彼女とマロンとスクワレル2015年05月21日 22時19分15秒

 * ツーンとしたあの香りが苦手な方はご注意下さい。


「初めまして、神田幹大(かんだ かんた)といいます」
 梅雨はまだ始まらない晴天続きの六月一日。
 衣替え初日というこの日に、俺は生まれた街から遠く離れた野々原高校二年三組の教壇に立っている。
 初めて顔を合わせるクラスメートの、真っ白なワイシャツとブラウスの反射光にさらされながら自己紹介。つまり転入生ってやつ。
 遠く離れたと言っても電車で一時間半くらいなんだけど、引っ越しというものを初めて体験した俺には遥か地球の果てに来たような感覚だ。
 俺の簡素な挨拶が終わると、担任は俺の肩に手を置いた。
「神田は今日からお前たちの仲間になる。仲良くしてやってくれ」
 やっぱそれ言っちゃう?
 ドラマにそっくりそのまま出てくるような担任の言葉に、俺の背中はむず痒くなった。
 じっと俺の様子を凝視するクラスメートの視線が、チクチクと体に痛い。まあ、急に友達になってくれなくたって、ネットには仲間がいるからそれで十分なんだけどさ。
「神田の席は……、そうだな、あそこに座ってくれ」
 担任は、真ん中の列の一番後ろの席を指差した。
 ――ここでのスタートはあの席か。
 教室の最後列にポツリとたたずむ誰も座っていない席。
 どうか無難な高校生活が送れますようにと、俺は皆の視線を避けながらそそくさと指定された席に向かう。椅子に腰かけると、間髪を入れずに前の席の男子生徒が振り返った。
「オレ、佐々木悟(ささき さとる)。よろしくな、カンカン」
 えっ!? カンカンって誰のことだよ?
 困惑しながらも、俺は小声で「よろしく」と返す。屈託のない悟の笑顔。いきなり勝手なニックネーム(本人未公認)で呼ばれるのはちょっと気に入らないけど、悪い奴ではなさそうだ。
 悟が前に向き直ると、俺は小さな背もたれに体を預けながらほっと一息ついた。意識しないうちにかなり緊張していたようだ。
 こうして俺の、野々原高校での田舎生活が始まった。


 * * *


 最初の授業は数学だった。
 サイン、コサイン、タンジェント……。三角関数の呪文が教室に鳴り響く。
 というか、まだそんなところをやってんのかよ。
 どうやらこの高校は、前の学校よりも授業の進行が遅いらしい。退屈になった俺は、何か面白いものはないかと教室を見回した。
 黒板、時計、放送用のスピーカー。
 教室というものはどこも変わらない。が、一つだけ前の学校と大きく違っているところがあった。
「……何も……見えねえ」
 頬杖をついて窓の方を向いた俺は、驚きの言葉を口にする。
 ――青い空と白い雲。
 それだけしか見えない。
 いや、クラスメートの合間から遠くの山々が見えるような気もする。おそらくもっと窓に近い席なら、校庭とか緑の木々とかが見えるのだろう。
 ここは昭和に建てられたと思われる古びた鉄筋コンクリート校舎の三階。前の学校なら、周囲に乱立するビルが窓の景色を占領しているところだ。
「とんでもない所に来ちまったなあ……」
 本当に田舎なんだ。
 前の街から電車でたった一時間半なのに。
 その時だった。
 俺の鼻が異常を感知したのは。

「ど、どうして……? この匂いが教室で!?」

 ツーンと刺激のある匂い。
 教室では決して嗅いではいけない、あの白い液体の匂い。
 まあ、ずばり言うとセイシの匂いだ。セイシとは、製紙でも制止でも生死でも製糸でも静止でも整肢でも正史でもなく、あのセイシだ。
 男にしか生産できないものだから、発生源は当然男子生徒ということになる。
(いやいや俺は、昨晩は緊張していて、そんな余裕なかったし……)
 必死に自己弁護をしながら、キョロキョロと辺りを見回す。
 両隣に座っているのは女子生徒。だからそこは発生源ではない。
 最後列だから俺の後ろには生徒はいないし、ロッカーから匂って来る感じはしない。
(ということは……)
 怪しいのは、俺の前に座るこいつか?
(たしか、名前は悟って言ったっけ?)
 俺はクンクンと小さく鼻を鳴らしながら、発生源の特定を試みる。
 が、悟からあの匂いはしなかった。
(発生源はコイツじゃない)
 時折やって来るツーンとする匂いは、前からではなく、窓の方から漂っているような気がするのだ。
 肝心の窓は――きちんと閉まっている。
 まあ、窓の外からこんな匂いが入って来るくらいなら、すでに多くのクラスメートが反応してるだろう。
(まさか……)
 俺は首をさらに左に向ける。
 窓寄りの隣りの席には一人の女生徒が座っていた。
 小柄でショートボブ、鼻は低めの大人しそうな女の子。
(いやいや、それはありえない)
 女生徒にセイシは作れない。
 でも匂いは確実に、この女生徒から漂って来るのだ。
 わけがわからずハテナマークで頭の中を一杯にしているうちに、一時間目終了のチャイムが鳴った。


「なんかオレ、匂うか?」
 休み時間になると、前の席の悟が怪訝そうな顔で俺を振り向いた。授業中にクンクンしていたのがバレたのだろう。
「い、いや、君じゃないと思うんだけど、嗅いではいけないような匂いが……」
 さすがに教室で「セイシ」とは言えなかった。
 その代わりに、俺は鼻をクンクンさせながらチラリと左隣りの席を見る。
 すると悟はニヤリと口元を小さく歪ませる。どうやら匂いについて何か心当たりがあるようだ。
「そうか、もう気付かれてしまったか」
 そして悟は、大げさに右手で顔を覆う。
「あの匂いはな、クラス最大の恥部なんだ」
 おいおい、クラス最大の恥部ってなんだよ!?
 声に出しそうな俺の様子を察知して、悟は小声で顔を近づけてきた。
「いいか、これから話すことは誰にも言うなよ」
 言うなよって、転入したばかりの俺には言う相手なんていないけど。でも面白かったら、ネットでつぶやいちゃうかも。
「ああ、わかった」
 一応俺は相槌を打つ。
「まあ、クラスの誰もが知ってることだから、いつかはカンカンにも分かることなんだけど、学校全体にはまだ知られてないからな」
 それって一体どんな秘密だよ?
 俺はゴクリと唾を飲み込んだ。

「お前の左隣りに座ってる生徒、一見すると女なんだが、実は男なんだ」

 ええっ!? というかやっぱり?
 授業の最後に確認したショートボブの生徒。確かに匂いはこの生徒から漂って来た。さっき見た時は女の子にしか見えなかったけど、じっくり見たら男なのかもしれない。
 つい左を見ようとする俺を、悟が制止する。
「おい待て、あいつの方を見るな。噂してるのがバレちまう」
 悟に諭され、しょうがなく俺は前を向いて小声で質問した。
「それって、オカマ……なのか?」
「見た目はな。でも実態は違うんだ」
 それってどういうこと?
 実態は違う、という状況がよく分からない。
「いいか、オカマってのは女の恰好に憧れる男のことだろ? だけどあいつは違う。男らしくあるために女の恰好をしてるんだ」
 いやいや、全くわけが分からない。
 男らしくありたいなら、男らしい恰好をすればいいじゃないか。
 困惑する俺の顔を見て、悟は一息置いた。
「ゴメン、言い方が悪かった。単刀直入に言えば、あいつは男らしく自家発電するために、あんな恰好をしているということだ」
 男らしく自家発電!?
 なんだか首を突っ込んではいけない危ない世界連れて行かれそうだが、すごく気になる。
「ぶっちゃけ、カンカンもするだろ? 自家発電。男なんだからさ。もちろんオレもしてる」
 転入早々すごい話をしてるなと思いながら、俺は静かに頷いた。
 まあ、昨晩はしてないけど。
「そしてカンカンは匂いを嗅いでしまった。自家発電で生産されるあの液体の匂いを」
 今度は俺は、うんうんと相槌を打った。たしかにあれはセイシの匂いだ。
「それで発生源はどこかと探し、まずは俺を疑った」
「ゴメン」
 俺は小さく謝る。
「まあ、いいって。カンカンの周囲にいる男はオレだけなんだから、それは当然の反応だ。しかし現実は違っていた。なぜなら匂いの源はあいつなんだから」
 悟はチラリと俺の左隣りの生徒を見た。
 本当にあの生徒は男なのか? 男だったら発生源の可能性があることは理解できるが、にわかには信じられない。どう見たって女だぞ。
「あいつは、教室で自家発電するためにスカートを穿いて来てるんだ。だってズボンだったら無理だろ?」
 ええっ、教室で!?
 そんな話、聞いたことがない。
 そりゃ、ズボンだったら不可能っぽいけど、スカートだから教室でやって良いというわけでもないだろう。そもそも、わざわざ教室で自家発電を行う意味が分からない。
「教室でやるってどういうことなんだ? 家で済ましてくればいいだけじゃん?」
 すると悟はニヤリと口元を結ぶ。
「オレも最初はそう思った。しかしあいつはこう言ったんだ、それは素人の考えだと」
 素人の考え?
 それってどういうことだよ? 自家発電の達人がいるとでも言いたいのか?
「たしかに教室でやることにはリスクが大きすぎる。しかし、それを補って余るだけのメリットがあるんだそうだ」
 教室で自家発電することのメリット?
 まあ、好きな女の子が視界の中にいれば、すごく興奮しちゃうかもしれないけど。
 いやいや、それでもリスクが大きすぎるだろ?
 見つかれば、その女の子に嫌われることは間違いないし、社会的に抹殺されることは明らかだ。
「メリットなんて思いつかないんだけど」
「それがあるんだよ。ほら、カンカンも男ならわかるだろ? 自家発電によって、勉強に最適な状況を作り出せることを」
 勉強に最適な状況って、そんなことできるのか?
 ……ま、まさか、あれか。
 でもあれの持続時間は数分と限られているし……。
 思い当たるけどありえないという俺の表情を見て、悟は言葉を繋げた。

「そうだ、賢者タイムの存在だ」

 賢者タイム。
 自家発電の後にやってくる、すべての煩悩を忘れることができる清らかな時間のことだ。
 煩悩フリーの状態なら、勉強した内容がストレートに脳内に蓄積されることは間違いない。
「あいつはな、一度自家発電を行うと、賢者タイムが三十分も続くらしい」
 ええっ、賢者タイムが三十分も!?
 それは凄すぎる。
「さらに凄いのは分泌物だ。普通なら、性欲抑制物質と一緒に眠気物質が分泌されるところだが、あいつはアドレナリンが分泌されるというんだ」
 アドレナリンが!?
 ということは、バリバリ勉強できるってことじゃないか。
「信じられない。そんなことってあり得るのか?」
「あいつは自家発電の達人なんだ。きっと鍛錬によって、その特殊な能力を身に付けたに違いない。苦手な科目の時に自家発電を行い、ハイパー状態で学力アップしてるんだよ」
 一時間目は数学だった。ということは、苦手な科目は数学ってことか。
 確かにあの生徒、一時間目は集中して授業を受けていた。数学なんて、俺だったらすぐに眠くなるところなのに。
「ちょと確認させてくれ」
 俺は頭の中を整理するため、自分に言い聞かせるように悟に話し掛ける。
「数学が苦手なその生徒は、一時間目の授業に集中するために自家発電でハイパー状態となった。それで、その時に生産されたあの匂いが俺のところに漂ってきた――ということなのか?」
「その通りだ。オレの推測が正しければな」
 悟の瞳がキラリと光る。俺を真理へと導く光芒のごとく。
 匂いの謎が解けた。
 が、その真相に俺は驚愕する。賢者タイムにこんな使い方があるとは思わなかった。
「じゃあ、成績も?」
「もちろん、学年で一桁順位をキープしている」
 すごいやつもいるもんだ。
 田舎の高校とバカにしていたけど、それは間違いだったと俺は自覚した。
 いや、田舎だからこそ、こんな達人が存在するのかもしれない。
「これでわかっただろ? あいつは授業中に自家発電するためにスカートを穿いて来てるんだ。女装が趣味というわけではないんだよ。だけど女装にも手を抜かないところが、あいつのすごいところだ」
 呆然とする俺をよそに、休み時間終了のチャイムが鳴り響いた。


 * * *


 すごい話を聞いてしまった。
 そんな究極の『男の娘』が世の中に存在していたとは。事実はネットよりも奇なり、とはよく言ったものだ。
 二時間目は現代文だったが、当然授業内容は全く頭に入ってこない。
 そして俺は、左隣りの生徒の様子が気になってしょうがなかった。だって、二時間目も自家発電するかもしれないからだ。もし現代文が苦手科目だったら、だけど。
 俺は授業を受けるフリをしながら、色々な手段を使って生徒の様子を監視する。頬杖ついて窓の方を眺めてみたり、ストレッチで首を回してみたり、わざと消しゴムを落としてみたり……。
 ターゲットはもちろんスカートだ。
(スカートの中にまだ手は入れていない……)
 現代文が得意科目だったら監視は杞憂に終わる。が、どうしても気になってしょうがない。
 俺の席からスカートを確認するのは比較的楽だった。視線をやや左にずらせば、机の下からその生徒のスカートが見える。野々原高校の制服のスカートは、紺色に白色のラインのチェック柄だった。

『あいつは授業中に自家発電するためにスカートを穿いて来てるんだ』

 悟の言葉を思い出す。
 確かに、そういう視点でスカートの長さをチェックすると、左隣りの生徒のスカート丈は絶妙だった。
 ――短すぎず、長すぎず。
 短かすぎると自家発電を隠すことはできないし、長すぎると逆に邪魔になるだろう。計算尽くされた長さ――俺にはそう見えた。
(一時間目は、あの中で自家発電が行われたんだな)
 だからツーンとした匂いが漂って来た。
 匂いが来た方向もちゃんと合っている。
 それよりも俺は、スカートから覗かせている足がとても綺麗なことに気付く。
(スネ毛もちゃんと処理してるじゃないか)
 すべすべとしたスリムな白い足。とても男のものとは思えない。

『女装にも手を抜かないところが、あいつのすごいところだ』

 再び悟の言葉を思い出す。
 確かにすごい。スネ毛の処理は完璧だ。でも、その他の部分の処理はどうなっているのかと、俺はだんだんと視線を上げていく。
 困ったのは、視線を上げるにつれてより左側に顔を向けなくてはいけないことだ。視線を生徒の方に向けてしまうと、監視していることがバレてしまう。が、強い興味に負けてしまい、俺はチラ見を続けることにした。
 スカートからブラウスへと視線を上昇させ、ついに胸のラインに到達。
(美しい曲線だな)
 巨乳ではない。が、小さすぎるというわけでもない。
 片手でちょうど収まるくらいの、一時間目の数学の言葉を借りるとすれば美しいサインカーブ。そんな緩丘が演出されていた。
(男でもこんなラインを作ることができるのか?)
 きっとブラを着けて、中に上手くパットを入れているに違いない。脇の下から背中にかけて、うっすらとブラのラインが透けている。
(ここまでは完璧だな)
 確かに女装に手を抜いていない。
 しかしここから上には最大の難関が待ち受けている。
 ――毎日生えてくるヒゲ。
 これを完璧に処理するのは至難の業だろう。剃れば剃り残しや切り傷ができるし、脱毛なら肌荒れ対策が大変だ。お金をかければなんとかなるらしいが、高校生にそこまで経済的な余裕があるとは思えない。
 俺は生徒と視線を合わせないよう最大限の注意を払いながら、ついに視線を顔に向けた。
「……ウソ……だろ?」
 俺は驚愕した。ヒゲの処理も完璧だったのだ。
 剃り残しはないし、肌荒れも全くない。
 それどころか、ふっくらとした頬は触ってみたくなるほど柔らかそうだった。
 薄めのくちびるに、ぷっくりとした涙袋。
 瞳もよく見ると二重じゃないか。
 これは正にネットで見かけるような完璧な男の娘だ、と俺がため息をもらした瞬間――
「あっ!?」
「げっ!」
 生徒が不意にこちらを向く。
 一瞬目が合ってしまい、慌てて俺は顔を前に向けた。
(ヤベぇ、ドキドキしてる……)
 そして、黒板の文字を必死にノートに書き写す――フリをした。
 ――驚きに見開こうとする黒い瞳。
 ――前髪が揃えられたキュートなオデコ。
 ほんの一瞬の光景が、俺の心を鷲掴みにする。
(何こんなにドキドキしてんだよ。相手は男だぞ)
 転入初日というのに危ない道に一歩踏み込んでしまったと後悔しながらも、左隣りの生徒の顔をじっくり見たい衝動を抑えきれない。
(これってどんな罠だよ)
 この気持ちが悟にバレたら、「それは運命だ」って笑われそうだ。
(というか、あの生徒……)
 俺は今ごろ大事なことに気が付いた。
「名前、なんて言うんだろう?」


 二時間目が終わると、俺は早速、悟に声を掛ける。
「ちょっと教えてほしいんだけど……」
 左隣りの生徒に聞こえないよう、小声で。
「さっき話してた男の娘、なんて名前?」
 剛とか豪太とか、そんな強そうな名前だったらどうしようと心配している俺は、完全に毒されてしまったんじゃないかと情けなくなる。
「おお、あいつか。名前はな」
 名前は!?
「本座芽衣子(ほんざ めいこ)っていうんだ」
 なんだ、普通の女の子の名前じゃねえか。
 というか、どっかで聞いたことがあるような感じがするのは気のせい?
「略して、ザメコ」
「ぶぶっ!」
 まんまじゃねえか、と俺は吹いた。
 その様子に気付いた生徒は立ち上がり、こちらに寄って来る。
「ねえ、ちょっと、何コソコソ話してんのよ」
 ヤバぇ、噂してるのがバレちまった。俺は慌てて悟の方を向く。声もちゃんと女の子してるのは驚きだった。
「ザメコのこと、彼に教えてあげてるんだよ。お隣さんだしな」
 悟が本座さんに説明する。
 おいおい、教室で本座さんのこと『ザメコ』って呼んじゃっていいのかよ?
「悟、また変なこと吹き込んでるんでしょ?」
 ええっ、『ザメコ』はスルー?
 まさかの本人公認!?
「違うよ。ザメコの自家発電のことを教えてあげてるんだよ。調子いいんだろ?」
 いいのかよ、そんなこと訊いて!?
 いくらなんでも直球すぎるだろ?
 と思いながらも答えが気になった俺は、思わず本座さんの方を向く。
「そうね、バリバリ絶好調よ」
 バ、バリバリ……!?
 前髪を揺らしながら親指を立てるザメコ、いや本座さんのキュートな笑顔にドキっとしたが、踏み込んではいけない危ない世界への入り口を感じて俺は硬直した。
「そうそう、彼ってさ、ザメコから匂ってくるクリの花の香りに興味があるんだと」
 へっ? クリの花?
 俺、そんなことひとことも言ってないぞ。
 そもそもクリの花って何だ?
「へえ、それは珍しいわね。そうなのよ、ちょうど先週から咲き始めて受粉作業で大変なの。悟、手伝いに来てよ」
「やだよ、オレ、あの香りがダメなんだ」
 咲き始め……? 受粉……?
 一体彼らは何の話をしてるんだろう?
 突然会話の内容が理解できなくなった俺は、目をパチクリさせた。
「あれ? クリに興味があるんじゃなかったの? 神田君……だったよね? もしそうだったら転入早々悪いんだけど、手伝いに来てくれると嬉しいな」
 俺の様子に気付いた本座さんが、オデコを近付けて俺の顔を覗き込む。
 そ、そんな笑顔でお願いされると断れないじゃないか……。
「あ、ああ、いいけど……」
 ドキドキする心臓に負けて、俺は生返事をした。
「ホント!? じゃあ、今日の放課後からいい?」
 両手を合わせたお願いポーズで、本座さんがピョンと躍動する。一緒に跳ね上がる前髪から見えるオデコも魅力的だった。
 今日の放課後からっていうのは急な話だけど、特に用事なんてないから断る理由もない。
 それよりも気になるのは、なんで急にクリの話題になったかだ。
「その前に、一つ教えて欲しいんだけど……」
「何?」
「何だ」
 悟も興味津々にこちらを向く。
「クリって、あの食べるクリだよね?」
「そうだけど?」
「ああ」
 二人の視線が俺に集中する。俺は思い切って訊いてみた。
「それって……花が咲くの?」
「はぁ?」
「ええっ!!」
 本座さんと悟の驚きの声が教室に響いた。


 * * *


「もう、びっくりしたわ、クリに花が咲くのかって訊いてくる人がいるんだから」
「いや、それはもう言わないで」
 放課後、俺は本座さんと二人で用水路の脇の農道を歩いている。
 俺は教室で、クリの花の受粉作業を手伝うと約束してしまった。悟も道連れにしようとしたが、「部活があるから」と逃げられてしまった。
 高校から十五分も歩くと、もうそこは畑が広がるのどかな田園地帯だった。高校の三階建の鉄筋コンクリートはすでに遠くに見える。パラパラと周囲に散らばる木造瓦屋根の民家と林、そしてはるか遠くに連なる山々。本座さんは俺の隣りで自転車を押していた。
「果実の元は花だって、小学生でも知ってるでしょ?」
「都会育ちだからしょうがないんだよ。クリの花なんて、見たこともないし聞いたこともない」
 俺は必死に言い訳をする。
 でもそれは事実だった。
 ビルの合間で俺は生まれ、自然を知らずに俺は育った。そして、部活もせず友達と遊ぶこともせず、ネットばかりに熱中する俺を見かねた両親は、野々原への異動を契機に引っ越すことを決意したのだ。
 電車でたった一時間半の距離なのに。
 そのせいで、俺は転入初日だというのに、こうして男の娘と靴に泥をつけながら未舗装の田舎道を歩いている。
「神田君って本当に都会っ子なんだね」
 身長百五十センチくらいの本座さんと、百七十センチの俺。
 本座さんの方を見ると、緑の畑をバックに綺麗なショートボブの黒髪がキラキラと光っている。
 傍目から見ると、一緒に下校しているカップルのように見えるかもしれない。俺だってそんなシチュエーションを望んでる。が、隣を歩く本座さんは男の娘なのだ。
 かといって、ドキドキしないと言えば嘘だった。時折、俺を見上げて話しかけてくる本座さんのオデコが可愛かったからだ。
「頼むから、都会っ子って言わないでくれよ」
 だから俺は、高鳴る心を鎮めようと照れ隠しの言葉を吐いた。
 どうしてこんな気持ちになってしまったのか、いまだにわからない。
 しばらくすると、本座さんが前方を指差した。
「ほら、あれがうちのソーラー」
 百メートルほど先に、地面に設置された黒光りするソーラーパネル群が見えてきた。広さはテニスコートくらいだろうか。南の空を向くよう金属製の台に立て掛けられたパネルが、五列の等間隔に規則正しく並んでいる。
「二十キロワットだから大したことないんだけど……」
 すげぇ、これがソーラー発電か。大震災後から各地で設置されていると聞いていたけど、屋根でなく野立てを間近で見るのは初めてだ。これだけのパネルがあれば電力の自給は可能だろう。
 ていうか、本当に自家発電してたんだ。
「大したことないって言っても、電気代はタダなんだろ?」
「そうね。それどころか月に四万くらいは儲かってるかな」
 四万円!?
 高校生にとっては凄い金額じゃないか!? まあ、本座さんじゃないくて家の人が受け取っているんだと思うけど。
「この周辺はね、おじいちゃんの畑だったの。そしてその名残があのクリ林」
 本座さんが指差す方向には、二十本くらいの樹木が林を形成している。きっとあの林が俺たちの目的地なんだろう。
 その時。
「うわっ、なんだ、この匂い」
 ツーんと刺激的な匂いが鼻をついてきた。
 これって、セイシの匂いじゃないか!
 正に授業中に漂ってきたあの匂い。
「あら? クリの花の香りだけど、変?」
 クリの花って、こんな匂いがするのかよっ!?
 だから学校で悟は、俺がクリの花の匂いに興味があるって言っていたのか。
 やっと謎が解けた。確かに、悟が遠慮するのもわかる。
 俺はマスクをしたくなるような気持ちで、クリ林に入って行く本座さんの後を追いかけた。

 クリ林は、手前に低めの木が三本、その奥に大きめ木が二十本くらい植えられていた。それぞれの木には細長い緑の葉が生い茂っていて、下草はきれいに刈られている。六月の太陽光が降り注ぐ田園に、つかの間の清涼を与えていた。
 見た目だけは。
 葉の合間からはススキのような白い穂が大量に顔を出していて、風になびくたびにツーンとする強烈なあの匂いを放っている。
「これがクリの雄花。穂の形をしてるから、花穂っていうの」
 愛しそうに花穂に手を添える本座さん。
 絵的には美しい構図なのだが、セイシの匂いだったり男の娘だったりいろいろと残念だったりする。
「それで、この花穂の根元付近に咲いているちょっと変わったこの花が雌花」
「どれどれ……」
 俺は本座さんが指差す花に顔を近づける。
 白く細長い突起物のような雌しべがたくさん飛び出した雌花が、花穂の根元にちょこんと付いていた。
「ここに雄花の花粉が着くと受粉になるの」
「へぇ……」
 学校で本座さんは「受粉作業は大変」って言ってたけど、これならとても簡単なような気がする。だって、すぐ近くの花穂の花粉をここに付ければいいだけなんだろ? よくテレビで見るような先にワタが付いている棒のようなものを使って。
「じゃあ、サッサとやろうよ。道具はあるの?」
 すると本座さんは、クリ林の脇にある小さな物置小屋を開けて、先にワタの付いた棒とクリーム色の粉が入ったペットボトルを取り出して来た。
「こっちが受粉棒、そしてこっちが花粉」
 そして俺に棒とペットボトルを差し出した。
 俺は早速道具を受け取り、花粉の入ったペットボトルのキャップを開けてみる。
 とたん、俺を襲ったのはツーンとするあの匂いの強烈版だった。
「うげげぇッッッ!!」
 その様子を見た本座さんは、前髪を揺らしながらケラケラと笑い出す。
「あはははは。男子ってその匂いが嗅ぐとみんな嫌な顔をするのよね。いつも不思議に思うんだけど」
 いやいや、本座さんだって男子じゃないか。
「確かにツーンと刺激的なのは分かるけど、そこまで毛嫌いしなくたっていいんじゃないって思うのよね」
 毛嫌いする理由なんて、分かり切ってると思うんだけど。
 男とはいえ、見た目は完全に女の子の本座さんの前で「セイシ」と言うのはなんだか恥ずかしく、かといってなんて答えたらいいのか分からない俺は、ゴホゴホとむせたフリで返答をごまかした。
 そして無言のままペットボトルに受粉棒を突っ込んで、花粉を雌花に付ける。
 腕組みをしながらその様子を見ていた本座さんは、あざ笑うようにポツリとつぶやいた。
「やっぱり、神田君は都会っ子ね」
 ええっ、俺って何か変なことをした?
 花粉を雌花に付ければいいんだよね?
 振り向くと、本座さんはニヤニヤと笑ってる。さっきの質問の答えを誤魔化したお返しと言わんばかりに。その態度に俺はカチンと来た。
「なんだよ、さっきから。どうせ俺は都会っ子で、クリの花なんか知らなかったし、受粉のやり方なんて知らねえよ。だったらちゃんと教えてくれよ」
 こんな仕打ちを受けるんだったら、男の娘になんか関わるんじゃなかった。ちょっとオデコがキュートだからって、所詮は男じゃねえか。
 俺は、花粉棒とペットボトルを本座さんに突き返す。
「ゴメン……」
 一瞬俺に悲しそうな顔を見せたかと思うと、しおらしくうつむく本座さん。
 泣き落とししようったって、男だから許さない。
「受粉の手伝いに誰かが来てくれたのって初めてだから、つい嬉しくなっちゃって……。調子に乗って、ゴメンね……」
 うなだれたまま道具を受け取ろうとしない本座さん。
 俺はどうしたらいいのかわからず、その場に立ち尽くした。
「私ね、あまり友達がいなくて、このクリ林でずっと過ごしてきたの」
 なんだか、どこかで聞いたような話だ。俺の場合、没頭してたのはネットだったけど。
 そりゃ、男の娘になった本座さんが悪い。
 それくらいの覚悟があって男の娘になったわけじゃないのか?
「農薬も使わず、科学肥料も使わず、手間暇かけて……。同級生達とは違って、この林はちゃんと私の想いに答えてくれた。だからね、今日はここに来てくれて本当に嬉しかったの」
 うーん、そこまで言われたら引き下がるしかない。俺だって鬼じゃない。
「だったらちゃんと教えてくれよ。手伝うからさ」
「うん、わかった」
 笑顔を取り戻しながら俺を見上げる本座さんのオデコは、やっぱりキュートだった。

「クリってね、同じ木の花粉を付けても実が成らないの」
 なんだよ、そんなちゃんとした理由があるんだったら初めから教えてくれよ。
「別の木でもね、同じ品種だとダメなの。自家不結実性って言うんだけどね」
 そんなの初めて聞いたぞ。
 やっぱり俺は都会っ子なのか?
「だからここには二種類のクリの木があるでしょ? 手前の低い三本の木が受粉樹のミクリ、奥に沢山あるのがポロタンっていうの。ポロタンはね、皮が特殊な品種なのよ」
 ミクリとポロタンね。
「ミクリの花粉をポロタンの雌花に付けると実がなるの。普通は風や虫で受粉してくれるんだけど、ミクリが三本しかないから人工受粉させてるの」
 そういうわけだったのか。
 だったら最初から言ってくれればいいのに。
「それで? ペットボトルに入っているのは?」
「ミクリの花粉よ」
「だったら、それをあっちの高い木の雌花に付ければいいんだな」
「そういうこと」
 へっ、都会っ子だってちゃんと教えてくれればできるんだよ。
 俺はペットボトルと受粉棒を持って、背の高いポロタンの林に向かう。
「こっちは結構高いな……」
 半分くらいの花は俺の背で手が届く高さだが、一番上の花にはジャンプしても届きそうもない。
「それ貸して」
 俺がポロタンの花を見上げていると、本座さんが両手を差し出した。
 いやいや、本座さんの背だったらさらに届かないと思うんだけど……。
 疑問に思いながらペットボトルと花粉棒を本座さんに渡す。
「じゃあ、そこにひざまずいて」
 まさか、俺の背中の上に乗ろうってんじゃないだろうな?
 頼むから靴を脱いで乗ってくれよ、と思いながら俺は膝を曲げて下を向く。
 一瞬視界が暗くなったかと思うと、肩の上にずしりと重量がかかった。
「ゆっくり立ってね。ゆっくりだよ」
 ま、まさか、これって……肩車!?
 制服のスカート姿で!!??
 男の娘だからって、ちょっとこれは大胆すぎるだろ?
 不覚にもドキドキしながら俺はゆっくりと立ち上がる。重かったらどうしようと一瞬思ったが、意外と軽かった。
「そうそう。それで、右に三十度回転!」
 本座さんはすでにパイロット気分だ。
 俺が言われた通りに向きを変えると、肩の上の本座さんはなにやらごそごそとやり始めた。
 顔を上に向けてみると、本座さんは左手にペットボトル持って、右手の受粉棒で花粉を雌花に付けている。授業中と同じ真剣な眼差し。
「ゴメンね、上を向かないでくれる? 落ちちゃうよ~」
 俺が上を向いたものだがら、重心が後ろに傾いて本座さんはバランスを崩しそうになる。慌てた俺は、本座さんの脚をしっかりと抑えた。
 すると本座さんは、急に身もだえし始める。
「ちょ、ちょっとぉ! 膝小僧はダメだよぉ、くすぐったいよぉ~」
 男の娘のくせに膝小僧が弱点らしい。
 しかたがないと、脚を抑える手を足首までスライドさせた。
「そうそう、それでよし。前だけ向いててね」
 すべすべだったよ、脚。
 本当にすね毛の処理は完璧なんだと感心する。
「次は、三歩前」
 手の届く範囲の受粉が終わると、本座さんから移動命令が下される。言われる通り、俺は三歩前に進んだ。
 ていうか、俺は本座さんのロボットじゃないんだけど。
「左六十度、二歩前」
 なんだよ、これじゃ本当にロボットじゃないかよ。
 そう思いながら、俺は重要なことに気付く。
 いつの間にかスカートがずれてしまい、俺の首筋と本座さんの股間を隔てているものはパンツという布きれ一枚だけになってしまったようなのだ。その証拠に、俺の首から頬を圧迫している本座さんの太ももは、直接肌が触れていて温かい。
(カンベンしてくれよ……)
 これじゃあ、動くたびに本座さんのアレがムニュっと俺の首筋に押し当てられてしまうじゃないか。
 さすがにそれは回避したい。
 ムニュを感じてしまったら、絶対夢に出てきそうだ。
「左三十度、二歩前」
 ゆっくり、ゆっくり。
 アレが首筋に当たらないように……。
 俺は慎重な移動を心がけた。
「今度は六歩前」
 どうやら一本目の受粉が終わったようだ。
 クリの木一本片付けるのに意外と時間がかかった。確かにこれは大変な作業だ。一日でクリ林すべてを終わらせることはとても不可能に思える。
 もしかして、本座さんは今までこの作業を一人でやっていたんじゃないだろうか。脚立を使って、ちょっとずつ移動しながら、脚立を昇り降りして。それは途方もない重労働に違いない。
「ストップ!」
 考え事をしながら進んでいると、突然、本座さんから停止命令がかかった。
 急停止する俺。
(しまった!)
 このままでは本座さんの股間が俺の首筋に強く押し当てられて――
(ヤバい……)
 つい油断してしまった。自分の不注意を呪いながら目をつむる。これから起こるムニュ地獄で、きっと今晩は眠れないだろう。
 しかし予想外の事態が。
(あれれ……、ムニュってしなかったぞ……?)
 これってどういうことだ?
「右に四十五度。二歩前」
 今度は俺は、普通に動いてみた。
(やっぱり、ムニュってしない)
 俺は全神経を首筋に集中する。
「左三十度、三歩前」
「左四十五度、一歩後ろ」
「右二百七十度、二歩前」
 どんなに複雑に動いても、首筋に男のアレが押しつけられることはなかったのだ。
(ま、まさか、これって……)
 俺は今まで、とんでもない勘違いをしていたんじゃないだろうか?
 何がなんだか分からなくなってしまった俺は、つい本座さんに質問する。
「本座さん、ちょっと変なこと訊いてもいい?」
「いいよ、何?」
「もしかして、本座さんって女の子?」
「そうだけど。って、ちょっと、それどういう意味? 今まで何だと思ってたのよっ!?」
 そうなんだ、やっぱり女の子なんだ。
 って?
「えっ、えええええーーーーーーッッッッッッ!?!?!?!?!?」
 俺の叫び声が、クリ林に響き渡った。


 * * *


 野々原高校の文化祭は、毎年六月の第一週の週末に行われる。一応、進学校であるため、受験に配慮してそういう日程になっているらしい。
 六月一日に転入した俺は、いきなり文化祭を体験することになった。準備段階から参加していなかったため、店番でクラスに貢献したものの、お客さんのような待遇のまま終わることになってしまった。
(しょうがないよな。転入したばかりなんだし……)
 俺は、校庭のファイアーをぼんやりと眺める。
 最終日の後夜祭では、校庭で大きなファイアーが焚かれ、その周りでダンスやパフォーマンスが行われていた。それが一段落した今ではほとんどの生徒が帰宅してしまい、二、三十人の生徒が名残惜しそうにファイアーを囲んでいる。本当はいけないことだが、文化祭で使われた看板やポスターなどが火に投げ込まれ、そのたびに炎は勢いを盛り返し漆黒の夜空にパチパチと火の粉が舞い踊っていた。
「何、黄昏てんのよ」
 ぽつりとファイアーを見ていた俺に、寄り添ってくれる影があった。
「本座さん……」
 悟の嘘を信じて、男の娘だと思っていた女の子。
 真相が判明した時は修羅場を迎えそうになったが、悟に騙されたことを説明すると、肉体労働と引き換えに許してもらえることになった。教室で俺が嗅いだ「セイシ」の匂いは、本座さんの制服に付いたクリの花の香りだった。
 肝心の悟といえば、「ごめん、悪かった。カンカンはクリの花のことを知ってると思ってたから、つい冗談をエスカレートさせちまったんだ」と口先だけの謝罪でごまかされてしまったけど。
「今週はありがとう。本当に助かったわ」
 そう、あれから俺は毎朝、登校前のクリ林で受粉作業を手伝っていた。肩車の車役として。
 おかげで俺は、本座さんと一緒にクリの花の香りをプンプンさせながら登校することになった。当然、変な目で俺達のことを見るクラスメートもいた。それでも本座さんがあっけらかんとしていることが、俺にとって救いだった。
「あの作業、今まで一人でやってたのか?」
 三メートルもあるクリの木の受粉作業。
 俺が本座さんを肩車したので、移動しながら効率的に作業ができたが、一人で脚立を乗り降りしていたらさぞかし大変に違いない。
「そうよ。毎年二週間はかかってたんだけど、今年は五日で終わっちゃった。本当にカンカンのおかげ」
 いつの間にか、本座さんも俺のことをカンカンと呼ぶようになっていた。
 もちろん発端は悟だ。今ではクラス中に広まっている。
「受粉の大変さを見せられたら手伝わざるを得ないよ。悟の嘘を見抜けなかった俺も悪いし」
 首筋に感じる女の子らしさに、毎回ドキドキしていたことは内緒だけど。
「あの嘘はひどかったよね、こんな乙女をつかまえて男の娘だなんて。悟ってね、いつも嘘を暴走させてるんだから」
 へえ、そうなんだ……。
 まあ、その嘘のおかげで本座さんと仲良くなれたんだけど。
「その件については本当にゴメン。今週は肉体労働したから許してくれるよね?」
「うん、カンカンには感謝してる。今日はささやかなお礼として、これ持って来たの」
 本座さんが、手に持っていたビニール袋を俺の前に掲げる。
 チラリと中を覗きこんだが、暗くてよくわからない。
「何? これ?」
「ほら、よく見ててね」
 そう言って、本座さんはビニール袋の中身を一つ、火の中に投げ込んだ。
 それは丸くてトゲトゲで、火が付くと一瞬で燃え尽きる。
「小さな花火みたいでしょ?」
 それはクリのイガだった。
 トゲトゲが燃え尽きる時に、線香のような赤い小さな光が放射状に広がっていく。それは小さな小さな打ち上げ花火のようだった。
「そうだね、一瞬だけどなんか綺麗」
「でしょ?」
 気を良くした本座さんは、次から次へと火の中にイガを放り込む。
 炎に照らされたオデコも、やっぱりキュートだった。
 その時――パン、パン! という大きな破裂音がファイアーの中で起きて、校庭は騒然となる。

『誰だよ、ファイアーの中に変なものを入れたのは!?』
『さっき、誰かがクリを入れてたぜ』
『なんだよ、クリの爆発かよ。って、やっぱザメコ?』
『きっとザメコだよ。クリといえばあいつだろ?』

 悪意を持った眼差しが、次々とこちらを向く。
 ぷうんとファイアーの方から焼けたクリの匂いが漂って来た。もしかしたらさっき投げ入れたイガにクリが残っていたのかもしれない。チラリと本座さんを見ると、うつむきながらわなわなと肩を震わせている。
「大丈夫だよ、本座さん。すぐにみんなクリのことなんが忘れちゃうよ」
 俺は本座さんに声をかける。しかし彼女は拳をぎゅっと握りしめていた。
「違う、これは誰かの陰謀よ。私を陥れるための」
 それって、別の誰かがクリをファイアーに投げ入れたってこと?
 何のために? 本座さんをいじめたって、何も得することなんて無いだろうに。
「それよりも我慢ならないのは、わたしのクリを冒涜したこと。それは絶対許せない」
 いつもはほんわかした本座さんなのに、今は瞳が怒りに燃えている。
 こんな彼女を見るのは初めてだ。
 本座さんは一歩前に出ると、大声で犯人に告げた。

「誰? クリを中に入れたのは!? 言っておくけど、私のクリは爆発なんてしないんだからねっ!!」

 そしていきなり走り出してしまった。
(ヤバい!)
 俺の第六感が警告する。
(このままでは本座さんが孤立してしまう)
 転入生の俺に優しく接してくれた女の子。
 その恩人をこのままにしておくことはできない。
「待って! 本座さん!!」
 だから本能的に叫んでいた。
 俺の叫びを聞いて立ち止まる本座さん。それを確認すると、生徒達を向いて大声を張り上げた。
「俺は本座さんを信じる。彼女は誠心誠意、クリを育ててるんだ。だから彼女が爆発しないと言ったらそれを信じる。どうかみんなも信じてほしい」
 たとえ逆効果だとしても。
 学校中が彼女を冷たく見ることになったとしても、味方が一人はいることを教えてあげたかった。だって前の学校の俺も、そんな存在だったから。

『あいつ、誰?』
『ほら、今週二年三組に来た転入生だよ』
『あいつらできてんの?』
『毎朝、ヤバい匂いをプンプンさせながら一緒に登校してるぜ。迷惑ったらありゃしない』

 周囲の嘲笑が俺に向く。
 これでいい。どうせ俺は転入生で一人なんだから。
 本座さんを一人にさせなかっただけでも良かったんだ。
 一度は立ち止まった本座さんだったが、再び駆け出して闇の中に消えてしまった。

 その時だった。
「オレも信じるね」
 俺の背後から、聞いたことのある声が校庭に響いたのだ。
「だってこいつ、ザメコが男の娘だって話を信じてたんだぜ。だからオレも、ザメコの話を信じる」
 振り向くと悟だった。
 ていうか、フォローにも何にもなってないんだけど。
 悟は続ける。
「さらに言うと、こいつはクリの花の香りを嗅いだことがなかったんだ」

『なに、それ?』
『面白そうだな、もっと聞かせろよ』
『いやいやクリの花の話はカンベンしてくれよ~』

 生徒たちは悟の話に食いついている。
「なんだよ悟。それってぜんぜん関係ねえじゃねえかよ」
 悟は俺の言葉に耳を傾けようとはせず、アゴを校門の方へ振って合図する。
「ほら、行ってやれよ。オレが時間稼ぎしているうちに」
 何の時間稼ぎなのかさっぱりわからないが、その言葉が俺の背中を押した。
(そうだよ、本座さんを追いかけなくちゃ!)
 俺は「サンキュ」と言い残して走り出す。
 背後では悟が説明を続け、生徒達をひきつけていた。
「なぜなら、あいつはまだセイツーしてないからだ」
『マジか?』
『高校二年生にもなって?』
『てことは、ツルツルか!?』
「その通り、見事なほどツルツルだった」
 んなことあるかよっ!
 あの野郎、また妄想をエスカレートさせやがって。
 背後で繰り広げられているやり取りに後ろ髪引かれながらも、俺は本座さんを追いかけた。


 本座さんはまだ自転車置き場にいた。
 鍵を外そうと自転車の脇にしゃがんだまま、なにやらブツブツとつぶやている。
「助けて、ポロタン。助けて、ポロタン……」
 ガチガチと震える手は、鍵穴をとらえることができないでいる。そもそも視点が合ってない。
(ヤバい、パニクってるぞ)
 俺は慌てて本座さんの元に走った。
「大丈夫!? 本座さんっ!」
 すると彼女は、俺を見るなり一瞬安堵の表情を浮かべる。
「ポロタン!」
 そしていきなり俺の胸に飛び込んできた。破れるんじゃないかと思うくらい、ぎゅっと俺の制服の裾を握りしめている。
 胸に押し付けられた瞳からは、とめどもなく涙が溢れていた。
「ポロタン、助けて。お願い、ポロタン……」
「大丈夫、大丈夫。ポロタンが守ってやるから」
 俺は優しくショートボブの髪を撫でてあげる。
「ありがとう、ポロタン。ありがとう……」
 自転車置き場を通る生徒達の視線が痛かったが、俺はしばらくの間本座さんを守るクリの木になってあげていた。


 * * *


 次の日は文化祭の代休で休みだった。
 昨夜のことを思い出すたび、身体中がむず痒くなってどうしようもなくなる。
 ――どうして俺は、彼女のことをぎゅっと抱きしめてあげなかったんだろう……?
 あれから家まで送ってあげたけど、彼女はずっと泣いていた。朝を迎えて元気になったのか、心配でしょうがない。メールを打って励ましてあげたいけど、静かにしてあげた方がいいような気もして、俺は何度もスマホをベッドに投げ出した。

『ありがとう、ポロタン。ありがとう……』
 あの時彼女を救ったのは、神田幹大という男ではなく彼女のクリの木だった。

 いつもはあっけらかんとしている本座さん。
 一人の時は、ひっそりクリ林で泣いているのだろう。
 ずっと一緒に過ごしてきたポロタンの木にすがりついて。
 昨日の俺は彼女の役に立っただろうか?
 でも、クリの木としてではなく、一人の男として彼女を支えてあげたい……。
 そんな気持ちを持て余していた俺のスマホに、一通のメールが届く。

『お早うカンカン。昨日はありがとう。カンカンの言葉、本当に嬉しかった。お礼にご馳走したいんだけど、今日うちに来れる?』

 本座さんからだった。俺はすぐに返事を書く。
『よかった元気そうで。何時に行けばいい?』
 ご馳走と聞いて、連想するのはクリの木だった。
 なぜならそれは、彼女を救い続けてくれたものだから。
 返事はすぐに来た。
『一時でいいかな? お腹を空かして来てね!』
 何だろう? クリご飯かな?
 季節は秋じゃないけど、冷凍したものとかがあるに違いない。
『わかった。じゃあ後で』
 俺は胸が熱くなるのを感じながら、スマホをぎゅっと抱きしめた。


 外は今日も晴天だった。
 梅雨の到来には、まだちょっとかかるのだろう。
 舗装されていない農道を歩いていると、畑の上を空高く鳥が舞っていて、ビリビリビリと甲高い鳴き声を響かせている。あれは一体、何という鳥なんだろう?
 都会っ子だった俺に、劇的な変化をもたらしてくれた野々原という土地。二週間前にはこんな生活、想像さえしていなかった。
 男の娘だと思っていたら本物の女の子だったり、俺の胸の中で涙を流したり。
 ネットに没頭していた時には考えもしなかったリアルな別世界。それがたった一時間半の距離に平然と存在していたことに、俺はただただ驚いていた。
「もうすぐだ」
 本座さんという存在に確実に近づいている。
 ドキドキと高鳴る心臓。
 やっぱり俺は、彼女に恋しているのだろうか?
 黒光りするソーラーとクリ林を抜けると、赤茶けた瓦屋根二階建ての母屋が見えてきた。隣りには農機具を収納する納屋や小さな蔵もある。これがこの地域の典型的な農家の装いなのだろう。
 駐車場を兼ねた広い玄関前に足を踏み入れると、玄関から本座さんが姿を現す。
「今日は来てくれて、ありがとう」
 俺に対して礼儀正しくペコリとお辞儀をする本座さん。
 ショートボブの黒髪を揺らしながら、満面の笑みを俺に向けてくれた。
 花柄のキュロットに、ラフに着こなしたTシャツ、そして素足にサンダルという涼しそうな姿。やっぱり本座さんは明るい方がいい。もう俺の心臓はバクバクと破裂しそうだ。
「元気そうで安心したよ。もう大丈夫?」
 ドキドキを隠しながら俺は訊く。
「昨日は恥ずかしいところを見せてゴメンね。私ね、嫌なことがあるといつもクリ林で泣いてたの」
 やっぱりポロタンは彼女をずっと見守ってくれていたんだ。
「本座さんは本当にクリが好きなんだね。今日のご馳走もクリ……とか?」
 すると本座さんは悪戯っ子のように笑う。
「ご馳走なんてものじゃないよ。それにね、何が出て来るのかは食べてからのお楽しみ。純粋に味だけで評価してほしいから」
 何? クリご飯確定というわけじゃないのか?
 味だけで評価してほしいなんて、きっと自信がある証拠だろう。俺は「受けて立とう」と意気込みながら玄関で靴を脱いだ。

 本座さんの部屋は、風通しのよい東向きの二階にあった。窓からは、プカプカと浮かぶ真っ白な雲が見える。
 畳の上には古風なちゃぶ台が置かれていた。
「ほら、ここに座って。足は崩しててね」
 俺は敷かれた座布団の上に座る。
「じゃあ、ご飯を持ってくるから」
 そう言って部屋を出る本座さん。ドタドタと階段を降りる音がする。
 待っている間、俺はキョロキョロと部屋を見回した。
 勉強机と椅子、そしてびっしり本が並んだ本棚。女の子の部屋らしく、綺麗に片付けられている。
「すげぇ、よく見たらクリの本ばかりだよ!」
 本棚の真ん中の一段は、すべてクリ関連の本だったのだ。ソーラー発電の本も五冊くらい並んでいた。
「おまたせ」
 本座さんはお盆を持って、すぐに戻って来た。ご飯はすでに用意されていたのだろう。
 お盆からちゃぶ台に置かれたのは、ご飯とみそ汁、そしておかずの皿だった。
「ほとんどこの辺りで採れたもので作ったの。だから美味しいよ」
 ご飯は白い普通のご飯。味噌汁も具は豆腐のようだ。そしておかずは柔らかそうなシュウマイ五個とミニトマトとキュウリだった。
(えっ!? クリが……、どこにもないぞ?)
 ご飯はクリご飯じゃないし、おかずにも入っている感じはしない。
(まあ、味で評価してほしいということだったし……)
 不思議に思いながらも、俺は本座さんと向かい合って「いただきます」と手を合わせた。
 まずはミニトマト。
 食べると瑞々しくて、じわっと甘さが伝わって来る。
「美味い。こんなトマト、食べたことがないよ」
「でしょ? うちの畑で採れたものなの。キュウリと一緒にさっき収穫したばかりだから新鮮よ。これからトマトの季節だしね」
 へえ、トマトってこれからが季節なのか。
 温室で一年中採れると思っていたけど、なんだか軽くカルチャーショックだ。
 ということは、このキュウリも新鮮ってことか。
「んん、キュウリも美味い」
 苦さなんて少しも感じない。都会でこんな野菜は味わったことがない。
 そして俺はシュウマイにかじりつく。
「おおっ? これはエビ?」
 アツアツで、中には小エビがいくつか入っているようだ。プリプリとした触感がたまらない。
 しかし、すごいのはそれからだった。
 エビの中から飛び出すジューシーなエキスが口の中いっぱいに広がり、ほんのりと甘いクリの風味が俺の味覚をまろやかに包み込んだのだ。まるでクリのエキスの中に一晩つけておいたエビのように。
「美味い! これはいけるよ!!」
 俺は思わず叫んでいた。
「よかった、喜んでくれて」
 本座さんもシュウマイにかじりつき、満面の笑みを浮かべている。
 味噌汁も美味いし、ご飯も最高だ。
 俺は夢中でメニューをすべて平らげた。
「ご馳走様でした!」
「お粗末様」
 何も知らないってことは素晴らしいことだと、後で気付かされることになるとは知らずに。

「さきのエビシュウマイ、どうやって作ったの?」
 食器を下げに行った本座さんが部屋に戻って来ると、俺は興奮気味に質問する。
 あれは本当に美味かった。
 エビなのにクリの味がするなんて、きっと特別なレシピを編み出したに違いない。店で出せば看板料理になり得るんじゃないだろうか。それほどの独創性と可能性を持ち合わせていた。
 すると、本座さんは意外な答えを口にする。
「ああ、あれね。あれはエビじゃないの」
 エビじゃないって?
 だったら一体何だったんだ?
「クリシギゾウムシの幼虫。うちのクリ林で採れたものなの」
 ええっ?
 俺は一瞬固まった。
 クリシギゾウムシ? なんだそりゃ?
 まだ理解できていない俺に、本座さんは説明を続ける。
「クリ虫って聞いたことない? クリの中に虫が入ってることがあるでしょ」
 クリの中に虫?
 そんなクリって、スーパーで売ってるのか?
 きょとんとする俺に、本座さんは驚きの声を上げる。
「ええっ、本当に知らないの? カンカンってやっぱり都会っ子だね」
「それはもう言わない約束だろ?」
「ゴメン、ゴメン。冷凍庫から実物を持って来てもいいけど、霜がついててよくわからないと思うから資料を見せてあげる。でも驚かないでね」
 そう言って本座さんは立ち上げる。そして本棚から一冊のクリ図鑑を取り出した。
「えっと、うちで育てている子は……」
 パラパラとページをめくりながら写真を探す本座さん。どんなものを見せられるのかドキドキしてきた。
「あった! これよ、これこれ」
 本座さんは本をひっくり返して俺に写真を見せる。
 それは、白いプヨプヨとした体に茶色の小さな頭が付いたイモムシだった。まるで、カブトムシの幼虫を小さくしたようなフォルム。
「えっ……」
 俺は絶句する。
 嘘だろ? これが俺の腹の中に?
 完全にイモムシじゃねえか。
 頼むから嘘だって言ってくれ……。
「これがまた美味しいのよね。今の時期は冷凍になっちゃうから、ちょっと味が落ちちゃうんだけど、秋の採れたては最高よ。とってもジューシーで、クリの風味はさらに濃厚なんだから」
 ジュ、ジューシー!?
 確かに、シュウマイを噛んだ時、クリの風味溢れるエキスがジュワっと口の中に広がった。あれって、この写真の幼虫のお腹から飛び出したエキスだったのか……。
 その様子を想像してしまい、俺はなんだかクラクラしてきた。
「ちょ、ちょっと? カンカン? 聞こえてる? カンカンッ!?」
 本座さんが俺を呼ぶ声が、だんだんと遠ざかっていった……。


「……っ子だなぁ、カンカンは」
 気が付くと、本座さんのつぶやきがおぼろげに聞こえてきた。
 どうやら俺は、畳の上に寝かせられているようだ。足がサラサラとしたイグサの織り目を感じて気持ちイイ。
 窓から入って来る涼しげな風、背中に敷かれた座布団、頭は何か柔らかいものの上に置かれている。
「でも、こんなに美味しいんだから、カンカンだってわかってくれるはず」
 俺の髪の毛を優しくなでながら、本座さんはなにやらつぶやいている。
 うっすらと目を開けると、天井と部屋の電球が見えた。その手前には、部屋の片隅をぼんやりと眺める本座さんのあご。
(このシチュエーションって……)
 ――膝枕。
 本座さんは何やら考え事をしていて、俺がうっすらと目を開けていることに気付いていない。
「やっぱりイモムシを食べてるという食感がいけなかったのかな……」
 俺は再び目を閉じる。
 うわさに聞く膝枕というものの感触を、じっくり味わいたかったからだ。
 もっと柔らかい気持ちの良いものを想像していたが、本座さんの太ももは意外とボリュームがあって首が折れ曲がったような感じになっていた。
 でも、彼女の太ももの温もりを直に感じることができて、なんだかいいなあって思う。ほんのり漂う彼女の香りも、心を落ち着かせてくれた。
 ネットに入り浸っていた頃は『リア充』と揶揄していたシチュエーションだが、実際に体験してみると皆がうらやましがるだけのことはあると納得する。
 畳の上で堪能する初夏の昼下がりの膝枕。この時が永遠に続けばいい。
「そうだ、フリーズドライで粉末にして、クッキーに混ぜて焼いちゃえばいいんじゃない? マロン風クッキー、これいけるわ」
 恐ろしいこのつぶやきさえ無ければ。
(あくまでも俺にクリ虫を食わせるつもりだな)
 だから先制攻撃とばかりに、俺はこっそり彼女の膝に手を伸ばす。
「ひゃん!」
 案の定、本座さんはビクリと飛び上がった。
「なによ、起きてたの? 私が膝小僧弱いって知ってるくせに意地悪ぅ~」
 本座さんの甘い声。
 なんだか俺は、得体の知れない幸せを感じていた。
「クリ虫じゃなくて、今度は本座さんが育てたクリを食べたいな」
 だから俺は、本座さんの膝の上に横になったまま、わがままを言ってみる。
「ゴメンね、うちではクリは採ってないの。すべてクリ虫用にしてるから」
 ええっ!? すべてクリ虫用って?
 クリ林って、クリを食べるために存在してるんじゃないのか?
「クリ虫用だから、うちのクリには全部穴が開いてるの。決して爆発なんてしないんだから」
 そういうことだったのか……。
 俺はてっきり、皮が軟らかい品種を育てているからだと思ってたよ。
「それにね、クリ虫を売った方が儲かるのよ。リスの餌として最適なの」
 えっ? リスの餌?
 彼女の話によると、クリシギゾウムシの幼虫はペットのリスの餌として高値で売れるらしい。
「うちのクリ林は無農薬でやってるから、リスの健康にも良いってネットで評判なのよ。五百グラムが一万円以上で売れたこともあるんだから」
 クリ虫、五百グラムが一万円!?
 そりゃすごい。
「それにね、うちのクリ虫を食べたリスちゃんは他の餌には見向きもしなくなるみたいで、みんなお得意さんになってくれるの」
 人間が食べても美味いんだから、リスにとっては最高のご馳走に違いない。
 ていうか、もうこれはクリ虫生産のプロと呼んでもいいレベルだろ。
「それで儲かったお金でソーラーを設置したの」
 何だって!?
 あのソーラーって家の人が設置したんじゃなくて、本座さん本人のものだったのか!?
 ということは、月四万円の儲けは本座さんの収入!?
「ゆくゆくはメガソーラーにするつもりだから、電力小売市場が自由化されたら、うちから電気を買ってね。二酸化炭素も放射性物質も出さないよ」
 まさにバリバリ自家発電じゃねえか。しかもクリーンだし。
 すげぇよ、本座さん。
 クリ虫オススメ病とクリ林泣き虫症が癒されれば、ある意味スーパー女子高生だ。
 その時、俺は思いついた。
 クリ虫の使い道を。
「じゃあさ、そのマロン風クッキーを悟に食わせようぜ」
 俺達に対して妄想をエスカレートさせた悟。彼にぜひ一泡吹かせてやりたい。明日学校に行けば、俺のツルツル疑惑の噂でクラス中がもちきりのはずだから。
「えー、もったいないよ。悟にあの子達を食べさせるのは」
 あくまでも高級食材らしい。彼女にとっては。
 悟に本気で仕返ししてやりたい俺は、体を起こして彼女に向き合った。
「悔しくないのかよ、悟に男の娘だって言われたこと」
「そ、そりぁ悔しいけど、そのおかげでカンカンと仲良くなれたんだし……」
 ダメだこりゃ。彼女は人が良すぎる。
 だったら作戦を変えてみよう。
「よし、わかった。悟が美味いって言ったものなら、俺もすべて食べる」
「ホント!? カンカンが食べてくれるなら私やるわ」
 本座さんの目に光が宿り始めた。
「じゃあ、明日から作戦開始ね。どうやる? 私が調理するから、カンカンが悟を誘い出すのよ」
 ヤバい、彼女を本気にさせちまったようだ。
「作戦名はね……、オペレーション・クリムシーナ!」
「なんだよ、そのクリムシーナって?」
「『クリ虫美味しいな』の略に決まってるじゃない。カンカンに言ってもらえるのを楽しみにしてるからね」
「はいはい、分かったよ。その前に一つ提案がある」
 俺は改まって、彼女の前に正座する。
 もう俺は現実逃避しない。クラスの中にとけ込んで、リアルな高校生活を精一杯生きたいと思う。
 そのために俺は、あることを実行しなくちゃいけないんだ。それが本座さんのためにならないと分かっていたとしても。
「ん? なに?」
 本座さんも正座すると、俺は一呼吸置いた。
「他のクラスメートのように、ザメコって呼んでもいい?」

 ザメコ。
 それは、クラス男子における本座さんのアイデンティティー。
 その名を呼ぶことは、俺がクラスにとけ込むための儀式でもある。

「うん、いいよ。私だってカンカンって呼んじゃってるしね。『ザ・芽衣子』で『ザメコ』なんだよね」
 あれれ? 本人ぜんぜん気にしてない? 『ザメコ』って呼ばれてること。
 実は「セイシ」を指す裏の意味があるんだけど……って、本当に知らないんだな。
「私ね、アニメみたいに『メンザ』って呼ばれたらどうしようって思ってたの。だってそれって便座みたいだよねぇ」
 いやいや、誰もメンザなんて呼ばないよ。髪の毛白くないし。
「じゃあ、よろしく……ザメコ」
 呼び慣れてなくて、なんだか照れてしまった。
 俺は顔を真っ赤にしながら、ザメコに右手を差し出す。
「こちらこそ、カンカン」
 前髪を揺らしながら右手を差し出すザメコ。このキュートなオデコが近くにある限り、俺はリアルでもやっていけるような気がする。
 俺達はガシっと握手した。
 ザメコの華奢な掌の温もり。彼女が『ザメコ』の裏の意味を知るのはどんな男性の前なのだろう。
 それがもし自分だったら……、その時はオペレーション・クリムシーナが成功しちゃってて、クリ虫を平気で食べられるようになっている未来なのかもしれない。
 そんな風に、明日から始まる波乱万丈な高校生活を想像してみるのだった。







ライトノベル作法研究所 2015GW企画
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