右サイドを駆け上がれ! ― 2020年05月17日 16時45分35秒
「おおっ!」
サッカースタジアムが響めきに包まれる。
「ナイス、カット!!」
「いいぞ、華羽!」
「よし、行けー!」
ホームチームのキャプテン華羽穂樽(かわ ほたる)が、相手チームのパスをカットしたのだ。
刹那。
チームの雰囲気が一変する。
華羽選手がボールを持った瞬間、選手たちの攻撃のスイッチが入った。
前を向くボランチの華羽選手。
両サイドバックはスプリントを開始した。
センターバックはラインを押し上げ、フォワードは裏のスペースを狙って相手ディフェンダーと駆け引きを開始する。
その切り替えの速さ、いや鋭さに背筋がゾワっとする。
統率されたチームの動き。小学四年生の私でも感じる反撃の予感に、ドキドキと胸の鼓動は高まっていく。
「ゆりこ!」
華羽選手に名前を呼ばれた右サイドバックは走るスピードを上げた。観客席の前から三番目に座る私の目の前を、その背番号2が駆け上がっていく。試合終盤とは思えないスタミナだ。
通り過ぎる荒い息遣い。揺れるショートヘアと飛び散る汗。テレビでは決して味わえない臨場感。
「おおっ!」
「そこか!?」
再びスタジアムが湧く。
華羽選手から、ディフェンスラインを切り裂くグラウンダーのスルーパスが、右サイド目掛けて放たれたのだ。
「お願い、追いついて!!」
思わず手を組んで、私は小さくなる背番号2を見守っていた。
後半もすでに三十分が過ぎている。私だって少年少女サッカークラブに所属しているから分かる。今は地獄の時間帯だ。スタミナは切れかけで息をするだけでも胸が熱く苦しい。筋肉ももう限界に近いだろう。無理をすれば足をつってしまう。
そんな極限状態だというのに、華羽選手からのパスは容赦ない。前半と同じ鋭さを持ってディフェンダーの隙間を切り裂いた。
このパスに追いつけば、ラインの裏を取れる絶好のチャンス。
が、もし追いつけなければ……ごっそりと削られるだろう。背番号2のスタミナは。
そんな私の心配をよそに、背番号2は走るスピードをさらに加速させ、華羽選手からのスルーパスに追いついた。
「すごい!!」
しかしそこからが圧巻だった。
背番号2は右足でボールを保持しながら中に切り込み、味方フォワードの上がりを待つ。立ちはだかるセンターバック、背後からは左サイドバックが迫り来る。
すると背番号2はボールをまたいでフェイント入れると、左足でゴールライン側にボールを動かし、右足を大きく振った。
「ダメ! そのタイミングじゃ!」
そこはまだ相手の守備範囲内。
センターバックが足を投げ出してブロックする。敵も必死だ。
嗚呼、センタリング失敗――と思いきや
「えっ? センタリング……じゃないの!?」
背番号2が躍動した。
相手ディフェンダーを嘲笑うかのごとく、大きく振った右足で地面を蹴ってボールを止めると、左足で再びボールを動かした。見事なフェイントだ。体勢を崩したセンターバックは対応できず、悔しそうにボールの行方を見守るしかない。
「すごい、後半三十分過ぎで、こんな足技が出せるなんて……」
さあ、後はセンタリングを上げるだけ。
顔を上げた背番号2は味方フォワードを確認する。そして右足を振り抜いた。
低い弾道でゴール前に向かって飛んでいくボール。
しかし――その軌道は味方フォワードへではなく、かなり手前へ戻ってしまう。
「ええっ、キックミス? せっかくここまで攻めたのに……」
そんな私の心配は無用だった。
背番号2は狙ってこのコースにボールを上げたのだ。敵味方が密集するゴール前ではなく、ペナルティエリア手前がガラ空きとなることを見越して。
そこには必ず華羽選手が走り込んでくれる。
そう信じていなければ、上げることができないコース。
「サンキュ、ゆりこ!」
そう言ったかどうかはわからないが、走り込んできた華羽選手はニヤリと笑うと小さくジャンプした。亜麻色のポニーテールを揺らしながら、背番号2からのセンタリングを頭で合わせる。
ゴールの左上隅に向かって、鋭くコースを変えるボール。ゴールキーパーの右手をすり抜けて、見事にネットを揺らした。
『ゴール!!!』
スタジアムが湧き上がる。お客さんも総立ちだ。
私も立ち上がって、スタジアムに連れて来てくれたお父さんとハイタッチ。すごいすごい、こんなプレーが間近で見られるなんて。本当に胸のドキドキが止まらない。
ピッチでは、華羽選手が背番号2と抱き合っている。
――遠賀ゆりこ(おんが ゆりこ)、背番号2。
なでしこリーグ一部のチーム『芦屋INCA』に所属する不動の右サイドバックだ。
「すごい! 私もあんなプレーがしてみたい。あんな選手になりたい!!」
彼女はその日から、私の憧れの選手となった。
〇 〇 〇
「まったく、もう、やってられないよ……」
あれから五年。
高校生になった私、立花芽瑠奈(たちばな めるな)は、憧れの名門サッカー部への入部という夢を手に入れた。
――黄葉戸学園女子サッカー部。
高校女子サッカーのタイトルを十個も持つ、日本でトップクラスの部活だ。
が、いざ入部してみると、現実の厳しさを痛感する。
部員数は五十名。
一方、試合でピッチに立てるのは十一名。
つまり五倍弱の競争を勝ち抜かないとレギュラーにはなれないってこと。
でも私には強力な武器があった。
それは持久力。一五〇〇メートルを四分半で走ることができる。
「なに、ずるい。一種のチートじゃん。陸上部としてインターハイに出れるよ、それ」
同じクラスで一緒に入部した麻由にもネチネチと言われたものだ。
だから、私はすぐにレギュラーの座を手にできると思っていたのに……。
「はぁ……」
「メル、いい加減にやめなよ。ため息、もう十回目だよ」
「麻由はこの状況に満足してるの? 私たちがこれを引っ張っていることに!」
それは重いコンダラ……じゃなくて、重いローラーだった。
「ローラーだけど?」
「ローラーだけど、じゃないよ」
相変わらずの麻由の天然ぶりに私は呆れる。
「えっ? メルはこれがローラー以外のなにかに見えるの?」
「いやいや、サッカー部でローラーはおかしいでしょ? スポ根野球漫画じゃあるまいし」
「部活の後でグラウンドにローラーかけるのは普通じゃん。私たち、まだ一年生なんだし」
そんな無邪気な麻由の横顔を、初夏の夕陽が照らしている。
今年は世界的なウイルス災害のため入学式は中止、学校や部活に通えるようになったのは六月からだった。
私は「はぁ」と今日十一回目のため息をつく。
「麻由ってお気楽でいいよね。いい、サッカーはそもそも芝生でやるものなの。土のグラウンドじゃないの」
「しょうがないじゃない。高校の部活なんだし」
「しょうがないじゃないよ。ここは天下の黄葉戸学園なんだよ。全国のサッカー少女が憧れる聖地なんだよ。ていうのに、土のグラウンドってありえないよ」
名門なのに、という理由だけじゃない。
そもそも私は土のグラウンドが嫌いなのだ。
スパイクはすぐすり減るし、ボールの痛みも激しいし、練習は埃っぽくってショートの髪はいつもバキバキ。それに土のグラウンドでいくら上手くなったって、試合が行われるのは芝。練習で上手くいくことが本番でも上手くいくとは限らない。まあ、本番に出られるチャンスがあれば、の話だけど。
「中学まで通ってたクラブだって人工芝で練習してたっていうのに……」
私が十二回目のため息をつこうと麻由を向くと、いつもお気楽な彼女の表情が強張っている。
いったい何が、と思った瞬間、背後の頭上から声が飛んできた。
「あんたたち、いつまでローラーかけてんの。そんなエリート育ちなら、さぞかしボールの扱いは上手いんでしょうね?」
ヤバい、この声は――
振り向くと、やはりキャプテンだった。
宝河香月(たからが かづき)先輩、三年生。
一七五センチという恵まれた体格に加えて、ボールの扱いは部活ナンバーワン。
おまけに敵の弱点を的確に突くパスセンスに長けていて、年代別の日本代表に呼ばれるのは時間の問題ではないかと噂されている。
身長の高いキャプテンの言葉は、どうしても高圧的に感じてしまう。
一方、私は一六〇センチで、麻由は一五五センチ。
この身長差を打ち消すには、強い言葉を返すしかない。
『なら、芝のグラウンドで私と勝負してみます? ただし私からボールを奪えなかったら、次の試合のレギュラーをいただきますよ』
そんな風に言ってみたい。
まさにスポ根ドラマ。
が、私にはそう啖呵を切れない事情があった。
というのも、自慢の持久力で大抵の相手ならぶっちぎることができるので、足技なんて使う機会はあまりないし、真剣に練習もしてこなかったから。
つまり、下手ってこと。
「メルはね、もっと左足を練習しなくちゃダメ」
的確な指摘に言葉をつまらせる。確かに私は左足を使うのが特に苦手だった。
「でもキャプテン。日本代表だって、利き足だけでプレーしている人もいるじゃないですか?」
「それはね、フォワードとかトップ下とかそういうポジションの話よ。いい? 考えてみてよ。右サイドバックが右足しか使えなかったら、センタリングしか上げられないじゃない?」
キャプテンが言うことももっともだ。
が、私には私の考えがあった。
「だったらそれでいいじゃないですか。センタリングさえ上げられれば」
私の脳裏に小学生の時に見た試合のシーンが蘇る。
芦屋INCAの背番号2は、敵陣深く切り込んで得点に結びつく正確なセンタリングを上げた。
私はそういうプレーがしたいのだ。
それだけで十分なのだ。
実際、少年少女サッカー時代は何度も敵陣に切り込んで、決定的なセンタリングを成功させている。
「あなたのスタミナは部員誰もが認めるわ。でもそれだけじゃダメ。今は基礎をしっかり身に着ける時なの」
本当にそうなのか?
自分の得意な部分を徹底的に磨けば、それはそれでいいのではないだろうか?
不服そうな表情を崩さない私を見かねたキャプテンは、一つため息を漏らすと私に向かって提案した。
「わかったわ。週末の紅白試合、あなたにはAチームの右サイドバックに入ってもらう。右サイドバックの桜には、あなたの代わりにBチームの左サイドに入ってもらうわ。そこで自分には何が必要なのか学ぶのね」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべたキャプテンは踵を返し、部室の方へ引き上げて行った。
「やったじゃん、メル! いきなりAチームだよ!」
キャプテンが部室に入ったことを確認すると、麻由が私の手を取って小躍りする。
まるで自分の事のように喜んでくれる麻由は本当に大切な友達だ。
「これで結果を出せれば、念願のレギュラー昇格だね、メル!」
そんなに上手くいくだろうか?
私はキャプテンが最後に見せた表情が気になっていた。
「きっと今頃、桜先輩と相談してるよ。私をギャフンと言わせる算段を」
間違いなくそうだろう。
あの笑いには、私の足を封じる策略が滲み出ていた。
「なに、暗い顔をしてんのよ。あのキャプテンに「それでいいじゃないですか」って啖呵切ったのメルじゃない。ちょっと胸がすうっとしたなぁ。ほらほら、その自信はどこに行ったの? 芽瑠奈よ、諦め……」
「ストップ!!」
私は慌てて麻由の口を遮る。
「だからいつも言ってるよね。それ言っちゃダメだって」
本当に嫌なんだから、ダジャレで私の名前を茶化されるのは。
「ちぇっ、久しぶりにあれを言うチャンスだったのに〜」
仲の良くない友達ならぶっ飛ばすところだよ? 麻由だから許してあげるけど。
「メルならできるよ、桜先輩をぶっちぎるところを見せてよ」
私だって快走したい。右サイドを一直線に。
あの時の背番号2のように、相手選手を置いてきぼりにして。
ふと空を見上げると、六月の夕陽はすっかり沈んでいた。
〇 〇 〇
黄葉戸学園女子サッカー部の週末の練習は、市営グラウンドで行うことになっている。そこには立派な人工芝のサッカー専用グラウンドがあった。さすがに定期戦を乗り切るには、学園の土のグラウンドの練習だけというわけにはいかない。
私たち一年生は、練習開始の一時間前に顧問の先生が運転するマイクロバスに乗り、ボールやらコーンなどの用具を運ぶ。そして会場準備を済ませ、ウォーミングアップをしながら上級生が到着するのを待つのだ。
部員が揃って一通り基礎練習が終わると、紅白試合が行われることになっていた。
キャプテンの言葉通り、私はAチームの右サイドバックとして名前を呼ばれた。
広いピッチに散らばるメンバー。
フォーメーションはオーソドックスな四ー四ー二。
私は右サイドバックのポジションに駆けていく。
――これがレギュラーとしての第一歩。
そう思うと緊張する。
スパイクの裏で、人工芝の感触を確認する。
やれる自信はある。体調も万全だ。
対する相手はBチーム。主にベンチメンバーで構成されている。
中でも注意しなくてはいけないのが桜先輩。キャプテンの言葉通り、左のウイングに構えている。これから私とマッチアップする強敵だ。
――砂根桜(すなね さくら)先輩。三年生。
身長は私と同じ一六〇センチくらい。痩せ型でぺったんこの私とは違い、女性的なボディは部内一魅力的かもしれない。カールのかかった綺麗な長髪は、今日は後ろで結んでいる。
スタミナは上位クラスで、レギュラーとして普段は右サイドバックを守っている。足技は素晴らしく、トラップは完璧、パスも両足から正確に繰り出せる能力を持っていた。
ピーッと二年の先輩が吹く笛でゲームが始まった。
Aチームのキックオフ。前に大きく蹴り出されたボール目掛けて、中盤以上の選手がスプリントを開始した。
「よっしゃあ、私も!」
とダッシュをしようとしたところ、
「行くな、メル!」
センターバックの先輩に制止されてしまった。
「メルは初めてなんだから、今はラインを作ることに集中だよ!」
わかるよ、先輩が言うこともわかる。
でも、お願いだから走らせて。私の武器は走ることだけなんだから。
抗議の意をこめてボランチのキャプテンを見ると、顔を小さく横に降っている。今は大人しくしとけ、という意味に違いない。
仕方がないので、前半はしっかりとディフェンスラインを作ることに専念した。
しかし私はすぐに、桜先輩からの洗礼を受けることになった。
ディフェンスラインでのパス回し。
私は丁寧に右足でトラップしてから、右足でパスを送る。それを桜先輩に狙われたのだ。
パスする瞬間、桜先輩は私に体を当ててくる。
「ぎゃっ!」
私はいとも簡単に体勢を崩してしまった。
いつもはとっても温厚な桜先輩なのに。
なに、この鬼畜なタックルは!?
でもよく考えたら、桜先輩だってこの試合にレギュラーの座がかかっているのだ。私を自由にさせたら、その座を失ってしまうかもしれない。必死になるのも当たり前だ。
私のような貧相なガリガリ女子と違って、桜先輩は見事なボンキュボーン。身長が同じなら運動量保存の法則で飛ばされるのは私の方。
桜先輩のタックルをかわせても、今度はトラップミスを狙われる。
私は右足でしかトラップができないので、先輩は右足を狙って詰めてくるのだ。きちんとトラップができてもパスコースが限定される。トラップを焦ると、ミスで前にこぼしてしまう。
何度もボールを失ってすっかり嫌になった私は、手で合図してスペースにボールを要求し始めた。
が、飛んでくるパスは全部足元ばかり。
「もう、先輩たちって意地悪!」
きっとキャプテンの指示なのだろう。パスは私の足元に出せと。
私に反省させるために意地悪してるんだ。
「悔しいけどここは我慢。せめて桜先輩が疲れるまで」
これだけ激しくプレスしてくるのだから、さすがの桜先輩だってかなりスタミナが削られているはず。一方私は、ほとんど走っていないのでスタミナは満タンに近い。耐えていれば、チャンスは必ず訪れる。
そう悟った私はトラップすることを諦め、ダイレクトでパスを繋ぐことにした。
「ぐっ、ダメだ……」
すぐに私は重要なことに気づく。
左足が使えないため、右足でしかダイレクトパスを送れないのだ。
つまり、ほとんどのパスがセンターバックに返すことになってしまう。これでは攻撃に結びつかない。
「いやいや、私だって!」
左足が使えることを証明してやろう。
ちょうど左足めがけてセンターバックからパスが飛んできた。私はここぞとばかり、左足のインサイドキックでボランチへのダイレクトパスを試みる。が――
「あれ?」
当たり損ね。
左足のくるぶしに当たってしまったボールは、コロコロと力なく二メートルほど前方に転がっていく。それはサイドバックとしては致命的なミスだった。
「もらったわ!」
桜先輩はそれを見逃さなかった。
さっとボールをかっさらうと、その勢いのままゴールに切れ込んで行ったのだ。
私は慌てて桜先輩を追いかける。が、後の祭り。敵の背中を追いかけるサイドバックほど惨めなものはない。
――後ろからスライディングしてみる?
いやいやそれは危険なプレーだ。
一発レッドだし、ペナルティエリア内ならPKを与えてしまう。
それよりも桜先輩に怪我をさせてしまうわけにはいかない。たかが紅白戦で。
――自慢のスタミナで?
いやいや、たとえ追いついたとしても桜先輩からボールを奪えるとは思えない。
その前にセンタリングを上げられてしまうだろう。
ひらひらとなびく、桜先輩のポニーテルに手が届くくらいの距離まで詰めることができた。
せめてセンタリングを上げる瞬間に肩を当て、タイミングをずらそうとした瞬間、桜先輩は左足で中に折り返す。そして、走り込んできたBチームのファワードにきっちりと合わせられてしまった。
ゴール!
「あー、もう嫌だ!」
私の決定的なミスで、Aチームは一点ビハインドのまま前半を折り返すこととなった。
〇 〇 〇
ハーフタイムになってベンチにメンバーが集まると、キャプテンが私を向いて切り出した。
「メル、お疲れ様。じゃあ後半は交代で、代わりの右サイドバックには……」
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!
こんな消化不良のまま終わってしまうのは嫌だ!
だから私は叫んでいた。
「キャプテン、私の真価は後半に発揮されるんです。お願いですから、後半も私を使って下さい!」
後で考えると、相当生意気なことを言ったものだと思う。
でも、それだけ必死だったのだ。
あんなに必死な桜先輩を見ていると、私だって必死のプレーで答えたいという気持ちが溢れてくる。
「ふうん、じゃあ後半は死ぬ気で走ってくれるのね」
「もちろん死ぬ気で走ります!」
「私のパスはキツいわよ」
「光栄です!」
どんなSMスポ根だよ、と思いながらも、私はキャプテンに向けた眼差しから力を抜かない。
こうなったら根比べだ、と思った瞬間、ふっとキャプテンの表情が崩れた。
「わかったわ。後半も頑張って頂戴。それでいいですよね、先生?」
顧問の先生を向くと、お前たちにまかせたと静かにうなづくだけだった。
よし、やってやる!
これでダメだったら、私に未来はない。
サイドが変わって後半が始まった。
桜先輩も前半と同じポジションだ。そして私へのプレスを止めようとしない。
しかし時間が経つにつれて、私はあることに気がついた。
桜先輩の後ろを守る左サイドバックが疲れてきて、桜先輩と動きを合わせられなくなってきたのだ。
つまり、桜先輩の背後にはぽっかりとスペースが空き始めたということ。
これを活かさない手はない。
私はある作戦を思いつく。
前半に左足のパスを試みてわかったことがあった。桜先輩は私の右足だけに集中していて、左足はノーマークだったのだ。
それならば。
センターバックから来たパスを、勢いを殺さず前方に飛ぶように左足にちょんと当ててみよう。どこに転がるかなんて出たとこ勝負だ。
試しにやってみると、ラッキーなことにボールは小さく弧を描いて桜先輩の頭上を越えて行った。
転々とするボールは、ぽっかりと空いた先輩の背後のスペースへ。
よっしゃ、もらった!
ダッシュした私は桜先輩と入れ替わり、フリーでボールを保持する。
ボールの行方を追って顎が上がってしまった先輩は、反応が一瞬遅れてしまったのだ。その隙を私は見逃さなかった。
しかし喜びも束の間、前方からはサイドバックが慌てて詰めてくる。後ろからは桜先輩。この状況を一人で打開できる足技は、残念ながら私にはない。
しょうがないので右足でパスを出して、ボランチのキャプテンにボールを預ける。そして全力でラインに沿ってスプリントを開始した。
『私のパスはキツいわよ』
さあ、どんなパスが来るんでしょうね。
楽々追いつけたら心の中で笑ってあげるから。そんなものなのかと。
そう思いながらキャプテンをちらりと見る。目が合った瞬間、彼女の必殺スルーパスが炸裂した。
「ええっ、マジ!?」
それは、必死に走らないと追いつけないコース。
でもこれに追いつければ決定的なチャンスを作れる、本当に必殺のスルーパスだった。
「こんちくしょう!」
血の味がしそうな限界状態の肺に必死に空気を送り込む。
手を振って、足をフル回転させて、私はタッチラインギリギリでボールに追いついた。
「でも、これでオフサイドラインは突破した!」
私は、ラインの裏に抜け出ることに成功したのだ。
ドキドキと心臓が高鳴る。
私とゴールとの間には、相手センターバックとゴールキーパーしかいない。その二人の鬼気迫る表情が、自分がどんなに危険な位置にいるのかを物語っている。
「まずはセンタリング!」
私は右足でボールを保持しながら中に切れ込み、センターバックが寄せて来る前に右足を振り抜いた。
味方フォワードが待つゴール前ではなく、ペナルティエリア前のポッカリと空いたスペースに。
ボールは弧を描きながら飛んでいく。
「キャプテン、今度はあなたの走りを見せてもらいますよ!」
これはチームプレーではなく、私怨にまみれたブレーだったかもしれない。
でも、私は感じたんだ。
さっきキャプテンと目が合った時に。
――『最後は私に戻せ』と。
アイコンタクトの通り、キャプテンはゴール前のスペースに走り込んでいた。
身長一七五センチの長身が躍動する。と同時に、ショートの髪が頭の振りに合わせて綺麗に広がった。
高く跳んだキャプテンは、私のセンタリングを空の上からヘディングでゴールに叩き込んだのだ。
まるで青空から獲物を狙う鷹のように。
ゴール!
うわっ、超気持ちいい!
これだよ、サッカーは!
私はこの瞬間のためにサッカーを続けてきたんだ。
まだまだやれる。
もっともっと走ってやる。
試合再開の笛を聞きながら、私の中でアドレナリンが増産されるのを感じていた。
しかし、そこから先は地獄だった。
スペースに抜けることができるようになった私は、何度も何度もスプリントを試みる。
が、パスが来るのは三回に一回くらいなのだ。
まあ、そりゃそうだ。いつも同じところにパスしていたら、それはキラーパスとは言わないし、相手だって警戒してしまう。
中学までのクラブだったら、パスが出されてから走っても楽々追いつけた。
でも今は違う。キャプテンのキラーパスは本物だ。最初から死ぬ気で走らないと追いつけない。
そういえば小学生の時に見た芦屋INCAの試合でも、背番号2は何度も何度もスプリントしてたっけ。それでも華羽選手からパスが来たのは数回だけだった。そのたった数回のために、チームのために、背番号2は献身的に右サイドを駆け上がっていたのだ。
「いや、違う!」
チームのためなんかに私は走らない。
あのゴールの瞬間のためなんだ。
今なら分かる。あれは私のサッカーのすべてだ。さっきのゴールで心からそう感じた。
とはいえ、さすがの私も毎回万全の状態でスプリントできるわけではない。
後半三十分。
ほんのわずか出遅れてしまったスプリントに、キャプテンから鋭いスルーパスが飛んで来る。
「ごめん、キャプテン。これは追いつけない」
そんな弱気が横顔に表れてしまったのだろうか。
無意識のうちに手の振りを弱めてしまったのだろうか。
それを見抜いたキャプテンから檄が飛んでくる。
最も言われたくない言葉と共に。
「死ぬ気を見せろ! 芽瑠奈、諦めるな!」
言ったな、その言葉を!
キャプテンでも許さない!
だから絶対追いついてやる。
それが悲劇の始まりだった。
タッチラインから外に出ようとするボールに思いっきり足を伸ばす。
「ぎゃっ!」
が、ほんの一瞬間に合わなかった私はボールの上に乗ってしまい、派手に転倒してしまったのだ。
「痛たたたた……」
思いっきり右足を挫く。
ピッチに転がった私はしばらく立ち上がることができなかった。
〇 〇 〇
「カチカチだね、このギブス」
「だから麻由、私の右足で遊ばないでよ」
紅白戦で右足首に重度の捻挫を負ってしまった私は、それから二週間、ギブス&松葉杖生活を余儀なくされた。
部活は見学――なんてことになるわけもなく、ベンチに座ったままで左足を使う特訓をさせられることになったのだ。麻由と一緒に。
麻由が私にボールを投げる。
私はベンチに座ったまま、左足で麻由に蹴り返す。
その練習を毎日五百回、繰り返す。
「ごめんね、麻由。毎日毎日こんな練習に付き合わせちゃって」
「気にしないでメル。私はレギュラーなんて別に狙ってないから」
「でも……」
「それにね、メルが有名になってくれたら私嬉しいの。これだけのスタミナがあれば、なでしこリーグでだって活躍できるわよ。そんでもって「あの時の練習があったから」って言ってくれたら私泣いちゃう」
「麻由……」
麻由には本当に感謝してる。
彼女の気持ちに応えるためには、今この練習を活かさなくちゃいけない。
なんとしてでも左足を上手く使えるようにならなくては……。
インサイド、アウトサイド、インステップ、インフロント、アウトフロント。
麻由が投げてくれたボールを、それぞれの蹴り方で百回ずつ彼女へ返す。
最初はあっちゃこっちゃに飛んでいたボールだったが、ギブスが外れる頃には麻由の元へちゃんと返せるようになっていた。
「左足、上手く当たるようになったね、メル」
練習上がりの桜先輩が、私の元にやってきた。
麻由はグラウンド整備に行っている。そんな同級生の後ろ姿を眺めながら、私は校庭脇のベンチでボールを磨くことしかできなかった。
「ありがとうございます」
ベンチの隣に腰掛けようとしている桜先輩にお礼を言う。先輩、ちゃんと私の特訓を見ていてくれたんだ。ほんのり香る汗は、石鹸のように爽やかで羨ましい。
でも、紅白戦での鬼畜なタックルは忘れてはいませんけど。
「左足は、そうやってインパクトの瞬間に集中する癖をつけておくといいよ。試合でもきっと役に立つから」
桜先輩の柔らかな言葉には説得力がある。
キャプテンに上から目線で言われたら、意地でもやるもんかと思っちゃうけど。
「最初はね、『なんで右足と同じように動かない』って思い詰めちゃうから嫌になっちゃうの。だからね、融通の利かないテニスラケットかゴルフクラブみたいなもんだと思っておけばいいのよ」
へえ、そんな考え方があるんだ……。
「テニスラケットだって、スイートスポットに当たればちゃんと飛ぶでしょ? そんなイメージでいいの」
「先輩はそうやって練習してたんですか?」
「そうよ。ちゃんと飛ぶようになったら面白くなるから。面白くなったらこっちのもんよ」
確かにそう思う。
怪我をした日の紅白戦、左足でパスをミスした時は本当に嫌になった。あれは右足と同じようにパスしようと思ったから嫌になったんだ。
でもその後で、桜先輩の背後へ左足で転がせた時はちょっと面白く感じた。きっとそれはダメもとと考えていたからなんだろう。
桜先輩にいろいろ教えてもらったら、早く上手くなれるような気がする。
だったら訊いてみよう。
憧れの選手に近づくためにはどうすればいいのかを。
「桜先輩。私、憧れの選手がいるんです」
「憧れの選手? もちろんサッカー選手よね?」
「もちろんです。その選手は……」
すると先輩は掌を立てて私を制止した。
「ちょっと待って、当ててみせるから……」
顎に手を当てて夕焼け空に視線を向ける先輩。そして輝く瞳で私を向く。
「わかった! 友永選手でしょ!? ガンガン走るといえば友永選手だもんね」
友永選手――きっとサムライブルーの左サイドバックの友永選手に違いない。
「まあ、友永選手も好きですよ。運動量は素晴らしいですし、なによりもあの明るさですよね。友永選手のポジティブシンキングはとても参考になります。でも私がお手本にしたいのは男子ではなく、なでしこメンバーなんです」
「ふうん……。となると清川選手とか土輝選手とか?」
清川選手と土輝選手は、現在のなでしこジャパンの右サイドバックと左サイドバックだろう。
「両選手も素晴らしいと思います。が、私がお手本にしたいのはもっとベテランで、ワールドカップで優勝した時のメンバーだったりして……」
すると桜先輩は「えっ?」と驚いた顔をした。
「ワールドカップの優勝って九年前だよ? メルって……いくつだった?」
二〇一一年、ドイツで女子サッカーのワールドカップが行われた。
なでしこジャパンは決勝でアメリカを破って優勝。
金色の紙吹雪舞うピッチの上で、青いユニフォームを纏った戦士たちがカップを掲げるシーンは、何度も何度もテレビで放映されている。
「まだ小学校に上がる前でした。だからワールドカップ自体はぜんぜん覚えていないんです。でも小学四年でサッカーを始めた時に、お父さんに連れて行ってもらったんです。芦屋INCAの試合に」
「芦屋INCA? ってことは……遠賀選手だね」
「そうです! そうなんです」
なんだか嬉しかった。桜先輩の口からその名前が出てきた時は。
誰にも言えずに一人で決めた目標は、間違いではなかったような気がした。
「渋いね、遠賀選手が目標って」
「ですよね。でも芦屋INCAの試合で右サイドを駆け上がる遠賀選手を目の当たりにして、私、体中が震えたんです。あんなプレーがしたいって」
「なんとなくわかるよ。メルのプレーって、そんな感じだもんね」
えへへへ、と私は照れ笑いする。
そんな感じって言ってもらえたのがとても嬉しい。
「ワールドカップでも遠賀選手はすごかったんだよ」
「そうみたいですね」
残念ながら私は、ワールドカップの時の遠賀選手のプレーはあまりよく知らない。
「予選リーグのメキシコ戦の時かな、試合終了間際に遠賀選手がワンツーを繰り返しながらするすると上がって、華羽選手にマイナスのパスを出したの。それが決まって華羽選手はハットトリック。あれは凄かったよね」
そんなシーンがあったんだ。
ワールドカップといえば、決勝延長での華羽選手の奇跡のシュートは何度もテレビで見たけど、そんな連携プレーがあったとは知らなかった。
「何が凄いかっていうと、それが後半三十五分過ぎだったってこと。試合終了間際にそれだけ走れるって驚異的じゃない? メルならできそうだけどね、悔しいけど」
「いやぁ、私はそんな……」
「でもね、メルとは決定的に違うところがある」
照れる私に冷や水を浴びせる言葉を、先輩は口にする。
「遠賀選手って、元々フォワードだったの」
えっ?
遠賀選手って、最初からサイドバックのエキスパートだったんじゃないの?
あれだけスタミナがあって走れるのに?
「高校生の時に選ばれたU-19では、フォワードでアジア制覇。卒業後に入団したテッテレ東京では、トップ下やウイングだったんだって。代名詞の背番号2が定着したのは、芦屋INCAに移籍してからなのよ」
だからあんなに足技が上手いのか。
もともとフォワードでアジア制覇までしてるんだから当たり前だ。
それに比べて、走るだけしか能がない私が「目標なんです」ってちゃんちゃら可笑しいじゃん。恥ずかしくて穴があったら入りたい……。
「どうしちゃったの? メル」
「いや、そんな凄い選手だったなんて全然知らなくて」
「気にしなくていいのよ、私も知らなかったから」
「えっ?」
驚いて桜先輩を見る。
夕焼け空を向く先輩は、遠い目をしていた。
「教えてくれたのは香月なの」
「キャプテンが?」
「あれは入部したばかりの時だった。サイドバックへの転向に納得できなかった私に、香月が話してくれたの」
それから桜先輩は、入部してから現在までの話しをしてくれた。
中学までのクラブではフォワードだった桜先輩は、黄葉戸学園に入学して現実の厳しさを思い知ったという。
ほとんどの部員が自分よりも上手い。
そりゃそうだ、女子サッカーの名門なんだから。
頭では分かっていたつもりだったが、実際にそれを目の当たりにするとかなりのショックを受けたという。中学までの常識が通用しない。焦りと苛立ちで自分のプレーを見失ってしまう。
そんな時に顧問の先生に言われたのが、サイドバックへのコンバートだった。
「悔しかった。信じられなかった。今までの人生がすべて否定されたような気がした」
うつむいて、スパイクを見つめる桜先輩。
いつも明るい先輩にそんな苦悩があったなんて全然知らなかった。
「そんな時にね、遠賀選手のことを教えてくれたのが香月だったの」
あのキャプテンにそんな優しさがあったなんて……。
「最初はね、私は聞く耳を持たなかった。だってそうじゃない。香月は私より上手いし、身長も高いし、私から見たら全然余裕で安全圏でしょ。今だから言えるけど、同情はやめてよって思っちゃった」
確かに女子で一七五センチの身長は恵まれている。
「そしたら懲りずにいろいろと調べてくれて。メルは覚えてる? なでしこ優勝メンバーの左サイドバックの選手」
「えっと、醒鳥選手……でしたっけ?」
「そう醒鳥選手。彼女もサイドバックをやる前は中盤のドリブラーだったのよ」
ええっ!?
なでしこ優勝メンバーの両サイドバックが、どちらも元々は攻撃の選手だったとは!?
「だからね、サイドバックへの転向は逆にチャンスなんだって。私のスタミナを活かさない手はないって。挙句の果てに香月に言われたの、チャンスがあるのに頑張らないやつは辞めちゃえって。カチンと来た私は、やっとやる気になったの」
きっとキャプテンは不器用なんだと思う。歯に衣着せぬ言動が人を選ぶのだろう。
「頑張って頑張って、ようやくレギュラーの右サイドバックに定着してきたなぁって思っていたら、メルみたいなスタミナお化けが入ってきちゃって……」
桜先輩の視線は私の瞳を捉える。
「香月もメルも贅沢なのよ。二人とも私に無いものを持ってる」
それは積もる思いを私に託すように。
「だからね、メル。諦め……」
「ストップ!」
思わず制止してしまった。先輩なのに。
でも危なかった。
桜先輩にあの言葉を言われたら、私立ち直れない。
すると予想に反し、先輩は私にニコリと笑う。
「あら、私「諦めて」って言おうとしたの、わかっちゃった?」
えっ!?
そうだったんですか?
「だって、こんなに苦労して掴んだレギュラーの座なんだもん。メルに奪われたくない」
私てっきり勘違いして、先輩の言葉を遮っちゃったりして、なんか恥ずかしい……。
「だからね、諦めて。左足の練習もしなくていいのよ。って言われたら、本当に諦める?」
「私、諦めません。先輩に言われて目が覚めました。遠賀選手に近づくためには、もっともっと基礎を身に付けなければいけないってことに」
すると桜先輩は薄暗くなりかけた空に手を突き出し、大きく伸びをする。
「あーあ、残念だなぁ。目覚めちゃったか……」
ありがとうございます、先輩。
先輩のやさしさに感謝します。
ポジション争いは実力勝負。情けは無用だけど、スタミナだけではダメだってことを私に伝えたかったんですね。
それに先輩だって、キャプテンや私に無い素晴らしいものを持ってるじゃないですか。
伸びで強調される先輩の豊かな胸。女の私だって目がくぎ付けですよ。
「でも、噂はホントだったのね。メルのNGワード」
桜先輩が腰を上げながら、くすくすっと笑う。
「芽瑠奈、諦めるな」
捨て台詞とともに小さくなっていく背番号2。
油断した。
言われちゃったよ、さり気なく。
先輩、最初から狙ってたでしょ?
〇 〇 〇
夏休みに入ると私の足首も癒えて、元通りに練習ができるようになった。
私はそのスタミナを買われて、背番号22を付けさせてもらう。基礎練習の成果もじわじわと表われてきた。そして週末にはBチームのメンバーとして、紅白戦に出してもらえることになった。
「私、がむしゃらに走りますから、右サイドに縦ポンをお願いします」
紅白戦の前に先輩方にお願いする。
縦ポンというのは、相手のディフェンスラインの裏のスペースに落とす山なりのパスを示すことが多い。
その作戦は見事に的中した。
Aチームのディフェンスラインは高い位置に設定されている。黄葉戸学園伝統のパスサッカーを貫くためだ。つまり、ラインの裏にはぽっかりとスペースが空いているということ。縦ポンを蹴りやすい状況となっている。
私の狙いはそのスペース。試合開始からガンガン走って、何度も何度もディフェンスラインを破ることに成功する。
疲弊するAチームのディフェンスライン。その位置はじわりじわりと下がっていく。
そうなったらこっちのもの。相手のプレスが弱くなれば、Bチームだってボールを保持できる。Aチームと同レベルのパスサッカーを展開することが可能になってきた。
「しばらく守りに専念するか……」
このような状況になったら私の出番はない。
縦ポンを出すスペースはないし、こちらの守りも間延びし始めて、Aチームにとってキラーパスを出しやすい状況になっているからだ。
Aチームのボランチはキャプテン。背が高いこともあってどこにいるのかすぐに分かる。こちらを向いてプレーしている時はかなり危険な存在だ。いつ、キラーパスが飛んできてもおかしくない。
一方、桜先輩はAチームの右サイドバックを守っている。ポジションが完全に対角なので、対戦することがない。怪我をした紅白戦の時の借りを返したいところだが、残念ながら別の機会となりそうだ。
膠着状態で両チーム無得点のまま、前半は終了した。
「後半は、三十分を過ぎたらまたガンガン走ります!」
私は先輩方に告げる。
後半も終盤になれば全員が疲れてくる。特にAチームのディフェンスライン。だって前半にあれだけ引っ掻き回してあげたんだもん、足が止まる可能性だってある。
そうなったらこっちのもの。また引っ掻き回してあげる。
私の作戦はまたもや的中した。
Aチームのディフェンスが間延びしたところに縦ポンを出してもらい、好き勝手に私は走り回った。センタリングだって上げ放題。背の高いキャプテンは、私のセンタリングをカットすることに奔走する。
「あーあ、キャプテンがBチームだったらなぁ……」
ことごとく弾き返されるセンタリングを見ながら、私は口惜しく感じる。
でもそれはしょうがない。部内で一番身長が高いのはキャプテンなんだから。
結局、得点は入らぬまま後半も終わってしまった。
〇対〇の引き分け。
Bチームとしては上出来の結果だった。
「メル、紅白戦良かったよ!」
ボールや道具を片付けて、先生が運転するマイクロバスに乗ると、隣に座った麻由が話しかけてきた。
「でも無得点だった」
「Aチームだって無得点だったじゃない。Aチーム相手に引き分けなんて上出来だよ」
今日はたくさんセンタリングを上げることができた。
その中の一つでもゴールに結び付けることができれば、勝てたかもしれないのだ。
――キャプテンさえいなければ……。
センタリングをことごとく跳ね返されたのが本当に悔しい。
「どう? 足の状態は?」
麻由は私の足首の様子を気にしてくれている。彼女の心遣いは本当に嬉しい。
「走る分には問題なかったよ。思いっきり踏ん張れるかと言われると、ちょっと恐い気もするけど」
バスに揺られながら足首をグルグルと回してみた。
疲れはあるが痛みはない。もう大丈夫だろう。それよりも、今にもつりそうなふくらはぎの方がヤバい。
「またAチームに入れればいいね」
「うん。そうだね……」
それには桜先輩という壁を乗り越えないといけない。
この前は戒めという意味でAチームに入れてもらえることができたが、次は実力でその座を勝ち取らないといけないのだ。
『こんなに苦労して掴んだレギュラーの座なんだもん。メルに奪われたくない』
夏休み前の桜先輩の言葉が脳裏に蘇る。
でも……。
やっぱり私はAチームで試合に出てみたい。
キャプテンからのキラーパスを受けて、キャプテンにセンタリングを返してみたい。
怪我をした紅白戦の時のように。
そこには必ず、素晴らしいゴールが待っているはずだから。
学園に戻って片付けを終えた私たちは、部室で着替えて校門を出る。住宅街に差し掛かった時、公園の方からなにやら話し声が聞こえてきた。
「今日はメルにやられっぱなしだったなぁ……」
ええっ? 私のこと!?
誰? 話してるのは!?
麻由と一緒に立ち止まると、キャプテンと桜先輩がこちらに背を向けてベンチに座っている。
ベンチの隣には二台の自転車。きっと市営グラウンドからの帰りなのだろう。恰好もジャージのままだ。
「麻由、先に帰ってて」
小声で小さく手を振ると、麻由も「じゃあね」と手を振った。
私は先輩たちに見つからないようトイレの影に隠れる。壁に寄りかかりながらスマホをいじっていれば、傍目にも怪しまれないだろう。
「あのスタミナはチートだよね。でも味方になれば、こんなに心強いことはない。だからね、私、先生に進言しようと思ってる。公式戦でのメルの起用を」
「それ本気で言ってる? 香月」
えっ、キャプテンが私の起用を?
こんな光栄なことはないが、桜先輩は不服のようだ。
「だってあれだけ走れるんだよ。使わない手はないよ」
「でも、そしたらどうなるの? 黄葉戸のパスサッカーは?」
「その伝統を活かすためにメルを走らせるんだよ。今日のBチームを見たよね」
今日、私は試合開始からガンガン走った。
きっと、その時のことを言ってるんだろう。
「前半からメルに走られた結果、どうなった? 痛感したよね、ディフェンスラインを作っていた桜なら」
「ずるずるとラインを下げざるを得なかった。悔しいけど」
「でしょ? それを今度は私たちがやるのよ、公式戦で。相手のラインが下がればこっちのもの。黄葉戸のパスサッカーの出番よ」
いやぁ、照れるなぁ……。
私の足が、そんなにAチームを苦しめていたなんて。
「でも、他のみんなが納得する?」
「みんなには私が説得する。ロンドンオリンピックの話をしたら、みんな納得してくれると思う。桜は覚えてる? ロンドンオリンピックのこと」
ロンドンオリンピック?
それって何年前? って、今私はスマホをいじってるフリをしているんだから、本当に調べればいいんだ。
すると、二〇一二年とネットに書いてあった。
(てことは、八年前か……)
私は小学一年生だった。なでしこジャパンがワールドカップ制覇した翌年だ。全く記憶にない。
「ロンドンオリンピックって、ぜんぜん覚えてないんだけど」
「私たち小学三年生だったもんね。でも私は覚えてる……」
キャプテンの声が途切れた。
トイレの影からチラリと様子を覗くと、キャプテンは晴れた青空を見上げていた。
「日本はね、ポゼッションサッカーを諦めてカウンター勝負に出たの。足の速い選手にすべてを託して」
へえ~、そんなサッカーやってたんだ。
そういう話を、私はあまり聞いたことがない。
「中でも速かったのが井長選手。それはそれは本当にすごかったんだから、私テレビの前でワクワクしてた」
気になるのはキャプテンが言う「速い」という意味。
私はスタミナはあるが、特にスピードがあるというわけではない。
「今でも強烈に覚えているのは、予選リーグのモロッコ戦。中盤からの縦ポンに走り込む井長選手が、本当に最高だったんだから」
今日の試合でも、私は何度も縦ポンを出してもらった。
その時の井長選手がどんな風に最高だったのか、私も参考にしたい。
「何がすごかったかと言うと、井長選手はディフェンダーの背後から走り始めたの。なのに、するするっとディフェンダーを追い越しちゃって、キーパーが寄せる前に打ったのよ、絶妙なループシュートを。それが入った時は鳥肌が立ったわ。そして真剣に思ったの、井長選手が日本選手で良かったって」
活き活きとしたキャプテンの声から、当時の興奮が伝わってくる。
もしかして今日の試合でキャプテンは、私が味方だったら良かったのにって思ってくれたのかな?
そうだったらとても嬉しい。
「でもね、井長選手は準々決勝で怪我をしてしまったの。それが原因かは知らないけど、日本はその後二連敗で、残念ながら四位。もしあの怪我がなかったらって、どうしても思っちゃうのよね。そしたら日本はメダルを取れていたかもしれないのよ? メキシコオリンピック以来の」
いやいや、キャプテン。
その時のなでしこは銀メダルだったんじゃないですか?
確か、ワールドカップ優勝直後のオリンピックでは、メダルを取ったと聞いたような気がするんですけど。
「つまりね、何が言いたいかというとね、桜。走れる選手は確実に武器なの。それを使わない手はないの。私たちはもう三年生で後が無いんだから……」
私の足が、先輩たちの運命を握るかもしれない?
それは光栄なことだけど、責任も重大だ。
トイレの影で私の心臓はドキドキと脈打ち始めた。
「みんなが納得してくれたら、メルを右サイドバックで使ってみたい。そしたら桜には左を守ってもらうことになると思うけど、いい?」
ええっ、私が桜先輩のポジションを奪う!?
まあ、私は右サイドバック以外はできそうもないから、レギュラーに抜擢されるってことは結局そうなるんだけど……。
すると桜先輩はクスクスと笑い始めた。
「いいよ、別に私は左サイドでも」
「ありがとう桜。桜だったら納得してくれると思ってた」
「あら、私は香月の提案に納得したわけじゃないよ。だって香月の本心は、別のところにあるんでしょ?」
「えっ?」
桜先輩の予想外の切り返しに、キャプテンが声を詰まらせる。
ていうか、キャプテンの本心って……何?
「好きになっちゃったんだよね、メルのことが」
「ちょ、ちょっと、何言ってんのよ、桜」
「分かるよ、香月のことだったらなんでも。ほら、顔が真っ赤だよ」
いきなり何言ってんの? 桜先輩。
思わずスマホを落としそうになったよ。
でも、それってどういうこと?
声だけ聞いているといろいろとヤバい。
想像が私の脳を破壊しそうなんですけど。
「メルがAチームで出た時の紅白戦、香月の目がキラキラしてた。すっごい活き活きしてたよ」
「い、いや、あ、あれは、メルがどこまで追いつけるかなって……」
「私にはそんな風に見えなかったなぁ。もうぞっこんって感じだったよ」
「いやいや、どんなにキツいパスを出しても追いついてくれるからさぁ……」
「それに私にはそんな瞳、見せてくれたことないじゃない」
「そ、そんなことないって。私は今だって桜のことが……」
ええっ!?
キャプテンと桜先輩って、そんな仲だったんだ……。
なんだか聞いちゃいけないような展開になっててどうしよう。
「ふふふ、冗談よ。私も香月のことが好き。でもあの時、メルに嫉妬しちゃった」
「ほら、桜にはちゃんと優しくパスしてあげてるじゃない。桜は桜、メルはメルよ」
「まあ、そういうことにしといてあげるわ」
キャプテンから私へのキラーパス。
それに桜先輩が嫉妬してたなんて、なんか複雑な気持ち。
でも、ちょっとだけ分かるような気もする。
だってあの時、キャプテンのパスに追いつくことで私の居場所ができたような気がしたから。上級生ばかりのAチームの中で、唯一の私の居場所が。
パスがきつければきついほど、その土台は強く頑丈になっていく。
また、受けてみたいなぁ、キャプテンからのキラーパス。
公式戦でそれができたら最高だろうなぁ……。
しかしそんな想いは、残念ながら叶うことは無くなってしまった――
〇 〇 〇
週が開けると、先生から衝撃的な発表があった。
「突然のことなんだが、香月がU-18に選抜されることになった」
ええっ、U-18!? キャプテンが!?
てことは、日本代表じゃん!!
「ということで、香月はしばらくの間、部活を離れる」
先生がその経緯を説明する。
今年はコスタリカとパナマでU-20のワールドカップが行われる予定だった。
が、世界的なウイルス災害のために中止となってしまう。
それならば次の大会、つまり二〇二二年のU-20ワールドカップに備えて、早めに準備を行おうとU-18日本代表が選抜されることになったという。
「そして早速なんだが、来週末にそのU-18と練習試合をすることになった」
U-18と練習試合!?
ということは……キャプテンと対戦するということ?
「香月が抜けたボランチの位置には桜、そして右サイドバックにメルを起用しようと思う」
ええええええええっ!!!
まさかのレギュラー昇格!?
週末のキャプテンと桜先輩の会話でちょっとは覚悟していたが、いきなり先生から発表があるとは思ってもいなかった。
急に掌に灯る柔らかい感触。見ると、隣の麻由がこっそり手を握ってくれている。
彼女は泣きそうな顔で小さくうなづいていた。
(ありがとう、麻由)
そんな想いを込めて、私は手をぎゅっと握り返した。
その日から私はレギュラー組に交じって練習を開始する。
チームの決めごと、ディフェンスラインの上げ下げなど、私は先輩方からみっちり叩き込まれた。
さすがに紅白戦とは違う。
練習試合とはいえ相手はU-18。同年代の日本代表なのだ。しかもその中にはうちのチームを知り尽くしたキャプテンがいる。完膚なきまでにやられる可能性も否定できない。
そんなのは嫌だ。
せっかくのレギュラー昇格の初戦なのに、敵の背中ばかり追いかける試合なんてやりたくない。
金曜日には練習試合用のユニフォームが渡される。
――背番号2。
思わず手が震えてしまう。
小学生の頃から憧れだった遠賀選手の代名詞。
そして今まで桜先輩がつけていた番号。
その背番号2を黄葉戸でつけられる日が、こんなに早く来るとは思わなかった。
ちなみに桜先輩は、今までキャプテンがつけていた10番を背負うことになった。
そして土曜日。
私は麻由と一緒に準備をして、先生が運転するマイクロバスに乗り込む。
レギュラーに昇格したとはいえ一年生は一年生。その辺り、部活は特別扱いしてくれない。
「頑張ってね、メル」
バスの中では麻由が励ましてくれた。
「うん。今日は走って走って走りまくるよ」
私に気負いはない。
だって走るだけしか能が無いんだから。
ミスしたらどうしようなんて心配に値する技量は、私は持ち合わせていなかった。
市民グランドに着くと、麻由と一緒に用具を運ぶ。
ゴールを運んだり、フラッグを立てたり準備をしていると、だんだんと緊張が増してきた。
先輩方が自転車でやって来る。
そしてU-18メンバーを乗せたバスが到着した。
いよいよだ。
今日は絶対、やってやる!
ジャージを脱ぐ。憧れだった黄葉戸のユニフォームが露になった。しかも背番号は2。
ストッキングに脛当てを入れ、スパイクの紐を結びなおす。
そしてレギュラー組でウォーミングアップ。足の状態は万全だ。
グラウンドの反対側ではU-18メンバーがウォーミングアップを開始した。
中でもキャプテンは目立つ。だって、U-18の中でも一番背が高かったから。
それよりも驚いたのは、キャプテンが付けている背番号。
「4!?」
それって、ボランチの番号じゃないよね?
ディフェンス? てことは、ま、まさかのセンターバック!?
まあ、背が一番高ければその可能性もある。
私の脳裏に、先日の紅白戦の光景が蘇ってきた。
センタリングを上げても上げても、ことごとく跳ね返されてしまう悪夢のような光景が。
『あーあ、キャプテンが味方だったらなぁ……』
何度そう思ったことだろう。
いや、違う。
今からそんなに弱気になってどうする、メル!
『あーあ、メルが味方だったらなぁ……』
キャプテンにそう思わせなくちゃいけないんだ、今日の試合は!
――芽瑠奈よ、諦めるな!
いつのまにか私は、自分を鼓舞させる言葉をつぶやいていた。
〇 〇 〇
ピーっと笛が鳴って練習試合が始まった。
キャプテンは予想通りセンターバックだった。
それよりも驚いたのが審判だ。さすがは日本代表。練習試合といえどもちゃんと資格を持った方が審判として派遣されている。笛の音色はもちろん、ラインでの旗の上げ方も全く違って見える。
それにしても相手はみんな上手い。
足に吸いつくようなトラップに加えてボールも保持でき、パスや判断のスピードも速い。そりゃそうだ、日本代表なんだもん。
プレスに行くとかわされる。かといって、積極的にプレスしないとボールは奪えない。チームの体力はどんどんと奪われていく。
しかしその事が逆に、私から、いやチームから迷いを消した。
数少ないチャンスを、すべて右サイドへ縦ポンしてくれたのだ。
――味方がボールを奪ったらとにかく走る。
私ができることは、これだけだった。
何度か裏に抜けることができた私は、ゴール前にセンタリングを上げる。
が、それはことごとくキャプテンに弾き返されてしまった。
(悪い予感が的中しちゃったなぁ……)
まあ、これは始めから予想されたこと。
めげずにこの攻撃を続けていくことが重要なんだ。
その甲斐あって、相手のラインがじわりじわりと下がってきた。さすがに何度もセンタリングを上げられては、警戒せざるを得ないのだろう。
(ふふふふ、ここまでは作戦通りかな)
守りが間延びしてプレスが弱まれば、相手が日本代表といえども黄葉戸はボールを持てる。桜先輩も、スプリントを開始する私にスルーパスを試みてくれた。しかし――
「優しすぎるよ、桜先輩……」
私に配慮してくれているのか、コースもパススピードも甘い。だから楽々と追いつけてしまうのだ。つまり、敵もすぐに追いついてしまうということ。
「あーあ、キャプテンからのパスなら、ディフェンスラインの裏に完璧に抜け出せるのに……」
意地悪だと思っていたパス。でもそれは、私の能力を最大限に活かしてくれるパスだった。
桜先輩のことを悪く言いたくはないが、私のことを本当に理解してくれていたのはキャプテンだったのかもしれない。
でも、今そんなことを言ってもしょうがない。今のキャプテンは敵なんだし、パスを供給してくれるのは桜先輩なんだから。
前半も終盤に差し掛かると、相手も疲れてきてだんだんと自由に走れるようになってきた。
調子に乗った私は、ドリブルで中に切れ込んでみる。センタリングを上げても弾き返されるのが目に見えているからだ。
すると長身の選手が鬼気迫る形相でこちらに向かってくる。目が合う。キャプテンだ。
『私を突破できるもんならやってみなさいよ』
ニヤリと口角を上げるキャプテンは、そう言っているような気がした。
(なら、やってやろうじゃないの)
挑発に乗ったことを、後で深く後悔することも知らずに。
キャプテンと対峙して最初に思い出したのが、昔見た芦屋INCAの試合。
あの時、遠賀選手は華麗な足技で相手のセンターバックをかわしていた。あのシーンは今でも鮮明に覚えている。
ならば、
(まずはセンタリングと見せかけて……)
右足を振り上げ、蹴るフリをしながらボールの前に着地させ、すぐに左足でボールを動かす。
が、キャプテンはそんなフェイントに引っかかることはない。
(でも、これを何度か繰り返せば、絶対に剥がせるはず)
長身のキャプテンは足も長い。
どんなにボールを動かしても、するするとキャプテンの足が伸びてくるのだ。
(何とかして、この足をかわせないものか……)
少し無理な体勢でボールをまたぎ、前方に右足を着地させようとした時――キャプテンの左足が私の右足首を狙って伸びて来た。
それは数か月前に重度の捻挫を負った箇所。
無意識のうちに右足を引っ込める。が、そのために私は体勢を崩し、前につんのめる形で倒れこんでしまう。と同時に、ピピーッと笛の音が鳴った。
「えっ、もしかして……!?」
慌てて上半身を起こすと、私が倒れていたのはペナルティエリアに入ったところだった。
ということは――PK獲得!?
黄色のカードを手にしながら、主審が私とキャプテンのもとへ駆けて来る。
まさか、うちのチームが先制点のチャンス!? 日本代表から!?
やったよ、麻由。キャプテンの壁を――突破することはできなかったけど、崩すことができた。
さぞかしキャプテンは青ざめていることだろう。やっちまったという感じで。
まあ、実際にはキャプテンの足は私の右足には当たってないから、ファールじゃないって擁護してあげてもいいんだけど……と人工芝に手をついたままキャプテンの表情を見上げると、「バカめ」と言わんばかりの不敵な笑みを浮かべて私を見下ろしている。
(何、その余裕?)
不可解に思いながら立ち上がると、さらに不可解な出来事が私を襲う。
主審は私に向って、イエローカードを提示したのだ。
「ええっ、私!?」
何が起きているの分からなかった。
審判がカードの裏に何かを書いている。きっと私の背番号なんだろう。
(なんで、なんで? ファールをもらうのは、先に足を出してきたキャプテンの方じゃないの!?)
するとキャプテンが吐き捨てるようにつぶやいた。
「シミュレーションよ。わざとPKを得ようとする行為。メルはもっとサッカーのこと勉強した方がいいわ」
何だって?
私がシミュレーション!?
いやいやそれは、キャプテンが足首を狙ってきたら避けただけで、私は決してわざと転んだわけじゃない!
呆然とする私に先生から怒声が飛ぶ。
「何やってんだメル。すぐに再開するぞ、戻れ、戻れ!」
整理できない心を引きずりながら慌てて自陣に戻る。
なんで、私が?
どうしてイエローカード!?
納得できない。誰かにちゃんと説明してほしい。
そんなプレーに集中できない気持ちが動きを鈍らせてしまったのだろう。そこをキャプテンに狙われてしまった。
センターバックからのロングフィード。
私の裏のスペースに落ちたボールに、オフサイドぎりぎりのタイミングで相手のフォワードが抜け出した。
「やられた! これはかなりヤバい」
私は相手の背中を追いかける。
しかし先ほどのイエローカードは、私の雑念をどんどんと増幅させていく。
――危険なプレーで止めたら一発レッド。
――ファールで止めてもイエロー二枚で退場。
しかも敵は速い。さすがは日本代表のフォワード。この位置からでは追いつけそうもない。
完全に詰んだ。もう私にできることはない。
そう思った瞬間、桜先輩から怒声が飛んできた。
「芽瑠奈、諦めるな!」
今までの私なら、NGワードに鼓舞して能力以上の力を発揮していただろう。
でもダメなんだ。
鼓舞すべき心が死んでいた。
溢れてきた涙で、追いかける敵の背中が滲んでくる。
そんなこと言われても、もうダメなんですよ。
私にできることは、もう、何もない……。
目の前のフォワードは、手を後ろに降ってシュート体勢に入る。
嗚呼、この腕を掴んで後ろに引き倒してやりたい、と思う間もなく、左足のシュートが炸裂する。
「お願い! 弾いて!! キーパー!!!」
その願いはむなしく、ボールは味方ゴールに吸い込まれていった。
前半終了間際。
私たちはU-18に一点を先制されてしまった。
〇 〇 〇
前半が終了してベンチに戻ると、バシっと桜先輩に頬を引っぱたかれる。
「どうしてメルのことを叩いたかわかる!?」
泣き出しそうな目で先輩を見ると、先輩も顔をくしゃくしゃにしていた。
「私が……、イエローカードをもらってしまった……からです」
たどたどしく私が答えると、「違う」と先輩は否定する。
「一生懸命のプレーを誰も責めたりしない。問題はカードをもらった後。なんで死ぬ気で走らなかったの!?」
「だって……」
私は言葉を濁らせた。
頭の中では言い訳を一生懸命用意し始めている。
――イエローカードをもう一枚もらったら退場でチームに迷惑かけちゃうし、相手のフォワードもめちゃくちゃ速かったし……。
しかし桜先輩の言葉は、そんな雑念をすべて吹き飛ばしてくれた。
「メルは憧れだって言ってたよね。子供の頃に見た背番号2が」
先輩の視線が私を射貫く。
「メルは今、背番号2を着けてるの。子供の頃のあなたが、さっきの背番号2を見たらどう思う?」
はっとした。
たとえ無理でも、精一杯のプレーを貫いて欲しいと願っただろう。
子供の頃の私なら。
私の中の背番号2は、そういう存在だったから。
なんで私、諦めてしまったんだろう。
イエローカードなんて、くそくらえだ。
自分が最も嫌いなプレーを、よりによって憧れの背番号2を着けたその日にやってしまうとは……。
「ありがとうございます。私、目が覚めました」
だから私は先輩に進言する。
「後半はもっとキツいパスを下さい。私が追いつけそうもないめっちゃキツいやつを」
「わかったわ」
私たちの反撃が始まった瞬間だった。
後半は、開始から膠着状態が続く。
お互いのディフェンスは疲弊し、ラインも下がり気味だ。中盤は間延びしてしまい、決定機を作れないままボールの保持合戦で時間は消費されていく。
そして後半三十分。
一番きついこの時間に、桜先輩は攻撃のギアを一段上げる。
『いい、後半三十分を過ぎたらスルーパスを出すよ。メルは死ぬ気で走ってね』
ハーフタイムに先輩はみんなに提案した。
死ぬ気って、本当に死にそうだ。呼吸をするたびに鉄の味がする。
『スルーパスは絶対、三回は成功させてみせる。裏が取れれば香月が出てくる。メルは香月を引き付けてセンタリングを上げて。その三回のうちの一本を絶対決めよう!』
本当に無茶言ってくれるよ。
まあ、言い出しっぺは私なんだけど。
センタリングを三回成功って、スプリントはあと何回やればいいのだろう。
しかも裏を取った後にキャプテンを引き付けなくちゃいけない。
その上でセンタリングを上げるなんて、まさに無理ゲーじゃん。
でもやらなくちゃいけない。私には走ることしか能がないんだから。
まず一回目のスルーパス。
これはまだ甘い。サイドバックが対処できると判断したキャプテンはゴール前に構えたままだ。
センタリングを上げてみたものの、案の定、キャプテンにクリアされてしまった。
二回目のスルーパス。
これはキツいのが来た。私はディフェンスラインの裏に完全に抜け出した。
対応するキャプテンが私に迫ってくる。
(前半の借りを返してあげるから)
――顔を狙ってセンタリングを上げてみようか。
――手に当たったらPKをもらえるかも。
なことを考えていたら、あっという間に詰められてしまった。
(なんとかスタミナで剥がせないか……)
ボールを動かしたり止めたりして揺さぶりを掛ける。そしてキャプテンの動きが止まった瞬間、左足でゴールラインに向けて長めのボールを出し、ラインギリギリでセンタリングを上げる。
が、キャプテンにスライディングでカットされてしまった。
人工芝に座るキャプテンが、不敵な笑みを浮かべながら私を見上げる。
『今のあなたには無理よ』
まるでそう言っているようだった。
一体どうしたらいい?
早めのセンタリングもダメ、キャプテンを引きつけてもダメ。
手詰まりだ、今の私には無理なんだ。
その時の私は、よほど暗い顔をしていたのだろう。
近寄ってきた桜先輩が、「ナイス!」と労いの声を掛けてくれた。
「これでいいのよ。コーナーが取れたんだもん」
そう言ってもらえると、すごく心が救われる。
先ほどのプレーで、私たちはコーナーキックを獲得していた。最低限の仕事をしたという先輩の心遣いに「最高のパスでした」と私は親指を立てる。
するとすれ違いざまに、先輩がアドバイスをくれた。
「あとね、メル。まだ前半を引きずってるよ。ハーフタイムに言ったように、戦うべき相手をしっかりと見極めなさい」
コーナーキックの行方を見ながら私は考える。
きっとまだ、心の内がプレーに出てしまっているのだろう。
――今日、私が戦うべき相手。
それはずっとキャプテンだと思っていた。
私の足を認めてくれたキャプテン。
彼女の壁を越えてこそ、その恩に応える行為だと考えていた。
でもそれは違うんじゃないだろうか。
悪く言えば、それは私情だ。チームプレイではない。
ハーフタイムに桜先輩は言っていた。子供の頃の自分の見せられるプレーだったのかと。
そうか、そうなんだ。
子供の頃から憧れだった背番号2。
その背中を見つめる瞳に勇気を与えるプレーをしなくちゃいけないんだ。
それならば。
黄葉戸に入学してから今まで身につけたすべてを出そう。
子供の頃の自分に、頑張ったねと言ってもらえるように。
コーナーキックはキーパーにキャッチされてしまい、試合が再開する。
時間は後半四十分。
チャンスはあと一回くらいだろう。
敵はあからさまなパス回しで時間稼ぎを開始した。
黄葉戸は必死のチェイシングでボールを奪いに行く。みんなもう、体力は限界を突破しているはずだ。先輩方の頑張りには頭が下がる。
すると桜先輩がボールを奪取した。
私はラインに沿ってスプリントを開始する。チラリと振り向くと、先輩と目が合った。
『頼むよ、メル!』
渾身の桜先輩のスルーパス。この試合で一番キツいコースだった。
これに追いつけなければチャンスはない。
血の味がする肺に酸素を送り込み、私は必死に手を降った。
敵の左サイドバックの脇をすり抜け、裏のスペースでスルーパスに追いつく。ゴールを向くと、キャプテンが迫っていた。
――私の敵はキャプテンじゃない。
私は子供の頃に見た遠賀選手のプレーを思い出す。
あのプレーがしっかりとできればいいんだ。それ以上のことを望む必要はない。
手を振って右足を振り抜く――と見せかけ、地面に着いた右足でボールを止めて左足で動かす。そんなフェイントにも引っかかることなく、キャプテンは私の右足に意識を集中させていた。
それならば、もう一回。
私は再び手を振って右足を振り抜く――フリからボールの上に右足を置き、足裏を使って後方にボールを転がした。キャプテンの体勢とは完全に逆側の、誰もいないスペースへ。
「えっ!??」
困惑するキャプテンの表情。
まさか左足に持ち替えるとは思っていなかったのだろう。
そんなことはどうでもいい。
くるりと体を反転しながら、私はゴールとキーパーの位置を確認する。
キーパーは前に出ている。その後ろのスペースに、必死の形相で味方が走り込もうとしていた。
――こんなにきつい状態なのに、みんなが私を信じて走ってくれている。
だったらきちんと届けなくてはいけない。
このボールを、ゴール前のみんなのもとに。
左足でのキックの体勢に移行しながら私は思い出す。かつて桜先輩が掛けてくれた言葉を。
『スイートスポットに当たればちゃんと飛ぶでしょ?』
これから慣れない左足を使う。足のどこに当てるかが重要だ。
まず右足を踏み込み、しっかりとした土台を作る。
そして腰を回しながら、左足に意識を集中させた。
私の左足のスイートスポット。
麻由と一緒に何千回も練習して習得した場所。
だから必ずできる。
子供の頃の私に、成長した姿を見せてあげる。
キャプテンは慌ててスライディングをしてくる。
が、私には届かない。
左足の親指の付け根に正確に当てたボールは、ふわふわとゴール前に飛んでいった。
「さあ、頼んだよ。先輩方」
しかし全く予想外のことが起きた。
キーパーの頭の上を越えたボールは、そのままゴールに吸い込まれていったのだ。
それはまるでスローモーションを見ているかのように。
ゴール!
えっ、入っちゃったの?
左足のスイートスポットに当てたセンタリングが……?
呆然とする私に、突然誰かが横から抱きついてきた。
この香りは――桜先輩。
「やったね! メル!!」
まさかゴールに入るとは思わなかった。
まさに無欲の勝利。子供の頃の私だって驚きのプレーに違いない。
と言っても、勝ったわけじゃないんだけどね。
試合はそのまま、一対一の引き分けで終了した。
日本代表相手にしては上出来の結果だった。
「まさか、左足に持ち替えるとはね……」
試合終了後の挨拶のあと、すれ違いざまキャプテンが恨み節を漏らす。
この試合が原因でキャプテンがU-18メンバーから外されたら申し訳ない、と一瞬思ったが、そんな情けは無用ということもこの試合で私は学んだ。
すべては実力勝負。
私ももっともっと練習しなくちゃいけない。
後日、驚きの展開があった。
私は突然、U-15メンバーに選ばれたのだ。
インドで行われる予定だったU-17ワールドカップが中止となり、それならばと次の二〇二二年の大会に備えて早めに代表を招集することになったという。
ちなみにU-15の監督は、U-18と同じ監督だった。
「実はね、香月が監督に進言して実現したらしいよ。あの時のうちとの練習試合」
後になって桜先輩が教えてくれた。
まさか私の足が監督の目に止まることを狙って、キャプテンが尽力してくれたとか?
そんなことは分からない。
もしそうだとしたら、プレーで恩返しすればいい。
キャプテンからのキラーパスに追いつくことで。
そしてキャプテンへのセンタリングという形で。
――その時、なでしこジャパンの背番号2を背負っていますように。
私の夢は動き出したばかりだ。
ライトノベル作法研究所 2020GW企画
テーマ:『ナンバー2』
サッカースタジアムが響めきに包まれる。
「ナイス、カット!!」
「いいぞ、華羽!」
「よし、行けー!」
ホームチームのキャプテン華羽穂樽(かわ ほたる)が、相手チームのパスをカットしたのだ。
刹那。
チームの雰囲気が一変する。
華羽選手がボールを持った瞬間、選手たちの攻撃のスイッチが入った。
前を向くボランチの華羽選手。
両サイドバックはスプリントを開始した。
センターバックはラインを押し上げ、フォワードは裏のスペースを狙って相手ディフェンダーと駆け引きを開始する。
その切り替えの速さ、いや鋭さに背筋がゾワっとする。
統率されたチームの動き。小学四年生の私でも感じる反撃の予感に、ドキドキと胸の鼓動は高まっていく。
「ゆりこ!」
華羽選手に名前を呼ばれた右サイドバックは走るスピードを上げた。観客席の前から三番目に座る私の目の前を、その背番号2が駆け上がっていく。試合終盤とは思えないスタミナだ。
通り過ぎる荒い息遣い。揺れるショートヘアと飛び散る汗。テレビでは決して味わえない臨場感。
「おおっ!」
「そこか!?」
再びスタジアムが湧く。
華羽選手から、ディフェンスラインを切り裂くグラウンダーのスルーパスが、右サイド目掛けて放たれたのだ。
「お願い、追いついて!!」
思わず手を組んで、私は小さくなる背番号2を見守っていた。
後半もすでに三十分が過ぎている。私だって少年少女サッカークラブに所属しているから分かる。今は地獄の時間帯だ。スタミナは切れかけで息をするだけでも胸が熱く苦しい。筋肉ももう限界に近いだろう。無理をすれば足をつってしまう。
そんな極限状態だというのに、華羽選手からのパスは容赦ない。前半と同じ鋭さを持ってディフェンダーの隙間を切り裂いた。
このパスに追いつけば、ラインの裏を取れる絶好のチャンス。
が、もし追いつけなければ……ごっそりと削られるだろう。背番号2のスタミナは。
そんな私の心配をよそに、背番号2は走るスピードをさらに加速させ、華羽選手からのスルーパスに追いついた。
「すごい!!」
しかしそこからが圧巻だった。
背番号2は右足でボールを保持しながら中に切り込み、味方フォワードの上がりを待つ。立ちはだかるセンターバック、背後からは左サイドバックが迫り来る。
すると背番号2はボールをまたいでフェイント入れると、左足でゴールライン側にボールを動かし、右足を大きく振った。
「ダメ! そのタイミングじゃ!」
そこはまだ相手の守備範囲内。
センターバックが足を投げ出してブロックする。敵も必死だ。
嗚呼、センタリング失敗――と思いきや
「えっ? センタリング……じゃないの!?」
背番号2が躍動した。
相手ディフェンダーを嘲笑うかのごとく、大きく振った右足で地面を蹴ってボールを止めると、左足で再びボールを動かした。見事なフェイントだ。体勢を崩したセンターバックは対応できず、悔しそうにボールの行方を見守るしかない。
「すごい、後半三十分過ぎで、こんな足技が出せるなんて……」
さあ、後はセンタリングを上げるだけ。
顔を上げた背番号2は味方フォワードを確認する。そして右足を振り抜いた。
低い弾道でゴール前に向かって飛んでいくボール。
しかし――その軌道は味方フォワードへではなく、かなり手前へ戻ってしまう。
「ええっ、キックミス? せっかくここまで攻めたのに……」
そんな私の心配は無用だった。
背番号2は狙ってこのコースにボールを上げたのだ。敵味方が密集するゴール前ではなく、ペナルティエリア手前がガラ空きとなることを見越して。
そこには必ず華羽選手が走り込んでくれる。
そう信じていなければ、上げることができないコース。
「サンキュ、ゆりこ!」
そう言ったかどうかはわからないが、走り込んできた華羽選手はニヤリと笑うと小さくジャンプした。亜麻色のポニーテールを揺らしながら、背番号2からのセンタリングを頭で合わせる。
ゴールの左上隅に向かって、鋭くコースを変えるボール。ゴールキーパーの右手をすり抜けて、見事にネットを揺らした。
『ゴール!!!』
スタジアムが湧き上がる。お客さんも総立ちだ。
私も立ち上がって、スタジアムに連れて来てくれたお父さんとハイタッチ。すごいすごい、こんなプレーが間近で見られるなんて。本当に胸のドキドキが止まらない。
ピッチでは、華羽選手が背番号2と抱き合っている。
――遠賀ゆりこ(おんが ゆりこ)、背番号2。
なでしこリーグ一部のチーム『芦屋INCA』に所属する不動の右サイドバックだ。
「すごい! 私もあんなプレーがしてみたい。あんな選手になりたい!!」
彼女はその日から、私の憧れの選手となった。
〇 〇 〇
「まったく、もう、やってられないよ……」
あれから五年。
高校生になった私、立花芽瑠奈(たちばな めるな)は、憧れの名門サッカー部への入部という夢を手に入れた。
――黄葉戸学園女子サッカー部。
高校女子サッカーのタイトルを十個も持つ、日本でトップクラスの部活だ。
が、いざ入部してみると、現実の厳しさを痛感する。
部員数は五十名。
一方、試合でピッチに立てるのは十一名。
つまり五倍弱の競争を勝ち抜かないとレギュラーにはなれないってこと。
でも私には強力な武器があった。
それは持久力。一五〇〇メートルを四分半で走ることができる。
「なに、ずるい。一種のチートじゃん。陸上部としてインターハイに出れるよ、それ」
同じクラスで一緒に入部した麻由にもネチネチと言われたものだ。
だから、私はすぐにレギュラーの座を手にできると思っていたのに……。
「はぁ……」
「メル、いい加減にやめなよ。ため息、もう十回目だよ」
「麻由はこの状況に満足してるの? 私たちがこれを引っ張っていることに!」
それは重いコンダラ……じゃなくて、重いローラーだった。
「ローラーだけど?」
「ローラーだけど、じゃないよ」
相変わらずの麻由の天然ぶりに私は呆れる。
「えっ? メルはこれがローラー以外のなにかに見えるの?」
「いやいや、サッカー部でローラーはおかしいでしょ? スポ根野球漫画じゃあるまいし」
「部活の後でグラウンドにローラーかけるのは普通じゃん。私たち、まだ一年生なんだし」
そんな無邪気な麻由の横顔を、初夏の夕陽が照らしている。
今年は世界的なウイルス災害のため入学式は中止、学校や部活に通えるようになったのは六月からだった。
私は「はぁ」と今日十一回目のため息をつく。
「麻由ってお気楽でいいよね。いい、サッカーはそもそも芝生でやるものなの。土のグラウンドじゃないの」
「しょうがないじゃない。高校の部活なんだし」
「しょうがないじゃないよ。ここは天下の黄葉戸学園なんだよ。全国のサッカー少女が憧れる聖地なんだよ。ていうのに、土のグラウンドってありえないよ」
名門なのに、という理由だけじゃない。
そもそも私は土のグラウンドが嫌いなのだ。
スパイクはすぐすり減るし、ボールの痛みも激しいし、練習は埃っぽくってショートの髪はいつもバキバキ。それに土のグラウンドでいくら上手くなったって、試合が行われるのは芝。練習で上手くいくことが本番でも上手くいくとは限らない。まあ、本番に出られるチャンスがあれば、の話だけど。
「中学まで通ってたクラブだって人工芝で練習してたっていうのに……」
私が十二回目のため息をつこうと麻由を向くと、いつもお気楽な彼女の表情が強張っている。
いったい何が、と思った瞬間、背後の頭上から声が飛んできた。
「あんたたち、いつまでローラーかけてんの。そんなエリート育ちなら、さぞかしボールの扱いは上手いんでしょうね?」
ヤバい、この声は――
振り向くと、やはりキャプテンだった。
宝河香月(たからが かづき)先輩、三年生。
一七五センチという恵まれた体格に加えて、ボールの扱いは部活ナンバーワン。
おまけに敵の弱点を的確に突くパスセンスに長けていて、年代別の日本代表に呼ばれるのは時間の問題ではないかと噂されている。
身長の高いキャプテンの言葉は、どうしても高圧的に感じてしまう。
一方、私は一六〇センチで、麻由は一五五センチ。
この身長差を打ち消すには、強い言葉を返すしかない。
『なら、芝のグラウンドで私と勝負してみます? ただし私からボールを奪えなかったら、次の試合のレギュラーをいただきますよ』
そんな風に言ってみたい。
まさにスポ根ドラマ。
が、私にはそう啖呵を切れない事情があった。
というのも、自慢の持久力で大抵の相手ならぶっちぎることができるので、足技なんて使う機会はあまりないし、真剣に練習もしてこなかったから。
つまり、下手ってこと。
「メルはね、もっと左足を練習しなくちゃダメ」
的確な指摘に言葉をつまらせる。確かに私は左足を使うのが特に苦手だった。
「でもキャプテン。日本代表だって、利き足だけでプレーしている人もいるじゃないですか?」
「それはね、フォワードとかトップ下とかそういうポジションの話よ。いい? 考えてみてよ。右サイドバックが右足しか使えなかったら、センタリングしか上げられないじゃない?」
キャプテンが言うことももっともだ。
が、私には私の考えがあった。
「だったらそれでいいじゃないですか。センタリングさえ上げられれば」
私の脳裏に小学生の時に見た試合のシーンが蘇る。
芦屋INCAの背番号2は、敵陣深く切り込んで得点に結びつく正確なセンタリングを上げた。
私はそういうプレーがしたいのだ。
それだけで十分なのだ。
実際、少年少女サッカー時代は何度も敵陣に切り込んで、決定的なセンタリングを成功させている。
「あなたのスタミナは部員誰もが認めるわ。でもそれだけじゃダメ。今は基礎をしっかり身に着ける時なの」
本当にそうなのか?
自分の得意な部分を徹底的に磨けば、それはそれでいいのではないだろうか?
不服そうな表情を崩さない私を見かねたキャプテンは、一つため息を漏らすと私に向かって提案した。
「わかったわ。週末の紅白試合、あなたにはAチームの右サイドバックに入ってもらう。右サイドバックの桜には、あなたの代わりにBチームの左サイドに入ってもらうわ。そこで自分には何が必要なのか学ぶのね」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべたキャプテンは踵を返し、部室の方へ引き上げて行った。
「やったじゃん、メル! いきなりAチームだよ!」
キャプテンが部室に入ったことを確認すると、麻由が私の手を取って小躍りする。
まるで自分の事のように喜んでくれる麻由は本当に大切な友達だ。
「これで結果を出せれば、念願のレギュラー昇格だね、メル!」
そんなに上手くいくだろうか?
私はキャプテンが最後に見せた表情が気になっていた。
「きっと今頃、桜先輩と相談してるよ。私をギャフンと言わせる算段を」
間違いなくそうだろう。
あの笑いには、私の足を封じる策略が滲み出ていた。
「なに、暗い顔をしてんのよ。あのキャプテンに「それでいいじゃないですか」って啖呵切ったのメルじゃない。ちょっと胸がすうっとしたなぁ。ほらほら、その自信はどこに行ったの? 芽瑠奈よ、諦め……」
「ストップ!!」
私は慌てて麻由の口を遮る。
「だからいつも言ってるよね。それ言っちゃダメだって」
本当に嫌なんだから、ダジャレで私の名前を茶化されるのは。
「ちぇっ、久しぶりにあれを言うチャンスだったのに〜」
仲の良くない友達ならぶっ飛ばすところだよ? 麻由だから許してあげるけど。
「メルならできるよ、桜先輩をぶっちぎるところを見せてよ」
私だって快走したい。右サイドを一直線に。
あの時の背番号2のように、相手選手を置いてきぼりにして。
ふと空を見上げると、六月の夕陽はすっかり沈んでいた。
〇 〇 〇
黄葉戸学園女子サッカー部の週末の練習は、市営グラウンドで行うことになっている。そこには立派な人工芝のサッカー専用グラウンドがあった。さすがに定期戦を乗り切るには、学園の土のグラウンドの練習だけというわけにはいかない。
私たち一年生は、練習開始の一時間前に顧問の先生が運転するマイクロバスに乗り、ボールやらコーンなどの用具を運ぶ。そして会場準備を済ませ、ウォーミングアップをしながら上級生が到着するのを待つのだ。
部員が揃って一通り基礎練習が終わると、紅白試合が行われることになっていた。
キャプテンの言葉通り、私はAチームの右サイドバックとして名前を呼ばれた。
広いピッチに散らばるメンバー。
フォーメーションはオーソドックスな四ー四ー二。
私は右サイドバックのポジションに駆けていく。
――これがレギュラーとしての第一歩。
そう思うと緊張する。
スパイクの裏で、人工芝の感触を確認する。
やれる自信はある。体調も万全だ。
対する相手はBチーム。主にベンチメンバーで構成されている。
中でも注意しなくてはいけないのが桜先輩。キャプテンの言葉通り、左のウイングに構えている。これから私とマッチアップする強敵だ。
――砂根桜(すなね さくら)先輩。三年生。
身長は私と同じ一六〇センチくらい。痩せ型でぺったんこの私とは違い、女性的なボディは部内一魅力的かもしれない。カールのかかった綺麗な長髪は、今日は後ろで結んでいる。
スタミナは上位クラスで、レギュラーとして普段は右サイドバックを守っている。足技は素晴らしく、トラップは完璧、パスも両足から正確に繰り出せる能力を持っていた。
ピーッと二年の先輩が吹く笛でゲームが始まった。
Aチームのキックオフ。前に大きく蹴り出されたボール目掛けて、中盤以上の選手がスプリントを開始した。
「よっしゃあ、私も!」
とダッシュをしようとしたところ、
「行くな、メル!」
センターバックの先輩に制止されてしまった。
「メルは初めてなんだから、今はラインを作ることに集中だよ!」
わかるよ、先輩が言うこともわかる。
でも、お願いだから走らせて。私の武器は走ることだけなんだから。
抗議の意をこめてボランチのキャプテンを見ると、顔を小さく横に降っている。今は大人しくしとけ、という意味に違いない。
仕方がないので、前半はしっかりとディフェンスラインを作ることに専念した。
しかし私はすぐに、桜先輩からの洗礼を受けることになった。
ディフェンスラインでのパス回し。
私は丁寧に右足でトラップしてから、右足でパスを送る。それを桜先輩に狙われたのだ。
パスする瞬間、桜先輩は私に体を当ててくる。
「ぎゃっ!」
私はいとも簡単に体勢を崩してしまった。
いつもはとっても温厚な桜先輩なのに。
なに、この鬼畜なタックルは!?
でもよく考えたら、桜先輩だってこの試合にレギュラーの座がかかっているのだ。私を自由にさせたら、その座を失ってしまうかもしれない。必死になるのも当たり前だ。
私のような貧相なガリガリ女子と違って、桜先輩は見事なボンキュボーン。身長が同じなら運動量保存の法則で飛ばされるのは私の方。
桜先輩のタックルをかわせても、今度はトラップミスを狙われる。
私は右足でしかトラップができないので、先輩は右足を狙って詰めてくるのだ。きちんとトラップができてもパスコースが限定される。トラップを焦ると、ミスで前にこぼしてしまう。
何度もボールを失ってすっかり嫌になった私は、手で合図してスペースにボールを要求し始めた。
が、飛んでくるパスは全部足元ばかり。
「もう、先輩たちって意地悪!」
きっとキャプテンの指示なのだろう。パスは私の足元に出せと。
私に反省させるために意地悪してるんだ。
「悔しいけどここは我慢。せめて桜先輩が疲れるまで」
これだけ激しくプレスしてくるのだから、さすがの桜先輩だってかなりスタミナが削られているはず。一方私は、ほとんど走っていないのでスタミナは満タンに近い。耐えていれば、チャンスは必ず訪れる。
そう悟った私はトラップすることを諦め、ダイレクトでパスを繋ぐことにした。
「ぐっ、ダメだ……」
すぐに私は重要なことに気づく。
左足が使えないため、右足でしかダイレクトパスを送れないのだ。
つまり、ほとんどのパスがセンターバックに返すことになってしまう。これでは攻撃に結びつかない。
「いやいや、私だって!」
左足が使えることを証明してやろう。
ちょうど左足めがけてセンターバックからパスが飛んできた。私はここぞとばかり、左足のインサイドキックでボランチへのダイレクトパスを試みる。が――
「あれ?」
当たり損ね。
左足のくるぶしに当たってしまったボールは、コロコロと力なく二メートルほど前方に転がっていく。それはサイドバックとしては致命的なミスだった。
「もらったわ!」
桜先輩はそれを見逃さなかった。
さっとボールをかっさらうと、その勢いのままゴールに切れ込んで行ったのだ。
私は慌てて桜先輩を追いかける。が、後の祭り。敵の背中を追いかけるサイドバックほど惨めなものはない。
――後ろからスライディングしてみる?
いやいやそれは危険なプレーだ。
一発レッドだし、ペナルティエリア内ならPKを与えてしまう。
それよりも桜先輩に怪我をさせてしまうわけにはいかない。たかが紅白戦で。
――自慢のスタミナで?
いやいや、たとえ追いついたとしても桜先輩からボールを奪えるとは思えない。
その前にセンタリングを上げられてしまうだろう。
ひらひらとなびく、桜先輩のポニーテルに手が届くくらいの距離まで詰めることができた。
せめてセンタリングを上げる瞬間に肩を当て、タイミングをずらそうとした瞬間、桜先輩は左足で中に折り返す。そして、走り込んできたBチームのファワードにきっちりと合わせられてしまった。
ゴール!
「あー、もう嫌だ!」
私の決定的なミスで、Aチームは一点ビハインドのまま前半を折り返すこととなった。
〇 〇 〇
ハーフタイムになってベンチにメンバーが集まると、キャプテンが私を向いて切り出した。
「メル、お疲れ様。じゃあ後半は交代で、代わりの右サイドバックには……」
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!
こんな消化不良のまま終わってしまうのは嫌だ!
だから私は叫んでいた。
「キャプテン、私の真価は後半に発揮されるんです。お願いですから、後半も私を使って下さい!」
後で考えると、相当生意気なことを言ったものだと思う。
でも、それだけ必死だったのだ。
あんなに必死な桜先輩を見ていると、私だって必死のプレーで答えたいという気持ちが溢れてくる。
「ふうん、じゃあ後半は死ぬ気で走ってくれるのね」
「もちろん死ぬ気で走ります!」
「私のパスはキツいわよ」
「光栄です!」
どんなSMスポ根だよ、と思いながらも、私はキャプテンに向けた眼差しから力を抜かない。
こうなったら根比べだ、と思った瞬間、ふっとキャプテンの表情が崩れた。
「わかったわ。後半も頑張って頂戴。それでいいですよね、先生?」
顧問の先生を向くと、お前たちにまかせたと静かにうなづくだけだった。
よし、やってやる!
これでダメだったら、私に未来はない。
サイドが変わって後半が始まった。
桜先輩も前半と同じポジションだ。そして私へのプレスを止めようとしない。
しかし時間が経つにつれて、私はあることに気がついた。
桜先輩の後ろを守る左サイドバックが疲れてきて、桜先輩と動きを合わせられなくなってきたのだ。
つまり、桜先輩の背後にはぽっかりとスペースが空き始めたということ。
これを活かさない手はない。
私はある作戦を思いつく。
前半に左足のパスを試みてわかったことがあった。桜先輩は私の右足だけに集中していて、左足はノーマークだったのだ。
それならば。
センターバックから来たパスを、勢いを殺さず前方に飛ぶように左足にちょんと当ててみよう。どこに転がるかなんて出たとこ勝負だ。
試しにやってみると、ラッキーなことにボールは小さく弧を描いて桜先輩の頭上を越えて行った。
転々とするボールは、ぽっかりと空いた先輩の背後のスペースへ。
よっしゃ、もらった!
ダッシュした私は桜先輩と入れ替わり、フリーでボールを保持する。
ボールの行方を追って顎が上がってしまった先輩は、反応が一瞬遅れてしまったのだ。その隙を私は見逃さなかった。
しかし喜びも束の間、前方からはサイドバックが慌てて詰めてくる。後ろからは桜先輩。この状況を一人で打開できる足技は、残念ながら私にはない。
しょうがないので右足でパスを出して、ボランチのキャプテンにボールを預ける。そして全力でラインに沿ってスプリントを開始した。
『私のパスはキツいわよ』
さあ、どんなパスが来るんでしょうね。
楽々追いつけたら心の中で笑ってあげるから。そんなものなのかと。
そう思いながらキャプテンをちらりと見る。目が合った瞬間、彼女の必殺スルーパスが炸裂した。
「ええっ、マジ!?」
それは、必死に走らないと追いつけないコース。
でもこれに追いつければ決定的なチャンスを作れる、本当に必殺のスルーパスだった。
「こんちくしょう!」
血の味がしそうな限界状態の肺に必死に空気を送り込む。
手を振って、足をフル回転させて、私はタッチラインギリギリでボールに追いついた。
「でも、これでオフサイドラインは突破した!」
私は、ラインの裏に抜け出ることに成功したのだ。
ドキドキと心臓が高鳴る。
私とゴールとの間には、相手センターバックとゴールキーパーしかいない。その二人の鬼気迫る表情が、自分がどんなに危険な位置にいるのかを物語っている。
「まずはセンタリング!」
私は右足でボールを保持しながら中に切れ込み、センターバックが寄せて来る前に右足を振り抜いた。
味方フォワードが待つゴール前ではなく、ペナルティエリア前のポッカリと空いたスペースに。
ボールは弧を描きながら飛んでいく。
「キャプテン、今度はあなたの走りを見せてもらいますよ!」
これはチームプレーではなく、私怨にまみれたブレーだったかもしれない。
でも、私は感じたんだ。
さっきキャプテンと目が合った時に。
――『最後は私に戻せ』と。
アイコンタクトの通り、キャプテンはゴール前のスペースに走り込んでいた。
身長一七五センチの長身が躍動する。と同時に、ショートの髪が頭の振りに合わせて綺麗に広がった。
高く跳んだキャプテンは、私のセンタリングを空の上からヘディングでゴールに叩き込んだのだ。
まるで青空から獲物を狙う鷹のように。
ゴール!
うわっ、超気持ちいい!
これだよ、サッカーは!
私はこの瞬間のためにサッカーを続けてきたんだ。
まだまだやれる。
もっともっと走ってやる。
試合再開の笛を聞きながら、私の中でアドレナリンが増産されるのを感じていた。
しかし、そこから先は地獄だった。
スペースに抜けることができるようになった私は、何度も何度もスプリントを試みる。
が、パスが来るのは三回に一回くらいなのだ。
まあ、そりゃそうだ。いつも同じところにパスしていたら、それはキラーパスとは言わないし、相手だって警戒してしまう。
中学までのクラブだったら、パスが出されてから走っても楽々追いつけた。
でも今は違う。キャプテンのキラーパスは本物だ。最初から死ぬ気で走らないと追いつけない。
そういえば小学生の時に見た芦屋INCAの試合でも、背番号2は何度も何度もスプリントしてたっけ。それでも華羽選手からパスが来たのは数回だけだった。そのたった数回のために、チームのために、背番号2は献身的に右サイドを駆け上がっていたのだ。
「いや、違う!」
チームのためなんかに私は走らない。
あのゴールの瞬間のためなんだ。
今なら分かる。あれは私のサッカーのすべてだ。さっきのゴールで心からそう感じた。
とはいえ、さすがの私も毎回万全の状態でスプリントできるわけではない。
後半三十分。
ほんのわずか出遅れてしまったスプリントに、キャプテンから鋭いスルーパスが飛んで来る。
「ごめん、キャプテン。これは追いつけない」
そんな弱気が横顔に表れてしまったのだろうか。
無意識のうちに手の振りを弱めてしまったのだろうか。
それを見抜いたキャプテンから檄が飛んでくる。
最も言われたくない言葉と共に。
「死ぬ気を見せろ! 芽瑠奈、諦めるな!」
言ったな、その言葉を!
キャプテンでも許さない!
だから絶対追いついてやる。
それが悲劇の始まりだった。
タッチラインから外に出ようとするボールに思いっきり足を伸ばす。
「ぎゃっ!」
が、ほんの一瞬間に合わなかった私はボールの上に乗ってしまい、派手に転倒してしまったのだ。
「痛たたたた……」
思いっきり右足を挫く。
ピッチに転がった私はしばらく立ち上がることができなかった。
〇 〇 〇
「カチカチだね、このギブス」
「だから麻由、私の右足で遊ばないでよ」
紅白戦で右足首に重度の捻挫を負ってしまった私は、それから二週間、ギブス&松葉杖生活を余儀なくされた。
部活は見学――なんてことになるわけもなく、ベンチに座ったままで左足を使う特訓をさせられることになったのだ。麻由と一緒に。
麻由が私にボールを投げる。
私はベンチに座ったまま、左足で麻由に蹴り返す。
その練習を毎日五百回、繰り返す。
「ごめんね、麻由。毎日毎日こんな練習に付き合わせちゃって」
「気にしないでメル。私はレギュラーなんて別に狙ってないから」
「でも……」
「それにね、メルが有名になってくれたら私嬉しいの。これだけのスタミナがあれば、なでしこリーグでだって活躍できるわよ。そんでもって「あの時の練習があったから」って言ってくれたら私泣いちゃう」
「麻由……」
麻由には本当に感謝してる。
彼女の気持ちに応えるためには、今この練習を活かさなくちゃいけない。
なんとしてでも左足を上手く使えるようにならなくては……。
インサイド、アウトサイド、インステップ、インフロント、アウトフロント。
麻由が投げてくれたボールを、それぞれの蹴り方で百回ずつ彼女へ返す。
最初はあっちゃこっちゃに飛んでいたボールだったが、ギブスが外れる頃には麻由の元へちゃんと返せるようになっていた。
「左足、上手く当たるようになったね、メル」
練習上がりの桜先輩が、私の元にやってきた。
麻由はグラウンド整備に行っている。そんな同級生の後ろ姿を眺めながら、私は校庭脇のベンチでボールを磨くことしかできなかった。
「ありがとうございます」
ベンチの隣に腰掛けようとしている桜先輩にお礼を言う。先輩、ちゃんと私の特訓を見ていてくれたんだ。ほんのり香る汗は、石鹸のように爽やかで羨ましい。
でも、紅白戦での鬼畜なタックルは忘れてはいませんけど。
「左足は、そうやってインパクトの瞬間に集中する癖をつけておくといいよ。試合でもきっと役に立つから」
桜先輩の柔らかな言葉には説得力がある。
キャプテンに上から目線で言われたら、意地でもやるもんかと思っちゃうけど。
「最初はね、『なんで右足と同じように動かない』って思い詰めちゃうから嫌になっちゃうの。だからね、融通の利かないテニスラケットかゴルフクラブみたいなもんだと思っておけばいいのよ」
へえ、そんな考え方があるんだ……。
「テニスラケットだって、スイートスポットに当たればちゃんと飛ぶでしょ? そんなイメージでいいの」
「先輩はそうやって練習してたんですか?」
「そうよ。ちゃんと飛ぶようになったら面白くなるから。面白くなったらこっちのもんよ」
確かにそう思う。
怪我をした日の紅白戦、左足でパスをミスした時は本当に嫌になった。あれは右足と同じようにパスしようと思ったから嫌になったんだ。
でもその後で、桜先輩の背後へ左足で転がせた時はちょっと面白く感じた。きっとそれはダメもとと考えていたからなんだろう。
桜先輩にいろいろ教えてもらったら、早く上手くなれるような気がする。
だったら訊いてみよう。
憧れの選手に近づくためにはどうすればいいのかを。
「桜先輩。私、憧れの選手がいるんです」
「憧れの選手? もちろんサッカー選手よね?」
「もちろんです。その選手は……」
すると先輩は掌を立てて私を制止した。
「ちょっと待って、当ててみせるから……」
顎に手を当てて夕焼け空に視線を向ける先輩。そして輝く瞳で私を向く。
「わかった! 友永選手でしょ!? ガンガン走るといえば友永選手だもんね」
友永選手――きっとサムライブルーの左サイドバックの友永選手に違いない。
「まあ、友永選手も好きですよ。運動量は素晴らしいですし、なによりもあの明るさですよね。友永選手のポジティブシンキングはとても参考になります。でも私がお手本にしたいのは男子ではなく、なでしこメンバーなんです」
「ふうん……。となると清川選手とか土輝選手とか?」
清川選手と土輝選手は、現在のなでしこジャパンの右サイドバックと左サイドバックだろう。
「両選手も素晴らしいと思います。が、私がお手本にしたいのはもっとベテランで、ワールドカップで優勝した時のメンバーだったりして……」
すると桜先輩は「えっ?」と驚いた顔をした。
「ワールドカップの優勝って九年前だよ? メルって……いくつだった?」
二〇一一年、ドイツで女子サッカーのワールドカップが行われた。
なでしこジャパンは決勝でアメリカを破って優勝。
金色の紙吹雪舞うピッチの上で、青いユニフォームを纏った戦士たちがカップを掲げるシーンは、何度も何度もテレビで放映されている。
「まだ小学校に上がる前でした。だからワールドカップ自体はぜんぜん覚えていないんです。でも小学四年でサッカーを始めた時に、お父さんに連れて行ってもらったんです。芦屋INCAの試合に」
「芦屋INCA? ってことは……遠賀選手だね」
「そうです! そうなんです」
なんだか嬉しかった。桜先輩の口からその名前が出てきた時は。
誰にも言えずに一人で決めた目標は、間違いではなかったような気がした。
「渋いね、遠賀選手が目標って」
「ですよね。でも芦屋INCAの試合で右サイドを駆け上がる遠賀選手を目の当たりにして、私、体中が震えたんです。あんなプレーがしたいって」
「なんとなくわかるよ。メルのプレーって、そんな感じだもんね」
えへへへ、と私は照れ笑いする。
そんな感じって言ってもらえたのがとても嬉しい。
「ワールドカップでも遠賀選手はすごかったんだよ」
「そうみたいですね」
残念ながら私は、ワールドカップの時の遠賀選手のプレーはあまりよく知らない。
「予選リーグのメキシコ戦の時かな、試合終了間際に遠賀選手がワンツーを繰り返しながらするすると上がって、華羽選手にマイナスのパスを出したの。それが決まって華羽選手はハットトリック。あれは凄かったよね」
そんなシーンがあったんだ。
ワールドカップといえば、決勝延長での華羽選手の奇跡のシュートは何度もテレビで見たけど、そんな連携プレーがあったとは知らなかった。
「何が凄いかっていうと、それが後半三十五分過ぎだったってこと。試合終了間際にそれだけ走れるって驚異的じゃない? メルならできそうだけどね、悔しいけど」
「いやぁ、私はそんな……」
「でもね、メルとは決定的に違うところがある」
照れる私に冷や水を浴びせる言葉を、先輩は口にする。
「遠賀選手って、元々フォワードだったの」
えっ?
遠賀選手って、最初からサイドバックのエキスパートだったんじゃないの?
あれだけスタミナがあって走れるのに?
「高校生の時に選ばれたU-19では、フォワードでアジア制覇。卒業後に入団したテッテレ東京では、トップ下やウイングだったんだって。代名詞の背番号2が定着したのは、芦屋INCAに移籍してからなのよ」
だからあんなに足技が上手いのか。
もともとフォワードでアジア制覇までしてるんだから当たり前だ。
それに比べて、走るだけしか能がない私が「目標なんです」ってちゃんちゃら可笑しいじゃん。恥ずかしくて穴があったら入りたい……。
「どうしちゃったの? メル」
「いや、そんな凄い選手だったなんて全然知らなくて」
「気にしなくていいのよ、私も知らなかったから」
「えっ?」
驚いて桜先輩を見る。
夕焼け空を向く先輩は、遠い目をしていた。
「教えてくれたのは香月なの」
「キャプテンが?」
「あれは入部したばかりの時だった。サイドバックへの転向に納得できなかった私に、香月が話してくれたの」
それから桜先輩は、入部してから現在までの話しをしてくれた。
中学までのクラブではフォワードだった桜先輩は、黄葉戸学園に入学して現実の厳しさを思い知ったという。
ほとんどの部員が自分よりも上手い。
そりゃそうだ、女子サッカーの名門なんだから。
頭では分かっていたつもりだったが、実際にそれを目の当たりにするとかなりのショックを受けたという。中学までの常識が通用しない。焦りと苛立ちで自分のプレーを見失ってしまう。
そんな時に顧問の先生に言われたのが、サイドバックへのコンバートだった。
「悔しかった。信じられなかった。今までの人生がすべて否定されたような気がした」
うつむいて、スパイクを見つめる桜先輩。
いつも明るい先輩にそんな苦悩があったなんて全然知らなかった。
「そんな時にね、遠賀選手のことを教えてくれたのが香月だったの」
あのキャプテンにそんな優しさがあったなんて……。
「最初はね、私は聞く耳を持たなかった。だってそうじゃない。香月は私より上手いし、身長も高いし、私から見たら全然余裕で安全圏でしょ。今だから言えるけど、同情はやめてよって思っちゃった」
確かに女子で一七五センチの身長は恵まれている。
「そしたら懲りずにいろいろと調べてくれて。メルは覚えてる? なでしこ優勝メンバーの左サイドバックの選手」
「えっと、醒鳥選手……でしたっけ?」
「そう醒鳥選手。彼女もサイドバックをやる前は中盤のドリブラーだったのよ」
ええっ!?
なでしこ優勝メンバーの両サイドバックが、どちらも元々は攻撃の選手だったとは!?
「だからね、サイドバックへの転向は逆にチャンスなんだって。私のスタミナを活かさない手はないって。挙句の果てに香月に言われたの、チャンスがあるのに頑張らないやつは辞めちゃえって。カチンと来た私は、やっとやる気になったの」
きっとキャプテンは不器用なんだと思う。歯に衣着せぬ言動が人を選ぶのだろう。
「頑張って頑張って、ようやくレギュラーの右サイドバックに定着してきたなぁって思っていたら、メルみたいなスタミナお化けが入ってきちゃって……」
桜先輩の視線は私の瞳を捉える。
「香月もメルも贅沢なのよ。二人とも私に無いものを持ってる」
それは積もる思いを私に託すように。
「だからね、メル。諦め……」
「ストップ!」
思わず制止してしまった。先輩なのに。
でも危なかった。
桜先輩にあの言葉を言われたら、私立ち直れない。
すると予想に反し、先輩は私にニコリと笑う。
「あら、私「諦めて」って言おうとしたの、わかっちゃった?」
えっ!?
そうだったんですか?
「だって、こんなに苦労して掴んだレギュラーの座なんだもん。メルに奪われたくない」
私てっきり勘違いして、先輩の言葉を遮っちゃったりして、なんか恥ずかしい……。
「だからね、諦めて。左足の練習もしなくていいのよ。って言われたら、本当に諦める?」
「私、諦めません。先輩に言われて目が覚めました。遠賀選手に近づくためには、もっともっと基礎を身に付けなければいけないってことに」
すると桜先輩は薄暗くなりかけた空に手を突き出し、大きく伸びをする。
「あーあ、残念だなぁ。目覚めちゃったか……」
ありがとうございます、先輩。
先輩のやさしさに感謝します。
ポジション争いは実力勝負。情けは無用だけど、スタミナだけではダメだってことを私に伝えたかったんですね。
それに先輩だって、キャプテンや私に無い素晴らしいものを持ってるじゃないですか。
伸びで強調される先輩の豊かな胸。女の私だって目がくぎ付けですよ。
「でも、噂はホントだったのね。メルのNGワード」
桜先輩が腰を上げながら、くすくすっと笑う。
「芽瑠奈、諦めるな」
捨て台詞とともに小さくなっていく背番号2。
油断した。
言われちゃったよ、さり気なく。
先輩、最初から狙ってたでしょ?
〇 〇 〇
夏休みに入ると私の足首も癒えて、元通りに練習ができるようになった。
私はそのスタミナを買われて、背番号22を付けさせてもらう。基礎練習の成果もじわじわと表われてきた。そして週末にはBチームのメンバーとして、紅白戦に出してもらえることになった。
「私、がむしゃらに走りますから、右サイドに縦ポンをお願いします」
紅白戦の前に先輩方にお願いする。
縦ポンというのは、相手のディフェンスラインの裏のスペースに落とす山なりのパスを示すことが多い。
その作戦は見事に的中した。
Aチームのディフェンスラインは高い位置に設定されている。黄葉戸学園伝統のパスサッカーを貫くためだ。つまり、ラインの裏にはぽっかりとスペースが空いているということ。縦ポンを蹴りやすい状況となっている。
私の狙いはそのスペース。試合開始からガンガン走って、何度も何度もディフェンスラインを破ることに成功する。
疲弊するAチームのディフェンスライン。その位置はじわりじわりと下がっていく。
そうなったらこっちのもの。相手のプレスが弱くなれば、Bチームだってボールを保持できる。Aチームと同レベルのパスサッカーを展開することが可能になってきた。
「しばらく守りに専念するか……」
このような状況になったら私の出番はない。
縦ポンを出すスペースはないし、こちらの守りも間延びし始めて、Aチームにとってキラーパスを出しやすい状況になっているからだ。
Aチームのボランチはキャプテン。背が高いこともあってどこにいるのかすぐに分かる。こちらを向いてプレーしている時はかなり危険な存在だ。いつ、キラーパスが飛んできてもおかしくない。
一方、桜先輩はAチームの右サイドバックを守っている。ポジションが完全に対角なので、対戦することがない。怪我をした紅白戦の時の借りを返したいところだが、残念ながら別の機会となりそうだ。
膠着状態で両チーム無得点のまま、前半は終了した。
「後半は、三十分を過ぎたらまたガンガン走ります!」
私は先輩方に告げる。
後半も終盤になれば全員が疲れてくる。特にAチームのディフェンスライン。だって前半にあれだけ引っ掻き回してあげたんだもん、足が止まる可能性だってある。
そうなったらこっちのもの。また引っ掻き回してあげる。
私の作戦はまたもや的中した。
Aチームのディフェンスが間延びしたところに縦ポンを出してもらい、好き勝手に私は走り回った。センタリングだって上げ放題。背の高いキャプテンは、私のセンタリングをカットすることに奔走する。
「あーあ、キャプテンがBチームだったらなぁ……」
ことごとく弾き返されるセンタリングを見ながら、私は口惜しく感じる。
でもそれはしょうがない。部内で一番身長が高いのはキャプテンなんだから。
結局、得点は入らぬまま後半も終わってしまった。
〇対〇の引き分け。
Bチームとしては上出来の結果だった。
「メル、紅白戦良かったよ!」
ボールや道具を片付けて、先生が運転するマイクロバスに乗ると、隣に座った麻由が話しかけてきた。
「でも無得点だった」
「Aチームだって無得点だったじゃない。Aチーム相手に引き分けなんて上出来だよ」
今日はたくさんセンタリングを上げることができた。
その中の一つでもゴールに結び付けることができれば、勝てたかもしれないのだ。
――キャプテンさえいなければ……。
センタリングをことごとく跳ね返されたのが本当に悔しい。
「どう? 足の状態は?」
麻由は私の足首の様子を気にしてくれている。彼女の心遣いは本当に嬉しい。
「走る分には問題なかったよ。思いっきり踏ん張れるかと言われると、ちょっと恐い気もするけど」
バスに揺られながら足首をグルグルと回してみた。
疲れはあるが痛みはない。もう大丈夫だろう。それよりも、今にもつりそうなふくらはぎの方がヤバい。
「またAチームに入れればいいね」
「うん。そうだね……」
それには桜先輩という壁を乗り越えないといけない。
この前は戒めという意味でAチームに入れてもらえることができたが、次は実力でその座を勝ち取らないといけないのだ。
『こんなに苦労して掴んだレギュラーの座なんだもん。メルに奪われたくない』
夏休み前の桜先輩の言葉が脳裏に蘇る。
でも……。
やっぱり私はAチームで試合に出てみたい。
キャプテンからのキラーパスを受けて、キャプテンにセンタリングを返してみたい。
怪我をした紅白戦の時のように。
そこには必ず、素晴らしいゴールが待っているはずだから。
学園に戻って片付けを終えた私たちは、部室で着替えて校門を出る。住宅街に差し掛かった時、公園の方からなにやら話し声が聞こえてきた。
「今日はメルにやられっぱなしだったなぁ……」
ええっ? 私のこと!?
誰? 話してるのは!?
麻由と一緒に立ち止まると、キャプテンと桜先輩がこちらに背を向けてベンチに座っている。
ベンチの隣には二台の自転車。きっと市営グラウンドからの帰りなのだろう。恰好もジャージのままだ。
「麻由、先に帰ってて」
小声で小さく手を振ると、麻由も「じゃあね」と手を振った。
私は先輩たちに見つからないようトイレの影に隠れる。壁に寄りかかりながらスマホをいじっていれば、傍目にも怪しまれないだろう。
「あのスタミナはチートだよね。でも味方になれば、こんなに心強いことはない。だからね、私、先生に進言しようと思ってる。公式戦でのメルの起用を」
「それ本気で言ってる? 香月」
えっ、キャプテンが私の起用を?
こんな光栄なことはないが、桜先輩は不服のようだ。
「だってあれだけ走れるんだよ。使わない手はないよ」
「でも、そしたらどうなるの? 黄葉戸のパスサッカーは?」
「その伝統を活かすためにメルを走らせるんだよ。今日のBチームを見たよね」
今日、私は試合開始からガンガン走った。
きっと、その時のことを言ってるんだろう。
「前半からメルに走られた結果、どうなった? 痛感したよね、ディフェンスラインを作っていた桜なら」
「ずるずるとラインを下げざるを得なかった。悔しいけど」
「でしょ? それを今度は私たちがやるのよ、公式戦で。相手のラインが下がればこっちのもの。黄葉戸のパスサッカーの出番よ」
いやぁ、照れるなぁ……。
私の足が、そんなにAチームを苦しめていたなんて。
「でも、他のみんなが納得する?」
「みんなには私が説得する。ロンドンオリンピックの話をしたら、みんな納得してくれると思う。桜は覚えてる? ロンドンオリンピックのこと」
ロンドンオリンピック?
それって何年前? って、今私はスマホをいじってるフリをしているんだから、本当に調べればいいんだ。
すると、二〇一二年とネットに書いてあった。
(てことは、八年前か……)
私は小学一年生だった。なでしこジャパンがワールドカップ制覇した翌年だ。全く記憶にない。
「ロンドンオリンピックって、ぜんぜん覚えてないんだけど」
「私たち小学三年生だったもんね。でも私は覚えてる……」
キャプテンの声が途切れた。
トイレの影からチラリと様子を覗くと、キャプテンは晴れた青空を見上げていた。
「日本はね、ポゼッションサッカーを諦めてカウンター勝負に出たの。足の速い選手にすべてを託して」
へえ~、そんなサッカーやってたんだ。
そういう話を、私はあまり聞いたことがない。
「中でも速かったのが井長選手。それはそれは本当にすごかったんだから、私テレビの前でワクワクしてた」
気になるのはキャプテンが言う「速い」という意味。
私はスタミナはあるが、特にスピードがあるというわけではない。
「今でも強烈に覚えているのは、予選リーグのモロッコ戦。中盤からの縦ポンに走り込む井長選手が、本当に最高だったんだから」
今日の試合でも、私は何度も縦ポンを出してもらった。
その時の井長選手がどんな風に最高だったのか、私も参考にしたい。
「何がすごかったかと言うと、井長選手はディフェンダーの背後から走り始めたの。なのに、するするっとディフェンダーを追い越しちゃって、キーパーが寄せる前に打ったのよ、絶妙なループシュートを。それが入った時は鳥肌が立ったわ。そして真剣に思ったの、井長選手が日本選手で良かったって」
活き活きとしたキャプテンの声から、当時の興奮が伝わってくる。
もしかして今日の試合でキャプテンは、私が味方だったら良かったのにって思ってくれたのかな?
そうだったらとても嬉しい。
「でもね、井長選手は準々決勝で怪我をしてしまったの。それが原因かは知らないけど、日本はその後二連敗で、残念ながら四位。もしあの怪我がなかったらって、どうしても思っちゃうのよね。そしたら日本はメダルを取れていたかもしれないのよ? メキシコオリンピック以来の」
いやいや、キャプテン。
その時のなでしこは銀メダルだったんじゃないですか?
確か、ワールドカップ優勝直後のオリンピックでは、メダルを取ったと聞いたような気がするんですけど。
「つまりね、何が言いたいかというとね、桜。走れる選手は確実に武器なの。それを使わない手はないの。私たちはもう三年生で後が無いんだから……」
私の足が、先輩たちの運命を握るかもしれない?
それは光栄なことだけど、責任も重大だ。
トイレの影で私の心臓はドキドキと脈打ち始めた。
「みんなが納得してくれたら、メルを右サイドバックで使ってみたい。そしたら桜には左を守ってもらうことになると思うけど、いい?」
ええっ、私が桜先輩のポジションを奪う!?
まあ、私は右サイドバック以外はできそうもないから、レギュラーに抜擢されるってことは結局そうなるんだけど……。
すると桜先輩はクスクスと笑い始めた。
「いいよ、別に私は左サイドでも」
「ありがとう桜。桜だったら納得してくれると思ってた」
「あら、私は香月の提案に納得したわけじゃないよ。だって香月の本心は、別のところにあるんでしょ?」
「えっ?」
桜先輩の予想外の切り返しに、キャプテンが声を詰まらせる。
ていうか、キャプテンの本心って……何?
「好きになっちゃったんだよね、メルのことが」
「ちょ、ちょっと、何言ってんのよ、桜」
「分かるよ、香月のことだったらなんでも。ほら、顔が真っ赤だよ」
いきなり何言ってんの? 桜先輩。
思わずスマホを落としそうになったよ。
でも、それってどういうこと?
声だけ聞いているといろいろとヤバい。
想像が私の脳を破壊しそうなんですけど。
「メルがAチームで出た時の紅白戦、香月の目がキラキラしてた。すっごい活き活きしてたよ」
「い、いや、あ、あれは、メルがどこまで追いつけるかなって……」
「私にはそんな風に見えなかったなぁ。もうぞっこんって感じだったよ」
「いやいや、どんなにキツいパスを出しても追いついてくれるからさぁ……」
「それに私にはそんな瞳、見せてくれたことないじゃない」
「そ、そんなことないって。私は今だって桜のことが……」
ええっ!?
キャプテンと桜先輩って、そんな仲だったんだ……。
なんだか聞いちゃいけないような展開になっててどうしよう。
「ふふふ、冗談よ。私も香月のことが好き。でもあの時、メルに嫉妬しちゃった」
「ほら、桜にはちゃんと優しくパスしてあげてるじゃない。桜は桜、メルはメルよ」
「まあ、そういうことにしといてあげるわ」
キャプテンから私へのキラーパス。
それに桜先輩が嫉妬してたなんて、なんか複雑な気持ち。
でも、ちょっとだけ分かるような気もする。
だってあの時、キャプテンのパスに追いつくことで私の居場所ができたような気がしたから。上級生ばかりのAチームの中で、唯一の私の居場所が。
パスがきつければきついほど、その土台は強く頑丈になっていく。
また、受けてみたいなぁ、キャプテンからのキラーパス。
公式戦でそれができたら最高だろうなぁ……。
しかしそんな想いは、残念ながら叶うことは無くなってしまった――
〇 〇 〇
週が開けると、先生から衝撃的な発表があった。
「突然のことなんだが、香月がU-18に選抜されることになった」
ええっ、U-18!? キャプテンが!?
てことは、日本代表じゃん!!
「ということで、香月はしばらくの間、部活を離れる」
先生がその経緯を説明する。
今年はコスタリカとパナマでU-20のワールドカップが行われる予定だった。
が、世界的なウイルス災害のために中止となってしまう。
それならば次の大会、つまり二〇二二年のU-20ワールドカップに備えて、早めに準備を行おうとU-18日本代表が選抜されることになったという。
「そして早速なんだが、来週末にそのU-18と練習試合をすることになった」
U-18と練習試合!?
ということは……キャプテンと対戦するということ?
「香月が抜けたボランチの位置には桜、そして右サイドバックにメルを起用しようと思う」
ええええええええっ!!!
まさかのレギュラー昇格!?
週末のキャプテンと桜先輩の会話でちょっとは覚悟していたが、いきなり先生から発表があるとは思ってもいなかった。
急に掌に灯る柔らかい感触。見ると、隣の麻由がこっそり手を握ってくれている。
彼女は泣きそうな顔で小さくうなづいていた。
(ありがとう、麻由)
そんな想いを込めて、私は手をぎゅっと握り返した。
その日から私はレギュラー組に交じって練習を開始する。
チームの決めごと、ディフェンスラインの上げ下げなど、私は先輩方からみっちり叩き込まれた。
さすがに紅白戦とは違う。
練習試合とはいえ相手はU-18。同年代の日本代表なのだ。しかもその中にはうちのチームを知り尽くしたキャプテンがいる。完膚なきまでにやられる可能性も否定できない。
そんなのは嫌だ。
せっかくのレギュラー昇格の初戦なのに、敵の背中ばかり追いかける試合なんてやりたくない。
金曜日には練習試合用のユニフォームが渡される。
――背番号2。
思わず手が震えてしまう。
小学生の頃から憧れだった遠賀選手の代名詞。
そして今まで桜先輩がつけていた番号。
その背番号2を黄葉戸でつけられる日が、こんなに早く来るとは思わなかった。
ちなみに桜先輩は、今までキャプテンがつけていた10番を背負うことになった。
そして土曜日。
私は麻由と一緒に準備をして、先生が運転するマイクロバスに乗り込む。
レギュラーに昇格したとはいえ一年生は一年生。その辺り、部活は特別扱いしてくれない。
「頑張ってね、メル」
バスの中では麻由が励ましてくれた。
「うん。今日は走って走って走りまくるよ」
私に気負いはない。
だって走るだけしか能が無いんだから。
ミスしたらどうしようなんて心配に値する技量は、私は持ち合わせていなかった。
市民グランドに着くと、麻由と一緒に用具を運ぶ。
ゴールを運んだり、フラッグを立てたり準備をしていると、だんだんと緊張が増してきた。
先輩方が自転車でやって来る。
そしてU-18メンバーを乗せたバスが到着した。
いよいよだ。
今日は絶対、やってやる!
ジャージを脱ぐ。憧れだった黄葉戸のユニフォームが露になった。しかも背番号は2。
ストッキングに脛当てを入れ、スパイクの紐を結びなおす。
そしてレギュラー組でウォーミングアップ。足の状態は万全だ。
グラウンドの反対側ではU-18メンバーがウォーミングアップを開始した。
中でもキャプテンは目立つ。だって、U-18の中でも一番背が高かったから。
それよりも驚いたのは、キャプテンが付けている背番号。
「4!?」
それって、ボランチの番号じゃないよね?
ディフェンス? てことは、ま、まさかのセンターバック!?
まあ、背が一番高ければその可能性もある。
私の脳裏に、先日の紅白戦の光景が蘇ってきた。
センタリングを上げても上げても、ことごとく跳ね返されてしまう悪夢のような光景が。
『あーあ、キャプテンが味方だったらなぁ……』
何度そう思ったことだろう。
いや、違う。
今からそんなに弱気になってどうする、メル!
『あーあ、メルが味方だったらなぁ……』
キャプテンにそう思わせなくちゃいけないんだ、今日の試合は!
――芽瑠奈よ、諦めるな!
いつのまにか私は、自分を鼓舞させる言葉をつぶやいていた。
〇 〇 〇
ピーっと笛が鳴って練習試合が始まった。
キャプテンは予想通りセンターバックだった。
それよりも驚いたのが審判だ。さすがは日本代表。練習試合といえどもちゃんと資格を持った方が審判として派遣されている。笛の音色はもちろん、ラインでの旗の上げ方も全く違って見える。
それにしても相手はみんな上手い。
足に吸いつくようなトラップに加えてボールも保持でき、パスや判断のスピードも速い。そりゃそうだ、日本代表なんだもん。
プレスに行くとかわされる。かといって、積極的にプレスしないとボールは奪えない。チームの体力はどんどんと奪われていく。
しかしその事が逆に、私から、いやチームから迷いを消した。
数少ないチャンスを、すべて右サイドへ縦ポンしてくれたのだ。
――味方がボールを奪ったらとにかく走る。
私ができることは、これだけだった。
何度か裏に抜けることができた私は、ゴール前にセンタリングを上げる。
が、それはことごとくキャプテンに弾き返されてしまった。
(悪い予感が的中しちゃったなぁ……)
まあ、これは始めから予想されたこと。
めげずにこの攻撃を続けていくことが重要なんだ。
その甲斐あって、相手のラインがじわりじわりと下がってきた。さすがに何度もセンタリングを上げられては、警戒せざるを得ないのだろう。
(ふふふふ、ここまでは作戦通りかな)
守りが間延びしてプレスが弱まれば、相手が日本代表といえども黄葉戸はボールを持てる。桜先輩も、スプリントを開始する私にスルーパスを試みてくれた。しかし――
「優しすぎるよ、桜先輩……」
私に配慮してくれているのか、コースもパススピードも甘い。だから楽々と追いつけてしまうのだ。つまり、敵もすぐに追いついてしまうということ。
「あーあ、キャプテンからのパスなら、ディフェンスラインの裏に完璧に抜け出せるのに……」
意地悪だと思っていたパス。でもそれは、私の能力を最大限に活かしてくれるパスだった。
桜先輩のことを悪く言いたくはないが、私のことを本当に理解してくれていたのはキャプテンだったのかもしれない。
でも、今そんなことを言ってもしょうがない。今のキャプテンは敵なんだし、パスを供給してくれるのは桜先輩なんだから。
前半も終盤に差し掛かると、相手も疲れてきてだんだんと自由に走れるようになってきた。
調子に乗った私は、ドリブルで中に切れ込んでみる。センタリングを上げても弾き返されるのが目に見えているからだ。
すると長身の選手が鬼気迫る形相でこちらに向かってくる。目が合う。キャプテンだ。
『私を突破できるもんならやってみなさいよ』
ニヤリと口角を上げるキャプテンは、そう言っているような気がした。
(なら、やってやろうじゃないの)
挑発に乗ったことを、後で深く後悔することも知らずに。
キャプテンと対峙して最初に思い出したのが、昔見た芦屋INCAの試合。
あの時、遠賀選手は華麗な足技で相手のセンターバックをかわしていた。あのシーンは今でも鮮明に覚えている。
ならば、
(まずはセンタリングと見せかけて……)
右足を振り上げ、蹴るフリをしながらボールの前に着地させ、すぐに左足でボールを動かす。
が、キャプテンはそんなフェイントに引っかかることはない。
(でも、これを何度か繰り返せば、絶対に剥がせるはず)
長身のキャプテンは足も長い。
どんなにボールを動かしても、するするとキャプテンの足が伸びてくるのだ。
(何とかして、この足をかわせないものか……)
少し無理な体勢でボールをまたぎ、前方に右足を着地させようとした時――キャプテンの左足が私の右足首を狙って伸びて来た。
それは数か月前に重度の捻挫を負った箇所。
無意識のうちに右足を引っ込める。が、そのために私は体勢を崩し、前につんのめる形で倒れこんでしまう。と同時に、ピピーッと笛の音が鳴った。
「えっ、もしかして……!?」
慌てて上半身を起こすと、私が倒れていたのはペナルティエリアに入ったところだった。
ということは――PK獲得!?
黄色のカードを手にしながら、主審が私とキャプテンのもとへ駆けて来る。
まさか、うちのチームが先制点のチャンス!? 日本代表から!?
やったよ、麻由。キャプテンの壁を――突破することはできなかったけど、崩すことができた。
さぞかしキャプテンは青ざめていることだろう。やっちまったという感じで。
まあ、実際にはキャプテンの足は私の右足には当たってないから、ファールじゃないって擁護してあげてもいいんだけど……と人工芝に手をついたままキャプテンの表情を見上げると、「バカめ」と言わんばかりの不敵な笑みを浮かべて私を見下ろしている。
(何、その余裕?)
不可解に思いながら立ち上がると、さらに不可解な出来事が私を襲う。
主審は私に向って、イエローカードを提示したのだ。
「ええっ、私!?」
何が起きているの分からなかった。
審判がカードの裏に何かを書いている。きっと私の背番号なんだろう。
(なんで、なんで? ファールをもらうのは、先に足を出してきたキャプテンの方じゃないの!?)
するとキャプテンが吐き捨てるようにつぶやいた。
「シミュレーションよ。わざとPKを得ようとする行為。メルはもっとサッカーのこと勉強した方がいいわ」
何だって?
私がシミュレーション!?
いやいやそれは、キャプテンが足首を狙ってきたら避けただけで、私は決してわざと転んだわけじゃない!
呆然とする私に先生から怒声が飛ぶ。
「何やってんだメル。すぐに再開するぞ、戻れ、戻れ!」
整理できない心を引きずりながら慌てて自陣に戻る。
なんで、私が?
どうしてイエローカード!?
納得できない。誰かにちゃんと説明してほしい。
そんなプレーに集中できない気持ちが動きを鈍らせてしまったのだろう。そこをキャプテンに狙われてしまった。
センターバックからのロングフィード。
私の裏のスペースに落ちたボールに、オフサイドぎりぎりのタイミングで相手のフォワードが抜け出した。
「やられた! これはかなりヤバい」
私は相手の背中を追いかける。
しかし先ほどのイエローカードは、私の雑念をどんどんと増幅させていく。
――危険なプレーで止めたら一発レッド。
――ファールで止めてもイエロー二枚で退場。
しかも敵は速い。さすがは日本代表のフォワード。この位置からでは追いつけそうもない。
完全に詰んだ。もう私にできることはない。
そう思った瞬間、桜先輩から怒声が飛んできた。
「芽瑠奈、諦めるな!」
今までの私なら、NGワードに鼓舞して能力以上の力を発揮していただろう。
でもダメなんだ。
鼓舞すべき心が死んでいた。
溢れてきた涙で、追いかける敵の背中が滲んでくる。
そんなこと言われても、もうダメなんですよ。
私にできることは、もう、何もない……。
目の前のフォワードは、手を後ろに降ってシュート体勢に入る。
嗚呼、この腕を掴んで後ろに引き倒してやりたい、と思う間もなく、左足のシュートが炸裂する。
「お願い! 弾いて!! キーパー!!!」
その願いはむなしく、ボールは味方ゴールに吸い込まれていった。
前半終了間際。
私たちはU-18に一点を先制されてしまった。
〇 〇 〇
前半が終了してベンチに戻ると、バシっと桜先輩に頬を引っぱたかれる。
「どうしてメルのことを叩いたかわかる!?」
泣き出しそうな目で先輩を見ると、先輩も顔をくしゃくしゃにしていた。
「私が……、イエローカードをもらってしまった……からです」
たどたどしく私が答えると、「違う」と先輩は否定する。
「一生懸命のプレーを誰も責めたりしない。問題はカードをもらった後。なんで死ぬ気で走らなかったの!?」
「だって……」
私は言葉を濁らせた。
頭の中では言い訳を一生懸命用意し始めている。
――イエローカードをもう一枚もらったら退場でチームに迷惑かけちゃうし、相手のフォワードもめちゃくちゃ速かったし……。
しかし桜先輩の言葉は、そんな雑念をすべて吹き飛ばしてくれた。
「メルは憧れだって言ってたよね。子供の頃に見た背番号2が」
先輩の視線が私を射貫く。
「メルは今、背番号2を着けてるの。子供の頃のあなたが、さっきの背番号2を見たらどう思う?」
はっとした。
たとえ無理でも、精一杯のプレーを貫いて欲しいと願っただろう。
子供の頃の私なら。
私の中の背番号2は、そういう存在だったから。
なんで私、諦めてしまったんだろう。
イエローカードなんて、くそくらえだ。
自分が最も嫌いなプレーを、よりによって憧れの背番号2を着けたその日にやってしまうとは……。
「ありがとうございます。私、目が覚めました」
だから私は先輩に進言する。
「後半はもっとキツいパスを下さい。私が追いつけそうもないめっちゃキツいやつを」
「わかったわ」
私たちの反撃が始まった瞬間だった。
後半は、開始から膠着状態が続く。
お互いのディフェンスは疲弊し、ラインも下がり気味だ。中盤は間延びしてしまい、決定機を作れないままボールの保持合戦で時間は消費されていく。
そして後半三十分。
一番きついこの時間に、桜先輩は攻撃のギアを一段上げる。
『いい、後半三十分を過ぎたらスルーパスを出すよ。メルは死ぬ気で走ってね』
ハーフタイムに先輩はみんなに提案した。
死ぬ気って、本当に死にそうだ。呼吸をするたびに鉄の味がする。
『スルーパスは絶対、三回は成功させてみせる。裏が取れれば香月が出てくる。メルは香月を引き付けてセンタリングを上げて。その三回のうちの一本を絶対決めよう!』
本当に無茶言ってくれるよ。
まあ、言い出しっぺは私なんだけど。
センタリングを三回成功って、スプリントはあと何回やればいいのだろう。
しかも裏を取った後にキャプテンを引き付けなくちゃいけない。
その上でセンタリングを上げるなんて、まさに無理ゲーじゃん。
でもやらなくちゃいけない。私には走ることしか能がないんだから。
まず一回目のスルーパス。
これはまだ甘い。サイドバックが対処できると判断したキャプテンはゴール前に構えたままだ。
センタリングを上げてみたものの、案の定、キャプテンにクリアされてしまった。
二回目のスルーパス。
これはキツいのが来た。私はディフェンスラインの裏に完全に抜け出した。
対応するキャプテンが私に迫ってくる。
(前半の借りを返してあげるから)
――顔を狙ってセンタリングを上げてみようか。
――手に当たったらPKをもらえるかも。
なことを考えていたら、あっという間に詰められてしまった。
(なんとかスタミナで剥がせないか……)
ボールを動かしたり止めたりして揺さぶりを掛ける。そしてキャプテンの動きが止まった瞬間、左足でゴールラインに向けて長めのボールを出し、ラインギリギリでセンタリングを上げる。
が、キャプテンにスライディングでカットされてしまった。
人工芝に座るキャプテンが、不敵な笑みを浮かべながら私を見上げる。
『今のあなたには無理よ』
まるでそう言っているようだった。
一体どうしたらいい?
早めのセンタリングもダメ、キャプテンを引きつけてもダメ。
手詰まりだ、今の私には無理なんだ。
その時の私は、よほど暗い顔をしていたのだろう。
近寄ってきた桜先輩が、「ナイス!」と労いの声を掛けてくれた。
「これでいいのよ。コーナーが取れたんだもん」
そう言ってもらえると、すごく心が救われる。
先ほどのプレーで、私たちはコーナーキックを獲得していた。最低限の仕事をしたという先輩の心遣いに「最高のパスでした」と私は親指を立てる。
するとすれ違いざまに、先輩がアドバイスをくれた。
「あとね、メル。まだ前半を引きずってるよ。ハーフタイムに言ったように、戦うべき相手をしっかりと見極めなさい」
コーナーキックの行方を見ながら私は考える。
きっとまだ、心の内がプレーに出てしまっているのだろう。
――今日、私が戦うべき相手。
それはずっとキャプテンだと思っていた。
私の足を認めてくれたキャプテン。
彼女の壁を越えてこそ、その恩に応える行為だと考えていた。
でもそれは違うんじゃないだろうか。
悪く言えば、それは私情だ。チームプレイではない。
ハーフタイムに桜先輩は言っていた。子供の頃の自分の見せられるプレーだったのかと。
そうか、そうなんだ。
子供の頃から憧れだった背番号2。
その背中を見つめる瞳に勇気を与えるプレーをしなくちゃいけないんだ。
それならば。
黄葉戸に入学してから今まで身につけたすべてを出そう。
子供の頃の自分に、頑張ったねと言ってもらえるように。
コーナーキックはキーパーにキャッチされてしまい、試合が再開する。
時間は後半四十分。
チャンスはあと一回くらいだろう。
敵はあからさまなパス回しで時間稼ぎを開始した。
黄葉戸は必死のチェイシングでボールを奪いに行く。みんなもう、体力は限界を突破しているはずだ。先輩方の頑張りには頭が下がる。
すると桜先輩がボールを奪取した。
私はラインに沿ってスプリントを開始する。チラリと振り向くと、先輩と目が合った。
『頼むよ、メル!』
渾身の桜先輩のスルーパス。この試合で一番キツいコースだった。
これに追いつけなければチャンスはない。
血の味がする肺に酸素を送り込み、私は必死に手を降った。
敵の左サイドバックの脇をすり抜け、裏のスペースでスルーパスに追いつく。ゴールを向くと、キャプテンが迫っていた。
――私の敵はキャプテンじゃない。
私は子供の頃に見た遠賀選手のプレーを思い出す。
あのプレーがしっかりとできればいいんだ。それ以上のことを望む必要はない。
手を振って右足を振り抜く――と見せかけ、地面に着いた右足でボールを止めて左足で動かす。そんなフェイントにも引っかかることなく、キャプテンは私の右足に意識を集中させていた。
それならば、もう一回。
私は再び手を振って右足を振り抜く――フリからボールの上に右足を置き、足裏を使って後方にボールを転がした。キャプテンの体勢とは完全に逆側の、誰もいないスペースへ。
「えっ!??」
困惑するキャプテンの表情。
まさか左足に持ち替えるとは思っていなかったのだろう。
そんなことはどうでもいい。
くるりと体を反転しながら、私はゴールとキーパーの位置を確認する。
キーパーは前に出ている。その後ろのスペースに、必死の形相で味方が走り込もうとしていた。
――こんなにきつい状態なのに、みんなが私を信じて走ってくれている。
だったらきちんと届けなくてはいけない。
このボールを、ゴール前のみんなのもとに。
左足でのキックの体勢に移行しながら私は思い出す。かつて桜先輩が掛けてくれた言葉を。
『スイートスポットに当たればちゃんと飛ぶでしょ?』
これから慣れない左足を使う。足のどこに当てるかが重要だ。
まず右足を踏み込み、しっかりとした土台を作る。
そして腰を回しながら、左足に意識を集中させた。
私の左足のスイートスポット。
麻由と一緒に何千回も練習して習得した場所。
だから必ずできる。
子供の頃の私に、成長した姿を見せてあげる。
キャプテンは慌ててスライディングをしてくる。
が、私には届かない。
左足の親指の付け根に正確に当てたボールは、ふわふわとゴール前に飛んでいった。
「さあ、頼んだよ。先輩方」
しかし全く予想外のことが起きた。
キーパーの頭の上を越えたボールは、そのままゴールに吸い込まれていったのだ。
それはまるでスローモーションを見ているかのように。
ゴール!
えっ、入っちゃったの?
左足のスイートスポットに当てたセンタリングが……?
呆然とする私に、突然誰かが横から抱きついてきた。
この香りは――桜先輩。
「やったね! メル!!」
まさかゴールに入るとは思わなかった。
まさに無欲の勝利。子供の頃の私だって驚きのプレーに違いない。
と言っても、勝ったわけじゃないんだけどね。
試合はそのまま、一対一の引き分けで終了した。
日本代表相手にしては上出来の結果だった。
「まさか、左足に持ち替えるとはね……」
試合終了後の挨拶のあと、すれ違いざまキャプテンが恨み節を漏らす。
この試合が原因でキャプテンがU-18メンバーから外されたら申し訳ない、と一瞬思ったが、そんな情けは無用ということもこの試合で私は学んだ。
すべては実力勝負。
私ももっともっと練習しなくちゃいけない。
後日、驚きの展開があった。
私は突然、U-15メンバーに選ばれたのだ。
インドで行われる予定だったU-17ワールドカップが中止となり、それならばと次の二〇二二年の大会に備えて早めに代表を招集することになったという。
ちなみにU-15の監督は、U-18と同じ監督だった。
「実はね、香月が監督に進言して実現したらしいよ。あの時のうちとの練習試合」
後になって桜先輩が教えてくれた。
まさか私の足が監督の目に止まることを狙って、キャプテンが尽力してくれたとか?
そんなことは分からない。
もしそうだとしたら、プレーで恩返しすればいい。
キャプテンからのキラーパスに追いつくことで。
そしてキャプテンへのセンタリングという形で。
――その時、なでしこジャパンの背番号2を背負っていますように。
私の夢は動き出したばかりだ。
ライトノベル作法研究所 2020GW企画
テーマ:『ナンバー2』
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