秋の空室2015年11月07日 08時48分28秒

 紅葉が青空を映えさせるのか、それとも青空が紅葉を映えさせるのか。
 車窓の景色に魅せられた俺は、路肩に車を停めて夢中でシャッターを切る。
 ――林道の両側に広がる素晴らしき紅葉。
 それをさらに鮮やかに見せてくれているのは、木々の間から見える青空だった。
「もっと、空が見える場所はないものか?」
 ふと山の方を見ると、登山道らしき山道が林の中へ続いていた。足を踏み入れるとカサカサと落ち葉の音がする。しばらく進むと、わずかに山の稜線が見えてきた。
「もう少し、あと少し……」
 さらに十分くらい歩いただろうか。紅葉に染まる尾根が一望できる開けた場所に出る。谷の紅葉と赤く染まった稜線、そして青空の三者が生み出すハーモニーに、俺は息を飲んだ。
 しかし喜びもつかの間、写真撮影に夢中になっているうちにあれよあれよとガスが立ち込め、たちまち空は厚くて暗い雲に覆われてしまった。ゴロゴロと遠くで雷の音がする。
「ヤバい、これは一雨来るぞ」
 俺が引き返そうとした時はすでに手遅れ。ザザザといきなり叩きつけるような豪雨に襲われ、俺は近くにあったモミジの大木に身を寄せた。
「なんだよ、女心となんとかって言うけど、まさかその通りになるとは」
 一人悪態をついても天候は回復することはない。俺は小一時間ほど、大木の下で雨宿りをすることになった。

 雨は一向に止む気配は無い。それどころか雨足はだんだんと強くなる。辺りもだんだんと暗くなってきた。
「こんなことになるなら、びしゃ濡れになっても降り始めの時に車の所まで戻るんだった……」
 後悔先に立たず。
 せっかく雨宿りを始めてしまったのだから雨が止むまで待とうとその場に留まり続けた俺が本当の後悔をするのは、さらに三十分が経った時だった。ガラガラと聞いたことのない轟音が大地を揺らす。山の方を見ると、バキバキと次々と木がなぎ倒されていた。
「ヤバい、土砂崩れだ!」
 早く逃げないとここも危ない。
 俺は雨の中、登山道を車に向かって走り出した。が、すでに時は遅し。くるぶしに冷たいものを感じた瞬間、俺は大量の水に体をさらわれたのだ。
 思わず近くの木にしがみつく。
 しかし土砂崩れに伴う鉄砲水は、その木もろとも俺を押し流した。俺は必死に木に掴まりながらも意識を失った――

 気が付くと、俺は流された木にしがみついたままゴツゴツした川原に横たわっていた。
 どうやら命は助かったようだ。幸い大きな怪我もなく、足や背中に軽い打撲を負っただけで済んだのは奇跡に近い。
「しかし一体、ここはどこだろう?」
 辺りはすでに真っ暗。ザアザアと流れる川のほとりであることは分かるが、道も灯りも何もない。ポケットからスマホを出すと、水没したためか全く反応しなかった。
「困ったなあ……」
 俺は途方に暮れる。空を見上げると木々の間から星が見えた。どうやら天候はすでに回復しているようだ。
 こうなったら川に沿って下るしか方法は無いだろう。まだ水流が多くて不安だが、人里に出るにはこれが確実だ。
 だんだんと暗闇に目が慣れてきた俺は、川に沿うようにして藪こぎを始めた。

「あっ、灯りだっ!」
 一時間も奮闘しただろうか。手足を傷だらけにしながら、やっとのことで俺は人家の灯りを見つけた。
「しかも温泉!」
 目の前に現れたのは、川に面した温泉宿の露天風呂だった。
「助かったぁ……」
 そのまま露天風呂に入りたい気持ちを抑え、俺は温泉宿の玄関に向かう。そこには『秋山の湯』という看板が掲げられていた。
「すいません。お願いします、どうか泊めて下さい!」
 玄関を開けて俺が必死に叫ぶと、人が良さそうな白髪のおじいさんが出て来た。おじいさんは申し訳なさそうに俺に向かって頭を下げる。
「ごめんなさい、今夜はもう泊まれません」
 もう泊まれないって夜遅いから? それとも満室ってこと? 
 しかし満室というには宿には人が居る感じは無いし、さっきの露天風呂も誰も入っていなかった。念のため俺はおじいさんに訊いてみる。
「満室ってことですか?」
「いえ、そうではないんです。今夜はどなたも泊まれないんです」
 誰も泊まれないって?
 もしそうなら宿の電気は消えてるはずじゃないか。でも建物には煌々と灯りが点けられているし、露天風呂だってきちんとお湯が張ってあった。
 ということは……、もしかしてVIPがお忍びで来ているとか? それだったら邪魔はしないから、せめて宿泊だけでもさせてほしい。
「そこをなんとか泊めてほしいんです。山で鉄砲水に遭って、びしゃびしゃになって途方に暮れているんです」
 俺がそう言うと、おじいさんの眉がピクリと動く。
「鉄砲水……ですか?」
「はい、そうです」
 俺がそう答えると、おじいさんの態度が豹変した。突然俺に対して物腰が柔らかくなったのだ。
「それは失礼いたしました。どうぞ、こちらに」
「ありがとうございます!」
 災害に遭った人を追い返すようなことは、さすがに非人道的と思ったのだろう。
 俺はほっとしながらびしょ濡れになった靴と靴下を脱ぎ、スリッパを履いておじいさんの後について廊下を歩く。案内された部屋は、八畳ほどの古風な和室だった。
「お疲れでしょう。どうぞお風呂に入って下さい。浴衣はここにあります」
 ああ、早くお風呂に入りたい!
 おじいさんが部屋から退出すると、俺は浴衣に着替えて露天風呂に駆け込んだ。

「ああ、いい湯だった」
 地獄で仏に会うとは、こんなことを言うのだろう。
 すっかり生き返った俺が部屋に戻ると、温かい食事が並べられていた。
「こんな老いぼれが作る料理で、大変申し訳ありませんが……」
 いやいや、これは本当に有り難い。
 ご飯に味噌汁、そして焼き魚に漬物。メニューはシンプルだったが、腹ペコだった俺にとっては豪華なディナーだ。夢中で箸を進めながらも、先ほどのおじいさんの言葉が心に引っかかる。
 ――こんな老いぼれが作る料理で。
 温泉宿だったら、板前さんとかが住み込みで働いているのではないのだろうか? VIPがお忍びで来ているのなら、料理は重要なポイントで板前さんは欠かせないはずだ。
 ということは、本当に誰も泊めていない……とか?
 気になった俺は、お腹が一杯になって眠くなった目をこすりながらも、御膳を下げに来たおじいさんに訊いてみる。
「なんで今日は、誰も宿泊できないんですか?」
 こんなに紅葉が綺麗な秋の休日なのに、空室にしている理由が分からない。露天風呂も素敵で快適だったし、開けていれば満室になるほどお客が来るに違いない。
 するとおじいさんは布団を敷きながら、おもむろに語り始めた。
「ちょうど五年前の今日だったんです。忘れもしない平成二十二年、十月三十一日のことでした」
 平成二十二年? 五年前だって!?
「ここの上流で土砂崩れが発生して、何人もの方が亡くなられたのは」
 ま、まさかそんなことって……。
 おじいさんの話は驚きで、おまけにどうしようもないほど急激な眠気に襲われていた俺は正常な判断ができなくなった。
「あれから毎年、この日は私一人で宿を開けているんです」
 そうか、そういうことだったのか……。
 俺はようやく真相に気付く。おじいさんの言う五年前の今日という日に何が起きたのか。
 俺は朦朧とする頭で、親切にしてくれたおじいさんにお礼を述べる。
「今日は本当に、本当にありがとうございました……」
 ここはあの世と現世が交差する場所。
 宿の主人のおじいさんは、俺のために精一杯のおもてなしをしてくれた。
 俺は倒れるように布団に横たわり、おじいさんに心から感謝しながら目を閉じた――

 目を覚ますとそこは川原だった。
 温泉宿の土台らしきコンクリートの上に、俺は横たわっていた。
 ――秋山の湯。
 それは確か、五年前の土砂崩れの際に流された温泉宿の名前だ。宿の主人をはじめとして宿泊客や従業員も犠牲になったとニュースで見たことがある。そのうちの何人かはまだ見つかっていないという話だった。
「宿の主人のおじいさん、今も犠牲者を少なくしようと頑張ってるんだな……」
 誰も泊めていなかったのは、そういうことだったのだ。
 秋のあの日の空室。その理由に俺は深く胸を打たれる。
 ――ありがとう、おじいさん。
 心の中でおじいさんの冥福を祈ると、俺は自分の車を目指して歩き始めた。



共幻文庫 短編小説コンテスト 第7回「秋の空」投稿作品

序曲2015年11月07日 17時37分05秒

 ボクは独りぶら下がっていた。渋じいの家の渋柿の木に。他のみんなは先に落ちちゃった。庭が七割、道路が三割かな。道路に落ちた仲間も回収するケチんぼだから渋じい。渋じいは仲間を集めて柿酒を作ってる。早くボクもその中に入りたいなあ。干し柿は絶対いやだ。紐で縛られて寒空に晒されるなんて虐待だよ……。
 渋じいは柿の木を見上げていた。「もう、最後の一個になってしまったか」と。そういえばさっき、孫娘の旦那からもうすぐ産まれそうだと連絡があった。最後の一個は記念の干し柿にしてみるか。道路に落ちそうなのが心配だが……。
 少女は病床から窓の外を眺めていた。向かいの家の大きな柿の木にポツリと一つ残った柿の実。「今日も元気ね、落ちない君」。私、勝手にそう呼んでる。でも、もしかしたら、あの実が落ちたら私の命も……。
 二郎はムシャクシャしていた。今日の野球の試合は完投できそうだったのに、九回裏にライトの一郎と交代させられてしまった。「俺ってそんなに頼りないのかな」。見上げる柿の木が潤んで見える。あの一つ残った実を思いっきり投げてみたら、少しは憂さを晴らせそうなのに……。
 その時、風が吹いた。ボクの体はふっと宙に浮いて――



500文字の心臓 第143回「序曲」投稿作品