまではしょうがないと、俺は如月に手を引かれるまま階段を降りて中庭にやってきた。そこには芝生の上にレジャーシートとお弁当が用意されている。
「さあ、食べましょ!」
な、な、な、な、なっ!?
ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれよ。ここで二人でレジャーシートに座って弁当を食べるってか? 全校生徒に注目されるかもしれないこの中庭で!?
俺たちが通う高校は、三階建ての鉄筋コンクリート製校舎が二棟、二十メートルほどの距離をおいて平行に並んでおり、校舎と渡り廊下で囲まれたエリアが中庭になっている。小さな池と芝生とタイルが敷き詰められ、木陰では昼寝をする生徒もいた。もちろん、校舎からは丸見えである。
「あのう、き、如月さん? 俺たち、ここで本当に毎日お弁当を食べてるの?」
「入学時からずっと一緒に食べてるじゃない。私たち幼馴染なんだから」
泣き出しそうな表情で俺に訴える如月。そんな表情なんて見たことがなかった俺は、思わず胸がキュンと鳴る。
「それに如月って誰? 私は葉月なのに……」
彼女はポロポロと涙をこぼし始めた。一緒に弁当を食べることより、今の状況の方が目立っているように感じた俺は、とりあえず如月、いや葉月をレジャーシートに座らせる。
「ごめん、葉月。俺、週末に頭を打って、ちょっと記憶を失っているのかもしれない」
「大丈夫? どこ? 痛くない?」
そう言いながら真剣に俺の頭を覗き込む葉月を見ながら、この娘は本当に俺のことを心配してくれているんだと胸が熱くなるのだった。
「今日はお弁当にハンバーグを入れてみたの。どう? 美味しい?」
うわぁ、このシチュエーション、男子高校生なら一度は体験してみたいイベントだけど、普通屋上とかじゃね? 中庭なんて、いきなり最難関レベルだよ。
俺は辺りをキョロキョロ気にしながら、ハンバーグを一切れ口に入れる。
「う、美味い!」
如月ってこんなに料理、上手かったんだ……。
幼馴染の意外な特技に俺は驚いた。
「あーんしてあげようか?」
やめてくれ、それだけは。悶えながら余裕で死ねるし、非リア充軍団に抹殺されるぞ。
観念した俺は中庭のレジャーシートに小さく座って、葉月と一緒におとなしく弁当を食べる。俺的にはむちゃくちゃ恥ずかしかったが、生徒たちの平素な反応を見ていると、この昼食イベントは本当に日常のワンシーンと化していることが推察された。
ていうか、なんで『如月』が『葉月』なんだ?
どうしてこんなにキャラが変わってしまったんだよ。
「俺たちって幼馴染で二月生まれだよな」
葉月との会話を通して、この劇的変化の原因を掴みたい。
そのためには、お互いの認識の違いを明らかにするのが早道だろう。
「そう。それで誕生日も全く同じ二月十五日のみずがめ座。頭を打ってもちゃんと覚えててくれたんだね。ありがとう」
葉月は、俺の記憶喪失という言い訳を信じてくれたようだ。
まあ、実際に記憶喪失に近い状況なんだけど。
「両親も、その日はすごく寒い日だったって言ってたなぁ……」
この話は何度聞かされたかわからない。
寒さに負けない強い子に育つよう、俺は『冬馬』と、同じ日に生まれた幼馴染は『如月』と名付けられたんだ。
するとにわかに葉月の表情が曇る。
「何言ってるの? 私たちが生まれた日は、その年で一番暑い日だったって聞いてるけど?」
えっ、一番暑い日?
いやいや、二月は真冬だろ?
ん? 待てよ。そうか、そういうことだったのか!
日本は南半球に移動しちゃったから、二月は真夏なんだ。
「ねえ、トウマ。如月って日本では八月のことなんだよ。寒さが厳しくて重ね着するって意味なんだから」
うはっ、この日本では如月は八月のことなんだ。じゃあ、皐月とか水無月って何月になるんだよ。
ていうか、二月の真夏に生まれたから名前が『葉月』になって、やたらと開放的なキャラに変わってしまったのか? 名は体を表すというけど、まさかそれが本当になっているとは!
そこで俺はふと気づく。俺自身の名前はいったいどうなっているのか――と。
冬馬。二月に生まれたからつけられた俺の名前。
誕生日が本当に一年で一番暑い日だったら、冬馬という名前はありえない。
「ところで葉月さん? 俺の名前はトウマで良かったんだっけ?」
恐る恐る訊いてみる。
もし、すごいトロピカルな名前だったら、これまで十七年間築いてきたアイデンティティが一気に崩壊しそうだ。
「トウマはトウマだよ。闘う馬と書いて闘馬。それも忘れちゃったの?」
「いや、まあ、なんというか、ちょっとそこんとこあやふやでな」
良かった。俺の名前はトウマのままで。
俺は心の底からほっとした。
まあ、だから今まで違和感がなかったわけだ。漢字が熱いのがちょっと気になるけど。
「それよりも闘馬、ゴールデンウィークになったら一緒に星を見に行かない?」
えっ、星?
今朝、一緒に見たばかりじゃないか、と言おうとして俺は口をつむぐ。あれは世界が変わる前だった。もし葉月が体験していないことだったら、ややこしいことになりかねない。
それにしても、葉月になってもこいつの星好きは変わらないんだな。
以前と変わらぬ幼馴染の側面に触れることができて、俺はなんだか嬉しくなった。
「ああ、行こう!」
星空の下、また彼女の美しい表情が見れるのかな。
今の葉月とはこんなにラブラブなんだから、ドキドキイベントが発生したりして?
期待に胸を膨らませる俺に、彼女は言った。
「良かったぁ。今週末から見ることができるの、みずがめ座流星群が」
☆
帰宅して夕食を済ませた俺は、ごろんとベッドに横になる。
今日はいろいろなことがあった。
早朝の流星観測と願い事。そして北半球と南半球の逆転。如月なんて、名前もキャラも正反対になってしまった。
「もしかして如月にも、葉月のような一面があったのかもしれないな……」
もう二度と会えないかもしれない如月という名前の女の子。
そう考えると、なんだか寂しくなってきた。
本当に、名は体を表しているだけなのだろうか?
俺がもっと星座に興味を示してあげていれば、如月だって、葉月のような輝く笑顔をたくさん見せてくれたんじゃないのか?
スキーばかりに行くんじゃなくて、時折一緒に天体観測に出かけてあげればよかった。そんな過去もありえたかもしれない。
如月のことを考えれば考えるほど、葉月のことを大切にしなくちゃいけないと思う。と同時に、どうしようもない喪失感で胸が一杯になるのだ。
「ごめんな、如月。こんな幼馴染で……」
一粒、涙が頬をつたう。俺は眠りに落ちた。
「おい、トウマ。起キロ!」
早朝四時。
俺の安眠を打ち破ったのは、やはりこいつの声だった。
「な、なんだよアルタ。毎日毎日早くから起こすなよ。もう願いは叶っただろ?」
「スゴイだろ? 俺様がツクった世界ハ。織姫もイナイ、スキーもスグデキる、流星もミレる」
「俺様が創ったって、アルタが創ったのか? そりゃ凄え、凄え」
「ジツリョク、ってトコかな」
えへんと胸を張っているような声が聞こえてくる。
「そんな万能の王子様なのに、なんで早朝しか出てこないんだよ。質問したい時に反応ないし。こっちはすごく迷惑なんだけど」
世界が変わった時、なにがなんだかわからなくて本当に困った。アルタが創った世界なんだったら、張本人が率先して状況を説明すべきところだ。
「シカタないンダよ。アルタイル星と通信しナガら、地球語にホンヤクしテルから」
なんだって? アルタイル星と通信しなくちゃ喋れないってこと?
まるでグー◯ル翻訳の宇宙版って感じだな。
まさか、アルタイル星からの電波で俺の耳石が操作されてアルタの声が聞こえているわけじゃあるまい。
「早朝じゃない時間帯に出現してほしいんだけど」
「だからシカタないって言っテルじゃナイか。昼間はアルタイル星と通信デキないンダよ」
そうなのか?
もし、本当にそうなら仕方がないことだが。
それより俺には、アルタに聞きたいことがあった。
「ところで何で、叶う願いはシンクロした部分だけなんだ?」
世界を創れるくらいなら、いつでもなんでもできるような気もする。
「ソウじゃナイと際限ナイだろ? 宇宙のシンイは平等ナンだ」
まあ、そうかもな。
異星人がアルタイル星に願い事をした時だけ、アルタの望みが叶う。
それならば、万能の王子様だって異星人の意思をないがしろにできなくなるってわけだ。もしかしたら、このシステムのおかげで宇宙の平和が保たれているのかもしれない。
「デモ、この世界はイイな。織姫のコエが聞こエナい」
しみじみと語るアルタ。
清々できるのは今のうちだけなんじゃないかと俺は思う。と同時に、幼馴染のことを思い出していた。
名前が変わって、性格も変わってしまった俺の幼馴染。
十七年間、一緒に過ごしてきた如月が失われたと思うと、心にぽっかり穴が空いたようだ。
アルタが今、開放感を満喫できているのは、望めばまた織姫に会えると考えているからじゃないのか? でもその時に会える織姫は、昔の織姫と同じとは限らない。
俺はそれを痛感した。
今、会える人を、全力で大切にしないといけないんだ。
「なあ、アルタ。織姫はさ、本当にアルタのことが好きだったんじゃないのか?」
それは自分に言い聞かせるように。
「きっと彼女は、アルタに向けてメッセージを発信し続けていたんだよ。それを俺たちは、受け取り損ねていたんだ」
「…………」
アルタが後悔しないようにするにはどうしたらいいんだろう?
お昼になったら葉月に相談してみようと、おれはベッドの上で再び目を閉じた。
☆
「なあ、葉月。七夕伝説ってあるよな」
お昼の中庭で、葉月が作ったお弁当を食べながら俺は切り出した。
アルタの身の上を相談するには、まずは七夕伝説から入っていくのがいいと思ったからだ。
それにしても、中庭での昼食会はすごく恥ずかしくて全く慣れることができない。が、それよりも驚いたのは、俺の言葉に葉月が目をまんまるにしたことだった。
「闘馬、何でそれ知ってるの?」
知ってるって、日本人なら誰でも知ってるだろ? 七夕伝説くらい。
キョトンとする俺の瞳を、葉月は興奮しながら見つめてくる。
「七夕伝説って、遠い遠い北の国のお話だよ。離れ離れになった男女が、一年に一度だけ会えるという切ないストーリーなの。中国では、その話を織姫星と彦星という星に投影してるんだって」
それくらいなら俺だって知ってるぞ。
でも、それを知ってることが何で驚きに値するんだ?
「あれ? 闘馬に七夕伝説って話したことあったっけ?」
なんだか状況がよくわからないが、俺は話を葉月に合わせることにした。
「ああ、ずいぶんと昔のことだけどな」
夏の大三角は、子供の頃に如月から教わったんだ。だから嘘は言ってない。
「ホント? でも嬉しい! そんな昔のことを覚えていてくれたなんて」
満面の葉月の笑顔。それは抱きしめたくなるくらいに可愛いかった。
でも、如月をそんな笑顔にさせてあげられなかったことを思うと、心がチクリと傷む。
「それでな、中国から来たという俺の知り合いにさ、自分自身をその彦星に重ねているバカな傷心野郎がいるんだよ」
おい、アルタ、聞こえてるか? お前のことだぞ。
俺は胸を掻くふりをして、制服の下に隠しているペンダントに触れる。
「へえ~」
葉月は興味深そうに耳を傾けてくれた。
如月だったら「本当にバカな野郎ね」と一蹴しているところだろう。
「そんでもって、「この日本に来れば織姫に見つからない。清々する」なんて言ってるんだよ。でも織姫も心配してるよね? だから、すぐに仲直りした方がいいよね?」
最愛の人が消えた。その時、女性はどう感じるのだろう?
そんな女性心理を俺は葉月から聞いてみたかった。アルタにアドバイスするために。
しかし返ってきたのは予想外の答え。
「その人が本気で自分のことを彦星と言っているんだったら、しばらくほおっておけばいいんじゃない?」
へっ? そんなんでいいの?
あっけらかんと答える葉月の言葉に俺は唖然となる。
「七夕伝説って一見ロマンチックだけど、実は労働生産性の話なの。会えばいちゃいちゃして仕事をしない二人、逆に会えないと悲しくて仕事をしない二人。一番仕事に励んだのが一年に一回という頻度、ということなんだから、元気が出るまでは会わなくてもいいんじゃない?」
いやいや、それを言っちゃおしまいでしょ。
まるで如月のようなクールな一面を葉月に見ることができて、俺は驚いていた。まあ、同一人物なんだから、全く違うと言う方が無理な話かもしれない。
「それに、ここにいれば本当に織姫に見つからないしね」
「それはどうして?」
続く葉月の答えは、七夕伝説に関する俺の違和感をすべて吹き飛ばす。
「だって日本からは織姫星は見えないもの」
ええっ!?
織姫が見えないって? どういうこと?
「織姫星。つまり、こと座のベガは北にある星だから、北半球にある中国からは見ることができるけど、日本は南半球の南の方にあるから見られないの。だからその人は、見つからないって言っているんだと思うよ」
マジか?
ようやく俺もアルタが言っていることを理解した。
「じゃあ、彦星は?」
「彦星? わし座のアルタイルね。アルタイルは見えるよ。夏の夜の水平線近くにね。今だったら、夜明け前のちょっとの時間なら見えるかも」
なんと。
だからアルタの言葉は、早朝にしか翻訳されないんだ。
それにしても、この日本から織姫星が見えないとは知らなかった。道理で七夕伝説が流行っていないわけだ。
「ん? ちょっと待って、闘馬」
葉月の方を見ると、彼女は真剣な顔で何かを思い出そうとしていた。
なにか気になることでもあるのだろうか?
「ベガのことなんだけど、北海道まで行けば見えるって聞いたことがある」
おおっ、それだ!
葉月は「ほおっておけば」と言ってたけど、本当にそうするわけにはいかないじゃないか。アルタは一度、織姫に会っておいた方がいいと思う。
そのためには一緒に北海道まで行けばいい。織姫に再会すれば、彼女の魅力に気づいてくれるかも。
「今の季節でも見える?」
「うん、アルタイルと一緒に夜明け前に見えると思う」
「じゃあさ、昨日言ってた流星群って北海道で見ない? ちょっとお金がかかるけど」
すると葉月は、ためらいがちに俺の表情を伺う。
「いいけど、その中国の知り合いの方も来るの?」
「そんなことないよ。二人で行こう!」
本当はペンダントに化けて一緒に来るんだけどな。でもそんなこと言ったら「私は遠慮しとく」と言いそうな雰囲気だ。
だからこう言うしかなかった。
俺の一言で葉月の表情に光が戻る。
「うん! 私、一度でいいからベガって見てみたかったの!」
こうしてゴールデンウィークの北海道旅行が決定した。
☆
そして翌日の午前四時。
「おい、トウマ。お前タチって、ホントに北海道へイクのか?」
早朝にアルタの声が聞こえることを予期していた俺は、前の日に早く寝て、ちゃんと準備をしていた。
「ああ、アルタも久しぶりに織姫に会えるぜ」
「ダカラ、ソレが余計なお世話ナンだって!」
「そんなこと言っても、織姫サイドはフィアンセ探しで必死かもよ。単刀直入に言うと、アルタは地球の影に隠れてるってことだろ? もし、ベガからすんごい光線銃が発射されて地球が消滅したらたまらんからな」
「…………」
いや、そこ否定しろよ。マジでそんな危険があるのかよ。
「それにな、俺はこの世界に来て再認識したんだ。幼馴染の大切さを」
この二日間感じてきたことを咀嚼するように、俺はゆっくりと言葉を選ぶ。
「存在が消えてしまってからでは遅いんだよ。アルタにはまだ織姫がいる。それがどんなに大切で有難いことか、アルタにも気づいて欲しいんだ」
もう二度と会えないかもしれない如月。
俺に毒づく彼女の態度を愛おしいと思う日が来るとは思わなかった。
「トウマには葉月チャンがいるジャないか」
真夏に生まれた葉月。こちらの世界での幼馴染。
確かに彼女は可愛い。それに俺とすでにラブラブだ。
彼女と一緒なら、幸せな未来が開けていることは間違いない。
「ダメなんだ。なんか違うんだよ。葉月は用意された彼女って感じがしてさ」
俺、葉月にかなり失礼なこと言ってる。
でも本心なんだ。俺の本当の気持ちなんだよ。
「彼女が俺に向ける想いは一方的で、二人で築き上げたものじゃない。その上に俺が乗っても大丈夫なのか、すごく不安なんだ。恐いんだよ」
だから俺は、いつの間にか葉月と如月を比べるようになっていた。
もし如月だったら、どんな行動をとっていたんだろうと。
「でも如月は違う。彼女が俺に冷たく当たるのは、俺が彼女に冷たかったからだ。それは氷河のようにどっしりとしていて、不思議な居心地の良さがあることに気づいたんだよ。だって二人で十七年間かけて築いてきた関係なんだからさ」
「…………」
沈黙するアルタ。これを機会に、織姫との関係を考え直してくれると嬉しい。
この日本では七夕伝説なんで誰も知らないみたいだけど、はるか北の国では二人の悲恋を愛する人たちがたくさんいるんだから。
「デモな、トウマ」
ようやくアルタの声が聞こえて来る。
「ヨク考えテミな。オマエは北海道にイケルのか?」
北海道? お金がかかるのがすごく心配だけど。死ぬ気で親に頼めばなんとかなるんじゃね?
「ソノ葉月チャンと二人デ?」
そうだよ、二人でだよ。二人だと悪いか? ふ、二人でっ!!???
アルタに言われて初めて認識した。葉月にすごい提案をしまったことを。そして高校生の男女にとって、お金以外にも高いハードルがそびえ立っていることを。
ご両親の許可は?
日帰り……は無理だ、早朝の星空を見に行くんだから。
するとホテル泊まり? 部屋は? ベッドは? 真実か挑戦か? お酒は口噛酒まで? その後は+*@%&#!!????
「ケントウを祈る、アディオス!」
ポーッと沸騰しそうな雑念でクラクラする俺をよそに、アルタは通信を終了させた。
☆
学校に行くと大変なことになっていた。
「よお、雪原。ゴールデンウィークに新婚旅行に行くんだって?」
「いいなあ、葉月ちゃんと二人っきりで北海道なんて。お土産よろしくね」
すっかり噂になってるじゃねえか。
「誰だよ、そんなデタラメ言ってんのは」
事実だけどさ。
「蓋付さんが嬉しそうに話してたよ。「闘馬と一緒に北海道でお泊まりなの」って」
ぐはっ! 本人かよ。
お弁当の時もそうだけど真夏生まれだからって開放的すぎる。ていうか、お泊り宣言はヤバいだろ。
お昼になったらガツンと文句を言ってやろう。
授業中でもクラスメートがニヤニヤと俺のことをチラ見する。そんな視線に耐え忍びながら、俺は午前中の授業を乗り切った。
「おい、葉月。なんで北海道のこと学校中に言い回ってんだよ。両親の許可も取ってないのに」
昼休み。
中庭に着くなり、俺は葉月に文句を言った。
「えっ? 全然大丈夫だよ。昨日パパに話したら、時間がないから急がなくちゃって飛行機もホテルも予約してくれたの。ツインの部屋だけどいいよね? それから闘馬ママには、うちのママがラインしたって言ってたよ」
マジか。すでに準備万端、オール手配済みかよ。
というか、この世界では二人の関係は両親、学校共に超公認なんだ。
一つの部屋で寝るって、冗談抜きで新婚旅行じゃねえか。
「闘馬。日程は一泊二日だけど、夜は寝かせてあげられないから覚悟しといてね」
うほほほほっ!?
ダメだよ葉月、ハネムーンベイビーはまだ早いよ。ほら、俺たち高校生だし、受験だってあるし。
「夜は藻岩山に登る予定なんだ。ロープウェイの最終便で上って翌朝の始発便で下りるの。これでじっくり星が見られるよ」
忘れてた、俺たちは星を見に行くんだってこと。そして葉月が大の天文マニアだってこと。
ロープウェイの最終から始発まで山に居ろって、一種の拷問じゃありません?
「楽しみだなぁ、北海道。何着て行こうかなぁ……」
鼻歌まじりで嬉しそうに考え事をする葉月の姿を見ながら、如月も旅行に連れて行ってあげたらこんなに喜んでくれるのだろうかと俺は思うのであった。
☆
二◯一八年四月二十八日。
ついに今年もゴールデンウィークに突入した。
俺は親から借りたスーツケースに防寒着を詰め込み、家を出る。
駅で待ち合わせた葉月は、長い黒髪をツインテールの三つ編みにしていた。そして、俺の姿を見ていつかのごとく瞳を丸くする。
「闘馬、すごい荷物だね。テントでも入ってるの?」
テントか? それは思いつかなかった。
確かにテントがあれば天体観測に役立つかもしれない。買うお金はないけど。
「だってゴールデンウィークの北海道だぜ。桜が咲くくらいなんだから寒いだろ? スキー場もやってるかもしれないって思ってさ」
「寒い? スキー? 何言ってるの?」
葉月はケラケラと笑い出す。
「まだ残暑がきつくて暑いくらいだよ。だって、日本で一番暖かい場所なんだから」
えっ? と一瞬驚いて俺は思い出す。
しまった、この日本は南半球にあるんだった。
北のはずれにある北海道は、前の世界の沖縄と同じような地理的状況ってことじゃないか。南半球生活ももう一週間なのに、なんでそんなことに気づかないんだよ、俺のバカバカバカ。沖縄にスキーウエアを持って行くなんて、側から見れば道化そのものだ。
俺は恥ずかしくて顔が真っ赤になる。
チラリと葉月を見ると、彼女は涼しそうな水色のワンピースとサンダルでコーディネイトしていた。
「気にしないで闘馬。だって、頭を打って記憶が飛んでるんでしょ? 私は来てくれただけでこんなにも嬉しいんだから」
ああ、葉月はいい娘だなぁ。
もう、そのワンピースごとギュッとしたくなっちゃう。
如月だったら「そんな暑苦しい格好で私に近づかないで」って拒否られるところだよ。
「ありがとう葉月。頑張ってこの荷物と一緒に空港へ行くよ」
さすがに家に戻って荷物を入れ替える時間の余裕はない。
重いスーツケースをゴロゴロと押しながら、俺たちは空港に向かった。
「うわぁ、噂通り暖かいねぇ~」
新千歳空港はジリジリとした残暑に包まれていた。
「さすがは北の楽園。もうちょっと早ければ泳げたのに残念だねぇ」
ゴールデンウィークの北海道で泳ぐなんて修行にしか聞こえない俺は、葉月との会話についていくのがやっとだ。
「今度来る時は、利尻島や礼文島に行こうよ。サンゴ礁が広がっていて、すっごく綺麗なんだって」
ウニや昆布はどこいった?
「そういえば北の三部作って、映画でやってたね。永吉百合子も相変わらずのアロハシャツで頑張ってるよね」
うわぁ、イメージ崩れるぅ~
「お土産はどうする? やっぱベニポックルだよね。あの紅芋の甘さが大好きなの」
ジャガは? ジャガの塩味がやみつきなのに。
荷物を受け取った俺たちは、エアポートライナーに乗って札幌に向かう。車窓からは青々と葉が茂る広大な畑がどこまでも続いていた。
「あれってトウモロコシかな?」
「何言ってるの、サトウキビだよ。だって札幌は、サトウキビ栽培のために移住した人たちが造った町なんだから」
あれ、全部サトウキビかよ。って、もう何が何だかわからなくなった。
俺だって北海道に来るのは初めてなんだから、先入観なんて持たずにすべてを受け入れればいいんじゃんか。知ってるのはスキー場のことだけなんだし、その知識もこの世界では全く役に立ちそうもない。
そんな境地に至った時には札幌駅に到着していた。
ホテルに着いて荷物を置くと、俺はベッドに倒れこむ。
なんだかわからないが相当疲れが溜まってる。
「葉月、とりあえず寝かせてくれ……」
俺は一瞬で眠りに落ちた。
「闘馬。起きてよ、闘馬」
女性の声とやさしく揺り動かされる振動で俺は目を覚ました。
はっと時計を見ると、すでに夜の八時を回っている。
「そろそろ晩ご飯を食べて、山に行くよ」
チェックインと同時に寝てしまったから五時間は寝たことになる。体の充電はとりあえずバッチリだ。
「葉月は寝たのかよ。今日は徹夜だろ?」
「うん、私も四時間は寝たかな。だから大丈夫」
そして彼女はクスクス笑い出す。
「闘馬、爆睡だったよ」
いや、恥ずかしい。
幼馴染とはいえ、女の子の前でなんという醜態。
葉月の格好を見ると、お昼のワンピースに薄手のカーディガンを羽織っていた。背中にはデイパック。すでに山の準備はできているようだ。
まあ、俺も服のまま寝ちゃったからこのまま出掛けることは可能だけど。
「葉月。晩ごはん、どこ行く?」
「せっかくだから、ウージ野のソーキソバ横丁はどう? 名物らしいよ」
「なんだかよくわからないけど、そこでいいよ。腹減ったからなんでも美味く感じると思うんだ。葉月のお弁当には負けるけどね」
「もう、闘馬ったら」
そんなデレデレ新婚夫婦を演じながら俺はパーカーを羽織り、ホテルを出て地下鉄に乗る。
横丁のソーキソバでお腹を満たすと、市電に乗ってロープウェイ乗り場に向かった。
「じゃあ闘馬、山に行くよ! 楽しみだね、流星群とベガ」
「ああ」
こうして、俺にとって人生で一番長い夜が始まった。
☆
ロープウェイが高度を上げるにつれて、まばゆいほどの札幌の街明かりが目の前に広がっていく。その街明かりのはるか上空には、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。
「月が明るいね。今晩は十三夜月だから、明け方近くになるまで天体観測には不向きなの。時間はたっぷりあるから、のんびりしようね」
なんだかよくわからないが、月のせいで明け方まではのんびりできるらしい。
「ああ、月だけにウサギのようにな」
ウサギにでもなったつもりでうたた寝でもするか。そんな場所が山頂にあればいいけれど。
ロープウェイが終点に着くと、山頂に向かって遊歩道を歩き出す。山頂の展望台は、素晴らしい景色が広がっていた。
「すごい、すごい。行き交う車がゴミのようだ」
小さい光の点が、ビルの合間を駆け抜けて行く。
時計はもう夜の十一時を過ぎているのに、札幌の街は煌々と夜空を照らしていた。
気温も噂通り暖かい。これなら今の格好で朝まで居ても大丈夫だろう。
「なに、闘馬? もっとロマンチックな言い方はないの?」
「まあ、いいじゃないか。月だってあんなに綺麗なんだし」
「月ね……。そういえばさっき、闘馬は月を見てウサギって言ってなかった?」
「ああ、だって月と言えばウサギだろ?」
すると葉月はクスクスと笑い出す。
「最近の闘馬って本当におかしいね。だって月と言えば普通は乙女でしょ? ほら、乙女が寝転んでいる姿が見えるじゃない」
葉月が月を指差す。そこには確かに、人が寝転んでいるような模様が浮かび上がっていた。
マジ? 月と言えばウサギじゃないのか?
月の模様も北半球と南半球で違っているなんて、それはいったいどういうことなんだ?
「月のウサギが一般的なのは中国だよ。その話って、子供の頃にしてあげたっけ?」
「そ、そ、そうだね、確かすごい昔に葉月から聞いたような気がする……」
だんだんと嫌な汗が流れてきた。
全く見慣れない月の模様。今までは、見たことのある景色が左右逆転しているような変化だったが今回は違う。今、俺の脳内に飛び込んできている月の模様は、異世界そのものだ。
「日本で有名なのは、ロナという乙女の話じゃない」
月を見上げながら葉月は語り出す。
「夜、月明かりを頼りに水を汲みに行ったロナは、雲の影になった暗がりで転んでしまったの。その時月の悪口を散々言ってしまって、月に連れて来られちゃったんだって」
まるで遠い異国の地の話。
葉月には申し訳ないが、あまりにも実感がなくて頭の中には全く入ってこなかった。
すると葉月はスマホを取り出し、パチリと月の写真を撮る。そしてスマホを操作しながら画像を加工し始めた。
そして俺にスマホの画面をかざす。
「これが今、北半球で見えている月の姿」
おおっ!
思わず俺は画面に釘付けになる。
そこには見慣れた月の姿が映し出されていた。
――月にウサギがいる!
不覚にも目頭が熱くなる。涙が溢れそうになるのを俺は必死で堪えた。
「月にウサギがいるというのは、元々はインドの神話からなんだよ。神様への供物が用意できなかったウサギは、自ら火に飛び込んで供物になったんだって。中国では、月でウサギが不老不死の薬を作っているらしいよ」
餅つきは? と一瞬思ったが、そんなことはどうでもいい。
どうやったら月の乙女が月のウサギになるんだよ?
それを訊いてみたかった。でも夢中で訊いたら、また不審がられることは明らかだ。
まずは心を落ち着かせよう。時間はたっぷりあるのだから。
一方葉月は、スマホの画面をしみじみと眺めている。何かを確認するかのように。そして静かに俺に訊いた。
「ねえ、闘馬。闘馬はどっちがいい? 自分を犠牲にして月に行くのと、他人を傷付けて月に行くのと……」
まるで俺の心を見透かすように。
そりゃ、ウサギの方がいいに決まってる。だって俺はずっとウサギで育ってきたんだから。
この機会に、葉月にすべてを打ち明けてしまったらどうだろうか。
――実は俺、北半球から来た人間なんだ。
そしたら、どんなに心が楽になるかわからない。
でも、その時――葉月はどんな反応をするだろう。
月のウサギを知ってるのはそういう理由なのね、と驚いてくれるだろうか?
それとも、私の知っている闘馬はどこに行ったの? と悲しむだろうか?
いや、ダメだ。
後者の可能性が一パーセントでもあるならば、俺は真実を語ってはいけないんだ。こんな素直で純真な女の子を泣かせちゃいけない。本能がそう叫んでいた。
でも帰りたい。
月にウサギがいる世界で過ごしたい。
その感情を隠しきれなくなった俺は、月を見上げてこう言った。
「俺は……ウサギかな。だって君が昔、教えてくれたストーリーだから」
「うん。私もトウマと同じ……」
葉月はスマホをデイパックにしまい、俺の体の横にぴったりと体をくっつけてくる。そして静かに頭を俺の肩に預けてきた。
いったいどうしたんだろう、葉月は急に。
彼女のぬくもりが腕から肩にかけて伝わってくる。三つ編みにした黒髪からいい香りが漂ってきた。
――バクバクバク。
心臓の高鳴りが止まらない。
俺は恐る恐るデイパックの上から葉月の肩に手を回す。ギュッと手に力を入れると、彼女は完全に俺に体を預けてきた。
――女の子の体って、なんて華奢なんだろう……。
ドキドキは最高潮に達していた。
そのまま葉月の肩を抱き寄せたまま、俺たちはいつまでも月と星空を眺め続けていた。
この時が永遠に続けばいい。
そう願った刹那、つうっと一筋の光が夜空を横切る。
いつか見たのと同じ流れ星だ。
「落ちたね」
「うん……」
葉月の肩を抱いたまま、俺は流星を眺める。
彼女も俺の肩に頭を預けたまま、夜空を見上げていた。
「みずがめ座流星群……だったっけ?」
「うん、みずがめ座流星群」
二人で体を寄せ合いながらの流星観測。
こんなに素晴らしいものとは思わなかった。
如月からの誘いを、なんで今まで断り続けてしまったんだろうと後悔する。
こんな素敵な観測なら、いつでも何度でも付き合ってあげたのに。
そういえば、如月と一緒に流星を見たことがあったじゃないか。俺はその時の様子を思い出していた。
「流星群ってこんなもんだっけ?」
「まだ極大の一週間前だからね。こんなものだよ」
「へえ~」
如月と一緒に見た流星群はすごかった。
星が雨のように次から次へと落ちてきた。
「星がどんどん落ちてくることもあるんだろ?」
「それって流星雨って言うんだよ。流星雨はね、滅多に、というか一生に一度くらいの確率でしか見られないんだから。普通の流星群はね、一時間に二十個くらい見られればいい方なんだよ」
へえ、そうなんだ……。
あの時に一生に一度の運を使い果たしてしまったというわけなのか。
それにしても、一時間に二十個とはどれくらいだろう?
えっと、一時間は六十分だから、むむむむ、さ、三分の一、いや三分に一個ってことじゃないか。
「そうそう闘馬。先週のことなんだけど、こと座流星群で流星雨が見られたんだって!」
葉月が興奮気味に言う。
だから俺は、つい答えてしまった。
「あれ、すごかったよね、星が次から次へと落ちてきて」
「えっ?」
葉月の肩が急に強張る。
彼女は俺から体を離し、鋭い眼差しで俺を見上げてきた。
「それ、どこで見たの?」
「どこって?」
態度が豹変した葉月に俺は緊張する。
俺、何かまずいこと言ったのか?
如月と一緒に見たことだけバレなければ大丈夫じゃないのか?
そこだけ隠しておいて、あとは正直に答えよう。嘘をついてもどうせバレてしまいそうだし。
だから俺は葉月の目を見て真剣な表情で答えた。
「近所の公園で、だけど?」
しかしそれが致命的だった。
「嘘よ、嘘。こと座流星群は、南半球ではほとんど見られないんだよ!?」
マジか。絶体絶命のピンチ。
その時、俺にとって救いの声が聞こえてくる。
「トウマ、アノ流星雨のショウタイがワカったぞ」
起死回生の登場か、はたまた新たな波乱の幕開けか、とにかく俺の運命はアルタに委ねるしかなかった。
☆
「誰? 何、この声!?」
驚いたようにキョロキョロと辺りを見回す葉月。彼女にもアルタの声が聞こえているようだ。
ということは、アルタの声は本当に、アルタイル星から直接耳に届けられているのかもしれない。
「俺様は、アルタイル星のオウジ、アルタだ」
「王子?」
「イマは、ペンダントに姿をカエて、トウマの胸にブラさがっテル」
俺は胸元から星型のペンダントを取り出すと、印籠を守る家来のように葉月に向けてかざした。
「葉月。信じられないかもしれないけど、この世界はこのアルタが創り出した世界なんだ。もともと日本は、北半球にあったんだよ」
まあ、急に信じろと言われても無理だろう。
俺が葉月の立場だったら絶対無理だ。
彼女にとっては、日本はずっと昔から南半球にあって、俺たちの方が北半球から来たと説明した方が分かりやすいかもしれない。
「アルタが創り出した世界? 星の王子様の力で?」
驚いてはいるけれど、そんなには取り乱していない葉月の様子に俺はほっとする。
「そうなんだ。その、こと座流星群の時に俺たちは願ったんだ、この世界のことを」
「…………」
頬に手を添えて考え込む葉月。きっと、星に関する彼女の知識を総動員させているのだろう。
その間に俺はアルタに訊いてみる。
「アルタ。さっき言ってた流星雨の正体って、どういうことなんだ?」
「アア、それナンだが、偵察衛星だっタンだよ。織姫の」
「偵察衛星? 偵察衛星が織姫星から投入されてたってこと?」
「そうナンだ。俺様をサガすタメ、何ヒャッ機とイウ偵察衛星がベガを発射シ、地球の大気圏にトツニュウした」
何百機?
それが大気圏に突入したって、その光景は荘厳だろう。
あ、そうか、偵察衛星が次から次へと突入してきたから流星雨のように見えたというわけなのか。
それが本当なら、すでに俺たちは包囲されているってことになる。
「偵察衛星って何ができるんだよ? なんか恐いんだけど」
「俺様タチの位置のハアく。ソシテ、ベガ粒子砲の軌道シュウセイ」
位置の把握はわかる。偵察衛星なんだから。
二つ目のベガ粒子砲ってなんだ? すっごくヤバい予感がするよ。
「ベガ粒子砲って?」
「大丈夫トウマ。ベガ粒子砲は、俺様をツレ戻すタメの星間移動ショウシャ銃だからタイしたコトない。ソレに、ベガからココが見エルまで、まだ二時間アル。ソレまでに解決策をカンガえる」
「解決策って、アルタがアルタイル星に戻るって選択肢もあるんだろ?」
「戻ル? 戻ッタら、コノ世界はナクなっチャうんダゾ。元に戻っチャうんダゾ!」
「上等だよ、アルタ」
「ソシたらスキーできナクなっチャうんダゾ? 夏ニなっチャうんダゾ!」
「もういいんだよ。幼馴染の存在がどれだけ大切かわかったから」
「ナンだよトウマ、裏切りモノ! ヘタれポンきち」
何とでも言うがいいよアルタ、と思ったその時、背後から声が掛けられた。
「ちょっといい? 私にいいアイディアがあるんだけど」
それは葉月だった。
先ほどの俺たちの会話を聞いていたのか、秘策がありそうな自信たっぷりの声で提案する。
「これからアルタと相談したいから、彼を貸してほしいの。申し訳ないけど一時間くらい」
一時間も?
でも、もしかしたら葉月ならアルタのことを説得できるかもしれない。
織姫の気持ちを理解できるのは、同じ女性である葉月だけかもしれないんだから。
「わかった」
俺は星型のペンダントを首から外すと、葉月に手渡した。
「じゃあ、一時間後に戻ってくるから闘馬はここにいて」
「ここにいろって、葉月はどこに行くんだよ?」
「公衆トイレ。だって空には偵察衛星がウヨウヨしてるんでしょ? ここじゃ丸聞こえじゃない。個室の中なら大丈夫だと思うけど」
こうして俺は、深夜の展望台に一人残されることになった。
札幌の街灯りと西の地平線に沈もうとする月、そして時折流れる星々。
展望台の手すりに寄りかかり、俺はぼおっと夜景を眺めていた。
ついに葉月に俺たちの正体がバレた。
その時彼女は、そんなに驚く様子もなく、取り乱す感じもなかった。まあ如月とは違って真夏生まれということで、おおらかに育ったせいなのかもしれない。
今、二人は何を話しているのだろう。
葉月もトラブルは望んでいないはず。そのためには、アルタに故郷に帰ってもらうしかない。スキーができなくなるのは悲しいけど、半年ちょっと待てば済むことだ。
先ほどのアルタの話によると、もうしばらくしたら北の地平線にベガが現れるという。そしたらベガ粒子砲がアルタを目がけて飛んでくるのだろう。いくら偵察衛星で軌道が修正されるとはいえ、葉月や俺に当たらないとも限らない。そうなる前にぜひ、物事が解決してほしい。
――葉月の説得が成功しますように!
ベガが現れる時間が刻々と近づく中、俺は祈るような気持ちで流れ星に願いを込めていた。
☆
一時間後。
葉月が展望台に戻ってきた。手にペンダントを握りしめて。
目の前まで来ると、彼女はペンダントを俺に手渡した。
「闘馬。アルタを胸につけてみて。パーカーの上からでいいわ。これから儀式を始めたいの」
儀式? なんだよ、それ?
これから何を始めようっていうんだ?
嫌な予感で頭を一杯にしながら、俺は渋々とペンダントを首からぶら下げる。星型のトップが街灯の光でキラリと光った。
「そしたら闘馬、そのまま胸を張って立っていて。威風堂々とね」
俺は肩幅くらいに足を開くと手を後ろで組んだ。そして葉月を見る。
すると彼女はゆっくりと三歩後ずさり、ワンピースのスカートをたぐりながら俺の前にひざまづいた。
一つ深呼吸。
葉月はペンダントを見つめながら、力強く宣言する。
「アルタ様。私めを妻として迎えていただけないでしょうか!」
はっ?
な、なに、これ!?
妻ってどういうこと!?
一時間の説得の結果がこれなのか?
激しく困惑する俺の頭に、アルタの声が響く。
「ワカった。俺様はハヅキを嫁にムカえる」
「ははっ、有り難き幸せにございます」
なに? この茶番劇。
二人は真剣に、そんなことを言っているのか?
アホらしくなった俺は、葉月に訊いてみる。
「本当に結婚するのかよ? 二人は?」
すると葉月は立ち上がりながら興奮ぎみに言う。
「そうよ。私ね、星のお姫様になるのが子供の頃からの憧れだったの。星に詳しくなったのもそれが理由。そしたら目の前に星の王子様が現れたんだもん。これは運命としか思えないわ」
マジか? それが星のことを勉強する原動力だったとは!?
でもそしたら俺はどうなるんだよ?
元の世界に戻れないどころか、俺は一人ぼっちになっちまうじゃねえか。俺と葉月は両親、学校共に超公認だっただろ?
「お弁当は? 来週からのお昼はどうなるんだ?」
「ごめんね、闘馬。来週はあなたにお弁当を作ってあげられない」
そ、そんな……。
最悪の結末じゃねえか。
こんな状況で学校に言ったら、皆に何を言われるかわからない。北海道離婚とささやかれることは間違いなしとして、俺が葉月に変なことをしたと思われたら最悪だ。
「もう元に戻れないのか? 俺たち」
「何言ってるの? 私たちは最初から幼馴染で、これからも幼馴染でしょ? 何も変わってはいないよ。それにアルタから、闘馬にはいい人がいるって聞いたんだけど。如月って素敵な人が」
なっ!?
なんだよアルタ、それってあんまりだよ。
確かに俺は、如月の存在について再認識したって言ったよ。
でも葉月の前でそれを言うなんて卑怯じゃないか。如月はこの世界では葉月で、葉月は元の世界では如月で、どちらも俺のたった一人の幼馴染なんだから。
「そりゃ、如月は大切な、俺の大切な幼馴染だけど……」
愕然となる俺を哀れんだのか、葉月は一言付け加える。
「でも聞いて、闘馬。この結婚にはお試し期間を設けたの。一週間という期間を。五月六日になってもアルタが私のことを気に入ってくれていれば継続、やっぱり織姫のことが恋しくなったら解消になるのよ」
そう言って葉月は俺にウインクした。
きっとそれは『あとは察して欲しい』というメッセージなのだろう。偵察衛星に察知されないための。
その時だ。
『結婚ナンて許サナい!』
頭に響く女性の声。
声がする方を振り向くと、北の地平線の一点がまばゆく赤く輝く。と同時に、すごい高速で何かが俺の左脇の下を通り過ぎて行った。
それは、あっという間の出来事だった。
後方でバシッと強く鈍い音がしたかと思うと「きゃっ」と葉月の声が漏れる。振り向くと、彼女のツインテール右側の三つ編みの髪が無残にもちぎれていた。
『私ヲ怒ラセない方がイイわ』
な、なんだったんだ、あれは……?
北の空から何かが飛んできて、俺の体スレスレを通り、葉月の髪の毛を切ったということ!?
「タノむ織姫。話をキイテくれ」
慌てるアルタ。女性の声の主は織姫なのか?
「こ、これが……ベガ粒子砲……? 話が違うじゃない」
恐ろしい兵器の登場に、すうっと背筋が寒くなる。
同じく恐怖でガタガタと震える葉月は、必死に説得を開始した。
「ちょ、ちょっと織姫さん。話を聞いて! 一週間だけ猶予が欲しいの。五月六日まで。そしたら解消するから、アルタとの関係を。その方がお互い後腐れがなくていいでしょ?」
『問答ムヨウ!!』
キュイーンと鋭い音に身をすくめる俺の脇の下を通り抜け、真っ赤なビームは今度は葉月の左側の三つ編みに直撃した。ビームに照らされた彼女の顔は蒼白だった。
「ゴメん、葉月チャン。織姫はワレを忘レテる。ベガ粒子砲のイリョクがイツもと桁チガイだ」
どうやら二人はベガ粒子砲の威力を過小評価していたらしい。
ということは、次は葉月の命が本当に危ない。
「お願いだから五月六日まで、お願いだからその日まで……」
恐怖に身を引きつらせながら同じフレーズを繰り返す葉月。
いい加減あきらめろよ、星のお姫様なんて。
お前の命はお前だけのものじゃないんだ。葉月だって如月だってどっちだっていい。俺にとってお前の代わりはいないんだよ!
『コレで最期ヨ!』
その言葉が終わらないうちに、俺は葉月をかばうように北を向いて体を投げ出す。
地平線で眩しく輝く赤い光は、まっすぐ俺の胸に向かって飛んできて――
☆
「トウマ、トウマ……」
どれくらい時間が経ったのだろう。
自分を呼ぶ声で俺は意識を取り戻した。
どうやら冷たくて硬い地面の上に仰向けに寝かされているようだ。まぶたに光を感じるので、夜明けが近いのだろう。静かに目を開けると、涙で顔をぐちゃぐちゃにした女性が俺のことを呼び続けていた。
「よかった! トウマが生きていて。心配したんだから……」
生きていて?
そうだ、俺はベガ粒子砲を胸に受けて、それからどうなった!?
ガバッと身を起こす。
胸に異常はない。体は以前と変わらず動かせる。が、肩と脇腹に痛みが走った。倒れた時に打ったのだろう。頭を打たなかったことだけは幸いだ。
地べたに座ったまま、俺は自分の体を触って細かく異常を調べる。すると、胸に付けていたはずの星型のペンダントが無いことに気付いた。
「あれ? アルタは?」
すると、同じく地べたに座る女性が涙をぬぐいながら答える。
「織姫が連れて行っちゃった。ほら、そこに穴が空いてるでしょ?」
彼女が指差す俺のパーカーの胸の部分には、ぽっかりと星型の穴が空いていた。
「なんだよ、これ。もう着れないじゃないか」
「でもアルタのおかげでトウマの命が助かったの。感謝しなくちゃ」
きっとベガ粒子砲は胸のペンダント、つまりアルタに直撃したのだろう。アルタと一緒に、パーカーの胸の部分も星間移動してしまったに違いない。
まあ、アルタのせいでこんな冒険をすることになったのだから、最後は帳尻を合わせてくれたというべきか。
「ごめんね、トウマ。私ずっと、トウマのこと騙してた……」
泣きながら彼女が俺に抱きついてくる。
途中でバサリと切られたツインテールの髪。
その黒髪を優しく撫でていると、彼女への愛しさがどんどんと込み上げてくる。
「いくつか質問させてもらっていいかな?」
「うん」
「ここは北海道?」
「うん」
「もしかして春?」
「うん」
「月の模様はウサギ?」
「うん」
「ただいま、如月」
すると如月は体を離し、涙でぐちゃぐちゃな顔に笑顔を浮かべた。
「お帰り、冬馬」
もう会えないと思っていた幼馴染がそこに居た。
ゴールデンウィークの北海道は、やっぱり寒かった。
くしゃみを繰り返す如月に、俺は自分のパーカーを羽織ってあげる。彼女は水色のワンピースにカーディガンのままだった。
薄紫色の空。うっすらと朝霧に覆われた眼下の札幌の街は、街灯の光がまだチラチラとまたたいている。
凛とした空気は、今が秋ではなく、春であることを俺たちに教えてくれた。ロープウェイ乗り場に向かう道を歩きながら、如月はゆっくりと真相を語り出す。
「始まりはあの日、四月二十三日だった。こと座流星群を見るために公園に来ていた私は、ブツブツと独り言をいってる冬馬を見つけたの」
ああ、あの時か。
俺はアルタと出会って、二十四時間以内じゃないと願いが叶わないって早朝に起こされて、渋々公園に来ていた時だ。
「それで冬馬に声をかけて、話をしている時に流星雨がドバーッと降ってきて、嬉しくて思わず願いを唱えてしまったのよ。『今度はみずがめ座流星群を南半球で見れますように』って」
お前かよ、南半球を願ったのは!
そういえば、アルタは『二人の願い』とは言っていなかった。アルタと俺と如月の三人の願いのシンクロした部分が採用されてしまったというわけなのか。
「ところで、何でみずがめ座流星群なんだ?」
「規模の大きな流星群だからよ。冬馬、三大流星群って知ってる?」
そんなの知っているわけがない。
俺は小さく首を振った。
「一月のしぶんぎ座、八月のペルセウス座、十二月のふたご座が三大流星群って呼ばれているの。それに次ぐ規模の流星群が、五月のみずがめ座流星群。でも残念なことに北半球ではよく見えないのよ、みずがめ座は南の星座だから」
それで、俺たちは南半球に飛ばされたんだな。
「願いを唱えた直後に意識が飛んでしまって、気付いたら自分の部屋のベッドにいたの。すぐにスマホで世界地図を見て小躍りしたわ。日本とニュージーランドの位置がそっくり入れ替わっていたんだから」
なぬ、ニュージーランドの人も犠牲になっていたってわけか。
それにしてもニュージーランドが北半球に移動したら、あの国旗はどんな風に変わったんだろうな……。
「でもね、直後に予想外のことが起きてビックリしちゃった。だって、ママが私のことを『葉月』って呼ぶんだもん」
如月も似たような体験をしていたってわけか。
まあ、俺の場合は名前がトウマのままだったから、学校に行くまでは異変に気付かなかったんだけど。
「私は自室にこもって日記を読み漁ったわ。自分が何者なのか知るために。誕生日は同じ、でも名前は『葉月』。それで闘馬という男子に毎日弁当を作って、中庭で一緒に食べてるっていうじゃない。こりゃ無理ゲーって思ったんだけど、もしかしたら神様が用意した試練じゃないかと考えたの。そんなに簡単に願いは叶わないんだぞって感じの。そして試練をクリアできなかったら、ドロロロンって元の世界に戻っちゃうような」
なんだよ、ドロロロンって。
でも日記があったから、如月は『葉月』になることができたんだ。
こりゃ男には無理な話だな。よほど几帳面な奴じゃないと。
それにしても神様の試練と割り切るあたり、なんとも如月らしい。試練と思わなければ、中庭の昼食会を耐えることはできなかったに違いない。
「それで急いで弁当を作り始めたんだけど、葉月ちゃんは几帳面な性格だったらしく、おかずは全部、前の日に作ってあってチンするだけで済んだの。おかげで助かったわ。でも次の日からは死んだけどね」
そんなに苦労してお弁当を作ってくれていたとは、感謝、感謝だ。
「なんとかお昼までには学校に行ける目処が着いたんだけど、急いで制服を着てみてビックリ。スカート丈が膝上十二センチになってるじゃない。もう、これ、私じゃないって思ったんだけど、逆にそれで覚悟が決まったわ。とことんまで葉月を演じてやるってね」
きっと、清水の舞台から飛び降りたような気持ちだったと思う。
最初見た時、こっちもドキドキしたなぁ。こんなにスカートが短い如月って見たことがなかったから。
「学校に着いてさらに驚いたわ。教室の位置が左右逆転しているのは南半球だから仕方がないとして、一緒にお弁当を食べている闘馬って男子は冬馬のことで、しかも私のことを『如月』って呼ぶじゃない。私は直感したの。これは神様が用意したトラップだって」
おいおい、俺はトラップだったのかよ?
如月を騙すために差し向けられた神様の化身って感じか?
「真冬の二月や七夕伝説。冬馬が北半球ネタを振ってくるたびに、私は気を引き締めていたわ。騙されちゃいけない、騙されちゃいけないって。五月六日までは南半球人をちゃんと演じ切らないと、流星群は見せてもらえないんだって。蓄えてきた天文知識がこんなにも役に立つとは思わなかったわ」
いやあ、あの頃は初めて知ることばかりで驚きの連続だった。
まさか七夕伝説が、あの世界ではほとんど知られていないとは思わなかったよ。
「でも星空は素晴らしかったなぁ。日没直後は西の空にカノープス、東の空には南十字星、そしてケンタウルス座のアルファ星、ベータ星が上って来る。エリダヌス座が見られなかったのは残念だけど、それらが近所の公園で見れるんだよ! あの公園で!」
鼻息を荒くする如月。
南十字星以外はさっぱりわからないが、なんかすごいことだったらしい。
「それにあんたも、私と一緒に流星群を見に行ってくれるって言うじゃない。冬馬だったら「俺はパス」って言うと思ってたから、私は確信したの。やっぱこいつ、偽物だって。本当に私は南半球の世界に来たんだって」
おいおい、俺はそんなに冷たいヤツだったか?
うーん、そうだったかもしれないなぁ。今は反省してるけど。
「でもね、浮かれることができたのはそこまで。原因はここで見た十三夜月よ。自称天文マニアを返上したくなるような衝撃を受けたの」
えっ、そんなことがあったのか?
普通に解説していたように見えたけど。
「あの月の模様は本当にショックだったなぁ。頭では百八十度回転してるってのはわかってるんだけど、体が受け付けなかった。私たちって、子供の頃から見慣れた月のウサギが体に染み付いているのね。あの時見た月の模様は、異世界感ハンパなかったもん。人間の視覚って左右逆転には対応できるけど、上下が絡むとてんでダメなのを思い知ったわ。思わず写真撮って、百八十度回転させて、それを眺めてようやく心の平穏を取り戻せたの」
なんだよ、あの時如月もテンパってたのかよ。
月の模様に恐怖したことを俺も思い出す。
「それでも、北半球に帰りたいという気持ちを抑えきれなくなっちゃって。どうしようもなくなって冬馬に寄りかかっちゃった。冬馬は優しく抱き寄せてくれて、ああ、もう偽物でも、みずがめ座流星群もどうでもいいから、ずっとこのままでいたいって思ったの。その時よ、アルタが現れたのは」
あの時、俺は如月とこんな風に流星観測ができたらって思っていたけど、実は本人と流星を眺めていたとはな。
八月になったら誘ってみようかな。さっき彼女が言ってたペルソナ座流星群とやらに。
「アルタの話によると、この世界はアルタが創ったもので、冬馬もグルって言うじゃない。てっきり神様からのプレゼントと思っていた私は、ガクっと来たわ。闘馬と思っていた人は実は冬馬で、トラップでも偽物でもなんでもなかったんだって」
アルタの話に葉月がそんなに取り乱した様子を示さなかったので、なんでだろうと思っていたけど、そういうことだったのか。
悪かったね、俺はトラップでも偽物でもなんでもなくて。
「そんでもって、アルタに詳しく話を聞くと、わざわざ北海道に来たのは冬馬の余計なお節介が原因なんだって? そりゃ北海道を提案したのは私だけど、そんな裏事情なんて知らなかったもん。バカじゃないの、あんた。なんでそんなことしてくれちゃってるのよ。五月六日の極大まで南半球にいられなかったのは、あんたのせいだからね! それに「一度でいいからベガを見てみたかった」なんて心にもないセリフを私に言わせた罪は重いわよ」
そんなに怒るなよ。
それにバカってなんだ?
俺は本当に如月の良さを再認識して、アルタにも織姫の良さを再認識してもらおうと思ったんだよ。その努力をバカ呼ばわりするとは許せん。
「どうしたら五月六日まで南半球にいられるかって、必死に知恵を絞ってあの茶番劇を考えて、アルタと何度も練習したんだけどダメだったわねぇ。ベガ粒子砲については、ただの星間移動照射銃だってアルタが言ってたの。照射されたものがベガ星に送られるだけだって。だから甘く考えていたんだけど、使用者が怒っているとあんなにすごいパワーが出るんだね。死ぬかと思ったわ」
俺もマジでビビった。もうあんな体験こりごりだ。
「星のお姫様になりたいって言った罰だな」
「もうそれはやめて。すっごく恥ずかしいんだから……」
そして二人で笑った。
ロープウェイの始発便の乗客は、予想していた通り俺たちだけだった。
最大六十人も乗れるゴンドラの特等席に俺たちは腰を下ろす。扉が閉まると、如月は静かに語り出した。
「アルタ、感謝してたわよ、冬馬に」
感謝してたって、アルタに聞いたのか?
「あの時か? 個室に籠っていた一時間?」
「そう。その時にアルタが話してくれた。実は、事の真相を最初から全部知っていたのって、アルタだけだったんだよね」
そうか。
そうだよ。よく考えたらアルタが一番ズルい。
あいつ、如月が葉月を演じていることを最初から知っていたんだし。
やけに素直に俺の話を聞いていると思ったら、そういうことだったんだ。
「冬馬の様子を見ていたら、幼馴染って意外といいかもと思えるようになったんだって」
いろいろと恥ずかしいことを言ったような気もするが、アルタの心に届いていたのだったらそれはそれで嬉しい。
「それでね、こんな風にも言ってたよ。「織姫との関係は氷河のようにどっしりとしていて、不思議な居心地の良さがあるんだ」って。なんかいいよね~」
おいおい、それは俺のセリフだよ。
あいつパクリやがって。
如月との関係を語ったセリフなのに、その本人に口にされてしまうとなんだかこっぱずかしくて背筋がムズムズする。
「アルタに言ってくれてありがとう。葉月ちゃんじゃなくて私のことが必要だって。でもね、あんなにぶっきらぼうだった冬馬がそんなこと言ってくれるなんて、信じられなかったの。自分でその言葉を聞くまではって。だから最後に、すごい意地悪なこと言っちゃった」
意地悪って……あれか?
「俺にいい人がいるってやつ?」
「うん。本当にごめんね……」
あの時は本当に焦った。アルタのことを本気で恨んだよ。
それに、あれだけラブラブだった葉月に「ただの幼馴染」みたく言われたのもショックだったし。
まあ、そのおかげで本心を吐き出すことができたんだけど。
「心から嬉しかった。私のこと大切だって言ってくれて……」
視線を外し、うつむき加減で床を見つめる如月。
ほんのり紅潮する照れた彼女も可愛らしい。
「それでね、最後までわからなかったのは、織姫の気持ち。もし彼女が本気なら、アルタの背中を押せると思ったの」
それであんな無茶をしたというわけか?
マジで命の危険を感じたぞ。
「アルタと織姫は幸せにやってるかな?」
「大丈夫じゃない? あれだけ強く織姫に想われているんだから。まあ、最初はむちゃくちゃ怒られていると思うけど」
「そうだよな」
二人の間に自然と笑いがこぼれる。
「あとはずっと、アルタと星の話をしてたなぁ。さすがは王子様。いろいろなことを教えてもらったわ」
「それってどんなこと?」
まあ、俺が聞いてもチンプンカンプンだと思うけど。
「ダメよ。将来私が天文学者になった時の研究ネタとして、頭の中にしまっておくんだから。すっごいネタ満載だよ」
おいおい、如月は天文学者を目指してるのかよ。
そういうのって頭の中じゃなくて、特殊なノートに書いておかなくちゃいけないんじゃなかったっけ?
「そういえば、アルタと星の話をしていて気づいたことがあるの。私たちがアルタの力であの世界に連れて行かれたのは、必然だったんじゃないかって」
必然?
それはどういう意味なんだ?
「私たちの誕生日の星座って覚えてるよね?」
「みずがめ座だろ?」
「そう、みずがめ座。ギリシャ神話ではね、星座の中でみずがめを抱えている人物は、わし座の鷲にさらわれて神々の世界に連れて来られたんだよ。私たちがあの世界に連れて来られたようにね」
へぇ~と俺は思う。
そんな因縁がギリシャ神話時代からあったとは思わなかった。アルタによって異世界へ連れて来られたのは、みずがめ座の俺たちの運命だったんだ……。
感慨にふける俺の表情を見て、如月が瞳を輝かせる。
「ねっ、星座って面白いでしょ?」
「確かに」
その時、俺は思い出す。
「そうそう、誕生日の星座といえば……」
「なに?」
今回の一件を通して、不思議に思ったことがあった。
如月に訊いたら、笑われるかもしれないが……。
「南半球の世界では、二月は『葉月』になっちゃっただろ? だったら誕生日の星座も、みずがめ座からしし座とかに変わったりしないのか?」
一瞬ため息をつきかけた如月だったが、思い直したように俺の瞳をのぞきこむ。
「変わらないのよ。それも不思議でしょ? なぜだか知りたい?」
「知りたい。頼む、教えてくれ」
一週間前の俺だったら「別に」と突っぱねていただろう。
如月だって、ため息のあとに「バカね」で話を終わらせていたかもしれない。
「じゃあ今度、ゆっくり教えてあげるわ。星を見ながらね」
「ぜひお願いするよ」
でも今は、二人で星を見る素晴らしさを知っている。
それはそれは素敵な時間であることを。
「お弁当のハンバーグ、美味しかったね~」
ロープウェイが中間地点を過ぎると、思い出したように如月がつぶやいた。
「葉月ちゃんの闘馬くんへの愛が込められていたね。次の日から私も頑張ってみたんだけど、葉月ちゃんには敵わなかったなぁ。お弁当、味が落ちてごめんね」
「そんなことないよ、ずっと美味しかったよ」
「そう言ってくれてありがとう。好きな人にお弁当を作ってあげたいというのは女子高生としての一つの夢だったけど、さすがに毎日は無理だなぁ。それに中庭はもうカンベン」
「あははは、あれは罰ゲームだったね」
「すごく恥ずかしかったよ~」
そうか? 俺にはまんざらでもないように見えたけど。
「葉月ちゃんの日記を見てたらね、闘馬くんへのドキドキを隠すために中庭にしたんだって。それくらい葉月ちゃんは頑張ってたってことなんだよ。私も頑張らなくちゃね」
「お弁当を?」
「バ、バカなこと言わないで。天体観測よ、天体観測」
真っ赤になって否定する如月はとても可愛かった。
「でも、週に一回くらいなら作ってあげてもいいわよ。お弁当を食べている時の冬馬って、とっても嬉しそうだったし」
「そ、そうか。お弁当は大歓迎だよ。ただし食べる時は屋上でこっそりとな」
「もちろんだよ」
来週から学校に行くのが楽しみだ。
その時、ガクっとロープウェイが揺れる。見ると高度はかなり下がっていて、そろそろ駅に着きそうだ。
「ロープウェイを降りたらどうする?」
「そうね、まずは美容室かな。この髪をなんとかしなくちゃ」
如月の長くて綺麗な黒髪は途中でバサリと切られてしまい、ボサボサのショートになってしまった。
「頑張って伸ばしてたのになぁ。昔テレビで観たスキー映画のヒロインの、指で「バーン」ってやるあのシーンがいいってどっかのバカが言うから……。ロングって結構お手入れが大変なのよ」
ま、まさか、そんな昔のことを覚えていてくれたとは。
俺は胸がジーンと熱くなる。
「それに、拳銃で髪を切られたら可愛いショートになるって噂、ありゃ嘘だね。なんか後ろだけ長くなっちゃって変な感じ」
「でも十分可愛いよ、如月は」
「もう、そんなこと言って。でもありがとう、あの時私を守ってくれて」
俺たちは見つめ合う。
瞳を通して、愛おしい気持ちが身体中を駆け巡った。
そんな電磁石に引き寄せられるように、俺たちはそっとキスを交わす。
至極の瞬間を惜しむ間もなく、駅が近づいてきた。
「ところで俺たちって、どんな理由をつけて北海道に来てるんだろうな」
「えっ、どんな理由って? あわわわわ、葉月ちゃんたちは親に超公認だったらから良かったけど、私、男子と外泊したって知られたらむちゃくちゃ怒られる」
「幼馴染の俺でも?」
「あんただからダメなんでしょ。スキーばかりで今まで私を大切にしなかった罰よ。帰ったら素直に私の両親に謝罪しなさい」
そんなご無体なとつぶやきながら如月を見る。彼女は大丈夫と小さくウインクした。
今の俺なら、如月を守り続けることができるんじゃないかな。
――これからも如月と一緒に星を見ることができますように。
駅に到着するゴンドラから朝の空を見上げながら、俺は強く願うのであった。
了
ライトノベル作法研究所 2018GW企画
テーマ:『逆転』
おしょうゆさんと私 ― 2018年01月22日 21時55分56秒
1.プロローグ
『この刺身、美味いやろ?』
突然声がした、夕飯中に。
どこからともなく、耳元で。
『わいのおかげやで』
誰!?
初めて聞く声。男の人の声。家族のものじゃない。
食卓を見回すと、お父さんもお母さんも弟も夢中になって刺身を食べている。
『どこ見とるんや。目の前や、目の前。それに出し過ぎや』
ええっ、目の前!?
テーブルの刺身に視線を戻すと、手にした醤油ボトルからポタポタと黒い液体が落ち続けている。
私は慌ててボトルをテーブルに置いた。
ていうか、ま、まさか、醤油がしゃべった!?
驚きの表情を浮かべる私に、お父さんが反応した。
「おおっ、沙希もビックリしたか?」
えっ? お父さんにも同じ声が聞こえてる……とか?
「そうだろう、そうだろう、今日の刺身は驚くほど美味いだろ?」
なんだ、そっちのこと?
私がビックリしたのは刺身じゃなくて声の方だから。
「魚が新鮮ってこともある。だが、しかし、今日の主役は魚じゃないんだ。それが分かったんだよな、沙希にも」
ヤバい、違いが分かるアピール出ちゃったよ。
面倒くさいなぁ、スイッチが入ったお父さんの説明って長いんだから……。
勘弁してほしい私のことはそっちのけで、お父さんは私の目の前にある醤油ボトルを指差した。
「ジャジャーン、今日の主役はこのボトル。醤油の本場、和歌山県湯浅町の醸造元から特別に取り寄せた、最高級たまり醤油の密封ボトルだ!」
『せや!』
謎の声が合いの手を入れた。
それはやめて、お父さん、調子に乗っちゃうから。
しかしお父さんは浮かない様子。
「おいおい、なんでみんな反応しない。湯浅醤油だぞ、日本の醤油発祥の地なんだぞ」
『せやせや、湯浅醤油は日本一やで!』
だからお父さんを煽らないでよ。って、えっ? その声ってお父さんには聞こえてない?
もしかして、聞こえてるのは私だけ?
その証拠に、すっかり意気消沈してしまったお父さんは、醤油を指差す手を悲しそうに引っ込めた。
「それって、値段はいくらだったの?」
トドメを刺すお母さんの言葉。
「い、い、いくらって、ま、まあ、この刺身の味に似合う値段だけど……」
「私にはちっとも違いが分かりませんけど」
お母さんそれ言っちゃダメだって。
私にはちゃんと違いが分かったよ。だって醤油を垂らすたびに、変な声が耳元でするもん。
「沙希。ご飯が終わったらこの醤油、あんたの部屋に持って行ってちょうだい。お父さんが早く忘れてしまうように」
鬼だよ、お母さん。
そんな険悪な雰囲気をよそに、弟は黙々と刺身を食べていた。
夕食が終わって自室に戻ると、私は醤油ボトルを机の上に置く。
椅子に座って姿勢を正すと、声の主へのコンタクトを開始した。
「こんにちは」
が、挨拶をしても反応がない……。
「こんばんわ」
夜だからこっちの挨拶の方がいいんじゃないかと思ったが、これも反応なし。
おかしいなぁ、さっきは耳元で声がしたのに。
私はマジマジと醤油ボトルを眺める。
そこには「生醤油」の文字の下に、赤い字で説明が書かれていた。
――醤油一滴一滴が新鮮な新型密封ボトルです。
確かお父さんもそんなことを言ってたような……。
その時、私は閃いた。
「もしかして、密封ボトルだから密閉されちゃってて、私の声が聞こえない――とか!?」
それならば醤油を出してみればいい。
私は左手の掌を上に向け、右手に持った密封ボトルから醤油を一滴、掌に垂らしてみた。
ぷうんと漂う、醤油のいい香り。
高級醤油だからなのか、密封ボトルだからなのかは分からないが、こんなに素敵な香りは今までの醤油で味わったことはない。
『ええ香りやろ?』
待ち望んだ声が私の耳元をくすぐった。
2.おしょうゆさん
「ねえ、おしょうゆさん」
『なんや、沙希ちゃん』
すっかり仲良くなった私達は、すぐに名前で呼び合う仲になった。
えっ? おしょうゆさんって安易なネーミングだって?
仕方ないじゃない。最初に思いついたのがこれだったんだから。「黒光りさん」や「発酵大豆汁」とか「Oh! SHOW YOUさん」という案もあったけど、それらよりはマシだと思わない?
おしょうゆさんと話す時、私は買い込んだクラッカーを一枚取り出し、その上に醤油を一滴垂らす。
ぷぅんと醤油のいい香り。
私はおしょうゆさんについて、いろいろと聞いてみた。
「おしょうゆさんは、冷蔵庫に入れとかなくてもいいの?」
『平気やで。なんせ、自慢の密封ボトルやからな』
詳しく話を聞くと、空気が入りにくい密封ボトルだから常温でも大丈夫らしい。
普通の醤油がダメになってしまうのは、空気に触れて酸化したり、空気中の微生物によって変質してしまうからだという。
しかしこの密封ボトルは、空気に触れないように一滴一滴が新鮮な状態で出てくるから、冷蔵庫に入れる必要もないし、醸造時の香りが保たれている。
「でも、おしょうゆさん、空気は人間にとって必要なものじゃないの?」
『空気は必要なもんやけど、悪さをする時もあるんや』
「それは醤油の話でしょ?」
『人間にかて空気は悪さをするで。例えば、沙希ちゃんは仲良い子とは何でも話せるやろ?』
「うん」
『でも学校の教室の中では、本音で話せなくなるってことってあるやん。他の人にどない思われるかって気になってな。それが空気の悪い面や』
「…………」
まるで和尚さんのようなことを言うおしょうゆさんだった。
『しっかし、ここはめっちゃ乾燥しとるな』
「おしょうゆさんがいたところって、もっとジメジメしてたの?」
『ちゃうちゃう、海の香りや。湯浅はな、潮の香りに包まれた町なんや』
湯浅? 確かお父さんもそんなこと言ってたなぁ。醤油の本場とかなんとか。
私は湯浅という町を、スマホのマップで検索してみた。
すると出てきた、紀伊半島の左側に。おしょうゆさんの言う通り、たしかに海に面している。
『この海から醤油は日本中に広まったんや。小豆島や龍野、銚子や野田っちゅうところにな』
どうやら、湯浅という町は本当に醤油発祥の地らしい。
お父さんに言ったら喜んじゃいそうだから黙っておく。
3.悪魔のささやき
ある日、学校で嫌な事が起き始めた。
教室の後ろにある掃除用具入れに、生徒を閉じ込めるというイジメが流行り始めたのだ。
――止めてあげてよ!
声を大にして言いたい。
でもそうすると、今度は自分がターゲットにされてしまう。
だから、私を含めてクラスメートは皆、見て見ぬふりをした。この間おしょうゆさんが言ってた通りだ。空気の悪い面だった。
何もできない自分が悔しい。おしょうゆさんに返す言葉がない。
ん? おしょうゆさん? そうよ、おしょうゆさんだって、密閉空間に閉じ込められているじゃない。
おしょうゆさんに相談したら、なにかいい解決策を教えてくれるかも?
だから私は、次の日からおしょうゆさんをカバンの中に入れて登校することにした。
例のイジメが始まると、私は机の上にちょっと醤油を垂らす。
『どうしたんや、沙希ちゃん』
「クラスメートがいじめられてるの。どうしたらいい?」
『せやな……』
しばらく間が空いてから、おしょうゆさんが行動を開始した。
『ちょいと、閉じ込められている子の耳元でささやいてくるで』
「そんなことできるの?」
『大丈夫。心に傷を負っている子は、わいの声が聞こえるんや。聞こえんかったら、密室が好きっちゅうことやな』
それはそれで、救いが無いような気もするけど。
『ほな、言ってくるで』
おしょうゆさんの行動は、すぐに効果があったようだ。
というのも、数分後に解放されたイジメられっ子はニヤリと口元を結ぶと、怒りを込めてイジメっ子の耳元で何かをささやいた。
みるみる青ざめるイジメっ子。大きな衝撃を受けていることは明らかだ。
「ねえ、おしょうゆさん、何てささやいたの」
『あのイジメっ子はな、気持ち良くなりたいところに、ちょいと醤油を垂らす癖があるんや』
変な性癖だった。
「なんで、おしょうゆさんにそんなことが分かるの?」
『醤油ネットワークやな。日本にはどの家にも醤油があるさかい、このネットワークは最強やで』
恐るべし醤油ネットワーク。
次の日も、別のイジメられっ子が別のイジメっ子を撃退した。おしょうゆさんのささやきには、相当な破壊力が秘められているようだ。
「ねえ、今度は何てささやいたの?」
『今日のイジメっ子はな、醤という字を「将に酉」やなくて、「将に西」って書いとったんや』
いやいや、自分も「将に西」って書いてたわ。
「それも醤油ネットワーク情報?」
『せや。醤の字の恨みは晴らさせてもらったで』
一体どんなネットワークなのよ。ていうか私もヤバい?
4.おしょうゆさんとの別れ
どんなことにも別れはつきもの。いよいよ私はおしょうゆさんとお別れする時がやってきた。
『沙希ちゃん、わいはもうダメや』
「ダメって、醤油はまだ四分の一も残ってるじゃない」
『密封ボトルと言ってもな、ほんのちょっとずつやけど空気が入ってきとるんや』
「それって……」
『だんだんと香りが失われるってことや。わいの正体は醤油の香りやさかい』
いやだ、いやだ、いやだ。
おしょうゆさんとお別れなんてしたくない。
私は無い知恵を絞って、解決策を考えた。
「そうだ、醤油の香りを補充すればいいんじゃない?」
『それは無理やで、沙希ちゃん』
「なんで? おしょうゆさんは醤油の香りなんでしょ? だったら香りを足せばいいんじゃない!」
『そん時に空気が入るんや。醸造場に行けば可能やもしれへんけど……』
「そうよ、醸造場に行けじゃいいじゃない!」
『その香りは、もはやわいではなく、わいの仲間っちゅうことやな』
そんな……。
私は頭を抱えた。他に良いアイディアなんて思い浮かばない。
『お父はんに新しい密封ボトルを買うてもらえばええやんか。わいの仲間も捨てたもんやないで。すぐに沙希ちゃんと仲良うなること間違いなしや』
それじゃ、ダメなんだ。私は、おしょうゆさんとずっと一緒にいたいんだから……。
『それよりも沙希ちゃんにお願いがあんねん。最期に潮の香りを嗅ぎたいんやけど』
だから最期って言わないで!
「潮の香りって、海のこと?」
それならば、おしょうゆさんの最期の望みを叶えるためには、一緒に海に行かなくてはならない。
海? 海、海に行く? 私が!?
それがトリガーだった。海に行く光景を想像して私は固まった。
――黒い水、冷たい空、巨大な波。
記憶の片隅に封印されていたイメージが解放され、私に押し寄せる。
「い、いや、嫌っ! 海には行きたくない、それだけはやめて! お願いだからカンベンして……」
これが私の心の傷だった。
5.花火平岬にて
「花火平ぁ~、花火平ぁ~」
電車が駅に着くと、私はおしょうゆさんが入ったデイパックを背負う。これから岬にある灯台に向かうのだ。
――花火平岬。
先端に灯台がある、海からせり上がる岸壁が有名な観光地。
『なんでも、打ち上げ花火が平らに見えるくらい標高が高いっちゅう噂やで』
「それも醤油ネットワーク情報?」
『せやな』
それほどまでに標高が高いのなら安全だ。私は、おしょうゆさんと一緒に海に行こうと決意した。
「あれはね、七年前だった……」
灯台への道を歩きながら、私はおしょうゆさんに話しかける。
「大きな津波がこの地域を襲って、従姉妹の麻里さんが行方不明になっちゃったの……」
麻里さんは何処に行ってしまったんだろう? あの日、彼女の身に何が起きたんだろう?
それを想像するたびに、テレビで見た津波の映像が私の心に襲い掛かる。
――黒い水、冷たい空、巨大な波。
きっとあの中に飲み込まれてしまったんだ。その恐怖は、まるで自分の身に起きた出来事のように心に刻みつけられた。
海は危ない、海に近づいちゃダメだ、海を見に行ったら大変なことになる。
「あの日以来、私は海に近づくことができなくなった……」
七年経った今でも、その恐怖は消えていない。むしろ七年目だからこそ、その事実は重く私の身に迫りつつあった。
「麻里さんはね、私よりも七つ年上だったの」
何でも知ってる優しいお姉さん。その年の差は、永遠に縮まることはないと思っていた。
「今年、私は麻里さんと同じ年になる。そう思うと、いたたまれなくなって……」
あの時、麻里さんが何もできなかったとは思いたくない。でも同じ年になった私に何ができるかと問われても、何も答えることができない。
願いは一つ。津波の被害を軽減したい。
麻里さんだって、そう願っていることは明らかなのに。
「ねえ、おしょうゆさん。「稲むらの火」って話、知ってる? 火を起こして津波から人々を救ったという人の話」
『濱口梧陵やな』
「そう、濱口梧陵。醤油に関係ないのによく知ってるね、おしょうゆさん。それも醤油ネットワーク情報?」
『関係ないことなんてないで。梧陵はんは、湯浅の醤油商人の子や』
「えっ、そうなの?」
まさか津波と醤油が、こんな風に繋がるとは思わなかった。
『それに梧陵はんはな、子供の頃、この地域に住んどったんやで』
「ええっ!?」
私は何か不思議な縁を感じていた。
「私ね、七年前のことを思い出すたびにいつも考えるの。濱口梧陵が生きていたら、もっと多くの人が助かったんじゃないかって。濱口梧陵のことをもっと早く知っていたら、私は麻里さんを助けられたんじゃないかって」
自分の心を押しつぶしていたのは、そんな自責の念だった。
『沙希ちゃん、人間はそないに完璧やおまへんで。たとえ梧陵はんが生きとったって、結果は変わらんかったと思う』
「何でそんなこと言えるの? 濱口梧陵は藁に火をつけて、人々を津波から救ったのよ」
『それはフィクションや。本当の梧陵はんはな、不覚にも津波にさらわれてしもうたんやで』
「ええっ!?」
そんなこと初めて聞いた。
「嘘。そんなの嘘よ」
『梧陵はんかて人の子、湯浅の子。不意打ちくらって津波にさらわれてしもうた梧陵はんは、海の中で必死に陸を探したんや。しかし夜で辺りは真っ暗。当時は江戸時代やから、今みたいに街の光もあらへんし。だから運よく陸に上がれた梧陵はんは、すぐに藁に火をつけたんや。海に流された人々に陸の位置を教えるためにな』
ま、まさかそれが真相だったなんて……。
自分の中で神格化されていた濱口梧陵のイメージが崩れ去った瞬間だった。
『「稲むらの火」は、この話をもとにして作られたフィクションや。でもな、梧陵はんが偉いのはここからなんやで。二度と同じ悲劇を繰り返さんようにと、私財を投じて堤防を建設したんや』
そんなことがあったとは……。
そうか、濱口梧陵も私も同じなんだ。
あの時に何もできなかったことを後悔するんじゃなくて、これから何ができるのかを考えなきゃいけないんだ……。
『おおっ、海の香りや。懐かしい潮の子守歌や』
気がつくと目の前に白い灯台が迫っていた。岸壁に打ちつける波の音もかすかに聞こえてくる。
『おおきに、ホンマにありがとな、沙希ちゃん。わいはそろそろお別れや……』
「おしょうゆさん、もうちょっと待って。灯台まで連れて行ってあげるから」
『沙希ちゃんは今、七年前の悲しみを乗り越えようとしとる。せやから、もう大丈夫やと思うで』
「そんなこと言わないで。ほら、もうちょっとで海を見せてあげられるから」
『ほな、さいなら……』
「海だ! 海が見えた! おしょうゆさん、海だよ!!」
おしょうゆさんの返事は、これ以上私の耳に届くことはなかった。
6.エピローグ
あれから三か月後。
私はお父さんに連れられて湯浅町を訪れていた。
――醤油の醸造場が建ち並ぶ北町通り、そして醤油を運び出していた内港の大仙堀。
確かに湯浅は醤油と潮の香りに包まれた町だった。
お父さんは懲りもせず、高級たまり醤油の密封ボトルを買っている。
私もちょっと左の掌に醤油を垂らして、味見させてもらう。
ぷうんと漂う醤油のいい香り。
でも、耳元には何も聞こえてこなかった。
『もう大丈夫やと思うで』
おしょうゆさんの最後の言葉が脳裏に蘇る。
本当にそうなのだろうか?
いまだに海を見に行くのは恐い。でも、津波にさらわれた濱口梧陵がその恐怖に負けずに頑張ったエピソードを思い出すと、負けてはいられないと思えるようになった。
お父さんにお願いして、湯浅町の隣の広川町も訪問した。そこは、濱口梧陵が藁に火をつけて村人を誘導した場所だ。
記念館である「稲むらの火の館」や、震災後に濱口梧陵が私財を投じて建設した広村堤防も見に行った。
堤防の上に立って考える。
私には一体、何ができるのだろうか――と。
その小さな一歩として、私はおしょうゆさんとのエピソードを書いてみることにした。
津波で悲しむ人が一人でも少なくなりますように、と願いを込めて。
おわり
ライトノベル作法研究所 2017‐2018冬企画
テーマ:『密室』
『この刺身、美味いやろ?』
突然声がした、夕飯中に。
どこからともなく、耳元で。
『わいのおかげやで』
誰!?
初めて聞く声。男の人の声。家族のものじゃない。
食卓を見回すと、お父さんもお母さんも弟も夢中になって刺身を食べている。
『どこ見とるんや。目の前や、目の前。それに出し過ぎや』
ええっ、目の前!?
テーブルの刺身に視線を戻すと、手にした醤油ボトルからポタポタと黒い液体が落ち続けている。
私は慌ててボトルをテーブルに置いた。
ていうか、ま、まさか、醤油がしゃべった!?
驚きの表情を浮かべる私に、お父さんが反応した。
「おおっ、沙希もビックリしたか?」
えっ? お父さんにも同じ声が聞こえてる……とか?
「そうだろう、そうだろう、今日の刺身は驚くほど美味いだろ?」
なんだ、そっちのこと?
私がビックリしたのは刺身じゃなくて声の方だから。
「魚が新鮮ってこともある。だが、しかし、今日の主役は魚じゃないんだ。それが分かったんだよな、沙希にも」
ヤバい、違いが分かるアピール出ちゃったよ。
面倒くさいなぁ、スイッチが入ったお父さんの説明って長いんだから……。
勘弁してほしい私のことはそっちのけで、お父さんは私の目の前にある醤油ボトルを指差した。
「ジャジャーン、今日の主役はこのボトル。醤油の本場、和歌山県湯浅町の醸造元から特別に取り寄せた、最高級たまり醤油の密封ボトルだ!」
『せや!』
謎の声が合いの手を入れた。
それはやめて、お父さん、調子に乗っちゃうから。
しかしお父さんは浮かない様子。
「おいおい、なんでみんな反応しない。湯浅醤油だぞ、日本の醤油発祥の地なんだぞ」
『せやせや、湯浅醤油は日本一やで!』
だからお父さんを煽らないでよ。って、えっ? その声ってお父さんには聞こえてない?
もしかして、聞こえてるのは私だけ?
その証拠に、すっかり意気消沈してしまったお父さんは、醤油を指差す手を悲しそうに引っ込めた。
「それって、値段はいくらだったの?」
トドメを刺すお母さんの言葉。
「い、い、いくらって、ま、まあ、この刺身の味に似合う値段だけど……」
「私にはちっとも違いが分かりませんけど」
お母さんそれ言っちゃダメだって。
私にはちゃんと違いが分かったよ。だって醤油を垂らすたびに、変な声が耳元でするもん。
「沙希。ご飯が終わったらこの醤油、あんたの部屋に持って行ってちょうだい。お父さんが早く忘れてしまうように」
鬼だよ、お母さん。
そんな険悪な雰囲気をよそに、弟は黙々と刺身を食べていた。
夕食が終わって自室に戻ると、私は醤油ボトルを机の上に置く。
椅子に座って姿勢を正すと、声の主へのコンタクトを開始した。
「こんにちは」
が、挨拶をしても反応がない……。
「こんばんわ」
夜だからこっちの挨拶の方がいいんじゃないかと思ったが、これも反応なし。
おかしいなぁ、さっきは耳元で声がしたのに。
私はマジマジと醤油ボトルを眺める。
そこには「生醤油」の文字の下に、赤い字で説明が書かれていた。
――醤油一滴一滴が新鮮な新型密封ボトルです。
確かお父さんもそんなことを言ってたような……。
その時、私は閃いた。
「もしかして、密封ボトルだから密閉されちゃってて、私の声が聞こえない――とか!?」
それならば醤油を出してみればいい。
私は左手の掌を上に向け、右手に持った密封ボトルから醤油を一滴、掌に垂らしてみた。
ぷうんと漂う、醤油のいい香り。
高級醤油だからなのか、密封ボトルだからなのかは分からないが、こんなに素敵な香りは今までの醤油で味わったことはない。
『ええ香りやろ?』
待ち望んだ声が私の耳元をくすぐった。
2.おしょうゆさん
「ねえ、おしょうゆさん」
『なんや、沙希ちゃん』
すっかり仲良くなった私達は、すぐに名前で呼び合う仲になった。
えっ? おしょうゆさんって安易なネーミングだって?
仕方ないじゃない。最初に思いついたのがこれだったんだから。「黒光りさん」や「発酵大豆汁」とか「Oh! SHOW YOUさん」という案もあったけど、それらよりはマシだと思わない?
おしょうゆさんと話す時、私は買い込んだクラッカーを一枚取り出し、その上に醤油を一滴垂らす。
ぷぅんと醤油のいい香り。
私はおしょうゆさんについて、いろいろと聞いてみた。
「おしょうゆさんは、冷蔵庫に入れとかなくてもいいの?」
『平気やで。なんせ、自慢の密封ボトルやからな』
詳しく話を聞くと、空気が入りにくい密封ボトルだから常温でも大丈夫らしい。
普通の醤油がダメになってしまうのは、空気に触れて酸化したり、空気中の微生物によって変質してしまうからだという。
しかしこの密封ボトルは、空気に触れないように一滴一滴が新鮮な状態で出てくるから、冷蔵庫に入れる必要もないし、醸造時の香りが保たれている。
「でも、おしょうゆさん、空気は人間にとって必要なものじゃないの?」
『空気は必要なもんやけど、悪さをする時もあるんや』
「それは醤油の話でしょ?」
『人間にかて空気は悪さをするで。例えば、沙希ちゃんは仲良い子とは何でも話せるやろ?』
「うん」
『でも学校の教室の中では、本音で話せなくなるってことってあるやん。他の人にどない思われるかって気になってな。それが空気の悪い面や』
「…………」
まるで和尚さんのようなことを言うおしょうゆさんだった。
『しっかし、ここはめっちゃ乾燥しとるな』
「おしょうゆさんがいたところって、もっとジメジメしてたの?」
『ちゃうちゃう、海の香りや。湯浅はな、潮の香りに包まれた町なんや』
湯浅? 確かお父さんもそんなこと言ってたなぁ。醤油の本場とかなんとか。
私は湯浅という町を、スマホのマップで検索してみた。
すると出てきた、紀伊半島の左側に。おしょうゆさんの言う通り、たしかに海に面している。
『この海から醤油は日本中に広まったんや。小豆島や龍野、銚子や野田っちゅうところにな』
どうやら、湯浅という町は本当に醤油発祥の地らしい。
お父さんに言ったら喜んじゃいそうだから黙っておく。
3.悪魔のささやき
ある日、学校で嫌な事が起き始めた。
教室の後ろにある掃除用具入れに、生徒を閉じ込めるというイジメが流行り始めたのだ。
――止めてあげてよ!
声を大にして言いたい。
でもそうすると、今度は自分がターゲットにされてしまう。
だから、私を含めてクラスメートは皆、見て見ぬふりをした。この間おしょうゆさんが言ってた通りだ。空気の悪い面だった。
何もできない自分が悔しい。おしょうゆさんに返す言葉がない。
ん? おしょうゆさん? そうよ、おしょうゆさんだって、密閉空間に閉じ込められているじゃない。
おしょうゆさんに相談したら、なにかいい解決策を教えてくれるかも?
だから私は、次の日からおしょうゆさんをカバンの中に入れて登校することにした。
例のイジメが始まると、私は机の上にちょっと醤油を垂らす。
『どうしたんや、沙希ちゃん』
「クラスメートがいじめられてるの。どうしたらいい?」
『せやな……』
しばらく間が空いてから、おしょうゆさんが行動を開始した。
『ちょいと、閉じ込められている子の耳元でささやいてくるで』
「そんなことできるの?」
『大丈夫。心に傷を負っている子は、わいの声が聞こえるんや。聞こえんかったら、密室が好きっちゅうことやな』
それはそれで、救いが無いような気もするけど。
『ほな、言ってくるで』
おしょうゆさんの行動は、すぐに効果があったようだ。
というのも、数分後に解放されたイジメられっ子はニヤリと口元を結ぶと、怒りを込めてイジメっ子の耳元で何かをささやいた。
みるみる青ざめるイジメっ子。大きな衝撃を受けていることは明らかだ。
「ねえ、おしょうゆさん、何てささやいたの」
『あのイジメっ子はな、気持ち良くなりたいところに、ちょいと醤油を垂らす癖があるんや』
変な性癖だった。
「なんで、おしょうゆさんにそんなことが分かるの?」
『醤油ネットワークやな。日本にはどの家にも醤油があるさかい、このネットワークは最強やで』
恐るべし醤油ネットワーク。
次の日も、別のイジメられっ子が別のイジメっ子を撃退した。おしょうゆさんのささやきには、相当な破壊力が秘められているようだ。
「ねえ、今度は何てささやいたの?」
『今日のイジメっ子はな、醤という字を「将に酉」やなくて、「将に西」って書いとったんや』
いやいや、自分も「将に西」って書いてたわ。
「それも醤油ネットワーク情報?」
『せや。醤の字の恨みは晴らさせてもらったで』
一体どんなネットワークなのよ。ていうか私もヤバい?
4.おしょうゆさんとの別れ
どんなことにも別れはつきもの。いよいよ私はおしょうゆさんとお別れする時がやってきた。
『沙希ちゃん、わいはもうダメや』
「ダメって、醤油はまだ四分の一も残ってるじゃない」
『密封ボトルと言ってもな、ほんのちょっとずつやけど空気が入ってきとるんや』
「それって……」
『だんだんと香りが失われるってことや。わいの正体は醤油の香りやさかい』
いやだ、いやだ、いやだ。
おしょうゆさんとお別れなんてしたくない。
私は無い知恵を絞って、解決策を考えた。
「そうだ、醤油の香りを補充すればいいんじゃない?」
『それは無理やで、沙希ちゃん』
「なんで? おしょうゆさんは醤油の香りなんでしょ? だったら香りを足せばいいんじゃない!」
『そん時に空気が入るんや。醸造場に行けば可能やもしれへんけど……』
「そうよ、醸造場に行けじゃいいじゃない!」
『その香りは、もはやわいではなく、わいの仲間っちゅうことやな』
そんな……。
私は頭を抱えた。他に良いアイディアなんて思い浮かばない。
『お父はんに新しい密封ボトルを買うてもらえばええやんか。わいの仲間も捨てたもんやないで。すぐに沙希ちゃんと仲良うなること間違いなしや』
それじゃ、ダメなんだ。私は、おしょうゆさんとずっと一緒にいたいんだから……。
『それよりも沙希ちゃんにお願いがあんねん。最期に潮の香りを嗅ぎたいんやけど』
だから最期って言わないで!
「潮の香りって、海のこと?」
それならば、おしょうゆさんの最期の望みを叶えるためには、一緒に海に行かなくてはならない。
海? 海、海に行く? 私が!?
それがトリガーだった。海に行く光景を想像して私は固まった。
――黒い水、冷たい空、巨大な波。
記憶の片隅に封印されていたイメージが解放され、私に押し寄せる。
「い、いや、嫌っ! 海には行きたくない、それだけはやめて! お願いだからカンベンして……」
これが私の心の傷だった。
5.花火平岬にて
「花火平ぁ~、花火平ぁ~」
電車が駅に着くと、私はおしょうゆさんが入ったデイパックを背負う。これから岬にある灯台に向かうのだ。
――花火平岬。
先端に灯台がある、海からせり上がる岸壁が有名な観光地。
『なんでも、打ち上げ花火が平らに見えるくらい標高が高いっちゅう噂やで』
「それも醤油ネットワーク情報?」
『せやな』
それほどまでに標高が高いのなら安全だ。私は、おしょうゆさんと一緒に海に行こうと決意した。
「あれはね、七年前だった……」
灯台への道を歩きながら、私はおしょうゆさんに話しかける。
「大きな津波がこの地域を襲って、従姉妹の麻里さんが行方不明になっちゃったの……」
麻里さんは何処に行ってしまったんだろう? あの日、彼女の身に何が起きたんだろう?
それを想像するたびに、テレビで見た津波の映像が私の心に襲い掛かる。
――黒い水、冷たい空、巨大な波。
きっとあの中に飲み込まれてしまったんだ。その恐怖は、まるで自分の身に起きた出来事のように心に刻みつけられた。
海は危ない、海に近づいちゃダメだ、海を見に行ったら大変なことになる。
「あの日以来、私は海に近づくことができなくなった……」
七年経った今でも、その恐怖は消えていない。むしろ七年目だからこそ、その事実は重く私の身に迫りつつあった。
「麻里さんはね、私よりも七つ年上だったの」
何でも知ってる優しいお姉さん。その年の差は、永遠に縮まることはないと思っていた。
「今年、私は麻里さんと同じ年になる。そう思うと、いたたまれなくなって……」
あの時、麻里さんが何もできなかったとは思いたくない。でも同じ年になった私に何ができるかと問われても、何も答えることができない。
願いは一つ。津波の被害を軽減したい。
麻里さんだって、そう願っていることは明らかなのに。
「ねえ、おしょうゆさん。「稲むらの火」って話、知ってる? 火を起こして津波から人々を救ったという人の話」
『濱口梧陵やな』
「そう、濱口梧陵。醤油に関係ないのによく知ってるね、おしょうゆさん。それも醤油ネットワーク情報?」
『関係ないことなんてないで。梧陵はんは、湯浅の醤油商人の子や』
「えっ、そうなの?」
まさか津波と醤油が、こんな風に繋がるとは思わなかった。
『それに梧陵はんはな、子供の頃、この地域に住んどったんやで』
「ええっ!?」
私は何か不思議な縁を感じていた。
「私ね、七年前のことを思い出すたびにいつも考えるの。濱口梧陵が生きていたら、もっと多くの人が助かったんじゃないかって。濱口梧陵のことをもっと早く知っていたら、私は麻里さんを助けられたんじゃないかって」
自分の心を押しつぶしていたのは、そんな自責の念だった。
『沙希ちゃん、人間はそないに完璧やおまへんで。たとえ梧陵はんが生きとったって、結果は変わらんかったと思う』
「何でそんなこと言えるの? 濱口梧陵は藁に火をつけて、人々を津波から救ったのよ」
『それはフィクションや。本当の梧陵はんはな、不覚にも津波にさらわれてしもうたんやで』
「ええっ!?」
そんなこと初めて聞いた。
「嘘。そんなの嘘よ」
『梧陵はんかて人の子、湯浅の子。不意打ちくらって津波にさらわれてしもうた梧陵はんは、海の中で必死に陸を探したんや。しかし夜で辺りは真っ暗。当時は江戸時代やから、今みたいに街の光もあらへんし。だから運よく陸に上がれた梧陵はんは、すぐに藁に火をつけたんや。海に流された人々に陸の位置を教えるためにな』
ま、まさかそれが真相だったなんて……。
自分の中で神格化されていた濱口梧陵のイメージが崩れ去った瞬間だった。
『「稲むらの火」は、この話をもとにして作られたフィクションや。でもな、梧陵はんが偉いのはここからなんやで。二度と同じ悲劇を繰り返さんようにと、私財を投じて堤防を建設したんや』
そんなことがあったとは……。
そうか、濱口梧陵も私も同じなんだ。
あの時に何もできなかったことを後悔するんじゃなくて、これから何ができるのかを考えなきゃいけないんだ……。
『おおっ、海の香りや。懐かしい潮の子守歌や』
気がつくと目の前に白い灯台が迫っていた。岸壁に打ちつける波の音もかすかに聞こえてくる。
『おおきに、ホンマにありがとな、沙希ちゃん。わいはそろそろお別れや……』
「おしょうゆさん、もうちょっと待って。灯台まで連れて行ってあげるから」
『沙希ちゃんは今、七年前の悲しみを乗り越えようとしとる。せやから、もう大丈夫やと思うで』
「そんなこと言わないで。ほら、もうちょっとで海を見せてあげられるから」
『ほな、さいなら……』
「海だ! 海が見えた! おしょうゆさん、海だよ!!」
おしょうゆさんの返事は、これ以上私の耳に届くことはなかった。
6.エピローグ
あれから三か月後。
私はお父さんに連れられて湯浅町を訪れていた。
――醤油の醸造場が建ち並ぶ北町通り、そして醤油を運び出していた内港の大仙堀。
確かに湯浅は醤油と潮の香りに包まれた町だった。
お父さんは懲りもせず、高級たまり醤油の密封ボトルを買っている。
私もちょっと左の掌に醤油を垂らして、味見させてもらう。
ぷうんと漂う醤油のいい香り。
でも、耳元には何も聞こえてこなかった。
『もう大丈夫やと思うで』
おしょうゆさんの最後の言葉が脳裏に蘇る。
本当にそうなのだろうか?
いまだに海を見に行くのは恐い。でも、津波にさらわれた濱口梧陵がその恐怖に負けずに頑張ったエピソードを思い出すと、負けてはいられないと思えるようになった。
お父さんにお願いして、湯浅町の隣の広川町も訪問した。そこは、濱口梧陵が藁に火をつけて村人を誘導した場所だ。
記念館である「稲むらの火の館」や、震災後に濱口梧陵が私財を投じて建設した広村堤防も見に行った。
堤防の上に立って考える。
私には一体、何ができるのだろうか――と。
その小さな一歩として、私はおしょうゆさんとのエピソードを書いてみることにした。
津波で悲しむ人が一人でも少なくなりますように、と願いを込めて。
おわり
ライトノベル作法研究所 2017‐2018冬企画
テーマ:『密室』
アキ缶プリンセス ― 2017年08月28日 23時10分05秒
日名川第二高校。
昭和初期の工場跡地に建てられたこの高校は、古びたレンガの塀に囲まれている。
その高さは三メートルほど。
工場の機密を守るために、そんな高さにしたのだろうか。現在では高校生の出入りを許さない高い壁となって、ぐるりと学校を取り囲んでいた。
レンガ塀の南側は県道に面し、校舎の前には立派な正門があった。
一方、敷地の東、北、西側は、静かな住宅街に面している。
そんな日名川第二高校には開かずの門があった。
――北門。
レンガの壁に埋め込まれる形でひっそりと佇む北向きの鉄製の扉は、十年前から一度も開かれたことはない。
北門の隣には、清涼飲料水の自動販売機がある。
門が開かれていた時代に、二高生をターゲットに設置されたものだろう。しかし門が閉ざされてしまった現在では、住宅街を散歩する人が時たま利用する程度だった。
ここで注目したいのは、この自売機ではなく、隣の古ぼけたゴミ箱である。
空に大きく口を開いた、よく公園などに置いてある金属メッシュの円形ゴミ箱。
そこに捨てられる空き缶の数には、不思議な特徴があった。というのも、隣の自売機で売られる缶よりはるかに多い缶が捨てられるのだ。しかも、自売機で売られていない銘柄も含まれている。
家庭ゴミが持ち込まれた、と思う方もいるだろう。しかし、増やされる缶はビニール袋に入っているわけでもない。毎日毎日、ちょっとずつ増えているのだ。
それもそのはず、増える空き缶はレンガ塀の内側から投げ入れられたものだったから。
――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ……。
今日も放課後になると、レンガ塀の内側から空き缶が飛んでくる。
当然、すべての缶がゴミ箱に入るわけでもなく、標的を外れた空き缶は甲高い音を立ててアスファルトを転がった。
「今日も始まった……」
その様子を住宅街の影から観察している一人の少女がいた。
彼女の視線は、転がる缶に向けられている。
「あの人が来る……」
およそ三分後に訪れるであろう光景に、少女は胸をときめかせる。
これは、そんな不思議な少女と、ある男子高校生との物語――
◇
「空知、空知、空知っ!」
日名川第二高校サッカー部室の近く、北門裏ではコールが湧き起こっていた。
上川空知(かみかわ そらち)。一年生。
名前を連呼された彼は、空き缶を一つ手にして緊張した面持ちで初夏の夕空を見上げる。
――朝のまったりブラック。
これからその銘柄の空き缶を蹴り上げるのだ。
ターゲットは、北門と約二メートル離れた電柱との中間地点。そのちょうど裏側にゴミ箱が存在する。
――この缶ならできる!
缶を見つめながら気合を込める空知。ちなみにこの銘柄は、部内では彼だけが飲んでいるブラックコーヒーだ。
「おいおい、早くしろよっ!」
「外すなよな!」
空知は缶を小さく前に投げると、右足を振りかぶった。
シューズの甲の部分で優しく缶の縁をミートする。くるくると逆回転がかかった缶は三メートルの高さのレンガ塀の上部に向かって飛んで行く。
「おっ、いいコースだ」
「今日はパーフェクトか!?」
しかし、部員たちの願いはすぐに落胆に変わる。
――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ…………コン。
塀の向こう側へ消えていった空き缶は、皆の期待に反し甲高い音を響かせた。
「なんだよ、また外したのかよ」
「ほらほら、拾いに行ってこいよ!」
ちゃんとゴミ箱に入っていれば、カシャリと小さく金属音がするはずだった。実際、今まで缶を蹴った先輩たちは、カシャリと見事にゴミ箱に蹴り入れていた。
「くそっ! 空知、行ってきます!」
「ダッシュだぞ」
空知は正門に向かって走り出す。北門が開いていれば、門をくぐって一瞬で空き缶を拾うことができるのだが、閉まっている現在は正門を経由してぐるりと大回りしなくてはならない。
まずは正門までの距離、直線で百五十メートル。正門からは壁沿いに道路を走って北門まで約五百メートルの道のりだ。往復で一キロを超える罰走は、練習後の疲れた体を容赦なく鞭打つ。
「ふふふふ……」
しかし、今の空知は違っていた。不気味な笑みさえ浮かべている。正門に向かって走りながら。
「うまく外れてくれたぜ……」
そう、空知はわざとゴミ箱に入れないように空き缶を蹴っていたのだ。
ある女の子に会うために。
――俺たちが蹴った缶を拾いに来る女の子がいるらしい。
――その子、むちゃくちゃ可愛いんだって?
そんな噂が部内に広まったのは、つい一ヶ月前のこと。
情報源は、空知と同じ一年生の直之だった。
『缶を拾いに行く時、ポメラニアンを散歩させている女の子とよくすれ違うんだよね』
彼もまた、ゴミ箱に缶が入らない罰走常連者だった。
『それがすっごく可愛くって』
可愛いのは女の子なのかポメラニアンなのかは不明なのだが。
しかし、決定的だったのは次の彼の証言だった。
『彼女が持ってるビニール袋、犬のウンチ用かと思いきや空き缶が入ってたんだよ。しかも俺たちが蹴った缶だった』
それ以来、変な噂が広まったのだ。
可愛い女の子が部員の蹴った缶を拾いに来る――と。
正体不明のその女の子は、いつしか”空き缶プリンセス”と呼ばれるようになっていた。
下校する生徒たちの脇をすり抜けながら正門の外に出た空知は、右に曲がって県道を西へ走る。陽はすでに沈み、正面に見える山々は真っ赤な空のシルエットとなっていた。
西回りを選んだのは、東回りよりも三十メートルほど距離が短いという理由からだ。
レンガ塀に沿って走る空知は角を二回右に曲がる。すると、遠くに北門の自売機が見えてきた。が、残念ながら、噂のプリンセスの姿はない。
「ちぇっ……」
舌打ちをしながら北門に着いた空知。朝のまったりブラック缶は、ゴミ箱から一メートルくらいの場所に転がっていた。
「今日も会えなかったか……」
あたりをキョロキョロと見回しながら缶を拾う。が、やはり周囲に人の気配はない。家々の窓に灯がともり始めた住宅街は、夕飯の支度で大忙しのようだ。
カシャリとゴミ箱に空き缶を捨てた空知は、レンガ塀の内側に向かって声を上げる。
「空知、缶を捨てました!」
すると塀越しにキャプテンの声が返ってきた。
『よし、行きは三分五秒だ。帰りは三分切るぞ! スタート!』
ちぇっ、もうスタートかよ。いつもながらに鬼だな、キャプテンは。
そんな恨み節を噛み殺しながら、空知は走り出す。
結局、今日もプリンセスには会えなかった。これでは無駄走りと言っても過言ではない。
その時だ。
右側の住宅街の路地に、チラリと人影が見えたような気がした。
その姿は女の子のようだった。
――もしかして、あれがプリンセス?
戻って確かめたい。でも、そうすると三分を大幅にオーバーしてキャプテンに怒られる。
結局、空知は走り続けることを選択した。
――でも、なんで彼女は隠れているんだろう?
北門周辺が騒がしいから? 走って来るサッカー部員がうっとおしいから?
いろいろな可能性が空知の頭の中に浮かんでくる。それらが導き出す答えは、いずれもサッカー部員がいなくなるのを待っているということだった。つまり、プリンセスが現れるとしたら、空知が走り去った正に今。
「おおっ、すごいぞ空知。帰りは二分五十五秒だったぞ」
「ありがとうございます、キャプテン! では、失礼します!」
だから部室に着いた空知は再び走り出す。
プリンセスに会うために。
正門を抜けて、レンガ塀沿いに走ること約三分。しかし、自売機の周辺には誰もいなかった。
「なんだよ、またもや無駄足かよ……」
脱力した空知は、ゴミ箱の縁にお尻を当てて寄りかかる。ゴミ箱にくくり付けられた重りがカタカタと音を立てた。
見上げる空は、すでに紫色に染まりつつあった。自売機を照らす電柱の街灯に、虫たちがブンブンと飛んでいる。
「本当にプリンセスなんているのか……」
バカなことをしちまったとぼやきながら、空知はふとゴミ箱の中を覗いた。
「えっ?」
空知は気付く。
「無い!?」
あるはずの物が無いのだ。
「そんなバカな、さっき捨てたばかりなのに……」
一番上にあるはずの朝のまったりブラック缶が消えていた。
――やっぱりプリンセスはいるんじゃないのか?
それが空知の出した結論だった。
捨てたばかりの朝のまったりブラック缶が忽然と消えた。明らかに、誰かが持ち去ったとしか思えない。業者が回収したのであれば、缶はすべて無くなっているはずだ。
――では、いつ?
それは明らかだ。
空知がゴミ箱に到着した時、朝のまったりブラック缶はまだアスファルトに転がっていた。
その缶をゴミ箱に捨てて部室まで三分。その後、ゴミ箱に戻って来るまで三分。つまり、この六分間に空き缶が持ち去られたことになる。
――どうしたら会える?
これが一番の問題だ。
罰走で空き缶を拾いに行ったら、会うことはできない。
なぜなら、鬼のキャプテンがタイムを測定しているからだ。缶をゴミ箱に入れた瞬間、部室に向かって走り出さなくてはならない。
――この難問さえクリアできれば……。
プリンセスに会ってみたい。チラリと姿が見えた、あの女の子に。
空知は自宅のベッドで天井を見上げながら、いつまでも作戦を考えていた。
◇
次の日の朝。
「空知、空知、空知っ!」
朝練が終わった北門裏は、サッカー部員で盛り上がっていた。
朝のまったりブラック缶を右手にしっかりと握りしめながら、空知は昨晩考えた作戦を思い出す。
――この缶ならできる!
そして小さく前に投げ、右足を振り抜いた。
甲の部分で優しくミートした空き缶は、クルクルと逆回転しながらレンガ塀の上部へ向けて飛んでいく。そして塀に当たるか当たらないかスレスレの高さで超えていった。朝の日差しを浴びてキラキラと光りながら。
緊張の一秒間。
――カシャリ。
缶は見事、ゴミ箱へ。
「よっしゃァァ!」
ガッツポーズをしながら空知は後ろに下がる。そして、入れ替わりに前に出ようとする直之に、すれ違いざまに一言つぶやいた。
「昨日、プリンセスを見たぜ」
「マジか?」
これが空知の作戦だった。
直之だってプリンセスに会いたいはずだ。蹴る直前にこんな風に言われれば、きっと彼は缶を外すだろう。
しかし、たとえ缶を外せても直之は決して彼女に会えることはない。それは昨日、空知が実証済みだった。
「直之、直之、直之っ!」
部室前が直之コールに変わる。
直之は壁の前で、”午後のシャキッとコーヒー”缶を握りしめた。いつもとは違う緊張の面持ちで。
この緊張の意味がわかるのは空知だけだった。というのも、缶を入れようとする緊張ではないからだ。
――どうやったらごく自然に缶を外すことができるか。
これほど高度で危険な技はない。バレたら、真剣に蹴っている先輩方をバカにする行為とみなされる。
意を決し、直之が缶を小さく前に投げる。そして右足を振り抜いた。
クルクルと回りながら、午後のシャキッとコーヒー缶がレンガ塀の上部に向かって飛んでいく。その軌跡を見ながら空知はつぶやいた。ナイス直之、と。
――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ……。
塀を超えた空き缶は、アスファルトに当たって甲高い音を立てた。
「なんだよ、直之ィ~」
「そうだよ、今日は空知も入れたのに」
「スイマセン!」
先輩たちに謝りながらも、直之はきっと心の中でペロっと舌を出しているのだろう。
「じゃあ、今日の朝練はこれで解散! 直之は缶を拾いに行ってこい。スタート!」
キャプテンの掛け声と共に、直之は正門に向かって走り出す。
そして空知も、引き上げる振りをしながら正門に向かって走り出した。
――直之に空き缶を拾いに行かせる。
空知の作戦の第一段階は成功だ。
もしプリンセスが現れるとしたら、直之が缶を拾って部室に戻る間の数分間だろう。となれば、すぐさま直之を追って北門に向かわなくてはならない。
正門を抜けた空知は、直之とは逆の左側に曲がる。東回りのルートで北門へ向かうためだ。距離は西回りよりも若干長いが、直之と鉢合わせする心配がない。
塀に沿って住宅街を走り、二回目の角の前で立ち止まる。レンガ塀に隠れて空知がそっと北門の方を伺うと、缶をゴミ箱に捨てた直之が再び走り出すところだった。
「ナイスタイミング!」
北門前の通りを向こう側に走って行く直之。その姿がだんだんと小さくなる。そしてレンガ塀の角を左に曲がり、北門前の通りから消えた。
プリンセスが現れるなら、今だ。
すると、住宅街の路地から一人の女の子が現れた。制服姿で、キョロキョロと辺りを見回しながら。
「おおっ!」
やっぱりいたんだ、噂のプリンセスは!
興奮を抑えながら空知は息をひそめる。レンガ塀を掴む手のひらに、じわりと汗が滲んできた。
女の子は通りに誰もいないことを確認すると、そそくさとゴミ箱に近づいた。
白のブラウスに紺の無地のスカート。どうやら彼女も高校生のようだ。きっと登校前なのだろう。
スカートの腰の部分がちょうどゴミ箱の上部と同じだから、背の高さは百五十センチくらいと推測される。一方、空知の身長は百七十センチだった。
「あれ? あの制服って、どこかで見たことがあるような……」
空知はその制服に見覚えがあった。
少なくとも二高の制服ではない。二高の女子のスカートは、濃いグリーンを基調としたチェック柄だ。
「ま、まさかの一高……?」
日名川第一高校。
この地域の秀才が通う公立の進学高だ。あの地味なスカートは一高の制服に間違いない。
その時。「きゃっ!」という小さな悲鳴と同時にガシャリと金属音が響く。ゴミ箱の中の缶に手を伸ばした女の子がバランスを崩し、中に落ちてしまったのだ。
ゴミ箱に上半身を突っ込んだまま、バタバタともがく女の子。スカートがめくれないよう手で抑えるのに必死で、外に出ることができない。
「おい、おい、おい。命と空き缶とパンツ、どれが一番大事なんだよ!」
右手で空き缶、左手でスカート。さすがにその状態ではゴミ箱からの脱出は不可能だ。
思わず空知はレンガ塀の影から飛び出した。
そして女の子に近寄り、ゴミ箱を重りごと斜めに傾けて彼女を救出する。ビンクの布地がチラリと見えたような気もするけど、それは内緒だ。
「大丈夫か?」
「す、すいません。助けていただき、ありがとうございます」
ゴミ箱から脱出した女の子が、アスファルトにぺたんと女の子座りしたままお礼を述べた。
そして空知を見上げたとたん、「あっ!?」と表情を変えた。
「そ、空知くんが、なんで?」
「えっ?」
驚いたのは空知の方だった。
大きな二重の瞳に柔らかそうな頬、そして天然パーマがかかったショートの髪が耳元を隠すよう緩やかにカールしている。その容姿は正に空知の好みそのもの。これほどドンピシャな子に、今まで出会ったことはない。
そんな初対面の女の子に、いきなり名前を呼ばれたのだ。
すると女の子はいそいそと立ち上がり、「ごめんなさい。失礼します」と住宅街へ駆けて行った。午後のシャキッとコーヒー缶を握りしめながら。
その後ろ姿を、空知は呆然と眺めるしかなかった。
その日の授業は、全く集中できなかった。
『そ、空知くんが、なんで?』
驚いたように空知を見上げる女の子の顔が、何度もフラッシュバックする。
また会いたくて、その顔が見たくて、勉強なんてする気が起きないのだ。
しかし、その顔には全く心当たりが無かった。にも関わらず、彼女は空知の名前を知っていた。
中学校が一緒というわけでもない。それに彼女は空知の通う二高ではなく、一高の制服を着ていた。
「一高の生徒が、俺のことを知っているわけが……」
いや、あるかも。
空知は、ある可能性について考え始めていた。
◇
「おい、空知。お前ひでぇ奴だな」
放課後になって部活に行くと、いきなり直之が絡んできた。
目が笑っていない。空知は小さく身構える。
「抜け駆けしやがって。プリンセスに会うために、今朝は俺を出汁に使っただろ? キャプテンから聞いたぞ」
皆に気づかれないように正門へ向かったはずなのに。キャプテンにはバレバレだったのかと空知は苦虫を噛み潰す。
「そんでもって、プリンセスはお前の知り合いだったんだって?」
「はっ? 違うよ。誰だよ、そんなこと言ってんのは!?」
「キャプテンだよ。北門越しに聞いたって言ってたぞ、『空知くん』って女の声がするのを」
まさか、あれを聞かれていたとは!
正に鬼のキャプテンだと空知は恐怖する。
「俺も驚いたんだよ、見知らぬ女の子に名前を呼ばれてさ」
「ふーん」
疑いの目で空知を見る直之。
「だから本当だってば。信じてくれよ」
腕組みをする直之に、空知は目で訴えた。数秒間の沈黙の末、仕方ねえなと直之は表情を崩す。
「それで? どんな感じだった? プリンセス」
むちゃくちゃ可愛かったよ、と言いたくなる衝動をぐっと堪え、空知は彼女の制服に言及する。
「彼女、一高の制服を着てた」
「えっ……」
空知の言葉に、直之は絶句した。
「マジかよ、彼女、ウチの生徒じゃなかったのかよ……」
それはまるで、追い求めていた女性が高嶺の花であるかのように。
直之はすぐに気を取り戻し、握る拳に力を込めた。
「でも俺はあきらめねえ。プリンセスは正にプリンセスだったんだ。そんな彼女は、俺が蹴った缶を柔らかなその手で回収してくれるんだ」
空に向かって両手を広げる直之。
幸せなやつだと空知は呆れる。まあ、彼の蹴った空き缶をプリンセスが回収していったことは紛れもない事実だったわけだが。
「名前を呼ばれたっていうのに、本当に空知はプリンセスのこと知らなかったのか?」
「ああ、見たことがない顔だった」
「それって、空知がプリンセスのことを知らなくても、彼女は空知のことを知っていたってことだろ?」
「まあ、そういうことになるわな」
「もしかしたら、空知って一高でも有名人なんじゃねえの? あいつのせいでさ」
「あいつって……あいつか。やっぱ、そう思うか? 俺もそれしかないって気がしてたんだが……」
――二高に通う空知が、一高で有名人となる可能性。
入学して間もない空知にとってはかなり難しいことだと思われるが、二人には思い当たる節があった。
上川十勝(かみかわ とかち)。日名川第一高校の一年生。
空知と瓜二つの、双子の兄の存在だ。
十勝が一高で双子であることを吹聴していれば、空知はたちまち有名人になれるに違いない。
『実は俺、双子なんだけど』
それは耳元でささやくだけで、どんな女の子だって興味を持ってくれる魔法の言葉だから。
ちなみに空知と十勝と直之の三人は、中学校が一緒だった。
「きっと冷やかしに来たんじゃねえの? 十勝から聞いてさ、双子の弟が二高にいるって」
「おい、もう一回言ったら殴るぞ、直之」
双子であることを言われるのが最も嫌いな空知だった。
一方、十勝だって同じ気持ちのはず。その十勝が自ら双子であることを言いふらすとは、どうしても空知には思えなかった。
「なんだよ、俺に怒るなよ。もしそうなら、悪いのはプリンセスの方じゃねえかよ」
「…………」
ゴミ箱の前で出会った彼女。
あの時の驚きの表情は、冷やかしに来て偶然会えたという驚きだったのか?
でも、彼女は「なんで?」と言った。冷やかしだったら、もっと別の言葉になるような気もする。
「悪かったよ、双子のこと言ってさ。でも、今朝の借りはきっちり返してもらうぞ。今度は空知が缶を外す番だからな」
「ああ、わかったよ……」
その日の空知は、部活も集中することができなかった。
『きっと冷やかしに来たんじゃねえの?』
今度は、直之の言葉がグルグルと頭の中を回って離れなかったからだ。
空知は全力で否定したかった。あんな可愛い子はそんなことしないって。
でも考えれば考えるほど、直之の推測が正しく思えてくる。
授業中、空知も同じことを考えていたが、その時は自分自身で否定した。十勝だって双子であることをあまり他人には知られたくないはず――という自分勝手な推測に基づいて。
しかし、他人として客観的に状況を見ることができる直之は、空知の懸念をあっさりと肯定してしまったのだ。少なくとも、初対面のプリンセスが空知の顔を知っているということは、彼女が普段から双子の兄、十勝に会っているとしか思えない。
「空知、空知、空知っ!」
だから、部活後の缶蹴りも身が入らなかった。
――冷やかしに来るようなやつには会いたくない。
適当に蹴った朝のまったりブラック缶は、レンガ塀の向こう側でカーンと甲高い音を立てた。
「おいおい、空知。真面目にやれよ!」
「そうだよ、みんなでパーフェクト狙ってんだからさ」
先輩方にも、気の無い蹴りであったことはバレバレだ。
「申し訳ありません! 空知、缶を拾いに行ってきます!」
まあ、これで直之との約束通りになった。
こんな嫌々な走りをプリンセスは影から見ているのだろうか。
しかし三分後に北門に着いた空知は、そこで見た光景に驚く。転がったはずの朝のまったりブラック缶が、ゴミ箱の横のアスファルト上に立っていたのだ。
おまけに、缶には付箋紙が貼ってある。
『今朝のお礼がしたいので、七時に駅前で待ってます』
薄ピンクの付箋紙には、綺麗な文字でそう書かれていた。
◇
急いで部室に戻った空知は、制服に着替え、駅へと向かう。
二高から駅までは歩いて十五分。一キロちょっとの道のりだ。まだ六時四十分だから、ゆっくり歩いても余裕がある。
今頃、直之はレンガ塀の影から北門を観察しているのだろう。が、おそらくプリンセスは現れない。だって、彼女も空知に会うために駅に向かっているはずだから。
直之に申し訳ないと思いながら、ちょっとした優越感に浸る。プリンセスは直之じゃなくて自分を選んだのだと。
しかし、それは最初のうちだけだった。
だんだんと湧き起こってきたのは、ガツンと文句を言ってやろうという決意。双子をバカにするやつは絶対に許せない。空知だって、双子で生まれたくて生まれたわけじゃないし、十勝とそっくりになりたくてなったわけでもない。
しかし駅が近づくにつれて心臓の高まりを抑えきれなくなると、また別の感情が空知の頭を支配し始めた。
汗臭くないかとか、髪が砂埃でゴワゴワしてないかとか、もっと丁寧に顔を洗ってくればよかったとか。
「空知くーん、こっちだよ!」
そんな空知を、プリンセスは手を振って迎えてくれた。とびっきりの笑顔で。
白のノンスリーブのトップス、紺のキュロットスカート、そして足元の白いサンダル。
デートの待ち合わせって、空知にそんな経験はなかったが、こんなにもドキドキするものなのかと胸を熱くする。
「今日は来てくれてありがとう。お気に入りのお店があるから、そこに行かない?」
プリンセスに連れられて入ったのは、駅前のビルの二階にあるお洒落な喫茶店だった。
「今朝は本当にありがとう。不覚にもゴミ箱に落ちてパニクっちゃった。えへへ……」
向かい合って席に座ると、最初にプリンセスが切り出した。
「君が来てくれなかったら、私、死んでたところだよ~」
そんなバカなと思いながら、空知はぐっと笑いを堪える。
確かに彼女は可愛い。冗談を言う姿なんて、ずっと眺めていたくなるほど愛らしい。
でもそんな色香に騙されてはいけない。双子を冷やかす行為は、決して許しておけないのだ。
「今日は何か奢らせて? ほら、部活で疲れた体にも甘いものがいいって言うでしょ?」
こんなやつに奢ってもらうわけにはいかないと、空知はついに口火を切った。
「申し訳ないけど、今日はやめておく。俺は君のこと、何も知らないんだけど。それに俺のことは、十勝に聞いたんだろ?」
つい強い口調になってしまう。
空知に気圧されて、彼女は表情を曇らせた。
「と、十勝……くん?」
「とぼけなくったっていいよ。俺の双子の兄貴。日名川第一高校の一年生。俺のことは兄貴から聞いたんだよなッ?」
「えっ? う、うん……」
消えゆくような彼女の声。一瞬、可哀想と思ったが、ここははっきりさせておいた方がいい。
「何で缶を拾ってるのか知らないけど、双子をバカにするんだったら俺は許さない。もし、他の理由があるんだったら、教えてくれないか?」
しばらく俯いて黙っていた彼女だが、やって来た店員に二人分の飲み物を注文すると、ポツリポツリと話を始めた。
「私ね、北門の近くに住んでるの。名前は日高アキ。日名川第一高校の一年生」
道理で、と空知は納得する。北門の近くに家があるなら、犬を散歩する姿を直之に目撃されても不思議ではない。
「それでね、パパに命令されてるの。空き缶を拾ってこいって。遺伝子検査をするからって」
「遺伝子検査?」
聞きなれない単語に、空知は困惑する。
「うちのパパ、遺伝子分析が専門なの。聞いたことない? 日高博士って?」
日高、日高、日高、と頭の中で復唱して、ようやく空知はある人物に思い当たった。
「日高博士って、ええっ、テレビでよく見るあの日高博士!?」
「うん」と小さくうなづくアキ。
空知は驚いた。
日高博士といえば遺伝子捜査の権威で、民放の警察の特別捜査に関する特番や、某国営放送のその手の科学番組には必ずといっていいほど出演している。最近ではコメンテーターとしても引っ張りダコで、週末の情報番組で見かけることも多い。ダンディで、おばさま方にも人気の科学者だ。
言われてみれば、目の前のアキは目元などが日高博士とそっくりかもしれない。
いきなり飛び出した有名人の名前に、空知はすっかり恐縮した。
「そ、そ、それで、その日高博士は俺たちの缶を集めて、何をしていらっしゃるんでしょう……?」
まさか、塀越し缶蹴りという悪事を暴かんとする国家権力の差し金なのか。
動揺が空知の言葉を震わせる。
一方、アキの方は顔を真っ赤にして俯いていた。
「そ、そ、それは、とっても恥ずかしいことなんだけど……」
そして消え入りそうな小さな声でこう言った。
「気になってる人がいたら、遺伝子検査をしたいから、その人が飲んだ空き缶を持ってこいってパパが言うから……」
そうか、そういうことだったのか。
キーワードは遺伝子だったんだ。
空知はやっと理解する。彼女の目的は双子をからかうことではなくて、十勝と同じ遺伝子が欲しかっただけなのだと。
双子であることを十勝が言いふらすわけがないと思っていた空知は、アキの説明を聞いてすべてが腑に落ちたような気がした。きっと彼女なりに調べたのだろう。十勝に双子の弟がいることや、弟である空知が二高に通っていることを。十勝の中学校時代の同級生に聞けば、簡単に分かることだ。
そして同時に、彼女に対する熱意がすうっと冷めていくのを感じていた。双子の弟の唾液を分析することによって、兄を遺伝子レベルで品定めしようなんて、この親娘の行動はマニアックすぎて恐ろしい。
「遺伝子検査って、そんなにすごいのか?」
だから空知はアキの真意について追求するのをやめた。自分に気の無い女の子の気持ちを覗いても意味がない。
「そりゃ、すごいわよ」
アキは目を輝かせながら喋り出す。
「これはパパの受け売りなんだけどね。空き缶に付いた唾液から遺伝子を抽出すると、その人のいろんなことが推測できるの。瞳や髪や肌の色、顔の形、しみやそばかすの有無までわかっちゃうんだから」
ほんのちょっとの唾液でそんなことまで判明するとは、なんとも恐ろしい。
それにしても、さすがは日高博士の娘。遺伝子の話が止まらない。
「それでね、そんな遺伝子情報を利用して、香港のNGOが二〇一五年にすごいことをやったの。なんでも、『この人がポイ捨てをした人です』って、遺伝子情報から割り出した合成顔写真をポスターにして街中に貼ったのよ。ポイ捨てした人、真っ青よね。パパはその上をいく研究をしようとしているみたいなんだけど」
親も親だけど、アキも本当に遺伝子のことが好きなようだ。
好きなことを話している女の子は本当に可愛い。
そんなアキの姿を眺めているだけで、あっという間に一時間が過ぎてしまった。
「ごめんね、私ばっかり喋っちゃって」
「いや、構わないけど」
「こんな私でよければ、また会ってほしいな……」
今日は遺伝子の話ばかりになってしまった。アキだって、十勝のことをもっと知りたいはずだ。
でも会うためだけに、メールアドレスやラインを交換するのもなんだか違うような気がした。アキと十勝が付き合い始めたら、それまでのやりとりを見るのが辛くなるのは明らかだったから。
だから空知は提案する。
「だったら、また空き缶に付箋紙を貼ってよ。朝のまったりブラック缶にさ。部内では俺だけが飲んでるコーヒーだから」
これなら後腐れもない。
「うん、わかった」
こうして、空知とアキの不思議な関係が始まった。
◇
『七時に狐寝公園で待ってます』
アキが付箋紙で指定するのは、いつも北門の近くの小さな公園だった。
空知が着替えて公園に行くと、ポメラニアンを散歩させるアキが待っていた。直之の言葉通り、アキに負けないほど可愛い犬だった。
住宅街の中にある公園にひぐらしの鳴き声が響く。紫色に染まる空と灯りがともり始めた外灯。隣接する住宅から夕飯の匂いが漂ってくる。
二人は公園のブランコに並んで座り、四方山話をする。座高も空知の方が二十センチくらい高い。最初にアキが訊いたのは、部活後の缶蹴りについてだった。
「レンガ塀の向こう側から空き缶を投げ入れるなんて、面白いことするよね」
どうやらアキは、空き缶を投げていると思っているようだ。
「ああ、あれね。あれって投げてるんじゃないんだよ、蹴ってるんだ。だって俺たち、サッカー部だし」
「へえ~、蹴ってるんだぁ……。それって、投げるよりも難しくない?」
「そりゃ難しいよ。でもコツさえ掴めれば、意外と簡単なんだよ」
「と言ってる割には、たくさん外してますけど? 朝のまったりブラック缶」
いたずらっ娘の笑みを浮かべ、上目遣いで空知の表情をうかがうアキの瞳に、空知はドキッとする。
いやぁ、それを言われると辛い。アキに会いたくて外したこともあると白状したくなる気持ちを、空知はすんでのところで飲み込んだ。
次は、空知がアキに、十勝のことを話してあげる番だった。
一緒にサッカーを始めたこと、小学校では十勝の方が上手かったが、中学校では空知の方がレギュラーだったこと。高校は別々になってしまったが、お互いサッカー部に所属していることなどなど。
そんな話を、アキは興味深そうに聞いてくれた。
「アキは、兄貴のどんなところが好きになったんだ?」
するとアキは空を見上げながら答える。一番星がチラチラと輝き始めていた。
「そうね、部活で走ってるところかな」
アキは、一高サッカー部の練習を見に行っているのだろう。
「額に汗を光らせながら、前を向くあの瞳にキュンとくるの……」
わずかに頬を赤らめる乙女の横顔に、空知は十勝のことがうらやましくなる。
「それにね、話していてもとても楽しいし」
「俺と話すよりも?」
そう言ってから、空知はしまったと後悔する。それは、十勝よりも優位に立ちたいという気持ちの裏返しだったから。
双子を比較しないで欲しいという、空知自身の信念にも矛盾する行為であった。
「うーん、空知くんと話すのと同じくらい楽しいかな」
そんな空知の気持ちを知っているのか、アキは曖昧な言葉で誤魔化した。
小悪魔的な笑顔に、空知の心は揺れ始めている。
「それで? いつ告白するんだよ?」
だから、アキにはさっさと十勝に告白して欲しいと空知は願う。このままでは、本当にアキのことが好きになってしまいそうだ。
「もうちょっと。もうちょっと待って。まだ、パパの分析結果が出ていないから……」
おいおい、それも遺伝子次第なのか? もし結果が悪かったら告白をやめるのか?
そもそも告白って、気持ちの問題じゃないのかよ。
すっかり呆れてしまう空知だった。
空知がアキと会うようになって、部活後の缶蹴りにある変化が起きていた。
決定率でいつも最下位を争っていた空知と直之だが、直之の成績がぐっと上がり、一方の空知は缶を外すことが多くなったのだ。
「空知よ。プリンセスに会いたいからって、最近外し過ぎじゃねえの? まあ、俺の方は好調だけどな」
「直之だけには言われたくねぇ。おかしいな、ちゃんと入ってるはずなんだが……」
そうなのだ。
絶対これは入った、と確信するコースでも外れる時がある。そして、そういう時は必ず、空き缶に付箋紙が貼ってあった。
――もしかして、アキがわざと落としてる?
そのことを空知が訊いてみようとした日、アキから重大な発表があった。
二人の不思議な関係が終了するような、重大な発表が。
◇
「ここに宣言します! 日高アキは、明日、好きな人に告白します!」
狐寝公園の滑り台の一番上に立ってアキは宣言する。右手を高々と宙に突き出して。
ポメラニアンを託された空知は、ついにこの日が来たかと寂しく思う。夕陽に照らされた彼女は、本当に眩しかった。
「私、言っちゃった! ついに、言っちゃったよ!」
滑り台を滑り降りたアキは、空知の前に駆け寄ると大きく息をした。
「いやいや、まだ言ってないだろ? 本番は明日なんだから」
「でも、これで時計は動き始めたんだよ? もう言ったも同然だよ」
「それより検査の結果はどうだったんだ? 告白に踏み切るってことは、結果は良かったんだよな?」
「うん。バッチリだって」
アキは空知に向かって親指を立てる。
「そうか、良かったな……」
そう言いながら空知はアキから目をそらす。複雑な気持ちに包まれながら。
アキが検査に用いたサンプルは、もともと空知の遺伝子なのだ。それが十勝への告白の足がかりになったと思うと、なんだかやるせない気がした。だから空知は、瞳を輝かせる彼女に向き合っていることができなくなっていた。
「私……怖い……」
「大丈夫だよアキなら。十勝の目を見て告白すれば、絶対成功する」
自分はアキから目をそらせているのに何を言ってるんだろうと空知は思う。
彼女の瞳の輝きは、明日にはもう十勝のものになってしまうのだ。
「うん、そうする。それでダメだったら、無理やりチューしちゃう」
「チュう!?」
驚いて空知はアキを見た。おどけて唇を突き出す彼女の仕草に可笑しくなる。
「せめてもの記念に、遺伝子くらいはもらっておかなきゃね」
この期に及んで遺伝子を持ち出すとは、どれだけ好きなんだろう。
「それは封印しておいた方がいいぜ。ドン引きされるぞ。いいよ、告白を断ったら俺が十勝を殴ってやる」
「それも封印しておいた方がいいと思うけど?」
そして二人で笑った。
その時だった。
「なんだ、公園が騒がしいと思ったらアキだったのか……」
一人の初老の男性が空知たちに近づいてきた。
見たことあるような顔――と思ったら、日高博士だ。アキのポメラニアンが嬉しそうに吠え始めた。
おおおおおおおおっ、テレビで有名なあの日高博士だよ。本物が、動いて、歩いて、しゃべってるよと、得体の知れない興奮が空知の体の中を駆け上がる。
一方、アキの表情は急に硬くなる。「今日は早く帰ってくるはずじゃなかったのに」と小さくつぶやくと、「じゃあね」と空知に手を振って、ポメラニアンを連れてそそくさと公園の外に向かって歩き出した。
「おいおい、アキ。彼のことを紹介してくれてもいいじゃないか?」
博士はアキを引き留めようとする。が、彼女はそっけない言葉を返した。
「あっ、彼、中学時代の同級生だから。ちょっとそこで会っただけだし」
さっきまでとはまるで人が変わった態度。
なんでそんな嘘を言うのだろうと不思議に思った空知は、博士にちゃんと挨拶をしなくてはと意気込んだ。
「日名川第二高校サッカー部の上川空知と言います。よろしくお願いします!」
体育会系らしい挨拶。
それが仇になるとは知らずに。
空知の挨拶を聞いて、博士の表情がみるみる険しくなる。そして博士はアキを振り返った。彼女は今にも逃げ出しそうに背を向けていた。
「待て、アキ! あれほど二高生には関わるなって言ったのを忘れたのかっ!」
博士の怒号が公園に響き渡る。
ビクリとする空知とアキ。博士は、テレビでは決して見せられないような鬼の形相だった。
そして博士は空知を向く。
「申し訳ないが、君も二高生ならアキには関わらないでくれ」
その言葉にカチンときた空知は、恐れを知らずに反論した。テレビで見る博士はいつも優しそうだったし、無理難題を言い出す人には思えなかったからだ。
「それはなぜなんですか? 教えて下さい」
博士の怒りに火を注ぐことになるとは知らずに。
「私に歯向かうのかね? だから嫌なんだよ、二高生は!」
博士の剣幕にたじろぐ。そんな空知に構わず、博士はまくし立てた。
「君は知らんのか!? 十年前、二高生が私の家にしたことを。ちょうど私がテレビに出演し始めた頃だ。冷やかし半分の連中がわんさか押し寄せて来て、大変な目に逢ったんだ。壁への落書き、ゴミのポイ捨て。それだけだったらまだいい。一番許せなかったのは、就学前だったアキへの嫌がらせだ。声をかけるわ、写真を撮るわ、アキの身に危険を感じなかった日はなかった」
そんなことがあったとは知らなかった。
「だから北門を閉鎖してもらったんだよ。それでやっと、我が家に平和が訪れた」
ようやく理解する。北門が閉ざされてしまった理由を。
「復讐と言ったら言葉が悪いがね、アキに集めさせているんだよ、二高生がポイ捨てした空き缶を。ポイ捨てする奴は、根本的にどこかイカれていると私は思う。それを遺伝子レベルで解明したくてね」
その言葉に空知の頭は真っ白になる。
――なんだよ、気になる人の遺伝子を調べてもらってたんじゃなかったのかよ。
――ポイ捨てする人間の遺伝子を調べるためだって?
――結局アキは、俺たち全員をバカにしてたってことなんじゃないか。
アキが今にも逃げようとしているのも逆効果だった。そのことを知られたくなかったから、この場を去ろうとしているとしか空知には思えなかった。
悔しくて、悲しくて、裏切られた気持ちで一杯になって、空知は地面を見ながら握りこぶしに全力を込める。そうしなければ、涙が溢れそうだった。
「アキっ! 昨日検査結果を渡した気になる人の遺伝子って、まさか彼のじゃないだろうな。一高生っていうのは嘘だったのかっ!?」
「ッ…………」
それは嘘であって嘘ではない。
アキは言葉を詰まらせた。即座に反論しなかったのは、空知への配慮なのか。
その反応に彼女の最後の誠実さを見た空知は、腹に力を込めて代弁する。自分に構うことはないとのメッセージを込めて。
「一高生というのは本当です! アキさんは一高生のことが好きなんです。俺はその相談に乗っていただけなんです」
本当にこれで終わりなんだと、涙を堪えながら。
「そうか、君には一応礼を言っておく。が、お願いだからもうアキには関わらないでくれ。行くぞ、アキ」
博士に腕を掴まれて、強引に連れて行かれるアキ。
「ごめんね、空知くん。ごめんね……」
空知は夕暮れの公園に一人残された。
◇
次の日。
朝練が終わると、いつものように北門裏で缶蹴りが始まる。
博士にあそこまで言われたんだ、さすがに空知は参加する気が起きなかった。
『おいおい、みんな、聞いてくれ。俺たちが蹴った缶は、ポイ捨て遺伝子の研究材料になってるんだぞ』
そう言って、缶蹴りをやめさせることも考えた。
しかし先輩方の真剣な表情を見ていると、なにか違うような気がしてくる。
空知たちは、決してポイ捨てをしているわけではない。
飲み終わった缶をゴミ箱に入れようとしているだけなのだ。その方法が普通とは変わっているだけで。
それに、ゴミ箱から外れてしまった缶は必ず拾いに行っている。ポイ捨て状態は、たったの三分間だけなのだ。
しかしそんな正義を振りかざしても、受け取る側が悪意を持っているのであれば意味がなかった。振り上げた拳の行き場がない、そんな虚しさを空知は感じていた。
それに今日は、アキが告白を決行する日だ。
彼女にとって相談役の空知はもう用無しなのだ。
アキが空知のことを必要としてくれるのであれば、博士と戦う勇気も湧いてきたことだろう。良い大学に入って、博士を見返すことも考えたかもしれない。
しかし、その役目は今夜から十勝に変わる。しかも十勝は一高生。たったそれだけのことで、十勝は博士から免罪符をもらえるのだ。
悔しくて、悲しくて、涙が溢れてきた。
空知が一高を受けることができなかったのは、部活を頑張り過ぎたから。中学のサッカー部でレギュラーだった空知は、いつまでもみんなから必要とされる存在だった。それが楽しくてサッカーを今でも続けている。最後に別れが来ると知りながら、アキの手助けだってしてあげた。しかし、こんな結末を迎えるなんて、思いもしなかった。
せめて、アキの告白が成功するように祈ろう。
十勝が告白を断ったらぶん殴ってやるって、彼女と約束したのだから。
そう決意した空知は、放課後の部活を休んで家で十勝を待つことにした。
その日、十勝が帰宅したのは夕方の六時前だった。
すっかり待ちくたびれた空知は、いきなり十勝に食ってかかる。
「おい、兄貴。今日、なんかいいことあったか?」
単刀直入すぎるような気もしたが。
「いいこと? 特にないけど? まあ、普通かな」
十勝はいたって平常だ。
表情にも動揺は見られず、嘘を言っているようには思えない。
学校でアキに告白されたのであれば、何かしらの反応があるはずだった。
「じゃあ、飯を食ったらどこかに行くのか?」
「いや、今日はずっと家にいるけど? ていうか、何なんだよ、いきなり絡んできて」
夜に会う約束もないらしい。
いったいどういうことなんだ? アキは今日、告白するって宣言したのに。
これじゃあ、十勝のことをぶん殴れないじゃないか!
「だったら、アキから電話とかメールとかラインが来ても、絶対断るんじゃねえぞ」
わけがわからないという顔をする十勝。
「なんだよ、それ。ていうか誰? アキって……」
「えっ?」
予想外の返事に空知は言葉を失った。
◇
空知と日高博士が鉢合わせをした夜、アキは自室で泣きながら手紙を書いていた。
――せっかく、本当のことを言おうと決心したのに。
――せっかく、嘘をついていることを謝ろうと思ったのに。
決心を実行する前に、空知と会っているところを父親に見られたのは致命的だった。二高生のことを極度に嫌っている父親に。空知を公園に呼び出す日は、父親の帰りが遅くなる日をちゃんと選んでいたというのに。
もう空知には会わせてもらえない。こんなことになるなら、嘘なんてつくんじゃなかったとアキは深く後悔していた。
『空知くん。私はあなたに謝らなくてはならないことがあります。
それは嘘をついていたことです。十勝くんが好きという嘘を。
でも、空知くんだって悪いんだよ。勝手に私が十勝くんのことを想っていると勘違いしちゃうんだから。
私は最初から、空知くんだけを見ていました。だって、サッカー部の缶蹴りを見ていただけなんだから。
だから、十勝くんという双子のお兄さんの存在も、全く知りませんでした。
でも不思議ですね。会ったこともない十勝くんの名前を出すと、あなたへの想いを自然と口にすることができるのです。
額に汗を光らせながら前を向く瞳が好きって、全部、空知くんのことなんだよ。
あなたの前でそのことを話す私が、どれだけドキドキしていたか分からないでしょう。
そんな私の話を、あなたは真剣に聞いてくれた。それだけで十分なんです。
きっかけは、パパのポイ捨て遺伝子の研究でした。北門で空き缶を集めている時に、走って来る空知くんを見かけたのです。すぐにあなたに興味を抱いた。そして、あなたの遺伝子にも。
悔いているのは私の心の弱さです。パパに検査をお願いしたあなたの遺伝子について訊かれた時、十勝くんの遺伝子と偽ってしまいました。ちゃんと真実を言うべきだった。パパと向き合って戦うべきだった。でもそれは恐くてできなかった。
こうなってしまった以上、パパは絶対許してくれません、私が空知くんと一緒にいることを。だからこれで終わりにしましょう。
初めて会った日のこと覚えていますか? 助けてくれたのは直之さんと思いきや、あなただった。神様がくれたこの一ヶ月間のことを、私は一生忘れません。
今までありがとう。さようなら』
この手紙を、レンガ塀を越えて来た朝のまったりブラック缶に入れれば、すべてが終わる。
そう思うと、どうしようもなく涙が溢れてきた。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……」
時間をかけて書き上げた手紙を、アキはくしゃくしゃと丸めていた。
空知のことが諦められない。だって本当に好きだから。
「せっかく、本当のことを言おうと決心して、空知くんに宣言したんじゃない」
どうせ終わりだったら、約束を実行してから考えよう。
「真実はちゃんと会って話したい。いや、話さなきゃいけないと思う。何日待ち続けたとしても」
アキは、北門の前で空知を待ち続ける決意を固めていた。
◇
空知は思わず、家を飛び出していた。
さっきの十勝の言葉の意味が分からない。
『ていうか誰? アキって……』
十勝を追求してみたが、アキという女の子には会ったこともないし、話したこともないという。
そもそも十勝は、アキという人物の存在自体を知らなかった。知っているのは、日高博士の娘が一高に通っているらしいという情報だけだった。
これは一体、どういうことなんだ?
アキは話したこともない十勝に告白しようとしていたのか?
いや、夜に会う予定もない、連絡先も知らないアキに、十勝が告白されるとは思えない。
そもそもアキは、十勝との会話が楽しいって言ってたじゃないか。
それは全くの嘘だったのか? 彼女は誰に告白しようとしているんだ?
答えを知りたければ北門へ急げ。
空知の直感がそう叫んでいた。
時間も六時半。ちょうど空き缶蹴りが行われている頃だ。
北門が見える路地に着くと、空知は住宅街の影に隠れて様子を伺う。北門の前では、一人の女の子がレンガ塀の上をじっと見つめていた。
アキだ。
彼女はやっぱりここにいた。
『直之、直之、直之!』
北門の向こう側からはコールが聞こえてくる。これから直之が蹴るのだろう。
コンと小さな音がしたかと思うと、レンガ塀の向こうから空き缶が飛んできた。午後のシャキッとコーヒー缶が、くるくると回りながら。
が、どう見ても缶はゴミ箱に入りそうもない。
「って、えっ!?」
その時、アキが驚きの行動をとった。
午後のシャキッとコーヒー缶をキャッチしたかと思うと、ゴミ箱の中に投げ入れたのだ。
カシャリと金属音が響く。
『おおっ、入ったぞ!』
『今日は空知がいないからパーフェクトだな』
『やっぱりパーフェクトは気持ちがいい!』
やっと謎が解けた。
直之の決定率が上がったのは、アキのおかげだったんだ。
当のアキは、次の缶に備えてレンガ塀に向かって両手を広げている。手の甲に、薄ピンクの大きな付箋紙を貼ったまま。
しかし、サッカー部員の声を聞いて、もう空き缶は飛んでこないことを知ったアキはガクっと肩を落とした。
空知はアキの付箋紙に目を向ける。
そこには赤いマジックで大きく文字が書かれていた。『空知くん、大好きです』と。
アキは毎日、そうやって空知を待っていたのだ。
会いたい日には、わざと缶を落としていたに違いない。空知をこの場所に呼ぶために。朝のまったりブラック缶に付箋紙を貼るために。
熱いものが空知の胸に込み上げてくる。
「アキっ!」
空知は思わず叫んでいた。
そして北門の前に姿を現した。
「空知くんっ!」
愛しい顔が空知を向く。
その目には涙が溢れていた。
「ごめんね、昨日は本当にごめんね、空知くん……」
「そんなことよりも、一体どういうことなんだ? 兄貴に聞いたら、アキには会ったこともないって言うからびっくりして」
「本当にごめんなさい。私、十勝くんには会ったことがないの。ずっとあなただけを見ていました」
アキは涙を拭って、空知のことを見上げる。
「勇気を出して言います。空知くん、私はあなたのことが好きです」
しっかりと空知の瞳を見つめたまま。
「てっきり俺、アキは十勝のことを……」
空知はまだ、今の状況を信じられずにいた。
つい三十分前までは、アキは十勝に告白するものだと思っていた。
その告白が自分に向けられたものだったとは、まるで夢でも見ているような、タヌキに化かされているような、すぐに手に取って良いものなのかどうか分からなくなってしまったのだ。
空知は言葉を詰まらせ、北門前を静寂が包み込む。
――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ……。
静寂を破ったのは、アスファルトを転がる空き缶だった。
――午後のシャキッとコーヒー。
あ然と缶を見つめる空知に向けて、レンガ塀の向こう側から檄が飛ぶ。
『男らしくないぞ、空知! うっぷ』
『そうだ! 俺たちのプリンセスを泣かせるな!』
『アキちゃん、立派だったよ!』
やんややんやと二人に声が掛けられる。
なんだよ、缶蹴りが終わって解散したんじゃなかったのかと空知が顔をしかめる一方、アキは北門に向くとみんなに声を掛けた。
「ありがとう、直之さんっ! そして皆さん!」
北門の向こう側で歓声が湧き上がる。
『おおーーーっ!』
『愛してるよっ、プリンセス!』
『アキちゃん、最高っ!』
しかし空知は疑問で頭が一杯だった。
アキは転がった缶を見ただけで蹴った人間を言い当てた。
「アキ、なんでこの缶が直之のだって分かったんだ?」
「だって、いつも蹴る前に名前を連呼してるでしょ? それに、銘柄がみんな独特だから、缶を見れば蹴った人が分かっちゃう」
あはははは、そういうことかと空知は苦笑する。
すると、声と一緒に、空き缶がレンガ塀を越えて飛んできた。
『じゃあ、これは?』
「これは、ブレブレブレンドだから、誠也さん!」
『今度は?』
「極寒ミルクティーだから、玲二さん!」
『俺は誰だ!?』
「クール甘酒だから、武志さん!」
『これは難しいぞ!』
「この濃厚ストレートは何人かいるけど、缶が回転していないから修平さん!」
『空知、部活サボっただろ?』
「これはスペシャルビターだからキャプテンさん。名前と顔は分からないけど」
そうか、キャプテンは「キャプテン」としか連呼されないし、一度もゴミ箱を外したことがないから顔も見たことがないってわけか。ていうか、ヤバっ! 明日が恐い。
『おおおおおっ、すべて正解だ!』
『アキちゃん、最高!』
『それでこそ、俺たちのプリンセス!』
それにしても先輩方はみんな蹴るのが上手い。綺麗な軌跡を描いて、どの缶もゴミ箱の中に吸い込まれていく。
アキもアキだ。飛んで来る缶を瞬時に見分けるなんて神業に近い。しかも缶の回転まで熟知しているなんて、サッカー部員も真っ青だ。
「空知くんから聞いているかもしれませんけど、みなさんの缶は決してポイ捨て空き缶として扱っていないので、安心してください!」
レンガ塀の向こう側へ宣言するアキ。その言葉に、空知は自分の耳を疑った。
「それってどういうことなんだ? 博士が本当にそうしてるのか?」
博士はアキに、ポイ捨て空き缶を拾ってこいと命令していた。強い恨みと悪意を持って。
だから空知は、今のアキの言葉が信じられなかった。
「だって、これってきちんとゴミ箱に捨てられてるじゃない。そういう正常な缶も取ってきて、比較分析することによって、初めてポイ捨て遺伝子について研究できるのよ。これって科学の基本。もちろんポイ捨て空き缶も拾ってるわ、正門前でね」
空知は、アキに謝りたい気持ちで一杯になる。
アキは決して、みんなのことをバカにしていたわけじゃなかったんだ。
逆に、良い遺伝子のサンプルとして、みんなのことを扱ってくれていた。
「念には念をいれて、ここでは名前と顔が特定できる空き缶も採取していたの。分析結果に問題があっても後で検証できるように。そしてその中に空知くんがいた」
アキは空知のことを熱く見る。
「空知くんがたくさん外してくれたから、私は空知くんを好きになった」
褒められているのか、けなされているのかわからない。
「私の想いを断るなら、せめて空知くんの遺伝子をちょうだい?」
そう言って、アキは静かに目を閉じる。
空知は動揺する。いやいや、その言葉はこの場面ではヤバいから。
『うわっ、過激!』
『こんな場所でやるのか!?』
『アキちゃんダメだ。君には清らかな体でいて欲しい!』
ほら、みんな誤解してるじゃないか。
だから空知は声を上げる。
「空知、退散します! 大切な、大切なこの人と一緒に!」
そしてアキの手をとって駆け出した。
アキも一緒に走りながら、満面の笑みを空知に向ける。
「アキ、博士は手強そうだぞ」
「大丈夫、今度は私も戦うから。空知くんと一緒なら決して負けない」
「ああ、俺も頑張る!」
ぎゅっと握る彼女の手の温もりを感じながら、この笑顔を大切にするために良い大学に入って博士を見返してやろうと空知は誓う。勉強だってアキに教えてもらえばいい。
空知が博士に認めてもらえる時――。
それは北門が十数年ぶりに開く日になるんじゃないかと空知は希望を胸に抱くのであった。
おわり
ライトノベル作法研究所 2017夏企画
テーマ:『ゲート』
昭和初期の工場跡地に建てられたこの高校は、古びたレンガの塀に囲まれている。
その高さは三メートルほど。
工場の機密を守るために、そんな高さにしたのだろうか。現在では高校生の出入りを許さない高い壁となって、ぐるりと学校を取り囲んでいた。
レンガ塀の南側は県道に面し、校舎の前には立派な正門があった。
一方、敷地の東、北、西側は、静かな住宅街に面している。
そんな日名川第二高校には開かずの門があった。
――北門。
レンガの壁に埋め込まれる形でひっそりと佇む北向きの鉄製の扉は、十年前から一度も開かれたことはない。
北門の隣には、清涼飲料水の自動販売機がある。
門が開かれていた時代に、二高生をターゲットに設置されたものだろう。しかし門が閉ざされてしまった現在では、住宅街を散歩する人が時たま利用する程度だった。
ここで注目したいのは、この自売機ではなく、隣の古ぼけたゴミ箱である。
空に大きく口を開いた、よく公園などに置いてある金属メッシュの円形ゴミ箱。
そこに捨てられる空き缶の数には、不思議な特徴があった。というのも、隣の自売機で売られる缶よりはるかに多い缶が捨てられるのだ。しかも、自売機で売られていない銘柄も含まれている。
家庭ゴミが持ち込まれた、と思う方もいるだろう。しかし、増やされる缶はビニール袋に入っているわけでもない。毎日毎日、ちょっとずつ増えているのだ。
それもそのはず、増える空き缶はレンガ塀の内側から投げ入れられたものだったから。
――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ……。
今日も放課後になると、レンガ塀の内側から空き缶が飛んでくる。
当然、すべての缶がゴミ箱に入るわけでもなく、標的を外れた空き缶は甲高い音を立ててアスファルトを転がった。
「今日も始まった……」
その様子を住宅街の影から観察している一人の少女がいた。
彼女の視線は、転がる缶に向けられている。
「あの人が来る……」
およそ三分後に訪れるであろう光景に、少女は胸をときめかせる。
これは、そんな不思議な少女と、ある男子高校生との物語――
◇
「空知、空知、空知っ!」
日名川第二高校サッカー部室の近く、北門裏ではコールが湧き起こっていた。
上川空知(かみかわ そらち)。一年生。
名前を連呼された彼は、空き缶を一つ手にして緊張した面持ちで初夏の夕空を見上げる。
――朝のまったりブラック。
これからその銘柄の空き缶を蹴り上げるのだ。
ターゲットは、北門と約二メートル離れた電柱との中間地点。そのちょうど裏側にゴミ箱が存在する。
――この缶ならできる!
缶を見つめながら気合を込める空知。ちなみにこの銘柄は、部内では彼だけが飲んでいるブラックコーヒーだ。
「おいおい、早くしろよっ!」
「外すなよな!」
空知は缶を小さく前に投げると、右足を振りかぶった。
シューズの甲の部分で優しく缶の縁をミートする。くるくると逆回転がかかった缶は三メートルの高さのレンガ塀の上部に向かって飛んで行く。
「おっ、いいコースだ」
「今日はパーフェクトか!?」
しかし、部員たちの願いはすぐに落胆に変わる。
――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ…………コン。
塀の向こう側へ消えていった空き缶は、皆の期待に反し甲高い音を響かせた。
「なんだよ、また外したのかよ」
「ほらほら、拾いに行ってこいよ!」
ちゃんとゴミ箱に入っていれば、カシャリと小さく金属音がするはずだった。実際、今まで缶を蹴った先輩たちは、カシャリと見事にゴミ箱に蹴り入れていた。
「くそっ! 空知、行ってきます!」
「ダッシュだぞ」
空知は正門に向かって走り出す。北門が開いていれば、門をくぐって一瞬で空き缶を拾うことができるのだが、閉まっている現在は正門を経由してぐるりと大回りしなくてはならない。
まずは正門までの距離、直線で百五十メートル。正門からは壁沿いに道路を走って北門まで約五百メートルの道のりだ。往復で一キロを超える罰走は、練習後の疲れた体を容赦なく鞭打つ。
「ふふふふ……」
しかし、今の空知は違っていた。不気味な笑みさえ浮かべている。正門に向かって走りながら。
「うまく外れてくれたぜ……」
そう、空知はわざとゴミ箱に入れないように空き缶を蹴っていたのだ。
ある女の子に会うために。
――俺たちが蹴った缶を拾いに来る女の子がいるらしい。
――その子、むちゃくちゃ可愛いんだって?
そんな噂が部内に広まったのは、つい一ヶ月前のこと。
情報源は、空知と同じ一年生の直之だった。
『缶を拾いに行く時、ポメラニアンを散歩させている女の子とよくすれ違うんだよね』
彼もまた、ゴミ箱に缶が入らない罰走常連者だった。
『それがすっごく可愛くって』
可愛いのは女の子なのかポメラニアンなのかは不明なのだが。
しかし、決定的だったのは次の彼の証言だった。
『彼女が持ってるビニール袋、犬のウンチ用かと思いきや空き缶が入ってたんだよ。しかも俺たちが蹴った缶だった』
それ以来、変な噂が広まったのだ。
可愛い女の子が部員の蹴った缶を拾いに来る――と。
正体不明のその女の子は、いつしか”空き缶プリンセス”と呼ばれるようになっていた。
下校する生徒たちの脇をすり抜けながら正門の外に出た空知は、右に曲がって県道を西へ走る。陽はすでに沈み、正面に見える山々は真っ赤な空のシルエットとなっていた。
西回りを選んだのは、東回りよりも三十メートルほど距離が短いという理由からだ。
レンガ塀に沿って走る空知は角を二回右に曲がる。すると、遠くに北門の自売機が見えてきた。が、残念ながら、噂のプリンセスの姿はない。
「ちぇっ……」
舌打ちをしながら北門に着いた空知。朝のまったりブラック缶は、ゴミ箱から一メートルくらいの場所に転がっていた。
「今日も会えなかったか……」
あたりをキョロキョロと見回しながら缶を拾う。が、やはり周囲に人の気配はない。家々の窓に灯がともり始めた住宅街は、夕飯の支度で大忙しのようだ。
カシャリとゴミ箱に空き缶を捨てた空知は、レンガ塀の内側に向かって声を上げる。
「空知、缶を捨てました!」
すると塀越しにキャプテンの声が返ってきた。
『よし、行きは三分五秒だ。帰りは三分切るぞ! スタート!』
ちぇっ、もうスタートかよ。いつもながらに鬼だな、キャプテンは。
そんな恨み節を噛み殺しながら、空知は走り出す。
結局、今日もプリンセスには会えなかった。これでは無駄走りと言っても過言ではない。
その時だ。
右側の住宅街の路地に、チラリと人影が見えたような気がした。
その姿は女の子のようだった。
――もしかして、あれがプリンセス?
戻って確かめたい。でも、そうすると三分を大幅にオーバーしてキャプテンに怒られる。
結局、空知は走り続けることを選択した。
――でも、なんで彼女は隠れているんだろう?
北門周辺が騒がしいから? 走って来るサッカー部員がうっとおしいから?
いろいろな可能性が空知の頭の中に浮かんでくる。それらが導き出す答えは、いずれもサッカー部員がいなくなるのを待っているということだった。つまり、プリンセスが現れるとしたら、空知が走り去った正に今。
「おおっ、すごいぞ空知。帰りは二分五十五秒だったぞ」
「ありがとうございます、キャプテン! では、失礼します!」
だから部室に着いた空知は再び走り出す。
プリンセスに会うために。
正門を抜けて、レンガ塀沿いに走ること約三分。しかし、自売機の周辺には誰もいなかった。
「なんだよ、またもや無駄足かよ……」
脱力した空知は、ゴミ箱の縁にお尻を当てて寄りかかる。ゴミ箱にくくり付けられた重りがカタカタと音を立てた。
見上げる空は、すでに紫色に染まりつつあった。自売機を照らす電柱の街灯に、虫たちがブンブンと飛んでいる。
「本当にプリンセスなんているのか……」
バカなことをしちまったとぼやきながら、空知はふとゴミ箱の中を覗いた。
「えっ?」
空知は気付く。
「無い!?」
あるはずの物が無いのだ。
「そんなバカな、さっき捨てたばかりなのに……」
一番上にあるはずの朝のまったりブラック缶が消えていた。
――やっぱりプリンセスはいるんじゃないのか?
それが空知の出した結論だった。
捨てたばかりの朝のまったりブラック缶が忽然と消えた。明らかに、誰かが持ち去ったとしか思えない。業者が回収したのであれば、缶はすべて無くなっているはずだ。
――では、いつ?
それは明らかだ。
空知がゴミ箱に到着した時、朝のまったりブラック缶はまだアスファルトに転がっていた。
その缶をゴミ箱に捨てて部室まで三分。その後、ゴミ箱に戻って来るまで三分。つまり、この六分間に空き缶が持ち去られたことになる。
――どうしたら会える?
これが一番の問題だ。
罰走で空き缶を拾いに行ったら、会うことはできない。
なぜなら、鬼のキャプテンがタイムを測定しているからだ。缶をゴミ箱に入れた瞬間、部室に向かって走り出さなくてはならない。
――この難問さえクリアできれば……。
プリンセスに会ってみたい。チラリと姿が見えた、あの女の子に。
空知は自宅のベッドで天井を見上げながら、いつまでも作戦を考えていた。
◇
次の日の朝。
「空知、空知、空知っ!」
朝練が終わった北門裏は、サッカー部員で盛り上がっていた。
朝のまったりブラック缶を右手にしっかりと握りしめながら、空知は昨晩考えた作戦を思い出す。
――この缶ならできる!
そして小さく前に投げ、右足を振り抜いた。
甲の部分で優しくミートした空き缶は、クルクルと逆回転しながらレンガ塀の上部へ向けて飛んでいく。そして塀に当たるか当たらないかスレスレの高さで超えていった。朝の日差しを浴びてキラキラと光りながら。
緊張の一秒間。
――カシャリ。
缶は見事、ゴミ箱へ。
「よっしゃァァ!」
ガッツポーズをしながら空知は後ろに下がる。そして、入れ替わりに前に出ようとする直之に、すれ違いざまに一言つぶやいた。
「昨日、プリンセスを見たぜ」
「マジか?」
これが空知の作戦だった。
直之だってプリンセスに会いたいはずだ。蹴る直前にこんな風に言われれば、きっと彼は缶を外すだろう。
しかし、たとえ缶を外せても直之は決して彼女に会えることはない。それは昨日、空知が実証済みだった。
「直之、直之、直之っ!」
部室前が直之コールに変わる。
直之は壁の前で、”午後のシャキッとコーヒー”缶を握りしめた。いつもとは違う緊張の面持ちで。
この緊張の意味がわかるのは空知だけだった。というのも、缶を入れようとする緊張ではないからだ。
――どうやったらごく自然に缶を外すことができるか。
これほど高度で危険な技はない。バレたら、真剣に蹴っている先輩方をバカにする行為とみなされる。
意を決し、直之が缶を小さく前に投げる。そして右足を振り抜いた。
クルクルと回りながら、午後のシャキッとコーヒー缶がレンガ塀の上部に向かって飛んでいく。その軌跡を見ながら空知はつぶやいた。ナイス直之、と。
――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ……。
塀を超えた空き缶は、アスファルトに当たって甲高い音を立てた。
「なんだよ、直之ィ~」
「そうだよ、今日は空知も入れたのに」
「スイマセン!」
先輩たちに謝りながらも、直之はきっと心の中でペロっと舌を出しているのだろう。
「じゃあ、今日の朝練はこれで解散! 直之は缶を拾いに行ってこい。スタート!」
キャプテンの掛け声と共に、直之は正門に向かって走り出す。
そして空知も、引き上げる振りをしながら正門に向かって走り出した。
――直之に空き缶を拾いに行かせる。
空知の作戦の第一段階は成功だ。
もしプリンセスが現れるとしたら、直之が缶を拾って部室に戻る間の数分間だろう。となれば、すぐさま直之を追って北門に向かわなくてはならない。
正門を抜けた空知は、直之とは逆の左側に曲がる。東回りのルートで北門へ向かうためだ。距離は西回りよりも若干長いが、直之と鉢合わせする心配がない。
塀に沿って住宅街を走り、二回目の角の前で立ち止まる。レンガ塀に隠れて空知がそっと北門の方を伺うと、缶をゴミ箱に捨てた直之が再び走り出すところだった。
「ナイスタイミング!」
北門前の通りを向こう側に走って行く直之。その姿がだんだんと小さくなる。そしてレンガ塀の角を左に曲がり、北門前の通りから消えた。
プリンセスが現れるなら、今だ。
すると、住宅街の路地から一人の女の子が現れた。制服姿で、キョロキョロと辺りを見回しながら。
「おおっ!」
やっぱりいたんだ、噂のプリンセスは!
興奮を抑えながら空知は息をひそめる。レンガ塀を掴む手のひらに、じわりと汗が滲んできた。
女の子は通りに誰もいないことを確認すると、そそくさとゴミ箱に近づいた。
白のブラウスに紺の無地のスカート。どうやら彼女も高校生のようだ。きっと登校前なのだろう。
スカートの腰の部分がちょうどゴミ箱の上部と同じだから、背の高さは百五十センチくらいと推測される。一方、空知の身長は百七十センチだった。
「あれ? あの制服って、どこかで見たことがあるような……」
空知はその制服に見覚えがあった。
少なくとも二高の制服ではない。二高の女子のスカートは、濃いグリーンを基調としたチェック柄だ。
「ま、まさかの一高……?」
日名川第一高校。
この地域の秀才が通う公立の進学高だ。あの地味なスカートは一高の制服に間違いない。
その時。「きゃっ!」という小さな悲鳴と同時にガシャリと金属音が響く。ゴミ箱の中の缶に手を伸ばした女の子がバランスを崩し、中に落ちてしまったのだ。
ゴミ箱に上半身を突っ込んだまま、バタバタともがく女の子。スカートがめくれないよう手で抑えるのに必死で、外に出ることができない。
「おい、おい、おい。命と空き缶とパンツ、どれが一番大事なんだよ!」
右手で空き缶、左手でスカート。さすがにその状態ではゴミ箱からの脱出は不可能だ。
思わず空知はレンガ塀の影から飛び出した。
そして女の子に近寄り、ゴミ箱を重りごと斜めに傾けて彼女を救出する。ビンクの布地がチラリと見えたような気もするけど、それは内緒だ。
「大丈夫か?」
「す、すいません。助けていただき、ありがとうございます」
ゴミ箱から脱出した女の子が、アスファルトにぺたんと女の子座りしたままお礼を述べた。
そして空知を見上げたとたん、「あっ!?」と表情を変えた。
「そ、空知くんが、なんで?」
「えっ?」
驚いたのは空知の方だった。
大きな二重の瞳に柔らかそうな頬、そして天然パーマがかかったショートの髪が耳元を隠すよう緩やかにカールしている。その容姿は正に空知の好みそのもの。これほどドンピシャな子に、今まで出会ったことはない。
そんな初対面の女の子に、いきなり名前を呼ばれたのだ。
すると女の子はいそいそと立ち上がり、「ごめんなさい。失礼します」と住宅街へ駆けて行った。午後のシャキッとコーヒー缶を握りしめながら。
その後ろ姿を、空知は呆然と眺めるしかなかった。
その日の授業は、全く集中できなかった。
『そ、空知くんが、なんで?』
驚いたように空知を見上げる女の子の顔が、何度もフラッシュバックする。
また会いたくて、その顔が見たくて、勉強なんてする気が起きないのだ。
しかし、その顔には全く心当たりが無かった。にも関わらず、彼女は空知の名前を知っていた。
中学校が一緒というわけでもない。それに彼女は空知の通う二高ではなく、一高の制服を着ていた。
「一高の生徒が、俺のことを知っているわけが……」
いや、あるかも。
空知は、ある可能性について考え始めていた。
◇
「おい、空知。お前ひでぇ奴だな」
放課後になって部活に行くと、いきなり直之が絡んできた。
目が笑っていない。空知は小さく身構える。
「抜け駆けしやがって。プリンセスに会うために、今朝は俺を出汁に使っただろ? キャプテンから聞いたぞ」
皆に気づかれないように正門へ向かったはずなのに。キャプテンにはバレバレだったのかと空知は苦虫を噛み潰す。
「そんでもって、プリンセスはお前の知り合いだったんだって?」
「はっ? 違うよ。誰だよ、そんなこと言ってんのは!?」
「キャプテンだよ。北門越しに聞いたって言ってたぞ、『空知くん』って女の声がするのを」
まさか、あれを聞かれていたとは!
正に鬼のキャプテンだと空知は恐怖する。
「俺も驚いたんだよ、見知らぬ女の子に名前を呼ばれてさ」
「ふーん」
疑いの目で空知を見る直之。
「だから本当だってば。信じてくれよ」
腕組みをする直之に、空知は目で訴えた。数秒間の沈黙の末、仕方ねえなと直之は表情を崩す。
「それで? どんな感じだった? プリンセス」
むちゃくちゃ可愛かったよ、と言いたくなる衝動をぐっと堪え、空知は彼女の制服に言及する。
「彼女、一高の制服を着てた」
「えっ……」
空知の言葉に、直之は絶句した。
「マジかよ、彼女、ウチの生徒じゃなかったのかよ……」
それはまるで、追い求めていた女性が高嶺の花であるかのように。
直之はすぐに気を取り戻し、握る拳に力を込めた。
「でも俺はあきらめねえ。プリンセスは正にプリンセスだったんだ。そんな彼女は、俺が蹴った缶を柔らかなその手で回収してくれるんだ」
空に向かって両手を広げる直之。
幸せなやつだと空知は呆れる。まあ、彼の蹴った空き缶をプリンセスが回収していったことは紛れもない事実だったわけだが。
「名前を呼ばれたっていうのに、本当に空知はプリンセスのこと知らなかったのか?」
「ああ、見たことがない顔だった」
「それって、空知がプリンセスのことを知らなくても、彼女は空知のことを知っていたってことだろ?」
「まあ、そういうことになるわな」
「もしかしたら、空知って一高でも有名人なんじゃねえの? あいつのせいでさ」
「あいつって……あいつか。やっぱ、そう思うか? 俺もそれしかないって気がしてたんだが……」
――二高に通う空知が、一高で有名人となる可能性。
入学して間もない空知にとってはかなり難しいことだと思われるが、二人には思い当たる節があった。
上川十勝(かみかわ とかち)。日名川第一高校の一年生。
空知と瓜二つの、双子の兄の存在だ。
十勝が一高で双子であることを吹聴していれば、空知はたちまち有名人になれるに違いない。
『実は俺、双子なんだけど』
それは耳元でささやくだけで、どんな女の子だって興味を持ってくれる魔法の言葉だから。
ちなみに空知と十勝と直之の三人は、中学校が一緒だった。
「きっと冷やかしに来たんじゃねえの? 十勝から聞いてさ、双子の弟が二高にいるって」
「おい、もう一回言ったら殴るぞ、直之」
双子であることを言われるのが最も嫌いな空知だった。
一方、十勝だって同じ気持ちのはず。その十勝が自ら双子であることを言いふらすとは、どうしても空知には思えなかった。
「なんだよ、俺に怒るなよ。もしそうなら、悪いのはプリンセスの方じゃねえかよ」
「…………」
ゴミ箱の前で出会った彼女。
あの時の驚きの表情は、冷やかしに来て偶然会えたという驚きだったのか?
でも、彼女は「なんで?」と言った。冷やかしだったら、もっと別の言葉になるような気もする。
「悪かったよ、双子のこと言ってさ。でも、今朝の借りはきっちり返してもらうぞ。今度は空知が缶を外す番だからな」
「ああ、わかったよ……」
その日の空知は、部活も集中することができなかった。
『きっと冷やかしに来たんじゃねえの?』
今度は、直之の言葉がグルグルと頭の中を回って離れなかったからだ。
空知は全力で否定したかった。あんな可愛い子はそんなことしないって。
でも考えれば考えるほど、直之の推測が正しく思えてくる。
授業中、空知も同じことを考えていたが、その時は自分自身で否定した。十勝だって双子であることをあまり他人には知られたくないはず――という自分勝手な推測に基づいて。
しかし、他人として客観的に状況を見ることができる直之は、空知の懸念をあっさりと肯定してしまったのだ。少なくとも、初対面のプリンセスが空知の顔を知っているということは、彼女が普段から双子の兄、十勝に会っているとしか思えない。
「空知、空知、空知っ!」
だから、部活後の缶蹴りも身が入らなかった。
――冷やかしに来るようなやつには会いたくない。
適当に蹴った朝のまったりブラック缶は、レンガ塀の向こう側でカーンと甲高い音を立てた。
「おいおい、空知。真面目にやれよ!」
「そうだよ、みんなでパーフェクト狙ってんだからさ」
先輩方にも、気の無い蹴りであったことはバレバレだ。
「申し訳ありません! 空知、缶を拾いに行ってきます!」
まあ、これで直之との約束通りになった。
こんな嫌々な走りをプリンセスは影から見ているのだろうか。
しかし三分後に北門に着いた空知は、そこで見た光景に驚く。転がったはずの朝のまったりブラック缶が、ゴミ箱の横のアスファルト上に立っていたのだ。
おまけに、缶には付箋紙が貼ってある。
『今朝のお礼がしたいので、七時に駅前で待ってます』
薄ピンクの付箋紙には、綺麗な文字でそう書かれていた。
◇
急いで部室に戻った空知は、制服に着替え、駅へと向かう。
二高から駅までは歩いて十五分。一キロちょっとの道のりだ。まだ六時四十分だから、ゆっくり歩いても余裕がある。
今頃、直之はレンガ塀の影から北門を観察しているのだろう。が、おそらくプリンセスは現れない。だって、彼女も空知に会うために駅に向かっているはずだから。
直之に申し訳ないと思いながら、ちょっとした優越感に浸る。プリンセスは直之じゃなくて自分を選んだのだと。
しかし、それは最初のうちだけだった。
だんだんと湧き起こってきたのは、ガツンと文句を言ってやろうという決意。双子をバカにするやつは絶対に許せない。空知だって、双子で生まれたくて生まれたわけじゃないし、十勝とそっくりになりたくてなったわけでもない。
しかし駅が近づくにつれて心臓の高まりを抑えきれなくなると、また別の感情が空知の頭を支配し始めた。
汗臭くないかとか、髪が砂埃でゴワゴワしてないかとか、もっと丁寧に顔を洗ってくればよかったとか。
「空知くーん、こっちだよ!」
そんな空知を、プリンセスは手を振って迎えてくれた。とびっきりの笑顔で。
白のノンスリーブのトップス、紺のキュロットスカート、そして足元の白いサンダル。
デートの待ち合わせって、空知にそんな経験はなかったが、こんなにもドキドキするものなのかと胸を熱くする。
「今日は来てくれてありがとう。お気に入りのお店があるから、そこに行かない?」
プリンセスに連れられて入ったのは、駅前のビルの二階にあるお洒落な喫茶店だった。
「今朝は本当にありがとう。不覚にもゴミ箱に落ちてパニクっちゃった。えへへ……」
向かい合って席に座ると、最初にプリンセスが切り出した。
「君が来てくれなかったら、私、死んでたところだよ~」
そんなバカなと思いながら、空知はぐっと笑いを堪える。
確かに彼女は可愛い。冗談を言う姿なんて、ずっと眺めていたくなるほど愛らしい。
でもそんな色香に騙されてはいけない。双子を冷やかす行為は、決して許しておけないのだ。
「今日は何か奢らせて? ほら、部活で疲れた体にも甘いものがいいって言うでしょ?」
こんなやつに奢ってもらうわけにはいかないと、空知はついに口火を切った。
「申し訳ないけど、今日はやめておく。俺は君のこと、何も知らないんだけど。それに俺のことは、十勝に聞いたんだろ?」
つい強い口調になってしまう。
空知に気圧されて、彼女は表情を曇らせた。
「と、十勝……くん?」
「とぼけなくったっていいよ。俺の双子の兄貴。日名川第一高校の一年生。俺のことは兄貴から聞いたんだよなッ?」
「えっ? う、うん……」
消えゆくような彼女の声。一瞬、可哀想と思ったが、ここははっきりさせておいた方がいい。
「何で缶を拾ってるのか知らないけど、双子をバカにするんだったら俺は許さない。もし、他の理由があるんだったら、教えてくれないか?」
しばらく俯いて黙っていた彼女だが、やって来た店員に二人分の飲み物を注文すると、ポツリポツリと話を始めた。
「私ね、北門の近くに住んでるの。名前は日高アキ。日名川第一高校の一年生」
道理で、と空知は納得する。北門の近くに家があるなら、犬を散歩する姿を直之に目撃されても不思議ではない。
「それでね、パパに命令されてるの。空き缶を拾ってこいって。遺伝子検査をするからって」
「遺伝子検査?」
聞きなれない単語に、空知は困惑する。
「うちのパパ、遺伝子分析が専門なの。聞いたことない? 日高博士って?」
日高、日高、日高、と頭の中で復唱して、ようやく空知はある人物に思い当たった。
「日高博士って、ええっ、テレビでよく見るあの日高博士!?」
「うん」と小さくうなづくアキ。
空知は驚いた。
日高博士といえば遺伝子捜査の権威で、民放の警察の特別捜査に関する特番や、某国営放送のその手の科学番組には必ずといっていいほど出演している。最近ではコメンテーターとしても引っ張りダコで、週末の情報番組で見かけることも多い。ダンディで、おばさま方にも人気の科学者だ。
言われてみれば、目の前のアキは目元などが日高博士とそっくりかもしれない。
いきなり飛び出した有名人の名前に、空知はすっかり恐縮した。
「そ、そ、それで、その日高博士は俺たちの缶を集めて、何をしていらっしゃるんでしょう……?」
まさか、塀越し缶蹴りという悪事を暴かんとする国家権力の差し金なのか。
動揺が空知の言葉を震わせる。
一方、アキの方は顔を真っ赤にして俯いていた。
「そ、そ、それは、とっても恥ずかしいことなんだけど……」
そして消え入りそうな小さな声でこう言った。
「気になってる人がいたら、遺伝子検査をしたいから、その人が飲んだ空き缶を持ってこいってパパが言うから……」
そうか、そういうことだったのか。
キーワードは遺伝子だったんだ。
空知はやっと理解する。彼女の目的は双子をからかうことではなくて、十勝と同じ遺伝子が欲しかっただけなのだと。
双子であることを十勝が言いふらすわけがないと思っていた空知は、アキの説明を聞いてすべてが腑に落ちたような気がした。きっと彼女なりに調べたのだろう。十勝に双子の弟がいることや、弟である空知が二高に通っていることを。十勝の中学校時代の同級生に聞けば、簡単に分かることだ。
そして同時に、彼女に対する熱意がすうっと冷めていくのを感じていた。双子の弟の唾液を分析することによって、兄を遺伝子レベルで品定めしようなんて、この親娘の行動はマニアックすぎて恐ろしい。
「遺伝子検査って、そんなにすごいのか?」
だから空知はアキの真意について追求するのをやめた。自分に気の無い女の子の気持ちを覗いても意味がない。
「そりゃ、すごいわよ」
アキは目を輝かせながら喋り出す。
「これはパパの受け売りなんだけどね。空き缶に付いた唾液から遺伝子を抽出すると、その人のいろんなことが推測できるの。瞳や髪や肌の色、顔の形、しみやそばかすの有無までわかっちゃうんだから」
ほんのちょっとの唾液でそんなことまで判明するとは、なんとも恐ろしい。
それにしても、さすがは日高博士の娘。遺伝子の話が止まらない。
「それでね、そんな遺伝子情報を利用して、香港のNGOが二〇一五年にすごいことをやったの。なんでも、『この人がポイ捨てをした人です』って、遺伝子情報から割り出した合成顔写真をポスターにして街中に貼ったのよ。ポイ捨てした人、真っ青よね。パパはその上をいく研究をしようとしているみたいなんだけど」
親も親だけど、アキも本当に遺伝子のことが好きなようだ。
好きなことを話している女の子は本当に可愛い。
そんなアキの姿を眺めているだけで、あっという間に一時間が過ぎてしまった。
「ごめんね、私ばっかり喋っちゃって」
「いや、構わないけど」
「こんな私でよければ、また会ってほしいな……」
今日は遺伝子の話ばかりになってしまった。アキだって、十勝のことをもっと知りたいはずだ。
でも会うためだけに、メールアドレスやラインを交換するのもなんだか違うような気がした。アキと十勝が付き合い始めたら、それまでのやりとりを見るのが辛くなるのは明らかだったから。
だから空知は提案する。
「だったら、また空き缶に付箋紙を貼ってよ。朝のまったりブラック缶にさ。部内では俺だけが飲んでるコーヒーだから」
これなら後腐れもない。
「うん、わかった」
こうして、空知とアキの不思議な関係が始まった。
◇
『七時に狐寝公園で待ってます』
アキが付箋紙で指定するのは、いつも北門の近くの小さな公園だった。
空知が着替えて公園に行くと、ポメラニアンを散歩させるアキが待っていた。直之の言葉通り、アキに負けないほど可愛い犬だった。
住宅街の中にある公園にひぐらしの鳴き声が響く。紫色に染まる空と灯りがともり始めた外灯。隣接する住宅から夕飯の匂いが漂ってくる。
二人は公園のブランコに並んで座り、四方山話をする。座高も空知の方が二十センチくらい高い。最初にアキが訊いたのは、部活後の缶蹴りについてだった。
「レンガ塀の向こう側から空き缶を投げ入れるなんて、面白いことするよね」
どうやらアキは、空き缶を投げていると思っているようだ。
「ああ、あれね。あれって投げてるんじゃないんだよ、蹴ってるんだ。だって俺たち、サッカー部だし」
「へえ~、蹴ってるんだぁ……。それって、投げるよりも難しくない?」
「そりゃ難しいよ。でもコツさえ掴めれば、意外と簡単なんだよ」
「と言ってる割には、たくさん外してますけど? 朝のまったりブラック缶」
いたずらっ娘の笑みを浮かべ、上目遣いで空知の表情をうかがうアキの瞳に、空知はドキッとする。
いやぁ、それを言われると辛い。アキに会いたくて外したこともあると白状したくなる気持ちを、空知はすんでのところで飲み込んだ。
次は、空知がアキに、十勝のことを話してあげる番だった。
一緒にサッカーを始めたこと、小学校では十勝の方が上手かったが、中学校では空知の方がレギュラーだったこと。高校は別々になってしまったが、お互いサッカー部に所属していることなどなど。
そんな話を、アキは興味深そうに聞いてくれた。
「アキは、兄貴のどんなところが好きになったんだ?」
するとアキは空を見上げながら答える。一番星がチラチラと輝き始めていた。
「そうね、部活で走ってるところかな」
アキは、一高サッカー部の練習を見に行っているのだろう。
「額に汗を光らせながら、前を向くあの瞳にキュンとくるの……」
わずかに頬を赤らめる乙女の横顔に、空知は十勝のことがうらやましくなる。
「それにね、話していてもとても楽しいし」
「俺と話すよりも?」
そう言ってから、空知はしまったと後悔する。それは、十勝よりも優位に立ちたいという気持ちの裏返しだったから。
双子を比較しないで欲しいという、空知自身の信念にも矛盾する行為であった。
「うーん、空知くんと話すのと同じくらい楽しいかな」
そんな空知の気持ちを知っているのか、アキは曖昧な言葉で誤魔化した。
小悪魔的な笑顔に、空知の心は揺れ始めている。
「それで? いつ告白するんだよ?」
だから、アキにはさっさと十勝に告白して欲しいと空知は願う。このままでは、本当にアキのことが好きになってしまいそうだ。
「もうちょっと。もうちょっと待って。まだ、パパの分析結果が出ていないから……」
おいおい、それも遺伝子次第なのか? もし結果が悪かったら告白をやめるのか?
そもそも告白って、気持ちの問題じゃないのかよ。
すっかり呆れてしまう空知だった。
空知がアキと会うようになって、部活後の缶蹴りにある変化が起きていた。
決定率でいつも最下位を争っていた空知と直之だが、直之の成績がぐっと上がり、一方の空知は缶を外すことが多くなったのだ。
「空知よ。プリンセスに会いたいからって、最近外し過ぎじゃねえの? まあ、俺の方は好調だけどな」
「直之だけには言われたくねぇ。おかしいな、ちゃんと入ってるはずなんだが……」
そうなのだ。
絶対これは入った、と確信するコースでも外れる時がある。そして、そういう時は必ず、空き缶に付箋紙が貼ってあった。
――もしかして、アキがわざと落としてる?
そのことを空知が訊いてみようとした日、アキから重大な発表があった。
二人の不思議な関係が終了するような、重大な発表が。
◇
「ここに宣言します! 日高アキは、明日、好きな人に告白します!」
狐寝公園の滑り台の一番上に立ってアキは宣言する。右手を高々と宙に突き出して。
ポメラニアンを託された空知は、ついにこの日が来たかと寂しく思う。夕陽に照らされた彼女は、本当に眩しかった。
「私、言っちゃった! ついに、言っちゃったよ!」
滑り台を滑り降りたアキは、空知の前に駆け寄ると大きく息をした。
「いやいや、まだ言ってないだろ? 本番は明日なんだから」
「でも、これで時計は動き始めたんだよ? もう言ったも同然だよ」
「それより検査の結果はどうだったんだ? 告白に踏み切るってことは、結果は良かったんだよな?」
「うん。バッチリだって」
アキは空知に向かって親指を立てる。
「そうか、良かったな……」
そう言いながら空知はアキから目をそらす。複雑な気持ちに包まれながら。
アキが検査に用いたサンプルは、もともと空知の遺伝子なのだ。それが十勝への告白の足がかりになったと思うと、なんだかやるせない気がした。だから空知は、瞳を輝かせる彼女に向き合っていることができなくなっていた。
「私……怖い……」
「大丈夫だよアキなら。十勝の目を見て告白すれば、絶対成功する」
自分はアキから目をそらせているのに何を言ってるんだろうと空知は思う。
彼女の瞳の輝きは、明日にはもう十勝のものになってしまうのだ。
「うん、そうする。それでダメだったら、無理やりチューしちゃう」
「チュう!?」
驚いて空知はアキを見た。おどけて唇を突き出す彼女の仕草に可笑しくなる。
「せめてもの記念に、遺伝子くらいはもらっておかなきゃね」
この期に及んで遺伝子を持ち出すとは、どれだけ好きなんだろう。
「それは封印しておいた方がいいぜ。ドン引きされるぞ。いいよ、告白を断ったら俺が十勝を殴ってやる」
「それも封印しておいた方がいいと思うけど?」
そして二人で笑った。
その時だった。
「なんだ、公園が騒がしいと思ったらアキだったのか……」
一人の初老の男性が空知たちに近づいてきた。
見たことあるような顔――と思ったら、日高博士だ。アキのポメラニアンが嬉しそうに吠え始めた。
おおおおおおおおっ、テレビで有名なあの日高博士だよ。本物が、動いて、歩いて、しゃべってるよと、得体の知れない興奮が空知の体の中を駆け上がる。
一方、アキの表情は急に硬くなる。「今日は早く帰ってくるはずじゃなかったのに」と小さくつぶやくと、「じゃあね」と空知に手を振って、ポメラニアンを連れてそそくさと公園の外に向かって歩き出した。
「おいおい、アキ。彼のことを紹介してくれてもいいじゃないか?」
博士はアキを引き留めようとする。が、彼女はそっけない言葉を返した。
「あっ、彼、中学時代の同級生だから。ちょっとそこで会っただけだし」
さっきまでとはまるで人が変わった態度。
なんでそんな嘘を言うのだろうと不思議に思った空知は、博士にちゃんと挨拶をしなくてはと意気込んだ。
「日名川第二高校サッカー部の上川空知と言います。よろしくお願いします!」
体育会系らしい挨拶。
それが仇になるとは知らずに。
空知の挨拶を聞いて、博士の表情がみるみる険しくなる。そして博士はアキを振り返った。彼女は今にも逃げ出しそうに背を向けていた。
「待て、アキ! あれほど二高生には関わるなって言ったのを忘れたのかっ!」
博士の怒号が公園に響き渡る。
ビクリとする空知とアキ。博士は、テレビでは決して見せられないような鬼の形相だった。
そして博士は空知を向く。
「申し訳ないが、君も二高生ならアキには関わらないでくれ」
その言葉にカチンときた空知は、恐れを知らずに反論した。テレビで見る博士はいつも優しそうだったし、無理難題を言い出す人には思えなかったからだ。
「それはなぜなんですか? 教えて下さい」
博士の怒りに火を注ぐことになるとは知らずに。
「私に歯向かうのかね? だから嫌なんだよ、二高生は!」
博士の剣幕にたじろぐ。そんな空知に構わず、博士はまくし立てた。
「君は知らんのか!? 十年前、二高生が私の家にしたことを。ちょうど私がテレビに出演し始めた頃だ。冷やかし半分の連中がわんさか押し寄せて来て、大変な目に逢ったんだ。壁への落書き、ゴミのポイ捨て。それだけだったらまだいい。一番許せなかったのは、就学前だったアキへの嫌がらせだ。声をかけるわ、写真を撮るわ、アキの身に危険を感じなかった日はなかった」
そんなことがあったとは知らなかった。
「だから北門を閉鎖してもらったんだよ。それでやっと、我が家に平和が訪れた」
ようやく理解する。北門が閉ざされてしまった理由を。
「復讐と言ったら言葉が悪いがね、アキに集めさせているんだよ、二高生がポイ捨てした空き缶を。ポイ捨てする奴は、根本的にどこかイカれていると私は思う。それを遺伝子レベルで解明したくてね」
その言葉に空知の頭は真っ白になる。
――なんだよ、気になる人の遺伝子を調べてもらってたんじゃなかったのかよ。
――ポイ捨てする人間の遺伝子を調べるためだって?
――結局アキは、俺たち全員をバカにしてたってことなんじゃないか。
アキが今にも逃げようとしているのも逆効果だった。そのことを知られたくなかったから、この場を去ろうとしているとしか空知には思えなかった。
悔しくて、悲しくて、裏切られた気持ちで一杯になって、空知は地面を見ながら握りこぶしに全力を込める。そうしなければ、涙が溢れそうだった。
「アキっ! 昨日検査結果を渡した気になる人の遺伝子って、まさか彼のじゃないだろうな。一高生っていうのは嘘だったのかっ!?」
「ッ…………」
それは嘘であって嘘ではない。
アキは言葉を詰まらせた。即座に反論しなかったのは、空知への配慮なのか。
その反応に彼女の最後の誠実さを見た空知は、腹に力を込めて代弁する。自分に構うことはないとのメッセージを込めて。
「一高生というのは本当です! アキさんは一高生のことが好きなんです。俺はその相談に乗っていただけなんです」
本当にこれで終わりなんだと、涙を堪えながら。
「そうか、君には一応礼を言っておく。が、お願いだからもうアキには関わらないでくれ。行くぞ、アキ」
博士に腕を掴まれて、強引に連れて行かれるアキ。
「ごめんね、空知くん。ごめんね……」
空知は夕暮れの公園に一人残された。
◇
次の日。
朝練が終わると、いつものように北門裏で缶蹴りが始まる。
博士にあそこまで言われたんだ、さすがに空知は参加する気が起きなかった。
『おいおい、みんな、聞いてくれ。俺たちが蹴った缶は、ポイ捨て遺伝子の研究材料になってるんだぞ』
そう言って、缶蹴りをやめさせることも考えた。
しかし先輩方の真剣な表情を見ていると、なにか違うような気がしてくる。
空知たちは、決してポイ捨てをしているわけではない。
飲み終わった缶をゴミ箱に入れようとしているだけなのだ。その方法が普通とは変わっているだけで。
それに、ゴミ箱から外れてしまった缶は必ず拾いに行っている。ポイ捨て状態は、たったの三分間だけなのだ。
しかしそんな正義を振りかざしても、受け取る側が悪意を持っているのであれば意味がなかった。振り上げた拳の行き場がない、そんな虚しさを空知は感じていた。
それに今日は、アキが告白を決行する日だ。
彼女にとって相談役の空知はもう用無しなのだ。
アキが空知のことを必要としてくれるのであれば、博士と戦う勇気も湧いてきたことだろう。良い大学に入って、博士を見返すことも考えたかもしれない。
しかし、その役目は今夜から十勝に変わる。しかも十勝は一高生。たったそれだけのことで、十勝は博士から免罪符をもらえるのだ。
悔しくて、悲しくて、涙が溢れてきた。
空知が一高を受けることができなかったのは、部活を頑張り過ぎたから。中学のサッカー部でレギュラーだった空知は、いつまでもみんなから必要とされる存在だった。それが楽しくてサッカーを今でも続けている。最後に別れが来ると知りながら、アキの手助けだってしてあげた。しかし、こんな結末を迎えるなんて、思いもしなかった。
せめて、アキの告白が成功するように祈ろう。
十勝が告白を断ったらぶん殴ってやるって、彼女と約束したのだから。
そう決意した空知は、放課後の部活を休んで家で十勝を待つことにした。
その日、十勝が帰宅したのは夕方の六時前だった。
すっかり待ちくたびれた空知は、いきなり十勝に食ってかかる。
「おい、兄貴。今日、なんかいいことあったか?」
単刀直入すぎるような気もしたが。
「いいこと? 特にないけど? まあ、普通かな」
十勝はいたって平常だ。
表情にも動揺は見られず、嘘を言っているようには思えない。
学校でアキに告白されたのであれば、何かしらの反応があるはずだった。
「じゃあ、飯を食ったらどこかに行くのか?」
「いや、今日はずっと家にいるけど? ていうか、何なんだよ、いきなり絡んできて」
夜に会う約束もないらしい。
いったいどういうことなんだ? アキは今日、告白するって宣言したのに。
これじゃあ、十勝のことをぶん殴れないじゃないか!
「だったら、アキから電話とかメールとかラインが来ても、絶対断るんじゃねえぞ」
わけがわからないという顔をする十勝。
「なんだよ、それ。ていうか誰? アキって……」
「えっ?」
予想外の返事に空知は言葉を失った。
◇
空知と日高博士が鉢合わせをした夜、アキは自室で泣きながら手紙を書いていた。
――せっかく、本当のことを言おうと決心したのに。
――せっかく、嘘をついていることを謝ろうと思ったのに。
決心を実行する前に、空知と会っているところを父親に見られたのは致命的だった。二高生のことを極度に嫌っている父親に。空知を公園に呼び出す日は、父親の帰りが遅くなる日をちゃんと選んでいたというのに。
もう空知には会わせてもらえない。こんなことになるなら、嘘なんてつくんじゃなかったとアキは深く後悔していた。
『空知くん。私はあなたに謝らなくてはならないことがあります。
それは嘘をついていたことです。十勝くんが好きという嘘を。
でも、空知くんだって悪いんだよ。勝手に私が十勝くんのことを想っていると勘違いしちゃうんだから。
私は最初から、空知くんだけを見ていました。だって、サッカー部の缶蹴りを見ていただけなんだから。
だから、十勝くんという双子のお兄さんの存在も、全く知りませんでした。
でも不思議ですね。会ったこともない十勝くんの名前を出すと、あなたへの想いを自然と口にすることができるのです。
額に汗を光らせながら前を向く瞳が好きって、全部、空知くんのことなんだよ。
あなたの前でそのことを話す私が、どれだけドキドキしていたか分からないでしょう。
そんな私の話を、あなたは真剣に聞いてくれた。それだけで十分なんです。
きっかけは、パパのポイ捨て遺伝子の研究でした。北門で空き缶を集めている時に、走って来る空知くんを見かけたのです。すぐにあなたに興味を抱いた。そして、あなたの遺伝子にも。
悔いているのは私の心の弱さです。パパに検査をお願いしたあなたの遺伝子について訊かれた時、十勝くんの遺伝子と偽ってしまいました。ちゃんと真実を言うべきだった。パパと向き合って戦うべきだった。でもそれは恐くてできなかった。
こうなってしまった以上、パパは絶対許してくれません、私が空知くんと一緒にいることを。だからこれで終わりにしましょう。
初めて会った日のこと覚えていますか? 助けてくれたのは直之さんと思いきや、あなただった。神様がくれたこの一ヶ月間のことを、私は一生忘れません。
今までありがとう。さようなら』
この手紙を、レンガ塀を越えて来た朝のまったりブラック缶に入れれば、すべてが終わる。
そう思うと、どうしようもなく涙が溢れてきた。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……」
時間をかけて書き上げた手紙を、アキはくしゃくしゃと丸めていた。
空知のことが諦められない。だって本当に好きだから。
「せっかく、本当のことを言おうと決心して、空知くんに宣言したんじゃない」
どうせ終わりだったら、約束を実行してから考えよう。
「真実はちゃんと会って話したい。いや、話さなきゃいけないと思う。何日待ち続けたとしても」
アキは、北門の前で空知を待ち続ける決意を固めていた。
◇
空知は思わず、家を飛び出していた。
さっきの十勝の言葉の意味が分からない。
『ていうか誰? アキって……』
十勝を追求してみたが、アキという女の子には会ったこともないし、話したこともないという。
そもそも十勝は、アキという人物の存在自体を知らなかった。知っているのは、日高博士の娘が一高に通っているらしいという情報だけだった。
これは一体、どういうことなんだ?
アキは話したこともない十勝に告白しようとしていたのか?
いや、夜に会う予定もない、連絡先も知らないアキに、十勝が告白されるとは思えない。
そもそもアキは、十勝との会話が楽しいって言ってたじゃないか。
それは全くの嘘だったのか? 彼女は誰に告白しようとしているんだ?
答えを知りたければ北門へ急げ。
空知の直感がそう叫んでいた。
時間も六時半。ちょうど空き缶蹴りが行われている頃だ。
北門が見える路地に着くと、空知は住宅街の影に隠れて様子を伺う。北門の前では、一人の女の子がレンガ塀の上をじっと見つめていた。
アキだ。
彼女はやっぱりここにいた。
『直之、直之、直之!』
北門の向こう側からはコールが聞こえてくる。これから直之が蹴るのだろう。
コンと小さな音がしたかと思うと、レンガ塀の向こうから空き缶が飛んできた。午後のシャキッとコーヒー缶が、くるくると回りながら。
が、どう見ても缶はゴミ箱に入りそうもない。
「って、えっ!?」
その時、アキが驚きの行動をとった。
午後のシャキッとコーヒー缶をキャッチしたかと思うと、ゴミ箱の中に投げ入れたのだ。
カシャリと金属音が響く。
『おおっ、入ったぞ!』
『今日は空知がいないからパーフェクトだな』
『やっぱりパーフェクトは気持ちがいい!』
やっと謎が解けた。
直之の決定率が上がったのは、アキのおかげだったんだ。
当のアキは、次の缶に備えてレンガ塀に向かって両手を広げている。手の甲に、薄ピンクの大きな付箋紙を貼ったまま。
しかし、サッカー部員の声を聞いて、もう空き缶は飛んでこないことを知ったアキはガクっと肩を落とした。
空知はアキの付箋紙に目を向ける。
そこには赤いマジックで大きく文字が書かれていた。『空知くん、大好きです』と。
アキは毎日、そうやって空知を待っていたのだ。
会いたい日には、わざと缶を落としていたに違いない。空知をこの場所に呼ぶために。朝のまったりブラック缶に付箋紙を貼るために。
熱いものが空知の胸に込み上げてくる。
「アキっ!」
空知は思わず叫んでいた。
そして北門の前に姿を現した。
「空知くんっ!」
愛しい顔が空知を向く。
その目には涙が溢れていた。
「ごめんね、昨日は本当にごめんね、空知くん……」
「そんなことよりも、一体どういうことなんだ? 兄貴に聞いたら、アキには会ったこともないって言うからびっくりして」
「本当にごめんなさい。私、十勝くんには会ったことがないの。ずっとあなただけを見ていました」
アキは涙を拭って、空知のことを見上げる。
「勇気を出して言います。空知くん、私はあなたのことが好きです」
しっかりと空知の瞳を見つめたまま。
「てっきり俺、アキは十勝のことを……」
空知はまだ、今の状況を信じられずにいた。
つい三十分前までは、アキは十勝に告白するものだと思っていた。
その告白が自分に向けられたものだったとは、まるで夢でも見ているような、タヌキに化かされているような、すぐに手に取って良いものなのかどうか分からなくなってしまったのだ。
空知は言葉を詰まらせ、北門前を静寂が包み込む。
――カラーン、カラカラカラ、カラ、カラ……。
静寂を破ったのは、アスファルトを転がる空き缶だった。
――午後のシャキッとコーヒー。
あ然と缶を見つめる空知に向けて、レンガ塀の向こう側から檄が飛ぶ。
『男らしくないぞ、空知! うっぷ』
『そうだ! 俺たちのプリンセスを泣かせるな!』
『アキちゃん、立派だったよ!』
やんややんやと二人に声が掛けられる。
なんだよ、缶蹴りが終わって解散したんじゃなかったのかと空知が顔をしかめる一方、アキは北門に向くとみんなに声を掛けた。
「ありがとう、直之さんっ! そして皆さん!」
北門の向こう側で歓声が湧き上がる。
『おおーーーっ!』
『愛してるよっ、プリンセス!』
『アキちゃん、最高っ!』
しかし空知は疑問で頭が一杯だった。
アキは転がった缶を見ただけで蹴った人間を言い当てた。
「アキ、なんでこの缶が直之のだって分かったんだ?」
「だって、いつも蹴る前に名前を連呼してるでしょ? それに、銘柄がみんな独特だから、缶を見れば蹴った人が分かっちゃう」
あはははは、そういうことかと空知は苦笑する。
すると、声と一緒に、空き缶がレンガ塀を越えて飛んできた。
『じゃあ、これは?』
「これは、ブレブレブレンドだから、誠也さん!」
『今度は?』
「極寒ミルクティーだから、玲二さん!」
『俺は誰だ!?』
「クール甘酒だから、武志さん!」
『これは難しいぞ!』
「この濃厚ストレートは何人かいるけど、缶が回転していないから修平さん!」
『空知、部活サボっただろ?』
「これはスペシャルビターだからキャプテンさん。名前と顔は分からないけど」
そうか、キャプテンは「キャプテン」としか連呼されないし、一度もゴミ箱を外したことがないから顔も見たことがないってわけか。ていうか、ヤバっ! 明日が恐い。
『おおおおおっ、すべて正解だ!』
『アキちゃん、最高!』
『それでこそ、俺たちのプリンセス!』
それにしても先輩方はみんな蹴るのが上手い。綺麗な軌跡を描いて、どの缶もゴミ箱の中に吸い込まれていく。
アキもアキだ。飛んで来る缶を瞬時に見分けるなんて神業に近い。しかも缶の回転まで熟知しているなんて、サッカー部員も真っ青だ。
「空知くんから聞いているかもしれませんけど、みなさんの缶は決してポイ捨て空き缶として扱っていないので、安心してください!」
レンガ塀の向こう側へ宣言するアキ。その言葉に、空知は自分の耳を疑った。
「それってどういうことなんだ? 博士が本当にそうしてるのか?」
博士はアキに、ポイ捨て空き缶を拾ってこいと命令していた。強い恨みと悪意を持って。
だから空知は、今のアキの言葉が信じられなかった。
「だって、これってきちんとゴミ箱に捨てられてるじゃない。そういう正常な缶も取ってきて、比較分析することによって、初めてポイ捨て遺伝子について研究できるのよ。これって科学の基本。もちろんポイ捨て空き缶も拾ってるわ、正門前でね」
空知は、アキに謝りたい気持ちで一杯になる。
アキは決して、みんなのことをバカにしていたわけじゃなかったんだ。
逆に、良い遺伝子のサンプルとして、みんなのことを扱ってくれていた。
「念には念をいれて、ここでは名前と顔が特定できる空き缶も採取していたの。分析結果に問題があっても後で検証できるように。そしてその中に空知くんがいた」
アキは空知のことを熱く見る。
「空知くんがたくさん外してくれたから、私は空知くんを好きになった」
褒められているのか、けなされているのかわからない。
「私の想いを断るなら、せめて空知くんの遺伝子をちょうだい?」
そう言って、アキは静かに目を閉じる。
空知は動揺する。いやいや、その言葉はこの場面ではヤバいから。
『うわっ、過激!』
『こんな場所でやるのか!?』
『アキちゃんダメだ。君には清らかな体でいて欲しい!』
ほら、みんな誤解してるじゃないか。
だから空知は声を上げる。
「空知、退散します! 大切な、大切なこの人と一緒に!」
そしてアキの手をとって駆け出した。
アキも一緒に走りながら、満面の笑みを空知に向ける。
「アキ、博士は手強そうだぞ」
「大丈夫、今度は私も戦うから。空知くんと一緒なら決して負けない」
「ああ、俺も頑張る!」
ぎゅっと握る彼女の手の温もりを感じながら、この笑顔を大切にするために良い大学に入って博士を見返してやろうと空知は誓う。勉強だってアキに教えてもらえばいい。
空知が博士に認めてもらえる時――。
それは北門が十数年ぶりに開く日になるんじゃないかと空知は希望を胸に抱くのであった。
おわり
ライトノベル作法研究所 2017夏企画
テーマ:『ゲート』
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