うめえよ2015年10月05日 21時15分37秒

『この先、渋滞が発生しています』
「じゃあ、抜け道検索頼む」
『わかりました』
 先程買ったカーナビを取り付けてもらい、早速ドライブに出掛けてみる。加速度センサーや人工知能が付いた最新型だ。
『次の信号を右に曲がって下さい。その先しばらく道なりです』
 俺はナビを試すため、わざと信号を左に曲がってみた。
『んん、もう。右だって言ってるのに』
 おっと、店員さんに勧められるままツンデレを基本モードにしてたんだっけ。面倒臭いからモードを変えてみるか。
「アゲアゲモードに変更!」
『あいよ、再検索するぜ旦那』
 威勢のよい男性の太い声が車内に響く。
『狭めの市街地と、気持ちの良い広域農道、どっちがイイ?』
「もちろん農道で」
『じゃあ、次の信号右な』
 やっぱりナビはこうでなきゃ。
 気分が良くなった俺は、小刻みに繰り返すカーブで軽快なハンドル捌きを披露する。
『すげえな、旦那』
 ほお、さすがは新型。加速度計測も正確らしい。
「そうだろ?」
『運転うめ……』
 その時だった。ガタンと段差による衝撃でフリーズしてしまったのは。
 なんだよ、いいところだったのに。
 そしてリセットされたナビが続けたのは――
『意外と上手いじゃない』
 ツンデレも悪くないか。



500文字の心臓 第142回「うめえよ」投稿作品

そつ・わざ2015年10月15日 07時48分22秒

「ようこそ、結婚相談所、『卒業(そつわざ)』へ」
 古びたビルの二階にあるドアを開けると、明るい女性の声が小さな事務所に響く。
 ネットで評判になっている結婚相談所。小さいけど、アフターケアが充実しているという噂だ。
「そつわざ? ここの名前って、『卒業』と書いて『そつわざ』って読むんですか?」
「そうなんです。ウチは『卒』を極める相談所ですから。申し遅れました、私が所長の刈谷茜です。どうぞ、こちらへ」
 元気の良い小柄な女性は、私を個室に案内した。
 というか、所長直々に対応してもらえるなんてラッキー。これは幸先良いかも、と私は個室のソファーに腰掛けた。

「申し訳ありませんが、先にウチの相談所の説明をさせて下さいね」
 私が小さく頷くと、茜所長は紙とマジックを持って向かいのソファーに腰掛ける。
「先ほども申しましたように、ウチは『卒』を極めるために設立した相談所なんです」
 そう言いながら、茜所長はマジックのキャップを取り外す。
「まず、『卒』という字を思い浮かべて下さい」
「卒、卒、卒……」
 私は頭の中に『卒』の字を描く。
「実はですね、この文字の土台はやじろべえでできているんです」
 えっ、やじろべえ?
 驚く私の前で、茜所長は紙に大きく『十』の字を書く。
 そうか、『卒』の字の下の部分は、確かに『十』の字になっている。それを『やじろべえ』と表するなんて、この所長、なかなか面白い。
「そして、やじろべえの上の右と左に『人』が一人ずつ乗っています」
 へえ、確かにやじろべえの上に人が二人乗ってる。
 私は感心しながら、茜所長の前の紙に『卒』の字が組み立てられていく過程を眺めていた。
「最後に『亠(やね)』を乗せて、一つの家の中に入ります。これが私どもが考える結婚なんです」
 そして茜所長は、完成した『卒』の字が私の方を向くように、紙をクルリと回した。

「さあ、この字をよく見て下さい。どんな感じがしますか?」
 どんな感じって……?
 いきなり言われてもすぐには答えられないけど、さっきの『やじろべえ』って説明は興味深かったかも。
「土台がやじろべえっていうのは、面白いですね」
 すると、茜所長は瞳を輝かせる。
「そうなんですよ、そこが『卒業(そつわざ)』の原点なんです」
 そして茜所長は再びマジックのキャップを外す。
「例えばですね、片方の『人』を大きくしてみますね」
 茜所長は、右側の『人』の字をマジックでなぞって太字にする。
「どうです? どんな感じがしますか?」
 右側の『人』だけが太く大きくなり、『卒』の字がすごくアンバランスになってしまった。
「なんだか、右側に倒れちゃいそうですね」
「そうです、そこです!」
 興奮気味に指摘する茜所長。どうやらこれが、彼女の言わんとすることらしい。
「どちらかの『人』が大きくなってしまったら、結婚生活はバランスが崩れてしまいます。『卒』という字を保つためには、微妙なバランスが必要なんです。それを維持し続けることを、私どもは『卒業(そつわざ)』と呼んでおります」
 へえ、だからこの相談所はアフターケアが良いって評判なんだ。
 それに、やじろべえの上に『人』が二人なんて、私にぴったりの相談所だよ。
 私はもっと、この相談所のシステムについて知りたくなった。

「所長にちょっとお聞きしたいのですが、その『卒業(そつわざ)』ではどうやって二人のバランスを維持しているのですか?」
 私は単刀直入に茜所長に訊いてみる。
 普通の結婚相談所は、二人を引き合わせるところで終了だ。良心的なところでも、面倒を見てくれるのは結婚式までだと思う。それなのに、この相談所では二人のバランスを維持し続けることがモットーらしい。だから、そこまでケアしてくれる方法が知りたかった。もしかしたら、ものすごく値段が高いのかもしれない。
「そうですよね、それって知りたいですよね?」
 茜所長はソファーに座り直し、改まって私を見る。
「ウチでは少し特殊な方法を用いています。そして、この方法についてご了承いただけるお客さんのみ、お相手をご紹介しているのです。この点は事前にご了承いただきたいのですが、よろしいですか?」
 いよいよ核心に迫ってきたぞ。
 私は小さく頷くと、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「実はですね、紹介したお二人のその後の生活について、小説に書かせていただいているんです」
 小説?
 不思議に思いながらも、私は茜所長の話に耳を傾ける。
「もちろん実名や住所、職業等は明かしません。偽名を用いて、無料の小説の投稿サイトにお二人の間の出来事についてヒューマンドラマとして書かせていただいております」
 無料の小説の投稿サイトに?
 それでどうやって二人のバランスが保てるのだろう?
「そんなことをして効果があるのですか?」
「小説と言って皆さんバカにしますが、これが絶大な効果があるんです。無料サイトですと気楽にコメントを寄せてくれる方が沢山おりまして、『〇〇の方が威張ってる』とか『△△はもっと主張すべきだ』というコメントが寄せられて、二人の良いアドバイスになるんです」
 へえ~。確かに読者からの忌憚のない意見なら、核心を突くこともあるかもしれない。
「それに、自分達の行動を読んで、お二人が冷静になるという効果もあります」
 きっとこの効果も大きいだろう。
「そして、これはウチの最大の特徴なのですが、もし紹介したお二人が上手くいかなかった場合、紹介料をお返ししてるんです。だってその時は、小説を有料化すれば元が取れますから。そうならないようにって、頑張っていらっしゃるお客さんもいるんですよ」
 これはある意味すごいシステムかもしれない。
 二人の関係がめちゃめちゃになればなるほど、売上は大きくなるのだろう。
「ご紹介後のお二人の様子を小説に書かせていただけることが前提になっていますので、紹介料はお手頃な値段になっています」
 具体的に訊いてみると、他の結婚紹介所とあまり変わらない。
 それでアフターケアが充実するのなら、頼んでみてもいいかもしれない。別に私は小説に書かれても構わないし。
 それよりも、『人』と『人』とのバランスを重視するというポリシーが気に入った。
「じゃあ、早速入会したいと思います」
「ありがとうございます。ちなみにお聞きしますが、どんな御方がお好みでしょうか?」
 私は思い切って、自分に関する特殊事情を打ち明ける。
「あのう……、実は私、男の人が苦手で、女の人を紹介してほしいんです。それって……、大丈夫ですか?」
 すると茜所長は自信満々に言った。
「ええ、問題ありませんよ。私、百合描写は得意ですから……」



共幻文庫 短編小説コンテスト 第5回「卒業」投稿作品

彼女はアトランティスの夢を見る2015年10月28日 07時45分42秒


 母は、いつも海を見ていた。
 海辺に建つマンションの自宅のベランダで、夕焼けの海を眺め続ける小柄な背中。
 そんなシルエットが、俺の記憶の中の母だった。
 母は海を前にして、どんなことを考えていたのだろう。
 人生の苦難? 平凡な日常を過ごす苦痛? 父親が居ない俺のことを育てる苦労?
 母が失踪した時、俺の頭の中を占領したのはそんなネガティブな事ばかりだった。
 しかし俺は知る。
 海を眺めながら母が思い浮かべていたのは、あの海を再び訪れたいという願いだけだったことを。
 それを教えてくれたのは一人の女子高生だった。
 市野瀬美月(いちのせ みづき)。
 十六の春、俺、双場海人(ふたば かいと)は彼女に出会った。

 ◇

 高校に入学したとたん母親が失踪した時は、俺の人生どうなっちゃうんだろうと思ったが、マンションのローンは完済されていたし、銀行にも十分過ぎるほどの貯金があったので、母親探しは警察に任せて俺はそのまま高校に通い続けることにした。
 初めての一人暮らし。
 最初は慣れないことも多かった。
 洗濯、掃除、ゴミ出し、時には炊事。貯金も無限じゃないからバイトもしなくちゃいけない。
 当然、部活なんてやってる余裕はなかった。
 結局、母の行方は分からないまま、あっという間に一年が過ぎた。

 高校二年生になると、生活にも精神的にも余裕が出てくる。ふと立ち止まって新しいクラスを見渡すと、俺は完全に浮いていることに気が付いた。
 そりゃそうだ。友達付き合いなんて、誰ともしていなかったから。
 それに俺には、他のクラスメートとは大きな違いがあった。
 ひときわ目立つこの容姿だ。俺の顔つきは完全に日本人離れしていた。
 ――彫りが深く高い鼻、そして青い瞳。
『それはね、海人のお父さんが外国人だからなの』
 子供の頃、母はいつもそう教えてくれた。
 だから、父親は外国に住んでいて、いつか俺に会いに来てくれるものと信じていた。
 しかし中学生になって、思いがけないところで真相を知る。叔母の家で、両親の結婚式の写真を偶然見つけてしまったのだ。その写真の中の母の隣で微笑む男性の顔は、明らかに日本人だった。
「えっ!?」
 俺は自分の目を疑う。
「父親は外国人だったんじゃ……?」
 そう信じて育ってきた。まさか、母が結婚した人が日本人だとは思わなかった。
「それって、もしかして……」
 子供がどうやって生まれてくるのか、もう分かっている年頃だ。俺は、母親と戸籍上の父との間にできた子供ではなかったのだ。
「なんだよ。だから家には結婚式の写真が一枚も無いのか」
 ショックだった。
 何もかもが信じられなくなった。
 その日から俺は、母に辛く当たるようになっていた。
「どうして俺は、こんな顔してんだよっ!? 俺の父親はどこの誰なんだよ!?」
「…………」
 母は何も語ってくれなかった。
 ――日本人の夫がいるのに母は外国人とやっちまった。
 それが真相であることは誰の目にも明らかだ。だが俺としては、たとえ倫理的に間違っていたとしても、母がそういう選択をした理由を知りたかった。
 だってそれは俺の存在理由でもあるわけだから。
「そのうち教えてあげるわ……」
 少し大人になった俺を、母は冷めた目で見た。
 幼少の頃、俺をずっと見守ってくれた優しい眼差しは失われてしまったのだ。俺がつまらないものを見てしまったばかりに。
 そして海をずっと見つめるようになった母を、俺はだんだんと遠ざけるようになった。

 中学校を卒業した直後の春休みに、俺は叔母の家に遊びに行く。そして思い切って真相について訊いてみた。
「叔母さん、ちょっと教えてほしいことがあるんだけど……」
 真剣な眼差しの俺に、叔母はわずかに身構えた。
 叔母はその時、察したのだろう。俺が質問しようとしている内容を。
「俺は本当の事を知りたいんです。自分の父親について」
 単刀直入に切り出した俺に、叔母はふっと小さくため息をつく。
 そして俺から視線を外すと、考え込むように少し目を伏せた。
「そうようね、海人くんも、もうそういう年頃だもんね……」
 決心したように再び俺を向く叔母。
「ゴメンね、今まで黙っていて。いつかは話さなくちゃって思っていたの」
 きっとこれから語られることが真実なのだろう。
 俺もゴクリと唾を飲み込んだ。
「姉の人生を狂わせたのは宗教みたいなもの。本人は違うって言うんだけど、私達から見たら宗教としか思えないから……」
 叔母の重い口から出てきたのはそんな真相だった。
「姉はね、アトランティスの会という団体に入ってたの」
「アトランティス?」
 俺は眉をひそめる。
「ほら、海人くんも歴史の授業で習ったでしょ? 十二世紀の大西洋にアトランティスという大陸国家があったということを。その再興を望む人達の会らしいのよ」
 そんなこと習ったっけ?
 謎の大陸アトランティスっていうのは聞いたことがあるが。
「なんでもね、アトランティス人は魔法が使えたらしいの。だから、その魔法の復活が会の裏の設立目的だって話もあるけど」
 魔法?
 そうだ、魔法だ。やっと思い出した。
 授業中に強烈な違和感を抱いたんだった。魔法なんて、漫画やアニメの世界の話だと思っていたから。なんでそんなこと歴史でやるんだって、先生の頭を疑ったんだよな。あれってアトランティスのことだったんだ……。
「アトランティスは今はもう無いし、魔法も失われてしまったんだけど、姉が言うには、アトランティス人の末裔はわずかに生き残ってるんだそうよ」
 アトランティス人がまだこの世の中にいるって? 大陸と共に、死に絶えたんじゃなかったのか?
 もし生き残りがいるとしたら、魔法が使えたりするんじゃないだろうか?
「じゃあ、母がそのアトランティス人だった……とか?」
「えっ?」
 一瞬、目をパチクリさせた叔母は、やがてケラケラと笑い始めた。
「そんなことないわよ。だって、もしそうなら、私もアトランティス人ってことになるでしょ?」
 そっか。そうだよな。
 母がアトランティス人なんだったら、その妹の叔母もアトランティス人でなくちゃおかしい。それならば、
「実は、叔母さんも魔法が使える……とか?」
「何言ってんのよ。だから違うって言ってるじゃない」
 笑うのを止めた叔母は、ゴホンと一つ咳払いをする。
「それでね、話を元に戻すけど、そのアトランティスの会に入り浸っていた姉は、そこで知り合った男性との結婚を決意した。いや、結婚させられることになった、という言うべきかもしれないわ。なぜなら、会が主催する大西洋クルーズで結婚式を挙げることになったんだから」
 ええっ、その結婚式って……。
「海人くんは聞いたことない? 集団結婚式って。ほら、宗教関係でよくやってるやつよ」
 なんかそれって、テレビで見たことがある。
 同じ会場に花婿と花嫁がずらっと揃って、一緒に結婚式を挙げるやつだっけ。その白黒模様がなんだか異様だったことを覚えている。
「もしかして、アトランティスの会で船を貸切、みたいな?」
「あははは、そんなことあるわけないじゃない。アトランティスの会って、意外と小さな団体らしいの。姉の時は、五組のカップルが一緒に式を挙げることになってたんだけど、親兄弟は同乗できないし、そもそも結婚する相手がよく分からなかったので両親は大反対したのよ」
 まあ、当然だ。
 娘をどこの馬の骨だか分からない人に嫁にやる親なんているわけがない。しかも、新興宗教の集団結婚となればなおさらだ。
「それで母は、そこで結婚式を挙げたんですか?」
「それがね、ちょっとここから複雑なの。結論から言うと、姉は船には乗ったの。あまりに強く両親が反対するものだから意地になっちゃって、『絶対、クルーズに行く』って反対を押し切っちゃったのよ」
 へえ、まるで駆け落ちみたいじゃないか。
 海ばかり見ている母に、そんな激しい一面があったとはとても思えなかった。
 それよりも、『船には乗った』という叔母の言い回しがすごく気になる。
「まさか、船に乗ったけど結婚はしなかった……とか?」
「ちょっと違うけど、結果的にはそうなった、って感じかな。実はね、クルーズ船の出航直前に姉の結婚相手が急に参加できなくなっちゃったのよ。普通ならそんな時、行くのを止めるよね? だって相手がいないんだもの。でもなぜだか姉は、一人で参加しちゃったの……」
 叔母はそこで話をやめ、窓の外に視線を移す。なんで一人で参加してしまったの? と問いただすかのように。
 確かに不可解だ。
 俺としてみれば、集団結婚式に参加すること自体が分からないんだけど、その上に結婚相手が参加しなくなったクルーズに一人で参加するなんて、完全に理解を超えている。
 そもそも、アトランティスの会で好きな人ができたから、母は結婚することにしたんじゃなかったのか?
「なんで母は、結婚相手が参加しないのに、船に乗ってしまったんですか?」
「それが、私達にもわからないのよ……」
 俺は念のため、叔母の表情を探ってみる。が、嘘を言っているような素振りはない。
 本当に叔母にもわからないのだろう。
 でも集団結婚式なんだから、相手がいなくちゃ参加しても意味が無いじゃないか。アトランティスの会の他のメンバーだって、きっとみんなカップルで参加しているわけだし。
 母の行動はまるで、クルーズに参加したくて集団結婚式を挙げることにしたような、そんな風に思えてきた。
「実はね、姉はハネムーンベイビーなの。偶然にもその時の旅行が大西洋クルーズだったんだけど、両親はそればかり気になって、『だから無理に参加したかったんじゃないか』って言うのよ。でも、そんなことってありえないよね?」
 叔母は俺の同意を求めるようにこちらを向く。
 俺も叔母と目を合わせたまま、ありえねぇと頷いた。
 クルーズに参加することが目的だったら、もしかしたらそういう理由もあるかもしれない。というか、俺の爺ちゃん婆ちゃんが新婚旅行で大西洋クルーズに乗って、その時に母を身篭ったなんて話、初めて聞いたぞ。もし母が自分の出生にこだわっていたのであれば、俺にも話して聞かせてくれたはずじゃないか。そうでなかったということは、やはり別の理由でクルーズに参加したに違いない。
「クルーズから帰って来た姉は、直後に結婚式を挙げたの。結婚を予定していた人とね。そして、十ヶ月後にあなたが生まれた。しかし、あなたの姿を見たその人は、すぐに姉との離婚を決意してしまった。その理由は……わかるよね?」
 生まれてきた子供が自分の子ではなかった。
 そりゃ、俺はこんな顔をしているんだもの。瞳を見れば、父親は日本人ではないとすぐにわかる。
 なんだか俺は、会ったこともない戸籍上の父親が可哀想になってきた。
「姉の人生はもうめちゃくちゃよ。いや、海人くんが悪いって言ってるんじゃないから気にしないでね。カンカンになった両親は、すぐに姉をアトランティスの会から足を洗わせたわ。そして姉は、女手一つであなたをここまで育てた。それは立派だと思う」
 優しかった母の面影が脳裏に浮かぶ。
 母は本当に大切に俺のことを育ててくれた。
 大きくなって、出生の秘密を知る日が来ることを恐れながら。
 残念ながらその時は来てしまった。
 叔母の家で真相を聞いた一ヶ月後、母は突然家から居なくなった。

   ◇

 意外なことに、新しいクラスで浮いているのは俺だけではなかった。
 市野瀬美月。
 二年生になって初めて同じクラスになった女子生徒も、クラスではある意味異質の存在だった。
 それは一見するだけでは分からない。
 市野瀬美月は長い黒髪と一重の切れ長な瞳が魅力的な美人で、クラス委員長にも選ばれている。他の生徒から人気があるように見えるから、クラス担任の目にも一人の優等生としか映っていないだろう。
 しかし俺には分かる。いや、友達がいない俺だからこそ分かる。
 市野瀬美月には真の友達がいなかった。
 その証拠に、休み時間や放課後に彼女に問いかけをする生徒はいても、一緒に何かをしようとする生徒は誰もいなかった。
「委員長、ほうきが一本壊れているので、先生に伝えてもらえますか?」
「おい、委員長。学級日誌の書き方はこんな風でいいのか?」
 こんな風に、沢山の生徒が市野瀬美月に話しかけてくる。丁寧な対応を求めてみんなが相談しているのかと思いきや、彼女は逆に高圧的に命令するのだ。
「ほうきの件は、あなたが発見したのだからあなたが連絡しなさい」
「高校二年生にもなって一行日誌とは情けない。少なくとも三行は書きなさい」
 俺だったら、そんな風に言われたらカチンと来るだろう。少なくともいい気はしない。
 しかし不思議なことに、クラスの中にはそう言われて言い返す生徒は一人もいなかった。
「はい、わかりました」
「わかったよ、ちゃんと書けばいいんだろ、書けば」
 やんちゃしてそうな男子生徒ですら、市野瀬美月の言いなりだった。
 さらに不思議なのは、そんな高圧的な対応にも関わらず相談に来るクラスメートが減らないことだった。
 ――彼女、確かに美人だが、なんか変だ。
 男子が女子に近づく場合、下心があることが多い。
 しかし、それが相談に来る理由であれば、もっと市野瀬美月に言いよる男子がいてもいいはずだ。誰かが彼女のことが好きという噂が広がったり、あからさまにデートに誘う奴も出てくるだろう。しかし彼女の場合、そういった兆候は全く見られないのだ。
 さらに納得がいかないのは女子の反応だ。中には市野瀬美月と特別な関係になりたい稀有な生徒もいるかもしれないが、女子全員が彼女に反論しないというのは不可解だ。
 ――これはきっと何か裏がある。
 俺の興味は、少しずつ市野瀬美月に傾き始めていた。

 放課後になると、市野瀬美月は不思議な行動をとった。
 毎日のように屋上に行っているのだ。
 最初はどこに行っているのか分からなかった。気がつくとすでに教室に居ない、という程度の認識だった。しかし市野瀬美月に興味を持ち始めた俺は、彼女がどうしているのか知りたくなった。
 ――部活か? それとも帰宅?
 けれど鞄はロッカーに入ったまま。つまり、彼女は一時的にどこかに行っているだけで、また教室に戻って来ることを示している。
 そこで俺は、帰宅や部活で生徒がまばらになり始めた教室を鞄も持たずにそろりと抜け出す彼女の後をつけてみることにした。
「どこに行くんだ? 委員長……」
 教室を出た市野瀬美月は、廊下を西側に向かって進む。そして廊下の端の階段のところに来ると、その姿は右に折れて階段に消えた。
 ――二階か、それとも屋上か?
 俺達の教室は最上階の三階にある。階段に進んだのであれば、二階に降りたのか屋上に上ったのかどちらかだ。
 俺は足早に階段に進み、彼女の行き先を耳で探った。
 ――ギギィ……、ガチャン。
 それは屋上に続く重い金属製の扉の音だった。
「屋上かよ。そこで何やってんだ?」
 行って確かめてみたい。
 しかし屋上のドアを開ければ、どんなにゆっくり開けたとしてもギギギとさっきのような金属音が鳴るだろう。それでは彼女に気付かれてしまう。ドアには窓は付いていないので、屋上の様子を確認するにはドアを開ける以外に方法はないのだ。
 ――いや、待てよ。
 後から屋上に行くのが無理なら、先に行っていればいい。
 つまり待ち伏せだ。
 俺は放課後になると、教室のある校舎の屋上に――ではなく、隣りの校舎の屋上に上ってこっそり市野瀬美月を観察することにした。
 ――ギギィ……、ガチャン。
 一人の女生徒が、隣の校舎の屋上に出てきた。長い黒髪、間違いなく市野瀬美月だ。
 屋上に出た彼女は、校舎の西の端に進むと手すりに寄りかかる。そして、夕陽で赤く染まる海をずっと見続けていたのだ。
「えっ、その姿って……」
 距離があるからはっきりとはわからないが、なんだか見覚えのある光景だった。
「母さんと同じじゃないか……」
 そう、その姿はまるで自分の母親のようだったのだ。
 手すりに手を置いた直立不動に近い姿勢で、身動ぎもせず海を見続けている。長い髪を揺らすことのない夕凪に映るシルエットは、時が止まったかのような錯覚を俺に抱かせた。
 ――なぜ海を見続けているのだろう?
 俺が母親に訊けなかったこと。
 そして、訊けなかったことを今でも後悔し続けている。
 機会があれば市野瀬美月に訊いてみたい。
 もしかしたら、彼女の口から母親の気持ちを知るヒントが得られるかもしれない。
 未だに母親の行方が分からない今、そんな淡い期待がじわじわと俺の中で膨らみ始めた。
 しかしその機会は、なかなか訪れることはなかった。

 ◇

 五月になったある日、市野瀬美月にまつわる驚くべき出来事が起きた。
 六月に予定されている文化祭のクラス展示についてホームルームで話し合っている時に、ちょっとしたいざこざが起きたのだ。
「やっぱ、クラス展示はお化け屋敷だろ?」
「おっ、いいね。机を積んで、段ボールで囲って、真っ暗な迷路みたいなのを作ろうぜ!」
「えー、暗くて狭いところってヤダなぁ。どうせ女子を誘い込んで、変なところを触ろうって魂胆じゃないでしょうね? それよりも私、クレープ屋の方がいいんだけど」
「そうね、私もクレープ屋の方がいい。明るいし、何よりも美味しいものが食べれるのがステキ」
 クラスは、お化け屋敷を推す男子と、クレープ屋を希望する女子で意見が二分する。
 すると教壇に立つ委員長の市野瀬美月は、間髪を入れずにクラスに向かって言い放ったのだ。
「じゃあ、お化け屋敷にしましょ。決定ね」
 一瞬の静寂の後、おーっという男子の歓声に交じって女子の不満がクラスに交差する。
「ええっ? 多数決もとらないってどういうこと?」
「女子の意見を無視するなんて横暴よ!」
「なに男子に媚びてんの? なんか魂胆があるんでしょ」
 ガヤガヤと騒がしくなった教室を鎮めたのも、また市野瀬美月だった。
「はいはい、静かに! これから理由を説明します」
 険しい表情を浮かべる女子達に向かって彼女は話し始める。女子達も、一応説明くらいは聞いてやろうと静かになったものの、臨戦態勢を崩さない。
「文化祭の季節は六月。この蒸し暑い気候の中では、食品管理がかなり大変になります。本当はその場で焼いたクレープ生地が使えればいいんだけど、そんなことしてたら時間がかかり過ぎて出し物になりません。かと言って、前の日に生地を焼くのは大変。どうせ男子は手伝ってくれないし、衛生管理も大変だし。それならば、男子が率先してやってくれるお化け屋敷でいいんじゃないかと私は思います」
 市野瀬美月が言うことも一理ある。
 クレープを作るのは大変だし、衛生管理だって学校側から厳しく言われることだろう。しかし女子だって、そんなことは承知の上で提案してるのではないだろうか。
 こんな説明だったら女子達は納得しないぞ、と思いながら市野瀬美月の説得の様子をうかがっていた俺は、驚くべき現象を目の当たりにする。
 彼女が語気を強める度に、瞳が青白く光るのだ。
 ――ええっ? なんだよそれ!?
 その淡い光を浴びた女子達は、次第に攻撃姿勢が抜けていく。
「まあ、言われる通りよね」
「確かに、前の日にクレープ生地を焼いておくのは面倒かな」
「男子に手伝ってもらうと、美味しくなくなっちゃうかもしれないしね……」
 ついには女子からは反論が一つも出なくなってしまった。
 ――というか、あの光は何だ?
 もしかして、催眠術?
 俺には全く訳がわからなかったが、市野瀬美月に逆らう者がクラスに一人もいないのがどうしてなのか、なんだか分かるような気がしてきた。
 でも、生身の人間の瞳から光が発するなんて、そんなのありえないだろ?
 これは本人に直接訊いてみるべきだ。俺は、今日こそ屋上へ行こうと意を決した。

 ◇

 ――ギギギギ……
 重い扉を開けると、やはり市野瀬美月は屋上に居た。西側の手すりに寄りかかり、こちらに背を向けて放課後の茜色の海を見つめている。
 予期していた状況ではあるが、すぐ背後から見る彼女の姿に俺ははっと息を飲む。
 行方知れずの母の後ろ姿を見つけたような錯覚。突如襲ってきたデジャビューは、激しく俺の心を揺さぶった。
 俺が見つめる中、長髪のシルエットはゆっくりと振り返る。
 ――お帰り、海人。
 そう言われたらきっと涙したかもしれない。
 それほど俺は動揺していた。
 しかし、突如浴びせられた鋭い言葉に、俺ははっと我に返る。
「何か用? 双場海人」
 それは近づくものを拒む矢のごとく。
 一瞬ひるんだ俺だったが、やっとのことで口を開く。
「教えてほしいんだ、委員長に」
 喉がカラカラに渇いて、ゴクリと唾を飲んだ。
「何? 手短にお願い」
「なんで、いつもここで海を見てるんだ?」
 俺の言葉を聞いて、市野瀬美月の表情がさらに険しくなる。
 その変化に、俺は大きな過ちを犯してしまったことに気付いた。
 ――いつもここで。
 ダメじゃないか、そんなことを聞いたら。放課後の彼女のことを観察しているのがバレバレだ。
「それって何様のつもり? いつもってどういうこと?」
 彼女の目が笑っていない。
 怒っているのは間違いないだろう。
「い、いや、あの、お、俺の母親がいつも同じように海を見ていたから、委員長もそうなのかなあって……」
 こじつけもいいところだ。
 たかが一人の女子高生にたじたじになるなんて、情けねえぞ俺。
 かと言って、強気に出ても事態が好転するとは思えない。
「双場君の母親? なに、それ。そんなこと私が知ってるわけないじゃない」
 そりゃ、そうだと思うけど……。
「それに、何で双場君は私がいつもこの場所に来てること知ってんの? ストーカー? ほら、ちゃんと白状しなさいよ!」
 語気を荒らげる市野瀬美月。
 すると、彼女の瞳がわずかに青白き光を纏い始めた。
 そうだよ、そもそも俺は、瞳の光について訊きたかったんじゃないか。
「委員長の目、ひ、光ってるけど……」
 もっとマシな訊き方があったんじゃないかと思わなくもないが、俺の言葉に彼女は眉をひそめる。
「私の目が光ってる? 今思いついたようなそんなデタラメで私が誤魔化されると思ってるの?」
 いやいや、本当に光ってるんだけど。
「それよりも、なんで白状しないのよ!? 私がここに来てることなんで知ってるのかって訊いてんの。双場君が私に質問してんじゃないのよ」
 俺はあることに気が付いた。
 彼女が命令口調になればなるほど、瞳が青白く光るのだ。
 そして彼女の声にはだんだんと動揺が露わになってきた。
「白状しなさい! これは命令よっ!」
「…………」
 彼女の瞳の光が強くなる。
 が、そんなこと言われても、「いつも委員長のことを見ていました」なんて答えられるわけがない。
 何も答えようとしない俺に、彼女の動揺はピークに達した。
「な、なんで? なんで双場君は私の言うことに従わないの!?」
「…………」
 そりゃ、従うつもりがないからなんだけど、そんなこと言ったら火に油を注ぐのは間違いない。
 というか、『なんで双場君は』ってどういうことだ? 他の生徒なら従うってことか?
 俺は、ホームルームでの話し合いのシーンを思い出していた。

『まあ、言われる通りよね』
『確かに、前の日にクレープ生地を焼いておくのは面倒かな』

 あの時のクラスメートは、不思議とみんな市野瀬美月の言葉に従った。
 ということは、やはり彼女は、クラスメートを自分に従わせるために瞳を青白く光らせていたということになる。
「目を光らせるそれ、俺には効かないぜ。何故だかは知らないけど」
「まだそれを言うの? 目が光るわけないじゃない。双場君、本当にそう思ってんの?」
 おいおい、あくまでも白を切るつもりかよ。
 どうせ催眠術かなにかでクラスメートを牛耳ってんだろ?
 そう思うと、俺はだんだんと腹が立ってきた。
「白状するのはそっちだろ? どんな細工で目を光らせてんだよっ!?」
 もしかすると、遠隔操作で蛍光を発するような特殊なカラコンでも着けているのかもしれない。小刻みに光を点滅させて、サブリミナル効果を狙っているのだろう。
 不思議なのは、クラスのみんなは彼女に服従しているのに、俺にはそんな気持ちは生まれて来ないことだ。あえて理由を考えてみるならば、俺の瞳の色が他のクラスメートと違っていることくらいしか思いつかない。
 そんなことよりも今のこの状況だ。俺も後には引けなくなり、市野瀬美月を睨みつける。
「もうやめろよ。俺は委員長には従わない。ただそれだけだ」
 そのとたん、彼女が必死に張っていた虚勢が一気に崩れ去ってしまった。
「な、なんで? なんで、双場君は、私に従わないの? それに私、目なんて光らせてない。そんなことしてないんだから……」
 そう言いながら俺の横をすり抜け、屋上の扉から校舎に走り込んでしまった。
 一筋の涙を光らせながら。
 俺は長く伸びる自分の影の先、彼女が消えて行った重い扉を呆然と見つめる。
「ヤベぇ、泣かせちまったか……」
 そして深く後悔した。
 ――なぜ海を見つめているのか、その理由も訊きたかったのに。
 案の定、翌日から市野瀬美月は俺を拒絶した。言葉を交わすどころか、目も合せようとしなくなった。

 ◇

 俺が市野瀬美月と再び会話する機会を得たのは、それから四か月が経った九月のことだった。
 相変わらずクラスメートは彼女の意のままだ。俺一人を除いては。
 そんな状況を打ち壊したのは、新学期から転入してきた一人のクラスメートだった。
 ――山花晴陽(やまはな はるひ)。
 茶色に染めたショートボブの髪に、ふっくらとした輪郭とパッチリと大きな二重の瞳が特徴的な、いわば可愛い系の女の子だ。
 彼女が自己紹介で教壇に立った時は、おおおと教室が揺れるように沸いた。
 背は割と低めで、上目遣いで見つめられて心を奪われた男子生徒が続出し、たちまちクラスの人気を市野瀬美月と二分する存在となった。
 まあ、市野瀬美月に人気があるのかどうかは、俺にとって疑問の余地ありだが。
 それでも、山花晴陽の力はすぐに発揮されたわけではなかった。
 彼女が転入してから一週間後に行われたホームルームで、十月の合唱祭の自由曲を決める際にその出来事は起きた。

「合唱祭での自由曲の選曲ですが、私は『希海』という曲がいいと思います。ほら、皆さんのご存知の通り、九月までやってる朝の連続ドラマの主題歌になっている曲です。もともとのアレンジが合唱なので、選曲としてピッタリだと思います」
 今回も、市野瀬美月は一方的に自論を展開する。クラスを見回して、時折瞳を光らせながら。
 案の定、クラスの雰囲気は怖いくらいに『希海』の支持となった。
「きっと先生方も知ってる曲だから、ポイント高いかも」
「確かに、それはあるよね」
「あの曲って、ドラマの主人公の希海(のぞみ)ちゃんのことを歌ったものなんだよね」
 しかし突然、その流れを断ち切ろうとするクラスメートが現れた。
 転入生の山花晴陽だ。
 彼女は立ち上がると、クラスに向かって自分の意見を述べ始める。
「私、他にすごくいい曲を知っていて、その曲を提案したいと思います。アニメの曲なので、知らない人も多いと思いますが、聞いてもらえると皆さんその良さを分かってもらえると思います」
 ほお、転入生の山花晴陽は、市野瀬美月に従わなかったぞ。
 これは面白いことになってきたと、俺は興味津々で市野瀬美月の表情を伺う。案の定、彼女は山花晴陽の提案に顔をしかめていた。
「曲名は、『Slow, a ray shown』っていうんです。ゆっくりと一筋の光に導かれって内容なんです」
 おお、その曲は知ってるぞ。
 確か、『マイクロセカンド』という声優ユニットが歌ってる曲だったと思う。
「ライブでは、オレンジ色の光の演出がとても綺麗な曲なんです。これを合唱祭で再現したら絶対盛り上がると思うんですけど……。みなさん、どう思いますか?」
 その時、俺は驚くべき光景を目にした。
 山花晴陽の瞳が青白く光り輝いたのだ。
 ――みなさん、どう思いますか?
 クラス中を見回しながら、優しい声で問いかける時に。
 するとクラスの雰囲気が一変した。一気に『Slow, a ray shown』への支持が膨れ始めたのだ。
「そうそう、あの光の演出って綺麗だよね」
「歌詞もすごくいいと思うぜ」
「あの曲、紅白に出れるかもしれないって噂だよ。それなら『希海』と遜色ないんじゃない?」
 ええっ、これってなんだ?
 もしかして、山花晴陽も催眠術が使えるのか!?
 それよりも驚いたのは、教壇の市野瀬美月の様子だった。
「へえ、そんな曲があるんですか。みんなも知ってそうだし、私もそのアニメ見てみようかな……」
 おいおい、さっき『希海』を提案した勢いはどこに行っちまったんだよ?
 文化祭の時のように、自分が推した曲を強制的にクラスに従わせるんじゃないのか?
 すると、市野瀬美月はとろんとした目つきのままクラスに提案する。
「どうやら意見もまとまりつつあるので、多数決をとってみたいと思います」
 今、何て言った?
 多数決? 今まで強権政治を強いてきた市野瀬美月が?
 俺があっけにとられていると、早くも多数決が始まってしまう。
「では、『Slow, a ray shown』が良いと思う人……」
 提案者の山花晴陽をはじめとして、クラスのほとんどが手を上げる。上げていないのは、俺と委員長だけだった。
「三十四名中、三十二票です。唯一手を上げていなかった双場海人さんは、『希海』の支持ですか?」
 それって何だよ。今まで委員長が貫いてきた姿勢はどうなっちゃったんだよ!
 委員長の意見が覆されるなんて今まで一度も無かったのに、何とも思わないのかよ!?
「俺はどっちでもいいよ。ていうか、委員長はどっちなんだよ?」
 多数決の時、委員長は投票しない。
 投票をするのは票が割れた時のみだが、俺は彼女の意見を確かめたかった。
「私は多数決に従います。ではみなさん、『Slow, a ray shown』が半数を超えましたので、合唱祭の自由曲はこの曲に決めたいと思います」
 すると、クラス中がそのアニメの話題で盛り上がり始める。
「今度、ウルトラオレンジのサイリウム買ってこなくちゃ」
「オレ、あのアニメ観てないんだけど……」
「持ってるから貸してやるぜ」
 俺は呆然としながらその様子を眺めていた。肝心の市野瀬美月は、何事も無かったかのように自分の席に戻っている。
 その態度が信じられなかった。
 でも、こんなに彼女のことが気になるのは何故だろう? 四か月間、口を利いてもらえなかったけど、同じく友達が居ない存在としてずっと気に留めていたんだと、今になって改めて気付く。
 市野瀬美月を腑抜けにしたのはあいつだ。
 転入生、山花晴陽。
 その時俺は、彼女がニヤリと不気味な笑みを浮かべていることに気付く。
 そしてそれは、自薦した曲が選ばれた喜びによるものではないことを、その口元が証明していた。
 ――ふ・た・ば・か・い・と。
 彼女の口は、確かにそう動いていた。

 ◇

「双場君、このあと屋上に来てくれない?」
 ホームルームが終わって放課後になると、俺は市野瀬美月に声を掛けられた。
 珍しこともあるもんだ、と俺は驚く。
 ちょうど良かった。俺もさっきのことを訊いてみたい。
「ああ、わかった。しばらくしたら行く」
 俺は彼女から遅れて、屋上に続く重い扉を開ける。
 すると市野瀬美月は海側ではなく、こちらを向いていた。まるで、俺が来るのを待ち続けていたかのように。
「遅いわよ、いつまで待たせんの?」
 憎まれ口は相変わらずだが。
「どうしたんだよ急に。もう俺とは口を利かないんじゃなかったのか?」
 俺は四ヶ月前のことを思い出す。
 ここで市野瀬美月の光る瞳のことを尋ねて、彼女を怒らせたんだった。
 それから一度も口を利いていなかったから、彼女と会話をするのは本当に久しぶりだ。
「それはもうどうでもいいの。ちょっと教えて欲しいんだけど、合唱祭の自由曲って、何で『Slow, a ray shown』に決まったの?」
 ええっ? 何だよ、その質問!?
 委員長が仕切って決めたんじゃないかよ。
 俺はなんだか気持ちが悪くなってきた。
「おいおい、委員長が多数決にしましょうって決めたんだぜ。もしかして、覚えていないのか?」
「恥ずかしい話、覚えてないの。確か、私、『希海』を推薦していたと思うんだけど……」
 しどろもどろに話す市野瀬美月。
 その様子から、本当に覚えていないらしい。
「ふと我に返ってノートの議事録を見たら、なぜだか自由曲が『Slow, a ray shown』って曲に決まってて、びっくりしちゃって……」
 彼女は動揺を隠さない。
 声がわずかに震えていた。
 彼女にとっては、それだけ予期しない出来事だったのだ。
「それでノートには双場君だけが保留って書いてあって、何か事情を知ってるんじゃないかって……」
 藁にもすがるような瞳で俺のことを見つめる市野瀬美月。
 その濡れた瞳に、俺の心臓はドキンと脈打った。
 ――なんだ、可愛いところもあるじゃないか。
 今ならば、青白く光る瞳の真相についてちゃんと話してくれるかもしれない。
 俺は意を決し、見たことをすべて打ち明けることにした。
「一つだけ心当たりがある」
 すると、委員長の表情にわずかに光が宿る。
 まるで俺の言葉に希望を求めるように。
「それは?」
「転入生の山花晴陽。彼女の目が青白く光ってから状況が一変した」
「えっ!?」
 しばらくの間、委員長はうつむいたまま言葉を失っていた。
 もしかしたら、青白く光る瞳のことと自分の記憶があいまいであることとの関係を理解するために時間が必要だったのかもしれない。
 彼女が再び顔を上げた頃には、放課後の空はすっかり茜色に染まっていた。

「私ね、子供の頃から強く念じただけで人の心を操作することができたの」
 ポツリポツリと市野瀬美月は自分の過去を語り出す。
「だから中学の時も、高校になっても、委員長として壇上でみんなのことを見ながら強く念じていた。そうすると、みんなは必ず私の意見に賛成してくれた」
 やっぱりそういうことだったのか。
 でも、『念じただけ』という言葉が引っかかる。
 念じただけで自分の意見に従うなんて、それって念力ってこと? 魔法かなんかじゃあるまいし。
「だからね、目を光らせるとか、私、そんなことしてない。ただ念じているだけなの。これだけは信じて」
「本当? でも急には信じられないよ。俺は委員長が目を光らせるところを何回も見てるんだ」
 すると市野瀬美月は声を荒らげる。
「だからしてないって言ってるじゃない。私の言うことを信じなさい!」
 ヤベえ、また怒らせちまったか、と思いながら、俺は彼女の瞳が青白く光るところを見逃さない。
「ほら、また光らせた」
「えっ、えっ、えっ……」
 俺の指摘を受け、彼女は一瞬で先ほどの弱気な姿に戻ってしまった。
 それにしても、せっかく委員長がしおらしくキュートになったかと思っても、すぐに高圧的な態度に出るとは。きっと今まで他人を自分の支配に置いてきたから、女王様気質が抜けないのだろう。
「鏡、持ってるだろ? それで見てみろよ」
 具体的な確認方法を俺が提示すると、彼女の表情が少し明るくなる。
「じゃあ、教室から取ってくる」
 委員長は教室に向かって屋上を駆けて行った。

 俺はしばらくの間、手すりに寄りかかって夕暮れの海を眺める。夕陽はだんだんと水平線に近づきつつあった。
 市野瀬美月も俺の母親も、こうやって海を見つめていた。
 ――確かに綺麗な風景だけど。
 この眺めに一体何があるというのだろう。
 どうして彼女達は毎日、飽きもせず海を見つめているのか?
 光る瞳の話が終わったら、今日こそ彼女に尋ねてみよう。
 同時に俺は、先程の委員長の言葉を思い出す。

『私ね、子供の頃から強く念じただけで人の心を操作することができたの』

 もしそれが俺だったら、確実に天狗になる。
 だって、完全に王様だから。
 自分の意のままに動くクラス。まるで自分だけのお城。
 それを謎の転入生によって一瞬で壊されてしまったのだ。弱気にもなるだろう。
 まあ、その前に、俺という全く言うことを聞かない無害な存在もいたけどな。
 そんなことを考えていたら、ギギギと再び屋上の扉が開いた。

「鏡、持ってきたわ」
 委員長は息を切らせながら、俺に手鏡を渡す。
 俺は彼女の前に立つと、鏡面を彼女の方に向けた。
「ほら、鏡を見ながら俺に向かって何か念じてみろよ」
「わかったわ」
 すると彼女は目をつむって、一つ深呼吸する。

「私を助けて」

 委員長は心の叫びを俺にぶつけて来た。開けた瞳をわずかに青白く光らせながら。
 その切実な訴えに、不覚にも俺は胸が熱くなる。
「念じたけど、光らなかったわよ」
 不意に掛けられた彼女の言葉に、俺ははっと我に返った。
「嘘だろ、ちょっと光ってたぜ」
 本当はうろ覚えだけど。
 いきなり『助けて』なんて、健気な言葉を吐くのは反則だろ? 本当に助けてあげたいって気持ちになっちまったじゃねえか。
「じゃあ、もう一度やってみるわ」
「今度はもっと命令口調がいいぞ。その方が強く光ると思う」
「わかったわ」
 すると彼女は、眉間に力を込めた。

「私を助けなさい。これは命令よ!」

 これでなくちゃ、市野瀬美月は。
 これだったら、助けようという気は起こらない。
「強く念じたけど、やっぱり光らなかったわ」
「いやいや、ギンギンに光ってたぜ」
 確かに今回は光った。さっきよりも強く。
 こんなに青白く光っているのに本人には見えないとは、どういうことなのだろう?
 俺の目が敏感なのか、それとも彼女の目が鈍感なのか。
 もしかしたら、俺が彼女の言葉に服従しないことと何か関係があるのだろうか。
「そういえば、双場君だけ、私の言うことを聞かないのよね」
 委員長も同じことを考えているようだ。
「きっと性格がひねくれているから、私の言うことを聞かなかったり、目が光って見えたりするんだわ」
 いやいや、その言い方は酷いんじゃない?
 確かに自分が良い性格をしてるとは思わないが、仮にも助けて欲しい人に向かって言うセリフじゃないと思うぞ。
 俺は不満を抱きながらも、独自の推測を展開する。
「俺は、この瞳の色が原因だと思ってる」
 そして自分の目を指差した。
 ――日本人離れした青い瞳。
 もしかしたら青と青が干渉して、彼女の青白き念力が見えたり、念力を受け付けなかったりするのかもしれない。
「それに俺は、山花晴陽の目が光るのも目撃した」
「そうそう、そのことについて詳しく教えて」
「ああ、わかった」
 これは話が長くなりそうだと、俺達は海を眺めるように並んで手すりに寄りかかった。

「今日のホームルームで私が覚えているのは、自分が『希海』を提案したところまでなの。その後で山花さんが発言したみたいだけど、そこからは全然覚えていない。その時に何があったの?」
 俺は驚きながら委員長の瞳を見る。
 その真摯な眼差しは、とても嘘をついているとは思えない。
 それにしても全然覚えてないって、それ以降の委員長の行動は一体何だったんだ?
「山花さんは、自由曲として『Slow, a ray shown』を提案した。その時にクラス中を見回すようにして、目を光らせていたんだ」
 先ほどの委員長の言葉を信じるとすると、山花晴陽も同じようにクラスのみんなが自分の意見を聞くように念力を発していた、ということになる。
「きっと彼女も念じていたのね……」
 横でポツリと小さな声がする。
 自分の力が及ばなかった。それどころか、逆に彼女に支配されてしまった。
 委員長の言葉には、そんな悲しさが含まれていた。
「ああ、そうだと思う」
 今回の出来事は何を意味するのか、彼女もわかっているのだろう。
 もう、クラスで何を念じても通じない。山花晴陽の念力の方が勝っているからだ。それどころか、逆に支配される立場になってしまった。
 友達も作らずに維持し続けてきたクラスの絶対的支配が、市野瀬美月の大きな存在意義だった。俺はそれには関与しない人間だったから無害だったが、いきなり登場した転入生によってすべてが壊されようとしている。この恐怖は、本人でなければきっとわからないだろう。
 俺は黙ったまま、彼女に寄り添うようにして一緒に海を眺めていた。
 
 ◇

 その時だった。
 ギギギと屋上の扉が開かれたのは。
 と同時に、可愛らしい声が屋上に響く。
「やっと見つけた。双場海人!」
 振り返ると、それは山花晴陽だった。
「あれあれ? 彼女さんと一緒のところをお邪魔しちゃったかな? というかお相手は委員長? それってうけるぅ~」
 委員長の最大の脅威がいきなり登場し、俺達に心無い言葉を浴びせかける。
 その無神経さに俺はカチンときた。
「そうだよ、何か悪いか? 山花さんには関係ねえだろ?」
 委員長と山花晴陽のどちらかを選べと言われたら、俺は委員長を選ぶだろう。
 でも、いざそれを『そうだ』と肯定するのは恥ずかしい。困って委員長を見ると、彼女も頬を赤く染めていた。これは決して夕陽のせいではないと思いたい。
「へえ、そうなの。でも残念ね。海人クンは今から私の彼氏になるの。ほらほら、邪魔者はどっかに行っちゃいなさい!」
 瞳を青白く光らせながらとんでもないことを言い出す山花晴陽。
 邪魔者はお前の方だろ、と言いたかったが、直後の委員長の行動に俺は目を丸くする。
 彼女は一歩前に踏み出し、
「はい、わかりました」
 と言って、校舎の入口に向かってスタスタと歩き出したのだ。
 ――ヤバい、完全に操られてる。
 思わず俺は大声で彼女を呼び止めた。
「ちょっと待って! 委員長!!」
 しかしその叫びも虚しく、彼女は山花晴陽とすれ違ったかと思うと、ギギギと屋上の扉を開けて校舎の中に消えてしまったのだ。
 追いかけようとする俺を制止するように、山花晴陽は両手を広げて扉の前に立ち塞がる。
「だめよ、海人クンは。これから大事な話があるんだから」
 力づくで彼女を排除することもできるが、セクハラ呼ばわりされたら後で大変なことになる。
 それに彼女はクラスみんなの心を自由に操ることができるのだ。昨日までの委員長と同じように。
 今後のことを考えたら、ここは事を大きくするのは得策ではない。
「わかったよ、どんな話なんだ?」
「少し待って。ちょっとある人にメールを打つから、その後でするわ」
 助っ人を呼ぼうと言うのだろうか。
 転入したばかりの彼女にそんな人脈があるとは思えないが、操ることができるようになった人間なら何人かはいるかもしれない。
「早くしろよ」
 すっかり観念した俺は、夕焼けの海が見える手すりまで移動し、彼女のことを待っていた。

「お待たせ。へえ、いいところね……」
 俺の横に並んで海を眺め始めた山花晴陽は、ふっとため息をつく。茶色の髪が夕陽を浴びて、赤く光っている。
「海を見ていると気分が落ち着くわ。さっきはゴメンね、ひどいことをしちゃって」
 彼女が言うひどいことって何だろう? 委員長に退去を命じたこと? それとも俺をここに引き止めたこと?
 どちらにしたって、謝っても許すつもりはない。
「ねえ、知ってる? アトランティス人の女性って、海を見ていないと自分を保てなくなるの。”意志”の力に負けそうになってね」
 ていうか、この人、何を言っているのだろう?
 アトランティス人とか”意志”とかって、アニメかなにかの話をしているのだろうか。
 俺はポカンとしながら、山花晴陽の顔をまじまじと見つめる。
「あれ? あれれ?」
 彼女も困惑しながら俺に尋ねる。
「だって、海人クンも、アトランティス人なんでしょ?」
 へっ? なに?
 俺がアトランティス人だって?
 母親がアトランティスの会に入ってたってのは知っているが、自分がアトランティス人だなんてそんな話、初めて聞いた。
「アトランティス人って、何だそれ?」
 訳が分からず、俺はポカンとしてしまう。
「ふうん、海人クン、自分がアトランティス人ということを認識してないんだ。ということは、残念ながら”偶然種”なのかな。そんなんでパパやママが許してくれるかしら? でも日本人離れしたイケメンだからキープしておきたいよね。また転校するのは面倒くさいし……」
 彼女は何やらごちゃごちゃと独り言を始めてしまった。
 その内容は、”偶然種”とか『許してくれるかしら』とか、聞いていて気持ちがいいものではない。
 というか、アトランティス人って何?
「さっきから、アトランティス人って言ってるけど、アトランティスはすでに失われたんじゃないのか?」
「海人クンって、本当に何も知らないのね。それは教科書の中のこと。実際にはアトランティス人は生き残ってるし、魔法だって受け継がれている。じゃあ教えてあげるわ、海人クンがアトランティス人という根拠を」
 山花晴陽は、いたずらっ娘のような瞳で俺のことを見上げた。

「パパが言うにはね、アトランティス人の男性には二つの特徴があるの。一つは、アトランティス人の女性が念じる魔法が効かないこと。もう一つは、魔法を念じる時の女性の瞳が青白く光って見えること」
 そ、それって……。
「ほら、海人クンだって図星って顔してるじゃない。どちらか当てはまる節があるんでしょ?」
 どちらかどころじゃなく、両方とも当てはまっている。
 でもそれには、もう一つだけ条件が必要となってくるけど。
 市野瀬美月もアトランティス人である、という条件が。
「さっき私が委員長の退去を念じた時、瞳が光るの見えたでしょ? それに、『今から私の彼氏になるの』と念じたのに、海人クンは私の言うことを聞かずに委員長を追いかけようとした」
 悲しげに目を伏せる山花晴陽。
 いやいや、そんな表情をしても俺は騙されないぞ。
 そもそも彼女は本当に、俺のことを彼氏にしたいと思っているのだろうか?
「それって、俺がアトランティス人かもしれないから彼氏にしたいってことなのか?」
「あら、私の指摘は否定しないのね。じゃあ、海人クンはアトランティス人確定ってことでいい? 彼氏については残念ながらそうよ。ゆっくり恋愛している暇は、私には無いの」
 そう言うと俺から視線を外し、山花晴陽は再び海を眺める。
 その横顔は、『私だってゆっくり恋愛したいのに』と言っているような気がした。
「私の家はね、代々アトランティス人で受け継がれているの。パパもママもおじいちゃんもおばあちゃんもアトランティス人。だからね、私と結婚する人は、アトランティス人でなくちゃいけないの」
 へえ、それは難儀だな。
 山花晴陽って、一見可愛い系だけど、中身は委員長と同じくすごく高圧的な女だ。でもこの年で、その小さな体で家の運命を背負わされているなんて、ちょっと可哀想だと俺は同情する。
「アトランティス人なんて、そこらにうようよいるわけじゃないでしょ? 両親がアトランティス人の人は自分がアトランティス人ってわかるけど、海人クンみたいに偶然アトランティス人として産まれちゃった人は、そのことを知らないまま育っちゃうのよ。私達は”偶然種”って呼んでるけどね」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
 俺は彼女の言葉を遮る。
 自分の出生について偶然とか言われたら、黙っておくことはできない。
「偶然アトランティス人として産まれちゃうって何なんだよ? 両親がアトランティス人だからアトランティス人として産まれるんじゃないのかよ?」
 俺は山花晴陽に疑問をぶつけた。
 しかし彼女はケロリと反論する。
「アトランティス人ってね、血統主義じゃなくて出生地主義なの。正確には懐妊地主義かな。さらにこれは主義じゃなくて事実だから、懐妊地原理と言った方がいいかもね」
 懐妊地原理?
 なんだそりゃ?
 アトランティスで懐妊すると、産まれた子供はアトランティス人になるってことなのか?
「よくわかんないけど、懐妊地原理って、アトランティスで懐妊するってこと?」
「そうよ。海人クンの両親って、大西洋クルーズとかに参加したことない?」
 ええっ! それって……。
 突然、俺の脳にビビビと電気が走る。
 同時に、中学の時に聞いた母親に関する叔母の言葉を思い出していた。

『会が主催する大西洋クルーズで結婚式を挙げることになったんだから』

 やっと繋がった。
 母親の行動と俺の出生の秘密が。
 きっと母は、懐妊地原理のことを知っていたんだ。いや、アトランティスの会が知っていたのかもしれない。
「で、でも、アトランティス大陸って、今は無いじゃないか」
「アトランティスの”意思”は、空間に宿ってるの。アトランティス大陸があったその場所にね。だから大陸の存在は本質じゃないの。大西洋という空間こそが、本当のアトランティスなのよ」
 空間がアトランティスだって?
 そんなこと、初めて聞いたぞ。
「海人クンは、アトランティスのことをどういう風に習った?」
「確か、魔女狩りがどうのこうのでできた大陸魔法国家とか?」
「そうね、十二世紀のヨーロッパで魔女狩りに遭った人達がアトランティスに逃げ延びて魔法国家を作ったって習ったはずよ」
「ああ」
 確か、中学の時に習ったのはそんな内容だったかもしれない。
「でも、大航海時代は十五世紀になってから。しかも女性は船には乗せてもらえなかった。初めて女性が世界一周を果たしたのって十八世紀になってからよ。そんな状況で、どうやって魔女狩りに遭った人達がアトランティスに行けるわけ?」
 言われてみれば確かにそうだ。
 でもアトランティス人には魔法があるじゃないか。
「それこそ魔法を使ったんだろ? 海の上を魔法でツーっと移動できちゃったとか?」
 すると山花晴陽は蔑むような視線で俺を見る。
「なにバカなこと言ってんのよ。そんな魔法なんてあるわけないじゃない。『これ槓』じゃあるまいし」
 無下に否定されて、俺はちょっと凹む。
 魔法でツーっとなんて、結構恥ずかしいことを言っちゃったかも。
「だから、真相は逆だったの。魔法のルーツはヨーロッパじゃなくて、アトランティスという空間にあったのよ」
 ほお、そういう考え方もあるのか。
 確かに流れが逆であれば、理解しやすそうだ。
「もともとアトランティス大陸には魔法を司る”意思”が存在していた。そして、アトランティスで産まれた原住民やヴァイキングなどの移住民の子孫が魔法を使えるようになったの」
 俺は想像する。
 アトランティスで生活する人々を。
 きっと女性はみんな瞳を青白く光らせていたに違いない。
「その中にはヨーロッパ大陸に渡った者達もいた。きっとヴァイキングの子孫かなにかね。そしてそこで魔法の能力を開花させた」
 アトランティスにいる時は普通の女性であったとしても、ヨーロッパ大陸に渡ればその能力を桜花できたことだろう。
 だって、念じれば、みんな自分に従ってくれるんだから。アトランティスでは見向きもしてくれなかった男達も。
「しかし中にはやり過ぎる人も出てきて、魔女として狩られることになってしまった。そりゃ、意のままに人を操ることができるんだから、権力者から見たらすごく脅威のはずよね」
 確かに権力者から見たら脅威だろう。
 俺はクラスで目の当たりにした光景を思い出していた。市野瀬美月が、そして山花晴陽がクラスを支配するところを。
 この力が巨大になれば、国家だって支配できるかもしれない。
「だからね、確かに魔法使いの住む大陸魔法国家アトランティスは存在していたんだけど、実際の人の流れは逆だったのよ。魔女狩りに遭った人達がアトランティスを作ったのではなくて、アトランティスからヨーロッパに渡った人が魔女狩りに遭っていたというわけ」
 そういう説明ならよくわかる。
 ヨーロッパで魔法が生まれたのであれば、今でも魔法使いがヨーロッパに沢山住んでるはずだ。
 しかし現実は違う。アトランティス大陸の消滅と共に魔法使いのほとんどが滅びてしまったのは、魔法の原点がアトランティスにあったからなのだ。
「アトランティスが消滅しても、その”意思”は大西洋に残留しているの。そして大西洋で懐妊した子供は、今でもアトランティス人としてこの世に誕生する」
 俺は、母親が大西洋クルーズに参加した時に身篭った子供だ。
 彼女の説明を信じるなら、やっぱり俺はアトランティス人ということになる。
「わかったよ。きっと俺はアトランティス人だ。なぜなら母親は大西洋クルーズに参加していた」
 それを聞いて、山花晴陽は瞳をキラキラと輝かせた。
「やっと見つけた! 私の運命の人!」
 そして、俺の左腕にぎゅっと抱きついてきた。
「ちょ、ちょっとやめろよ。俺は山花さんの彼氏でもなんでもないんだから」
「いいじゃない、今から彼氏になっちゃえば?」
 グリグリと胸を左腕に押し付けてくる山花晴陽。
 その豊かで柔らかな感触に、俺の脳は一瞬とろけそうになった。
「だからダメだって!」
 押しのけるように俺は山花晴陽を引き離す。
 魔法が効かないからって色香で堕とそうとしても無駄だからな。きっと、おそらく、たぶん……。
「じゃあ、彼氏は諦めるから結婚して、私と」
「だからなんでそこに飛躍するんだよっ!?」
「さっきも言ったでしょ? 家の方針で、私はアトランティス人と結婚しなくちゃいけないって。これで高校生になってから五校目なんだからね、転校するのは」
 逆切れ気味にいきなり転校の話をされても困る。
 というか、それって結婚と関係あるの?
「なんで、転校?」
「アトランティス人の男性って、自分では自覚していない人がほとんどなの。だから転校しながら探してたんじゃない。クラスを支配して、学年を支配して、学校全体を支配するのに三ヶ月。でも今までの四校には、一人もアトランティス人はいなかったわ」
 ええっ、今まで転校しながらそんなことやってたのか。
 確かに、『支配できなかった男がアトランティス人』という理屈は分かる。だが、学校全体を支配だなんてやることが凄すぎる。
「高校の三年間でアトランティス人が見つからなかったら、私、卒業と同時にヨーロッパに連れて行かれて、あっちのアトランティス人と結婚させられることになってんのよ。だから焦って必死に探してるんじゃない。やっと見つけた海人クンが私と結婚してくれなかったら、また転校しなくちゃいけないんだから」
 上目遣いで俺のことを見つめる山花晴陽。
 そんな家の方針を押し付けられている彼女がなんだか可哀想になってきた。
 だからといって、結婚するつもりなんてないからな。
「なんで、そんなにアトランティス人との結婚にこだわるんだよ。普通の男でいいじゃんかよ」
「簡単に支配できる人と結婚して、何が楽しいの?」
 うわっ、俺も言ってみたいぜ、そのセリフ。
「その他にも、アトランティス人を選ぶ理由はいくつかあるの……」
 山花晴陽は再び手すりに寄りかかると、俺と並んで海を眺め始めた。夕陽はとっくに沈んで、空の茜色も紫色に変わりつつあった。

「まずはね、魔法の強さ。アトランティス人同士の夫婦から産まれたアトランティス人は、より強い魔法が使えるの。片親がアトランティス人だったり偶然種の人の魔法なんて、簡単に排除できちゃうそうよ。ママがそう言ってた」
 そうか、だから市野瀬美月の魔法は山花晴陽には効かなかったんだ。
 さらに山花晴陽の魔法は、市野瀬美月の魔法を軽く凌駕してしまった。それはこういう理由だったんだ。
 まあ、あくまでも市野瀬美月がアトランティス人だったらの仮定だが。
「次はね、アトランティスの”意思”の呪縛の解放。アトランティス人の女性は、人を操る魔法が使える代わりに”意思”の呪縛から逃れられないの。うまく説明できないけど、『大西洋に行って身籠らなくちゃ』という強迫観念に絶えず圧迫されている。時には気が狂いそうなくらいの勢いなの」
 へえ、そんな等価交換が成り立っていたとは。
 きっとアトランティスの”意思”は、そうやって子孫を残してきたのだろう。
 人間は性欲があるから、欲望に任せていれば自然に子供が生まれる。だが、自然に大西洋に行きたがる人はいないから、何もしなければアトランティス人は絶滅してしまう。それを防ぐために、”意思”はアトランティス人の女性に強迫観念を植えつけているのだろう。魔法というご褒美と引き換えに。
「海を見ているとね、大西洋に行こうとする意図を感じてくれるのか、”意思”の圧力は弱まるの。でも、あくまでもそれは一時的な対処方法。そんな時、アトランティス人の男性と手を繋ぐと、すっと呪縛から解放されるの」
 ええっ、海を見ていると圧力から一時的に解放されるって!?
 それって、俺の母親や市野瀬美月と同じじゃないか。
 俺が産まれた経緯も、なんだか理解できるような気がする。結婚相手がドタキャンしてしまったのに母親は大西洋クルーズに乗ってしまい、さらに子供を授かってしまったのは、”意思”の強い強迫観念によるものなんだ、きっと。
「だからね、私は時折、パパに手を繋いでもらってるの。”意思”からの圧迫を和らげるために。十七歳になった女子高生がそんなことしてるなんて、笑っちゃうよね。情けないよね……」
 自嘲を込めて山花晴陽は笑う。
 俺を見つめるその瞳には、涙が浮かんでいた。
「お願い、今だけでいい。ちょっとだけ、私と手を繋いで欲しい……」
 俺と向き合い、そろそろと右手を差し出す山花晴陽。
 純粋に光る懇願の眼差しは、彼女の希望が嘘ではないことを示していた。
 そんな真摯な行動を無にするほど、俺は野暮ではない。
「ちょっとだけだぞ」
 同意を求める俺の問いに、彼女は「うん」と小さく頷いた。
 俺は右手を差し出して、山花晴陽の手を握る。それは小さくて柔らかくて暖かい、か弱い女子高生の手だった。
「ありがとう……」
 目を閉じて、ゆっくりと呼吸する山花晴陽。
 どれくらい圧迫が解消されているのか俺には分からないが、彼女が救われていることはその安堵の表情から推し量ることができた。
 その時だ。
 何かが右腕を通じて、俺の頭の中に入り込んできたのは。
「それでね、これが最後のメリット。アトランティス人の男女が肌を合わせると、イメージを共有することができるの。『同じ夢を見る』と言った方が分かりやすいかな。イメージを共有しながら女性が放つ魔法は、最強だって言われている」
 いけないと思いつつも、俺は右腕を通じて頭の中に入り込んできたイメージに体を任せてしまう。
 なぜならそれは、とっても気持ちの良いものだったから。
 俺は鳥になって大海原を滑空する。そして豊かな緑が広がる島のような大陸。
 ――これが、アトランティスか……。
 漁も盛んで、港には船が沢山浮かんでいる。中には大きな帆を張ったヴァイキング船も。そしてヨーロッパに渡り、魔女狩りと戦うアトランティス人の姿が映し出される。男女が手を繋いで、魔女狩りの兵を撃退する。
 アトランティス人はこうして子孫を守ってきた。そのことを教えてくれる映像だった。
「どう? 私と結婚したくなった?」
 山花晴陽は俺と手を繋いだまま問いかけてくる。
 俺の頭の中には、二人が参加する大西洋クルーズの映像が映し出された。
「私の両親は、クルーズ代に一千万円用意してくれてるの。豪華客船のスイートルームで世界一周できる額よ」
 真っ白な船体、甲板のプールで日光浴を楽しむ二人。食事は毎日のように高級食材を用いた超一流料理。懐石、フレンチ、中華にイタリアン。
「そして、大西洋で二人は結ばれる」
 ふかふかのダブルベットで俺は山花晴陽を待っている。やがて純白のレースのネグリジェに身を包んだ彼女が現れ、「私、初めてなの」と恥ずかしそうに肩紐を滑らせて……。
「子供が産まれたら、まずこの街を支配しましょ。そして大都市、さらに日本。私達の魔法があればできないことはないわ」
 素晴らしい!
 彼女と結婚すれば、俺の人生バラ色じゃないか。
 ルックスだって可愛いし、スタイルだって抜群だし、両親は金持ちだし、二人が力を合わせた時の魔法は最強だ。その上、巨大な権力が手に入るなら、それ以上望むものはないだろう。
「だから、委員長と別れて」
 すると頭に流れ込んでくる映像が、急に現実的なものに切り替わった。
 屋上でメールを打つ山花晴陽。メールを受け取って動き出す大柄な二人の男子高校生。彼らは帰宅する市野瀬美月の後を尾行して……。
「おい、お前! 何しようとしてんだよっ!!???」
 俺は慌てて山花晴陽の手を離し、彼女の肩を強く掴む。
「ちっ……」
 ――もう少しのところだったのに。
 そんな感情が彼女に顔にありありと浮かんでいた。
 そして今にも唾棄しそうな表情で俺を睨みつける。
「痛い、痛い。離してよ! なによ、海人クンが委員長と別れやすくなるように、彼女の方から手を引いてもらおうと配慮してあげてるんじゃない。大丈夫、殺しはしないから。ただ、委員長の純潔が失われるくらいのことはあるかもね。そんな使い古しの女、嫌でしょ?」
 な、なんだって!?
 俺はこんな奴に騙されそうになっていたのか。
 さすがは四校も支配して来ただけのことはある。すべてを支配しないと気が済まない性格は、おそらく一生治らないだろう。
 その点、市野瀬美月は違う。
 彼女は一度、挫折を味わった。今の彼女は敗者の気持ちを知っている。
 どちらかを選べと言われれば、俺は市野瀬美月を選ぶだろう。
「委員長に何かあったら、ただじゃ済まないからな」
「ふん。警察でも何でも呼ぶがいいわ。今日は彼女を守れたとしても、明日はどうなるか分からないわよ。どうせ私にしか魔法は使えないんだし、いつか海人クンは私に屈するわ」
 悪態をつく山花晴陽を背に、俺は猛ダッシュする。
「頼むから無事でいてくれ!」
 先ほどのイメージで見た通学路を目指して、俺は市野瀬美月を全力で追いかけた。

 ◇

 息を切らしながら商店街を走り抜ける。空は青みをわずかに残すばかりだった。
「まだ商店街だったら大丈夫と思うが……」
 イメージでは、大柄な男子高校生は商店街で委員長を尾行していた。しかしこの先には住宅街が広がっている。塀の影や留守宅前の暗がりなどで彼女が襲われる可能性があるのだ。
「どうか間に合ってくれ!」
 俺は息を切らしながら商店街を駆け抜ける。
 脳に酸素が届かなくなってもうろうとする頭は、先ほどの山花晴陽の言葉で一杯になる。

『今日は彼女を守れたとしても、明日はどうなるか分からないわよ』

 確かに今日は何とかなったとしても、明日以降も無事に済むとは限らない。 
 根本的な解決を目指すには、山花晴陽を納得させる必要があるのだ。しかし、それにはどうしたらいいのか……。
「ええい、そんなこと分かんねえよ。とにかく今日を乗り切るんだ」
 大きな通りの向こう側に住宅街が見えたところで、俺は信号に引っかかってしまった。
「なんだよ、こんな時に……」
 はあはあと深く息をしながら電柱に手を着くと、先ほどの山花晴陽の言葉の続きが脳裏に蘇って来た。

『どうせ私にしか魔法は使えないんだし、いつか海人クンは私に屈するわ』

 俺は屈しない。絶対にだ!
 今日だけじゃない。明日も委員長を守ってやる。山花晴陽が諦めるまでずっと。
 それに委員長だって魔法が使えるじゃないか。きっと何らかの手があるはずだ。
 その時、何かが心に引っかかる。
 ――どうせ私にしか魔法は使えないんだし。
 そうだ、これだ!
 山花晴陽はまだ気付いていないんだ。委員長だって魔法が使えることに。
 合唱祭の自由曲を決めた時は、委員長が早々に山花晴陽の魔法に屈してしまったから分からなかったんだ。瞳から発する光も、アトランティス人の女性には見えないようだし。
 これってチャンス?
 もしかしたら、山花晴陽をぎゃふんと言わせることができるかもしれない。彼女がこのことを知らない今なら。
 信号が青に変わると、俺は作戦を考えながら横断歩道を駆け抜けた。

 住宅街に入ると、すぐに委員長の背中を見つけた。
 周囲を見回しても大柄の男子高校生達は見えない。きっと塀の影にでも隠れて、遠くから見張っているのだろう。
「委員長!」
 俺は彼等を牽制する意味も込めて、大きな声で彼女を呼ぶ。
「えっ!? ふ、双場君……」
 驚いたように振り向く委員長。俺は強引に彼女の左手を掴むと、そのまま走り出そうとした。
「いきなり何すんのよ!」
「後でちゃんと説明する。今は委員長の身が危ないんだ。俺について来て!」
「ちょ、ちょっと……」
 俺は有無を言わさず、委員長を引っ張って走る。
 この先には公園があって、確か大きめのトイレが設置されていたはずだ。その身障者用トイレなら車椅子で入れる広さだし、鍵をかけて安全に作戦を練ることができる。外の雰囲気がヤバそうだったら、最終手段として警察を呼ぶしかないだろう。
「公園に向かうぞ」
「うん、わかった……」
 もっと嫌がられるかと思っていたが、委員長は素直に手を引かれて走っている。
 もしかしたら、手を繋ぐことによってアトランティスの”意志”からの圧迫が和らいでいるのかもしれない。
 もしそうであれば、俺の方からイメージを共有させることも可能ではないだろうか。
 俺は走りながら念じる。山花晴陽から受け取った委員長を襲うとしている男子高校生のイメージを。
 これが伝われば、俺達が置かれている状況を理解してもらえるはずだ。
「えっ、これって!??」
 委員長が反応する。
 どうやらイメージを転送することができたらしい。
「こいつらは今、委員長を襲おうとしている」
「わかったわ。確かにこの人達を何回か見かけたような気がする……」
 俺達は公園のトイレに辿り着き、身障者用トイレの中に駆け込んでガチャリと鍵を掛けた。

 はあはあと息を整えてから、俺は市野瀬美月と向き合った。
「よかった! 委員長が無事で!!」
 すると彼女も心の内を明かす。
「私も心細かった。だって、双場君と一緒に屋上にいたと思ってたのに、いつのまにか通学路を歩いてたんだもの。もしかして双場君に嫌われて、屋上から追い出されちゃったんじゃないかと思ってたんだから……」
 委員長の目が涙で潤んでいる。
 ホームルームで山花晴陽に支配され、放課後は俺に拒絶された。そう思いながら一人で歩く家路は、悲しみでさぞかし足が重かったに違いない。
 俺は少しでも明るい話題を振ろうと、山花晴陽から聞いた事実を打ち明ける。
「聞いて驚くな。俺もそうらしいんだけど、委員長はアトランティス人だったんだよ!」
 興奮気味に語る俺に、委員長は顔を上げる。
「念じるだけでみんなが委員長の言う事を聞いていたのは、アトランティス大陸に伝わる魔法のせいだったんだ」
 瞳を青白く光らせ、人々を自分の支配に置く力。
 それが歴史の授業で習ったアトランティスの魔法であることを、俺は委員長に伝える。
「そして転入生の山花晴陽もまた、アトランティス人だった。彼女の魔法が委員長の魔法よりも強かったのは、代々続くアトランティス人の家系のおかげらしい」
 両親、祖父母がアトランティス人の山花家の魔法は、最強の部類に入ると本人は言っていた。
「ところで委員長のご両親って、大西洋クルーズに参加したことある?」
 すると、彼女の表情が驚きに変わる。
「ええっ、何で知ってんの? やっぱり、双場君、ストーカーなんでしょ? 私の通学路も熟知してるみたいだし」
 やっぱりそうなんだ!
 というか、大西洋クルーズに関しては山花晴陽情報だからな。その部分でストーカー呼ばわりされても困る。通学路については……熟知してました、ゴメン。
「それで委員長って、そのクルーズ中に授かった子供だったりする?」
 俺の言葉に委員長の顔が赤くなった。
「そりゃ、私はハネムーンベイビーだけど。ていうか、そんなプライベートなこと聞いてどうするわけ? 双場君、本当はHENTAIなんでしょ?」
「ち、ちがうよ。アトランティス人って、懐妊場所によって決まるらしいんだよ。アトランティスがあった大西洋で授かった子供は、”意志”を受け継いでアトランティス人として産まれるんだって。ちなみに俺も、大西洋クルーズ中に授かった子供なんだ」
 すると委員長は興味津々で俺に訊いてきた。
「じゃあ、双場君もアトランティス人ってこと?」
「そうなんだ。委員長の魔法が効かなかったのも、委員長の瞳が青白く見えたのも、俺がアトランティス人だったからなんだよ」

 それからしばらくの間、俺は委員長にアトランティス人について話をした。
 アトランティス人の女性は、人を従わせる魔法が使えるけど、その代わりにアトランティスの”意志”の精神的な圧迫を受けること。
 アトランティス人の男性は、魔法が使えない代わりに、魔法が効かなかったり魔法使用時の瞳の発光が見えること。
 アトランティス人の男性と女性が肌を合わせると、”意志”からの圧迫を和らげたり、イメージの共有ができること。
「さっき双場君に手を握られた時、すうっと心が軽くなったのは、そういう理由だったんだ……」
 委員長は自分の掌を見つめながら、しみじみと語る。
「力を使った時ほど、その後の反動が大きいの。『その力を次の世代に引き継げ! 遥か遠くに行く船に乗れ!』と、誰かが頭の中で叫んでいるような感じがして、その負担ですごく心が重くなるの。何て言えばいいのかな? この力を使用した代償を体で払えと言われているような感じ。そんな時、海を見つめると叫びが聞こえなくなるのよ。一時的だけどね」
 きっと俺の母親も、そんな叫び声に悩まされ続けていたに違いない。
「前にも話したと思うけど、俺の母親もずっと海を眺めていたんだ。母親もアトランティス人で、きっと委員長と同じように一時的な休息を求めていたんだと思う。去年、家を出てしまって、それっきりだけど……」
 俺は自嘲を込めて委員長に母親のことを打ち明ける。
 委員長は天井を見上げるようにして、しばらく考え事をしていた。
「双場君に手を握られた時の解放感は、海を見ている時と比べ物にならないほど大きかった。きっとあなたのお母さんも、子供の頃のあなたの手を握ることで救われていたんだと思う。でもあなたが大きくなって、それができなくなった。だから違う人を求めて、家を飛び出しちゃったんじゃないかな」
 そんな理由で俺の前からいなくなってしまったのか?
 委員長の言葉をどう咀嚼していいのか分からなくなった俺は、思わず顔をしかめてしまう。
「あなたには理解できないかもしれないけど、それだけ精神的に追い詰められるの。私なら、あなたのお母さんの気持ちが分かるような気がする」
 母親が家出した時、高校生の息子を置いて出て行くなんて、と親戚中から陰口を叩かれた。
 そんな雑音の中にいると、本当に母親が悪者に思えて来る。
 でも、委員長は母親の気持ちが分かると言ってくれた。決して悪気があったわけではないんだと。
 思わず涙がこぼれる。
「ありがとう……」
 俺は委員長の手を握る。
 温かくて小さなか弱い彼女の手は、しっかりと俺の手を握り返してくれた。
「お礼を言うのはこちらの方よ。手を握ってもらって、私は今、解放されている。まるで空を飛ぶ鳥のよう」
 その刹那、すうっと頭の中にイメージが入り込んで来る。
 青い空、そして青い海。
 アトランティス大陸で暮らす人々。そして大陸に渡って魔女狩りと戦うアトランティス人の男女。
 俺は思わず山花晴陽の言葉を思い出した。

『イメージを共有しながら女性が放つ魔法は、最強だって言われている』

 こうやって委員長と手を繋いだまま戦ったら、山花晴陽の魔法にも勝てるんじゃないだろうか?
 今二人で共有しているイメージは、魔女狩りと戦うアトランティス人の映像だ。もしかしたら、この中に最強の魔法を放つヒントが隠されているかもしれない。
「ねえ、魔女狩りを撃退するシーンをもっと見てみない?」
「わかったわ。その方法を真似れば、山花さんにも勝てるかもしれないってことね」
 さすがにイメージを共有しているだけあって委員長の理解も早い。俺達はイメージの世界を飛び回りながら、魔女狩りとの戦いを観察し続けた。
 すると、次々と魔女狩りの兵を従わせる一組のアトランティス人の男女が見つかった。その男女の格好は――
「ええっ!? これが最強魔法の発動様式!!???」
「このポーズを人前でやらなくちゃいけないの???」
 その時だった。
「ねえ、いつまでトイレに籠ってんの? まさか二人でエッチなこと、してんじゃないでしょうね? 使い古しになる前に、とか?」
 公園に響くその声は、山花晴陽だった。

 ヤバい、あいつが来た。
 男子高校生だけだったら委員長の魔法で切り抜けられたかもしれないが、山花晴陽が相手となると厄介だ。魔法では委員長は山花晴陽に勝てないし、魔法が効かない俺も腕力であの男子高校生二人に勝てるとは思えない。
「できることは、今のうちにやっておくか……」
 俺はズボンのベルトに手を掛ける。
 その様子を見た委員長は、顔を真っ赤にした。
「ちょ、ちょっと……、本当にここでエッチするの? ねえ、今はやめておいて、大西洋でエッチしよっ。私、それまで、えっと、しょ、しょ、生娘で頑張るから……」
 いじらしく上目遣いで俺を見つめるその姿に胸が熱くなり、思わず抱きしめたくなる。
 が、事は一刻を争う。彼女の申し出は飛び上がりたくなるほど嬉しいが。
「勘違いするな。このベルトで俺たちを固定するんだよ。ほら、右手を出して!」
 俺はベルトを外すと、肩を寄せるようにして委員長の右隣りに並び、彼女が差し出す右手を指を絡めるようにして左手でしっかりと握る。そして、ベルトで二人の腕をぐるぐると巻いて手首のところでバックルをきつく締めた。
 これなら、何があっても二人が手を離すことはないだろう。
「二人がバラバラになったら間違いなく負ける。こうして二人が繋がっていたら、きっと勝機はある」
 もし委員長が山花晴陽の魔法に屈してしまっても、握った手を通じて俺が呼び覚ましてやる。
「もしどうしようもなくなったら……」
「わかってるわ。あのポーズね」
「ああ。じゃあ、行くぞ!」
 俺たちはぎゅっと手を握り締めると、身障者用トイレの扉を開けた。

 ◇

 トイレの前には山花晴陽と二人の大柄な男子高校生が立っていた。
 公園はすでに真っ暗になっており、トイレの蛍光灯の光にぼおっと浮かび上がる三人の姿は、まるで鬼か化物のように見える。
 男子高校生は隙ができないよう彼女の両側に立っていて、走って逃げることは不可能だろう。
「遅いわよ。どう? 最後の思い出作りはできたのかしら?」
 山花晴陽がニヤリと笑う。まるで獲物を前にして舌舐めずりするメスライオンのごとく。
「へえ、そのグルグル巻きの腕は『天国でも一緒ね』というおまじないかしら。じゃあ、こんな余興はどう?」
 山花晴陽の瞳が青白く輝く。
 すると委員長から覇気がすうっと抜けていくのが、繋いだ左手から感じ取ることができた。
「はい、わかりました」
 無機質に返事をする委員長。
 おいおい、これから彼女に何をやらせるんだよ!
 と思った瞬間。
「痛っ!」
 委員長の左ジャブが俺の頰にヒットした。
 続いて、鼻や眉間に彼女のパンチが炸裂する。
「や、やめろ。委員長!」
 俺の叫びも虚しく、うつろな目で委員長はパンチを繰り返す。
 女の子だから一発一発の威力は大したことはないが、素手でゴツゴツと骨の部分を叩かれる痛さは並大抵なものではない。委員長だって相当痛いだろうに。
 俺は右手でパンチを避けようとするが、彼女は攻撃をやめようとしない。
「ほら、下が空いてるわよ」
 ヤバい、と思う間もなく委員長の左膝が俺を襲う。股間を守ろうととっさに身をかがめると、彼女の膝がみぞおちに決まってしまった。
「ぐうううう……」
 鈍い痛みがみぞおちから全身に広がる。
 あまりの痛さに、俺は動けなくなった。
 その間にも、委員長のジャブが俺に左顔を直撃する。
「あははははははは。どう? 愛する人にボコボコにされるってのは? 手なんか繋いで私に見せつけているからこんなことになるのよ、バッカじゃないの?」
 俺は委員長のジャブを防ごうと右手で彼女の左手をキャッチする。そして掌を開かせて、指を絡ませるようにしてしっかりと握りしめた。
 その時だ。
 すうっと委員長の表情に色が戻る。
 そうか、確かアトランティス人の男女が肌を合わせると最強の魔法が使えるって言ってたけど、それって肌の接触面積が関係していたんだ。片手を繋いだだけでは山花晴陽の魔法に勝てなかったけど、両手を繋いで接触面積が二倍になった今は、わずかに彼女の魔法に優っているという状態なんだ。そして、さらに接触面積を増やすために、あのポーズが考えられたというわけか……。
 俺は山花晴陽に気づかれないように委員長に耳打ちした。
「とりあえず膝蹴りを繰り返してくれ。彼女が油断したら、あのポーズ行くぞ」
「ええ、わかったわ」
 委員長は左膝を繰り出す。俺は腹部に衝撃を受けている振りをしながら、顔に苦痛の表情を浮かばせた。
「委員長、股間は手加減してね。海人クンは大西洋で私と結ばれるんだから。海人クン、どう? 私と結婚する気になった? 今日はこれくらいにしてあげるけど、明日も覚悟しておいてね」
 こんな仕打ちを受けて結婚したくなると本当に思っているのか?
 山花晴陽、性根まで腐ってやがる。
 だけど俺には委員長がいる。俺は彼女を決して離さない。
 委員長だって『大西洋でエッチしよっ』って言ってくれたんだ。恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら。だから俺が大西洋で結ばれるのは市野瀬美月なんだっ!!
「委員長、好きだっ!」
「私も、双場君!」
 俺と委員長は両手を合わせたまま見つめ合う。
 そして熱くキスを交わした。
「えっ、まさか!? あんた達、あいつらを止め……」
 動揺した山花晴陽の叫び声が公園に響く。
 しかし、男子高校生が動き出すよりも早く、委員長の瞳が眩く輝いた。それは山花晴陽よりも青白くさらに強力に。
 ――両手の掌を合わせながらキスを交わす。
 かなり恥ずかしいこのポーズが、アトランティス人の男女が繰り出す最強魔法の発動様式だったのだ。
「はい、わかりました」
「晴陽お嬢様、失礼します」
「僕も失礼します」
 突然、山花晴陽と二人の男子高校生の瞳から正気が失われる。そして三人で向き合うと、三角形になるように掌と掌を合わせた。その手がぎゅっと握りしめられたかと思うと、男子高校生二人は手を握ったまま腕を上げ、山花晴陽の体が宙に持ち上げられて三人の顔の高さが同じになる。そして三人は中央に顔を寄せ合って、ぶちゅっと唇を合わせたのだ。
 ――見事なトライアングルキス。
 あっけにとられた俺と委員長はキスをやめて顔を見合わせ、三人に近寄った。
 それは見事な造形だった。まるで美術館に置いてあるオブジェのような。
 宙ぶらりんになっている山花晴陽は、その短めの制服のスカートが風でひらひらと揺れている。
「おいおい、これってパンツ見えそうだぜ」
「だめよ、女の子のスカートの中を覗いちゃ!」
「だってこいつ、委員長のことを使い古しにしようとしてたんだぜ」
「だけどダメなの。山花さんはクラスメートで私は委員長なんだから」
 市野瀬美月は、こんな状況でも委員長に徹していた。
 クラスメートがいくら服従させられても委員長に相談にやって来るのは、こういう優しさが魔法に含まれているのかもしれないなと、俺は思う。
「ところで委員長、さっきは何て念じたんだよ」
「私達に従いなさい! 三十分くらいの間って……」
 だから俺達と同じように掌を合わせてキスをしてるのか。三人で。
 ていうか、三十分もこの格好なのか? それはご愁傷様だ。
 俺はポケットからスマホを取り出し、とりあえずと証拠写真を撮る。これをちらつかせれば、山花晴陽もしばらくは大人しくしているだろう。
 キスをする三人がしばらく動く気配がないことを確認すると、俺は委員長の手を結びつけているベルトを外した。
「委員長、トイレでの言葉を信じてもいいのか? 大西洋でなんとかってやつ」
 すると委員長はもじもじしながら言葉を紡ぐ。
「山花さんにあなたを奪われるくらいだったらね……」
 相変わらず素直じゃないなと思いながら、俺は委員長を引き寄せる。
「これからよろしく」
「うん」
 俺たちは再び熱いキスを交わした。

 ◇

 翌日の放課後、俺と委員長は屋上で夕暮れの海を眺めていた。
 俺が右手を、委員長が左手を差し出し、手すりの上で手を繋ぎながら。
 チラチラと委員長を伺い見ると、今まで見たこともないくらい穏やかな表情で海を見つめている。
 ――彼女ってこんなに綺麗だったんだ……。
 二人で手を繋ぎ、精神的に解放されていることもあると思うが、今まで眉間にシワを寄せて人に命令する委員長しか見てこなかったから、その表情はすごく新鮮で、俺の心までもが癒されるような気がした。
 同時に、お金も、魔法も、権力もいらないから、ずっとこの人と手を繋いでいたい気持ちが、夕陽で赤く染められた景色よりも熱く俺の心に込み上げて来る。
 そんな俺の視線を察したのか、委員長はこちらをチラリと見ながらポツリと呟いた。
「双場君のお母さんも、どこかでこの海を眺めているのかな……」
 もう一年半も消息不明の母親。
 ――あなたのお母さんの気持ちが分かるような気がする。
 昨日、委員長は俺にそう言ってくれた。
 それは涙が出るくらい嬉しかった。
 だってそれは、家出した時の母親の気持ちも考えてくれているということだから。
「どこかで元気に海を眺めてくれてたらそれでいい」
 たとえ会えなくても、母と子はいつまで経っても母と子だ。
「そんなんでいいの? ねえ、今度の休み、お母さんを探しに行ってみない?」
「行くってどこに行くんだよ? 当ては全部探したんだぜ」
 すると委員長は瞳を輝かせ始める。
「だから、私が必要なんじゃない」
 ええっ、委員長が必要って?
「とりあえず海が綺麗な所はどう? お母さんの気持ちになってその場所に行ってみれば、訪れたかどうかわかるような気がする」
 アトランティス人の絆、と呼べばいいのだろうか。
 その場所に行けば、そんな繋がりをキャッチできる可能性は考えられる。
「そうだな、動いてみなければ進展は無いしな」
「じゃあ決まり。行き先は私が決めておくから予定は空けておいてね」
 嬉しそうに微笑む委員長。
 もしかしてこれってデート? というか巧妙にデートに誘われた?
 まあ、どちらにせよ、委員長と海を眺める旅も素敵かもと心が躍る。
「ところで、今日の山花晴陽は大人しかったな」
 俺は、もう一つの懸念事項について聞いてみた。
 今朝、どんな顔をして山花晴陽が登校してくるのか俺はドキドキだった。もしかしたら、昨日の復讐とか言って、いきなりハチャメチャされるかもしれなかったからだ。
 しかし彼女は、いつもと同じように普通に登校してきた。そして俺達に何も語ることなく、黙々と授業を受け続けていたのだ。
「あら、彼女忙しそうだったわよ。休み時間になると隣のクラスに行ったりして」
 隣のクラス?
 まさか、今度は隣のクラスの支配を開始したのか?
 まあ、俺達に干渉して来なければどうでもいいやと思ったその時、ギギギと屋上の扉が開いて噂の本人が登場した。

「あ、あのう、昨日はごめんなさい」
 しおらしくペコリと頭を下げる山花晴陽。
 昨日のあの態度からはとても考えられない。
「そこで、私も海を眺めていい?」
 どうぞと委員長が手招きする。俺はぶすっとふてくされながら海の方を眺めていた。
 昨日戦い合った女の子二人が、俺を挟んで屋上の手すりに並んで夕暮れの海を眺めている。
 それはなんだかシュールな光景だった。
 やがて俺は、隣にやってきた山花晴陽がもじもじしていることに気がついた。
 見ると、何度も俺に目配せしている。
「ねえ、昨日の今日でこんなことを言うのもなんだけど、手を繋いでもらってもいい?」
 何て虫がいい話なんだろう。
 こいつは昨日の数々の悪行を忘れたのか?
「嫌だ。また変なイメージを俺に流し込むんだろ?」
 昨日は危うく洗脳されそうになった。
 ダブルベットでのシーンでは、彼女のスタイルと感触の良さに俺はメロメロになってしまったのだ。
「そんなことしないわよ。今日はすっごく疲れてんの。今、隣のクラスを支配してきたんだから」
 いきなりキレる山花晴陽。
 やっぱり性格はすぐには変わることは無さそうだ。
「誰のせいでこんなことやってると思ってんのよ。海人クンが私と結婚してくれないからでしょ? 魔法を使いすぎて、今ものすごい圧迫を受けて死にそうなの。お願い、助けて。ちょっとだけでいいから手を繋いで……」
 挙げ句の果てには泣き落としを始めてしまった。
「いいじゃない、手を繋いであげなさいよ。私だってその辛さはわかるから」
 と委員長。
「仕方ねえなあ、ちょっとだけだぜ」
 俺は山花晴陽に向かって左手を差し出した。
 彼女はその手に飛びつくと、気持ち良さそうに目を閉じる。
「プハァァァァ、生き返るわぁ~」
 まるでオヤジだな。見た目はすっごく可愛い女子高生なのに……。
 俺は左手を彼女に預けながら、再び海を眺める。
 週末のデートは楽しみだし、それを繰り返して母親が見つかれば本当にラッキーだ。
 すると隣の山花晴陽がポツリとつぶやいた。
「それにしても、委員長がアトランティス人だったとはね……」
 昨日はそのおかげで、山花晴陽に勝つことができた。
 彼女にとって完全に誤算だっただろう。
「へえ、海人クンのお母さんもアトランティス人だったの……」
「ちょ、お前、勝手に俺のイメージ見るなよっ!」
 俺の抗議を無視して彼女は言葉を続ける。
「お母さん探し、私も手伝わせて。山花家のネットワークを使えば、意外と早く見つかるかもよ」
「本当か?」
 予想外の言葉に、思わず俺は嬉しくなってしまった。一瞬だけだけど。
「でも、何か見返りをくれって言うんじゃないだろうな」
「なによ、疑り深いわね。そうね、見返りと言っちゃなんだけど、委員長には私の結婚相手探しを手伝ってもらおうかな」
 そう言いながら、山花晴陽は俺越しに委員長を見る。
 委員長はその申し出に快く頷いた。
「いいわよ。魔法が効かなかった人がアトランティス人、なんだよね?」
 おいおい、そんな簡単に引き受けていいのかよ。
「じゃあ、お願いするわ。海人クンよりもいい男で、委員長が『こっちの方がよかったぁ~』と悔しがるような人をよろしくね!」
「あはははは、わかった。そうするわ」
 この毒舌を笑って返せるなんて、さすがは委員長。
 すると山花晴陽は再び海を眺める。
「本来、アトランティス人って、こうやって助け合って生きてきたのよね……」
 彼女にならって、俺たちも夕暮れの海に目を向けた。
 手を繋ぎ合った三人の意識は鳥になり、気持ちの良い空を飛ぶ。それはまだ大陸が存在していた頃のアトランティスの夢を見るような心地よさだった。




 おわり



ライトノベル作法研究所 2015秋企画
テーマ:『魔法使いの作ったアトランティスの存在する世界』