漢検裏入視2010年05月06日 23時44分32秒

「サツキバエ!?」
 理香は驚きの目で美咲を見る。前から天然だと思っていたが、ここまでとは思っていなかった。『五月蝿い』と紙に書いて彼女に見せると、自信を持ってサツキバエと読んだのだ。
「えっ、違うの?」
 当の美咲は不思議そうな顔をしている。
「じゃあ、これは?」
 今度は美咲の前に『鞭』の文字を掲げてみる。
「えっと、カバン」
「…………」
「ねえ、理香~。何か言ってよ~。あっ、ちょっとどこ行くのよ~?」
 リビングを出た理香は、自分の部屋に物を取りに行く。
 やはり美咲は天然だ。しかしこうでなければ自分が考える計画には役に立たない。実験台は身近に居た。
 理香は机の上に置いてあったある物を手にすると、急いでリビングに向かった。

 ここは都内のシェアハウス。理香と美咲はそこで知り合った。ハイテク機器メーカーの技術職に就いている理香とは対称的に、美咲は食品メーカーの事務OLだ。かけ離れた職種、相反する性格、そして偶然にも同い年。お互いを補完するような関係に惹かれ、二人はすぐに仲良くなった。
 二人の容姿も対称的だった。眼鏡をかけて知性的な理香に対し、美咲は丸顔でぽっちゃり系。大きな二重の瞳はちょっと垂れ気味で、いわばパンダのような憎めないルックスだった。

「お待たせ」
 しばらくして理香がリビングに戻って来る。
「秘密兵器を持ってきたわよ」
 手にしているものは――眼鏡だった。
「じゃじゃーん。その名も『漢検裏入視』。美咲にぴったりのアイテムよ」
 そう言いながら眼鏡を美咲にかける。その姿を見て――
「――ッ!」
 理香は驚いた。予想外の事態だった。その眼鏡は美咲に似合い過ぎていた。
 ぽっちゃり系の美咲の顔に眼鏡が鋭利なアクセントを加え、絶妙なバランスでお互いを引き立て合っている。天然少女に知性が吹き込まれたような、可愛い子が美人に脱皮したような、女性の理香でも見とれてしまいそうなルックスを美咲は手に入れていた。
「ど、どうしたの、理香?」
「い、いや、この眼鏡、美咲にすっごく似合うなって……」
 思わず理香の顔が赤くなってしまう。
「やだぁ、理香ったら。それでこの眼鏡、何の役に立つの?」
 そうだ、肝心なことを忘れていた。この『漢検裏入視』の使い方を美咲に教えなくちゃ。
「その眼鏡をかけて漢字を見ると、眼鏡の裏に正しい読み方が表示されるようになってるのよ」
 それは元々、理香が勤めている会社で開発された汎用眼鏡型ディスプレイだった。一般的に、携帯電話と組み合わせて使う。具体的には、携帯電話のアプリケーションより情報をブルートゥースで眼鏡に送信し、レンズの裏側に表示させるというシステムだ。そのアプリを理香がこっそり改造し、日本漢字能力検定 ――いわゆる漢検で高得点を取るための裏アイテムとして完成させたのだ。
「じゃあ、試しにやってみるね。これは?」
 理香が先ほどの『鞭』の紙を掲げる。
「ムチ」
 おっ、すごい、すごい。ちゃんと作動してるじゃん。
 理香はほくそ笑みながらテストを続けた。
「じゃあ『蝋燭』は?」
「ロウソク」
「『罵詈雑言』は?」
「バリゾウゴン」
 うわっ、何だかゾクゾクする……
 この『漢検裏入視』を装着するだけで、天然OLだった美咲に知性と美貌が追加され、その口から正確な漢字の読みが発せられている。自分が改造したアイテムがその機能を発揮したという満足感と、それによって見事に変身した美咲に、理香は身もだえするような快感を味わっていた。

「じゃあ、今度は実践ね」
 理香は自分の眼鏡を押さえながら言葉を続ける。
「来月の漢検に申し込んでちょうだい。そしてそこで高得点を取るのよ、この『漢検裏入視』を使って……」
「えっ、それってズルじゃない」
 美咲が浮かない顔をする。
「いいのよ、私の技術力が試される時なんだから」
「でも……、私にも何かいいことあるの?」
「じゃあ、成功したらご馳走してあげるわよ。ほら、あのフランス料理店に行きたいって言ってたでしょ」
「ホント!? じゃあ、やるわ。それにしても、お主も悪じゃのぅ~」
 笑った時の美咲の顔はさらに可愛くなった。眼鏡というアイテムはすごい威力を発揮している。
「なによ、失礼ね。せめて悪友と言ってちょうだい」
 後は、その他のことで美咲がドジを踏まないかどうかが理香の心配だった。

 そして漢検の当日。
「行って来るね~」
 手を振ってシェアハウスを出て行こうとした美咲の姿を見た瞬間、理香にある一つの不安が押し寄せてきた。試験ということで、なぜかスーツを着ている美咲。それが眼鏡『漢検裏入視』との合わせ技によって、美咲の魅力をさらに引き立ててしまっているのだ。
(マズイ、これは男が寄ってくるわね……)
 今の美咲はどこから見ても美人OLだ。眼鏡とジャケットとタイトスカートに形造られた知性に、もともとの丸顔が優しさを醸し出している。この格好で街に出れば、男達の視線を釘付けにするに違いない。
(美咲に先に行かれるのは悔しいわ……)
 理香と美咲は今年で三十歳になる。結婚するには少し歳をとってしまったと思いつつ、お互い独身であることに満足してしまっていた。もし美咲に男ができてしまうと、この関係も崩れてしまう。
「美咲、ちょっと待って」
 理香は思わず美咲を呼び止めた。
「えっ?」
「ゴメン、一つ言い忘れていたことがあるの。その『漢検裏入視』なんだけど、実は紫外線に弱いのよ。だから試験会場に着くまでは、バッグの中に入れておいてくれる?」
「あ、うん、わかった」
 とっさに考え付いた理香の嘘に、素直に従う美咲。ふふふ、思った通り、眼鏡を外した美咲は大人の服を着たお子ちゃまみたいだ。スーツとぽっちゃり顔のバランスが取れていない。彼女の武器は、眼鏡とジャケットとの間に位置する丸く柔らかな頬だったのだと理香は理解する。
 これで準備万端。理香は満面の笑みで美咲を見送った。

 漢検から帰ってきた美咲は、予想に反して半べそだった。
「どうしたの、美咲。試験できなかったの?」
「試験はできたんだけどね……」
 ポツリポツリと事情を打ち明ける美咲。なんでも試験監督をしていた男性が素敵な人で、帰り際に声をかけられたとのこと。嬉しくなった美咲は返事をしようとしてその男性の名前を呼んだが、その途端男性は不機嫌になって立ち去ってしまったという。
 やはり男に声を掛けられたか。家を出るときに『漢検裏入視』を外させて正解だった。
 理香はほっとしながら美咲に質問する。
「ところで美咲、どうやってその人の名前を知ったの?」
「だって、身分証をぶら下げていたから……」
 そうか、それで名前が分かったのか。それでどうしてその男性は怒ってしまったのだろう?
「私はね、最初『そと、みちたま』さんだと思ったの。でもね、この『漢検裏入視』に表示された読みの方が正しいかなと思って、そちらを呼んだのよ。声を掛けられて嬉しかったから、ちょっと大きな声で……」
 ははははは。あんたはまた漢字の読み方を間違えてしまったのね。美咲らしいわ。でも『漢検裏入視』を使ってたって言ったよね。あの機械が間違えたということは、アプリや辞書の修正が必要かもしれないわね。まあ、とにかく美咲に男ができなくてよかった。
 そして理香は美咲に最後の質問をした。
「それで、その人の名前ってどんな漢字だったの?」
 美咲が紙に書いた名前は――『外道魂』さんだった。



即興三語小説 第54回投稿作品
▲お題:「鞭」「汎用」「悪友」
▲縛り:「目の悪いキャラを出す」
「登場人物の美貌について描写する」
「主人公が歳をとったと実感している(任意)」
▲任意お題:「視線」「五月蝿い」「罵詈雑言」

銀月2010年05月13日 23時19分49秒

「何だ!?」
 ガサゴソと茂みが揺れる音に、とっさに俺は近くの納屋の影に隠れる。息を潜めて様子を伺っていると、茂みの中から黒い物体がぬうっと現れた。
「っ!」
 それは熊だった。体長一・五メートルはあろうかというツキノワグマ。何かを探すように農道をうろうろし始めた。
(神様お願い! 頼むからこっちに来ないでくれ!)
 納屋の裏に隠れながら、俺の心蔵はバクバク鳴っていた。野生の熊を見るのは初めてだ。しかも俺が持つ熊というイメージよりもはるかに大きい。もしあれが襲い掛かってきたら、無事で済むとはとても思えない。
 三分くらいの時間が三十分に感じる。何も起こらないことに痺れを切らした俺は、納屋の影からそっと様子を伺う。熊はまだ農道をウロウロとしていた。幸いこちらには気付いていない。運良くこちらは夕陽を背にしており、風向きも風下側だった。しかし農道しか逃げ道がない状況では逃げ去ることは不可能だ。しばらくこの場所に隠れ続けるしか方法はない。
 そのような状況を認識すると、少しだけ熊を観察する余裕が生まれた。その熊は少しくたびれた感じのする熊だった。歩みも精彩を欠いている。きっと歳をとった熊なのだろう。そして特徴的だったのが前足の付け根付近にある大きな傷だ。三日月のような形で毛が生えていないところがあり、夕陽が当たって銀色に輝いている。熊は探し物でもするようにしばらく農道をウロウロした後、高速道路の方に向かって歩いて行った。これはチャンスと、俺は農道を夕陽の方角へ一目散に走って逃げた。

「ばあちゃん、く、熊だ、熊が出たよ!」
 俺は祖母の家に慌てて駆け込んだ。ゴールデンウィークを利用して俺は一人で遊びに来ていたのだ。
「それは本当か皐君! どこに出たんだ?」
 居間から伯父さん顔を出す。
「ここから農道を五百メートルほど東に行ったところ。納屋がある辺りだよ」
 すると伯父さんは、すぐに何処かに電話をかけ始めた。
「すまない、皐君。雨戸を閉めてもらえないか」
 電話の相手が出るまでの間、伯父さんが俺に声をかける。俺は縁側に行き雨戸を閉め始めた。すでに宵闇が集落を包み始めていた。
「それでどんな熊じゃった?」
 いつの間にか俺のすぐ後ろにばあちゃんが居た。いつもの優しい口調とは異なる言葉の鋭さに、俺はドキリとする。
「大きかったよ。一・五メールくらいはあったかも。あと前足の付け根に大きな傷があった」
「そうか、やはり銀月じゃな。もうそういう時期になったんか……」
 そう言いながらばあちゃんは仏壇の方へ向かって歩く。そこにはじいちゃんと、そして俺の母の写真が飾られていた。

 それはちょうど二十年前。高速道路が開通して交通の便が良くなったこともあり、母は故郷分娩を行うためこの家、つまり実家を訪れていた。しかし散歩中に運悪く熊に襲われ、俺を出産した直後に亡くなった。熊の三日月状の傷――「銀月」の名の由来となった傷であるが、その時じいちゃんが放った猟銃によるものだという。

「傷が痒み出したと思ったら、またこの季節が来たんじゃの……」
 そう言ってばあちゃんは仏壇の前に正座し、鎖骨の辺りをボリボリと掻きだした。上から見て初めて気付いたが、ばあちゃんの左の鎖骨から肩にかけて大きな傷があった。そういえば子供の頃に一緒にお風呂に入った時、左肩にタトゥーのようなものを見た記憶がある。それがこの傷跡だったのだ。
「ばあちゃん、その傷は……?」
「これはの、有希子を守ろうとした時にできた傷じゃ」
 有希子とは俺の母の名だ。身重の母が銀月に襲われた時、母を守ろうとしてばあちゃんも引っ掻かれたという。じいちゃんが来るのが遅ければ、ばあちゃんも、いや俺だってこの世にいたかどうかわからない。
「俺、母さんの仇を取る」
「やめろ」
 それはいつもの優しいばあちゃんの声ではなかった。
「でも……」
「やめてくれ。ワシはお前まで失いとうない」
「銀月も二十歳を越えてるんだろ。人間でいえば老人だよ。今ならやっつけられる」
「聞き分けの無い奴だな。あやつもワシと同じくもう寿命じゃ。それにあやつも大切なものを失ったんじゃ。静かに死なせてやれ」
「大切なものって?」
「…………」
 それっきりばあちゃんは黙ってしまった。
「私が説明しよう」
 その時、電話を終えた伯父さんが戻ってきた。

「二十年前はちょうどバブルの絶頂期だった。この村も例外ではなくてな、甘い需要予測を基にして高速道路が建設されたんだ。山を削ってな」
 ある日、子熊が山から高速道路に落ちた。びっくりした子熊は斜面を駆け上がらずに道路に沿って逃げようとしたという。そしてトラックにはねられて命を落とした。実は、その子熊は銀月の子供だったというのだ。
「何台ものトラックに轢かれて子熊はぺったんこになってしまったんだ。その直後だった。村が銀月に襲われたのは……」
「そうだったのか、ばあちゃん?」
 ばあちゃんは何も言わず線香に火をつけ、それを仏壇に立てるとチーンとお輪を鳴らした。
「今日は有希子とあの子熊の命日じゃ。お前の二十歳の誕生日でもあるがな……」
 いつまでも消えないお輪の残音が俺の心にも鳴り響いていた。

 翌日。銀月は高速道路で発見された。死体となって。目立った外傷はなく、車にはねられたのか、高速道路に落ちたためか、それとも寿命だったのか死因は誰にも分からなかった。ただ、二十年前に子熊が亡くなった場所で、銀月は冷たくなっていた。

「こんな田舎に高速道路なんぞ造るからいけんのじゃ」
 ばあちゃんがポツリと口にする。
 その高速道路も今年から無料になるという。末端の不採算路線を無料化するという新政権の社会実験の一環だ。これで二十年続いたこの区間の『高速道路』としての肩書きは一旦終わりになる。
「銀月の願いが届いたんじゃよ……」
 そう呟くばあちゃんの声は、まるで我が子を失ったかのようだった。



即興三語小説 第55回投稿作品
▲お題:「タトゥー」「説明しよう!」「宵闇」
▲縛り:「ぽんこつヒロインが登場する(任意)」
「動物(ペット可)を登場させる(任意)」
「夕陽に向かって走る(任意)」
「視覚描写に力を入れる(任意)」
▲任意お題:「痒み」「ぺったんこ」「神様お願い!」「鎖骨」

フライパン桜子2010年05月15日 21時12分30秒

 きゃはははは!
 街の中心を流れる想井川。そこに架かる願石橋を渡っていた直人の耳に、子供達の笑い声が飛び込んできた。
「お姉ちゃん、早く早くぅ~!」
「今度はもっとスピード出してよ~」
「待ってなさい、今行くわよ!」
 その声に振り返ると、子供達に混ざって一人の女子高生が遊んでいる。一緒に土手滑りをしているようだ。
「あれ? あの子、うちの制服だ……」
 直人はその集団に近づく。白いブラウス、そしてチェック柄のリボンとスカート。やっぱり同じ高校の生徒のようだ。
「誰だろう……?」
 女子高生は、平べったくて丸いものに柄がついたソリのようなものを持ち、土手の上にすくっと立った。そしてそれをお尻に敷き、勢いよく土手を滑り下りる。短いスカートがひらひらとめくれて下着が見えそうだ。
「すごい、すごい!」
「さすがお姉ちゃん、はやーい!」
 子供達がやんやと囃し立てる。
「鋼鉄製だからね。早いわよ~」
 とソリを自慢する女子高生。
 えっ、鋼鉄製――!?
 よく見ると、女子高生がお尻に敷いていたのはソリではなく、フライパンだった。
「も、もしや、あれはフライパン桜子……?」
 直人はしばし言葉を失った。

 言葉を失うのには理由があった。
 桜子が笑うところを、クラスの誰一人も見たことがなかったからだ。
 彼女は転入生だった。
 しかもアンドロイド。
 県の先端工学研究所から、特別な試験のために派遣されて来た。
「彼女は人間生活について勉強中なの。だから仲良くしてあげて下さいね」
 担任はそう言ったが、誰も仲良くする生徒はいなかった。
 反応がすべて機械的だったからだ。
 機械的と言っても動作がぎこちないわけではない。動きや見た目は他の生徒と変わらなかった。ただ、表情や話し方に人間らしさがない。
 つまり愛想が全く無かったのである。

 愛想が無いだけならまだ許せる。
 人間社会に飛び込んだ可哀想なアンドロイドと、親切にする生徒も出てきただろう。
 実際、彼女の顔の造りは美しかった。
 美人で物静かなアンドロイド。それだけでも男子生徒が群がって来そうなものだ。
 彼女から生徒を遠ざけていたのは、別に理由があった。
 絶えず彼女が手にしているもの――鋼鉄製のフライパンだ。
 それを軽々とうちわのように扇いでいる。
 なんでも授業を妨害しないようにと、静粛性を保ちながらCPUを冷やすのに最善の方法なのだという。
 アンドロイドである彼女にとっては必要不可欠な行為。しかし、生徒達には違う目で見られることになった。
 ――馬鹿力で無愛想な出来損ないロボット
 いつしか彼女は、『フライパン桜子』と呼ばれるようになった。

「あんな表情もできるんだ……」
 子供達と土手滑りをしてはしゃぐ桜子――それは、学校では決して見ることのできない彼女の姿だった。
 肩の上でそろえたストレートの黒髪が、坂を滑る度にサラサラと風になびく。
 元々、顔の造りは美しいのだ。そこに活き活きとした表情が宿れば、こんなにも可愛く見えることを直人は知った。

 いつしか直人は、願石橋の欄干に体を預けて土手滑りを眺めていた。
 石造りの欄干は、肘を置くとひんやりとして気持がちいい。願石橋はその名の通り、総石造りの橋で県の史跡に指定されていた。
「ほらお姉ちゃん、あそこ見て! 綺麗だよ」
「あら、本当……」
 指をさす子供達の声に誘われて、直人も山の方を見る。ちょうど夕陽が沈むところだった。
 子供はもう帰る時間。
 それに、会社帰りのサラリーマンも増えて来た。
 子供達に混ざって遊んでいる桜子は、大人達の奇異な視線を向けられている。
 それもそのはず、よく考えたら異様な光景だ。女子高生が制服のまま土手滑りに興じている。どう見ても常識では考えられない。
 もしかすると、桜子にはそういう常識がまだインプットされていないのではないだろうか?

「やあ……」
 子供達が帰ると、直人は桜子に近づき声をかける。
 すると彼女は静かに振り向いた。
「……!」
 学校にいる時と同じ無機質な表情。
 先ほどまでの笑顔とのギャップに、直人はぞっとする。
「あなたは……、直人君ね」
 さすがはアンドロイド。データ検索のためにわずかな間があったが、一度も話しをしたことのないクラスメイトの名前を正確に言い当てる。
「土手滑り、楽しい?」
 直人は頑張って言葉を紡ぐ。
「あなたには関係ないわ」
 表情を少しも変えずに彼女は言う。そこに冷たさでもあれば、まだマシなような気がした。
 しかし直人はめげずに言葉を続ける。
 彼女は何も知らないアンドロイドだ。女子高生が制服姿で土手滑りをすることは、常識外れだと教えてあげなくてはいけない。
「あの……、それ、やめた方がいいよ。ほら、スカートの中が見えちゃうじゃん」
 勇気を振り絞って忠告した。
 もしかしたら恥じらいの表情が見れるかと思った。
 しかし、その考えは間違いだった。
「見えるはずないわ」
 返ってきたのは無表情の拒絶。
「このフライパンのフチの形状を考慮に入れれば、見えるはず無いの。もちろん柄の部分で生じる死角や、スカートの長さも計算に入れているわ。スカートのめくれ加減は、傾斜三十度で秒速十メートルの滑降速度以内であれば問題なし。あなたには全く関係ないわ」
 いや、滑る時が問題なのではなくて、坂を上る時に後ろから丸見えなんだけど……
 そんな突っ込みを入れたかったが、直人はやめておいた。
 心を閉ざした彼女に、何を言っても無駄だった。



 翌日。
 学校での桜子はいつもの通りだった。
 直人の二つ前の席で、非常に正しい姿勢で授業を聞いている。
 ときどきフライパンを扇いでCPUを冷却しながら……
 その姿を眺めながら、直人はずっと昨日の出来事を思い出していた。

 あの笑顔は幻だったのか……?

 桜子が機械的なのは、そのように造られているからとずっと思っていた。
 しかし、そうではなかった。
 彼女は美しい笑顔を持っている。
 それは、クラスで自分だけが知っている事実。
 なぜ彼女は子供だけに心を許すのだろう?
 それとも、クラスメイトに心を閉ざしている方に何か理由があるのだろうか?
 いずれにせよ、目蓋の裏に浮かんでくるのは昨日見た彼女の満面の笑顔だった。

   きゃはははは!
「お姉ちゃん、もっと早くぅ~」
「今度のコースは急だよ~」
「見てなさい。地獄の果てまでまっしぐらよ!」
 だから直人は今日も来てしまった、願石橋に。
 桜子は相変わらずフライパンをソリにして子供達と遊んでいる。
 あの笑顔をちょっとでも自分に向けてくれたなら……
 欄干に体を預けながら、はしゃぐ彼女を眺め続ける。

(確かに滑っている時は、全然見えないなあ……)
 直人の意識は、いつの間にか桜子のスカートの中に向いてしまっていた。
 さすがは最新鋭のアンドロイド。『滑る時は見えない』という計算結果に間違いは無かった。
 しかし、坂を上る時は無防備だ。
 ひらひらと揺れるスカートの下から、チラチラと彼女の名前と同じ桜色の布地がその姿を覗かせている。
(彼女、気付いていないのかな……)
 教えてあげなくては、と一瞬思ったが、昨日の彼女のセリフが直人の心に蘇る。
『あなたには関係ないわ』
 あれは効いた。
 背筋がぞぞぞっとした。
 無表情の拒絶が、あれ程恐いものとは思わなかった。

 そんなことを考えていると、直人の中にふと不安がよぎる。
 自分は桜子の笑顔だけが見たいのだろうか?
 実は、彼女の下着が見たいという欲求の方が大きいのでは?
 それとも、クラスで自分しか彼女の笑顔を知らないというこの優越感に、浸っていたいだけなのだろうか?
 山があれば登りたくなるように、人は難しいことにチャレンジしたくなるという。
 自分に関心を示さない彼女を、なんとか振り向かせたいという気持ちもあるだろう。
 今日も子供達に笑顔を振りまく桜子。
 子供達には見せる笑顔を自分に向けてくれないのは、そんなやましい気持ちを彼女が感じ取っているからなのかもしれない。
 いろんな不安が頭の中でグルグルと回り、直人はその場を一歩も動けずにいた。



 それから一週間半くらいの間。
 直人は桜子に声を掛けることもできず、願石橋の欄干でただ彼女を眺めているだけの放課後を過ごしていた。
 そんなある日、ホームルームが終わっていつものように願石橋に向かおうとした直人を、桜子が呼び止めた。
 どうしたんだろう……?
 ドキドキしながら彼女の後を付いていくと、誰もいない校舎裏に辿り着く。
 振り返った彼女は、いつもの無表情のままだった。
「もう願石橋には来ないで」
 そして、いきなりの最後通告。
「なんで? あれから行ってないよ。それに僕の勝手だろ。君には関係ない」
 直人はとぼけた。
 毎日君を見ていた、なんて恥ずかしくて言えるわけがない。
 いつも離れたところで眺めていたから、気付かれていない自信もあった。
「あなたはもう九回も来ている。だからもうダメ」
 げっ……
 バレバレじゃん。
 恥ずかしさのあまり、直人は顔が紅潮する。
 そしてその波が去ったかと思うと、入れ替わりに怒りがこみ上げて来た。
 気付いていたならなぜ声を掛けてくれない?
 九回も無視され続け、最後に干渉してくるとはどういうことだ。
「だから言ってるだろ、僕の勝手だって」
 つい語気を荒立ててしまう。アンドロイド相手に無意味なこととはわかっているが……
「もう一度忠告するわ。これ以上あの橋に来ると、あなたのためにならない」
 えっ? 何だって?
 僕のためにならないだって?
 それはどういうことだ?
 土手滑りの現場をこれ以上僕に見られたくない、の間違いじゃないのか?
「なぜ?」
 直人は素朴な疑問を投げつけた。
 すると桜子は少し間を置いて、口を開いた。
「それは言えないわ」
 おかしい。
 彼女は何かを隠している。
 人間だったら誤魔化すところをアンドロイドであるが故に嘘をつけず、『言えない』ことを正直に話してしまった感じだ。
(どうしたら願石橋に行ってはいけない理由を教えてくれるだろう……?)
 そこで直人は、揺さぶりを掛けてみることにした。
「教えてくれなかったら行くよ、今日も願石橋にね」
「お願い、やめて。それだけは、やめて……」
 桜子の表情が一瞬曇る。
 そんなわずかな変化を直人は見逃さなかった。
 彼女が直人に対して見せた、初めての人間らしい表情だった。

 葛藤――人間で言えばそんな感情なのかもしれない。
 あることと別のことが、心の中で衝突する。
 機械で言えば、二つの命令のコンフリクト。
 今の桜子は、そんな感じだった。
 直人が願石橋に行ったならば、そこできっと何かが起こる。
 それを直人に話してはいけないという命令と、話して彼を止めたいという命令がぶつかっている。
 きっと彼女のCPUは、グルグルとめまぐるしく稼動しているに違いない。

 その時、直人はふと思った。
 彼女のフライパンを奪ったらどうなるのだろう?
 コンフリクトを起こしている今なら、CPUが熱暴走を起こすかもしれない。
 実際、今の彼女は頻繁にフライパンで扇いでいる。CPUが激しく発熱している証拠だ。
(試しにやってみるか……)
 そこで直人は、一旦彼女を安心させることにした。
 フライパンの動きが止まれば、奪い取る機会が訪れるかもしれない。
「じゃあ、もう願石橋に行くのはやめるよ。君がそこまで言うのなら」
「よかった……」
 するとフライパンの動きが鈍った。
 コンフリクトが解消されたためだ。

 今だ!
 直人は桜子からフライパンを奪い取る。
「あっ!?」
 そしてバランスを崩した彼女は、直人の胸に倒れこむ形となった。
 彼女の胸の部分が熱い……
 どうやらCPUは胸にあるようだ。
「返して!」
「返したら、僕は願石橋に行くよ!」
 巧みに彼女のコンフリクトを復活させる。しかもより複雑な形にして。
 そして排熱をさらに悪くするため、胸を密着させようと彼女の肩に手を回した。
 まるで恋人を抱きしめるような格好だ。

 えっ!?
 直人は驚いた。
 アンドロイドというから、もっと硬い感触を予想していた。
 しかし、直人の手を通して伝わってきたのは、華奢な、女子高生の肩そのものだった。
 これ以上力を入れると壊れてしまいそうな……
 そして胸に押し当てられる柔らかな感触。

 パチン!!

 その時、何かが弾ける音がした。
 同時に彼女から力が抜け、直人に寄りかかってくる。
「桜子!」
 直人は思わず叫んでいた。
 壊れてしまったと思った。
 しかし――
「大丈夫よ……、でも、もっとしっかり支えていて……」
 耳元で聞こえる弱々しい彼女の声。
 よかった、まだ壊れていない。
「わかったわ、全部話すわ……」
 熱暴走のため、話してはいけないという命令が吹っ飛んだのだろう。
 コンフリクトは解消された。命令の一つが消えるという形で。
 桜子は、直人の腕に抱かれながらゆっくりと話し始めた。

「チラ見防止条例って知ってる?」
 チラ見防止条例? なんだそりゃ?
 でもどこかで聞いたことがある。
「そういえばこの間、テレビのニュースで見たような……」
 そうだ、それは県が制定しようとしている条例だった。
 女子高生のスカート丈がどんどん短くなっているため、チラ見が原因の交通事故が増えている。それを『見る側』からも規制しようという動きだ。
 しかしその条例と彼女とは、どういう関係があるのだろう?
「私はね、チラ見の現状を調査するために造られたの」
 それはどういうことだ?
 すると土手でのあの行動は、すべて調査のために仕組まれたものだったのか?
「じゃあ、あの土手滑りは……?」
「そうよ、あなたの考えている通り。調査のための行動よ」
 わざと制服姿で下着が見えそうな行動を取る。
 そして、往来の人達がどんな反応をするかを観察し、記録を取っていたというのだ。
「……」
 まんまと県の調査の策略に引っかかったような感じがして、直人は悶々とした感情に包まれる。
「私の体には沢山のセンサーが付いているの。往来の人達を観察記録するためのね。同時に百人の人達を個別に追尾できる機能を持っているわ」
 そいつはすごい。
 見つかっていないと思っていたのは、直人の自分勝手な思い込みだった。
 実は詳細に記録が取られていたという事実に、直人の背筋は寒くなった。
「それでね、往来の人達がいつこちらを見たのかを個別に分析するわけ。下着が見えていた時間とその可視方位のデータとを照らし合わせながらね。その分析結果に基づいて、チラ見判定を行っているんだけど……」
 彼女の説明は続く。
 要するに、いつ誰がチラ見したのかが詳細にわかるということだ。
 直人は次第にくらくらしてきた。
 彼女が絶えず鋼鉄製のフライパンを持ち歩いているのも、未計測時に情報を遮断してセンサーを休ませるという目的があったのだ。

「私が得たデータではね、実に男の人の八十八パーセントがチラ見をしていたわ」
 それは衝撃的な調査結果だった。
 確かに彼女の言う通り、願石橋を渡るサラリーマンの多くはチラチラと桜子を見ていた。
 でもそれは仕方が無いだろう。
 可愛い女子高生がスカートをひらひらさせながら土手滑りをしているんだよ。
 見るなと言う方が難しい。
 逆に、九十パーセントを越えなかった方が奇跡ではないかと、直人は思った。
「それでね、チラ見には習慣性があるの。それについての調査も行っているわ」
 なんでも顔認識を行い、同一人物が何回チラ見に訪れたのかも解析しているという。
「ねえ、ちょっと考えてみて。もし毎日のように女子高生のパンチラが見れそうな場所があったらどうする? 行くでしょ?」
 いや、僕は君の笑顔が見たくてあの場所に、と言おうとして直人は口を閉じる。
 彼女の下着を見なかったかと言われると、嘘になる。
 その真偽は、恥ずかしながら彼女のデータが雄弁に語ってくれるだろう。
「そういうチラ見の常習者は、将来犯罪に走る可能性がある。のぞき、痴漢、ストーカー。そうならないように、特別な装置が私には仕掛けられているの」
 特別な装置!?
 いったいそれはなんだ?
「それはどんな……?」
 直人はゴクリと唾を飲み込んだ。

「特殊ビームよ」
 耳元の桜子の声が高揚する。まるで秘密兵器を取り出した時の正義のヒーローのようだ。
 それにしてもビームって、なんだそりゃ? レーザービームとかそんなものか?
「チラ見の日数が十日に達するとね、下着の部分から特殊ビームが発射されるの。それは正確に常習者の網膜に情報を与え、サブリミナル効果を利用してその人を精神的に去勢するのよ。まあ、一種の催眠術ね」
「…………」
 驚いた。
 そんな装置が彼女には仕掛けられていたのか。
「その効果は?」
「効果はてきめんよ。今まで五人に照射したわ。精神的に去勢されるとね、チラ見をしたくなくなってしまうの。三人は来なくなって、あとの二人は通勤で橋を渡るけどこちらを見なくなったわ。それでね、その他にもレーザービームや中性子ビームとかもあるのよ……」
 得意げに秘密兵器の説明を始める桜子。
 もし、このことを知らずに今日も願石橋に出かけていたら、直人にも特殊ビームが照射されていた。
 チラ見ができなくなるということは、土手滑りをする彼女の姿を見られなくなるということだ。
 つまりそれは、彼女の笑顔が見られなくなるのと同じことだった。

 ここで一つの疑問が浮上する。
 特殊ビームが直人に照射されるのを、桜子はなぜ阻止しようとしたのだろう?
「なぜ、僕に教えてくれたんだ?」
「だって……、あなたは……、私に初めて真面目に忠告してくれた人だから……」
 そうか、あの最初の時か……
 『あなたには関係ないわ』と無表情に突き放されたと思っていたが、ちゃんと彼女の心に届いていたんだ。
 勇気を振り絞ってよかった……
 嬉しくなった直人は、抱きしめている手を緩めて彼女と向かい合う。  ちゃんとお礼が言いたかった。

 すべてを告白し、研究所の呪縛から開放された桜子はまるで別人だった。
 ほほを赤らめながら上目がちに微笑む桜子。直人がずっと待ち望んでいた瞬間だ。
 直人はたちまち、愛しい気持ちで心が溢れそうになる。
 そして見つめ合う二人。
 言葉は要らなかった。
 彼女が機械とは思えないほど心と心が通い合う。
 ゆっくりと目を閉じる桜子。その桜色の唇に、直人は自分の唇をそっと合わせた……

「チラ見する人のデータに名前がインプットされているのは、あなただけなの……」
 再び彼女を抱きしめると、今までの想いを吐き出すように桜子は語り始めた。
「だって、他の人は顔認識で判断しているだけでしょ。名前は分からない。あなたはね、顔と名前が一致している唯一の常習者なのよ」
 いや、常習者扱いされるのは嫌なんですけど……
「それにね、あなたは常習者の中でもチラ見時間が一番長いの」
 それって、パンツを一番長い間見ている人ってことじゃないですか。
 そういえば、下着が本当に見えないのかってじっと観察していた時があった。その時にきっと、ポイントを稼ぎまくったのだろう。
 直人はだんだん恥ずかしくなってきた。
「もういいよ、分かったから……」
「何を言いたいかというとね、私のデータはあなたの名前で一杯なの。直人、直人、直人、直人、直人、直人、直人……って感じ。あなたは私の中で溢れている……」
 直人の腕の中で甘える桜子。
 もしかするとずっと前からこうしたかったのかもしれない。
 今の彼女はアンドロイドなんて硬いものではなく、か弱くて、愛しい、一人の女の子だった。

『下校時間となりました。校内に残っている生徒はすみやかに帰りましょう』
 帰宅を促す校内放送が聞こえてくる。
「おい、桜子。調査はいいのか?」
「えっ?、あ……、だって、直人が来ちゃうから。あなたにビームは照射したくない……」
 再び直人の胸に顔を埋める桜子。
 さて、今日はどうしよう?
 研究所の呪縛から開放された今の彼女なら、いつでも直人に笑顔を見せてくれるだろう。
 それであれば、わざわざ願石橋に行く必要はない。
「忠告どおり今日は行かない。だってもう学校で仲良くできるんだろ。だから土手滑りに行ってきなよ、子供達も首を長くして待ってるぞ」
「う、うん……」
「じゃあ、明日は放課後に会おうよ。ココで待ってるからさ」
「あ……、うん、わかった……」
 すると彼女はおもむろに顔を上げ、直人を見上げながら言った。
「ねえ、直人。最後に、もう一度キスしてくれる……?」
「ああ」
 二人はそっと唇を交わす。長い長いキスだった。
「じゃあ、また明日。調査、頑張れよ!」
「さようなら……」
 桜子はこちらを振り向くこともなく、走って行ってしまった。

 ムフフフフ……
 直人の頭の中は、先ほどの桜子とのことで一杯だった。
 やっと彼女が笑顔を見せてくれた。
 そして二回のキス。直人にとっては、もちろん初めてのことだった。
(桜子はぜんぜんアンドロイドっぽくなかったな……)
 見つめ合うと心が通った。彼女が機械とはとても思えなかった。お互いの胸が熱い。そんな体験は初めてだった。
 彼女を抱きしめた時の感触を思い出すと、つい顔がニヤニヤしてしまう。股間もパンパンに火照っていた。
(やべぇ、これじゃ人前に出れないよ……)
 一人悶々としていた直人がフライパンの忘れ物に気付いたのは、桜子が帰ってしばらく経ってからだった。

「どうしよう、コレ……」
 フライパンを片手に校門を出た直人は、歩きながら行き先に迷っていた。
(このフライパンが無いと、桜子は土手滑りができないぞ)
(土手まで届けた方がいいと思うけど、彼女の忠告を無視して行ってもいいのか?)
(さっきも『行かない』と宣言したばかりなのに……)
(案外、子供達にダンボールを借りて滑っているかもしれないぞ)
(チラ見訪問十回を達成するのは嫌だな……)
(去勢ビームを浴びたらどうしよう?)
(ビームは下着から発射されると言っていたから、パンツを見なければ大丈夫なんじゃないのか……)
 あれこれと考えているうちに、いつの間にか直人は願石橋に着いていた。

 きゃはははは!
 想井川の土手では、今日も子供達が遊んでいる。
 桜子は――見渡してもみつからない。
 あれからここには来なかったのだろうか?
 欄干に体を預けて川の流れに目を向ける。水面に夕陽が反射してオレンジ色にキラキラと光っていた。
 今日は校舎裏で桜子と話しをしていたから、ここに来るのが遅くなってしまった。子供達はそろそろ帰る時間だ。
「バイバーイ!」
「じゃあね、また明日~」
 おっと、子供達が帰ってしまう。
 桜子が来たかどうかだけでも聞いてみよう。
 直人はフライパンを持って子供達の方へ走り出した。
「ちょっと、君達~」
 子供達が立ち止まり、少し警戒しながら直人の方を見る。
「いつもこれを持ってるお姉ちゃん、来なかった?」
 フライパンを頭の上にかざすと、子供達の態度がガラリと変わる。
「あっ、お姉ちゃんのソリだ」
「違うよ、『地獄の片道チケット号』だよ」
「お兄ちゃんもそれで滑ってみてよ~」
 口々に叫びながら直人を取り囲む子供達。その屈託のない笑顔が直人の心を洗っていく。
 こんなにも好かれているんだ、桜子は……
 そんな彼女とキスするくらい親密になった直人は、すでに子供達のヒーローになったような気分だった。
「ゴメン、ゴメン、今日は遊べないんだ。もう帰る時間だしね」
「ちぇ~」
「残念」
 はははは、と笑いながら直人は肝心なことを子供達に聞いてみた。
「ねえ、今日はお姉ちゃん、来た?」
 すると意外な答えが返ってきた。
「来たよ」
「うん、来た」
「でも、すぐに帰っちゃったんだよ」
「黒い車に乗って行っちゃった」
 黒い車……?
 直人の頭の中を不安がよぎる。
「それで、お姉ちゃん、ここで何してたの?」
「えっとねぇ、ずっと座ってた」
「そうそう、体育の時みたいに座って橋の方を見つめていたよ」
 座ってた? 土手の上に?
 橋の方を見ていたということは、直人が来るのを待っていたのだろうか?
(桜子も僕のことを待っていてくれたんだ。迷ってないで、もっと早く来るべきだった。子供達に見せつけるチャンスだったのに……)
 直人の心に悔しさがこみ上げる。
「ありがとう、君達。いろいろと教えてくれて」
「ねえ、お兄ちゃんは明日も来る?」
「えっ?」
「そうだ、そうだ、明日も来てよ~」
 そうか、そういう手もあった。
 明日は桜子と一緒にここに来よう。そして一緒に土手滑りをすればいいんだ。
 彼女と離れているからチラ見する。いつも近くに居れば、去勢ビームを浴びることはない。
 子供達が帰った後、直人はそんなことを考えながら家路についた。



 そして――
 その日を境にして、桜子が学校に現れることは無かった。
 翌日の朝のホームルームでは、担任から彼女の突然の転校が告げられる。
 悲しむ者は、誰もいなかった。
 関わりを持っていた人も誰もいなかった。
 直人一人を除いて。

「ウソだろ……」
 担任の言葉が信じられなかった。そんな事実は受け入れられなかった。
 しかし桜子が居るべき席がずっと空いているのを眺めているうちに、喪失感がひたひたと直人を侵食した。
 掴みかけた大切な大切なものが、するりと指の間からすり抜けてしまったような……
 そういえば最後のキスの時、彼女の態度はなんだか歯切れが悪かった。もしかしたら、あの時すでに彼女は別れを予感していたのかもしれない。
(あのままずっと抱きしめていればよかった……)
 直人の胸は、後悔と悲しみで引き裂かれそうだった。

 諦めきれない直人は、担任から彼女の連絡先を聞き出した。
『この電話番号は現在使われておりません……』
 何度かけても、無機質なアナウンスが響くだけ。
 県の先端工学研究所にも連絡してみた。
『そんなアンドロイドは開発されていません』と門前払いだった。
 施設内に入ることさえ許されなかった。
 手がかりは途絶えた。
 どこかの国に売られたという噂を聞いた。
 機密漏えいでスクラップにされたという噂もあった。
 噂が流れているうちはまだよかった。
 しばらくすると話題にもならなくなり、クラスメイトの記憶から消え去っていった。
 桜子を思い出すことのできる場所は、あの土手だけになった。

 きゃはははは!
 最後になって直人は願石橋にやって来た。手には彼女のフライパンを持って。
 そこには何事もなかったように子供達の笑い声が響いていた。
「あっ、お兄ちゃんだ」
「遊ぼ、遊ぼ。一緒に遊ぼ!」
「お姉ちゃんはもう来ないの~?」
 子供達が直人に気付き、声をかけた。
 ちゃんと覚えていてくれたんだ……
 直人を覚えていてくれたことよりも、桜子を覚えていてくれたことの方が嬉しかった。
 ここには、彼女が存在した証があった。
 すっかり嬉しくなった直人は、フライパンに座り子供達と一緒に土手滑りを始める。
 が、すぐにバランスを崩しゴロゴロと坂を転げ落ちた。
 こいつは超難しい~
 直人はムキになって、何度も何度も土手滑りに挑戦した。
 滑っている間は、悲しいことを忘れることができた。

 夕方になり、夕陽が沈みかけると子供達は土手の上に並んで座り始めた。
「今日は天気がいいからアレが見れるよ」
「そうだね、きっと見れるよ」
「かーちゃん、今日の晩飯ラーメン丼って言ってたよ……」
「七時から放送の『特殊部隊チラミンジャー』楽しみだね~」
「チロの首輪が壊れちゃって……」
 子供同士で勝手に会話を始める。
 いったいこれから何が始まるんだろう?
 何かが見られるらしいが、それは何なんだろう?
 直人も子供達の傍に立つ。
 すると一人の子供が橋の方を指さした。
「あっ、見えた!」
「見えた、見えた、『ありがとうちょくひと』だ」
 えっ? どこ? 何も見えないけど……?
 すると子供達に教えられた。
「お兄ちゃん、背が高いから見えないんだよ。座らなきゃダメだよ」
 直人は言われる通りに土手の上に座る。そして子供達の指差す方を見ると――それはあった。

『ありがとう直人』

 願石橋の側面全体を使って文字が刻まれていた。
 橋に夕陽が当たって初めて浮かび上がる文字。
 そしてそれは、この場所からしか見ることはできない。
 きっと桜子が怪しいビームを照射して掘り込んだに違いない。夕陽が当たるとうっすらと影ができるようになっている。
 そうか、最後の日にここに座っていたのは、これを掘っていたんだ……
「ありがとう、桜子……」
 直人の頬を流れる涙は、しばらく止まることはなかった。



ライトノベル作法研究所 2010GW企画
ルール:学園を舞台とする
お題:「首輪」「ラーメン丼」「フライパン」「アンドロイド」「特殊部隊」「片道チケット」「ビーム」の中から三つ以上を選び使用する

「フライパン桜子」に寄せられたコメント2010年05月15日 21時38分50秒

【くるくるさんの感想】

こんにちは、くるくると申します。拝読しました。

非常に読みやすい作品でした。
個人的に気に入ったのは、『ありがとうちょくひと』ですね。
普通に『ありがとう直人』では正直わざとらしいと感じて引いてしまったと思うのですが、その前にワンクッション置いていることで不自然さが緩和されていると感じました。
また、お題の「フライパン」「ビーム」の使い方は秀逸ですね。
こういう、ちょっとひねった使い方、見習いたいです。

気になったところとしては、桜子が主人公に好意を抱いていく過程を、もっとじっくりやってほしかったということ。
それから、桜子がいなくなった理由も気になります。
そして、最後に主人公が大したアクションを起こしていないのも良くないと思いました。
……まあ、どれも枚数制限があるため難しいとは思うのですが。
ただ、御作はまだ枚数に余裕があるように見受けられますし、参考程度にしていただければ幸いです。

拙い感想ですみません。すこしでも作者様の役に立てば幸いです。それでは、駄文失礼しました。


【akkさんの感想】

 『フライパン桜子』読ませていただきました。
 感想を書かせていただきますakkと申します。
 どうぞよろしくお願いします。

 ・タイトル
 どういう内容なのか想像できないですが、そこが良いです。インパクトがあります。

 ・お題 (◎○△×)
  学園ものかどうか ―― 高校   △
  フライパン    ―― !?   ◎
  アンドロイド   ―― 文字通り ○
  ビーム      ―― 武器   ○
 (片道チケット)  ―― 固有名詞 ×
 (ラーメン丼)   ―― メニュー ×
 (特殊部隊)    ―― 固有名詞 ×
 (首輪)      ―― 文字通り ×
 作者様のコメントにもあるように、確かに学園率が低いですね。高校生という絶対性が物語に組み込まれてたので、悪くないとは思いますけれど。
 フライパンの使用は他に例を見ない個性があり、高評価です。アンドロイドとビームは少しリアリティが足りないように感じました。作中に登場するビームがどんなビームなのか、映像が浮かばないのはマイナスだと思いました。他はゲスト出演ということで、ただ入れ込んだだけの印象です。

 どうして学校では笑わないのか。この辺りを中心に話が展開するのかと思いきや、まさかの恋愛ものでした。なんだかラストに流れのズレを感じたり……。あとは恋愛ものなのに、距離が一瞬にして縮まるのはいかがなものかと思ったり……。
 仰いでるフライパン(常備しているフライパン)の形状や大きさが知りたかったです。仰いでる、もしくはソリにしている様子がはっきり浮かびませんでした。
 アンドロイドの彼女は完全に自由に行動しているように見えます。監視する人とかなんかいないのでしょうか。研究所には管理する責任があるのではないでしょうか。もし急に暴走したら、もし故障したらどうするのでしょうか。
>熱暴走のため、話してはいけないという命令が吹っ飛んだのだろう。
 何だか都合良く感じました。秘密漏洩の危険があるのだから、やはり監視員はいなければ不自然です。桜子さん、歩く情報じゃないですか。誰かが止めに入らないとおかしいような気もします。
 チラ見防止条例が出てきてからは予想の上を行く展開でした。
>特殊ビームよ
 なんですかそれは(笑)
>すべてを告白し、研究所の呪縛から開放された桜子はまるで別人だった。
 え? 呪縛って何ですか? 桜子は研究所に命令されて嫌々調査してたのでしょうか。よくわかりませんでした。
 途中まで読み、高校に通う理由は何だろうかと思いました。チラ見の調査のためだったら、学校に通う必要はない気がします。(制服を手に入れるためですか?)
>「いつもこれを持ってるお姉ちゃん、来なかった?」
>「ねえ、今日はお姉ちゃん、来た?」
 二回同じこと言ってたので違和感がありました。
>桜子も僕のことを待っていてくれたんだ。
 ポジティブですね……(汗)
 最後、それにしてもビームは万能です(笑)

 色々と楽しみました。予想外の展開が続くのは良かったです。
>私のデータはあなたの名前で一杯なの。直人、直人、直人、直人、直人、直人、直人……って感じ。あなたは私の中で溢れている……」
 のセリフが気に入りました。

 しかし、読み終えてから面白かったかと聞かれれば「はい」とも「いいえ」とも答えづらい感じでした。現実味が足りなかったので、物語自体が嘘くさく感じたことが原因でしょうか。あとは、どうして笑わないのか。どうして子供の前では笑えるのか。というところをもっと掘り下げてほしかったと思いました。
 後半、主人公はほとんど桜子に流されてたような気がしました。最初の注意以降、何か行動をしてほしかったです。連絡先聞いたりとかはありましたけど、結局何も物語は動かなかったですし。必死にやり切った主人公にこそ、読者は感動するのだと思います。

 以上でございます。
 執筆お疲れ様でした。少しでも参考になりましたら幸いです。
 役に立つ部分と立たない部分はあるかと思いますので、取捨していただけますようお願いいたします。
 至らぬ感想人でごめんなさい。失礼いたしました。


【フェルト雲さんの感想】

フェルト雲です。こんばんは!
面白いタイトルですね。
どんなイントネーションかいまいちわかりません!

冒頭のつかみはばっちりでした。
主人公も桜子も面白いキャラクターで、作風は真面目でシュール。こういうの好きです。
私好みの面白い作品でした。

三人称視点で書かれているのですが、一人称でも面白く書くことができたと思います。
と、いいますかほぼ直人よりの三人称だったので、いっそ直人視点でよかったと思うのです。
直人の心情の変化を掘り下げてほしかったですし、
なにより直人が結構面白い子なので、直人視点ならもっと生き生き見えたのでは……と。
ムフフと笑うことのできる真面目キャラな直人が、もっと動くところを見たかったです。

彼女が学校に来ていた理由がはっきりしないところが残念でした。
チラ見防止に関する仕事(シュール)は建前で、彼女には別の任務があって学校に来ていたのだと思ったので。
そんなわけで、学園モノというネタが中途半端になってしまったかなと思います。
枚数が残っていますし、
桜子がなぜ学校に来たのか、なぜ居なくなってしまったのか、そして主人公と学校でのやり取りをもう少し追加するといいのではないでしょうか。
そうすれば学園という舞台が生きてくるでしょうし、アンドロイドと人間の恋についても言及できると思います。

ラストシーンはグッとくるものがあったのですが、
遊んでいた子供たちが家に帰り、さて直人も帰るかとふと橋を見ると……の方が自然かなと。
そしてもっと言ってしまうと、桜子には戻ってきてほしかった。

お題の使い方についてですが、
とにかくフライパンがシュールでした。
下着からビーム。ううむ。シュールだ。

御作のシュールさって良いところだと思います。
これは好みにもよると思うのですが、
私としてはシュールさがあとちょっと、ほんのちょっぴり足りないのです。
桜子にはアンドロイドとしてもっと活躍してほしかったですし。

もう少し長く尺を取ってほしかったなと思いますが、
面白く読ませていただきました。



これからもがんばってください。
駄文失礼しました。それでは~!


【前田なおやさんの感想】

こんにちわ、前田なおやと言うものです。

話の内容的にはよかったと思いますが、展開が速い。
主人公とヒロインとの交流がもう少し欲しい所でした。キスうんぬんかんぬんまで行くには、何かが足りない。
それと、色々「なんでやねん」と突っ込みたくなる点がありました。
謎の条例を筆頭に、フライパンを使っている理由。わざわざ学校に入れるなんて真似をしたのに、なんでその存在を否定しているのか(国もそこまでアホじゃないかと……)。
最後の「ちょくひと」に関してですが、これはよかったと思います。
ただ、それを子供たちが楽しみにしている理由が分かりませんでした。

お題の使い方が素晴らしく、ゲストお題もシュールに使っていてよかったです。
これからも頑張って下さい!


【トゥーサ・ヴァッキーノさんの感想】

はじめまして、トゥーサ・ヴァッキーノと申します。
今回、はじめて参加させていただきました。

お話の批評っていうのは、苦手科目なんですけど、
思ったことを書かせていただきます。

アンドロイドとの青春ってのは、面白かったです。
ラストの感じも雰囲気があって、ジーンとしますね。
ハッピーエンドじゃない方が、断然いいですもんね。

それから
>地獄の片道チケット号
>特殊部隊チラミンジャー
お題を考えるときに、ルールみたいなところで、お題を名前にしたらよくないということを書いてたので、難しいもんだなあと思ったんですけど、
別に、使ってもよかったんですね。

はじめて参加したので、批評ってこと自体に緊張してしまいました。
ありがとうございました。


【ミナ・コレステロールさんの感想】

こんばんは。
ミナ・コレステロールと申します。


お料理の得意な子の話なのかなぁと思って、読み始めたんですが……

(フライパンを)そう使うか!

とパソコンの前で声に出してしまいました。
わたしは料理用か鈍器?としか思っていなかったので、衝撃的でした。

作者さんの感性が素敵なんでしょうね。
「胸のCPU」のあたりの表現も、うまいと思いました。

ストーリーは、ギャグ要素の強いSFラブコメ?と思っていたら、意外にもすごく切なかったです。やられました。


お題に関してなんですが、
「アンドロイド」と「フライパン」と「ビーム」の三つを、作品の重要なキーワードとしてしっかりと消化されていて、すごいなぁって、ひたすら感心いたしました。

他のお題の「ゲスト出演」も、さりげなく混ぜるのではなくて、あえて最後のほうに入れていらっしゃったように思えました。やっぱり、うまいです。


そんなわけで、すごく素敵な作品だったと思います。
作者さんの他の作品も読んでみたいです。



【へべれけさんの感想】

こんにちは、へべれけと申します。
御作「フライパン桜子」を読ませていただきましたので、感想を残します。

近未来ライトSFとでもいいましょうか。学園成分はと聞かれるとやはり少々パンチに欠けるように思いますが、「じゃあジャンルは?」と問われれば確実に学園モノと答えるでしょう。非常にシュールな題材で、個人的には好きな方向性です。お題もきっちり使い切り、まずまずの完成度を誇っていると言えるのではないでしょうか。

・良かった点
SFを基本として考えた場合、「チラ見防止条例」というのがすごくワンダーでよかったです。ましてやギャグとしてではなく、作中で大真面目に語られているのがいいですね。アンドロイドにせよ、ビームにせよ、それの後追いによってねじ伏せられているのですが、それがまた妙に納得してしまえるのが読んでいて心地よかったです。

・悪かった点
枚数的にも軽めに抑えられているのでしょうが、ちょっと内容の薄さが気に掛かります。なんだか読み応えのないまま一気に目の前を通過していった感じ。物語も一応閉じられていますが、もうすこし桜子の顛末や、直人との因果関係が語られていてもよかったかなと思います。

■総評
とても魅力的な作品のひとつだったと思います。
文章もこなれていて読みやすく、読み詰まることはありませんでした。
あとはなんらかのカタルシス(すっきり感?)があれば申し分なかったでしょうか。ストーリーそのものにはブレもなく、作者さまの基礎力を垣間見た気がいたします。


【玖乃(くの) さんの感想】

お疲れ様です。
「フライパン桜子」拝読いたしました。感想を書かせていただきます。


フライパン桜子――このネーミングセンスに脱帽です。はっきり言ってうらやましすぎるw 完全なツボです。

シンプルな作品で読みやすい文章、すぐに読了できました。
あれですね、女子高生ってのは生きた罠ですね。

では読みながら思ったことを少々。

>「このフライパンのフチの形状を考慮に入れれば、見えるはず無いの。もちろん柄の部分で生じる死角や、スカートの長さも計算に入れているわ。スカートのめくれ加減は、傾斜三十度で秒速十メートルの滑降速度以内であれば問題なし。あなたには全く関係ないわ」

 空想科学読本を思い出しました。それでもしっかり見えているという片手落ちアンドロイドの頭脳は萌えポイントですw

>自分は桜子の笑顔だけが見たいのだろうか?
 実は、彼女の下着が見たいという欲求の方が大きいのでは?

 笑顔と下着? そんなのどっちも見t(ry

>ムフフフフ……

 ひさびさにこうやって笑う主人公を見ました。いや、主人公の笑いじゃないw


 いろいろ内容にツッコミたい部分はありますが(しかしチラ見が規制されたら暴動が起きやしないか……)条例ネタはかなりホットなので面白く読ませていただきました。細かいことを気にしなくていい作品だったと思います。

 良い作品をありがとうございました。GW企画執筆お疲れさまでした!
 引き続き感想期間もよろしくお願いします!

(独)海豚食肉センター2010年05月20日 22時11分18秒

注意:この作品はフィクションです。実在する映画や団体とは関係ありません。



『オーノー! 真紀サン、真っ向からマッコウクジラが襲いかかってくるヨ!』
 無線からマイケルの叫び声が飛び込んで来る。
「マイケル、ふざけてんの? 今は日本語の練習をしてる場合じゃないのよ」
『真紀サン、違いますヨ。本当にクジラが正面から……』
 どうやらマイケルは、本当にクジラに襲われているようだ。
「大丈夫よ、マイケル。ニッキーは十分訓練されているから、ちゃんと回避してくれるはずよ」
『分かった、真紀サン。ニッキーを信じてみるヨ』
 真紀は無線機を手にしたままクルーザーの甲板に出る。現在マイケルが居るであろう海域は、最近急に強くなった日差しを浴びてキラキラと輝いている。海の色は、春から夏へと変わりつつあった。
 ここは熊野灘の沖、およそ十キロメートルの地点。動物愛護団体に所属するマイケルは、イルカの「ニッキー」と行動を共にしている。行動を共にしているといっても一緒にランデブーしているわけではない。彼はウエットスーツと酸素ボンベを装備したまま、イルカに縄で縛り付けられているのだ。
「おっ!」
 遠くの方でイルカのジャンプが見えた。どうやらニッキーは、鯨を回避するためにジャンプを選んだようだ。遠すぎてよくわからないが、マイケルらしき影もうっすらと見える。しかしあの高さまでジャンプすると、今度は海まで真っ逆さまだ。
「ナムナムナム……」
 真紀はマイケルの無事を祈った。

 マイケルがイルカに縛り付けられているのには理由があった。これから決行される秘密の潜入作戦に、イルカと一体となることが必要不可欠だったからだ。その潜入先は、海豚食肉センターという難攻不落の要塞だった。
 海豚食肉センター――正式名「独立行政法人・海豚食文化保護センター」は五年前に設立された独立行政法人だ。設立の数年前、イルカの追い込み漁を取り上げた映画が話題となったのが発端となっている。映画は、「イルカは可愛く、それを食する行為は残虐」というステレオタイプ的な内容だったが、隠し撮られた真っ赤に染まる入り江の映像は全世界に衝撃を与えた。
 この映画の上映をきっかけに、イルカ漁の賛否について世論を真っ二つに分けるような議論が巻き起こった。肯定派は文化であることを主張し、反対派は残酷性を強調した。日本ではどちらの意見が優勢というわけではなかったが、イルカの追い込み漁を唯一行っている和歌山県大池町への影響は甚大だった。映画の時のように漁の様子がまた盗撮されるかもしれない。そのような懸念から、実質的に漁は中止に追い込まれた。しかしこのままでは文化としての漁が廃れてしまう。そこで、国の主導で対策を講じることになった。
 そこで考えられたのが、追い込み漁を行う入り江をすべて覆ってしまうという対策だ。要は、残酷な部分をすべて隠してしまうという手法。施設に入ったイルカが、食肉となってパック詰めされて出てくる。スーパーで牛や豚や鳥のパック詰めを見慣れた国民は、イルカ漁について何も違和感を感じなくなった。
 この施設の完成でヤキモキしたのが動物愛護団体だ。なんとかして施設の中の様子を知りたい。しかし、この施設の防御は完璧だった。入り江を完全に覆っているため空撮は不可能。出入口は、海へ開いたイルカの入口と製品や作業員の出入口のみで、いずれも厳重なセキュリティに守られていた。また施設すべてが電波を遮断する構造となっており、遠隔操作によるカメラの潜入も不可能だった。
 そしてこの難攻不落の施設を管理しているのが、前述の海豚食肉センターだ。政権交代の影響もあり、縦割りではなく複数の省庁が共同で管轄する初めての独立行政法人となった。しかしそのため、農林水産省、厚生労働省、文化庁そして内閣府からそれぞれ天下りを受け入れる結果となった。それにスポットライトを当てたいジャーナリストの真紀は、施設の内部を知りたい動物愛護団体のマイケルと手を組むことにしたのである。

 海豚食肉センターへの潜入は、いろいろと検討した結果、イルカそのものに隠れるしか方法が無いという結論に達した。そこで真紀は、ジャーナリストの情報網を使ってイルカの調教師を探した。真紀達に賛同してくれて、使えるイルカを提供してくれそうな調教師を。そこで浮上したのが、三重県熊野市仁木鳥のイルカ婆だった。
 そこで真紀とマイケルは、葉桜のまぶしい仁木鳥にイルカ婆を訪ねた。
「こいつを使うといい」
 彼女が差し出したのは、背中に傷のある一頭のバンドウイルカだった。
「名前はニッキーじゃ。こいつはの、一度大池町で殺されかけたんじゃ。その時の仲間はみんな殺されてしもうた。その仕返しができるんなら、こいつも喜んで協力すると思うわい」
 そう言いながらニッキーの傷をなぞるイルカ婆。こうして、真紀、マイケル、ニッキーの、二人と一頭の潜入部隊が結成された。

『真紀サン、そろそろ帰還しますヨ』
 無線から流れるマイケルの声に、真紀ははっと我に帰る。どうやらマイケル達は無事だったようだ。
 真紀が甲板から顔を覗かせると、ニッキーとマイケルが海面に浮上してきた。
「よっ、マイケル。無事でなにより」
「真紀サン、いいなあ、その見下す視線! ボクは真紀さんに会いたい一心で帰って来ましたヨ!」
「そう。じゃあ、もっときつく縛ってあげないとね」
「イエッサー、ぜひお願いするでありますヨ」
 マイケルはこんな時でも底抜けに明るい。彼のおかげでテストは大成功だ。いよいよ海豚食肉センターに潜入する時がやってきた。
「ほら、ボンベを交換したらすぐに出発よ」
「エーッ、いくら真紀サンでもそれはヒドイ。ちょっと休ませて下さいヨ」
「ダメダメ、陽が暮れたら施設内部の写真が撮れないんだから……」
 夏になりかけの太陽は、二人と一頭を真上に近い角度から照らしていた。

 それからマイケルが帰って来たのは三日後だった。不法侵入で警察に拘束されていたから、海豚食肉センターへの潜入は成功したようだ。同じ頃、ニッキーは自力で仁木鳥に帰り着いていた。潜入成功、そしてイルカも無事。ミッションは大成功のように思えた。しかしマイケルはなんだか浮かない顔をしている。ミッションが成功したのであれば、たとえ拷問を受けたとしてもM気のあるマイケルなら笑顔で帰還するはずではと、真紀は不思議に思った。
「まあ、とにかくこれを見て下さいヨ」
 マイケルは差し歯に仕込んだマイクロSDカードを取り出した。真紀がパソコンに差し込むと、施設内の映像がモニターに写し出される。
「何これ?」
 そこに写っていたのは、浜辺の海中に湧く温泉と数え切れないほどの豚。豚は海中温泉に浸かってほっこりとしている。
「海と豚……? じゃあ、出荷されているのは豚肉? これって詐欺じゃん。でも……、表記は間違っていないのか……」
 さすがの真紀も開いた口が塞がらなかった。



即興三語小説 第56回投稿作品
▲お題:「真っ二つ」「真っ逆さま」「葉桜」
▲縛り:「季節の移ろいを描写する」「老婆が登場する」
「登場人物の一人が終始縛られている(任意)」
「SキャラとMキャラのコンビを登場させる(任意)」
▲任意お題:「ステレオタイプ」「真っ向からマッコウクジラが襲いかかってくる」
「イエッサー」「傷口をなぞる」